﻿誰も彼も眠った頃、夜の冷気で瞼を開ける。
　くらい夜。
　家の中にみんなはいない。
　なれた<畳|くさ>と<障|か><子|み>のにおい。
　つみき<細工|ざいく>のようなそら。
　部屋のすみにはどろりと、こびりついたような古い影。
　それは音符ひとつない静寂で、
　<衣擦|きぬず>れの音さえ喪失中。
　立ちつくして、ぼんやりと人を待つ。
　死に絶えた音の中で過去を<偲|しの>ぶ。
　見ていた夢は、もしもの話ばかりだった。
　たとえば、
　もし、空が雲っていたのなら。
　もし、気づくのが少し早ければ。
　もし、彼がおとろえていなければ。
　もし、私が生まれていなかったら。
　それと、もし―――ここで、貴方が目覚めなければ。
　待ちつづけても終わりはない。
　夜はますます<沈|しず>んでいく。
　きっともう、家の中にはだれもいない。
　ひとりきりはこわいから　みんなにあいたくて、
　ひとりきりで庭にでた。
　ほう　と吐く息がしろくなっていく。
　庭はとても　指先がいたくなるぐらい寒かった。
　凍る星。
　深い闇。
　さめざめと世界を照らす　ツメタイヒカリ。
　<茂|しげ>る草。踏みしだく感触。なしのつぶての<草履|ぞうり>の<声|おと>。
　屋敷の庭はすごく広くて
　まわりはふかい闇に囲まれて。
　森の木々はくろく　くろく
　大きなカーテンのようだった。
　まるでどこかの劇場みたい。
　胸のたかなりで、喉がふさがれてしまいそう。
　ざあ　と<梢|こずえ>の窓が開いて、
　じき、<演劇|サアカス>がはじまるのかとわくわくした。
　<耳|じ><朶|だ>に、ざわざわと虫の声が這いずってくる。
　遠くでいろんな音がしている。
　くろい木々のカーテンの奥。
　森の中で　みんなが楽しそうに騒いでる。
　幕はまだ開かない。
　開かない。
　開かない。
　がまんできずに　森の中へと入っていった。
　すごく、くらい。
　森はふかくて　ツメタイヒカリも届かない。
　いろいろな音がして
　いろいろな物がある。
　けれど　暗くてよくわからない。
　途中で誰かとすれ違ったかも、よく記憶できないぐらい。
　ただ　寒い。
　眼球の奥がしびれてしまうぐらいの　寒い冬。
　自分の名前をよばれた気がして、
　もっと奥へと歩いていった。
　木々のヴェールを抜けたあと。
　森の広場にはみんなそろって待っていた。
　みんなふぞろいのかっこう。
　みんなばらばらのてあし。
　一面　まっかになっている森のひろば。
　―――わからない。
　向こうから　見知らぬヒトがやってくる。
　凶器を手にしてやってくる。
　みんなをそうしたように　ボクもバラバラにしたいみたい。
　―――よく　わからない。
　ぼんやりとそのヒトを見る。
　なすすべもなく凶器を待つ。
　けれど　いよいよという時に、誰かがボクの前にやってきて
　かわりに　バラバラにされてくれた。
　―――ボクは子供だから　よく　わからない。
　びしゃりと。
　暖かいものが顔にかかる。
　あかい。
　トマトみたいに　あかい水。
　バラバラになった人。
　その　おかあさん　という人は
　それきり、ボクの名前を呼んでくれなくなっていた。
　……ほんとうに　よくわからないけれど。
　ただ寒くて。
　ボクは　泣いてしまいそうだった。
　森はくろくて見たくない。
　地面はあかくて見たくない。
　だから　空を見あげることにした。
　―――<宙|ソラ>を<塞|ふさ>ぐ<天蓋|てんがい>
　目にあたたかい緋色が混ざってくる。
　眼球の奥に染みこんでくる。
　だけどぜんぜん気にならない。
　夜空には、ただひとりきりの月がある。
　―――夜を開く<白貌|はくぼう>
　見知らぬ人は
　今度こそボクをバラバラにしようとやってくる。
　ひたひたと足音がやってくる。
　なのにボクはぼんやりと
　いつまでも<碧|あお>い<翳|かげ>をみあげている。
　―――<幽玄|ゆうげん><麗|うら>らかに　落下する星
　すごく不思議。
　どうしていままで気がつかなかったんだろう。
　　　　　ああ――――今夜はこんなにも
　気がつけば　見知らぬ人は目の前で。
　音もないまま、どすん、と痛みがはしった。
　それは胸のさなか。
　開かれて踊るヴェールのように。
　なにも　見えない。
　世界がだんだん消えていく。
　その中で　ずっとキレイに輝いてる。
　ああ―――気がつかなかった。
　今夜はこんなにも
　月が、綺麗―――――――だ―――――
　気がつくと、病院のベッドにいた。
　カーテンがゆらゆらと揺れている。
　開け放たれた窓から<肌寒|はだざむ>い風が流れてくる。
　無遠慮な色彩に、知らず目を細めてしまう。
　ここがどこなのか、
　いまがいつなのか、
　なにがどうなっているのか。
　ちょっと頭が追いつかない。
　起き上がろうと手に力を入れると、手より先に体の方がビクンとはねた。
　息を止めて、魚みたいに口をぱくぱくさせる。
　こういうのを、目から火がでる、と言うのだろう。
　硬いベッドに手を置いたとたん、裂かれるような痛みが体中にかけめぐった。
「―――、―――」
　深く息を吸って、横になったまま自分の体を観察する。
　両手はグルグルの包帯巻き。
　左足も白い石膏に包まれている。
　おでこまわりがやけに窮屈なので、たぶん頭にも包帯が巻かれている。
　胸には都合の悪いものを隠すように、大きくて分厚い、<絆創|ばんそう><膏|こう>のようなものが貼られている。
　左腕には一本のチューブが刺さっている。
　それが点滴である事を、自分はなんとなく受け入れている。
　こうして目が覚める前、夢うつつにまわりを見ていたおかげだろう。
　ここより暗くて薬品くさかった部屋も、
　胸の絆創膏から伸びていた何本ものチューブも、
　お見舞いに来た怖い背広姿のオトナも、
　そのオトナに叱られながら来てくれた妹の姿も、
　コドモみたいにはしゃぐ博士の姿も、
　すべて、夢のように覚えている。
「え？　君、もしかして目が覚めてない……！？」
　聞き慣れない女の子の声がした。
　こっちには返事をする体力もない。
　女の子はあわてながらも、お医者さんを呼ぶために部屋の外へと駆けだした。
　パタパタパタパタ。
　急いでいるのはわかるけど、病院で走ってはいけません。
「――――――」
　体は起こせないので、首をまわして窓を見あげる。
　ずきりと眼球の<芯|しん>がささくれ立つ。
　脳髄を刃物でかき混ぜられているかんじ。
　本当に―――うそみたいに青い空。
　白い陽射しより、一点の染みもない青色の方が、残酷すぎて目に痛かった。
　それから数日後。
　目を覚ましてからしばらく、僕はベッドから動けなかった。
　見上げた外はあいかわらずの高い空。
　はたはたと揺れるカーテン。
　頬にあたる乾いた風。
　染みひとつない青色は、目のなかをくらくらさせる。
　ここがどこなのか、いまがいつなのか、
　どうして病院にいるのかは、
　少しずつだけど思い出してきた。
　けれど、ひとつ。
　涙するような<約束|ことば>を、何か大切なことを忘れている気がして、窓の外をながめ続けた。
「はじめまして<遠野|とおの><志|し><貴|き>くん。回復おめでとう」
　初めて見るおじさんは、そう言って握手を求めてきた。
　笑顔はとても優しげで、口調もおだやかで、よくできたオトナの印象。
　きっとスイッチひとつで笑顔と真顔を切り替えられる人だ。
　清潔そうで無駄のない白い服も、このおじさんにはぴったりだった。
「志貴くん？　先生の言っている事が分かるかい？」
「……いえ。僕はどうして病院にいるんですか」
「覚えていないんだね。君は道を歩いている時、自動車の交通事故に巻き込まれたんだ。
　胸にガラスの破片が刺さってね、とても助かるような傷じゃなかったんだよ」
　白いおじさんはニコニコとした笑顔のまま、なにか、お医者さんらしくない事を言う。
“とても助かる傷ではなかった”
　その表現に、こらえていた吐き気があふれだす。
「……眠いです。眠っていいですか」
「ああ、そうしなさい。
　今は無理をせず、体を休ませてあげないとね」
　お医者さんは笑顔のままだ。
　はっきりいって、とても見ていられない。
「先生、ひとつきいていいですか」
「なにかな、志貴くん」
「どうして体じゅうにラクガキをしているんですか。
　この部屋もところどころヒビだらけで、いまにもくずれちゃいそうです」
　お医者さんはほんの一瞬だけ笑顔をくずしたけれど、すぐにニコニコとした顔に戻って椅子から立ち上がる。
　カツカツと床をならしてカーテンの向こうに消えて、
「……やはり脳に異状があるようだ。
　脳外科の芦家先生に連絡を。それと視神経にも損傷の疑いがあるな。午後は眼科検査に回すように」
　お医者さんは別人みたいに冷たい声で、こっそりと看護師さんに話しかけた。
「………ヘンなの。みんな体にラクガキしてる」
　ぐちゃぐちゃした線が、病院じゅうにはりついている。
　意味はよくわからないけど、見ているだけでとても気持ちがわるい。
「……なんだろう、コレ」
　ベッドにもラクガキがある。
　指で触ってみたら、
つぷり、
と指先が沈みこんだ。
「―――あ」
　もっと細い物なら奥まで沈みそうだった。
　棚にあったプラスチックナイフでラクガキをなぞる。
　これっぽっちも力を入れていないのに、ナイフは根元までラクガキの中に沈みこんだ。
　面白かったから、そのままラクガキどおりに、ベッドにナイフを<滑|すべ>らせる。
　ごとん。
　重い音をたてて、ベッドはキレイに裂けてしまった。
「きゃあああああ！」
　後ろからの声に振り向く。
　ドアの前には顔をひきつらせた看護師さんが立っていた。
「どうやってベッドを壊したんだね、志貴くん」
　お医者さんはベッドを壊した理由じゃなくて、その方法をしつこく聞いてきた。
「その線をなぞったら切れたんだよ。
　ねえ、どうしてこの病院はヒビだらけなの？」
「いいかげんにしないか志貴くん。そんな線なんてないんだ。それで、どうやってベッドを壊したんだい。怒らないから教えてくれないかな」
「―――だから、線をなぞっただけなんだ」
「……わかった。この話はまた明日にしよう」
　ため息をつくお医者さん。
　ラクガキの話をしてから、あのやさしい笑顔もない。
　きっと切り替えスイッチが故障したのだ。
　この病院は壊れやすいものばかりらしい。
　けっきょく、誰ひとりとして僕の話を信じてはくれなかった。
　あのラクガキをナイフで切ると、それがなんであろうとキレイに切れた。
　<筋力|ちから>なんていらない。
　紙をハサミで切るみたいに、簡単に切ることができた。
　ベッドも。イスも。机も。壁も。床も。
　……試したことはないけれど、たぶん、きっと、にんげんも。
　ラクガキはみんなには見えていないみたいだ。
　自分だけに見える線。
　アレはきっと、ツギハギなんだ。
　傷口を縫ったあと。
　僕の胸みたいに、手術をしてもまだ治りきっていない、触れるだけでボロボロに散らばっていく<印|しるし>だと思う。
　だって、そうでもなければ子供の力で壁を切れるはずがない。
「―――、
―――！」
　また看護師さんが叫んでいる。
　凹凸に切り抜かれた壁を見て、僕のことを<睨|にら>んでいる。
　カナキリ声は伸びる、伸びる。
　僕の耳はおかしくなっているので、別にうるさいとも感じないけど。
　止まない音は、火のついた<蝉|せみ>みたいで、不安になる。
　何もかもボロボロだった。
　目を開けているだけで、生きているだけで、消えたくなるほどおぞましい。
　……ああ、今まで知らなかった。
　セカイはこんなにもツギハギだらけで、
　とても壊れやすいトコロだったなんて。
　みんなには見えてない。
　だから平気なんだろう。
　この異常な世界に気づきもしない。
　この傷だらけの日常を知りもしない。
　でも僕には見えている。
　こわくてこわくて歩けない。
　そういえば、あれから耳は凍ったままで、音はするのにとても静かだ。
　胸の傷だけがサイレンのように響いている。
　でも『あれ』とは『いつ』のことだろう。
　思い出そうとしても思い出せない。がりがりと頭をかいても取り出せない。きっとどうでもいいことなので、自分から棄ててしまったに違いない。センをしめてもしめても水のこぼれる蛇口みたい。
　……ああ、そうか。
　それならぜんぶに説明がつく。
　鏡がないのは当たり前だ。
　だってあったらまっさきに■している。
　きっと笑いながらカチ割っている。
　つまり。壊れそうなのは周りの話じゃなくて、
　故障しているのは僕だけの話らしい。
　だからだろう。
　あれから二週間も経つのに、誰も僕を信じてくれない。
　あれから二週間も経つのに、誰も僕に会いに来ない。
　あれから二週間も経つのに、
　僕はひとり、ツギハギだらけのセカイに生きている――――
　病室にはいたくない。
　ラクガキだらけのトコロにいたくない。
　ここから逃げ出して、
　誰もいない、遠い場所に行くことにした。
　おかしいのは僕じゃなくて、
　この場所がおかしいのだと、自分に言い聞かせるように飛び出した。
　でも胸の傷が苦しくて、少ししか走れなかった。
　気がつけば。
　そこは病院のとなりにあった野原で、
　ちっとも遠い場所になんて行けなかった。
「……ごほっ」
　胸が痛くて、すごく悲しくて、地面にしゃがみこんで、せきこんだ。
　どこにも行けないし、行ってはいけない。
　ツギハギが見える人間は、きっとドコにも居てはいけない。
　ごほっ、ごほっ。
　誰もいない。
　夏の終わりの、草むらの海のなか。
　このまま、消えてしまいそうだった。
　けれど、その前に。
「君。そんなところでしゃがんでると危ないわよ」
　はっきりと耳に届く、女の人の声がした。
「え………？」
「え、じゃないでしょ。
　ただでさえちっこいんだから、草むらでうずくまってると見えないのよね。気をつけなさい、あやうく蹴り飛ばされるところだったんだから」
　女の人はふきげんそうに僕を指差した。
　……なんか、ちょっとあたまにきた。
　僕はクラスでも前から四番目なんだから、そう背が低いほうではないとおもう。
「けりとばされるって、誰に？」
「ばかね、そんなの決まってるじゃない。
　ここにいるのは私と君だけなんだから、私以外に誰がいるっていうの？」
　女の人は腕を組んで、自信たっぷりにそう言った。
「ま、ここで会ったのも何かの縁だし、少し話し相手になってくれない？　私は<蒼崎|あおざき><青子|あおこ>っていうんだけど、君は？」
　ともだちみたいな気軽さで、女の人は手を差し伸べてきた。
　断る理由も見当たらなくて、僕は遠野志貴と名前をつげて、吸いこまれるように手のひらを握り返した。
　女の人とのおしゃべりはとても楽しかった。
　この人は僕の言うことを『子供だから』と無視しない。
　ちゃんとひとりの人間として、僕の話を聞いてくれた。
　色々なことを話した。
　僕の家のこと。歴史のある<旧|ふる>い家柄で、礼儀作法にうるさくて、お父さんが厳しい人だということ。
　あきはという妹がいて、とてもおとなしくて、いつも僕のあとについてきていたこと。
　広い屋敷だから、森のような庭で、いつもあきはと一緒に友達たちと遊んだこと。
　屋根裏が秘密の場所だったこと。しりとりが苦手になっていたこと。背はまだこれから伸びると思われること。
　好きだった病院の匂いがいつのまにか苦手になっていたこと。
　雲のない青空はこんなにキレイなのに、見ていると泣きそうになっていること。
　でも生きているということは素晴らしくて、あの作り笑いが下手なお医者さんだって、嫌いではないということ。
　―――本当に。
　僕は熱にうかされたように、色々なことを話した。
「おっと、もうこんな時間。
　悪いわね志貴。私、ちょっと用事があるから、お話はここまでにしましょう」
　女の人は立ち去っていく。
　……またひとりになるのかと思うと、寂しかった。
「じゃあまた明日、ここで待ってるからね。
　君もちゃんと病室に帰って、きちんと医者の言いつけを守るんだぞ」
「あ―――」
　女の人は、それが当たり前だ、というように去っていった。
「……また、明日」
　また明日、今日みたいな話ができる。
　嬉しい。事故から目覚めて、はじめて人間らしい感情が戻ってきた。
　午後になると野原に行くのが日課になった。
　女の人は青子と呼ぶとおこる。自分の名前が嫌いなんだそうだ。
　なやんだあげく、なんとなく偉そうな人だから『先生』と呼ぶことにした。
　先生はどんな話でも真面目に聞いてくれて、僕の悩みを一言で解いてくれる。
　事故のあと、人と話すことが苦手になっていた僕は、先生のおかげで少しずつ元の自分に戻っていけた。
　この野原にいる時だけは、自分は元の自分なんだと不安が消えてくれた。
　だから、どこの誰だかは知らないけれど、先生は本当にどこかの学校の先生なのかもしれない。
　でも、それは僕とは関係のないもしもの話だ。
　先生といると楽しい。
　大事なのは、そんな単純なことなんだ。
「ねえ先生。僕、こんなコトができるよ」
　ちょっと驚かせたくて、病院から持ち出したナイフを使って、野原にある木を切った。
　あのラクガキみたいな線をなぞって、紙を裂くように、真ん中から半分を切り取った。
「すごいでしょ。ラクガキが見えてるところなら、どこだって簡単に切れるんだよ。こんなの、他の誰にもできないよね」
「――――――」
　先生は驚いている。
　僕は得意になって、今度は木の根元、横一直線にある線にナイフを差しこんで、
「志貴―――！」
　駆けよった先生の手で、ぱん、と頬を叩かれた。
「先……生？」
「やめなさい。君はいま、とても軽率な事をしたわ」
　先生は真剣な目で見つめてくる。
　容赦のない目。わるい人間を罰する、揺るぎのない眼。
　ああ、なんてバカだったんだろう。
　あんまりにもこの時間が楽しくて、
　僕は自分のことを忘れていた。
　このラクガキはあってはいけないもので、
　それを見る自分は、生きていてはいけない人間であることを。
「――――――っ」
　胸に染みる、血のような後悔。
　自分のおろかさに死にたくなる。
　あの木は、たった一本だけ残った、この野原が森だった頃の記録だったのに。
　僕は先生に褒めて欲しくて、それを、意味もなく壊したのだ。
「……ごめん、なさい」
　気がつくと涙を流していた。
　泣くのは卑怯で、男らしくないと分かっていても、後悔を止められなかった。
「―――志貴」
　ふわりとした感覚。
　先生は当然のように、ナイフを持ったままの、僕のような人間を抱きしめた。
「謝る必要はないわ。
　うん、まあ、たしかに志貴は怒られるような事をしたけど、それは決して、貴方だけが悪いってワケじゃないんだから」
「……？　悪いのは、僕だけじゃない……？」
「ええ。でもね、志貴。それとは別のところで、いま誰かが君を叱っておかないと取り返しのつかない事になる。
　だから私は貴方をひとりの人間として見た。
　同じ立場の人間として意見して、怒って、本気で叩いた。力加減を間違えていたら、私も志貴を殺していたかもってぐらい、本気で」
　その言葉は、本当に怖かった。
　自分が殺されていたかもしれない、という“もしも”ではなくて、この人に、そんなことをさせてしまうことが、あまりにも悲しかったのだ。
「泣かないで、志貴。私も謝らないから。
　貴方はそれだけの事をしたんだって覚えていてほしいから。
　……うん。そのかわり、志貴は私のことを嫌ってもいいわ」
「……ううん。先生のこと、嫌いじゃないよ」
「―――そう。本当に、よかった。
　……私が君に出会ったのはこの為だったみたい」
　そうして。
　先生は静かに、僕の後悔を溶かすように、僕が見ているラクガキについて訊ねてきた。
　見えている線のことを話すと、先生はいっそう強く、抱きしめる腕に力をこめた。
「……志貴、君が見ているものは現実のものよ。
　決して<視|み>えてはいけないものだとしても、
　他の人間にとってはあり得ない事だとしても―――
　その線は幻じゃない、貴方だけに或る現実」
「……そっか。
　じゃあやっぱり、おかしいのは僕だけなんだね」
「ええ、貴方はおかしい。そこは誤魔化しようがない」
　泣きそうになる自分をこらえる。
　お医者さんに信じてもらえなかった時より何倍も痛い言葉に、折れそうになる。
　けど、それは分かっていたことだ。
　はじめから―――自分がいてはいけない子供であることは、目が覚めた時から、ずっとずっと分かっていた。
「早まらないで。その異常はおかしいだけで、説明がつかないものじゃない。
　道理が通っているものなら、人間は何にだって向かっていける―――これ、私の経験則ね。
　どんなにバカげたデタラメがやってきても、知恵と勇気で乗りこなすのが私たち人間よ」
　教訓そのいち、と少し恥ずかしそうに先生は言った。
　異常なモノがあったとしても、それ自体が問題なのではなく。
　問題なのは、それにどう向き合うかなのだと。
「じゃあ、このラクガキも、説明できる……？」
「もちろん。モノにはね、壊れやすい個所というものがある」
「いつか壊れる私たちは、壊れるが故に完全じゃない。
　君の目は、そういったモノの末路……言い換えれば未来を視てしまっているんでしょう」
「……未来を……みてる、の？」
「そうよ。今はそれ以上は知らなくていい。
　もし君がそういう流れに沿ってしまう時がくるなら、必然として、それなりの理屈を知る事になるでしょう」
「……先生。なんのことだか、よくわからない」
「ええ、わかっちゃダメ。いま大事なのはひとつだけ。その線は決していたずらに切ってはいけない。
　―――君の目は、モノの命を軽くしすぎてしまうから」
「うん。先生が言うならしない。
　それに、なんだか胸がいたいんだ。……ごめんね先生。もう、二度とあんなことはしないから」
「……よかった。
　志貴、いまの気持ちを絶対に忘れないで。そうしていれば、君はかならず幸せになれるんだから」
　抱きしめていた腕がほどかれる。
　冷たくても温かかった感触が離れていく。
「でも先生。このラクガキが見えてると不安なんだ。だって、この線をひけば切れちゃうんでしょう？　なら、僕のまわりはいつバラバラになってもおかしくないじゃないか」
「その問題は私がなんとかするわ。
　どうやらそれが、私がここにきた理由のようだし」
　先生はおおげさにため息をついてから、太陽みたいにニッコリと微笑んだ。
「志貴。明日、君にとっておきのプレゼントを。
　私が君を、以前の生活に戻してあげる」
　次の日。
　出会ってから七日目の野原に、先生は大きなトランクを片手にさげてやってきた。
「はい。これをかけていれば、もう妙なラクガキは見えなくなるはず」
　先生が差し出してきたものは、何の変哲もないメガネだった。
「僕、目は悪くないよ」
「いいからかけなさい。度は入ってないから」
　先生は強引にメガネを僕にかけさせた。
　とたん―――
「うわあ！　すごい、すごいよ先生！
　ラクガキがちっとも見えない！」
「あったりまえよ。わざわざ姉貴の所の魔眼殺しを奪ってまで作った、蒼崎青子渾身の一品なんだから。粗末に扱ったらただじゃおかないからね、志貴」
「うん、大事にする！　けど、先生ってすごいね！
　あれだけイヤだった線がみんな消えちゃって、なんだか魔法みたいだ、コレ！」
「それも当然。だって私、魔法使いだもん」
　得意げににんまりと笑って、先生はトランクを地面に置いた。
「でもね、志貴。その線は消えた訳じゃないわ。ただ見えなくしているだけ。そのメガネを外せば、線はまた見えてしまう」
「見えない、だけ？」
「ええ。そればっかりはもう治しようがないコトよ。君はその目となんとか折り合いをつけて生きていくしかないの」
「………やだ。こんな恐い目、いらない。
　またあの線を切っちゃったら、先生との約束が守れなくなる」
「ああ、もう二度と線を切らないっていうアレか。
　<莫|ば><迦|か>ね、あんな約束<気軽|きがる>に破っていいわよ」
「……そうなの？　だって、すごくいけないコトだって言ったじゃないか」
「ええ、いけない事よ。
　けどその眼は誰にも頼らない、君個人の力なんだもの。
　だから、それを使おうとするのは君の自由。その眼がある事について、君以外の他の誰も、君を責める事はできない。
　問われる事があるとしたら、貴方がその力で何をしたかという事だけよ、志貴」
「僕が―――何をするか―――」
　先生は僕の目の中を覗きこむように、まっすぐに見つめてきた。
「そういうコト。……うん、やっぱりいい眼だ。
　正直言うとね。はじめて君と会った時、めんどくさいのにぶつかっちゃったなーって思ったんだ。だって君、見た感じいろいろ無くしてきたみたいだから。
　でも問題なんてなかった。君はちゃんと生きている。なら、人生かけて取り返していきなさい」
「――――――」
　―――この時の胸の光を、目元までこみあげた喜びを、僕は生涯、言葉にする事はできない。
“貴方はここに居ていい”と。
　誰よりも力強く、僕を肯定してくれた。
「志貴。君は個人が保有する能力の中でも、ひどく特異な能力を持ってしまった。けど、それが君に有るという事は、なにかしらの意味が有るという事なの。
　神さまは何の意味もなく力を分けない。君の未来には必要になる時があるから、その<直死|ちょくし>の眼があるとも言える。それは残酷なことだろうけど―――」
「だからこそ忘れないで。君はとてもまっすぐな心をしている。
　今の君があるかぎり、その目は決して間違った結果は生まないでしょう」
「聖人になれ、なんて事は言わない。君は君が正しいと思う大人になればいい。
　いけないという事を素直に受けとめられて、ごめんなさいと言える君なら、10年後にはきっと素敵な男の子になってるわ」
　先生は立ちあがって、トランクに手を伸ばす。
「あ、でもよっぽどの事がないかぎりメガネは外しちゃだめだからね。特別な力は特別な力を呼ぶものだし。
　はい、私からの忠告、そのに。
　反則の出しどころ、勝負所をよく考える。
　そうならないコトを祈っているけど、どうしても自分の手には負えないと判断した時だけメガネを外して、よく考えて力を行使なさい」
「その力自体は決して悪いものじゃない。
　結果を良いものにするか悪いものにするかは、あくまで君の判断しだいなんだから」
　トランクが持ちあがる。
　―――先生は何も言わないけれど。
　僕は、これがお別れなんだと分かってしまった。
「―――無理だよ先生。僕だけじゃ良いことになんてできない。
　ほんとは先生に会うまで恐くてたまらなかった。けど先生がいてくれたから、僕は僕に戻れたんだ。
　……だめなんだ。先生がいなくちゃ、こんなメガネがあったってだめに決まってるじゃないか……！」
「志貴、心にもない事は言わないこと。自分自身も<騙|だま>せないような嘘は、聞いている方を不快にさせるわ」
　先生は不機嫌そうに眉を八の字にして、ぴん、と僕の額を指ではじいた。
「自分でも分かっているんでしょう？　もう大丈夫だって。
　なら、そんなつまらないコトを言って、せっかく掴んだ自分を捨ててはいけないわ」
「それじゃあお別れね。バイ、志貴。
　どんな人間だって人生ってのは落とし穴だらけなのよ。
　君はそれをなんとかできる力があるんだから、もっとシャンとしなさい」
　先生は行ってしまう。
　とても悲しかったけど、僕は先生の友達だから、シャンとして見送ることにした。
「―――うん。さよなら、先生」
「よし、上出来上出来。その意気でいつまでも元気でね。
　最後の教訓。ピンチの時はまず落ち着いて、その後によく考えること。
　大丈夫。君ならひとりでも、ちゃんとやっていけるから」
　先生は嬉しそうに笑う。
　ざあ、と風が吹いた。
　草むらが一斉に揺らぐ。
　先生の姿はもうなかった。
「……ばいばい、先生」
　言って、もう会えないんだな、と実感できた。
　残ったものはたくさんの言葉と、この不思議な眼鏡だけ。
　たった七日だけの時間だったけれど、なにより大切なことを教えてくれた。
　ぼんやりとたたずんでいたら、目に涙がたまった。
　―――ああ、なんてバカなんだろう。
　僕はさよならばっかりで。
　ありがとうの一言も、あの人に伝えていなかった。
　僕の退院はそれからすぐ後になった。
　退院したあと、僕は遠野の家ではなく他の家に預けられる事になった。
　体は回復したものの後遺症が残ってしまった僕は、遠野の家にとって不要な子供になったからだ。
　けど大丈夫。
　遠野志貴はひとりでもちゃんとやっていける。
　新しい生活を、新しい家族と送る。
　10歳の夏を過ごした病室を後にする。
　カーテンはあいかわらず、ゆらゆらとゆれている。
　青すぎる空に一度だけ目を細める。
　かわいた風が、夏の終わりを告げていた。
　しかし、残念ながら話しかける用事はなかった。
　言葉に困る俺を気にしたふうもなく、先輩は笑顔のままだ。
「ええと……先輩は電車通学なんですか？」
「そうですね。用事によっては利用します。
　遠野くんは？　お家は遠いんですか？」
「遠いですよ、始発駅からなので。
　でも、それもおしまいです。電車通学は今日で最後」
「おや。お家がお引っ越しとか？」
「………………」
　うまい説明が思いつかず、言葉を濁す。
　窓の外に視線を流して街の様子を眺める。
　それで“事情は話しづらい”ことを察してくれたのか、シエル先輩は質問を控えてくれた。
　時間にして15分、あたりさわりのない会話が続く。
　電車はほどなくして目的地である<総耶|そうや>駅に到着した。
　時刻は７時前。
　登校時間にしてはいささか早く、街もまだ目を覚ましきっていない。今でこそ駅前は静かだが、あと一時間もすれば人と車であふれかえる事だろう。
「それではわたしはここで。
　話相手になってくれてありがとうございました。学校で見かけたら遠慮なく声をかけてくださいね」
　笑顔で手を振って先輩は走り去った。
　あまりの軽快さにこちらも走りたくなったが、とくに急ぐ理由はない。
　体調の事もあるし、いつも通りのペースで学校に向かう事にした。
　……しかし……気になる。
　肩にかけたバッグより、ふと視界に入ってしまった両脚に目がいってしまう。
「――――――」
　生命力が具現化、あるいは結晶化したような、素晴らしい脚線だった。
　流水の滑らかさと、止まっていながらも伝わる躍動感。
　造形美とはこういうものを言うのだろう。かくいう自分も目が離せない。離せないばかりか吸い寄せられている。
「あの……遠野くん？」
　美しさと逞しさは両立するのだな、と思い知る。
　肉付きはあるが、その実、これはスプリンターの脚だ。
　風の噂によると先日の体力測定では陸上部を差し置いて我が校の新記録を叩きだしたとか。これが100メートル走13秒台の脚……生きているダイヤモンドを見ている錯覚に襲われる。
「あのですね、顔が近いというか、その、持ち上げた手の動きが、ですね」
「すみません。いま真剣な話をしているところなので」
「は、はあ。真剣、ですか」
　とはいえ、残念な事に俺は彼女のトレーナーでもないし、ライバルの陸上選手でもない。
　速さの秘密を手に入れたところで明日から本気を出せるワケでもない。
「あ、いえ、でもですね、何が真剣なのかさっぱり話が見えないというか！」
「そりゃそうです。俺だって意味が分かりません」
　美しいものに惹かれる心理をどう言葉にしろと？
　しかし、言葉にできない美しさというが、美しいものを素直に美しいと言えない状況も、また間違っているのではないだろうか。
　人間はいつになったらあらゆる偏見、あらゆる差別を超えて、物事の本質を語り合う事ができ、
「くはっ!?」
「と、遠野くん、だいじょうぶですか!?
　いま、頭になにか当たりましたけど!?」
「……はい。すんでのところで助かりました」
　側頭部の痛みをこらえつつ、座席に落ちたモノを手に取る。
　メタリックに輝く手のひらサイズの金属塊。
　どう見ても携帯端末だった。
「すみません。こちらに何か飛んできませんでしたか」
「……これかな。ちょっと、すごい角度で飛んできたけど。振り回して遊ぶアプリでも入ってたの？」
「バカじゃないですか。ありがとうございます」
　女の子は何事もなかったように携帯端末を受け取って、一つ離れた扉の前に去って行った。
「……………」
「……………」
　あまりの展開に先輩と見つめ合ってしまった。
　ともあれ、俺は正気に戻った。
　こほんと咳払いをして空気を切り替える。
「すみません、ちょっとぼうっとしてました。
　それよりどうしたんですか？　先輩、部活やってませんよね。こんな時間に登校なんて」
「いえ、何を隠そうボランティア活動の帰りなんです。
　ほら、生徒会公募で公園のゴミ拾いがあったでしょう？　あれをちゃちゃっと、先ほどまで」
　言われて、ああ、と合点が行った。
　この眼鏡の似合う先輩はいつだって、誰かの為に<奔走|ほんそう>している人なのだ。
「早朝から30分だけの奉仕活動だったんですけどね。
　他の皆さんはいったん帰宅したんですが、わたしは面倒なのでこのまま登校してしまおうかと」
　がしゃり、と肩に背負った<荷物|バッグ>を鳴らす先輩。
　部活の道具かと思ったが、アレは清掃道具らしい。
「おや。中身、見たいんですか？　先輩の持ち物をチェックするなんて、おとなしそうに見えて大胆ですね」
　先輩はこちらの顔を覗きこむように、ぐっと身を寄せてくる。
　……や、顔とか体温とか、いろいろ近くて、目の置きどころに困ってしまう。
「い、いえ、そういうワケじゃなくてですね、もし折りたたみ式の箒とか熊手とかなら、珍しいなと……」
「ほうほう。わたしの万能<高枝|たかえだ>切り<鋏|ばさみ>も見たいと。よろしい。それでしたら放課後、いつもの茶道部に来てください。貴方なら大歓迎です」
　染みいるような笑顔で言われると、こちらも照れてしまう。
　気の利いた返事もできず、はい、とうだつの上がらない返答をした。
　そもそも茶道部の部室の場所を知らないが、後で調べればいいだろう。
「約束ですよ。ここだけの話、部費で購入したお茶請けが余ってしまいまして。日持ちするものではないので、元気な男の子の協力が不可欠なんです」
「そ、そうですか。じゃあ予定があえば、是非。
　でも食べ物に釣られて行くなんて、なんか猫みたいですね」
　あまりに気さくなシエル先輩の笑顔に釣られて、こっちも軽口がこぼれた。
　緑色のリボンの先輩は、
「どちらかというとワンちゃんではないでしょうか。
　というかネコ科はよくありません。最後まで頼りになるのは、律儀で頭のいいイヌ科です！」
　得意そうに、よく分からないこだわりを見せるのだった。
　目的地が一緒という事もあり、なんとなしに会話は続いた。
　先週に終わった中間試験のこと。
　規模が縮小され一日で終わってしまう体育祭のこと。
　いっこうにメニューが改められない食堂のこと。
　携帯端末の使用を巡る生徒側と学校側の論争を真面目に話し合った結果、互いにため息をついてしまったので話題を変え、最近観た映画の所感などを交わして笑いあう。
　あっという間の15分。
　先輩は話し上手で、噂通りの“男女ともに好かれる”先輩だった。
　あと数分で総耶駅に着いてしまう事が名残惜しく、つい次の話題を持ちかける。
　―――が。
「ちょっと、うるさいんですけど」
　この通り、周囲の事を失念していた。
　失礼しました、と先輩とふたりで頭を下げる。
「……………」
「……怒られちゃいましたね」
「……ごめんなさい。
　わたしの笑い声が大きかったんです、きっと」
　それきり会話はなくなった。
　さっきまでの気さくな雰囲気が嘘のようだ。
　誰もが他人にすぎない、都会特有の沈黙が車内を支配する。
　電車は総耶駅に到着した。
　時刻は７時前。
　登校時間にしては早く、街もまだ目を覚ましきっていない。
　今でこそ静かだが、あと１時間もすれば人と車であふれかえる事だろう。
「今朝も交通量が少なめですね。最近、街の目覚めが遅い気がします。みなさん夜更かしなんでしょうかねー」
　重そうに荷物を抱えながら、先輩は妙なことを言う。
「あの。荷物、学校まで持っていきましょうか？」
「え？　あ、いえいえ、お気になさらず。わたしは寄っていくところがありますので、ここでお別れですね」
　では、と笑顔で手を振って先輩は走り去った。
　ばびゅーん、なんて擬音が似合いそうな、それはそれは軽快かつ高速の駆け足だった。
　つられて走り出したくなったが急ぐ理由はない。
　体の事もあるし、いつも通りのペースで学校に向かおう。
　……と。
　先ほどの女の子が改札から出てきた。
　少女は早足でこちらの横を通り過ぎながら、
「動物的にも程があります。
　公共の場で恥ずかしいと思わないんですか？」
　なんて、強烈なダメ出しを残していった。
　昼休み、廊下は行き交う生徒たちで雑然としている。
　学食に向かう生徒が大半だが、中には弁当を片手に友人のいるクラスにお邪魔したり、中庭や体育館に向かう生徒もいる。
　その流れに混ざりながら、食堂でしっかりとした昼食をとるか、購買でパンでも買って軽く済ませるかを迷っていると、
　廊下の先に、見覚えのある先輩の姿が見えた。
「……？」
　気のせいだろうか。
　まっすぐこっちに向かって来ているような……？
「よかった、探してたんですよ遠野くん。
　教室にお邪魔する手間が省けちゃいました」
「そ、それはどうも。こんにちは、シエル先輩」
　なぜか気恥ずかしくなって、覇気の無い挨拶を返してしまった。
「はい、こんにちはです。
　でもわたしたち、今日はもう会っていますから『こんにちは』というのは正しくないですね」
「あ……うん。そういえば、そうでした」
　ますます気恥ずかしくなって視線を逸らす。
　……なんだろう。
　先輩と話すのは慣れているはずなのに、今日はやけに意識してしまう。朝、ひとりで物思いに<耽|ふけ>っていたところを見られたからだろうか。
「……遠野くん？　どことなく落ち着きがありませんけど、なにか急用でもあるんですか？」
「いえ、急ぎの用はないです。ぜんぜん」
　シエル先輩の一挙一動が気になっているだけ、とはとても言えない。
「それより先輩、俺を探していたって、何か用ですか？」
「はい。朝、ちょっとしたご迷惑をかけてしまったでしょう？
　そのお詫びがしたくて、ずっと探していたんです」
「朝の迷惑って……ああ、電車の話？
　でも、あれは迷惑というより役得というか、」
　シエル先輩との話は楽しかったし。
　おかげで駅まで時間を感じなかったぐらいだ。
「でも、うるさくしすぎて女の子に怒られたじゃないですか。
　そのお詫びです。つかぬ事をお訊きしますけど、遠野くんはこれからお昼ごはんですか？」
「ですよ。食堂に行くか購買で済ませるか迷っていたところです」
「よかった、それならご一緒できますね。朝のお詫びにおごっちゃいますから、これから食堂に行きましょう」
「えっ？」
　先輩は笑顔でそう言うと、俺の腕を掴んで歩き始めた。
　もともと三年生である先輩が二年生の廊下にいるだけで目立つのに、これは余計に人目をひく。
　ざわざわと、廊下中の生徒たちの視線が自分と先輩に注がれた。
「ちょっ、ちょっと待ってください……！
　朝のアレは俺だって悪いんだから、先輩が謝るコトでもありません……！　むしろ逆です、謝るならこっちですっ！」
　いま赤面しているな、なんて実感しながら先輩から離れる。
「ほう。それは聞き捨てなりませんね。謝るべきは遠野くんの方だった、と。つまり、その罰として遠野くんはわたしのお願いを一つ聞いてくれるとか、アリなわけですね」
「――――――」
　からかうような先輩の視線を受けて、熱くなっていた頬が一段と熱くなった。
「いや、今のは言葉のアヤでですね、」
「では観念して、わたしを食堂に連れていってください。
　今日は誰かとランチしたい気分だったんです。運が悪かったと思って、わたしにおごられてください」
　……ずるい。
　そんな笑顔で言われたら、誰だって断れない。
「……はあ。おごられてって、それも逆ですよ、先輩」
「だって、わたしが楽しかったのは本当ですから。
　それでは食堂に急ぎましょう！
　早くしないと席がうまっちゃいますからね！」
　シエル先輩は再び俺の手を取って、ずんずんと廊下を歩き始めた。
　混み合う前なのか、食堂のテーブルは空き放題だった。
　カウンターにはそれなりに行列ができていて、注文は５分待ち……ぐらいだろうか。
「わたしが並びますから、遠野くんは席を確保しておいてください。嫌いなメニューはありますか？　あるのでしたら今のうちに聞いておきますけど」
「いえ、ないです。食べ物に好き嫌いはありません」
「たいへん結構な返答です。
　それでは、パパッと行ってきますね」
　こちらの返答を待たず、シエル先輩は注文待ちの列に並んでしまった。
「………………」
　こうなったら大人しくご馳走になるしかなさそうだ。
「二人分の空席……できるなら<角|かど>がいいな……」
　シエル先輩と一緒にランチをする、という事件に、俺の精神が耐えられる自信がない。
　なので、できるだけ周囲の目につかない席が望ましい。
　食堂を見渡すと、真ん中の空席はあるものの、角のテーブルは既に他の生徒の荷物が置かれている状態だった。
　二人で占有できる角席なんて、この時間にはもう―――
「―――、あった」
「……………はあ」
　だが、そのテーブルは見知った顔が今まさに陣取ろうとしていた。
「いょぉう、遠野！　こっちだ、こっち！」
　オレンジ髪の不良学生は、周りの視線も気にせずブンブンと手を振っている。実に頭が痛い。
　とは言っても無視するほどの悪行ではなし、他に空いている角席もなし。
　ある意味、人よけにはなる男である。どうせなら有効活用するのが友人としての務めだろう。
「遅ぇ。今日は特別ゲストが来るって言ってなかったかぁ？　のんびり重役出勤してんじゃねえですよ」
「ああ、そういえばそんなコト言ってたっけ。
　で、その特別ゲストはどこに？」
「うむ、それがな。昨日からスケジュール押さえていたっつーのに、今朝になって断られた。なんでも『お詫びをしたい人がいるから今日の昼食は忙しいんです』だとよ」
　力うどんを食べながら、有彦は無念そうに肩を落とした。
「……お詫びを、したい人」
　その言葉は耳に覚えがありすぎる。
「特別ゲストって、もしかして三年生？」
「おうっ!?」
「眼鏡の似合うショートカットで、元気よく動き回って、それでいて頼れる空気だしまくり？」
「なんだそれ、いつから俺の頭を盗んだ!?」
「……いや、そういうわけじゃなくてさ、その……」
「お待たせしました。
　こちらの席でよろしいですか、遠野くん？」
　輝くような笑顔で先輩がやってきた。
　その両手には二人分のトレイが乗せられている。
「なんとぉ!?」
「おや？　乾くん、
奇遇ですね」
　先輩はごく自然に席に座った。
　俺の対面―――即ち、有彦のとなりの席である。
「お―――おお、おおぉおお!?」
　よく分からない声をあげる有彦。おそらく突然の幸運にうまく対応できないのだろう。気持ちは分かる。何故ならさっきまでの俺がそうだった。
「遠野くんもどうぞ。
　今日は遠慮せずに、おなかをいっぱいにしてください」
　そして俺も、この笑顔を前にして断れるはずがない。
　観念してシエル先輩の対面席に座る。
「それじゃ、ありがたくいただきます」
　手を合わせて先輩の持ってきたトレイに視線を落とす。
「……？」
　トレイに並べられたメニューは、
カレーライスと
カレーライスと
カレーうどんだった。
「…………………」
　ちょっと、よくわからない。
「えっと、先輩……？」
「はい？　なんですか遠野くん」
「いや、これ―――どういう事でしょうか」
「どうって、遠野くんとわたしのお昼ごはんじゃないですか。他に何に見えます？」
「……何って、カレーにしか見えないけど……」
「もちろん、みんな大好き、定番のカレーですよ」
　それは言われずとも分かる。問題はカレーしかないことだ。
「……メニュー、三つありますね」
「もちろんです。遠野くんは男の子なんですから、いっぱい食べてもらわないと。わたしは一品でいいですから、どうぞお好きなものを選んでください」
「……それじゃあカレーライスと、カレーうどんで」
　それ以外の組み合わせは、ただのおかわりになっちゃうからね。
「残さず食べてくださいね。
　遠野くん、好き嫌いないんですから」
「――――――――」
　先輩の笑顔には悪意が一片もない。
　何かの冗談とか嫌がらせではなく、一点の曇りもないパーフェクトな善意なのだった。
「いただきます」
　やけになってカレーライスにスプーンをつっこむ。
　と。
「コノヤロウ、遠野くん！」
　先ほどから死んでいた男がようやく再起動しやがった。
「おまえさんね、いつまでムニの親友を無視してるワケ!?　あるだろ、一言！　やあ、常に生きていてありがとう乾くん、ところで今日は素敵な先輩を紹介するよ、おっと僕は忙しいのでそろそろ校舎裏に行く、あとは二人でご歓談の程を、とか色々さァ!?　あと余ってるならそのカレーうどん頂戴ね！」
「やらないよ。でも、常に生きていてごくろうさま乾クン」
　ガバッと伸びてくる有彦の腕。
　その<邪|よこしま>な手からカレーうどんを巧みにガード。
「え？　乾くん、遠野くんとお知り合いなんですか？」
「なに言ってんスか。知り合いも知り合い、中学時代からの大親友ですよ、オレたちは！」
　爽やかに力説する大親友。
「そうだったんですか。ごめんなさい、約束を反故してしまって。そのですね、わたしが今朝ご迷惑をかけてしまったのが遠野くんなんです」
「いいッス、筋の通った理由ッスから。というか、名前さえ教えてくれたらこっちから遠野を連れだしたッスよ。
　で。コイツ、どんだけ酷いコトをやらかしたんですか？」
「早朝の電車でバッタリ会って、そのままお喋りしていたら他の乗客さんに注意されちゃいました。
　ダメですね、周囲の迷惑を考えないと。遠野くんは悪くないのに、わたしの代わりに怒られてくれたんです」
「はあ、早朝の電車っスか。<駄|だ><弁|べ>るなんて人の自由ですけどねぇ。
ん？　早朝？　遠野はわかるとして、先輩、電車通学だったっけ？」
「今朝はボランティアの帰りです。公園のゴミ拾いですね。
　ほら、学校の掲示板でもあったでしょう？　生徒は自主的に参加するようにって」
「あー、海浜公園のアレかぁ。さすが先輩、ご苦労さまです。
　でも、そういうコトするから教師連中がアテにするんスよ。先公どもは隙あらばサボりやがるんだから、あんまり調子に乗らせないでほしいんですけどねぇ」
「いいんです、わたしが好きでやってるんですから。
それに先生方もきちんと学校の事を考えてくれています。今の物言いは感心できませんよ、乾くん」
　だらけきった有彦の意見を、正面からばっさりたしなめるシエル先輩。
　見た感じ、有彦も先輩とはそれなりに親しいようだ。
「先輩、もしかして毎日ボランティアをやってるんですか？」
「なんだ遠野、知らないのか。シエル先輩といったら真の生徒会長って呼ばれてるぐらい便利な人でだな、」
「知ってる。肩書きだけの生徒会と違って、なんでも解決してくれる完璧な三年生だろ」
「おう。一年じゃファンクラブまであるし、教師連中も厄介ごとが起こると『シエルに相談すれば安心だ』なんて<暖簾|のれん>に腕押し状態だからな。今じゃ先輩が何をしたって文句を言う教師もいないぐらいだ」
　有彦は我が事のように誇らしげに語る。
「……ファンクラブまでは知らなかった。すごい人だったんだ、シエル先輩って。うちの教師連中に頼りにされるなんてよっぽどのことだよ、それ」
　感心して先輩を見る。
「あ、はい。その、ありがとうございます」
　先輩はかちゃかちゃとスプーンでカレーライスをかきまわす。
　照れ隠しと思われるが、それで自分も当面の敵を思い出した。
　カレーライスだけでなくカレーうどんも控えている。
　医者から過分な食事は摂らないよう注意されてはいるが、今回ばかりはきっちり完食しなければ先輩に申し訳がない。
　満腹中枢が満たされる前にカレーライスを美味しくいただくとしよう。
　その間、先輩と有彦は自分たちの家について話をしていた。
　有彦に親御さんがいないのは知っていたけど、先輩も一人暮らしをしているらしい。
　先輩のアパートは総耶駅からわりかし近いそうだ。
　繁華街のある北口ではなくオフィス街のある南口から出て、東に広がっている住宅地のアパートを借りているらしい。
「ほうほう。
　ところで遠野くんはどのあたりに住んでるんですか？」
「はい？」
　無言でカレーライスを食べていた俺に、先輩はするっと話を振ってきた。
「どのあたりと言われると、その、返答に困るというか……」
　なにしろ今日から住まいが変わるのだ。
　その事情を説明するのは気が引ける。できればこのまま有耶無耶にして誤魔化したいところだけど……
　……こうまっすぐに見詰められては、下手な嘘もつけやしない。
「……質問で返しますけど。
　先輩はなんで、俺なんかの家を知りたがるんです？」
「え？　だって遠野くん、わたしのアパートの場所を聞いちゃいましたよね？　なのにわたしだけ遠野くんのお家を知らないのは不公平だなって。
……
……あの、ヘン、ですか？」
「まあ、ちょっとヘンです。
　不公平だなんて、妙なことを気にするんですね、先輩は」
「むっ。妙なことじゃないです。
　どこに住んでいるか分からないんじゃ、なにかあった時お見舞いにもいけないじゃないですか」
　カレーライスを食べる口が止まる。
　何かいま、さらりと嬉しくなる事を言われた気がした。
「……お見舞いって、たとえばの話、俺が風邪でもひいたら見舞いにきてくれるとか？」
「いえ、行きませんよ？
　今のところ、そんな予定はありませんから」
「……………」
　さっきの言葉はぬか喜びだったらしい。
　先輩にはまったく悪意がない。
　なるほど。つまり天然なんだな、この人。
「俺の家もこの街ですよ。徒歩にして30分弱。
　ほら、北口から郊外にあがると、坂の上に住宅地があるでしょ。あそこの奥まで行ったところです」
「あー、そうだった。今日から引っ越すんだっけ、おまえ」
　わざとらしく相づちを打つ有彦。
　先輩はかすかに首をかしげている。
「引っ越した、ですか。遠野くん、転校生だったんですか？」
「は？」
　先輩はおかしな事を言い出す。
　つい、有彦と無言で目を合わせてしまった。
「あのですね。俺は一年からこの学校にいるし、先輩ともその頃から顔見知りだったじゃないですか。
　なんだってそこで転校生だなんて単語が出てくるんです？」
「だって遠野くん、引っ越したって―――」
「引っ越したら誰だって転校生になるわけじゃありません。住所が変わっただけで、学校は変わってないんです。
　今までは親戚の家にいたんですけど、今日からもとの家に戻るだけなんですよ」
　わけのわからない驚き方をしている先輩は、なるほど、と納得したようだ。
「お家が変わっただけなんですね。
　それで今は郊外の住宅地に引っ越した、と」
「そっ。坂の上にある仰々しいところに」
「なるほど、合点がいきました。じゃあもしかして、遠野くんのお家というのは、あの遠野邸の事ですか？」
　先輩は遠慮するように聞いてきた。
　街の人達からすれば、坂の上にある洋館は特別なものとして映っているのだろう。
　七年間戻ってはいないけれど、記憶の中にある遠野の屋敷は俺にとっても城みたいに大きい。
「そういうことです。自分でも場違いだとは思っているんですけど、引っ越しちまったものはしょうがないから」
「ふぅん。その様子じゃあんまり乗り気じゃなかったのか。
　自分の家っていっても七年ぶりならしょうがねえか。しばらくは他人の家みたいに感じるんじゃないか？」
「どうだろう。まだ帰ってないからよくは分からない。
　まあ、俺にはおまえの家っていう避難場所があるから気は楽だけど」
「なーんですかそれー。ざっけんな、オレん家はおまえのビバークポイントじゃねえですよー。休みになりゃあ泊まりにきやがって、おかげで姉貴はオレより友達の遠野くんびいきになっちまって、年々小遣い減ってるんですけどぉー！」
　それは有彦の素行が悪いからだと思うが、口にすると話がこじれるので止めておく。
　正直、遠野家の話題は気持ちのいいものじゃないし。
「へえ。仲がいいんですね、二人とも」
「よくねー。オレと遠野は奪い合う事はあっても手を取り合う事はない、いわば敵同士っスよマドモアゼル」
「でも遠野くんは乾くんのお家に泊まるぐらいなんでしょう？　仲、すごくいいじゃないですか」
「違いますよ先輩。遠野は長い休みになると家に居づらいってんで逃げてきただけです。このヤロウ、預けられたコトで有間の人たちに遠慮してんの」
「で、部屋が空いてるオレのところに転がりこんでくるってワケ。こいつは外見がいいから姉貴にも気に入られちまってさ、厚かましくも手ぶらで泊まりにくるんだぜ！」
　心底許せん、と有彦は握りこぶしを震わせる。
　……なるほど、そこがポイントだったのか……次からは土産の一つでも持っていこう。
「……預けられたって、遠野くんがですか？」
　ハッと口を押さえる有彦。
　似合わない事に、気まずそうに苦笑いなどをしている。
「気にするなよ。別に悪いことじゃないんだから」
　有彦の顔を見ずに、カレーライスを食べながらそう言った。
「そっか。ま、そーだよな。
　アレで文句を言ったらバチが当たるってもんか」
　うんうん、と納得する有彦。こいつのこういう、突き抜けた楽観性は本当に美点だと思う。
「……ごめんなさい遠野くん。
　その、前のご家族とはうまくいってなかったんですか……？」
「いや、そんなコトはないっスよ。こいつ、有間の親御さんとは何の問題もないもんな。みんな超いい人たちだし。いや、有間の親父さんはわりと怖いけど。
　だって言うのにこいつは養子にならないかって話も断って、休みになればオレんところに逃げてきやがるんだ。ホントに何が不満なんだオマエは」
「不満なんかある訳ないだろ。よくしてもらってるから、これ以上負担をかけたくないだけだ」
　カレーライスは食べ終わった。
　残るはまるまる一人前のカレーうどんである。
　そしてご覧の通り、先輩は元気がない。
「ごめん、シエル先輩。つまらない話だった」
「そ、そんなコトないですよ。わたしのほうこそ、ヘンなコトを聞いてしまって、すみません」
　先輩はむりやりに明るく振舞おうとする。
　中学校から友人だった有彦ならいざ知らず、先輩を相手にこんな話をしても迷惑なだけだろう。
　事実、先輩は居づらそうにそわそわとしている。
「あー、ゴメン先輩。オレ、ちょっと遠野と内緒話があるからさ、席外してもらえない？」
　無造作に、有彦はとんでもない発言をした。
　今のは遠まわしに、いやストレートに『先輩は邪魔だから外してくれ』と言っているようなものである。
「なに言ってるんだ、内緒話なんてどこでもできるし、だいいち先輩はまだ食べ終わって―――」
　―――る。
　あんなに有彦と話をしていたのに、いつのまにかちゃっかりきっかり、先輩はカレーライスを平らげていた。
「いえいえ、承知していますとも。それでは邪魔者はここで。お先に失礼しますね」
　先輩はペコリとおじぎをして去って行った。
　テーブルには俺と有彦の二人きり。
「……はあ。先輩も居づらそうだったし、俺もこうしたほうがいいとは思ったけどさ。今のは紙一重じゃないか？　おまえ、好感度下がったぞ」
「んー、まあ、さっきのは仕方ねえだろ。口を滑らせたのはオレなんだし、嫌われ役ぐらいはねぇ」
　ぞぞぞ、と力うどんをすする有彦。
　先輩と話すのに夢中で、すっかり冷めてしまっている。
「おまえ、先輩のこと狙ってたんだろ？」
「そりゃあ俺にかぎらず誰だって狙ってますよぅ？　シエル先輩、うちの学校じゃピカイチだしねぇ。
でもまあ、いまの流れで気にするような性格だったらどうでもいい。遠野に内緒話があるっていうのもホントのことだし」
「………？」
　有彦の声はわりと深刻だった。
　ぱきん、と割り箸を割って、カレーうどんを食べ始める。
「なんだよ。気持ち悪いな、急に深刻ぶって。また何かやらかしたか？」
「そんなんじゃねえって。オレが聞きたいのは、実際遠野はどうなのかってコト」
「どうって、なにが」
「だから、遠野は小学生の時分から<余|よ><所|そ>に預けられてたんだろ。どんな理由かは知らないが、それから七年も経つんだ。なんで今になって勘当してた息子を呼び戻すんだ、おまえさんの父親は」
「勘当されていた訳じゃない。
　なんとなく屋敷から出るように言われただけだ」
「遠野くん、君ね。なんとなくで子供を家から追い出す家庭があったら、それは悲劇じゃなくて笑い話ですよ。
　ただしホラー一歩手前、寒すぎて笑えねえけどな！」
　実のところ、交通事故に巻きこまれて入院する以前から、父親とは折り合いが悪かった。
　遠野家は古くから続く名門で、その在り方は一般常識とかけ離れていた。
　子供心に覚えているのは巨大な洋館と、その洋館に合わせて時代が止まっているかのような家訓の重圧だ。
　遠野家は資産家でもあり、いくつかの会社の株主でもある。父である遠野<槙久|まきひさ>は実業家としては平凡だったらしいが、祖父の代から受け継いだ資産は十分に力があり、会社経営は順風満帆だったという。
　時代錯誤な館。
　礼節と歴史を重んじる上流階級の暮らし。
　そんな屋敷の生活が、子供心にはつまらないモノに思えて仕方がなかったのだろう。
　だから有間の家に預けると言われた時は、さして抵抗もなく家を出ることを受け入れた。
　結果は、とても良好だったと思う。
　有間の家の人たちとは上手くやっていけたし、義理の母親である啓子さんとも、義理の父親である文臣さんとも、本当の親子のように接してきた。
　もともと一般的な家庭に憧れていたところもあって、遠野志貴は有間の家で、本当の息子のように暮らしてきた。
　そこに後悔はないと思う。
　ただ一点。ひとつ年下の妹である<秋葉|あきは>を、遠野の屋敷に残してしまった、ということ以外は。
　秋葉は俺を……遠野志貴の事を<疎|うと>んでいるだろう。
　というか、恨まれるのが当然だ。
　あの、やたら広い屋敷にひとり残され、頭の固い父親に付きっきりで暮らしていたんだから。
　秋葉がさっさと外に逃げ出してしまった<兄|おれ>をどう思っているかは容易に想像できる。
「……そうだな。たしかになんとなくで家から追い出されたら、そりゃあ笑うしかない」
「だろう？　おまけに二度と<敷居|しきい>はまたぐなっていう決め台詞付きだ。世間さまではそーゆーのを勘当って言うんだ。
　今まで聞かなかったけどな。おまえ、なんで勘当されたんだ？」
「……………」
　……………さあ。
　そんな事、こっちが聞きたいぐらいだ。
「ま、話したくないなら、いい」
　有彦はどんぶりを両手で持ち、汁を飲み干していく。
　休み時間は短い。有彦の早食いを見習って、こちらも早急に昼食を平らげる事にした。
　昼休み、廊下は行き交う生徒たちで雑然としている。
　学食に向かう生徒が大半だが、中には弁当を片手に友人のいるクラスにお邪魔したり、中庭や体育館に向かう生徒もいる。
「…………」
　自分の思惑とは外れた、予想外の出逢いなど期待して廊下に出たものの、そんな幸運は存在しなかった。
「おとなしく食堂に行くか……」
　有彦のお誘いは<五割|はんぶん>厄介事、<五割|はんぶん>無駄話と相場が決まっているが、内容自体は退屈ではない。
　学校が終わってから遠野本家に戻るまでの時間、いい気晴らしになってくれるかもだ。
　……まだ実家に戻る整理がつかない。
　特に用事はないが、学校をぶらついて気持ちを落ち着かせようか……？
　そういえば、朝に誰かと約束をしていたのを思い出した。
「……そうだった。
　電車の中で、茶道部に顔を出すって話をしたんだっけ」
　こうして思い出せたのも何かの縁だ。
　まだ時間はあるし、茶道室に行ってみよう。
　茶道部の部室は部活棟の<端|すみ>にあった。
　ここまで10分ほど経過している。探すのに手間取ってしまったのは、誰も茶道部を知らなかったからだ。
　結局、職員室にまで足を運んで、見取り図から茶道室の場所を見つけ出し、今に至る。
「すみません。先輩、いますか？」
　横開きの扉をノックして、呼びかける。
　ほどなくして、
「おや。誰かと思えば遠野くん」
　よく見知った、シエル先輩が顔を出した。
「もしかして遊びに来てくれたんですか？　いえ、これは遊びに来てくれたと見ました！
　ささ、そういう事なら中にどうぞ！　ちょうど遠野くんと話したかったところです！」
「……は、はあ。それじゃ遠慮なくお邪魔します」
　強引さに多少とまどったものの、こっちも先輩目当てで足を運んだ身だ。
　先輩に逆らわず茶道室に入っていった。
　部室は思っていた以上に本格的だった。
　というか、完全に和室だった。
「……驚いた。うちの学校にこんな教室があったなんて知らなかった。完全に趣味の部屋じゃないか」
「わたしもそう思います。形式上は部活動のためという事になってましたが、校長先生の趣味でしょうね。
　もっとも、わたしが入るまでは使われていなかったようですが」
　先輩は先に畳の間にあがっていくと、カチャカチャとお茶の用意をしはじめた。
「先輩が来るまで使われていなかった……？」
「そうなんです。もったいない事に、茶道部は部員数ゼロの架空部活に甘んじていたのです！
　お菓子は心の安定剤。和菓子の良さを伝える道が廃れているなんて、街から笑顔が消えるようなもの、いえ、雨の日に捨てられた子犬を見捨てるようなもの！」
「ですので、先生方にお願いして茶道部を再開させていただいたんです。部員はまだわたしひとりなので、五人揃うまでの仮運転ではありますけど」
「そ、そうなんだ。先輩、好きなんだ、お菓子」
　でもそれ、茶道の本質じゃないような。
「はい。本命は洋菓子ですが、丁寧に作られたお菓子に<貴賤|きせん>はありませんから」
「ともあれ、茶道部の主将として地道に勧誘活動を続けているんです。そのおかげで放課後とか休み時間とか、こんなふうに自由に部室を使わせてもらっているんですよ。
　遠野くんも何かありましたら是非。わたし、放課後はたいていここにいますから」
「そ、そうなんですか」
　それは公私混同というか、秘密基地というか。
　シエル先輩に誘われるのは光栄だけど、そんなんで茶道部復興はなるのだろうか？
「けど遠野くんも物好きなんですね。確かにお誘いはしましたけど、あれだけで<茶道室|こ　こ>まで足を運んでくれるなんて。もしや、顔に似合わず肉食系ですか？」
　からかうような声に首の後ろが熱くなる。
　ナンパ目的ではなく単に寄っていこうと思っただけ―――そう口にしかけて、それは言い訳だと気がついた。
「いや……本当に、特に理由はなかったんですけど……」
　シエル先輩に指摘されるのも無理はない。
　朝に“興味があるなら茶道室まで”と言われたから来るなんて、普段の自分からは考えられないコトだ。
「……と、これは失礼。強くかけすぎちゃいましたか」
　先輩はひとり呟くと、パン、と両手を叩いた。
「っ―――」
　窓からの赤い陽差しに目を細める。
　俺が茶道室の物珍しさに気を取られている間に、先輩は押し入れからざぶとんを持ち出して、畳の上に置いてくれた。
「……………」
　お茶はお茶でも本当に真面目なお茶会らしい。
「あのさ先輩。俺こういう作法、苦手なんですけど……」
「そこは問題なく。わたしだって流し点前ぐらいしか知りませんよ。遠野くんはどうぞ自由に、楽にしてください」
　出されたものは急須と湯呑み、それにお茶菓子。
　お菓子はコンビニでも売っている一袋いくらのミニケーキや煎餅で、なるほど、本当にお茶を飲むだけの雑談の場らしい。
「気軽にお喋りするだけなんですから、堅苦しいのはなしにしましょう。そういうのは楽しくありませんからね。
　正座とかしないで、足を崩しちゃってもいいですよ？」
　先輩は柔らかに微笑みながら、二人分の湯呑みにお茶を注ぐ。
「……はあ。真面目なんだか大らかなんだか、よく分からない人ですね、先輩は」
　差し出された湯呑みを手に取って、口に運ぶ。
　自分は決して関わらなかったが、有間の家は茶道の家元をしていた。そんな家で育ったせいか、和室でお茶を飲みながら時間を過ごす事には慣れている。
　時間を飲み下すように、ゆっくりと消費する。
　……と。
　先輩は困ったような顔で、こちらの様子を見詰めていた。
「どうしたんですか先輩？　うかない顔してますけど」
「え？　あ、その、
なんだか遠野くんの方が落ち着いてるなって、ちょっと驚いてました」
「いや、うちはもともと厳しい家だったから、こういうのに慣れているだけです。
　……それより先輩、話がしたかったって、なんですか？」
「はい。朝のお礼をまだしていなかったので。電車で迷惑をかけてしまったでしょう？　だからそのお詫びとして、こうしてお世話をしてあげたいなって思ってたんです」
　先輩は柔らかな笑顔で、とんでもない事を言ってくる。
「お、お世話って、なんか日本語の使いかた間違ってるよ、先輩」
「あれ、そうですか？　えっと、礼をつくしておもてなしをする事をお世話をする……と言うんじゃないんですか？」
「―――言わない。間違いではないと思うけど、ちょっと正しくないというか」
「……そ、そうでしたか。ごめんなさい、にわか知識でおかしなコトを言ってしまって。やっぱり心のともなわない作法はいけませんね」
　先輩はしょんぼりと肩をすくめている。
　……そこまで反省されるとこっちも申し訳ない気持ちになる。
「……えっと。心、ともなっていましたよ。正直に言うと嬉しかったです。
　作法はまず心からとも言うし、もてなす側の気持ちが本物なら、些細な間違いなんて笑い飛ばせる話だと思います」
　つい励ましてしまった。
　先輩はマジマジとこちらを見つめてくる。
　……自分が動物園の珍獣になったかと思えるぐらい、真剣な眼差しだ。
「……………………」
「………先輩？」
　慣れていない、という事もあるけど、こう正面から見つめられるとさすがに気恥ずかしい。
「―――遠野くん、やっぱり似合いすぎてます。
　わたしより年下なのに落ち着いていて、生意気です」
　不満げに先輩は睨んでくる。
　これで二度目だけど、やっぱりこの人の行動原理は読み取れない。
「すみません。なんだか偉そうな言い分でしたね、今の」
「はい。あんまりに生意気なんで、不覚にも感動しちゃいました。年下の男の子にしてやられるのって、なんだか気恥ずかしいですね」
　言葉とは裏腹に、先輩は嬉しそうに照れ笑いなどをする。
　これは怒っている……んじゃないよな、きっと。
「わたし、がぜん遠野くんのコトが知りたくなっちゃいました。
　なんでもいいですから話してくれると嬉しいです」
「……いいですけど。
　俺の話なんかしてもつまらないですよ、先輩」
　構いません、と先輩は笑顔で応えた。
　……仕方がない。期待に添うかは不安だけど、とりあえず学校での出来事を話題にするか―――
　……結局、一時間ほど話し続ける事になった。
　先輩はどんな話でも喜んで聞いてくれたので楽しくはあったものの、慣れない事なのでドッと疲れた。
　とくに好評だったのは修学旅行の話で、先輩は修学旅行には行けなかったクチらしい。前日に風邪をひいてしまって休んだとのコトだ。
『中学二年生というコトは、十四歳の頃の遠野くんですか。
　その頃の遠野くんも見てみたかったです』
　などと、笑顔で言われたら俺でなくとも赤面する。
　話題は尽きなかったがじき日も落ちる。
　俺は先輩に許してもらって、後ろ髪を引かれつつも茶道室を後にした。
「どうしたんですか先輩？　うかない顔してますけど」
「え？　あ、その、
なんだか遠野くんの方が落ち着いてるなって、ちょっと驚いてました」
「うちはもともと厳しい家だったから、こういうのに慣れているだけですよ。それより先輩、話したかったって言ってましたけど、なんの話ですか？」
「おっと、そうでした。
　実はお昼に聞いたお話がどうしても気になって」
「……昼の話って、その、俺の実家のこと？」
　はい、と先輩はうなずく。
「遠野くんがイヤじゃなければ、ですけど。
　ほら。この時期に住まいを移すなんて、何かよくないトラブルでもあったのかなって」
「うちの家の話なんて聞いたってつまらないですよ。それこそ時間の無駄だと思うけど」
「つまらなくてもいいですよ。
　わたしが聞きたいだけなんですから」
「……はあ。物好きですね、先輩は」
　そうかもしれませんね、と先輩は笑った。
「それじゃあ話の続きをしましょう。
　自分の家に戻ると言っていましたけど、今までご実家には戻られていなかったんですか？」
「はい。色々あって、七年近く実家に戻ってなかったんです。療養生活……みたいなものでしょうか。10才の頃に事故に遭ったんですけど、それからは慢性的な貧血持ちになっちゃって。
　で、遠野の家は何かと騒がしいので、落ち着ける親戚の家に預けられていて、それが昨日までの話です」
「あ……それは、たいへんでしたね。
　その、傷の方はまだ？」
「そっちはバッチリ治っています。後遺症は貧血だけですけど、親父に言わせれば事故に遭う前からその<気|け>はあったそうだし、別に気にしていません」
「そうだったんですか……辛いお話をさせてごめんなさい。
　ええっと、つまりその親戚の方々が10才からの育ての親、という事になるんですね？」
「そうですよ。<有間|ありま>という家の人たちで、俺には勿体ないぐらい、よく出来た人たちでした」
　言葉には意識せずともあの人たちへの感謝がこもった。
　七年間、あの家に居られた事は幸福だったと思う。
「過去形なんですね。いずれご実家に戻ることが分かっていたから、有間家の人たちは貴方を家族として接していなかった……ということですか？」
「え？　いや、そういうワケじゃなくて。
　遠野家から呼び戻しがくるなんてまったく思ってなかったし。俺も啓子さんたちも、ずっと一緒に暮らすと思っていました」
「呼び戻しがない、と分かっていたんですか？
　遠野くんは遠野家の長男なのに？」
「はい。……本当の事を言ってしまうと、療養生活というのは建前なんです。俺と親父は犬猿の仲というヤツでして。怪我を理由に<体|てい>よく放り出されたようなものなんです」
「…………それは、貴方の勘違いではなく？」
「うん、そうですね。
　勘違いなら、それに越したことはありません」
　先輩の言葉に、できるだけ素直に
反応する。
　俺の口元はきっと微笑んでいる。
　今の話を“お互い、すれ違っていただけかもしれない”とたしなめてくれた、この人の気遣いが温かくて。
「でも、それを確認する事はもうできません。
　ついこの間、当の本人が鬼籍に入りましたから。親父はぽっくり逝っちまって、七年間の行き違いはこれでおしまい、未完のまま終了です」
　……<尤|もっと>も。
　行き違いなんてものが、本当にあったらの話だが。
「お父さん、亡くなられたんですね。
　それで貴方は実家に戻ることになった、と」
「はい。新しい当主からとっとと帰ってこい、と矢の催促で。おっかないんで今日から戻ることになりました」
　短く話を切りあげる。
　シエル先輩は思うところがあるのか、わずかに息を吸ってから俺に視線を戻してきた。
「ひとつ、訊いていいですか？」
　真剣な声に、思わず背筋が正される。
「どうぞ。俺に答えられる範囲でなら」
「そうですか。では遠慮なく。
　貴方は先ほど、有間の家の人たちを過去形で話しました。貴方本人ももう切り離して考えている。遠野くんはそれぐらい、前のご家族が嫌いだったんですか？」
　前のご家族―――この七年間、育ての親だった有間の人たちの事か。
　本当の両親ではない父親と母親。
　親戚の家であるはずの見知らぬ建物。
　けど、そんな事はぜんぜん関係なく―――
「いえ、大好きでした。血が繋がってないことなんて気にも留めない人たちで、俺がひとりで落ちこんでいるのが申し訳なくなるぐらい、温かかった。
　そういった疑いようのない愛情を信じられる自分も、まんざらじゃないんだなって思えました」
　―――この人たちは自分を愛してくれている。
　　　　だから早く、一日でも早く、
　　　　ボクは本当の家族にならなくちゃ―――
　そんな言葉を、幼い頃からずっと自分に言い聞かせてきた。
　……ほんとうに、ずっと昔から。
　気が遠くなるくらいずっと、繰り返し誓ってきた気がする。
「―――でも、だめだったんですね」
「はい。熱しやすく冷めやすい性格っていいますけど、きっと自分はそうなんです」
　どれだけ愛されて嬉しくなっても、次の日には他人事のようになっている。
　我が事のように思えず、どうしても気持ちが続かない。
　だから、せめて。
　大切に想ってもらった<事|こ><実|と>だけは忘れないよう、日々努めてはいるけれど。
「家族に関してはそれが顕著なんです。父親、母親が向けてくれる愛情より、強い愛情を返せない。
　なんで―――」
　それができない以上、自分は本当の家族ではない、という考えが頭から離れなかった。
　子供の頃にたちの悪いトラウマでも持ったのかもしれない。おかげで、どこにいっても、家族とはずっと他人のような気がしていた。
　先輩は黙っている。
　視線を逸らして、申し訳なさそうに肩をすぼめていた。
「ほら、つまらない話だった。
　すみません先輩、時間を無駄にしちゃって」
「いえ、そんなコトないです。すごく有意義なお話でした」
　場を和ませようと先輩は無理やりに笑みをうかべた。
「でも、ちょっと意外でしたね。わたし、遠野くんってのんびりしている子だなって思ってましたから」
「基本的に俺はのんびりしてますよ。“できるだけ今を楽しむ”ってのを座右の銘にしましたから。
　終わってしまう事より、先のことを楽しみにしていたほうがハッピーでしょう？」
　まあ、これは有彦からの受け売りなワケだけど。
「先のことを楽しみに、ですか。
　いいですね、そういうの。わたしも全力で応援したくなっちゃいました」
「しかし、できるだけエンジョイする、ですか……。
　……ふふ。それじゃあさしあたって、明日から一緒に登校とか、しちゃいます？」
「え―――」
　突然の誘いに目が点になる……というか、さっきまで<柄|がら>にもなく自分語りをしていたコトにようやく気がついた。
「あ、いや、そういう意味ではなくて！　楽しむってのはあくまで希望的観測にすぎないというか、先輩を口説くならもっと事前に段階を踏むというかですね!?」
「はい、もちろん冗談です。
　遠野くんが紳士である事は、わたしも分かっていますから」
　……それはそれで残念のような気がするが、誤解を生まなかったので良しとする。
　気を取り直して湯呑みを口に運ぶ。
　お茶は長い会話ですっかり冷めていた。
　その後、１時間ほど話し続けた。
　先輩はどんな話でも喜んで聞いてくれたので楽しくはあったけれど、慣れないコトなのでドッと疲れた。
　とくに好評だったのは修学旅行の話で、先輩は修学旅行には行けなかったクチらしい。前日に風邪をひいてしまって休んだとのコトだ。
『中学二年生というコトは、十四歳の頃の遠野くんですか。
　その頃の遠野くんも見てみたかったです』
　などと、笑顔で言われたら俺でなくとも赤面する。
　話題は尽きなかったがじき日も落ちる。
　そろそろ茶道室を閉めるというので、こちらは一足先に退室し、下校することにした。
　先ほどまで地上に敷かれていた路線は、<前触|まえぶ>れもなく地下の路線に切り替わった。
　電車は人工の光をまき散らしながら、一面の闇を<潜|もぐ>るように進んでいく。
　きしむ車両の音。
　等間隔に過ぎ去っていく人工灯。
　シートごしに伝わってくる震動を秒針に重ねて、距離と時間の経過を考える。
　早朝、午前６時33分。
　この電車に乗ってから30分ほど経過した。
　もう帰る事のない、長年お世話になった人たちの家を出てから、それだけの時間と距離が離れている。
　それをどう受け入れるのかで、人間としての情の深さが計れるのかもしれない。
『まだそれだけ』の距離と身近に感じるのか、
『もうそれきり』の距離と片付けてしまうのか。
　自分はどちらだろうと考える。
　わずかに思案して、そのどちらの所感も浮かんでいなかった事に気がついた。
　八人掛けのシートに座っているのは自分だけで、対面は空席のままだ。
　乗客は数えるほどで、となりの列のシートで居眠りをしている背広姿の男性と、ドアの前に立っている少女だけ。
　早朝の便という事もあり、車両の中はあまりに寂しい。
　物思いに<耽|ふけ>っていたせいか、車両外からの駆動音は不思議と耳に残っていない。
　漠然と、暗い宇宙を行く宇宙船を連想した。
　乱雑な外界の音は届かない。
　ここにあるものは益体もない自分の空想と、血液をはき出す心臓の音と、ほんの一時間前に過ぎていった思い出だけ。
　それは突然の話だった。
“遠野<槙久|まきひさ>が亡くなった。
　そちらの家に預けていた<遠野|とおの><志|し><貴|き>を本家に戻すように”
　七年近く音沙汰のなかった実家からの電報は、そんな意味合いのものだったという。
　遠野本家の決定には逆らえない。自分はまだ学生であり、養育費をいただいている身分でもある。
　屋敷に戻る日を、前日の夜ではなく当日の朝に決めたのは意地のようなものだった。
　少しでも長く今まで暮らしていた家に滞在する―――
　それは本家の決定とはいえ、まったく繋がりのない自分を家族として迎え入れてくれた<有間|ありま>の人々への、自分なりの礼節だった。
“ごちそうさまでした。今朝もおいしかったです”
　日が昇る前に朝食を済ませ、食卓を後にして、自分用にあてがわれていた部屋に手を合わせた。
　長年の感謝にしては味気ないものだったが、気持ちを残してはそれこそ未練になる。
　ここでの生活は明るい事ばかりだった。持っていく荷物はそれだけで十分だ。
　有間の家を出る時、見送りは<啓子|けいこ>さんひとりだった。
　できるだけ静かに、他の家族を起こさないように提案したのは自分の方だ。
“今までお世話になりました。
　お父さんと<都古|みやこ>にも、よろしく言っておいてください”
　七年間――――俺の母親役であった人は、ひどく悲しげな目をしていた。この人のそんな顔を見ることになるなんて、思いもしなかった。
“遠野のお屋敷での生活はたいへんでしょうけど、しっかりね。あなたは体が弱いのだから、あまり無茶をしてはいけませんよ”
　いたわりの言葉を素直に受け入れる。
　この七年間は本当に穏やかだった。それと同じように、自分のいた時間が有間の家の人たちにとって苦痛でなかったのなら、これほど喜ばしい事はない。
“七年もたてば人並みに健康な体に戻ります。
　こう見えてもわりと頑丈なんですよ、俺の体”
“ええ、そうだったわね。
　遠野の人たちは特別な人ばかりだけど、物怖じしないのがあなたですものね。子供のころからずっと、こっちがびっくりするぐらい動じない子だったわ”
　苦笑まじりの言葉に、こちらも同じように笑ってしまう。
　啓子さんの中では、まだ自分が“うちの子”である事が嬉しかった。
“それは買いかぶりすぎです。
　……それじゃあ行ってきます。お母さんも元気で”
“ええ。あなたも元気でね、志貴”
　行ってらっしゃい、と返さないのが啓子さんらしい。
　彼女はもう戻らないものと受け入れた上で、目尻に涙をためて俺を送り出してくれた。
　それがほんの40分前の出来事。
　俺が新しい生活を迎える節目であり、
　遠野志貴という人間の、これまでの人生の終わりだった。
　外の景色が少しずつ変化していく。
　川を<隔|へだ>てて郊外だった<社木|やしろぎ>を抜け、都市部である<総耶|そうや>に入ったのだろう。
　路線は再び地上に向かっていく。
　ゆるやかに傾斜を昇っていく感覚。
　人工の明かりに慣れきった眼に、覚めるような陽が差しこんだ。
　都市を一望しながら電車は走る。
　街はまだ、その大部分が目を覚ましていない。
　外には冷たさを帯びてきた大気。
　夏の面影が消え去った十月の、秋の朝そのものだ。
　思えば、この風景を一年と半年間ながめてきた。
　電車での登校風景もこれっきりだ。
　通り過ぎる風景になぞらえるように、この七年間を振り返る。
　10歳の頃―――普通なら即死という重傷から回復して、
　先生に出会って、
　有間の家で暮らす事になって、
　こうして、高校生二年目の秋を迎えた。
　あの時―――別れ際に先生が言っていたような特別な出来事はまったく起こらなかったし、自分も先生のくれた眼鏡をつけているかぎり『線』を見る事はない。
　遠野志貴は平凡ではあるものの、得難い日々を過ごしてきたと思う。
　今日からはそれがちょっと、<大事|おおごと>になってしまう。
　もとのカタチに戻るだけなので身分不相応という事はないものの、肌に合わない、というのは本当の事だ。
　本家……遠野家のあり方は、一般家庭になれきった自分には面倒くさ……重すぎるきらいがある。
「……だいたい、
　学校より広い洋館とか想像つかないんですけど……」
　子供の頃はよく耐えられたものだと感心する。
　あんな時代錯誤な生活に戻されるかと思うだけで、悩みはなくとも気後れしてしまうというものだ。
　電車は大きめの駅に到着し、数分ほど停車する。
　各駅停車なので、となりの快速電車が通過するまでの待ち時間だ。
　ホームに人影はない。
　この時間なら背広姿のサラリーマンたちが何人かいそうなものだが、今朝は特に静かだ。
　となりのレールを快速電車が通過していく。
『お待たせしました。次の停車駅は―――』
　聞き慣れたアナウンス。
　空圧で閉まる自動ドア。
　高校のある<総耶|そうや>駅まであと四駅と確認して、
「あわわ、待って待って！」
「はあ～。あぶないあぶない、
　あやうく首が飛ぶところでした」
　自動ドアの隙間から滑りこむように現れたのは、うちの高校の女生徒だった。
　緑色のリボンなので三年生だ。なんとなく見覚えがある。
　手に持っているバッグは部活の道具か何かだろうか。
「――――――」
　ふと視線が合った。
　上級生の女生徒はじっとこちらを見つめてくる。
　そればかりか、トコトコと近寄ってきたかと思うと、
「おはようございます。朝からお騒がせしてごめんなさい」
「あ、いえ、こっちこそすいません。じろじろ見ちゃって」
　笑顔につられて思わず謝ってしまった。
「いえいえ、目立つようなコトをしたわたしに非があるんです。
　先輩として恥ずかしいところを見せてしまいました。
　でも、朝は弱いって話、ホントなんですね」
　くすくすと笑う上級生。
　その仕草に呆気にとられていると、
「ほら。わたし、わたしですよ。先週会ったばっかりなのに、もう忘れちゃったんですか？」
「あれ……シエル先輩……？」
　一瞬で記憶が揺り動かされる。
　見覚えがあるはずだ。この人とは学校で何度か会っている。
　というか、うちの生徒でシエル先輩を知らないヤツはいないだろう。
　誰が呼んだか<耶高|やこう>の万能先輩。
　一年に悩める生徒がいれば相談に乗って<前向き|ハッピー>にし、
　二年に迷える生徒がいれば問題そのものを解決し、
　三年に困った生徒がいれば後輩いじめを止めさせる。
　教師たちや生徒会より頼りになることから、真の生徒会長とまで呼ぶ生徒もいる。
　言うまでもなく、俺も先週、ちょっとした事で助けてもらったはずだ。
　……まったく、ぼけているにもほどがある。
　先輩の言う通り、朝に弱いことプラス、七年ぶりの帰宅で頭が曇っていたとしか思えない。
　俺は、
　ふと、ちょっとした疑問が頭をよぎった。
　なぜこの人はこんな朝早くから電車に乗っているのだろう？
「でもどうしたんですか？
　先輩、部活やってませんよね。こんな時間に登校なんて」
「いえ、何を隠そうボランティア活動の帰りなんです。
　ほら、生徒会公募で公園のゴミ拾いがあったでしょう？
　あれをちゃちゃっと、先ほどまで」
　言われて、ああ、と合点が行った。
　この先輩はいつだって、誰かのために<奔走|ほんそう>している人なのだ。
「早朝から30分だけの奉仕活動だったんですけどね。
　他の皆さんはいったん帰宅したんですが、わたしは面倒なのでこのまま登校してしまおうかと」
　がしゃり、と<荷物|バッグ>を鳴らす先輩。
　部活の道具かと思ったが、アレは清掃道具らしい。
「おや。中身、見たいんですか？　先輩の持ち物をチェックするなんて、おとなしそうに見えて大胆ですね」
　先輩はこちらの顔を覗きこむように、ぐっと身を寄せてくる。
　……や、顔とか匂いとか、いろいろ近くて、目の置きどころに困ってしまう。
「い、いえ、そういうワケじゃなくてですね、もし折りたたみ式の箒とか熊手とかなら、珍しいなと……」
「ほうほう。わたしの万能<高枝|たかえだ>切り<鋏|ばさみ>も見たいと。
　よろしい。それでしたら放課後、いつもの茶道部に来てください。貴方なら大歓迎です」
　染みいるような笑顔で言われると、こちらも照れてしまう。
　気の利いた返事もできず、はい、とうだつの上がらない返答をした。
「約束ですよ。ここだけの話、部費で購入したお茶請けが余ってしまいまして。日持ちするものではないので、元気な男の子の協力が不可欠なんです」
「そ、そうですか。じゃあ予定があえば、是非。
　食べ物につられて行くとか、猫かって話ですけど」
　あまりに気さくなシエル先輩の笑顔につられて、こっちも軽口がこぼれた。
　緑色のリボンの先輩は、
「どちらかというとワンちゃんではないでしょうか。
　というかネコ科はよくありません。最後まで頼りになるのは、律儀で頭のいいイヌ科です！」
　得意そうに、よく分からないこだわりを見せるのだった。
　目的地が一緒という事もあり、なんとなしに会話は続いた。
　先週に終わった中間試験のこと。
　規模が縮小され一日で終わってしまう体育祭のこと。
　いっこうにメニューが改められない食堂のこと。
　いまどき携帯端末の使用を制限したがる学校と生徒間の論争を話し合った結果、互いにため息をついてしまったので話題を変え、最近観た映画の所感などを交わして笑いあう。
　あっという間の15分。
　先輩は話し上手で、噂通りの“男女ともに好かれる”先輩だった。
　あと数分で総耶駅に着いてしまう事が名残惜しく、つい次の話題を持ちかける。
　―――が。
「……ちょっと、うるさいんですけど」
　この通り、周囲の事を失念していた。
　失礼しました、と先輩とふたりで頭を下げる。
「……………」
「……怒られちゃいましたね」
「……ごめんなさい。
　わたしの笑い声が大きかったんです、きっと」
　それきり会話はなくなった。
　さっきまでの気さくな雰囲気が嘘のようだ。
　誰もが他人にすぎない、都会特有の沈黙が車内を支配する。
　電車は総耶駅に到着した。
　時刻は７時前。
　登校時間にしてはいささか早く、街もまだ目を覚ましきっていない。
　今でこそ駅前は静かだが、あと１時間もすれば人と車であふれかえる事だろう。
「今朝も交通量が少なめですね。最近、街の目覚めが遅い気がします。みなさん夜更かしなんでしょうかねー」
　重そうに荷物を抱えながら、先輩は妙なことを言う。
「あの。荷物、学校まで持っていきましょうか？」
「え？　あ、いえいえ、お気になさらず。わたしは寄っていくところがありますので、ここでお別れですね」
　では、と笑顔で手を振って先輩は走り去った。
　ばびゅーん、なんて擬音が似合いそうな、それはそれは軽快かつ高速の駆け足だった。
　思わず負けじと走り出したくなったが、こっちには急ぐ理由がない。
　<体調|からだ>の事もあるし、いつも通りのペースで学校に向かおう。
　……と。
　先ほどの女の子が改札から出てきた。
　少女は早足でこちらの横を通り過ぎながら、
「見かけ通り軽薄なんですね。うんざりしました」
　なんて、強烈なダメ出しを残していった。
「――――――」
　突然の事で目が点になる。
　どうやらよほどの不興を買ったらしい。
　今後、車両内での会話には気をつけよう。
　知らず人を不快にさせる単語を口にしたのかもしれない。
　まあ、それを差し引いたとしても、
「……いや、最近の中学生はおっかないな」
　すれ違いざまに批評を述べるなんて、まるで辻斬りみたいじゃないか。
　普段よりいくぶん遅めの足取りで登校する。
　正門が見えた頃、時刻は７時になろうとしていた。
　部活動に向かう生徒たちが正門を早足で過ぎていく。
　<ＨＲ|ホームルーム>が始まる８時まで、かぎられた時間を使い切るつもりなのだろう。
　都立総耶高等学校。
　今年で創立四十年を迎える、古き良き学舎だ。
　進学率はそこそこ、部活動はほどほど、校則はそれなりに自由な、ごく平均的な高等学校。
　男子生徒の唯一の不満は『古くさい制服のデザインを改善してほしい』という、まことにありきたりのもので、こちらは一向に聞き届けられない。
　その一方、女生徒の制服だけは三年前に変更されている。
　古風なセーラー服では入学希望者が減ると考えた学校側の、精一杯の譲歩だったらしい。
「ん……？」
　通い慣れた風景に、かすかな違和感を覚えた。
　今朝はどことなく慌ただしい。
　青い顔で職員室に走っていく教師たちの姿。
　駐車場に止まっている初見の黒い乗用車。
　寒々しい空模様。
　理由もなく、参列者の途絶えた葬式とか、<延々|えんえん>と続く<鯨幕|くじらまく>を想像する。
　……我ながら、暗い考えにため息をつく。
　<厭|いや>な予感を振り払って教室に向かう事にした。
　誰も居ない教室に入る。
　自分の椅子に座り、朝のＨＲまで時間を潰す。
　殊勝な心がけで予習などをこなしているうちに、教室は<人気|ひとけ>を増していった。
「おはよー。本日の朝練、ぶじ終了のおしらせー」
「あれ、一番乗りはアタシらじゃないんだ？　遠野はやくない？」
「あー、あれか、ボランティア！
　でも今日だったっけ？　やば、おれサボったかも!?」
　２－Ｃは他の<教室|クラス>に比べると生徒間の仲が良い。
　顔を見れば気軽に挨拶をかわし、それぞれの席に腰を下ろす。
　部活動を終えたクラスメイトと雑談を交わす。
　もう討論の余地もないほど消費された昨夜のネットニュースから、つい10分前に起きた学校の新情報までを、確認事項のように話し合う。
　時間を埋める為だけのコミュニケーションだが、これも必要なルーチンワークだ。
　一日が始まる前の軽い準備運動。
　情報過多の現代においては、四六時中本気で対話していては自分も相手も疲れてしまう。
　と、にわかに教室の空気が変化した。
　<和気藹々|わきあいあい>としていた雑談が、身を<潜|ひそ>めるような小声に変わっている。
「おら、道ふさいでんじゃねえよザコども。
　朝っぱらから群がりやがって、通行の邪魔だろうが」
　クラスメイトをクラスメイトと思わない、悪辣な台詞が響く。
　見て確認するまでもない。教室の空気が変わったのは、たったいま教室にやってきた、この―――
「チィース！　グッモーニン眼鏡くん！
　今朝も辛気くさい顔しやがって、まったくクソみたいなヤロウですねぇ！」
「……………」
　牧歌的な我が校のカラーから外れまくった、不良生徒のせいである。
「おーい、アイサツどうしたー？
　人が珍しく朝から来てやってんのに、オハヨウの言葉もなしですかー？　むしろ朝から居てくれてアリガトー、ぐらいの気持ちはないのですかー？」
「ないよ。朝から濃い顔見てげんなりしてるだけ。
　そもそもアリガトーとかないし。おまえのために学校に来てるワケじゃないし」
「なにい!?　バカ言うなよ、オレは遠野のために学校に来てるんだぞ！　そんなの不公平じゃんか！」
「…………」
　言葉がない。
　たまに疑問に思うんだけど、どうして俺はこいつの<親|ツ><友|レ>だったりするんだろう。
　オレンジに染めた髪、耳元のピアス。
　いつでもだれでもケンカ上等、といった目付きの悪さと反社会的な服装。
　不良学生という文化がすたれた現代において、暴力性を売りにした自由気ままなアウトロー。
　それがこの男、<乾有彦|いぬいありひこ>だ。
「……まあいいか。朝から教室に来るのはいい事だ。
　おはよう有彦。ついに出席日数を気にしだしたか？」
「いや、そこは別に気にしてない。まだまだ余裕はありますよ。
今日は家に姉貴がいるんでさぼれなくなっただけ。
　つーか朝まで徹マンしてたんで、いいかげん体力の限界だ」
「そうか。すまない、挨拶をやり直させてくれ。
　おやすみクズ彦。机に急げ、さっさと寝ろ」
「げ、なにその冷めた反応。
　それが中学からの<仇敵|ライバル>に対する態度ですかぁ？　もっとこう、熱い対応してくれませんかねぇ！？」
「……なんで俺とおまえがライバルなんだ。
　無軌道に生きたいんなら街で同好の士を見つけてろよ。あんまりかまわないでくれ」
　いや、中学からこっち総額一万円近い金額を貸したきり戻ってこないので、外敵と言えば間違いなく外敵だけど。
「どうしてかな、遠野ってばオレにだけ冷たいよなー。
　他のヤツラには聖人君子みたいなヤツなのに、不公平じゃね？」
「なんだ、わかってるじゃないか。
　世の中、公平なコトってあんまりないだろ」
「そりゃそうだけどよぉ。
　やっぱおまえ、オレには特に冷たくねー？」
　大げさにため息をつく有彦。
　意識して冷たくあたっている訳ではなくて、互いに気兼ねなく本音を言い合っている結果、自然にこういった距離感になっているだけだった。
　趣味も嗜好も違うものの、どこか波長が合う、というヤツかもしれない。
「……まあ、家から逃げてきた、はいいとして。
　普段から夜型のおまえが朝から出席するなんて、どんな風の吹き回しだ。
　ちょっと、いやかなり普通じゃないぞ」
「まあな、オレだってそう思う。
　たまたま目が覚めたからって来るもんじゃねえよな、学校ってヤツは。ぶっちゃけもう帰りてぇ。んー、やっぱ学生には勉強する意思とか必要なんですかねぇ？」
　まさしくその通りだが、この男に言われると“意思がなくてもとにかく来るだけで立派”という気持ちになる。
「そのあたりの議論は今度、暇なときに鏡に向けてやってくれ。
　俺が聞きたいのは、なんで街に行かないかってコト。カラオケでも漫画喫茶でも、時間潰すならそっちのがいいんじゃない？」
「そりゃあアレだよ。最近はなにかと物騒だからですよ。
　荒事こなすのも<無|タ><料|ダ>じゃねえし、あっちには体力ある時しか顔だしたくねえワケ」
「物騒……？」
「おう。遠野だって知ってんだろ、例のアレ。
　派手に出回ってる通り魔事件の話だよ。駅前のセンター街、夜になると警官も巡回しているしな」
「―――そっか。そんな話もあったっけ」
　有彦に言われて思い出した。
　昨日まで自分がお世話になっていた家はここから数駅分離れていたから、総耶駅周辺の事件はどこか他人事だった。
　ニュースでも取り上げられていた筈だ。
　たしか―――
「なんだっけ、すごく低俗な売り文句だったけど。
　深夜の通り魔事件、だっけ」
「連続、猟奇、殺人事件な。被害者はたいてい若い女で、二日前に発見されたホトケさんで八人目。かつ、全員の喉元にバツの字の傷跡があるとかないとか」
　なんだそれ。
　どんな状況なのか、まったく想像できない。
「違うよ、乾くん。殺されちゃった人はみんな、体内の血液が著しく失われている、だよ」
　俺たちの話し声が大きかったのか、近くにいた<弓塚|ゆみづか>がひょこっと顔をだして訂正してくれた。
「ああ、そうだったそうだった。現代の吸血鬼かっていう見だしだったもんな、アレ。
　サンキュー弓塚、オハヨウサン！」
「うん、乾くんもおはよう。
　えーと、ついでに言うと外傷には個人差があって、傷がまったくない場合と、損傷の激しいタイプに分かれてる……だったかな」
「詳しいんだね、弓塚さん」
「そ、そんなコトないよ！
　この街で起きている事件なんだもん、ニュースを見てればイヤでも覚えちゃうことだと思う」
「とまあ、そういうコトだよ遠野。
　いくらオレでもな、夜中に殺人犯が出歩いているうちは夜遊びなんざしねえっての。最近はまじめに家ん中で夜更かししてるワケ」
「なんだ、そんな理由だったのか。
　まともすぎて逆に意外だ。殺人犯に<怯|おび>えて家にこもるなんて、おまえらしくもない」
「らしくない、じゃねえよ、フツーは殺人犯に怯えるだろ。
　こっちはやる気がねえのにあっちだけやる気満々とか、不意打ちにも程がある。絶対にゴメンだね。オレはまだ人生棒に振りたくねえ」
「……ああ、そっか。そうだよな、狙われたらトコトンまで付き合うしかないってコトだもんな」
「おまえね。そこは逃げる、って選択肢はねえの？
　なんでトコトンまで付き合うんだよ」
「？　だって逃げられないんじゃないのか、そういう場合って」
「いい、遠野にふったオレが阿呆だった。
　実際の話、オレも殺人犯は気にしてねえ。ああいうのは、ほら、天災だろ？　出遭っちまう方に運が無い。
　オレが街に出ないのはもっと現実的な理由でさ。最近、北口駅前で新手の馬鹿共がわいてんだよ。正直、顔も見たくねえ」
　北口駅前……オフィス街とは反対側の繁華街で、夜は交通量も人通りも多い、不夜城のような地域だ。
　有彦も北口の住人だが、その有彦がここまで言う以上、その“新手の馬鹿共”はよほど物騒なグループなのだろう。
「遠野も聞いた事ねえか？
“度胸試しのようなもの。秘密の入り口から地下道に入って、奥まで着ければ大金が手に入る”ってヤツ」
「それならわたしも聞いた事あるけど……それってただの怪談じゃなかった？」
「ああ。けっこう昔からある都市伝説だったらしい。
　それを儲け話っぽく仕立てて利用してる馬鹿共がいるんだよ。どっから流れてきた新参者かしんねえが、おかげで北口の空気の悪さはシャレにならねえ。ちょっとしたコトで殴り合いが始まるからな」
「オレ、基本的に痛いのイヤだし？　あんだけ派手にやってれば<警|ポ><察|リ>も動くだろうし、連中が捕まるまで、しばらく自重して家にこもってんのよ」
　北口の都市伝説……あいにく、地元の人間ではなかった自分には聞き覚えのない話だ。
　それも今日からは他人事ではなくなる……のかな。
「なんだよ、反応薄いな。
　さてはアレか、朝から貧血でぶっ倒れたのか？」
「いや、今朝はまだ大丈夫。
　心配してくれるのはありがたいんだけどね、そう四六時中貧血を起こしてたら体がもたないよ」
「ああ、そりゃもっともだ。遠野が大丈夫だっていうんなら、まあ大丈夫なんだろうよ」
「ほら、授業が始まるぞ。早く席に戻って寝ろ」
「あいよ。……っと、そうそう。今日の昼メシな、食堂でするからな。おどろきの特別ゲストをお呼びしているので、楽しみにしてやがれ」
　きしし、と何か企んでいそうな笑い声をあげて、有彦は自分の席に戻っていった。
「それじゃあね、遠野くん」
「あ、うん。弓塚さんも付き合わせて悪かったね」
　たったった、と軽い足取りで弓塚も席に戻っていった。
　ＨＲの開始を告げるチャイムから５分経っても担任の<戸山|とやま>先生はやってこなかった。
　いよいよＨＲの時間も終わってしまう頃、となりのクラスの担任がやってきて戸山の欠勤を告げていった。
「やった－！　今日の数学、自習じゃん！」
　クラスの誰かが勝ちどきをあげる。
　戸山先生は数学の教師だ。
　彼女が欠勤なら今日の授業は自習になる。課題のプリントをこなしさえすれば、残りの時間は自由に使える。
　勉強に使う生徒もいれば遊びに使う生徒もいる。
　自分は数学の問題集にとりかかった。
　子供の頃、この体では有名校への受験は難しいと言われ、中学で塾通いは止めてしまったものの、勉強そのものは面白い。
　進学するにしても社会に出るにしても、知識を持つ事は無駄にはならない。
　いくつかの応用問題を解いて顔をあげると、廊下側の生徒たちの様子が目に入った。
　席が遠いため、断片的な話し声しか聞こえてこない。
「やっぱり……」
「信じられない……」
「朝練の時、先生たちが血相を変えて職員室に……」
「まだウワサだから」
「でもそんな簡単に」
「ひどいよ、なんでそんなコトに……」
　ああ、厭な予感ほど当たるのだな、と眉をひそめる。
「昨日の事件」
「校長室に刑事っぽい二人組が」
　次に語られる内容に耐性をつけておく。
　自分にとっては慣れたモノだが、それを<自然|ありきたり>なものと流さないように、息を吸って言葉を待つ。
「だからさ―――戸山、昨日死んだらしいよ」
　頭痛を呑み込むように、緩やかに<視界|まぶた>を閉じた。
　戸山先生の噂はとくに広まらず、午前中の授業は何事もなく終了した。
　昼休みに入り、教室は雑然としている。
　ある者は食堂に、ある者は中庭に、ある者は教室に残って弁当を広げている。
　さて、俺はどこで昼食を摂ろうか。
　有彦は四時限目の終わりに<忽然|こつぜん>と姿を消していた。一足先に食堂に移動し、席を確保してくれているのだろう。
『食堂に行く』と確約はしていないが、好意を無下にするのも気が引ける。
　今日の昼食は食堂で摂ろう。
　食堂はほぼ満席の状態だった。
　注文待ちに10分の行列ができている。
　食券を握り締めて並んでいる生徒たちを眺めながら、俺と有彦はテーブルについた。
「それで有彦。特別ゲストって誰？」
「むう。それがまだおいでになさらぬ。食堂で待ち合わせだったんだが……ちょっと待っててくれ、様子を見てくる」
　有彦はカレーうどんを残し、食堂から走り去った。
「…………」
　こっちのメニューは<力|ちから>うどんだ。
　麺がのびる前に戻ってきてくれると嬉しいのだが。
「だめだ、先輩どっか行っちまったらしい」
「ゲストって三年生だったのか？」
「おう、面白い先輩でな。ここ数日アタックしてようやく<昼食|ランチ>ご一緒ツアーまでとりつけたんだよ。
　今日は他に約束が出来たとかで、学校中を走り回ってるらしい」
「忙しい人みたいだね、どうも」
「忙しいっていうか、全自動マッサージ機みたいな人だ」
　有彦は残念そうに割り箸を割る。
「ま、今回は仕方ねえわな。んじゃあいただきます、と」
「はい、いただきます」
　二人そろってうどんを食べ始める。
　しかし『全自動マッサージ機みたいな人』という比喩は面白い……ちょっと興味がわいてしまう。
　それは次の機会に尋ねるとして、
「で。本当のところ、どうなんだよ」
「どうって、なにが」
「今日おまえが朝から教室にいた理由。
　<一子|いちこ>さんが家にいるって嘘だろ。あの人、いま昼間の仕事に就いてるじゃんか」
　力うどんを食べながら、対面に座った有彦に問いかける。
　一子さんというのは有彦の姉さんであり、自分もお世話になっている謎の社会人だ。
「あー……そっか、バレるか。まあ、その、なんだ。
　遠野、今日から実家に戻るのか？」
「そうだけど。……その話したっけ？」
「してねえよ。オレは姉貴から聞いただけ。
　それで、だな。遠野がブルー入ってないか、ちょっと確認したくなってな」
「そうか。それで成果は？」
「早起きするほど面白い見せ物じゃあなかったぜ。ガッカリですよ、ガッカリ」
「ご期待に添えず申し訳ない。ホント、有彦はヒマ人だな」
「ヒマ人だからゴシップ好きなんですよ。遠野はさァ、小学生の時分から<余|よ><所|そ>に預けられてたんだろ？
　どんな理由かは知らないが、それから七年も経つんだ。なんで今になって<勘当|かんどう>してた息子を呼び戻すんだよ、おまえさんの父親は」
「勘当されていた訳じゃない。なんとなく屋敷から出るように言われただけだ」
「遠野くん、君ね。なんとなくで子供を家から追い出す家庭があったら、それは悲劇じゃなくて笑い話ですよ。
　ただしホラー一歩手前、寒すぎて笑えねえけどな！」
　あっはっは、と大げさに笑う有彦。どんな時でも深刻にならないのが有彦の長所である。
　実のところ、交通事故に巻きこまれて入院する以前から、父親とは折り合いが悪かった。
　遠野家は古くから続く名門で、その在り方は一般常識とかけ離れていた。
　子供心に覚えているのは巨大な洋館と、その洋館に合わせて時代が止まっていた家訓の重圧だ。
　遠野家は資産家でもあり、いくつかの会社の株主でもある。父である<遠野|とおの><槙久|まきひさ>は実業家としては平凡だったらしいが、祖父の代から受け継いだ資産は十分に力があり、会社経営は順風満帆だったという。
　時代錯誤な館。
　礼節と歴史を重んじる上流階級の暮らし。
　そんな屋敷の生活が、子供心にはつまらないモノに思えて仕方がなかったのだろう。
　だから“有間の家に預ける”と言われた時、さして抵抗もなく家を出ることを受け入れた。
　結果は、とても良好だったと思う。
　有間家の人たちとは上手くやっていけたし、義理の母親である啓子さんとも、義理の父親である<文臣|ふみおみ>さんとも本当の親子のように接してきた。
　もともと一般的な家庭に憧れていたところもあって、遠野志貴は有間の家で、本当の子供のように暮らしてきた。
　そこに後悔はなかったと思う。
　ただ一点。ひとつ年下の妹である<秋葉|あきは>を、遠野の屋敷に残してしまった、ということ以外は。
　秋葉は俺を……遠野志貴の事を<疎|うと>んでいるだろう。
　というか、恨まれるのが当然だ。
　あの、やたら広い屋敷にひとり残され、頭の固い父親に付きっきりで暮らしていたんだから。
　さっさと外に逃げ出してしまった<兄|おれ>を秋葉がどう思っているかなんて、容易に想像できる。
「そうだな。たしかに、なんとなくで家から追い出されたら、そりゃあ笑うしかない」
「だろう？　おまけに二度と<敷居|しきい>はまたぐなっていう決め台詞付きだ。世間さまではそーゆーのを勘当って言うんだ。
　今まで聞かなかったけどな。おまえ、なんで勘当されたんだ？」
「……………」
　……さあ。
　俺自身、その答えを持ち合わせていないのが困りものだ。
　よくない偶然が重なったのかもしれない。
　きっと、いろいろと間が悪かったんだろう。
「ま、話したくないなら、いい」
　有彦はどんぶりを両手で持ち、汁を飲み干していく。
　休み時間は短い。有彦の早食いを見習って、こちらも早急に昼食を平らげる事にした。
　―――教室に残って様子を見よう。
　なんというか、億劫で体を動かせない。
　それなりに空腹だし、食事の必要性は承知しているものの、食べたいものがないのでは仕方が無い。
　有彦が何か言っていた気もするが、それはそれ。
　今は深く椅子に座って、ゆっくりと体調を整えたい。
「あ。良かった、教室に残ってた」
「？」
　すぐ近くで聞き慣れない声がする。
　話しかけられたのかな、と後ろを振り返ると、
「乾くんと食堂にいってなかったんだね。
　あやうく捜しに行くところだった」
「ちょっと食欲なくて。
　それより何かあった、弓塚さん？　俺に声をかけるなんて、もしかしなくても一大事？」
　弓塚とはクラスメイトなだけで、とくに交友がある訳でもない。
　今朝のように有彦を交えての雑談ならともかく、面と向かって声をかけられる事は希だ。
　なので、俺なんかに頼らざるをえない、緊急の用件があると見るべきだろう。
「……ま、まあ、そう思うよね、これまでがこれまでだし……」
　弓塚は気まずそうに視線を逸らす。
　それも一時のことで、すぐに普段の明るい表情に戻っていた。
「羽場野先生が捜してたよ。お家のことで話があるって言ってたけど」
「？　家のことって、引っ越しについてかな」
　羽場野は学年主任の先生だ。
　戸山先生が不在なのでそちらに話がいったのかもしれない。
「ありがとう、すぐに行くよ。
　……けど、おかしいな。住所移転の手続きは昨日済ませたんだけど」
「―――――」
　休みたがっていた体に鞭を入れて立ち上がる。
　そんな俺を、弓塚は立ち去らずに見つめている。
「他にも連絡があったりする？」
「ふぇ！？　う、ううん、他にはもう、ほんとなんにもなくてですね！？」
「…………」
　弓塚も、どこか体調が悪いのだろうか。
　今更ではあるが、弓塚さつきはクラスの中心人物のひとりだ。
　性格は明るく、付き合いやすく、努力家で、自分より周りの空気を大事にしているのがよく分かる。
　男子のほとんどは弓塚を好ましく思っているし、女子の間でも悪い噂は流れていない。
　自然、弓塚のまわりにはいつも人だかりができる。
　社交性に乏しい俺とは正反対の、みんなに好かれるムードメーカーだ。
　二年になって同じクラスになったものの、今までかわした言葉は数えるほど。
　正直、俺の名前を覚えている事が不思議だった。
「遠野くん。その、ちょっと聞いていいかな」
「いいよ。なに」
「……こみいったコトならごめんね。
　いま引っ越しって言ったけど、遠野くん、どこかに引っ越しちゃうの？　もしかして、転校とか？」
「―――ああ」
　その質問を受けて、そうか、と合点がいった。
　弓塚の疑問はもっともであり、見当違いの質問だ。
「いや、住所が変わっただけ。引っ越し先も総耶だしね。そう大きな変化はないよ。
　耶高、気に入ってるし。転校とかナイナイ」
「そ、そうだよね！　うち、入試厳しかったし！　試験勉強、すっごく頑張りました！」
　そ、そうなんだ。
　弓塚のことだから、あまり無理をしない範囲の高校を希望したと思っていた。
「……あ。でも遠野くん、お家が変わるっていう事は、もしかして有間さんのお家から出ることになったの？」
「そうだよ。名残惜しいけど、いつまでもお世話になってるわけにもいかないし―――」
　いや、ちょっと待った。
　俺が有間の家でお世話になっていた事は、高校では有彦くらいしか知らない筈だ。
「ごめん。俺、弓塚さんに話した事あったっけ？」
「もちろん。遠野くんから聞いた話だもん、これ。ずいぶん前の話だけどね」
「―――そっか。それは、なんていうか―――」
　よっぽど他に話す事がなかったんだろう。
　いつの話かはいまいち思い出せないが、こんなふうに弓塚とふたりで話す時があったのなら、確かに話題に困って口を滑らせていたかも知れない。
「それじゃ俺はこれで。羽場野先生は職員室？」
「うん。10分までに来ないと減点だって。いつも思うけど、いったい何を減点するんだろうねー」
　嫌味でも皮肉でもなく、おかしそうに弓塚は笑う。
　釣られて、俺もつい笑ってしまった。
“減点するぞ”は学年主任さまの口癖だが、いまどき『素行が悪い』なんて理由で減らせる評価項目がある筈もない。
「ところで、お昼はどうするの？」
「職員室に行くついでに食堂に寄ってくよ。有彦がいるだろうし」
「そ、そっか。じゃあまたね、遠野くん」
　ぎこちなく手を振って、弓塚はなじみの女子グループの方へ去っていった。
　職員室で羽場野の粘着質な詰問……遠野の家と俺の関係について……にできるだけ簡潔に答えて、食堂に移動する。
　食堂は今日も盛況だった。満席とはいわずとも、だいたいのテーブルは利用者で埋まっている。
　ここを使うのは全校生徒の三分の一程度で、財布の残金が気になる生徒は安上がりな購買部に走るという。
　食券を握り締めて並んでいる生徒たちを眺めながら、俺と有彦はテーブルについた。
　放課後になった。
　すぐさま屋敷に帰る気になれず、ぼんやりと窓越しに校庭を眺める。
　教室は夕焼けのオレンジ色で染め上げられている。水彩の赤絵の具に濡れたような色は、少しだけ目に痛い。
　朱色は苦手だ。
　眼球の奥に染みこんできそうで吐き気がする。
　……俺はどうも、血を連想させる物に弱い。
　正確には血に弱い体質になってしまった。
　七年前、遠野志貴は死ぬような目に遭った。
　なんでも、ものすごい大事故が起きて、その場に居合わせていた俺は建物の倒壊に巻きこまれたという。
　本来なら即死級の怪我で、周りにいた誰もが<諦|あきら>めてしまうほどの、ひどい有様だったらしい。
　しかし医師の対応が早かった事と、傷が一カ所に集中していた事が幸いし、奇跡的に命を取り留めたのだそうだ。
　……こうして思い返すと他人事のようで、憶測が多いのは仕方がない。
　ある日、とつぜん事故に巻きこまれ、胸の真ん中をドン、と貫かれ、そのまま意識を失った。
　強制的に電源を落とされた機械のようなものだ。
　あとはただ苦しくて寒いだけの記憶しかなく、気がつけば病院のベッドで目を覚ましていた。
　今でもその時の傷痕が残っている。
　聞いた話によると、倒れた時に背中を強打したばかりか、ガラスの破片が胸に突き刺さってしまったらしい。
　おかげで胸の真ん中と背中には火傷のような痕がある。
　傷がふさがった後にはじめて自分の体を直視して、あまりのむごさに意識を失ったほどだ。
　以来、俺は頻繁に貧血を起こしては倒れこむようになり、周りに迷惑をかけまくった。
　親父……遠野槙久が遠野家の跡取りとして力不足だ、と俺を有間の家に預けたのは、それが理由なのだろう。
「……胸の傷、か」
　……こみあげてきた吐き気を堪える。
　眼球を針で刺されるような痛みを、息を長く吐いてやり過ごす。
　制服の下に隠れた、胸の真ん中にある死の跡。
　その事故の後から、俺は『線』が見える体質になってしまった。
　先生のくれた眼鏡のおかげでまともに暮らしてはいられるけれど、あの人に出会えなかったらとうの昔に俺の頭はイカレていたと思う。
　今朝の別れ際、啓子さんは遠野の人間は普通とは違う、なんて事を心配していた。
　それは不要な心配だ。
　なぜなら―――
　異常という話なら、こちらの方こそマトモではないのだから。
「………………」
　ズレかけた眼鏡をかけ直して<鞄|かばん>を手に取る。
　いつまでも教室に残っている訳にもいかない。
　俺は―――
　……もう少しだけ時間を潰そう。
　急いで学校を出る必要はない。
　一分一秒の単位で急いだところで、事態が好転する話でもないのだし。
　目的不在のまま学校を散策する。
　校舎内も、校庭も、生徒の姿はほぼ見られなかった。
　知った顔とすれ違う事がないのは幸いだが、本来人気のあるべき場所がここまで静まり返っているのは、若干の気味の悪さを感じる。
「……そういえば」
　人気のないグラウンドを眺めていたら、中学生時代のちょっとしたエピソードを思い出した。
　今にも雪が降り出しそうな冬の日で、誰もいない校庭を横切って帰宅しようとした時の事だ。
　誰もいない筈の倉庫の方で物音がして、何事かと立ち寄った時―――
「こんにちは。キミ、二年生？
　申し訳ないのだけど、放課後になったら校庭には立ち入らないでもらえるかな？」
　見知らぬ上級生に声をかけられた。
　いつのまにかグラウンドに足を踏み入れていたようだ。
「すみません、ちょっと散歩のつもりでした。以後、気をつけます」
　不注意を詫びてグラウンドから離れる。
「アナタは帰らないんですか？」
「……いえ、もう帰ります。ご心配、ありがとうございます」
　上級生に一礼して校庭から離れる。
　踏ん切りをつける、いい切っ掛けになった。
　これ以上学校に残っていても不審者になるだけだ。
　教室に戻って鞄を回収して、今度こそ“本当の家”に戻るとしよう―――。
　これまでとは違う帰り道を歩く。
　一般住宅が建ち並ぶ区画から、広々とした高級住宅地に入っていく。
　……段々と、遠野の屋敷へ近付いていく。
　まわりの風景は知らない風景ではなかった。
　七年前―――10歳まで遠野の屋敷で暮らしていた記憶は、うろ覚えながら、この風景を懐かしいとさえ感じている。
　少しだけ複雑な気持ちだ。
　この帰り道は懐かしく、新鮮でもある。
　長い坂道を上る。
　周囲から家屋が途絶えていく。
　―――鼻孔をくすぐる緑の匂い。
　都市のただ中にありながら、近代化を拒絶する空気を感じる。
　ここから先はほぼ遠野の土地だ。
　遠野志貴が10歳まで暮らしていた屋敷。
　そこにあるのは古い思い出と、うまくいかなかった肉親だ。
　……とはいっても、いま屋敷に残っている肉親はたったひとりしかいない。
　自分を嫌っていた父親―――遠野家の当主である遠野槙久は、先日、他界した。
　母親は秋葉が生まれた年に病死している。
　なので、遠野の人間は自分と、妹である秋葉の二人きりになってしまった。
　本来なら長男である自分―――遠野志貴が跡取りになるのだが、俺にそんな権利はない。
　遠野家の跡取りになる、という事は、がんじがらめの教育を受けるという事だ。
　それがイヤで自由に過ごしていた俺は、<槙久|ちちおや>から何度小言を言われたか分からない。
　そんな折、俺は事故に巻きこまれて身体的欠陥を負い、槙久はこれ幸いと俺を切り捨てた。
　曰く、“たとえ長男であろうと、いつ死ぬか分からない軟弱者を後継者にはできない”とのこと。
　俺は<槙久|ちちおや>の予想を裏切ってなんとか回復したけれど、その頃には妹の秋葉が跡取りに決められていた。
　それまで『遠野の娘』として育てられていた秋葉は、俺が脱落した事により、いっそう厳しく育てられる事になった。
　10歳の頃まで―――事故に巻きこまれるまで屋敷の庭で一緒に遊んだ秋葉とは、それ以降まったく会っていない。
　あれから七年。
　遠野の屋敷はどう変わったのだろう。
　あと数分であの屋敷に帰ってしまう。
　いま、<殊更|ことさら>に思いだす事があるとすれば、それは―――
　父親である遠野槙久との出来事を思い返す。
　……とはいっても、俺には父親と何かをしたような思い出はない。
　槙久は厳格な父であったと同時に、無口で、あまり感情を顔に出さない人間だった。
　外に出てはいけない、街に出てはいけない、人には生まれついての身分差がある、<尊|とうと>い血筋を<護|まも>る私たちと、他の人間を同じに見てはいけない―――
　それが槙久の、ひいては遠野家の決まりだった。
　俺はその決まりに反発した。
　父の教えは間違いだと感じてしまった。
　それは理屈の間違いではなく、説得力の無さに起因する。
　……本当に、自分でもどうかと思うのだが、子供心にそれは<も|・><う|・><時|・><代|・><じ|・><ゃ|・><な|・><い|・>、と感じたのだ。
　槙久の言葉に異を唱えていたのは俺だけではなかったものの、面と向かって逆らえるのは俺しかいなかった。
　結果、俺は言いつけを破って屋敷から頻繁に抜け出すようになり、あの事故に巻きこまれた。
“屋敷の外はあまりに<醜|みにく>い。おまえたちには毒になる”
　皮肉な話だが。
　<槙久|おやじ>のその口癖だけは、俺にかぎって正しく機能した。
　病院で目を覚ました後、槙久は一度も見舞いにこなかった。
　退院し、屋敷に戻ったその日に“有間の家に行け”と命じられたのが最後の記憶だ。
　その槙久も、もういない。
　親の死に目に会えなかった事に何の感慨も浮かばない事が、俺と槙久の関係を表しているように思う。
　……やはり、妹の秋葉の事だ。
　有間家に預けられた当初、秋葉は何度か訪ねて来てくれたらしい。
　あいにくと病院通いの毎日で会う事はできず、秋葉が全寮制の女学院に進学してからは、若干、手紙のやりとりをしたぐらいだった。
　自分は秋葉と違い、本家から外れた人間だ。
　だからこうして自由気ままな生活を送れている。
　ここ七年ばかり、妹との接点は皆無といってよかった。
　正直なところ、いまさら遠野の家に戻りたいとは思ってはいなかった。
　ただ、遠野の屋敷には秋葉がいる。
　子供の頃。
　秋葉はおとなしくて、いつも何かを我慢しているように怯えていて、頼りなげに俺の後についてきた。
　長い黒髪と豪華な洋服のせいか、秋葉は童話に出てくる囚われの姫のように、<儚|はかな>げな少女だった。
　いまさら兄貴ぶる資格はないと分かっていても、この七年間、秋葉の将来を案じていた。
　だから―――槙久の訃報を聞いてまっさきに心配したのは秋葉の事だ。
　あの広い屋敷で父親をなくし、ひとりきりになった妹。
　なにより、遠野家の義務をあいつに押しつけて勝手気侭に暮らしていた自分に負い目もある。
　今回の話を了承して屋敷に戻る事にしたのは、そんな秋葉への謝罪の意味もあったのかもしれない。
　そういえば、遠野邸には槙久と秋葉以外にも、多くの人が住んでいた。
　本館には遠野の親戚筋が逗留していたし、
　別館には使用人たちが住み込みで働いていた。
　七年前の事なのでうろ覚えではあるが、時には俺と秋葉だけではなく、他の子供と遊んだ記憶がある。
　あれは、確か―――
　……だめだ、よく思い出せない。
　当時の遠野邸は人の出入りが多かった。啓子さんからの又聞きではあるが、七年前のあの頃は槙久が精力的に事業拡大をしていた頃だったらしい。
　日に何人も見知らぬ人々が来ていたのだから、いちいち覚えている方がおかしい、とも言える。
「……そうだった。それより、今は親父の事だ」
　正門は固く閉ざされている。
　子供の頃は『とにかく広い家』ぐらいにしか思っていなかったが、一般家庭である有間家で暮らした後だと、改めてどれだけ巨大なのか実感できる。
　街を一望する高台は、そのすべてが遠野家が管理する土地だ。
　敷地はうちの高校より広く、背後に広がる森まで含めば、その三倍にもなるだろう。
　敷地は長い塀と木々で囲われ、中の様子を窺う事はできない。
　入り口である正門は来るものを拒むように閉ざされている。
　乗用車を通す門の横には、人間用の出入り口がある。
　しばしためらった後、呼び鈴と思われるボタンを押した。
　普通のインターフォンのように、押した側に聞かせる呼び出し音はない。
　数秒ほど待っていると、“お入りください”という機械音と共に、出入り口のロックが解除された。
「……ここのドア、全自動になったんだ。昔は守衛さんがいたんだけどな……」
　重い扉を開けて敷地内に入る。石の門を抜ける。
　背後で、カシュ、と小気味よい音をたて、扉は固く<施錠|ロック>された。
　正門を過ぎると、なだらかなスロープの道が奥へ奥へと伸びていた。
　高い木々に囲まれた道はトンネルを思わせる。
　道は東に向かってまっすぐ伸び、40メートルほどで北側へ直角に折れている。
「――――――」
　一歩進むごと、<彩|いろ>づくように記憶が蘇る。
　この道を知っている。
　この道を幾度となく駆け抜けた。
　あと少し。
　あの曲がり角に着いて、足を北側―――左側に向ければ、そこには、
　白亜の壁を思わせる、遠野の屋敷が<聳|そび>えている。
　ああ、と。感嘆とも、<諦観|ていかん>とも取れるため息が漏れた。
　屋敷はあの頃と何も変わっていない。
　父の話では戦後に大きく改修をしたものの、基本的な構造は祖父のそのまた祖父の代から引き継いだものだという。
　何百年以上も前からこの土地に在り続けた権力者の城。
　槙久……いや、遠野に連なる人々にとって、この屋敷は聖域そのものだ。
　年に一度の親戚会議では、屋敷の一角を借り受けるため、多くの大人たちが父に取り入ろうとしていたのを覚えている。
　彼らとて会社を経営する成功者で、それぞれの豪邸を持っていただろうに、どうしてかここに住む事に執着していた。
　彼らにとって、この土地に住む事が<箔|はく>のようなものだったのだろう。
　……ほんと、馬鹿げている。特権階級という響きにどうしても馴染めない自分にとっては“豪勢な屋敷”にすぎないのだが。
「……………さて」
　ここまで来たら引き返す事はできない。
　両開きの扉の横には、不釣り合いな呼び鈴がある。
　緊張を振り払って呼び鈴を押す。
　ピンポーン、といった親しみのある音はしない。
　重苦しい静寂が続くこと数秒。
　扉の向こうから、ぱたぱた、という慌ただしい足音が聞こえてきた。
「はい、お待ち申し上げておりました」
　重そうな見た目とは裏腹に、扉は軽やかに開かれた。
　窓から差しこむ斜陽に眼を細める。
　こうなると覚悟していたのに、息を呑んで広大なロビーを見渡してしまった。
　……訪れる者を圧倒する建築美。
　どこか違う国、違う時代にタイムスリップしてしまった錯覚に襲われる。屋敷の内装はあまりにも時代がかっていて、その空気さえ違っていた。
　それでも、ここは見覚えのある遠野邸のロビーだ。
　立ち尽くす俺の前には、出迎えに来てくれた、これまた時代錯誤な服装の少女がひとり。
「よかった。あんまりにも遅いものですから、お迷いになられているのではと心配していたんですよ。
　日が落ちてもいらっしゃらないようでしたら、こちらからお迎えに向かうところでした」
　着物にエプロンを付けた少女はニコニコと笑っている。
「あ、いや―――」
　こちらはというと、予想外の展開に面食らってしまって、まともな言葉が口からでない。
　てっきり、出迎えてくれるのは槙久の秘書でもあった、いかつい顔の執事さんと思いこんでいた。
「？」
　戸惑う俺の態度を不審に思ったのか、少女はかすかに首をかしげた。
「志貴さま、ですよね？」
「は、はい。さまっていうのは、その、余計だけど」
「ですよね？　もう、脅かさないでください。
　わたし、また間違えてしまったのかと恐くなってしまったじゃないですか」
　エプロンの女の子は“めっ”と、母親が子供をしかるような仕草で、人差し指を唇に押し当てた。
　どうやら本気で心配し、怒っているらしい。それでも微笑は絶やさず、少女は温かな雰囲気を崩さない。
　……着物にエプロン。
　こうやって出迎えにきてくれて、俺のことを“さま”付けで呼ぶ。
　では、この子は――――
「すみません。もしかして、ここのお手伝いさんですか？」
「――――――」
　俺の質問に少女は微笑みだけで答えた。
「さ、お疲れでしょう？
　遠慮せずにあがってくださいな。秋葉さまがお手すきになるまで、居間でおくつろぎください」
　少女は俺を先導するように、ゆったりとした動作で歩き出した。
　ロビーの東側、大階段の横にある廊下に向かって。
　たしか、あの廊下に入ってすぐに居間があった筈だ。
　俺は―――
　おとなしく付いていこう。
　この屋敷で暮らしていたのは七年も前、それも子供の頃だ。ところどころ覚えているとはいえ、記憶はあまりにも曖昧で、勝手が分からない。
　一度だけ深呼吸をして、懐かしの我が家に踏み入った。
　……と。
「あ。いけません、わたしったら順番を間違えてました」
　俺の緊張を知ってか知らでか、少女はくるりと振り返ると丁寧にお辞儀をする。
「お帰りなさい志貴さま。
　どうぞ、今日からよろしくお願いします」
　……少女の挨拶は、本当に華のような笑顔だった。
　それに何ひとつ気のきいた言葉を返せず、おずおずと彼女の後についていった。
　少女を呼び止めて名前を訊く事にした。
　お手伝いさん、と呼びかけるのは申し訳ない気がしたからだ。
「すみません、名前を訊いていいですか？
　来たばかりで、今のうちの事情がよく掴めなくて」
　声をかける。
　着物姿の少女は驚いたように目を見張った後、
「<琥珀|こはく>と申します。このお屋敷で、遠野家のご当主様に仕えさせていただいております」
　微笑みながら少女―――琥珀さんは一礼した。
　蕾から開く花のように、しっとりした仕草だった。
　その前に、もう少し館内を見て回りたくなった。
　我が家だとは言え、これだけの大豪邸を見て気持ちが浮ついているようだ。
「あの。居間に行く前に、ちょっと他の部屋を見て回っていいですか？　なんていうか、懐かしくて」
　たしか、西棟の二階には遊戯室があったとか……。
「まあ。覚えていらっしゃるのですね」
「ですが、申し訳ありません。
　秋葉さまがご当主になられてから、遊戯室や図書室、サロンといった大部屋は施錠されております。
　長男であらせられる志貴さまであっても、秋葉さまの許可なく使用する事はできません」
「あー……そうなんだ。それは残念」
　ぴしゃりと断られて、立つ瀬がなく視線を泳がす。
「やっぱり、そう自由には使わせてもらえないですよね」
「いいえ。ご挨拶がお済みになれば、すぐにお許しいただけますよ、きっと。
　ああ、でも―――」
「鍵のかかっている部屋に入る時は、わたしどもに一言かけていただけると助かります。
　遠野邸は外だけでなく、内のセキュリティも厳しいので。許可されていない部屋に入ってしまった場合、身の安全は保証できません」
「保証できないって、また大げさな。矢でも飛んでくるんですか？」
「いいえ。
　矢より恐ろしい、規則に厳しい当主さまのカミナリが」
　使用人さんはふふ、と冗談のように笑うと、改めて俺に廊下の先を促した。
　まずは居間で休んでほしい、という気持ちの表れだろう。
「お帰りなさい志貴さま。
　どうぞ、今日からよろしくお願いします」
　俺はその丁寧な挨拶に気のきいた言葉も返せず、おずおずと彼女の後についていった。
　少女に案内されて居間へ移動する。
　七年ぶりの居間は、初めて見るような気がするほど、<豪華さ|スケール>が違っていた。
　有間の家に慣れすぎたのか、七年前から<水準|グレード>があがったのか。
　とにかく他人の家のようで落ち着かない。
　きょろきょろと居間の様子を見回してしまう。
「ふふ。借りてきた猫ちゃんみたいですね。
　お気持ちは分かりますが、どうぞ楽にしてくださいまし。ここは志貴さまの家なんですから」
「そ、そうですよね」
　あわててソファーに腰を下ろす。
　自分の家に帰ってきただけなのに、あらゆる事に圧倒されているとか、情けないにも程がある。
　着物の少女は居間の隅に置かれたワゴンのそばに移動し、湯呑みにお茶を淹れると、お盆に載せて持ってきてくれた。
「どうぞ、粗茶ですが」
「あ、ありがとうございます」
　にっこりとした笑顔で丁寧に接待されると、どうしても恐縮してしまう。
　有間の家での生活云々ではなく、きっと根が小市民なのだ、俺は。
「秋葉さまに声をおかけしてきますので、しばらくお待ちください。
そうですね……おそらく10分ほどかかりますから、それまでお屋敷の中を見て回るのもよろしいかと」
「いいんですか、勝手に歩き回って」
「何を仰いますやら！　ここは志貴さまのお家です、勝手も何もございません！
　……
あ、いえ、でも二階はちょっといけませんね、秋葉さまがいらっしゃいますから」
「一階でしたらお好きにご<観覧|かんらん>ください。
　志貴さまにとっては七年ぶりのお屋敷ですもの。懐かしくて胸が弾んでいますでしょう？」
　いたずらに微笑みながら、
「それでは」
とお辞儀をして、お手伝いさんと思われる少女は退室していった。
　いたずらに微笑みながら、
「それでは」
とお辞儀をして、琥珀さんは退室していった。
「…………まいったな」
　贅沢に作られた<居間|くうかん>が、呟きをいっそう虚しく残響させる。
　ここで緊張したまま時間を潰すか、
　屋敷の中を散歩してみるか。
　俺は―――
　……いや、ここで待っていよう。
　帰ってきたばかりで歩き回るのはさすがに落ち着きがない。
　何をするにも、まずは秋葉に挨拶をしてからだ。
　今の遠野家の当主はあいつなんだから。
　ソファーに座ったまま時間を過ごす。
　窓から見える中庭の様子は、記憶にあるものと一致している。
　テニスコート四つ分はありそうな中庭と、さらにその奥にある、もう広さを測る事さえ馬鹿らしい庭園。
　庭園の向こうにはさらに林があって、たしか―――
「おや。戻る前に立ち寄ったのだが、先客がいたとはね」
　突然の声に振り返って、息を呑んだ。
　ロビーに通じる廊下側の扉の前には、
　あまりにも奇怪な、黒一色の人物が立っていた。
「こんにちは志貴君。遠野邸にようこそ……
というのは間違いか。君の場合、お帰り、と言うのが正しかった」
　……声からして男性、おそらく三十代……は慣れた足取りで居間に入ってくる。
　黒一色というのは比喩でもなんでもない。
　どのような事情なのか、その手ばかりか顔までぐるりと、全身が黒い包帯で覆われていた。
　それこそ、推理小説に出てくる怪人のように。
「……………あの、貴方は？」
「ん？　覚えていないのか？
　ああ、そうか。私だよ、<斎木|さいき><業人|ごうと>だ。
　君が子供の頃に何度か顔を合わせた事はあったが、このなりではね。覚えていても一致はしないだろう」
　斎木……？
　遠野の分家に、そういった名の家はあっただろうか。
　いや、それ以前に―――この人物は、なんというか―――
「かまわんよ、奇異の視線には慣れている。
　私は事故で顔を焼いてしまってね。ずいぶん前から、こうでもしないと出歩けない体になっている。日の光は特に厳しい。
　秋葉にも<煙|けむ>たがられているが、こればかりは仕方のない事だ。彼女にも責任の一端はある事だしね」
　斎木業人はワゴンに歩み寄り、ティーセットを使ってお茶を淹れ、口に運んだ。
　大げさな仕草だったがキザったらしい印象はない。
　生まれついての品格……優雅さを感じさせる仕草だった。
「しかし。まあ、よくも帰ってこられたものだ」
「……え？」
「君の事だよ志貴君。槙久の言いつけを破って屋敷を抜け出した結果、くだらない事故に巻きこまれて脱落した」
「脱落。そう、脱落だ。君はご両親からの投資を投げ捨て、自らの義務を放棄した脱落者だ。にも拘わらずこうして屋敷に戻り、秋葉の兄として振る舞おうとしている。
　そんな自分が恥ずかしいと思わないのかね？」
「――――――」
　思わず立ち上がろうとした足を押しとどめて、ソファーに深く背中を預けた。
　斎木業人の目にはあきらかな侮蔑と挑発がこもっていたが、ここで事を荒立てても仕方がない。だいいち、彼の発言に間違いはない。
「おや。反論はないのかな？」
「ないですよ。義務を放棄したのは事実ですから。
　でも、脱落者とか投資とか、家族の話にそんな言葉を使う貴方こそ、恥ずかしいとは思わないんですか？」
「家族の話だからこそ、的確な言葉を選んだんだがね。
　養育は一族の将来への投資だ。<市井|しせい>の人間はともかく、選ばれた血筋、尊い家系において、個人の自由は存在しない。
　自由……いや、自意識といってもいいな。それらは成人した後、一族を背負えるようになって、はじめて獲得できる権利の筈だ」
「君は遠野の子でありながら、それを理解していなかった。秋葉とは似ても似つかぬ三流だ。まあ、一度地に落ちていながら帰ってくる厚顔さだけは、一流と言えなくもないがね」
「――――――」
「そう睨むな志貴君。今のはただの客観論だよ。私個人の評価じゃあない。
　誤解させてしまったようだが、私は君の帰還に反対はしていない。どちらかというと賛成派だし、そもそも遠野家現当主の決定でもある。よそ者である私に、どうこう言える事でもないだろう？」
　よそ者……？
　それじゃあ分家の人間じゃないのか、この男は。
「斎木家は祖父の代から遠野家とは対等の付き合いをしている。現代風に言うとビジネスパートナーというやつだ。
　今日は商談に来ただけでね。長引いてしまったが、色よい返事をもらえて上機嫌で帰るところだったのさ。
　ああ、この陰気な姿でせっかくの帰郷に水を差すのも忍びない。今日はこのあたりで失礼するよ」
　黒い包帯の男……斎木業人は口元に皮肉げな笑みを浮かべたまま、居間から退室していった。
「……………」
　斎木に言われた“脱落者”という言葉に唇を噛む。
　それはアイツの言葉通り、この上なく的確に、この屋敷における遠野志貴の立場を表していた。
「失礼いたします」
　本当にきっかり10分後、彼女は戻ってきた。
「……？　志貴さま、何かお気に障る事でもありました？」
　斎木業人の言葉で沈んでいた事に気づかれたようだ。
「いえ、なんでもないんです。ちょっと気圧されているだけで。お茶、ありがとうございました。美味しかったです」
「まあ。お上手ですね。
　こちらこそ、お褒めいただきありがとうございます」
　はにかむような笑顔を向けられて、こっちも気持ちが温かくなる。
「と、それより本題ですね。
　お待たせいたしました。秋葉さまのご用事がお済みになりましたので、執務室においでください」
　ロビー中央の大階段から二階に向かう。
　執務室……それは遠野家の中心と同義だ。
　子供の頃は入れなかった、槙久の当主としての私室。
　歴代の遠野家当主が使った部屋。
　今はそこで、妹である秋葉が待っている―――
　10分……10分か。
　それだけあれば屋敷を見て回れる。
　居間のある東棟、その一階廊下を散歩する事ぐらいはできる。
「ここにいても緊張するだけだしな……」
　ソファーから腰を上げる。
　記憶が確かなら、西棟にはビリヤード台やらダーツやらが置かれた、遊戯室があった筈だ。
「おや。
戻る前に立ち寄ったのだが、先客がいたとはね」
　ロビーに足を踏み入れた矢先、階段から声をかけられた。
　振り返った先、二階に通じる大階段には、
　あまりにも奇怪な、黒一色の人物の姿があった。
「こんにちは志貴君。遠野邸にようこそ……
というのは間違いか。君の場合、お帰り、と言うのが正しかった」
　……声からして男性、おそらく三十代……は落ち着いた足取りでロビーに下りてくる。
　黒一色というのは比喩でもなんでもない。
　どのような事情なのか、その手ばかりか顔までぐるりと、全身が黒い包帯で覆われていた。
　それこそ、推理小説に出てくる怪人のように。
「……………あの、貴方は？」
「ん？　覚えていないのか？
　ああ、そうか。私だよ、<斎木|さいき><業人|ごうと>だ。
　君が子供の頃に何度か顔を合わせた事はあったが、このなりではね。覚えていても一致はしないだろう」
　斎木……？
　遠野の分家に、そういった名の家はあっただろうか。
　いや、それ以前に―――この人物は、なんというか―――
「かまわんよ、奇異の視線には慣れている。
　私は事故で顔を焼いてしまってね。ずいぶん前から、こうでもしないと出歩けない体になっている。日の光は特に厳しい。
　秋葉にも<煙|けむ>たがられているが、こればかりは仕方のない事だ。彼女にも責任の一端はある事だしね」
　斎木業人は自嘲するような笑いと共に、かるく左手を目線の上まで持ち上げた。
　天窓から差し込む夕日すら疎ましい、と言うかのように。
「しかし。まあ、よくも帰ってこられたものだ」
「……え？」
「君の事だよ志貴君。槙久の言いつけを破って屋敷を抜け出した結果、くだらない事故に巻きこまれて脱落した」
「脱落。そう、脱落だ。君はご両親からの投資を投げ捨て、自らの義務を放棄した脱落者だ。にも拘わらずこうして屋敷に戻り、秋葉の兄として振る舞おうとしている。
　そんな自分が恥ずかしいと思わないのかね？」
「――――――」
　つい、“は？”と問い返してしまいそうになった気持ちを抑える。
　斎木業人の目にはあきらかな侮蔑と挑発がこもっていたが、ここで事を荒立てても仕方がない。だいいち、彼の発言に間違いはない。
「おや。反論はないのかな？」
「ないですよ。義務を放棄したのは事実ですから。
　でも、脱落者とか投資とか、家族の話にそんな言葉を使う貴方こそ、恥ずかしいとは思わないんですか？」
「家族の話だからこそ、的確な言葉を選んだのだがね。
　養育は一族の将来への投資だ。<市井|しせい>の人間はともかく、選ばれた血筋、尊い家系において、個人の自由は存在しない。
　自由……いや、自意識といってもいいな。それらは成人した後、一族を背負えるようになって、はじめて獲得できる権利の筈だ」
「君は遠野の子でありながら、それを理解していなかった。秋葉とは似ても似つかぬ三流だ。まあ、一度地に落ちていながら帰ってくる厚顔さだけは、一流と言えなくもないがね」
「――――――」
「そう睨むな志貴君。今のはただの客観論だよ。私個人の評価じゃあない。
　誤解させてしまったようだが、私は君の帰還に反対はしていない。どちらかというと賛成派だし、そもそも遠野家現当主の決定でもある。よそ者である私に、どうこう言える事でもないだろう？」
　よそ者……？
　それじゃあ分家の人間じゃないのか、この男は。
「斎木家は祖父の代から遠野家とは対等の付き合いをしている。現代風に言うとビジネスパートナーというやつだ。
　今日は商談に来ただけでね。長引いてしまったが、色よい返事をもらえて上機嫌で帰るところだったのさ。
　ああ、この陰気な姿でせっかくの帰郷に水を差すのも忍びない。今日はこのあたりで失礼するよ」
　黒い包帯の男……斎木業人は口元に皮肉げな笑みを浮かべたまま俺の横を通りすぎ、玄関口へと去って行った。
「……………」
　斎木に言われた“脱落者”という言葉に唇を噛む。
　それはアイツの言葉通り、この上なく的確に、この屋敷における遠野志貴の立場を表していた。
　……なんにせよ、居間に戻って気持ちを落ち着けよう。
　遠野邸の散策は後回しだ。
　七年ぶりに肉親と再会するというのに、こんな苛だった気持ちじゃ秋葉に申し訳がない。
「失礼いたします」
　本当にきっかり10分後、彼女は戻ってきた。
「……？　志貴さま、何かお気に障る事でもありました？」
　斎木業人の言葉で沈んでいた事に気づかれたようだ。
「いえ、なんでもないんです。ちょっと気圧されているだけで。お茶、ありがとうございました。美味しかったです」
「まあ。お上手ですね。
　こちらこそ、お褒めいただきありがとうございます」
　はにかむような笑顔を向けられて、こっちも気持ちが温かくなる。
「と、それより本題ですね。
　お待たせいたしました。秋葉さまのご用事がお済みになりましたので、執務室においでください」
　ロビー中央の大階段から二階に向かう。
　執務室……それは遠野家の中心と同義だ。
　子供の頃は入れなかった、槙久の当主としての私室。
　歴代の遠野家当主が使った部屋。
　今はそこで、妹である秋葉が待っている―――
　そこは白を基調にした居間とは対照的な、赤を基調とした空間だった。
　豪奢なカーテン。一点の染みもない深紅の絨毯。
　重苦しい空気は格調高く、長い歴史を否応なしに感じさせる。
　これが執務室……かつては遠野槙久が、そして今は遠野秋葉が座る、遠野家当主の部屋だった。
「志貴さまをお連れしました」
「ごくろうさま。仕事に戻っていいわよ、<琥珀|こはく>」
「はい。それでは失礼いたしますね」
　お手伝いさんは琥珀という名前らしい。
　琥珀さんは俺にも小さくおじぎをして退室した。
　残されたのは自分と―――見覚えのない、二人の少女だけ。
　琥珀さんは俺にも小さくおじぎをして退室した。
　残されたのは自分と―――見覚えのない、二人の少女だけ。
「お久しぶりですね、兄さん」
　長い黒髪の少女は凛とした眼差しで、そんな意味合いの言葉を口にした。
「――――――」
　頭の中が真っ白だ。
　思考は完全に停止してしまった。
　ろくに挨拶もできず、ああ、とうなずく事しかできない。
　自分の情けなさに落胆するが、それも仕方ないと思う。
　七年ぶりに見た秋葉は、俺の記憶からかけ離れた姿だった。
「……兄さん？　何か、この部屋に不審な点でも？」
　挙動不審な来訪者を冷静に観察するように、黒髪の少女はかすかに目を細める。
「あ――――いや」
　まだ頭が切り替わらず、間の抜けた言葉しか返せない。
　こっちは目前の少女を秋葉と認識するため頭をフル回転させているのに、秋葉の方はとっくに俺を兄と認めているようだ。
「―――はあ。話には聞いていましたが、本当に体調が不安定なんですね。時間は無駄にしますが、私からの話の前にお休みになられますか？」
　……そして。
　秋葉の言葉は、なんとなく刺があるような気がする。
「い、いや、体調はそう悪くない。秋葉があんまりにも変わってたんで、びっくりしたというか」
「……。七年も経てば変わります。ただでさえ私たちは成長期だったんですから。それとも、いつまでも以前のままだと思っていたんですか、兄さんは」
「―――いや、それは―――」
　静かな迫力に圧されて、つい言い淀んでしまった。
　……というか、今になって反省する。
　俺は秋葉の“<現|い><在|ま>”をリアルに想像していなかった。
　いつまでも子供のままの、兄貴として都合のいい思い出から先を考えていなかったのだ。
　七年間の月日が秋葉をどう成長させたのか。それを本人を目の前にして思い知るなんて、失礼にも程がある。
「……面目ない。正直、考えが足りなかった。
　でも、それにしたって秋葉は変わったよ。昔より格段に美人になった」
　素直な感想がもれる。
「ありがとうございます。
　兄さんは以前とあまり変わってはいませんね」
　瞳を閉じたまま、秋葉は冷たく言い切った。
「………………」
　……まあ、それなりに覚悟はしていたけど。
　やはり、秋葉は遠野家を出た俺の事を、よく思ってはいないようだ。
「………………」
「――――――」
　ほんの数秒の、互いの出方を探るような沈黙。
　俺は再会した妹にかける気軽な挨拶が浮かばず、
　秋葉はそんな俺を<余所者|よそもの>―――実際、秋葉にとってはもう余所者なんだろうが―――のように観察している。
「……まあいいでしょう。
　体調が良いのなら話を済ませましょう。
　今回の移転について、詳しい事情は聞いていますか？」
「いや、詳しい事情は何も。いいから屋敷に帰ってこいって話だけだ。<槙久|おやじ>が亡くなった事は新聞で知ったけど」
　企業グループのトップに立っていた人物が亡くなれば、それぐらい経済新聞で取りあげられる。
　親戚から報せはなくても、勘当された息子はニュースサイトで親の不幸を知れる世の中だ。
　遠野槙久の訃報は彼の葬式が終わった後に、他人事のように有間家に届けられた。
「……申し訳ありません。お父様の事を兄さんに報せなかったのはこちらの失策でした」
　秋葉は静かに頭をさげた。
　流れる黒髪が美しい……って、見惚れている場合じゃない。今のは俺の言い方が悪かった。
「そこは気にしなくていいんじゃないかな。
　俺が行ったって死人が生き返るわけでもないんだ。逆に、親戚筋に会わなくて助かった」
　勘当された息子は色々と立場が複雑なのだ。
「……そうですか。
　そう言っていただけると、私も少しは気が楽になります」
　こちらこそ、話の早い妹で助かる。
　葬式というものは故人を忘れられない人間が、その感情を断ち切るために行なう儀式だ。
　とうの昔に関わりを断ってきた息子と父親。
　槙久の何に別れを告げるのか一つも考えつかない俺が、故人を見送る権利も義務もない。
「でも、そうなると誰が俺を呼び戻したんだ？
　親父の<遺言|ゆいごん>ってわけでもないんだろ？」
「兄さんをこちらに呼び戻したのは私の決定です。
　いつまでも遠野の長男が有間の家に預けられているのはおかしいでしょう？　どんな欠陥があろうと、貴方は遠野の人間なのですから」
「……………」
　欠陥、という言葉を自然に受け止める。
　その言葉はさんざん親父に言われたものだ。
　今さら言われたところで不満も反感も覚えないし、その診断はまったく正しい。
「お父様……遠野槙久が亡くなった以上、遠野の血筋は私と兄さんだけです。
　血は守られなければいけません。
　お父様がどのような考えで兄さんを有間の家に預けたかは知りませんが、そのお父様もすでに他界なさった身。
　理由が定かではない以上、遠野志貴をこちらで監督するのは家族として当然の事でしょう」
　静かだが、有無を言わせない秋葉の言葉。
　それは俺の不満も抗議もいっさい聞かないと、あらかじめ宣言するかのようだった。
「……監督する、か。じゃあもし遠野の家に帰る事を拒否してたら、どうなっていたんだ？」
「そんな自由は貴方にはありません。有間の人間にも本家からの決定を拒む権利はありません。
　私も兄さんも、遠野家に育てられた者です。少なくとも成人し、社会的に自立するまでは、貴方は遠野家に隷属する義務があります」
「………………」
　それは槙久も言っていた事だ。
　親には子供を育て、社会の一員として送り出す責任があると。
　家族とは国家を構成する最小限の『会社』にすぎず、会社である以上、不良品を出荷する訳にはいかない。
　それは家の名前を傷付けるばかりか、国全体のクオリティを下げる事に繋がるからだ。
　その責任を取れない者は親になる資格はなく、また、その責任に応えられない子供は、家族である理由がない。
　遠野槙久はこんな話を何度も俺と秋葉に語った。まるで自分自身に言い聞かせるように、何度も何度も。
「<槙久|おやじ>の口癖だったな。
　じゃあ俺を呼び戻した理由は、単に―――」
　<偏屈|へんくつ>な父に勘当された兄の心情をおもんぱかっての事ではなく、
「どのような経緯であれ、貴方が遠野家の長男だからです。
　それ以外に理由があるとでも？」
　遠野家当主として、野放しになっていた案件を片付けただけらしい。
「理解していただけて何よりです。
　言うまでもありませんが、私の発言は遠野家当主のものとして受け取ってください。戸籍上では貴方は私の兄ですが、この家における上下関係はまた別のものです」
「兄さん。私は貴方を兄として尊重しますが、同時にこの家を預かる者として、貴方を遠野家の財産として扱います。
　七年前の事は忘れて、私たちは当主とその家人である事を肝に銘じてくださいますよう」
　秋葉の声は淡々としていた。
　<権高|けんだか>な、上の立場から下される決定。そこに冷たいものを感じたのは事実だ。
　けれど―――
「うん、それはそれで分かりやすい。
　はっきり言ってくれた方が俺もスッキリする」
　これは当然の結末だ。
　別段、反感を覚えることじゃない。
「……私の言葉を理解していますか？
　私は兄さんより上の立場で、それを承諾しろと一方的に宣言したつもりですけど……」
「分かってるし文句はないよ。だって、どう考えてもこの扱いになるだろ、今の俺は。
　むしろ七年間好き放題に生きてきた俺に、妹としてきちんと礼を執ってくれる秋葉に感謝してる」
「…………………」
「けど、秋葉の考えは別にして、親戚の連中がよく納得したな。俺を有間の家に預けろって言い出したの、たしか親戚の人たちじゃなかったっけ？」
「そうですね。ですが今の当主は私です。親戚の方達の進言はすべて却下しました。
　この件に関して意見を挟むという事は私に、ひいては遠野に逆らう事だと明言しましたから」
「――――――」
　思わず目を見張る。
　槙久でさえ無下にできなかった分家筋の意見を、秋葉はすべて説き伏せた……いや、言い伏せたのか。
　……ううん。
　外見も立派に育ったけど、その中身もどれだけの成長を果たしたのか。戸籍上・兄として、妹の急成長がちょっと怖い。
「……兄さん？
　ぼうとしたお顔をされていますが、何か？」
「あ、いや、感心したというか、感動したというか……、本当に当主として認められたんだな」
「当たり前です。そうでもなければ兄さんを呼び戻せないでしょう」
「話を戻します。
　兄さんには今日から<屋|こ><敷|こ>で暮らしていただきますが、ここにはここの規律があります。今までのような不作法はさけていただきますから、そのつもりで」
「ん？　はは、そりゃあ無理だよ秋葉。
　今さら俺がお行儀いい人間に戻れるわけないし、戻ろうって気もないんだから」
「いえ、何があろうと戻っていただきます。
　子供じゃあるまいし、試す前から泣き言は結構です。
　それとも―――私にできた事が兄さんにはできない、と仰るのですか？」
　じろり、と秋葉は冷たい視線を向けてくる。
「――――――」
　というか、視線はもはや突き刺さる槍のようだ。
「う……………」
　これはもう疑いようがない……俺はいま、七年間置き去りにしてきた反感を、容赦なくぶつけられている……。
「……分かった。できるだけ努力はしてみる」
「努力はする、ですか。都合のいい返答ですね。
　努力をすれば誰であれ報われるとでも？　私が求めているのは結果だけですので、そのつもりで」
「う、ぐ……」
　優しさが一ミリもない感想に二の句も継げない兄だった。
「……いいです。兄さんは今まで自由気ままに暮らしていたんですから、すぐに生活を正せとはいいません。
　最短で一週間、最長で一ヶ月の猶予をさしあげますので、どうぞ死ぬ気で努力してください」
　猶予は猶予でもそれは執行猶予というものではないか、という思いつきをぐっと堪える。
　秋葉は秋葉なりに譲歩してくれているのだ。きっと。
「……あのですね。そこまで無茶な話ではありませんから。
　現在、屋敷には兄さんと私しか住んでいません。
　うるさがたの親戚筋がいては兄さんも落ち着けないでしょうし、私もわずらわしいので人払いは済ませました」
「―――」
　ちょっと待った。人払いって、まさか……
「おまえ、屋敷に居候してる親戚、全員追い出したのか!?」
　というか、そんな事できたんだ……！
「ええ、どうぞお気になさらず。
　家と財産を失いながら、なんの努力もせずお父様の恩情にすがっていただけの方々です。遅かれ早かれ、屋敷から出て行ってもらう予定でした。
　ああ、使用人たちも大部分に暇をだしましたが、私と兄さん付きの者は残しましたので問題はありません」
「いや、問題ないってありすぎるだろ!?　そんな勝手をしまくったら、次の親戚会議でやり玉にあげられるぞ!?」
「もう、つべこべ言わないでください。
　兄さんだって屋敷の中に人が溢れかえっているより、私たちしかいないほうが気持ちは楽でしょう？」
　……う。
　まあ、それは本当に気が楽になるんだけど……。
「……いや、でもだな、本当にそれでいいのか？
　親父だって親戚の意見には逆らわなかったのに、そんな、暴君みたいなワガママを通しちまって……」
「そうですね。だからお父様は兄さんを有間の家に預けたんです。けれど私、子供の頃からあの人達が大っ嫌いでしたから。これ以上、どうでもいい彼らの小言を聞くのは御免です」
「ゴメンですって、秋葉―――」
「ああもう、いいから私なんかの心配は結構です！
　そんな事より、兄さんはこれからのご自分の生活を案じてください。色々大変なコトになるって目に見えているんだから」
　秋葉は不愉快そうに言って、強引に話を切り上げてしまった。
「状況はご理解いただけたとは思いますが、兄さんはまだ有間での暮らしが抜け切れていない様子。
　……まあ、それもいいでしょう。その為の使用人です。
　この先、分からない事があったらこの子に言いつけて。
　――――<翡翠|ひすい>」
　秋葉は振り向く事もせず、部屋の隅に控えていた少女に声をかけた。
　翡翠と呼ばれた少女は一歩前に出てくると、俺に向かってお辞儀をした。
　無表情だが丁寧な、誠実さが結晶化したような一礼だった。
「この子は翡翠、うちの使用人です。
　これから兄さん付きの侍女にしますが、よろしいですね？」
　なるほど、この子が屋敷の使用人か―――って、え？
「ちょっ、侍女って、つまり、その」
「分かりやすくいうと召使い、という事です」
　……信じられない。
　メイド服を着込んだ少女は秋葉同様、そうしているのが当然といわんばかりに、その<表|か><情|お>を崩さない。
「ちょっと待ってくれ。召使いとか大げさすぎないか？　自分の事ぐらい自分で面倒をみれるっていうか……」
「食事の支度や洗濯も、ですか？」
　秋葉の指摘は容赦なく鋭い。
「ともかく、この屋敷に戻ってきた以上、私の指示には従ってもらいます。
　有間の家ではどう暮らしていたかは知りませんが、これからの兄さんは遠野家で暮らす遠野家の長男なんです。
　相応の待遇は義務として受け入れてください」
「う………」
　メイド服の少女に視線を泳がす。
　翡翠はやはり無表情で、人形のようにこちらを見つめ返してくるだけだった。
「それじゃあ翡翠、兄さんを部屋に案内してあげて。
　この人は右も左も分からない子猫と変わらないようですから。この広い屋敷で、いきなり迷子にならないようにね」
「かしこまりました、秋葉さま」
　秋葉に一礼し、翡翠はしずしずとこちらにやってくる。
　視線は俺に向けられているが、こちらと視線が合わないように全体を見据えている。
　……その歩調も緩やかながら遅さを感じさせないもので、彼女が長く使用人を務めている事を示していた。
「ああ、それと兄さん。長男と言えど、この屋敷では禁止された事柄、立ち入ってはいけない場所があります。それを犯したりする事のないように。
　翡翠には兄さんのお守りも命じてありますから、翡翠の進言にはできるかぎり耳を傾けてください」
「それ、お守りじゃなくて監視役って言わないか？」
「兄さんが規則正しい生活をしてくだされば、翡翠もそんな役割から解放されます。
　それではまた、夕食の席で」
　スケジュールが詰まっているのか、秋葉はこれ以上時間をとれないようだ。
「お部屋にご案内いたします、志貴さま」
　こちらの戸惑いを意に介さず翡翠は扉に向かう。
「……はあ」
　ため息をつきながら、俺も執務室を後にした。
　再び二階ロビーに出る。
　遠野邸はロビーを中心にして東館と西館とに分かれている。
　喩えるなら翼を広げた鳥のようなものだ。
　ロビーが鳥の胴体で、東と西の棟が翼にあたる。
　片翼……一方の棟の大きさは小さな病院なみだ。
　造りは左右対称で、東館も西館も同じ部屋数だったと記憶している。
「志貴さまのお部屋はこちらです」
　翡翠は階段を下りる事はなく、ロビー吹き抜けの回廊を西館に向かって歩き出した。
　どうやら俺の部屋は西館の二階にあるらしい。
　外はすでに日が落ちていた。
　青い絨毯と共に
伸びる廊下。
　城壁を思わせる一面の白い壁。
　温かみのあるオレンジ色の電灯が延々と続く中、メイド服の女の子が歩いている。
「……なんか、おとぎの国みたいだ」
　思わず感想を洩らす。
「志貴さま、何かご質問でも……？」
「いや、ただの独り言だから気にしないでくれ」
「……………」
　翡翠はこちらを見つめたあと、それでは、と一礼して歩き出した。
「………………」
　……言葉を失う。
　遠野邸に帰ってきてから何度目かの絶句だった。
　高級木材とされるチークで作られた床。
　３メートルはありそうな高い天井。
　奥に見えるのは個人用のサンルームだろうか。
　翡翠に案内された部屋は、とてもではないが、一介の高校生が住む部屋の造りではなかったからだ。
「……俺の部屋って、ここ？」
「はい。ご不満がおありのようでしたら、違うお部屋をご用意させていただきますが」
「いや、不満なんてあるわけないけど、その―――」
　ちょっと、いやかなり立派すぎるかなって。
「志貴さま？」
「―――いいんだ、なんでもない。
　喜んでこの部屋を使わせてもらうよ」
「はい。お部屋は七年前から手を加えていませんので、不自由はないと思います」
「…………」
　えーと、つまり、
「……ちょっといいかな。
　ここ、七年前は俺の部屋だったとか？」
「そう伺っておりますが、違うのですか？」
　翡翠はかすかに首をかしげる。
　……安心した。
　この娘にも、それなりに感情表現というものがあるみたいだ。
「んー……まあ、言われてみれば、確かに。
　少しは覚えがあるし、きっとそうだったんだろう」
　親近感はまったく湧かないが、七年間も離れていればそんなものなのかもしれない。
「けど、やっぱり落ち着かないな。今朝まで四畳半の部屋で暮らしてたからさ、高級ホテルに泊まりに来たみたいだ」
「お気持ちは分かりますが、どうかお慣れください。
　志貴さまは今日から遠野家のご長男なのですから」
「……まあ、そうだね。せめて外見ぐらいは笑われないように頑張ってみるよ」
　トン、と机に鞄を置いて背筋を伸ばす。
　色々と神経がまいりそうだけど、今日から慣れていくしかない。
　せめてこの部屋ではリラックスできるようにならないと。
「それと……昨夜のうちに届いたお荷物はすべて運びこみましたが、問題はありませんか？」
「いや、別にないけど？
　あ、なんか持ちこんじゃいけない物でもあったとか？」
「……いえ、お荷物が少なすぎるようですから。
　必要なものがあればご用意いたしますので、どうかお聞かせください」
「……そっか。いや、とりあえず足りないものはないよ。
　もともと荷物は少ないんだ。自分の荷物っていったら、その鞄とこの眼鏡と……」
　鞄の中に入っている教科書とか、昔から大事にとってある白いリボンとか、それだけだ。
「ともかく、荷物のことは気にしないでいい。
　こんな立派な部屋だけで十分だ」
「……かしこまりました。
　では、一時間後にお呼びにまいります」
「一時間後って、もしかして夕食？」
「はい。それまで、どうぞおくつろぎください」
　翡翠はやっぱり無表情で言ってくる。
　しかし、ここでどう時間を潰したものか。
　時計は夕方の６時をまわったあたり。
　いつもなら居間でテレビなり携帯端末なりを眺めている時間だが、この屋敷に“気軽に住人が集まる空間”なんてものがあるかどうか、真剣に疑わしい。
「翡翠、つまらない事を聞くけどさ。
　この屋敷にテレビとか、通信回線とかあるの？」
「テレビと、通信回線……ですか？」
　翡翠はかすかに目を細める。
　……自分で言っておいてなんだけど、頭が痛くなる質問だ。
　これだけ贅沢な洋館において、現代日本の基本娯楽があるかどうかを訊ねるなんて、どこか間違ってる気がする。
「……居間にはありません。西館には娯楽室がありますが、こちらは鍵がかけられています。
　先日まで逗留なされていた皆様は私物を持ちこまれていましたが、出立される時に荷物はお持ち帰りいただきましたので、残ってはいないと思います」
「秋葉が追い出した親戚筋か……逗留って、誰がどのくらいしてたんだ？」
「久我峰さまのご長男と、そのご家族の皆様が一階西館の三部屋を。
　刀崎さまのご三女とその婚約者の方が二階西館の角部屋を。
　軋間さまのご長男が一階東館の一部屋を。
　皆様、三年ほどお過ごしになられました。
　あとは……たしか、先代である槙久さまの主治医さまが屋敷に逗留されていた、と聞いています」
「三年もかぁ……なあ翡翠。そういうのって逗留っていうんじゃなくて、居候っていうんじゃないか？」
　翡翠は答えない。
　居候していた連中がどんな人間であろうと、使用人である以上、個人的な所感は言えないみたいだ。
　ともかく逗留していた連中は家財ごと転居したらしい。となると、彼らの置き土産には期待できまい。
　近代的な娯楽を俗物的と毛嫌いしていた槙久が、自由にテレビやネットを使わせていたとは思えない。
　<槙久|おやじ>のもとで躾けられた秋葉も同じだろう。
「―――ま、ないからって別に死ぬワケでもないか」
　いざとなれば携帯端末もある。
　ポケットから携帯を取り出して時刻とアンテナを確認する。
　当たり前と言えば当たり前だが、電波は届いている。
　最低限ではあるが、ネット環境が手元にある事にホッと胸を撫で下ろした。
　……なんというか、ここまで現実感のない屋敷だと、逆に圏外である方が自然に思えたからだ。
「………………」
　一方、翡翠は黙ったままだった。
　使用人の鑑というべきか、翡翠は必要なことと、訊かれたこと以外は何も喋らない。
　お手伝いさんに慣れていない俺としては、彼女がそうしているだけで落ち着かない。
　なんとかしてあの無表情な顔を笑わせてみたいと思うのだけど、どうも生半可な努力では難しそうだ。
「たしか一階の西館のほうに書庫があったっけ。
　暇な時はそこから何かみつくろう事にするよ」
　翡翠は答えない。
　俺に向けられていた視線はやや逸れて、何もない空中を見つめている。猫か。
「―――翡翠？」
　翡翠はうんとも言わない。
　と、突然まっすぐ、俺に視線を戻した。
「姉さんの部屋になら、あると思います」
「は？」
　……無遠慮にも声をあげてしまった……。
　えーっと、つまりそれは、
「ですからテレビです。
　以前、姉さんの部屋で見かけた記憶がありますから」
　数年前の出来事を思い出すかのように翡翠は言った。
「良かった、ここでもそれぐらいはあるんだ……って、ちょっと待って。
　姉さんって、もしかして琥珀さんのこと？」
「はい。現在、このお屋敷で働かせていただいている者は、わたしと姉さんの二人きりです」
　……言われてみればよく似てる。
　終始笑顔だった着物の少女に比べると、このメイド服の少女はあまりにも無表情なので、二人が姉妹だと結びつかなかったのだ。
「そっか。あの人ならたしかにバラエティー番組を観てそうなキャラクターだ」
　しかし、かといって『テレビ観せてください』と彼女の部屋に行くのも気がひける。
「ごめん、この話はなかった事にしてくれ。
　これからここで暮らすんだから、屋敷のルールには従わなくっちゃいけないしね」
　第一、帰ってきた当日にのんびりテレビを観ていたら、秋葉にどんな皮肉を言われるか。
　ここは遠野家の人間に相応しい、勤勉な学生になりきろう。
「夕食まで部屋にいるから、時間になったら呼びにきてくれ。翡翠だって他にやる事あるだろ？」
　翡翠ははい、とうなずいてドアノブに手をかけた。
　きぃ、とかすかな軋み音をたててドアが開かれる。
　翡翠は一礼した後、静かに退室していった。
　夕食は秋葉と顔を合わせてのものだった。
　翡翠と琥珀さんは俺たちの給仕に専念している。
　<主人|かじん>と使用人が食卓を囲む事はない。
　……当然の話だが、有間の家の団らんに慣れていた俺にとっては、居心地の悪い夕食だった。
　さらに言っておくと、俺は完全にテーブルマナーなんてものは忘れていた。
　人間とは使用しない記憶を頭の隅においやる、最適化の権化である。つまり、俺がテーブルマナーを覚えている道理がない。
　俺の一挙一動に秋葉の眉がつりあがっていく様はなかなか緊張感があり、実にスリリングだった。
　……正直、これが毎日繰り返されるかと思うと、本当に気が重い。
　会話のないまま夕食は終わった。
　俺はテーブルマナーを思い出すのに精一杯で会話をする余裕はなく、
　秋葉は秋葉でひたすら不機嫌そうだったからだ。
　そうして、翡翠と琥珀さんが食器を片付け終わった直後。
「―――やはり、徹底的な再教育が必要なようですね」
　びしり、と。
　内容も無慈悲なら口調も極寒な悪魔の一言が、食堂にコダマした。
「―――誰に、どのような？」
「兄さんに、相応しい心構えを、です」
　やはりそうだったか……。
　食事中、端整な眉をぴくぴくさせながら、そんなコトを考えていたのか……。
「……その、具体的には？」
「まずは生活習慣の改善。夜間の外出は当然禁止です。門限は８時とします。
　どのような理由であれ、外出の時は私か琥珀、翡翠の許可をとるように」
「は……？」
　門限８時？　今どき？　いやそれ以前に、外に出るのに誰かの許可が必要だって？
「待て待て、それは」
「休日の学習スケジュールはこちらで立てておきます。
　報告によると兄さんの成績は中の中だそうですね。
　……
まったく。相変わらず、効率良く手を抜くのだけは得意なようで」
「とんでもない。俺はいつだって全力だ」
「ですが、この屋敷にいる間は本気を出していただきますから、そのつもりで。
　兄さんはやればできる人なんですから、お体の事を考慮しても学年三位以内は当然でしょう」
　妹の過大評価が辛い。
　あともう俺の成績をリサーチしている周到さが怖い。
「他の習い事はもう少し落ち着いてからにしましょうか。
　それでは兄さん。―――本題の、アレをだしてください」
「はい？」
　本題のアレって―――なんだ？
「アレと言えばアレです。
　あるでしょう。兄さんのズボンにも。若者の象徴のような汚らわしいアレが。
　それを隠さずに出しなさい、と言っているのです」
「いや、ますます分からない！
　これが上流階級のする事か!?　一般市民をなんだと思っているんだ、おまえは!?」
「？　ですから、携帯端末を出してください。
　兄さんだって持っているんでしょう？」
「――――――
なるほど」
　ズボンの後ろポケットにしまっていた携帯端末を取り出す。
　食卓に置くと、翡翠がこれを無言で回収し、秋葉に手渡してしまった。
「これは没収します。当家ではこの手の電子機器は禁止です。健全な学生には不要なものですから。
　電話ならロビーの備え付けのものを使うように。調べ物がしたいのでしたら図書室をどうぞ」
　一方的に話を切り上げて、秋葉は食堂から出て行った。
　本日何度目かの、そして最大のショックに立ち尽くす。
　負け惜しみではないが、俺はそこまで携帯を愛用するタイプではない。
　あくまでメールチェックをしたり、待ち時間にニュースを見る程度だ。けど、携帯端末が生活の基本要素になっているのは他の人間と変わらない。
　改めて遠野の家の厳格さに戦慄する。このネット社会において、携帯端末を禁止する家があったなんて……！
　夕食を終えて自室に戻る。
　時刻は９時半を回っていた。
　たっぷり２時間、食堂で過ごした事になる。
「お帰りなさいませ、志貴さま。ご指示はありませんでしたが、就寝の支度をさせていただきました」
　……と。
　部屋では翡翠が黙々とベッドメイクをしていた。
　一足先に戻って準備をしてくれていたようだ。
「あ―――うん、ありがとう」
「寝間着はそちらのものをお使いください。
　着ていらしたお洋服はそちらの<籠|かご>にいれ、廊下に出しておいてくだされば助かります」
　ベッドの足側には木で編まれた<籠|かご>が置かれていた。
　ここに着ていた服をいれて廊下に出しておけば、後は彼女が洗濯してくれるらしい。
　……ますます高級ホテルじみてきたな。
「何かご質問はございますか？」
　翡翠は眉一つ動かさない。
　質問は色々あるけど、翡翠と琥珀さんの事を自分はまったく知らない。
「あまり関係ない話なんだけど、いいかい？」
「はい、なんでしょう」
「翡翠と琥珀さんがここでどんな仕事をしてるのか知りたいんだけど、どうかな」
「わたしが志貴さま付きで、姉の琥珀は秋葉お嬢さまのお世話をさせていただいております。お二人が留守の間は屋敷の管理を任されていますが、それがなにか？」
「……お世話って、やっぱりそういうコトか」
　がっくりと肩が重くなる。
　秋葉は当然のように言っていたけど、こっちはあくまで普通の高校生だ。
　同い年ぐらいの女の子に世話をしてもらう趣味は、今のところありはしない。
「……志貴さま付きって事は、俺専用の使用人ってこと？」
「はい。なんなりと申し付けてください」
　深々とお辞儀をする翡翠。
　ちくりと刺すような胸の痛みは、俺の身勝手な罪悪感によるものだ。
「分かった。秋葉のあの言いぶりじゃ俺を一人にはしないだろうし、そもそも俺の気持ちの問題で君を解雇させるのは良くはないと思う。ありがたくお世話になるけど―――」
「何か、特別なご要望でもあるのですか？」
「そんな大それたコトじゃなくて……その、『志貴さま』っていうのはちょっと。
　俺はそんな<柄|がら>じゃないし、正直に白状すると、分不相応すぎて首根っこを掴まれた気分になる」
「ですが、志貴さまはわたしの主人です」
「そうは言うけど、俺は今日まで普通に生きてきた身なんだ。
　帰ってきただけなのに、同い年ぐらいの子に様づけで呼ばれる生活とか、ちょっと難しい」
　はあ、と翡翠は気のない返事をする。
「俺の事は遠野さんとか志貴さんでいいよ。堅苦しいのはナシにしたいんだ。
　こっちも君を翡翠さんって呼ぶからさ」
「………………」
　翡翠は無表情ながらも眉を下げて、唇を強く噛みしめる。
　……まいったな。
　楽にしてほしかったのに、逆に困らせてしまっている。
「ですが、あなたはわたしの雇い主ですから」
「俺が雇ってるわけじゃないだろ？」
「……失礼ながら。それは同じ事です、志貴さま。
　わたしどもは遠野家に仕えるもの。ご当主さまもご親族の方も、ともに尊ぶべき主である事に変わりはありません。
　ですので、どうかわたしの事は翡翠とだけお呼びください。
　お仕えする方に敬称で呼ばれる使用人の心境を察していただければ幸いです」
「―――むむ」
　……そう言われると反論できない。
　彼女の発言は使用人として筋が通っている。
「……はあ。俺にできない事をやってくれるんだから、有り難がるのはこっちなんだけど……」
　ここで意見を通しても翡翠を困らせるだけだ。
　今のところはできるだけ、こっちの意向を伝えるだけにとどめよう。
「呼び方、翡翠でいいんだね？」
「はい。なんとしてもそのように」
「…………はは」
『なんとしても』という言い方がちょっと食い気味の翡翠だった。
「わかった。じゃあそのように。
　でも、俺に対してあんまり堅っ苦しいのはナシにしてほしい。お姉さんの琥珀さんにも、そう伝えてくれるとありがたい」
「はい。志貴さまがそうおっしゃるのなら」
　翡翠はしずしずと頭を下げる。
　―――よし。フランクな会話ができるようになるまで、道のりは遠そうだ。
　翡翠は一礼して退室した。
　ひとりになった途端、疲れが一気に押し寄せてきた。
　……今日は朝から色々ありすぎた。
　いいかげん、体が眠りを欲している。
　電灯を消してベッドに横になる。
　麻薬じみた眠りへの欲求。
　疲れ切った肉体が手足から活力を奪い、眠りに落ちる事を強要する。
　その誘惑に逆らって目蓋だけは閉じずにいるが、それも無駄な抵抗だ。
　どんなに眠りたくなくても、いずれ眠りに落ちていく。
　人間の体はそういう風に出来ている。
　……そんな、覚醒と睡眠の狭間にいながら、ぼんやりと天井を眺める。
　……七年ぶりの家。
　……七年ぶりの肉親。
　……なんだか、他人の家のように感じる自分。
「―――でも、帰ってきたんだろ、おまえは」
　……独白は、その事実を受け入れるための。
　……意識は後戻りのできない深みに沈んでいく。
　……街の喧騒も届かない高台の屋敷。
　……高い木々に囲まれた陸の孤島。
　……目蓋を閉じきる刹那、まるで監獄のようだと、今さらながらに思い至った。
　―――ふと、目が覚めた。
　誰に起こされるのでもなく、
　何か聞こえるでもなく、
　理由もなく漠然と、
、
　眠りの途中で目が覚めたのはいつ以来だろう。
。
　忘れ物をした気がして、落ち着かなくて体を起こした。
　胸騒ぎがしたので、外が気になって部屋を出た。
　喉が渇いたので、水を求めて廊下を進んだ。
　月明かりの長い廊下。
　住人たちが寝静まった夜の音。
　……懐かしい。
　確かに昔、こんな<路|みち>を歩いた気がする。
　俺は迷うように、脇目もふらずに、階段に足を進める。
　そこは屋敷の死角だった。
　階段は一階と二階を繋ぐだけではなく、その裏側には、屋根裏に繋がる秘密の路があった。
　今では住人たちにさえ、忘れられて久しい。
　かつては倉庫として使われた屋敷の天井裏は、この数年間、誰も立ち入った跡がない。
　十月だというのに、今夜は真冬のように寒い。
　毛布を求めて荷物を探る。
　古ぼけた箪笥が目について、古ぼけた引き出しを開けてみた。
「――――――」
　そこにあるのは、取るに足りない小物ばかりだ。
　引き出しの中はガラガラだった。
　期待して開けた宝箱の中に、小石が数個、散乱しているような失望感。
　ワッペンだのアクセサリーだの双眼鏡だの、子供が集めた雑貨が転がっている。
　その中に一つだけ、明らかに仲間はずれなモノがあった。
　透明のプラケースに仕舞われた、薄汚れた包帯だ。
　きれいに丸められているが、古くて使えそうにない。
　ここには何もない。
　引き出しを閉めて、部屋に戻る事にした。
　部屋を出る途中。
　何の理由もなく、頬が濡れている事に気がついた。
　もしかしたら。
　子供の頃、ここを使った事が、あったのかもしれないね。
　いつか、貴方は夢を見ないと知った。
　この時に貴方が見るものは、
　実際に起きた過去の繰り返し。
　あるいは自己分析と自己告発。
　<明晰夢|めいせきむ>の<体|てい>を借りた、現在と未来のリフレイン。
　貴方は夢を見ない。
　私は今もここにはいない。
　遠野志貴は夢を知らない。
　今の私は貴方を知らない。
　だから、この話はここでおしまい。
　おしまいの話を、懲りずあらずに夢見ている。
　<降り積もる雪のように|星はきらめく>。
　<寄せかえす波のように|海はさざめく>。
　<欠けていく月のように|貴方の影を求めるように>。
　リフレイン、リフレイン、リフレイン、リフレイン……
「おはようございます」
　聞き慣れない声がする。
　深く沈んでいた意識が目を覚ます。
「朝です。お目覚めの時間です、志貴さま」
　……だから、志貴さまはやめてほしい。
　そう言われると落ち着かないと、昨日言った筈なのに―――
「――――――、ん」
　目を開ける。枕元に置かれた眼鏡を手に取って、かける。
　すぐに異常は不可視になった。
　けだるさから脱皮するように、ベッドから体を起こす。
「…………」
　ここは、ドコだ。
「おはようございます、志貴さま」
　メイド服の少女がおじぎをする。
「……ああ、そうか。遠野の家に戻ってきたんだっけ」
「はい。昨日はお疲れだったと存じます」
　翡翠は入り口の扉の前でピンと姿勢を正したまま、起きたばかりの俺を見ている。よく出来た彫像のようだ。
「つ……」
　慣れない部屋で眠ったせいだろうか、意識は靄がかかっているように虚ろだ。
「志貴さま……？」
　翡翠が声をかけてくる。
　ブンブンと頭をふって、寝ぼけたままの頭を覚醒させた。
「おはよう翡翠。わざわざ起こしてくれて、ありがとう」
「そのようなお言葉は不要です。
　志貴さまをお起こしするのがわたしの役割ですから」
　……翡翠は淡々と返答する。
　その仕草にかすかな違和感というか、もったいなさを感じてしまう。
　彼女に琥珀さんの半分ぐらいの明るさがあれば向かうところ敵なしなのではないだろうか？
　や、個人の性格の話なので、俺がとやかく言っていいコトではないんだけど。
「なにかご用でしょうか？」
　こっちの視線に気づいたのか、翡翠はまっすぐに見つめ返してくる。
「いや、なんでもない。
　翡翠の顔を見て、ここが遠野の屋敷なんだって実感しただけだよ」
　ベッドから立ち上がって一息つく。
　時刻は朝の７時前。
　いつもより少しだけ早い目覚めだった。
「着替えてから下に行く。
　居間……じゃなくて食堂に行けばいいのか？」
「はい、食堂においでください。朝食の支度ができていますので」
「わかった。ありがとう」
　翡翠は一礼して退室してくれた。
　一階ロビーに降りる。
　着替えといってもシャツと下着を替えて、あとは定番の学生服を着ただけだ。
　食堂は西棟の入り口……玄関から見て左手側にある大部屋で、東棟の居間とは階段を挟んで正反対の位置にあたる。
「おはようございます志貴さん。
　さっそく朝食をご用意しますね」
　食堂には琥珀さんが待っていた。
“志貴さん”と呼んでくれたのは、昨夜のうちに翡翠が伝えてくれたからだろう。
　翡翠はかたくなに“様付け”を守っていたが、琥珀さんは柔軟に対応してくれるようだ。
　そんな事も、彼女たちの性格の違いを表している。
　琥珀さんはテキパキと配膳をする。
　純和風、<一汁三菜|いちじゅうさんさい>を守った、惚れ惚れするほどの朝食である。
　しかし―――
「……しまった。昨日のうちに言っておくべきだった」
「あ。もしかして苦手なものが入っていました？
　志貴さん、カブはお嫌いですか？」
「いえ、好き嫌いはあまりない方だと自負してますけど、なんていうか……」
　ちょっと量が多かった。
　俺は基本的に小食で、朝は更に食が細くなる。
　きちんと盛り付けられた料理を食べていると胸焼けがして、食欲がなくなっていく。
　今朝は体調がいいので半合ぐらいなら食べられそうだけど、調子が悪い時は一口で箸が止まってしまう事もある。
「そうですか……小食だとは伺っておりましたので、これでも控えめにしてみたのですけど……ダメですか？」
「すみません。事故の後遺症のようなもので、こればかりはどうしようもないというか……あ、で、でも、すごく美味しそうなのは分かります！　この朝食は完璧ですね！」
　嘘いつわりのない感想を、全力で口にした。
　琥珀さんはこれっぽっちも悪くないのだし、こっちの身勝手な事情でせっかくの料理を台無しにはできない。
「とにかく、いただきます。
　残してしまったらごめんなさい」
「いえ、お気になさらず。私もこの道のプロですもの、志貴さんの適量を計らせていただきますから。
　では、どうぞ召し上がれ。お口に合わないようでしたら遠慮なく言ってくださいましね」
「ごちそうさまでした。たいへん美味しかったです」
　手を合わせてお礼を言う。
　琥珀さんの朝食は見た目も味も完璧だった。
　薄味の上品な味付けながら、ピリリと締めるところは締め、食欲を十分にそそってくれた。
　平均的な男子高校生なら迷わず二杯目のおかわりを注文していただろう。
「けど、すみません。せっかく用意してくれたのに、残してしまって」
「いいんです、先にお話をきいておかなかった私の失敗ですから。
　それに十分嬉しゅうございます。志貴さん、本当に美味しそうに召し上がってくれるんですもの。この日のために腕を磨いていた甲斐があったというものです」
　にっこりと微笑む琥珀さん。
　……話が逆だ。
　そんな顔をされたら、嬉しくなるのはこっちの方だと思う。
「……と、いけません、もうこんな時間です。
　どうぞ私にお構いなく、居間の方に行ってくださいな。あちらで食後のお茶を用意いたしますから。あまり志貴さんを独占していますと後が恐ろしゅうございますし」
　くすくす笑いながら琥珀さんは朝食を片付ける。
　確かに時刻は７時20分、そろそろ登校の支度をしないと。
　ごちそうさまでした、ともう一度お礼を言って、食堂を後にした。
　居間には秋葉と翡翠の姿があった。
　秋葉の制服は<浅上|あさがみ>女学院という、有名なお嬢様学園の物だ。
「よ、よう。おはよう、秋葉」
「おはようございます兄さん。
　今朝は起床時間が遅かったようですが……まあ、良しとしましょう。初日につき、よく寝付けなかった、という事にしておきます」
「…………」
　けんもほろろ、という単語が浮かぶ。
　実はいつもより早起きだったんだ、なんて台詞を飲みこんで、ソファーに座る。
「翡翠。兄さんに食後の紅茶を。
　私も、もう一杯いただきます」
「かしこまりました。志貴さま、お砂糖はお入れしますか？」
「あ、うん。じゃあ一つだけ」
　かくして、なんとも言えない朝の時間が始まった。
「……………」
「……………」
　翡翠はティーカップをテーブルに置くと、壁際に戻って待機。
　俺は無言で濃い<紅|べに>色の紅茶を一口味わって―――
いや、待て、なんだこの味わい……!?
「め、めちゃくちゃ美味い……。
　苦いのに甘い、複雑なのに喉ごしがすっきりしていて、そもそも香りがこう、クリスマスっぽい……！」
　自分でも何を言っているか分からないが、それぐらいの衝撃だった。
　遠野邸の豪勢さは昨夜に思い知っていたが、この紅茶もその例に漏れていない。
「今朝はマリアージュのエスプリドノエルですね。
　紅茶の名店といえばイギリスですが、こちらはフランスの名店です。創業そのものは1850年頃、日本に上陸したのはつい最近……十五年ほど前だからメジャーではないものの、品質に問題はありません」
「ふふ……クリスマスという表現は曖昧すぎて評価しづらいですけど、不思議とニュアンスは伝わりますね」
　俺の驚きようがよっぽどおかしかったのか、秋葉は得意げに笑っていた。
「お値段もお手頃だそうですし、庶民派な兄さんに合わせてみた甲斐がありました。上質の葉には黄金に等しい価値があると勉強になりましたか？」
　哀れな原始人を眺める、支配者的な上から目線だ。
　ティーカップを<皿|ソーサー>に置く仕草さえ優雅である。
「くっ……」
　しかし、悔しいがその通りだ。
　これが本当の紅茶……今まで俺が午後に飲んでいた紅茶とはなんだったのか……というか、これなら貿易会社の一つや二つ、確かに起こる。娯楽の少ない時代にこんなものがあったら、俺だって必死に取り寄せたくなるぞ……。
　そうして、時間が過ぎること約10分。
「……………」
　俺も秋葉も紅茶を楽しむだけで、これといった会話はかわされなかった。
　たまに視線があっても話題が思いつかずティーカップに視線を戻す、を繰り返した結果だ。
　正直、ぎこちないコトこの上ない。
　それでも、俺にとっては悪くない時間だった。
　今まで放っておいた立場で言える事じゃないが、秋葉がこうして穏やかに過ごしているのを見ているだけで、なんともいえない気持ちが湧いてくる。
　これは安心……なんだろうか。どうあれ秋葉が目の前にいてくれる事が、今は嬉しくて仕方がない。
　そんなささやかな満足感に浸っていると、廊下から妙な音が聞こえてきた。
『だーいかーいぞーぅ、だーいれーんあーい！
　ランザツ、ランボウ、最後にランシン、
　<大暴走|スタンピード>に地獄いきーー！』
　壁越しに、テンポもクソもない鼻歌が近づいてくる。
「ハアーイ、グッモーニーーンッ！
　当主チャンったらおっはよっうチャーーーン！」
　豪快にドアを開けて入って来たソレは、デタラメな登場に負けないほど、破天荒な格好をしていた。
　下着一歩手前の上着と、タイトなレザースカート。
　異様に長い髪をどうでもよさげにまとめ、
　化粧っ気はないように見えて、唇は妙に艶めかしい。
　髪の色は赤みがかったブロンドで、背も高いことから外国人のようだ。
　あけすけな胸元や腰回りを見るかぎり、スタイルも抜群だ。
　やってきた女性は『成熟しきった大人の女』そのもので、こんな時代錯誤な洋館にいるより、真夏の浜辺で寝そべっている方がしっくりくる。
　……あの、妙に似合う白衣さえなければの話だが。
「……おはようございます、<阿|あ><良|ら><句|く>先生。
　今日は何のご用でしょう。定期診断は昨日の筈でしたが」
「いやァ、昨日はちょっとノリ気になれなくてぇ？
　夕日を見てたらムラッときちゃって、調査ほっぽりだして街に飛び出したのよぅ。ま、率直に言えばサボリ。なーんで、今日こそキチンとお仕事したくて朝からやってきたワケ！
　あ、メイドチャン、アタシにも紅茶プリーズ。砂糖は四さじ、ないし五さじ、気分的には六さじ、みたいな？」
　白衣の女はずかずかと居間に入ってくる。
　当然、ソファーに座った俺と目が合った。
「あれ？　あれれ？　あれれれれーーー？
　おー？　ふむー？　むむむむむーーー？」
　じっとこちらを眺めてくる。
　たっぷり観察して納得したのか、
女はニマリ、と笑ったかと思うと―――
「ひ―――ひひ、うひひひひひひひひひひひひ！
　ちょっ、傑作すぎるんですけどぉーーー！
　なにこれ、当主チャンったらアタシを笑い殺す作戦でキタわけ!?　それすごい、デッドマストでＡ－１０<分泌|で>まくり！
　ツボ、ツボだわ、マクベスかっつーのこの屋敷！　もう殺すとか殺されるとか、悲劇につっ走る気満々じゃない！」
　女は腹を抱えて笑っている。
「……………」
　こっちは顔をしかめる事しかできない。
　なんなんだ、このハイテンションな人物は。秋葉は先生と呼んでいたけど……。
「阿良句先生。
　兄さんに紹介をしてもよろしいでしょうか？」
　置いてけぼりの俺を見かねたのか、秋葉はコホン、と咳払いして白衣の女をたしなめた。
「ウン？　紹介ってアタシのコト？　それとも志貴チャン？
　いいわよぅ、そんな無駄なコト。
　志貴チャンのコトなら槙久クンから聞いてるしぃ？
　志貴チャンだって、アタシみたいな余所者の事情なんて興味ないでしょう？　つーかそんな甲斐性があるなら当主チャンに向けてあげろって話ぃ？」
　槙久クン……？
　じゃあ、この女性は親父の知り合いなのだろうか？
「そうそう。アタシはもともと気ままな<根|デ><無|ラ><し|シ><草|ネ>、風に漂う巣なしのクモみたいなオンナだったんだけどぉ、
槙久クンとはちょっと縁があってぇ。
“行くところがないなら、うちで一緒に暮らさないか？”
　とか、クールに口説かれちゃったワケ！
　でも残念、槙久クンはちょーーーっとタイプじゃないんであっさり断って、今は当主チャンのお友達？
　なのかしら？」
　そうなのか、と秋葉に視線を送る。
　……なんというか、この女性に話しかけるのは勇気がいるからだ。
「ええ。阿良句先生はお父様の、大学時代の後輩です。
　今は父の友人として、私の相談役になってもらっています」
「えー。アタシ、その呼び方キラーイ。
　は・か・せ。アタシのコトは親しみと愛情をこめて、阿良句博士って呼んでくれなきゃ博士泣いちゃーう！」
　泣くどころかケラケラ笑う阿良句氏。
　……しかし。
　笑いながらも、その目はぴったりと―――この部屋にやってきた時からずっと、粘り着く糸のように、俺の顔に向けられている。
「どうぞ、阿良句さま。お茶が入りました」
　そこへ翡翠が割って入った。
　場の空気を読まない……いや、場の空気に左右されない翡翠の態度が、阿良句女史のテンションを中和してくれたようだ。
「もう。メイドチャンったら、ホント、メイドの鑑ねぇ」
　……邪魔をされて拗ねているらしい。
　阿良句女史は片手を腰にあて、スポーツドリンクを飲むような豪快さで、砂糖のたっぷり入った紅茶を一息で飲みきった。
「おう、ナイスシュガー！　糖分が五臓六腑に染み渡る、っていうか子宮とか卵巣にキュンと溶けイっちゃってたまんナーイ！　<気|ラ><合|ブ>入ってきたー！」
「んじゃ、定期診断にいってきまーす！　大浴場の空調がおかしいんでしょ？　分かってる分かってる、ササッとチェックして、ついでにイオンクラスターとか足してみまショウ！」
　高らかに笑いながら阿良句は居間を横断し、廊下に向かう。　……と。
　ドアノブを手に取ったところで女は俺に振り返り、
「よろしくねぇ志貴チャン？　<余所者|よそもの>同士仲良くしましょう？
　これから色々あるでしょうけど―――
　もう本当にどうしようもなくなったら、ダメ元でアタシに相談しにいらっしゃい？」
　闖入者はやってきた時と同じように、鼻歌を響かせながら遠のいていった。
「……………」
「……………」
　なんともいえない沈黙が居間を包む。
「なあ、秋葉」
「阿良句先生については、私もよくは知りません。
　お父様の遺言の関係で、屋敷本館への出入りと手入れを一任されている方です。お父様は建築家として重宝なさっていたとか。ご本人曰く、建築業は副業だそうですが」
　ピシャリと断言する秋葉。
“あの人、なに？”という質問の先手を打たれてしまった。
“それ以上の質問は受け付けません”といわんばかりの態度だ。
「失礼いたしますね。秋葉さま、そろそろ登校のお時間……
おや？　なにやら緊迫した雰囲気ですね。
　ははーん。朝から無理難題を言って、さっそく志貴さんを怯えさせてしまったのですか？」
「貴女ね。さっそく、とは何ですか、さっそく、とは。
　第一、私は理不尽な決まり事は口にしません。常識的な範囲でのお願いをするだけです」
　秋葉の物言いに、おお、と感心する琥珀さん。
　まだ二日目だが、この二人の距離感がちょっと分かってきた気がする。
「それでは、私は学校に向かいます。
　兄さん。昨夜も言いましたが門限は厳守するように。昨夜のニュースはご覧になっていますか？」
「なってないよ。携帯電話は誰かに取り上げられたからね。理不尽気味に」
「そうですか。では明日から朝刊を居間に用意させます。
　早めに起床し、一日のニュースに目を通すといいでしょう」
　これである。
　俺のささやかな<皮肉|ていこう>なんぞノータイムで跳ね返す鉄壁の姿勢だった。
「ニュースによると、昨夜、総耶駅北口で浮浪者の遺体が発見されたそうです。栄養失調による凍死とも、出血による衰弱死とも報道されています」
「真相はどうあれ、このところ繁華街の治安は良くないようです。そんな時に出歩いてくだらない事件に巻きこまれては遠野家の恥ですから。
　学校が終わり次第、日が落ちる前に屋敷に戻ることを心がけてください」
　門限を念押しして、秋葉は居間から退室した。
　しかし……日が落ちる前って、６時までには帰ってこいって事だ。門限８時とは何だったのか。
　居間の時計は７時半を指している。
　俺は30分あればギリギリ間に合うが、秋葉は間に合うのだろうか？
　浅上女学院までは結構な距離があった気がするけど……ん？
「……志貴さん、志貴さん……聞こえますか……そう、貴方です……秋葉さまの容赦ない仕打ちにうちひしがれ、絶望に膝を折っている貴方に話しかけています……」
「…………」
　何をしているんだろう、あの人は。
　ソファーの背に隠れながら、こっちこっち、と手招きしている。
「……聞こえていますけど。なんですか、琥珀さん」
「……違います……私は使用人であって使用人ではない曖昧な存在……なので、これを貴方にお返しするのです……」
　琥珀さんは着物の<袖|そで>から、こそっと携帯電話を取りだした。
　アレは……昨夜、秋葉に没収された俺の携帯端末……！
「い、いいんですか!?」
「はい。でも、秋葉さまにはナイショですよ。見つからないように注意してくださいね。
　あと、屋敷内で使うのもお控えください。まあ、電波の通りがあまりよくないので、使いたくても使えないとは思いますが」
「琥珀さん……」
　遠野邸の良心がここにいた。
　俺は携帯端末を受け取って、素早く制服の内ポケットにしまいこんだ。
「あとはこちらもどうぞ。正門の認証カードです。
　ブザーを押していただければ私の方でロックを解除しますが、警備室まで行くのにどうしても時間がかかってしまいますので。
　ご面倒とは存じますが、お急ぎの時はこちらで正門の鍵を開けていただければ助かります」
　正門の認証カードキーとは……さすが遠野邸、セキュリティは万全だ。
「それでは、私は秋葉さまをお見送りしてきます。
　後の事は翡翠ちゃんにお任せしますね」
「―――はい。行ってらっしゃい、姉さん」
　琥珀さんは秋葉の後を追うように去って行った。
「志貴さまのお時間はよろしいのですか？」
「ああ、ここから学校まで、歩いても30分だからね。
　いま７時半だろ、途中でちょっと走れば間に合うよ。でも、気にかけてくれてありがとう、翡翠」
　こっちの説明に満足したのか、こくん、と翡翠は頷く。
「それでは、外までお見送りいたします」
「え―――あ、うん、どうも」
　……やっぱり、自分付きの使用人というのは照れくさい。
　翡翠に促されてソファーから立ち上がる。
　予想外の闖入者がいたものの、七年ぶりの朝は問題なく過ぎていった。
　翡翠に見送られて屋敷の敷地から出る。
　遠野邸は<総|ま><耶|ち>の端に位置し、駅から離れた高台にある。
　高台には都市部には不釣り合いな森が広がっており、見ようによっては遠野の家は“森の入り口に作られた門”と取れなくもない。
　ここから学校までは駅を挟んで徒歩30分強。
　急ぎ足で向かえば、余裕で朝の<ＨＲ|ホームルーム>に間に合う距離だ。
　長い坂を下りていく。
　今まで有間の家から電車で総耶駅まで通っていたから、この道順での登校は初めてだった。
　単に道が変わっただけなのに、転校生になった気持ちになる。
「――――あんまりいないな、うちの学生」
　このあたりの家庭には総耶高校に通っている人間は少ないようだ。
　朝の７時半。
　道を小走りで歩く学生服姿は自分しか見あたらなかった。
　昨日の南口駅前と違い、北口駅前は通勤ラッシュで混雑していた。
　スーツ服の会社員たちが早足で過ぎていく、いつも通りの光景だ。
　ここ数日に起きている物騒なニュースも彼らにはどこ吹く風なのだろう。
　あるいは、不穏な空気を感じていたとしても、それが日々の予定を変える理由にはならないのか。
　どちらにせよ街に変化はない。
　有彦は夜に出歩く事を避けているというが、アイツのように自分の直感を信じ、それに準じられる人間はそう多くはないのだろう。
　駅前から住宅地に向かう。
　道には学生服の生徒しか見かけなくなっている。
　携帯を見ると、校門が閉まるまであと５分。
　遅刻しないよう、注意してアスファルトの路面を駆け出した。
　翡翠に言った通り、屋敷から30分ほどで正門に着いた。
　途中で何度か走ったので、ゆっくり登校したいのなら７時半前には屋敷を出ればいい。
　教室に有彦の姿は無かった。昨日は本当に気の迷いで登校してきたらしい。
　馴染みのあるクラスメイトに挨拶をしながら机に向かう。
　ＨＲまでの数分間、椅子に座って携帯端末をチェックする。
　公共による今朝の<報道|ニュース>。若い先生がたが率先して作った学校用の掲示板と、有志によって作られた生徒専用の匿名掲示板。
　これといって目に付くスレッドはない。
　ふと視線をあげると、教室にいる生徒の大半は俺と同じように時間を使っている。
　三十を過ぎた教師に言わせると今の学生は“リアルに友人がいない”ように見えるらしい。
　もちろんそれは前時代らしい誤解だし、前時代だけの誤認だ。
　ネットへの依存と目の前にいる友人への依存が等価になっただけで、うちのクラスは誰も仲違いはしていない。
　かつての学校は教室の中にしか友人を作れなかった。外との繋がりが希薄だったのだ。
　今は違う。自分に合う友人はいくらでも見つける事ができる。教室の空気はアットホームである必要はない。不快でなければいいだけになった。
　高度に発達したネットのおかげで、俺たちは年齢による知識量の差が希薄になった。
　確固として積み上げた物量の差はあるものの、生活していく上ではイーブンになったように見えてしまう。
　熱さがない、夢がない、希望がない、と大人たちは言うけれど、それも仕方のない事だ。
　今や世界は狭い。小学生ですらこの社会がどれほど行き詰まっているか知っている。
　だからおいそれと未来を夢見る事が、世界を自分のフィルタ越しに受け入れる事が、難しくなっている。
　知識を共有するとはそういう事だ。
　知識の蔵書が広がればひろがるほど、それを閲覧する個人の人生が狭く、小さくなっていくだけ。
　かつて人間は未知を埋めるために彼方を目指した。
　今はその必要はない。どこにも行く必要がない。
　人々はかぎりなく自由だが、それと同じぐらい、狭い箱から出て行く理由を失っている。
　教室や学校、街にあるうつろな閉塞感はそういう事だと思う。
　などと。偉そうに分析してみたものの、こんなものは自分の所感にすぎない。
　閉塞感というものを遠野志貴は感じていない。
　行き詰まりも倦怠感も、社会への不満もまるでない。
　俺にあるものは、ただ、できるだけ毎日を楽しみたいという当たり前の願望だけだ。
　そんな単純な人間が複雑化した社会を語るなんて、それこそ誤解誤認というべきか。
　物思いをしているうちにＨＲの鐘が鳴った。
　思い思いの席で雑談していた生徒たちが自分の席に戻っていく。
　携帯端末を仕舞って気持ちを切り替える。
　さあ、遠野家に戻ってから二日目、学校の始まりだ。
　ＨＲの時間になってからはや３分。
　戸山教諭の代わりの教師は一向にやってこなかった。
　教室はざわつき、秩序は崩壊しかけていた。
　具体的にいうと、みんなだらけきっていた。
　このまま放置される運命なら一時限目が始まるまで遊んでしまおうとクラスの誰もが思っている。
　あと１分。あと１分だけ我慢しよう。
　その後は何をするのも我々の自由だ、と暗黙の了解が敷かれる中、がらり、と扉は開かれた。
「はーい、みなさん静かに、静かにー。
　ＨＲを始めますよー」
　ざわついた空気が一瞬で沈静する。
　教室に入ってきたその教師は今まで見た事のない、というかどう見ても日本人ではない、それどころか大学生にしか見えない、予想外の人物だった。
「あれ？　なにかしらこの空気？
　みなさんそろってカチンコチンになっちゃってるけど……
　なに、私ったら<毒|バ><蛇|ジ>系女子？
　あ、いけない、ちょっと喩えがマイナーよね。えーと、日本風に言うと<心筋梗塞|リング>系女子？　でも先生、名前はサダコじゃないんだけど」
　その喩えも既に古いのでは？　と眉をしかめる。
　一方、謎の女性は気にした風もなく教壇に立つと、コホンと、わざとらしく咳払いをする。
「はじめまして。戸山先生が転任なされたので、その代行としてやってきた新任の<愛染|あいぞめ>ノエルです。
　一ヶ月だけのお付き合いになりますが、みなさんよろしくお願いします」
「担当学科は体育と英語、好きな食べ物はモンブラン、貰って嬉しいプレゼントは現金ないしウェブマネーで、ＮＧワードはペットショップ。
　質問は随時受け付けますので、遠慮なくアタックしてください♡」
「――――――」
　がたり、とあさましくも不穏な物音が教室に木霊した。
　ノエル先生のウインクを受け、思わず椅子から立ち上がりかけた男子どものフライング擬音である。
　かくいう自分も、ちょっとだけ見入ってしまった。
　ノエル先生は目を見張るような美人ではないが、
　その分手が届く範囲の憧れというか、
　ちょっとだけ年上のお姉さんというか、
　言葉にはできない魅力で満ちているというか、
　とにかく、一目で男子高校生の憧れを刺激する、ふわふわしたホイップのような何かがあった。
「質問です！　ノエル先生は、おいくつなんでしょうか！」
「それよりどこにお住まいなんでしょうか！」
「休日の過ごし方とか、趣味が知りたいです！」
「つーか好きな高校生のタイプは誰ですか！？」
　とたん、男子から巻き起こる質問の嵐。
　この手の話題は匿名掲示板で淡々と論じられるものなのに、今のウインクにやられた連中はそれすら待てなかったらしい。
　女子たちは“男子サイテー”と冷めきった視線を向けてくるが、熱に浮かされた彼らにとって、見飽きたクラスメイトからの軽蔑なんてどうでもいい問題らしい。
「トビウオみたいな反応、ありがとう。
　えー、年齢はどうせ女子のみなさんが暴いちゃうだろうから言っちゃうと25歳、住まいは二駅となりの賃貸マンション、好きなタイプはオトナな頭の文系男子、趣味は日曜教会でお手伝いをしています。となり街の教会だから、興味があったらお祈りにきてくれると先生嬉しいな」
「教会？　なに先生、シスターなの!?　っていうか、趣味でシスターやってるんですか!?」
「ええ。私の国じゃそう珍しい事じゃありません。まあ、まだまだボランティアレベルで、悩める子羊の告白を解決してあげてるだけですけど」
「おお……おおおお……」
　ノエル先生の予想外の反応の良さにどよめく男子たち。
　かくいう自分も、シスターという言葉の目新しさにはちょっとだけ食いついてしまった。
　一方、女子グループは無言で携帯端末をいじっていた。
　こちらもさりげなく生徒専用の匿名掲示板をチェックする。
『なにあれ、男子バカすぎなんですけどー』
『そんなに美人かアレ？』
『フランス人のハーフとかよそでやってくんないかなあ』
『っていうか、あのオンナもちょっと露骨じゃねえ？』
　……さもありなん。
　掲示板にはあからさまな陰口が書き込まれていく。
　かくして、クラス内は『男子』『女子』という単純な派閥に分かれる不思議空間と化してしまった。
　即ち、『男子サイテー』『女子ウルセー』と罵り合う、中学生もかくやという原始時代である。
　そんな様子をほんわかとした笑顔で眺め、
「うふふ。この子たち、頭の程度は大丈夫なのかしら？」
　スレスレの発言をする新任教師。
　教室の空気についていけず、視線を逸らすと弓塚と目が合った。弓塚もこの空気に乗り遅れたのか、俺と同じように所在なさげである。
　……なんだろう、この空気。
　色めきたつ教室。平穏と思われた一日は、予想外の展開を迎えてしまった。
　放課後になった
。
　今日は貧血による目眩もなく、俺個人の話で言えばいたって平穏に過ごせた一日だった。
　しかし、教室では未曾有のウイルスが蔓延し、ついさっきまで不穏な空気に包まれていた。
　女子たちは今回の男子の騒ぎを『ノエル熱』と呼称した。
　『ノエルはしか』でもいい。
　ノエル熱にうかされた男子と、それを冷めた目で見る女子の対立は昼休みになっても止む事はなく、戦いは明日に持ち越された。
　一方、ノエル熱に乗りそこねた男子は女子グループから賞賛を浴びたものの、<男子組|なかまたち>からは不能、裏切り者、幼女嗜好とさんざんな烙印を押された。些細な話である。
「……まあ、確かにあんまりいないタイプの美人だけどな、ノエル先生」
　それでも、みんながあれほど夢中になる理由がいまいち分からない。
　美人だというのなら、秋葉の方がよっぽど―――
「あ、いたいた。ちょっといい、志貴クン？」
　とんでもないタイミングで、渦中の人物がやってきた！？
「あら。口から心臓でもはき出しそうな顔なのね。
　何か、いけないコトでも考えていたのかしら？」
「い、いえ、そういうワケでは、決して。
　……あの。それより何でしょうか、ノエル先生」
　ノエル先生と秋葉を比べていた後ろめたさを呑みこみながら、努めて冷静に話題を逸らす。
　と……
　彼女は俺の心を見透かしたような笑みを浮かべた。
「……ふふ。ノエル先生、という響きはいいものね。先輩って呼ばれるよりずっといいわ。
　日本にはまだ慣れていなくて不安だったけど、貴方みたいに純朴な子に先生って呼ばれるのはクセになりそう。―――背徳的で、ちょっとドキドキしちゃうもの」
「あの、ノエル先生……？
　ちょっと、近いん、ですけど―――」
「気にしないで。というか、こういう時は<鈍|にぶ>いフリをして黙っているものよ。
　ほら、ねぇ…………私の首筋、綺麗でしょう？」
　緊張か、夕日の魔力か。
　彼女の声は前からではなく、真後ろ―――それも耳元で<囁|ささや>かれたように、俺の耳に滑りこむ。
「そう警戒しないで。
　……ただ指と指を重ねるだけ。体温を伝えるだけ。私の<重さ|からだ>を預けるだけ。
　……そう。貴方に私を、食べてもらいたいだけ……」
　吐息が近づく。脚が絡む。逃げ道をふさぐように、背中に腕が回される。
　―――視界には。
　妙に艶めかしく、滑るような、女の首が―――
「……ほら……心音だけでとろけてしまうでしょう……？
　だから忘れて、貴方を忘れて……邪魔なものはぜんぶ取ってしまえばいいの……その建前も、その眼鏡も―――」
　蛇のような指が眼鏡の<蔓|つる>に触れる。
　瞬間。俺の体は“視たくない”という恐怖心だけで、彼女から飛び退いていた。
「なーんて、新任記念のジョウダンでした♡
　日本風に言うと、ちょっとしたスキンシップ？　じゃなくて名刺交換？　うん、どっちにしても、まだまだカタチだけの付き合いってコトね、私たち！」
「……冗談って、ノエル先生」
　……今のはそんな言葉で済まされるコトではないと思う。
　教師である以上、冗談でも悪ふざけがすぎるというか―――
「……そもそも用はなんなんですか。
　俺を探してたような口ぶりでしたけど」
「あ、それはもういいの。ちょっと手伝ってもらいたいコトがあっただけ。それももう終わったわ。
　それじゃあ、さようなら志貴クン。戸山先生みたいにならないよう、気をつけて帰ってね」
　ノエル先生は手を振りながら去っていく。
　俺は、今の台詞が、どうしても気になって―――
「ノエル先生」
　呼び止める。俺は、どうしても気になって、
「……戸山先生みたいにって、どんなです……？」
　しなくてもいい、訊くべきではない質問をした。
　戸山教師の代行としてやってきた新任教師は口元に、そっと人差し指をあてて、
「戸山先生はね、昨日、お亡くなりになったのよ。
　公園の外れで、体の半分が焼け落ちていたんだって」
　そんな意味合いの事を、歌うように口にした。
　……不吉な予感から目を背けるように、視線を床に向ける。
　……これでいい。
　余計な事は訊かない方がいい。知らない方がいい。
　厭な出来事は、胸の傷跡をえぐるだけだ。
「――――――」
　そんな俺の弱さを見透かすように口元を揺らして、ノエル先生は去っていった。
　……学校を後にする。
　<誰|なに>かに引っかかれたのか、首の左側面がかすかに痛む。
　特に用もないし、
俺は―――
　寄り道せず、まっすぐ遠野邸に戻ろう。
『日が落ちる前に帰る』という秋葉との約束もある。
　連続殺人事件なんてニュースを鵜呑みにする訳ではないが、人生、何があるか分からない。
　街に遊びにいっただけで胸に大怪我を負った子供もいるのだ。避けられるものなら、リスクは避けるべきだろう。
　……ファミレスに寄ってみようか。
　財布には弓塚に貰ったポイントカードがある。
　食欲はないがお茶を飲むぐらいの余裕はある。
　せっかくの贈り物を財布の肥やしにしておくのも忍びないし、弓塚のアルバイト先を見に行ってみよう。
　どこかに寄り道をして帰ろう。
　帰りたくない……という程ではないが、あの豪勢な屋敷に慣れるまで、あと幾ばくかの時間が必要だ。
　有彦の家にお邪魔するか、駅ビルの書店にでも立ち寄るか。
　どうあれ、１時間くらいの寄り道なら、余裕で屋敷の門限に間に合う筈だ。
「――――――」
　……首筋が妙に熱い。じんじんと腫れている。
　そのせいだろうか。どこに向かう予定だったのか見失っている気がする。
　夜は漏れ出した水のように街を<覆|おお>っている。
　朝とは比較にならない喧噪。
　行き交う車のヘッドライト、
　駅からはき出される、あるいは呑み込まれる人の群れ。
　学校の制服はすっかり数を減らし、
　色とりどりの服に身を包んだ人々が闊歩している。
「――――――」
　ベンチに座っていた体を立たせる。
　そろそろ時間だ。
　行く理由はまったくないが、繁華街に足を向けた。
「――――――」
　大通りから横道にそれる。
　道というより、ビルとビルの間に出来た死角。
　周囲に人影はない。
　物音もない。
　生き物の気配もない。
　ただ、<あ|・><の|・><奥|・>から、ガサガサと音がするだけ。
　自動販売機の明かりが眩しい。
　この場所に不釣り合いな、余分すぎる文明の利器。
　眩しいので通り過ぎる。
　もっと暗い、夜に相応しい闇に足を向ける。
　……もっと狭い、もっと人目のない暗がりへ。
　錆びた鉄柵に手をかける。
　これを開けて奥に<潜|もぐ>れば、そこはきっと―――
「ちょっと、そこの人」
「―――え？」
　呼び止められて足が止まった。
　軽い火花のような目眩で目が覚めた。
　……意味が分からない。
　なんでこんな場所に来て、
　なんでこんな奥へ行こうとしたんだ、俺……？
「すみません。百円、持ってませんか」
　振り返ると、自販機の前には見知らぬ女の子がいた。
　ジュースを買おうとしたが小銭がなく立ち往生している……といった<体|てい>だ。
「……………」
　こんな路地裏で、さらに奥まで行こうとしていた自分が後ろめたかったのか、空気に流されて百円を手渡す。
「どうも。助かりました」
　自販機に百円が投入される。ボタンが押される。
　女の子は落ちてきた缶を取り出すと、
　つまらなそうに顔をしかめた。
「こんな時間に散歩とか、<暢気|のんき>ですね。
　お家の人、待ってるんじゃないですか？」
「え―――ああ……！」
　言われて携帯を見る。
　時計は無慈悲にも７時40分―――やばい、門限まであと20分しかない！
　あわてて路地裏から駆け出す。
　―――と。
「待ってください」
　またも女の子に呼び止められた。
「なに!?　悪いけど急いで―――」
　ひょい、と放り投げられるジュース缶。
　あわててキャッチするものの、これ、この子が買ったものじゃなかったか？
「それ、あげます」
「えっと……なんで？」
「どれも飲めない味でした」
　不機嫌そうに言って、女の子は俺の横をスタスタと通り過ぎていった。
「い、いや、呆れてる場合じゃない……！」
　こっちも急いで走り出す。
　一日目から門限を破るなんて兄貴として、いや人間としてダメすぎる。当主様のカミナリが落ちる前に、なんとしても屋敷に戻らなければ……！
「た、ただいまー……」
　玄関の扉をできるだけ静かに開閉し、控えめにロビーに入りながら、大きすぎず小さすぎずの声で帰宅を報せる。
　時刻は午後８時、１分前。
　駅前から全力で走ってきてギリギリ間に合ったが、正直、吐きそうなほど辛い。あの坂道が心臓破りすぎる。
　登校する時は下りだからいいものの、屋敷に向かう時は上りになる事を失念していた。
「お帰りなさいませ志貴さま。
　お疲れとは存じますが、お部屋に戻る前に執務室においでください。―――秋葉さまから、お話があるとの事です」
「う、ぐっ……し、執務室、ですか」
　わざわざ執務室に呼びつけるあたり、秋葉の不機嫌さは推してしるべしだった。
「寄り道をするのは金銭に余裕があるからでしょう。
　今回の罰として、兄さんの月々の交遊費を二割ほど減らす事にします」
　そしてこの仕打ちである。
　執務室に入るなり、釈明の余地なく決定事項を告げられた。
　というか、そうか……これから俺の月々のお小遣いは秋葉から貰うことになるのか……そしていきなり減額か……。
　喜べ親父。秋葉はアンタ以上に厳格な当主に育ったよ。
「で、でもそれはないだろ？　俺は門限は守ったんだぞ？
　……まあ、日が暮れる前に、ってのは守れなかったけど……」
「あら、それは意外でした。私と約束を交わした自覚はあったんですね。では、どうして守れなかったんです？」
「いや。それが、つい忘れてたみたいで」
「兄さん、私も言い忘れていました。
　罰の追加として今夜の夕食は抜きとします」
「な―――」
　なんという暴君……！
　ギリギリ間に合ってこの厳しさとか本気で恐ろしい……仮に、もし門限を破ってしまったら、遠野志貴は一体どうなってしまうのか……。
　……トボトボとロビーを横断し、自室に向かう。
　あの後、当主さまに抗議をしたものの、夕食取り上げの罰だけは取り消せなかった。
　反面、小遣いの額は一割カットに留まった。
　兄の威厳、大勝利というところだ。
「志貴さん、志貴さん」
「……琥珀さん？」
　と、部屋に戻る途中、琥珀さんが話しかけてきた。
　朝と同じように、廊下の隅に身を隠しての内緒話モードだ。
「もう。ダメですよ、今日ぐらいはちゃんと帰ってこないと。
　いくらなんでも一日目なら言う事をきいてくれるだろうって、もうありえないぐらい早めに帰ってきてたんですから」
「？　帰ってきてたって、誰がですか？」
「そんなの決まって……
い、いえ、なんでもございません。
　コホン。それはともかくとして、夕食抜きは使用人として見過ごせません。
　ですので、お部屋の方に軽食をご用意しておきました。
　おにぎりとお味噌汁という簡単なものですが」
「……！」
　なんて気が利くお手伝いさんなんだろうか……！
　朝の携帯電話といい、秋葉に見つかったら叱られるのは彼女だろうに、ここまで気を遣ってくれるなんて……。
「でもいいんですか？　俺はすごく助かりますけど……」
「はい。志貴さんの健康に関わる事ですもの。
　それに、これは翡翠ちゃんも同意していますから。秋葉さまに見つかっても、二人で謝れば許していただけますよ」
「そうか、あの子も……」
　ああ見えて気を遣ってくれていたんだ。
　感情を出さない性格っぽいので誤解しがちだけど、翡翠も“夕食抜き”という仕打ちを哀れに思ってくれたらしい。
「志貴さん。あの子、じゃないのです。翡翠ちゃん、です」
「あ、うん、分かってる。でも、その……まだうまく話せないから、気軽に名前で呼ぶのは申し訳ない気がして」
「いいえ、それはいけません。ひどいお話です。
　翡翠ちゃんはああ見えてとっても優しいんですから。
　志貴さんもどうか、これからは気軽に、家族と思って、翡翠ちゃんと呼んで上げてくださいな」
　琥珀さんは真っ正面から見つめてくる。
　……確かに、いつまでも他人行儀では彼女の方もやりづらいだろう。
　今も琥珀さんと同じように気を遣ってくれた訳だし、俺もできるだけ気を許すようにしないと。
「分かりました。これからは何があっても翡翠ちゃ……いや、ちゃん付けはさすがに恥ずかしいんで、翡翠の名前を呼びます」
「はい。それはたいへん良うございます」
　それでは、と琥珀さんは一階に下りていった。
　地獄に仏、遠野邸のナイチンゲールに心の中で手を合わせて、こっちも自室に戻る。
　おにぎりか……琥珀さんの事だから、さぞ美味しいに違いない……。
「―――ふう、いいお湯だった」
　琥珀さん特製のおにぎりを平らげ、
　翡翠にお風呂の時間だと告げられ、
　大浴場から戻ってくると、時刻は９時になっていた。
　眠るにはいささか早すぎる時間だ。
　手元には参考書ぐらいしか読み物がないし、
　今日はそれほど疲れはたまっていない。
　無駄に時間を過ごすぐらいなら、ここは―――
　……今日はさっそく秋葉を怒らせてしまった。
　その埋め合わせではないが、軽い雑談で互いの距離感……というか、ものすごく感じるトゲトゲしい壁……を少しでも緩和させたかった。
　といっても時間が時間だ。
　妹とはいえ、約束なしで女性の部屋を訪ねるのはよろしくない。
「そもそもアイツの部屋、どこだよって話だしな……。
　東館の奥の方かな……」
　今度、翡翠か琥珀さんに尋ねておこう。
　今は……そうだな、居間に行ってみよう。
　食後は居間で寛いでいるというし、まだ秋葉がいるかもしれない。
「おや。一日ぶりだね志貴君。一晩たって、遠野に戻ってきた実感は出てきたかい？」
「――――――」
　驚きで声をあげそうな自分を抑える。
　居間にはあの男……昨日出会った包帯の怪人、斎木業人の姿があった。
「……こんばんは。斎木業人さん、でしたよね」
「斎木だけでいい。名前というものは、認めるに値する人間にしか口にされたくないものだからね」
　嘲笑のまじった笑みを浮かべて、斎木業人はそんな事を言った。
「……少し驚きました。こんな時間に来訪ですか？」
　皮肉には反応せず、一般論で返す。
　俺はまだこの人物の事を何も知らない。まず人となりを知って、どう対応するか考えるべきだ。
「こんな時間？　ああ、消灯前だったか。
　槙久氏が残した悪い伝統の一つだな。零時を迎える前に屋敷の灯を落とし、住人に眠りを強要する。
　彼は夜を嫌悪していた。いや、正確には夜に起きることを、か。
　ここは洋館としての造りも、土地が持つ歴史も素晴らしいものだが、この決まりだけはいただけない。
　遠野家の当主が、夜から目を背けるなぞ」
「……それが何か。夜通し騒ぐよりは遙かにマシな規則ですけど」
　自分も消灯時間の早さには文句があったが、つい言い返してしまった。
　槙久を侮辱される。それは、当主を引き継いだ秋葉を侮辱されている気がしたからだ。
「癇に障ったかね？　結構。少しは立場を弁えているようだ。
　勘当された身であっても、父親の名誉を守る。槙久氏はいい息子を持ったな」
「こんな時間に来訪するのは非常識では、と訊いているんですが」
「非常識ではないよ。遅めの仕事を終えて自分の家に帰ってくる……これは、ごく自然な日常では？」
「――――――」
　今度こそ面食らった。
　自分の家に帰ってくる……この屋敷を自分の家だと言ったのか、この男は？
　しかし、昨日は確かに遠野家の親戚ではないと―――
「失礼。少々、気の早い返答だった。
　私はよそ者だ。宿泊用に部屋を与えられているが、立場的には賓客だ。今はまだ、ね」
　くぐもった笑い声をあげながら、斎木業人はソファーから離れた。
　……居間を後にするつもりのようだ。
「今夜は部屋に資料を取りに来ただけだよ、志貴君。
　仕事を終えて、というのは嘘でね。総耶の都市開発はこれからだ。まだ片付けなくてはいけない案件が山ほどある。今夜は寝ずの番、というヤツさ」
「私が槙久氏を批難したのはこういうコトだ。
　現代のビジネスに昼も夜もない。夜になれば朝を待つだけなんて身の毛もよだつ方針だ。いつまでも前時代の気分で会社を回されては、これを引き継ぐ者が迷惑する」
　斎木業人が廊下に出たあと。
　ほどなくしてロビーから琥珀さんの声が聞こえてきた。客人を玄関まで見送るためだろう。
　会社を引き継ぐ……斎木業人と<槙久|オヤジ>の関係は不明だが、あの口ぶりでは良好な関係ではなかったようだ。
「………………」
　何とも言えないイヤな気持ちになってしまった。
　秋葉との雑談はまたの機会にしよう。
　今夜はおとなしく、部屋に戻って休むことにした。
　琥珀さんの部屋を訪ねてみよう。
　洗面所に行く途中で、琥珀さんの部屋がどのあたりかは当たりがついている。
　西棟一階の廊下を奥に向かって移動する。
　方角的にはロビーとは逆で、この通路を突き当たりまでいくとキッチンがあるはずだ。
　琥珀さんはそのキッチンの一つ前の小部屋に部屋を用意されているらしい。
「琥珀さんの部屋は……ここかな？」
　コンコン、と扉をノックする。
「琥珀さん、います？」
「はーい、ちょっと待ってくださいねー」
　部屋の中から陽気な声が聞こえてくる。
　２分ほど経ってから、琥珀さんは顔を出してきた。
「あれ、志貴さんじゃないですか。
　どうしたんです、こんな時間に？」
「いえ、その。……実は、テレビを見せてもらおうかなって」
「はい？」
「あ、そのですね、この家ってテレビがないでしょ？
　今まで普通の家で暮らしてきた俺にしてみると、寝る前にのんびりテレビを見るのが日課だったりするわけで、見ないと落ち着かないというか……」
　……口にすればするほど、自分がとんでもなくバカな真似をしているんだと気がついた。
　テレビを見せてくれ、なんて言って女の人の部屋にあがりこもうなんて、本当にどうかしてる。
　琥珀さんだって目を白黒させたまま呆れて―――ないぞ？
「言われてみればその通りです。
　志貴さんは今まで有間のお家で暮らしていたんですもの。いきなりこの屋敷の空気は重かったでしょう？」
「えっとですね……このコト、秋葉さまと翡翠ちゃんに話しちゃいました？」
「このコトって、琥珀さんの部屋に行くってこと？」
　はい、と頷く琥珀さん。
「いえ、誰にも話していませんよ」
「たいへん結構です。もしお話しされていたら、志貴さんを追い返さないといけないところでしたから」
　笑顔のまま言って、琥珀さんはきょろきょろと廊下を見渡す。
「幸いあたりに人影なし。
　ささ、見つかるとタイヘンですからあがってくださいな」
　ぐっ、と琥珀さんはこっちの腕を掴む。
「ちょっ、わわわ……！」
　中の様子は予想から大きく外れたものだった。
　部屋の半分は座敷になっており、奥にはびっしりと箪笥が並んでいる。そこだけ完全に和風の造りだ。
　一方、もう半分は洋風ではあるものの質素な造りで、洋館の一室というより学校の保健室を思わせる。
「てきとうな所に座ってください。
　わたし、お茶を煎れてきますから」
　琥珀さんは部屋から出ていった。
「…………」
　こほん、と咳払いをしてから座敷……ではなく、板間にあるソファーに腰を下ろす。
　琥珀さんの部屋は女の子の部屋、というより、よく整頓された事務室のような印象だった。
　奥にある箪笥は引き出しが小さいものばかり。
　あれでは手のひらに収まるぐらいのものしか収容できまい。
「あの箪笥って、もしかして……」
　薬を仕舞う箪笥ではないだろうか？
　……きっとそうだ。有間の家で暮らしていた頃、お世話になっていた町医者の爺さんの部屋にあれと同じ箪笥があった。
　となると……琥珀さんは医者の資格も持っている……？
　いや、いくらなんでもそれはない。だいたい医師資格を取るには彼女は若すぎる。
　ふと視線を逸らすと、座布団の上にはテレビのリモコンがあった。
　琥珀さんもさっきまでテレビを見ていたのかもしれない。
「はい、お待たせしました志貴さん。
　粗茶ですが、どうぞ」
「あ、どうも、おかまいなく」
「いえいえ、こちらこそ気の利いたおもてなしは出来そうになくて」
　琥珀さんはほがらかな笑顔のまま、濃いめの緑茶と、お茶請けに水ようかんなどを振る舞ってくれた。
「テレビでしたね。
　志貴さんはこの時間、なにを観ているんですか？」
「特に決まってないけど、基本的にはニュース……かな？」
「そうなんですか。
　志貴さんは落ち着いていますから、食後は読書をなさるのかな、なんて思っていたんですけど」
「残念ながら、そんな殊勝な心がけはないんです。
　よく勤勉な学生と見られがちなんですけど、根はぐうたらで。
　眼鏡のおかげで真面目そうに見えるんでしょうか」
「―――あっ、そうでした！
　ふふ、志貴さんったら眼鏡をかけていらしたんですもの。
　実は昨日、お出迎えした時に心の中でびっくりしていたんですよ」
「？　それは、どうして？」
「だって、秋葉さまは志貴さんが眼鏡をかけているなんて、一度も仰りませんでしたから。
　てっきり秋葉さまに似た、涼しげかつ鋭い目をしたお方がくるんだって身構えておりました」
　杞憂でしたけどね、と微笑む琥珀さん。
　……そうか。
　言われてみれば、この眼鏡をかけてから秋葉とは直接出会っていなかったんだっけ。
「けど、この眼鏡は伊達眼鏡なんですよ。
　目は悪いといえば悪いんだけど、視力は平均よりいい方だし。別に勉強のしすぎで視力が落ちたわけじゃないんです。あー……知的なイメージがあったのに、幻滅させちゃいました？」
「そんなことはありません。
　わたしだって本よりテレビのほうが楽しいですもの。
　志貴さんが思った通りの元気な方で、嬉しいです」
「そ、そうですか。それは、どうも」
　気恥ずかしくなって視線を逸らす。
　琥珀さんは真正面から屈託のない笑顔を向けてくるので、ついドギマギしてしまう。
「あ、ごめんなさい。
　ニュースを観に来られたのに、お喋りをしてしまって」
　琥珀さんはテレビのスイッチをオンにする。
　モニターに映像がはいる。
　時刻は９時半過ぎ。
　ニュース番組はお茶の間向けの明るいものではなく、深刻な<情報|ソース>を報道する、社会的なものにシフトしていた。
「ありゃ。また通り魔殺人ですか」
　ニュースは連続通り魔殺人を特集していた。
　隣の区から始まった通り魔殺人は、現在この総耶駅付近で繰り返されている。
　内容は単純なものだ。
『深夜、出歩いている若い女性を無差別に拉致して殺害、最後に血液を抜き取る』という凶行。
　被害者は既に八人におよび、後手に回り続ける警察の捜査能力が問題視されている。
　それ以上の詳しい話はメディアでは報道されない。
　被害者たちの共通項、正確な死因等、ニュースでは“血液を抜き取られている”だけの表現でぼかされている。
　愉快犯による模倣行為を防ぐための情報規制、というヤツだろう。
「怖い話ですねー。お巡りさんは何をしているんでしょう」
「うーん……突発的な犯行なんで、犯人の動機がしぼれないとか？　深夜の通り魔的な犯行なら、見つかりさえしなければ跡を追えません。動機……理由が無い以上、犯人は捜せないわけですし」
「単に、襲われてしまった方たちの運が悪い……いえ、目撃者のでない犯人の運が良い、と仰るのですか？」
「うん、まあ。そうでもないと、二週間近く犯人が見つからないのはおかしいでしょう」
「どうでしょう。しっかりとした準備があるのなら、それはおかしな話ではなくなると思いますよ？
　想像でしかありませんが、殺人というものは数を重ねれば重ねるほど証拠を残してしまうものです」
「行方不明者が八人いる、というのなら証拠は積み上がりませんが、遺体が八人分も発見されているのなら十分な状況証拠は<揃|そろ>っていて<然|しか>るべきです。
　なのに犯人が捕まらないのは、捕まらないだけの“理由”を犯人が作っているからと推測できます」
「――――――」
　……意外だった。
　不謹慎ではあるが、なるほど、と感心してしまった。
　琥珀さんの憶測が正しいかどうかはともかく、ここまで筋道をきっちり考える人とは思わなかった。
「しかし、そうなると犯人は突発的な通り魔じゃなくて、用意周到な殺人鬼になりますね。
　……仮にそいつが通り魔のフリをして計画的に事を進めているんなら、殺された人たちは無関係に見えて、やっぱり繋がりがあるとか？」
「うーん、ないんじゃないでしょうか。
　そんな繋がりがあったら、それこそ二人目ぐらいで警察の皆さんも気がつくでしょうし。
　結局のところ、これは隠匿性に関しては超人的レベルの用意周到さなのに、目的性に関しては極めて薄い、理解不能の事件ですねー」
　……琥珀さんは物騒な話題を笑顔で語る。
　どうも、彼女はこの事件にあまり関心はないみたいだ。
「琥珀さん、これってこの街で起きてる事件なんですよ？
　琥珀さんだって若い女の子なんだから、少しは恐いって思わないんですか？」
「いやですねぇ、大丈夫ですよ。
　通り魔さんは深夜に出現するだけですから。夜は外に出なければ会う事もありません」
　琥珀さんの考えは実にスッキリしている。
　そう割り切るには生々しすぎる話題だけど、ニュースで知る事件なんて、そんなものなのかもしれない。
「お邪魔しました。
　また観たくなったらやってきますから、その時はよろしくお願いします」
「はい、是非お待ちしておりますね」
　琥珀さんはきょろきょろと廊下を見渡す。
「このままお部屋までお見送りしたいのは山々ですが、志貴さんのお部屋には翡翠ちゃんが待ってますから、ここで失礼させていただきます」
「はい。それじゃ、おやすみなさい」
「…………」
　……屋敷の就寝時間が夜の10時なんて、知らなかった。
　８時の門限に加えて、この屋敷では10時過ぎは部屋から出てはいけない、という暗黙のルールがあるらしい。
「まったく。<槙久|おやじ>がいなくなっても堅苦しいのは変わらないんだな」
　……まあ、それも当然か。
　どんなに技術が進み、流行が移り変わろうと、遠野の家はこの在り方を何百年も守ってきたのだ。
　秋葉が当主になったぐらいで何が変わる筈もない。
「…………むしろ良くしてくれてる方だよな。
　少なくとも、親戚筋を余所にやってくれたんだから」
　……慣れない屋敷の空気に疲れてきた。
　今夜はおとなしく部屋に戻るとしよう。
　いや、このまま自室で過ごそう。
　風呂に入って体もいい感じにほぐれているんだし、この充足感を歩き回って無くしてしまうのは勿体ない。
　そうして、どたーん！　とベッドに体を投げ出す遠野志貴なのであった。
「志貴さま、いらっしゃいますか？」
「いにゃ！？」
　あわててベッドから飛び起きる。
　悪い事をしている訳じゃないんだけど、なんとなく悪戯をとがめられた気がしたからだ。
「も、もちろんいるよ。どうぞ、中にはいって」
「はい、それでは失礼します」
「ベッドメイクに参りました。
　志貴様にはお見苦しいものと存じますが、しばし、作業をお許しください」
　見苦しい、なんてとんでもない。
　人に自分の部屋のベッドメイクをしてもらえるなんて贅沢にも程がある。
　とはいえ、それを口にしたら逆に彼女を困らせてしまう事も、ここ二日間で学んでいた。
「ありがとう。部屋のすみっこで大人しくしてるから、俺のことは気にせずに、どうぞ」
　すす……と邪魔しないよう、部屋の隅に移動する。
「………………」
　翡翠はわずかに動きを止めた後、黙々とベッドメイクを始め、終わらせた。
　ベッドはおろし立ての新品のように、ピーンと綺麗に整えられている。
「メイクは完了です。失礼いたしました」
　軽くお辞儀をして扉に向かう翡翠。
「あ、ちょっと待っ―――」
　ベッドメイクのお礼を言いたくて呼び止める。
　掴む気はなかったが、つい翡翠の肩に手を伸ばしてしまった。
　瞬間。翡翠の手が、俺の手を払っていた。
「あ……」
　俺も驚いたが、それ以上に驚いているのは彼女の方だった。
「……ごめん。呼び止めようとして、つい」
　風呂上がりで気持ちが緩みきっていたのだろう。
　有間の家にいる時の気分で、距離感を間違えてしまった。
「……いえ。こちらこそ、失礼をいたしました。
　体に触れられるのには、慣れていなくて……どうか、お許しください」
　翡翠の肩はかすかに震えている。
　過剰とも感じたが、怯えさせてしまったのはこちらの方だ。
「とにかく、ごめん。……その、呼びかけるだけじゃ行っちゃう気がして」
　翡翠なら声をかけるだけで足を止めてくれたろうに。さっきはどうしてか、そんな事じゃ止まってくれない気がしたのだ。
「―――いえ。志貴さまが謝られる事はありません。
　非があるのはわたしの方です。お気分を害してしまい、まことに申し訳ありません」
「いや、ぜんぜん害してないけど……でもまあ、驚いたのはホントかな。翡翠、めちゃくちゃ反応良かったから」
　剣道家もかくや、という反応の速さだった。
　ここが道場なら拍手をしているところだ。
「そのような事は……普段、お屋敷の手入れをさせてもらっているから、でしょうか」
　照れくさそうに視線を伏せる翡翠。
　……良かった。今のが賞賛だった事は、ちゃんと伝わってくれたようだ。
「……申し訳ございません。先ほどのお声について、失念しておりました。
　ご用件はなんでしょうか、志貴さま」
「ああ、いや―――」
　ベッドメイクの礼を言いたかっただけ、とは言えない空気である。
　なんでもいいから話題を……って、そうだ。
「秋葉はどうしてるのか気になってさ。あいつの学校って全寮制だろ？」
「ご存じだったのですね。
　確かに秋葉さまが通われている学校は全寮制です。ですが異例として、自宅からの登校を許可されております」
「……つまり、
この家から学校に行ってるってコト？」
「はい。ですが、今日のように夕方に帰られる事は稀です。一日の学業がお済みになった後は習い事がおありなので、お帰りになられるのは決まって７時前となります」
「習い事……たとえば、どんな？」
「今日はヴァイオリンの稽古と、外国語の修得と存じております」
　今日はって……毎日そんなスケジュールなのか、あいつ。そりゃあ昔から<槙久|おやじ>に山ほど稽古を強要されていたから、いまさら驚く事じゃないのかもしれないけど……。
「また、就寝時間までは当日の遠野グループの事業報告に判を押し、起床された後は朝食の時間までにこれからの事業内容をご確認なされます」
「―――マジか」
　十分驚くべきことだった。
　心身だけでなく、生活習慣まで鋼でできてるのかアイツは。
「平日は夕食前には戻られますから、秋葉様にお話があるのでしたら、夕食後に姉さんに申しつけください。
　また、休日であれば秋葉様もお休みになれる時があると存じます。その時はわたしでもお声をかけられるかと」
「そ、そうなんだ。ありがとう、参考になった」
　それでは、と一礼して翡翠は退室した。
　しかし、それにしても……
「ヴァイオリンの稽古に、会社の重役ときた……」
　実際に事業を回しているのは各部門のお偉いさんだろうが、最終的に行われる“すべての決定”に目を通しているのだろう。
「……執務室にいたのは伊達じゃない、か」
　後ろめたさと、素直な尊敬が入り交じる。
　記憶の中の秋葉は大人しくて、いつも不安げな瞳で俺の後をついてくる、線の細い女の子だった。
　それが今では、<槙久|おやじ>の後を継ぎながらも、学生としての生活もこなしているのだ。
「―――そうだよな。
　七年も経てば、人間だってガラリと変わる」
　自分が七年間で今の遠野志貴になったように、
　秋葉もこの七年間で今の遠野秋葉になったんだろう。
　七年間は、長い。
　今までの人生のおおよそ半分。
　それも子供から大人になろうと成長する一番大切な時期に、俺はこの屋敷にいなかった。
「……兄貴失格だな、ほんと」
　当然の事実を、自嘲するように呟く。
　いまさら悔いても許されない事ではあるが。
　この七年間一緒にいてやれたら少しはあいつの負担を減らせていたのだろうか、なんて、虫のいい“もしも”を口にした。
　10時になった。
　俺が消すまでもなく、電灯は自動的に消灯した。
　この時間になると、執務室以外の明かりはいったん落ちる仕組みなのだそうだ。
　その後はスイッチを入れ直せばどの部屋でも電灯はつくが、それは緊急時のための措置らしい。
　恐らく、備え付けのスタンドライトを使うと夜更かしをしているのがバレる。
　その上、夜10時を過ぎた後の外出は許されていない。
「……うーん。
　こっそりスタンドライトでも買ってくるとか？」
　最近は携帯端末サイズの折りたたみ型スタンドライトもある。
　消灯時間なんていくらでもやり過ごせるのだが……
「まあ、必要はないか……。基本、夜は寝るものだし。
　試験期間の時なら就寝時間も延ばしてもらえるだろ」
　用意された寝間着に着替えてベッドにもぐりこむ。
　……大怪我を負ったあの事故以来、こうやって横になるのはどうしても抵抗がある。
　柔らかいベッドなら尚更で、とにかく、楽な状態に身を預ける事を嫌がっていたらしい。
　有間の家でも啓子さんをさんざん困らせた。
　俺は眠りこそ深いものの、自分から眠りにつく子供ではなかったのだとか。
「―――よし、寝るか」
　できて当たり前の事を自分に言い聞かせる。
　眼鏡を外して、目蓋を閉じる。
　寝付きが悪かったのは子供の頃の話だ。
　今はこうして目蓋を閉じれば、人並みに眠りに落ちて―――
　オーーーーーーーーーン。
　―――波のように、何かの声が聞こえてくる。
　オーーーーーーーーーン。
　―――動物の遠吠え。野犬にしては細く高い。
　オーーーーーーーーーン。
　―――鼓膜に響く。月にでも吠えているのか。
　オーーーーーーーーーン。
　―――厭なにおい。この獣の咆哮は、頭痛を招く。
　オーーーーーーーーーン。
　―――音はやまない。
　　　　頭蓋に撃ち込まれた弾丸のように、
　　　　カラカラと反響する。
　オーーーーーーーーーン。
　オーーーーーーーーーン。
　オーーーーーーーーーン――――――――
「……ああもう、やかましいっ！」
　眼鏡をかけながら目を開ける。
　窓の外からはまだ犬の鳴き声が聞こえてくる。
　時計は夜の11時になったばかり。
　安眠妨害どころの話じゃない。
「くそ……なんなんだよ、この鳴き声……」
　犬の遠吠えは屋敷の外から聞こえてくる。
　……このままじゃ眠れそうにない。
「……仕方がないか。
　犬がうるさいなんて、警察に電話しても取り合ってもらえないだろうし」
　ベッドから起きて学生服に着替え直す。
　これでは秋葉たちも眠れずに悩んでいる筈だ。
　屋敷にいる男手は自分だけだし、ここは様子を見にいくしかないだろう。
　屋敷を出る。
　夜は凍りついたように、何もかもが止まっていた。
　月は雲に隠れている。
　電灯の光さえ、キャンバスに落とした絵の具のように固まって見える。
　オーーーーーーーン。
　…………オーーーーーン…………
　……………………オーーーーーーー……………
　奇妙な事に、遠吠えは外に出ると弱々しく聞こえた。
　それとも遠吠えが消えかけているだけなのか。
　どちらでもいい。
　この音は耳にというより、脳と目に痛くてたまらない。
　聞いているだけで心臓がどくどくと活性化するような、生理的な嫌悪感。
「うる―――さい」
　歩き出す足が重い。
　指先の感覚が不確かだ。
　ふと。
　吐く息が白いことに、気がついた。
　屋敷の外はいっそう、静かだった。
　何もかも途絶えているような錯覚。
　停止した世界に、自分の影法師だけが<活|の><動|び>ている。
「………………」
　なぜか喉が渇いている。
　屋敷の周り、高い壁が延々と続く夜道。
　かじかむ指を吐息で温めながら、犬たちが集まっているであろう方向に歩を進める。
「――――――え？」
　意識が停止する。
　遠く離れた電灯の下に、何か、
　今まで見たことのない（正常であれば見ることのない）、
　不可思議な光景が―――
　　　　　　　　　　　　　　　　　溶けかけた犬。
　なんだアレは。
　　　　　　　　　　　　　　　　　向けられた長い刃物。
　なんだアレは。
　　　　　　　　　　　　　　　　　溶けかけた遠吠え。
　なんだアレは。
　　　　　　　　　　　　　　　　　突き刺さる長い刃物。
　なんだアレは？
　気が違ったかのような絶叫。
　あるいは強風。
　鼓膜を引き裂く波が走り抜けた後、もう、犬の鳴き声も、犬の姿もなくなっていた。
　初めから存在しなかったように。
　跡形もなく、溶けて消えた。
　―――では、それは幻か。
　いま見ているものは幻覚、あるいは夢か。
　―――では、あれは幻か。
　ぽつんと、闇をきりとったような街灯の下、よく分からないモノが立っている。
　あれはコート……だろうか。
　厚いコートを羽織った人影は、立ち尽くす俺に気がついた様子もない。
「――――――」
　喉が渇く。全身が発汗している。
　夜の空気が、じっとりと肌に絡み付く。
　なにがどうというワケでもないのに、
　海の底にいるみたいに、すべてが重苦しく感じられる―――
『[zap00][zap00][zap00][zap00][zap00][zap00][zap00][zap00]』
　遠い異国の音が聞こえた。
　目眩に意識を奪われかける。
　よろめく足に力をこめて、なんとか倒れずに踏みとどまる。
　と―――
　そこは普段通りの、人気のない国道だった。
「は――――あ」
　ホッと息をつくと、肺は貪欲に空気を取り入れた。
　……気がついていなかったが、正門を出てからこっち、まともに息をしていなかったようだ。
「……………」
　もう遠吠えは聞こえない。
　……熱にうかされるように、幻を後にした。
　……部屋に戻ってきた。
　秋葉たちは起きている気配がなかった。
　あの犬の遠吠えに我慢できなかったのは、どうやら自分だけだったらしい。
「―――――ぐ」
　なんだろう。
　まだ、頭が痛い。
「あれ……なんで震えてるんだろ、俺」
　見れば指が震えている。
　全身も小刻みにガタついていて、背筋がやけに冷たい。
　喩えるなら、そう。
　脊髄をひきぬかれて、代わりに氷の柱を刺し込まれたみたい。
「―――――」
　くらりと眩暈がした。
　……いつもの貧血だろうか。
　意識が脳みそごと、どしゃりと地面にぶちまけられる感覚。
　その途中で、イヤなものを、見てしまった。
「――――――」
　眼鏡をしてるのに、あの『線』が視える。
「うっ、ぶっ………！」
　こみ上げる吐き気に、眼球が耐えられない。
　ここ七年ずっと見ないように努めてきた反動だ。
　この<事実|ふうけい>に、俺の精神が耐えられない。
　気持ち悪い。貧血の眩暈とあいまって、今にも胃の中のモノを吐き出してしまいそうだ。
「……嘘だろ。どうなってるんだ、これ」
　よく、わからない。
　ただ、目を開けているかぎり、あのラクガキが視界に飛び込んできてしまう。
「―――悪い、夢だ」
　なんとかベッドに倒れこむ。
　……そう、なら眠ってしまえばいい。見えている物を否定するには、それが一番てっとり早い方法だ。
　……体も思うように動かない。
　今はこのまま死体のように。
　糸の切れた人形のように、眠ってしまえばいいだけだ―――
　午前中の授業は終了した。
　教室の空気はいつもより浮き足だっている。
　３時限目がノエル先生の授業だったこともあり、男子と女子の摩擦が表面化しつつあるためだ。
　……どうも、ノエル先生は女子グループからは“気に入らない教師”に認定されたらしい。
　ともあれ昼休みになった。
　大部分は食堂と購買部に移動している。
　教室には……
　弓塚をはじめとした女子グループが残っている。
　さて、どこで昼食をとろうか。
　食堂で楽に済ませよう。
　幸い、今日はそれなりに体調がいい。
　たまには豪華なＡ定食を頼もう。
　やや値は張るので普段は注文しないが、懐事情はそう気にしなくていい。
　なにしろ昨日から遠野家のご長男さまなのである。
『学食は毎日、いちばんリッチなものにしたい』
　とご当主さまに提案すれば、笑顔で受諾してくれるに違いない。
『そうですか。では兄さんの外食費はすべて、一月分の食券にしてお渡ししましょう。
　学校の食堂に問い合わせて、その月の献立を把握した上で、何を食べるのかを決めさせていただきますね？』
「……む？」
　なぜか寒気がしたが、気にせず食堂に向かう。
　思うまま、好きなものを食べられる自由を謳歌しよう。
　購買部でパンでも買って簡単に済ませてしまおう。
　これからの財政事情は厳しいものとなる。
　我が家のご当主さまは遊び心がないので、余分な収入など望むべくもない。悲しいが、そのあたりの希望はないのだ。
　なので出費は可能なかぎり控えておきたい。もしもの時に一文無しでは情けなさすぎるし。
　購買部で手頃なパンと紅茶パックを買ってきた。
　新しい<商|パ><品|ン>を入荷したとかでいつになく混雑しており、時間をとってしまった。弁当組はもう昼食を終えて雑談に入っている。
「遠野くん、これからランチ？」
「そ。うるさいのもいないし、気楽にね。弓塚さんは？」
「わたしはもう済ませちゃった。
　それで、ちょっとおかずが余っちゃったんだけど……これからお昼なら、サイドメニューとしてどうかな？」
「――――――」
　気付かれないよう女子グループを盗み見る。
　なにやら数人があつまって俺と弓塚の顛末を考察しあっている。
　……理由はどうあれ、断ったら弓塚が彼女たちにいじられるのは明白だ。
「それはありがたい。パンだけじゃ味気ないし、ありがたくごちそうになります」
　両手を合わせて弓塚に感謝する。
「そ、そうだよね、パンだけって寂しいよね！
　はい、これ！　唐揚げとアサリの佃煮！」
　不思議な組み合わせだった。
　唐揚げはお母さん作だが、佃煮は弓塚作らしい。彼女の名誉の為にコメントしておくと、味は普通だった。
　ともあれ、おかげで華やかな昼食になったと思う。
「ごちそうさま、おいしかった。
　次に機会があれば、次はこっちがお返しさせていただきます」
「い、いいよ、今日はたまたまだから！　
　そ、それより……そうそう！　戸山先生の話、聞いた？」
「戸山の話って、昨日のヤツか？
　不幸にあったとか、そういう噂の」
「うん！　あのね、あれ、間違いなんだって！
　なんでも自動車事故に巻きこまれて、脚を骨折したから入院する事になったらしいよ」
「そうか、それは良かった。あ、いや、良くないな。
　脚を怪我して入院って事は歩けないって事だもんな。戸山からしたらふざけるなって怒られそうだ」
「あ……。
　そ、そうだよね、わたしったらなに喜んでるんだろ……。
　ごめんなさい、考えが足りませんでした……」
　笑顔から一転して反省する弓塚。
　でも彼女の気持ちも分かる。
　噂にすぎなかったにしても、“死んだらしい”とまで言われていたんだ。それが脚の怪我と聞いて、良かった、と安堵してしまうのも仕方がない。
「気にしないで、俺も弓塚さんと同じだったし。
　けど、それじゃしばらく担任不在か。いなければいないで寂しいもんだな」
「うん。早く治して戻ってきてほしいよね」
　弓塚の笑顔に釣られて、俺も口元が緩む。
　彼女はものすごい美人という訳ではないけど、その代わりに周りを安心させる魅力があった。
　というか、その人の良さから、クラスではいい“<相談役|はなしあいて>”として頼られてしまっている。
　のんびり屋なのに人気者。
　暗黙の了解でクラス委員に推薦され、『自分じゃこなせない』と謙遜しながらも今まできっちりこなしてきたのは、やっぱり弓塚の人徳……というか、性格の良さあってのことだ。
「………………」
　気がつけば昼休み終了まであと２分。
　いいニュースも聞けたし、やかましい有彦はいないし、午後は平和に過ごせそうだ。
「………………」
　ところで。
　どうして彼女は自分の机に戻らないのだろう？
「弓塚さん、もうすぐ５限目だよ」
「ひゃい!?　あ、うん、知ってる、あと１分、１分でチャイムだよね！」
「ああ。みんなチャイムが鳴ってから席に戻るだろうから、まだ余裕はあるけど」
「い、いやどうかな、わたし的に余裕はないんだけどでも乾くんがいない今がチャンスというか、あの、そのっ！」
「？」
　チャイムを前にして、それぞれの席に着き始めるクラスメイトたち。そんな中、
「そのっ、ですね！
　これ、余ってるから遠野くん使うかな!?」
　弓塚はカードらしきものを差し出してきた。これは……ファミレスのポイントカード……？
「あ、ありがとう。でもいいの？」
「ポ、ポイントは溜まってるから！
　いやぁ、友達がピンチでアルバイトに応募したら、店長さんにカードいっぱい貰っちゃって！　気が向いたら食べにきてね！　夕方７時とか、そういう時間に！」
　弓塚は転がるように自分の席へと駆けていった。
　予鈴が鳴る。
「………………」
　本気で嬉しいのだけど、素直に喜べないこの複雑さ。
　それというのも昨日の昼飯時、有彦があんな話を振ってきたからだ。
　遠野家の話もさくっと終わり、互いに昼食を食べ終わろうという時。
「ところで、弓塚のコトだけど。
　おまえ、アイツに気があるとか、付き合う気とかあんの？」
　このように、頼んでもいない人生相談を展開された。
「…………。なんでいま、そんな話を？」
「いや、今朝もアプローチされてたでしょキミ。ちょいと気になってな。弓塚、一応クラスのアイドル扱いだろ。万が一にもおまえさんに脈があるなら止めておこうと思ってな」
「はあ？　なんだそりゃ。俺が弓塚さんをどう思っていようと、オマエには関係ないだろ」
「そりゃねえけどよ。どっちも不幸になる組み合わせとか、見てらんねえって思っただけ。
　弓塚はああ見えて、なんつーか……
　まあいいや。確かに俺が口を挟むコトじゃねえ。
　で、どうなんだよ。アイツと付き合う気、あんの？　あんだけモーションかけられてたら普通は即カノジョ確定だろ？」
「……それは難しいと思うけど」
「ほう。弓塚、タイプじゃないのか？」
「そうじゃなくて。断っておくと、俺、弓塚さんタイプだからな。おまえがコナかけようものなら全力で止めるぐらい」
「パパかテメエは。じゃあなんで距離とってんだよ」
「いや、それが……なんて言うか、弓塚さんを見てるとなんでか悲しくなるんだ、俺」
「―――そりゃひでぇ。
　脈なしとかありとか、それ以前の話だったか」
　……自分の身勝手な感想に頭を抱える。
　しかしこればかりはどうしようもない。
　俺は無意識のうちにまっとうな価値観の人間……素で尊敬できてしまうような……を敬遠してしまうところがある。
　嫌いなのではなく、どちらかというと怖くて近寄れないというか。
「…………むう」
　きっかり１０００円分のポイントが貯まったカードを持て余す。
　店の名前はリンドバーグ。総耶駅北口にある、ごくごく平均的なファミリーレストランだ。
　廊下に出たとたん、見知った顔の上級生と出くわした。
「あれ、どうしたんですか先輩。
　二年の教室になにか用事でも？」
「はい、もちろんです。正確に言うと二年生の教室にではなく、二年生の、特定のある人物になのですが」
　シエル先輩はにっこりと笑うと、トテトテと近寄ってきた。
「さきほど購買部でたいへん良い新商品を購入したのですが、調子にのって買いすぎてしまいまして。
　ひとりでは食べきれないので、暇そうなお話し相手を捕まえにきたところなのです」
「はあ。捕まえにきた、ですか」
　見た感じ暇している生徒はいないが、先輩に誘われるなら誰だって時間を作る。むしろ行列ができるだろう。
　それをさしおいても、だ。
「先輩、二年生の教室に来ちゃダメですよ、上級生なんだから。誘うなら三年のクラスメイトを誘ってください。そのほうが会話も弾むでしょ」
「そうなんですけど、今日は年下の男の子とお話がしたい気分なんです。なんとなくなので、理由は聞かないでください」
　などと言いながら、先輩はススッとこちらに詰め寄ってきた。
「という訳で。遠野くん、お暇ですか？」
「え……ええ、それは、まあ。
　これから昼食をとるだけ、ですけど」
「それじゃあ捕まえました。ふたりで仲良く食べましょう。
　素敵な食事と一緒に、遠野くんの時間もいただきですね」
「――――――」
　先輩は笑顔のまま、くい、と俺の袖を引っぱる。
　それは本当に些細な仕草だったけれど、どうしようもなく逆らえない、不思議な強制力に満ちていた。
　中庭に出る。
　秋も深まってきたこの時期、快晴と言えど気温は肌寒い。
　中庭で昼食をとるのは風流を愛する生徒たちで、先輩もそのひとりに含まれるようだ。
「おっ、今日は珍しくベンチが空いています。
　さすが、ついてますね遠野くん！」
　先輩は軽い足取りでベンチに腰を掛けた。
　こちらも先輩に<倣|なら>い、やや距離をとって隣りに座る。
「それで、購買部の新商品って何なんですか？
　一年前に姿を消したカニクリームコロッケロール？」
　……昔、そういう素敵なメニューがあったのだ。
　あまりの高コストで一週間で生産中止になったが、今でも復活を待つ生徒は少なくない。
「ふふふ、それはですね……」
　先輩は嬉しさでとろけるように笑って紙袋を膝に置くと、中から四つの総菜パンを取りだした。
「じゃーん！　購買部の仕入れルートに進言することはや一週間！　ついに！　本格ベーカリーの<商品|アイテム>販売が実現したのです！」
　それは手のひらからややこぼれるほどの、楕円形をしたずんぐりむっくりしたパンだった。
　焦げ茶の表面にてかてかと油の光る揚げパンだった。
　四つとも同じ大きさ同じデザインだった。
　どこからみても揚げたてのカレーパンだった。
「いい……この生まれたばかりと見まごう焼き加減……一個三百円と割高ですが、学生の贅ここに極まったと言っても過言ではないでしょう。
　はい、どうぞ遠野くん。特別に半分おわけしますから、遠慮なく―――遠野くん？」
「……いや、あの。先輩、これさ」
　駅前の有名パン屋で売ってるカレーパンですよね？
「ホワイ？」
　ホワイ、ではない。
　そんな、“これで喜ばないなんて、もしかして貴方は地球人ではないのですか？”みたいな眼差しを向けられても困る。
「昨日もそうだったけど……先輩、辛いの好きなの？」
　なんとなく、『カレー好きなの？』と具体的な単語を避ける俺だった。
「え、ええ、まあ。あ、でも辛ければ好きというワケではなくてですね、特定の味付けがたいへん美味しく感じるというか……そ、そうですね。いくら好きでも、四つぜんぶ同じ味というのは、ちょっと考えなしでしたね……」
　良かった……先輩も何が異常なのか察したようだ。
「でも分かりますよ。好きなものってちょっと多いぐらい買い込んでおかないと不安になりますからね。
　それじゃお言葉に甘えて、遠慮なく」
　先輩の膝上に広げられたカレーパンの一つを手にとって、口に運ぶ。
「いただきます。……ふむふむ。外はカリカリ、パンは油がしみてほのかに甘く、中の具はしっかり詰まってる……うん、美味しい。ホントに美味しいですね、先輩」
　普段は食べ慣れていない事もあり新鮮に感じられる。
　油が多いので敬遠していたけど、たまに食べる分には揚げパンはたいへん美味しい。
「でも先輩、お腹は大丈夫ですか？　カレーと揚げパンって胃にもたれますよ。女の子にはきついのではないかと」
「そ、そうなんですか？
　えっと……わたしはこのあと体育ですから、問題なく消化できちゃうと思います、はい」
「…………」
　体育なら余計に消化に良いものを選ぶべきではないのだろうか？　先輩の判断基準はいまいち分からない。
「体が丈夫なのだけが取り柄ですから、わたし。
　あ、それよりお茶ですよね。麦茶でいいですか、遠野くん？」
「ういーす、やっぱり日本人は麦茶ッスよねー！
　おっと余ったカレーパンゲットー！」
「きゃっ!?」
　先輩が驚くのも無理はない。
　いつのまに忍び寄っていたのか、その男はベンチの後ろから手を伸ばし、堂々とカレーパンを奪取、これを一口で完食した。
「なるほどコイツはうまい。すげえうまい。何よりカレーの味がする。空腹で起きたばかりの俺にはご馳走すぎますな！
　いやちょい腹にもたれるけど、そこは先輩の真心でイーブンってコトで！」
　ハハハ、と豪快に笑う有彦。
　こいつ、俺とシエル先輩が一緒にいるのを目撃して、こっそり付いてきやがったな……！
「有彦……おまえ、なんでそう人の邪魔をすることばかりに長けているんだ？　前世からの呪いなのか？　それともそういう生き物なのか？」
「へっへっへ、抜け駆けはなしですよお客さん。ひとりで美味しい目みようたってそうはいかねえ。
　つーかランチなら俺も交ぜろよー。昨日席ゆずってやったんだから、今日は俺がゆずられる番ですよねぇ？」
　有彦の中では昨日の昼食は“先輩のために席をキープしていた”コトになるらしい。まことに都合のいい頭である。
「……はあ。すみません先輩。うちのクラスのバカが失礼を働きました。こんなコト言ってますけど、昨日はいちおう役に立ったんで同席させて……先輩？」
　有彦から先輩に視線を移す。
　と。
「残念ながら却下です。
　乾くんはそこで歯を食いしばってください」
　そこには、素早く立ち上がってファイティングポーズをとっている先輩の姿があった。
　ひゅんひゅん、と空を切る先輩の左ジャブ。
「なんか堂に入ってらっしゃる!?」
　素人である俺たちが見ても、完璧なシャドーボクシングだった。
「お、怒ってるぞ有彦。たかだかカレーパン一つつまみ食いされたぐらいで、大人げないぐらい怒ってるぞあの人」
「お、おう、なんだこれ冷や汗止まらねえよヤバイマジヤバイ拳圧で先輩が大きく見える、
あ、
いま掠った鼻先にジュッて掠った、助けて遠野なんとかして先輩にあやまって！」
「あやまるのはオマエだろ!?　寄るな、こっちに寄るな、俺まで犠牲者にするつもりか!?」
　しがみついてくるバカ彦を引きはがす。
「うは、さすが遠野、ナイス薄情！　すみません先輩、つまみ食いは出来心っつーかノリっつーか、こう、先輩とランチするためのアプローチというかですねぇ!?」
「なるほど。この席に入りたかったと。
　ですが相応しい入場券が見あたりませんね。ランチであれば何か食べ物を持ってくるべきでは？」
「オッケー、了解しました！　急いで調達してきます！」
　有彦は一目散に逃げ出した。
　シエル先輩は何事もなかったようにベンチに座り直すと、
「乾くんにも困ったものです。
　いただきます、の言葉もなかったばかりか一口で飲みこんでしまうなんて、食材への感謝の気持ちが足りません。
　まあ、たいへん華麗な感想を二度口にしたので、今回は特別に大目に見てあげますが」
　やれやれと肩をすくめて、上級生らしい小言を口にした。
「お待たせ～！　入場券、買って来ましたぜ！」
「おお」
「げ」
　有彦は５分ほどで戻ってきた。
　その手にはパンパンに膨れた二つの紙袋を抱えている。
「おま、これ多すぎじゃ……」
「どうよ。あるだけ買い占めてみた。―――なんていうか、これだけあれば先輩も怒りを鎮めてくれると信じて」
　そうか……それほど迫力あったのかさっきの先輩。
　狙われていた当事者にしか伝わらない恐怖があったんだろう。
「いや、それにしても紙袋二つ分のカレーパンはやりすぎだ。皿に盛られたコロッケじゃあるまいし、これ、どうやって片付けるんだ？」
「食い切れなきゃ残せよ。多少は日持ちすんだから、明日の昼までの間食にすりゃあいい。
　そういうわけで、はい、先輩。
　さっきの謝罪と、お昼を一緒にする袖の下ッス」
「これはこれは、ご丁寧にありがとうございます。
　どうぞ乾くん、ベンチの方に。わたしは立っていますから」
「なに言ってんスか、
先輩は座っててください。
　んで、俺がいない間にどんな話してたんスか？
　学校終わったら遊びに行くとか？」
「その逆、学校の中の話。
　おまえ、朝いなかったから戸山の代わりに新しい先生が来たことも知らないだろ。
もったいない。うちのクラスの連中がまいあがってるぐらいの美人なのに」
「なにそれ初耳。新しい先生って転校生みたいなもん？
　……で、どんなタイプ？　オレ、高圧的な女教師は趣味じゃねえんだけど」
「いかにも去年まで研修生だったって感じで、バリッバリの癒やし系。
おまえ、包容力のある年上が好きなんだろ？　良かったな、好み通りの25歳だ」
「ちょっ、やめて25歳、25歳だけはやめて！　姉貴と同い年じゃねえか、それだけは生理的に受け付けねえんだよオレ！」
「おや。乾くん、年上の女性が好みなんですか？」
「そッスよ。年上はメンドくさくないし。
あ、いや、可愛ければメンドくさいのもアリなんで、一つ下まではアリですが」
「ふむふむ。甘えるのもかまうのも得意なワケですか。
　ところで遠野くんは？　年上、範囲なんですか？」
「と、特に意識はしたコトはないですけど、有彦ほど自由じゃないとは思います」
「えー。まったぁー。うっそくさーい。なーんか遠野からはお姉さん殺しの匂いがするんだよなー。家庭教師とか主治医の娘さんとか、その手の話には事欠かないんじゃねえの？」
「黙ってろ。いいから黙ってろ。そもそも家庭教師とか雇った事ないからな」
「ほう。
では、主治医の娘さんはあるんですか？」
「あ、ありますけど、面識だけです！
　シエル先輩も有彦の与太話に乗らないでください！」
「与太話じゃないけどなー。事実だけどなー。実際、抜け駆けして年上の先輩とランチしてたじゃないですかー」
「ですよねー。遠野くんがあんまりにも無防備にひょこひょこ歩いていたので、わたしもつい誘われてしまったのです。なんというか、雪原で兎にあったような気分でした」
「まあ、実際は兎の皮を被った冷血生物なんですけどねコイツ。クモとかサソリとか、あの手の機械っぽい生き物」
　あはは、と笑い合う先輩と有彦。
　異議を申し立てたいところだが、やぶ蛇になりそうなので沈黙に徹する。
　そして着々と減っていくカレーパン。
　先ほど皿に盛られたコロッケと評したが、訂正したい。山とつまれた揚げパンは、いま、スナック感覚で消費されている。
　昼休みが終わるまであと20分弱。
　はたして、カレーパンの運命や如何に。
　雑談は昼休みの終わりまで続いた。
　俺と有彦がバカな話をして、それにシエル先輩が意見を挟んで、また話が転がっていく。カレーパンもなくなっていく。
　そんな益体のない、いたって平凡な時間は流れる砂のように過ぎていった。
「おっと、そろそろ頭が痛くなってきた。腹もふくれ……いや待て、
何も食べてないような、食べられなかったような……
まあいいか、眠くなってきたんで保健室に逃げこみますわ。
　じゃあな先輩、今度はオレと二人っきりでお願いします！」
　午後もさぼる気満々らしく、有彦は保健室に走り去っていった。
「やれやれ。注意するべきなんでしょうけど、不思議と乾くんには甘くなってしまいますね。これも人徳なのでしょうか」
　シエル先輩は呆れながらも有彦を見送っている。
「あいつ、必要最低限のコトはきっちりこなしてますからね。自己の不始末は自分で片付けるヤツだし。先輩も信頼して放任してるんじゃないですか？」
「なるほど。たしかにそんな気はします。
　付き合いが長いだけあってよく分かっているんですね、乾くんのこと」
「ただの腐れ縁です。先輩だってすぐに分かりますよ。
　あいつ、突き抜けた阿呆だから」
　悪態で返すものの、先輩は優しい笑みを崩さない。
「……あの。なんですかその含み笑い」
「いえいえ。遠野くんが笑っているものですから、わたしもつられて笑っているんです。今日のは楽しい時間でしたね」
「――――――」
　言われて、自分の口元が緩んでいる事に気がついた。
　たしかに得がたい時間だった。
　考えてみれば、中庭でこんな風に学生らしく過ごすなんて今までそうなかったはずだ。
「……そうですね。ちょっと楽しかったです。
　あんまり中庭に出た事がなかったから。ああでも、前にもこんなコトがあったような。シエル先輩と会った時でしたっけ？」
　初めて先輩と出会った時の記憶を呼び起こす。
　先輩は
「ええ、こんな出来事なら沢山ありました。
　きっと、数え切れないぐらい」
　心底からの笑顔で、そんなことを口にした。
　廊下に出て、とりあえず階段に向かう。
　食堂に行くにしろ、購買で済ませるにしろ、どうあれ一階まで下りなければ。
　……と。
　一階に下りる際、不思議なものと遭遇した。
　新任のノエル先生が、何をするでもなく廊下に立っている。
　昼休み、教員が廊下にいるのは珍しい。
　我が校では、教員は職員室か準備教室か、食堂の教員スペースで昼食を摂るのが常だ。
　二階の階段踊り場で時間を使う理由はない。
　もしかして……
「先生。もしかして迷子ですか？」
　そんなコトはないだろう、とは思いつつ、念のため、声をかけてみた。
「やだもう、そんな頼りなさそうに見えた？
　ただの気分転換、ちょっとした息抜きよ。
　だってここの職員室、めっちゃアットホームでさー」
「“短い時間ですが、我々の事は家族と思ってください”
　とか言われたら目が点になるでしょ？
　新任初日で歓迎会に誘われるとか、心の準備ができてないっていうかぁ。
　みんなニコニコ笑顔って逆に怖くない？」
「―――はあ。まあ、確かに」
　面食らったのはこっちである。
　ざっくばらんなノエル先生の発言に、つい友人のように同意してしまった。
「でしょ？　高校の教師とか、ハンパに大人ぶった子供の相手で疲れきってるんだろうなー、なんて甘く見てた。
　めっちゃタフでポジティブ。それとスマイリー。
　私も笑顔には自信があるけど、先生方にはちょっと負けるなー」
　そう言いながら、ノエル先生は手にしていた携帯端末をスーツのポケットに仕舞った。
　……電話をしていた風でも、メールを作成していた風でもなかった。写真でも撮っていたんだろうか？
「でもまあ、いつまでも抜け出しちゃいられないわよね。
　観念して職員室にもーどろっと。
　それにしても……ふふ、迷子ですか、ってなに。ここ学校なのに、おっかしー！　それとも、それって日本人のナンパの定型だったりする？」
「い、いえ、そんなコトは」
「分かってる分かってる、困らせただけさ☆
　じゃあまたね志貴クン。素敵な気遣いありがとう♥」
　ノエル先生は鼻歌を口ずさみながら階段を下りていった。
　本当にふわふわした先生だ。
　けど……
「よく俺の名前、知ってたな……」
　新しい担任として、クラス全員の生徒の顔と名前は暗記済みらしい。
　態度で誤解してしまいそうだけど、熱心な先生なのかもしれない……。
　先生は言った。
　この目が<視|み>てしまうモノは、物の壊れやすい線なのだと。
　人体で言うのなら折れやすい<関節|かしょ>か、
　柔らかい目玉みたいなものだろう。
　そこに刃物を通せば何の力も要らず、
　どんな抵抗も摩擦もなく、万物は切断される。
　人体にかぎらず、鉱物だろうと何だろうと、
　あの『線』は等しく視界に現れる。
「よく聞いてね、志貴。
　あらゆるものは『壊れてしまう』という運命を内包しているの。カタチがある以上、こればっかりは逃れようのない前提でしょう？」
　それはつまり、セカイはツギハギだらけで、いつ壊れてもおかしくないという事だ。
　地面にもラクガキが走っているのなら。
　いつか、本当に何の理由もなく地面は裂けて、何もかも壊れてしまう可能性はある。
　少なくとも、ボクの視るセカイでは必ずある。
「そして、私たち人間はさらに細かく壊れやすい。
　怪我も回復も、老化も成長も、隆盛も衰弱も、すべては終わりに近づく変化だから」
　その意味を理解した時、心の底から、先生のくれた眼鏡に感謝した。
　だってそうだろう。こんな線がいつも視えてしまっていたら、とてもじゃないけど生きていけない。
　モノの壊れやすい線。
　確かな<約束|けつごう>のない世界。
　そんなものが視えていても、
　得になる事なんて、何ひとつないのだから―――――
「――――――、ん」
　古い記憶から目を覚ます。
　目蓋ごしに朝の光を感じ取って、目を閉じたまま枕元に手を這わせる。
　……あれ……眼鏡がない……？
　違和感を覚えつつ、試しに枕の右側も探ってみると、あっさり眼鏡を手に取れた。
　左側に置いておくのが習慣なんだけど……昨夜は頭痛が酷くてそれどころではなかったのかもしれない。
「……ふう」
　眼鏡をかけてから目蓋を開ける。
　もし誰かが見ていたら妙なクセと思われるだろうけど、朝から『線』を視るような事態はできるかぎり遠慮したい。
「おはようございます、志貴さま」
「うぇ!?」
　壁際に振り向くと、そこにはメイド服の少女が立っていた。
　あまりに気配がないので気がつかなかったが、ずいぶん前から居てくれたようだ。
　昨日と同じように、俺が寝過ごさないように起こしに来てくれたのだろう。
「そっか。ごめん、驚くのはおかしかった。
　おはよう翡翠。起こしに来てくれてありがとう」
「それが私の役割ですから、どうか、お気になさらないようお願いします」
　翡翠は厳かに頭を下げる。
　……と。その途中でピタリと動きを止めた後、スッと頭を上げて、
「いえ、驚かすのが仕事、という事ではなく。
　―――明日は志貴さまを驚かせないよう、努力いたします」
　……微妙におかしなところのあるメイドさんだった。
　侍女としての職務を完璧にこなせているのに、あまり人付き合いに慣れていない、そんな感じだ。
「いや、翡翠には何の問題もないと思うよ。
　まだ慣れていない俺が悪いんだ」
　ベッドから起きると、自分が寝間着に着替えている事に気がついた。
　……昨夜はたしか、あの遠吠えのせいで制服に着替えて……戻ってきた後は、そのままベッドに倒れたような……？
「……おかしいな。俺、制服のまま眠ったと思うんだけど」
「はい。あのままではお体に悪いので、姉さんに来てもらって、寝間着に着替えさせていただきました」
　翡翠は当然のように事情を説明してくれた。
　そっか、着替えさせてくれたのか。
　制服のままで寝ても別に体調は悪くはならないけど、皺になるし、寝間着の方が快適なのは確かだ。さすがプロのメイドさん行き届いてるなぁ―――って、ちょっと待った。
「着替えだって？」
　ばっ、とズボンとパンツを確認する。
　ズボンは真新しい寝間着で、パンツもまっさらな新品だった。
「翡翠」
「はい、なんでしょう」
「気を遣ってくれたのは嬉しいんだけど、これからは何としても起こしてくれ。……着替えっていうのは、ほら、やっぱり自分でやるものだし」
　もう手遅れな気恥ずかしさから、つい視線を逸らしてしまう。そんな俺に、翡翠ははい、と無表情で頷いた。
「学校の制服はそちらにたたんであります。
　着替えがお済みになられましたら居間においでください」
「……はあ。普通なら気がつくもんだけど、そんなに疲れてたのか、俺……」
　反省しても起きてしまった事は変わらない。
　さっさと着替えて朝食にしよう。
　学校の制服はきちんとたたまれていて、シャツにはアイロンまでかけられている。
　袖に腕を通すと、新品のように気持ちが良かった。
　居間には秋葉と琥珀さんがいた。
　秋葉はとっくに朝食を済ませたようで、優雅に紅茶を楽しんでいる。
　俺は―――
「やっ。おはよう秋葉」
　何はともあれ、まず秋葉に挨拶をする事にした。
「……おはようございます、兄さん。
　挨拶に覇気がみられませんが、昨夜はきちんと眠れましたか？　今にも倒れそうな顔をしていますが」
「あいにく、これが地顔だよ。朝から覇気に満ちた挨拶とか、俺に期待しないでくれ」
　昨夜の出来事はともかく、挨拶ひとつで人を夜更かしする不良少年と思わないでほしい。
「おはようございます志貴さん。
　朝食でしたら食堂でお出しいたしますので、いつでもお声がけくださいね」
　一方、琥珀さんのこの癒し力。北風と太陽か。
「ありがとうございます。
　でも、秋葉はもう済ませたのか？　見たところ食後のお茶みたいだけど」
「当然です。兄さんがどんな時間に起床しようとかまいませんが、せめて朝食ぐらいは余裕をもって済ませてください。
　７時をすぎて朝食をとるなんて、たるんでいる証拠です」
　いや７時はフツーだろー、と言いたい気持ちをぐっと堪える。この家はそもそもフツーではない。
「ふーん。そういう秋葉は何時に起きるんだよ」
「５時には起床しますけど、なにか？」
「……すみません、まいりました」
　常人では考えもしない事を、さも“不思議な事ですか？”なんて顔で返されては毒気も抜ける。
　こんな完璧な回答聞いたコトない。
「？　まいりました、とは何に対してですか？」
「いや、なんでも。……にしても、そんな早くに起きてどうするんだ？　遅刻対策か？」
「あのですね。よほどのトラブルがないかぎり、時間に遅れる、なんてコトはありません。
　兄さんの学校はここから徒歩で30分ほどなんでしょう？　そう遠くない場所なんですから、遅刻なんかしないでくださいね。恥ずかしいですから」
　いやあ、棘があってチクチクする。
　とはいえすべて正論なので、反論も浮かばない。
　秋葉が遠野家の体面を気にするのは当然の、いや、当主として果たさなければならない責務な訳だし。
「はいはい。成績はともかく遅刻はしないよう心がけるよ。
　夜更かしも―――」
　そこまで口にして、昨夜の出来事を思い出した。
　夜更かしをする気はないが、寝不足になる外的要因があっては同じ事だ。
「なあ秋葉。
　昨日の夜のことだけど、ここって毎晩ああなのか？」
「―――はい？」
「だから、昨日の夜の話だよ。
　アレじゃ秋葉たちだって眠れなかっただろ？」
「昨夜はきちんと熟睡できましたけど……なんの話でしょう？」
「なんの話かって、犬の話に決まってるだろ。
　夜の11時頃、野犬が吠えっぱなしだったじゃないか」
「おはよう琥珀さん。今朝はいい天気ですね」
「はい、おはようございます志貴さん」
　ありきたりの挨拶を、琥珀さんは満面の笑みで返してくれた。
「昨夜はよくお眠りになられましたか？
　慣れないお屋敷の夜ですから、なにか不具合がないかと心配していたのですが」
「大丈夫、天井の高さに落ち着かなかったくらいで、あとはぜんぜん。昔はここに住んでいたんだし、今はちゃんと気を配ってくれる琥珀さんがいますしね」
「あら。お上手ですね、志貴さん」
「いやいや。事実ですから」
　和気藹々と琥珀さんと言葉を交わす。
　わずか数日で俺は琥珀さんと打ち解けてしまっている。
　俺がコミュニケーション上手なのではなく、琥珀さんの笑顔の力だろう。
　―――と。
　さっきから無言でこっちを見つめている、もう一つの視線に気がついた。
「しまっ、
やあ」
　軽く手をあげて挨拶をする。
　秋葉はじっとこちらを見つめ、否、睨んでいる。
「しまっ、とは聞き慣れない挨拶ですね、兄さん。
　そのあとに何か続きがあるのかしら」
「ないよ。続きとかぜんぜんない」
　眉ひとつ動かさず即答する。というか、緊張で眉どころか顔の筋肉が硬直している。
「おはよう、秋葉。今朝はいい天気、かい？」
「あら、無理に挨拶をしてくれなくてもいいのに。
　どうぞ、私のことは無視して結構です。兄さんは琥珀と楽しく朝を迎えたいようですから。
　ああ。そんなに気が合うなら、いっそ琥珀の使用人になりますか？　私は一向にかまいませんが」
「……朝から全開だなおまえ」
　この妹の<棘|パワー>がすごい。
　兄貴として、まずは妹に声をかけるのが筋だったか……。
「秋葉さま、あんまり志貴さんをいじめないであげてください。お時間もありませんし、まだ朝食を済ませていないんですから」
「朝食が済んでいないのは兄さんの起床が遅いからでしょう。朝があわただしくなるのはこの人の自業自得です」
　ふん、と鼻をならす秋葉。
　そもそもからして、この時間まで俺が現れなかった事に不満があったようだ。
「琥珀さん。朝食って、俺の分はできてるんですか？」
「はい、支度はバッチリです。お声をかけてくだされば、いつでもご用意いたします」
「だめよ琥珀。もうこんな時間なんだから、兄さんに朝食を摂る時間はありません。学校に遅刻してしまいます」
「いやいやいや。まだ７時を過ぎたばかりなんだから、それぐらいの時間はあるだろ。
　ここからうちの高校まで徒歩30分ちょいなんだから」
「つまり朝食にかける時間は10分だけですか。おなかをすかせた犬じゃないんですから、朝食はゆっくり摂ってください」
「む、ぐ――」
　的確にこっちの不備をついてくる……恐るべき反応速度、反射スキルと言わざるをえない。
　まるでテニスの練習でひたすらボールをはじき返す絶壁のようだ。なにが、とは言わないが。
「……兄さん。
　何かいま、不審なことを言いかけましたか？」
「いや、何も。ほんと何も。
　それより犬じゃないんですからって、秋葉―――」
　と、思い出した。
　犬と言えば昨夜の出来事について確認しないと。
「なあ秋葉。
　昨日の夜のことだけど、ここって毎晩ああなのか？」
「―――はい？」
「だから、昨日の夜の話だよ。
　アレじゃ秋葉たちだって眠れなかっただろ？」
「昨夜はきちんと熟睡できましたけど……なんの話でしょう？」
「なんの話かって、犬の話に決まってるだろ。
　夜の11時頃、野犬が吠えっぱなしだったじゃないか」
「二人とも、おはよう」
「おはようございます、志貴さん」
　琥珀さんは白い割烹着に相応しい、これ以上はない笑顔で挨拶を返してくれた。
　一方、秋葉はちらりとこちらを<一瞥|いちべつ>するなり
「今朝はずいぶんとゆっくりなんですね、兄さん。
　まさかとは思いますが、休日と勘違いしているとか？」
　このように、朝から刺々しさ全開だった。
「ゆっくりって、まだ７時を過ぎたばかりじゃないか。
　ここからうちの高校まで徒歩30分ちょいなんだ、今日は早起きしたほうだよ」
「つまり朝食にかける時間は10分だけですか。おなかをすかせた犬じゃないんですから、朝食はゆっくりとってください」
「む、ぐ――」
　的確にこっちの不備をついてくる……恐るべき反応速度、反射スキルと言わざるをえない。
　まるでテニスの練習でひたすらボールをはじき返す絶壁のようだ。なにが、とは言わないが。
「……兄さん。
　何かいま、不審なことを言いかけましたか？」
「いや、何も。ほんと何も。
　それより犬じゃないんですからって、秋葉―――」
　と、思い出した。
　犬と言えば昨夜の出来事について確認しないと。
「なあ秋葉。
　昨日の夜のことだけど、ここって毎晩ああなのか？」
「―――はい？」
「だから、昨日の夜の話だよ。
　アレじゃ秋葉たちだって眠れなかっただろ？」
「昨夜はきちんと熟睡できましたけど……なんの話でしょう？」
「なんの話かって、犬の話に決まってるだろ。
　夜の11時頃、野犬が吠えっぱなしだったじゃないか」
　秋葉と琥珀さんは顔を見合わせたあと、そろり、とこちらを気遣うような視線を向ける。
　……人を夢遊病者か何かと決めつける態度、許すまじ。
「いい、秋葉には聞かない。
　琥珀さん、昨日の夜はうるさかったよね？」
「―――ええっと、どうなんでしょうか。
　たしかに昨夜は風が強かったとは思いますけど……深夜の見まわりで発見した異常は、志貴さんが制服のままベッドの上で眠っていらした事ぐらいですよ」
「……ああ、ソレですか。これからは、その、気をつけます」
「なに？　なにかあったの、琥珀？」
「いえ、別になにもありませんでしたよー。
　ちょっと志貴さんの寝相が悪かった、というだけですから」
　琥珀さんは笑顔のまま、秋葉の質問をサラリと流す。
「……ホントに二人とも気がつかなかったのか？
　昨日の夜、30分ぐらい外で野犬が吠えてたのに。ワンワンワンワン、そりゃうるさいったらなかった」
「ははあ。それはワンワンパニックですねぇ」
　信じてくれているのかいないのか、いまいち読み取れない反応だった。
「……まあ、わかりやすく言うと、そういうコト」
「ふーん―――私はそんな覚えはありませんけど。
　琥珀もないでしょう？」
「そうですねー。志貴さんには申し訳ないのですが、そのような事はなかったと思います」
「決まりね。あと考えられるケースといったら、兄さんは犬に吠えられる夢でも見ていた、というところかしら？」
「…………う、ぐ」
　二人にそう言われると、途端に確信が持てなくなる。
　……考えてみれば、あんな遠吠えが聞こえてきた事がおかしい。外には犬はいなかったし、道には―――
　道には、誰もいなかった筈だ。
　夢だったのではと言われると、ますますそんな気がしてくる。
「兄さんはまだ屋敷に慣れていないから、そんな質の悪い夢を見たんでしょう。
　そうですね、今夜も野犬に吠えられるようでしたら、とびっきり獰猛な番犬でも飼う事にしましょうか」
　くすり、と底意地の悪い笑みをこぼす秋葉。
「私は時間ですのでお先に失礼します。兄さん、登校中に犬に襲われないよう気を付けてくださいね」
　秋葉は優雅に居間を後にする。
　主人を送るため、琥珀さんも俺におじぎをしながら退室していった。
　食堂で朝食をいただいて、ロビーに出る。
　後ろには鞄を持った翡翠が付き添ってくれている。
　鞄ぐらい自分で持つと提案したものの、せめて玄関まではと押し切られてしまった。
　……俺は秋葉ばかりじゃなく翡翠にも弱いようだ。
　あ、いや、正しくは、翡翠には甘い、かもしれない。
　秋葉の場合、単純にあいつの言い分が正しいのでこっちは正当性で負けてしまう。遠野秋葉の立場は、事実として遠野志貴より上にある、というのもある。
　けれど翡翠は真逆だ。
　俺は翡翠に強くでられる立場だが、その強権を振り回そうとは思えない。
　なんというか、翡翠にじっと見つめられると何でも聞いてあげたくなるというか……。
「志貴さん志貴さーん！　ちょっと待ってくださーい！
」
　たたたっ、と琥珀さんが二階から降りてきた。
「……………………」
　翡翠は琥珀さんがやってくると、すい、と身を引いた。
「あれ、琥珀さんは秋葉と一緒じゃなかったの？」
「秋葉さまはお車で学校に向かわれますから。
　今朝は志貴さんにお届け物があるので、屋敷に残らせていただいたんです」
「お届け物って、俺に？」
「はい。昨日、有間家のほうから荷物が届いたんですよ」
　ニッコリと琥珀さんは笑みをうかべる。
「……？　いや、俺は自分の荷物は全部持ってきたよ。
　もともとむこうで使ってたのは有間の家のものだったから、自分の物なんて着てる服ぐらいで……」
「そうなんですか？　こちらが届けられたお荷物ですけど」
　琥珀さんは20センチほどの、細い木箱を手渡してくる。
　重量はあまりない。
「―――琥珀さん。俺はこんなの見た事もないんだけど」
「志貴さんのお父さまの遺品との事ですけど。志貴さんに譲られるように、と遺言があったとか」
「……あの親父が俺に？」
　……それこそ実感が湧かない。
　七年前、俺をこの屋敷から追い出した遠野槙久がどうして俺に形見分けをするんだろう？
「まあいいや。琥珀さん、これ部屋に置いておいて」
「―――――」
　琥珀さんはじーっ、と興味深そうに木箱を見つめている。
　なんだか玩具をほしがる子供みたいな仕草だ。
「じーーーーっ」
　子供そのものだった。
「……わかりました。中身が気になるんですね、琥珀さんは」
「いえ、そんな事はないですよ？
　ただ、どんな贈り物なのか興味があるだけで」
　……いや、十分気になってますよ、家政婦さん。
「なら開けてみましょう。せーのっ、はい」
　ズッ、と乾いた音をたてて木箱を開ける。
　中には15センチほどの、細い鉄の棒が入っていた。
「………鉄の棒………だ」
　とくに飾り気のない、使い込まれた跡のある鉄の棒。
　……こんな骨董品が形見とは、親父はよっぽど俺が気に食わなかったとみえる。
　それに、親父が使っていた鉄の棒は、もう少し太くて、無骨だった気が―――
「違いますよ志貴さん。
　これ、<果物|くだもの>ナイフなんじゃないでしょうか？」
　琥珀さんは鉄の棒を箱から取り出す。
「ほら、飛び出しナイフってあるじゃないですか。
　あれと同じみたいです。せーの、はいっ」
　パチン、と音がして10センチほどの刃が飛び出した。
　……なるほど、たしかにこれはナイフだ。
「中の構造は今風のようですが、外側はずいぶんと古いものみたいですね。ほら、裏に年号も書かれています」
　琥珀さんは刃をしまってからナイフを渡してくれた。
　……たしかに握りの下のほうに数字が刻まれている。
　七という漢字と、その後には夜という漢字。
「姉さん、これ年号じゃない。
　七つ夜、と書かれているだけよ」
「っ……！」
　振り返ると、今まで黙っていた翡翠が後ろからナイフを覗きこんでいた。
「び、びっくりしたあ……おどかさないでくれ翡翠。
　そんな後ろから覗かなくても、見たければ、ほら」
「あ―――――」
「し、失礼いたしました。
　あの―――その短刀があまりに綺麗でしたから、つい」
「綺麗？　これ、綺麗っていうかなあ。
　どっちかっていうと鈍いというか、古くさい感じだけど」
「そんな事はありません。由緒正しい古刀だと思います」
「……そうなの？　俺にはガラクタにしか見えないけど……」
　翡翠があんまりにも強く断言するもんだから、こっちもその気になってきた。
　……うん。
　これはこれで、形見としては悪くないのかもしれない。
「七つ夜……ですか。その果物ナイフの名前でしょうかね？」
　ナイフに名前を付ける人はそうはいないと思うけど……なんにせよ年代物なのは確かだろう。
　刃を収めて鞄の中に仕舞う。銃刀法違反だが、今日一日ぐらいは大目に見てもらいたい。
　後で有彦に見せて自慢してやろう。……まあ、あいつが学校に来ていたら、の話だけど。
「志貴さま。お時間はよろしいのですか……？」
「まずい、そろそろ行かないと間に合わないか。
　それじゃ琥珀さん、届け物ありがとう」
　いえいえ、と琥珀さんは手を振って俺たちを見送った。
　屋敷の門を出ると、なにやら騒がしい事に気がついた。
「……なんだろ。なんかあっちのほう、騒がしくないか？」
「それが、今朝方あちらの路面で血痕が発見されたそうです」
「血痕……？　血の跡……ってことか？」
「はい。屋敷の塀にも血の跡がありました。
　志貴さまがお眠りの間、警察の方々が昨夜の様子を尋ねにいらしたようです」
「それって、人が死んでたとか……？」
「いえ、発見されたのは血の跡だけだそうです」
「――――――」
　屋敷の東側の国道―――それは昨夜、俺が様子を見に行ったあたりだ。
　血痕……飛び散り、こびりつくような赤い色。
　少なくともあの時、そんな目立つ色彩はどこにも無かった。
　あったのは黒色だけだ。かじかむような寒さだけだ。血の温かさなんて、あの場には微塵も存在しなかった。
「志貴さま？」
「………いや、なんでもない。
　それじゃあ行ってくるよ。見送りありがとう」
「行ってらっしゃいませ。どうか、道々お気をつけて」
　深々とおじぎをする翡翠。
　ただ学校に行くだけでお気をつけてもないけど、翡翠なりに俺の体を気遣ってくれているのだろう。
「ありがとう。なるべく気をつける。翡翠も気をつけて」
　軽く手をあげて、翡翠にお礼を言って屋敷の門を後にした。
　ＨＲ前。
　教室はいつにもまして賑やかだった。
　ノエル先生の評価について、男子と女子がおかしな論争を繰りひろげている。
　幸い、自分はどちらの陣営にも属していない。なので、我関せずと教室を横断し、自分の席まで歩いて行くと……
「いょぉう。遅いぞ、遠野」
　窓際の俺の席では、朝の教室に相応しくない男がひとり、ニヤニヤ笑いをうかべて待っていた。
　しかも、
「おはようございます、遠野くん」
　予想外な人物と一緒に、である。
「先輩？　なんでうちの教室に？」
「あれ、そんなに珍しい事ですか？　遠野くんが教室にいるかなって、ちょっと寄ってみただけですけど」
「珍しいコトです。普通、上級生は下級生のクラスには来ませんよ。下級生のクラスとか、もろ異分子って感じで恥ずかしいじゃないですか」
「そうですか？　遠野くん、わりと細かいところに気が利くんですね。でもわたしはへっちゃらですよ。みんな同じ学校の人たちですから」
　なんという博愛主義、ぐうの音も出ない。
「いや、それでも三年と二年じゃ距離が離れすぎです。ＨＲ、遅刻しても知りませんよ」
　なるほど、と先輩は生真面目に頷いた。
「その点でも大丈夫です。わたし、こう見えても走るのは速いんです。下の階の自分のクラスまで、１分もかかりません」
　えっへん、と先輩は胸を張る。
「…………」
　精神的にも肉体的にもタフすぎる先輩だった。
「おまえも口やかましいな遠野。
　いいじゃんか、先輩が好きで来てるんだからさー」
　有彦は有彦で、人の机にどっかりと腰をおろして先輩と楽しげに話をしているし。
「………いいけど。じゃあＨＲが始まる２分前になったら自分のクラスに帰らないとダメだよ、先輩」
　なんだかどっと疲れてしまって、ため息まじりに椅子に座った。
「……乾くん、遠野くんはご機嫌ななめみたいですね」
「……ああ、引っ越し先の生活が性に合わなくて、カンシャクおこしてると見ました。遠野はたいていのコトは気にしないんスけどね、なんかよく分からない事があると暴れ出す悪癖があるんスよ」
「……そうなんですか？　遠野くん、あんまり怒りそうにないですけど」
「……いや、そんなコトないんだなこれが。遠野はおとなしそうに見えるだけで、爆発する時は爆発するんスよ。わりと頻繁に。パチっと」
「……はあ。パチっ、ですか」
「……そうそう。一度キレると見境がなくなるから、先輩もこいつを信用しちゃダメだぜ」
　……二人はひそひそと内緒話をしている。
「……あのさ。内緒話なら廊下でしてくれないか？　人の机でそういうコトされても、まる聞こえで頭痛いんだけど」
「なんと、聞こえていたというのか遠野!?」
　……聞こえていましたとも。
　あまつさえ、内緒話のフリをして先輩に接近し、さりげなく腰に伸ばした手を、さらに容赦のない先輩の手で打ち落とされるところまでバッチリ見届けましたとも。
　ここまであからさまな芝居をうたれると、怒る前に気が滅入ってくる。
　一方、先輩はと言えば、どこまで本気なのかハッとして口元を手で隠している。
　……この人のことだから、本気で内緒話をしているつもりだったのかもしれない。
「オゥ、これだから文系の眼鏡クンは。オレと先輩のラ・マンな話を盗み聞くとか哀れにも程がありますなァ……。
んー、そんなに日々欲求不満なんですかー？　新しい妹サマはそんなに美人なんですかァー？　今度紹介してくれますかー？」
「有彦。ようするに、俺に喧嘩を売ってるんだな？」
「そんなワケないだろ、オレと遠野は輝かしい友人じゃないか！　気にくわなけりゃあ親とだって殴り合うが、親友とだけは戦わないってのが<信念|ポリシー>なワケ。基本、<侠|きょう>に生きる漢なんだ、オレ」
　凄いな、それは。
　侠っていうのは肉親に手をあげていいものだったんだ、コイツの内面世界においては。
「なるほど。腐ってるな、おまえのポリシーは」
「なんだ、元気のないフリしやがって、根はいつもの遠野じゃんか！　ったく、心配して損したぜ！」
　バンバン、と背中を叩く自称・親友。
「……おまえ、もしかして気を使ってたのか？」
「ばっか、そんなつまんないコト聞くなっての。
　こういうのはさりげなくやるのが美徳じゃないのサ！」
　ばんばんばん、と背中を叩かれる。
　……長い付き合いだけど、コイツの性格はいまだに全容が見えてこない。
「それで、新しい家はどうなんだ？
　見たところ、ヘヴィにストレス溜まってそうじゃんか」
」
「さあ、どうだろう。とりあえず昨日は妙な夢を見て、家の人たちに白い目で見られたけど」
「むう。そうか、それは災難だな」
　有彦は難しい顔をしてうんうんと頷く。
「…………………」
　―――と。
　黙っていると思ったら、先輩は俺と有彦がくだらない会話をしているのを真剣に見つめていた。
「先輩？」
「遠野くん、やっぱり乾くんと仲がいいんですね」
「本気ですか先輩。今のを見てそう思えるなんて、そのメガネは度が合ってないですね」
「そんなコトないです。遠野くん、乾くんの前だと気を抜いてるじゃないですか。無防備で、乾くんを信頼しきってます」
　なぜか先輩は嬉しそうに笑った。
「？」
　有彦と顔を合わせて首をかしげる。
「羨ましいなあ。そうやって何の気負いもなしで分かり合える友人がいるのって、憧れます」
　ほう、と感心する先輩。
「「そうかあ？」」
　有彦と顔を合わせて眉をひそめる。
「と、そろそろ時間ですね。わたしは戻りますけど、遠野くん、今朝のニュース見ましたか？」
「っと……忙しくて忘れてた。まだ見てません」
「そうですか。それじゃあ率直に訊きますけど、今朝のニュースで大きなお屋敷が映っていました。あれって遠野くんのお家ですか？」
「え？」
　そういえば警察が事情聴取にきたと翡翠が言っていたっけ。
「ああ、それはきっと<家|うち>のコトかもですね。
　今朝、警察が話を聞きに来たって言ってたし」
「そうですか。遠野くん、あんまり夜遊びしちゃダメですよ」
　先輩は早足で立ち去っていく。
　その後ろ姿を、俺たちは無言で見送った。
「うむうむ―――さて、なあ遠野」
「なんだよ。つまんない事なら聞かないからな」
「つまらなくはないぞ。大きな疑問として、オマエはいつのまに、先輩の方から会いに来るほど親しくなってたんだ？」
「俺に訊かれても返答に困る。話をするようになったのはここ最近だし、今日だって単なる気まぐれなんじゃないか？
　そういうおまえだって親しそうだったじゃないか」
「そうでもない。オレは七日もかけてやっと名前を覚えてもらったレベルだよ」
「ほう。そりゃあ珍しい。一日でなびかない女はめんどくさいから相手にしないってのも、おまえのポリシーじゃなかったっけ？」
「並の女はな。だが先輩は別。
　秘密にしていたんだが、実のところ、オレの好みはだな」
「眼鏡の似合う上級生だって言うんだろ？」
　うっ、と有彦は頬を赤らめる。
「わかりましたか、親友」
「わかるよ。眉唾だけど、先輩が言うには俺たち親友らしいし。おまえが本気かどうかぐらい読み取れる。
　先輩は本気で可愛いしな。あの人と話して、好意を持たない方がおかしい。俺だってそうだ」
「そうかそうか、
　遠野も先輩の良さがわかるのか―――って、
なんですと？」
「親友なら気が合うものだし、なにより趣味も似通うもんだろ。好きな女の子のタイプなんて、もろかぶりになっても不思議じゃない」
　しばし視線を合わせる。
　有彦はうむ、と深刻に頷いて、
「短い友情だったな、遠野」
「ああ、まったくだ」
　ひらひらと手を振って有彦を送り出す。
　それとほぼ同時に、ＨＲ開始のチャイムが鳴り響いた。
　午前の授業が終わって、昼休みになった。
　さて、どこで昼食をとろうか。
　学食で昼食を済ませて教室に戻ってきた。
　まだ五時限目まで時間があいている事もあり、教室に残っているのは数名の男子と、女子の仲良しグループたちだ。
「………あれ？
」
　今さら気がついた。
　女子たちの中に弓塚さつきの姿が見えない。
　彼女は一番……といわずとも三番目ぐらいには目立つので、いなければそれだけで違和感になる。
「……欠席だったのかな」
　昼休みになって気がつくなんて、我ながら抜けている。
　新担任からこれといった話はなかったし、ちょっとした病欠なのだろう。
　五時限目。
　古文の授業に眠気を誘われつつ、ノートにペンを走らせる。
　うちの高校では電子端末による書き取りはまだ認可されていない。学校側はいずれタブレットを用いた授業に移行すると発言しているが、それはあと数年ほど先のようだ。
　とはいっても、授業中に携帯端末を使用しても滅多なコトでは咎められない。暗黙の了解というヤツだ。
　いまも携帯で辞書を引く生徒、メールのやりとりをする生徒、webサイトを閲覧している生徒、と様々だ。
　自分はアナログの方が性に合っているので、昔ながらの学生らしく手書きで授業の内容を―――
「――――」
　それは唐突にやってきた。
　加速に似た意識の先鋭化。
　一点に向けてめくれ、捻れ、たたまれる視野。
　ぐるぐると脳そのものが回るような平衡感覚。
　くらり、と視界がゆらぐ。
　頭のうしろの方に何かが<蟠|わだかま>って、意識が頭蓋から転がり落ちそうな感覚。
「……ま、ず……」
　この感覚は知っている。
　突発的な眩暈は貧血の前触れだ。
　……気が緩んでいた。いつでもこうなる体だと判っていながら油断していた。
　いやだな……授業中に倒れるなんて、滅多に、なかったって、いうのに――――
　暗くなっていく視界の中、手探りで机を掴む。寄りかかる。
　それも、すぐに無駄になる。
　指先に力が入らない。
　あとはただ、床に向かって倒れこむだけ―――
「先生、ちょっといいっすか」
　―――と。
　どん、と乱暴に背中を叩かれた。
「遠野のヤツ、調子が悪そうなんで保健室に連れていきたいんですけど」
　いつのまにか有彦がやってきている。
「遠野、具合が悪いのか？」
　教壇から教師の声が聞こえてくる。
「いえ、これぐらい平気で―――」
「あー、ぜんっぜんダメだそうです。
　こりゃあ早退させた方がいいんじゃないっスか？」
　……有彦は大声で、勝手なことを言っている。
「そうか。先生も遠野の体のことは聞いている。遠野。体調が優れないなら保健室で休むか、早退して帰っていいんだぞ」
　……人がいいのかなんなのか。
　古文の教師は有彦の言い分を全面的に信じているみたいだ。
「ほら、帰っていいとよ。そんな青い顔しやがって、まずいと思ったらすぐに言わねえとわからねえだろうが」
　有彦は不機嫌そうに人の背中を叩く。
「……それじゃあ早退させてもらいます、先生」
　うむ、と古文の教師は重々しく頷く。
「……悪い、有彦。いらない心配をかけさせた」
「気にすんな。中学からの腐れ縁だからな、おまえが貧血でぶっ倒れそうな雰囲気ってのはすぐにわかんだよ」
　有彦は自分の席に戻っていく。
　なんとか席から立ち上がって、重苦しい体のまま教室を後にした。
　校舎を出た。
　保健室で休むことも考えたが、この時間からだと夜まで寝こんでしまう可能性が高い。
　それなら多少無理をして屋敷に戻った方が気楽でいい、と判断しての事だった。
「ふう……ちょっとは楽になってきたかな」
　外の空気を吸っているうちに気分も持ち直してきた。
　七年前。
　<生命|いのち>に関わる重症から回復した代償なのか、あれ以降、遠野志貴は慢性的な貧血を起こす体質になっていた。
　病院から退院したばかりの頃は毎日のように貧血で倒れてしまっていたほどだ。
　そんな体質のせいで多くの出来事を取りこぼしてきたものの、まわりの人たちのおかげで大事にいたる事はなかった。
　今は身体も成長しきり、無茶な運動さえしなければ眩暈や貧血は起きなくなった。
　それでも、ときおり何かの弾みで眩暈を起こして、そのまま意識を失ってしまう事だけはなくならない。
　今日は有彦が途中で声をかけてくれたから良かったものの、いつもならあのまま気を失っていたところだ。
「――――――」
　ゆっくりと深呼吸をして、新鮮な空気を肺に送り込む。
　頭の芯に沈殿した<淀|よど>みを堪えながら、学校を後にした。
　駅前通りに出る。
　……信じられない。まだ意識がぼうとしている証拠だ。
　今までの習慣で改札に入りかけてしまった。
　俺の帰る場所は有間の家じゃない。遠野の屋敷だ。ここから電車に乗る必要は、もうない筈だ。
「――――う」
　まだ気分が晴れていない。
　額に手を当ててみれば、普段より熱をもっている。
　このまま無理をして道端に倒れこんでは元も子もない。
「……しょうがないな、ほんと」
　自分自身に呆れながらベンチに腰をかける。
　気分が落ち着くまで少し休む事にしよう。
　……ぼんやりと駅前の雑踏を眺める。
　午後２時過ぎ。
　街の賑わいは衰えない。
　通り過ぎていく大勢の人たち。
　名前も素性も知らない彼らは、すぐとなりを歩いている誰かに視線を向ける事なく、自分だけの目的地に向かって行く。
　同じ場所に、これだけ大勢の人間がいるというのに、誰も彼も視界は一つきりだ。
　自分が自分の主役であるように、
　彼らは彼らが主役の一日を過ごしている。
　目に見えていながら、何も見ていない毎日。
　それぞれの一日は交わる事なく、新たに分岐する事はない。
　最小の労力で最低限の<安寧|あんねい>を得る知恵。
　必要でありながら関わらない個人主義が、人間の選んだ道らしい。
「……………」
　微熱のせいか感傷的になっている。
「……帰ろう」
　気分も落ち着いてきたし、ここにいても<善|よ>くない思索に<耽|ふけ>るだけだ。
　ベンチから腰をあげて、雑踏の中に混じる。
　貧血で鈍った<思考|あたま>のまま屋敷に向かう。
　今はただ、誰も訪れない部屋で眼鏡を外して目を<瞑|つむ>って、呼吸をするだけの器官になりたかった。
@g　―――その女と、すれ違うまでは。
「――――――」
@g　時間が止まったかとさえ、思った。
@g　俺のすべてが、吸い寄せられたように、その一瞬を記憶する。
@g　―――ドクン。
@g　金の髪と赤い瞳。
@g　白い服。白い影。
@g　足跡のない雪原、
@g　人知及ばぬ霊峰を思わせる、汚れのないシルエット。
@g　―――どくん。
@g　脈拍が跳ねあがる。
@g　<回転|レート>が振り切れる。
@g　静脈と動脈が活性化する。
@g　神経は次々と散裂し、脊髄が加熱する<幻|ゆ><覚|め>を見る。
@g　見惚れていたというのなら、間違いなく夢中だった。
@g　足はもう止まっている。
@g　俺は視界から過ぎていった女の影を、見失わぬよう振り返る。
「―――、―――――――――」
@g　気がつくと呼吸を忘れていた。
@g　吐き気がする。
@g　呼吸ができない。
@g　息がくるしい。
@g　正しい息の仕方を、どうしても思い出せない。
「―――、―――――――――」
@g　喉が<灼|や>ける。
@g　眼球が砕けそうだ。
@g　手のひらはズルズルに濡れている。
@g　血は足りず、指先は感覚がないほど冷えているのに、
@g　こんなにも汗をかいている。
@g　<生態|じしん>が<動物|いきもの>である事を思い出す。
@g　呼吸はそれだけで再始動した。
@g　だが<理性|おのれ>は、
　　　何を間違えた訳でもない。
　　　何を選んだ訳でもない。
　　　俺はただ、家に帰りたかっただけなのに。
@g　理性は。
@g　漠然と、今まで<騙|だま>し騙しこなしてきた綱渡りの綱が、これで切れてしまった事を実感した。
「はあ――――はあ―――――はあ――――」
@g　……追わないと。
@g　あの女を追わないと。
@g　追って、追いかけて、話をしよう。
@g　凍った足を動かして、
@g　■■■のように呼吸を熱くして、
@g　白い<獲物|おんな>の姿を求める。
「はあ――――はあ――――はあ――――」
@g　女はゆっくりと歩いている。
@g　オレにはいっさい関心がない。
@g　―――かすかな疑問が脳裏をかすめる。
@g　関心がない？　そんな馬鹿な。アレがそんなタマか。だが事実として気がついてさえいない。なにかの後か。なにかの後だろう。おそらくひどく疲れている。消耗している。出し切っている。だからこそ機会がある。オレがこんな気持ちになるのは、つまるところは／■しきれると／ 確信があるからだ。
@g@b嗤うように舐めまわしたい。
@g　最後に欲望を満たしたのは<何|い><歳|つ>だったか。
@g@b求めるように引き千切りたい。
@g　自慰や性交という代償ではなく、より単純で原始的な、
@g@b味わうように切り崩したい。
@g　覚えていない。そもそもオレは、まだ、
@g@b心のままに、■したくてたまらない。
@g　その“初めて”を、覚えていない。
@g　ハァ、と自分のものとは思えぬ<感|い><動|き>をはき出した。
@g　<沸騰|ふっとう>する情動を、胸をむしって<堪|こら>えきる。
@g　混雑の中を泳ぐ女は純潔に、<美|う><味|ま>そうに<麗|うるわ>しい。
「―――――――」
@g　ノドがアツイ。
@g　サッキからイキがぜんぜんデキナイ。
@g　それがどうした。そんなのは当然だ。
@g　あれだけの■を目にしたんだ、興奮しない方が生き物として失礼だろう。
@g　鞄からモノを取り出す。
@g　ポケットにしまって歩く。
@g　かつん、と指先には鉄の手触り。
@g　なんて幸運。
@g　道具は、まさに<整|そろ>っている。
@g　すばらしい。いきそうだ。なんて官能的な逢瀬。
@g　十分に距離をとろう。
@g　気付かれないように、
@g　周りの邪魔者に気取られないように。
@g　オレとあの女は赤の他人だ。
@g　だから出来るだけ自然に、匂いを辿っていかなければ。
@g　女がマンションに入っていく。
@g　硝子の自動扉。セキュリティは万全だ。
@g　住人でなければホールに入る事さえできない。
@g　非常口に回る。上着を脱いで物陰に置く。切る。中に入る。
@g　ホールに人影はない。
@g　エレベーターを見る。ランプは最上階で止まっている。
「――――――」
@g　呼び出しボタンを押す。中に入る。
@g　途端、あまりの気配にぞくりときた。
@g　女の匂いの残滓に、口元がつり上がる。
@g　わくわくする。
@g　狭い密室の中で、ポケットの中の得物を握り締めた。
@g　すぐそばにあの女がいる。
@g　あともうすこしであの女を　　できる。
@g　エレベーターから出る。
@g　ホールに人影がないのは察していた。
@g　密室から出る。廊下に向かう。人影はない。
@g　考えられない。
@g　ある一つの単語しか、俺の脳味噌は生み出さない。
@g　女を。
@g　あの女を。
@g　オレは、このまま―――――
@g　―――三号室の前についた。
@g　ここに間違いない。他の部屋はすべて空だ。断言できるのか？　できるとも。その程度の嗅覚、動物として生きていれば<否|いや>が応にも備わっている。怠惰な生存で忘れていただけの話だ。みっともない。許しがたい。手の施しようがない。文明社会の決まりはとても優しく傷つかず、だからこそ、こんな些細な衝動が致命傷になってしまう。
「―――、――――――」
@g　呼び鈴を押そうとして、止めた。
@g　眼鏡は邪魔だ。
@g　こんなものをしていては出来る事も出来やしない。
『―――いい？
　決して、軽はずみな気持ちでモノを視ちゃダメだからね』
「………」
@g　遠い昔に、そう言ってくれた女がいた。
@g　今は名前も顔も思い出せない。
@g　ゆっくりと眼鏡を外した。
@g　うごめく線は、老化する<皺|しわ>のようだ。
@g　自分でもワカラナイ。
@g　何をしようとしているのか。
@g　なんだってこんな事をしているのか。
@g　遠野志貴は―――さっきの女を、どうしたいのか。
@g　ワカラナイ。
@g　ワカラナイママ、チャイムヲ押シタ。
「はい―――」
@g　扉ごしに声。開かれるドア。
@g　瞬間。
@g　そのわずかな隙間から、部屋の中に滑りこんだ。
「え――――」
@g　女の声があがる。
@g　あがろうとした。
@g　これほどに執心し、こんなにも求め焦がれた女の声を聴く事は、永遠にない。
@g　その前に、事はすべて完結していた。
@g　室内に入った瞬間、かちん、と撃鉄の落ちる音を聞いた。
@g　扉の音。脳内の軋み。終わりの警鐘。
@g　どれも違う。では何か。
@g　説くまでもない。その<工|お><程|と>はただ一つ、
@g　ナイフを解き放つ<絶|こ><頂|え>に他ならない。
@g　瞬間、女の体に走っていた『線』を通した。
@g　刺し、
@g　切り、
@g　通し、
@g　走らせ、
@g　ざっくざっくに切断し。
@g　完膚なきまでに殺害した。
@g　体にある計十七個の線、
@g　首、後頭部、右目から唇まで、右腕上腕、右腕下部、右手薬指、左腕肘、左手親指、中指、左乳房、肋骨部分より心臓まで、胃部より腹部まで同二ヶ所、左足股、左足腿、左足脛、左足指その全て。
@g　すれ違いざまに、一秒の時間さえかけず、
@g　真実　<瞬|またた>く間に　悉く。
@g　ソレを、十七個の肉片に解体した。
『―――え？』
　馬鹿みたいに間の抜けた声が聞こえた。
　それが自分の喉からこぼれ出た音だと、実感が湧かなかった。
　くらり、と眩暈がおこる。
　目の前にはバラバラに散らばった何か。
　大理石の床には、バケツの水を引っくり返したように赤い液体が広がっていっている。
　むせかえる血の匂い。
　切断面はとてもキレイで、臓物はこぼれていない。
　ただ赤い色だけが、波のように床を侵食する。
　不思議なはなし。
　部屋には何もなくて、ただ、バラバラになった女の手足と、自分だけが立っている。
『―――なに、を―――』
　あまりにも鮮烈な赤い侵食。
　自分の手には凶器のナイフが握られている。
『死ん―――でる』
　当たり前だ。
　これで生きていたら人間じゃない。
『なん―――で？』
　なんでもなにもない。
　たった今、自分の手で。
　遠野志貴の手で、あっさりと、見知らぬ女をバラバラにしてしまったんじゃないか。
『俺が――――殺した？』
　そう間違いなく。
　それとも違うのだろうか。
　自分には理由がない。だから違う、違う筈だ。けど理由なんてものは初めからなかった。だから違う、違う筈だ。ここには俺しかいない。さっきまでもう一人いたらしいが、今ではもう俺だけしか生きていない。だから違う。違う筈だ。でも、理由が無い、理由が無いんだ、その気もなかったんだ、俺は、俺は正気ではなかったんだ。そもそも正気なんてなかったんだ。だから違う、違う、違う筈だ、違う筈だ、違う筈で―――
　―――大理石の床には、赤い血が広がっていく。
　ぬらり、と。
　足元に、赤い血が伝わってくる。
『………………あ』
　驚いて靴をあげるけれど、間にあわない。
　女の赤い血は、コールタールのように、ねっとりと足と床に糸を引いた。
『―――――――』
　ああァ、アア、あかい、ち、だ。
　おまえがバラバラにしてしまったから、いまも、だらだらとだらしなく流れ続けている厭な色。
『―――俺じゃ、ない』
　ソウ、違ウハズ。
　違う。違う。きっと違う、ぜったいに違う。
　これは、きっと―――
　……こんなのは、悪いユメだ。
　けど、なんだってこう、血の匂いだけが、ひどくリアルなんだろう。
『……違、う』
　違う　違う　違う　違う。
　違う　違う　違う　違う。
　自分が殺したというコトが違うのか。
　それとも、自分が殺していないという事が違うのか。
『……だって、理由が、ない』
　いや、理由ならはっきりしている。
　彼女を見た時、一つの事しか考えられなくなっていた。
『俺は――――』
　そう、俺は―――
　　　遠野志貴は　あの女を　殺したい、と
　それが、あの時の俺の<中身|すべて>だった。
　頭の中がドロドロで、そのイメージを言葉にしようとしなかっただけ。
『ちが―――――う 』
　血の匂いに、吐き気がする。
『あ―――ぐ』
　胃の中のものが、戻ってくる。
『あ―――あ』
　眼球に朱色が染み入ってくる。
　脳を揺らすような眩暈。
　そのまま、赤い血の海にひざまずいた。
『ご―――ぼ――』
　胃液が逆流する。
　胃の中のものを残らず吐いた。
　食い物も、胃液も、泣きながら吐き出した。
　胃の中には何もない。
　なのに起きてしまった出来事をなかった事に、もとの日常に戻そうとするかのように、体は嘔吐を強制する。
『ご――――ぶ』
　痛い。
　内臓が焼けているみたいに、痛い。
　涙は止まらなくて、体はゴミのように地面に崩れ落ちた。
　べちゃりと、体が赤く染まる。
　痛くて赤くて、ユメを見ているようだった。
　涙が止まらない。
　人を殺したというコトが、ひどく悲しかった。
　……いや、それは違う。
　人形をバラすようにあっさりと、何の意味もなく、容赦なく殺してしまったコトが、悲しかった。
　―――よくわからない。
　どうしてこんな気持ちになっているのか、
　どうしてわけもなく殺してしまったのか、
　その理由が解らない。
『――――うそだ』
　現実感がまるでないから。
　ほら、いつもみたいに目眩がして、
　その間に見ていたユメなんだ―――
『――――うそだ』
　だいたい、どうしてナイフ一本で人間をあそこまでバラバラにできるっていうんだ。
　人間<一体|ひとり>をバラバラにするのは、ノコギリを使っても丸一日はかかる重労働だと聞いた事がある。
　だから、こんなナイフ一本で出来る筈がない。
　あの『線』なんて初めからなくって、自分が勝手に思いこんでいるだけの妄想で――――
『――――うそだ』
　胃液が唇からもれる。
　口はおろか、あごから下は胃液でベトベトだ。
　胃液には朱色が混ざっている。
　吐き出すものもないくせに胃が<蠕動|ぜんどう>するため、食道も喉も出血している。
『い……た――――』
　痛い。
　だからきっと。
　これはユメなんかじゃなく、俺は、自分にうそをついている。
『―――全部、うそだ』
　そう、本当は理解している。
　欲情していた。この女性を見て興奮していた。
　この目だってそうだ。
　あの『線』が紙を切るようにモノを切断してしまうと分かっていたのなら。
　遠野志貴は、人間だって簡単にバラしてしまうと理解していた筈なのに。
　俺は、そんな事を考えもしないで、ただ無責任に暮らしてしまった。
　……自分が、簡単に何かを殺してしまう危険な人間なら。
　俺はこの目を潰すか、誰とも会わないような生活をするべきだったのに。
『……ごめん、先生』
　―――ほんとうに、ごめんなさい。
　そんな簡単な事さえ、遠野志貴は守れなかった――――
『俺は―――まだ、<正気|まとも>なのか』
　わからない。さっきまで湧きあがっていた衝動は、もう微塵も残っていない。
　けれどあの時、耐えるとか堪えるとか、そういった思考すら浮かばなかった。
『この女を殺す』
　そんなコトを当たり前のように考えて、実行していた。
　……なら答えは簡単だ。
　俺は、きっと狂っている。
　おそらくは七年前。
　死亡するべきだった事故から、
　奇跡的に蘇生したその時から―――――――
　……どこからか、雨の音が聞こえてくる。
　ザア、という、密やかで長い雨だれ。
「―――――」
　もうろうとしている。
　息を吸うと喉が痛んだ。
「い………た」
　声があがる。
「――――志貴さま？」
　とたん、すぐ近くで誰かの声と気配がした―――
「自分の―――部屋だ」
　いつのまにか自分の部屋で横になっている。
　枕元に置かれている眼鏡をかける。
「おはようございます、志貴さま」
「翡翠……？」
「はい。お体の具合はいかがでしょうか？」
「………」
　翡翠はおかしなコトを聞いてくる。
　お体の具合って、別に悪いところなんて一つもな―――
「なん―――で」
　そう、なんで。
　自分は、こんなところで眠っているんだ―――？
「俺は―――ひとを、ころし――」
　ころしたのに、と言いかけて口を塞ぐ。
　その言葉だけは、口にしてはいけないと理性が歯止めをかけてくる。
「翡翠……俺、どうしてここに？」
「……覚えていらっしゃらないのですか、志貴さま」
　翡翠はかすかに眉をひそめた。
「学校の方から志貴さまは早退した、というお電話がありました。ですが夕方になっても帰ってこられず、姉が探しに行ったところ、公園でお休みになっていたそうです」
「公園って―――近くの公園？」
「はい。志貴さまはベンチで休まれており、その後、ご自分の足で屋敷までお帰りになられました」
「……うそだろ。そんな覚え、まったくないんだけど」
「志貴さまの記憶が定かではないのは、そうおかしな事ではないと思います。
　貧血による衰弱で、志貴さまは意識が混濁していたようなので」
「………………」
　……まったく記憶がない。
　けど、翡翠の言葉には疑う余地がない。
「……ああ、もう夜の９時なんだ。……ぜんぜん記憶にないや」
「はい。お屋敷に戻られた志貴さまは、眠りたい、とだけ告げてお部屋で休まれたのです。お医者様をお呼びしようとしたのですが、志貴さまは『いつものことだから』、と」
「―――そうか。
　たしかに貧血で倒れるのは、いつものことだけど―――」
　……今回は勝手が違う。
　俺はひとを殺してしまって―――いや、待った。
「翡翠。俺、どんな格好をしてたんだ？」
「―――は？」
「だから服装。俺のシャツとか靴とか、その、血で―――」
　ベタベタに、濡れていたから。
「志貴さまの制服でしたら、汚れていましたので洗濯をしておりますが」
「洗濯って、あんな血だらけの服を……!?」
「……たしかに泥にまみれてはおりましたが、血液らしきものはありませんでした。それに、汚れていたのはシャツとズボンだけで、上着は特に、何も」
「――――――」
　……そんな馬鹿な。
　血の海にひざまずいて、足も腕も真っ赤になっていたっていうのに……？
「志貴さま、なにかよくない夢でも見られていたのですか？
　先ほどまで<魘|うな>されていたようですし、今もお顔の色が優れません」
　翡翠はじっとこちらの顔を見つめてくる。
「夢って――――アレが？」
　夢だったっていうのか。
　あの感覚が。
　あの血の匂いが。
　あの、奇跡のような白い女が。
「いや―――そうだよな。あんなのは、悪いユメだ」
　ほう、と長い息がもれる。
　――――そうだ。
　あんなものは、悪い夢だ。
　意味もなく理由もなく、幼い頃に先生と交わした約束を破って、俺があんなコトをするわけがなかったんだ。
「ああ――――目が、覚めた」
「志貴さまのご気分さえよろしければ、夕食の支度をいたします」
「え……いや、夕食、は」
　……ユメだと分かっているのに、まだあの血の色と匂いが脳裏から離れない。
「ごめん、要らない。
　今晩はこのまま眠る事にする。それより翡翠」
「はい、なんでしょうか志貴さま」
「その、さ。俺、夕方に帰ってきたらしいけど、秋葉はなんて言ってた？」
「秋葉さまなら、その時間はお帰りになられてはおりませんでした。２時間ほど前にお帰りになられたおり、志貴さまのご容態をお伝えしておきましたが」
　それがなにか？　と翡翠は無言で聞き返してくる。
「……いや、別になんでもないんだ。
　帰ってきてまだ三日目なのに迷惑をかけて、呆れてるだろうなって」
「……たしかに秋葉さまはご気分を害されておりましたが、呆れているという訳ではなさそうでした」
　言って、翡翠は一歩後ろに下がった。
「それでは失礼します。
　何かご用がおありでしたらお呼びください」
「ああ、ありがとう。―――と、もう一つ聞き忘れてた」
「はい、なんでしょう志貴さま」
「外、雨が降ってるんだね。いつから降り始めたのかな、コレ」
「志貴さまがお帰りになられる前からです。姉が見つけた時、志貴さまは雨に濡れていたとの事です」
「……………」
　そうか。そんなコトさえ、記憶にはない。
　よっぽど重い貧血だったみたいだ。……こんなコトなら、無理をせずに学校で休んでいればよかった。
「おやすみ。今日は本当にすまない。
　琥珀さんにもお礼を伝えておいてくれ」
「かしこまりました。―――それではおやすみなさいませ」
「―――ああ。夢だったんだ」
　……呟いた言葉は、どこまでも<寒々|さむざむ>しい。
　まったく実感が湧いてこない。
　その夢だと思う出来事の実感も、
　アレが、夢なのだという実感も。
　外では、ざあ、という雨の音。
　頭はまだかすかに重い。
　ふと自分の胸を見る。
　……七年前の古傷は、いまも火傷の痕のようにくっきりと残っている。
「……あ」
　部屋の机の上には、父親からの形見であるナイフが置かれている。
「―――――」
　……あれは夢だ。
　夢以外の何物でもないじゃないか。
　自分自身を誤魔化すよう、そう繰り返して目蓋を閉じる。
　……肺に取りこんでしまった香気をかきだすように、長く長く息を吐く。
　意識を切断する暗い眠りに身を委ねる。
　子供のころ。
　自分自身さえ騙せない嘘はつくなと、誰かが言っていた気がするけれど。
　教室に入ると<ＨＲ|ホームルーム>が間近に迫っていた。
　慣れない道だったのでペース配分を間違えたのだろう。
　朝の雑談時間も終わりにさしかかり、生徒の大部分は自分の机に座っている。
　そんな状況で、
「……はあ。ずいぶんと余裕のあるご到着ですねぇ」
　有彦は元気のない顔でうなだれ、自分の席に座ろうとしていた。……この男、今日は真面目に授業を受けるようだ。
「おはようさん。今朝は特にやる気がない……
ワケじゃないのか。教室にいるんだから。なんだよ、体調崩したのか？」
「さっきまで元気でしたよ、ギンギンに。なにしろ先輩が遊びにきてくれたんだからな」
「先輩って、シエル先輩？」
「そうだよ。けどぉ、誰かさんがいねえもんだから、いまいちノリが悪くて三年の教室に戻っちまったワケ。なんだって今朝にかぎって遅刻ギリギリなのよ、遠野？」
　そうだったのか……。俺だって先輩がいると知っていれば走ってでも駆けつけたのに。
「そりゃあ申し訳ない。けど、縁があれば昼休みにでも会えるだろ。これっきりってワケじゃあるまいし」
「あったりまえですよ。これが最後のチャンスだったら、
ショックで授業なんて受けてらんねぇって」
　そうか、と手を振って自分の机に向かう。
　椅子に座ると同時にチャイムが鳴り、ノエル先生が教室に入って来る。
「ハァイ、グッモーニー！
　みんな健康でたいへん結構……って、
あらら、欠席者が二人もいるのね。季節の変わり目だし、
油断して風邪でも引いちゃったのかしら？」
　ノエル先生が出欠を取り始める。
　欠席しているのは男子生徒がひとり、女子生徒がひとり。
　あの二つの空席は誰の席だったか思い出そうとして、
　偶然、彼女と視線が合った。
「―――っ」
　あわてて視線を逸らす。
　……なんだろう。気のせいだとは思うけど、ノエル先生は俺を見ている時が多い気がする……。
　……教室で食べようか。
　しかし、今日はなんとなく食欲が湧かない。
　こういう時に食べると決まって<嘔|も><吐|ど>してしまう事になるし、教室で体を休めている方が得策な気がするが……。
「おーう遠野、メシにしようぜメシー」
「―――」
　濃い顔を見たんで完全に食欲がなくなった。
　よし、昼食は抜こう。きっかけをクソありがとう有彦。
「悪い、今日はパス。ひとりで済ませてきてくれ」
「なんだ、おまえますます不健康になってくな。
　なに、やっぱお貴族様な新生活は合いませんかね？」
「あのな、お貴族様なんかじゃ……あ、いや、そうかも。あれで貴族じゃないって言ったら何が貴族なんだ？
　トイレとかすごいんだぞ有彦。おまえの部屋より広い。そして高価い」
「マジで!?　そんな落ち着かない生活したくねえな!?」
　……ごめん、さっきのは訂正します。
　ホッとする反応、ありがとう有彦。
　心から同意できる発言にちょっと癒やされた。
「……まあ、建物の話は仕方ないとしてもだ。
　朝は７時に起きても遅いと文句は言われるし、門限は８時だし。おまけに無断外泊すると厳しく詰問されるなんて、監獄生活みたいだろ？」
「お？　それはそれでいい話じゃねえか。
　管理体制<万万歳|ばんばんざい>、若者はもっとタイトに生きねえとな。若いうちから楽しちゃろくな大人になれないぞ」
「同感。しかしおまえに言われると説得力があるな」
　その、究極的な反面教師として。
「そうか？　なんだ、今日の遠野はやけに素直じゃないか。
　よしよし、んじゃあ菓子パンを一つくれてやりますか！」
「だから食べ物はいいって。俺のことは気にせず食べろよ。昼休み、終わっちゃうぞ」
「そう？
　んじゃ遠慮なくいただきます」
　有彦は両手を合わせてから菓子パンを食べ始める。
　こう見えて、感謝のいただきますとごちそうさまを言える男なのだった。
「おじゃましまーす！」
　……と。
　先輩がお弁当らしきものを手にしてやってきた。
「おっ？　先輩って学食じゃなかったっけか？」
「いえ、べつに食事は決まってないですよ。その日の気分でなんでもありです」
　先輩は可愛らしい巾着袋からお弁当を取り出した。
　大きさは女子にしてはやや大きめだ。
「気分ってコトは、今日は早起き出来たんでお弁当を作ってきたってコトですか？」
「そうなんです、今朝はめずらしく７時前に目が覚めて……
　って、何を言わせるんですか遠野くんは！」
「いえ、そんなつもりはなかったんですけど……先輩、もしかして朝は弱いほう？」
「はい。実はわたし、早起きは苦手なんです。
　ボランティアの時はもう、かなり無茶をしちゃってます」
「わたしの実家はパン屋さんでしたから、すっごく朝が早かったんです。けどわたしはどうしても朝に弱くて。もう子供のころからお父さんに怒られてばかりでした」
　なんとパン屋！
　有彦と視線が合う。あいつも今、部屋にカマドがあって、その白い指で小麦粉を練って焼いたりするシエル先輩の姿を想像したに違いない。
「お父さんとの戦いは三年ほど続きましたが、最後には
“おまえをしつけるのなら二人分働いたほうがましだ”
　とさじを投げられちゃいました。
　それ以来、わたしは起きる時間に関してはワガママしほうだいだったのです」
　えっへん、と胸を張るシエル先輩。
「そうだったんですか。なんか意外ですね。
　先輩、ものすごくしっかりしてそうなのに」
「はい、遠野くんの前では失敗しないように頑張ってますから。ほんとはですね、どっちかっていうと要領が悪いほうなんです、わたし」
　……たしかに要領は悪いのかもしれない。
　ボランティアのコトだってそうだ。
　要領がいい人間というのは、ああいう一文の得にもならない事はやらないものだ。
「そっか。―――でも俺、要領が悪い人のほうが好きだよ。
　一緒にいると安心できる」
　うむ、と同意する有彦。
「それで、朝が弱い先輩はたいてい学食だったわけなのか」
「ええ、そういうわけなので学食ばかりですけど、たまにはこうやってお弁当ぐらい作ります。出来合ものの寄せ集めですけど。
　お二人は学食派ですよね？」
「いんや、俺たちもその日の気分だな。一年のころは俺も姉貴にメシ作ってもらってたんだけどよ、遠野のやつが学食だったりパン食だったりするから、合わせてるうちにこうなっちまったんだ」
「はあ。遠野くんは気分屋さんなんですね」
「そーそー。こういう男と付き合うと疲れるだけだから、先輩も気をつけな」
　そうですねー、と有彦に同意しながら先輩はお弁当のふたをあける。
　まるい弁当箱にはごはんとおかずが半分半分。実にオーソドックスなものだけど、それなりに量は多めのようだ。
「ではいただきます。
　となりの人の椅子、借りていいでしょうか？」
「いないヤツの椅子はみんなの椅子だよ。
　高田クンも先輩に座ってもらえて本望だろうし」
　先輩は俺の机にではなく、自分の膝の上にお弁当をおいて食べ始めた。
　その斜め横では、立ったままで二個目のパンの封をあけている有彦。
　二人の様子を横目に、俺は窓の外の風景を意味もなく眺めたりする。
「おや？　遠野くん、お昼は食べないんですか？」
「はい、今日は気分じゃないので」
「食べないって……それじゃお腹すいちゃいますよ」
「いいんです、今は食欲より体調ですから。それに昼を抜いたぐらいでどうにかなるほど柔じゃありませんし」
「うわあ、すごいなあ。わたし、一食でも抜いたら動けません。おなかがぺこぺこになって倒れちゃいます。
　……恥ずかしいですよね、普通の子よりたくさん食事はとってるほうなのに、すぐお腹が空いちゃうんですから」
「そんなことはないッス。先輩は他のおんなどもに比べて発育いいんスから。
……
が大きいぶん、燃費が悪いのは自然の摂理っスよ」
　有彦の発言はどうかと思うが、うまく場を納めてくれた。
　育ち盛りなんだから、もっと食べて存分に育ってほしい。
　先輩は恥ずかしいのか照れているのか、よくわからない顔をしている。
「でも遠野くん、本当にお昼ご飯を抜いて平気なんですか？」
「平気平気。まる一日ぐらい食事を断つのも珍しい事じゃないんだ。今日は朝食も食べたし、夜まで問題なしです」
「む。それはどうかと思います。
　そんな生活してちゃ体壊しちゃいますよ」
「だいじょうぶ、ちゃんと体を診てくれる人もいますから。
　医者に体重を増やさないように注意もされてるし、たまに食事を抜いたほうが、俺は丁度いいんです。
　体力は欲しいけど、やっぱり<体重|ウェイト>はしぼらなくちゃね」
「そ、そうですか。
　男の子でもダイエットって考えるんですね」
　先輩はなにやら上目遣いで俺を見ると、少し考えこんだあげくお弁当のふたを閉じてしまった。
「えーと、用事を思い出したので失礼します。
　わたしのコトは気にせず、むしろ今日の出来事は忘れていただけると助かります」
　テキパキと後片付けをすまして、先輩は風のように去ってしまった。
「―――うむ、かわいい」
　何か感じ入るものがあったのか、有彦は満足そうに頷いていた。
　そうだ、茶道室に行ってみよう。
　朝がたシエル先輩が来たというし、茶道室に行けば会えるかもしれない。
「と、その前に……」
　手ぶらで遊びにいくのはよろしくない。ちょっとだけ寄り道をしていこう。
　物資の調達に思いのほか時間がかかってしまった。
　茶道室の扉をノックする。
　しばらく待つと、がらりと扉が開いて先輩が顔を出した。
「あれ？　遠野くんですね」
　不思議そうに先輩は首をかしげている。
「先輩。お昼ごはん、一緒に食べません？」
「お昼ごはんですか。
　遠野くんからのお誘いは嬉しいんですけど、その―――」
　雲行きがよろしくない。
　他に気になる用事でもあるのか、先輩は誘いを受けるかどうか悩んでいるふうだ。
　では、ちょっとした小技を一つ。
「カレーパン、ありますけど」
「え―――？」
　先輩の表情が目に見えて輝きだした。
　……なにこれ。上級生に対して失礼なんだけど、すごい可愛いぞこの人……。
「どうでしょう。昨日のお昼ごはんのお返しにあげますから、一緒に食べません？」
「そ、それはご丁寧に、どうも。
　……そうですね。昨日のお礼、というコトでしたら、断る理由はありません」
　先輩は眼鏡をカチャカチャいじりながら身を引いて、俺を茶道室の中に入れてくれた。
「どうぞ、楽にしていてください。
　ちょうどお茶の用意をしていたところですから」
　先輩は隣りの部屋に入っていった。
　あっちが給湯室なんだろう。
「あ……」
　茶道室に入って、先輩が思案していた理由がはっきりした。
　畳の上には空っぽになった弁当箱が一つ。
　先輩はとっくに昼食を食べ終えていたらしい。
「遠野くん、お茶と紅茶どっちがいいですか？」
「お茶でお願いします。
　それより先輩、お昼済ませてたんですか？」
「ええ、ちょっと前に。今日は寝坊してしまったので、朝ごはんを食べてなくて。午前中はおなかがペコペコで大変でした」
「……そっか。ごめん、邪魔しちゃって。
　俺、教室で食べるからゆっくりしててください」
「え―――パン、いただけないんですか？」
　ひょい、と給湯室から顔をだす先輩。その顔はクリスマスにプレゼントが届かなかった子供そのものだ。
「いや、だって……おなかいっぱいでしょ、先輩」
「そんなコトないです。わたし、おなか減ってます」
　即答だった。
　俺に気を使ってくれている……というワケではなさそうだ。
「それならいいけど。先輩、ホントに大丈夫？
　例のカレーパン、けっこうボリュームありますよ？」
「ご心配にはおよびません。わたし、好きなものならわりと限界なくいただけちゃいますから」
　それは昨日で把握していますとも。
　先輩のはにかんだ笑顔は昼食のおかわりに照れているのではなくて、純粋にカレーパンが楽しみだからだろう。
「……………」
　……謎な人だ。
　カレーパンひとつでここまで喜んでくれるなんて、いまどき貴重な人材かもしれない。
　先輩はパンをひとつ、こっちはふたつ食べて、食後のお茶とあいなった。
　畳の上に正座をして、先輩とのんびりお茶を楽しむ。
「そういえば朝のニュース、見ましたよ。
　遠野くん、新しいお家の方はどうですか？　なにか大変な事になっていたみたいですけど」
「ニュースですか？」
　……ああ、例の血痕の件で、警察が事情聴取にきたと翡翠が言っていたっけ。
「あのニュースとうちは無関係ですよ。屋敷の感想だって、中はすごく立派で、夜は野犬がうるさかったぐらいだし。
　しいて言うんならテレビがないのと和室がないのがネックかな。こんなふうにお茶を飲める場所がありませんから」
「？　野犬って、なんですかそれ。遠野邸の前で起きたのは例の通り魔事件なんじゃないですか？」
「やだな、そんな事になってたらもっと大騒ぎになってます。
　血痕があっただけで事件性はありません。
　……まあ、でも―――」
　あの場所は、深夜に野犬を見に行った場所なんだ……とは言えなかった。
「いえ、ただの勘違いです。なんにせよ俺たちには関係のない話です。せっかく先輩とのんびりしてるんですから、イヤな話をするのはよしましょう」
「そんなことありませんっ。少なくともこの街で暮らしているんですから、通り魔事件は関係あると思います！　遠野くんはちょっと危機感が足りないのではないでしょうかっ！」
　先輩は大げさに声を荒立てた。
　不真面目な後輩を叱る、頼れる先輩像そのものだ。
「でも、危険なのは夜の外出だけでしょう？
　犠牲者は八人も出ているんですから、警察だってじき犯人を捕まえるだろうし」
「もうっ。そんなコトを言っていると寝首をかかれますよ。
ニュースだって三人目の頃から同じコトを言っていましたけど、結局、犯人はまだ捕まっていないじゃないですか」
　……それはその通りだ。
　この現代日本でここまで殺人事件が続くなんて、異常を通り越して超常と言ってもいいレベルかもしれない。
「……そうでした。現代の吸血鬼、なんてふざけたテロップがうたれてるから、身近な出来事の気がしなかったというか……たしかに軽率でした。俺だってこの街に住んでいるんだから、気をつけなくちゃいけないのに」
「はい。分かってくれればいいんです。
　本当に、くれぐれも知らない人についていっちゃダメですよ。……もし犯人が吸血鬼扱いされて喜んでいる異常者だとしたら、遠野くんは格好の餌食かもしれません。
どことなく美味しそうな雰囲気ですから」
「……いや、あの、先輩？　その喩えはどうかと」
　縁起でも無いことを言わないでほしい。
　だいたい慢性的な貧血なんだから、吸血鬼にとって俺なんかは対象外だろう。
「でも真面目に考えるとおかしな話ですね。吸血鬼って言うけど、どうしてそんなあだ名をつけたんでしょう」
「？　体じゅうの血を抜かれているんですよ？　吸血鬼という比喩表現は間違っていないでしょう？」
「……そうですかね。吸血鬼に吸われた人間って、同じように吸血鬼になるってのが通説じゃないですか。
　なのに殺されてしまった人の死体はちゃんとあって、吸血鬼になって歩き回ってるワケでもない。わざわざ怪談めいたあだ名をつけなくても、ただの殺人事件で充分でしょうに」
「遠野くん、吸血鬼がいるって本気で信じてるんですか？」
「……あのですね。ニュースでそう煽っているから合わせただけです。本当に吸血鬼なんてのがいたら、さっき言った通り死体なんか残らないでしょ」
「そうですね。けど、こういう風にも考えられません？
　発見されている死体の方たちは、吸血鬼に<な|・><れ|・><な|・><か|・><っ|・><た|・><か|・><ら|・>死んでしまった。
　吸血鬼には“なれる人”と“なれない人”がいて、なれる人は吸血鬼に襲われても死体としては発見されないんです。だって今も、どこかでひっそり生きているから」
「ははあ。そりゃあホラーだね、先輩」
「はい、わりとホラーな話です。
　残念ですがオチはつきませんでした」
　にっこりと笑って先輩は湯のみを口にする。
　そんなとりとめのない事を話しているうちに、昼休みは終わってしまった。
　先輩は後片付けがあるというので、一足先に廊下に出た。
　ここは先輩の厚意に甘えて教室に帰ろう、と茶道室に背を向ける……と。
「あらら？　もしかして志貴クン？
　こんなところにいるなんて、意外ね」
　意外なところでノエル先生と出くわした。
　ノエル先生は右手に銀色のアクセサリーを握っている。
　あれは十字架……だろうか。
「ああ、これ？　言ったでしょ、趣味で副業しているって。
　あっちの棟は騒がしいから、静かな部室棟で日課のお祈りをしに来たの。
　そんな事より、志貴クンは何をしているのかしら？
　もしかして、このあたりに秘密の密会場所でもあるの？」
「え……いえ、それは―――」
　茶道部の先輩に会いに来ただけです、とは言えなかった。
「いえ、気晴らしに歩いていただけです。
　お昼がまだなんで、そろそろ食堂に戻ろうかなって」
　できるだけ自然に、曖昧な物言いで取り繕う。
「それはそれは。ゴハンより先に散歩なんて、余裕のある大学生みたい。志貴クン、もしかして音大とか目指してる？」
「？　いえ、音楽に興味はありませんけど……なんで？」
「んー、
聞いてみただけサ！
　はい、それじゃバイバーイ！　食堂、早く行かないと昼休み終わっちゃうゾ☆」
　ノエル先生はじゃあね、とウインクをしながら、手にした銀のアクセサリーに唇をふわりと押しつけた。
　かつん、かつん、と<堅い靴|パンプス>の音が部室棟の奥へと消えていった。
　ああ……あかい、ち、だ。
　オレがバラバラにしてしまったから、いまも、だらだらと流れ続ける<厭|いや>な色。
　であれば、これは間違いなく、俺がこの手で―――
『―――止めろ。止めろ。その言葉を、口に―――』
　でも心臓が叫んでいる。
　真実をはき出さなければ破裂すると謂わんばかりに、その言葉を、のど元まで―――
　違うんだ。違う。違う。違う。
　違う、違う、違う、違う、違う違う、違う違う違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違違違違違違違―――――
「……ちが、う」
　目を背けるな。それこそ違う。
「違うって―――言ってるのに」
　<非|あら>ず非ず、それこそ非ず。
「だから、なんで……！　俺は知らない、こんなヤツ、街で見かけただけの他人だ……！
　ほら、おかしいじゃないか！　ただの他人を、どうして俺が殺してるんだよ……！」
　叫んでも答えはない。
　それに理由ならはっきりしている。
　彼女を見た時、俺は一つの事しか考えられなくなっていた。
「俺は――――」
　そう、俺は―――
　　　　　遠野志貴は　あの女を　殺したい、と。
　それが、あの時の全てだった。
　頭の中がドロドロと溶けていただけで、そのイメージを言葉にしようとしなかっただけ。
「ちが―――――う 」
　吐き気がする。
「う、うう、う」
　胃の中のものが戻ってくる。
　眼球に朱色がしみ込んでくる。
「あ―――あああああああああああ！」
　駆け出した。
　他に余分な事は一切考えられない。
　ただここから逃げ出したくて、半狂乱になって、見知らぬマンションを後にした。
　胃液が逆流する。
　地面にひざまずいて<臓|は><腑|ら>の汁を残らず吐いた。
　食い物も、胃液も、泣きながら吐き出した。
　胃の中には何もない。
　なのに起きてしまった事を拒むように、もとの日常に戻そうとするかのように、体は嘔吐を強制する。
　痛い。
　内臓が焼けているようだ。
　涙は止まらず、体はゴミのように地面に崩れ落ちた。
　……俺は、人を殺した。
　人形でもバラすようにあっさりと、何の意味もなく、容赦なく殺してしまった。
　どうしてあんな気分になってしまったのか、
　どうしてほんとうに殺してしまったのか、
　今でも、その理由が解らない。
「――――――」
　でも、自分の事なんて、どうでもいい。
　胸を衝くのは果てのない後悔と憎しみだ。
　俺はあの女を殺してしまった。
　彼女の今までの人生を、
　彼女とそのまわりの人々の関係を、
　彼女がずっと夢見ていた未来を、全部―――
　彼女と何の関わりもない俺が、笑いながらブチ壊した。
　……後悔しても許されない。
　謝っても、絶対に許されない。
『俺は―――、なんて』
　いっそ目玉を引き抜いてしまいたい。
　自分がまだ正常なのかすら自信がない。
　あの時の自分には耐えるとか<堪|こら>えるとか、そういった思考すら浮かばなかった。
“あの女を殺す”。
　それを当然のように肯定し、実行していた。
　……なら答えは簡単だ。
　俺は、きっと狂ってる。
　おそらくは七年前。
　死亡するべきだった事故から、
　奇跡的に蘇生したその時から―――
　―――――――さむ、い。
　いつのまにか、日が落ちている。
　―――――――いまは、もうどれくらいだろう。
　よくわからない。
　鼓膜にはざあざあと、ノイズめいた音が響いている。
　ざあ。ざあ。ざあ。
　音はやまず、ひどくさむい。
　このまま―――ベンチに座ったままでいたら、死んでしまうような気がする。
　……死んでしまえるような、気がする。
　ザザ鳴りの神経、ザラついた体温。
　なにも感じない。
　繰り返す雑音も、
　凍死してしまいそうな寒さも、どうでもいい。
　体は震えている。
　原因は寒さか、不安か、恐れか、悔いか。
　もう何も判別できない。
　俺は人を殺して、その理由がないことを、説明できない。
　ただ殺したいから殺した。
　そんな理由、狂っている。
　……ああ、狂っているのならどんなに楽だろう。なにしろ説明だけはつけられる。
　なのに心はまだ生きている。
　殺人を犯しておいて、恥知らずにも正気のままで震えている。
　かじかんだ指先を見ると、そこにはまだナイフがあった。
　―――死ぬ事は。
　とりあえず解決する事は、わりと簡単だ。
　なのにできない。
　まだ正気だから、それができない。
　死を恐れる心と、そんな事は何の解決にも―――<償|つぐな>いにもならないと軽蔑する心がある。
　ざあざあ、という雑音。
　坂道を転がるように低下していく体温。
　―――自分で死ぬ事はできない。
　　　　けど、放っておけばこのまま消える。
　……結局、それがいいのかもしれない。
　俺みたいな人殺しは、生きていても、どうせ。
　はやく
　このまま
　死んで
　しまえば。
「……遠野くん？」
　不意に。
　そんな名前を、呼ばれた気がした。
「―――――――――」
　……顔をあげる。
　そこには、もう何十年かぶりに思える、先輩の姿があった。
「どうしたんですか、こんな雨の中で座りこんじゃって」
「…………あ、め」
　……そうか。さっきから響いていたノイズは、雨の音、だったのか。
　寒い筈だ。見れば、体じゅう濡れて冷えきっている。
「傘もささないで。
　そのままじゃ風邪をひいてしまいますよ」
　……先輩の声は、異国の言葉のように聞こえた。
　ほんの数時間前まで聞いていた声なのに、今はなんて―――遠くにある声なんだろう。
「わたしの声、聞こえてます……？」
「ぁ―――うん。そうですね。
　風邪ぐらいは、ひくべきなのかもしれません」
　何も考えられずに、気持ちだけが喉を過ぎる。
「だめですよ、いくら十月でも。こんな雨の中にいたら、風邪だけじゃすまな―――」
　先輩の手が、だらりと下がった俺の手を握る。
　ベンチに座ってうなだれた俺を気遣っての事だろう。
「遠野くん、一体どのくらいこうしてたんですか……!?
　体、こんなに冷たくなってるじゃないですか！」
　言うが早いか、先輩は俺の腕を掴んで、強引にベンチから立ち上がらせた。
「わたしの傘を貸しますから、すぐに家に帰って体を温めてください。本当に命にかかわります」
「……命に？」
　……そうか。だから一歩も動かなかったのか。
　何も考えられない、なんてコトさえ嘘だった。
　だってさっきからそうしたくて、俺は何もしなかった。
「もうっ、しっかりしてください！　動けないなら、わたしからお家に連絡を入れましょうか？」
「……………」
　それは、困る。
　うつむいたまま、
　　　　　　　　　　　　先輩の顔を見なくて済むまま、
　それはやめてほしい、と首を振る。
「……いいんです。俺は、家には帰れない。
　……どこにも、行っていいところがない」
　そうだ。
　こんな血だらけの体で家には帰れない。
　もうどこにも―――俺には休んでいい場所なんて、あってはならない。
「――――――」
　長い沈黙。
　先輩は無言で俺を見つめている。
「わかりました。わたしのアパートに行きましょう。遠野くんの家よりは近いですから、ちょうどいいです」
　先輩はぐい、と俺の腕を引っ張っていく。
「……………」
　振り払う事はできなかった。
　俺の体には何の熱量も残っていない。自分で立ち上がる事さえできなかったからだ。
　……だから、だろうか。
　冷えきった手を握る先輩の体温は、すべてが麻痺した感覚の中で、ただ一つ確かなものに感じられた。
　……先輩の住まいは、よくある賃貸アパートの一室だった。
　台所と部屋が一つずつの、ひとり暮らし用の借家。
　部屋は先輩らしく小奇麗で、そんな些細な事が少しだけ、麻痺した神経をほぐしていた。
「はい、これで体を拭いてください」
　バスタオルを手渡される。
「……すみません、上着ぐらいならと期待したんですが、遠野くんのサイズに合う服はないみたいです。
　ちょっとのあいだ、そのままで我慢してください。すぐに温かい飲み物を淹れますから」
　……先輩は台所に引っ込んだ。
　小奇麗な部屋に、ひとりきりになる。
「―――――――」
　まさか、こんなふうに女性の部屋にあがるなんて、思ってもいなかった。
　見知らぬアパート。
　馴染みのない一室。
　強引に押し入って、真っ赤に染まった女の部屋。
「はい、お待たせしました……
遠野くん！
　なにしてるんです、ぜんぜん拭いてないじゃないですか！」
　先輩は本気で怒鳴ると、バスタオルで俺の頭を拭き始めた。
「ほら、上着を脱いで。シャツもです！
　ああもう、失礼しますっ！　このまま肺炎になっても知りませんからっ！」
　他人への怒りで動転する人を、はじめて見た気がする。
　先輩はすごい剣幕でシャツのボタンに手をかけて、
「――――――」
　冷や水をかけられたように、ぴたりと指を止めてしまった。
「………あの。
　……これ、もう塞がってる傷、ですよね？」
　遠慮がちな声に、そうだった、と思い出す。
　俺の胸には火傷じみた傷跡がある。知らずに見てしまえば、気持ちのいいものではないだろう。
「えっと……その、痛みますか？」
「平気です。……それは、もう七年も前のものだから」
「そうですか。
　……よかった、遠野くんに元気のない理由がこの傷だったら、今すぐ病院に連れていかなくちゃいけませんから」
　先輩は淡く、柔らかく微笑む。
　その笑顔を見て、ずきりと胸が痛んだ。
「……いいです。自分で出来ますから、ほっといてください」
「はい。それじゃお茶を持ってきます。
　あ、シャツを脱いで体を拭いたら、そこの毛布を上着代わりにくるまっててください」
「………………」
　言われた通り、シャツを脱いで上半身を拭く。
　ズボンを脱ぐには抵抗があったので、はいたままで水気を拭いた。
　毛布は使わず、上半身だけバスタオルで身を包んだ。
「あ、拭き終わりました？　それじゃお茶にしましょうか」
　先輩はティーセットを手にして座りこむ。
「遠野くんも座ってください。
　立ったままでいられると落ち着かないじゃないですか」
「……………」
　言われたままに座った。
　先輩は飾りのないマグカップに紅茶を入れて、俺に手渡してくれた。
「――――――――」
　お互い言葉はない。
　先輩は何でもないそぶりで紅茶を飲んでいる。
　所在なく、俺も紅茶を口にする。
　…………驚いた。すごく熱い。
　舌先がヒリヒリするぐらい熱くて、ドクンと体に脈が入る。
　心臓とか脳とか、止まっていた<機|も><能|の>が転がりだすような、そんな熱さだった。
　先輩は何も訊いてこない。
　しばらくして俺のマグカップが空になる。
　先輩はそれが習慣のように自然に、空になったカップに紅茶を注いでくれた。
「…………あ、の」
　なにか。口にしないと、いけない気がする。
「遠野くん」
「っ―――――！」
　びくり、と反射的に体を引いた。
「わたし、ちょっと出てきます。お留守番、頼めますか？」
「あ………う、うん、いいです、けど」
「はい、それじゃあお願いします。すぐに帰ってきますから、あんまりヘンなことしちゃダメですよ」
　どこまで本気なのか、笑顔で先輩は出かけてしまった。
　―――――。
　また、ひとりになる。
　さっきまで温まっていた何かが、急速に冷めていく。
　先輩は何も訊かなかった。
　俺みたいなヤツを自分の部屋にあげて、面倒をみてくれて、それが当然のように振舞ってくれた。
　……気がつかなかったけど。
　紅茶の温かさや部屋の小奇麗さより何倍も、ああして誰かが傍にいてくれた事が、麻痺していた心を癒してくれていたんだ。
『―――何を、勝手な』
　胸がいたい。
　さっきまで、俺はひとりだった。ひとりで何も感じず思考を放棄することが、唯一の救いだった。
　なのに今では先輩がいなくなっただけで不安になる。
　それこそ衝動的に、許してほしいだなんて、子供のように叫びたくなる。
「―――、―――……っ」
　漏れそうな涙と嗚咽を必死に堪える。
　だって酷い。人間として、あまりにも酷すぎる。
　……あんなに、死んでしまえばいいと思ったのに。
　……先輩に優しくしてもらう資格なんてないのに。
　……俺は人殺し、なのに。
　今は早く、少しでも早く先輩に戻ってきてほしいなんて、身勝手な事を考えている―――――
「ただいま遠野くん。お留守番、ごくろうさま」
　先輩は手に何個ものビニール袋を下げている。何やら、色々と買いこんできたようだ。
「えっとですねー、とりあえずコレに着替えてください。
　安物ですけど濡れた服よりずっといいです。お風呂もそろそろ沸きますから、お湯につかってゆっくりすれば、少しは気持ちも紛れますよ」
「…………」
　先輩はてきぱきと準備をしていく。
　お風呂の用意とか、俺の着替えとか。
　……この人が。
　俺の為にそんなコトをする必要なんて、ないのに。
「……いいよ先輩。
　俺、帰るから。これ以上迷惑はかけられない」
　シャツのボタンを止めて、上着を手にして歩きだす。
　……とにかく、この部屋にはいられない。
「え？　ちょっ、ダメですってば、そんな真っ青な顔で出歩くなんて！　せめてきちんと温まってから―――」
　先輩の手が伸びる。
　すれ違った俺の肩を呼び止めるように。
　それを振りほどこうとして、
　何の悪意もない偶然で、世界の在り方が一変した。
『――――――、あ』
　ズレる。ズレる。ズレる。ズレる。
　世界が断線する。一秒後の死が訪れる。
　何もかも容易く死滅する世界。
　理由もなく人を殺した、殺人鬼の見る世界。
　そこに、
「あわわ、眼鏡眼鏡……！　ごめんなさい、わたしの不注意でした！　こ、壊れてたら弁償しますから！」
　あわてて眼鏡を拾おうとする、善良な人の<死顔|すがた>があった。
『ああぁあああぁあああ――――――！！！！』
　のど元まで出た叫びを飲みこむ。
　両目を潰そうと跳ね上がった片手を必死に押しとどめる。
　違う。これはそう見えているだけの現実だ。
　起きている訳じゃない。まだ起きている訳じゃない。
　ああ、でも血が、赤い線が、走っている。
　あの白い女と同じように。
　あの時と同じように。
　俺を気遣ってくれたこの人にまで、赤い死が視えている。
「遠野くん……!?」
　なら繰り返す。きっと俺は繰り返す。
　理性の有る無しなんて関係なかった。
　俺は狂気であろうと正気がなかろうと関係なかった。
　いいかげん楽になればいい。
　俺はこういう生き物だ。
　こういう、■■な生き物だった。
　俺がいるだけでそこは地獄と変わりはなかった。
　だから俺が、理由もなく何かを台無しにしてしまうのはごく自然な在り方なのだと、心の何処かで―――
　―――いや、それは違う。
　先輩の声は聞きとれない。
　けれど、その眼差しの温かさは読み取れる。
　……たとえ俺が視るものすべてが地獄だとしても、現実はそれと関わりなくここにある。
　在り続けなくてはいけないと、底の底で信じている。
　この人が俺を気遣ってくれるように。
　俺がまだそれを正しく認識できるように。
　世界は変わりなく、俺とは無関係に生き続ける。
　破裂しそうだった心臓を落ち着かせる。
　床に落ちた眼鏡を拾い上げて、ゆっくりとかけ直す。
「―――はあ。あ、ぁ―――」
　嗚咽をもらして気持ちを抑える。
　ぺたん、と尻餅をついて大きく息を吐く。
　……ああ。
　また先輩にはみっともないところを見られたけど、思考も視界も、今はいたって正常だ。
「良かった。落ち着きましたか、遠野くん」
　顔をあげると、そこにはいつもの先輩の姿がある。
「ほら、やっぱり満足に歩けないじゃないですか。
　体が冷えきっているコト、分かってくれました？」
　ちゃんと反省してくださいね、といたずらに笑って、先輩は手を差し伸べてくる。
　……あんなに取り乱した俺を見ても、何も見ていなかったというように振る舞う。
「……ごめん。でも、今のは体の問題じゃなくて、」
「いえ、体の問題ですっ！　ひとりで立ち上がれないのをちゃんと理解してください。ほら、力がぜんぜん入っていないじゃないですか。
今の遠野くんなら、わたしひとりでもひょいっと運べちゃえそうです」
　そう言って、先輩は俺の手を引っ張った。
「あ、っと、とと……！」
　強引に部屋の真ん中に連れ戻される。
　……まさか、ほんとに運ばれるとは思わなかった。
「遠野くん、今日はお家に帰れないんでしょう？
　もう今夜の用意をしてきちゃったんですから、いいかげん覚悟を決めてください」
「覚悟って―――先輩？」
「ちゃんと体をあっためて、夕ごはんを食べて、しっかりするまで帰らないでください。そんな顔をしたまま出て行かれたら、気になって眠れないじゃないですか」
「――――――――」
　これまでとは違った胸の痛み。
　先輩の気遣いに心が折れそうで、うつむいて息を吐く。
　嬉しいと。泣いてしまいそうなほど嬉しい反面、この人の優しさを恐れている自分がいる。
「……なんで」
「はい？　なんですか、遠野くん？」
「……なんで、そこまでするんですか、先輩。
　俺には―――」
　―――俺は、人を殺してきたのに。
「……俺は、ダメなんです。
　さっき、すごい間違いをしてしまって、責任もとらずに逃げてきて、死んでもいいとさえ思ったのに―――」
　こんなところで先輩に<縋|すが>ろうとしている。
　あの罪を。
　自らの手で殺めてしまった命を、なかった事にしようとしている。
「……俺の間違いは、どんな事をしても許されない。……いや、許されちゃいけない事だと思う。
　だから、ダメなんです。こんなふうに先輩に優しくしてもらう資格なんて、俺にはないんです」
「……はあ。遠野くん、自分が悪い人だって思いこみたいんですねー。貴方はずっと、そうやって裁かれる時を待っていたみたいです」
「え……？」
「けど、そう思うという事は、遠野くん自身が自分の行動に<ま|・><だ|・>確信が持てないという事でしょ。
　貴方はいつも自分が悪いと思っている。今日はその最たるものだった。でもそれが本当に良いことだったのか悪いことだったのか、どう考えても分からない。
　だからそんなふうに、一方的に自分を追い詰めてハッキリさせるしかないんですよね」
「―――いや、それは―――」
　……違う、とは言えなかった。
　俺は自分がやってしまった事を認めている。
　けれど強い疑問が捨てきれない。なぜ、どうしてあんな事をしてしまったのか。そこに俺自身の問題があったのかどうかを、いまだ解析できていない。
　……いや。あの時の気持ちを理解する事だけは、絶対にできないと分かっている。
「ですが、わたしは遠野くんの犯した間違いというものがなんであるかは分かりません。
　ぶっちゃけて言えばそんなコト、どうでもいいです」
「遠野くんは優しくされる資格がないって言いますけど、それは遠野くんだけの都合です。
　わたしが遠野くんに優しくするのは遠野くんのためじゃないんですから、そんなに気にしないでください」
「俺のためじゃ、ない……？」
「はい。
……
その、ですね。わたしは、わたしが遠野くんに優しくしてあげたいから、こうしているんです。要するにわたしの趣味です。遠野くんの事情はあまり関係ありません。
　仮に貴方が悪人でもわたしは手を差し伸べます。まあ、そんなコトは百歩譲ってもないでしょうけど」
「あの、趣味って……先輩、人助けが趣味なんですか？」
　あまりの断言っぷりに、つい軽口がこぼれてしまった。
　先輩は気分を害さず、逆に、我が意を得たりとばかりに胸を張った。
「ええ。今回は人助けではなく、ひとりになりたがっている男の子を無理矢理引き留めて楽しんでいる悪人ですが。
　遠野くんにとっては迷惑でしょうけど、たちの悪い先輩に捕まったと思って観念してください」
　そう言って先輩は笑った。
　柔らかい、見守るような微笑みだった。
「……………」
　それで俺の心は完全に折れた。
　俺でさえ信用できない遠野志貴を、この人は助けるといった。
　たとえ俺が悪人であっても、助けたいから助けるのだと。
　……どれほど許されない事だとしても。
　俺は、その言葉に救われた。
「……そっか。ありがとう、先輩」
　遠野志貴を信じてくれた事ではなく、先輩のような人がいてくれた事に感謝して、深く息をもらした。
「いえいえ、礼には及びません。だってわたし、遠野くんの先輩ですから」
　誇らしげな笑顔に心の底から頭を下げる。
　気がつけば、あれほど聞きたくなかった自分の心音を、今は温かく感じていた。
　……本当に、顔をあげられない。
　俺はこの人の前にいるかぎり、自分を悪だと思う事が、もうできなくなっている―――
　ざあ、という雨の音を聞く。
　……結局、先輩の優しさを振り払う事はできなかった。
　お風呂を借りて、寝巻きまで用意してもらって。
　夕食まで……コンビニ弁当だったけど……ごちそうになって、外は雨が降っているからとベッドまで借りて、こうして眠りにつこうとしている。
　先輩はベッドのとなり、床に布団を敷いて眠ってしまった。
　ベッドを使わせてもらう事は断固反対したのだが、
「ここ、安造りですから床は冷えるんです。風邪を引き始めている人にはお勧めできません。どうぞ、わたしのベッドを使ってください。ちょっとはマシです」
「いや、あの、ベッドって、先輩の……？」
「そうですよ？　あ、気にしないでください。あまり使ってませんから新品同様です。
いいですよね、日本のベッド。ふかふかで、しあわせです」
「…………」
　……なんて笑顔で言い含められて、ベッドを押しつけられてしまった。
「―――――――」
　ぼう、と天井を見上げる。
　遠野邸とは比べるべくもない平凡な造りなのに、とても広く感じてしまう。
　きっと感覚が麻痺している。先輩の気遣いがあんまりにも大きすぎて、自分をちっぽけなものに感じている。
　先輩は夕食の時も明るく、いつも通りに話しかけてきた。
　学校の事とか、俺の知らない色々な店の話とか、とにかく話題を途切れさせる事はなかった。
　満足な返答はひとつもできなかったけど、その<度|たび>にどうにかしていた頭が、少しずつ正常に戻っていくのが申し訳なく、同時に嬉しかった。
　……本当に、なんてコトだろう。
　たった数時間前に人を殺しておいて、こんな普通の学生みたいな事にドギマギしてしまっている。
　俺はもう二度と、こんな時間を過ごす事なんて、できないと思ったのに。
「………………」
　眠れずに視線を泳がせる。
　この先、自分はどうしていけばいいのか、どうするべきなのか迷っている。
　ざあ、と。
　外からは雨の音が聞こえる。
「遠野くん。早く眠らないと、明日遅刻してしまいますよ」
「……先輩、起きてるんですか……？」
「はい。遠野くんが眠るまで眠れません。わたし、いちおう女の子なんですから」
「……ごめん。やっぱり台所で眠るよ、俺」
「もうっ、何度も言わせないでください。遠野くんは風邪の引き始めなんですから、台所には寝かせられません。いいからイヤなことは忘れて眠っちゃってください」
「―――――厭な、こと」
　……ああ、それは無理だ。
　あれは忘れられないものだし、忘れてはいけない事だ。
　どんな理由であれ、人を殺してしまったのなら。
　奪ってしまったものを忘れるなんて、罪深すぎる。
「……だめだ。罪は誤魔化せないよ、先輩。忘れることはできないし、忘れるつもりもないんだ。
　……けど、ありがとう。今日は先輩に助けられた。あのままでいたら本当に、俺は死んでいたかもしれない」
　……それは最低の逃げだ。
　心が落ち着いた事で、こんな俺でもようやく気がつけた。
　自分の命を断ったところで何の<償|つぐな>いになる。
　本当に自分が間違ってしまったと思うなら、安易に逃げる事だけは、するべきではないと思う―――
「罪、ですか。どうも遠野くんの間違いというのは、わたしでは想像もつかないコトみたいですね」
「けど遠野くん。罪を犯さない人なんて、この社会にはいないんじゃないでしょうか。人間は誰もが罪人な訳ですし」
「……先輩。それは、どういう……？」
「いえ、誰もが、というのは言い過ぎでしたね。
　でも、善い人間と悪い人間がいるんじゃないんです。ただどうしようもなく、何かの弾みで道を踏み外す人がいるだけで。
　生きている以上、誰だって過ちは犯してしまう。哀しいですけどそれは避けられない。
　だって人間は、そういうふうに生きる動物です。知恵がある以上、誰かの幸福を踏みにじらずにはいられない」
　暗がりに響く声は、少しだけ辛辣だった。
　……意外だ。
　先輩の口から、そんな性悪説みたいな言葉がでるなんて。
「……なんだよ先輩。それじゃあさ、なんか救われないよ。みんなが過ちを犯してるなんて、そんな喩え話、好きじゃない」
「……そうですね、それじゃあ救われませんね。
　けど、罪というものは償えるじゃないですか。
　世の中には善人も悪人もいません。ただ、罪を償える人と、償えない人がいるだけなんです。
　ですから、救われない人というのは、どうあっても自身の罪を償えない人のことだと思います」
「どうあっても、償えない―――」
「はい。でも、遠野くんは償える人です。何をしてしまったかは知りませんけど、遠野くんは償える人ですよ。
　不安で眠れないのなら、この先どう償って生きていくかを考えればいいんです。
　それはすごく難しいことですから、そのうちあたまがパンクしてするっと眠れちゃいます」
「……けど、先輩。俺の間違いは、どうやったって償いきれない。こればっかりはハッキリとした事なんです」
「あはは、そうですよ。どんなモノであれ、罪というものは完全には償えません。
　誰かを傷つけて、その人の傷を治したとしても、傷つけたという罪は消えないでしょう？
　どんなに頑張っても、犯してしまった過ちは消えてくれないんです」
「『償い』とは結果ではなく、その過程で生まれる心のあり方だと、わたしは教えられました。
　他人に強制されずとも、自らを罰する事ができる心。
　償える人と償えない人、というのはそういう事です。
　だから遠野くんは間違いなく償えちゃう人ですね」
　……そうなのだろうか。
　俺は、俺を信じる事ができないけれど。
　……この人がそう言ってくれるなら、そうであるように生きたいと思った。
「……わかんないな。俺、ひどい人間だよ。先輩が思ってるほどいいヤツじゃない」
「そんなの簡単に分かりますよ。さっきですね、わたしちょっと感動しました。遠野くん、胸にすごい傷があるでしょ？」
「あるけど……それがどうして？」
「あれだけの傷跡ということは、とても大きな事故だったんでしょう。爪跡というものは心を歪ませます。
　あんなに大きな、しかもまだ消えない傷だなんて、ちょっと普通じゃないですよね」
「けれど遠野くんはとても自然です。あの傷を受け止めて生きてきたのなら、それは間違いなく誇れる事です。
　遠野くんはとてもまっすぐな幼年期を過ごしたんでしょうね。
　あなたはきっと、怒る事はあっても、<他|ひ><人|と>を決して恨まない」
　満足そうに呟いたきり、先輩は何も話さなくなった。
　耳をすませば穏やかな寝息が聞こえてくる。
「……寝ちゃったのか、先輩」
　返事はない。
　外からはただ、止むことのない雨音だけが聞こえてくる。
「………償い、か」
　犯した罪に相当する罰。
　明日になれば彼女の死体が発見されて、新しい猟奇殺人として報道されるのだろう。
　そうなった時、俺が失うものはそれこそ数えきれない。
　秋葉には迷惑をかけるだろうし、こうやって先輩と話をする事も二度と出来なくなる。
「…………………」
　でも、それが償いになるのなら、受け入れるべきだ。
　俺の人生はそこで終わって、罪の清算が始まる。
　それが少しでも、俺が殺してしまった彼女を知っていた人たちの気持ちを和らげる事になるのなら―――償えるものは、たしかに、どこかにあるのかもしれない。
「は――――あ」
　少し、眠くなってきた。
　明日の事は分からない。
　分からないけど、もし許されるのなら。
　せめて明日、今までお世話になった人たちにお礼を言うだけの時間が、あってくれればいいと願った。
　……灰色の陽射しで目を覚ます。
　雨だれの音はもう聞こえない。
　雨は止んだものの、空はまだ曇っているようだ。
「は―――あ」
　長く息をついて、ベッドから起きあがる。
　……昨夜は深く眠れなかった。
　うつらうつらと眠りに落ち、その度に『あの光景』が脳裏に蘇って目を覚ましていたからだ。
「……真っ赤な床と、バラバラの……」
　理性や記憶はこういう時に不便だ。
　忘れたい事、都合の悪い事ばかりを思い出させようとする。
「……馬鹿らしい。アレは夢だったのに、何をいつまでうなされてるんだ、俺は」
　……そう、ただの夢なんだから。
　早く、一刻も早く忘れてしまえ。
　扉がノックされる。
　時計は朝の６時前。
　……こんな早くから誰だろう？
「失礼いたしま―――
志貴さま？」
「申し訳ありません。お目覚めでいらしたのですね」
「いや。こっちこそ驚かせてごめん。昨日の夕方から寝ていたから、早く目を覚ましたんだ。
　……それで、翡翠の方こそどうしたんだ？　こんな早くから何かあったのか？」
「……………」
　戸惑うように黙り込む翡翠。
　よく見れば、その手にはうちの学校の制服があった。
「着替えを持ってきてくれたのか」
「……はい。重ねて申し訳ありません。
　お見苦しいところをお見せしました」
「？」
　翡翠は押し黙ってしまう。
　……どこにもお見苦しいところなんて無かったと思うけど、それはそれとして。
「……とにかくありがとう。制服はそこに置いていいよ。すぐに着替えて居間に行くから」
「はい。それでは失礼します」
　音もなくドアに向かう翡翠。
　……と。
　翡翠はドアの前でピタリと足を止め、唐突に振り向いた。
「志貴さま。……その、お時間があるのでしたら入浴の用意もいたしますが」
「……入浴って、朝から？」
「はい。志貴さまはひどく汚れています。学校に行く前にお体を流された方がよろしいのではないでしょうか」
　……言われてみれば、体は汚れている。
　昨日、貧血で公園に倒れていたそうだから、それも当然といえば当然か。
「そうだな、悪いけど用意してくれる？
　この時間なら学校にも十分間に合うし」
「かしこまりました。
　では20分ほど経ちましたら浴場においでください」
　翡翠は制服を置いて部屋から出ていった。
　時刻はまだ朝の６時。
　何をするでもなく、20分間ぼんやりと部屋の天井を見上げ続けた。
　頭から水をかぶると、鈍った<思考|あたま>はようやくスッキリしてくれた。
　冷たい水に髪を濡らしながら、大きく深呼吸をする。
　……しかし、厭な夢だった。
　見ず知らずの女性を殺す夢なんてどうかしている。
　慣れない屋敷の生活で疲れていたにしろ、あんな夢を見ているようじゃこの先が思いやられるというものだ。
「……そうだよな。気を、引き締めないと」
　もう一度冷たい水をかぶってから体を洗う。
「痛っ………」
　タオルが喉に触れただけでズキリと痛んだ。
「……なんだ、これ」
　鏡で自分の首筋を見る。
　……気色悪い。
　喉は赤く腫れあがっていた。
　部屋に戻って制服に着替える。
　時刻は７時をまわったばかり。
　風呂に入るだけで回復した自分に呆れながら、鞄を持って部屋を後にした。
「おはようございます志貴さん。今朝は早いんですね
」
　階段を下りると、ちょうど琥珀さんが居間から出てきたところだった。
「それになんだかサッパリしていらっしゃいます。
　もしかしてお風呂あがりなんですか？」
「ええ、さっきまで入っていました。すごいですね琥珀さん。そういうの、わかるものなんですか？」
「一目瞭然ですよ。志貴さん、髪が乾ききってませんから。
　お風呂あがりだと、志貴さんはいっそう可愛らしくなるんですね」
　屈託のない笑顔を向けられて、訳もなく視線を逸らした。
　……今は、笑顔を向けられると胸が痛い。
「ちょっと待っててくださいね。
　朝ごはん、これから支度をしますから」
「え―――？」
　……朝、ごはん。
　つまり、何か食べるっていうことか。
　些細な言葉で血の色を思い出す。
　今朝は、いつにも増して食欲がない。
「そうですねー。今朝は洋風でいいですか？」
「……ああ、うん。基本的にどっちでもいいんですけど。
　そっか、朝ご飯か。あんまりにもお風呂が気持ち良かったから忘れてた」
「そうなんですか？　志貴さんは昨夜も食べていませんから、おなかの音で目を覚ましたのかなって、翡翠ちゃんと話してたんですけど」
「いや、単純に寝過ぎただけだよ。子供の頃から小食だったから、一食二食抜くのはよくある事だったし」
「ははあ。言われてみると、志貴さんって贅肉のない、いい体をしていますものね。もしかして菜食主義者さんですか？」
「そんな<拘|こだわ>りはなかったけど……言われてみれば、有間の家では野菜ばっかり食べてた気がします」
　退院後、医師から消化の悪いものは避けるようにと言われてはいたけど、それとは関係なく肉を口にするのは避けていた気がする。
　……きっと、生き物の死を連想させるからだろう。
「ふむふむ、好き嫌いはないんですね。
　それでしたら安心してお食事を用意できます。さ、すぐにお作りしますから、居間で待っていてくださいな」
　琥珀さんは忙しそうに居間へ踵を返す。
　けれど、今は喉にものを通す気になれなかった。
「あ、いいんだ琥珀さん。今日は食欲がないからこのまま学校に行くよ。秋葉にもそう伝えておいてくれ」
　それじゃあ、と玄関に足を向ける。
　が、その直後、
がしっと腕を掴まれた。
「志貴さん！」
　……予想外だ。
　琥珀さんが、怒ってる。
「なんてことを言い出すんですかっ。
　志貴さん、今朝は鏡をご覧になってないんですか!?」
「……いや、鏡なら風呂場で見たけど……」
「うそですっ。ご自分の顔を一度でも見ているんなら、そんなコトは言えません！」
　琥珀さんは真剣に怒ってる。
　……そういえば風呂場で見た自分の顔は、青を通り越して土気色っぽかったっけ……。
「いや、でも大丈夫だって。俺はもともと血の気が少ないし、人より顔色が悪く見えるだけというか、」
「だめです！　朝ごはんを食べないと大きくなれないんですから！　食欲がないようでしたら病人食にいたしますから、どうぞ食堂にいらしてください」
　琥珀さんは俺の腕を掴んだまま、強引に食堂へ歩きだした。
　……仕方ない。
　本当に気乗りはしないけれど、ここは琥珀さんの厚意に甘えるとしよう……。
「おはようございます兄さん。
　お体の具合はよろしいのですか？」
　こころなしか、秋葉の挨拶は遠慮がちに聞こえた。
　普段の気丈さがないのは、一応、俺の体を心配してくれてのことらしい。
「おはよう。体のほうは、まあ、それなりに調子いいよ」
　挨拶を返して椅子に座る。
「それでは、食べやすいお雑炊などをご用意いたしますね。
ちょっとだけお待ちください」
　ささっと移動する琥珀さん。
　いったん廊下に出て西館奥の厨房に向かったのだろう。
　食堂には自分と、柄にもなく遠慮がちな秋葉と、壁際に控えている翡翠の三人となった。
「……………」
　……なんだか、気まずい。
「兄さん、
昨夜の事ですけど。
　公園で倒れていたというのは本当なんですか？」
「ああ。自分でもいまいち覚えてないけど、琥珀さんと翡翠がそう言うんなら、そうなんじゃないか？」
「もうっ、他人事のように仰らないでください。
　兄さんは体が弱いんですから、危ないと感じたら屋敷に連絡をいれてください。すぐに迎えの者を行かせますから」
「……あのな。小学生じゃないんだから、そんなのは必要ないよ。どんなに気分が悪くたって自分ひとりで帰ってこれる」
「それでは兄さんはまだ子供なんですね。昨日はひとりで帰って来れなかったんですから」
「……昨日は特別だ。あんなコトは滅多にない。
　だいたいな、俺は慢性的な貧血持ちなだけで、体が弱いわけじゃない。いちいち秋葉に心配される筋合いはないよ。
　昨日は単に、致命的に間が悪かっただけなんだ」
「っ、致命的だなんて、馬鹿な事は言わないでください！
　ご自分の体の事でしょう!?　屋敷に帰られたばかりだというのに、兄さんに死なれたら私はどうすればいいんです……！」
「――――――」
　秋葉は真剣に怒っている。
　その、ある種余裕のない怒りが、俺には意外だった。
「兄さんは軽率すぎます。
　もう少し、ご自分を<労|いたわ>ってあげてください」
「いや、俺だってあまり無理はしてないよ。部活もやってないし、医者の言うことは全部守ってるし。これ以上<労|いたわ>れっていうんなら、どっかのサナトリウムにでも入るしかないんじゃないか？」
「ええ、出来ることならそうしてしまいたいぐらいです。
　どこかの孤島でも買い取って、そこで反省していただくのも有りですね」
　むっと視線を逸らし、秋葉はさりげに恐い発言をした。
　何が怖いって、秋葉にとって今のスケールの話が冗談ではないのが怖い。
「―――はあ。
　いいわ、今回は何事もなかったので不問にしてあげます。
　でも次はありませんからね、兄さん」
　言いたい事を言いきって、秋葉は<癇癪|かんしゃく>を収めたようだ。
　翡翠はと言うと、今の俺たちのやりとりを彫像のように見つめている。
「…………」
　……沈黙が気まずい。
　食事が出来るまでまだ時間がありそうだし、ここは―――
「秋葉。琥珀さんの事だけど」
「はい？　琥珀がどうかしましたか？」
「うん、いい人だなって。さっき玄関で怒られたよ。朝ごはんを抜いたら大きくなれませんよーって」
「ふうん。たしかに琥珀らしいですね、それは」
「あっちの家にいた頃もさ、そんな風に叱られた事なんてなかったから驚いた。おかげで、これから朝飯を抜く事はできなさそうだ」
「そうですね。兄さんはただでさえ貧血気味なんですから、朝食を抜くなんてもってのほかです」
　俺の場合、食事と目眩はあまり関係ないのだが、ここは素直にうなずいておこう。
「そういえば。思い出したんだけど、秋葉は今も浅女の生徒なんだよな……？」
「はい。浅上女学院は中学校から大学までのエスカレーターですから」
　浅上女学院はひとつ隣の県のお嬢様学院だ。
　もともとは明治初期に創立されたミッション系の学院だったが、現在はその名残をとどめる学院になっている。
　昭和になった頃、資金難から閉校寸前になったものの、新しい支援者に恵まれ、今に至っている。
「あそこは全寮制だろ？
　どうしてここから通っているのかなって」
「浅上のおじさまとお父様は懇意の間柄でしたから、多少の我が侭は聞いていただけます。
　事情があるのなら自宅からの登校も許可する、と」
「いや、俺が聞きたいのはそういう事じゃなくて。
　秋葉は親父が亡くなるまで寮のほうで生活してたんだろ？　なんで今になって<屋|う><敷|ち>から通ってるんだよ。車で一時間近くかかるんじゃないか？」
「それは――――」
　言葉をつまらせて、秋葉は視線を逸らした。
「志貴さま。
秋葉さまは以前から週の半分をお屋敷でお過ごしになられていました。ですので、学園に通うのはそう特別なことではありません」
「そうだったのか。けど、なんだってそんな事に？」
「お父様のたっての願いでしたから、週の半分はこちらで過ごす事にしていたんです」
　ああ、と納得する。
　遠野槙久は、秋葉が中学生になっても自由時間を許さなかったのだ。
「………そっか。でも、親父はもういないんだ。秋葉も無理することないんじゃないか？
　ただでさえ忙しいのに、往復二時間もかけるなんて馬鹿らしい。その分、寄宿舎で友達と過ごした方が楽しいだろ？」
「ええ、そうできたら苦労はしません。
　ですが、私には責任がありますから。昨日のような事があるかぎり、当分は屋敷から学校に通います」
「昨日のようなこと……？」
　俺がいない間、遠野家の財産関係で問題でもあったのだろうか？
「なんでもありません、自覚がないのでしたら結構です。
　―――それより兄さん。ずいぶんと浅上女学院について詳しいようですが、興味でもおありでしたの？
　男性にはあまり縁の無い世界の筈ですが」
「うん。そりゃあちょっとは知ってるよ。だって、秋葉の通ってる学校なんだから」
「は？」
「おまえが中学生になった時、啓子さんに聞いたんだよ。浅上女学院に入学したって。だから、少しは」
　妹がどんな学校にいったのか、知っておくぐらいはバチは当たらないと思っただけだ。
「今はネットのおかげで調べるのも簡単だし。さすがに現地には行ってないけど」
「そ、そうでしたか。失礼しました。
　私はてっきり……」
　うむ。浅上女学院はその特性上、見目麗しい生徒が多く、また、ご令嬢も多い。
　生徒でなくとも文化祭に入場できる『親族招待チケット』は、黄金の価値があるとも言われている。
　以上、有彦からのどうでもいい情報でした。
「そうだ秋葉。
　うちの屋敷って、今はどうなっているんだ？」
「どうなっている、とはどういう意味ですか？
　所有権の問題でしたら、いずれ私が相続するカタチになっていますが」
　秋葉が成人するまで遠野家の資産は後見人預かり、という事だろうか。
　そのあたりの取り決めは俺には関係ないのでほうっておいて、
「いや、そっちの話じゃなくて、単純に屋敷の状況。
　いまいるのは俺と秋葉、琥珀さんと翡翠だけなんだろ？
　使ってる部屋とか、そういうのはどうなっているのかなって」
「私たちの部屋以外は原則として鍵を閉めています。
　兄さんの部屋は西館二階の南端、
　私の部屋は東館二階の北端です。
　翡翠の部屋は西館二階の中央、
　琥珀の部屋は西館一階の北端です」
「二階の遊戯室と客間は閉めていますが、兄さんがお友達をお連れになられるのでしたら開放します。
　お父様の書斎は……重要な書類がまだありますので、堅く鍵をかけています。こちらは兄さんと言えど立ち入り禁止ですので、胸に留めておいてください」
「なるほど。基本的には西館が使われているんだな。
　東館は執務室とか、秋葉の部屋とか、なんていうか、」
　庶民にとっておっかない空間が広がっている、と。
「兄さん？」
「なんていうか、ちゃんと事前に約束をいれておかないといけない高級なスペース、という事だな。わかる」
「……言い方に問題はありますが、概ねその通りです。
　あとは……そうですね。兄さんがいた頃は開かれていましたが、別館と植物園も閉めています。
　しばらくは管理が行き届かないので」
　別館は外来の客が宿泊するもので、植物園は槙久が学生の頃に建てたもの、だったか。
　遠野槙久は当主として家督を継ぐ前、農学、とくに育種学に傾倒していた。植物園はその時の名残だそうだ。
「外の施設はのきなみ閉めたって事か。
　あ。じゃあプールも？」
「プールは例外です。秋になったので閉めているだけで、シーズンになれば業者を入れて再開します」
　それは良かった。
　子供の頃は使わせてもらえなかったが、来年の夏休みはリッチな体験ができそうだ。
「はーい、お待たせしましたー♪
　梅じそと卵のお粥、登場です！」
　元気いっぱいにワゴンを押して琥珀さんがやってくる。
「お喋りはここまでだな。
　時間もないし、チャチャっと食っちまおう」
「兄さん。その乱暴な言葉<遣|づか>いはやめてください」
「ありゃ、すっかりもとの調子に戻ったか。俺の心配をしてくれていた方がおとなしくて良かったのに」
「馬鹿な発言も控えてください。戻るも戻らないも、私、兄さんの心配なんてしていませんので」
　秋葉はぷいと顔を背ける。
　それを微笑ましく眺めながら、琥珀さんのお粥をありがたくいただく事にした。
「いってらっしゃいませ」
　これまで通り、翡翠に見送られて正門を出る。
　……なのだが。
　翡翠はじっと俺を見つめた後、意を決するように小さく息を吸って言葉を続けた。
「……志貴さま。昨日はどうなされたのですか」
「別に何もないよ。学校で気分が悪くなって、早退して、ここに帰ってくる途中で―――」
　―――途中で？
「―――公園で、休んでいただけだ。
　……でも、たしかに秋葉の言う通り軽率だった。これからは気をつける」
「責めているのではありません。
　……今朝の志貴さまはひどく無理をしているように見えたのです。
どうか道々、お気をつけください」
　そんな言葉だけでも、翡翠にとっては出過ぎた事だったのだろう。
　彼女は深々とおじぎをして、俺を送り出してくれた。
　学校に近付くにつれ、制服姿の生徒が多くなっていく。
　時刻は７時45分。
　ＨＲまで時間の余裕があるためか、みなのんびりと登校している。
　もちろん自分もその一人だ。
　今朝は遅刻の心配もなく、何の憂いもなく、いつも通りの一日を始められる。
　この交差点を抜ければすぐに正門だ。
　信号機が赤になって、横断歩道の前で立ち止まる。
　歩道の向こうには学校の塀がある。
　通学路はガードレールに守られていて、今も我先に生徒たちが校門へと向かっている。
　この時間、歩道にはうちの学校の生徒しかいない。
　しかいない筈だ。
　なのに、せわしなく自動車が走っていく合間に、白い人影を見た気がした。
「―――――、な」
　そこにいたのは、彼女だった。
　紛れもない白い姿。
　日の光を思わせる金の髪。
　細く長い眉と赤い瞳。
　たった一度しか見ていなくとも、俺がその姿を見間違える事はない。
「――――――」
　けど、そんな筈はない。
　だってあの女は、昨日俺の手で、あんなにもバラバラに、
「――――――」
　いや、それさえ嘘だ。
　アレは悪いユメにすぎないと翡翠が、秋葉が、琥珀さんだって言ってくれ――――
「――――――」
　言ってくれてなんか、ない。
　単に自分自身が、そう思い込みたかっただけの話。
　だからアレは夢という虚言ではなく現実の話。
　殺した。
　殺した。
　殺した。
　俺が、彼女を、間違いなく殺しきった―――
「――――――は、ァ」
　けど、それなら。
　どうして、どうしてアレが、
　あんなところで、
　現実として、俺の目の前にいるのだろう……？
　信号が青に変わる。
　まわりの生徒たちは向こう側へと歩いていく。
　その中で、自分だけが立ち止まったまま呆然とする。
　女はガードレールに腰をかけて、足をぶらぶらとゆらしている。
　まるで何か、誰かを待っているような様子だった。
　どれくらい待っているのかは見当もつかないが、彼女の表情に険しいものはない。
　―――誰を待っているのだろう。
　まるで恋人と待ち合わせをしているように、彼女はそわそわして落ち着かない。
　……いや、待て。待っている？
　誰かを待っている？
　決まっている。そんなものは決まっている。
　俺だってきっとそうする。
　誰だってきっとそうなる。
　もし自分が殺されたのなら。
　真っ先に誰に会いたいかなんて、考えるまでもない。
　―――イヤな予感がする。
　背筋に走る、<百足|ムカデ>が這うような悪寒。
　背骨が口からせり出してきそうだ。
　白い女がこちらを見た。
　視線が合う。意図が合う。すべてに正しく筋が通る。
　否。そんなものは偶然だ。偶然にすぎない筈だ。
　感触がない。関連がない。関係がない。
　アレは似ているだけの他人で、
　彼女は別の誰かを待っているに決まってる。
　そうでなければ、この瞬間こそ悪い夢だ。
　だって、だって、死んだ人間が、あそこまで解体された人間が、生きている筈がない。
　なのに、生きている女は、俺を見て笑った。
　やっと来たわね、と。
　自分を殺した相手を見付けて、心の底から満足そうに。
　女は手を挙げて親しげに微笑むと、ガードレールから腰をあげた。
　さらりと髪をなびかせて、立ち尽くす俺に向かってくる。
「なんだよ――――――それ」
　悪い、夢だ。
　信号が赤になる。
「来るな――――来るな、来るな―――」
　女は気にした風もなく、車が行き交う道路を一直線に横断してくる。
　あと、ほんの３メートルの、距離もない。
　夢か現実かも、分からない。
「だから―――来るなって、言ってるのに―――！！」
　大声をあげても目の前の現実は変わらない。
　俺はそのまま、白い女から逃げ出していた。
　走った。
　全力で走った。
　恥も外聞もなく、通り過ぎる人々を突き飛ばしながら、アスファルトの<路|みち>を全力で走り続けた。
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ―――――！」
　呼吸が乱れて、心臓がばくばくと悲鳴をあげる。
　それでも走った。
　引きつった顔はまともな機能を放棄していた。
　視界が涙で歪む。喉が<灼|や>かれる。肺が<萎|しな>びる。
　震えすぎて手の筋肉は断裂しそうだった。
　両脚はでたらめに、加減を忘れて地面を蹴る。一歩進むたびに<腿|もも>に痺れるような痛みが走った。
　それでもいいと思った。脚が千切れてもいいと思った。
　だって、走らないと気が狂いそうだった。
　背後を見る。
　白い服の女が歩いてくる。
　間違いなく俺を追って来ている。
　俺が殺した女が、俺を追いかけて来ている。
　狂躁の<理|ワ><由|ケ>はそれだけで十分すぎた。
「はっ、はっ、はあ――――――！」
　爆発しそうな心臓を無視して走り続ける。
　振り返るとあの女の姿がある。
　羽のように軽い足取りで、逃げる俺を追って来ている。
「はっ、はっ、はっ、はっ―――――！」
　顎があがる。
　両腕がだるい。
　足はとっくに感覚がない。
　だっていうのに、こんなにも全力で走っているのに、どうして、歩いているだけの相手を振り切れない―――!?
「はっ、はっ、はっ、はっ――――」
　息があがる。
　もう何キロ全力で走っただろうか。
　それでも振り返ればあいつが歩いて来ている。
　自然に、散歩するような足取りでピッタリと離れない。
　まるでバックミラーに焼き付いた<幽霊|ゴースト>だ。
「………はっ、はっ、はっ、はは、はははは」
　おかしくもないのに笑って、笑いながらまだ走った。
「はは、ははは、あははははははは！」
　笑いが止まらない。
　それでも走って、これ以上走れば死んでしまうと体が<訴|うった>えているのに、まだ走った。
　走る理由は明白だ。
　あいつに追い付かれたら、俺は間違いなく殺される。
　何を根拠にと笑い飛ばしても、それが気休めである事は自分が一番よく分かっていた。
　どんな理由も根拠も必要ない。
　これは当然のルール、誰だって知っている因果応報。
　<人間|オレたち>は、殺したら殺される。
　殺した以上、あの女には俺を殺す権利がある。
　だから―――
　ただもう事実として、遠野志貴は、追い付かれた瞬間、その人生を終えるのだ。
「あっ―――」
　無様に地面に倒れこんだ。
　足がもつれたのではなく、もう一歩も手足が動かなくなって、前のめりに倒れこんだ。
「っ……ア、は……っ！」
　倒れたまま這いずって、なんとか壁ぎわに辿り着く。
　壁に手をかけて立ち上がろうとしたけれど、ダメだった。
　立ち上がったとたん膝から力を失って、ドスンと尻餅をつく。
　そのまま、体はもう動いてはくれなかった。
「はあ―――はあ、はあ―――」
　顔をあげて息を吸う。
　―――苦しい。
　まったく酸素がぜんぜん足りない。
　おかげで頭が動かない。
　自分がなにをしているのかも意味不明。
　どうしてこんなコトをしているのか分からない。
　どうして、なんで、なんで殺した女が生きているのかも分からない。
　間違いなく完璧に、
　およそ考えられる極限として、俺はあの女を殺した。
　なのになんで、あの女は学校の前で俺を待って、あんなふうに笑いかけたり出来るんだろう―――？
「……確かに、殺したのに」
　―――そうだ。
　たしかに殺したのに
　たしかにころしたのに
　たしかにコロシタノニ
　なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、
　なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、
　なんで、なんで、なんで、なんで、なんで――――――!?
「あれ、追い駆けっこはもう終わり？」
　カツン。
　路地裏に乾いた音が響く。
　軽やかな足取りでやってきた女は、残念そうに肩をすくめて、壁にもたれかかった俺に、
「こんにちは。昨日は本当にお世話になったわ」
　屈託のない笑顔を向けてきやがった。
「っ……！」
　気が狂いそうになる。
　そんな顔をする意味が分からない。
　女は笑顔のまま、無遠慮に、不用心に、この閉ざされた路地裏に入ってくる。
「それとこれ、忘れもの。
　困るのよね、証拠になるようなモノを落とされちゃ」
　ぽい、と放られる黒い物体。
　それは、ここまで落とした事さえ気づかなかった俺の鞄だった。
　いや、それよりコイツ、今なんて言った……？
　証拠？　証拠になるようなモノ、だって……？
“ダメだ―――逃げろ、逃げろ……！”
　そう思って足を動かすも、背後はコンクリートの壁で、これ以上奥には逃げられない。
「ん？　追い駆けっこは終わりなんでしょ？
　だってここ袋小路だもん。おまけに<人気|ひとけ>もないから、邪魔が入る心配もないし」
　よっぽど嬉しいのか、女は笑顔のままだった。
　……袋小路？　人気がない？
　あわてて周囲を見渡して、自分の馬鹿さかげんに愛想が尽きた。
　こんなところに逃げこむなんて、自分から殺してくださいと言っているようなものじゃないか……！
「長かったなぁ。
　あれから18時間、ようやくあなたをつかまえた」
　かつん、と更に一歩、女は路地裏に入ってくる。
「お、おまえ――――」
「なに？」
「おまえは、たしかに――――」
「ええ。昨日あなたに殺された女よ。
　覚えていてくれて嬉しいわ」
　嘘だろうと事実だろうと聞きたくもない返答だった。
「ふざけるな、死んだ人間が生きてるハズがないだろう！」
「そうだけど、そう驚くコトでもないんじゃない？
　たんに、殺されたあと生き返っただけなんだから」
　女はあっさりと答えて、かつん、と音をたてる。
　距離は段々と短くなっていく。
「……生き……返った？」
　呆然と女の言葉を噛みしめる。
　生き返った……？
　つまり、瀕死から回復した？　じゃあ医者にでもかかって手術の末、あの状態から蘇生した……？
「―――って、バカにすんなっ！
　あんなに手足をバラバラにされて、生き返る人間がいるもんか……！」
「うん。だってわたし、人間じゃないもの」
「―――――、は？」
　女の言葉の意味は、その、あんまりに簡単すぎて、違う解釈ができなかった。
『わたしは人間じゃない』
　たしかに、目の前の女はそう言い切った。
「……人間じゃ、ない……？」
「当たり前でしょ。手足をバラバラにされて、ひとりでに再生できる人間がいると思う？」
「―――――――」
　無論、いる筈がない。
　そんなものがもし在るとしたら、それは人間に似ているだけの、まったく違う生物だ。
　殺しても蘇る。
　息の根を止めてもおかまいなし。
　バラバラにしても元通りになって動きはじめる、
　人のカタチをした、人間とは呼べないもの―――
「――――、は―――」
　それが、いま俺の目の前にいる女の正体らしい。
　笑おうとして声をあげたけれど、渇ききった喉は引きつるばかりで、うまく笑う事さえできなかった。
「……なんだよ、それ」
　笑い話にしても出来が悪く、
　笑い話に出来ないほど符合するものがある。
　だって、確かに。
　この女が人間じゃないのなら、殺した筈なのに生きている事に、道理が通るかもしれないじゃないか。
「は……はは、は……」
　……頭の芯が落ち着いていく。
　幼い頃、俺を救ってくれた人の言葉を思い出す。
　とりあえずよく見て。
　その後で色々と考えなくっちゃいけない状況だ、これは。
「……人間じゃないって言ったな。
　それじゃあなんなんだ、おまえ」
「わたし？　
わたしは吸血鬼って呼ばれてるけど。
　わかりやすく言えば、人の血を吸って生きてる怪物かな」
　……良かった。
　なにが良かったかって、吸血鬼という単語はそれなりに分かりやすい。
　俺だって知識として知っている。
　作り話とはいえ、吸血鬼という単語は<大衆的|ポピュラー>かつ有名だ。
　小説家ブラムストーカーの創作。西洋圏で<虚構|フィクション>として語られる、人間の姿をした“死なない”怪物。
　次に、何より名称だけでその在り方が<窺|うかが>える。
　血を吸う鬼。鬼と名乗るからには、人間でないのは当たり前だ。
「そう、吸血鬼、なんだ―――」
　口にして、あまりの突拍子のなさに笑いそうになった。
　この後すぐに殺される状況なのに、気が楽になる。
　なんというか、もうどうにでもなれという心境だ。
　そんな、何もかも投げ出した俺の無様な姿を、女は満足そうに見下ろしている。
　……でも、吸血鬼ってヤツは昼間は歩けないのが通説ではなかっただろうか？
　まあ、今はそんなコト、本当に些細な問題だけど。
「……で。
　その怪物が、俺なんかに何の用だっていうんだ」
　ヤケになって言い捨てる。
　なぜか、女は身を引いた。
　それも束の間で、すぐに両手を胸の前で組んで、むっとした眼差しを向けてくる。
「驚いた。昨日、わたしに何をしたか忘れたの？
　あなたは見ず知らずのわたしを、会った瞬間にバラバラに殺してくれたのよ。それで何の用だ、なんて、よっぽど手慣れているみたいね」
　女は怒っている……というより呆れているようだ。
　でも、今は俺だって同じ気分だ。
　なにしろこの手で殺した女に、よくも殺してくれたわね、なんて恨み言を言われているんだから。
「ちょっと。聞いてるの、殺人狂」
「……ああ、聞いてる。我ながらものすごい悪運持ちだなって、いま噛み締めてるところなんだ。
　悪いけど、ちょっと黙っててくれないか」
　というか、何かに当たり散らしたい。
　そうでないと自決さえしかねない。
　この期に及んで、運の悪さを思い知る。
　理由もなく突然殺したくなった女がいて、
　そのまま勢いにまかせて殺してしまった。
　そのあとの記憶が曖昧で、夢だったと目を背けていたらやっぱりホントのことで、加えて、殺した相手は人間じゃなかったときた。
　今まで自分の事を欠陥品だ、不適合だと言い含めてきたけど、この状況に比べたら俺はいたって<正常|マトモ>じゃないか……！
　そのあとさんざん悩んで自暴自棄になったけれど、
　とにかく自分なりの償いをとろうって決意してみれば、
　殺した相手が実は人間じゃなかったときた！
「――――――は、はは」
　つい笑ってしまう。
　……けど、そう悪いことばかりじゃない。
　だって殺した相手が生き返っているんだから、俺は誰も殺してない事になる。
　そりゃあ『殺した』という行為は残るけど、彼女はちゃんと生きている。
　なら―――それだけは本当に、喜ぶべき事だと思う―――
　……そうだ。これなら、俺はやっていける。
　遠野志貴は今まで通りの日常に戻っていける。
　そのかわり、なんかとんでもないヤツに追い詰められてる訳だけど、人殺しになるよりは遥かにマシだ。
　悪運は悪運でも、とびっきりの悪運だろう。
　ここまで馬鹿げた話なら、おかしいのは俺だけじゃないんだから。
「……いいよ、落ち着いた。
　言いたいことがあるんだろ？　文句でも恨み言でも、思う存分言ってくれ」
「そりゃあ言いたいコトはいっぱいあるけど……あなた、変わった人ね。吸血鬼を前にして、なに、その態度？」
「悪かったな、必死に居直ってるんだよ。……そうでもしないと、自分で自分を殺しかねない」
　もう殺すなら殺せ、の心境だ。
　こっちだって七年間、異常な体質と付き合ってきた身だ。
　それがどんなに恐ろしい出来事でも、目の前で起きた以上は事実だと肯定する程度の心構えはある。
　とはいえ、こんな<相手|ケース>があるなんて事はそれこそ夢にも思わなかったけど。
「ふーん………」
　女はじろじろと眺めてくる。
　その視線は鋭いものの、敵意というものがない。
　……おかしいな。やられたらやり返すっていうのは、きっと世界で共通の法則だ。この女だって、俺を殺したくてウズウズしている筈なんだけど……？
「……なにじろじろ見てるんだ。
　おまえは俺に復讐しにきたんだろ。なら―――」
「ええ、たしかに殺されたら殺し返すのがセオリーよね。
　それがお望みならしてあげるけど、とりあえず今はパスかな。それ、損益が合わないから」
　女はじっ、と真っ正面から俺を見据えてくる。
「ねっ、反省してる？」
「……え？」
　一瞬、目が点になった。
　この女が、なにか、場違いな声を出したからだ。
「わたしを殺しちゃったことを反省しているのかって訊いてるの。それでね、もしあなたが反省しているのなら許してあげようかなって。
　あなた、人間にしては嘘が下手そうな感じだし」
「反省って……俺が？」
「うん。あなたがごめんなさいって言ってくれれば、わたしとしてはそれでいいよ」
　―――信じ、られない。
　なにが信じられないかって、それは、自分を殺した相手を許すとか許さないとかじゃなくて、その―――
　この女の声が、ひどく優しく聞こえてしまった事が。
「もうっ。こっちが真面目に訊いているんだから、ちゃんと答えるのが筋ってものでしょ。
　ほら、早く答えて。反省しているのか、していないのか。
　そこをはっきりさせないと先に進めないんだから」
　―――反省しているか、だって？
　そんなの、言われるまでもなく――――
「………………そりゃ、あ」
　その続きを口にしようとして、何かが俺に待ったをかけた。
　それはいけない。
　言葉にした瞬間、おまえは元の盲目に戻れなくなる。
　このまま目を背け続けて、何にも気づかないまま、<正常|マトモ>なフリをし続けろ、と。
「そりゃあ、なに？」
「――――――、―――」
　喉が引きつる。
　それを言うな、と恐怖する。
　けれど―――
　……けれど、避けては通れない。
　避けて通ってはいけないものだ。
　そういう風に、信じてくれた人がいたはずだ。
　おまえは、自分が正常でありたいと願うのなら。
　自分の犯した罪から、
　自分が犯す行為から、
　目を背ける事だけは―――
「……そりゃあ、後悔してる。
　何であれ、俺は、人を殺してしまったんだから」
　しぼるように告白する。
　言葉をこぼした途端、もう歯止めが利かなかった。
　……もうこれで、俺は駄目だと受け入れた。
　そうだ。俺は殺した。
　容赦なく、なんの理由もなく、
　ただ自分の為だけに殺してしまった。
「……その事を、後悔も反省もできる。
　……できるのなら、」
　そんな、安易な事が、許されるのなら、
「……何度でも、頭を下げる。
　……でも、それは意味のない事だ。
　事実として、俺はあんたを手にかけた。だから―――」
　許されていい筈がない。
　生き返っているから問題ない、なんて通じない。
　遠野志貴は、目の前の女性を殺してしまった。
　それは究極の略奪だ。
　それ以上の<量|はか>りのない暴力だ。
「だから―――あんたは、俺に復讐していい。
　……俺が逃げたのは、おまえが怖かったからじゃない。俺は、俺自身の行為から、逃げていただけだった」
　俯いたまま。
　誰に懺悔するのでもなく、そんな言葉を呟いた。
　……それで、ようやく目が覚めた。
　俺は昨日から夢の中にいたようなものだった。
　終わる前の<仮初|かりそ>めの夢。
　自分の卑劣さから逃げ続けた現実逃避。
　その<報|むく>いが、今、やっと―――
「―――そっか。うん、いい人なんだね、あなた」
「……？」
　驚きから顔を上げる。
　その女は笑っていた。
　自分の事を吸血鬼だなんて言うクセに、まっすぐで、これ以上ないっていうぐらいの顔で。
「決めた。
　やっぱりあなたには、わたしの手伝いをしてもらうわ」
「―――は？」
　さっきとは違う、意味ありげな笑顔を向けられる。
　手伝い……手伝い……？
「おい。手伝いってなんだ」
「だから、あなたを許してあげる代償。
　この街に根付いている吸血鬼の始末を、ちょっと手伝ってもらおうかなって」
「――――」
　……いや、ますます分からない。
「待て、許す代償ってなんだ？　っていうかそんな簡単に許せるのか？
　そもそも吸血鬼の始末って、おまえ、自分のコトを吸血鬼って言ってなかったか―――!?」
「ああ、ちがうちがう。わたしは吸血鬼だけど、街に根付いている吸血鬼はまた別物よ。
　あなた、この街に住んでいる人でしょ？
　なら、最近起きている殺人事件も知ってるわよね」
「う……いや、まあ」
　聞き覚えのある世間話を振られて、混乱した頭がクールダウンする。おかしな話だが、殺人事件という異常な話の方が、いまの状況より何倍もリアルな話だった。
「……そりゃあ知ってるよ。連続通り魔だろ。もう何人も殺されてる事件で、被害者は血液を抜かれて―――」
　そこまで口にして、女の言い分を理解する。
　と、いう事は……
「そ。わたしが言ってるのはそっちの吸血鬼のコト。
　自分を殺せ殺せってあなたは言うけど、わたしが殺したい相手は今のところソイツだけよ。
　この殺人犯って、あなたたちにとっても敵なんじゃないの？」
「――――――」
　更新される状況に追いつこうと頭を走らせる。
　文脈は分かる。女が何を言っているのかも理解できる。しかし根本的なところで、俺の常識は置いてけぼりになっていた。
「ほーんと、人間って非効率すぎて理解できないわ。
　自分たちで『吸血鬼のしわざか』と言っているのに、誰も吸血鬼退治をしないんだもの。森が燃えているのに逃げ出さない栗鼠みたい」
「いや、だって、吸血鬼なんているハズないだろ？」
「むっ」
　女は不機嫌そうに顔をしかめる。
　……そうだった。
　いま目の前にいるのは吸血鬼を名乗っている正体不明の存在だったっけ。
「……でも、それじゃあ、何か。
　おまえはその、この街で殺人事件を起こしている吸血鬼を退治してくれるのか？」
　んで、それの手伝いを俺にしろとか言っちゃってるのか？
「ええ。なにしろ予定が大きく崩れちゃって。
　昨日、なぜか見ず知らずの殺人鬼に襲われて殺されちゃったから。うん、アレはまいったなあ。もうかんっぺきな不意打ちで、反撃する間もなく十七個に切断されたんだもの」
「はじめて見ただけの相手を尾行して、殺したら満足して去っていくとかどうなの？　ほーんと、酷いなんてものじゃないわ。言い逃れもできないぐらい、完全な殺人鬼よね、そいつ」
「う――――」
　……くそ。その殺人鬼って、どうみても俺の事だよな。
　否定したいが否定する材料がまるでない。
「わたしだってね、復元するまでは本当にあなたを殺すつもりだったわ。
　あんな屈辱を受けたのは初めてだったし、復元しきるのに八割以上の力を消費してしまったわけだし」
「それよりなにより、ほんっっっとうに、ものすごく痛かったんだから。あんまりにも痛いから気が触れそうになるんだけど、やっぱりあんまりにも痛くて正気に戻るの。
　そんな繰り返しを一晩体験したわたしの気持ち、わかる？」
「……………」
　すまない。人間として、想像できる範疇を超えている。
「それでね、もう憎くて憎くてあなたを探したわ。
　目的である吸血鬼も放っておいたぐらい、それだけに熱中した」
「土地の記録からあなたの服装があの学校のものだって判ったのは二時間ぐらい前の話。
　ホントは夜まで待って捕まえようと思ったけど、もう一分だって待ちたくなかった。それじゃあって、あそこで待つコトにしたの」
「……………」
　そうか……学校の前で待ちかまえていたのはそういう<経|ワ><緯|ケ>だったのか。
　それだけの痛みを経験した後だ、さぞ俺を殺したくてたまらなかっただろう。
　しかし……
「……わからないな。そこまで憎かったのに、どうして俺を許すなんて言うんだ」
「―――そうね。
　簡単に言えば時間が経って冷静になった……のかな。
　わたしも力を消費しちゃったコトだし、メッタメタに殺すより、グッチャグチャの盾になってもらったほうが効率的だなって考えたの」
「……おい。いま、よからぬ事を口にしなかったか、おまえ」
「え？　そんなこと言った、わたし？」
「人のことを盾にするって、言った」
　あとおそろしい効果音もいれていた。
「なによ、そんなの当然じゃない。
　わたしはあなたのことを許したけど、それはわたし個人の感情に整理をつけただけだもの。
　あなたが犯した殺害という行為そのものは、やっぱり気持ちじゃなくて行為で<贖|あがな>うしかないでしょ？」
「いや、でしょ、と言われても」
　そりゃあ仕返しに殺されるんだろうな、とは思ったけど、それと盾になれ、というのは別問題だ。
　……いや、何がどう違うのか、うまく言葉にできないけど、とにかくイヤな予感しかしない。
「素直なんだかいじわるなんだかわからないひとね。
　繰り返すけど、わたしはあなたに殺されたのよ。
　想像できないでしょうけど、一度死んでから蘇生するのにはそれなりに力を消費するんだから」
「単純に殺されるだけならどうってコトなかったわ。
　でもあなたの切り口は今まで見たこともない切断面で、傷口が繋がらないから体を作り直すしかなかった。
　その結果、わたしは生き返るのにほとんどの力を使っちゃったんだからね！」
　ぷんぷん、という擬音が似合いそうなほど、女は腹を立てている。
　今まで忘れていたものの、説明した事で昨夜の怒りを思い出してしまったらしい。
「とにかく、今のわたしは弱ってるの。
　二晩も経てば回復するだろうけど、その前に襲われたら打つ手がないの。
だからその間、あなたにはわたしの盾になってもらうから」
「いや、もらうからって、なに勝手に決めてんだよ!?」
「あなたのせいでこうなったんだから、それぐらいはして当然でしょう？
　それとも、やっぱり反省なんかしてないっていうの？」
　じっ、とまっすぐな目で女は見つめてくる。
「……………う」
　それは、卑怯だ。
　反省とか当然とかいう以前に、そんな目をしないでほしい。
　吸血鬼なんて怪物を自称するのなら、そんな純粋な目で<人|オ><間|レ>を責めないでほしい。
「……………おまえ、な」
　情にほだされそうな心をかみ殺す。
　反省はするし、<贖|あがな>いもする。
　でもコイツに協力する事は<人|・><間|・><と|・><し|・><て|・><間|・><違|・><っ|・><て|・><い|・><る|・>と、心臓が裂けるように告げている。
「俺は―――」
　返答に<窮|きゅう>して、なんとなしに顔を上げる。
「……？」
　瞬間。その、二つの目と、目が合った。
「っ―――！」
　緩んでいた意識が引き締まる。
　萎えていた両脚に力が戻り、尻餅の姿勢から中腰に移行する。
　俺の視線に釣られて女も背後……この路地裏の入り口を振り返る。
　そこには、
　吸血鬼を名乗る女以上に、人間の都市に居てはならない生き物がいた。
「――――――」
　女は平然と眺めているが、俺は状況把握が追いつかない。
　アレは、豹だ。それは判る。子供だって見知っている動物だ。
　ただし、あくまで図鑑の中、檻の中にいる前提だ。
　間になんの壁もない状態でアレと向き合う事がどれほどの恐怖なのか、俺はいま身をもって味わっている。
　細く強靭な四肢。
　ゴムのようにしなやかな、しかし鉄骨のような筋肉。
　人間とは大きくかけはなれた、“獲物を狩る”ことだけを追求したそのフォルム。
　切り捨てたはずの太古の記憶を呼び起こされる。
　同じ生物として、優れた運動能力への畏敬と恐怖で呼吸が止まる。
　言語化するまでもない事実―――この生き物と共存など、ましてや意思疎通などあり得ない。
　黒豹の体長は１メートル以上あった。
　犬でさえ、その<大|サ><き|イ><さ|ズ>なら人間をたやすく組み伏せる。
　それが凶悪な牙と爪を<携|たずさ>えて、たった５メートル先で、俺と白い女を凝視している。
「ね。あれ、あなたの知り合い？」
「わけあるかっ！」
　空気を読まない発言に、思わず切り返してしまった。
　―――本当に俺は馬鹿だ。
　その声を号令にして、黒豹は跳んだ。
　いや、走ってきた。そのスピードが速すぎて、跳んだとしか認識できなかっただけだ。
「――――――」
　何もできない。
　黒い影が、初動さえ知覚させないまま、俺の肩口に牙を打ち付ける。
　見えているのに。
　一秒後の結末が判りきっているのに、避ける事も、避けようという考えも浮かばなかった。
「と―――――!?」
　しかし、衝撃は真横から。
　黒い影に食いつかれる直前に、俺は白い女に弾き飛ばされた。
　片手で、無造作に。
　女の手がこちらの横腹に触れた途端、ボールでも投げるように、壁まで放り飛ばされたのだ。
「い、っ……！」
　背中から壁に叩きつけられた痛みに耐える。
「おまえ、何を―――！」
「いいから前！」
　女が叫ぶ。
　見れば、俺という標的を失った黒豹は壁に激突する事なく、くるりと反転して壁に四つ脚をつき、さらに反対側の壁へと跳躍していた。
　ビルの側面に黒い塊が付着する。
　黒豹はぴたりと壁に張り付いたかと思うと、その眼光を再び俺に向けて―――
「――――――」
　一瞬の出来事に息を呑む。
　壁から跳躍してくる黒豹の軌跡は稲妻のようだった。
　その射線に入るよう跳躍し、白い女は片手で稲妻を弾いた。
　……恐ろしいのは、女の跳躍があまりにも軽やかだった事だ。あの黒豹の速度を上回りながら、なお“軽やか”に見える事が、俺の神経を逆なでする。
「ちょっと、わたしの方が先約だって分かるでしょ？
　あんまり聞き分けがないと殺しちゃうわよ」
　女の態度はなに一つ変わっていない。
　黒豹は威嚇するようにうなり声をあげながら、白い女と慎重に距離をとる。
　その間合い、およそ３メートル。
　黒豹はその先から踏みこんでこない。今の攻防で実力差を理解したのだろう。
　あの黒豹は確かに怪物だ。人間にとっての怪物。人間が出遭えば殺されるしかない<獣|ケモノ>。
　……だが、あの女は次元が違う。怪物にとっての怪物。どんな怪物であれ出遭えば死ぬしかない魔物だった。
　黒豹は微動だにせず女を観察する。
　俺ですら把握できる力の差だ。狩猟を<性|さが>とする野生動物から見れば、目の前に巨大な壁があるようなものだろう。
「用件は後で聞いてあげるから、わたしの邪魔を―――
」
　女の空気が変わる。
　黒い獣を前にしても動じなかった気配が、目に見えて鋭敏化する。
「なっ、人……!?」
　それは、どう見ても通りすがりの“<第|だ><三|れ><者|か>”だった。
　ビルとビルの隙間にあるこの路地裏に、薄暗い<路|みち>を通って、ゆっくりとやってくる。
「だめだ、来るな！　ここには豹が―――」
　豹がいるんだ、と言いかけて、
　眼球に、赤い痺れが走った。
「――――――」
　眼鏡をかけたまま目蓋をこする。
　いま、確かに、
　何か、無残なモノが、視えてしまった。
　ソレは止まらない。
　ソレには黒豹のような野生の知覚も、誇りもない。
　目の前にいる白い女が何であろうと、あと数歩進めば踏み潰されると判っていようと、ためらいなく前進する。
　だって<彼等|アレら>には脳がない。
　恐怖する<心臓|こころ>がない。
　どう見ても、アレで生きている筈がない。
　燃えている。眼から、口から、ごうごうと黒煙が立ち上っている。なのにああして動いている。
　死人だ。
　あれは死人だ。
　救いを求めるように伸ばした手から廃油がこぼれる。
　こぼれた油は路面に落ちた途端、ぼう、と炎の舌を伸ばす。
　それが淀みきった血液なのだと、遠目で俺は理解する。
「なにこれ、新種……？」
　白い女は、完全にアレに目を取られていた。
　三体の死人、その二体が白い女に手を伸ばす。
　そしてもう一体は、呆然と立ち尽くす俺にぐらりと首を回して、その燃え盛る眼孔を―――
　やられた。
　そんな致命的な隙を、あの黒い獣は逃さない。
「っ……！」
　さっきの跳躍を上回る突進。
　今度は知覚する事さえできなかった。
　黒豹は俺を押し倒すようにのしかかると、その牙を俺の首元に走らせた。
「う、ぐっ……!?」
　首元が締まる。
　首の後ろがつっぱる感じ。まさか、学生服の後ろ襟を噛まれて、引っ張られているのか……!?
「うわあ！？」
　またも壁際に押しこまれた。
　それも路地裏の隅。がらくたが積まれた物陰に、乱暴に連れこまれた。
「お、おまえな、人をゴミ扱いすんな―――！」
　……なにしてんだ、俺。
　のしかかる黒豹につい文句を漏らしてしまった。
　幸運な事に黒豹の追撃はなかった。おそらく、俺ごときに構っている場合ではなかったのだろう。
　姿勢を起こし、廃材に隠れながら女を見る。
　<燻|くすぶ>る死体はついに、黒豹が踏み込まなかった３メートルの間合いに入った。
　瞬間、
　大気が、確かに悲鳴をあげた。
　女の腕の動きに合わせて発生した気流は<解体重機|ブルドーザー>のショベルのように、動く死体を……三つの人体を、跡形もなく消し去った。
　―――頭痛がした。
　<眼窩|がんか>の中で小さな棘が跳ね回る。
　まるで、いま見たモノを否定しつくすような、赤い<痛覚|はもの>。
「……もう。また無駄な体力を使っちゃったじゃない」
　女はやれやれと肩を落としながら俺に振り返る。
　いま消え去った死体になぞ、はじめから関心を持っていない。
「これもあなたがグズグズしていたからよ。
　はやく決めてくれれば見つかる事もなかったのに！」
　女はつかつかと、尻餅をついた俺に歩み寄ってくる。
　黒豹はとっくに消えていた。
　今のアレを見て、あの女には敵わないと逃げ出したのかもしれない。
「―――おい。今の、なんだ」
　……眼球の真横から頭痛がする。
　頭蓋を貫通する痛みで言語野が乱れている。
　この女は―――一体、なんだ？
「？　なにって、ただの死者でしょ？
　敵の吸血鬼の使い魔よ。ちょっと珍しい……というか、初めて見るタイプだったけど」
「そうじゃない。おまえの話だ」
　鋭い頭痛が、早く正気に戻れ、と訴えてくる。
　この女は怪物だ。
　近代都市には場違いな黒豹も、
　あり得ない燃える死体も、
　この女に比べれば、まだ信憑性のある現実だ。
　腕を振るだけで竜巻を起こす？　馬鹿げている。そんなモノ、この脆弱な<肉体|にんげん>として、一秒だって共存できる筈がない。
「わたし？　だから吸血鬼だって言ってるじゃない。
　あれ、もしかしてあなた、吸血鬼って単語、知らない？
　<日|こ><本|こ>じゃ一般教養だって聞いたんだけどなあ」
　女は間の抜けた反応をする。
　その隙に、震えている手足に力をこめる。
　今の出来事で、女は路地裏の入り口から離れている。
　全力で走れば今度こそ逃げられるかもしれない。
　俺は大きく息を吸って、
「あ、れ……？」
「――――――」
　走り出す直前。女の―――彼女のその顔を見て、
　今度こそ本当に、冷静になった。
「お……おい。どうした、ケガでもしたのか……？」
「ケガなんて、そんなのするワケないでしょう。あんな<鈍|のろ>いのにやられるなんて考えた事もないわ」
「……でも、ちょっとまずい展開になってきた。
　こうなったら是が非でも、あなたには盾になってもらわないといけないみたい」
「―――、は？」
　そういえばそんな話をしていたんだった……！
　さっきまでは何かの比喩だと思えていたが、今はもうそんな楽観はできない。
　こいつは本気で、あんな、黒豹だの燃えている死体だのの盾になれと言ってやがる……！
「バ、バカなこと言うな、このばかっ！
　今の見てたろ、俺に何ができるっていうんだ！　おまえひとりの方がよっぽどマシだろうがっ!?」
「そうでもないわ。今ので本当にカラッポになっちゃったから。
　あなたたち風に言うと生きてるだけで精一杯、みたいな？」
「――――――」
　そ、そうなのか。とてもそうは見えないけど、そうなんだ。
　さっきみたいな<暴力|デタラメ>が無尽蔵ではなく、きちんと底のある行為であった事に安心する。
　ああいや、今はそういう事ではなく……！
「精一杯、とか言われても、困る。……そりゃあ、できる事なら何でもする。
　でも無理だ。無理だろ、どう考えても。俺にはあんなのを追い払う力はない。悪いけど、盾にだってなれはしない」
「嘘よ。あなたはわたしを殺したのよ。
　そのあなたが、どうしてそんな嘘を言うの？」
「殺したって、アレは―――」
　自分でも、自分が分かっていなかった時の話じゃないか。
　役に立てるなら俺だって役に立ちたい。
　だが『役に立つ』の基準が、あまりにも常軌を逸している。
「………………」
「……ふうん。
ならわたしが眠っているあいだ、まわりを見張ってくれるだけでいい。
　それくらいなら問題ないでしょう？」
　……その目をされると、なぜか弱い。
　俺は―――
「俺は―――」
　できない、と、どうしても言いきれない。
　俺はこいつを殺してしまった。
　その結果こいつは弱って、誰かの助けを求めている。
　……それにまだ少ししか話していないけど、こいつはそう悪いヤツじゃない気がして―――
「ねえ、どうなの？
　人間のあなたとしては、やっぱり吸血鬼であるわたしには協力できない？」
「そりゃそうだろ。分かってるじゃないか、おまえ」
「――――」
　ああ、だからそういう目はしないでほしい。
　罪悪感に負けて断りきれなくなってしまう。
「……けど、乗りかかった船だしな。
　ここで知らんふりするのも寝覚めが悪いし」
　……あとで後悔するのは目に見えている。
　それでも、
「……なにより、相手はあの通り魔殺人の犯人なんだろ。
　なら、この街に住んでる人間として、おまえの手助けぐらいしないとバチがあたりそうだ」
　この、馬鹿みたいにまっすぐな視線から目を逸らすよりは、いくぶんマシだ。
「それって、つまり―――」
「……盾になるのはお断りだけど、見張りぐらいはしてやるってコト」
「――――――」
　……これである。
　なんだよ、その顔。
　死んでも生き返るとか、さっきの竜巻とか、コレとか、反則の安売りすぎる。
「良かった。これで契約は成立」
　女は俺に手を差し伸べてくる。
「やっと自己紹介ができるね。
　わたしはアルクェイド―――うん、長い名前だからアルクェイドだけでいいわ。
　<真祖|しんそ>って区分けされる吸血鬼だけど、あなたはなんていう人？」
　今までお目にかかった事もない自己紹介をされて、重苦しいため息をついた。
　……諦めの脱力というか、このデタラメな状況を受け入れてしまった証というか。
「遠野志貴。あいにくただの学生だよ。
　……前もって言っておくけど、本当に何の役にも立たないからな」
　女―――アルクェイドの手を握る。
　彼女はまじまじとこちらを眺めた後、
　改めて握手を求めてきた。
「それじゃあよろしくね、志貴。
　わたしを殺した責任、ちゃんと取ってもらうんだから」
　ニッコリと左手を差し出すアルクェイド。
　……世の中にはいろんな責任があるんだろうけど、殺した相手を手助けして責任をとるのは、たぶん俺が最初で最後なんじゃないだろうか。
「……ああ、ほんと、どうかしてる」
　けど、今は他にどうしようもない。
　俺は嫌々ながら左手を差し出して、吸血鬼と名乗る白い女と握手をした。
「なに、ここ……」
　暗黒に声が響く。
　湿った空気。泣きたくなるほどの腐臭。一寸先の見えない暗闇。そのすべてが、彼女の知性を熔解させる。
「なんなの、ここ……」
　数分前の事が思い出せない。
　どこにいたのかも思い出せない。
　男たちの声を聞いた気がする。
　自分の意思で下りた気もする。
　昇降機を使った気もする。
　落ちていく途中で、これが冗談のような都市伝説ではなく、本当に関わってはいけない都市の真実と気づいて、必死に停止ボタンを押し続けた気もする。
「どこなのよぅ、ここ―――！」
　だが、それは既に過去の話。
　人間にとって時間は非可逆だ。非対称だ。<左右対称|シンメトリ>でない以上、<未|ミ><来|ギ>から<過去|ヒダリ>には戻れない。
　つまるところ。
　気がつくと、彼女は地獄のただ中にいた。
「あ……ああ、ああああ、あ……！」
　暗闇に怯えて壁に手をつく。ぬちゃりと指に付着する腐汁。生臭い。柔らかい。それが人間の臓物が飛び散った跡と知って、泣きながら指を這わせる。
　だってそうしないと先に進めない。
　暗がりに進めない。
　先ほどから、ヒタヒタと付いてくる足音から逃げられない。
「いや、いやぁ、いやだ、いやぁ……！」
　臓物を掻き出しながら、顔をくしゃくしゃに歪めながら歩くしかない。
「ひぃ……！」
　進むたび、壁の中から金属をすり合わせるような<絶|お><叫|と>がする。
『アア、アアアア、アアアアアアアアア』
『アンタは人間か!?　おい、行くな！　行かないで……！』
『お母さァん……お母さァァァァん……』
『出して、出して出して出してぇぇええ』
「ひぃ……ひぃぃぃ、ひぃいいいいいい！」
　とても同じ生き物の声とは思えない。
　喉と肺を破裂させるような絶叫だった。それくらいの<欠損|いたみ>は構わない、と彼等は声をあげていた。
　でも彼等の体はもうどうしようもなく。
　手足もなく、蓑虫のように、天井から吊るされている。
「やだ、やだ、死にたくない、死にたくない……！」
　もう終わったモノたちの懇願を無視して逃げる。
　光。明かり。とにかく明かりがほしかった。だってそれなら逃げ切れる。
　ゴールがある、と案内役の男たちは笑っていた。
　なら出口はあるはずだ。
　それだけが唯一の助かる道だ。それが嘘だと気づいていても、かろうじて残った正気はその希望に<縋|すが>り続けた。
「明かり……明かり、明かり、明かり……！」
　しきりに後ろを振り返る。
　そういえば、自分はひとりではなかった、と彼女は思い立った。
　恋人と一緒にきたはずだ。あのバカな男がこんな話を切り出したのだ。だから自分も、遊び気分で“試してみよう”なんて言い出したのだ。すべてはあの男のせいだ。死ねばいい。さっさと死ねばいい。自分より先に死ねばいい。その隙に自分だけ助かればいい。自分だけ助かる筈だ。だって自分は特別だ。何
も悪い事はしていない。こんな目に遭う理由がない。こういうのはもっと、自分より低俗で頭の悪い連中か、自分より恵まれた運のいい連中がうけるものだ。自分は関係ない。私は関係ない。善良に生きてきた。いたって普通に生きてきた。いたって普通に生きるんだ。だから、こんな目に遭うのは、私以外の誰かの筈で―――
「ひ、え―――？
」
　薄闇が途絶える。闇が満ちる。
　その中で、
　彼女は、燃え盛る自分を見た。
「なに、これ……手が、灰みたいに、ボロボロって」
　壁に伸ばした腕はもう肘までしか存在しない。
　あわてて見下ろした体は、とっくに服は焼け、皮膚は炭化し、内臓と肉をあぶりだしている。
　肉の脂が、見とれるぐらいに赤く赤く燃え盛っている。
　良かった、と彼女は笑った。
　だって。
　やっと明かりが、手に入った。
「あは……燃えてる……すごいすごい！
　見て、わたし燃えて、燃えてるんだだだだダだダダダ！」
　哄笑する人体模型。
　闇を照らす人体トーチ。
　それを、
　刺し潰す、慈悲の一撃。
「だ、ダダダ、ダ―――ダ、だし、だして、だし―――」
　沸騰した血液をまき散らして、彼女は燃え尽きた。
　その温度を味わうように、ソレは鮮血を飲み下した。
　地獄はもとの暗闇に立ち返る。
　ソレは最低限の食事を終え、<主|あるじ>不在の地獄を横断する。
　背後には無数の死体。
　迷い込んだ人間も、この墓地の住人だった死者たちも、等しく灰になった火炎の<河|みち>。
「“―――ここは、寒い”」
　はき出す<呼|い><吸|き>さえ<煙|けぶ>っている。
　<蛞蝓|なめくじ>のように赤い跡を残しながら、ソレは鈍重な足取りで地上を目指す。
「“―――真祖の心臓を、我が手に”」
　
　たったいま己が<下僕|しもべ>たちが発見した、<垂涎|すいぜん>の獲物を仕留める為に。
「うん、わりといい部屋ね。
　これなら一晩過ごしても文句ないかな」
　楽しそうにホテルの部屋を見渡すアルクェイド。
「――――」
　こっちはあまりの展開に言葉がない。
「それで、俺は何をすればいいんだよ。具体的に」
「とりあえず移動するわ。
　わたしの部屋は守りには向かないから……そうね、見晴らしのいい、高いところに行きましょうか」
　で、これである。
　アルクェイドは大通りでタクシーを停め、となり町まで移動。
　このあたりでも屈指の高級ホテルの一室にチェックイン……どころか、最上階フロアすべてを借り切った。驚きのセレブぶりだ。
「おー、高いたかーい！
　人間の建築技術って、ほんとメキメキ向上するわよねー。
　こういうのなんて言うんだっけ？　<一髪千鈞|いっぱつせんきん>？　<日進月歩|にっしんげっぽ>？
　ま、どっちでもいっか！　ほら、見て見て志貴、さっきまでいた路地裏があんなにちっちゃくなってる！」
　閉め切られたカーテンをわずかに開けて、アルクェイドは窓から見下ろす風景を楽しんでいる。
　とてもじゃないが俺はそんな気分じゃない。
　ここはホテルの一部屋というより、ホテルの最上階に造られた砦のようだ。
　日光を<遮|さえぎ>るカーテンも、部屋を飾る家具も、壁や扉の材質も、一般のものより数倍、豪華かつ頑丈だ。
　最上階を借り切っている以上、他の客はこのフロアにはやってこない。よく見れば、部屋には一階ロビーの様子を逐一映しているモニターすらあった。
　……この部屋を使用する人種はそういう特権階級なのだと、改めて思い知る。
「今夜はここに隠れましょう。あ、宿泊費のことは気にしなくていいよ。
わたしお金持ちだから、おごってあげる」
　陽気に言いつつ、アルクェイドは窓から離れた。
　見晴らしのいい場所と言っておいて、都市の俯瞰図はもう飽きたらしい。
「……アルクェイド。おまえ、なに考えてるんだ」
　はあ、とため息がもれる。
「なにって、別に色々考えてるけど」
「いや、そういうコトじゃなくてだな。
　男とホテルの一室なんて―――」
　言いかけて、やめた。
　俺の役割は、この『自称吸血鬼』の見張りをする事だけだ。
　余分な事は言わなくていい。
「いや、いい。好きにしてくれ」
「ヘンな志貴。
　いきなり怒ったり黙ったりして、予測がつかないね」
　何が楽しいのか、アルクェイドは笑っている。
「…………」
　一方、こっちはドアの間近に立ったまま、油断なく部屋の様子を観察する。
　リラックスしきっているアルクェイドとは正反対だ。
　疲れきっていたので休みたいのは山々だが、いまソファーに腰を下ろしたらそれこそ深海まで沈んでしまいそうだ。
　いくら<自|ヤ><棄|ケ>になっているからといって、そこまで無防備にはなれない。
「志貴、なにか飲むー？　ここ、飲み物がたくさんあるみたい！」
「………………」
　部屋に備え付けられたミニバーから脳天気な声がする。
　……アルクェイドが手に持っている瓶は、言うまでもなくアルコールの類いだった。
「あのな。未成年のクセに酒を勧め―――」
　言いかけて口をつぐむ。
　あいつが未成年かどうか分からない。別に興味ないし聞く気もないが。
「後で自分で選ぶからいい。それより―――」
　どんなに疲れていても、面食らっていても、訊くべき事がある。
　目の前にいる女は何なのか。
　つまるところ、いま自分はどれほど危険な状況にいるのか。
　それらが俺の常識にないものだとしても、出来る範囲で理解しないとおちおちソファーに座れもしない。
「……それより、おまえに訊きたい事がある。
　のんびり休むのはその後だ」
「？　かまわないけど、どうしたの、急にかしこまって」
「………………」
　かしこまるも何も、おまえの前で気を許した事はないんですけどぉ……いや、それはいいとして、
「真面目な話だよ。
　結局のところ、おまえの目的ってなんなんだ？」
「わたし？　わたしは吸血鬼を追ってるだけよ。
　『吸血鬼殺し』がわたしの役割だから」
「ああ、たしかにそんなコトを言ってた。
　けど、おまえは吸血鬼なんだろう？」
「なに、志貴ったらまだわたしのこと信じてないの？」
「いやっていうほど信じてるから安心しろ。
　俺が言いたいのは、どうして<吸|・><血|・><鬼|・>であるおまえが<吸|・><血|・><鬼|・>を殺すのかって事だ。それ、おかしいだろ、理屈的に」
「あら、志貴は同族同士で殺し合うのは嫌いなんだ？」
「同族じゃなくても願い下げだよ。
　……あのさ、吸血鬼は人間の血を吸う鬼なんだろ。なら殺す対象は人間であって、同じ吸血鬼じゃない。
　おまえが殺すのは、その―――」
　吸血対象である、人間になるんじゃないのか……？
「吸血行為と殺害行為は別物よ。
　ま、それでも志貴の言いたい事は分かるわ。同じ種族同士、助けあうべきだっていうんでしょ？
　けど、吸血鬼は同じ<大|お><源|や>から派生したモノであっても、それぞれ異なる進化を遂げた固有種のようなものだから。
　人間でいうところの仲間意識は希薄なのよ」
「……？　じゃあその、おまえが探している吸血鬼は、おまえとは違うっていうのか？」
「ええ、わたしとは別種の吸血種。
　わたしが追いかけているのは<人|・><間|・>の吸血鬼だから、あなたたちが抱く<幻想|イメージ>とほぼ一緒よ。
　人間の血を吸って、吸い殺した人間を使い魔にして、少しずつ勢力を増やしていくってヤツ。
　朝の死者、覚えてるでしょ？　アレが吸血鬼に殺された人間の末路。人間として死んだのに、まだ死にきれず生かされている<動く死人|リビングデッド>」
「……死んだのに、生かされている……」
　路地裏に現れたあの死体……吸血鬼の物語では、血を吸われた人間は新しい吸血鬼になって人を襲うという。
　そうやって数を増やしていき、最後には村をまるごと死の土地にしてしまう……という事か。
「ええ。この街に<潜|ひそ>んでいるのはそういう吸血鬼。
　わたしは血を吸う事に執心はないし、彼等の<同類|なかま>でもない。だから、互いに殺し合う事に問題は発生しない」
　淡々とアルクェイドは語る。
　どうやら吸血鬼にも色々と種類があるらしい。
「……今さらでゾッとするんだけど。
　そいつをやっつけるから俺に盾になれ、なんて事を言ってやがったのか、おまえ」
「ええ、はじめはそのつもりだったわ。
　あなたなんて嫌がっても盾にしてやる、逃げても<魔眼|くさり>で縛り付けてさんざん怖がらせて使い切ってやるって。
　けど、志貴と話をしているうちに気が変わっちゃった」
　……はじめから力ずく前提だったワケか。
　よし、それは絶対忘れないとして、
「気が変わったって、なんでだよ」
「んー、わたしの勘違いだったから。
　わたしね、志貴。あなたに殺されて復元するまでのあいだ、あなたは教会の人間だと思っていたの。
　それなら敵の居場所を掴んでいる可能性もあるし、戦力としても期待できるなって」
「なのに志貴ったらまるっきり普通の人なんだもん。敵の棺の場所はおろか、吸血鬼の事をまるで知らないし」
「……ええ、そもそもあの連中がこんな無神論者の国に代行者を派遣するわけがないし、そもそも<単独|ひとり>じゃ動かないものね。師匠と弟子の<二人組|ツーマンセル>があいつらの基本だったわ……」
　ぶつぶつと独り言を言うアルクェイド。
　話が脱線して、こっちはいい感じで置いてけぼりだ。
「とにかく、わたしの標的はあなたから『<元の獲物|きゅうけつき>』に戻ったってコト。
　それはそれで、ちょっと残念な気もするけど」
　弾むような声で物騒なコトを言いやがる。
　……くそ。まだ俺に思うところがあるぞ、あの女。
　あんなコトをしでかした以上憎まれて当然とはいえ、微笑みながら“殺したい”と言われるのは心臓に悪い。
　やはり俺が油断した瞬間、あっさり殺すつもり―――
「真面目な話は終わり？　じゃ、ベッドにどーん！」
「は？」
　と思えば、たーん、
と弾むような足取りでベッドまで移動すると、
ぼすん、と横になってしまった。
「気持ちもいいし、日が沈むまで眠るね。
　あ、志貴も今のうちに休んでおいた方がいいよ？　吸血鬼は昼間活動できないから、本格的に見張りをしてもらうのは夜になるんだし」
「……おまえ。いま、自分の存在を全面否定するようなコトを言ったって、分かってるか？」
「わたしはいいの。
　―――っと、そろそろ限界みたい。それじゃおやすみなさい、志貴。日が沈んだら起こしてね」
「お、おい」
「―――――――」
　アルクェイドはエンジンを切った車のように、唐突に眠ってしまった。
「―――――マジか」
　信じられない、本当に眠ってやがる……。
　いつでも逃げられるようドアの<傍|そば>に立っていた俺が馬鹿みたいだ。
　いいのかそれ。俺が言うコトじゃないけど、ホントにそれでいいのかこいつ？　
　こっちは<半|なか>ば無理やり連れてこられた状況なんだ。今なら楽勝で逃げられる。
　いや、そもそも、だ。
　俺にはもう、あの時のような衝動はないとしても、
「……俺は一度、おまえを殺しているんだぞ……？」
　なのに、どうして眠ってしまえるのか、この女は。
「…………………」
　アルクェイドの顔を見つめる。
　……ふくよかな胸が上下しているところを見ると、呼吸はしているようだ。
　ベッドに横たわった体はぴくりとも動かない。
　一枚の絵のような眠り。
　穏やかに閉じられた目蓋。
　長い<睫|まつげ>と、<紅|べに>を引かずとも<瑞々|みずみず>しい可憐な唇。
　かたちのいい胸のふくらみ。
　地平線に霞む<丘陵|きゅうりょう>のような腰のライン。
　すらりと伸びた細い両脚。
　清楚でありながら扇情的、なんて矛盾した言葉が浮かぶ。
「………………」
　そんな女が、こんなロイヤルスイートで、無防備に眠りこけてやがる。
　まだ知り合って間もない俺を、自分を無残に殺した人間を、心の底から信用しきって。
「―――ばかだな、こいつ」
　……うん、ちょっと心配になるぐらい、ばか正直だと思う。
　ともあれ、ここは基点だ。
　遠野志貴が引き返せる最後の分岐点かもしれない。
　盾になってもらう、とこの女は言った。
　でも、俺は……
「……約束、したからな」
　そう。もう約束したんだ。
　なら、それがどんなモノであれ、自分から破ってはいけないと思う。
　……アルクェイドは眠っている。
　とてもそうは見えないが、こいつは自分が弱っていると言った。
　さっきも限界だと言っていたし、ホントのところは俺がこの後どうするのか……逃げるのか、残るのか……さえ、考える余裕はなかったのかもしれない。
　空気は静まりかえっている。
　この部屋はおろか、このフロアにいる人間は俺とこいつの二人だけだ。……自称吸血鬼を人にカウントするのは失礼ではないのか、という疑問は保留する。
「……なんだそりゃ。失礼ってどっちに対して言ってんだ、阿呆」
　自分自身にダメだしをする。
　朝の追いかけっこからここまで、心も体も疲れ切ってマトモに働こうとしていないようだ。
「とにかく、まずは落ち着こう」
　いいかげんこっちも椅子に座ろうとドアから離れる。
　ミニバーに備え付けられた高椅子に座る。
　冷蔵庫から天然水の入った瓶を取り出して、グラスに注いで口にする。
「―――よし」
　冷えた水のおかげで気持ちがクリアになってきた。
　朝からありえない出来事ばかりで<常識|あたま>が麻痺しているが、ここは冷静に、よくものを考えてこれからの身の振り方を―――
「……………………」
「――――――――マジかよ」
　本日二度目のつぶやきだった。
　さっきのはアルクェイドに向けたものだったが、今度のは自分に向けられた評価である。
　<寝|ね><入|い>った女の呼吸音が耳について、集中できない。
　節操がないにもほどがある。この期に及んで、あの女に何を興奮しているんだ俺は……!?
　いったん部屋から出よう。
　きっと路地裏での恐怖が抜けていないせいだ。
　廊下で深呼吸でもしていれば、この妙な熱も冷めてくれる。
「……本当に貸し切ってる……」
　最上階には他の宿泊客はおろか従業員の姿もない。
　アルクェイドがいる部屋は角部屋、廊下の端っこだ。
　見晴らしは最高だが、当然、部屋からエレベーターホールまでずいぶんと離れている。
「……そういえば、学校……」
　時刻は午前11時過ぎ。言い逃れようのない無断欠席だ。
　学校から家に連絡が入っていればアウトだが、こればかりはもうどうしようもない。
　秋葉になんて小言を言われようと、いや、そもそもこっちだってそれどころじゃないのである。
「……望み薄だけど有彦にメールしとくか……」
『本日　体調不良につき　さぼり。
　フォローできるなら　なんとか』
　悪友に大雑把な事情説明と要望を投げておく。
　無理強いできる事でもなし、もしタイミングが合えば、というレベルの話。
　もう少し詳しく事情を話せればいいのだが―――
「いやいや。それこそ救急車案件でしょ」
　ついに狂ったか、なんて言われても反論できないし。
　これぐらいでちょうどいいんだ、あいつには。
「―――さて」
　見知った顔を思い返したら落ち着いた。
　観念して、自称・吸血鬼の眠る部屋に戻るとしよう。
「……失礼しまーす……」
　返事がないと承知しているが、つい断りなど入れてしまう。
　ベッドには先ほどと何一つ変わらない姿で、白い女が眠っていた。
　危機感なんてまるでない。事情を知らなければ、どこかの国のお姫様にしか見えない寝顔だ。
　座れば戻ってこられなくなりそうで敬遠していたソファーに腰を下ろす。
　ベッドとドア、どちらも同時に見渡せるのはソファーしかなかったからだ。
　案の定、ソファーの心地よさは凄まじかった。
　溶けてしまいそう、とはこの事だが、俺は見張り役。気を引き締めて寝ずの番をしなくては。
「…………」
　しかし。こうして見ると、やっぱり悪夢めいた美しさだ。
　白くて滑らかそうな肌とか、一本だけでも芸術品めいた指とか、柔らかな身体のラインとか。
　なに一つ非のない全体像と、他に類を見ない細部のカタチ。ここまで完璧な造形というものを、俺は今まで見たことがない。
　いや、正しくは。
　たぶん一生、見る事はないと思っていた。
「…………はあ」
　観念して天井を仰ぐ。
　殺したのに生き返ったとか、わたしは吸血鬼です、とかはともかく、アルクェイドは人の言葉を話して、人のカタチをしている命だった。
　それがひとりでは起きられないぐらい弱っていて、その責任が俺にあるのなら。
「……自分でしでかした事の責任は、自分で取らないとな」
　……幼い頃の教えがこんなところにも顔を出す。
　先生が言ってたっけ。
　俺の目はおかしなモノだから、
　おかしなモノを呼び寄せるって。
　……なら、いいかげん覚悟を決めよう。
　とりあえず、約束をした今夜ぐらいは、自分なりに、こいつを守ってやらないと――――
　―――白。
　　　　目のさめるような白。
　　　　その色は、懐かしい記憶を呼び起こす。
　夏の、あつい日。
　青い空と　おおきなおおきな入道雲。
　じりじりとゆらぐ風景と
　気がとおくなるような蝉の声。
　蝉の声。
　両手には、ペンキをぶちまけたような　あかい<艶|つや>。
　みーん　みんみん
　みーん　みんみん
　みーん　みんみん
　広場には蝉のぬけがら。
　たいようはすぐそばにあるようで、
　広場はじりじりと焦げていく。
　真夏のあつい日。
　まるで、セカイがふらいぱんになったみたい。
　えーん　えんえん
　えーん　えんえん
　えーん　えんえん
　秋葉が泣いている。
　おとなしくて、いつもボクの後についてきていた秋葉が、ぽろぽろと泣いている。
　秋葉の他には子供がひとり倒れている。
　ボクの両手はぬらぬらと陽射しを<弾|はじ>いている。
　ああ。この両手は、　　　　　　　つめたい
　倒れている子供の　　　　　　　　つめたい
　ぶちまけた血で赤いのだ。　　　　あたたかい。
「シキ―――――」
　おとなたちがやってくる。
　倒れた子供は死んだまま。
　おとなたちはさけんでいる。
　おまえがコロシタのかとさけんでいる。
　―――そんな、夢の中でさえ忘れている、夢を見た。
「志貴。ほら、目を覚まして。
　もう日が落ちちゃってるじゃない」
　乱暴に体がゆすられる。
　……あまり聞き覚えのない声と、肩にふれる冷たい手の感触。
　目の前にはアルクェイドがいる。
　窓の外は真っ暗だ。
　時計に目をやると、時刻は夜の８時を回っていた。
「…………、あれ？」
「あれ、じゃないわ。日が沈んだら起こしてって言ったのに、志貴ったら眠ってるんだもん」
「……悪い。寝てたのか、俺」
　……情けない。アルクェイドの寝顔を見ているうちに寝落ちしていたとは……。
「もう。そんなんじゃ護衛失格よ。
　二人とも眠っていたなんて、襲われていたらわたしも志貴も死んでたところよ？」
「だから悪いって言ってるだろ。でもほら、昼間は安全だって言ったのはおまえじゃないか」
「絶対とは言いきれないわ。朝みたいに使い魔がやってくる事だってあるんだから」
　アルクェイドは怒っている。
　もちろん、全面的に俺が悪い。
　見張り役が一緒に眠っていたなんて、それこそ<案|か><山|か><子|し>以下だ。
「それにね、わたしだって吸血鬼なんだよ、志貴。
　なのにどうして、身の危険とか感じないで眠っちゃったりできるのかなあ。少しは緊張して眠れないとか、<畏|おそ>れ<敬|うやま>うとか、そういう反応してもいいんじゃない？」
「――――」
　……全面的に悪い、は言い過ぎだった。
　こいつ、俺が見張り役をしていなかった事より、フツーに眠りこけていた事がたいへんご立腹らしい。
「体も少しは動くようになって目を覚ましてみれば、志貴ったら幸せそうに眠ってるじゃない。
　あんまりにも無防備だから、吸血種として威厳がないのかなって本気で不安になったんだから」
「なんだよ、無防備なのはそっちだって同じだろ。
　俺だって一度はおまえを殺してるんだぞ。今回だってそうしないとはかぎらないのに、お姫さまみたいにグースカ寝やがって。人間だからって甘く見るなよな」
　<窮鼠|きゅうそ>猫を噛むことだってあるんだぞ、と言い返す。
　ほとんど苦しまぎれの言い訳だったのだが、
「あ――――」
　この通り。アルクェイドはいま気がついた、とばかりに目を白黒させていた。
「そういえばそうよね。
　なんでだろ。なんとなくね、路地裏で志貴と話しているうちに信用しきってたみたい」
「――――――」
　……まあ。悪い気は、しないんだけど。
「……そうか。そこまで信用されてるなら、それなりに努力はする。あとはずっと見張っていればいいのか？」
「ええ、とりあえず朝日が昇るまでね。
　わたしは部屋から出ないから、志貴は誰かがこのフロアにやってくるようだったら用心して」
「………むう」
　用心しろとは言うが、朝のように黒豹がやってきたら用心のしようもない。
　自分には荷が勝ちすぎる話だと承知しているが、“分かっている”だけでは見張り役すら務まらない。
　……中断してしまった情報収集を再開しよう。
　黒豹やら燃える死体やらへの対策も必要だが、俺はまだこいつの事も、こいつの敵の事もろくに知らないんだから。
「確認するぞ、アルクェイド。
　路地裏で襲ってきた奴らは、おまえの敵が差し向けたヤツなのか？」
「差し向けた、というより巡回ね。
　一定のルートで街を監視するのがアイツらの役割だったんでしょう。その巡回ルートでわたしと志貴が話しこんでいたから、結果的にわたしが居るってバレちゃったみたい」
「バレちゃったって、おまえの敵に？」
「そっ。体調が万全なら手間が省けて良かったんだけど、今のわたしじゃ逆に倒されかねない。
　だから志貴と一緒にここまで逃げたの。体力が戻る前に襲われたら打つ手はないから」
　アルクェイドの敵、というのは、街を騒がしている連続殺人犯―――もうひとりの吸血鬼だ。
　今の話ぶりからするに、<吸血鬼|コイツら>は互いに『居場所』を探している。
　ただし、立場は同じじゃない。
　アルクェイドはいま、致命的に弱っているからだ。
「そして、敵とやらには手足になる部下がいて、おまえには誰もいない、と」
　むう、と不機嫌そうに眉を寄せるアルクェイド。
　反論しない、というコトは本当にひとりなのか……
　まあ、それはこっちも助かるけど―――
「おまえ、さっき吸血鬼はそれぞれ個体差があるって言ってたけど、これはそういう話なんだろ？
　じゃあ、『仲間がたくさんいる吸血鬼』ってのはどんなヤツなんだ？」
「……それは……。
　……ええっと、どうすれば簡単に説明できるかな……」
　うーん、とアルクェイドは視線を泳がす。
　どうも、あまり会話慣れしていないようだ。
「いいよ、難しいままで。話せる事なら何でもいいから話してくれ。
　俺もわけが分からないけど、なんとか話の筋を見極めるから」
「そう？　ありがと、志貴」
「はいはい。お礼はいいから続けてくれ」
　うん、とアルクェイドは素直に頷いた。
「仲間がたくさんいる、と言っても何パターンかあるんだけど、この街に潜んでいる<死|し><徒|と>は<旧|ふる>いタイプの吸血鬼よ」
「教会風に言うなら“城主”の吸血鬼ね。
　この“城主”は段階に分けて村や町を<侵|おか>していくわ」
「まずは初手、進行１。
　能力的に優れた人間を<見繕|みつくろ>って、その血を吸って<下僕|しもべ>にする。
　吸血鬼に血を吸われた人間は死んで“城主”の操り人形になるけど、人間だった頃のパーソナリティも残している。
　ようは『人格の残った死体』ね。<死|し><徒|と>の<階梯|かいてい>でいうと<不死級|さんだんかいめ>の、上級の使い魔ってところ」
　よし、出だしから分からない……
！
　だがこっちも眠って頭はスッキリしている。
　不明な単語はスッ飛ばして、理解できたところだけ追求するぞっ。
「……『人格の残った死体』……ようは、人間のまま吸血鬼になるってコト？
」
「Ⅲ階梯じゃ吸血鬼とは言えないかな。
　人間以上の体になったけど、まだ子を作る事はできない働きアリの司令塔、ぐらいと思って」
「じゃあ、路地裏で出てきたヤツらは……？」
「あれはもう一っこ下、Ⅱ階梯目の『屍鬼』。
　人間への擬態もできない、命じられた事をこなすだけの労働力よ」
　興が乗ってきたのか、アルクェイドは吸血鬼たちの段階を図で説明しだした。
　……さりげに多芸だな、こいつ。
「都市の人間をある程度の数<下僕|しもべ>にした“城主”は<棺|ひつぎ>を用意して眠りにつく。
　日中は活動できないし、なにより“城主”の吸血鬼は活動するだけで目立つから。食糧の備蓄、勢力拡大は下僕たちに任せるの」
「かくして、Ⅲ階梯より上の下僕たちは人間に擬態して、少しずつ他の人間たちを捕食していく。
　人間の血肉は下僕たちの活動源にもなるけど、その大半は“城主”に送られる。
　“城主”は棺で眠ったまま力を蓄え、最後にはコミュニティごと自分の血肉に変えてしまう。
　―――これがこの街に潜んでいるモノの特性よ」
「今はまだ下僕の数が少ないから大した能力はないんだけど、犠牲者が増えれば増えた分だけ“城主”の力は増していく。
　その前に棺を見つけて<斃|たお>してしまえばいいんだけど、わたしはまだ敵の寝床さえ見つけられていない。
　今回はよっぽど巧妙に隠れてるのか、気配さえ感じない」
「寝床を見つけちゃえば片付けるのは簡単なんだけどね。
　今回は手がかりがない状態だから、仕方なく昼間から街を歩いて調べていたの。
　そうしていたら、通りすがりの殺人鬼に襲われちゃって、まあたいへん」
　ぽん、と両手を合わせてアルクェイドは笑いかけてくる。
　通りすがりの殺人鬼への当てつけであろう。たいへん居心地が悪い。
「……なるほど。とりあえず話は見えてきた。
　この街には人間を食い物にする化物が巣くっていて、アルクェイドはそれを退治しにきた。
　けどそいつの居場所を探している時に、その、俺にやられちまって、今は弱っているから回復するまで隠れてる……そういうコトか？」
「うん、簡単にまとめるとそういう事かな」
「じゃあ次。その敵とやらは、なんだってそんな回りくどい事をするんだ？
　下僕なんか作らずに、全部ひとりでやればいいじゃないか」
「単純に弱いからよ。
　どれほどの超抜能力、どれほどの<存在規模|ライフスケール>をもった吸血鬼でも、<単身|ひとり>では生きられない。
　弱点が多い彼等は、決して表舞台に長居はしない。
　だから、脆弱だけど弱点の少ない人間を使い魔にして、安全圏から血を集める。言ってしまうとリスク回避ね」
「弱点が多い、ねぇ……その、具体的には？」
「日の光、魔力枯渇が<主|おも>だけど、最大の弱点は、そうね。
　<敵|・><が|・><多|・><い|・>、という事かしら」
「敵が多い……？　それはおまえみたいな？」
「わたしは例外。というか特例よ。
　吸血鬼はね、人間に嫌われているの。人間の最大の武器は数と共有でしょう？
　いるのよ、世界には吸血鬼が事件を起こせば駆けつけてくる、吸血鬼を殺す事だけを目的とした<連中|ニンゲン>が」
「とくに陰湿で執念深いのが教会……西欧を中心にした宗教の異端狩り。主の意思を人の手で代行する、なんてお題目から代行者と呼ばれているわ。
　もう何百年も死徒を殺す技術を磨いてきた人間たちでね。こいつらは下手な吸血鬼より厄介よ」
「だから吸血鬼はいったん隠れるの。いちいち相手をしていたら血も集まらないし、なにより封印される危険性があるから」
「……………」
　教会の異端狩り……中世にあった魔女狩り、異端審問のようなものか。
　吸血鬼たちが隠れるぐらいなんだから対吸血鬼のスペシャリストなんだろう。
　しかし……
「……いったん隠れる……つまり、血をたくさん集めてしまえば隠れる必要はない？」
「そうよ。力さえつけてしまえば隠れる必要はない。
　教会の代行者たちがやってこようと後の祭り。吸血鬼はその街で貯めた資産で暴虐のかぎりを尽くす。
　そうして街を完全に食い物にした後、また新しい狩り場を求めて移動する」
「貴方たち人間が吸血鬼を排除したかったら、それは『事件が起きる前』に気づくしかない。吸血鬼事件なんてものが起きた時点で、その街は根本から腐っている。
　志貴には悪いけど、もう何人もの下僕が徘徊しているこの街は、あなたたち人間の手では回復できない状況よ」
「………………」
　アルクェイドの説明が頭を通り過ぎていく。
　彼女の言っている事は理解できる。
　ただ、理解と許容は別の話だ。
　俺たちの街がもう手遅れだなんて言われても、はいそうですかと認める事ができるものか。
　それに、そもそも―――
「……うん。やっぱり、俺には信じられない」
「む。なによ、わたしが志貴を<騙|だま>してるって言いたいの？」
「いや、そうじゃないよ。アルクェイドの話はぜんぶ本当だって分かる。おまえ、嘘とかつけないだろ」
「当たり前じゃない。その必要性がないんだもの」
「だからさ、俺はおまえが信じられないじゃなくて、吸血鬼ってものが分からないんだよ。
　気軽に吸血鬼、吸血鬼と言うけど、まだピンとこない。
　……たしかにおまえは人間じゃない。それだけは分かる。
　でも、だからって吸血鬼とか言われても実感が湧かないんだ」
「そういえばそうね。
　志貴の知ってる吸血鬼像と、わたしという吸血鬼像は大きく違うし」
「……ああ、そういうことだ。
　俺は吸血鬼なんてものが本当にいるってコトより、吸血鬼がこんなヤツだなんて想像もしなかった。
　旧いタイプとか言われてもお手上げだ。おまえとそいつらの違いも分からない」
　……そうだ。
　違いが分からないと、コイツとはこれ以上話をしてはいけない。コイツを理由なしで信頼してはいけない。
　だって、コイツがその“城主”の吸血鬼より、更に危険な生き物の可能性だってあるのだから。
「そっかぁ……人間から見ればそうよね。
　どっちも未知なら、どっちも同じくらい危険に見えるってコトかぁ」
「いいわ、それじゃあ今回はさらに特別授業！
　吸血鬼・基礎編について教えてあげましょう！」
　アルクェイドは得意げに指なんぞを立てている。
「……いいけどさ。なんだよ、その基礎編って」
「志貴は素人だから、吸血鬼なら子猫でも知っているようなコトから始めないといけないでしょ？
　だから基礎編。だいじょうぶ、先輩としてバシッと教えてあげるから」
　誰が先輩か。……というか、もう基礎編とやらを始めてるよな、コイツ……。
「……はあ。オーケー。とりあえず、手短に頼むよ」
「任せて。できるかぎり努力するわ」
　いまいち信用できない返答だった。
　さっきもそんなような事を口にしていたが、アルクェイドは会話慣れしていないようだ。
　……まあ、自称吸血鬼なんだから、人間と話をする機会なんて今までなかったのかもしれない。
　ふと時計に視線を向けると、時刻は零時前になっていた。
　もうそんなに経っていたコトに驚いたが、幸い、時間はいくらでもある。
「まずは種類分けね。
　一般に吸血鬼とは言うけど、大きく二つのモノに分けられるわ」
「もとから吸血鬼だったモノと、後から吸血鬼になったモノ。
　前者を真祖といって、後者を死徒と呼ぶの」
「あなたたちが吸血鬼と呼んでいるのは死徒のほう。
　さっきの階梯の話も死徒の生態系ね。人間の血を吸い、下僕にして、太陽の光に弱く、洗礼儀式の前に敗退する。
　わたしたちの敵も、死徒と区別される吸血鬼よ」
　いつのまにか『わたしの敵』から『わたしたちの敵』になっている。指摘したいところだが、現状、間違いではないのでスルーしよう。
「……ふぅん。その死徒ってのは初めから吸血鬼じゃないって言ったけど、それはどういうコトだ？」
「死徒は人間とか動物とか、とにかく“もともとは吸血種ではなかった”ものたちよ。
　魔術の果てに不老になったものか、血を吸われて下僕になったものとがいる。
　まあ、どっちの場合も結果は同じだけど。
　吸血鬼になったものは不完全ながらも不老不死の肉体を手に入れて、人間のカテゴリーから外されるの」
「…………」
　初めから吸血鬼だったもの、『真祖』と、
　人間から吸血鬼になったもの、『死徒』がいる……か。
　……なんだろう。
　この話には齟齬というか、構造的な矛盾があるような気がする。
「ねえ志貴。 あなたは吸血鬼の特徴をどのくらい知ってるの？」
「ありきたりのイメージしか持ってないよ。
　処女の血を吸ったり、<睨|にら>むだけで<金縛|かなしば>りにしたり、霧になったり、狼に変わったりする……あたりが、一般的に聞く吸血鬼のイメージだけど」
「うん、だいたいはあってるかな。
　処女の血を吸う、というのは、まだ他の人間と体液の交換をしていない血液が、彼等の遺伝子を補うのに適しているから。通常の血液より栄養がある、程度の違いね」
「死徒―――後天的に吸血鬼になったものは、不完全な不老不死なの。たしかに不老で死に<難|にく>い動的な細胞を持つ生命体に変貌した。
　けど、それは燃え盛る火のようなもので、エネルギーを常に補充しないと消えてしまう」
「どんな生物だって栄養を<摂|と>らないと活動できないでしょう？　それと同じよ。ただ、吸血種は食事……<血液|えいよう>さえ摂り続けていれば寿命がない、という事だけ」
「死徒たちのような『吸血鬼になった』吸血鬼はね、自分が生きていくのに必要だから血を吸うの。
　もともとは人間だったから、不老不死の肉体というのは無理があるのよ」
「彼らの肉体を構成する遺伝子は、長生きすればするほど、力を付ければ付けるほど原子の増大に耐えられなくなる。力を増やし続けないと崩壊してしまうクセに、力をつけすぎると自己のカタチ―――“秩序”を保てない」
「それを補うためにはどうするか？
　簡単よ。他から、自分のような異常な秩序ではない、正常な秩序をとりこんで、失われていく秩序を補完していけばいい」
「人間が食事に有機化合物を好むのと一緒。
　吸血鬼は血液から、その正常な遺伝情報や<熱量|カロリー>を採集する。魂の熱量、と言い換えてもいいわ」
「ようは、人間の血を吸って、その遺伝情報を取り込むことで自身の肉体を固定してるってコト。
　死徒にとって吸血は食事や力の<貯蓄|プール>であるのと同時に、存在のために必要不可欠な行為なの」
「…………」
　ややこしい。それに長い。
　こっちの理解も追いついていないのに、アルクェイドはかまわず話を続けていく。
「で、次は……睨むだけで金縛りにする、ってヤツね。
　これは<魔眼|まがん>の一種よ。
　眼球は便利で強力な魔術回路だから、<魔眼|まがん>を持つ吸血種は多いわ」
「指向性の魔力放出機能、が分かりやすいかな。
目から、そうね……ビームっていうの？　ああいうのを出すイメージ」
「ちょっ、出るのか、ビーム!?」
　あまりにデタラメな単語の登場で、思わず身を乗り出してしまった。
「え……!?　えっと……うん、出ない、と思う。
　いくらなんでもそんな意味不明な吸血鬼はいないと思う。あくまでイメージ。イメージの話ね」
　そうか。それは良かったような、残念なような。
「っていうか、<魔眼|まがん>ってなんだよ」
「特別な眼のこと。魔術回路を使用して、<一工程|シングルアクション>の魔術を放出する異能……まあ、技術みたいなものね」
「ほら、人間には剣術とかあるでしょ？　アレと同じ。
　色々な種類があるけど、死徒であれば誰でも使える技法みたいなものよ。もっとも、鍛えたところで威力は術者の個体差・才能に左右されるけどね」
「わたしたち吸血鬼が持つのは<魅惑|みわく>の魔眼。これが基本にしてもっとも強力というか……吸血鬼という在り方において、魅惑以外の魔眼はあんまり意味がないというか」
「魅惑の魔眼は、見た相手を魅惑するんじゃなくて、吸血鬼の目を見てしまった相手を魅惑するの。
　強力な吸血鬼は魔眼で相手の脳に意志を叩きつけて、その思考を完全に掌握するんだけど……まあ、そこまでの魔眼を保持する死徒は<稀|まれ>かな」
　……ふむ。
　ようは洗脳、催眠術のようなものか。
　たとえば、『ここで見たコトは忘れろ』みたいな。
　たしかにそんな眼があるなら、第三者に殺人現場を目撃されてもいくらでも<隠蔽|いんぺい>できる。
「……理屈はさておいて、要は眼を見たらまずい、ってコト？」
「うん、よくできました。だから吸血鬼と向かい合った時は顔じゃなくて全体を俯瞰するのが基本よ。
　相手と目線を合わせるなんて自殺行為だからね」
「次は霧になる、だっけ。
　これも二種類に分類されるかなあ。
　高等なのは本当に粒子化するもの。自己を拡散させて現象になる、という離れ技。これが広範囲、かつ長時間できる死徒は数えるほどしかいないはず」
「で、下等なのは目くらましね。カゲムシャの方が分かりやすいかな？
　用心深い吸血鬼は分身を作って、それに意識を乗せて活動する。用が済んだら分身を操る魔力をカットするんだけど、それが塵になって霧散することから“霧になって消えた”ように見えるだけ」
　ふむふむ。
　カゲムシャ、は影武者の事だろう。
　こいつ、外国人……じゃなくて、外国吸血鬼のクセに日本文化に詳しいな。
「狼になる―――他の動物に変わるっていうのは、破損した肉体を使い魔で補っている副産物ね。
　長い年月を生きた吸血鬼ほど、崩壊する肉体の補完は通常の命では間に合わない。だから力のある獣を取りこんで、それを体として使っている。
　必要な時はその獣をもとに戻して使役するから、“狼になった”“狼を出した”ように見える」
「死徒たちは命のリペアとして、旧い獣を一匹ぐらいは体に取りこんでいる。けどそれが限界。あんまり多く取りこむと、今度は吸血鬼の自我が獣と混濁してしまう。
　死徒の中でも複数の獣を使い魔にしているヤツはひとりだけ。
そいつももう消えたけど」
「えっと、こんなところかな。
　志貴が言ったイメージを元に、ざっと概要だけを説明したけど、吸血鬼がどんなものか分かってもらえた？」
「乱暴なまとめだけど、とにかく“ヒトのカタチをした、ヒトと同じ知性構造をした吸血種”を吸血鬼と呼ぶの。
　その中身がどれだけ異物でも、基本形態がヒトなら吸血鬼として問題ないわ」
「……………」
　むしろますます分からなくなった。
　吸血鬼というモノがどれほど怪物じみているのかは把握したが、だからこそ余計、目の前の女が吸血鬼とは思えないというか……
「じゃあ次はわたしの番ね。
　実を言うと、わたしも大事なことを聞き忘れてた」
「……？　なんだよ、俺に聞くような事は何もないだろ。俺は吸血鬼でもなんでもない、ただの学生なんだから」
「ふーん。それじゃあ聞くけど志貴。
　あなた、どうやってわたしを殺したの？」
「は？」
「だから、どんな手段を使ったのかって聞いてるの。
　ルーンやカバラあたりの秘術には抗体が出来ているから効かないし、抗体耐性が出来てない<神|も><秘|の>―――わたしがまだ経験した事のない魔術となると、この国の古神道と南米の秘宝ぐらいなものよ」
「いえ、それだってあそこまでわたしを“殺して”おく事はできない。
　答えて志貴。あなた、どんな年代物の神秘で、わたしを再起不能にしてくれたの？」
「いや、年代物の神秘って、何のことだ？」
　アルクェイドが真剣なのは分かる。
　が、俺にはまったく彼女の言わんとするものが分からない。
「だから<概念|がいねん>武装のことよ。
　歴史と想念を蓄えた触媒。
　この国にも神器ってあるんでしょう？　たいていは法杖や剣、宝石や仮面を使用する魔術礼装の事だけど――ねえ志貴、あなた本当にそっちの方面の人じゃないの？」
「そっち方面もなにも、俺はただの学生だって言ったじゃないか。知ってる事なんてなにもないよ」
「うそよ。魔術師でもない人間がわたしを傷つける事なんてできないわ。
　……志貴、わたしに隠していること、あるでしょ？」
　アルクェイドはむーっ、と怒った猫のように俺を睨む。
　が、そんな目をされてもこっちには隠し事なんて―――
　―――あった。
「……すまん、実を言うと一つあったっぽい。
　………けど関係あるのかな、これ」
　アルクェイドはまだ睨んでいる。
　これは打ち明けないと収まらない流れだ。
「なんて言ったらいいのかな……俺さ、モノの切れる線が見えるんだよ」
「切れる線？」
　だろうな。こんな話、普通は信じてはもらえない。
　事実、今までずっとそうだった。
「……それ、どういう意味？」
　が、アルクェイドは真剣に問い返してきた。
「だからモノの切れる線が視えるんだよ、俺。
　生き物とか地面とか、とりあえず触れられるものなら全部。亀裂みたいでさ、それに刃物を通すとあっさり切断できるんだけど……これ、意味あるか？」
「鉄をナイフ程度で切れるのは便利だけど、別に好きなところが切れるわけじゃないんだ。線が視えてるところしか切れないから、日曜大工にも使えない。
　おまえを切った時だって……その、ナイフなら女の肌ぐらい切れるだろ？」
「――――――」
「………っ」
　背筋に寒気が走る。
　真っ正面から、こちらの呼吸を止めるほどの、強い視線を向けられる。
「そう。直死の魔眼なんて童話の中だけの話と思ってたけど、いるところにはいるものね。
　あなたみたいな、突然変異の化物が」
「なっ……なんだよ、それ。俺は吸血鬼に化物なんて言われる筋合いはないぞ！」
「化物は化物でしょう。『モノの死を視る』魔眼なんて、わたしたちでさえ保有している者はいないんだから」
「……？　モノの、死をみる……？」
「それ以外のなんだっていうの？
　志貴。あなたの目は、生物として繋がってはいけない場所と回線が開いているんでしょうね。その目は生まれついてのものなの？」
「……いや、こうなったのは昔からだけど、生まれついてのものじゃない」
「それじゃあ以前、一度ぐらい死んでみた事があるでしょう？」
「<吸|お><血|ま><鬼|え>じゃあるまいし、そう簡単に死ねるか。
　……でもまあ、そうだよ。以前、事故で死にかけた。線が見えるようになったのはその後からだ」
「ふぅん。潜在的な素質もあったんだろうけど、きっかけはそれでしょうね。……直死の魔眼、か。
　たしかにそれなら、間違いなくわたしを殺せるわ」
　ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らして、アルクェイドは俺から視線を逸らした。
　明らかな嫌悪を向けられたものの、あの眼でなくなったのは有難い。
「アルクェイド……おまえ、この線がなんだか知ってるのか？」
「実際に知覚できるあなたほどじゃないけど、知識としてなら説明できるわ」
「あなたが見ているものはね、万物の結果、物の死に<易|やす>い箇所なのよ。もっと解りやすく言うのなら、あらゆる存在の死期……“死”そのものよ」
「――――」
　それは。
　微妙に違ってはいたが、この眼鏡をくれた先生が、子供だった俺に教えてくれた事に近かった。
　……万物の結果。ものの未来。
　それを俺は、今まで意識せずに、
　努めて意識しないように―――
「……なに言ってんだ。俺が見てる線なんて、ただそこが切れるだけのものじゃないか」
「だから、その線が『死』なの。
　いい、志貴？　ありとあらゆるものには終わりがある。
　それがいつになるかは個別差があるけど、とにかく果てというものはある。
　死は到来するものではなく、誕生した瞬間に内包していて、いつか発現するものよ。それが原因と結果。因果律って言葉、聞いた事あるでしょう？」
「<こ|・><こ|・>にある以上、それは必ず消えなくてはいけない。原子の流動、エネルギーの約束事ね。たった一つの例外、ほんの小さな間違いも秩序は許容しない。
　だって、そんなものがあったら、この宇宙の前提が崩れてしまうんだもの。それこそ泡のように消えてしまうわ」
　いや、だとしても。
　宇宙とか、さすがに見当違いの話ではないだろうか？
「見当違いじゃないっ！
　貴方の眼はそれぐらい最悪な眼ってコト！」
「――――――」
「いい？　消滅は万物に予め設計された決まりなの。
　どんなに長い寿命、どんなに強大な生命にだってこれはある。たとえ宇宙の寿命より長い寿命を持つ生命があるとしても、それは無限に生き続ける訳じゃない」
「この、定められた『消滅』が物の『死期』。
　で、それは初めから在るわけだから、『死期』という概念を理解できる機能、それと回線が合っている脳髄と眼球があるのなら、目で視る事は不可能じゃない」
「それがあなたの視ている『線』の正体よ。
　あえてあなたたち風に理論づけるのなら、原子結合の宿命的欠陥部分、というところかしらね。
　それとも、その個体の死因を発現させる、遺伝子に用意された<自|テ><滅|ロ><装|メ><置|ア>的なスイッチかな」
「とにかくあなたが視ているのは“モノの死に易い線”、死という結論そのものよ。
　よくそんな状態で今まで生きてこれたものだわ。よっぽどあなたは心が穏やかなんでしょうね、志貴」
　アルクェイドは淡々と語る。
「――――――」
　人の気も知らないで、冗談じゃない。
　俺はコイツの説明を理解しながら、なにひとつ同意したくなかった。
「そんなものある筈がないし、まして見える訳がない」
「あなたには視えてるじゃない。
　普通、生物は首を切ったら殺されるわ。これは切断したから停止した、という事よね。
　逆にいえば、首を切断できない生物は殺されないという事になる。
あ、これはわたしの事だから例外にしておいて」
「あなたはその決まり事を無視できるのよ。
　あらゆる外的要因を無効化するモノが相手でも、まず殺す。殺された相手はその後で『死んだ』状態になるんでしょうね。
　切断したから殺害できた、じゃない。
　あなたの場合はモノを殺害したから、その結果として対象が切断される」
「ほら、これが化物でなくてなんだというの？
　物が切れるだけの線って言うけど、その両目は今まで生まれてきたどんな異能より特異なものよ。
　あなたはね、志貴。あらゆるものを殺してしまう、死神みたいな目を持っているんだから」
「………………」
　……そうだ。
　だから意識しないように、認めないように、今までやってきた。
　本当はずっと前から分かっていた。
　アルクェイドの言う通り、この眼は、その命は、世界にとって何かの間違いでしかないのだと。
　だって、あの日からずっと、終わる世界を見せられてきた。
　あらゆるものが、一秒後には崩れる可能性を知らされていた。
　生きているかぎり、俺の周りには。
　あんなにも、死の予兆が充満していた。
「……じゃあ、なにか。
　俺はおまえだって殺せる事になるぞ。なんでも殺す、物騒なヤツなんだからな」
「そう？　じゃあ試しにやってみよっか」
　アルクェイドは部屋の電気を消すと、窓際に移動した。
　カーテンが開かれる。
　遮断されていた多くの光、多くの情報が視界に入る。
　窓越しの月明かりが、白い女の影を作る。
「ほら、いいから本気になってみて。
　あ、もしかしてその眼鏡で視えないようにしてるの？」
「―――いいんだな」
　……ありえない。
　今まで人前で外す事のなかった眼鏡に手をかける。
　……アルクェイドの告発を受けて、俺は<自|ヤ><棄|ケ>になっていたんだろう。
　暴力的な気持ちに押されて眼鏡を外す。
　部屋中に線が蠢き出す
。
　……<視界|せかい>が、死の結末に満ちていく
。
「――――――
え？」
　それは、我が眼を疑いたくなるほどの、奇蹟だった。
　窓の外には白い月。
　昼間は強い陽射しで視えにくい線は、
　微弱な月の明かりでは光ってさえ視えてしまう。
　その中で。
　アルクェイドの体にある『線』は、ひどくか細く、意識を集中しなくては見えない程、不確かなものだった。
「そんな―――どうして？」
「どう？　線はほとんど視えないでしょう？
　わたしね、夜は『死期』のない生き物なの。
　だからあなたの眼でも殺すことは不可能でしょうね」
「んー、それでもちょっとは視えちゃうのかなぁ。
　夜は死なないわたしだけど、昼間は多少の死期ができてしまう。その弱点をつかれてわたしはあなたに殺された。あの時は大仕事の後だったし、即死耐性も落ちてたしね」
「結果、わたしはあなたに殺されて、この通り、夜でも『死期』ができるほど弱ってしまった。
　ようするに不老不死でなくなったワケだけど、志貴、わたしの体の線が切れる？」
「――――」
　……どうだろう。
　たしかに線があるんだから切れるとは思う。
　けれど、あの時のように鮮やかに、一秒もかけずに切断するのは出来そうにない。
「……やりにくいと思う。線が見えたり見えなかったりするから、アルクェイドが眠ってでもいないかぎり、できない」
「でしょう？　それがあなたの最大の欠点ね。
　どんなに『死』が見えていようとも、その『線』を引くのは志貴自身の腕じゃないといけない。
　いくらわたしが弱ってるからって、志貴に捕まるほど運動能力は低下してないもの」
　……そっか。
　言われてみれば、俺はすばしっこく動きまわる動物には追いつけないし、捕まえられない。
　捕まえられない以上、線に触れる事もできない。
　つまり、こんな『線』が見えていても、動くモノは殺せない。
　俺が抱いていた恐れは、そんな言葉で緩和される程度のものだと、人間ではないモノは笑い飛ばした。
　そう、笑い話だ。気休めの洒落話だ。
　どんな喩えを、どんな欠点を教えられたところで、俺が見続けてきた世界の在り方は変わらない。
　俺はこの世に、混ざってはいけない故障箇所だ。
　ああ、それでも―――
　そんな当たり前の事がどうでも良くなるぐらいに、
　ありえないものを視ている。
　月光を<弾|はじ>く大輪の花。
　……そうだ。俺は永遠が欲しかった訳じゃない。
　ただ、こんな自分でも触れられるものがあると、
　希望を持って生きていたくて―――
「―――痛」
　ずきり、と頭痛が走った。
　線を見ていると頭痛が起きる。眼鏡をかけて、奇蹟のような光景から、もとの視界に切り替える。
「……………」
　アルクェイドは不審げにこちらの様子を見つめている。
「……なんだよ。まだ何かあるのか」
「ううん、そうじゃなくて。
　その眼鏡をかけていれば線は見えないの？」
「……まあ、そうだけど。
　昔、俺の眼がこうなった時に出会った人がくれたんだ。
　今じゃレンズだけしか使ってないけど、これのおかげでなんとか普通に生活が送れてるんだよ」
「そっか、そうよね。
　どんなに強い心があったって、死とずっと向き合っていたら発狂するか、眼球を潰すしかないものね」
「……あのな。さっきから言いたい放題、物騒なことばっかり言いやがって。少しは遠慮してくれ。あと近い。止まれ。いいからそこで止まれ。止まらないと花瓶投げるぞ！」
　身の危険を感じ取って後じさる。
　しかし、この大猫に俺の脅しが効くはずもなく、アルクェイドは興味津々とばかりに近寄ってくる。
「ね。それ、見せて」
「―――ヤだ。これは大事なものだから、渡さない」
「別に壊したりしないってば。
　ねーねー。本当に見るだけだからいいでしょー？」
　なんだこの馬鹿まるだしな発言……。
　俺は―――
　……アルクェイドは諦めそうにない。
　というか、これ以上近寄られたら、間違いなく取っ組み合いになる。その場合、押し倒されるのは間違いなく俺の方だ。
「ああもう、わかったよ、ほら！
　……いいか。見たらすぐ返すんだぞ」
　眼鏡をアルクェイドに手渡す。
　アルクェイドはまじまじと眼鏡をチェックする。
　……と、
「志貴。これをあなたに渡した人、この街にいるの？」
「……いないと思う。七年も前の話だし、一カ所に留まるような人じゃなかったから」
「―――そう。良かった、よけいな相手が増えなくて。
　……ま、ブルー相手じゃ引いたほうが無難でしょうけどね」
　アルクェイドは深刻な顔で黙り込む。
「アルクェイド。おまえ、先生……じゃなくて、その眼鏡を作った人を知ってるのか？」
「知ってるわ。現存する四人の魔法使いの一人だもの。
　その眼鏡だってね、とんでもない逸品なのよ。今のわたしの力じゃ、とてもじゃないけど壊せないぐらい」
　アルクェイドはますます真剣な顔をする。
「……って、おまえ壊すつもりだったのか」
「―――え？
　わたし、そんなこと口にしちゃった？」
「……やっぱり壊す気だったんだな」
　返せ、とアルクェイドから眼鏡を取り返す。
「ったく。この眼鏡がないと正気じゃいられないって言ったのはそっちだろ。
　それとも、俺にそうなれって言いたかったのか、おまえは」
「べつにそんなコトじゃないけど。
　なんとなく、志貴が大切そうにしてるのがヤだったから」
「……………」
　吸血鬼の考えはまったく分からない。
　なんとなくで俺の生命線を壊すのか、この女は。
「……いいから、二度とヘンな考えは起こすなよ。
　先生との思い出も大事だけど、それ以上にコレがないとやってけないんだ。四六時中線が見えてたら、頭痛で頭がどうにかしそうだし」
　……あやしい。
　自分から『壊したりしない』というところが、すっごく怪しい。
「―――見るだけでもダメ。
　路地裏の時におまえのバカ力は思い知らされたからな。何かのはずみで握り潰されたらどうしようもない」
「なによ、バカ力って。路地裏の時は当然でしょ、そういう風に力をあげていたんだから。
　普段であれば志貴のほうが力は上だろうし、そう無闇に物を壊したりはしないんだけどなー、わたし」
　言いつつ、メガネを取ろうと手を伸ばしてくるアルクェイド。その態度がますます怪しい。
　あれはぜったいやらかす眼だ。
　衝撃的映像を見せられる前に、ソファに座ってアルクェイドから離れる。
「あっ、逃げた」
「そりゃあ逃げる。おまえの無茶には慣れつつあるけど、このメガネだけは渡さないからな。
　万が一にも壊されたりしたら替えがないんだ。それとも弁償してくれるのか？」
「んー、大抵の魔術品ならアテがあるけど、それはちょっと無理っぽい感じ？
　ちぇっ、分かりましたよーだ。志貴のけちー」
　どうやら人が大切にしているものが気になるだけだったようだ。子供か。
「はいはい、けちですよーだ。人間は生き返ったりできないから、何事も慎重なんです。
　……だいたい、この眼鏡がなくなったら俺はおまえに協力するどころの話じゃなくなる。四六時中線が見えてたら、頭痛で頭がどうにかなりそうだし」
「ふーん。死が視えてると脳に負担がかかるのかしらね。
　うん、志貴の目は何かと原因がありそうだけど、とりあえず、今はこれぐらいかな。
　機会があったらもう少し詳しく教えてあげるわ」
「けっこうだよ。あいにく長話は嫌いでね」
「そう？　
わたしは誰かと話すのって好きだけどな。
　意図が半分も伝わらない不自由な言葉でも、こんなに心が揺れるんだもの」
「――――――」
　アルクェイドは屈託なく笑った。
　それこそ本当に、ただ話しているだけで楽しいんだよ、というかのように。
　夜が更けていく。
　アルクェイドはベッドの上に腰をおろし、
　俺はソファーに座って、ぼんやりと時計を眺めていた。
　時刻は午前４時すぎ。
　夜明けまで、あと１時間ばかりというところだ。
「あと１時間、か」
　今までこれといった異常はなかったし、アルクェイド本人は緊張している素振りさえない。
　ホテルはまったくの平和だった。
　……それなりに緊張していたが、それも取り越し苦労に終わりそうだ。
　なんとなくではあるが、今夜はこのまま過ぎる気がする。
「ね、志貴」
　そしてもう何度目かになる、アルクェイドからの呼びかけである。
「なんだよ。もう話すコトとかないからな、こっちは」
「そうなの？　せっかくこうしてるのにもったいないね」
「……あのな。さっきからどれだけお喋りに付き合ってると思ってるんだ。
　６時間だぞ、６時間。なにが疲れたかって、見張りなんかよりそっちのほうが疲れたよ、俺は」
　むっ、とアルクェイドは不満そうにこちらを睨む。
　そう。
　どういうワケか、アルクェイドはしきりに話しかけてきた。
　弱っているのなら眠ればいいものを、
「話しているほうが楽しいから」
　なんて、結局こうして二人で向かい合ってしまっている。
「………はあ」
　ホントに、コイツの考えてるコトは分からない。
　おまけに腹も減ってきた。
　考えてみれば昨日の朝食からこっち、まる一日何も食べていない事になる。
「お腹が減っているなら何か食べたら？
　せっかくホテルに泊まってるんだから、ルームサービスを使えばいいのに」
「いい、緊張感が削がれる。そういうおまえの方こそ何か食べた方がいいんじゃないか？　弱ってるクセに眠りもしないんだから、せめて食事ぐらいしろよ」
「志貴がいいならわたしもやめとく。
　普通の食事もそれなりに意味はあるけど、ひとりで食べてもつまらないもの」
「普通の食事って、食事に普通も特別も―――」
　……ああ、そうだった。
　とてもそうは見えないが、アルクェイドは吸血鬼らしい。
　そうなると、こいつだって人間の血を吸う事が『食事』になる。
　吸血鬼は生きるために人間の血を必要とする、とアルクェイドは言った。
　なら―――こいつは今まで誰の血を吸って、何人の人間を殺してきたのだろう？
「――――」
　ちらり、とアルクェイドの顔を盗み見る。
　……どうかしている。
　吸血鬼だと何度も説明されてきたのに、どうしてか俺は、コイツが人の血を吸っているところが想像できない―――
「なに？　わたしの顔になんかついてる？」
「……！」
　あわてて目を逸らす。
　アルクェイドはじーっ、と俺の顔を見つめてから、
ふふん、と意味ありげな笑みを洩らした。
「気になる？」
「な、なにが」
「わたしがどのくらいの数、人間から血を吸ったのか、気になる？」
「む……ぐ」
　……完全にこっちの考えが見透かされている。
　アルクェイドの笑みは余裕に満ちていて、なんだかとにかく気にくわない。
　気にくわないのだが―――それ以上にこいつが今までどれだけの人間を殺してきたのか、気になって仕方がない。
「……そりゃあ気になるよ。俺はおまえと協力してるんだ。
　それぐらい知っとかないと、いつおまえが心変わりして襲いかかってくるか、予測がつかないだろ」
　それは、本当に困る。
　なるほどねー、とアルクェイドは納得した。
「それじゃあ問題。
　わたしは今まで何人の血を吸ってきたでしょう？」
　タン、と軽やかにベッドから跳ねて、アルクェイドは窓の近くまで歩いていく。
「何人のって、それは―――」
　アルクェイドはにまにまと笑って、黙りこむ俺を愉快そうに眺めている。
　あきらかな挑発だった。
　……いいとも、スッパリ答えてやる。
　このヘンな女の事だから、きっと―――
「十人……は少ない……？」
「はい、全然おしくないハズレね」
「む。じゃあ百単位、か？」
「ざんねん、日和りきったハズレです」
「ぐっ……！　なら千単位なのか!?」
「はい、それも豪快にハズレだわ」
　くすくすとアルクェイドはおかしそうに笑う。
　……腹はまったく立たないのに、ものすごく悔しいのはなぜだろう。
「じゃあ、そんな事はないと思うけど、まさか万……」
「それもハズレ。もう、十だの百だの千だのって、志貴はわたしのことそういう風に見てたわけね。ひどいなぁ、それじゃあ<見境|みさかい>なしじゃない」
「……違うのか？　吸血鬼ってのは見境なしなんだろ。
　人間だって生きてるだけで腹が減るんだ。おまえたちだって生きていくために血を吸うんなら、際限はないんじゃないのか」
「そうね。それはそうなんだけど」
「わたしは自分から血を吸うなんて、この八百年、一度もないかな。ふつうの人間を殺した事だって、一度もないよ」
　――――。
　それが吸血鬼としておかしな発言である事ぐらいは、俺にも理解できた。
　ただ、それ以上に、
「それ、本当の話か？」
「本当よ。だってわたし、血を吸うのが恐いんだもの」
「血を吸うのが恐いって、吸血鬼なのに？」
「きっと臆病なのよ、わたしは。
　だからいつまでたっても、吸血種としても半人前ってこと」
　窓から夜空を見上げながら、アルクェイドはぼやく。
　白い女はそのまま、長く空を見上げたままだった。
　後ろ姿はおぼろげで、幻のように霞んでいる。
「……そっか。半人前、なんだ」
　呟いて、胸を撫で下ろす。
　……ん？　心からホッとしている……？
　なんだそれ。おかしいだろ、それは。
「どうかしたの、志貴？」
「別に、何でもない。おまえが臆病なチキンだから、笑っただけ」
「チキン？　わたし、なんで鳥？」
　はてな、と首をかしげるアルクェイド。
　その姿はとても吸血鬼とは思えない。
　……そうだ。今のは当然の反応だ。
　だって目の前の相手がそう凶悪なヤツじゃないと判明したんだ。安心しないワケがない。
　とりあえずアルクェイドの言葉を信じるのなら、俺は無闇に殺される事はないだろう。
　だから安全。……安全なんだけど、俺はその<大事|だいじ>より、もっと違うことにホッとしていた。
　……まったく、どうかしてる。
　アルクェイドが半人前である事のほうが嬉しいような、そんな<的外|まとはず>れな感想を持ったなんて。
「……、あれ？」
　アルクェイドとの会話で気が緩んだのか、くらりと、目眩じみた頭痛がした。
「？」
　視界が白くかすむ。
　いつもの慢性的な貧血……じゃない。
　意識はしっかりしたままだ。
　かすかな頭痛と妙な寒気がするだけで―――
「どうしたのよ志貴。
　そんなに額に汗をうかべちゃって」
「……汗？」
　言われて額を手でぬぐう。アルクェイドの言った通り、手が濡れるほどの汗をかいていた。
　……異常だ。こんな汗、サウナの中じゃあるまいし。
　胸に湧いた不安に急かされるように、備え付けのデジタル時計を見る。
　表記はＡＭ０４：３２。
　気温は朝方の冷えこみで11℃まで下がっている。
　その気温でこの発汗はおかしい。
　いや、そもそも―――
　この部屋、真夏なみに暑い気がする……！
「アルクェイド。おまえ暑くないのか？」
「？　別に、活動に異常をきたすほどの温度じゃないでしょう。まだたったの38℃だし。弱っているとは言え、今のわたしでも3000℃ぐらいまでならフツーだよ？」
　コイツに聞いた俺が馬鹿だった。
　なんだよ3000℃って、バーナーでも燃えないのか吸血鬼ってのは！
　……いや、今はそんな文句は後回しだ。
　時計の温度表示は11℃から変化していない。
　機械が狂っているのか、俺の体感温度がおかしいのか。
　他の温度計はないのかと部屋を見渡して、
「――――――なんだ、あれ」
　部屋に取り付けられた、ホテルのロビーを映しているモニターに、釘付けになった。
「燃え、てる……？」
　我が目を疑う。
　それは、<映画|フィクション>の中でしか見たことのない光景だった。
　水をブチまけたような炎の広がり。
　黒煙をあげてのたうち回る人体のようなもの。
　その“ようなもの”を<貪|むさぼ>る、大型の肉食動物。
「アルクェイド……！」
「………………」
　アルクェイドは何も発言しなかった。
　あれは敵意……いや、軽蔑、だろうか。
　彼女は俺とは違う感情でモニターを見据えている。
　ロビーは１分とたたず炎の海に沈んだ。
　火災警報は鳴らない。
　温度計に変化はない。
　発汗は止まらず、息をするだけで喉がカラカラに渇ききる。
　もう考えるまでもない。
　敵だ。昼間の燃える死体―――アレが、このホテルにやってきてしまった……！
「クソ……！」
　窓際に走りよって外の様子を確かめる。
　街並に変化はない。
　あれだけの炎が立ち上っているのに、外の人々は誰もこの異常に気がつかない。
　ホテルに入ってくる人影もなければ、外に逃げ出していく人影も見られない。
「どうなってるんだ、アルクェイド！」
「……………」
　アルクェイドは<頑|かたく>なに口を閉ざしている。
「―――――」
　ただ時間だけが過ぎていく。
　体感温度はじりじりと、それこそ肌を焼くように上昇していく。
　廊下の外の様子は判らない。
　下の階の様子も判らない。
　ただ漠然と、もう手遅れだという予感しか、湧いてこない。
　アルクェイドは黙っている。
　不安からか、それとも悔しさからなのか。
　彼女は自分で自分を抱くようにして、じっと、何かを堪えている。
　彼女はこの部屋から出ない、といった。
　今の自分には大した力はないから、とも。
　なら。
　俺は、何の為にここにいるのか。
「…………よし」
　……小さく深呼吸をして、迷いを振り切る。
　武器になりそうなものを探すが、部屋に使えそうなものはなかった。
　……ためらいを呑みこんで、鞄からナイフを取り出し、部屋の扉まで歩いていく。
「―――志貴？」
「……様子を見てくる。
　俺が戻ってくるまで、部屋から出るな」
　何か言いたげなアルクェイドの視線を振りきって、廊下へ出た。
　電気系統に異常が起きているのか、廊下の明かりは落ちていた。
　廊下の先、エレベーターホールにだけ明かりが生きている。
　部屋にいた時より喉が痛む。俺を包む空気はやすりのようにざらついて、熱かった。
　廊下は恐ろしいほど静かだった。
　何の雑音もない。
　人の気配もしない。
　逃げまどう■■も、
　焼け焦げた■■もない。
　それは。モニターで見た光景は嘘だったと思いたくなる程の、張り詰めた無音空間。
「…………異常は、ないよな」
　廊下を歩いていく。
　額の汗が<滴|しずく>になって落ちていく。
　あまりにも静かすぎて、自分が異物になった錯覚。
　異物。異物。異物。
　場の空気を乱す害虫は、叩き潰されるのが通例だ。
「―――、ふう―――」
　もう一度、落ち着くために深呼吸をする。
　汗でナイフが滑らないよう、柄を包むように握り直す。
　……吐き気がする。
　なにか、こめかみのあたり。
　眼球の奥から、神経が脳に伸びてくるようだ。
　眼球が脳にめり込もうとしているのか、
　脳が眼球を呑み込もうとしているのか。
　鈍重な痛みをかみ殺しながら、猛暑の<路|みち>を歩いて行く。
「――――――」
　いた、い。
　目が、いたい。
　あたまが重くなって、このまま倒れそうな浮遊感。
　ああ、これは知ってる。
　貧血で倒れる直前の感覚だ。
「はあ―――――あ」
　いたい。
　いたいから、耐えきれなくなって、眼鏡を外した。
　エレベーターが見えてきた。
　長い廊下だ。
　ここからエレベーターホールまで、あと20メートル以上ある。
　遠いな、と思った。
　もう戻れ、とも思った。
　―――何か。
　あと数歩で、取り返しのつかない事になるとも思った。
　音がした。
　この清潔な、生き物の絶えた空間の和を乱すように、
　エレベーターのチャイムが鳴った。
　あまりの不吉さに足を止める。
　視覚だけが招かれざるモノを凝視する。
　ランプが止まる。
　箱が到着する。
　遙か先にあるエレベーターの扉に『線』が見える。
　いや、それは。
　濃密すぎて、もう<斑|まだら>の壁に見えるほど。
　扉が開く。
　<狭|せま>い、鉄の箱が開く。
　箱のなかには、
　あふれかえるほどの、
　先ほどまで生きていたモノの肉が。
「――――――」
　呼吸が止まった。
　脳が思考を拒否するように、肺もその活動を放棄した。
　エレベーターという鉄の箱。
　みっちりと押しこまれた赤い肉。
　その中で、ガツガツと<貪|むさぼ>り食う二匹の犬。
　視界が、真っ赤になる。
　ごぽ、と音をたててエレベーターから赤い<粘液|ゼリー>があふれだす。
　血と、人と、骨と、脳と、指と、臓物の海のなか。
　二匹の黒い犬だけが、生きている生命だった。
「あ―――、ぃ―――」
　理性が、この光景を受け入れる事を拒んでいる。
　廊下の先、エレベーターの中では犬たちが人の体をあさっている。
　エレベーターの隙間、下の階に通じる通風口から。
　先ほどまでは無かった、多くの<悲|こ><鳴|え>が漏れてくる。
　それは、よく聞いてみれば。
　ゴリゴリと肉が咀嚼される音とか、
　たすけてといった悲鳴とか、もう人語でさえない人間の断末魔の声とかだったりした。
　聴覚と直結した脳が<想|おも>う。
　見えてもいないのに、俺の頭には。
　生きたまま焼かれ、
　生きたまま食べられる、人々の姿が再現される。
　異常な気温に気づいた男がいた。外に出ようと扉を開けた瞬間、満ちていた劫火に包まれて絶命した。
　部屋に閉じこもって泣き崩れる少女がいた。ロビーからあがってきた炎はフロアを埋め尽くし、少女はバスタブの中で、蒸し魚のように体の中から灰になった。
　我先にとエレベーターに駆け寄った大人たちがいた。エレベーターの中には何十という<先|・><客|・>がいた。既ににんげんではなくなっていた先客たちは、やってきた大人たちを思う存分に平らげた。
　悲鳴は食べられる恐怖と燃え尽きる絶望に二分されていた。
　誰一人として例外はない。
　この足の下の、ホテルという大きな箱の中。
　そこが、肌で感じ取れるほど、身近な地獄絵図だった。
「――――――」
　吐き気がする。
　だが吐く訳にはいかない。
　そんな事をしていたら―――自分もあの赤い海の一つになると解っている。
「は―――ア。は。ア。は、」
　止まっていた呼吸を再開させる。
　ギリ、と強く歯を噛んで自己を取り戻す。
　エレベーターの中の犬たちがこちらに気づく。
　気が付けば、下の階からの音は止んでいた。
「…………は」
　つまり。
　もう、生きている者は誰もいないという事か。
　二匹の黒犬が走りはじめる。
　この狩り場において、俺は最後の獲物だった。
　黒犬が向かってくる。
　その体には無数の線が見えている。
　―――だというのに。
　麻痺した頭は、戦うことも逃げることも、指示を送ってはくれなかった。
　一匹目の黒犬が跳ねる。
　その速さは人間の比ではない。
　20メートル程度の廊下なんて、それこそ二秒とかからなかった。
　黒犬の口が開く。
　ノコギリみたいに<揃|そろ>った牙が喉元へと向かってくる。
　確実かつ迅速。
　それが迫ってくる、と認識できた瞬間。
　黒犬の牙は、ガギリ、と音をたてて俺の喉に食いついた。
　遠野志貴は、死んだ。
　無い。それは間違っている。
　こんな事では殺されないし、死ぬこともない。
　ヒトが死んでいるぐらいではためらわない。
　――――夏の、暑い日。
　ずっと昔、それとも七年も前の話。
　オレは、これよりもっと鮮烈な惨状を、<目|ま>の当たりにしていた筈で――――
　ざく。
　首筋に噛みついた黒犬の額に、ナイフを突きたてた。
　牙が皮膚に触れた瞬間、頸動脈に食いこむ直前、自動的に、俺の腕は動いてくれた。
　自分でも呆れている。
　まるでモノを斬る機能しかない機械のように、無駄なく犬の眉間にナイフを通した。
　そこが一匹目の犬の『線』だったからだ。
　通常、動物は脳が破損したところで、その運動は即座に停止はしない。
　既に脳からの信号を受領していた筋肉は、可能なかぎり最後の命令を実行する。
　なので、ここで頭を多少裂いたところで黒犬の牙は俺の首を噛み切るだろう。
　ああ、まあ―――その、普通なら。
　だが、黒犬は『死』んでいる。
　死は停止だ。こいつは俺に殺された時点で、あらゆる効力を失った。
　一匹目の犬が地面に落ちる。
　入れ替わりに二匹目が、俺の顔めがけて跳んできた。
「――――――」
　開かれた口の中にナイフを突きたてる。
　ずぶり、と肉に刃物が埋まっていく。この犬は外皮こそ硬いが、その中身は軟らかい。文字通り、骨も肉も腐っている。
　だが、これは失敗だった。
　コイツの『線』は顔ではなく胸にある。
　口を刺したところで、それは単なる裂傷にすぎない。
　ナイフは黒犬の口内から後頭部まで到達した。
　自然、ナイフを持った手は黒犬の口の中に納まってしまう。
「――――――あ」
　黒犬はまだ生きている。
　その<顎|あご>が閉められる。
　ナイフを持った手と腕の間、軟骨という柔らかいジョイント部分が、そのまま噛み千切られようとする。
　その痛みで、ようやく、まともな思考が戻ってくれた。
「あ、あ―――！」
　冗談じゃない……！
　なんだって犬の口にナイフを突っ込んで、<自分|テメエ>の腕を食い千切られようとしてるんだ、俺は！
「こ――――の………！」
　なんとか腕を引き抜こうともがく。
　腕をすり潰すような激痛が、視界中に火花を散らす。
　犬の牙は腕に食いこんで取れそうにない。
　いや、そんなコトより――――黒犬は、頭を貫かれていながら、エネルギーに満ち満ちていた。
　黒犬は体をゆらして強引に俺の上にのしかかってくる。
「っ……！」
　だん、と床に倒れこむ。
　それでも腕は抜けない。
　黒犬はナイフに貫かれたまま、なお<顎|あご>に力を入れる。
「ひ、ぎ……！」
　うでが、食いちぎ、られる―――！
　信じられない、こういう状態で物を噛める生き物じゃないだろう、犬ってのは……！
「こ、こい、つ……！」
　ぬらりとした感触。
　見れば黒犬の口から、ボタボタと血がこぼれだしている。
　頭をナイフで貫かれた黒犬のものか。
　それとも、食い<千|ち><切|ぎ>られかけている俺の腕から流れた血液か。
　正直、混乱しきった頭にすれば、どうでもいい問題だ。
「はな―――せ」
　逃げようとしても、黒犬は俺の腕に食いついている。
　逃げる事はできない。
　そもそも初めから逃げられない。
　逃げる<選|い><択|し>など毛頭ない。
俺は生き延びたいだけだ。生き延びたいならやる事は一つだけだ。
　つまり。コレを、殺せばいいだけだ。
「――――――」
　ではどうする？
　片腕はあと数秒で食い千切られる。
　ナイフはその腕が握ってる。
　俺は押し倒されている。
　このまま腕を引きぬけたとしても、次の瞬間には自由になった黒犬がこっちの首を噛み砕く。
「―――、は」
　その絶望的な状況で、<諧謔|かいぎゃく>の笑みが浮かんだ。
　大丈夫だ。まずよく見て、その後によく考える。
　そんな教えを今までずっと、おまえは守ってきただろう？
　ほら。例えば、犬の頭のうしろには十分すぎるほど『線』が見えている。
　このように、生き延びる為の方法は常にシンプルだ。
「ぐっ――――！」
　なのに、どうして<躊躇|ためら>うのか。
　コレは強暴な動物。コレは人を食った猛獣。
　だがこんなにも間近で、息苦しいぐらい、鼓動を燃やしている一つの命。
「は、ぐ―――！」
　腕を噛む力がいっそう強くなる。
　馬鹿だ。馬鹿すぎる。殺したくなるほど矛盾している。
　殺さなければ殺される摂理において、
　どうして俺／人間は、
　それは残酷な行為だと<躊躇|とまど>うのか―――
　ぼたり、と赤い血が顔に落ちてくる。
　赤い血が額にたれて、どろりと、目の中に入ってくる。
　眼球の奥に、朱色の闇が、染みこんでくる。
「あ――――」
　視界を焦がすような朱色。
　いつか懐かしい熱い粘液。
　くらりと、意識がとんだ。
“……それでも俺は、
　生きているモノを、殺すことは出来ない”
　―――なんて偽善。
　そういうおまえは、そんな犬畜生なんぞよりよっぽど大きな動物を殺している。
　……ああ、そうだった。
　でもあの時は違う。
　アルクェイドの時の遠野志貴は正気じゃなかった。
　一匹目の黒犬を仕留めた時も、自分の意思とは無関係の出来事だった。
　けど、今は確実に俺自身の選択なんだ。
　……先生が言ってたじゃないか、志貴。
　この力は、他の誰でもない、己の意思で行使しろと。
　だから。
　自分が自分としてあるかぎり、マトモな人間でいるかぎり、俺は決して、命を粗末にしてはいけない筈だ。
　―――それも偽善。
　　　　なぜなら、おまえはとうのむかしに。
「あ――――――――」
　……こどものころの悪いユメ。
　―――ほら、何をためらう。
　……あれは暑い、夏の日だった。
　―――殺さなければ殺されるのだし。
　……目の前には、血にまみれた少年の影。
　　　　　―――おまえは、すでに
　……俺の手には、熱い熱い赤い血が。
　　　　　　　一度、人を殺しているじゃないか
「ああああああああああ！」
　刺した。
　腕を引き抜くのではなく、更に黒犬の頭に埋めた。
　痛みを<訴|うった>える<叫|こえ>が鼓膜に響く。
　黒犬の悶絶は、甲高い女の叫びに似ていた。口の中に腕をつっこまれて、まともに哭けないくせに泣いている。
　きっとそれぐらい痛いんだろう。
　かまわない。
　噛まれている腕ごと、ナイフをより深く突き刺した。
　ナイフは黒犬の後頭部から出現した。
　頭蓋を割り、皮をたやすく切断し、
　トロトロと血とか脳みそを撒き散らす。
　ついでに言うと、ナイフを握った俺の腕も、もう完全に頭を突き破っている。
　それでも黒犬は生きている。
　やる事は一つだけ。
　もう片方の腕を伸ばす。血だらけの指からナイフを引き剥がして、左手でナイフを持ち直す。
　犬の全身が、<懇願|こんがん>するようにわなないた。
　謝罪の意を示すように牙から力は抜けていた。
　知るか。
俺は簡潔に、その『線』通り黒犬を解体した。
「――――――」
　生命だったものを見下ろす。
　こちらの腕を覆っていた犬の<顎|あご>はあっけなく引きぬけた。
「―――なんだ。ぜんぜん食い込んでないじゃないか」
　血だらけの腕を見る。
　学生服には噛み跡が残ったが、えぐられた肉は深さ一センチもない。
　大量の血液は、俺に頭を貫かれた黒犬のものだ。
　噛まれている時の痛みなんて些細なもので、こちらの恐怖が痛みを何倍にも感じさせていただけだった。
「―――――、は」
　地面に横になったまま天井を見上げる。
　あたまが、いたい。
　世界はツギハギだらけになって、そこかしこに死の線も見えてしまって。
　手足は冷え切っているのに、理性だけが、熱病にうなされている。
「―――はは、は」
　すぐ近くには二匹の黒犬の死体。
　片腕は血にまみれていて、もう片腕には赤いナイフ。
　……そして、床の下の階層には数え切れないほどの人の死体。
　笑うしかない。
　だって、こんなのは現実じゃない。
　こんなのが現実であるはずがない。
　だから俺は正常だ。
　ぜんぜんぜんぜん正常だ。
　おかしいのはこの夢だ。目を覚ませばすべて解決だ。
　ああ、でも―――俺はいつから、瞳をあけたままで、こんな夢を観てしまっているんだろう―――？
　キンコーン。
　ひどく場違いな、明るい音がした。
「エレ……ベーター……？」
　先ほどの箱のとなりにある、もう一つの箱が到着する。
　疲労しきった脳は、それが何を意味するのか考察しない。
　扉が開く。
　頭はろくに働かないのに、体は自動的にナイフを右手に持ち直し、『この後』に起きるであろう惨劇を迎え撃とうと立ち上がる。
　……ああ、とても<厭|いや>だ。
　もう一度、鉄の箱が開かれる。
　その中には、
「――――――<空|から>？」
　何も、入ってはいなかった。
　……これも拍子抜け、と言うのだろうか。
　危険は去った。
　もうすべて終わった後とはいえ、階下の様子は把握できた。
　ならここにいる理由はない、と<踵|きびす>を返そうとした時。
「あ、はあ、だれ、か、だれか、誰か、だれか、誰かぁ！」
　どうしようもないほど滑稽な、女の声が響いてきた。
　声は足音と共に音量を増していく。
　間違いない。
　エレベーターホールの階段から、生存者が息をきらして駆け上がってくる……！
「は、はぁ、は……やった、ここ燃えてない……！」
　歓喜の声が聞こえる。
　靴音は止まらない。
　その声の主は、転がるようにエレベーターホールに現れた。
「君！　ねえ、そこの君！」
　廊下にいる俺に気づいて、彼女は再び走り出す。
「やった、助かった……！　わたし、助かった……！」
　恐怖で引きつっていた顔が、喜びで輝きだす。
「え……？」
　その希望を地獄に引き戻す、青白い手。
「うそ……いや、いや、いやぁぁぁああ！」
　俺を見たまま、助けを乞う女の声。
　抵抗は一切なかった。
　拘束は造作もなかった。
　その手に掴まれた時点で、夢から覚めるように、彼女の意識は喪失していた。
　―――止めろ。
　―――それは、止めろ。
　―――女を。
　―――何の関係もない、
ひたすらに善良だった彼女を、
　―――食い物にするコトだけは、決して。
「止め―――」
　制止の声は間に合わない。
　届いたところで変わらない。
　女の首元を凝視する。
　目の中で星が散るようだ。
　かつてない怒りで視界が鮮明になる。
　<憤血|ふんけつ>のなかでとぐろを巻く、底のない二つの凶眼。
　びくびくと痙攣する女の手足。
「あ……あぁ、あ―――」
　女の顔から感情が、生気が失われていく。
　それはきっと、初めて見る光景だった。
　初めてでありながら、アレがどのような行為なのか、教わるまでもない光景だった。
　ごくごくと<嚥下|えんげ>する<艶|おと>さえ聞こえる。
　ソレは女をひとしきり愉しんだ後、無造作に<棄|す>てた。
　枯れ木のようにゆらめく女。
　死の淵の寸前で危うく踊るバレリーナ。
　その哀れな背中に、
　悲鳴はあがらなかった。
　ただ流血の音だけが響き渡った。
　割れる背中。
　噴き出す血しぶき。
　それを浴びて、安堵の息をもらす吸血鬼。
　世界が一変する。
　体感気温と現実がようやく一致する。
　廊下を包む炎の膜。
　<堰|せき>を切り押し寄せる河のように。
　肌がチリチリと焦げていく。
　いま呼吸をすれば間違いなく肺が焼かれる。
　だが、何かがおかしい。
　燃えている。炎は確かに揺らめいている。
　<な|・><の|・><に|・><建|・><物|・><は|・><燃|・><え|・><て|・><い|・><な|・><い|・>。
　この炎を感じているのは、生き物である俺だけだ。
　頭痛がする。
　ヤツがこちらに歩き始める。
　炎の河の発生源はヤツだ。
　ヤツが近づけば近づくほど、大気は高温になっていく。
　今はまだ15メートル。
　この距離でさえ俺は呼吸ができないでいる。
　つまり生き物は、ヤツに近づくだけで絶命する。
　痩身の影が歩いてくる。
　異様な出で立ち。<典雅|てんが>な洋服と野蛮な<外套|コート>。
　人間の姿でありながら、明らかに人間ではないもの。
　何もかもがズレている。狂っている。
　13メートル。
　ヤツは無言で向かってくる。
「―――」
　ナイフを構えて男を睨む。
　反応はない。そもそも俺が見えているのか。
　10メートル。
　俺はヤツを凝視する。
　沸き立つ炎の中、死の線を視覚する。
“―――”
　頭蓋の中がスープのように沸騰する。
　<ア|・><レ|・><は|・>、<な|・><ん|・><だ|・>。
　複雑に絡み合い、渦巻き、密集する死の<奔流|ほんりゅう>。
　その中でひときわ輝く、宝石のような―――
「っづ……！」
　あまりの頭痛に目を背ける。
　アレはまずい。あの男の“<最中|さなか>”を<視|み>続けるのはまずい。
　太陽を直視すれば網膜が焼き付くように。
　覚悟もなしに<ア|・><レ|・>を視ては、この脳が破裂する。
　８メートル。
　更に距離が迫る。
　上昇する気温。だがまだ肉を焼くには至らない。
　６メートル。
　その距離でヤツは止まった。
　視線の焦点が俺に合う。ここまで近づいてようやく、男は俺に気がついた。
　―――視線が合う。
　<ソ|・><レ|・><と|・><眼|・><を|・><合|・><わ|・><せ|・><て|・><は|・><い|・><け|・><な|・><い|・>。
　白い女の警告が脳裏をよぎる。
　だが目が離せない。
　あの底なしを無視できない。
　アレは違う。白い女の言っていた<魔|も><眼|の>とは、きっと根本が違っている。見る者を金縛りにする力なんてあの眼にはありはしない。なぜならアレは狂躁の眼だ。気が違っているモノの<眼|まなこ>だ。衝動に押し流されるだけの、<醜|みにく>く無様な、自らの異常に振り回される、俺と同じ人でなしの―――
「……！」
　本能が危険を察知する。
　まずい、と警鐘が鳴り響く。
　だが体はまだ動かない。指先ひとつまともには反応しない。
　頭蓋を跳ね回る危険信号。
　どんな手段、どんな方法を用いても、すぐさまここから離れなくては命が<亡|な>いと<訴|うった>える。
　―――だが、とうに遅い。
　病んだ眼のソレは、俺にまったく意識を向ける事なく、
　その“手”で、俺を焼き殺した。
「――――」
　死ぬ。
　だってあの炎は本物だ。
　廊下を濡らす青い炎は現実の上に張られた<効果|エフェクト>だ。
　あれに飲まれても即死には至らない。おそらく、生命のみを焦がす幻視痛のようなもの。
　だがこれは違う。
　この炎は現実だ。近寄るだけで肌が焦げる。触れるだけで生命は炭化する。
　それが鋭利な爪のカタチになって放たれた。
　俺の体は胴から両断され、その切断面から燃え尽きる。
　火を見るより明らかな確信。
　なのに、その直前、
　ざくん、という音とともに、俺の体は後ろに引っ張られていた。
「―――アル、クェイド……？」
　疑問は、声になって喉から漏れた。
　思考は真っ白になっている。
　状況は分かる。
　俺はアルクェイドに体を引かれ、それと同時に、コイツは俺の前に出て、あの“手”を受けたのだ。
　その行為が、あまりにも意味不明すぎた。
　だって、盾になるのは俺の役目だったはずだ。
　それがどうして、コイツが、俺を<庇|かば>って傷ついている……？
「つ――――！」
　アルクェイドの顔が苦痛に歪む。
　幾度となく伸びる炎の手。
　今度は俺を引っ張る必要はない。
　アルクェイドは路地裏の時と同じように、右手を振るって炎を弾き流す。
　だが、それも完全じゃない。
　炎は消しきれず、その余波が彼女の表面を焦がしていく。
　まさか……直撃すればアルクェイドですら燃やされる、という事なのか……？
　死の線が極端に少ない、死からもっとも遠い女を、致死に追いこむほどの高温だとでも……!?
　時間にしてわずか五秒の出来事。
　繰り出され、迎撃した数はおよそ十合。
　いかなる理由からか、男は<厳|おごそ>かに腕を下げた。
「…………」
　男は無言でアルクェイドを凝視する。
　アルクェイドは腹を真っ赤に染めたまま、苦しげに男を睨み返していた。
　男はアルクェイドだけを視界に収めている。
　彼女に守られ、その後ろでナイフを握っている俺を完全に“無い”ものと扱っている。
「……………」
　男の口から蒸気が立ち上る。
　排気するかのような呼吸の後、ヤツは左手でコートの下をまさぐった。
　カチャリ、とかすかな金属音が聞こえた。
　間違いない。刃物だ。
　あのコートの下に<長物|ナガモノ>が隠されている。エレベーター前で女を切り裂いたのもソレだろう。
　男の足が動く。
　刃物をコートの下に隠したまま、アルクェイドに向かって一歩踏み込もうとする。
「“無礼者。豚でなければ<銘|な>を名乗れ。
　それとも貴様の<親|・>は、最低限の<礼儀|ことば>も教えぬ形なしだったのか？”」
「“――――――”」
　男の足が止まる。
　幽鬼めいた<眼|まなこ>に自我の光が灯る。
　アルクェイドの言葉……俺には何語か聞き取れなかった……を受けて、男はあえぐように喉を鳴らした。
　今まで己が生き物である事を失念していたかのような、苦痛に満ちた声で。
「“……礼儀は知っている。
　だが、貴様に語るほどの名は、まだない”」
「礼儀はなっていないけど、恥だけは足りているようね。
　元の名前は失った、か……でも呼び名ぐらいはあるでしょう？　継いだばかりのようだけど、<仮|・><に|・><も|・><祖|・><の|・><一|・><角|・>なんだから」
　……空気が変わる。
　廊下を燃やす青い炎の勢いが増していく。
　アルクェイドの言葉は、あの男にとって耐えがたい急所を突いたのか。
「“―――ヴローヴ”」
　炎をまき散らす吸血鬼は悩ましげに、
「“―――ヴローヴ・アルハンゲリ”」
　そう、己の名前を告げた。
「知らない名前。わたしが記録していない以上、正統な後継者とも思えない。もしかして、親は自滅？」
「“……そうではない。ご当主は、おれが、仕留めた”」
「なったばかりの祖ってコト。
　じゃあ、次はわたしを殺して<箔|はく>を付けたい？」
「“……名誉は、己の<裡|むね>にあるものだ。
　おれは、おれが欲しいものしか、奪わない”」
「心構えは立派だけど、それならわたしだけに絞りなさい。
　コレはちょっとやりすぎよ」
「“……いや。この都市は<穢|けが>れている。
　焼き尽くさなければ、おれの信条に<悖|もと>る”」
「あっそう。つまり蛮族同然の、三流死徒だったワケ」
「“……<粗|そ><野|や>である事は自覚している。
　真祖の姫。その心臓を、おれに<呉|よ>こせ”」
「……！」
　ヴローヴ。そう名乗った吸血鬼の周囲が歪む。
　ヤツの周辺からあふれ出す“炎の河”が増大していく。
　アルクェイドの体が防波堤になって、俺はその激流に飲まれずに済んでいる。
「……動かないで志貴。この炎があいつの武器よ。
　消し炭になりたくなかったら、わたしの後ろから離れないで」
　その忠告はありがたいが、言葉にできない違和感があった。
　……これがアイツの武器？　本当に？
　だってこれほどの高温状態を作っておいて、アイツ本体の姿は、まるで―――
　いや、今はそんな場合じゃない。
　意識を集中してナイフを構える。
　―――来る。
　廊下はもはや炎の洞穴だ。
　ヴローヴはコート下の刃物を今まさに解き放って―――
「……は？」
　―――が。
　ヤツはとつぜん、俺たちに背中を向けた。
　何事もなかったようにホールまで歩いて行くと、そのまま悠然とエレベーターに乗って、このフロアから立ち去っていった。
「な―――」
　もう、これっぽっちもワケがわからない……！
　俺を襲った二匹の犬も、廊下を覆った炎も、このホテルを襲った悪夢みたいな現実も！
「志―――貴」
　どん、とアルクェイドが寄りかかってきた。
　……ひどい傷だ。腹からの出血は止まっているものの、彼女の顔は苦痛にゆがんでいる。
　―――それは、たった数秒前。
　俺を、あの男から庇ってできた傷だった。
「そうだよ……おまえ、なんで……？」
「……うん、ちょっと甘く見てた。
　あれぐらいなら志貴を助けて、わたしも軽くかわせると思ったんだけど
―――
さすがだね、志貴。
　志貴にやられた傷、そんなに甘くなかったみたい」
　アルクェイドは苦痛に歪んだ顔で、にこりと、冗談みたいに微笑んだ。
「――――――」
　見ていられない。
　俺を庇って出来た傷で、加えて、その原因も俺にあるっていうのに―――そんな馬鹿な笑顔を向けられたら、なんて返せばいいのか分からない。
　アルクェイドは俺に体を預けて、うっすらと目を閉じようとしている。
「ちょっと待て、なに目を閉じてるんだばかっ！
　しっかりしろ、おまえは夜なら死なない吸血鬼なんだろ！?」
「……うん……でも……わたし、なんだか限界みたい」
「なっ――――」
「悪いんだけど、部屋まで連れ帰っておいて」
　倒れこむアルクェイド。
　彼女の体重が、抱き留めた俺の腕にかかってくる。
「―――ちょっと待ってくれ、そんな―――」
　勝手に死なれたら、俺は本当に、おまえに何を返せばいいのか分からなくなるじゃないか……！
「駄目だ、起きろアルクェイド……！」
　静かに目を閉じたアルクェイドに呼びかける。
　と。
「……くー」
　１秒前の自分が馬鹿らしく思えるほど、この上なく幸せそうな寝息が聞こえてきた。
「…………」
　……心配して損をした。
　アルクェイドは眠っているだけらしい。
「……はあ。部屋まで連れてけって、また勝手なコト言いやがって―――」
　でもこの場合は仕方ない。
　そもそも、これ以上ホテルに居続けるのはまずい。
　……これだけの惨劇だ。
　外に異常が漏れていなくとも、遅かれ早かれ知れ渡るだろう。
「…………ぐっ」
　頭痛はやまない。
　俺も体力の限界だ。
　眼鏡をかけて、せめて頭痛だけは緩和する。
「……アルクェイドの部屋って―――ああ、あそこか」
　一度しか行った事はないが、場所は確実に覚えている。
　なら長居は無用だ。
　俺はロイヤルスイートルームから荷物を回収し、アルクェイドを抱きかかえ、もう誰もいなくなったホテルを、慚愧の念と共に後にした。
　空は明るくなっていた。
「……そうか、そういうコトか」
　あの男が立ち去った理由はこんな単純な事だった。
　街はもう完全に日が昇っている。
　いつのまにか、夜はとうに明けていたのだ。
　……とにかく、今はアルクェイドを休ませないと。
　タクシーは拾えない。
　こんな怪しい二人組、顔を覚えられるに決まっている。
　ホテルからできるだけ離れ、総耶駅行きのバスに乗りこむ。
　早朝という事が幸いして、人目に付く事はなかった。
　裏の非常口は一昨日のままだった。
　住人も管理人もここの鍵が“切れている”事に気づいていないのだろう。
　午前６時半。
　俺はあの時と同じように、自称吸血鬼の女の部屋に忍び込んで、ようやく、長い一日が終わった事を実感した。
　――――自分の命が惜しいんだ。
　昨日、アルクェイドを殺してしまった時の光景を思い出す。
　血と死臭に満ちた時間。
　あんなものを、俺は二度と経験したくない。
　アルクェイドと一緒にいれば、間違いなく同じことが繰り返される。それが嫌なら屋敷に戻るしかない。
「――――――」
　……自分の選択には大きな欠陥がある。
　それが何であるか、人として何が間違っているかを理解しながら、俺は思考にフタをした。
　これは逃げているんじゃない。
　戻ろうとしているだけだといい聞かせる。
「……屋敷に戻ろう。そうすれば、きっと」
　夜が明ける頃には、俺の与り知らないところで、何かの決着がついているだろう。
「そこの人。ちょっといいですか」
「え？」
　ベンチから立ち上がろうとした矢先、後ろから声をかけられた。
「ほっといてもいいんですけど、あんまりにも情けない顔してるので」
　初めて見るような、どこかで見た覚えがあるような、女の子が立っていた。
　年の頃は中学生のようだが、制服を着ていない。俺同様、学校をボイコットしていたのだろうか。
「……情けないって、なにが？」
「顔。粘土みたいな色してます。人って、死ぬ時はそういう顔するんですよね」
「――――――」
　冗談にしては間が悪すぎた。
　なんだそれ、と笑って返す事ができない。
　深刻に受け止めてしまった俺を、少女は特に気にした風もなく見つめている。
「冗談じゃなくて、今のは経験談です。知り合いのじいちゃん、そんな顔色から３時間もしたら呼吸止まっちゃって。救急車、呼べばまだ助かったかも、なので」
　少女は俺に近寄らない。
　１メートルほどの距離を保ったまま、
「救急車、呼びます？
　ならケータイ、貸してください。あたしのは使いたくないんで」
「―――、
は」
　予想外の申し出に、つい安堵の息が漏れていた。
　少女の言う通り、気づいていないだけで機能不全に陥っていたらしい。
　とつぜん戻ってきた日常につられて、正しく、呼吸が再開される。
「いや、大丈夫。ちょっとした貧血だから、すぐ治まる。
　―――でも、声をかけてくれてありがとう。助かった」
「そっスか。じゃ、あたしはこれで。
　……体調、ずっと悪いんですか？」
「？」
　それじゃあ、と言っておいて、女の子は妙な質問をしてきた。
「……まあ、生まれつき、かな？
　子供の頃から、少し運動すると眩暈がするんだ」
「ふーん。じゃあ犬とか、ダメですね。遊びに付き合ってあげられないし」
「いや、散歩くらいは問題ないけど」
　犬を飼いたい欲求はないが、完全否定されるのも悲しい。
「散歩とか。
　顔色、まだ悪いですよ。早く家に帰ってお休みする事をお勧めします」
　少女は立ち去った。
「あれ……？」
　去り際、なんとなくではあるが、俺よりあの子の方が何倍も体調が悪かったのでは、と思ってしまった。
　結局、公園で体を休めてから帰路についた。
　日が沈んであたりはすっかり暗くなっている。
　時間にして夜の７時過ぎ。
　屋敷の門限は８時だから、急いで帰らないとまた秋葉に小言を言われる。
　屋敷の周りの道は、相変わらず人気がない。
　まだ日が沈んだばかりなのに、まるで深夜のような静けさだ。
「そういえば、ここって……」
　屋敷に帰ってきた日の夜、野犬の声がうるさくて様子を見にきた場所だったっけ。
「？」
　いま、目の前に何か、黒い塊のような<肉|もの>が。
「――――――」
　意識が凍りつく。
　なぜここに、という疑問。
　とうぜんだ、という理解。
　路地裏で見つかったのはアルクェイドだけではない。
　彼女と一緒にいた人間も捕捉対象に入る。
　その事実に気づかないよう、俺は思考にフタをしたのではなかったか。
　遅れを取り戻すようにナイフを取り出す。
　道の端……雑木林から現れた死人を見据えたまま後じさる。
　その時、
　――――おかしい。
　突然、あたり一面、真っ赤になってしまった。
　ごうごうという音が聞こえる。
　とても近くから聞こえる。
　激痛で全身がバネのように跳ねている。
　何度も何度も跳ねている。
　意識も、体も、視界も、世界も、
　緊急ランプのように回転していく。
　ごうごう。ごうごう。ごうごう。
　音は。
　どうやら、自分の体から、しているようだ。
「■■■■■―――！」
　アスファルトに倒れこむ。
　手足は動かない。もう動かすだけのカタチがない。
　痛みだけが眼球に走っている。
「“―――暖にもならん。
　　主を守る犬ですら無かったか”」
　くぐもった声が聞こえた。
　アスファルトで爆ぜる脂の音。
　それが自分から垂れ流された汚物のなれの果てである事に、遠野志貴は最期まで気づかなかった。
　……このまま、部屋で様子を見よう。
　アルクェイドが動けない以上、無闇に外に出るのは危険だ。
「……………」
　……時間だけが過ぎていく。
　ナイフを片手で握って、炎しか映っていないモニターを凝視する。
　アルクェイドは目を閉じている。
　その姿は、先ほどの月下の美しさ―――いや、力強さを思わせる。
　路地裏の出来事からもう半日以上経過している。
　彼女の『力』とやらも、少しは戻っている筈だ。
　……。
　………………。
　…………………………熱い。
　目の前に炎を<焚|た>かれて、<燻|いぶ>されているようだ。
　呼吸も困難になりつつある。
　部屋にいるかぎりは安全だと判断したが、これでは真っ先に俺が倒れる。
「…………」
　……やはり、危険を承知で外に出るべきか？
　まだ間に合う。
　俺はもう一度決断をしようとして、
　光が消えた。
　異常だった謎の高温現象も途絶えた。
　同時に、
　扉を叩く、無数の音。
「志貴、覚悟はいい？」
　ぽつりと。
　闇の中で、アルクェイドはそう言った。
「……覚悟って、なんの……」
　そんなもの、聞き返すまでもない。
　―――この部屋に残った事が失策なら、
　　　　そんな質問をしたのも失策だったのか。
　扉が破られる音がして、扉の方を振り返った。
「――――！」
　一瞬の焦りと、
　安全策としてドアから離れていた事が、
　決定的な“理由”となった。
　ドアを破壊して入ってきたのは二頭の犬。
　それがアルクェイドの爪で弾き飛ばされた直後、
　避けようのない量の炎が、部屋を埋め尽くすように注入された。
「ア―――アア、ア―――」
　よほどの高温でないかぎり、人間は火に触れても即死はしない。だがこれは一撃で人体を灰にする、鈍器のような炎だった。
　……火炎放射器の仕組みを思い出す。
　あれは炎を浴びせているように見えるが、その実、燃料を飛ばして対象にかけ、文字通り“火をつけている”のだ。
　この炎も似たようなものなのだろう。
　炎の鞭は触れた部分を溶かすように炭化させた。
　テーブルや壁をたやすく貫通するソレを受けて、人間の体が耐えられる筈もない。
　良かった点があるとすれば、その威力のおかげで上半身は一瞬で吹き飛び、炎に焼かれて死ぬ苦しみだけは、避けられたという事だ。
「―――ん」
　淡い光で目が覚めた。
　雨音はとうに止んでいる。空は曇って灰色に<煙|けぶ>っていたが、それでも目を覚ますには充分な光だった。
「おはようございます遠野くん。昨夜はぐっすり眠れましたか？」
「はい、おはよう先、ぱ……」
　思い、出した。
　昨夜は先輩にベッドを借りて、先輩の部屋に泊まったんだ。
一晩あけて気持ちが楽になったのか、とたんに恥ずかしくなってベッドから跳ね起きた。
「おはようございます先輩っ！
　昨日はありがとうございました。色々お世話になっちゃって、その―――」
「はい、一つ貸しにしておきますね」
　慌てている俺と違って、先輩はいつもの笑顔だ。
　ますます頭が上がらなくなってしまう。
　先輩は俺なんかより、ずっと大人な人だった。
「……じゃあ一つ借りですね。もし俺に返せる時があるのなら、その時は必ずお返しします」
　……先の事は分からない。
　それでも、もし幸運にも恩返しできる機会があるのなら、どんな些細な事でもいいから、この人の助けになりたいと思った。
「……俺、そろそろ帰ります。雨もあがったし」
「あれ、そうなんですか？
　まだ朝の６時になったばかりですよ、遠野くん」
「そうだけど、昨日は無断外泊しちゃったから。早めに屋敷に戻らないと秋葉になんて言われるか」
「秋葉……ああ、妹さんのことですね。
　昨日電話しておきましたから、そのあたりのお話は
大丈夫だと思いますよ」
　さらりと、先輩はとんでもない事を口走った。
「……電話したって、先輩が、うちに？」
「はい。遠野くんがうちに泊まる事を伝えておかないと、ご家族の方たちが心配すると思って。
ご迷惑でした？」
「いや、それは――――――」
　わなわなと震える喉。
　シエル先輩がうちに電話したっていう事は、つまり、同年代の女生徒が『遠野志貴はうちに泊まります』と、あのお厳しい当主様に伝えたという事だ。
「―――困る。それは、すごく困る。昨日とは違う意味で、死んだ方がマシかもしれない」
「……遠野くん……わたしの部屋に泊まったこと、そんなに嫌だったんですね」
「あ、いや、そういう意味じゃなくてですね、うちの家は時代錯誤というか、とにかく決まりが厳格なんです。
　俺が先輩のことを嫌がったワケじゃなくて、」
「……いいです、言い訳なんかしなくても。
　わたし、やっぱりお節介でしたよね……あと夕ご飯、コンビニ弁当は女子力低すぎでしたよね……」
　先輩は悲しそうに目をふせた。
　俺にとって先輩は昨夜から特別な―――なんていうか、人間として尊敬するにあまりある―――人になっている。
　そんな人に悲しげにされるとこっちが参ってしまう。
「本気で違います、お節介なんかじゃないです！
　あの……俺は、本当に感謝しています。先輩が介抱してくれなかったら俺はまた間違えるところだったし、コンビニ弁当もアリだし、べ、ベッドは緊張したけどすぐ眠れたし！
　今だってその、先輩の顔が見れて嬉しいし、気持ちがめちゃくちゃ楽になってるんですから！」
　とにかく思いついた感謝をまくしたてる。
　……と。
「はい、そうですね。遠野くんはいつもの調子に戻ってくれました。昨夜は何があったのかは知りませんけど、こうして元気になってくれて嬉しいです」
　さっきの悲しそうな顔はどこにいったのか、先輩はくすくすと笑っている。
「……シエル先輩？」
「冗談ですよ。わたしだって遠野くんのお家に直接電話なんかしません。乾くんにお願いして、昨夜遠野くんは乾くんの家に泊まった、という電話をしてもらったんです」
「良かった……それなら問題はないですけど、先輩、冗談きつすぎですよ。今のは本気で心臓が止まるかと思った」
「はい。わたし、わりといじわるなんです。
　ほら、好きな子っていじめたくなるじゃないですか。それといっしょです」
「――――――」
　好きな子って、それは、その、
「でも、たしかにお家には早目に帰ったほうがいいですね。
　ええっと、ちょっと待ってください」
　先輩はたたんだシャツを差し出してきた。
「はい、どうぞ。朝のうちに洗っておきました。上着の方は乾ききっていませんけど」
「あ、そっか。……まいったな。何から何まで、本当にお世話になりっぱなしで」
「いえ、これも役得です。弱気な遠野くんに頼ってもらえてラッキーでした」
　俺に気を遣っての方便でも、今は素直に嬉しい。
　先輩から服を受け取って、脱衣所で着替えて、アパートの玄関に急ぐ。
「それじゃ行きます。
　……その、先輩。昨日は本当にありがとうございました。先輩が言っていた通り、俺に何ができるかは分からないけど……自分なりに償いってヤツを、真剣に考えます」
「はい。それでは、学校でお会いしましょう」
　先輩は笑顔で送ってくれた。
　……その笑顔はもう二度と見られないかもしれない。
　昨日、俺が殺してしまった女性の遺体はとっくに発見されて、今ごろ屋敷には警察が来ているかもしれないからだ。
　だからといって、もう逃げる事はできない。
　今は先輩の笑顔に心からの感謝を告げて、遠野の屋敷への帰路についた。
　結論から言うと、屋敷の様子は昨日の朝と変わらなかった。
「おかえりなさいませ志貴さん。
　雨に降られるなんて、昨夜は災難でしたね」
　ロビーに入るなり笑顔で挨拶をされてしまった。
「た、ただいま。……あの、琥珀さん？」
「ええ、朝ごはんですね？
　すぐにお支度しますから居間で待っていてください。秋葉さまも先ほど済ませたばかりですよ」
　琥珀さんはパタパタと音をたてて一階の西棟……厨房のある区画へ向かって行った。
　天窓からの陽差しと、微かに聞こえてくる小鳥の声。
　……平和すぎる。
　警察の手はおろか、昨日の殺人事件すら報道されていない空気。
「………………」
　とりあえず、自室に戻って着替える事にした。
「おはようございます志貴さま。お帰りになられたのですね」
「あ、ああ。ついさっき、帰ってきた」
　部屋には翡翠の姿があった。
　窓際にいたところを見ると、朝の換気をしてくれていたのだろう。
「翡翠。悪いんだけど、替えの上着ってあるかな。いま着ているの、昨日の雨で濡れちゃって」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
　翡翠は一礼して着替えを取りに行ってくれた。
　居間には秋葉が憮然とした表情でソファーに座っていた。
「―――あら、おはようございます兄さん。
　いつのまにかお帰りになってたんですね」
　秋葉の声には、どことなく非難の色がある。
「お、おはよう秋葉。……その、朝から機嫌が悪そうだな」
「ええ。兄さんが頻繁に外泊をされる方だとは知りませんでしたから。機嫌を損ねている、というよりは呆れているんです」
　言い直そう。どことなく、ではなく、もう真っ正面から兄を弾劾する妹だった。
「まあ、体調を崩したのなら仕方がありませんけど。
　乾さん、という方は中学校からの友人なんですね？」
　おお……秋葉の口からその名前を聞く事になろうとは……。
　有彦のヤツ、ちゃんと電話してくれたみたいだな。
　しかし一抹の不安もある。
　あのオレンジ男はどんな内容の電話をかけたんだろう……？
「まったく。徒歩のクセに傘も持っていないなんて。
　その上、川に流れていた子猫を助けるとか、ケーキ屋で泣いていた子供を助けるとか、喫茶店で起きた窃盗事件を解決するとか、どこのミステリ小説ですか。
　……いえ、子猫を無視できなくてつい助けてしまった、というのは兄さんらしくていい話ですけど」
「あ―――いや、ははは」
　どこかで聞いたような話の継ぎ接ぎである。実に怪しい。しかし信憑性はあったのか、秋葉はまるっと信じていた。
　……それもその筈、ここ最近に起きた事をまとめたものなので、細部にリアリティがあったのだろう。
「だいたいですね、
学校を早退されるのなら連絡を入れてください。すぐに迎えの車を送ってさしあげたのに。
　何に遠慮しているかは知りませんが、兄さんは遠野家の長男だと言ったでしょう。使えるものはなんでも使ってください。そうでなくても、兄さんは人より体が弱いんですから」
「昨日は突然の雨でしたから気圧の変化もあったのでしょうけど、あれぐらいで貧血を起こすなんて話になりません。
　一度主治医に診てもらうにしても、登下校は車で送らせた方がよろしいのではなくて？」
「大丈夫、秋葉が気にするような事じゃない。ちゃんと週一で病院には通ってるし、毎日車で送られたら、それこそ体が鈍るだろ。
　心配してくれるのは嬉しいけど、俺の事でそこまで神経質になるなよ」
「……そうですか。兄さんがそう言うのでしたら無理には勧めません。それと訂正しておきますが、私が心配しているのは兄さんの体ではなく、遠野家の長男の健康ですので」
　淡々と事実を述べる秋葉。
“それ同じコトなんじゃない？”と指摘したかったが、後が怖いので止めておく。
「志貴さーん、朝食のお支度ができましたー」
　ロビーをはさんでとなりの食堂から、琥珀さんの明るい声が聞こえてきた。
　……ああ。まだぎこちなくはあるが、秋葉との朝の会話も、これでおしまいだ。
「……悪いな。もうすぐ行かなくちゃいけないし、手早くメシ食ってくる」
「兄さん、その乱暴な言葉遣いはやめてください。
　あまり改めてくださらないようでしたら、当主として命じる事になりますから」
　むっ、と端整な唇がすぼめられる。
　その、厳しい言葉とは正反対の拗ね顔は、俺の覚えている秋葉そのものだった。
「……よし、もとの調子に戻ってきたな。やっぱり秋葉はそうでなくっちゃ落ち着かない。俺の事なんか心配しないでいいから、これからは気楽にしてろよ」
「―――しつこいですねっ。
　私、兄さんの心配なんてしてませんっ！」
　秋葉は不機嫌そうに顔を背ける。
　それを微笑ましく、名残惜しく眺めながら、食堂に移動した。
　翡翠に見送られて外に出る。
「…………………」
　翡翠は俺に鞄を手渡した後、わずかに逡巡して口を開けた。
「……出過ぎた事とは存じますが、質問をお許しください。昨夜はどうなされたのですか？」
「別になにもないよ。雨にあてられて貧血を起こしただけ。これからは気をつける」
「責めているのではありません。ただ、今朝の志貴さまはひどく無理をしているように見えます。
　……どうか道々、お気をつけくださいませ」
　翡翠は深々と礼をして俺を送り出してくれた。
　……できるだけ平静にふるまって、秋葉にも琥珀さんにもボロをださなかったのに、翡翠には通じなかったらしい。
「……気遣ってくれたのかな、翡翠」
　淡々とした彼女の感情は分かりにくいが、心配してくれたのは確かなようだ。
　それに感謝して、翡翠に手を振って屋敷から遠ざかる。
　この景色も今日で見納めだ。
　たった二日だけの里帰りだったが、それを惜しんではいられない。
　もしこのまま、まだ少しの猶予があるのなら―――学校に行って、世話になった人たちに挨拶をしてけじめをつけたい。
　いつも通りに別れを告げて、悔いの残らない一日にできたら、それこそ身に余る結末だろう。
　どれほど心境が複雑でも朝の様子は変わらない。
　学校に近付くにつれ制服姿の生徒を見かけるようになってくる。
　……不意に踏み出す足が止まりそうになるのを、強がりで進ませる。
　駅前をすぎて、学校に向かうまでの風景。
　二年間馴染んだ通学路を歩いていく。
　この交差点を抜ければすぐに正門だ。
　信号機が赤になって、横断歩道の前で立ち止まる。
　歩道の向こうには学校の塀がある。
　通学路はガードレールに守られていて、今も我先にと生徒たちが校門へ向かっている。
　この時間、道の向かいの歩道にはうちの学校の生徒しかいない。
　いない筈だ。
　なのに、せわしなく自動車が走っていく合間に、白い人影を見た気がした。
「―――――、な」
　そこにいたのは、彼女だった。
　紛れもない白い姿。
　日の光を思わせる金の髪。
　細く長い眉と赤い瞳。
　たった一度しか見ていなくとも、俺がその姿を見間違える事はない。
「――――――」
　けど、そんな筈はない。
　だって彼女は、昨日俺の手で、あんなにもバラバラに散らばった。砕け散った。いくつもの肉片に成り下がった。
　なのに。
　なのにどうして、／殺したはずの女が／アレが、あの美しい姿のまま生きている―――？
「…………そりゃ、あ」
　その続きを口にする事は、少しだけためらいがあった。
　いいのか、と。
　俺は自分の凶行を認めはしたが、自分の罪をはっきりと言葉にはしていない。
　それを口にすれば今までの生活に戻れなくなると、心の奥底で感じ取っていたからだ。
　けれど―――
「そりゃあ、なに？」
「――――――、―――」
　舌がヒリヒリと乾く。
　それを言うな、と喉が痺れる。
　……けれど、避けては通れない。
　避けて通ってはいけないものだ。
　そういう風に、信じてくれた人がいたはずだ。
　おまえは、自分が正常でありたいと願うのなら。
　自分の犯した罪から、
　自分が犯す行為から、
　目を背ける事だけは―――
「……そりゃあ後悔してる。
　何であれ、俺は、人を殺してしまったんだから」
　しぼるように告白する。
　昨夜、先輩の部屋で認めたように。
　俺は殺した。
　容赦なく、なんの理由もなく、
　ただ自分の為だけに、この女を殺めた事を。
「……その事を、後悔も反省もできる。
　……できるのなら、」
　そんな、安易な事が、許されるのなら、
「……何度でも、頭を下げる。
　……でも、それは意味のない事だ。
　事実として、俺はあんたを手にかけた。だから―――」
　許されていい筈がない。
　生き返っているから問題ない、なんて通じない。
　遠野志貴は、目の前の女性を殺してしまった。
　それは究極の略奪だ。
　それ以上の<量|はか>りのない暴力だ。
「だから―――あんたは、俺に復讐していい。
　……俺が逃げたのは、おまえが怖かったからじゃない。俺は、俺自身の行為から、逃げていただけだった」
　俯いたまま。
　誰に懺悔するのでもなく、そんな言葉を呟いた。
　……それで、ようやく目が覚めた。
　俺は昨日から夢の中にいたようなものだった。
　終わる前の<仮初|かりそ>めの夢。
　自分の卑劣さから逃げ続けた現実逃避。
　その<報|むく>いが、今、やっと―――
　……いや、いくらそんな目をされても頷けない。
　バラバラにされても生き返る女だの、黒い豹だの燃える死骸だのといった非常識を、相手にできる筈がない。
「……悪いが、協力はできない。俺はただの学生なんだ。なにを期待しているか知らないけど、協力者なら他をあたれ」
「ふーん。ただの学生っていうのは見ず知らずの女の子をバラバラに切断しちゃうんだ？」
　それを言われると弱い。普通か異常かの量りで言えば、俺の眼はこいつと同じ分類だ。
　……けど、それだって<こ|・><こ|・><ま|・><で|・>じゃなかった。
　俺は普通に生きて、道を踏み外すことはなかったんだ。
　この、嘘みたいな女に出会わなければ。
「違う。俺はおまえに出会うまでまともだった。人殺しなんてする気もなかったし、それなりにうまくやっていた。
　……そうだ。あの時だけが特別だった。俺はたしかにろくでなしだけど、それだって、おまえさえ見かけなければ―――」
「ああもう、うるさい！」
「―――!?」
　赤い瞳の瞳孔が開く。
　女の雰囲気が一変する。
　なんて悪寒。
　睨まれただけで、本当に心臓が止まるかと、思った。
「勘違いしないで。あなたはわたしを殺したの。
　本来ならここでその首を引き抜いてるところを、あなたが使えそうだから助けてあげているだけなのよ」
「―――――、あ」
　大げさではなく。
　ただ睨まれただけで、世界は無音の荒野に変貌した。
　熱かった喉が、震えていた指が、一瞬で凍りつく。
　背筋を走る冷たい<恐|も><怖|の>に支配される。
　生き物としての本能が告げている。
　<本|・><当|・><に|・><何|・><を|・><勘|・><違|・><い|・><し|・><て|・><い|・><た|・><の|・><か|・>、と。
　おまえが目の前にしているモノは、人のカタチをした殺戮装置にすぎないのに。
　呼吸が、うまくできない。
　いや、呼吸なんて余分な動作は許されない。
　息を吸う。眼球を回す。指を動かす。どれでもいい。なんであれ、わずかでも動けば、次の瞬間、この体は巨大な何かにすり潰されている。
　それは錯覚ではなく、本能が感じとってしまった、避けようのない未来だった。
「―――、――――――」
　今すぐ逃げだそうと暴れる手足。
　　　　　　　　　　　　　―――だって俺は死にたくない。
　それを全力で組み伏せる思考回路。
　　　　　　　　　　　　　―――だって俺は死にたくない。
　もうすぐ死ぬ。逃げれば死ぬ。
　このまま死ぬ。動けば死ぬ。
　でも、いずれ恐怖で理性が死ぬ。
　でも、音を上げれば手足が死ぬ。
　　　　　　　　　　―――なんだ。どうあっても殺される。
　その結論に精神が焼かれていく。
　相反した逃避に閉じこめられる。
　精神が切り取られ、際限なく畳まれていく悪寒。
　永遠に続くかと思われたそれは、けれど唐突に終わってくれた。
「ぁ―――、あ」
　膝から地面に落ちる。
　圧迫から解放されて体を抱きしめる。
　……良かった。俺は、まだ生きている。
「どう？　少しは自分の立場、分かってくれたかしら」
　……分かるもんか。
　俺はガタガタと歯が震えるのを必死に堪えて、この化物を見上げる事しかできない。
「できる、できないの話なんてしていないの。やるなら生かしてあげる。やらないのなら殺してあげる。
　ほら、簡単でしょう？　わたしは単に、アナタに生きるか死ぬかを訊いているだけなんだから」
「――――――」
　声が、うまく出ない。
　ただ、もう本能的に、俺はこくんとうなずいていた。
「よろしい。これで契約は成立、と」
　女は膝をついた俺に手を差し伸べてくる。
「わたしはアルクェイド―――うん、長い名前だからアルクェイドだけでいいわ。
　<真祖|しんそ>って区分けされる吸血鬼だけど、あなたはなんていう人？」
　今まで聞いた事もない自己紹介をされて、重苦しいため息をついた。
　……諦めのため息というか、このデタラメな状況を受け入れてしまった証というか。
「遠野志貴。あいにくただの学生だよ。……前もって言っておくけど、本当に何の役にも立たないからな」
　女―――アルクェイドの手を握って立ち上がる。
　彼女はまじまじとこちらを眺めた後、
　改めて握手を求めてきた。
「それじゃあよろしくね、志貴。
　わたしを殺した責任、ちゃんと取ってもらうんだから」
　ニッコリと左手を差し出すアルクェイド。
　……世の中にはいろんな責任があるんだろうけど、殺した相手を手助けする責任をとるのは、たぶん俺が最初で最後なんじゃないだろうか。
「……ああ、ほんと、どうかしてる」
　けど、これじゃ他にどうしようもない。
　俺は嫌々ながら左手を差し出して、吸血鬼と名乗る白い女と握手をした。
「――――――」
　まだ、まっとうな世界で生きていたい。
　アルクェイドを殺した責任は感じている。
　だが、だからといって自分にできない事を強制されるのは何か違うと思う。
　……アルクェイドは眠っている。自分を殺害した遠野志貴を信用しきって、安らかに眠っている。
「…………くそ………！」
　それでも俺には自信がない。
　ここにいるべき理由、役に立てる根拠がない。
　俺が『遠野志貴の現実』に戻るとしたら、それは今をおいて他になかった。
　廊下は静まり返っている。
　最上階はアルクェイドが全部屋借りきっているので、このフロアにいるのは自分とアルクェイドだけだ。
「―――――――」
　まだ迷いが残っている。
　それを振りきって、エレベーターのボタンを押した。
　ホテルから電車を使って街に戻ってきた。
　……時刻は正午を過ぎたあたり。
　今から学校に行っても５時限目に間に合うかどうかだ。
　このまま屋敷に戻って、ベッドにもぐりこんで眠ってしまえば、何もかも忘れてしまえる。
「………………」
　なのに、屋敷に戻る気が湧いてこない。
　少し頭を冷やしたくて、公園に向かう事にした。
「―――――はあ」
　ため息がこぼれる。
　ベンチに座ってぼんやりと空を見上げている。
　灰色の空。
　曇りに曇った天気は、今の心象風景そのものだ。
　……あいつは、まだ俺を信用しきって眠っているんだろうか。
　俺は彼女を殺してしまったのに、彼女は俺を許すと言った。
　許すと、言ってくれたのに―――俺はこんなところで、いったい何をしているんだろう？
　……昨日の夜。
　先輩の部屋で過ちを認め、自分なりの償いをしようと誓ったのに。
　あれは、いざ自分の命が危なくなれば、逃げだす程度の誓いだったのか。
「……………っ」
　でも、やっぱり命は惜しいんだ。
　それは生きている以上どうしても逆らえない問題で、一時の情で乗り越えられるものじゃない。
“―――あなたの力はあなた個人のものなの。
　でもね、だからこそ忘れないで”
「――――」
　はるか昔の、大切な言葉を思い出す。
　あの人は……先生は、俺になんて残してくれたんだっけ。
「…………」
　まだ、間に合う。
　日は沈みきっていない。
　太陽が沈む前にホテルに戻れば、まだやり直す事ができる。
「く―――――そ」
　迷いが捨てきれない。
　俺は、結局――――
　―――自分の迷いを、捨てきれない。
　先生は言っていた。
　……聖人になれ、なんて事は言わない。
　君は君が正しいと思う大人になればいい、と。
　俺は、自分でもどうかしていると思うけど、あいつの信用を裏切れない。
　アルクェイドが人間じゃないとしても、こんな俺を信用してくれた。
　決して許されない遠野志貴の罪を、笑顔で許すと言ってくれたんだ。
　なら―――自分の命ぐらい笑って差し出すぐらいはしなくちゃ人間として恥ずかしい。
「……馬鹿だな。
　本当に、俺は馬鹿だった……！」
　バチン、と両頬を叩いて反省する。
　ベンチから立ちあがる。
　学校にも屋敷にも戻らない。
　俺は振り返らず、もう一度ホテルへと走り出した。
　日没前、もうじき日が沈むというギリギリのタイミングでホテルの部屋に帰ってきた。
「…………」
　そーっと足音を忍ばせて中に入る。
　アルクェイドがまだ眠っていれば、とりあえず問題はない……ん……だけ、ど……。
「―――」
「…………う、ぐ」
　この通り、彼女はすでに目を覚まして、ぷんぷんに怒っていらっしゃるのだった。
「志ぃ～～～～貴ぃ～～～～………！」
「あわ、あわわ……！」
　まずい。コレほんとまずい。
　誰がどう見ても怒り狂っています、あちらの<お嬢さま|マドモアゼル>！
　路地裏であれだけのコトをしたアルクェイドである。
　こっそり逃げ出した俺……ちゃんと戻ってきたけどネ！……に対して、どんな鉄槌を下すかもう考えるだに恐ろしい。下手するとホテルごと真っ二つだ。
「い、いや、その、これはだな！？」
　いまさら弁明しても後の祭りだが、しないで殺されるのは逃げ出すよりみっともないので全力で言い訳する。
　……と。
「もう、何処に行ってたのよ！
　外に出る時はちゃんと声をかけてから行ってよね！」
「……あれ？……」
　なんか……想像と違う、ような？
「日が落ちたから目を覚ましてみれば、志貴ったらいないんだもの。トイレにはいないし、ロビーで食事を摂っているのかなって様子を見にいっても姿がないし。
　いったい何処に行ってたのよ、あなたは」
「………………」
　たしかに、アルクェイドは怒っている。
　けど、それは俺に裏切られたと思ってのコトではないみたいだ。
「……いや、ちょっとホテルの外に出てたというか……」
「本気……？　使い魔に見つかった以上、志貴だって安全じゃないのよ。無闇に外に出ていって、またあの黒豹に襲われたらどうするつもりだったの？」
　……なんてコト、だろう。
　アルクェイドが怒っているのは俺がいなかったからじゃない。
　こいつは、俺が裏切って逃げ出す、なんて事を微塵も考えていないんだ。
　アルクェイドはただ、勝手に出歩いた俺が危険な目に遭わないかと心配して、こうして腹を立てていた。
「――――――」
　……恥ずかしい。俺はあと少しで、こいつの心を踏みにじってしまうところだった。
「ちょっと志貴、わたしの話聞いてる？」
「……ああ、聞いてる。そうだな、俺が悪かった。
　勝手に出ていって、ごめん」
　心から頭をさげる。
「えっ……？　
そ、そんなに、真剣に謝ってもらうコトじゃ、ないけど……」
「と、とにかく志貴は無防備すぎるわ。相手は吸血鬼なんだから、もっと気を引き締めるべきよ」
「それともなに、もしかして破滅願望でもあるの？　自分から殺されにいくとか、わたしを怒らせるとか。
　そういうコトなら基底状態と励起状態をコンマで繰り返す、人間の言葉じゃ表現できないぐらいの極限空間にたたき込んであげましょうか？」
「……………」
　この女、おそろしいコトに善意で言っている。
「んなワケあるか。あとな、それただの地獄だから。人間の言語表現舐めるなバカ」
「だいたい無防備なのはそっちだって同じだろ。……その、俺は一度はおまえを殺してるんだぞ？　そんな俺を見張り番にして眠るなんて、どうかしてる。
　今回だって、そうしなかったとはかぎらないじゃないか」
　アルクェイドの部屋は吸血鬼にあるまじき内装をしていた。
　……あの時は部屋の様子まで頭は回らなかったが、こうして見るといたって普通の部屋だ。
　人間の血のつまったボトルだの、
　奇怪な<彫刻品|オブジェ>だのといったものは見られない。
「……冷蔵庫に食器まで完備してるし。
　なんなんだろうな、コイツ」
　ぼやきながらアルクェイドをベッドに寝かせる。
　アルクェイドの体は軽かったが、ここまで抱きかかえてくるのは重労働だった。
「……ふう」
　床に腰を下ろして、大きく深呼吸をする。
　時刻は朝の７時になろうとしている。
「……そっか。カーテン、閉めてやらないと」
　けだるい体に鞭を打ってカーテンを閉める。
　やれる事をやって、ようやく緊張も解けたのだろう。
　座ろうとした途中、膝から力が抜けて、どすん、と床に倒れこんだ。
「……情けない。女の子ひとり運んだだけでこれか」
　……俺はあの事故以来、怪我の治りづらい体になってしまった。
　だからと言って運動不足な訳でもない。有間の家には道場があったので、できるかぎり運動はしていた。
　なにしろ体力をつけておかないと風邪でも命に関わる。
　なので、基礎的な体力、運動機能は人並みを維持している自負はある。けれど<持久力|スタミナ>だけはつけようがない。
　短距離走はこなせても、長距離走は話にならない陸上選手のようなものだ。
「…………はあ」
　横になったまま起きあがる事ができない。
　昨夜はずっとアルクェイドと話していたし、まともな食事を一日以上摂っていない。
　今まで<保|も>っていた方がおかしいのだ。
「……アルクェイド……傷、大丈夫かな……」
　ベッドに寝かせた女を盗み見る。
　腹部からの出血は止まっていたし、バラバラにされても勝手に生き返るヤツなんだから、そんな心配なんて無用かもしれないけど。
「……どうかしてるな」
　熱で頭がぐらぐらしている。
　こっちだって呼吸が途切れるほど疲れきっているのに、あいつの容体の方が気になるなんて、重度の風邪でも引いてしまったとしか思えない―――
『―――この衝突事故はオートバイのブレーキペダルが何らかの異常をきたしており、ブレーキのきかない状態で急な坂道を下りた事が原因と見られています。
　負傷者は二名、幸い死者はおりませんでした』
「……寝ちゃったのか、俺」
　あのまま床で眠ってしまったらしい。
　なぜかカーテンが開いていて、体にはシーツがかぶせられている。
　時刻は昼を過ぎたあたり。
　ベッドにアルクェイドの姿はなく、つけっぱなしのテレビがつまらないニュースを流していた。
「あいつ、どこに……？」
　体を起こして部屋を見渡す。
　となりの部屋……台所から人の気配がする。
「……あんな体のクセに、なに動きまわってるんだ」
　シーツをのけて立ちあがる。
　すぐ台所に行って、あいつの傷を確かめなくっちゃ。
『次のニュースです。
　本日未明、<鞍御橋|くらみばし>ドームホテルで火災が発生しました。内部からの火災警報はなく、午前６時、業務に戻ったスタッフがホテル内の異常を発見し、警察に通報。
　現在、消防署と連携を取りながらホテル内の消火作業を続けている模様です』
「―――――」
　ぴたり、と足が止まった。
　<否応|いやおう>なしにニュース映像に釘付けになる。
『ホテルに宿泊していた二百名の安否はいまだ確認されておりません。現在、消火作業は急ピッチで進められていますが、いまだホテル内から要救助者は一名も発見されず―――』
　ニュースキャスターは淡々と情報を読み上げていく。
　画面は一転して、さっきまで俺たちがいたホテルの外観と、行方不明になったとされる宿泊客二百名の名前の一覧を映した。
　俺とアルクェイドの名前はない。
『また、警察の調べによるとホテル内の壁が一部破損している事から通常の火災ではなく、ホテルの構造欠陥による爆発事故である可能性も考慮に―――』
　ぱちん、とテレビの電源を切った。
「――――」
　安否の確認――――？
　要救助者の発見―――？
　なぜそこまで解っていてはっきりと口にしない。
　ホテルに泊まっていた人間はみんな、あのワケのわからない炎にまかれて、跡形もなく燃え尽きてしまった事を。
「っ――――」
　……吐き気を<堪|こら>える。
　ここであの惨劇を思い返して嘔吐する事はできない。
　そんな同情、豚にも劣る。
　あのホテルにいて自分だけ生き延びた俺には、憎むこと以外は許されない。
　二百人だ。
　二百人の人間が、その原形を留める事さえできず、一方的に殺された。
　あの吸血鬼の顔が浮かぶ。
　奴が何者なのかは知らない。
　ただ、アレが元凶である事だけは間違いない。
　―――そう。
　アレが生かしてはおけないモノである事だけは、俺にとって間違いようのない真実だ。
「――――――」
　……心がまだ麻痺している、のだろうか。
　恐怖は今も残っている。
　怒りも強く渦巻いている。
　なのに、思考は冷え切っている。
　……心臓と脳が別物になったようだ。
　あの毛皮の男を思い返すだけで叫びたくなるのに、指先の感覚は鋭さを増すばかり。
　余計な感情は要らない。余分な熱も要らない。
　俺がするべき事は、ただ簡潔にあの線を―――
「気がついたの、志貴？」
　台所から顔を出すアルクェイド。
「む。恐い顔しちゃって、なにかあった？」
　アルクェイドはごく自然に、気軽に話しかけてきた。
「い、いや、別に。えーと……その、お、おはよう」
「うん、おはよう！
　ふふ。朝の挨拶をするなんて、珍しい経験ね」
「――――――」
　不意打ちの笑顔に、つい息を呑む。
　冷えきっていた思考は、それで唐突に消えてくれた。
　……って、そうじゃない、和んでどうするっ！
　そもそもコイツがベッドにいないから起き上がったんじゃないか、俺は！
「アルクェイド、傷はいいのか」
「傷？
　ええ、とりあえず問題ないわ」
　アルクェイドは余裕そうに立っている。
　すっかり元通りになったようで、下手をすると俺より元気があるかもしれない。
「……そうか。それなら、良かった―――」
　せめて。自分の身近な人間だけでも、無事でいてくれて。
「……ん？」
　いや、なに考えてんだ俺。
　アルクェイドは人間じゃなかった。
　そんな大前提を忘れるなんて、寝惚けているにも程がある。
「……でもまあ、良いことには変わりはないよな。
　おまえの傷、大したことじゃなかったんだから」
「へえ、どうしたのよ志貴。ちょっと前までは、わたしのこと化け物呼ばわりしてたクセに」
「……あのな。ちょっと前まで、じゃなくて、今でもそう思ってる。でも、それとこれとは別問題だろ。助けてもらったら感謝ぐらいはするさ」
「助けたって、わたしが志貴を？」
　アルクェイドは意外そうに目を見張った。
　どうも、まったく自覚がないみたいだ。
「そうだよ。おまえは俺を助けてくれたんだよ。
　……だから、今更だけど、庇ってくれてありがとう。おまえに引っぱられなかったら、俺も焼け死んでいたところだ」
「ありがとう、って―――べつにいいよ、そんなコト考えなくて。志貴がヴローヴと出会った原因はわたしにあるんだし、志貴に感謝される資格はないもの」
「助けられたのも事実だろ。アルクェイドは俺を庇ってくれた。その点だけは本当に感謝してる」
「……たしかに事実だけ見ればそうだけど……。
　やっぱりそれは違うよ、志貴。見張り役を引き受けなければ、あなたはあんな目には遭わなかった。
　志貴の生活に毒を混ぜたのはわたしよ。あなたはわたしを憎みこそすれ、感謝するのは間違ってるんじゃない？」
　アルクェイドは妙なところに<拘|こだわ>っている。
　まったく。感謝なんてのは気持ちの問題なんだから、そこに筋の通った理屈は要らないだろうに。
「間違ってないよ。
　自分の行動は自分で責任を持つしかない。ずっと昔に、そういう事を教えてくれた人がいたんだ。
　まわりがどうあれ、自分が望んでやった事は、自分の手で決着をつけなさいって」
　だから、見張り役の事でアルクェイドを憎むとか怨むとか、そういう気持ちはない。
　せいぜい、厄介な事に巻きこまれてしまったな、と自分にぼやくぐらいだろう。
「―――そっか。言われてみれば、盾が必要になったのは志貴がわたしを殺したからだものね。
　なら、あなたを巻きこんだ事について、わたしが謝る必要はないってコト？」
「ああ、そういうこと。自業自得なんだよ、今の俺は」
「自業自得かあ。
　うん、志貴ってば初めから運が悪かったのね。
　人を殺すにしたって、わたし以外の子にしておけばこんなコトにはならなかっただろうし」
「…………あのな」
　そもそもアルクェイド以外の誰かを殺したかもしれない、なんて仮定は成り立たない。
　あんな気持ちになって、訳も判らないまま歩き回って、あげく殺してしまった相手なんて、今のところアルクェイドしかいないんだから。
　というか、コイツ以外にはいないと思い―――
「―――あ」
「なに？　忘れ物でも思い出したの？」
「いや、忘れ物というか、なんていうか……考えてみれば、どうして俺は、おまえを殺そうなんて思ったんだろう……？」
　アルクェイドは眉をひそめて俺を見る。
　当然の反応だ。
　加害者である俺が、アルクェイドを殺した理由にまったく見当がつかないっていうんだから。
「理由なんてないんじゃない？
　だって、志貴は根っからの殺人鬼なんだから」
「――――――は？」
　ちょっと待て。
　いま、この女は、なんてコトを口にした―――？
「わたしを襲った時なんてすごく手馴れていたものね。
　チャイムを押して、扉が開いた瞬間に手を差し込んできて、有無を言わさず中に押し入る。
　こっちが驚いている間に初撃で生命活動を停止させて、あとはざっくざくに切り裂いてバラバラにする――――」
「うん、あの不意打ちは完璧だった。
　どのくらい完璧だったかっていうと、あの時の志貴をそのままキャンバスに閉じ込めれば、それ以上はないほどの<芸術品|え>になるぐらい、完璧だった。
　わたしがまだ正常なままだったら、お城に持ち帰って飾ってあげたいぐらい」
　やや陶酔した声で、猟奇的なコトを言うアルクェイド。
　だが、いや、それは。
「そ―――」
「けど、今回は殺した相手が悪かったわね。
　志貴が今まで何人殺してきたかは知らないけど、獲物にわたしを選んだ時点で年貢の納め時だったんじゃない？」
「そ、そそ」
「『そそそ』って、なによ、さっきから恐い顔して。
　言いたいコトがあるならはっきり言えばいいのに。わたしとあなたの間で、いまさら我慢するコトなんてないでしょ？」
　ごもっとも。
　こくん、と<頷|うなず>いてから、ちょいちょい、とアルクェイドを手招いた。
「なに？　内緒話？」
　わくわくと期待に満ちた足取りでアルクェイドは寄ってくる。
　その片耳に口を近づけて、言いたいコトをはっきりと口にする事にした。
「……あのな、アルクェイド」
「うん、なに？」
　せーのっ、
「そんなワケないだろ、このばか女ーーーっ！」
　ばかおんなー、んなー、なー………
　渾身の叫び声が残響する。
　容赦なしのフルパワー、ありったけの音量をアルクェイドの鼓膜に叩きつけてやった。
「いっ……たあ………」
　アルクェイドは大げさに耳を押さえている。
「もう、あったまきた！　突然なにするのよ志貴！」
「怒りたいのはこっちの方だ！
　なんか微妙にメチャクチャな注文してきやがるかと思えば、おまえ、そういうコトだったのか！」
「え……？　そういうコトって、なに……？」
「俺をいかれた殺人鬼だと思いこんで、化け物相手に盾になれとか見張りをやれとか無茶な注文をしてきたコトだよ！
　ああもう、とんでもない勘違いをしやがって！
　いいか、このさい言っておくけど、俺は殺人鬼でも殺人狂でもない。人を―――人を殺すなんて、おまえがはじめてだったんだから」
　ぽかん、と口をあけるアルクェイド。
　今のはよっぽど意外な発言だったらしい。その事実に、いまさらながら自分が何をしたのか、思い知らされる。
「―――うそ。あんなに手馴れてて、あれが初めてだったっていうの、志貴……!?」
「……そうだよ。こんなおかしな目を持ってるけど、俺だってそれなりに、できるだけ真面目に生きてきたんだ。
　この線を使って人を殺したい、なんて思った事は一度もない」
「……ふうん。それじゃあどうして、見ず知らずのわたしを殺したりしたのよ」
「―――だから、それが、」
　分からないんだ、と口にしそうになって、己の卑劣さに気がついた。
「……あの時、俺は……。
　おまえと街ですれ違った途端、吐きそうなぐらい気になって、」
　その、白い姿しか考えられなくなって、
　欲情にまみれた自分を止める事もせず、
　卑しい笑みを口元に浮かべながら、
「―――俺は、そのまま。
　気がついたら、キミを、この手で―――」
　<紛|まぎ>れもないこの部屋で、
　何の理由も、目的もなく、
　あの美しいカタチを、踏みにじった。
「―――――そう、か」
　体から力が抜ける。
　立っていられなくなって、床に膝をつく。
　……ああ、そうだった。俺が、アルクェイドに怒りを向ける資格なんて、なかったんだ。
　たとえ相手が生きていて、それが人間じゃないとしても。
　俺は実際に、彼女をこの手で殺しているんだから。
「なによ、またいきなり黙っちゃって。
　そうかって、なにがそうなの、志貴？」
「…………だから、ごめん、って…………言わなくっちゃ、いけない……」
　異常事態を理由にして、重要なことを忘れていた。
　まっさきに行うべき事から、怖くて目を背けていた。
「―――ごめん。ごめんな、アルクェイド。
　俺は、キミをここで殺した。俺は何よりその事を、一番最初に謝らないといけなかったのに―――」
　アルクェイドが俺を殺人鬼と勘違いするのは当たり前だ。
　あんな行為の後で、自白も自戒もなく、のうのうと被害者のように振る舞った。
　それだけでなく、今以てあの時の衝動を理解できず―――
「……殺したのは事実なんだ。
　だから……俺は罰を受けないといけない。こんな人殺し、みんなの社会に混ぜる訳には、いかないだろ」
　……いまさらその事実を口にするなんて、卑怯すぎる。
　理由もなく人を殺してしまう人間に、はじめから、居場所なんてある筈がなかったんだ。
「―――そう。
　志貴は本当に、自分でも理由が分からないのね」
　……<俯|うつむ>いたまま<頷|うなず>く。
「つまり楽しいとも感じなかったってコトでしょ？
　……うん。たしかに殺人鬼の中には息をするみたいに人を殺すヤツもいるけど、志貴は普段はまともっぽいよね」
「……そうだな。一応、そのつもりだけど」
「いえ、まっとうすぎるぐらい<健全|まとも>よ、あなたは。
　それで、殺したくなったのはわたしだけなの？」
「……ああ。アルクェイド以外には、そんな気持ちにはならなかった」
「なーんだ、なら問題ないじゃない。
　ほら、顔を上げて志貴。あなたは殺人鬼なんかじゃないよ」
「…………」
　許されるように顔をあげる。
　そこには、俺に殺されておきながら、俺以上に俺を信じる、確信に満ちた笑みがあった。
「それに何の罰も受けなくていいと思う。
　たまたま志貴が殺したいって思った相手がわたしで、厄介なコトに、志貴にはこれ以上ない殺人技巧が<備|そな>わっていた」
「けど、都合のいいコトにわたしが吸血鬼だったんだから、誰も死んでないでしょう？
　だから志貴がそんなに悩む必要はないよ。人間たちの社会の道徳も気にしなくていいと思う」
「人間に貴方は弾劾できない。だって、いまのところ世界で志貴を責めていいのは、被害者であるわたしと、当事者である志貴本人だけなんだから」
「―――それはそうだけど。おまえを殺したっていう事実だけは、決して、変わらないじゃないか」
　そう。
　特異な状況だから罰はない、と証明されても。
　俺の罪だけは、永遠に消え去らない。
「それは当然よ。わたしだってまだ根に持ってるんだから、そう簡単に忘れられちゃ困るわ。
　だけどね、志貴。ちゃんとあなた本人がそう思えて、ずっと後悔していくんなら、問題はないんじゃない？」
　―――それは詭弁だ。
「志貴。人間の中にはね、どんなに世の中を恨んでいても悪魔に魂を売れない人がいるわ。例えば、吸血鬼相手にごめんなさい、なんて言える正直者とかね。
　だから大丈夫。誰がなんて言ったって、志貴本人がそうじゃないって言いきったって―――志貴は、まだそっち側の世界にいられるよ」
「―――――」
　……言葉がない。
　よくもまあ―――自分を殺した相手に対して、こんな台詞を笑顔で言えるもんだ、コイツは。
「ほら、そんな事より、わたしたちにはもっと厄介な問題があるでしょ？　志貴の目も覚めたんだし、今後の事を話し合いたいんだけ、
ど
」
「!?」
　唐突にも程がある。
　何の予兆もなく、笑顔のままアルクェイドは床に倒れこんだ。
「アルクェイド!?」
　倒れた彼女に駆け寄る。
「……まいったなあ、やっぱりまだ無理みたい」
　アルクェイドは額に汗をうかべて、苦しげに息を吐いた。
　……いま一瞬、洋服の腹のあたりにかすかな赤色が見えたような……。
「おまえ、この傷―――」
　ホテルで俺を庇って受けた―――
「ヴローヴに裂かれたところね。志貴にやられたせいで治りが遅くなってるだけよ。
　とりあえず傷口だけは塞いでおいたんだけど、あんまり効果はなかったみたい」
　アルクェイドの口調は明るい。
　けれど、その端々にかすかな痛みがある事に、ようやく俺は気がついた。
「……塞いでおいたって、何で？」
「えーっと、それ」
　アルクェイドはフローリングの床に転がっているモノを指差した。茶色い。一見してバームクーヘンに見えない事はないが、どう見ても、それは<百|た><均|だ>のガムテープだった。
「ば、バカも休み休みにしろーーーーっ！！！！
　ガムテープで傷口を縛るヤツがどこにいるってんだ……！」
「……もう。あんまり人のことばかばか連呼しないでよ。
　なんだか本当にそうなのかなって考えちゃうじゃない」
「うるさい、いいから傷口を見せろ……！」
　白い服に手を伸ばす。
　……と。
　アルクェイドはごろん、と音をたてて、ベッドの上で転がった。
「ふざけるな、傷口が開いたらどうするつもりだ！」
「いいよ、こんなの放っておいたって。
　志貴こそ馬鹿な真似はやめてよね。女の子の服を剥ごうなんて、死徒よりたちが悪いわよ」
「―――あのな。俺はおまえを人間として見てないんだから、男も女もないだろ。
　ほら、いいから大人しくしてろ。俺を庇った傷で死なれたら、一生負い目が出来ちまう」
　むっ、とアルクェイドは不満そうに俺を睨んで、ごろん、とこっちに転がってきたかと思うと、
「……………」
　固く口を閉ざしたまま、やる気なさげに立ち上がった。
　……拗ねているようだが、とりあえず傷口を見ていい、というコトらしい。
「よし。……どんな手当てをしたのか、ちょっと見せてみろ」
「…………」
　アルクェイドは服をたくしあげて腹部をあらわにする。
「――――――バ」
　怒鳴りたいのを必死に<堪|こら>える。
　傷口はおろか、腹を覆うほどグルグルに貼り付けられたガムテープ。
　服を元に戻して、アルクェイドを抱きかかえる。
「ちょっ――何するのよ、志貴！」
「ベッドに寝かすんだよ。病院に連れていきたいのは山々だけど、そういう訳にはいかないだろ」
　そのまま、できるだけ静かにベッドに寝かせた。
「いいか、俺が戻ってくるまで絶対に動き回るなよ。
　さっきみたいに歩きまわったら、おまえのコトなんて忘れてさっさと逃げるからな！」
　部屋の中を見渡す。
　……思った通り、救護セットとか、傷の手当てができそうな物はない。なにしろ勝手に生き返るヤツだ。
　こういった事態そのものが初めてなのかもしれない。
　俺の今の手持ちは……現金で二千円……かぁ……。
「……いや、見栄を張ってる場合じゃない。
　アルクェイド。おまえ、金持ちだって言ったよな」
「う、うん、お金には不自由してないけど、それがなによ」
「現金でもカードでも、とにかく貸してくれ。手当てに必要な物を買いこんでくる。
　……おまえに効果があるかどうかは分からないけど、最低限の手当てぐらいしよう」
「いいけど、無駄かもしれないよ？」
「無駄でもやるんだ。そのまま放っておけるもんか」
「……わかった。わたしも体の作りそのものは志貴たちと同じなんだし、それなりに意味はあるかもしれないし」
　はい、と数枚の一万円札を差し出すアルクェイド。
　……どうでもいいけど、いま、何もないところからポンっと出なかったか、その札束。
「おまえは黙って横になってろ。あ、でも眠っちゃだめだからな。横になってもちゃんと起きてるんだぞ」
「むっ……志貴、すごく無茶な注文してるよ、それ」
「無茶だけどやれ。眠ると体の機能は低下する。免疫力とか抵抗力な。
　なんで、傷が塞がっていないまま寝るとますます悪化するんだそうだ。
　睡眠で回復するのは頭の疲れだけで、傷や病気は治してくれないだろ。だから、とりあえず手当てをするまでは起きていた方がいい」
「―――へえ。うん、それってその通りよ」
　アルクェイドは嬉しそうに笑う。
　……やっぱりこいつの思考回路は理解しがたい。
「……あのさ。なんで笑うんだよ、そこで」
「だって、志貴が頼りになるんだもん」
「…………」
　調子が狂う。
　何か言い返してしまいそうな自分を抑えて、今やるべきコトに専念する。
　まずは部屋を出て、血で汚れた上着を脱いで、
　買い物に―――
　……と。
　外に出ようとして、台所にあるものに目が向いた。
「―――<飯|メシ>だ」
　テーブルには、その、食事というよりは飯、飯というよりは食料、という表現がぴったりな『食べ物らしきもの』が用意されていた。
　アルクェイドが台所にいたのは、ようするにコレのためか。
　アルクェイドは普通の食事を摂らないといった。
　これが誰のために用意されたものか、考えるまでもない。
「ああもう―――なんなんだ、あいつ」
　イライラする。
　あんまりにイライラするものだから、せめて一秒でも早く、応急手当が出来そうなモノを買ってこようと走り出した。
　とは言っても、こんなのは俺だって初体験だ。
　応急手当とは言ったものの、思いつくのは、消毒薬、傷口を塞ぐガーゼ、包帯、鎮痛剤ぐらい。
　あとは栄養。とにかく栄養をとってもらわないと。
　幸い、資金だけはたんまりとある。
　素人考えだろうと、何も無いよりはあった方がいい。何があいつの助けになるか分からないんだから。
　そう信じて、思いつく範囲のものを買いあさった。
「ちょっと、そこ、くすぐった～い！」
「……………」
　緊張感の無い声を無視して、出来るだけ繊細にガーゼをあてがう。
　アルクェイドの腹部の傷はそう大きなものではなかった。
　……いや、深さ四センチもの裂傷が横一文字に走っているのは人間なら致命傷なんだろうが、アルクェイド曰く、
『こんなの、ぜんぜんたいした事ないからねっ！』
　なんだそうだ。
　どうやら内臓はそのうち勝手に治るらしい。あまりに常識外なのでそのあたりは話題にしないよう聞き流す。
　出血は止まってあとは傷口を塞ぐだけなのだが、そこから先が思うようにいかないのだとか。
　ここまで大きな傷口だと逆効果かもしれないが、細菌による感染を考慮して、消毒薬を塗っておく。
　沁みるので暴れるかと思われたが、アルクェイドはまったく動じなかった。むしろ
『ん？　いま何かしたの？』
　という鈍感……いや、頑丈さである。
「……よし」
　傷口にガーゼを貼って、包帯を丁寧に巻いていく。
「あははは、ちょっとやめてって、志貴ってば上手すぎー！」
　何が楽しいのか、アルクェイドは陽気に笑っている。
　消毒薬ではびくともしなかったクセに、包帯はくすぐったいらしい。
「…………」
　無視して包帯をピンで留める。傷口はややきつく縛ると止血できるというので、最後はきゅっと力をいれた。
「―――いたっ。もうっ、いまのは減点だよ、志貴」
「……………」
　ふう。とりあえず、俺に出来る事はこれで終わりだ。
　ちなみに、アルクェイドに気を遣ってカーテンはもう一度閉めておいた。
「……さて。格好だけはつけてみたけど、どうかな。
　動けるか、アルクェイド？」
「ええ、動く分には問題なさそう。中身はまだグチャグチャのままだから、満足には動けないでしょうけど」
「そうか。ま、それはそっちの方でなんとかしてくれ。
　俺は切るのが専門で、治すのは管轄外だ」
　アルクェイドから離れて、壁際に腰を下ろす。
「お疲れさん、もう寝ていいぞ。
　眠って力が戻ればすぐに治るんだろ？　見張っててやるから、おとなしく寝ていてくれ」
「ううん、寝ても傷は回復しないわ。志貴も言ったでしょ、睡眠で回復できるのは疲れだけだって。
　わたしの場合ね、力は純粋な時間経過で回復するものなの。夜になれば、とりあえず普通に動けるぐらいには回復するわ」
　そうは言われても、辛そうなアルクェイドを見ているのは、精神衛生上よろしくない。
「―――いいから眠ってくれ。
　今のおまえ、話しているだけで辛そうじゃないか」
「そうだけど、せっかく志貴が起きてるんだもの。
　眠るのがもったいなくって」
　アルクェイドはベッドに腰をかける。
　完全にお喋りモードだ。
「―――ったく」
　仕方ない。
　こっちも聞いておきたい事があるし、もう少しアルクェイドに付き合おう。
「アルクェイド。昨日のホテルのこと、訊いていいか」
「……そうね。やっぱりそういう会話になるわよね、わたしと志貴の場合」
「昨日のあいつ……ヴローヴとか言っていたけど、あいつは一体なんなんだ。
　吸血鬼なのは分かる。仰々しい服とか、おまえよりよっぽどらしかったからな。けど―――」
　あの青色の炎。廊下に充満し、人間だけを燃やすあの火はなんなのか。あれは吸血鬼のイメージとはかけ離れすぎている。
「む。わたしよりらしいって何よ、らしいって。
　……でも、確かに志貴の言う通りか。
　あいつ、体も崩れていないし原理も小規模だったし。人間が思い描くオーソドックスな吸血鬼なんでしょう。
　―――あの炎の河をのぞけば、ね」
「それだ。……やっぱり、おまえから見てもあの火は異常なのか？　あいつはおまえより強い？」
　……と。アルクェイドのヤツ、とんでもなく露骨にため息をこぼしやがった。
「そりゃあね。誰かさんに殺されてしまったわたしは、あんな二流の死徒と“戦い”をするレベルまで落ちてるわよ。
　今のわたしとヴローヴの<存|ス><在|ケ><規|ー><模|ル>を比べるなら、あっちの方がやや上ってところ」
「……そ、そうか。
　普段のアルクェイドなら、なんとか倒せる相手なんだ？」
「なんとかって、普段なら戦いになんてならないっ！
　もう、誰のおかげでこんな屈辱に耐えていると思ってるの？　あんな祖になりたての見習い、ホントなら睨むだけでぺしゃんこにできるんだからねっ！」
　お、怒られてしまった……。
　しかし今は、そんなたらればの話を知りたいんじゃない。
　現実問題として、アルクェイドはあの吸血鬼を倒す事ができるのかどうかを知りたいのだが……。
「できないわ。今はヴローヴの方が上だもの。
単純な性能で下回っているんだから、無策で戦えば殺されるわ」
「ず、ずいぶんきっぱりと言うんだな。さっきはあんなに怒ったクセに」
「ただの事実よ。判りきった話なんだから、予断も希望も挟まないわ」
　……言われて、少し気圧された。
　こと戦いにおいて、アルクェイドは徹底してシビアな思考回路をしている。
　その冷徹さを目の当たりにすると、今さらながら、こいつも吸血鬼なのだと再認識する。
「まあ、志貴の言いたい事も分かるけどね。
　あの炎は確かに厄介だし、ヴローヴ本体の力も“城主”に相応しいものだし。
　わたしに少しでもアイツの知識があれば、多少の戦力差は覆せるんだろうけど……」
「アルクェイドはアイツを知らないのか？」
　自分から、その“城主”とやらを殺しに来たのに？
「わたし、吸血鬼に知り合いはいないわ。
　知り合ったという事は、次の瞬間に『殺している』という事だもの。今回みたいに顔を合わせたのに別れた、なんていうのは特例よ」
「……ふうん。でも、アイツの方はおまえを知ってるようだったけど」
「初対面よ。わたしは吸血鬼たちに知れ渡っているから、あっちが勝手に知っていただけ。他の吸血鬼たちも同様。基本的にわたしたちに面識はないから。
　でも名前や素性だけは知っている。歴史を重ね、特異な能力を保有する個体ほど名前が知れ渡るのは当然でしょう？」
「ヴローヴはその逆、まだ銘もつけられていない新参者なんでしょうね。たぶん、<祖|そ>になって二百年ぐらいかな？」
「またその単語か。祖ってのはなんなんだ？」
「んー、まあ、吸血鬼たちの王さまみたいなもの、かな。
　志貴には関係のない話よ」
「関係あるだろ。ようは城主ってヤツのことか？
　あのゾンビたちを操ってる親玉というか」
「城主と祖は必ずしも同じじゃないわ。
　強力な死徒ほど城主になりやすいだけで、城主はいわば地方領主みたいなものなの。
　祖はその上……領主たちを輩出する、さらに上の吸血鬼」
「死徒たちの世界は二十七の勢力に分けられているの。二十七の国があると思えばいいわ。
　その国を統べる、あるいは国そのものとされるのが<祖|そ>と呼ばれる<旧|ふる>い吸血鬼。死徒の頂点に立つモノ達よ」
　……二十七つの国。その王さま。
　なるほど、吸血鬼たちも生きているなら国も持つし勢力争いもするだろう……って、
「待てよ。それ、とんでもない相手ってコトじゃないか!?」
「まあ、そうね。
　ヴローヴはまだ未熟者だけど、それでもあなたたち人間から見れば災害と変わらない」
「昨日のホテルもそうよ。あいつは一階から最上階までやってきただけだった。人間なんて殺す気はなかったし、心底どうでもいい存在だった。
　でも、それだけで人間は死ぬ。あの炎はあいつがいるだけで発生する呪いのようなものだから」
「な―――」
　なんだ、それ。
　いるだけで人間を殺す？
　人間なんてどうでもよかった？
　じゃあ、あのホテルの惨劇は、
「……俺たちがホテルに逃げたから、起きた事なのか……？」
「ええ。わたしがいたからヴローヴはやって来た」
　……アルクェイドは断言した。
　ホテルの人間を殺したのはヴローヴでも、その災害を呼びこんだのは自分だと。
「……………、っ」
　“おまえのせいだ”とアルクェイドを糾弾するのは簡単だ。人間としてそれは正しい。だってコイツは、人間の命をなんとも思っていない。その点でヴローヴと同じ怪物だ。
　……だが。そのアルクェイドがホテルに逃げこむ理由を作ったのはどこの誰だったか。
“おまえのせいだ”……？
　ああ、確かにその通りだ。
　ホテルの人々がヴローヴという災害に巻きこまれたのも。
　アルクェイドがこんな目に遭っているのも。
　すべては、彼女を殺した俺のせいだ―――
「志貴。同じ間違いは繰り返さないで。
　弱い生き物から消えていくのは当然の事でしょう。
　彼等が死んだのは、いつのまにか自分の身を守れないように進化した、人間という種全体の責任よ。
　人が人を殺したというのなら、確かに人間社会での罪になる。けれどこれは人間と人間外のものに起きた自然淘汰の一環よ。あなた個人の責任なんて思うのは<傲慢|ごうまん>だわ」
「傲慢って……俺が……？」
「ええ。あなたが人間の代表ならそれでもいいけどね。
　いい、たとえば山の話。
　そこには肉食獣たちのコミュニティがあった。カレらの食事には人間も含まれていた。そしてある日、その事実をまったく知らない人間たちがやってきて、カレらを残らず、自分たちの営みの為に全滅させた」
「この場合、どちらに罪があると言うの？
　人間から身を守れなかったカレら？
　それとも、カレらを皆殺しにした人間？」
「―――それは―――」
　自己嫌悪に陥りかけた思考が停止する。
　アルクェイドのたとえ話は、俺を気遣ってのものではない。むしろ軽蔑してのものだった。
　罪の所在。命の重さ。それらを省みずには居られない、<人|お><間|れ>の偽善を<糾|ただ>している。
　……彼女はこう言っているのだ。
　人間にも、<獣|カレ>らにも罪はないと。
　ただこの自然界において、
　自己の生命を維持できない種が、絶対的な悪なのだと。
「……でも、ここは」
　人間の社会だ。人間の都市だ。
　人間が弱すぎたから、吸血鬼が強すぎたから、という話じゃない。
　都市とは単体では生きづらいから、集団になって個々を守る人間の防衛機能だ。
　そこに吸血鬼なんてものを呼びこんでしまった俺の責任は、やっぱり、問われてしかるべきもので―――
「……そう。わたしも間違ってたみたい。
　あなたは確かに、殺人鬼にはなれない人ね」
「……なんだよ、その言い方。
　俺が甘いって言うのか」
「それ以前の問題。だからここでハッキリさせましょう。
　志貴、あなたはこれからどうするの？
　吸血鬼と戦う？　それとも逃げる？
　好きな方を選んで。わたしはもう強制はしない。見張り役の約束は、昨日一日で完了よ」
　どうするのか、だって……？
　そんなの、決まって―――
「でも覚悟をして。吸血鬼と戦うということは、人間の枠から外れるということ。
　<人間|あなた>たちがどれだけ犠牲になっても、それを自分とは関係のない事だと思えなければ、あなたは必ず破綻する。
　それが間違っていると思うのなら昨日までのあなたに戻りなさい。それが人間という種の、一番正しい在り方だから」
　……アルクェイドの視線が刺さる。
「………………」
　……分かっている。
　人間としてまともな生活に戻りたいのなら逃げるべきだ。
　俺はそれでいい。俺にとっては、それが一番の選択だ。
　でも、
　アルクェイドにとっては？
　いや、アルクェイドの事より自分の事だ。
　ここにいたら―――アルクェイドに関わっていたら、間違いなくアイツと出会う。
　アイツは異常だ。
　吸血鬼だとか炎だとか、そんなこと以前に、あの眼は常軌を逸している。
　感情が死んでいる。
　あらゆる事に冷めきっている。
　だから、人間はおろか、<吸|な><血|か><鬼|ま>の命さえどうでもいい。
　アイツの前にもう一度立つなんてあり得ない。
　一度殺されかけた俺自身が、なによりそれを実感している。
　―――断る。
　だから断るべきなんだ。
　どう考えたって、俺にどうにかできる相手じゃない。
「―――アルクェイド、俺は――――」
　だが、それで<お|・><ま|・><え|・>は正しいのか。
　たとえばこの女を見捨てるのか。
　自分のせいで。遠野志貴のせいで、満足に動けないこの女を見捨てるのか。
「――――俺は――――」
　逃げるのか。
　あんな―――大勢の人間を、無慈悲に、容赦なく、何の興味もないクセに燃やし尽くした、あの化け物から逃げ出すのか。
　見なかったふりをして、自分だけ生き残っておいて、何の良心の呵責もなく逃げるのか。
「―――――、っ―――」
　自分にだけ視える死の線。
　この両眼は、本当に必要になる時があるから備わったと、大切な人に教えられた。
　……なら、答えは決まっている。
　迷いも不安も振りほどけず、何ができるのかも分からない。
　それでも―――<何|・><を|・><し|・><た|・><く|・><な|・><い|・><か|・>だけは、こんな俺にだって言える筈だ。
「―――志貴？」
「……アルクェイド。おまえの話は、俺には分からない。
　どんなに相手が違う生き物だとしても、どんなに俺が無力だとしても、責任は同じなんだ。俺はやっぱり、多くの人を見殺しにしたし、多くの人を見殺しにするのはイヤなんだ。
　……だからいまさら、自分だけ逃げるなんて、できない」
　はあ、と天井を見上げて、大きく息を吸いこむ。
　幸い、覚悟はそれで固まってくれた。
「―――吸血鬼を倒す。
それがあのホテルにいて自分だけ生き残った、俺が取るべき責任なんだと思う」
　自分に言い聞かせるように返答する。
　アルクェイドは一度だけ、まるで自分を責めるように、重苦しく嘆息した。
「そっか。じゃあわたしは何も言わない。
　志貴が一緒に戦ってくれるのは助かるしね。あなたならヴローヴなんて問題なく一撃で“殺”せるんだから」
「……いや、それは無理だろ？
　あいつのまわり、熱くて近づけないんだから。
　それ以前にどうやってアイツを見つけるんだ？」
「見つけるって……志貴ってほんと極端なのね。逃げないって決めたら、今度はこっちから攻めに行こうだなんて」
「な、なんとなくそう思っただけだっ！　極端の化身みたいなおまえに言われたくないっ」
「わたしは効率重視なだけよ。
　……まあいいわ。言っておくけど、ここからは持久戦だから。
　一番確実な戦法は、わたしの体力が戻りきるまで逃げること。
　あと三日もすればわたしの規模は三割ぐらいまで回復する。それだけの出力があれば、わたしひとりでもヴローヴを倒しきれる」
「三日……？　いや、でも」
「ええ。その三日間、ヴローヴは野放しよ。アイツは地下に潜って人間から血液を補充する。……ううん、それだけじゃない。あの様子からすると夜の街を徘徊するかもしれない。
　アイツ、正気が欠けていたし。姿を隠さないと教会に狙われる、なんて<定石|セオリー>、頭にないのかもね」
「それは駄目だ、アイツはいるだけで炎をまき散らす怪物なんだぞ!?　一日だって放っておけるか！」
「なら昼間のうちにヴローヴを見つけて、殺すしかない。
　でもそれには反対よ。大まかな場所は目星がつくけど、睡眠中の死徒ほど用心深いものはないわ。今のわたしたちじゃ返り討ちになる可能性の方が高いもの」
「そんな。ヤツの居場所に目星がついてるのに、むざむざ見逃すっていうのか……？」
「ええ。言ったでしょう。人間が何人ヴローヴの餌食になろうと、わたしには関係のない話だって」
　……息を呑む。
　アルクェイドの言い分は分かる。
　安全策……いや、確実性をとるのなら、今はこいつの傷の回復と、体力が戻るのを待つべきだ。
　しかし……その代償として、俺たちがここで時間を潰せば潰すほど、犠牲者は増えていく。
　俺は―――
「――――――」
　本音を言えばヴローヴは１秒だって野放しにできない。
　……けれど、それはあまりに無謀すぎる。
　今からヤツを捜しだして倒す？　話にならない。
　そんなのは自分の負う罪悪感を軽くしたいだけの、無責任な現実逃避だ。
　……今は冷静にならないと。
　本当にあの吸血鬼を倒したいのなら。
　本当の意味で犠牲者を減らしたいというのなら、今はここで耐えるしかないと理解できる。
　それでも―――それでも、三日は長すぎる。
「……アルクェイド。
　俺が見張りをする義務は、昨日で終わりって言ったよな」
「言ったけど……なによ、やっぱり怖くなった？」
「いや、そうじゃないんだ。ここからは義務じゃなくて協力になるんなら、俺の頼みも聞いてほしい。
　俺はおまえの言う通りにする。おまえの指示に従う。盾……は無理でも、ナイフぐらいはこなしてみせる。
　だから、その代わり―――」
「その代わり？」
「―――三日は待てない。今夜、ヤツを誘い出そう」
「えっと……あなた、本気？」
　死にたいの？　とアルクェイドは呆れている。
　危険なのは百も承知だ。それでも譲れない一線がある。
「冗談でこんなこと言い出せるか。
　俺だって死にたくない。だから聞かせてくれ。今夜まで休んだおまえと、俺の眼で、ヴローヴは倒せるか？」
　それを計れるのはアルクェイドだけだ。
　だから……こいつが出来ると判断するのなら、後はその可能性に賭ける。
「……そうね。志貴がわたしの言う通りに動いてくれるなら、わたしたちの方が強いかな。
　でも、それでいいの？　三日、待った方が安全だよ？」
「……分かってる。でも、これが俺のぎりぎりの許容範囲なんだ。それ以上は精神が持たない」
「ふーん……まあ、それならいいけど。
　正直に言えば三日間逃げきれる可能性も低かったし」
「じゃあ今から路線変更、作戦会議ね。
　志貴はどこで戦いたいの？」
「え？　いや、その……いいのか？」
　思わず聞き返してしまった。
　こと戦いにおいてシビアなアルクェイドが、こんなあっさり俺の我が儘を聞いてくれるとは思わなかった。
「<そ|・><れ|・>ならいいって言ったでしょ。
　わたしが三日間逃げ切れるのか、今夜わたしたちでヴローヴを殺すのか。
　どちらも同じ成功率だもの。違うのはあなたの生存確率だけよ」
「……そっか。ありがとう、アルクェイド」
「わたしとしてはお勧めできないけど。
　ほんっと、志貴ってわかんない」
　俺は自分からヴローヴを倒せる可能性を狭めた。
　効率、確実性を重視するアルクェイドが呆れるのも当然だ。
　それでもアルクェイドは『否』とは言わなかった。
　俺の気持ちを尊重してくれたのか、それとも勝算的には変わらないからなのか。
　まあ、どちらであっても了解してくれたのはありがたい。
「じゃ、ちょっと小休止ね。
　お腹減ってるでしょ、志貴？　さっきのおかわり、いる？　新しいの作ってあげよっか？」
「―――
いや、自分で作るから。
　冷蔵庫の食材だけ好きに使わせていただきます」
　一目見ただけで評価するのは申し訳ないが、あんな、ごろっと素材の旨みだけを活かした料理を平らげる図太さは持ち合わせていなかった。
　コンディションが万全ならあるいは……と一瞬だけ考えたが、やっぱりない。
　ヴローヴという危険は回避できないが、こちらの危険は回避しておこう。
　簡単な食事を済ませて、アルクェイドとの会話を再開する。
　ともあれ方針は決まった。あとは作戦を練るだけだ。
　問題はあの炎だろう。
あれをどうにかしないかぎり、俺もアルクェイドも近寄れない。
「……やっぱり奇襲しかないよな。
　アイツはおまえが目的っぽかったし。アルクェイドには囮になってもらって、ヴローヴをおびき寄せる。
　俺は事前に隠れていて、アイツがおまえに気を向けている隙に背後から襲いかかる……とか？」
　大雑把な案だけど、これぐらいしか思いつかない。
　あの炎の中でどうやって近づくか、という課題も残っているが……。
「うん。基本はその流れでいいと思う。
　わたしがオトリ、志貴がトドメ。志貴ならヴローヴがどれだけ命のリザーブを持っていても関係ないしね」
「……他にも問題はあるぞ。
　俺はともかく、おまえはアイツと正面から向き合うんだ。あの手みたいな炎はどうするんだ」
「？　それは問題じゃないよ？
　一度受けてみてヴローヴの炎は3000℃程度って判ったし。今から体を耐熱仕様に作り直しておけば耐えられるわ」
「は……？」
　いや、3000℃を“程度”って、おかしくないか？
　岩でも熔ける温度だよな、それ？
「周囲の炎はもっと簡単。
　アレは地表にかかっているだけの軽度の汚染だから、志貴が物陰から出る時、ちょっと気合いを出して吹き飛ばしてあげる。
　ホテルの時は志貴が後ろにいたからできなかったけど」
　気合い……気合いですか。
　ずいぶんとイージーかつ適当なニュアンスを感じるのだが、事実、あの時はこいつに助けられていた。
「うん、だいたい決まりね。
　まずわたしが<餌|エサ>になってヴローヴをおびき寄せる。志貴は事前に隠れておく。
　それで、ヴローヴがやってきたらちょっとだけ戦う。
　今夜のわたしの体力じゃヴローヴは倒しきれないけど、周囲の炎を消し飛ばして、動きを抑える事ならできる」
「動きを抑えるって……具体的には？　まさかおまえがあいつに掴みかかって、上から組み伏せる……とか？」
「そんな野蛮なコトいたしませんっ。
　直接組み伏せるとか無駄すぎるし。今まで一度もしたコトないし。する必要性が感じられないし」
「そ、そうか。じゃあどうやってヴローヴを抑えこむんだ？」
「場所によるけど、基本的には鎖かな」
「鎖……？　鎖って、あの鎖か？」
「ええ。ほら、こんな風に」
「!?」
　な、なんだこれ、いきなり両手が鎖で縛られてる……!?
　それ以前に、どこから出てきた<鎖|これ>!?
「空中の元素を固定化したものよ。わたし、そのカタチはイメージしやすくて相性いいの。
強度は……んー、今なら一本あたり100トンぐらいまでかな？　とにかく何十本と重ねがけするから、動きだけなら封じられる」
「鎖の拘束は手足をメインにして胴体と頭は控えめにするから、志貴はヴローヴの胴体の“死”を切ればいい」
「っ……わ、わかった、わかったから、これ、解いてくれ。とれる。ヴローヴの前に、俺の両手が、もげる」
　突如現れた鎖は空気に溶けるように薄くなり、消えていった。
　……改めてアルクェイドのとんでもなさを実感する。
　けど確かに、今の“鎖”を自由に出し入れできるのなら、ヴローヴを一時的に拘束できるだろう。
「……えっと、とにかく！
　わたしは戦いになったら隙を見て、縄状のものでヴローヴの手足を縛る。
　完全に動きを封じられるのは10秒ぐらいだから、そうしたら志貴は物陰から飛び出して、正面からまっすぐ、最短でヴローヴの線を断てばいい。
　大丈夫。志貴の腕ならあっけないぐらい簡単に殺せるわ」
「………正面からって、おまえ………」
　アルクェイドは事もなげに言うけど、こっちとしてはやっぱり不安だ。
「いや、経験していない事を目算に入れるのはやめよう。
　やっぱりさ、俺がなんとか背後から近づいて、アイツの手足の『線』を切るよ。そうすれば、とりあえず自由を奪う事になるんだから―――」
　アルクェイドがアイツと『戦う』必要はなくなる。
　まず戦う、という選択は、俺の奇襲が失敗してから選べばいい。
　そう思ってアルクェイドの顔をうかが―――……
「―――志貴。それじゃ、あなたは死ぬわ」
「え―――？」
「これはどう行動すれば安全なのか、の話じゃない。
　どうすれば死なないのかじゃなくて、どうやって殺すかの話でしょう」
「それは―――そうだけど」
「あなたはこれから吸血鬼を相手にするのよ。
　なら、今夜だけでも人間の道徳観念は捨てて。そんな荷物を持っていると、いざという時に体が重くなるだけだから」
「……それぐらい分かってる。相手が化け物だから、俺だって手伝う気になったんだ」
「いえ、志貴は解っていない。
　手足を切る？　やめてよ、そんな自殺行為。手足を切る暇があるのなら、まず命を切りなさい。他の生き物ならともかく、あなたにだけはそれが出来るんだから。
　いい？　ヴローヴには反撃の機会を与えないこと。志貴の利点は“相手に正体が知られていない事”だけなんだから」
　アルクェイドの目が、俺に否定を許さない。
　……赤い瞳はこう断言している。
“初撃を外せば、遠野志貴に次の選択はない”と。
　……たしかに。
　彼女の言う通り、まず手足を切る、なんて悠長な真似をしている間に、俺の体は燃え尽きている―――
「ヴローヴは夜になればやってくる。
　その時にわたしたち―――いえ、わたしと志貴であいつを、これ以上ないっていうカタチで『殺す』の。
　どう生き延びるかじゃない。
　どう『殺す』のか、それだけを考えなさい」
　アルクェイドは<凶|まが>った眼で、まっすぐにこちらを見据える。
　……彼女は本当に怒っている。
　俺が、遠野志貴が、まだどこかで甘い考えを持っているという事を。
「―――わかった。俺はためらわない。
　一息でヤツの線をぜんぶ切る。
　それでいいんだろう、アルクェイド」
「……………」
　アルクェイドの視線は険しいままだ。
　……何も返さないという事は、一応は納得してくれたんだろう。
「でも、どこで待ち受けようか。
　このマンションじゃホテルの時と変わらない。<人気|ひとけ>が無くて、俺が隠れられるようなところは……」
「この街の中央公園が最適よ。深夜になれば人通りはないんだし。
……それでも通りかかってしまう人がいたのなら、それは純粋に、その人に運がなかっただけの話でしょう」
　アルクェイドは背中を向けて、俺から視線を逸らした。
「……なんだよ。言いたい事があるなら言えよ」
「無理よ。結局、志貴は一度も『殺す』と口にしてくれない。
　このままだと最後の瞬間で、あなたはきっとためらう。それで、あっけなく殺される」
「……そんなコトあるもんか。相手は百人以上の人間を殺した化け物だ。殺す事にためらいなんて、あるはずがないだろう」
「―――――――」
　小さく、アルクェイドはため息をついた。
「……志貴を魔眼で魅了してしまえば確実にヴローヴを仕留められるのにね。どうしてかなあ、初めてそういう気になったのに、初めて、そうするのがイヤになっちゃった。
　なんか、すごい矛盾」
「志貴を信じるわ。二人でヴローヴを倒しましょう」
　暗い声から一転して、明るい口調で振り向くアルクェイド。
　……どうしてだろう。
　あんなに信頼に満ちた<瞳|め>を向けられているのに、それは、ひどく不安げな笑顔だった。
「……まあ、間違いでもねえ。
　本当はペアがいいんだけどよ。女ふたりか、男と女」
「いいじゃん、オタク君大歓迎！
　ここんところ挑戦者いなかったから困っててさー！　実入りがないと殺されちゃうんだよね、オレたちも！」
　ケラケラと笑いながら、ハルと呼ばれた男が背後に回ってくる。
　俺を逃がさないように退路を塞いだのだ。
「オーケー、たまには男ひとりでも許されるだろ。
　アルバイト会場に連れて行ってやるよ」
　ハルと呼ばれた男がエレベーターのボタンを押す。
　暗闇に駆動音が響く。
　ここだけは電気が通っているようだ。
「入れ」
「…………」
　……このままエレベーターに入っていいものか。
　中に入れば密室だ。
　男ふたりに取り押さえられたら、俺の腕力では抵抗できない。
　……慎重になろう。
　ここは、
１．もう少し話を聞き出す。　^@t２．辞退する。　　　　　　　
「っ……！」
　不意の衝撃で意識が飛んだ。
　脳の<視床下部|ちゅうすう>が機能不全を起こし、
　手足を操縦する自律神経が断線する。
「シャア！　ストラーーーイク！」
　……背後からはしゃぐ声がする。
　後頭部を、バットのようなもので殴られた。
「めんどくせえ。
　ここまで来てヒヨッてんじゃねえよ、クソが」
　……エレベーターが下降していく。
　朦朧とした意識の中、『Ｂ１』のボタンが光っているのが見て取れる。
　……Ｂ１……地下一階……地下の、駐車場に連れて行かれる……？
　……くそ。
　意識はしっかりしているのに、視界はぼやけている。
　そんな命令はしていないのに、手足がバタバタと上下に動いている。
　倒れ伏した自分の顔には、ぬめりとした、気色の悪い感触が。
　エレベーターが開くなり、強烈な光に照らされる。
　<眩|まぶ>しくて外の様子が判らない。
「降ろすぞ。手伝え」
「うへぇ、ＰじゃなくてＭに直行かよ！　トシ容赦ねー！」
　……二人組は俺の体を持ち上げ、エレベーターの外に運ぶと、床に置いた。
　放り投げられるかと思ったが、そこは不思議と丁寧な作業だった。
　……足音が遠ざかっていく。
　……二人組はエレベーターに乗って、この場から去って行った。
「―――、――――――」
　何にせよ助かった。
　まだ命はある。重傷だが致命傷じゃない。
　ここが何処だかは分からないが、あと数分もすれば手足の麻痺も治まって動けるようになる。
　そうすれば反撃できる。
　次は油断しない。あの二人組のうちひとりを捕まえて、今度はこっちが事情を聞き出して―――
「―――え？」
　唯一、生きていた意識が凍りつく。
　なんだここは。
　　　　　―――粘膜のような空気。
　なんだここは。
　　　　　―――脂と肉と血の臭い。
　なんだここは。
　　　　　―――いくつもの鉄格子と、生きた死体。
　なんだここは……？
　地下駐車場じゃない。
　地上のどこでもない。
　こんな肥だめのような風景が、俺たちの街にある筈がない。
「は、ぁ―――」
　何かがやってくる。大勢の足音が聞こえてくる。
　頭痛がする。
　吐き気がする。
　足音が近づいてくる。
　ここにいては襲われるだけだと本能が悲鳴をあげる。
「あ、ぁ―――」
　脚はまだ動かない。
　ヒタヒタと、ズルズルと、腐った肉を引きずりながら、大勢の何かがやってくる。
「あああああ―――！」
　動かない。動かない。
　泣きながら力をこめても、両脚はぴくりとも動かない！
「くぅ、あ、ぁ―――！」
　手で血と糞にまみれた床を這う。
　もうなんでもいい、どうでもいい。
　一刻も早くここから消えなくてはいけない。
　エレベーターだ。
　さっきのエレベーターまで戻れば、きっと元の世界に帰れる筈だ。
　急がないと。
　急がないと。
　早く、早く。
　大丈夫、間に合うはずだ。
　俺はきっと助かるはずだ。
　エレベーターに。エレベーターに。
　あの、ゴンドラのように空中に止まっていたエレベーターまで、手が届けば―――
　夜の９時を過ぎた頃、俺たちは公園に移動した。
「大事なコトだから、もう一度だけ説明しておこうかな。
　長く生きた死徒には、その在り方を武器にした“超抜能力”がある。
　吸血種に備わった基本的な能力とは別の、その個体が血を飲む事で持ってしまった“特別な呪い”みたいなものね」
「ヴローヴはその域に達している死徒よ。
　死徒を倒すという事は、その超抜能力を<破|やぶ>るという事。
　あの炎を消す手段を獲得しないかぎり人間に勝ち目はない。だから―――わたしがヴローヴの呪いを壊すまで、志貴はアイツに近づかないでね」
　計画自体はいたってシンプルだ。
　アルクェイドはここでヴローヴを誘き出す。
　なんでも生体波長とやらを隠さずにいれば、吸血鬼同士には互いの位置が丸わかりなのだとか。
　ヴローヴは自分の波長を隠していないらしい。
　その気がないのか、単に出来ないのかは不明とのこと。
　事実として、ヴローヴが近づいてくれば、アルクェイドは事前にこれを察知できる。
　一方、アルクェイドは波長を常時抑えているが、今は解放してヴローヴを挑発している。
　ようは<誘蛾灯|ゆうがとう>だ。
　アルクェイドという<灯|あか>りに、ヴローヴという<蛾|が>が誘われるのを待てばいい。
　あとは事前の打ち合わせ通り、
　俺は茂みに隠れて戦いを見守り、
　アルクェイドがヴローヴを鎖で拘束したら物陰から飛び出し、
　ヴローヴの『線』を切断する。
　アルクェイドに緊張した様子はない。
　退屈そうに虚空を見つめているだけだ。
「………………」
　けど俺はそうはいかない。
　つい、<懐|ふところ>に忍ばせた<短刀|ナイフ>を握りしめる。
　……わかっている。
　この作戦にはいくつかの不確定要素がある。
　一つは隠れている俺を、ヴローヴが察知している場合。
　この可能性は極めて低いとアルクェイドは言うが、それでもゼロじゃない。
　そうなれば俺の安全は保証されない。ホテルの時のように、何もできないまま焼かれる危険性がある。
　でも、それはいい。
　そのくらいのリスクは承知の上だ。
　問題はもう一つの可能性。
　もしアルクェイドがヴローヴを拘束できない……つまり、あいつがヴローヴにやられてしまう場合だ。
　……その時は、俺しかいない。
　ヴローヴを止めるのも、アルクェイドを助けるのも、このナイフ一本にかかっている。
　あの吸血鬼を。
　あの<劫火|ごうか>を、俺ひとりで、本当に……？
　それを思うと手足が震える。
　ナイフを持つ指先が、痛いほど柄を握りしめる。
　……言いようのない恐れ。
　それが何に起因するものなのか、俺自身把握できず―――
「怖いの、志貴？」
　気がつくと、アルクェイドのヤツが俺の正面に立っていた。
　……情けない。震えているのがバレたようだ。
「ああ、メチャクチャ怖い。あの吸血鬼が近づいてくるかと思うだけで泣きたくなる」
「？　志貴、泣いてないけど？」
「必死に我慢してんだよ。わかれ、バカ」
　ほんとに無神経なヤツである。少しはこっちの意地を分かってほしい。
「……………」
　しかし。
　なにが不満なのか、アルクェイドは俺の返答がお気に召さなかった様子だ。
「ところで、私もその吸血鬼なんだけど」
「ああ。知ってるよ、何度も聞いた」
「だーかーらー、吸血鬼である私が恐くないの？
　今までのあなたの定義からすると、生き物として嫌悪の対象になると思うんだけど」
「え？」
　……指摘されて、ちょっと驚いた。
　それはその通り……なんだけど……。
「なんか、おまえは別。だって血を吸った事ないんだろ。ならいい。吸血鬼だろうと何だろうと、俺たちに手を出さないでいてくれるなら、それでいいんだ」
「なるほど。そういう考えもありなんだ」
　納得がいったのか、ふーん、とアルクェイドは他人事のように流していた。
　時計の針が10時を指す。
　アルクェイドによれば、このあたりから吸血鬼の活動時間になるらしい。
　……ヴローヴが地上に出てくる。
　どこにヤツの根城があるのかは知らないが、目覚めたヴローヴはアルクェイドの気配を感知して、この公園を目指す筈だ。
「――――――正気？」
　アルクェイドの口調が変わる。
　激しい嫌悪をこめた呟きと共に、アルクェイドは北……駅のある方角を睨み付けた。
「アルクェイド……？」
「信じられない―――アイツ、本当に祖の<一角|ひとり>なの？」
　アルクェイドが見ている方角に視線を向ける。
　あれは……煙か？
　空に煙が上がっている。
　どこかで火事でも起き―――いや、待て。
　<火|・><災|・>だと……！？
「アルクェイド、あれ、まさか……!?」
「ヴローヴよ。無差別に人を襲ってる」
「正気が欠けている、なんて甘かった。アイツは死者と変わらない。血が足りなければ目の前の人間から補充するケダモノだった。文明社会―――この時代の人間のルールを、まるで把握していない」
　遠くで大きな爆発音がした。
　夜空に立ち上る黒煙は勢いを増していく。
　まずい。ホテルの時の比じゃない。人の集まる繁華街にアイツが現れれば、犠牲のケタが違う……！
「アルクェイド……！」
「分かってる。急ぎましょう、志貴」
　駅前に向かって走りだす。
　一体、何がどうなっていやがるんだ……!?
「“ォ……ォオオオ……オオオオオ！”」
　ソレは、強烈な痛みで目を覚ました。
　耳をつんざく苦悶。
　金属片をミキサーにいれたような衝突音。
　この世のものとも思えぬ悲鳴に、
　ソレの眷属たちでさえ戦慄する。
「“アア―――アアァ、アアアアアア―――！”」
　のたうちまわり、あばれまわり、周囲に当たり散らしても、ソレの意識から苦痛は消えなかった。
　指先からバリバリと皮膚が割れる。
　骨の芯から酸がにじみだし、体を内側から溶かしていく。
　心臓は数分の内に壊死し、そのたびに再生し、また苦痛をはき出していく。
　生きているかぎり終わらない拷問。
　解放される手段は死のみ。
　だがその救いすら、とうの昔に失っていた。
「“ァ―――ア、ア―――ォ、ギ―――”」
　死を手放したのは何の為か、覚えていない。
　死が遠のいたのは<何|い><時|つ>の頃か、覚えていない。
　ただ苦しい。寒い。痛い。熱い。怖い。
　頭にあるのはケダモノじみた叫びだけだ。
　たしか、何かを追いかけ、殺す為にこの土地にやってきた。
　己が領地に愛する<女|モノ>たちを残し、はるばる海を渡った。
　これが最後の機会。
　すべてを取り戻す為の、最後の機会だと覚悟して。
　しかし、最後の機会とはどのような<刻限|リミット>だったか。
　日々正気が失われていく己の頭か。
　日々呪いを増していく己の体か。
　遠い日に負った罪科を帳消しにする為か。
　思い出せない。既に多くを忘れてしまった。
　ただ、正気を取り戻す為、というのであれば手遅れだ。
　とうに正気は失った。いまさら<正|も><気|と>には戻れない。
　海を渡った時点で、溜め込んだ資産もその大半が流れ去った。もはや故郷には戻れない。この国を第二の領地にするしか生き続ける術はない。
「“ハ―――ァ、ァァ、ア、ア――――――！”」
　どうでもいい。そんな経緯はどうでもいい。
　今はただ血が欲しい。
　喉が凍っている。肌が渇いている。魂が<餓|かつ>えている。
　一刻も早く温かい血が必要だった。
　一刻も早くニンゲンの血を浴びたかった。
　自分がどこにいて何をしているのかなど、その欲求に比べれば心底どうでもいい疑問に成り下がった。
　暗闇を歩く。
　死者たちを引き連れて行進する。
　垂直に移動する箱を抜けて、光あふれる地上に這い出る。
　同時に。
　青い炎が、侵食する水のように広がっていった。
　その変化を、<染|し>みだした危険を察知した<動物|にんげん>はいなかった。
　青い霧に包まれた彼が、信号を無視して横断歩道にふらりとあらわれ、ワゴン車と衝突した時も。
　引き連れてきた屍鬼たちが、これといった<諍|いさか>いもなく通行人たちの肩を掴み、押し倒し、グチャグチャと音を立てはじめた時も。
　人々は驚きの声さえあげたものの、全力で逃げ出すものはいなかった。
　それが他人事でなく自分にも降りかかっている異常だと、気が付いた時にはもう、彼等の退路は失われていた。
　男を轢き飛ばした筈のワゴン車は、衝突した時点で中心から左右に裂けた。
　屍鬼たちに押し倒された通行人は、ものの１分でわずかな食い残しだけになった。
　既にこの区画に広がっていた炎は、逃げ出す人々の足を焼き、彼等を這い回るだけのエサに変えた。
　<阿鼻叫喚|あびきょうかん>の始まりである。
「“――――――なぜ、だ”」
　その中で、彼はかすかな理性を呼び起こしていた。
　<目映|まばゆ>い光に目を細める。
　苦痛によって塗りつぶされた思考が、
　それを上回る不快感で回り始める。
「“なぜこの街は、これほどに明るい。
　　汚物は<須|すべから>く隠すもの。
　　殊更に見せつけるのが、この土地の在り方か”」
　目前にはあふれかえる<果実|ニンゲン>たち。
　本来ならその<腸|はらわた>をさき、歓びと共に飲み干しているというのに、その意欲がまるで湧かない。
　たとえニンゲンで満ちていようと、これを肥沃な土地と言えるのか、と彼は吠えた。
「“人間は多い。血には困らない”」
　青い炎が死者たちを上書きする。
　屍鬼はまたたくまに炎に包まれ、その在り方を変化させる。
　炎によって駆動する火炎死者。
　能力は向上するが、その体は短命に燃え尽きる。
「“だが、この豚たちの血には、そそられない”」
　生理的な嫌悪が呪いを増殖させる。
　生命のみを燃やす青い炎が、アスファルトの道を埋め尽くしていく。
　炎の河が、<堰|せき>を切って流れ始める。
「“結論として、無意味だ”」
　炎に炙られた果実を踏み砕き、噴出する血液を忸怩たる思いで受け入れる。
　<反|ヘ><吐|ド>を浴びているに等しいが、仕方がない。
　反吐を浴びなければ動けない己が身の不遇を呪う。
「“この輝きも、繁栄も、おれには無意味だ”」
　燃え崩れる死体たちを引き連れ、行進を再開する。
　何を追っていたかは思い出せないが、
　思い出すまでにやる事が一つできた。
　こちらはこちらでやり甲斐のある仕事だと実感する。
　苦しんで死ね、とソレは<嗤|わら>った。
　肥え太った街には、無様な終わりが相応しい。
　街は狂躁に包まれていた。
　人で混雑したストリートを走る。
　駅前の火災はここからでも見て取れた。
　屋外ビジョンでは臨時ニュースが繰り返されている。
　総耶駅北口付近で起きた火災。
　電車は運行を一時停止し、繁華街を訪れていた人々は我先にと逃げ惑っている。
　屋外ビジョンで緊急ニュースを報道するキャスター。
　たったいま火の手から逃れてきた女子高生へのインタビュー。
“熱い、熱いの、ねえ、なんでこんな熱いの？”
“ユカが、友達が食べられた。アタシの腕も、なんか、”
“死んだのに動いているの、燃えてるのに笑ってるの……！”
　彼女の訴えは極限状態からの錯乱と処理される。
　火の手は今も拡大しており、近隣住民への避難まで呼びかけられていた。
　だというのに、大通りは人々で溢れかえっていた。
　興味に浮かされてここまでやってきた彼等は、遠巻きに、そこまで迫っている火災を観覧し、撮影し、身近な友人たちに情報を転送している。
「っ……！」
　駅前への道はすでに封鎖されていた。
　火災対策……いや、それにしては早すぎるし、なにより<人|・><員|・><が|・><多|・><す|・><ぎ|・><る|・>。
　あれじゃあ、まるで、中から逃げてくるものを、外に出さないよう見張っているようにさえ思える。
「くそっ……！」
　どちらにせよこれでは先に進めない。
「志貴、こっち」
　強引に手を引かれる。
　アルクェイドは有無を言わさず、俺の手を握ったまま人混みをすり抜けた。
「ちょっ、待てってば！
　こんなところに来てどうするんだ！」
　繋がれた手を振り払う。
　アルクェイドはビルの壁を見上げると、
「うん、これならいけそう。
　二人で飛ぶのは初めてだけど、この高さなら問題ないはず」
「は？」
　その動きに淀みはなかった。
　アルクェイドは俺の腕を押さえこむように掴むと、そのまま、
「上まで飛ぶわ。しっかり掴まってなさい、志貴」
　なんか、とんでもないコトを言い出しやがった―――！
「う、」
「うう、」
「うわああぁああああああああーーーーー!?」
　空を飛んでいる。
　いや、跳ねている。
　アルクェイドはビルの壁にジャンプし、張り付いてからさらに跳躍、反転を繰り返して、あっという間にビルの屋上……いや、上空まで舞い上がった。
　無論、傍らに俺を捕まえたままで。
「ちっょ、ま、おま、うわああああ……！」
　高い……！　というか怖い……！　いま地上何メートルだこれ、ビルより高いってコトは40メートル以上か!?　20メートルのコースターでさえ心臓が縮みあがるのにその倍、しかも本気で足場とかないんだけどーーー！？
「？　志貴、黙ってないと舌、噛んじゃうよ？」
　俺の悲鳴に首をかしげながら、アルクェイドは更なる蛮行に出た。
　ビルからビルへ、屋上をピョンピョンと跳ねていく。それこそ月面を跳ぶ兎のように。
「お、おお、おおおおおおおーーー!?」
　かつてない体験に顔が引きつる。
　一周回って逆に楽しくなってきた頃、アルクェイドはようやく跳躍を止めてくれた。
　街を一望する高層ビルの屋上。
　もともと人間が立ち入るよう設計されていない空中庭園に、俺たちは降り立っていた。
「っ―――おまえ、な、なんて無茶を―――」
　急激な上下移動で呼吸が乱れている。
　胸が苦しい。血液の循環の乱れが心臓に負荷をかける。
　気圧の変化こそないものの、体験した事のない急制動で全身が硬直してしまったからだ。
「見て。あそこよ」
「見ろって、なに―――」
　何を、と言いかけた声が止まる。
　高ぶっていた心臓の重みも、一瞬で忘れ去った。
　―――燃えている。
　俺たちの街が、見知った建物が、火の海に飲まれつつある。
「な――――――」
　視覚はさらに細かく惨劇を観測する。
　大通りは赤いヴェールに包まれている。
　炎は少しずつ、刃物で削るように、建物の輪郭を焼き崩していく。
　まさに炎の河だ。その中で、ヤツは食事を繰り返している。腹を満たそうと赤い血を浴びている。
　ヤツの前にはいくつかの人影がある。
　包囲網を組んでいるのは警官たちだ。
　彼らは拳銃を構え、一斉に発砲した。
「―――な―――」
　だがヤツは微動だにしない。
　警官たちの事なんて、きっと気がついてもいない。
　<怪物|ヴローヴ>の背後から、さらに人影が現れた。
　燃える死体。
　おそらく、つい数分前まで生きていた人々。今は動く死体になったモノたち。
　それは助けを乞うように、
　発砲する警官たちに歩みよって―――
「―――なんだ、アレ―――」
　喉から真っ白な<感|こ><情|え>が漏れた。
　目を背ける機会さえ失った。
　街を走っていた時にあった焦燥感も使命感も漂白された。
　いま、<人|オ><間|レ>の頭にあるものは純粋な<畏|おそ>れだ。
　アレが吸血鬼の本性。
　ただそこにいるだけで人間を殺すもの。
　今から俺たちが倒さなくてはならない相手―――
「……いないわね、教会の連中。
　ここまで見境なしならそろそろやって来る筈だけど……やっぱりこの国には赴任していない……？
　でも、その割にはきっちり交通規制はしているし……ここの代行者、実戦派じゃなくて制服組なのかしら」
　アルクェイドは炎の河を見ていない。
　こいつは俺とは別の、違うものを警戒しているようだった。
「さ、どうしようか志貴。
　見ての通り、ヴローヴはあの状態よ。わたしを探し出そうとする理性すらなかった只の殺戮者」
「あのまま放っておけばアイツは血を消耗して弱体化する。
　ヴローヴの存在規模からいってこの街は燃え尽きるだろうけど、その後ならわたしひとりでも倒せるわ。
　楽をして傍観をする？　それとも―――」
“他の<人間|いのち>を助けるために危険を冒す？”と。
　俺の答えなんて分かってるくせに、アルクェイドは最後の確認をする。
　それに、精一杯の意地で、震えを<堪|こら>えながら<睨|にら>みつけた。
「……はあ。うん、方針に変更なしなのね。
　これを見ても気が変わらないなんて、あなたもヴローヴのことは言えないかも。
　でもどうするの？
　わたしはこのまま始めても構わないけど」
　このまま始める……？
　戦う場所を移す……いや、場所を変えられるって事か!?
「なんとかできるのか、あの状況!?」
「うまくいけば。わたしも<人目|ひとめ>につくのは避けたいし」
「頼む……！　今すぐアイツをたたき出してくれ……！」
「了解、ならアイツごと底に落とすわ。
　あの下、なんか空洞みたいだし」
　……待て。下？　落とすってなんだ？
　いや、聞き返している暇はない。
　今は１秒でも早く、ヤツを街から排除しないと……！
「でも約束は忘れないで。ちゃんと後からついてきてね」
　驚きの連続で、思考がまったく追いつかない。
　あろう事か―――
　アルクェイドは俺を置いて、この屋上から、虚空めがけて跳躍した。
　それは、風に舞う白い花のようだった。
　屋上から投げ出された体を、大気の渦が受け止める。
　重力の鎖は<解|ほど>け、
　引力の<碇|いかり>は巻き上げられ、
　落下する筈のものが<緩|ゆる>やかに上昇する。
　あるいは風を受ける帆船のように、彼女は夜空と<戯|たわむ>れる。
　驚く事など何もない。
　その化身は<惑|ほ><星|し>の<嬰児|みどりご>にして<写身|うしつみ>。
　<地|は><表|だ>で起きる揺らぎのすべては彼女のもの。
　生命を育む自然の<恵|めぐ>みも、
　生命を潰す自然の<猛|たけ>りも、
　その体に備わった当然の権利である。
「よーし―――」
　美しい花が、月を仰ぐように身を切り返す。
　彼女の意識はソラから地上に向けられた。
　解いていた<鎖|くさり>を、巻き上げていた<碇|いかり>を地表に打ち付ける。
　眼下には火の粉を散らす石の<楼閣|ろうかく>。
「―――せーのっ！」
　夜空に咲いた花が、落下する星になる。
　月の花は自らを嵐と変えて、燃え盛る炎を吹き飛ばした。
　まさに人間ミサイルだ。
　アルクェイドは上空80メートルの高さからヴローヴめがけて落下した。
　いや、正確には飛行した。
　その後、空中で狙いと角度を定めて、ミサイルのように加速したのだ。
　噴き上がる土砂と瓦礫。
　巻き起こった風は砂埃を上げながら周囲を一掃する。
　繁華街全体に広がりつつあった炎の河は、その一撃で流れをせき止められた。
　遠巻きにヴローヴを包囲していた警官たちは吹き飛ばされ、その大部分が行動不能に陥っている。彼等は頭を打って昏睡した者と、突然の爆撃に戦意を失った者とに二分している。
　それも当然だろう。
「す、す、―――」
　なにしろ、<砂埃|すなぼこり>が晴れたらこれである。
　アルクェイドの急降下はヴローヴどころか地表を砕き、北口の一角―――繁華街の大部分を沈下させた。
“下に落とす”とはこの事だったらしい。
　深さ、実に40メートル以上の地盤沈下。
　壮大な自然の営みを見た気分だ。アマゾンの密林とか、ナイアガラの滝とか、そのレベルの雄大さ。
「少しは加減しろ、あのバカーーーー！」
　もちろん、これっぽっちも褒めてはいない。
「ああでも凄いなクソ、偶然か、それとも計算か!?」
　屋上から見るかぎり死傷者はでていない。
　衝撃の外にいた警官は昏睡した警官を手当てし、逃げるように爆心地から撤退していく。
　結果的にここ一帯は完全に無人になった。
　なんという―――なんという、力任せの人払い……！
「…………！」
　今のはヴローヴの炎か？
　アルクェイドが外したのか、ヤツが躱したのか、どちらにせよ<吸血鬼|ヴローヴ>は生きている。
　……あの一撃でも倒れない怪物。
　それを追い詰めるように、
　砂塵の中、白い影が炎の発生源に挑みかかっていた。
“ちゃんと後からついてきてね―――”
　アルクェイドの言葉が脳裏をよぎる。
　……あれこれ考えるのは後だ。
　今は急いで地上まで降りないと……！
「はっ、はっ、はっ、は―――！」
　階段を駆け下りる。
　屋上を施錠していた扉の鍵はナイフで切断した。
「……はっ、はっ、は―――あ」
　非常灯の明かりを頼りに階段を駆け下りる。
　……覚悟していた筈の気持ちは、荒れる息づかいと共に乱れていく。
　俺がやるべき事は、ヴローヴの『線』を断つ事だ。
　まずアルクェイドが戦い、ヤツを鎖で拘束する。
　そこからが俺の出番だ。
　ヤツに走り寄って、線という線を切断し、解体すればいい。
　さっきのアルクェイドの降下は凄まじかった。
　ヴローヴを抑えられる、と言い切っただけはある。
　だが―――
「―――だけど、それでも―――」
　……それでもヴローヴは健在だった。
　アルクェイドの見立てはまだ合っているのか。
　もし違っている場合、アルクェイドには傷のハンデがある。
　……最悪の場合、俺ひとりでヴローヴを―――
　いや、それはない。
　俺たちは最悪の事態を想定していない。それは考えなかったのではなく、考える必要のない事だった。
　なぜなら、アルクェイドがヴローヴに敗れた場合、俺に残された選択は逃げ出す事しかないのだから。
「は―――――あ」
　エレベーターに辿り着いた。
　中に入って一階のボタンを押す。
　もう迷っている時間はない。
　そもそも迷っている場合じゃない。
　深呼吸をしてみる。体のチェックをする。とりあえずきちんと動いている。
　ただ、ナイフを持つ指先だけが、自分の体ではないみたいに、ガッチリと固まって動かない。
「――――――」
　これは恐怖か。
　あの暴力に、あの怪物に向き合う事が怖いのか。
　そうであるなら問題はない。
　アレを恐れるのは人間として正常だ。近寄るだけで殺される相手と向き合う。恐怖がなくてまともな人間でいられるものか。
　だから。
　問題があるとしたら、それは、
「――――――」
　……それは。
　殺される事より、殺す事を、怖がっている場合だけ。
「は――――ア」
　呼吸が速まる。
　心臓が、この体とは違うパーツみたいに、どくんどくんと浮き足立っている。
　……一階に到着した。
　俺はナイフを握り直して、出来たばかりの爆心地に走り出した。
「はっ、は―――！」
　ビルから出ると、そこは瓦礫の山と化していた。
　身を<屈|かが>めながら進み、陥没した地面の直前で立ち止まる。
　いまや地下40メートルとなった窪地。
　この区域はもともと公園だった。
　その面影はとうにない。
　瓦礫はスロープ状の傾斜になって地下まで続いている。
　下から登る事は不可能だが、降りていく事なら俺の足でもできそうだ。
　だが―――
　敵の所在ははっきりしている。
　この下に倒すべきヴローヴが、
　一緒に戦うと約束したアルクェイドがいる。
　両者の戦いはもう始まっている。
　……大丈夫。俺の役目は戦闘じゃない。最後の始末だ。
　アルクェイドがヴローヴを捕らえた時、近寄ってヤツの『線』を断つ。
　その為に―――
「そうだ、怖じ気づいてる場合か……！」
　瓦礫の斜面を滑り落ちて、陥没した地面に下りる。
　すぐさま片手で口と鼻を覆う。
　それは意図してのことではなく、反射的に行った生命の保護だった。
「―――」
　呼吸ができない。
　酸素はある。この青い炎は呪いのようなもの、実際に物質を燃やしているのではない事は、ホテルの戦いで判明している。
　だが高温である事に変わりはない。普通に呼吸するだけで熱した空気で肺は焼け死に至る。
　前方には白い吸血鬼と、黒い外套の吸血鬼の姿が見える。
　交差する<剣|つめ>と<剣|なた>。
　この高温の中、アルクェイドは怯むことなくヴローヴを攻め立てている。
　俺の目から見ても優勢なのはアルクェイドだ。
　このままいけば作戦通り、アイツはヴローヴを捕らえるだろう。
　問題は―――
「―――、――――――」
　俺の体が、いつまで保つか、という事だ。
　俺の体は、
既に燃えている、
という事だ。
　だが不思議と苦しみは感じない。
　呼吸をせずとも状況は把握できている。
　俺はナイフを手にしたまま、ヴローヴを倒す<瞬間|チャンス>を待ち続ける。
　スタートの合図を待つスプリンターのように。
　あるいは、もう動く事のない亡霊のように。
　待ち続ける。
　待ち続ける。
　待ち続ける。
　眼球が乾き、燻され、灰になっても待ち続ける。
　瞬間は永遠に訪れない。
　自分が焼き付いたフィルムにすぎない事に、気がつく事もないように。
　これでは降りられない。
　地下は青い炎に埋め尽くされている。
　その中心に立つ長身の吸血鬼。
　ヴローヴ・アルハンゲリ。
　あの爆撃のただ中にいて、傷一つ負っていない。
　人間の尺度で測ればほとんど不死身の怪物だ。
　それを、
　それを、正面から<翻弄|ほんろう>する白い影がある。
　炎<揺|ゆ>らめく瓦礫の<園|その>を、美しい狩人が<疾駆|しっく>する。
　無論、白影はアルクェイドだ。
　彼女は炎の河を跳び越えながらヴローヴに肉薄する。
　ヴローヴの手には無骨な凶器が握られていた。
　長剣に見えるが、あの刀身は<鉈|ナタ>のものだ。
　対してアルクェイドは<空手|からて>。
　その脚だけでヴローヴに迫り、そして、
　その爪だけでヴローヴの鉈と打ち合い、あの長身を後退させている……！
　ヴローヴの腕には骨まで見える傷がひとつ。
　それも一瞬の事だ。アルクェイドの爪に切り裂かれた腕は、あふれ出た血液によって治っていく。
　吸血鬼は血液があるかぎり不死身であり、大量の命のストックを持っている、とアルクェイドは言っていた。
　まさしくその通りだ。
　まっとうな生き物なら即死の傷が、瞬く間に“無かった”事になっていく。
　<怯|ひる>むことなく振るわれる分厚い凶器。
　アルクェイドは深追いをしない。
　一撃を加えたのなら距離を取って次弾に備える。
　ヴローヴの反撃を警戒しての事……いや、違う。
　あの顔……あいつ、ヴローヴを追い詰めて<愉|たの>しんでいる……？
「死に<難|にく>いだけが貴方の取り柄なの？
　二十七祖も質が落ちたものね。このまま、奥の手も見せないでわたしに殺される？」
「“―――、―――、―――”」
　ヴローヴの呼吸が乱れている。
　病的なまでに青ざめた<貌|かお>が、より苦しげな苦悶を刻む。
　……ヴローヴは確かに不死身だ。
　けれどそれにも限度がある。
　無傷だと見て取ったが、アルクェイドの急降下爆撃はヤツにとって致命傷だったに違いない。
　体は再生したものの、それが精一杯。
　俺に殺されたアルクェイドと同じように、蘇生する事に力の大半を費やしたと見るのが妥当だろう。
　事実、アルクェイドもそう見ている。
　だからこそ一撃ごとに距離を取っている。
　ヴローヴの最期の一撃、渾身の反撃を誘っているのだ。
　幾度となく衝撃音が<木霊|こだま>する。
　ヴローヴの呼吸が狂っていく。
「―――いや、あれは―――」
　何とも言えない違和感。
　アルクェイドは優勢だ。ヴローヴは明らかに消耗している。
　なのに、傍観者である俺の胸に不安が増していく。
　それは、ヴローヴが先ほどからアルクェイドの爪を受けなくなりつつある状況であり、
　ヤツの剣さばき……いや、鉈さばきはあの外見からは想像もできないほど卓越したものであり、
　もう完全にアルクェイドの速度と動作を見切っているという事実であり、なにより、そう―――
　ヤツはまだ、あの“炎の手”を出してもいない……！
「“ク――――――アァァァァァアアア！！！！！”」
「―――！」
　ヴローヴが吠える。
　ヤツの怒号に応じて炎が燃え<盛|さか>る。
　劫火は高さ数メートルに達し、
　その河は何十にも枝分かれする。
　もはや火林と化した地下の<闘技場|コロシアム>。
　炎の壁に阻まれ、左右に逃げる事のできないアルクェイド。
　そこへ、
　瓦礫を溶かしながら、かつてない高温の“手”が、アルクェイドに繰り出された。
「アルクェイド―――！」
　一瞬。
　戦いは一瞬でひっくり返った。
　3000℃までの熱なら耐えられる、とアルクェイドは言った。
　しかし、たやすく瓦礫を熔解させた“手”の温度は3000℃を優に上回る。
　それを三つも重ねられた。ならば灰すら残るまい。逃げ場はなく、炎はなぶる舌となって獲物を舐めつくす。
　白い影は跡形もなく燃え尽きた。
　―――それが、昨夜のうちの出来事なら。
　炎が割れる。
　白いスカートがひるがえる。
　その出で立ちの変貌に、<視覚|カメラ>は魅了されたように釘付けになった。
　彼女は言った。
“対策はできている。事前に体を作り替える”と。
　ヴローヴの炎をものともしない白と黒の<戦闘衣装|ドレスコード>。
　あの衣装が炎を呑むのか、それとも、体を作り替えた結果あの姿になるだけなのか。
　どちらにせよ、今の彼女に炎は通じない。
　アルクェイドの対策は完璧だ。
　相手が炎の怪物であると判明し、あのホテルから逃げ延びた時点で、彼女の勝利は確定していたのだ。
　炎の手が繰り出される。
　アルクェイドの左手が無造作に突き出される。
　彼女は髪をすくような動作で、左右にそびえ立つ炎の壁を霧散させた。
　白いドレスに服従し、<頭|こうべ>を垂れる炎の壁。
　金の髪が流星のように駆けていく。
　飛翔し、振り下ろされた爪の威力は今までの比ではない。
　たまらず後退するヴローヴに、第二第三の爪が繰り出される。
　圧倒的な性能差。
　もう、それは戦いではなくなった。
　炎を無効化された時点で、ヴローヴは狩られる側の獲物になりさがった。
　アルクェイドの爪は的確に、間断なく、ヴローヴの肉体に致命傷を重ね続ける。
　ヴローヴが立ち続けていられるのは、まだ<血液|よりょく>が残っているからだろう。
　それもいずれ尽きる。加えて、ここにはもう“人間から搾取できる”<資|も><源|の>はない。
　残った血液はヤツ自身の体に流れるもののみ。
　それもあと数撃で失われる。
　つまり破産だ。
　蘇生する為の熱量が失われれば、正しく死骸に成り下がる。
「“―――、やめ、ろ―――”」
　<虚飾|きょしょく>のない<命乞|いのちご>い。
　駄々をこねる子供のようだ。
　達人の如き鉈さばきも失われた。
　吸血鬼は目前の恐怖を振り払うように、デタラメに鉈を振るう。その無様な隙を、アルクェイドは逃しはしなかった。
「“寒い―――寒い―――ここは、寒い―――！”」
　悲鳴をあげながら吸血鬼は跳躍した。
　最後の<血液|ちから>を振り絞って、ヴローヴは後方に跳びのいた。いや、飛び上がった。
　地下から地上に向かって跳躍する。
　40メートルの高さも吸血鬼を止めるには至らない。
　おそらく地上に出て血液を補充する算段だろう。
　その足に緑の<蔦|つた>が絡みつく。
　瓦礫の下から芽を出した蔦は凄まじい速度で成長し、ヴローヴの足を捕らえ、瓦礫の地面まで引き戻した。
「“ァ―――ア、ア―――！”」
　再びヴローヴの足元に炎の河が現れる。
　生命のみを燃やす火に包まれ、緑の蔦は灰に<還|かえ>った。
　だが足かせは消えはしない。
　その灰を<苗床|なえどこ>にして、新たな蔦が絡みつく。
　何度焼き尽くしても束縛は<解|ほど>けない。不死鳥のようにループする。
　そう。吸血鬼が不死身だというのなら、自然の営みも永遠無限の循環だ。
　あの蔦はその結晶。この星を燃やし尽くす“火”でなくては逃れる事はかなわない。
　ヴローヴでは―――いや、あの吸血鬼程度の“呪い”では、彼女の息吹を消す事などとてもとても……！
　―――アルクェイドが走る。
　その姿勢の力強さから、あれがトドメの一撃だと見て取れる。
　ヴローヴの反撃はすべて潰した。
　これで決着だと彼女は判断したのだ。
　俺も同感だ。
　遠野志貴の協力なんて待つ必要はない。このままアルクェイドはヴローヴを粉砕する。
　……なのに。
　なのに、どうしようもなく胸騒ぎがする。
　何かを間違えている。
　ヤツのあの苦悶が、息づかいが、俺に“そうではない”と訴えてくる。
　ヴローヴの顔色、苦しみようは今や病的だ。
　あの灼熱の中で<ひ|・><と|・><り|・><だ|・><け|・><世|・><界|・><が|・><違|・><う|・>。
　まるで正反対の世界にいるような白い呼吸。
　……あの手の眼は知っている。
　強迫観念と防衛本能。
　ヤツは加害者側でありながら被害者側。
　だから―――
　――――――きっと、俺たちは致命的に間違えている。
「バカ……なに考えてんだ、俺は……!?」
　アルクェイドの勝利は揺るがない。
　この瞬間、その邪魔をするなんてもってのほかだ。
　もう何もしなくていい。
　わざわざあの地獄に身を乗り出す<必|こ><要|と>もない。
　それが分かっていながら、俺は―――
　戦いの様子を見るしかない。
　喉元までせり上がっている吐き気、
　背中にべったりと這い寄った悪寒を、言葉にできない。
　どのみち、ここからでは間に合わない。
　俺にできる事、いや、俺がやるべき事は、ここで戦いの趨勢を冷静に見守る事だけだ。
　アルクェイドは言った。
　吸血鬼を倒すという事は、特異能力を封じる事だと。
　なら、俺たちは間違えている。
　そうじゃない。
　あいつの異常性はソレじゃなくて―――
「違う！　
逆なんだ、アルクェイド……！」
　地上から、遠く離れた彼女に向けて叫ぶ。
　この距離から叫んでも、もう間に合わない。
　それでも叫ばずにはいられなかった。
　強力な個体が保有する、その在り方を武器にした“超抜能力”。
　ヴローヴにとってそれは高温ではなく―――
　胸を貫く。
　おびただしい出血。
　ヴローヴという<血の浴槽|ブラッドバス>の栓が抜ける。
　灼熱の<妄|ユ><想|メ>が終わる。
　最後の境界を踏み越える。
　以て。
　世界を裂く<絶叫|さけび>と共に、その吸血鬼の、真の<貌|すがた>が現れた。
　大気が軋む。
　原子の活動が早きから遅きに切り替わる。
　凝固した超低温の断層に弾かれて、行き場を失った電子が反応する。
　地表を覆う青い炎は、炎ではなかったのだ。
　あれは気化熱に似た、大地から失われる熱のようなもの。
「―――ああ、本当に、」
　かかげられる冷血の腕。
　広げられた手のひらは、それこそ、温かな熱を切望するように、
「―――<世|こ><界|こ>は、寒い」
　目前の白い美貌の、全身を呑み込んだ。
「――――――、え？」
　それは『気温が下がった』というより、『世界が変わった』ような、前兆のない変化だった。
　ヴローヴから走った氷の河はアルクェイドを吹き飛ばしたばかりか、その背後の街にまで及んだ。
　時間にして２秒あったかどうか。
　氷河は地上のビルに届き、一瞬ですべてを凍結させた。
　……もしもの話。
　あのビルにまだ避難していない人間がいたのなら、その人間ごと、あらゆる熱を停止させた。
　ありえない、と目の前の光景に戦慄する。
　あってはならない、とこの後の展開に恐怖する。
　いま俺が生きているのは<た|・><ま|・><た|・><ま|・>だ。
　俺のいる場所がアルクェイドと同じ方角だったのなら、今頃は生きたまま凍結していた。
　炎の河は放射状に広がるものの、ゆるやかな災害だった。
　広がっていく火の手より人間の逃げる足の方が早かった。
　だがあの氷河は一瞬だ。
　範囲は狭く、寒波は地を這うものだが、放たれてしまえば逃げる間もなく殺される。
　もしヤツが地上に出てしまったら、ヤツの目の前にあるものは為す術なく息絶える……！
「―――アルクェイド。
　そうだ、アルクェイドは……!?」
　最後の希望に<縋|すが>る。
　あの怪物を止められるのはアイツだけだ。
「いた……！」
　氷の河のただ中にアルクェイドの姿がある。
　良かった……というか、あいつもたいがい頑丈だ。
　あの冷気の中で、何の傷もなく立ち上がっている……！
「……そういうこと。
　あなたは正気がないんじゃなくて、正気から逃げていたのね」
「三流の死徒であれ原理を持つ以上は星を打倒しうる、か。
　おかげで目が覚めたわ、ヴローヴ・アルハンゲリ」
　氷河を払うアルクェイド。
　その彼女を、ヴローヴは冷淡に見つめている。
　今までの病みきった眼ではなく、的確に獲物を観察する、雪原の猟師のように。
「……目を覚ましたのはこちらの話だ。
　よくもおれから、ここまで<炎|ねつ>を奪ってくれた」
　憎悪だけをこめた、刃物のような声。
　あの吸血鬼の闘志は<衰|おとろ>えていない。
　……いや。
　正しくは、いま初めて、アレは“戦う”気になったのだ。
「そう。なら、己の幸運を甘受なさいヴローヴ。本来なら目を覚ます前に終わらせていたわ。あなたを救ったのは<憎|にく>たらしい殺人鬼よ。まあ、それもいま<一時|いっとき>の話だけど」
「………………確かに。
　伝え聞いた貴様の姿と、今の貴様はかけ離れている。
　……どうやらここ一番で、おれは幸運を拾ったか」
「忌々しいけどそういうコトよ。
　お互い、最後の一撃を残しているだけのていたらく。どちらかが仕掛ければどちらかが消えるだけ。
　その前に、最低限の礼はとってあげる」
「“―――答えよ、矮小家畜の我が隷属。
　祖の<証|あかし>。<根|ね>の病巣。大渦の如きその穴蔵。
　新たな原理を孕んだ<胤|たね>よ。
　貴様にとって血とは何や？”」
　それは場にそぐわない、厳格な声だった。
　叱責とも取れるアルクェイドの詰問。
　ヴローヴは驚きに目を見張った後、
「“―――<謹|つつ>しんで<受|こ><領|た>えよう。
　おれにとって、血液とは<暖|だん>そのもの。
　生命の熱さ。我が凍傷を癒やす霊薬。我が世界、我が原理を回すもの。
　<爾|しか>り。血液がなければ、おれはこの寒さに凍り付く”」
　<敬|うやま>いすら感じさせる声で、自らの正体を明らかにした。
「……思い出した。
　人間を嫌い、恐れ、避けようと絶海を漂流し、城を構えた変わりもの。
　二十七祖の<一角|ひとり>、ゼリア・アッヘェンバウム。
　千年を超える原理を持ちながら“子”を作らずに領地を治めていたと聞いたけど…………そう。
　つまり、<殺|・><し|・><て|・><奪|・><っ|・><た|・><の|・><ね|・>？」
「……そうだ。おれは後継者ではない。ただの騎士だ。騎士だった。永遠など、おれには手に余るものだ」
　吸血鬼の右手が、自らの影に向けられる。
　長く―――不自然なまでに長く伸びた影から、巨大な<得|・><物|・>が浮上する。
「だが、ご当主にとっても、ソレはより不相応だった。
　故に奪った。騎士として王を倒し、その王座を<簒奪|さんだつ>した。いまやこの原理は、おれだけの<呪|もの>になった」
「そう。短い王位だったわね」
「……強気だな。空想具現化も出来ぬほど弱っていながら、おれと正面から打ち合うと？」
「いらない。たかだか死徒相手に世界と同化する必要もない。
　あなた程度―――この爪だけで十分よ」
「――――――」
　吸血鬼の<口端|くちはし>がつり上がる。
　端整な顔が醜悪な獣に成り下がる。
　アルクェイドの挑発を、その通りだ、と<嗤|わら>うように。
「最も強きものとは千変にして<偏|かたよ>らぬもの。
　……貴様はまさにソレだ。そこまで衰退していながら、まだおれを上回る余力がある。
　あらゆる呪い、あらゆる状況に対応する原初の<一|いち>―――並の死徒ではかなうまい」
　空気が歪む。
　病想の青い熱が、地下の気温を下げていく。
　アルクェイドに迷いは無かった。
　ヴローヴの異様な武器が自分を打倒しうるモノだと理解しながら、なお正面から飛びかかる。
　―――それを、
「だが貴様は知るまい。
　<彼|か>の領土はこの星の一部でありながら、“生きるに<能|あた>わず”と除外された生命圏。
　いかに真祖の姫であろうと、この地獄に耐えきれるか……！」
　ヴローヴを中心に広がる冷気。
　急停止し、何かを守るように手を突き出すアルクェイド。
　吹き<荒|すさ>び、金切り声をあげ、街を覆う絶対零度。
　そして、
　純白のドレスを粉砕する、この世ならざる鋼の巨槍。
　……吹雪が視界を隠す。
　吐き出す息が白く立ち<上|のぼ>る。
　アルクェイドは何十メートルも吹き飛ばされ、瓦礫の上に倒れている。
　炎を弾いていたドレスは砕け散った。
　彼女は元の姿に戻っている。
「……怪物め。おれの槍を受けて原形を留めているか。
　だが―――」
　アルクェイドは倒れたまま起き上がらない。
　ヴローヴは一歩も動かないまま、何かの合図を送るように右手をかかげた。
　ヴローヴの周囲の瓦礫が崩れていく。
　その下から、何体もの死体が、うめきながら這い出てくる。
「この狩りは、もはやおれのものだ。
　女の死体を拾ってこい。
　その順応性。あらゆる苦しみを上回る万能の血を、この手に」
　ヴローヴに命じられ、死体たちがアルクェイドへと歩み寄っていく。
　勝敗は決した。
　俺たちの作戦は失敗した。
　鎖でヤツを封じこめる事は、もうできない。
　アルクェイドは敗れ、街は寒波に包まれた。
　なにもかもが死に絶えたのだ。
　俺はその直前にいながら、眼下で行われようとしている、最後の光景を眺めている―――
「――――――」
　肌を切りつける冷気。
　低下していく体温。
　<た|・><だ|・><生|・><き|・><る|・>事さえ困難な極寒。
　頭蓋の中を加圧されるように、脳は<軋|きし>みをあげている。
　俺は２分後の結末を予測し、破裂しそうな心臓をかき<毟|むし>る。
　アルクェイドに群がる死体たち。
　極寒において真夏を連想させる行列。
　炎天下、砂糖にたかる蟻そのものだ。
　アルクェイドは殺される。
　あの死体どもに手足をもぎとられ、俺が／おまえがしたように、解体されて献上される。
　それを、俺は安全圏から眺めている。
　このまま―――
このまま？
「―――、無理だ」
　アレは人間のカタチをしただけの災害だった。
　追い詰めるべきではなかった。
　倒そうだなんて、思い上がりも<甚|はなは>だしかった。
　これ以上誰も殺させない？
　犠牲者を出さずに解決する？
　なんて愚かな。あの怪物は見逃すしかなかった。立ち向かってはいけなかった。台風のように、通り過ぎるのを待つしかなかった。そうしていれば、せめて、街が燃えるだけで済んだかもしれないのに。
「――――――でも、無理だ」
　何もできなかった誰か。何もしない自分。
　武器すらなかった誰か。武器を持っている自分。
　加圧された脳の中で、常識と非常識がのたうちまわる。
　逃げようと意識が<背後|うしろ>を向く。止めようのない自分がいる。
　だってしょうがない。アレを相手に何が出来る。あの女が。ここまでで十分だ。ここから先は過剰すぎる。あの女が。あとは逃げてしまえばいい。目を背けてしまえばいい。それが<ま|・><っ|・><と|・><う|・><な|・><人|・><間|・>だ。あの女が、殺される。
　空を仰ぐ。視界には凍りついたビルがある。
　一瞬で死に絶えた人々。叫ぶ時間すらなかっただろう。
　昨夜のホテルの光景。意味もなく殺された人々の<懇|こ><願|え>を思い返す。
　倒れた女の姿。だらしなく<涎|よだれ>をたらして<女|にく>にすり寄る死体。広がっていく氷の河。にも拘わらず、あの吸血鬼は今も無関心に、街の死を観察する―――
「――――――間違いない」
　頭蓋が割れる。この低温下において、心臓は<猛|たけ>るように血液をはき出している。
　それは、つまり、
「――――――俺には、無理だ」
　背筋を走る恐怖は、すべて怒りに変換された。
　欠陥品だ。お笑いぐさだ。人間としてあまりにも未熟すぎる。
だって。
この事態を傍観するだけの度量が、判断力が、俺には微塵も存在しない―――！
　眼鏡を外す。
　口からこみ上げる震えに、はき出される体温に、左手で必死にフタをする。
　１分、いや３分。
　活動時間はそれだけと胸に刻む。
　精神力の問題ではない。あの地下において、それが人間の生命活動の限界だ。
「くそ―――くそ、くそ、くそ―――！
　なにやってんだ、俺は―――！」
　自虐しながら傾斜を降る。
　馬鹿げている。馬鹿げていた。俺は本当に馬鹿げていた。
　死にたくないから逃げる？
　逆だ。その理由ならまったく逆だったのだ。
　アレは容認してはいけないもの。
　アレは野放しにはできないもの。
　逃げれば必ず死に至る。自分はおろかこの街すべてが。
　なら取るべき行動は明白だった。
　死にたくないなら殺せ。生き延びるために走れ。
　いまここで、一秒でも早くアレを殺せ。
　だいたい、いいかげん我慢の限界だった。
　臆面もなく殺し、奪い、生き延びやがって。
　違う<生物|にんげん>として、同じ生命として許容できない。
　何であろうと生きているのなら俺の獲物だ。
　ここで、ヤツの<生|い><命|き>の<根幹|ね>を止めてやる……！
　アルクェイドに向かって走る。
　死体どもは女の体に歯を立てようとしている。
　殺せるのか、と先ほどの疑問が頭をよぎる。
　人間であろうとなかろうと、人のカタチをしたものを殺せるのか。
　―――関係ない。
　今はただ頭が痛い。
　ここまで長く裸眼をさらけ出すのは初めてだ。
　ここまで客観的な思考で動くのは初めてだ。
　狂躁したまま死の線を俯瞰し、
　殺害すべき<死|モ><体|ノ>の像を記憶に<納|おさ>める。
　触れるな。目障りだ。死んだモノが生者を食らうな。
　そもそも―――
　俺以外の生き物が、<そ|・><の|・><女|・><を|・><獲|・><物|・><に|・><す|・><る|・><な|・>。
　三つの死体の線を断つ。
　胴体をそれぞれ三分割。死体たちはバターを切るように割かれ、死亡する。
　実にたやすい。ヤツらの意識はアルクェイドに向けられていたからだ。無防備にも程がある。
「起きろ！　いつまで寝てやがる……！」
　アルクェイドに触れるまでもない。
　四体目の死体を殺しながら声をかける。
「ん……志、貴……？」
　俺の呼びかけで意識が戻ったのか、アルクェイドは弱々しく目を開ける。
「な、なんでここにいるの!?　ダメ、逃げて……！」
　アルクェイドは体を起こしかけ、顔を歪めて体を丸めた。
　意識は戻った。命はまだある。だが傷は治っていない。
　コイツはまだここから動けない。
　逃げるべきは俺ではなくコイツの方だが、あいにく、俺にはそれを許す余裕はない。
「よし、元気だな。ならいい。できるなら援護してくれ」
「援護って、あなたひとりでやる気!?　っていうか正気!?」
「正気でこんなマネできるか。
　いいか、俺にとってここは海の底だ。３分しか時間はない。だから、その間に―――」
「今度こそ。俺とおまえで、ヤツを殺して終わらせる」
　アルクェイドを置きざりにして走る。
　ナイフを握り直して、ヴローヴまでの距離を視認する。
　距離にして40メートル。
　接触まであと６秒。ヤツはまだ俺を視認していない。
　―――あと３秒。
　様子見はしない。一撃でカタをつける。
　もう俺の肉体は変調をきたしている。
　意識と肉体が低温によって停止するまで３分間。
　満足に活動できるリミットは１分もない。
　それで十分だ。俺には確かに、
　あの怪物を“殺す”、死の線が視えている。
　ようやくヤツが反応する。
　虫を払うような動作で、俺を迎撃しようと視線を向ける。
　アルクェイドを串刺しにした巨大な槍は無い。
　当然だろう。そうでなくては困る。
　ヴローヴにとって俺は死体たちと変わらない。
　アルクェイドを守るだけの、無能な“モノ”扱いだ。
　ヤツが踏みにじってきた弱い<人間|いきもの>と同じ、取るに足りない存在だ。
「――――――ハ」
　だからこそ勝機がある。
　俺にできる事は奇襲だけだ。
　姿は見られている。背後から襲う事はできない。
　それでも、<俺|・><に|・><は|・><奇|・><襲|・><が|・><で|・><き|・><る|・>。
　ヤツは俺の眼を知らない。
　ただの人間に、不死身の吸血鬼を“一撃”で殺す手段がある事を考慮すらしていない。
　あと２秒。
　危険を冒すのは、生死の<境|さかい>を越えるのは一度だけ。
　ヤツの初手を<躱|かわ>す。それだけに専心する。
　その<丁半|ちょうはん><博打|ばくち>さえすり抜ければ、あとはあの“線”を断つだけで―――
「―――！」
　最後の１秒。
　斬り合いの間合いに入ろうとした瞬間、俺たちは同時に後ろに跳び退いた。
　一足一刀の間合いに入る事さえなかった。
　理由は二つ。
　一つは俺の選択ミス。
　ヤツの懐には入り込めない。寒波はヤツを中心に吹き荒れている。近づけば近づくほど俺の体は鈍くなる。俺の走る速度では、ヤツの２メートル圏内に入った時点で、あと一歩届かずに意識が落ちる。
　最低限の奇襲の条件。
　<近|・><づ|・><い|・><て|・><殺|・><す|・>という条件が、ヴローヴ相手では達成できない。
　それはいい。実のところ、その可能性も考慮していた。
　しかし、問題はもう一つ。
　こちらの方があまりにも致命的だ。
“野郎―――！”
　裸眼から生じる頭痛に、個人的な憤怒が混じる。
　信じられない。あの野郎、事もあろうに読み切った。
　おそらく直感だ。
　獣を上回る死への洞察だ。
　ヤツは何の根拠もない状況で、<敵|・><に|・><は|・><自|・><分|・><を|・><殺|・><す|・><手|・><段|・><が|・><あ|・><る|・><と|・><直|・><感|・><し|・>、戦慄し、俺を脅威と認めたからこそ、一秒の迷いもなく飛び退きやがった……！
「“……なぜ、おれが退いた……？”」
　俺の後退はたかだか２メートル。
　だがヤツの後退は並外れている。30メートルもの距離をヤツは跳んだ。
　それが吸血鬼たちにとっての“最低限の安全圏”なんだろう。つくづく、生命としてのスペック差に嗤ってしまう。
「“……なんだ。おまえは、なんだ……？”」
「――――――」
　それはこちらの言い分だ。
　どうあれ状況は最悪だ。この距離はもう埋めようがない。
　俺はヤツを倒す事は不可能と認め、
　ヤツは俺に殺害手段があると察した。
　ここから先は、間違いなく、
「“……いい。近寄るな。おまえは、<そ|・><こ|・><で|・><死|・><ん|・><で|・><い|・><ろ|・>”」
　遠距離からの、一方的な殺戮になる。
　大気を滑る氷塊。
　氷は槍と化し、弾丸となって俺の頭を撃ち抜きにくる。
　―――避けるか、受けるか。
　隠し続けるか、ここで武器を一つ捨てるのか。
　その判断を無意識の内に決定する。
「―――！」
　頭痛が脳を締め上げる。
　無我夢中のまま<眼|カメラ>の<焦点|ピント>を凶器に合わせる。
　あの線が“存在の死”だというのなら。
　槍という在り方を、撃ち出された慣性を、氷点下の結合を、俺の寸前で殺し切る……！
　死がこめかみをかすめていく。
　飛んでくる氷塊にナイフを合わせる。人間とて野生の獣。その程度の動体視力と反応速度は遙か昔に備わっている。
　体がまだ満足に動くのなら、この程度の凶器は大きいだけの<礫|つぶて>と同じだ。
　だが―――
　だが、これで正面からの“奇襲”は潰えた。
　ヤツの眼が語っている。
　見たぞ、と。
　理由も理屈もどうでもいい。ただ、貴様を二度とそこから先には進ませない、と。
　これで完全に、俺は勝負手を失った。
　切り札の捨てどころはここで良かったのか。
　―――良くはない。
　だが他に手段はない。
　生き延びるには、ここで手の内を<晒|さら>すしかない。
　だから、その代わりに得るものを、全霊で探すしかない。
「っ―――！」
　最小限の動きで斬り落とす。
　もう近寄る術はなくとも、限界まで<動力|たいりょく>を温存する。
　活動限界まで残り２分。
　―――興奮が恐怖を駆逐する。
　死に物狂いのあがきに、死生観が逆転する。
「“……奇跡の<類|たぐい>ではない。
　しかし常識でもない。
　おれの渇きを水のように通すとは、どういう理屈だ”」
　氷の掃射にはわずかな間隙がある。
　ヤツは自身から溢れる寒波を一点に集中させ、より低温の渦を作り、
「“……惜しいが、ただ死ね。
　あまり、おれの胸を躍らせるな”」
　凍った大気を滑る滑車のように、氷塊を撃ち出してくる……！
　凶弾を斬り落とす。
　アルクェイドの前に立っているかぎり、撃ち出されたものはここで止めるしかない。
　この距離なら氷の槍が届くまで1.5秒。
　体が動くうちはこの状態を維持できる。
　その間に、できる事を考える。
　ヴローヴは一歩も動かない。
　なぜ動かないのか。俺が脅威だと察した以上、手を抜く理由はない。となると逆だ。飛び道具があるから動く必要がないのではなく、そもそもヤツは<あ|・><の|・><状|・><態|・>になると動けないのではないか、と仮説を立てる。
　ヤツはアルクェイドに追い込まれ、血液という燃料を使い果たした。あの冷気は、死に瀕した怪物の、最後の自衛手段と見るべきだ。
　乱暴な推論だ。だが理にはかなっている。
　動けなくなったヴローヴは、全方位に呪いを展開する事で身を守っている。
　高温だろうと低温だろうと、生き物であればヤツに近寄るだけで絶命する。
　10メートル以内に近づけば２秒で凍死。
　このままではいずれ俺も倒れる。雪山で遭難した人間が眠ってしまうのと同じだ。人の場合、体温が摂氏34度以下、あるいは摂氏43度以上で脳細胞が停止し、意識が消失してしまう。
　個でなく全体を観察する。
　思考は挟まず、視た瞬間にナイフを自動的に滑らせる。
　―――その中で、先ほどの推測を修正する。
　あの寒波は全方位に展開している。
　だがその濃度は果たして一定か。
　地表が最も低温だという事は、寒波の中にも温度差はある。強いか弱いかの基準ではあるが欠点は存在する。
　あれは全方位に向けた守りだが、全方位に対して無敵という訳ではなく―――
「“……死の淵で主を守るか。勇ましいが、限界だ”」
　アルクェイドを打ち倒した長槍を、再び影から取り上げる。
　それが呼び水になったのか、ヤツの背後にひときわ大きな樹氷が枝を張り―――
「“―――では。数で、押すぞ……！”」
　考察を中断し、全能力を迎撃に注ぎこむ。
　これは無理だ。すべては殺せない。
　必ずどこかに被弾する。―――許されない。
　そんな甘えは許されない。
　かする事さえ許されない。
　出血をすればそこで終わりだ。冷気は１分の猶予も許さず俺の命を止めにくる。
　だから殺す。<何|な><故|ぜ>にあがく。
　意識を真っ<新|さら>にして、ただ“線”だけを俯瞰する。
　展開する獲物の総数、二十六機。
　何を先に斬り、何を見逃すかを平面図のまま凝視する。
　―――その狭間に、確かに視た。
　線を上回る死の所在。
　あの点こそが、線を生み出す死の極点だと。
「―――、く」
　目前に迫る死の壁。
　だが見えた、いま、確かに同じものを視た。
　俺がここで死ぬように。
　ヤツにも、ここで死ぬ可能性が存在する……！
「あああああああああああああああああ！」
　だが結論は出た。
　遠野志貴には、もう生き延びる手段がない。
　右横腹と左足腿の肉を削ぐ氷槍。
　末端から熱を奪われる体。
　急制動の繰り返しに悲鳴をあげる<靱帯|じんたい>。
　超低温により細胞も破壊されていく。
　指先がかじかむ。手足は思うように動かなくなる。
「―――、は―――」
　どうしようもない窮地。
　勝ち目の失われた敗戦。
　どのみちあと１分で殺される自分。
　ヴローヴも、アルクェイドも、もしこの惨状を眺めている何者かがいても、誰もが俺の死を疑うまい。
　なにより俺自身、生き延びる希望がない。
　なのに―――
「は――――――ぁ」
　深層に根付く獣の衝動。
　この窮地で、
なぜおまえは笑っている？
「きゃっ！？」
　氷の槍がアルクェイドの顔に直撃した。
　しまった。背後のアルクェイドとの位置関係までは見ていられなかった。
　刺さりはしなかったが、アルクェイドは片手で顔をさすっている。
　顔に直撃したのに無傷とかどうなってんだ、あの女。
「いったぁ……！」
　アイツがデタラメな生き物だと承知していたが、改めて絶句する。
　アルクェイドは片手を地面にめり込ませ、ショベルで地面をすくうように土塊を持ち上げた。
　そのまま、痛いじゃない、と言わんばかりに岩盤をヴローヴめがけて投げつける。
　アルクェイドの<岩盤|ちからわざ>を、巨大な槍が打ち砕く。
　ヴローヴは無傷だ。
　やはり単純な凶器でヤツを仕留める事はできない。
　―――だが。
　今のアルクェイドの反撃で、最後のピースが当てはまった。
　もう結論は出きっている。
　殺害方法は一つきり。俺の体が寒波で停止する前に近づければ、ヤツを確実に殺しうる。
　だがどうやって？
　この距離を２秒以内でゼロにするには、俺の脚では遅すぎる。もっと速い何かの助けがほしい。
　より万全を期すのなら超低温の薄い部分からヤツの圏内に侵入したい。とてもじゃないが、<自|・><分|・><の|・><脚|・><な|・><ど|・><使|・><っ|・><て|・><は|・><い|・><ら|・><れ|・><な|・><い|・>。
　このままだと確実に死ぬ。選択権はない。
　考慮するのは“自分にできるか”ではなく、
　“どの方法なら殺せるか”だ。
　覚悟を決めろ。
　接近する手段があるとしたら、それは、
　滑走だ。
　いや、正しくは落下に近い。
　……だができるか？　たどり着けるかは運任せだ。
　間違いなく無事では済まない。何もかも上手くいったとしても、着地の衝撃で<筋|に><肉|く>はえぐれ<骨|ほ><格|ね>は折れる。
　おまえは、その痛みに耐えられるか？
　俺の迷いを突くかのような弾丸を寸前で止める。
　危ない。ありがたい。
　おかげでこっちも覚悟が決まった。
　負荷は耐えればいい。もとより、死の痛みには<鈍|にぶ>い<性|た><質|ち>だ。
　ヤツがそうであるように、俺も、一秒<違|たが>わず“殺す”事だけを考察してやる。
　振り返って、後方のアルクェイドまで走る。
　その余分な移動で、体力は完全に尽きた。
　もう一歩だって前には踏み出せない。
　近づくべき敵は50メートル先の彼方だ。
　かまわない。
　どのみち、この選択には<横|・><軸|・><の|・><距|・><離|・>は関係ない。
「アルクェイド、さっきのアレ、もう一回できるか!?」
「アレって何!?」
　アルクェイドにこちらの意図を伝える。
　説明は一言で終わった。
　アルクェイドは<一拍|いっぱく>戸惑ったあと、俺の顔を見て、仕方なさそうに了承した。
「……その規模でやるとわたしの余力もなくなるわ。
　それでもいいのね？　もう逃げる事もできないわよ？」
　かまわない、と頷く。
　声をだす体力もない。というかこいつ、まだそんな機会を見計らってたのか!?
「あれ？　でもそれって、志貴は途中で落っこちない？
　わたし、そのあたり加減できないよ？」
「そりゃあ落ちるに決まってるだろ！　だから―――」
　少しでも呼吸を整えたいっていうのに、つい大声をあげて説明する。
　そこへ、
「っ―――！」
　説明する余裕はない。
　氷の槍が掃射される。ヴローヴは容赦なく、俺ごとアルクェイドを貫きにかかる。
「いいから全力で、手を抜かずやってくれ！　やりすぎてもいい！　おまえに殺されるなら、それはそれで本望だ！」
　建前を言う余裕はない。
　アルクェイドから視線を外し、彼方の敵を凝視する。
　背後にいる女は、俺の注文に応えるように、
「うん、任せて！　わたしが志貴を勝たせてあげる！」
　アルクェイドの前で身を屈める。
　膝と両手を地面につく。
　地中を走る見えざる<腕|かいな>。
　アルクェイドは先ほどと同じ<礫|つぶて>を―――いや、その何倍もの規模で、細かな瓦礫ごと、<こ|・><の|・><地|・><形|・><を|・><変|・><動|・><さ|・><せ|・><た|・>。
　それは爆発を思わせる、大地そのものの隆起だった。
　木っ端微塵の力技。ヴローヴの冷気が吹雪なら、アルクェイドの所行は大地の津波だ。
　飛翔する氷の槍など、この壁の如き土砂の前では飛沫にすぎない。
　高さ50メートル、7000トンに相当する質量が、ヴローヴを飲み込まんと押し寄せる。
　されど、地を返す天変地異に<騎|ヤ><士|ツ>は動じず。
　土砂の大波を、鋼鉄の槍の一刺しで貫き、押し返す。
　瓦礫の土砂降りの中、ヴローヴは視認したハズだ。
　最後の力で岩盤を両手でひっくり返し、その消耗から膝をついたアルクェイドと、おそらく、この土砂を目くらましにして接近する“脅威”が、どこにも見当たらない事を。
　<聳|そび>える大波を前にして、ソレは、かつての思考を取り戻した。
　いや、正確には２分前から。
　常に寒波に<侵|おか>され正気を無くした筈の脳が、あの一瞬―――目前に迫る人間から飛び退いた時から、正常に稼働しようと努めていた。
“あの人間には自分を殺す用意がある。”
“理屈は不明だが、それは間違いない。”
　かつて、彼が正常だった頃の残滓。
　中世の暗黒時代に培った騎士としての闘争経験が、全身に巡る呪いを打ち払った。
　たった二十年程度の矜持が、千年を超える狂気に勝ったのだ。
　それがどのような奇跡なのか、彼はよく判っている。
　こんなものは一瞬だ。あの人間を殺すまでの気の迷いだ。本来起こりえない、死後の夢そのものだ。
　戦闘に興じるなぞ―――そんな人間らしい<歓|よろこ>びは、あと数秒で凍り付く。
「“――――――、ハ”」
　だからこそ、この展開に燃え上がらずにはいられない。
　敵の狙いは明白だ。
　この土砂を盾にしてあの敵は接近してくる。
　敵の武器は切断だ。この壁もヤツにとっては扉のようなもの。切り裂いてこちらの間合いに踏み込んでくるだろう。
　槍を構える。
　本来ならこの大波ごと、その後ろに身を隠す敵を砕くべきだと理解している。
　敵の戦法に対応する必要はない。
　その戦法ごと粉砕するのが彼の戦法だ。
　まだ自分には余力がある。
　極上の血液は量にして10人分ものストックがある。
　だが―――
「“それは、できない。この魂を消費する事だけは、決して”」
　彼にとっての暖。燃え上がる為の血液を、永遠に温存する。
　あの人間を<侮|あなど>っての事ではない。
　アレが名状しがたい特例である事はもう理解している。
　アレに接近された時が自らの終わりだと予感している。
　それでも、譲れないものがある。
「“―――砕く―――！”」
　それでは<手|・><ぬ|・><る|・><い|・>と読みながら、長槍に残された力の五割をたたきこむ。
　衝突し、四散する瓦礫の大波。
　それでは足りない。いま穿ったものは己の正面のみ。
　これは自身の安全を確保しただけの一撃だ。そんな一撃をあの“敵”が被弾する筈がない。
　必ず来る。何を犠牲にしようとやって来る。
「“だが―――”」
　悲しいかな、それが人間の限界だ。
　人の身では瓦礫の雨をくぐり抜ける事はできない。
　真祖の姫による援護を満足に活用する事もできない。
　この土砂降りが<止|や>めばそれで終わりだ。
　姿さえ見えていれば、二度とあのような奇襲は許さ―――
「“――――――”」
　千里先を知覚する両目が見開かれる。
　―――ない。その姿が、微塵もない。
　走り去る影すらない。
　槍の一撃でそのまま死んだか。まさか。あの敵にかぎってそれはない、と己を責める。
　なにより背筋には、より強い死の悪寒が走っている。
　わずか１秒、彼の思考は“敵”から離れた。
　接近してくるのは明白だ。
　索敵できないというのなら前提が間違えている。
　この土砂は盾として使われると彼は読んだ。
　だが、それが盾ではないとしたら―――
「“――――――道、か！”」
　空を仰ぐ。<彼|か>の敵は月光を背に。
　亡霊のように青く<灯|とも>る、直死の魔眼がそこにある。
　アルクェイドが飛ばしたものは、ヴローヴを飲み込む瓦礫だけじゃない。
　本命はこの岩盤。
　吸血鬼の視界から外れ、<超|・><低|・><温|・><の|・><影|・><響|・><を|・><受|・><け|・><な|・><い|・><ヤ|・><ツ|・><の|・><頭|・><上|・><に|・>、俺を縛り付けてふっ飛ばしたのだ。
　30メートル下の地上で、土砂の津波が突き砕かれる。
　彼と我。互いに最後の空白。
　俺は自らの選択を、その結果を再確認する。
　成功すれば遠野志貴は両脚を失う。
　ここで生き残ったところで、一生歩く事は出来なくなる。
　その人生を明確に<想像|イメージ>する。
　―――構わない。この２秒の対価なら、納得のいく結末だ。
　わずか１秒の索敵。
　その洞察力には敬意を払うが、１秒では遅すぎる。
『あれ？　でもそれって、志貴は途中で落っこちない？
　わたし、そのあたり加減できないよ？』
『そりゃあ落ちるに決まってるだろ！　だから―――』
「―――おまえが、俺に道を作ってくれ」
　舞い上げられた岩盤がパズルのように組み上がる。
　蔦でつながれ、固定された急造の滑空路。
　高さの差を除けば、俺とヤツはいま、同じ座標に存在している。
「―――さあ」
　生存率のアベレージを計る。
　始める前に、その<一|・><点|・>を確定させる。
　ルートは決まった。
　わずか２秒、30メートルの一方通行。
「ショウタイムだ、吸血鬼」
　滑空落下が始まる。
　死に迫る、一呼吸分のスライダー。
　この時点で、俺は対応を放棄している。
　俺の思考速度では１秒に一つの判断しかできない。
　落下までの２秒、全能力を二点にのみ集中する。
　この選択において、あらゆる行動が死に面している。
　その中でも特に死の濃度の高い地点、
　何をしても生き残れない<瞬間|ポイント>を想定する。
　マイナス地点は二ヵ所と決めた。
　そこ以外の生存率は一割ほどだろう。それについては考慮しない。一割あるのなら問題ない。
　問題なのはゼロの地点だ。
　人間の性能ではどうあっても死ぬしかない絶対死の地点。
　そこに全能力を注ぎ込み、ゼロを１％に引き上げる。
　この二つの<致|マ><死|イ><地|ナ><点|ス>を踏み越えるため、意識を固める。
　それ以外の事象に振り分ける<意識|よぶん>はない。
　だからもう、降り始めた俺には<対|も><応|の>を考える機能はない。
　もしマイナスが二ヵ所に留まらない場合は？
　それは考慮しない。三ヵ所もの『死』を超える余力は俺にはない。その時はヤツの勝ちだ。ヤツの異常性が、俺の想像を上回っているだけの話。
　氷の槍は折り重なるように、落下する獲物に殺到する。
　まるで獣の<顎|あぎと>だ。恐ろしいがどうでもいい。
　そんな、ただ本能に因っただけの<咀嚼|そしゃく>など知った事か。
　俺がそうくると確信し、そうなれば殺されると恐れた迎撃は、
　―――10メートル。
　一つめの<致|マ><死|イ><地|ナ><点|ス>。
　手足の感覚、筋力の微調整、体幹の急制動とその返し。
　本来変えられない落下軌道を、その射角を『見て』から変える……！
　真横を過ぎていく鉄塊。
　０パーセントの賭けを越えた。
　残り１秒。俺の勝ちだ。ヤツにはもう手段がない。
　二つ目のマイナスは『その瞬間』と決めている。
　この落下の衝撃をいなし、俺の<身体|なかみ>が粉々になる前に、ヤツを殺す。
　その後の事は知らない。ただヤツの線を突く事にのみ専心する。
　だから。
　もし、俺の予測より、ヤツの行動が一手多ければ。
「――――――」
　考えない。躱すまでもない。たとえ<最中|さなか>にポイントを変更できるとしても、そんな無駄は俺にはない。
　その為に思考を放棄した。
　死ぬというのなら滑走を始めた時に死んでいる。
　いい。
　ここで脳を串刺しにされても、きっとまったく気がつかない。
　―――二つ目。
　摂氏マイナス100℃の非常法則が全身を停止させる。
　着地に備えようとする本能も、
　命の意義を唱える理性も、もう遙か上空に置いてきた。
「ヴローヴ……！」
　<腿|もも>から腰、腰から背筋、背筋からの運動エネルギーを、ナイフを持つ右手の振りに譲渡する。
　もはや筋肉が停止しようと止まらない。
　つまり感性だけで動く殺人機巧。振り絞るものは、線を<捉|とら>える脳だけでいい。
　その極限で、光を視た。
　渦を巻く原子の意思。定められた物質の寿命。
　落とし穴のような“死の点”を。
　思考を棄てた脳が、本能で理解する。
　線が生命活動の死だと言うのなら、アレは存在起源の死。
　どのような不死身、どのような怪物であれ一刺しで“殺す”、この世でもっともおぞましい、宇宙の終わりに他ならない。
　だが、そんな発見は本当にどうでもいい。
　それよりも強い感情に全身が打ち震える。
　ヴローヴの手には鉈が握られていた。必殺の巨槍を放った後でさえ、この吸血鬼は、俺が“来る”と確信し、さらなる迎撃を選択したのか。
　この局面で。俺のような反則相手に。
「――――――」
　コイツは本物だ。吸血鬼としての基準は知らない。そんなものは興味がない。シンプルに人殺しとして卓越している。
　憎悪せずにはいられない。
　正気であれば、吸血鬼でなければ、嫉妬するほどの騎士だっただろう。
　たとえ、今は見る影すらないとしても。
　その凶器が俺に届く機会は、もう永遠に訪れない。
　廻り、躱し、<捻|ね><子|じ>るように。
　俺の眼は、ヤツの<最中|さなか>を一線した。
　気温は一瞬で、本来の温度に切り替わる。
　自然現象とはかけ離れた寒波は、ヤツの命と共に消失する。
　その中で、
「“―――なんだ、これは？”」
　ゆらりと、吸血鬼は独白した。
「“……この傷は知らない。この喪失は思い出せない。
　この―――言語化できない大気の肌触りは、いつか失った何物かだ”」
　何を言っているのか、
　どこの国の言葉かも分からない。
　ただ、穏やかなその声は、春を<謳|うた>う詩人のようだった。
「“ああ―――痛みも、寒波も感じない。
　恐ろしいが、懐かしい。
　これではまるで、僕は死人になったようだ”」
「つか―――れた」
　仰向けに寝返りをうつ。
　心肺機能が喜びの悲鳴をあげる。
　長く止められていた呼吸を、ようやく、人並みに再開させた。
　両手はもう動きもしない。
　ナイフを握っているかどうかも曖昧だ。
　確かなものは全身の痛みと、気を緩めた途端、闇に落ちそうな意識だけ。
　……まったく幸いだ。おかげで痛覚も麻痺している。
　滑空中に踏み込んだ左足の痛みは平時なら耐えられるものじゃない。骨ごとノコギリで削られているようだ。そんな、目から火花が出るほどの痛みも、今はまともに感じない。
「でも―――くそ」
　したくはなかったのに、どうしても悪態が口から漏れた。
　……生き残った余韻なんて何もない。
　偉業をなした自負もない。
　こんなのは奇跡でも何でもない。俺はただ、何もかもが終わってしまった後に、自分の感情を叩きつけただけだった。
「―――――月」
　夜空には欠けた月がある。
　……なんだろう。
　ひどく懐かしい。これと似たような事を、一度ぐらい、夢に見た気がする。
「大丈夫、志貴？」
　アルクェイドは何事もなかったように歩み寄ってきた。
「……………まあ、生きては、いる」
　本当は死にそうだし、声をだすのも辛い。
　けれどまだ生きている身分で、そんな弱音を吐くなんて、許される筈がない。
「もう、そんな謙遜しちゃって。
　新参とは言え、志貴は祖の<一角|ひとり>を殺したのよ？
　もっと胸を張ってもいいのに」
　アルクェイドは我が事のように喜んでいる。
　……実際、ヴローヴを殺した事はそれだけ価値のある事なんだろう。俺にだってそれぐらいは分かる。
　それでも―――
　……俺は、何もできなかった。
　あの氷河はどこまで街を侵したのか。少なくとも、ホテルの時以上の殺戮を、俺はまた看過して―――
「？　死んでないよ？
　ヴローヴの呪いなら、ぜんぶ私が防いでおいたんだし」
　―――して、ないんですか？
「ちょっ、どういう事だそれ、っていったぁ……！！」
　体を起こそうと力をいれた途端、左足からの激痛でのたうち回った。
「ほらほら、ちゃんと横になってないと」
「ぐっ、っ……！　そ、それより、今の……説明、してくれ。
　死んでないって、ホントに……？」
「ええ。ヴローヴの原理が暴走した時、できる範囲を対流膜でコーティングしておいたの。
　志貴がヴローヴを殺すのがあとちょっと遅かったらフォローできなかっただろうけど」
　とんでもない反則を、アルクェイドはあっさりと告白した。
　……そういえば、あの時。
　ヴローヴの槍を受ける前に、アルクェイドは妙な急停止を見せた。
　あれは自身を守るものではなく、街を守るものだった……？
　……いや、そうだ。考えてみれば、あの寒波が広がった後、俺が生きている事自体がおかしいんだ。
　俺があの超低温の中で呼吸ができたように、街の人達も無事だったに違いない。
　だから―――
　だから、こいつはあんな事になったんだ。
　俺が自分の事だけを考えていた時、こいつは、劣勢になると分かった上で、街全体を守ってくれた―――
「ば―――なんでそんな事を!?
　おまえ、人間なんかどうでもいいって言ってたじゃないか！」
　正体不明の怒りにかられて、目の前の脳天気に怒鳴り散らす。
　アルクェイドは不思議そうに眉を上下させたあと、
「だって志貴が、そうしてほしいって言ったんだもん」
　そんな、バカみたいな事を、言っていた。
「――――――」
　……俺が、言った？
　いつ？　どこで？　もしかして、それは、
「なんか、おまえは別。だって血を吸った事ないんだろ。
　ならいい。吸血鬼だろうと何だろうと、俺たちに手を出さないでいてくれるなら、それでいいんだ」
　―――信じ、られない。
『人間には手を出さないでくれ』
　それを守ったのか？
　一歩間違えれば自滅していたっていうのに？
「は……」
　あまりの事実に笑いがこぼれた。
　俺はいま、かつてないほど呆れている。
　呆れながら、やっぱりそれ以上、かつてないほど感謝している。
　……<目蓋|まぶた>を閉じる。
　これなら、もう眠ってもいいと思う。
　さっきまで後悔しかなかった胸は、今は安堵に包まれている。
　意識が途絶えていく。
　足の痛みも忘れて、深い眠りに落ちていく。
　……と。
　ぱかん、とアルクェイドに頭をたたかれて、強引に意識を戻された。
「……なんの、つもりだ」
「だめ。そんな傷で眠っちゃったら、起きてからよけい苦しいでしょ？　眠るのは傷を塞いでから。その方が効率的よ」
　―――そりゃあまったくの正論だ。
　それと同じ事をコイツに言ったのは誰だったっけ。
「……アルクェイド。本気で忠告していいか」
「ん、なに？」
「あのな。あんまり無茶いうな、このばか女」
　それが限界。
　今ので本当に、俺はすべての体力を使い切った。
　意識が遠のく。
　アルクェイドが何事か騒いでいるけど、もう目を開ける力もない。
「あ……ちょっと志貴、本当に眠っちゃうの……？」
　……だから、眠いんだって。
　死ぬ前に眠るから、朝になったらちゃんと起きるよ。
「ほんとにほんと？　それ、きっと痛いよ？　治さなくていいの？　起きたら間違いなく失神するよ？」
　―――ああ、うるさいな。
　俺は眠るから、やりたかったらすきにしてくれ。
「うん、そういうコトなら早く言ってくれれば良かったのに」
　明るい声が聞こえたあと。
　冷たい、今の自分の体より冷たい指先が、いたわるように肌に触れていくのを感じた。
　心地いい感触に、眠気より歓びが顔を出す。
「戦利品？　っていうか、祖の死骸？
　ま、いっか！　ちょうど、どこに捨てようか困ってたモノがあったんだ！」
　……ぬちゃり？
「なな、なに、なにいまの感触、なんか塗ったのか今！？
　うお、いた、いたた、痛覚もどってきてるーーー！？
　めっちゃ痛い、いや痒い、つーか怖い！
　おまえ、一体―――」
　何をしやがった、と言いかけたところで、すさまじい虚脱感に襲われた。
　今の怒鳴り声が、この体に残された最後の熱量だったのか。
　意識は、今度こそ抗いようのない眠りに落ちていく。
「大丈夫、悪いモノじゃないわ。削げた肉の分だけならこれで塞がるわ。
　でも、骨ばっかりはちょっと無理かな。後でちゃんと人間の医者にかかりなさい」
　冷たい指先が、離れていく。
「眠っちゃった、志貴―――？」
　―――ああ、ほんとうに眠ってる。
　こんなに深い―――恐ろしくない眠りは、久しぶりだ。
「しょうがないなあ。志貴の家って坂の上の屋敷でしょ？
　なんとか送り届けてあげる」
　―――眠ったまま、ただ、白い月だけを見ている。
「……おつかれさま志貴。それとありがと。
　今夜はあなたのおかげで助かっちゃった」
　これっぽっちも重みが感じられない感謝の言葉。
　声はそれきり聞こえない。
　今度こそ誰にも邪魔されずに、遠野志貴の意識は深い眠りに落ちていった。
　駅前の大規模な火災から数時間後。
　火災発生時、火の勢いから消火作業には二日を要すると現場の消防員から報告があったものの、午前零時を待たずして火の手は弱まり、ほどなくして鎮火した。
“まるで生き物のように、ひとりでに消え去った”とは、現場に詰めていた警官の弁である。
「国道305までの交通規制は明朝５時までに解除。
　高速道路は先ほど規制を解除したとの事です。
　こちらも現場に残っていた死徒の痕跡処理を完了しました。
　警視庁に向かわれますか、マーリオゥ様」
「行きたかねぇが仕方ねえ。この規模の騒ぎは<本|う><国|ち>でもそうはねえからな。
　ジジイの名前だけじゃ収まりはつかねえだろ。オレも出向いて誠意ってもんを見せないとな」
「では私も同行いたします。
　現場の指揮は、例の代行者に委任しますか？」
「あー、なぜか潜入捜査してたアイツらか。
　ツーマンセルなんだよな？　下っ端の方は、オレのホテルに呼びつけて待機させとけ。使い道があれば使う。
　<埋葬機関|あっち>の方はできるだけ早く本国に帰らせろ。セオナトールをつっつけばすぐに動く」
「かしこまりました。ノイ司祭に、ラウレンティス様の名義で抗議文をお送りします」
「おう。ここでの仕事はだいたい終わった。
　現場の後処理は誰にやらせてもいいんだが……
　おいアンドー！」
「へーい、お呼びですか坊ちゃん。
　いやあ、着任早々ついてないッスね。こんなんガス爆発で誤魔化すとか無理ですわ。どっかのテロ組織に声明でもだしてもらいます？」
「そっちはいらねえ、対外的な処理は<こ|・><こ|・><の|・><持|・><ち|・><主|・>に押しつける。叩けばホコリが出そうだからな。
　オレたちの仕事は“ここにあるとまずいもの”の回収だ。死徒の痕跡はあらかた拭ったが、被害者の処理にまだ不満がある。オマエ、やっとけ」
「ウッス、りょうか……
って待って待って、坊ちゃんがいつも連れてる大部隊、まだ入国してませんよね？
　もしかしてオレだけで？　遺体をぜんぶチェックして？　噛まれたかもしれない“なりかけ”を見つけ出せと？」
「見つけ出すだけじゃねえぞ。生きているなら教会に送れ。死んでいるならもう一度殺してやれ」
「げぇ。そういうドブ浚いがイヤになったから、坊ちゃんに雇ってもらったんですけどねぇ、オレ」
「急げ。遺体の安置所には人払いをさせておく。貴様なら夜明けまでに済む筈だ」
「まあ、動かない標的に引き金を引くだけのお仕事ですし。精神的な負担を無視すれば、の話ですけどね？」
「車を回せカリウス。
お役所回りを始めるぞ」
「はい、すぐに。
　その他、手配は必要ですか？　この規模の汚染であれば、応援の要請もすぐに、」
「その必要はねえ。つーか絶対報せるな。この件はここだけで片付ける。
　しばらくは情報収集だ。これでも正義の味方だからな、いたずらに犠牲は増やせない。
　誰が敵で誰が邪魔者か―――きっちりアタリをつけなくちゃな？」
【制作中】「……逃げるしか、ないのか。」
　投擲だ。
　いや、正しくは弾丸か。
　警戒されたとはいえ、俺がヤツにとって死の凶器である事に変わりは無い。
　あとはこれをどう撃ち込むかという話。
　単純だ。俺の脚ではたどり着けないなら、俺以外のものに頼ればいい……！
　後方のアルクェイドまで走る。
「志貴―――！」
　背中で氷の砕ける音がする。
　アルクェイドが起こす爪の形をした風圧は、彼女の手が届く範囲だけでなく、この距離でも正確に発生するようだ。
「もう、なんでこっちに来たの！？　標的が一つになっちゃうじゃない！」
　獲物はまとまっていた方がヴローヴには好都合だ。
　それは俺も分かっている。
「分かってる、でもこれしかない！
　いま瓦礫をブン投げただろ！？
　それ、俺にもやってくれ！」
「はあ！？」
　正確には『俺でやってくれ』だ。
　先ほどの瓦礫は３メートル近い床の一部だった。
　それをあのスピードで投げ飛ばせるのなら、俺が走るより何倍も速い！
「言いたいコトはだいたい分かったけど！
　それ、途中で振り落とされない！？」
「普通ならな！　でも縛るものならいくらでも出せるだろ、おまえ！」
「―――そりゃあ、出せるけど」
　アルクェイドは躊躇しているが、今はこれしかない。
　俺が隠れられる大きさの瓦礫に縛り付けてもらい、ヴローヴまで投擲してもらう。
　もちろんヴローヴを直接狙っては撃ち落とされる。
　投擲する瓦礫は、可能であれば三発。
　一発目はヴローヴを直接狙い、
　二発目はわざと狙いを外してヴローヴの後方に、
　三発目は再びヴローヴを狙う。
　俺が潜んでいるのは二発目だ。
　地面に落下する直前、瓦礫に走る『線』を斬って解体し、２秒以内にヴローヴの背後をとってやる……！
「本当にそれでいいの？
　タイミング逃したら衝突死体よ？」
「逃したらな。うまくいけば無傷で殺せる、唯一の手段だ」
　氷の槍の掃射は勢いを増している。
　これ以上、ここで時間は使えない。
「―――わかった。ヴローヴを狙いながら、志貴の乗った瓦礫だけ外すのね？」
「ああ。アイツの横を通り過ぎるくらいでいい」
　アルクェイドの後ろにまわる。
　大きめの瓦礫に身を寄せる。岩肌に体をつけ、腕立て伏せの状態になる。
　アルクェイドの指先から現れた緑の蔦が、俺を瓦礫に縛り付ける。
　両脚の太股と、左手が瓦礫に固定される。ナイフを持った右手だけが自由になる。
「ヴローヴまで50メートル、
　さっきのがあんな感じだったから―――」
　アルクェイドは両手で、ただの瓦礫と、俺が隠れている瓦礫を持ち上げると、
「うん、４秒我慢して！！」
　空中を走る１トンの<岩盤|だんがん>。
　３秒後。
　空気抵抗による失速を力でねじ伏せるように、一投目はヴローヴの頭部に飛来し、
　命中する直前、氷槍によって砕け散った。
　とはいえ無為に終わった訳ではない。
　瓦礫は砕かれたものの、その破片の何割かはヴローヴの体に直撃した。
　ダメージは無くとも意識を削ぐ事はできている。
　その隙に、俺を乗せた瓦礫はヤツの真横を通り過ぎた。
　瓦礫を解体する。
　慣性が停止する。
　手足が自由になる。
　トカゲのように地面に吸い付く。
　体温が、血液が、この一瞬で凍結していく。
「―――ハァ」
　ヴローヴの背中が見える。
　距離は４メートル。ギリギリだが不可能ではない。
　アルクェイドの三投目がヴローヴの動きを止めている。
　１秒経過。残り１メートル。
　あと二歩踏み込めば、ヤツの命を絶つ『線』に届く。
　だが。
　その二歩を縮める事は、人間には不可能だった。
「――――――」
　悲鳴をあげるだけの余裕も、
　苦痛を感じるだけの感覚も、既に凍っていた。
　俺に気づいていたのか、自動的な迎撃なのか。
　ヴローヴの周囲には、襲撃者を迎え撃つ氷の茨が、無数に生えていた。
「“―――愚かにも、安全を拾ったな”」
　失望した声が届く。
　安全。安全。そうか、安全か。
　俺は自分が助かる方法を考えた。
　アルクェイドは俺を気遣って、他の投擲より遅い、１秒分の手加減をした。
　……失敗した。浅はかにも程がある。
　こんなもの、奇襲でもなんでもない。
　出血死を待つまでもない。
　ヴローヴに罹った寒波と、己への失望から、俺の心臓は完全に停止していた。
　牽引だ。
　それしかない。我ながら冴えてる。
　そう、こちらが近づけないのなら、相手の方から来て貰えばいい。
　俺ひとりでは不可能だが、アルクェイドにまだあれだけの力が残っているならいけるかも……！
　後方のアルクェイドまで走る。
「志貴―――！」
　背中で氷の砕ける音がする。
　アルクェイドが起こす爪の形をした風圧は、彼女の手が届く範囲だけでなく、この距離でも正確に発生するようだ。
「どうしてこっちに来ちゃったの志貴！？
　なんかすごく得意げな顔してるけどーー！？」
「説明は後だ、いいからアレやってくれ！
　さっきヴローヴを捕まえた蔦！」
　今は時間が惜しい。
『ヴローヴを蔦で縛ってほしい』というジェスチャーをしながら叫ぶ。
「この距離でー！？　
と、危ない危ない……っ！」
「投げ縄の要領でなんとか！」
「はあ！？　ああもう、よくわかんないけど捕まえればいいのね！？」
　こちらの必死さが伝わったのか、アルクェイドは訳が分からないながらもヴローヴに向けてその手をかざし、
「さっすが！　すごいな、アルクェイド！」
「えへへ。でも、これからどうするのー！」
「もちろん―――全力で引っ張ってくれ！」
「全力って、こんな感じー！？」
　瓦礫をあの勢いで投げつけられるアルクェイドなら、ヴローヴを高速で引っ張れる筈だ。
　俺が走るよりそちらの方が遙かに速い。
　問題はヴローヴの“踏み止まる力”がどれほどなのか。
『距離』という有利をヤツが手放す筈がない。ヤツは最大限、アルクェイドによる牽引に抵抗するだろう。
　これはふたりの吸血鬼による綱引きだ。
　力を弱めた方が相手の陣地に引き込まれ―――
「―――え？」
　瞬間。50メートル向こうの、黒い外套が消失し、
　こちらが構えるより速く、倒すべき敵が、目の前に現れていた。
　この空間に安全圏はない。
　ヴローヴは近づかないのではなく、俺同様、近づく余力が無かっただけだ。
　だというのに、俺はヤツに追い風を与えてしまった。
「―――、ァ」
　胸に、巨大な異物が刺し込まれている。
　俺は大きく、人生最後になる息を吐いて、
「“―――狩りの基本も知らないのか。
　　縄をかけるのは、獲物を仕留めた後だろう”」
　心底から失望した、狩人の声を聞いた。
　まったくだ。
　自分の命も使わず、安易な思いつきに飛びついた。
　野良犬以下の阿呆には、相応の結末だ。
　……アルクェイドは正しい。
　他の犠牲を考慮せず、自分の戦力回復に専念するのは吸血鬼として……いや、戦法として間違っていない。
「……そう、だな。おまえは吸血鬼、だもんな」
　でも、駄目だ。
　どうしてもアルクェイドの方針には頷けない。
　俺が戦うと決めたのは、自分だけが生き残る為ではなかった筈だ。
「おまえの方針は分かった。
　でも、本当に不意はつけないのか。睡眠中の死徒は用心深いっていうけど、どのくらい危険なんだ？」
　昨日のアルクェイドを思い出す。
　眠りについたアルクェイドは完全に無防備だった。
　他の動物だって睡眠中は無防備だが、こいつの場合は無防備というより無警戒……機械に喩えるなら“電源が落ちている”状態だったと思う。
　……それなら勝機はある。
　起きているヴローヴには近づく事も出来ないが、眠っている相手なら、俺には絶対の殺害手段がある―――
「どのくらい危険かって、ほとんど城攻めのようなものよ。
　死徒は堅固な要塞を作って、その奥で眠りにつく。
　正門から最深部までは眷属たちが警護しているから、突破する頃には夜になっているのがザラね」
「突破する頃、か……おまえが元気な時でもヴローヴの城攻めは厳しいのか？」
「安くみないで、万全なら正面から城ごと潰しているわ。
　……まあ、それだとカンタンに逃げられちゃうんだけど。
　歴戦の死徒は事前に逃走経路を用意しておいて、自分より強い個体がやってきた場合、一目散に逃げ出すのよ」
「……自分より強い個体が来た場合……」
　つまり、取るに足りない人間がひとりやってきたところで、警戒せずに眠り続ける可能性が高い、という事だ。
　アルクェイドにはなくて、俺にはある利点。
　城を壊すには大量の砲弾を必要とする。
　けれど生き物を一体殺すだけなら、一握りの毒で事足りる。
「分かったよ。たしかにおまえと俺のコンビじゃ攻めこむのは難しそうだ。
　……でもヴローヴの根城はそんなに危険なのか？　いや、大きさとか、手下が多いとか、そういう話だけど」
「んー、難易度的には中の下ってところかな。城っていうより迷路だし、デパートを利用してるだけだし。
　うん、きっと入り口はあそこ。それは間違いないと思う」
「デパート？」
　吸血鬼たちのよく分からない専門用語じゃなくて、百貨店的なデパート？
「そ。北口の駅前の、公園の前にある大きなやつ。
　うまく隠されているけど、アレ、死徒の巣よ。食料はあのデパートから城主の下に送られてると思うけど」
「ほ、ほんとにそのデパートかよ！　い、いや、それより街の中心に吸血鬼の住み家があるっていうのか!?」
「な、なによ、作ったのはわたしじゃないったら！
　あなたたちの家だって蟻や蜂に巣を作られるでしょう？
　それと同じよ。死徒は人間の血液に寄生するんだから、住み家は人間の街に近いほど効率的だし」
「っ――――――」
　当然のように語るアルクェイドから目を背ける。
　……改めて決意が固まった。
　ヤツがそんな身近にいる害虫だと言うのなら、もう一刻の猶予も与えない。
　……いいとも。
　アルクェイドには出来なくて、
　俺ひとりになら出来る事を、やってやる。
“アルクェイドの力が回復するまで待つ”
　その方針が決まって安心したのか、アルクェイドはすぐに眠りについた。
　俺はそれを見届けてマンションの外に出た。
　……向かう先は言うまでもない。
　ヴローヴの根城があるという、駅前のデパートだ。
　駅前の様子は普段と何も変わらない。
　広告や商品を展示した華やかなデパート通り。ウインドウを横目に見ながら行き交う人々の姿。
　その流れの中の一つに、見慣れた大きな百貨店がある。
　街でも一、二を争う大きさのデパート。
　いまも大勢の人々が出入りし、総耶駅前の顔とも言えるこのデパートが、本当に……？
「……駅前の一等地だぞ、ここ。
　吸血鬼なんて影も形もないだろ……」
　ないのだが、アルクェイドの嘘とも思えない。
　アイツは常識がないだけで判断も情報も正確だ。
　常識に囚われていないからこそ、この有り得ない事実に行き着いたのかもしれない。
「そういえば……有彦のヤツ、北口でおかしな話があるって言ってたな……」
“誰にでもできて割のいいアルバイトがある”
　信憑性のない都市伝説、子供だましの誘い文句だ。
　それが<廃|すた>れず、それでいて派手に広まらず、ネット上でいつまでも生き続けてきたのは、それがまったくの嘘ではないからなのか。
　そのアルバイトの内容を証言する者はいない。実際に経験した人間がいるのかも不明のままだ。
　だと言うのにアルバイトの噂は流れ続けている。
　受信者は不特定だが、発信は今も続いている。
　……つまり。内容の真偽はどうあれ、第三者を必要としている何者かは実在するという事だ。
　結論から言うと、デパートに異常はなかった。
　地下の食材売り場から地上七階の専門店まで、何の変哲もないデパートだった。
　ただ、
「……七階から<上|うえ>がない。このデパートの大きさから考えれば、十階ぐらいはあるはずなのに……」
　エレベーターは七階までのボタンしかないし、階段は七階に立ち入り禁止の立て札が置かれていた。
　人がいない時を狙って、立ち入り禁止のロープをくぐって階段を上る。
　階段は上階まで続いているものの、そこで行き止まりだった。
　八階のフロアに通じる部分には、当然のようにシャッターが下ろされている。
　その隣りには鍵のかかった非常扉が一つ。
「……何かあるとしたら、この向こうか……」
　中に入るか、ここで戻るかを思案する。
　自分が無謀な事をしようとしているのは理解している。
　俺だけで怪物の住み家に踏み入る。
　それがどれほどいかれた事かは、
　俺はもう、何度も味わって知っている。
「……大丈夫。それでも行けるはずだ」
　ポケットに忍ばせたナイフを握りしめる。
　俺にはいざとなればこの眼がある。
　警察に駆けこんで事情を説明する、というのも考えた。それが一番安全だからだ。
　けどそれでどうなる？　そもそも俺はこれから“殺し”に行くんだ。そんな殺人者が警察に駆けこんだところで誰を説得できるのか。そもそも目的を共有できるはずがない。
「……まずは様子を見る。
　手に負えなければあいつの部屋に戻ればいい……」
　眼鏡を外して、鍵のかかった非常扉の鍵を“殺す”。
　緊張で痺れた喉に、硬い唾を流しこむ。
　俺は深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、電気の明かりの途絶えたフロアに滑りこんだ。
　八階フロアの中は一面の闇だった。
　電灯が消えているのだから当然と言えば当然だが、それでも予想外すぎた。
　今は日中だ。たとえ電気が通っていなくとも、窓からの陽差しで明るくなくてはいけない。
　しかし、実際はこれだ。窓という窓は内側から鉄板のようなもので塞がれている。
　窃盗対策にしては行きすぎている。
　鉄板はボルトで取り付けられており、人の力では取り外せない。トイレの小窓にまで鉄板は張り付けられている。
　病的なこだわり。そのクセ仕事は乱雑だ。
　鉄板の大きさは窓の大きさと微妙に一致していない為、わずかな隙間から陽差しが入っている。
　外からの侵入者を阻んでいるのではなく、内からの脱走者を出さない作り……としか思えない。
　それとも―――そんなのは考えすぎで、これは単なる<日|・><除|・><け|・>なのか。
　だとしても……
「……綺麗すぎないか、ここ……？」
　廊下にはいたるところに埃が積もっていたのに、異臭もせず、おかしな物体も見当たらない。
　これじゃあただの改装中のフロアだ。
　ホテルの時のような惨状は影も形も見当たらない。
「九階も奇麗なもんだ……アルクェイドのヤツ、何か勘違いしたのかな……」
　張り詰めていた神経がわずかに緩む。
　わずかに緩むだけで致命的なのだと気付かないまま、十階フロアに上がる。
　その、瞬間
「ああ？　どこの誰だよテメエ、なーに勝手にヒトん家にあがってるんですかぁー？」
　突然の人の声に身構える。
　階段を上がりきったエントランスには、懐中電灯を持った二人組が立っていた。
「………………」
　光に目を細めながら観察する。
　二人とも男性、年齢は俺とそう変わらない。
　手には懐中電灯だけ。バット、パイプといった長柄の道具は持っていない。
「おーい、なに黙ってるんですかー？　ワルイコトしてる自覚あるんですかぁー？　なにコイツ、ダサくねぇ？　見るからにビビッてねぇ？　オレたちと人種違いすぎね？　なートシ、このメガネクンは知り合いですかぁー？」
「いやあ、知らない知らない。こんなオタクと知り合ってたらオレ、恥ずかしくて死んでるって。
　はーい、そこのボクゥ、こっち来てねー？　逃げたら酷い目に遭うからねー？　つーか殺すか。法律的に殺していいんだよな、不法侵入って」
　二人組は笑いながら、その場所……エレベーターの前から動こうとしなかった。
“逃げるな”と言いながら、俺がこのまま階段に逃げる事を考慮してもいない。
「あれ、なんか反応うすい？　逃げねえの？　フツー逃げるでしょ、このシチュ。トシ、コイツなんか怪しくねー？」
「テメエの顔がクドすぎんだよ。メガネくんには刺激が強すぎるってもんだ。……なあ、そうだよな？　面食らってるダケだよな？　なんで立ち入り禁止のフロアで遊んでるワケ？」
「……………」
　暗闇で、二人組の目が、鈍く光った気がした。
「………………」
　どうする？
　逃げ出すか、話を聞き出すか。
　そもそもここは本当に吸血鬼の住み家なのか。
　それをこの二人組に<確|・><認|・><し|・><て|・>いいのか。
「なにこれ、もしかしてボーナスタイムじゃね？
　なあトシ、アポのないヤツは好きにしていいって話だよな、たしか！」
「うるせえハル、一分だけ黙ってろ。
　で、どうなのオタク。ただの物好きなワケ？」
「……………」
　情報と、状況を整理する。
　俺は二人組の動きを確認しながら、
「……すみません。ここで、アルバイトができると聞いたんですけど……」
　自信なさげな声音で、トシと呼ばれた男の顔色を窺った。
「……アルバイトねぇ。どこでその話を？　最近はバカな女連中にしか話してねえんだけどな」
「人づてに知ったんです。北口のアパートで一晩過ごせば大金がもらえるって」
「……なんだそりゃ。
テメエ、本気で言って、」
「いいじゃんよぅトシ！　多い分にはいいんだからさァ！
　つーかほら、コイツのダッセェ服、<総耶|そうや>の制服じゃん！　さっき捕まえた女と同じ校章だし、仲間じゃねえのかな！」
「――――――」
　なんとか平静を保った。
　さっき捕まえた女……という事は、俺より先にこいつらと話して、捕まった誰かがいるという事だ。
「……まあいいか。たしかに頭のゆるそうな女だったしな。
　いいぜ、アルバイトだろ？　連れて行ってやるよ」
「ヒュー！　勇敢な挑戦者一名様、ごあんなーい！」
　ハルと呼ばれた男がエレベーターのボタンを押す。
「……っ」
　暗闇に駆動音が響く。
　ここだけは電気が通っているようだ。
「おら、入りな」
　……男の言葉に従って、エレベーターに入る。
　二人組は俺のあとにエレベーターに入ると、Ｂ１のボタンを押した。
「……あの、どこに？」
「地下だよ、地下。Ｂ１って見えねえか？　そこで一晩過ごしてくれればいい。戻ってきたら上客の仲間入りだ。丁重に扱ってやる」
「そうそう、すごーくカンタンでちゅからねー！　時間をつぶせばいいだけ、なぁーんにも怖いコトはありませーん！」
　ハルと呼ばれた男はギャハハ、と腹を抱えて笑う。
　……降下はやけに長かった。
　体感距離にすると地下四階分はあっただろうか。
「っ……!?」
　エレベーターが開くなり、強烈な光に照らされる。
　眩しくて外の様子が判らない。
　あるのは嗅いだ事のない異臭だけだ。
　たまらず鼻を手で覆って、外の様子を確かめようとし―――
「はーい、エサ一匹追加でーーーーす！
　おもしろおかしく食べられちゃってくださいね！」
　背中を蹴られて外に弾き出された。
「なっ……!?」
　落下する感覚。
　それも１メートル、２メートルじゃない。
　あのエレベーター、空中で止まっていたのか!?
「ぶはっ……！」
　エレベーターの下はプールになっていた。
　おそらく５メートルほどの高さから落下したのだろう。
　水面から顔を出して見上げると、エレベーターは停止したままだった。
　俺を蹴り飛ばした<男|ハル>は、顔をニヤつかせて見下ろしている。
「っ、あいつ……！」
　とにかく手足を動かして、岸を目指して泳ぐ。
　水はどろりと濁っており、つかっている事自体が危険な気がする。
　10メートルほど泳いで岸にあがる。
「はぁ、はぁ、はぁ―――！」
　まだ頭も体も混乱している。
　肩で息をしながら周囲を見渡す。
　……くそ、ライトが眩しくてまともに見られない。
　読み取れるのはここがそれなりに広い空間である事、周囲にはいくつもの小道が延びている事、靴の感触から地面は石である事ぐらい。
　それと鼻を突く異臭。
　肉の腐った臭い。水の腐った臭い。糞尿の臭い。淀みに淀みきった、下水場の空気そのものだ。
“ぁ……ぁぁ、あああああ………”
「……!?」
　風の音に顔を上げる。
　今のは聞き間違いじゃない。
　次々に近寄ってくる足音。
　光から目を隠しながら周囲を見ると、そこには、
　もはや死人としか思えない者たちが、この広場に集まりだしていた。
　血走った目。こそげ落ちた筋肉。ズタズタの服装。
　口からもれる嗚咽とも悲鳴ともつかない音。
　路地裏で見た死人とそっくりな人影たち。
　でも、あれは―――
「……人、だ」
　意識が凍る。
　集まってきた彼等の後ろに、一息遅れてやってくるモノたちを見て、どちらが“生きている”のかを理解する。
「逃げ―――！」
　声をあげても間に合わない。
　俺と彼等はプールをはさんで対岸にいる。
　俺には、この水を数秒で渡るだけの体力はない。
“いぃぃいいいいやぁぁぁぁぁぁぁあああああああ！”
　炸裂する絶望の声。
　あれは、人間だ。
　俺と同じようにここに落とされ、何日も経った後の人間だ。
　彼等はエレベーターの音と光を見つけて、助けを乞うようにここに集まった。
　……獲物が、一箇所に集まったのだ。
「うひょー、すげえー！　クソども生きてますかぁー！
　生きてますねー！　ギャハハ、すっげえなにあれサイコー！　頭悪すぎて笑いとまんないんですけどぉ！」
　エレベーターからの笑い声が<木霊|こだま>する。
「――――――、ハ」
　頭痛がする。
　吐き気がする。
　足音が近づいてくる。
　ここにいては襲われるだけだと本能が悲鳴をあげる。
「ハッ―――はぁ、は―――！」
　恐怖に背中を押されて走り出した。
　唯一の脱出口は上空５メートルにある、あのエレベーターだと判っていても、ここから離れるしかない。
　俺は無我夢中で目の前の<通路|くらやみ>に飛びこんでいた。
「はっ……はぁ……はぁ……は……！」
　もうこれ以上は走れないと心臓が悲鳴をあげる。
　千切れそうだった両脚が無様に膝をつく。
「は……ぁ、あ、は―――」
　背中を隙間だらけの壁に預ける。
　顎をあげて、熱くなった肺の空気を流出させる。
　……そこまでしてようやく、すべての混乱から解放された。
「ぁ……ああ、あ―――」
　なんだ。なんだ、あれは。なんだここは。
　粘膜のような空気。油と肉と血の匂い。
　壁にはテラテラとこびりついた動物脂。
　道は緩やかに下へ下へと傾斜している。さながら、地獄の底に落ちていくように。
「はあ―――ぁ、は―――」
　暗闇に目をこらす。
　背中を預けていたのは壁ではなく、頑丈な鉄格子だった。
　鉄格子。つまり牢屋。
　この、今は誰もいない通路から、牢屋の中に視線を移せば、
　　　　　　　　１メートルほどの芋虫が
　逃げ出せないように<触覚|てあし>をもぎとられた、以前は生き物だった何かの肉片が、転がっている。
「う、ぐ…………！」
　鈍器で頭を殴られたような吐き気。
　灼熱の塊がのど元までせり上がってくる。
　それはまずい。匂いをだすのはまずい。あの死人たちが集まってくる気がする。
　頭を鉄格子に打ち付けて頭の中をリセットする。
　でも足りない。
　ここにいては足りない。
　ここにいてはいけない。
　この地獄を見続けてはいけない。
　精神か。倫理か。あるいは基底か。
　ともかく、遠野志貴を構成する何かが壊れる。
　だから早く、一刻も早く逃げ出さないと。
　エレベーターに戻って、なんとかしてあの二人組にとりいって、地上に戻してもらわないと―――
「は――――――、ァ」
　怒りから、頭を鉄格子に打ち付けた。
　人として正常な判断を、過剰な痛みで封殺する。
　吐き気がする。吐き気がする。吐き気がする。
　つくづく、自分の馬鹿さ加減に反吐がでる。
「……笑わせる。何が、覚悟だ」
　今も背筋を震わせる悪寒を、自分への罵倒で抑えつける。
　……本当に頭にくる。
　俺は覚悟なんて一つもできていなかった。
　吸血鬼は見過ごせない。一つでも多くの命を助ける。
　そう語っておきながら、現実を目の当たりにした途端、泣きながら逃げ出した。
「ああ―――ああ、ああ……！」
　情けなくて、悔しくて鉄格子を殴りつける。
　ざまあない。見ろ、なんて醜い。これが俺の本性だ。俺にあったのは正義感なんかじゃない。ただの優越感だった。魔眼という武器を持っている自分への思い上がりを、『覚悟』だなんて言い換えて……！
「……、……、……！」
　音を立てればアレがやってくる。
　それが分かっていながら鉄格子に感情を叩きつけた。
　……ホテルで燃え尽きた命。
　……ひとりだけ助かった自分。
　……そして、そもそもの元凶である自分。
　そんな罪悪感から逃れる為に、俺は、俺の有用性を証明したかったにすぎない。
　アルクェイドが止めるのも聞かず、ただ“殺せる”手段があるからと得意ぶった。
　俺は役に立つ人間だと。
　俺は役に立てる人間だからどうか許してくださいと、無意識に願っていただけの餓鬼だったんだ―――
「死ね。そんなガキ、もうここで死ねばいい……！」
　歯を噛んで、胸から沸き上がる叫びを飲みこむ。
　自分の醜悪さからこみあげる涙を<堪|こら>える。
　……浅はかな決断の代償。
　自分の力を過信し、自分の正体も見えず、安い覚悟で吸血鬼の根城に入った事を受け入れる。
「は―――あ」
　……そんな強がりで自分を追い込んで、ようやく呼吸が落ち着いた。
「……そうだ。逃げ道はない。俺には、もう」
　進む事しか残されていない。
　目を背けていた牢屋の中を凝視する。
　壁という壁に埋めこまれた<人骸|じんがい>を観察する。
　……浅はかすぎる決断だったとしても、俺は何の為に此処に来たのかを、脳髄に刻みこむ。
「……ビビッてる場合じゃない。
　そんなのは昨日の夜で終わっただろう、志貴」
　……偽善でもいい。
　自分だけが生きている事への罪悪感がぬぐえないのなら、いつまでも持っていればいい。その醜悪さがこの地獄を進む原動力になるのなら、最後まで利用してやる。
　他に<縋|すが>る<藁|わら>はない。
　自分の中のあらゆる<感|う><情|そ>を使って、俺はようやく、凝固した足を踏み出した。
　……硬い石の通路を進む。
　目が慣れてきたのか、周囲の様子が見えてきた。
　通路の材質そのものが<微|かす>かな燐光を放っている。
　壁には<松明|たいまつ>の跡もある。
　……考えたくはないが、ここに住んでいるモノは夜になると明かりをつける習慣があるらしい。
　通路は延々と続いている。
　直線に見えて曲線を描いている通路。
　牢屋の合間に横道が点在し、すべて同じような造りに見えるため、方向感覚もままならない。
　唯一の<道標|みちしるべ>は床の傾斜だった。
　とにかく下に向かっていけば前に進んでいる事になる。
「……この通路、何かのまわりを回ってるのか……？」
　長い廊下なのかもしれない。
　壁の向こうには円形の空間があって、その周りを歩かされている気がする。
　エレベーターのあったフロアを地下一階だとすると、
俺はもう何層か下の階に来ているはずだ。
「―――！」
　確かにいま、風の音が聞こえた。だがこの通路に風の通り道はない。今のは何者かの音だ。こもるような人の声。いや、人に類似した喉から漏れた空気。
「いる……この先に、あの死人が、」
　口内の唾を飲み下す。
　片手はポケットのナイフを取り、
　もう片手はメガネの<蔓|つる>に触れる。
「ハ―――――、あ」
　逃げ道はない。逃げ道はない。逃げ道はない。
　再三自分に言い聞かせる。
　吸血鬼と戦う事がどれほど無謀な事かは思い知った。
　……その上で先に進まないと。
　俺は、石のように固まった左足に、全身全霊をこめて、
「ああもう、きもーーーーーーーい！」
「！」
　決意と反応。どちらが先だったかは分からない。
　ただ、恐怖より直感が勝った。
　通路の奥から聞こえたのは女の<悲|こ><鳴|え>だ。
「ハ―――ハッ、ハ―――！」
　<脂|あぶら>で滑る地面を走る。
　狭苦しい通路から開けた空間に出る。
　視線を巡らし、即座に構造を把握する。
　大きさにして直径６メートル、高さ２メートル弱の大部屋。
　そこに
　死者たちに壁際まで追い込まれた、まだ生きている人間の姿があった。
「キャアアアァァァァアア！！！！」
　―――思考が、取得情報に追いつかない。
　女は見知った顔だった。
　何故ここに、と思う暇はない。
　女―――ノエル先生が死者に食いつかれるまで、あとたった１メートル。
「っ―――、ァ―――！」
　足は止められない。
　死者たちは女に群がっている為、俺に背中を向けている。
　こちらとの距離は４メートル。接近まであと２秒。
　間に合わない。間に合うか。
　走りながら眼鏡に手をかける。
ナイフを胸の前まで持ち上げる。―――死の線は。
　たしかに、ヤツらの首に視えている。
　助けるには殺すしかない。
　殺す事でしか、彼女を助ける術はない。
「っ……！！！！」
　落ちた。
　首を切断する筈のナイフは、墜落するように標的を変更した。
　死者の“死んでいる命”を停止する首ではなく、<女|ノエル>に伸ばされた腕の線だけを切断した。
　それは俺の意思ではなく。
　咄嗟に思考を止めた、遠野志貴という人間の理性だった。
“くそ―――くそ、くそ、くそ―――！”
　どこまで情けないんだ俺は……！
　相手は怪物だから、死人だから“殺して”しまえる？
　そんな理屈は実際に仕留めてから口にしろ。
　生者であろうと死者であろうと変わりはなかった。
『同じカタチの生き物を殺す』ということ。
　それがこんなにも、ナイフの切っ先を鈍らせるほど、吐き気がするものだったなんて―――
「うそ、志貴クン!?」
「っ、先生、こっち……！」
　振り返る死者の横をすり抜けて、ノエル先生の腕を掴む。
　逃げる獲物を追うように残された腕が伸びる。
　その<爛|ただ>れた腕の線にナイフを通す。
「え、ちょっ、今のなに!?　ナイフ!?　ナイフで切ったの!?
　っていうかキミほんとに志貴クン!?　夢じゃなくて!?」
「いいからこっち！　逃げます！」
　ノエル先生の手を取ったまま、すぐ真横の通路に飛びこむ。
「ひぃ……追いかけてくる、追いかけてくるぅ……！」
　背後に響く足音。
　それを振り払うように走る。
　走りながら嘔吐を堪える。ナイフを握る手に残った感触を必死に飲み下す。……死人の腕を切断しただけでこれだ。あの時首を切っていたのなら、俺はショックで動けなくなっていたかもしれない。
「はぁ、はぁ、は……！　もっと速く走って！　追いつかれたら殺される、殺されるからぁ！」
「って、先生、暴れないで！　あと黙って！　声をたてると他のゾンビを呼び寄せる！」
「痛い、痛い、痛い……！　もっと優しく握って、だめ、もっとしっかり握って！　引っ張って、もう走れない、わたしもう走れない！　助けて、助けて、助けて、助けて！」
　ノエル先生は走りながらわめき続ける。
　この状況だ、半狂乱になるのは仕方がない。
　俺だっていっそ楽になってしまえればと何度も思った。
　それでも―――
「やだー、おうちに帰るぅー！　タクシー呼んで、タクシー！　あとコンビニでプリン買って！」
　この暴れようは、年長者としてどうかと思う！
「ああもう、うるさいっ！
　後で買ってあげますから、今はこれで我慢して！」
「うぶゃ!?」
　ノエル先生の横に並んで、左手で抱き寄せつつ、その口に指をつっこむ。口を塞いでしまうと息ができないので、あくまで喋らないようにする処置だ。
　当然、思いっきり噛みつかれた。
　指の第一関節あたりにザクッと歯が突き立てられる。
「……！　
……
、
……
！　
……………
！！！」
「いつ、いつつ……！　叫びたいのはこっちです！　とにかく走って！」
　もがもがともがくノエル先生を抱き抱えて、横道に身を隠した。
　……息を殺して様子を見る。
　追いかけてくる足音は途絶えていた。
　あの死者たちの動きは人間なみだが、終始素早い訳じゃない。基本的には緩慢だ。
　やつらは獲物を知覚した時だけ活動的になる。その範囲もそう広くない。せいぜい10メートル程だろう。
　……知覚する方法が視力によるものなのか、聴覚によるものなのか、あるいは別の何かなのかは、アレになってみなければ判らない話ではあるが。
「……ふう。もういいよ先生。ごめんな、乱暴だった。
　とりあえず落ち着いて。あいつら、もういないみたいだから」
　ノエル先生から手を放して周囲の様子を<窺|うかが>う。
　こっちだって物陰で縮こまっていたかったが、今は平静を装って先生を安心させてあげたかった。
「い、いない……？　あ、安全なの、ここ……？」
「……とりあえずは、です。<こ|・><こ|・>にいるかぎり、安全はないと思います。俺も落とされたばっかりで訳が分からないけど……って、そうだ。先生はどうして、」
　こんな場所にいるのか、と訊くより早く、壁に押しつけられていた。
「いやよ、どうして安全じゃないの!?　安全にしてよ！　わたしは生徒指導に来ただけ！　女の子限定のあやしいアルバイトなんて聞いたらほっとけないでしょう!?　残業なんてガラじゃなかったけど、たまたま、たまたま目の前でうちの子が連れていかれちゃったら放っておけないじゃない……！」
「ちょっ、先生……！　落ち着いて、静かに、静かに！」
「ねえどうして!?　おかしすぎる、意味わかんない！　どうしてデパートの地下にこんなところがあるの!?　どうして死体が動いているの!?　どうしてこんなものが今まで発見されなかったの!?　それに、それに、それに―――」
「おかしい、おかしい、おかしい！
　<ど|・><う|・><し|・><て|・>、<貴|・><方|・><は|・><そ|・><ん|・><な|・><に|・><平|・><気|・><な|・><の|・><よ|・>……！」
　がん、と胸元を<拳骨|げんこつ>の底で叩かれる。
　ノエル先生は半狂乱になりながら、涙目で、そんな言葉を口にした。
「……それ、は」
　俺は初めから、吸血鬼の根城と知ってやってきたんだ、し、
「ねぇ、怖くないの!?　いっぱい、いっぱい死体の山！
　まっとうな人間なら正気でいられない！　慣れるコトなんて、できるハズがないじゃない……！」
「――――――」
　息が詰まる。
　<女|ノエル>の泣き声は、<感情的|ヒステリック>でありながら、的確に俺の矛盾を指摘していた。
　あり得ない空間。
　蟻の巣のように張り巡らされた地下墓地。動く死体たち。
　生きながら食われた生存者。
　牢屋の中には積み重なった死体の壁。
　見ろ。これが地獄だ。
　命あるものなら正視できない、慣れる事のない暗黒だ。
　理性ある人間だからこそ、この中で<正気|じぶん>を保つ事はできない。
　まっとうな人間であるのなら。ここでは皆、<死体|やつら>以上に<知性|あたま>のない動物になるしかない。
「ほら、そうでしょう!?　わたしが普通なの！　正しいの！　ここで平気なヒトの方が、はじめっからおかしいの！」
「…………」
　女の目には憎しみがこもっている。
　俺はその意見に頷こうとして、いや、と息を吐いた。
　……だって、それは違う。
　うまく言えないけど、それはきっと、違うと思う。
「……違いますよ、先生。確かに俺はちょっと事情が違うけど、先生はそこまで自棄にならないでください。
　息を吸って、落ち着いて。先生なら耐えられます。
　たとえここが地獄でも、先生みたいなまっとうな人間だから、耐えられるんです」
「え―――？」
　……そうだ。
　その為に理性がある。恐ろしい現実に踏みとどまる為に、人間には理性がある。
　理性は壊れる為にあるんじゃない。
　自分には手に負えない、けれど乗り越えるしかないものと戦う為にあるものだと、昔、俺は確かに教わった。
　……皮肉な事に。
　俺のようなろくでなしには、出来なかった事だけど。
「だから大丈夫。落ち着いて、ノエル先生」
「ぁ……ううん、ムリ、ムリムリムリ！
　わたしたち、ここで殺されるの……！　さっきはたまたま助かったけど、同じように殺されちゃう！」
　ノエル先生は涙目で訴えてくるが、その眼には先ほどあった憎しみが消えていた。
　本人は気がついていないようだけど、もうパニックを起こしていない。
「じゃあそのたまたまを続けましょう。今は俺と先生、二人もいるんです。助け合えばなんとか―――」
「う……で、でも、一人も二人も変わらないってば！
　だってわたし、さっきまで二人だったんだから！」
「え……？」
　さっきまで、二人だった……？
「ちょっと待って。すみません、聞き忘れてました。
　そもそも先生は、どうやってここに落とされたんですか？」
「そ、それは……うちの制服の女の子がニット帽子の二人組と話してて……デパートに入っていって……立ち入り禁止の札を無視して八階にあがっていったから、なにしてるのって呼び止めたらエレベーターに入れられて……」
　経緯は俺とほぼ同じだ。
　あの二人組は吸血鬼の手下で、何も知らない人間をここに落とすのが役目なんだろう。
「それで、おかしな広間に連れて行かれて……一緒にいた女の子が、囮になってわたしを逃がしてくれたの」
「そう、だった……自分が捕まるから、先生は逃げて、助けを呼んで、って……しし、志貴クン、どうしよう！　わた、わたし、さっきまで怖くてあの子のコト忘れてた……！」
「もう一人いたんですね……!?」
　ノエル先生を助けられた事で緩んでいた思考が、一瞬で引き締まる。
「それは<何|い><時|つ>!?」
「ほ、ほんのちょっと前……！
　30分……ううん、１時間……えっと、えっと……あれ、どのくらい前だったかな……ごめんなさい、分かんない！」
「………！」
　必死に思考を巡らせる。
　何をするべきか。
　何ができるのか。
　そもそも、何の為に此処に来たのか。
「―――その広場の場所は分かりますか？」
「ちょっ、志貴クン、なに考えてるの!?　もも、もしかして戻るの!?　下に!?　イヤ、ダメだってば！　あのゾンビ、10体や20体じゃなかったんだから！
　ううん、それより―――もう間に合わないし、そもそも、助ける算段とかあるの!?」
「その子を助けられるかどうかは分かりません。
　……でも、まだ生きているのかだけは、確かめないと」
　深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
　ノエル先生から離れて、通路の先……傾斜が下に続いている方角に視線を向けた。
　いま彼女は“下”と言った。その広場とやらは、この通路の行き着く先にある可能性が高い。
「い、行くの!?　わ、わたしは行かない、行かないわよ!?」
「……うん。ごめん、先生。できればここで待っていてください。一緒に来るよりは、危険は少ないです」
「む、無責任、それ無責任よね!?　男の子なんだから、わたしを守ってくれるんじゃないの!?
　っていうか、わたしを助けに来てくれたんじゃないの!?」
「……すみません。それが、そうじゃないんです。
　これ、使ってください」
　せめてもの護身道具としてナイフを手渡す。
　俺ならともかく、こんな刃物一つで死体たちを撃退できるとは思えない。それでも、武器があるという事が心の助けになる筈だ。
「う、うぇ!?　ナイフ、これただのナイフ!?　でででで、でも志貴クンはどうするの!?　他に武器、あるの!?」
「なんとか見繕います。……しばらく待っても戻ってこなかったら、先生だけで逃げてください」
「――――――」
　先生にナイフを手渡して、足を進ませる。
　……申し訳ないけど、これが今の俺にできる精一杯だ。
「ああもう、待って！　行くから！　わたしも行くから！　ひとりにしないで！　そもそもこんなナイフ一本じゃ足りないし！　はい、志貴クンにお返しします！」
　ノエル先生は俺の腕を掴むと、強引にナイフを突っ返してきた。そのまま俺の腕に両手を巻き付けてくる。
　……意地でも離れない、という意思表示だった。
「わかりました。……正直言うと嬉しいです。先生がいてくれると俺もホッとします。あとはできるだけ音をたてないように、お願いします」
「う……うん、たてない。任せて、ちゃんと付いていくから」
　……俺の判断にノエル先生を巻きこんでしまった。
　せめて、彼女が恐怖で圧し潰されないように、ぎゅっと固く手を握る。
「い、いいけど……志貴クン、勇気あるのね？」
「ないです、ぜんぜん。やばそうだったら逃げます。
　……じゃあ行きます。<足元|あしもと>、気をつけて」
　足音を立てないよう、早足で通路を進む。
　駆け出したいところだが、それで死者たちに見つかっては本末転倒だ。
　……俺とノエル先生は息を殺しながら、より深い暗闇に下りていった。
　それは、我が目を疑う光景だった。
　高さ40メートルに及ぶドーム状の空洞。
　丁寧に研磨された床。
　天井を支える何本もの柱。
　天井中心部には窓らしき穴があり、灰色の陽差しを下ろしている。それこそ、雲の隙間からのぞく<天使の梯子|ジェイコブズラダー>のように。
　そして、陽光が降りそそぐ真下には一つの寝台があった。
　石で出来た寝台には少女が倒れている。
　その周囲には無数の死者たち。
　ドームに集まっている死者はざっと数えても30体。
　やつらは寝台を囲むように徘徊している。
　……寝台に近づかないところを見ると、死者にとってあの寝台は特別な意味があるようだ。
「……い、生け贄？　アレ、生け贄……なの？」
「………………」
　ドーム内には踏み入らず、通路に身を隠しながら中の様子を窺う。
　死者たちは寝台に意識を向けていて、やってきた俺たちに気づきもしない。
　それだけが唯一の幸運だが、この状況は想定していなかった。
「……あそこまで60メートル近くあるな……」
　遠すぎて少女の風貌はよく分からないが、生きている事だけは読み取れた。
　だって制服に血痕がない。
　あの子は無傷のまま寝台に眠らされている。
　……おそらく。
　この後、連中に<貪|むさぼ>られるために。
「……ここまでね。あんなの、どうやっても助けられない。
　……戻りましょう志貴クン。ここで逃げても、誰も文句は言わないわ」
「――――――」
　背中越しに声をかけられる。
　その、紛れもない現実に唇を噛む。
　ノエル先生の言い分は正しい。
　……死人たちに気づかれないよう壁沿いにまわりこんであの子を助ける？　そこまではいいとして、その後はどうする？　女の子ひとり抱えて逃げるのか？　あの寝台から、入り口のここまで？　不可能だ。あまりにも現実的じゃない。いいかげん、自分にできる範囲を頭にたたき込むべきだ。
「―――でも」
　それは、本当に無理なのか。
　俺の手には武器がある。武器があるはずだ。
　自分にできる範囲。それは逃げる事だけなのか。
　たしかにあの子を救うのは不可能だろう。
　けれどそれは、<絶|・><対|・><に|・>不可能な事じゃない。
　どれほど僅かなものでも、まだ“助けられる”という可能性が残っている。
「ちょっと……志貴クン？」
「―――先生は通路の方に隠れて。柱に隠れながら、できるだけ近寄ります」
「や、やめなさいってば！　真っ青な顔で、震えながらなに言っちゃってるの!?」
　迷いを殺しながらドームの中心を見据える。
　……あの子を助けるコトに命をかけるのは、ここにきた目的じゃない。俺は人間を助ける為ではなく、吸血鬼を仕留める為にここまで来た筈だ。
　……でも、目の前の命も放っておけない。
　徹底していない。矛盾している。
　俺はこんなところでも半端なままだ。
　それでも―――
「そりゃ怖いです。……でも今は、これが正しいに決まってる」
　人を救う為に、人のカタチをしたモノを殺す。
　それが自己欺瞞、自分の有用性を証明したいだけの我欲、罪悪感から逃れたいだけの醜悪さである事は思い知った。
　自分がろくでなしである事を、俺はもう否定できない。
　でも。その上で、俺は俺にできる事をしたいんだ。
　ここで逃げ出したら本当に、俺は<無|た><能|だ>の人殺しだ。そんなヤツに、罪の償いができる筈がない。
　眼鏡を外す。
　群がる死者の“死”を直視する。
　側頭部に走る<亀裂|ずつう>。
　それを深呼吸と共に押し殺して、まずは一番近い柱の後ろへ足を―――
「え……え、あわわわわわ!?
　ご、ごめんなさい、わたしったら<松明|たいまつ>倒しちゃったーー！」
「っ―――！」
　判断は一瞬だった。
　俺は鳴り響く騒音と共に駆け出ていた。
　<死者|ゾンビ>どもが音の方向……俺たちのいる入り口に振り向くより早く、まず、障害になるモノを排除する。
　排除しなくてはならない。
　もう柱から柱に回りこむ、なんて安全策は使えない。
　気付かれた以上、このまま一直線に、最短距離で寝台まで辿り着く―――！
「っ、はぁ……！」
　ひときわ大きく息を吐く。
　全力で走りきった体を寝台に預ける。
　自分の意思による明確な殺害行為。その嘔吐感をかみ砕く。
　死者の線を―――命を切り裂いたナイフを逆手に持つ。
　背後には、いまさら侵入者を感知した死の群れの声が聞こえている。
　振り返っている暇はない。
　寝台に眠らされた、見知らぬ女生徒を抱き起こす。
　乱暴だが叩いてでも目を覚ましてもらわないと、さすがにここから逃げられ―――
「あの……起きてます、わたし」
「はい？」
　思わず、そんな声をあげてしまった。
　見覚えのないその女生徒は、俺が来る前から目を覚ましていたからだ。
「え……いや、君、大丈夫か!?」
「……だ、だいじょうぶ、ですけど……なんで……なんで、来ちゃったんですか……？」
　<辿々|たどたど>しい声で、不安げな眼で女生徒は見上げてくる。
　彼女に事態を説明する時間はない。
「立てるか!?　こっち！」
　手を繋いで寝台から立ち上がらせる。
　良かった、無事に歩けるようだ。
　問題は、
　この、周囲を取り囲む死体たちをどう突破するか。
「…………」
　死者たちは寝台に近寄りたくないのか、寝台を取り囲みながらこちらの様子を見ている。
　……それもいつまで続くか。
　ここにいれば安全とは言えない。なんとかして突破口を作るしかない。俺だけじゃなく、この子を連れて行ける道を。
　その為には、俺の方から<死体|ゾンビ>たちに仕掛けなければ―――
「もうっ、予定とは違う展開だけど仕方ないわねっ！
　わたしも我慢の限界よ！」
　ぼん、と派手な打撃音がした。
　ゴミ袋のように上空に跳ね上げられる人体。
　それが入り口近くにいた死者の一体である事を認めて、
「ノエル先生……!?」
　先生と呼んでいた女性の、とんでもない姿を目の当たりにした。
「おとなしく潜入捜査やってれば調子に乗ってくれちゃって。
　っていうか、Ⅰ階梯程度の雑魚がわたしのお気に入りに手を出すなんて言語道だーん！」
「見てて志貴クン、スーパー懺悔タイムのはじまりだから！」
　ごうん、と旋風をともなって振るわれる長柄の凶器。
　先ほどまでの服装はどこにいったのか、シスターの修道服に身を包んだノエル先生は群がる死者たちを粉砕していく。
「―――えぇぇえ!?」
　開いた口が塞がらない。
　長柄の武器を持ったシスターが、踊るように死者を蹴散らしていく。
　弾けた笑顔で、目を輝かせながら、修道服のスカートもバンバンひるがえして、時には投げキッスまで<披露|サービス>する、まさに年齢考えろ的な、それは決め決めのアクションだった。
　その活躍……いや悪目立ちで死者たちは寝台から離れ、新たな脅威であるノエル先生に向かって行く。
「ほら、志貴クンこっちこっち！　先生の後ろに隠れてて！」
　そんな死者たちの動きを考慮せず、暴れ回るノエル先生。
　ノエル先生は死者たちを蹴散らして寝台までやってきた。
　手にした凶器は２メートル近い、鋼鉄の槍だ。
　先端には斧のような<刃|は>がついている。
　<槍斧|ハルバード>、というヤツだろうか。
「ああ汚い、血と脂でべったりね。フレッシュゾンビってこれだから人気がないのよ。やっぱり蹴散らすならカラカラ鳴るスケルトンがサイコーよね？」
　ノエル先生はブン、とハルバードを一振りして、先端にこびりついた血肉を払う。
　……本物の鉄だ。こうして見るだけでも、とても彼女の細腕で振り回せる重量じゃない。
「あ、いや―――先生、一体何者ですか!?」
「いいじゃない、細かいコトは♡
　今は先生に甘えちゃって。わたし、こう見えて結構強いんだから！」
　何かが吹っ切れたような陽気さで、ノエル先生は死者たちの群れに突進する。
　次々と分断され、飛ぶ肉塊。
　逃げ惑う死者には容赦なく鉄塊を振り落とし、
　近寄ろうとする死者には細長い剣を投げつけ、これを串刺しにする。
　その姿はどう見ても死者以上の“異常”だった。
「シスターは趣味じゃなかったんですか!?」
「ううん。趣味でやってるのは先生の方なの♡
　いいからそこにいて、さくっとお掃除を済ませちゃうわ！」
　呼び止める声も届かない。
　ノエル先生は手近にいる死者を蹴散らしながら、より多くの死者が集まっている空間に飛びこんでいく。
「……っと」
　そこで、強く手を握られている事に気がついた。
　寝台にいた女生徒だ。彼女は不安げに事の様子を見つめていた。
「……………」
「ごめん、意味わかんないよな。俺もホントにわからないんだけど……うん、あの人は大丈夫だよ。ここにいるゾンビ全部より先生の方が強いと思う。今は動かない方がいい」
　握っていた手を放す。
　今は下手に逃げるより<寝|こ><台|こ>に留まって、ノエル先生が死者たちを全滅させるのを待つべきだと判断する。
「……？」
　ふと、背筋に悪寒が走った。
　……寒い。
　気のせいではなく、明らかに気温が下がっている。
　足元に目をやると床には霜が降り始めていた。
　その冷気に呼応するように、死者たちの動きが活発になる。アレは……まるで、何かに怯えている、ような。
「――――――血だ」
　今になって気がついた。
　粉砕された死者たちの血が、床の紋様に流れている。
　それは何かの儀式のように、<よ|・><く|・><な|・><い|・><モ|・><ノ|・>を呼び寄せている。
「ノエル先生！」
　先生の名前を叫んだのは俺ではなく、俺の隣りにいる女生徒だった。
　しかし声は届かない。
　修道服姿の女は、飛び散る血煙に酔いしれて、粉砕される死者たちしか見ていない―――
「未熟者、止まりなさい！　周囲に注意を！」
「え？」
　女生徒の声にようやく気がつく<女|ノエル>。
　その、死者たちにしか注意を払っていない無防備な体を、
　通路の奥から噴き出した炎が、死者たちごと丸焼きにした。
「きゃああああああああああ！」
「ノエル先生……っ！」
　一瞬、一撃の出来事だった。
　機関車のように走り抜けた青い炎。
　ホテルで見た人体だけを燃やす燐光。
　それは彼女を焼いたばかりか、
「ひ―――あ、あ―――！」
　赤い炎の手に変貌して女の体を掴み、炎の発生源……どこかの通路に繋がる入り口に、哀れな生け贄を引きこんでいく。
　通路の入り口には、あの吸血鬼の姿があった。
　ヴローヴ。
　ホテルの宿泊客を燃やし尽くし、人間の血を吸う悪鬼。
　ヤツはあの時と同じように女を抱き寄せる。
「う、そ―――なにこれ、聞いて、ない―――コレ、どこの何なのよぉ!?」
　青い炎に包まれながら女は叫ぶ。
　死者たちは炭化したが、女はまだ原型を留めている。
　理由は言うまでもない。
　燃やしてしまえば、その温かい血が吸えないからだ。
「え―――う、そ。
　やめて……やめて、やめて、やめてぇぇぇえ！！！」
　絶叫が響く。
　修道服は裂かれ、女の艶めいた首元が露出する。そこに、後ろから覆い被さるように、吸血鬼の牙が重ねられる。
「―――、て」
　意識が先鋭化する。
　時間の感覚が凍結する。
　間に合わない。あれはもう、絶対に間に合わない。
　それは誰が見ても―――傍らにいる女生徒にとっても―――明白な事実だった。
　走りだしたところで何も変わらない。
　駆けつけたところで終わっている。
　だが、俺は、
　見過ごす事はできなかった。
　女が吸血鬼に血肉を吸われる。そのイメージが神経を加速させる。それは許容できない。理由は<喪|うしな>われているが、それだけは我慢できない。
　両脚は反射的に駆動していた。
　呼吸なんて余分なものは止まっていた。
　真横から、俺を止めようとした指先がかすかに触れたが、間に合わない。この初動は俺の思考より早かったのだから。
　けれど、あまりにも遠すぎる。
　人間の足では遅すぎる。
　開かれた吸血鬼の口は食虫植物のようだ。
　女の鎖骨から首元に、べったりと、巨大なヒルのように食らいつく。
「ひゃ―――あ！　ああ、あ―――ああぁあああ……！」
　痙攣する女の体。
　絞り上げられる命の音。
　ごくごくと。
　汚らしく飲み下す音が、俺の<脳|みみ>にまで聞こえてくる。
　―――それで俺の意識も壊れた。
　―――目の前で食事をされるのはこれで二度目だ。
　―――よくも。よくも。よくも。よくも。
　―――おぞましい動く死人。ここで、死ぬまで殺してやる。
　気がつけば、手を伸ばせば触れる距離だった。
　ヴローヴは俺を意識していない。
　女との情事の最中であり、
　目の前のひ弱な人間一匹、意識するまでもないからだ。
　上等。その左腕を落とす。寄り道だが仕方がない。
　首は遠い。胸元を衝くには女が邪魔だ。だから女を抱く腕から落とした。
　女は吸血鬼の腕ごと地に落ちた。
　その息がまだある事を、視界の隅で確認する。
「“―――”」
　あり得ない切断に、吸血鬼の意識が覚醒する。
　即座に残った右腕を側面にいる俺へと振り下ろす。
　素晴らしい反応速度。
　だが単純だ。人体の範疇での反撃だ。<そ|・><れ|・>なら躱せる。こちらは勢いを止めず腰を落とす。俺の髪をすく鬼の爪。ヤツの首は遠い。胸もやや遠い。では確実に、目の前にある右脇腹の線にナイフを通す。
「“な―――に？”」
　噴出する他人の血。
　切断にはいたらなかったが、確かに通した。
　その箇所は<既|すで>に死に<体|たい>。どのような回復手段を持っていようと、死を克服できなければ、復元する日は訪れない。
　いける。吸血鬼の背中に回る。
　ヤツは何をされているのか理解できていない。
　俺の眼はヤツを殺せる。このまま完全に殺しきれる。
　冷血に興奮する。足から這い上がってくる悪寒に身震いする。足首があげる軋みに、生きている事を実感する。
　ここが勝負所だ。
　俺は、
　その状況を、冷静に見定めていた。
『女が吸血鬼に血肉を吸われる。』
　それを俺は許容できない。目の当たりにするだけで意識が焼き切れそうになる。
　その激情が、遠野志貴の良識を制止させる。
　間に合わない。
　助けられない。
　では何ができるか。
　―――決まっている
。
　獲物を捕食する吸血鬼。その致命的な隙を有効に活用する。
　ヒトであれ吸血鬼であれ、食事中は、暴力への対応力が低下する。
「ひゃ―――あ！　ああ、あ―――ああぁあああ……！」
　痙攣する女の体。
　絞り上げられる命の音。
　ごくごくと。
　汚らしく飲み下す音が、俺の<脳|みみ>にまで聞こえてくる。
　―――止められない。それでいい。
　―――だが必ず報いは受けさせる。
　―――女が死ぬ前に、その命を殺してやる。
　このまま押し切る。
　たった一度だけの、一呼吸分のアドバンテージ。
　ソレで十分だ。あと一歩踏み込み、ヤツの胸に走る線を切断する。
　不老不死なぞ猿の妄想。
どれほど特別な生き物だろうと、死は、例外なく内包される……！
「――――――」
　だが、ナイフが振るわれる事は無かった。
　踏み込んだ足元から、一瞬で体温が失われた。
　血流が止まる。筋肉が停止する。
「―――っ、ァ……！？」
　たまらず再開した呼吸で、口内と喉が切り裂かれた。
「“―――緩い頭だ。
　　この街の狩りなど、その程度だろうよ”」
　吸血鬼はなんと言ったのか。
　手足の感覚に続き聴覚も途絶えている。
　だが眼球はまだ健在だ。傷を負っていないのだから。
「こ、の―――…………！」
　気炎を上げて吸血鬼を睨む。
　しかし『線』は消失していた。
　ナイフを持つ指も砕けて散っていた。
　―――がしゃり、と。
　硝子の彫像が割れるような音が、鼓膜からではなく骨を伝わって、脳内に響きわたる。
　―――ああ。
　何も見えない。
　一面、ざらついた白い景色。
　まるで吹雪の中にいるようだ、と俺は思った。
「っ、ハ―――！」
　呼吸を再開する。血液に酸素を取り入れる。
　忘れるな。この吸血鬼は高温を放出していた筈だ。
　まっとうな生き物は近寄るだけで致命傷を負う。
　それを俺はホテルで一度味わっている……！
「……！」
　だが遅い。足首には燐光が灯っていた。
　足首の感覚が失われている。
“飛、べ……！”
　全力で横に跳ぼうとするが、動かない。
　さっきの足首の軋みは、既に俺が終わっていた事を告げるものだった。
　高温による炎症ではないが、正体不明の痛みで全身の機能が低下している……！
　顔をあげる。目前には血に濡れた外套。
　吸血鬼の右腕が、俺の顔めがけて振り下ろされる。
　―――失敗した。
　こんな単純な動作に対応できない。先ほどとなんら変わらない速度なのに体が重い。動かない。躱せない。これでは、頭を掴まれた瞬間、トマトのように潰される―――
　が。
　遠野志貴という<人頭果|じんとうか>の収穫は、横合いから炸裂した銃弾によって阻まれた。
　今のは銃弾……それもロケット弾の<類|たぐい>だと思う。
　そうとしか思えない。そうでなければあの吸血鬼を、あんな、30メートル近く吹き飛ばすのなんて不可能だ。
「っ……！」
　なんであれ助かった。
　今のうちに態勢を立て直して……
　だめだ、まだ足が重い……！
　熱で張り付いたように、床から靴が持ち上がらない。
　無理をさせた体も酸素が足りていない。
　俺はまだ一歩だって動けない。
　対して。
　視界には、彼方に飛ばされながらも平然と立ち上がり、右腕をかざす吸血鬼の姿があった。
「っ……！」
　今度こそ終わりだ。
　１秒後の焼死に怯えて、無意識に目を閉じる。
　…………、
　…………………、
　…………………………、熱く、ない？
「―――な」
　目を開けると、そこにはあの女生徒が立っていた。
　吸血鬼から放たれた炎は彼女の前で止まっている。
　いや、正確には弾かれている。
　噴出する炎の舌は見えない壁に弾かれ、俺にも彼女にも届いていない。
「……………」
　女生徒は炎を前にしても平然としている。
　その背中に声をかけたかったが、今は倒れているノエル先生も放っておけない。
「待って、動かないように。ノエル先生なら無事です。そのままでいれば目を覚まします」
　少女の声にハッとする。
　さっきは気にならなかったけど、今の声は―――
「シエル、先輩……!?」
「……はあ。できれば最後の時まで秘密にしておきたかったんですけど」
　ちゃきっと眼鏡をかける女生徒。
　それだけで、見覚えのなかった少女の雰囲気が一変した。
　……いや、俺はこの女生徒の顔を正しく見ていなかっただけだ。漠然と“見知らぬ女の子”と決めつけていた気がする。
「でもなんで!?　い、いや、それより先輩、火、火！」
「何故、はこちらの台詞です。……まあ、こうなってしまった以上はどうでもいい問題ですが。
　あの金髪の真祖から、代行者の話を聞いていませんか？」
「――――――」
　……代行者。
　吸血鬼を殺す為に派遣される、教会の異端狩り。
　それがシエル先輩だった……？
　じゃあノエル先生も……？
　そういえばあいつも言ってた。
“代行者は基本、師匠と弟子のツーマンセル”だって……！
「聞いているようですね。話が早くて助かります。
　……そういう事ですから、遠野くんはそのまま一歩も動かないように。後の処理は、先生に代わって私がします」
　シエル先輩は俺から視線を切り、遠方の吸血鬼と向き合った。
　……俺には止める言葉がない。
　どうして先輩が、とも訊きたいし、
　先輩にあの化け物を倒せるとも思えない。
　……それでも、たったいま助けられた事実が、俺の体を静止させている。
「“……代行者か。教会の<狗|いぬ>らしく、鼻だけは利くとみえる”」
　ヴローヴの腕が下がる。
　炎の手が通じないと認めたのか、眼力だけで目前の敵と対峙する。
「“……だが躾けはなっていない。このような僻地まで足を運ぶとは、飢えた獣そのものだ。代行者はいつから、騙し討ちを好むケモノになった？”」
「飢えているのは貴方の方でしょう。
　どこの死徒か知りませんが、銘があるのなら名乗りなさい。
　後々、書類分けする時の目安にはなりますから」
「“……名乗るほどの銘はない。
　　おれはこの通り、<柩|ひつぎ>一つで海を越えた復讐者だ”」
「柩一つ……先日、所属不明の輸送船が沖合で遭難した案件がありましたが、あれは貴方でしたか。
　それは遠路はるばるご苦労様。故郷にはもう自由になる食料もありませんか？　人種すら違う異国にまで遠征とは、没落の極みですね」
　淡々とした、けれど<辛辣|しんらつ>な挑発。
　俺から見ても今のは相手の神経を逆なでするものだと分かる。
「“……その通りだ、代行者。
　もとより、おれの国に食い物はない。城の倉庫はとうにカラだ。人間どもも一世紀前に逃げ去った。貴様ら狗ですら、おれの国には近寄らん。
　まさに草一つない不毛の地。だが満ち足りている。このような<爛|ただ>れた<市|まち>とは、あまりに違いすぎる”」
　……信じられない。
　ヤツは挑発には乗らなかった。そればかりか人間とまともに会話をしている……！
　ホテルの時とは何が違うのか。
　おそらく飢えだ。腹の具合だ。
　俺から見ても、今のヤツは心身共に余裕に満ちている……！
「では何の為に、この街に？
　田舎者らしく、清貧が美徳なのでしょう？」
「“―――この国に踏み入った理由は、治療と、復讐だ。
　おれは体を裂く苦しみから、心を裂く苦しみから逃れる為に、この醜悪な<市|まち>にやってきた”」
「……ふん。気の利いた弁明を期待しましたが、要は飢えですか。失望しました、名乗らずとも結構です。貴方は人間の血を吸いたくて仕方がない、どこにでもいる死徒にすぎません」
　……先輩の言葉をヴローヴはどう受け止めたのか。
　秒単位で高まっていく殺意と敵意。
　ヤツは、ホテルで見せた時と同じ眼でシエル先輩を凝視する。
「“……汚れた代行者。おまえは、寒くはないのか。
　　寒いと感じたことが、ないのか。
　　おまえには、おれの苦しみが、わからないのか”」
「―――ありません。熱も氷も、とうの昔に過ぎ去りました」
「“……そうか。難儀な女だ。
　　ではその<師|おんな>の後を追え。貴様と交わす<過去|ことば>はない”」
　吸血鬼の右腕が先輩に向けられる。
「また<火の叫び|ファイヤクライ>ですか。
　その程度の呪いで私が燃やせるとでも？」
「“その程度……？”」
　含みのある呟き。
　ヤツは敵の不覚を<嘲|わ><笑|ら>うように、
「“―――それは、一体どの程度だ？”」
　今度こそ全力の、真の劫火を解き放った。
　堰を切って放たれる炎の河。
　先ほどの“手”とは比ぶべくもない。
　先輩はもちろん、その後ろにいる俺とノエル先生までたやすく飲みこむ濁流。
　その、圧倒的な炎を前にして
“さて、これからどうしようかなー”
　なんて言いながら、先輩は炎に背を向けた。
「せ、先輩!?
　どうしようかなー、じゃなくて、逃げないと、早く！」
「あ、遠野くんには説明していませんでしたね。
　えーと、ご安心のほどを。魔術による発火なら、私の体には通用しませんから」
　えっへん、と胸を張る先輩。
　その言葉通り、炎の河は先輩の前……今は背中だけど……で完全に防がれていた。
　火の粉はおろか、熱さすら感じない程である。
「い、いや……でも、先輩の体、は……」
　俺たちはなんともないけど、先輩の体は今も燃えている、ような……
「ありがとうございます。でも、熱くないから心配無用です。先ほどの『手』と違ってこちらは概念魔術ですから、私の体でせき止められます。
　とにかく安全なので、しばらくこのままで放置しましょう。すぐに倒しにいってもいいのですが、遠野くんを巻き込みかねませんから。まずは相手の魔力を消耗させますね」
「あ……は、はい」
　つい呆然と頷いてしまった。
　先輩は、俺の知っている先輩だった。
　こんな地獄の渦中にいながら、あの夜、俺を救ってくれた先輩のままだった。
　それが嬉しい反面、不安になる。
　先輩にとってこれも日常だというのなら、俺は今まで、この人の何を見てきたというのだろう―――
「そろそろですね。……並の魔術師なら一撃で底をつく火力を２分強持続……只の死徒とは思えない呪力ですが、それもここまででしょう。これ以上はさすがに―――」
　シエル先輩の声に<翳|かげ>りが生じる。
　ヴローヴは苦しんでいる。
　あの炎の河を放ち続けて、あきらかに弱っている。
　……なのに、厭な予感は増していく。
　それはヤツの眼が、<血液|ちから>を消費すればするほど病的に<濁|にご>っていく事と、
　急速に低下していく礼拝堂の温度に起因する。
　―――そうだ。
　ホテルの時もこうだった。アルクェイドはヤツを炎の使い手だと言った。でも違う。真逆なんだ。あいつが苦しんでいるのは血の渇きじゃなくて―――
「先輩……！」
　目の前の無敵っぽい少女に叫ぶ。
　彼女も状況の変化……自分の失策に気付いたようだ。
「“―――――――――寒い”」
　消失する炎の河。
　ギチギチと軋みをあげる空気の層。
　ヤツは苦しげに胸を押さえる。
　体の<内臓|なかみ>すべてをはき出さんとばかりに裂ける口。
　その、被害妄想じみた怨念が、
「あいつ、<只|・>の死徒なんかじゃないです……！
　アルクェイドが言うには、あいつは祖のひとりだって！」
「な―――なんですかそれ―――！！！？」
「“――――――ここは、寒い”」
　白い壁となって、この広間を埋め尽くした。
　吹き荒れる白い呪い。
　その中心に、
　何か、
　俺の眼を以てしても、
　底の見えない、
　暗い穴、が、
「二十七祖……！　まさか成り立て……!?　そんな大物がどうして今、よりにもよってこの街に来るんですか……!?」
　吹雪の中で先輩が叫ぶ。
　広間は完全に凍り付いていた。
　……血液を消耗させようとしたのが間違いだった。さっきの炎なんかより、こちらの方が何倍も<性|た><質|ち>が悪い。
　先輩は失敗した。
　あの吸血鬼を消耗させてはいけなかった。
　ヤツは満腹の時にこそ、一気に倒す相手だったんだ……！
「遠野くん、広間の外に！　ここにいると１分持ちません！」
「そ、そりゃ逃げるけど、先輩は!?」
「っ……今の装備では祖の相手は……いえ、それでも日中のうちに倒しきらないと……！」
　白い嵐の中、先輩は走り出した。
　狙いは立ち尽くす吸血鬼、ヴローヴだ。
　ヤツも苦しいのか、先輩を睨む事さえできていない。
　……なら勝機はある。
　接近すれば。近寄れさえすれば、まだ勝ち目がある筈だ。
　しかしヴローヴと先輩の距離は30メートル近い。
　加えて、ヴローヴの周囲には生き残っていた死者の群れ。
　俺なら到底たどり着けない。
　ノエル先生でもこの状況では難しいだろう。
　その逆境を、彼女は腕の一振りで<覆|くつがえ>した。
　細い針のような剣を五連射。
　一息のうちに左右合わせて10体もの死者を串刺しにし、停止させ、そのただ中をすり抜け、立ち尽くすヴローヴへ肉薄する。
“いける……！”
　勝利を確信したのは俺か、先輩か。
　ヴローヴが指を鳴らす。
　白い嵐の中、不釣り合いな反応があった。
　先輩が停止させた死者たち。
　その腹にたまったガスが、ヴローヴの合図に呼応して着火する。
「なっ……！」
　吹雪と粉塵にまみれて先輩の姿が見えない。
　最悪なことに、あの吸血鬼には自己保身というものがない。
　人体だけ燃やす炎でも、吹雪でもまだマシだった。
　地下においてもっとも恐れるべきは崩落だ。天井を支える柱が吹き飛んでは、全員生き埋めになるしかない……！
　広場は崩落していく。
　ヴローヴは何も考えていない。
　自動的に、迫り来る外敵を攻撃しているだけ。
　考えろ。これが最後の行動だ。
　俺は―――
「そんなの、」
　先輩を助けるに決まってる……！
　無我夢中で先輩の背中を追う。
　吸血鬼がその力を十全に発揮するのは夜だという。
　倒すなら昼間である今しかない。
　昨夜のホテルのような犠牲をこれ以上出さない為に、不利を承知で先輩はヴローヴに向かっていった。
　なら、俺もここで逃げる事はできない。
　俺はまだ無傷で、体力も十分あり、頭痛もない。
　もう一度ヴローヴに近づく事さえできれば、
　ヤツを殺す事はできずとも、
　先輩の手助けくらいには―――！
「邪魔を―――」
　今更、死者の一体や二体、恐れるに足りない。
　俺は進行途中にいる死者の『線』を断ち切ろうとナイフを構え、
　間合いに入る前に、ソレは連鎖的に爆発した。
　話にならない。
　アルクェイドにあれだけ忠告されたのに、俺はまだ、ヤツの事を分かっていなかった。
　初めから、ヤツには『人間と戦う』気なんて、欠片ほどもなかったのだ。
「―――ダメ、遠野くん……！」
　制止の声は間に合わない。
　……助けになるつもりで足を引っ張った。
　巨大な質量の土砂降りの中、先輩の声が、俺の聞いた最後の言葉だった。
「っ―――！」
　先輩に駆け寄りたい気持ちを抑えて、ノエル先生を振り返る。
　決めた筈だ。俺は俺にできる事をすると。
　先輩に駆け寄ったところで爆発に巻きこまれるだけだ。
「ノエル先生……！」
　床に倒れ、気絶している先生を抱き抱える。
　放っておけない。このままだと生き埋めになる。
「はっ……、はぁ、は……！」
　息を切って通路へ急ぐ。
　目測で20メートル。
　もう広間の崩落は止められない。
　ひとりなら間に合うのに、なんて考えにフタをする。
　俺はノエル先生を背負ったまま、先輩の言った通り、この広間から脱出する。
「――――――あ」
　―――それが。
　あまりにも思い上がった考えだったと、
　後悔する間もないまま。
　最後の悪あがきは、本当に意味がなかった。
　背中におぶっていた先生を地面に下ろして抱きしめ、もう避けられない巨大な質量の落下に備える。
　降りそそぐ一面の瓦礫と土砂。
　遠野志貴は抵抗する間もなく、一瞬でこの世から消え去った。
「…………………」
　……意識がある。
　息苦しさと暑苦しさで目を覚ますと、
　そこは一面の暗闇だった。
「……っ……なんだ、ここ……？」
　とにかく狭苦しい。
　俺は腕立て伏せの体勢で固まっている。
　足は伸ばせない。下に突きだした両手も動かせない。
　背中も痛い。というか、両腕の間、胸から股間までむにゅっと温かくて<柔々|やわやわ>した感触があって、ぞわぞわする。
「あ、気が付いちゃった？　ちぇっ、ざーんねん。もう少しこのままでもよかったんだけどなあ」
「ノエル先生……!?」
「あ、起きあがろうとしちゃダーメ。この微妙な、まさに神のバランスが崩れちゃう」
　すぐ真下からノエル先生の声がする。
　めちゃくちゃ近い……というか、
「く、首に指かけないでください！
　あと脚、先生の脚が脚の隙間にですね!?」
「仕方ないの、我慢して♡
　急いで結界張ったけど、一人分の隙間しか作れなかったから。こうして先生から志貴クンにくっついてないと、志貴クン、ぷちっと潰れちゃうわよ？　それとも潰れたい？」
　言われて状況を把握した。
　俺は土砂に巻きこまれる直前、ノエル先生を地面に寝かせて、その上に覆い被さった。
　……本来なら俺はそこで死んでいた筈だ。
　なのに生きているという事は……
「ノエル先生が、助けてくれたんですか？」
「もちろん。教会の代行者ですもの、これぐらいのピンチは三回もくぐり抜けてるわ」
　得意げに語るノエル先生。
　教会の代行者……では、教師は仮の姿なのか。
　彼女が学校に赴任してきたのは三日前だ。じゃあ、はじめからヴローヴを殺す為に、この街に……？
「……でも、どうしてうちの学校に？　必要ありませんよね、教師とか」
「それは世を忍ぶ仮の姿ってヤツ？　ま、相手が相手だけに街の生活に溶け込んでいた方が便利なの」
「どうりで。先生、ぜんぜん教師らしくなかったし。
　あ……じゃあシエル先輩は？」
「あの子？
　あの子も本職は代行者よ。目的は吸血鬼の殲滅。この任務が終われば次の任務先に向かう、さすらいの転校生ってワケ」
「――――――」
　予測はできていただろうに、その言葉はナイフのように胸に刺さった。
　……先ほどの光景を思い出す。
　シエル先輩が、俺の知らない先輩だった事はいい。
　あの人が代行者とかいう連中であろうと、吸血鬼たちと同じ世界にいる人間だろうと、かまわない。
　だって、さっきの先輩は俺の知っている先輩だった。
　雨の夜、死にかけていた俺に手を差し伸べてくれた人だった。あの人がどれほど遠い世界の人間であろうと、先輩に向ける感謝は変わらない。
　……でも、だからこそ。
“目的は吸血鬼の殲滅”
“この任務が終われば次の任務先に向かう―――”
　こんな状況なのに、その言葉に気を取られてしまう。
「志貴クン？　どうしたの、酸欠？　じゃあ先生の<肺|なか>の空気、あげよっか？」
　名前を呼ばれて気を取り直す。
　今はそんな場合じゃない。
「足りてます、大丈夫です。……あの、一人分の隙間ってことは、ここ、まだ土の中なんですか……？」
「ええ。志貴クンが助けてくれたから先生も頑張ったというか、持っていた安全策が自動的に発動したというか。
　どっちにしろわたしのおかげだから感謝してね？　この個人要塞、安くないんだから」
「はい。理屈は分かりませんけど、ありがとうございます。また先生に助けられました」
「―――そ、そう？
　ならこれは貸しね。後でちゃんと取り立てるから」
　どもるノエル先生。
　心なしか先生の体温が上がった気がした。体が密着しているため、細かな変化が互いによく伝わってしまう。
「……あの。それで、何がどうなったか分かりますか？」
「何って、広場が崩れてみんな生き埋めになったんじゃない？
　死者は潰れただろうけど死徒はあれぐらいじゃ死なないから……今頃は眠っているのかも。夜になれば元気になるんだし」
「ヴローヴは死んでいない……じゃあ先輩は？」
「あの子？　あの子はもっと頑丈よ。きっとわたしたちと同じように隙間を作って逃れてるわ。
　それより志貴クン、あの死徒の名前はヴローヴって言うの？　貴方、アイツを知ってた？」
「……はい。昨日、ホテルでヤツと出遭いました」
「ああ、なるほどねー。そうだったんだ。なんで貴方がここにいるのか不思議だったけど、あの死徒に捕まって地下に落とされたってワケ」
　ノエル先生の言葉に、曖昧な返事で誤魔化した。
　……ここに来たのはヴローヴを殺す為だったなんて、こんな状況で言うのは恥ずかしい。
「ま、助かったんだから良しとしましょう。
　予想外の結果に終わったけど命はあるんだし。あとはあの子に任せて、しばらくこのままね」
「え……しばらくはこのまま……？」
「だいじょうぶ、日本のレスキューは優秀だもの。二日も我慢すれば見つけてもらえるでしょ？　それとも……うふふ、この姿勢じゃ半日だって耐えられないかしら？」
　首の後ろにノエル先生の指が回される。
　そ、それはそうだけど、そうではなく！
「違います、ヴローヴの事です……！
　先生は心配じゃないんですか!?　あの化け物は、夜になったらまた外に出て行くんでしょう!?」
「でしょうね。アレ、二十七祖なんでしょう？
　ならこんな土砂崩れで活動不能になる規模じゃないわ。日が沈めば地上はよくて阿鼻叫喚、悪くて一面氷づけになるでしょうね」
「なら……！」
「こんな事をしている暇はないって言いたいの？
　思い上がらないで。相手は二十七祖、教会でも無視するしかない大物なの。
　アイツらはもう生き物ですらない。概念を武器にする魔物。現実を侵食する呪い。一万年かけて安定した人間の物理法則を<混|ま>ぜ乱す、この世の<故|バ><障|グ>みたいなヤツら」
「貴方に祖の名称を教えたヤツも言ってなかった？
　二十七祖とは一つの国である。国を倒す事は一個人にはできない。凡人は彼らが立ち去るのを隠れてやり過ごす事しかできないのだ、って。
　分かる？　もともと私たちがどうこうできる相手じゃないし、どうしようかって考えるべき事柄でもないの」
「っ……でもあの時、先輩は昼間のうちに倒すしかないって！」
「だから、そういうコトを言っちゃうヒトは、彼らと同じぐらいアレってコトよ。
　あの子は特別だから。きっちり対策をして装備を調えていたらいい勝負になってたんじゃない？　さっきは下調べのつもりだったから簡易装備しかなかったけど」
「……………」
　……確かに、先輩もそんなふうなコトを言っていた。
　じゃあ……装備が調っていれば、あの怪物を殺せるのか？
「そういうワケなのでぇ、私たち凡人はこうして助けを待っていればいいの。これだって立派な仕事よ、志貴クン？」
「せ、先生……！　首に唇、あててませんか!?
　ひゃあ!?　ちょっ、上着のボタン、外れてるんですけどぉ！」
「そりゃあ外してるわよ？　先生としてぇ、志貴クンが怪我してないか診てあげなくちゃいけないでしょう？　うふふ、役得役得♪」
　どっちが!?
　ああいや、そんな話じゃなくて、ホントにまずい！
　こんなコトをしてる場合じゃないのに、こう密着状態でノエル先生の匂いがしていると頭がクラクラしてくる……！
「はい、メガネかけてあげる。志貴クンが気を失っている時にたっぷり眺めていたから、素顔は充分堪能したしね♡」
「気を失ってた……？　俺、どのくらい寝てたんですか!?」
「んー、３時間くらい？　上はそろそろ夕暮れよ。
　ね、だからもう何したって手遅れなの。諦めて、ここで助けを待ちなさい」
「っ……！」
　突きだした腕に力をいれて、背中に押しかかった土塊をあげようと踏ん張る。
　……けど、そんな事で自由になれる筈がない。
　俺の力では、この土砂から脱出できない。
「……ふーん。それでもわたしを責めないとか、ちゃんと物事の道理が分かってるのね。わたし、志貴クンのこと本気で気に入っちゃったかも。リスト入りよ」
　真下から甘い声が響く。
　……それは今までのようにふざけたものではなく、熱のこもった、芯のある声だった。
「―――先、生」
「ちょっとここじゃ物足りないけど……堕落、してみる？」
　冗談とも本気ともつかない声。
　それに言葉を返そうとした時、
「え？　ホントにレスキュー？　早すぎない？」
　背中にあった重圧が、<畳|たたみ>を剥がすように取り除かれた。
「……早く出てきてください、ノエル先生。
　それと、ついでに、どうでもいいですけど遠野くんも」
　そこには。
　片手で何メートルもの岩盤を持ち上げ、俺たちを助け出してくれたシエル先輩の姿があった。
　……気まずい。
　不可抗力とは言え、ノエル先生と抱き合っていたところをバッチリ見られてしまった。
「あの……先輩、これは」
「ノエル先生は教会支部に連絡を。
　都市制圧戦を申請しますが、通りますか？」
「んー、通るけど無意味じゃない？　この区域に代行者のストックはないもの。
許可は下りるけど戦力増加は絶望的よ。やるならわたしたちだけになるわ」
「……そうですか。では報道規制、警察組織への牽制を申告してください。先生、それぐらいの人脈はありますよね？」
「はいはーい、任されましたー♪　こんな危ないところにいたくないし、ササッと手続きにいってきまーす！
　じゃあね志貴クンーー！　赤くなって、かっわいー♪」
　何が愉しいのか、ノエル先生はブンブンと手を振りながら跳び去っていった。
　……本当に、この傾斜になった瓦礫の山をびょんびょんと跳んでいった。
「――――――」
　一方、先輩は口を閉ざしたまま、ぱんぱん、と所在なげに制服についたホコリなどをはたいていた。
　……この場において異常なのは先輩の方だ。
　俺にはこの人が何者なのか、問い詰める権利があると思う。
「………………」
　……でも、何を言えばいいのか分からなかった。
　先輩は何者なんですか、とか、
　怪我はなかったんですか、とか、
　これからどうするんですか、とか、
　先生とは何もなかったです、とか。
　そんなありきたりの言葉が、どうしても口からでない。
　空を見れば、もう夕暮れも終わりかけている。
　日没まであとわずか。
　まわりのデパートから位置を逆算すると、この陥没した区間は中央公園があった区間だ。
　瓦礫で埋まったクレーター。公園の地下にあんな広間があった事を、誰が信じてくれるだろう。
　ここから仰ぎ見る地上には、すでにバリケードらしきものが設置されていた。
　陥没事故があったというのに野次馬の姿は見られない。これだけの大惨事だ。少なくとも報道ヘリの一つや二つは飛んでいるべきなのに、それもない。
「報道はありませんよ。これはあくまで事故です。地下にたまったガス爆発という事で付近住民の避難も行われています。
　……この後に起こる事に関して準備が出来ているのは、私とこの周囲を封鎖した警察の人間、そして貴方だけです」
「……そうですか。あの地下の通路は？
」
「この崩落で潰れてしまいました。痕跡は発見されるでしょうが、無かった事にされるでしょうね」
「……それは、先輩たちがそう仕向けるんですか？」
「いえ。あくまでこの国の警察の判断です。彼等もここに地下空洞があった事は調査するでしょう。ですがそれで終わりです。だって、死体を集めて血を抜く怪物がいるなんて、それこそ意味が分からない。
　ここで何十人もの行方不明者の遺体らしきものが発見された、でおしまいです」
　先輩の説明に、そうか、とだけ返答する。
　これがまっとうな司法の手に渡る<事|も><件|の>ではないと分かっていたけど、やりきれない。
　あれだけの死者。
　あれだけの犠牲者は<な|・><ぜ|・><殺|・><さ|・><れ|・><た|・><の|・><か|・><も|・>理解されないまま、闇に葬られる。
「……とりあえず、お礼を言わなくちゃ。
　ありがとう先輩。先輩がいなかったら、俺もそのうちの一人になってました」
「……はあ、まあ。
　遠野くんが無事で、良かったです、けど」
「―――、い、いえ、そういうコトではなく！
　無駄話をしている場合ではありませんでした」
「率直に言います。一般人である貴方に、これ以上関与されては迷惑です。賢明な判断による黙秘を期待します。
　……とは言っても忘れられる事ではないでしょう。
　ですので、貴方の安全を考慮し、ここ一日分の貴方の記憶を消します。いいから抵抗しないように」
「っ……!?」
　先輩は真顔で、まっすぐに歩いてくる。
「記憶を消すって……そんなコトできるんですか!?」
「はい。一日分、かつ消すだけなら私でも可能です。それで遠野くんは元通り、昨日までの生活に戻れます。
　ただちょっと痛いですから、私を恨んでもけっこうです」
　先輩はずんずんと近づいてくる。
「ちょっ、それ、無理な話じゃないか!?　だって記憶を消すんでしょう!?　恨んでも意味なくないですか!?」
　あわててあとじさる。
「……はい。それも忘れちゃうんですけど、きちんと言っておきたいから」
　かまわず歩み寄ってくる先輩。
「では目を閉じてください。
　見えていると二倍、いえ、十倍ぐらい痛いと思います」
「ま―――」
　待ったなしの展開に思考が追いつかない。
　それでも―――とにかく、今日の出来事を忘れる、という事だけは許容できなかった。
　だって、ヴローヴはまだ生きている。
　俺にはやる事がある。
　……記憶を消せるというのなら俺だって消してほしい。
　でも、それはすべてが終わった後の話だ。
　このまま何も知らず、自分だけ安全圏に逃げるなんてできるはずがない。
「ま、待ってください先輩……！
　えっと、先輩の正体とか吸血鬼とか、そういうのを秘密にしたいんですよね!?　なら、それは明日にしてください！
　今日の内は、まだ―――」
　何もなかった事にはできない。
　あの地下墓地を体験しておいて、自分だけ日常に戻るなんて、決して。
「………………危ない事は、しませんか？」
「う、うん。しない。したことも、ない」
「…………………」
　……俺は、いざとなったら本気で抵抗するつもりだった。
　そんな考えを見透かすように、先輩はまっすぐに俺の目を見つめてくる。
　固唾を呑んで、負けじと先輩の目を見つめ返す。
　先輩にとっては数秒の、
　俺にとっては何分間にも感じた沈黙の末、
「……わかりました。遠野くんを信じます。
　先ほどの現場を体験した以上、軽率な言動をするとは思いませんし……余計な善行でしたが、一度、助けられた恩もありますから」
　先輩はそう言って<踵|きびす>を返す。
　ノエル先生と同じように、こんな瓦礫の傾斜、ものともしないという足取りで。
「――――――」
　良かった、と安堵するより先に不安がよぎった。
　背中を見せた先輩の姿が、なんていうか、あまりにも独りに見えてしまって。
「先輩……！」
　思わず呼び止める。
「何か？」
「…………その。先輩は、吸血鬼を殺す為に、この街にやって来たんですか？」
「そういう事になりますね。もともと私はこの街の人間ではありません。貴方の学校に生徒として編入していたのも吸血鬼を殲滅する為です。すべてが終わればこの街を後にします」
「その時、貴方の記憶を消去する事にしましょう。
　それまでは見逃してあげますから、くれぐれも危険な行動は慎むように。
次に私の視界に入れば障害物として処理しますから、そのつもりで」
　冷徹な視線で、冷めきった声で、先輩は俺に警告した。
　家に帰れ。
　もうこれ以上、命を危険に晒す必要はない、と。
「……わかりました。でも、先輩の方こそ危ない事はしないですよね……？　あの吸血鬼とひとりで戦う、とか」
「まさか。アレ相手にひとりで戦うなんてありえません。
　数日すれば増援が来ますから、それまではここを監視するだけです。貴方は安心して、自分の居場所に戻ってください」
　そう残して、彼女は一瞬で俺の前から消え去った。
　太陽はじき地平線に沈む。
　吸血鬼の時間が―――
　戦いの時間が、すぐそこまで迫っている。
「……もう。
　今の、俺でも嘘だって分かりますよ、先輩」
　……彼女はひとりでも戦う気だ。
　なら、俺にはやるべき事が残っている。
　これまでの事をアルクェイドに報告する。
　ヴローヴが地中に埋まった事を知れば、あいつだって考えを変えてくれるかもしれない。
　そーっと玄関の扉を開けて、アルクェイドの部屋に入る。
「――――――」
「げ」
　ちょっとだけ厄介な事に、アルクェイドは目を覚ましていた。俺がひとりでヴローヴを倒しに行った……と気がついているんだろうか、アレは。
「た、ただいまアルクェイド。もう体はいいのか？」
「ええ、すっかり。いつもは睡眠中でも周囲への警戒に力を使うんだけど、今回は睡眠だけに専念したから戻りは早かったわ。……目を覚ました時、なんでそんな危険を冒したんだろうって反省したけど」
　アルクェイドの声には棘がある。
　……やっぱり怒ってるぞ、これ……。
「そ、そりゃ怒るよな……ごめん、アルクェイド。勝手に出歩いて、悪かった」
「悪くないわ。日中、志貴が何をしようと自由だもの。日没までに戻ってきてくれれば問題ないし。わたしも気にしてないし。想定以上に体力が戻って気分いいし。怒る理由がないじゃない」
　むー、と喉を鳴らしながら断言するアルクェイド。
　どこからどう見ても怒っている。
「……さすがにこれもウソと分かると言うか……
　いや、目に見えて不機嫌だぞ、おまえ」
「そんなのわたしも分かんないわよっ！　なんでかイライラするの！　暴れたいの！　自分でもおかしいって分かってるんだからほっといて、ばか！」
　ふんだ、と顔を逸らしてアルクェイドはベッドに倒れこんだ。
　俺の抜け駆けはバレてはいないようだが、アルクェイドが不機嫌なのは風向きが悪い。
「……寝起きの問題じゃないか？　実は低血圧だったとか」
「そんなの人間だけの話！　わたし、寝起きは鮮明だし！」
「そうか。じゃあそのまま横になって気分を落ち着けてくれ。準備ができたら話がある」
「いい。怒ってないんだから今すぐ話して。
　―――志貴が外に出た事に関係あるんでしょ」
　起き上がりこぼしのようにベッドから出るアルクェイド。
　落ち着きこそないが、その声は鋭い。
“話がある”と言っただけで、この数時間の出来事を把握したようだ。
「察しがいいんだな。おまえが見抜いた通りだよ。
　……俺は今までヴローヴの根城に行ってた。おまえの忠告を無視してな。だから、俺が悪かったのは本当だよ」
「……はあ。よく命があったものだわ。
　こうなるだろうと予想はしていたけど」
　やれやれと溜息をつくアルクェイド。
　どうも、俺がひとりで無茶をした事は意外ではなかったらしい。
「……わかっていて俺の好きにさせてくれたのか？」
「本当に行くとは思っていなかったけどね。
　志貴は一度も“城攻めはしない”と言わなかった。だからその選択は志貴の中にあるんだろうなって。
　貴方、忘れ物は多いけど嘘は口にできないみたいだから」
「―――」
　一瞬、アルクェイドの指摘に目が点になった。
　自分も意識していない自分の<本|く><質|せ>を言い当てられたようで、怖いような、恥ずかしいような……。
「ま、まあ、そういうコトなら話は早いか。
　ここからは包み隠さず話す。報告と思って聞いてくれ」
「ええ、どうぞ。せっかくの情報だもの、ありがたく拝聴させてもらいましょう」
　……そうして、俺は地下での体験を話して聞かせた。
　デパートの地下に広がっていた通路。
　死者の群れ。大広間。そこに現れたヴローヴ。
　そこまでの説明は順調だった。アルクェイドも冷静に聞いてくれた。しかし……
「代行者がいた、
ですって？」
　先輩とノエル先生の話になると様子は一変した。
　さっきまでの曖昧な不機嫌さとは違う。
　アルクェイドは本気で代行者を嫌悪している。
「な、なんだよ。そこまで怒るような事か？　ヴローヴを倒す目的は同じだし、なにより、すっごく頼りになったんだぞ。先輩なんてヴローヴの火もへっちゃらだったし。
　……もしかするとおまえと同じぐらい強いんじゃないかな、あの人」
「そ。よっぽど怖い思いをしたのね志貴。でも代行者なんかがわたしより強いとかありえないから。
　だいたい、ちっとも怒ってないし。ただ不快なだけよ。志貴だって食事中に害虫の話はされたくはないでしょう。
　いいから、あいつらの話はしないで」
「害虫って、なんだそれ。
　先輩も先生もいい人だったんだぞ!?　俺なんて何度助けてもらったか！」
「な、なによぅ、あいつらの肩ばっかりもって！
　わたしだって志貴を助けたのに！　頼りにされるのはわたしの方じゃないの!?」
「はあ!?」
　……あまりの反応につい絶句してしまった。
　そりゃあアルクェイドを頼りにはしているけど、先輩と比べられるコトでもないだろうに。
「………………」
「………………」
　……なんか、妙に気まずい雰囲気になってしまった……。
　コホン、と咳払いをして強引に空気を切り替える。
「と、とにかくヴローヴは弱っている。
　今は土砂の下だけど、夜になれば這い出てくるとも言ってた。だから、その前に―――」
「息の根を止める。ヴローヴが地上に出て血液を補充する前に倒そうって言うんでしょ。その作戦は正しいわ。人間の犠牲を出したくないっていう志貴の考えにも沿うモノだしね」
「でもイヤ。倒しに行くなら志貴だけで行けば？」
「はあ!?　作戦として正しいんだろ!?
　だいたい、いま自分を頼れって言ったじゃんか、おまえ！」
「それとこれとは別問題よ。わたし、もうヴローヴに興味ないし。代行者がいるんでしょ？　あいつらに任せておけばいいわ。わたしと志貴が時間を使う必要はないと思うけど」
「ヴローヴに興味がないって、なんで!?」
「効率の話よ。わたしがヴローヴと戦う気になっていたのは、わたし以外に倒せる相手がいなかったから。
　けど代行者が始末するのなら、わたしが出張る必要はない。
　力も温存しておきたいし、代行者の戦力をそぎ落とす事にもなる。ほら。手を貸す理由がまったくないじゃない」
「ぐ……筋が通ってる……」
　反論したいのは山々だが、今のはアルクェイドの立場からすればもっともな意見だった。
　先輩たちは吸血鬼狩りなんだ。
　アルクェイドにとっては敵……と言わないまでも、相容れない相手だろう。
　なので自軍の力を消費するのは避け、相手の出方を窺うのは戦略として正しすぎる。
「……じゃあ、どうあってもヴローヴとは戦ってくれないのか、おまえは」
　口からもれた声は、驚くほど弱々しかった。
　俺は自分で思っていた以上に、アルクェイドを頼りにしていたみたいだ……。
「……ふーん。そういう顔、するんだ……」
　……いやでも、考えてみれば人間として当然と言うか、
　<吸血鬼|ヴローヴ>を俺ひとりでどうにかしよう、という発想自体が間違っていると言うか、
　反則には反則をぶつければいい、の精神と言うか……。
「まあ、どうしてもって言うなら、そうね。
　志貴のお願いを聞いてあげるんだから、志貴もわたしのお願いを聞いてくれる？」
「……なんだって？」
「わたしが志貴のお願いを叶えてあげるんだから、志貴もわたしの言うことを一つきく。
　そう約束してくれるなら、貴方に力を貸してあげなくもないけど？」
「な……なんだって？」
　思わず目を見張る、二度目のなんだってだった。
「だから。志貴のためになら、ヴローヴを斃してあげてもいいって話？」
「――――――」
　口調は冗談じみているけど、アルクェイドは本気だ。
　……これは気軽に頷ける事じゃない。
　了解したが最後、どんな無理難題をふっかけられるか。
　こいつが人間の命をなんとも思っていないのは、これまでで充分に思い知っている。
「ほら、どうするの？　わたしにお願い、する？」
「くっ……」
　どうしてこうなった……手を貸していたのはこっちの方だったのに、いつのまにかアルクェイドにお願いする立場になっているなんて……。
「―――、ア」
　でも、これは仕方のない決断だ。ギブアンドテイクだ。
　俺ひとりではヴローヴは殺せない。
　どんな手を使おうと、あのホテルの惨劇を繰り返す訳にはいかない。だから―――
「―――分かった。頼むアルクェイド。
　お願いだから、ヴローヴを倒してくれ」
「よーし、任せて！　そういう事ならすぐ行きましょう！」
「ちょっ……待て、
手を引っ張るなってば……！
　すぐって、深夜になるのを待たないのか!?」
「代行者がいるんでしょう？　あいつら行動だけは早いから。
先を越される前にやっつけちゃおう！」
「やっつけるって対策は!?」
「うん？　ヴローヴの呪いは『炎』じゃなくて『冷気』なんでしょ？
　なら簡単よ。対策はできるし、わたしとしては相性的にそっちの方がやりやすいもの」
「作戦もシンプルね。わたしがヴローヴを捕まえるから、後はあなたの眼で殺すだけでいい。
だいじょうぶ、今のわたしと志貴なら、一息のうちに終わらせられるから！」
　アルクェイドは俺の手を握ると、待ちきれないとばかりに走り出した。
　……とんでもない<展|コ><開|ト>になってしまった……。
　こうなったらやるしかない。
　時刻は午後７時を過ぎている。
　……この２時間で状況はどう変化しているのか。
　ヴローヴはまだ地中から出てきていない事を信じて、今はアルクェイドに賭けるしかない……！
　アルクェイドに引っ張られるように高級マンションから街に飛び出して、10分後。
　何事もなかったように、俺たちはビルの屋上に移動していた。
「ここが一番ね。下の様子がよく分かるでしょ？」
　なんて言いながら、アルクェイドは俺から手を放した。
「ちょっ―――おま、えな―――」
　地面に下ろされつつ、なんとか文句を言う。
　アルクェイドが何をやっても驚かない気になっていたが、まさか俺を抱えてビルの側面をぴょんぴょん跳び上がっていくとは思わなかった。
「ふぅ、はぁ……見晴らしのいい場所、なんて、言わなきゃ、良かった―――」
　バクバクと動悸がする心臓を落ち着ける。
　急激な気圧の変化による目眩を深呼吸でやり過ごす。
「けど、確かにここなら公園を一望できる。次は事前に言ってくれればこっちも準備が……アルクェイド？」
「――――――」
　アルクェイドは屋上の端から街を見下ろしている。
　その背中には言いようのない殺気が漂っていた。
　……事態は、最悪の状況に変化していた。
　陥没地帯を埋め尽くす白い靄。
　ビルの屋上にさえ届く冷気。
　これだけの異変が起きながら周囲は静まりかえっている。
　交通規制による人避けが機能している。警察も消防車も出動しているものの、この陥没地帯には一切近寄らない。
　陥没し、瓦礫の海となった公園。
　すり鉢状にへこんだ<広場|クレーター>には無数の剣が刺さっていた。
　アレは先輩が投げていた細長い西洋剣だ。
　数にして百以上の剣が地面に打ち立てられている。
「百本単位の<黒鍵|こっけん>による結界……そう。志貴の言う代行者って、アイツなワケ」
「アルクェイド……？」
「<生体魔力|オド>だけで作られた擬似的な<聖堂|テンプル>。
　並の死徒なら閉じこめておくどころか、アレだけで潰されておしまいでしょうけど……」
　その声には心底からの怒り……嫌悪が混じっていた。
　まるで人間が抱くような、ごく日常的な、苛立ちと攻撃性。
「あれでヴローヴを閉じこめているのか？　でも……」
　剣のほとんどは凍結している。
　それにこの異様な冷気は、まさか―――
「いえ、まだヴローヴは封印中。
　ほら―――そろそろ靄が晴れるわ」
　白い壁が消える。
　瓦礫の大地に現れたものは、巨大な、氷を思わせる四角い箱だった。
「な、なんだアレ……!?　あんなのさっきは無かったぞ!?」
「ふん。檻を作ってから１時間ってところかしら。急造の準備にしてはあがくじゃない、アイツ」
　巨大な箱の前には見覚えのある人影があった。
　<槍斧|ハルバード>を持ったノエル先生だ。
　先生は箱の前でせわしなく動き回っている。箱の前から離れたり、前に戻ったり、頭を抱えたり、文字通り右往左往だ。
「―――先輩が、いない―――」
　……まずい。
　事のあらましは把握できないが、既にのっぴきならない状態である事は感じ取れる。
「アルクェイド、下りよう！　あれ、もう始まってるよな!?」
　はやる心を抑えながらアルクェイドに声を掛ける。
　かたわらの吸血鬼は俺に言われるまでもなく、下で起きているすべてを把握した上で、
「わたし、イヤ」
「―――、は？」
　ぷい、と。駄々をこねる子供のようにそっぽを向いた。
「ちょっ、イヤってなんだよ!?
　代行者がいてもいいって言ったじゃないか!?」
「イヤなものはイヤなの。代行者なんてヤブ蚊みたいなものだけど、アレだけは別。
あいつに手を貸すぐらいなら、太陽を抱いて眠ってもいいぐらい」
　つまり、死んだ方がマシってレベルか。
　適切な比喩に思わず納得してしまったが、俺の混乱はますます深まった。
「あいつって、シエル先輩を知ってるのか、おまえ!?」
「その名前、口にしないで。あと志貴はここにいて。
　アレ、もうすぐ自滅するから。あの<結|ハ><界|コ>が壊れたらこのあたりは氷漬けよ。わたしの側にいないと志貴も死んじゃうからね」
「――――――」
　自滅する？　先輩が？
　そもそも、ハコが壊れたらどうなるって……!?
「このあたりって、どのあたりまで!?」
「んー、この街全部じゃない？　具体的に言うと半径10キロぐらい。でも絶対に手は貸さないから、わたし」
　アルクェイドは俺と視線さえ合わせない。
「絶対って、今更なに言ってんだよ!?　おまえな、先輩がそんなに嫌いなのか!?　恨みでもあるのか!?
　いや、あるんだな、あるんだろうよ！　でもそれとこれは関係ないだろ!?　いま殺すべきはヴローヴなんだから！」
「だから、アイツなんてどうでもいいの！　どうでもいいからどうでもいいの！　ええ、殺すべきはヴローヴの方よ。今から行けば楽に殺せるわよ。
　でもいかない。どうでもいいヤツがいるから、アイツがどうでもよくなるまでわたしは何もしませんからねーっだ！」
「ば―――」
　馬鹿だ。ここに馬鹿がいる。
　事情は知るよしもないが、コイツは本気で、シエル先輩がいる以上、ヴローヴと戦わない気だ……！
「だいたい、こうなったのも貴方たちの自業自得じゃない。
　ヴローヴひとりを止められないようじゃ、こんなちっぽけな集まり、いつ崩壊してもおかしくないんだし。
　弱い生き物は弱い生き物らしく、おとなしく全滅するのが自然の摂理よ？」
「バ――――――――」
　その言葉で混乱しきっていた思考が切り替わった。
　ある意味、落ち着いてくれたとも言う。
「バカヤロウ、そこまで分かっていて助けに行かないのか!?　行かないんだな!?　人間なんてどうでもいいんだな!?
　やっぱり吸血鬼なんだな、この分からず屋！」
「はあ!?　志貴の方こそ、ここまで言ってあげたのに分からないの!?
　わたしが手を貸すのは志貴のた、」
「もういい、勝手にしろこのワガママ女！　ばーかばーか！」
　悪態をついて屋上の出口に走る。
　アルクェイドには頼れない。
　こうなったら自分の足で降りて、何が起きているか把握しないと……！
「はっ、はっ、はっ、は―――！」
　屋上を施錠していた扉の鍵はナイフで切断した。
　しかし最上階にエレベーターらしきものは見当たらない。
“くそ、くそ、くそ、くそ……！”
　非常灯の明かりを頼りに階段を駆け下りる。
　今からあの冷気の中に―――吸血鬼の暴威の<只中|ただなか>に下りようとしているのに、恐怖はなりを潜めていた。
　理由は明白だ。俺はいま、とにかく、悔しくて悲しくて腹立たしい……！
“アルクェイドのヤツ、何がおとなしく全滅してろ、だ……！”
　自分の勘違いっぷりに叫びたくなる。
　あいつはああいうヤツなんだ。
　バカヤロウでもなければ悪人でもない。
　俺たちとは違う価値観で動いている、人間ではない生き物なんだ。
　だから―――あいつに人間の常識なんてものを期待した、俺の方が馬鹿だった。
「それでも―――期待したくて仕方がなかったんだよ、くそ！」
　……殺人者である遠野志貴を<赦|ゆる>してくれたからじゃない。
　俺は、あいつを特別に思いたい。
　あの嘘みたいに純粋に笑う女を、どうしても嫌いになれない。
　もっともっと、今よりずっと、あいつの事をいいヤツだって思いたかっただけなのに―――！
「はっ―――はっ、はっ、は―――！」
　でも、それも終わりだ。今はそんな感傷に浸っている場合じゃない。
　一刻も早く地上に降りる。
　シエル先輩の安否を確かめる。
　その上で―――俺は、ヴローヴの『線』を断つ。
　エレベーターに辿り着いた。
　中に入って一階のボタンを押す。
　もう迷っている時間はない。
　そもそも迷っている場合じゃない。
　深呼吸をする。身体のチェックをする。……問題ない。全身はきちんと動いている。
　繰り返すが恐怖はない。
　人のカタチをしたモノを殺す事に<躊躇|ためら>いもない。
　そんな<初|う><心|ぶ>さは、あの地下道に捨ててきた。
「は――――ア」
　呼吸が速まる。
　心臓が、この体とは違うパーツみたいに、どくんどくんと浮き足立ってる。
　……一階に到着した。
　アルクェイドには頼れない。
　俺はナイフを握り直して、冷気渦巻くクレーターに走り出した。
　世界に空いた立方体の巨大な穴。
　それが、目の前の<異|モ><物|ノ>への所感だった。
　一辺40メートルを超える透明の箱。
　材質はアクリルを思わせる。
　青黒く見えるのは壁の色ではなく、中に詰まったものがそう見せているのだ。
　箱の中で吹き荒れる白い<礫|つぶて>。
　牙のように連なる氷柱。
　あの中には人智及ばぬ極寒の地獄が詰まっている。
　これは箱ではない。檻だ。
　現実にあってはいけないもの。
　地上に解き放ってはいけないものを封じ込めた檻。
　その中に―――
「先輩……！」
　いる。この中にシエル先輩がいる。
　呼吸さえ凍る極寒の中。
　彼女はたったひとり、あの吸血鬼と戦っていた。
　マイナス100℃に迫る極寒。
　この惑星の地表では起こりえない超低温。
　あらゆる動植物の生存を許さぬ冷気の中、二つの騎影が衝突する。
　一騎は呪いの源、ヴローヴ・アルハンゲリ。
　一騎は<拷問具|アーマー>に身を包んだ、少女の姿をした代行者。
　吹雪によって閉ざされた視界。
　氷河によって波だつ足場。
　呼吸さえ死に繋がる極限状態で、氷弾と弾丸がぶつかり合う。
　両者の戦いが始まってから60分。
　その戦闘時間自体が、既に一つの奇蹟だった。
　7.62mmの火花を散らす投石機。
　戦場において過剰火力と言われる大口径の弾丸が吸血鬼に放たれる。
　8mm、9mmに代表される、兵士を負傷させ戦闘不能にする為の暴力ではない。
　これは肉と鉄を吹き飛ばす為に調整された、吸血鬼殺しの近代兵器。
　名は『<焼死|ブレイズ>』。
　七つの死因を持つ聖典から分かれた、代行者シエルの専用礼装。
　だが。通常……十年クラスの死徒……なら根こそぎ挽肉にする銃弾の雨を以てしても、あの吸血鬼には届かない。
　銃弾には低温を。
　近代兵器には<惑星|しぜん>の暴威を。
　両者の武装の在り方は、まさに文明と自然の対立である。
　吸血鬼は動かない。
　この極寒は彼の妄想が呼び起こした地獄だ。
『血液がなければ凍死する』という妄想。
　それこそがヴローヴ・アルハンゲリを不死身たらしめる呪いである。
　<寒|・><さ|・><に|・><縛|・><ら|・><れ|・><る|・>呪いである以上、極寒状態のヴローヴは自由に踏み出す事ができない。
　彼は血液という暖を取るまで、あのように地上を汚すだけの“毒”なのだ。
　とは言え―――
　その呪いは一つの都市を覆うほどではあるが、ここまでの低温状態は生み出さない。
　この状況は代行者の決断が招いたもの。
　直径４キロにおよぶ吸血鬼の呪いを40メートル四方の箱に空間ごと圧縮し、封印した事による結果である。
　ある意味、この結界は代行者の体そのものと言える。
　少女は街を襲う寒波を、その体一つで受け止めているに等しかった。
　少女を襲う低温はマイナス100℃では済まされまい。
　局地的な低下はそれ以上はないとされるマイナス273℃にまで到達する。
　通常であれば一瞬で凍結する呪いの奔流。
　それを防ぐのは少女の肉体に<締着|ていちゃく>した、鉛と鉄で組み上げられた拷問具である。
　軋みをあげる鉄の甲冑。
　吸血鬼の汚染が物理法則をねじ曲げるように、この甲冑も物理法則の外、概念によって編まれたものだ。
　かつて<鉄の処女|アイアンメイデン>と呼ばれた<柩|ひつぎ>。
　中に入れられた人間を無数の針で突き刺す死の機械。
“潔白を証明するのならこの中に収まるがいい。
　生き残るのなら魔女である。死するのなら人間である”
　そのうたい文句のもと、多くの命を奪い、恐怖の対象として完成した暗黒時代の産物である。
“だが嘆くなかれ。結果はみな同じこと。
　魔女であろうと人であろうと、選ばれてしまえば、死ぬまで自由になる日は来ないのだから”
　この柩に包まれたものは、自らの死を以てしか自由になれない。
　その破綻した妄想の標的になったが最後、生け贄は死ぬまで閉じこめられる。
　呪われた鉄のドレス。
　生け贄を苦しめるだけの概念武装。
　だが。その特性を、彼女はむしろ良しと利用した。
“使用者が死ぬまで<外|はず>す事はできない”
　それは転じて、
“使用者が死ぬまでは<外|こわ>れない”
　特性を意味する。
　外部からの暴力死ではなく、内部での衰弱死のみが、この<柩|よろい>を破壊する。
　それは極寒だろうと同じ事。
　この守りの前にはいかなる劣悪環境も<頭|こうべ>を垂れる。なにしろ、その内部にまさる責め苦はないのだから。
　故に、その名は拷問具・<純潔証明|ヴァージンペイン>。
　衰弱死、あるいは拷問死に起因する礼装。
　使用者の魔力が尽きぬかぎり、死して魔女と証明されないかぎり、最低限の生命活動を保証する聖女の<潔|まも>り―――！
「“―――凄まじい<魔|オ><力|ド>の消費だ。
　　不死身という点でいえば死徒以上だな、女”」
　白い闇に声が響く。
　地上に現れてから終始無言だった吸血鬼は、寒さによる苛立ちではなく、敵対する女の強靭さによって、ようやく眼を開けたらしい。
「“だが、それにも限度がある。
　　仮に、貴様が無限に死に続けられるとしても―――
　　戦いは、相手を殺さねば収まらん”」
「っ……！」
　吸血鬼の言葉通り、守りだけでは勝利はない。
　相手が凝縮された自然の暴威であるのなら、人の身である彼女に勝機はない。
　全方位、あらゆるものが彼女を殺す凶器だからだ。
　殺到する氷槍によって全身が強打される。
　手にした銃器がはじき飛ばされる。
　動けぬ敵を撃ち抜く為の兵器が、墓標のように大地に突き刺さる。
「“さて―――唯一の武器を落としたな、代行者”」
　それが決着だと言うかのように。
「“拾いに走るがいい。
その背中を、おれの槍が撃ち砕く”」
　吸血鬼も理解している。代行者の甲冑が特別製である事を。
　破壊にはより強い概念、呪いが必要だという事も。
　極寒の呪いは彼の生理現象にすぎない。
　ただ生きているだけで振りまく呼吸のようなもの。そんなものではあの甲冑は砕けまい。
『壊れない』という概念に守られているのなら、これと真逆の概念をぶつけて相殺するのみ。
　これも一つの<縁|えにし>。
　吸血鬼の手には砕けぬものなしと城主から<賜|たまわ>った、騎士の一振りが握られている。
　ヴローヴとて既に手負い。無駄打ちをする余力はない。
　必殺の一撃を確実に見舞うため、相手の武器を落としたのだ。
「―――よく言いましたね。動けぬカカシの分際で」
　しかし、代行者は弾かれた銃器を振り返らなかった。
　確かにアレは主武装ではあるが、落としたところで問題ではない。
　むしろいつ<換|か>えるか、タイミングを計っていた。
　極寒である為、機械化部分の多いアサルトライフルではいずれ不具合が生じる事も熟知していた。
　代行者にとっても、本命は<こ|・><の|・><後|・>に呼び出す礼装である。
『―――主の御名において、第三の死因よ、<来|き>よ』
　少女は自らに向けて詠唱する。
　現状、銃器による制圧は不可能だと判断した。
　であれば、<刃|は>を散らす白兵戦の時間になる……！
　牙を<剥|む>く聖女の鉄槌。
　少女に与えられたものは銃と甲冑だけではない。
　<焼死|ブレイズ>。<病死|シック>。<出血死|ブレイド>。<衝突死|ブレイク>。<精|ロ><神|ス><死|ト>。<拷|ペ><問|イ><死|ン>。<断罪死|パニッシュ>。
　曰く、法が人に割り振った七つの死因。
　それを武器として結晶化したものが、彼女の持つ聖典である。
「[ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00]――――――！」
　獣の如き咆哮をあげ、少女は白い地獄を走る。
　体内にこもった熱、加速する魔力を火のように排出する。
　氷河を踏み砕き、不動の吸血鬼に肉薄する。
「“女――――――！”」
　響き渡る<剣|てつ>の音。
　少女が手にした物はあまりにも無骨な裁断機。
　ギロチンの刃を重ねた<百足|むかで>の如き<蛇腹|じゃばら><剣|けん>。
『<出血死|ブレイド>』の名を<戴|いただ>いた、圧し潰す為の巨大質量―――！
　胸を<抉|えぐ>る。腕を断つ。頭を割る。
　代行者の剣は容赦なく致命傷を与えていく。
　だが勝敗は決しない。
　吸血鬼とは不死身の怪物。<た|・><だ|・><殺|・><す|・><だ|・><け|・>の損傷では瞬く間に復元する。
　ヴローヴにとって、重いだけの剣戟は取るに足りぬ<涼風|すずかぜ>だ。
　この瞬間では、まだ。
「“…………これ、は”」
　冷めきっていた瞳に熱がともる。
　胸に、腕に、頭に入った裂傷が“まだ留まっている”事を看破し、吸血鬼はようやく目が覚めた。
　怒りでも憎しみでもない。
　とうの昔に凍り付いた、歓喜による目覚めである。
「“人間の流儀はどこに置いてきた、女。
　　この剣筋は、死徒を殺す為に、死徒が編み出したものではないか？”」
「――――――！」
　代行者は答えず、更に剣を見舞う。
　だが四撃目は届かない。
　今まで寒さと放浪によって死んでいた吸血鬼の過去が、代行者の剣圧によって蘇生する。
　ただそこにあるだけだった<死徒|のろい>は、かつて王を落とした騎士の貌に変貌した。
「“―――なぜ知っている、という顔だな。
　　二十七祖、剣僧ベ・ゼ。
　　おれも昔、一度だけ教えを受けた。
　　時代を見るに―――そうか。おまえが、最後の門弟か”」
　規格外の凶器が衝突する。
　かたや３メートルを超える氷塊の槍。
　かたや２メートルを超える複合可変の蛇腹剣。
　持ち上げて突き出す。
　人の筋力ではそれのみが可能であろう重量を、両者は自在に操っている。
「っ……！」
「“ハッ―――！”」
　力量は互角。しかし優劣は明らかだ。
　少女の剣によって吸血鬼は目を覚ました。
　一方、少女の動きは時間と共に劣化していく。
　この戦いは、初めから一方に不利が大きすぎた。
「“いいぞ。剣の腕は互角か、貴様が上だ。
　　だが人間である事が災いしたな。
　　この結界、果たしてあと何分保つ……？”」
　吸血鬼の槍がうなりを上げる。
　代行者の剣がこれをはじき返す。
　人智を超越した斬り合いはいつ果てるともなく続いていく。
　……だが、決着の瞬間はすぐそこまで迫っている。
　少女の四肢がわずかでもその性能を落とした時―――
　騎士の槍は、全霊を以て敵の真芯を撃ち抜くだろう。
　鳴動する冷気の檻。
　膨張し、集束する四角い世界。
　透明の壁はもうドス黒く染まっている。
　内部からの轟音は、死を目前にした生物の叫びのようだ。
　……限界だ。
　俺から見ても、これがどれほど無茶な試みだったか分かる。
「ノエル先生！」
「志貴クン!?　うそ、ホントに来たの!?
　あわわ、だめ、上に戻りなさい！　シエルさんから、部外者が来たら追い返すように言われているの！」
「今さら戻れません！
　それよりどうなってるんですかコレ!?」
「どうって、見ての通り！　土地ごとヴローヴを封印したんだけど、ぜんぜん効かなかったの！
　応援は来ないし太陽は沈んじゃうしで、こうなったら逃げてもいい状況だったのにあの子ったらひとりでなんとかするとか言い出して！
　出てきたヴローヴごと大聖堂をこの大きさまで圧縮して、中に飛びこんじゃったのよ！　それが一時間前の話！」
「―――！」
　やはり中にいるのはシエル先輩とあの吸血鬼か。
　要約すると、ヴローヴが地上に現れて、被害が周囲一帯にでると即断した先輩はヴローヴをこの檻に閉じこめて、自分も中に入ったらしい。
　あのキューブ状のものがなくなれば地下で見た吹雪が街を覆うのは理解できる。アルクェイドもそう言っていた。
「けど、なんで先輩まで中に!?
　閉じこめたんだから、先輩が入る必要はないでしょう!?」
「あるわよ！　あの結界はヴローヴの汚染を抑えるもので、ヴローヴ本体を抑えるものじゃないわ！　誰かが中でヴローヴを仕留めないといけないの！」
「な―――じゃあヴローヴを倒さないかぎり、先輩は出てこないんですか!?」
「ええ、そう！　でも無理！　ムリムリムリ！　二十七祖を正面から撃退するなんて、いくらあの子でもぜっっったいムリ！　あの呪いをひとりで受け止めてるだけでも嘘みたいな奇蹟なのに！」
　ノエル先生は恐慌状態に陥っている。
　俺よりずっと吸血鬼に慣れているこの人がここまで取り乱している以上、状況は最悪と見るべきだ。
「くそ……！」
　立方体の壁を睨む。
　中の様子は見て取れるものの、黒い吹雪の向こうは完全に別世界だった。
　40メートル四方の箱の内部は、その実、このクレーター以上の広さがあるように見える。
　時間と空間が<歪|ひず>んだ箱。
　その中で、先輩はたったひとりであの怪物と戦っている。
「……勝ってる。先輩は、負けてない、のに……！」
　彼女は勇敢で、強靭だった。
　ヴローヴ相手に一歩も退かない。
　でも、あの吹雪が先輩を<貶|おとし>める。あの環境下で生きて、活動している事自体が異常なんだ。
　……まっとうな状態なら。
　こんな箱なんて作らず、寒波が広がる事なんて気にせず、自分ひとりで戦っていれば、絶対に負けていないのに……！
「…………っ！」
　悔しくて奥歯をかみ砕きそうだ。
　状況が過酷すぎる。
　体に傷を負いすぎている。
　もうシエル先輩だけでは、あの吸血鬼は倒せない。
　あと一人……いや、あと一手、ほんの少しでいいから、先輩を後押しするものが必要だ。
　眼鏡を外す。境界ごと敵を見据える。
　俺なら、俺だけではヴローヴを殺す事はできないにしても、あの人の武器ぐらいにはなれるのに……！
「痛っ……！」
　無意識のうちに壁に伸ばした指先が一瞬で凍結する。
　……ダメだ。中に入る訳にはいかない。
　地下でヴローヴに接近した事を思い出せ。
　極寒において人間は満足に活動できない。血液が凍る。細胞が壊死する。なにより脳が死滅する。人間は、吸血鬼と対峙するにはあまりにも弱すぎる。
「……！」
　そして、もう何もかも手遅れだった。
　吹雪の中の影が重なる。
　動きの鈍くなった甲冑の少女に向けて、
　渾身の槍が放たれる。
　<磔|はりつけ>の罪人のように。
　先輩らしき影が、世界の<壁|はて>に叩きつけられる。
　―――先輩の終わりは、結界の終わりだ。
「たたた、退避退避ーーー！　ああ、でも今からじゃ間に合わない！　私も氷漬けになっちゃうーーー！」
　―――彼女の崩壊を以て、大聖堂は砕け散った。
　―――世界が凍る。
　―――風速160キロメートルの寒波が全てを凍結させる。
　―――その中で、ゴミのように弾け飛ぶ先輩を見る。
　―――俺はそれを、傍観する事しか、できなかった。
「……いや、違う……！」
　まだ何も終わっていない。
　確かに周囲はマイナスの冷気に包まれている。
　けれど温かい。外気とは別に、体の内側から守られるような熱を感じる。
　目を開けて空を仰ぐ。
　街に寒波は届いていない。
　吹き荒ぶ冷気はこのクレーターの中だけに留まっている。
　そして、遥か上空のビルの上には、心底からイヤそうな顔で手を掲げる、アルクェイドの姿があった。
「あいつ……！」
　口元が嬉しさでほころんでしまう。
　地表が凍り付いている以上、気温はマイナス40℃を超えている。それでも俺は呼吸が出来ている。
　体感温度も零度に届くかどうか。これなら<人|お><間|れ>でも数分は活動できる……！
　きっとアルクェイドなりの精一杯の譲歩なんだろう。
　シエル先輩に手は貸さないまでも、あいつは約束を守ってくれた。これがヴローヴへの牽制だとしても、街と俺たちを守ってくれたのだ。
「なら……！」
　あとはこちらの役割だ。
　先輩を助ける。ヤツをここで仕留める。
　この状況において、その二つは同義だと直感する。
　俺は―――
　シエル先輩に視線を向ける。
　結界と共に弾き飛ばされた彼女は瓦礫の山に埋もれている。
　ここから目算で50メートル。
　まずは先輩を助けないと―――！
　冷気の中心を睨む。
　砕け散った結界の跡に、青ざめた病貌を見る。
　……今の一撃はヤツにとっても重いものだったのか、化け物の分際で人間らしく両肩で息を切っている。
　腹立たしいが好機だ。
　今なら弾き飛ばされた先輩を助けに行ける……！
　ヴローヴに注意を払いながら走る。
　シエル先輩はクレーターの端、一段高く積もった瓦礫の山に飛ばされていた。
「先輩……！　しっかりしてくれ、先輩！」
　駆けつけて声をかける。
　擦り傷だらけだが大きな出血は見られない。
　胸は鎧のようなものが外れて剥き出しになっている。
　今まで微動だにしていなかった胸のカタチが、声をかけた事でびくん、と大きく震動した。
　良かった、先輩は生きている……！
「聞こえますか!?　苦しいだろうけど起きて、シエル先輩！」
「んっ……あ……と……、……ん？」
　先輩の容体を看ながら、視界の隅にヤツを捉える。
　―――まずい。
　今まで決して動かなかったあの吸血鬼が、一歩ずつ、牛の歩みではあるが、こちらに向かって前進している……！
　先輩をここまで弾き飛ばした事で大型の槍は崩壊した。いまヤツが手にしているものは一回り小型の槍だ。
　地下で俺が落とした左手は元に戻っているが、さきほどから使われていない。おそらくカタチだけ復元したものだ。あの左手は機能として死んでいる。
　……以上の事から、ヤツにも余力はない。
　だからこそ確実に、追い詰めた獲物にトドメを刺すため、無理を押して進軍を始めたのだ。
「遠野……くん？」
「先輩……！　良かった、気がついた！　話は後です、早く起きて！　ヴローヴが来ます！」
「あ……はい、ありがとうござ……
って、なんで遠野くん!?
　夢!?　夢じゃないですよね!?　バカなんですか貴方は!?　なんでホントに来てるんですか!?　あんなに、あんなに家に帰ってくださいってお願いしたじゃないですか!?」
　先輩は倒れたまま目を白黒させて俺を見る。
　先輩が怒るのはもっともだけど、今はそれどころじゃない。
「怒るのは後！　ああもう、引っ張りますよ、いいですね!?
　―――ってうわ、重っ!?　先輩、すげえ重くないですか!?」
「遠野くんが非力なだけです、平均よりちょっとあるだけです！
　いいから早く逃げて！　貴方は関係ありません、今ならまだ間に合うはずです！」
　掴んだ手を払おうともがくシエル先輩。
　その、俺の身を案じての忠告に、
「……逃げれば助かるんですか？」
　今の自分にある、ありったけの気持ちで訊いた。
「………………」
　そう。逃げたら助かるなんて嘘だ。
　逃げるという選択自体が<負債|ぎせい>を<孕|はら>んでいる。
　だいたい、ここで逃げても助かるのは一時だけだ。
　あの吸血鬼をここで仕留めないかぎり、何もかもが手遅れになる。
「―――遠野くん、それは」
「そうだろ、先輩。逃げても解決しない。戦うしかない。
　……さっき、みんなの為に先輩がそうしたように、」
　あの夜。
　この人が俺に“救いはある”と言ってくれたように、
「本当の意味で助かりたいのなら、怖くても、ここでアイツを殺さないと」
　……だって、俺にはそれしかできない。
　短絡的に、殺す事しか能がない。
　それでもいい。俺が人殺しである事の償いと、この戦いが無関係でも、それでいいんだ。
　……これが殺人鬼である事の証明にすぎなくとも。
　この後にくるマイナスを殺せるのなら、俺は喜んで、もう一度ヤツの懐に飛びこんでやる。
「とにかく任せて！　一緒にやらせてくれ、先輩！」
「た、たしかに、遠野くんはヴローヴの腕を切り落としましたけど……
い、いえ、ダメです！　だって理由がない！　貴方には、それだけの事をする理由がありません！」
　それは俺の理由ではなく、この人が俺を酷使する為に必要な理由だった。
　―――なんて善良な。
　この状況でも、まだ俺のようなろくでなしを、守るべきものに見てくれている―――
「それじゃあご褒美をください！
　あいつをやっつける手助けをしたら、したら―――」
　くそ、咄嗟にそれらしい報酬が浮かばない。
　ご褒美？　そんなの、いま目の前にあるものしか思いつかない。
　正直言うとさっきから興奮して仕方がない。健全な男子として、こんな瑞々しい肢体を見せられて欲情しない筈がない。
　この体をどうしたいとか、そんなコトならいくらでも思い浮かぶ。でもきっと台無し、何もかも台無しだ。そもそもワンパンでおしまいだ。
　となると控えめにメアド交換か？　フレンド登録か？　なんだそれバカらしい、いつでも出来るじゃないかまったくバカらしい本当にバカらしい！　でもおかしくて口元が緩んでしまう、うん、大層な理由よりこっちの方がずっといい。だって、俺はこの人が大好きだ。放っておけないからここにいるんだ。だから吸血鬼が迫ってくるこの状況でも、先輩との“この後”を考えるのは、何もおかしいコトじゃない……！
「決まった！　今度、先輩の弁当を分けてください！　それで手を打ちます！　あ、もちろん手作りで！」
「は、はぁ!?　ででででもわたし、料理なんていっこぐらいしか作れません！」
「うん、じゃあそれで！　取っておきっぽくていいですね！」
　明確な作戦、効果的な奇策はない。
　早口なのはこれ以上時間がないと判断しただけだ。
　先輩から視線を切ってヤツに意識を集中する。
　ここからはただ、この人の為に両眼を開く。
　……そう決意した時、緊張で震える手を、後ろから握られた。
「―――先輩？」
「…………二つ、必ず守ってください。吸血鬼の正面には立たないで。背後に回る事に専念する」
「はい。あと一つは？」
「私の事は何があっても考えないように。もう言うまでもありませんが、鉄みたいに頑丈ですから」
　声にはかすかな恥じらいと自嘲があった。
　……浮ついていた感情が仕舞われる。
　先輩にそんな言葉を言わせた自分を<戒|いまし>める。
　頷いて先輩の手を放す。柔らかな感触が名残惜しい。
　先輩から離れる。
　彼方から歩み寄る吸血鬼と対峙する。
　ホテルでの殺戮。地下墓地の地獄。
　それらの光景を思い返し、殺し合いの原動力にしようとする思考を止める。
　満足に活動できるのはせいぜい１分。
　その間、人間らしい感情はすべて捨てる。
　恐怖も高揚も後にする。
　―――今から。
　　　　俺は、死を視るだけの機械になる。
　改めて思う。
　強靭な命の輝きは、それこそ<瞬|またた>く星のようだと。
　……はじめて、ヤツと視線が合った。
　ヴローヴは俺を意識している。
　地下での戦いで、ヤツは俺が“脆弱だが毒を持つ危険物”と理解した。故に無視する事はない。
　ふと、今なら会話が成立するかもしれない、なんて、人間的な希望が生まれもした。
　だが相互理解は必要ない。
　俺はヤツを生き物と見なさない。
　ヤツも同様、俺をモノとしか見ていない。
　これ以上ないほど対等だ。
　俺たちはもう、充分にわかり合えている。
　たった40メートルの間合いを走る。
　最後の逢瀬にしては短すぎる。
　時間にして４秒。呼吸にして２回の刹那。
　放たれた氷塊は俺を無視して過ぎていった。
　的確だ。ヤツは接近する俺より先に、疲労している先輩にトドメを刺した。
　―――振り向かない。
　その余裕はない。歯を鳴らしてヤツの間合いに踏みこむ。
　ナイフと槍。
　得物のリーチは比ぶべくもない。
　俺がヤツの“線”を通すには、この初手をくぐり抜けなければならない。
　人間を超越した筋力で撃ち出される一撃。
　躱せる筈がない。
　どういう経緯か、こいつは俺の知っていた吸血鬼ではなくなっていた。
　眼に光がある。切っ先に合理と経験がある。あふれだす暴力に頼るだけだった愚鈍さが、その身体から抜け落ちている。
　つまり。
　俺同様、生存に死力を尽くす、単純な生き物がここにいる。
「“―――！”」
　もっとも。
　俺の心臓を貫く一撃は、後方からの一撃で弾かれた。
　俺たちが単一機能の生き物なら、あの女は才能の複合体だ。
　背中を預けた事で本能が感じ取る。
　あの女の<性能|スペック>は、俺たちを重ねてもまだ上回ると。
　そして、１分間の絶頂が始まった。
　正面から打ち合う女と吸血鬼。
　背後に回る<小兵|こひょう>の一刺し。
　騎士は決して背中を見せず、二体の敵を視界に収めながら立ち回る。
　踊るような刃の交わり。
　超絶技巧で叩かれる交響曲のようだ。
　回転するギロチンの刃。その隙間をかいくぐるナイフの一撃。それらを同時に弾きながら、的確に<連携|れんだん>の急所を突く氷の槍。
“ッ―――、ァ―――………！”
　急造でありながら俺たちの息は合っている。
　女は俺が陰になるように立ち回り、
　俺は女の可動範囲に入らないよう足を滑らせる。
　紙一重の攻防。
　際限なく上昇するボルテージ。
　１秒ごとに凝縮していく集中。
　俺にとって敵を殺すという事は、敵を<視|み>続けるという事。
　なんて目映い。
　かつてここまで一つの“死”を視続けた事はない。
　―――その果てに
　<原理|ひかり>を<知覚|み>た。
　決して理解できぬもの。
　言語、記録で理論を構築する思考形態では見えないはずの、光を見た。
　死は万物に共通する零の基準。
　それを極点にして、知覚のピントが、あったのだ。
　それは雪原の記憶だった。
　それは迫害の記憶だった。
　それは漂流の記憶だった。
　それは救済の記憶だった。
　それは叛逆の記憶だった。
　即ち、ひとりの騎士の結末だった。
　男は冤罪で国を追われた。政略で故郷を失った。
　流刑の地はこの世の果てだった。
　人の住めぬ極寒の海だった。
　絶海に置き去りにされ生き続けるしかなかった。
　寒さしかなかった。
　痛みしかなかった。
　朽ち果てた男を救ったものは、人間からも<死徒|なかま>からも逃げ出した、朽ち木のような女だった。
　一時の春があった。
　男は雪原に咲く花を愛し、鳥を愛し、歌うように人を殺した。
　男を慰める十人の<妃|つま>も手に入れた。
　主君への忠誠も、決して溶けぬ氷壁と同義だった。
　だが、魂に刻みついた痛みは癒えなかった。
　寒さという名の乾きには抗えなかった。
　男は、寒さから逃れる為に、騎士である事を放棄した。
　<拐|かどわ>かされたとはいえ。
　唯一の陽差しを、自らの手で閉ざしたのだ。
　それがこの男だ。
　ヴローヴと<銘|な>を受けた吸血鬼だ。
　その本質は寒さと裏切り、漂流と悔恨。
　ああ―――これなら殺せる。
　言葉にできる原理なら、それは人間の範疇だ。
　歓喜しろ吸血鬼。
　俺は今こそ、おまえを完全に殺してやれる。
　星の内海、ソラを覆う天蓋は謳う。
　祖に呪いあれ。
　人の世に呪いあれ。
　いまだ原理は定着せず。この星の<礎|いしずえ>はあまりに脆い。
「“――――――貴様”」
　炎のような殺気に肌が焼かれる。
　接続しかかっていた意識が戻る。
「“おれの、何を視た…………！！！！！！！！！！！”」
「遠野くん、下がって……！」
　声が聞こえる。
　視線を向けるだけの体力がない。
　なんて不覚。夢中になりすぎた。酸素不足で目眩がする。
　俺は、先輩に振り向くどころか、いま目の前に迫る槍すら満足に<捉|とら>えられない……！
「っ―――、は……！」
　一息で20メートルもの距離が空いた。
　先輩が俺を後ろから抱き抱えて、ヴローヴから距離をとってくれた、らしい。
　息をつく余裕はない。
　ここまで離れていても届く殺気。
　あの吸血鬼は、もう俺を殺す事しか頭にない。
「先輩、放して、くれ」
　振り向かずに声を上げる。
　腰に回された腕が<解|ほど>かれる。
　背後で、何か重いものを拾い上げる音がする。
「お互い限界ですね。
　自分の身体がどんな状態なのか、把握していますか？」
「はい。もう右腕ぐらいしか、あがりません」
　両目の痛みは表現できる限度を超えている。
　眼孔に火の玉が入っているかのようだ。
　この分では呼吸が止まる前に頭痛で脳が止まりそう。
「そうですか。では、<ま|・><だ|・><信|・><じ|・><て|・>いいんですね？」
「――――――もちろん。ここからが本番です」
　つい、笑いながら頷いてしまった。
　少しだけ胸が苦しい。
　どんな状況であれ、自分の気持ちを理解してもらえるのはこんなにも嬉しい事だったのかと再認識する。
「―――よし。行くよ、先輩」
「任されました。まっすぐに、出来る事だけをしてください」
　迂回する余力はない。
　俺は正面から疾走を開始し、一息の間をとって先輩は追走する。
　撃ち出される氷の<槍|あめ>。
　槍はすべて俺に向けられている。ヴローヴにとって、俺はもう<そ|・><う|・><い|・><う|・><モ|・><ノ|・>として格上げされた。
　だが届かない。
　耳を裂く射撃音とともに、先輩の銃弾が文字通り、氷の槍を雨に変える。
　あの人は意味もなく後退なんてしない。
　さっきあの位置に跳んだのは、飛ばされた銃を拾い上げる為でもあったのだ。
　<一息|ひといき>。
　あと<一息|ひといき>で、あの光を断つ。
　無論、このままでは絵空事だ。
　全霊をかけているのはヤツも同じ。どれほど衰弱していようと身体能力ではヤツの方が数段上。
　この槍の一撃は、遠野志貴だけでは<凌|しの>げない。
　だから、彼女の助けに命を懸ける。
　ヤツはこの<秤|はかり>をどう取ったか。
　地上を走る俺と、上空から援護する代行者。
　瞬時の判断で、ヤツは先輩こそ危険だと理解した。自分を殺すのはあの女だと。
　だが―――
　だが、そのすべての直感を排斥して、ヤツは地を這う俺を選んだ。
　激情に流れたのではない。本能という絶対命令を、意思の力で押し曲げた。
　今のヤツは被害妄想に埋没した吸血鬼じゃない。ひとりの騎士だ。その男が本命を無視する為に、果たしてどれほどの意思力を必要としたのか。
　怒りなどでは生ぬるい。己の全存在をかけるだけの<拘|こだわ>りが、誇りが、ヤツに俺を殺す事だけを選ばせた。
　ああ―――素晴らしいが、なんて愚か。
　だからおまえは、こんな異国に、たった独りでやってきた。
「“枷は解け、骨は外れ、仇は成せり”―――」
　逃れようのない鉄の<腕|かいな>が振り下ろされる。
　この極限において例外者はなく、
　全霊というのなら彼女も同じ。
　それは俺に道を示すように、
「“その遠吠えは　万里を手繰る―――！”」
　地を裂く<轍|わだち>となって、ヤツの半身を打ち砕いた。
　衝撃に揺れる槍の切っ先。
　わずか数ミリのブレが俺の頭を胴体につなぎ止める。
　左肩を撃つ氷塊。
　構わない。撃ち抜かれた衝撃に抗いながら踏み込む。
　ズッ、という感触。
　ナイフはたやすく、吸血鬼の胸に滑り落ちた。
「づ―――あ、あああああああああああああああ！」
　地面に転がり、激痛にのたうち回る。
　脳が焼けそうだ。
　ナイフの切っ先まで自分の指になったよう。
　刺した“点”から、ナイフを伝って痛みが全身を駆け巡る。
「“―――貴様は―――”」
　激痛に揺れる頭が、漠然と理解する。
　今のは、<視|・><す|・><ぎ|・><た|・>。
　俺は吸血鬼の器ではなく、燃えていた火を消してしまった。
　失敗した―――あの輝きではなくヤツの死だけを視ていれば、例外なく“殺し”きれたものを―――！
「“―――何者だ―――！”」
　その身を焦がす呪いから解放された吸血鬼。
　只の死徒に戻った男が、その爪を振りかざす。
「ヴローヴ・アルハンゲリ……！」
　それをなぎ払う蛇腹の剣。
　伸縮する大剣は吸血鬼の体を、文字通り蛇のように咥えこむ。
　音をたてて回転する断罪刃。
　代行者を中心にして発生した竜巻は、吸血鬼の体を上空に打ち上げ、そして―――
「“―――命は燃える人は病む。
　　　　　血肉は脆く知恵すら溶ける。
　　　　　なれば救いは土の中、安息こそ我が故郷”」
　変形する鉄の刃。
　剣は収まり、そのカタチを杭打ち機に変えて、
　落下する吸血鬼を迎え撃つ。
「“―――待て。
　　その洗礼、は―――”」
　逃れようのない死の一撃。
　あばら骨はおろか胴体ごと撃ち砕く衝撃を受けて、吸血鬼はなおその凶爪を伸ばす。
「“貴様―――そうか、貴様もか……！
　　どこまでも<狡|こざかし>い蛇……！
　　死ね。死ね、死ね、死ね……！
　　おれは、おまえたちに斃されるなど……！”」
　それは、今までのヤツには微塵も見られなかった、心からの憎しみだった。
「滅びなさい吸血鬼。
“花は胸に―――<聖女の祈りを贖いに|クレアトゥーラ・デル・シエロ>！”」
「“ha―――aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa！！！！”」
　天を突く断末魔の声。
　容赦はなく、慈悲もない。
　その杭は罪人を<咎|とが>める鉄槌となって、この地上から吸血鬼の全存在を消滅させた。
「なんだ―――結局、先輩だけで良かったんじゃないか」
　仰向けに寝返りをうちながら、悔しいような、誇らしいような、そんな感想がこぼれていた。
　心肺機能が喜びの悲鳴をあげる。
　長く止められていた呼吸を、ようやく再開させられた。
　体はもう動きもしない。
　ナイフを握っているかどうかも曖昧だ。
　確かなものは頭蓋の中の痛みと、気を緩めた途端、闇に落ちそうな意識だけ。
　左肩に刺さった氷の痛みも、
　切り刻まれた手足からの出血も、今は麻酔にかかったように感じない。
　頭痛を薄める為、なんとか眼鏡をかけたところで、完全に電池が切れた。
「遠野くん……！　しっかり、生きていますか……!?」
　……先輩の声が聞こえる。
　心配させたくないので手の一つでもあげて無事を知らせたかったが、指の一本も動かなかった。
「遠野くん、遠野くん……！
　呼吸―――呼吸はしていますね、心臓も動いている……なのに目を覚まさないなんて、ああ、もしかして頭が……！」
「いや、あの。その言い方は、あんまりな気がします」
「……！」
　先輩が体を起こしてくれたからだろうか。
　頭から血が引いて、喋るぐらいはできそうだ。
「良かった……！
　い、いえ、良くないです、なんかもうボロボロじゃないですかっ！　無謀すぎます、なんだってあんなコトをしたんですか!?」
　そんな、今更なコトを先輩は怒っている。
　どうやらよっぽど慌てているらしい。目がかすんでよく見えないのが残念だ。
「……ですね。まったくです。先輩の言う通り、無謀でした。
　本当に―――メチャクチャ、怖かった」
　はあ、と大きく息を吐く。
「……もう。今ごろになってそんなコトを言うなんて、困った人ですね」
「でも、怖かったってどのくらい怖かったんですか？　噂に聞いた、遠野くんの妹さんぐらい？」
「……自覚してますからいじめないでください。こんなのは二度とゴメンです。あと、子供扱いもやめてください」
　口をとがらせて抗議する。
　それが悪かったのか、先輩はますます、
「はい。強がるところが可愛いです
」
　なんて、ころころと笑っていた。
「っ―――」
　肩の痛みが意識を裂く。
「あわわ……！　ごめんなさい、今は治療が先でした！
　肩の傷は……骨は折れていませんね。良かった、これなら私でも治療できそうです。他に痛いところはありませんか？」
「――――――」
「はい……？　あの、遠野くん？　もしもし……？」
　先輩がいてくれるなら何も怖くはないですよ。
　……そんな言葉を口にした気になって目蓋を閉じていく。
　視界に映るものはあの月だけ。それで、ここにはいないもうひとりの協力者の顔を思い浮かべた。
　アルクェイド。あいつに会ったらなんて言おう。
　話が違うと抗議するべきか、ありがとうとお礼を言うべきか。
　どっちにしても、あいつがどんな顔をするのか想像するのは、なんていうか―――
「……はい、おやすみなさい遠野くん。
　後の事はわたしに任せて、どうかゆっくり休んでください」
　最後に聞こえたのは子守歌のような囁きだけ。
　俺の意識は二日ぶりに、深い眠りに落ちていった。
　ヴローヴ・アルハンゲリが地上から消滅して２時間
後。
　機動施設隊による交通規制、報道機関のシャットアウトは現時刻まで続いている。
　陥没の調査はおろか映像記録すら許可しない隠蔽処理。その指揮を執っているのは警察官でもなければ自衛官でもない。
　金髪碧眼の外国人。
　外見年齢、およそ12歳にすぎない少年だった。
「オーオー。やりたい放題ってのはまさにコイツのコトだよなぁ。死徒の<地下墓地|カタコンベ>に真祖の空想具現化ときた。ニホンってのはアジアが誇る先進国じゃなかったのか？　いつから中世の田舎町になりやがった。
　こんな大騒ぎは13年前のアレ以来じゃねえのか、ええ？　おい聞いてんのかアンドー、テメェの国の話をしてんだよオレは」
「俺に言われても困りますよ坊ちゃん。ハイテク国家とか言われてますけど、そんなのもう10年も前の話ですし？　技術も人間の程度も伸び悩んでるんスからこの国。愚痴……じゃなくて、お叱りは所轄の代行者にぶつけてください」
　金髪の少年の悪態を慣れた風にかわす青年。
　彼等の眼下には戦場となったクレーターが広がっている
。
　見れば、クレーターではいくつかの人影がせわしなく活動していた。
　災害現場の人命救助に出動したレスキュー隊、および所轄の警察から派遣された調査団だ。
　彼等は事故の真相を知らされないまま、この異様な現場の後処理に努めている。
「しかし、いいんですか坊ちゃん、うちの連中使わなくて。
　あれ、どんだけ箝口令ひいても漏れちゃいますぜ？」
「気にすんな。ニホン人は仕事熱心なんだろ？　秘密厳守っていう組織の方針には従わなきゃあな。
　よしんば話が漏れても噂止まりだ。事故現場に死体があるのは不思議じゃねえんだしな」
「そりゃ不思議じゃねぇですけど、不自然ではありますよぉ？　どこにこんだけの死体があったんだって話ですし」
「そりゃあオマエ、ここで発見された死体は今夜ここにいた哀れな一般人だろうが。発見された死体イコール、さっきまで生きていた人間ってのが自然だろ？」
「げ。マジですか。そんな方便で通るんスか！」
「そこを通すんだよ。いやあ、公園だったのが幸いしたぜ。無関係な人間が山ほどいたコトの理由になる」
「理由さえあればあとは力仕事だわな。何の為にうちのジジイが権力バラまいてると思ってやがる。押さえるのは<上|トップ>だけでいいんだよ。下っ端や真ん中が不審がっても関係ねえ。最後にまとめる人間が握りつぶせばそれでおしまいだ」
「……はあ、そりゃあ辛い。そっかー、そういう風に闇に葬られてきたのかー。
坊ちゃん、その歳でエリートコースまっしぐらッスね。家柄的な話プラス、精神的な話で。なんかこう、もっと年相応の遊び心とかないんですか？」
「あるかンなもん。ガキってのは基本つまらねえもんだって忘れたのか30歳？　オラ、無駄話してねえで監督してきやがれ。ヤバめな証拠は隠滅しとけよ」
「へーい。上司の命令とあればよろこんでー」
「……アレでもちっと緊張感があれば使えるんだがな。あの捨て鉢さはなんだ、若い頃に挫折でもしたのかカリウス？」
「私にはとんと。安藤の私生活に興味はありませんので。
　３年前、悪徳司祭の内部告発を決意したものの、最後の最後で金に目が眩んだ恋人に裏切られ、故郷を追われ、失意の果てに父方の祖国であるこの国に島流しになった、という事ぐらいしか。
　また、先月は金融機関に３万円ほど返済をした後、６万円ほど追加の融資を受けたようです」
「………充分知ってるじゃねえか。まあ、仲がいいのはいいコトだ。当面オレの下はオマエとアンドーだけだからな。チームワーク磨いとけよ」
「マーリオゥ様のご命令とあらば承知いたしました」
「おう、仲良くな。んじゃあそろそろ報告でも聞いとくか。
　あの使えない方の女、通していいぜ」
「………………」
　緊張した面持ちで女は現れた。
　代行者ノエル。事件の全容を知る数少ない人間である。
「本日付けで赴任した監督司祭代行、マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノだ。
　顔合わせは初めてだよな、代行者ノエル？」
「ベ……ベスティーノって、あのラウレンティス枢機卿の……ですか!?」
　ノエルが驚くのも無理はない。
　少年の名は教会の人間にとって無視できない事柄だ。
　聖堂教会の頂点である法王と、
　その法王を支える128人の枢機卿。
　最高権力者たちの集まりである枢機卿の中でも最大の発言力を持ち、次代の法王は確実と言われているのがラウレンティス枢機卿であり、その孫がこの少年、マーリオゥなのである。
　とはいえ、マーリオゥは実子ではない。枢機卿に妻帯は許されていないからだ。
　原則として彼等は養子をとり、育て、自らの後継者とする。
　血族主義ではなく実力主義。
　より深い信仰、深い知識、深い道徳を持つものが神の家を支える柱として選ばれる。
　―――が。
　ラウレンティス枢機卿には公然の秘密があった。
　彼は多くの子を養子にし財産を分け与えたが、その息子たちの顔立ちはみな、ラウレンティス枢機卿に似通っていた。
　女好きの枢機卿。金と権力で枢機卿の座についた俗物。
　それが多くの信徒たちが抱くラウレンティス枢機卿のイメージだ。
　もっとも、ラウレンティス枢機卿を知る司祭たちは彼の真実を知っている。信仰心、思慮深さ、人間力。そのすべてが教会を支えるに相応しい人物だと。
　女性好きな事だけが、彼の唯一の<瑕|きず>なのである。
　その孫……あくまで表向きはだが……であるマーリオゥは、特にラウレンティス枢機卿から覚えがよく、遅咲きの後継者だと言われている。
　ベスティーノという姓はラウレンティス枢機卿がまだ片田舎に住んでいた頃の旧姓である。20人を超える養子……いや、兄たちを差し置いて、この姓を与えられた少年がどれほど期待されているかなど、信徒であれば説明されるまでもない。
　表舞台から姿を隠し、隠居生活に入った権力者の秘蔵っ子。
　それが目の前にいる少年だと知れば、ノエルのごとき一代行者が震え上がるのは当然と言えた。
　……だからこそ彼女は思う。
　本国にいれば将来が約束されたエリート中のエリート。
　その<少年|マーリオゥ>が、なぜこんな島国に単身現れたのか……？
「で、でも……本当、に？」
「アン？　なんだ、免許証でも見せてほしいのか？　テメェ、オレがガキだからって舐めてんのか？」
「い、いえ、そんなコトは決して……！
　で、でも……あの、枢機卿のお孫さんにしては、その……若すぎる……ような？」
「そりゃあ若ぇだろ。ジジイが百歳超えてから愛人に産ませたガキだからな。今年で12だ、おそれいったか。しかもまだ弟がいるって話だ。
　……ったく、うちのジイ様は吸血鬼以上の絶倫だぜ」
「マ、マーリオゥ司祭代行……！
　い、今の発言は、その……！」
「ただのグチだ、聞き流せ。
テメェもそこまで信心深いってハラじゃねえだろ。無理して“らしい反応”してんじゃねえよ。
　んなコトより本題だ本題。コトの始まりには間に合わなかったが、最後のシメだけは見せてもらったぜ」
「あ―――は、はい。
　事の始まりと言うと、どのあたりから……でしょうか？」
「テメェが逃げ出したところからだ。いい判断だったな代行者ノエル？　おかげで命があるワケだ。三流は三流らしく、テメェの命を最優先ってなァ？
　逃げ足だけは見所あるよ、オマエ。10年近く使い捨ての狗ころやってるヤツは筋金入ってやがる。オレが法王庁に帰り次第、テメェは首だ。修道院送りじゃねえぞ。ギロチン送りの方な」
「へ―――？」
　突然の死の宣告に理解が追いつかない。
　女は数秒、自分の心臓が停止したかのような恐怖に打ちのめされ、
「まま、待ってください……！
　あ、あの、あれには深い訳、が、ありまして―――！」
　必死に、両膝を地面につけて弁解した。
　共闘者であるシエルを置き去りにしての逃亡。
　あれは自己保身から行った行為ではない。
　あくまで応援を呼ぶため、本命である吸血鬼を殺すため、やむなく撤退したにすぎないと。
「―――ほう。本命ときたか。
　じゃあ何か。テメェとあの女のコンビの標的は別なワケか」
「そ、そうなんです、そうなんです！
　嘘じゃありません、法王庁に問いただしていただいても結構です！　司祭代理ならそれぐらいできますよね!?」
「そうでもねえんだよ、マヌケ。テメェの相方は埋葬機関だろう。あそこは治外法権だ。ジジイの威光もヤツラにだけは届かねえ。テメェらがこの街にいる事もいま知ったばかりだよ」
「っていうか、司祭代行なんざただの肩書きだろうが。
　現場において代行者はその事変が収束するまで独自の権限を認められる―――<教|う><会|ち>の絶対のルールだろ。親の七光りに目が眩んでるんじゃねえよ」
「え……じゃ、じゃあ、今のは……嘘、ですか？」
「嘘じゃあねぇさ。偽らざるオレの本心だ。こんなガキの身分じゃそんな権限は無いってだけでな」
「だがまあ、いい話は聞けたよなぁ？　本命ってヤツの話を聞かせてもらおうじゃねえか。テメェとあの女、いったいいつから潜入調査なんざしてやがった？」
　自らの失言に気がつくノエルだが、こうなっては隠し通せない。
　彼女は同僚である代行者と行ったここ一ヶ月の調査内容を、本国からやってきた司祭代行に報告した。
　ノエルの報告は10分ほどで終わった。
　簡潔に、この調査の責任は自分にはなく、あくまで同僚にある、と主張しながら。
「裏付けのない未確認情報を頼りにスコア稼ぎねぇ。
　つまりはアレだ。テメェらも独断で動いてたワケか。結構結構、それなら潰し合う必要はねぇ。協力し合えそうじゃねえか、代行者ノエル？」
「司祭代行……？　それはどういう意味でしょうか？」
「マヌケ、今ので同じ穴のムジナだって分かれよ。
　オレはお忍び。テメェらは私的な暴走。<ヤ|・><ツ|・>を追っている事を上に知られるのは都合が悪いってコトだろう？」
「お忍び……それじゃあ、その………ここまでのお咎めもなし、というコトでしょうか……？」
「咎めようがねえなァ。オレは代行者なんざ見ていないし、そっちもオレの命令は受けていないワケだし？　<仕|コ><事|ト>が終わるまではそういうコトにしておけよ。
　正直、こっちも自由に動かせるのはこの国の権力者だけでな。教会の実働部隊は動かせない。動かす時は最後の一手、決着をつけるタイミングだけだ。なんで、それまで使い勝手のいいコマが欲しかったんだよ」
「つまり……今だけわたしたちは対等、というコトですか？」
「ああ、互いに助け合っていこうぜ。
　とは言ってもコトが終われば立場も元通りだ。<後々|あとあと>いい生活がしたいってんなら尻でも振りまくるんだな。
　オレに媚びを売れば売るほどジジイへの覚えもよくなる。テメェ程度の三下には一生に一度あるかないかのチャンスだぜ？」
　現場での特権を許される代行者だが、その身分階級は教会内において下層にあたる。
　兵士としていくつかの権利と自由が与えられる代わりに、階級をあげる機会が剥奪されているのだ。
　代行者は戦いに赴き、戦場で消える消耗品。
　そんなノエルにとって、少年の言葉は破格の幸運だった。
　……しかし、ノエルは素直に喜べなかった。
　あり得ないほどの出世の足がかりではあるが、こんなものは口約束にすぎない。
　第一、少年は完全にノエルを見下している。
　自分の半分も歳を取っていない子供が権力を振りかざす事への反感。……加えてノエル本人も気付いていない事ではあるが、彼女は根本的に教会の人間を嫌っている。
　ノエルがマーリオゥに好意を抱くのは、よほどの事がないかぎり難しい事だった。
「なんだ、嬉しくねえのかよ。ここは喜んでオレの靴を舐めるところじゃねえか。雌犬のクセに反応悪いなテメェ。犬っていうより豚だったか？」
「い、いえ、そんなコトないですよ？　ふって湧きすぎた幸運に慣れていないだけというか、あはは……」
「それより、あの、出世の話ならあの子はどうなんです？
　……今でも信じられないけど、ホントに祖を倒しちゃいましたよね？　これであの子の待遇とか上がっちゃうんですか？　なにしろ初の二十七祖殺しなんですし」
「はあ？　バカいってんじゃねえぞ<七面鳥|ターキー>。
　たとえ国を揺るがすような怪物だろうとな、<吸|・><血|・><鬼|・><殺|・><し|・>で役職が上がるかよ」
　恐る恐る口にしたノエルを心底から<蔑|さげす>むマーリオゥ。
　ノエルはますます反感を覚えたが、同時に安堵もあった。
　死徒の王。代行者にとって最大級とも言える異端狩りをしても、あの少女の待遇は変わらないのだ、と。
　―――だが。
「だいたい、初めての話でもねえしな」
「―――はい？」
　今度こそ本当にノエルは驚きの声をあげた。
　極東に現れた司祭代行は戦場になったクレーターを見下ろしながら、
「だから初めてじゃねえんだよ、あの女の二十七祖殺しは。
　『森』と『城』を含めてこれで三体目だ」
　冷めきった目で、既に姿を消した代行者の戦歴を口にした。
「ただいまーっス。あれ？　下からチラッと見えた可愛いお嬢さんは？　もうお帰り？」
「カリウスに送らせた。今後の打ち合わせもあるからな。
　埋葬機関の方は話にならねえが、あの女は分かりやすい。ニンジンぶらさげりゃあ死ぬまで走るタマだ。
　んで、そっちはどうだ？」
「いやあ、何も残っていませんわ
。
　死徒にとっての聖典、吸血鬼の<魂跡|こんせき>ってヤツ？　死体も残ってないですし、あの代行者が回収しちまったみたいですね」
「チッ、またかよあのアマ。戦利品はきっちり上納するもんだろうが。組織の上下関係舐めてんのか」
「いやあ、そんなワケのわからない<戦利品|モノ>押しつけられても困りますけどねぇ。
　餅は餅屋、化け物は化け物殺しにでいいじゃないッスか」
「だから、<化|・><け|・><物|・><殺|・><し|・><が|・><化|・><け|・><物|・><に|・><な|・><っ|・><た|・><ら|・><困|・><る|・><ん|・><だ|・><よ|・>。
　……いい、テメェはしばらくここの監督だ。明日にはこの土地の持ち主様が来るから顔合わせとけ。
オレは街の把握がてら真祖の様子を見てくる。定時連絡、忘れないようにな」
「うえ!?　坊ちゃんが直々に、そんな地味な肉体労働を!?　オレの仕事ですよそれ!?」
「……死ぬほどクソだなアンドー。真祖の尾行なんざテメェに任せられるか。一日であの世行きだ」
「坊ちゃん……そんなに俺を大切に……」
「まだコマの替えがねえからな。死なれたらオレが疲れる。人員が増えたらテメェに任せるから安心しろ」
「―――うん、まあそういう理由ッスよね。
　でも坊ちゃんなら上手くいくんですか？　基本的に貧弱な、ただのクソガキですよね坊ちゃん？」
「魔術だの秘蹟だのに頼らない時点でテメェらよりマシだろうよ。よしんば見つかっても<真|ア><祖|レ>とは顔見知りだ。殺される事はねぇ」
「え、ちょっ……枢機卿のボンボンが吸血鬼と顔見知りって、それスキャンダルどころの話じゃないですよねぇ!?」
　驚きの声を無視して少年は歩き出した。
　まずはこの街の視察と、戦いの前準備。
　その後は―――もう何年も前に遭遇し、記憶から薄れつつあった、美しい吸血姫の姿を確認する為に。
　柔らかな陽射しが眠りを払っていく。
　目を閉じていても皮膚感覚だけで周囲の静けさは読み取れる。
　空気は程よく冷たく、目覚めを促してくる。
　どうやら今日は、これ以上ないほど晴れ上がった空のようだ。
「…………ここは、」
　ベッドに横になっていて、枕元には眼鏡がある。
　周囲は極寒でもないし、背中を痛める瓦礫の感触もない。
　目を覚ますと、そこは遠野邸の一室だった。
　条件反射で眼鏡をかけ、視線を泳がせる。
　深呼吸をして新鮮な空気を
とりこむ。
　時計の針はカッチコッチと音をたてて、
　外からは小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
　さあ、という音が聞こえてきそうなほど、窓からの陽射しは清らかだ。
「そうか、俺は」
　自分の日常に戻ってきた。
　未だに思考はぼんやりとしていて、体の節々が重いけど、とにかく正しい在り方に戻ってこられた。
　あの異常な出来事を、凄惨な地獄を見ておきながら、俺はこの朝を幸福なものとして感じられている。
　ちっぽけな人間にとって、それはこの上ない報酬と―――
「おはようございます、志貴さま
」
「うわああああ！」
　思わず上半身が跳ねあがる。
　見れば、ドアの前には翡翠が控えていた。
「ひ、翡翠―――」
「……申し訳ありません。
　志貴さまが中々お気づきになられませんので、こちらから声をおかけしたのですが……」
「あ―――うん、いや、こっちこそ、ゴメン」
　びっくりした。
　まだ心臓がバクバクしている……。
「……あれ？　まだ７時前だけど」
「はい。志貴さまのお目覚めには、少しばかり早い時間です」
「だよね。じゃあ翡翠は何をしに来たんだ？」
「志貴さまを起こしにまいりました。
　秋葉さまから、ここ二日間の事情を説明してもらいますので、テコを使ってでも連れて来るように、と言付かっております」
「……なんだって……？」
“秋葉”“ここ二日間”“説明”。
　三つの意味不明な単語が脳内で飛び回る。
　思考を放棄したい誘惑に耐えながら、察すること10秒。
　……どう考えても、この二日間の行動は弁明のしようがない。無断欠席。門限破り。おまけに音信不通ときた。
　夕暮れ前に帰らなかっただけでアレな秋葉である。アイツがいまどんな顔をしているのか、恐ろしくて想像もできない。
「ま―――」
　まずい。まずすぎる。手詰まりすぎる。
　何が手詰まりって、この<事前準備|ブリーフィング>段階で秋葉を納得させる言い訳が思いつかない！
「……あのさ、翡翠。
　控えめに言って、秋葉のヤツ、怒ってる……？」
「さあ、どうでしょうか。
　それは志貴さまが直にお確かめください」
　よし。心なしか、翡翠の声もさりげなく冷たかった。
　こんな事なら這ってでも戻っていれば―――這って、でも？
「いや、ちょっと待った。
　それ以前に、なんで部屋で眠ってるんだ、俺……？」
「……いえ。志貴さまはお帰りになられた後、疲れているから、と自室でお休みになられたのですが……」
「俺が？　自分の足で？　ここまで？」
「はい。昨夜の10時過ぎにご帰宅なされたおり、出迎えた姉さんが“死ぬほど疲れている、起きるまで起こさないでほしい。と言っている”と伝言を承ったと」
　そんな覚えはない……んだけど、翡翠が嘘を言っているとも思えない。
　もしかするとシエル先輩が家まで送ってくれて、その後、自分の足で帰ってきたのかもしれない。あんな戦いの後だし、意識もはっきりしていなかったのだろう。
「いや、というか―――」
　俺の記憶ははっきりと残っている。
　アルクェイドの事も、<吸血鬼|ヴローヴ>の事も、シエル先輩たちの事も覚えている。
“この一日の記憶を消去する”
　先輩はそう言っていたけど大目に見てくれたらしい。
　……まあ、それでも。
　吸血鬼が消えた以上、先輩たちがこの街から立ち去った事だけは、変わらない事実なんだろうけど。
「志貴さま……？」
「あ、いや、そうだった、思い出した。
　すぐに行くから、秋葉には、その……できるだけ落ち着くように言っておいてくれると、嬉しいかな」
「申し訳ありません。善処いたしますが、成果はほぼないものとお考えください」
　そ、そうか……翡翠や琥珀さんがフォローしてくれても変わらないぐらい事態はできあがっている模様。
　……ともかく起きよう。
　いつまでもベッドにいては始まらない。
「―――と」
　立ちあがった途端、軽い目眩に襲われた。
　……全身が痛い。
　昨夜、ところどころに受けた傷のせいだろう。
　打撲と裂傷、それに無理な運動による筋肉痛。
　動くたびに肌がひきつって、肉がじわりと燃えているような痛みが走る。
　……そうか。何に驚くべきかと言ったら、俺は自分が生きている事を驚くべきだった。
　あれだけの無茶をしておいて、こうして朝を迎えられる事自体が不自然だというのに。
「志貴さま……？」
「ごめん、ちょっと立ち眩み。着替えたら行くから、翡翠は先に行っててくれ。大丈夫、すっぽかしたりしないから」
「……はい。それではお待ちしております」
　深々とお辞儀をして翡翠は退室した。
　今日は日曜日、学校は休みだ。
　昨夜から着たままだった学生服を脱いで、私服に着替える。
　さて、気は重いがこれも自業自得だ。
　覚悟を決めて秋葉お嬢さまにお目通りするとしよう。
　一階に下りて、さんさんと陽差しに照らされたロビーを抜けて、東廊下に到着する。
　この扉の向こうには哀れな兄の弁明を今か今かと愉しみにしている鬼がいるという……。
　いや、馬鹿げた弱音を吐いている場合じゃない。
　どんな事情があったにしても学校を無断欠席し、家に帰らなかったんだ。
　秋葉が説明を求めるのも当然だろう。
　ここはやはり―――
「……そうだな。それが一番いいと思う」
　アルクェイドやヴローヴについて話す事はできない。
　通じる筈がないし、アレは関わってはいけないものだ。
　どうあっても真実は話せない以上、せめて、こちらの落ち度を素直に謝ろう。
「―――よし、行くぞ」
　大きく深呼吸をして、居間に通じる扉を開けた。
「おはようございます、
兄さん。
　不思議と、ずいぶん久しぶりな
気がしますね」
　秋葉はいかにも“私、怒っています”な視線を向けてくる。
　刺々しさは既に最高潮だった。
「や、やあ。おはよう、秋葉」
「挨拶は結構ですから、そこに座ってください。
　ええ、色々と長くなる筈ですものねぇ？」
「………………」
　秋葉の言葉には有無を言わせぬ迫力がある。
　……にしても、目に見えて楽しそうなのはいかがなモノか。
　待望の現行犯逮捕で監獄行きです、といわんばかりの輝かしさである。
「―――兄さん？」
「お、おう、座りますとも！」
　逃げよう、なんて甘い考えは秋葉のひと睨みで霧散した。
　全身の痛みを我慢しつつソファーに腰を下ろす。
「座りましたよ」
「言わずとも分かります。……妙な態度でこちらの気勢を殺がないでください。卑怯です」
「？　なんで卑怯なんだ？」
「卑怯でしょう。そんな顔をされたら気がゆる―――
コホン」
　ううん、と咳払いをして<言|げん>を止めると、秋葉はいっそう鋭い視線で俺を睨んだ。
「兄さん。早速ですが、一昨日と昨日のお話を聞かせていただけませんか？」
　優雅に言いつつ、ティーカップを手に取る秋葉。
　聞かせていただけませんか、などと言っているものの、間違いなく命令だ。
　だが、兄としてそんなお話を聞かせてあげる訳にはいかない。秋葉に心配をかけるぐらいなら、嫌われた方がマシだ。
「それなんだけど、秋葉」
「はい、なんでしょう」
「率直に言って、事情は説明できないんだ」
　かちゃん。
　と、秋葉の持っていたティーカップがテーブルに落ちた。
　いや、意図的に落とした、という表現の方が正しかった。
「秋葉さま―――」
「ああ、ごめんなさい翡翠。片付けてもらえる？」
　翡翠が無言でこぼれた紅茶とか、欠けた……とても高級そうな……ティーカップを片付けていく。
　その様子を、こっちは秋葉に睨まれながら気まずく見つめていた。
　片付けを終えて、翡翠が厨房に入っていく。
「―――それで、兄さん」
「……なに？」
「この二日間の出来事を、詳しく話していただけますか？」
　秋葉は諦めていない。
　意地でも俺から話を聞きだそうとしている。
　……それでも、事情を話す事はできない。
　自分の為でもあるが、秋葉にあんな、
　あんな話を、聞かせる訳にはいかなかった。
「……秋葉には余計な心配をさせて悪かったと思ってる。連絡を入れなかった事も謝る。だけど、話せない事は話せない」
「私に悪い、と思っているのに話せないんですね、兄さんは。
　弁明もしないのですか？」
「……いや、それは……」
　弁明したいのは山々だけど、
「いいわけのしようがないので……。
　でもこの二日間、悪い事はしていない。……そう信じたい」
　……そうだ。殺したり殺されたり、そんな事しかなかった二日間だった。
　けど、あれは正しい選択だったと信じたい。
　アルクェイドを助けるという理由もあったが、なにより俺は、この二日間の自分の選択を後悔していない。
　致命的に間に合わなかったとしても、もうこの先、血を吸われて殺される“誰か”はいなくなったのだから。
「……ごめんな、秋葉。
　迷惑をかけるけど、これ以上は訊かないでくれ」
「―――――――」
　秋葉はじっと俺の目を見つめてくる。
　しばらく、そんな息苦しい時間が続いた。
「そうですね。
　考えてみれば兄さんにも事情があるのでしょうし、私がそれに深く干渉する事はできませんものね」
「……悪い。そう言ってもらえると、助かる」
「――――――」
「わかりました。この件に関して、これ以上の追及は勘弁してさしあげます。
　連絡をいただけなかった点については、私にも落ち度がありますから」
「？　落ち度なんて、そんなの秋葉にないだろ？」
　もう、なんとか誤魔化すしかないだろう。
　そもそも吸血鬼の話なんか通じないだろうし、それなら出来るだけ嘘を言わない、かといって真実も言わない、という方針でいくしかない。
「―――よし、行くぞ」
　大きく深呼吸をして、居間に通じる扉を開けた。
「おはようございます、
兄さん。
　不思議と、ずいぶん久しぶりな
気がしますね」
　うん、やっぱりね。
　扉を開けたらボスが待っていましたよ。
「あ、ああ。おはよう、秋葉」
「挨拶は結構ですから、そこに座ってください。
　ええ、色々と長くなる筈ですものねぇ？」
「………………」
　猛烈にベッドに戻りたくなるような笑顔だった。
　蛇に睨まれた蛙どころか、もう呑まれてしまった後っぽい。
　これは間違えた<現実|ルート>なんで、二度寝してやり直したい。
「―――兄さん？
」
「お、おう、座りますとも！」
　逃げよう、なんて甘い考えは秋葉のひと睨みで霧散した。
　全身の痛みを我慢しつつソファーに腰を下ろす。
「座りましたよ」
「言わずとも分かります。……妙な態度でこちらの気勢を殺がないでください。卑怯です」
「？　なんで卑怯なんだ？」
「卑怯でしょう。そんな顔をされたら気がゆる―――
コホン」
　ううん、と咳払いをして<言|げん>を止めると、秋葉はいっそう鋭い視線で俺を睨んだ。
「兄さん。早速ですが、一昨日と昨日のお話を聞かせていただけませんか？」
　優雅に言いつつ、ティーカップを手に取る秋葉。
　聞かせていただけませんか、などと言っているものの、秋葉のそれは間違いなく命令だ。
　だが、兄としてそんなお話を聞かせてあげる訳にはいかない。秋葉に心配をかけるぐらいなら嫌われた方がマシだ。
「それなんだけど、秋葉」
「はい、なんでしょう」
「ちょっとした知り合いにばったり再会してさ、観光がしたいっていうから色々案内してたんだ」
「へえ。ちょっとした知り合い、ですか」
「そ、そう。最近知り合ったヤツなんだけど、一日だけでいいから観光名所を回りたいとか言い出して、気がつけば湾岸の埋め立て地あたりまで遠出したというか……」
「なるほど。久しぶりに会ったご友人に気軽に頼まれたぐらいで無断欠席および無断外泊をした、と。
　先日の件といい、何の得にもならない人助けがお好きなんですね、兄さんは」
　秋葉の視線が冷たい。
　あれは怒りを通り越して呆れているのかもしれない。
　実際、自分も今の説明はどうかと思います。
「…………………」
「…………………」
「それで、誰なんですか」
「え？」
「その知り合いというのはどのような人物なのか、と訊いたんです、私は」
　秋葉は正面から見据えてくる。
“絶対に誤魔化されませんから”という意思がこれでもかと伝わってくる、末恐ろしい眼力だった。
「いや、どのような人物、と言われても、一言では説明できないというか……」
　というか<人|・>物なのか、アイツ。
「そう。言えない、という事は後ろめたい事がある、という事よ、兄さん」
　氷のような視線が突き刺さる。
　目を逸らすと余計追い詰められそうなので、負けじと秋葉の顔を見つめる。
　……………いや、まったく関係ないけど。
　こう改めて見ると、秋葉には昔の面影がない。
　凛と伸びた背筋、はっきりとした口調、ゆらぐ事のない瞳。
　兄妹びいきの物差しはあれ、純粋に美人になったな、と妙に感動してしまう。
「……うん。けど、それはそれとして、秋葉」
「なんでしょう。もう少し説得力のある弁明を思いつきましたか？」
「いや。おまえ、わりと<骨格|ガタイ>がいいんだな。細いのに硬そうで、滑らかな陶器みたいだ」
「―――」
　がたん、とテーブルが揺れる。
　急に立ち上がった秋葉の足がひっかかったらしい。
「ガ、ガタイって何の話です!?　私の肉付きの話ですか!?」
「？　いや、骨格の話なんだけど。肩口とか、着物が似合いそうだなって」
　納得がいったのか、秋葉はしずしずとソファーに座り直した。
「わかんないヤツだな。今の驚くところか？」
「―――驚くところです。話が繋がっていなかったでしょう」
　秋葉は溜息をついて肩をすくめる。
「……もういいわ。兄さんには真面目に答えようとする気がないようですから」
「そんなコトないぞ。そもそも、秋葉に嘘はつかないし」
　あ……なんか今、あちらの当主様は“舌を抜きますよ”みたいな顔をしている。
「……そりゃ黙秘ぐらいはさせてもらうけど。
　でも、誓って嘘は言わない。今回は説明しづらいコトだったんだよ」
　なので、ところどころ穴あきの、不審極まりない弁明になっていたが。
「……まったく。昔から誠実なんだか不誠実なんだか掴めない人なんですから、兄さんは」
「？
　俺、子供のころの自分ってよく覚えてないんだけど」
「覚えてなくていいです。……なんか、私も変わってない。
　どうせこうなると分かっているのに問い詰めるなんて、成長がないのかしら」
「わかりました。この件に関して、これ以上の追及は勘弁してさしあげます。
　連絡をいただけなかった点については、私にも落ち度がありますから」
「？　落ち度なんて、そんなの秋葉にないだろ？」
　……本当の事を話そう。
　秋葉に嘘を言いたくないし、そもそもアイツにヘタな誤魔化しは通じそうにない。
　誠心誠意、こと細かく説明すれば秋葉も分かってくれる……かもしれないし。
「―――よし、行こう」
　ここからは俺の誠意にかかっている。
　深呼吸をして、居間に通じる扉を開けた。
「おはようございます、兄さん。
　不思議と、ずいぶん久しぶりな気が―――」
「おはよう秋葉」
　いかにも“私、怒っています”な視線を真剣な顔で受け止め、秋葉の対面に座る。
「……いつになく凜々しいですね。
　てっきりここ数日の素行の悪さを反省し、萎縮していらっしゃると思ったのですが」
「もちろん反省はしている。だからちゃんと、正直に話そうと思って」
「――――――」
「そ、そうですか。正直なのはいいコトです。普段から是非そうしてください。
　……コホン。
では、ここ二日間どこで何をなさっていたのか、兄さんからご説明いただけるんですね？」
　もちろん、と頷く。
　秋葉も、うん、と可愛く頷き返す。
ひよこか。
「携帯電話を取り上げたのは私です。
あれがあれば、ずぼらな兄さんでも連絡ぐらいはしたのではありませんか？」
「――――――」
　あの……いや、それが、ですね……。
　携帯はー……こっそりー……返してもらっていたとー……言うかー……。
「ですが、
それも今回だけです。今後はこのような事は控えてください。兄さんは遠野家の唯一の男性なんですから、もう少しご自分の立場を理解していただかないと困ります。
　よくない外聞が広まってしまったら、遠野家の今後の人付き合いにも影響がありますし」
「いやぁ、それこそ問題ないだろー。俺が何しようと興味も持たないって、<親戚|あっち>の方々は。
　だいたい遠野の跡取りは秋葉なんだから、家の事を思うなら俺を余所に出すなり、遠野の家に相応しい婿養子でも見つければいいのに」
「―――――」
　……？
　なぜか秋葉は黙りこんでしまった。
「どうした？　気分でも悪いのか、秋葉」
「……結構です。私を気遣う余裕があるのでしたら、ご自分の体調を気にしてください。
　慢性的な貧血持ちなんですから、兄さんは」
「………む」
　そりゃあ確かに、こっちは頻繁に貧血で倒れるけど。
「ともかく、あまりおひとりで屋敷を出ないでください。
　そうでなくとも近頃の街は物騒なんです。兄さんみたいにぼう、としている人は、通り魔に襲ってください、と言っているようなものなんですから」
「それなら大丈夫。あんな事件、二度と起きないよ」
　街を騒がせていた連続殺人。
　現代の吸血鬼と報道され、今も犯人が発見されていない、人々を脅かす夜の闇。
　しかし、それはもう過去の事だ。
「――――は？」
「吸血鬼はいないって事だよ。その犯人はもう捕まったんだ」
「そうなんですか？　
それは良い報せですが……兄さん、よくそんな事を知っていますね」
「あ、ああ。たまたま逮捕現場に居合わせたというか」
　たまたま、と自分で口にして笑ってしまった。
　確かにあれは、偶然が重なり合って起きた事だ。
　アルクェイドと過ごした二日間。
　色々ありすぎて今でも夢のようだけど、とにかく、街に巣くっていた怪物は消え去った。
　その事実に関しては、胸を張って良かったと言える筈だ。
「兄さん？　どうしたんです、急に嬉しそうな顔をして」
「別になんでもない。
　ただ、終わったんだなって、ようやく実感できた」
　知らずに笑顔で、そんな呟きを洩らす。
　ともあれ、こんな弁明でも秋葉は認めてくれた。
　それに礼を言って立ち上がる。
「いや、安心したらお腹が減ってきた。朝食をもらってきてもいい？」
「わ、私に許可を求める必要はありません。
　朝食まで管理する気はありませんから、ご自由に摂ってください。琥珀なら厨房で朝食の支度をしているでしょうし」
「サンキュ。じゃあ遠慮なく」
　出入り口に向かって歩き始める。と……
「―――、っ」
　また軽い立ち眩みがした。
　……まいったな。全身のだるさ、熱っぽさがさっきより増してきている……。
「待ってください兄さん。
　先ほどから顔色が優れないようでしたが、今のでハッキリしました。今朝はとくに調子が悪いのではないですか？」
「……ああ。実は少し熱っぽい」
　これぐらい平気だよ、と返答したかったが、強がっても仕方がない。秋葉に余計気を遣わせるだけだろう。
「そう謝る必要はありません。お体が優れないのは兄さんの<責|せ><任|い>ではないでしょう。
　琥珀……は朝食の支度をしていますから、阿良句先生を呼びましょうか。翡翠、連絡をお願い。今朝は<楼閣|ろうかく>の方にいる筈よ」
「かしこまりました」
「阿良句先生って……あの人を呼んでどうするんだよ。というか、いるの、あの博士？」
「……兄さん。くれぐれも先生をハカセ、などと呼ばないように。調子に乗ってしばらく正気を失いますから」
「阿良句先生は昨夜うちに泊まっていたんです。まだ帰っていないようだし、兄さんの体を診てもらいましょう。
　あの方、ああ見えて外科の医師でもあるんです。ここで暮らすのなら頻繁に会う人ですから、これを機に親睦を深めてください」
「外科……」
　別に怪我なんてしてないぞ、とは言えなかった。
　服の下はそれこそ擦り傷だらけである。
　問題は、ここで診察を受けたら秋葉に傷がバレるという事だ。
「診察なら俺の方から行くよ。あの人、ロウカクにいるんだな」
　でも、そんなのうちにあったっけ？
「ここで結構です。楼閣は遠いですから。
　すぐに来ますから、軽く熱と脈拍を測ってもらいなさい。
解熱剤は……いえ、薬なら琥珀に頼んだ方がいいかしら……
　兄さん？　なんですか、そんなにソワソワして。まさか、その歳になって診察が苦手なんですか？」
「診察には慣れている。そういうコトじゃなくて」
「はあ。では、阿良句先生が苦手とか？」
「苦手というかついて行けない系だろあの人は。だから、そういう話でもなくて」
「……では何だというのです。不満があるのでしたらハッキリと口にしたらどうですか」
　そうか、ハッキリ口にしていいのか。ではお言葉に甘えて、
「ここで服、脱いでいいのか？
　俺、診察の時は全部脱ぐけど」
「な―――全部って、つまり全裸ですか!?」
「………………」
　いや、それただの変態だし。
　いまいち言葉が足りなかったようだ。
「いや、さすがに全裸にはならないだろ。普通は上だけ」
「で、ですよね。上着だけ、というコトでしょうか？」
　それ以外に何があるんだ、と顔をしかめる。
　秋葉はちょっと咽せた後、無言でソファーから立ち上がった。どうやら空気を読んで退室してくれるようだ。
「……コホン。
　席を外しますから、診察が終わり次第食堂にどうぞ。
　私は午後から外せない会食があるので外出しますが、私が留守だからといって羽目を外さないようお願いします」
　退室していく秋葉。
　良かった。会話の内容はどうあれ、秋葉に体の事を知られずに済みそうだ。
　ひとり居間で待つ。
　10分ほど時間を潰していると、中庭に面した窓越しに阿良句氏の姿が見えた。
　ご機嫌なのか、陽気なステップで中庭を突っ切ってくる。
　……あの中庭からやってくるという事は、楼閣とやらは屋敷の外にあるのだろうか……？
「ハァーイ、おっはよっうチャーン！
　朝からカラダをいじってほしいとかぁ、
志貴チャンったら超インラーンーーー！
　アタシ、シチューみたいにたぎった思春期少年病の餌食になっちゃうのかしらぁん！」
　阿良句氏は屋敷に入らず、テラスから居間に直接入って来た。
「すみません。別に悪いところはないし目眩も治まったんで帰ってもらっていいですか？」
「ああん、志貴チャンったらカタブツちゃーん！　身持ち堅いとか今どきはやんなァーい！
　でも、そんなトコロが一流のサバイバーなのかしら？　情弱死すべしな世の中ですし？　目の前のご馳走をホイホイ孕ませてたら<命|タマ>がいくつあっても足りないってコトかしらー！
　キャー、さっすが雑食動物、本能のようにヒニンしてるぅー！」
　などと言いながら、阿良句氏は俺の座るソファーまで歩み寄ってきた。
　派手なモデル歩き……胸とか腰とか必要以上にくねらせている……にも拘わらず、足音ひとつたてない、忍者の如き忍び足である。
「……………」
　まだ親しくないのでなんとも言えないが、この人、今朝は特にハイテンションなのではないだろうか。
　というか、今朝だけ特別であってほしい。
「はーい、それじゃあ患部を出してねー。すぐ出してねー。ちょっとサワサワするわねー。
ん？　上着だけ脱ぐ？　脈拍と心音だけ診てくれってコト？
　あー、それはダメ。ウソはよくないわよぅ？　志貴チャン、全身悪いところだらけじゃない。膝、足首、肘、腰まわりもちゃんとケアしとかないとねー。コレ、ほっとくと明日までには治らないわよ？」
「――――――」
　思わず背中を伸ばして、真剣に阿良句博士を見直してしまった。
　服の上からの触診だけでこっちの体の痛みが判ったのか、この人……？
「そりゃ判ります。プロだもん。
　志貴チャンが生まれる前から……は言いすぎか、志貴チャンがこーんな小さい時から人体診てるのよ？　ぶっちゃけ顔色見ただけで内臓のダメージまで判ったわよぅ」
「はーい、そういうワケなんでおとなしくパンツになってねー。んー、湿布は邪魔くさいだろうから、できるだけ軟膏で済ませてあげる。あとは点滴ね、栄養剤。とにかく、いろいろ足りてないでしょう？」
「は、はい。あ、いや、パンツになるって、はい？」
「パンツはパンツじゃん。ようはパンツだけになれって話。当主チャン、それで退室してるんデショ？　いいじゃんパンイチ。アタシ好きダナー。なんならゼンラでもいいわよぅ？」
「……あの。お酒、呑んでませんよね？」
「えー！　飲んでないわよぅ！　アタシいつも真剣だもーん！
　と言いたいところだけど、実はハイなの、すごくハイ。昨日の夜から脳内麻薬分泌しまくり。私生活が充実してきたっていうの？　ここんところルーチンワークばっかりだったからさー。やっぱり生活には波乱が必要よね。そのあたり志貴チャンには大感謝。
だからぁ、今朝は特別にきっちり診てあげましょう！」
「って、いつの間にか脱げてる!?」
　どれほど場慣れしているのか、阿良句博士はもう俺の上着を脱がせていた。
　抵抗は無意味……いや、抵抗すると診察が進まない。
　俺は裸になるのだけは避ける方向で、なんとか阿良句博士の魔の手をくぐり抜けた。
　診察は10分ほどで終わった。
　炎症が特に酷い箇所に軟膏を塗り、関節部分には念のためのテーピングをしてもらう。
　それだけで体の調子は格段に良くなった。
　この人、黙っていれば名医なんじゃないのか？
「んー、でも器用にケガしたものねー。肩胛骨のあたりとか、ちょっとフツーじゃないかんじ。
なに？　ケンカの相手はひとりやふたりじゃなかったの？　というか刃物持ち出してない、相手？」
「い、いや、そんなコトはないですけど。
　……すみません阿良句博士。このコトは秋葉には黙っていてもらえますか？」
「博士！　博士って言った！　よし黙る！　博士と言ってくれた志貴チャンのお願いなら何でも、だいたい三割ぐらいまで聞いちゃう！」
　それは助かるけど、三割はわりと低いような……。
「でもぉ、ホントに昨日は何をしていたのかしらぁ？
　志貴チャン、右手側だけケガしてないし、もしかして誰かと一緒だった？　その人が隣りに居たから片側だけスキンガードされてたとか」
「べ、別にそんな事はありません。ひとりでした、ずっと」
「ふーん。まあいいけどォ。もし他にケガしちゃった人がいたら教えてね？　志貴チャンがこれだと一緒にいた人も酷いケガしてそうだし。浅い傷口でも感染症だってあるし。本人が平気だと思っても、毒はゆっくり回っていくものだしねぇ？」
「……………」
　言われて、俺を庇って戦ってくれたシエル先輩を思い出す。
　……阿良句博士の言う通りだ。
　先輩は平気そうにしていたけど、受けた傷は俺より何倍も大きいものだった。
「ま、志貴チャンがひとりだったって言うならいっか！
　んー、でもまだ体力は戻らないわよねー。よし、後で点滴でもしとこっか。せっかく志貴チャン用の点滴パックを預かってるワケですし？　バンバン使って在庫なくさないと当主チャンから次の<予算|おこづかい>がもらえないっていうかー。
　そんなワケで食後は部屋でウルトラ点滴タイムけってーい！　一時間ぐらいかかるから午前中はあけておいてネ！
　それじゃ、チャオー♪」
　阿良句博士は慌ただしく去って行った。
　秋葉が退室してからこれで20分。
　そろそろ朝食にしないと。いいかげん、食堂にいる琥珀さんを待たせすぎだ。
　朝食を済ませ、阿良句博士から点滴を受ける。
　点滴中は横になっていた事もあり、ついうたた寝をしてしまった。
　点滴が終わって阿良句博士が屋敷を去ると、時刻は正午を回っていた。
　阿良句博士のおかげで体の調子は良くなっている。
　歩くだけなら支障はない。
　あまり遠出はできないが、午後はどう過ごそうか？
　庭を散歩するか。
　屋敷に帰ってきてからこっち、庭園には出ていない。
　七年前からどう変わっているのか様子を見に行こう。
　ロビーまで出て、大階段の後ろにある出入り口から中庭に出られるはずだ。
　テラスに出る。
　ここは居間の裏側でもある。
　子供の頃、天気のいい日はここが秋葉の居場所だった。
　いや、居場所というより活動範囲か。
　秋葉ひとりでは園まで出る事はなく、このテラスまでがあいつの移動範囲だった。
「……そうだった。
　よく庭から声をかけて、家庭教師の目を盗んだっけ」
　遊びに行く時は必ずここに寄ってほしい、とも言われた気がする。
　自分たちだけで森に行くのはズルイ、とかなんとか。
　結果、秋葉を森まで連れ出してしまい、怒られるのは俺の役割だった。
　テラスから庭園に出る。
　子供の目には果てのない庭に見えたが、今は視点があがった事で全体像を把握できる。
　七年前に比べると花の数は減っているが、中庭の雰囲気は変わっていなかった。
　ゆっくり、10分ほど歩いて<あずまや|ガゼボ>に着いた。
　ここが庭の終わりだ。
　ここから先はうっそうと木の茂った森になる。
　今日は脚の怪我もあるし、散歩はここまでにしよう。
「……それにしても」
　つくづく日本離れした屋敷だと想う。
　手すりに腰をかけて、広大な秋の庭を眺める。
　ここまでくると洋館というより城に近い。絶景には違いないが、俺には不釣り合いすぎて苦笑いするしかない。
　俺の知りうるかぎり、こんな風景が似合うのは秋葉と―――
「……アイツと、シエル先輩ぐらいかな」
　呆れるぐらい華やかだった吸血鬼の女と、
　勇ましい戦闘服に身を包んだ先輩を思い返す。
　……あの後、二人はどうなったのか。
　アルクェイドは先輩を嫌っていたし、先輩も立場上アルクェイドとは相容れないだろうけど、何事もなく別れてくれていたら、と思う。
「……馬鹿だな。なんでそんな心配をしてるんだ、俺」
　何もかも終わった事だ。
　シエル先輩の目的がヴローヴだった以上、彼女がこの街に残る理由はない。
　だから―――
　こんなところで思い返しても、もう、何の意味もない。
「……そうだ、それでいいんだ。
　もうあんな無茶をしなくていいんだから―――」
　言いかけて、口を閉じた。
　自分もだませない嘘を呟いても虚しいだけだ。
　だって、いまも胸に残ってる。
　先輩への感謝とか、期待とか、そういったものが。
　それはアルクェイドだって同じだ。
　厄介ごとしか持ちこまないヤツだったけど、それでも少しは……まあ、一緒にいられて楽しかったんだし。
「……って、バカか俺は。
　先輩はともかく、アイツはどうでもいいじゃないか」
　一度殺されかけたっていうのに、何が未練なんだか。
　遠野志貴は、もう二度とあんな目に遭うのはゴメンな筈だ。
　ため息をついてガゼボを後にする。
　帰りも中庭を散歩して時間を潰す。
　……けれど。正体の分からない未練は、日が落ちた後も簡単には消えてくれなかった。
「ダメもとで行ってみても、バチはあたらない……よな？」
　吸血鬼さえ消えれば街から去る、とノエル先生は言った。
　でもあれから一日も経っていない。
　引っ越し作業もあるだろうし、まだアパートに先輩が残っている可能性は高いはずだ。
　翡翠に「少し出てくる」と声をかけると、律儀に玄関まで見送りにきてくれた。
「志貴さま、お帰りは何時ごろでしょうか？」
「すぐに帰ってくる。知り合いの家にお礼を言いに行くだけだから」
「かしこまりました。それでは行ってらっしゃいませ」
　屋敷から出て、坂を下り、住宅地を抜けて北口駅前に出た。
　昨夜の事故からまだ一日も経っていない。
　周囲には立ち入り禁止の看板と、何人もの警備員がいる。
　警備員の数は異様に多い。５メートルごとに一人が配置されている。
　これでは猫の子も中に入れないだろう。
　事故現場には近寄れないが、もうあの瓦礫の山に用はない。
　シエル先輩のアパートは反対側の南口に出て、昔ながらの建物が残る住宅地だ。
　呼び鈴を押しても何の反応もない。
　……無駄な行為だった。
　先輩はとっくにこの街から消えていた。
　まっすぐ家に帰る気になれず、目的もないのに北口で時間を潰す。
　……隣室の住人に「隣の家の人は引っ越したんですか？」と訊ねるだけの勇気は出なかった。
　それをしたら本当に、自分の中の大切な糸が切れてしまいそうで怖かったのだ。
　通り過ぎる人波を横目で眺めて、アイツと出遭った場面を思い出す。
　あの出遭いさえなければ、先輩の本当の顔を知らずにすんだのだろうか。
「……いや、違う。
　アイツと出遭ってなかったら、先輩がどんな人なのかも知らないままだった」
　ただの先輩のまま次の日にはいなくなっていたか、
　特別な先輩のまま次の日にいなくなっていたか。
　ダメージが少ないという点なら、何も知らない方が良かったに違いない。
「でも―――」
　振り返れば、悪い事ばかりではなかった。
　呆れるぐらい華やかだった吸血鬼の女と、
　勇ましい戦闘服に身を包んだ先輩を思い返す。
　……あの後、二人はどうなったのか。
　アルクェイドは先輩を嫌っていたし、先輩も立場上アルクェイドとは相容れないだろうけど、何事もなく別れてくれていたら、と思う。
「……馬鹿だな。なんでそんな心配をしてるんだ、俺」
　何もかも終わった事だ。
　シエル先輩の目的がヴローヴだった以上、彼女がこの街に残る理由はない。
　だから―――こんなところで思い返しても、もう、何の意味もない。
「……そうだ、それでいいんだ。
　もうあんな無茶をしなくていいんだから―――」
　言いかけて、口を閉じた。
　自分もだませない嘘を呟いても虚しいだけだ。
　だって、いまも胸に残ってる。
　先輩への感謝とか、期待とか、そういったものが。
　それはアルクェイドだって同じだ。
　厄介ごとしか持ちこまないヤツだったけど、それでも少しは……まあ、一緒にいられて楽しかったんだし。
「……って、バカか俺は。
　先輩はともかく、アイツはどうでもいいじゃないか」
　一度殺されかけたっていうのに、何が未練なんだか。
　ヴローヴに殺されそうになった事を思い出せ。
　遠野志貴は、もう二度とあんな目に遭うのはゴメンな筈だ。
　ため息をついてベンチから腰を上げる。
「もうすぐ夕方だ。屋敷に戻ろう」
　酔いを冷ますように頭を振って、賑やかな街並みに背を向けた。
　休日の午後は何事もなく過ぎてしまった。
　あれから部屋に戻ってぼんやりしていたら、いつのまにか夕食の時間になっていたからだ。
「……なんだろう。体中だるいな、なんか……」
　風邪のような倦怠感を振り払う。
　きっと昨日までの出来事が刺激的すぎて、何の危険もない時間を持て余しているんだろう。
　このまま夜を迎えてもう一眠りすれば、頭もちゃんと切り替わるはずだ。
　食堂には秋葉と、その後ろに控えた琥珀さんと、俺の後ろに控えた翡翠の姿がある。
　琥珀さんお手製の夕食は和食だった。
　なかなかお目にかかれない特大の椎茸……きっとお高いのでしょう……の肉詰めを主菜とした、肉料理ではあるけれどどことなくヘルシーな献立だった。
　秋葉はつまらなそうな顔付きで弾力のある椎茸をフォークでブッ刺しては、料理への感想一つなく口に運ぶ。
　秋葉が帰ってきたのはつい１時間ほど前だ。
　なんでも予定外の問題が起こり、対応に追われていたらしい。
「……翡翠。念のため聞いておくけど、うちの夕食って私語厳禁だったっけ？」
　秋葉に聞かれないよう、小声で翡翠に話しかける。
「……いいえ。親族の皆さま間での談話は自由に行われておりました」
「……じゃあ秋葉が黙っているのは、単に機嫌が悪いだけ？」
「……申し訳ありません。私には分かりかねます。……あくまで憶測ですが、秋葉さまはお疲れなのではないでしょうか」
「……そっか。そりゃそうだよな。いつも不機嫌だけど、今はとくにご機嫌ななめだし。ほんと、ご苦労さまだこと」
　うんうん、と真剣に同情する。
　俺が言える事ではないけど、予定外の出来事で休日がポシャってしまった妹に出来る事といったら、ゆっくり休ませてやる事だけだ。あえて話題を振る愚はおかさない。さわらぬ秋葉になんとやら、である。
「聞こえていましてよ兄さん。
　別に午後の視察で疲れている訳ではありません。食事は静粛に、が当家のマナーですから」
　じろりと睨まれる。
　翡翠と話しているのがバレるのは当然として、内容まで伝わっているのが怖い。地獄耳かアイツは。
「……もっとも、それも過去の話ですが。
　どうしても話がある、今日一日の出来事を語り合いたい、というのであれば、そのかぎりではありません」
　なるほど、と頷いて食事を再開する。
　朝食と昼食を少なめにしていたおかげか、夜になって食欲が戻ってきた。
　琥珀さんの名誉の為に言っておくと、この椎茸の肉詰め、今まで体験した事がないほど美味しい。
　それを琥珀さんに告げると、
「ありがとうございます。ですがこの勝利は当然なのです。
　今夜の食材は産地直送、畏れ多くも天皇陛下にもご献上されている逸品ですもの」
　なるほど。やはりお高い椎茸さまだったか。
「―――それで。
　私の仕事ぶりを<労|いたわ>ってくれた兄さんは、午後の休みをどのように過ごされたのです？」
「へ？　あ、ああ、俺の事か。午後は散歩に出て、部屋に戻ってからはずっとベッドで横になってた」
「それは……あの、また貧血ですか？」
「いや、考え事をしていたら夜になっていただけだ。体の調子は悪くないよ」
「つまり無為に時間を浪費した、という事ですね。
　……はあ。そんな下らない事を堂々と口にしないでください。私は何とも思いませんが、他の人が聞けば笑いものになるだけですから」
　容赦のない、そして反論のしようのない秋葉の感想だった。
　それはともかくとして、
「たしかに自堕落に思われる発言だった。
　というか自堕落だった、反省している。
　けど、秋葉は何とも思わないって、どうして？」
　もしかして、厳しそうに見えるだけで肉親には寛大なのか？
「どうしても何も、当然でしょう？
　私は遠野志貴に何も期待はしていませんから。
　兄さんがそういう人である事は初めから承知の上です」
「……………」
　なるほど、至言である。
　期待していなければ失望もしないという理屈。
　ぐうの音も出ないとはまさにこの事だ。
「いや、ごちそうさまでした」
「ごちそうさま。食後は習い事がありますので、私はこれで。
　兄さん？　反省なされたのでしたら、今夜は早めに部屋に戻って勉学に励んでくださいね」
　秋葉は席を立って食堂を後にした。
　……秋葉がいなくなると食堂がいっそう広く感じられる。
　琥珀さんと翡翠にごちそうさまとお礼を言って、自室に戻る事にした。
　時間は何事もなく過ぎていった。
　お風呂をいただき、軽く予習をしてベッドに横になる。
　……これですべて元通り。
　殺し合いだけだった二日間との決別。
　目を閉じて暗い眠りに沈んでしまえば、体の残り火も消えてくれるだろう。
　……なのに、脳裏に浮かぶものがあった。
　目蓋はおろか意識さえ閉じているのに鮮明に蘇る。
　吹き荒ぶ極寒の中、火花を散らす彼女の姿。
　忘れがたい瞬間は他にあるだろうに、どうしてかこの光景だけが抜きんでている。
　まるで記憶に焼き付いたスナップ写真だ。
　俺はこの一枚を思い返すだけで、不覚にも涙がこみあげる。
　泣くような祈りを、泣くような誓いを目の当たりにしてしまったようで、苦しくなる。
　耐えきれなくなって目蓋を開けた。
　目尻にたまった涙をぬぐって、まだ見慣れない天井を見上げる。
　……静かなのに落ち着かない感じ。
　三日前、先輩の部屋で感じたものと同じだった。
　思い返してみれば、俺は先輩の部屋に一泊したんだっけ。
　あの時は人を殺してしまった事で頭がいっぱいだったし、その後はアルクェイドと過ごしていて忘れていたけど、あの夜がなかったら今の遠野志貴はなかったとさえ思う。
　先輩にとってあの夜はどんなものだったんだろう。
　……単に、放っておけない後輩に手を差し伸べただけなんだろうか。雨の中、捨てられている子犬を拾うように。
「……そうだろうな。人助けが趣味なんだし、あの人」
　自分に言い聞かせるように呟いて、目蓋を閉じる。
　記憶を遠ざけるように、印象を薄めるように、茫漠と時間を浪費する。
　そうすれば、たいていの出来事はすべて過去のものになる。
「……ん……」
　意識がゆっくりと<淵|ふち>に向けて閉じていく。
　……平穏に過ぎた休日はこうして終わった。
　俺はベッドに横になったまま、自分を騙すかのように、曖昧な眠りに落ちていった。
　誰かに呼ばれた気がして目を覚ました。
　体はだるく、すぐにも眠りたがっている。
　しかし意識はハッキリしているため、うまく寝直せない。
　こういう時は読書がいい。
　記録を追っているうちに眠気がやってくるだろう。
　ベッドから起きて隣室に移動する。
　本棚から適当な本を選び、適当なページから読み始めた。
　　　　　　　―――『不老不死』―――
　その言葉が真実であるのなら永遠を定義するものの一つとなるだろう。
　だが現実問題として、その域に達しているモノは存在しない。
　歳を取らず、殺しても蘇るとされる吸血鬼も例外ではない。
　彼らは他者から血液を補充しなければ自身を保てない欠陥品だ。
　しかもその補充品が同種―――この場合、大半が人間という事になる―――に限定される点で、汎用性に欠けている。
　超越種と謳ってはいるが、それは進化ではなく退化だろう。
　他者に依存しなければ維持できない命など、人間と何も変わらない。
　単一種としての永久機関なら、遙かな昔から完璧に近い生物が存在する。
　自らの体を食料とし、それを糧に繁殖する。
　寿命などというものもない。古くなった細胞は栄養源として食料になり、新しい細胞を生み出し続ける。
　群体と呼ばれるもの。例えば<海月|クラゲ>。
　しかし、それは知性という余分な機能を持たないが故の永久機関だ。知性を持たないでいいと言うのなら、それは死をもって永遠とする結論となんら変わりはない。
　ヒトとしての形を保ちながら永遠でいたいのならば、不老不死という手段では不可能だ。
　長い年月は肉体を崩壊させ、思考精度を萎縮させる。
　不老不死か、永遠か。
　手垢のついた不老不死になど未練はない。
　個人に固執するのなら永遠はありえない。
　結論として。
　私は一個の人間として生き続ける不老不死より。
　永遠に存在し続ける『無限』を選んだ。
『……確かに今までの祖にはないアプローチだ。
　しかし、その方法では人間が絶滅した場合、永遠ではなくならないか？
　君の手段には人間の胎児が不可欠だ。外的要因に依存する、という点では死徒の長寿と変わりはないぞ』
『それでいいんですよ。人間は自分以外の人間がいなければ自己を正しく機能させる事ができません。
　仮に人間が絶滅するのなら、自分だけ生き延びようとする行為そのものが無価値でしょう。
　私の不老不死は、その時点で終わりです』
『……ハ。
　始まりからして終わりを見定めた不老不死とはな。
　これだから魔術師あがりの死徒は救いがたい。
　己が存在より己が理念を優先する。
　だが―――それでは命題たる永遠には程遠いぞ、蛇よ』
『いえ、永遠ですよ。滅びる時はみな全て滅びればいい。観測者がいなくなれば、それすなわち全てが不変。私が体現する永遠はね、その時までの仮初めのものです。
　私では全てを無にする事はできない。だからその時まで、こうして生き続けようとしているのです。
　……もっとも。今では、それ以外に一つだけ、楽しみというものが出来てしまいましたが』
『わざわざ私を呼びつけた理由はそれか。
　よくもこの<海|・>を見つけたものだ。
　懐かしき我が不死の工房、いまだに機能していたとはな』
『誇るべきですよ。貴方の魔道が八百年の技術革新に耐えるだけのものだった、という事ですから。
　ここなら誰にも邪魔されず実験に打ち込める。
　何者であれ―――たとえ星の意識であれ、この彷徨海を見つける事はできない。違いますか？』
『……それも次の新年までだがな。
　いいだろう。余命一年の同胞の依頼だ、喜んで受けよう。
　君が北海で何を企てたか、いささか興味もある。貴重な逸話として拝聴したい』
『いやあ、その件については本題の後に。そう面白い話にもなりませんでしたしね。
　さて。それでは貴方の中の原理を、わずかですが現実に<零|こぼ>す神秘を教授いたしましょう。
　その神代の御業をもって、貴方に捕えてほしいひとが―――』
　<数多|あまた>の鎖が吸血鬼の四肢を<侵|おか>す。
　<戒|いまし>めは壁に根付く<蔦|つた>のように空間を占領する。
　雷速で駆けようと逃げ場はない。
　柩から目覚めた『蛇』は、逃走はおろか反撃の余地なく囚われた。
　投網に<浚|さら>われた魚、蜘蛛の巣に絡まった虫の運命は言うまでもない。<捕獲|ほかく><捕食|ほしょく>による惨めな死だ。
　無慈悲な一撃が吸血鬼の<心臓|いのち>を引き抜く。
　不死身の復元能力を持つ吸血鬼だが、血液を運ぶ器官を抜き取られてはたまらない。
　血液の循環こそ彼等の唯一の動物らしさだ。
　それが損なわれた時、彼等の能力は大きく低下する。
　あるいは、心臓を潰されてしまえばまだ良かった。
　潰された時点で心臓そのものが肉体に復元され、<魔力|けつえき>は激減するものの全身の自由は戻っただろう。
　だが、このようにまるごと抜かれるのはまずい。
　<心臓|たましい>と肉体が切り離され、肉体だけが急速に衰えていく。
　<正|ただ>しく、<脆|もろ>く。
　為す術なく死を迎える<老|ひ><人|と>のように。
「“■■■■、■■■―――！！！！”」
　ソレは、返せ、と叫んだのかもしれない。
　祈りは届かない。
　喉は骨を残して鎖に引きちぎられ、そもそも肺のある胸部はごっそりと吹き飛ばされているため、吸血鬼の叫びは苦悶にさえなってはいなかった。
「それが遺言？　今度のは特に粗末だったのね、ロア」
　美しい声が別れを告げる。
　命乞いをするように伸ばされた吸血鬼の手は落ち、その肉体は、完全に活動を停止した。
　吸血鬼の名はロア。
　10年以上の歳月をかけて総耶の地下を作り変えた吸血鬼の、あまりにも一方的な最期だった。
「待て待て、ちょっと待ちやがれテメェ……！」
　マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノが現場に到着した時、既に<惨|こ><劇|と>は終わっていた。
　月光すら届かぬ密室には吸血鬼の石柩と、今まさに屍肉と化した吸血鬼の肉体。
　そして、血袋となった吸血鬼の心臓を左手に握って<佇|たたず>む、白い吸血姫の姿があった。
「あら。誰かと思えば見知った匂い。
　アナタ、もしかしてラウレンティスの子？」
「今はそっちとは関係ねえよ。マーリオゥと呼んでくれ。
　……ああクソ、目を離した隙にコレかよ。ロアのヤロウは完全に死んじまったな。これで次は何年後だ、ええ？」
「さあ？　アイツの事情なんて知らないわ。今まで通りいくのならまた17年ぐらい？」
「……17年。17年だと……？」
　無念そうに死体を睨むマーリオゥ。
　その顔に浮かんだものは苦悩を通り越して憎悪に近い。
「それじゃ間に合わねえんだよ。どうしてくれる。なんだってそんなにやる気に溢れてやがるんだよテメェ。いつもの無気力さはどこにいった？　ジジイの話じゃ淡々と死徒の末端から潰していくって話だが？」
「いつものわたし？　いつものわたしって言った？
　そっか。そうね、今までのわたしなら、確かにもうちょっと時間をかけたかも。でも今回は一秒も無駄にしたくなかったの。ロアなんかに使う時間がもったいなくて」
「ただの気まぐれかよ。なんだそれ。何か悪いモンでも食べたのか？　それとも故障が近いのか？　精密機械が気分でパターン変えてんじゃねえよ、クソ！」
　悪態をつくマーリオゥだが、彼も冷静さを欠いていた。
　もし彼が普段通りの観察眼を働かせていたのなら、この時点で女の変化に気がついていただろうに。
「つまりアレか。代行者どもが頑張りすぎた。
　テメェが二十七祖とやりあっていれば、こんな結果にはならなかったワケか」
「ええ。もしわたしだけでヴローヴと戦っていたら、今ごろは眠っていたでしょうね。新参者ではあったけど、祖である以上は強敵だったんだろうし」
「あ？　ヤケに素直じゃねえか。強敵、強敵ねぇ。テメェの口からそんな単語がでるとは夢にも思わなかったぜ」
「そう？　弱くても厄介な相手だったんだから、強敵と言うべきじゃないの？」
「だから。厄介な相手、なんて感想もたなかったんだよ、今までのアンタはな」
　憎々しげに舌打ちするマーリオゥ。
　殺気だった視線を受けながら、吸血姫は“なるほど”などと感心している。
「まあいい、終わった事をウダウダ言っても時間の無駄だ。人生残り少ねぇんだし前向きにいかねえとな。
　今代の死徒ロアはこれで消滅、次の発生まで10年以上の時間がかかる。
“この街”での事件はめでたく解決。ロアが死んだ事で死者も共倒れ、あとはポコポコ出てくる身元不明の遺体をさばくだけのカンタンな<後始末|おしごと>だ」
「？　アナタ、代行者たちを連れてすぐに帰らないの？」
「帰りたいのは山々だがな。片足つっこんだ手前、最後まで面倒見るしかねぇだろ。
　……けどなあ、お姫さま。アンタはいいのかよ、それで」
「へえ―――いいって、何が？」
「ロアのヤロウに横取りされたアンタの容量の話だ。その体、いいかげん限界なんだろ。吸血衝動を抑えるにはロアを真の意味で殺すしかない。こんな使い捨ての体を殺した程度じゃ奪われたものは戻らない。
　今回が最後のチャンスだったんじゃないか？　なんだって問答無用で始末しちまったんだ。せめて生かした状態で血を吸えば何割かは取り戻せただろうに」
　マーリオゥの声にはいつもの毒気はない。
　彼は本気で女の体を案じ、だからこそ最後の手段を口にした。
“純白の吸血姫に血を吸わせる”
　それがどれほどあり得ない事かを承知した上で。
　吸血姫の唇が動く。
　マーリオゥの予測通り、美しい女は『死んでもイヤ』と言葉を返し―――
「あ、その手があったか」
　彼女は左手に握った心臓をまじまじと眺めている。
　本当に、今まさに唇を<這|は>わせてもいいかのように。
「や―――」
　マーリオゥの驚愕は如何ほどのものか。
　まさか天地が逆さになるほどの奇蹟を、こんな極東の地で耳にしようとは。
「でも、やっぱりやらない。
　こんな生き物、わたしのモノにしたいと思えないし」
　白い指はたおやかに、あっさりと心臓を握りつぶした。
　解き放たれた血液は恥知らずにも吸血姫の頬を濡らす。
　それは断末魔さえ許されなかった蛇の、最後の反撃のようにも見えた。
　その苦悶の<滴|しずく>を指でぬぐい去り、舌に触れさせる。
「ほら。まだ温かい血液でも、哀れなぐらい不味いんだもの」
　赤い血液より赤くうごめく女の舌。
　その微笑みは男を溶かす魔性そのものだ。
「……おまえ、そんなガワだったか？」
　マーリオゥの問いに吸血姫は答えない。ただ微笑みを返すのみだ。
　女は優雅な足取りで彼の横を通り過ぎる。
「帰らないのなら別にいいけど。
　次に私の跡を付けたら、アナタたち<全|・><部|・>皆殺しよ、マリオネッタ」
　地下の洞穴に反響する女の靴音。
　それが鳴り終わるまでマーリオゥは動けなかった。戦慄で足がすくんでいる。
“全部皆殺し”
　それがマーリオゥとその部下たちを指しているのか、
　この国にいる信徒たちを指しているのか、
　それとも―――この星にあるすべての教会を指しているのか。
　女が何を指しているのか、彼には正しく理解できた。
　できたが故に暗闇で立ち尽くす。
「……ふざけんな、ロアどころの話じゃねえ……あの女、どうなってやがる……？」
　呟く声にはあまりにも力がなかった。
　アルクェイド・ブリュンスタッドの変調。
　それが何を意味するのかを、頑なに拒むように。
　柔らかな陽射しが眠りを払っていく。
　目を閉じていても皮膚感覚で周囲の静けさは読み取れる。
　空気はほどよく冷たく、それでいて優しい。
　どうやら今日は、これ以上ないほど晴れ上がった空のようだ。
　なら、起きて学校に行かないと。
　なにしろこの二日間、自分が学生である事を忘れるような災難に遭っていたんだから―――
「…………」
　……目が覚めた。
　体はベッドに横になっていて、枕元には眼鏡がある。
　条件反射で眼鏡をかけ、視線を泳がせる。
　さあ、という音が聞こえてきそうなほど、窓からの陽射しは鮮やかだ。
　深呼吸をして新鮮な空気を
とりこむ。
　……そうか。日曜日、学校は休みだ。
　時計の針はカッチコッチと音をたてて、
　外からは小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
　―――ああ、戻ってきた。
　普段通りの朝なのに、今はこんなにも清らかなものに感じている。
「―――良かった」
　自分が生きている事とか、<吸血鬼|ヴローヴ>をどうにか出来た事とかじゃなくて。
　あの異常な出来事を体験しておきながら、俺は日常に戻ってこられている。この朝を幸福なものと感じる事ができている。
　ちっぽけな人間にとって、それはこの上ない報酬と―――
「おはようございます、志貴さま
」
「うわああああ！」
　思わず上半身が跳ねあがる。
　見れば、ドアの前には翡翠が控えていた。
「ひ、翡翠―――」
「……申し訳ありません。
　志貴さまが中々お気づきになられませんので、こちらから声をおかけしたのですが……」
「あ―――うん、いや、こっちこそ、ゴメン」
　びっくりした。
　起き抜けの心臓がバクバクしている……。
「……あれ？　まだ７時前だけど」
「はい。志貴さまのお目覚めには、少しばかり早い時間です」
「だよね。じゃあ翡翠は何をしに来たんだ？」
「志貴さまを起こしにまいりました。
　秋葉さまから、ここ二日間の事情を説明してもらいますので、テコを使ってでも連れて来るように、と言付かっております」
「――――――」
“秋葉”“ここ二日間”“説明”。
　意味不明な単語が脳内で飛び回る。
　思考を放棄したい誘惑に耐えながら、察すること10秒。
　……そういえば。というか、どう考えても、この二日間の行動は弁明のしようがない。
　無断欠席。門限破り。おまけに音信不通ときた。
　夕暮れ前に帰らなかっただけでアレな秋葉である。アイツがいまどんな顔をしているのか、恐ろしくて想像もできない。
「……あのさ、翡翠。
　控えめに言って、秋葉のヤツ、怒ってる……？」
「さあ、どうでしょうか。
　それは志貴さまが直にお確かめください」
　よし。心なしか、翡翠の声もさりげなく冷たかった。
　こんな事なら這ってでも屋敷に戻っていれば―――
　這って、でも？
「いや、ちょっと待った。
　それ以前に、なんで部屋で眠ってるんだ、俺……？」
「志貴さまは昨夜の午前２時過ぎにお帰りになられました。
　玄関口で眠っていたのを姉さんが気づいて、お部屋にお連れした、とのことです」
「――――――――」
　……開いた口が塞がらない。
　音信不通から深夜に帰宅、部屋にも戻れず玄関で眠っていた、とか、終電を逃した野生の酔っ払いそのものである。
「あいつ、人を猫かなにかと一緒にしやがって……」
　アルクェイドの顔が浮かぶ。
　……けど、玄関口まで運んでくれただけでも感謝するべきなのかもしれない。
　とにかく、状況は把握できた。
「すぐに行くから、秋葉には、その……できるだけ落ち着くように言っておいてくれると、嬉しいんだけど……」
「申し訳ありません。それは諸事情によりお断りいたします」
　きっぱりと答える翡翠。
　現在の遠野邸において遠野志貴の身分は最下層に転落したと見て間違いはない。
　屋敷の主は秋葉なんだから、秋葉が怒っているという事は、こっちに味方はいないのは当然と言える。
　……ともかく起きよう。
　いつまでもベッドにいては始まらない。
「―――」
　い―――たい。
　立ちあがった途端、両脚に裂くような痛みが走った。
　……そうか。何に驚くべきかと言ったら、俺は自分が生きている事を驚くべきだった。
　あれだけの無茶をしておいて、こうして朝を迎えられる事自体が不自然だというのに。
「志貴さま……？
　いかがなされましたか？　その……汗が、すごく」
　額に大量の汗が噴き出ている。
　歩こうとした痛みだけで、体はそこまで反応したらしい。
「……お体の調子が優れないのでしたら、もうしばらくお休みになられた方がよろしいのではないでしょうか？
　先ほどはああ申しましたが、秋葉さまには私から……」
「いや、大丈夫。ただの<捻挫|ねんざ>だ、すぐに治まるよ。
　それより秋葉の方が怖い。先延ばしにしたら、よけいに怒られそうだ」
「――――――」
　翡翠の目は、嘘を言わないでください、と責めているようだ。
　だが翡翠の立場上、俺の嘘を追及する事はできない。
　……申し訳ないけど、今はこのみえみえの方便で納得してもらうしかない。
「着替えたらロビーに行くよ。
　すぐに済ませるから、廊下で待っていてくれ」
「……かしこまりました。
　どうかご無理はなさいませんよう、お願いします」
　深々とお辞儀をして翡翠は退室した。
　できるだけ体を動かさないよう、寝間着から私服に着替える。
　七年ぶりの実家での休日は、波乱含みで始まった。
　翡翠は廊下で待っていてくれた。
　左脚は重傷で、歩く度に叫びたくなるほどだった。
　体のいたるところが重く感じるが、これは軽度の筋肉痛だ。そう辛いものじゃない。
　手で確認したが、ヴローヴの氷の破片で受けた頬や肩の切り傷は完治していた。
　傷跡さえない不自然さから、アルクェイドの仕業なのは明白だ。手当てをする、とか言ってたし、あいつ。
「志貴さま。さしでがましいこととは存じますが、こちらをお使いください」
「？」
　翡翠はおずおずと細長い棒を差し出してきた。
　これは杖……じゃなくて、歩行器だ。
「よくあったね、こんなの」
「はい。以前、用具室で見たおぼえがありましたので。一縷の望みをかけて探して参りました」
　一縷の望みは言い過ぎ……と笑いかけて、翡翠の息がかすかにあがっている事に気がついた。
　俺が着替えているわずかな間に、急いで取ってきてくれたのだ。
「ありがとう。正直、歩くたびにカカトから飛び上がりそうだったんだ。すごく助かる」
「はい。お役に立てたのなら幸いです」
　左脚にかかる体重を、歩行器越しに左手で受け止める。
　これなら問題なく歩ける。翡翠の心遣いにもう一度感謝をして、二人でロビーに移動した。
　―――さて、到着してしまった。
　歩行器をドアの横に立てかける。
　ここから先、扉一枚<隔|へだ>てた向こうには遠野家当主であらせられる秋葉さま……一歳年下、妹……が、哀れな兄の弁明を今か今かと待ち構えているという……。
　ひどい魔窟だな、ここ。
　いや、弱音を吐いても始まらない。
　これも自業自得、どんな事情があったにしても学校を一日無断欠席して、二日も家に帰らなかったんだ。
　秋葉が説明を求めるのも当然だろう。
　ここはやはり―――
「……そうだな。それが一番いいと思う」
　アルクェイドやヴローヴについて話す事はできない。
　通じる筈がないし、アレは関わってはいけないものだ。
　どうあっても真実は話せない以上、せめて、こちらの落ち度を素直に謝ろう。
「―――よし、行くぞ」
　大きく深呼吸をして、居間に通じる扉を開けた。
「おはようございます、
兄さん。
　不思議と、ずいぶん久しぶりな気がしますね」
 
　いや、その……うちの妹、ちょっと迫力ありすぎない？
「や、やあ。おはよう、秋葉」
「挨拶は結構ですから、そこに座ってください。
　ええ、色々と長くなる筈ですものねぇ？」
「………………」
　……にしても、どことなく楽しそうなのは気のせいか。
　アレか。カエルを前にした蛇とか、そういうヤツか。
　やっぱりこのまま適当に挨拶をして撤退するのが良策なのか。
「―――兄さん？」
「お、おう、座りますとも！」
　逃げよう、なんて甘い考えは秋葉のひと睨みで霧散した。
　左脚の痛みを我慢しつつ、しずしずとソファーに腰を下ろす。
「座りましたよ」
「言わずとも分かります。……妙な態度でこちらの気勢を殺がないでください。卑怯です」
「？　なんで卑怯なんだ？」
「卑怯でしょう。そんな顔をされたら気が緩―――
コホン」
　ううん、と咳払いをして<言|げん>を止めると、秋葉はいっそう鋭い視線で俺を睨んだ。
「兄さん。早速ですが、一昨日と昨日のお話を聞かせていただけませんか？」
　優雅に言いつつ、ティーカップを手に取る秋葉。
　聞かせていただけませんか、などと言っているものの、間違いなく命令だ。
　だが、兄としてそんなお話を聞かせてあげる訳にはいかない。秋葉に心配をかけるぐらいなら、嫌われた方がマシだ。
「それなんだけど、秋葉」
「はい、なんでしょう」
「率直に言って、事情は説明できないんだ」
　かちゃん。
　と、秋葉の持っていたティーカップがテーブルに落ちた。
　いや、意図的に落とした、という表現のほうが正しかった。
「秋葉さま―――」
「ああ、ごめんなさい翡翠。片付けてもらえる？」
　めっちゃ声がこわい。
　翡翠は無言でこぼれた紅茶とか、欠けた……とても高級そうな……ティーカップを片付けていく。
　それにしてもめっちゃ声こわい。
　片付けを終えて、翡翠が居間から出ていく。
「―――それで、兄さん」
「……なに？」
「この二日間の出来事を、詳しく話していただけますか？」
　時間が戻ったのかな？
　ご当主さまは意地でも話を聞きだそうとしている。
　……それでも、事情を話す事はできない。
　自分の為でもあるが、秋葉にあんな、
　あんな話を、聞かせる訳にはいかなかった。
「……何度聞かれたって話せないものは話せない。
　秋葉には余計な心配をさせて悪かったと思ってる。連絡を入れなかった事も謝る。だけど、話せない事は話せない」
「私に悪い、と思っているのに話せないんですね、兄さんは。
　弁明もしないのですか？」
「……いや、それは……」
　弁明したいのは山々だけど、
「いいわけのしようがないので……。
　でもこの二日間、悪い事はしていない。……そう信じたい」
　……そうだ。殺したり殺されたり、そんな事しかなかった二日間だった。
　けど、あれは正しい選択だったと信じたい。
　アルクェイドを助けるという理由もあったが、なにより俺は、あの吸血鬼を殺した事を後悔はしていない。
　致命的に間に合わなかったとしても、もうこの先、血を吸われて殺される“誰か”はいなくなったのだから。
「……ごめんな、秋葉。
　迷惑をかけるけど、これ以上は訊かないでくれ」
「―――――――」
　秋葉はじっと俺の目を見つめてくる。
　しばらく、そんな息苦しい時間が続いた。
「そうですね。
　考えてみれば兄さんにも事情があるのでしょうし、私がそれに深く干渉する事はできませんものね」
「……悪い。そう言ってもらえると、助かる」
「――――――」
「わかりました。この件に関して、これ以上の追及は勘弁してさしあげます。
　連絡をいただけなかった点については、私にも落ち度がありますから」
「？　落ち度なんて、そんなの秋葉にないだろ？」
　もう、なんとか誤魔化すしかないだろう。
　そもそもアルクェイドやヴローヴの話をしても信じてもらえるとは思えない。
　それなら出来るだけ嘘は言わない、それでいて真実も言わない、という方針でいくしかない。
「―――よし、行くぞ」
　大きく深呼吸をして、居間に通じる扉を開けた。
　居間にはソファーに座った秋葉と、
　壁際に立って控えている翡翠の姿がある。
「おはようございます、兄さん。
　思いのほか、すっきりとした顔をしていらっしゃいますね。何かいい考えでも浮かびましたか？」
「―――
う」
　嫌味とも牽制とも取れない、秋葉の先制攻撃だった。
「あ、ああ。おはよう秋葉。
　……そこ、座っていい？」
　秋葉の正面のソファーを指さす。
「どうぞご自由に。……ふうん。おとなしく白状する、という気はあるようですね」
「ははは。やだなあ、まるで俺が悪い事をしたみたいな」
「―――みたいな？」
「とりあえず座るね」
　迫力に負けてソファーに座った。
　当主さま、まじおっかない。
「………………」
　秋葉は口を閉ざしている。
　こちらからの自主性に期待している……というより、こちらから切り出さないと許さない、という意思を感じる。
　被告人の自白を促す裁判官か。
　だがこちらも方針は決めてある。この裁判、勝ちに行くぞっ。
「昨日と一昨日は、家に帰ってこなくて悪かった。
　ちょっと急な用事ができて」
「急な用事、ですか。差し支えなければどんな用件だったのか、教えていただけますか？」
「いや、ちょっとした知り合いとばったり再会して、色々あって、そいつに街を案内してやってたんだ」
「へえ。ちょっとした知り合い、ですか」
「そう。最近知り合ったヤツなんだけど。
　そいつ、体調を崩しててさ。でもやらなくちゃいけない用事があるとか言うから、放っておけなくて」
「学校を休んで、無断外泊をした、という事ですね。
　素晴らしい善行ですね。剥製にして、博物館に展示したいくらい」
　秋葉の視線が冷たい。
　あれは怒っている、というより、呆れはてている目だ。
　ん？　……ってコトは、今の概要だけの話を、ちゃんと“実際にそうした事”として信じてくれている、という事か？
「………………」
「………………」
　沈黙が続く。
　俺はこれ以上ボロが出ないように、
　秋葉はどこから突き崩してやろうかと思案するように。
「それで、誰なんですか」
「え？」
「その知り合いというのは誰なんですか、と聞いたんです、私は」
　まっすぐに秋葉はこっちの目を見据えてくる。
　『絶対に誤魔化されませんから』という意思が、ありありと伝わってくる。
「いや、それは―――」
「言えない、という事は何か後ろめたい事がある、という事よ、兄さん」
　じっ、と秋葉の視線が突き刺さる。
　目を逸らすと一気に攻め入られそうなので、負けじと秋葉の顔を見つめる。
　……いや、まったく関係ないけど。
　改めてこう直視すると、秋葉の変わりようを思い知らされる。
　妹に見蕩れる、というのも兄馬鹿なんだろうか。
　凛と伸びた背筋、はっきりとした口調、ゆらぐ事のない瞳。子供の頃からその素養はあったにしろ、いま目の前にいる秋葉は、なんていうか本当に―――
「あのさ、秋葉」
「……？　はい、なんでしょう兄さん」
「おまえ、眉わりと太いんだな」
「！？」
　がたん、とテーブルに足をひっかけて、秋葉は立ちあがった。
「いや、太いってのは違うか。キリッとしてるから印象が強いのかな？　あんまり眉間に皺とかよせると、よくないぞ」
　ただでさえ迫力ある美人なのに、視線まできつかったら並の男は逃げ出すからな？
「どうやら、兄さんには真面目に返答する気はないみたいですね」
「そんなコトないです。誓って言うけど、俺は秋葉に嘘はつきません」
　ただちょっと、言えないことが多いだけなんだ。
「……はあ。そうね、嘘はつきませんよね。
　昔から、誠実なんだか不誠実なんだか判断のつかない人でしたから」
「ほんと？　俺、昔のことはよく覚えてなくて」
「覚えてなくていいです。
　……なんか、私も変わってない。どうせこうなるって分かってるのに問い詰めるなんて、成長がないのかしら」
「わかりました。この件に関して、これ以上の追及は勘弁してさしあげます。
　連絡をいただけなかった点については、私にも落ち度がありますから」
「？　落ち度なんて、そんなの秋葉にないだろ？」
　そうだ、本当の事を話してみよう！
　秋葉に嘘を言いたくないし、そもそもアイツにヘタな誤魔化しは通じそうにない。
　やはり人間、正直が一番だ。誠心誠意、こと細かく説明すれば秋葉も分かってくれる筈だ。
　<自|ヤ><棄|ケ>になっているだけで俺はぜんぜん正気である。
「―――よし、行くぞぅ」
　ここからはクソ度胸にかかっている。
　深呼吸をして、居間に通じる扉を開けた。
「おはようございます、兄さん。
　不思議と、ずいぶん久しぶりな気が―――」
「やっ。おはよう秋葉」
　いかにも“私、怒っています”な視線をにこやかな笑顔（防御点50）で受け止め、秋葉の対面に座る。
　カカトはかなり痛んだが、そこは笑顔で乗り切った。
「部屋では言いそびれちゃったけど、翡翠もおはよう。
　さっきはありがとう。これからも頼りにするよ」
　壁際に控えている翡翠にも感謝の気持ちを伝える。
　素直になろう、と決めたコトがここまで完璧なおはようムーブに繋がるとは知らなかった、覚えておこう。
「ず、ずいぶんとご機嫌のようですね。
　てっきりここ数日の素行の悪さを反省し、萎縮していらっしゃると思ったのですが」
「もちろん反省はしている。自覚あるからね。
　けどそれと上機嫌なのは別の話。たんに、朝から秋葉の顔を見られて嬉しいだけだよ」
「――――――、
な」
　秋葉は彫像のように固まってしまった。
　しまった……怒らせてしまった……のか？
　なるほど。素直になりすぎるのも良くないようだ。上書きで覚えておこう。
「秋葉様」
「―――何でもないわ、翡翠。
　ですが、今のはいい声掛けでした」
　こほん、と咳払いして、秋葉はスゥと表情を落ち着かせた。
「兄さん。言っておきますが、そんな気持ちのこもった言葉では誤魔化されません」
「こもってるんだ」
「こもっていない言葉では誤魔化されません。
　私が聞きたいのは、ここ二日間どこで何をなさっていたのか、という報告です」
「それなんだけど、秋葉」
「ええ。どんな言い訳をしてくださるのかしら、兄さん？」
「話すと長いから簡潔に説明する。
　俺はこの二日間、吸血鬼を退治していたんだ。
　総耶で連続殺人が起きているのは知ってるだろう？　その犯人が吸血鬼だったんだけど、偶然知りあった『いい吸血鬼』に助けられてさ。
　そのまま、なしくずしでソイツに協力して、『悪い吸血鬼』と戦ったんだよ」
「―――――――」
　秋葉は物の見事に固まってしまっている。
　順当な反応だ。次の瞬間にも、
「バカにしてるんですか、兄さんはっ！！！！」
　と怒鳴ってくるのは容易に想像できる。
　でも他に言いようがない。
　悲しいが、信じてもらえないのは明白なので、俺は『ひどい言い訳をしている兄貴』に甘んじ……
「…………………」
　………？
　怒っていることは怒っているみたいだけど、秋葉は何も言ってこない。
「もしもし、秋葉？」
「兄さん。今のは、たちの悪い冗談ですか」
「――――――」
　秋葉は静かに、こちらの心を見通す……いや、射貫くような視線を向けてくる。
「……いや、冗談じゃなくて、」
「冗談、でしょう？」
「……まあ、そうとられても仕方がない、けど」
　あまりの真剣さに、つい同意してしまう。
「結構です。ですが、今後は冗談だとしてもそのような妄言は口にしないでください。
　どこに親族の聞き耳があるともかぎりません。遠野志貴は遠野家の長男には相応しくない、という風説なんて、私は聞きたくありませんので」
　……秋葉は怒っても、失望してもいない。
　視線は冷たくとも、秋葉が俺の立場を案じてくれているのは分かる。
　今のは、なんていうか……鋼のように硬い、純粋な“切望”だった。
「ごめん。今のは忘れてくれ。俺も悪ふざけがすぎた」
「……いいでしょう。この件に関して、これ以上の追及はいたしません。
　連絡をいただけなかった点については、私にも落ち度がありますから」
「？　落ち度なんて、そんなの秋葉にないだろ？」
「携帯電話を取り上げたのは私です。
　あれがあれば、ずぼらな兄さんでも連絡ぐらいはしたのではありませんか？」
「――――――」
　あの……いや、それが、ですね……。
　携帯はー……こっそりー……返してもらっていたとー……言うかー……。
「ですが、
それも今回だけです。今後はこのような事は控えてください。兄さんは遠野家の唯一の男性なんですから、もう少しご自分の立場を理解していただかないと困ります。
　よくない外聞が広まってしまったら、遠野家の今後の人付き合いにも影響がありますし」
　今後の人付き合いって……まさか、俺とよその名門の誰彼と？
「いやぁ、それこそ問題ないだろー。俺が何しようと興味も持たないって、<親戚|あっち>の方々は。
　だいたい遠野の跡取りは秋葉なんだから、家の事を思うなら俺を余所に出すなり、遠野の家に相応しい婿養子でも見つければいいのに」
「―――――」
　……？
　なぜか秋葉は黙りこんでしまった。
「どうした？　気分でも悪いのか、秋葉」
「結構です。私を気遣う余裕があるのでしたら、ご自分の体調を気にしてください。
　慢性的な貧血持ちなんですから、兄さんは」
「………む」
　そりゃあ確かに、こっちは頻繁に貧血で倒れるけど。
「ともかく、あまりおひとりで屋敷を出ないでください。
　そうでなくとも近頃の街は物騒なんです。兄さんみたいにぼう、としている人は、通り魔に襲ってください、と言っているようなものなんですから」
「それなら大丈夫。あんな事件、二度と起きないよ」
　街を騒がせていた連続殺人。
　現代の吸血鬼と報道され、今も犯人が発見されていない、人々を脅かす夜の闇。
　しかし、それはもう過去の事だ。
「――――は？」
「吸血鬼はいないって事だよ。その犯人はもう捕まったんだ」
「そうなんですか？　
それは良い報せですが……兄さん、よくそんな事を知っていますね」
「あ、ああ。たまたま逮捕現場に居合わせたというか」
　たまたま、と自分で口にして笑ってしまった。
　確かにあれは、偶然が重なり合って起きた事だ。
　アルクェイドと過ごした二日間。
　色々ありすぎて今でも夢のようだけど、とにかく、街に巣くっていた怪物は消え去った。
　その事実に関しては、胸を張って良かったと言える筈だ。
「兄さん？　どうしたんです、急に嬉しそうな顔をして」
「別になんでもない。
　ただ、終わったんだなって、ようやく実感できた」
　知らずに笑顔で、そんな呟きを洩らす。
　ともあれ、こんな説明でも秋葉は認めてくれた。
　それに礼を言って立ち上がる。
「いや、安心したらお腹が減ってきた。朝食をもらってきてもいい？」
「わ、私に許可を求める必要はありません。
　朝食まで管理する気はありませんから、ご自由に摂ってください。琥珀なら厨房で朝食の支度をしているでしょうし」
「サンキュ。じゃあ遠慮なく」
　出入り口に向かって歩き始める。
　っ……左脚、やっぱり痛むな。
「お待ちなさい兄さん。
　先ほどから気になっていましたが、今のでハッキリしました。脚を怪我していますね？」
「ぁ……いや、これは捻挫というか、筋を違えたというか。とにかく大した怪我じゃないんで、気にしないでくれ」
「そうですか。大した事はない、と」
　秋葉はつかつかと近寄ってくる。
　そのまま、俺と視線を合わせ、無造作に、
「えい」
「うっきゃあーーーー!?」
　患部を見抜いているかと思うほど的確に、一番腫れている左足の甲を踏みやがったーーー！
「あらびっくり。兄さんのポーカーフェイスも、直接的な痛みには<脆|もろ>いのですね」
「そりゃ弱いよ、っていうか俺の方がびっくりだよ！
　おまえ、わかっててやっただろう!?」
「誤解ですわ。大した怪我ではない、という兄さんの<言|げん>を信じて、精一杯の勇気で試してみただけですもの」
　ふふ、と優雅に微笑む鬼妹。
　なにがですわ、だ、白々しい。間違いなく、事情を話さなかった俺への意趣返しだ。
　秋葉は何事もなかったように、しかし極めて上機嫌でソファーに戻ると、優雅にティーカップを口に運ぶ。
「さて。確かに大した怪我ではなかったけど、放っておくのも良くないわね」
「兄さん、家長として命じます。
　朝食が済み次第、診察を受けるように。怪我の理由はともかく、大げさに痛がられるのは迷惑ですから」
「そりゃあ診察は受けたいけど……怪我の理由、訊かなくていいのか？」
「興味ありません。どうせ下らない理由でしょうから。だいたい、訊いたところで私には内緒なんでしょ、兄さんは」
　にべもない当主様の返答だった。
「外傷のない捻挫なら琥珀でも対応できます。
　あ……そっか、今朝は阿良句先生もいましたね。
　あの人はもともと外科の医師です。
　内科の琥珀と、外科の阿良句先生。
　お好きな方を選んでください」
　……なんと、予想外の展開だ。
　俺は―――
　琥珀さんに看てもらおう。
　湿布や痛み止めをもらえれば十分だし。
「わかりました。では食後は自室で待機しているように。
　私は午後から外せない会食があるので外出しますが、当主が留守だからといってあまり羽目を外さないようお願いしますね、兄さん」
　何が嬉しいのか、秋葉は安心したように微笑んでいる。
　……さて。
　とりあえずは朝食、その後は診察を受けるとしよう。
「お待たせしましたー！」
　琥珀さんはレトロな木箱を持ってやってきた。
「悪いね琥珀さん。忙しい中、わざわざ来てもらって」
「いえいえ。今日は休日ですからお仕事も少なめですので、お気になさらず。
　志貴さんのご指名ですもの。私などでよろしければ、いつでもご奉仕させていただきます」
　琥珀さんは弾むような笑顔でベッドまでやってきた。
「ではでは、診察のお時間です。ベッドに腰をかけてください。お加減が悪いのはおもに……
なるほど、左脚だけではなく、下半身全体ですね？」
「え……見ただけで分かるんですか？」
「はい、それぐらいは。免許こそ取れませんが、薬剤師と整体師になれるよう、子供の頃から鍛えられているんです」
　薬と整体……秋葉が琥珀さんを『内科』と言ったのはそういう事か。
　ベッドに腰を下ろし、とりあえずズボンをまくし上げて左脚を診てもらう。
　軽い<触診|しょくしん>。琥珀さんの指が<脛|すね>をなぞるたびに、痛みで声が出そうになる。
　と……
「あのー……志貴さん？
　もしかして、骨に<罅|ヒビ>入ってませんか？」
　あー……やっぱりそうか。
　むしろ罅だけで助かった。
　所々、折れていても不思議ではなかったんだから。
「そうかもしれません。でもちょっとだけですよ、きっと。
　こうして我慢できる程度なんですから」
「……はあ。秋葉さまのお気持ちがちょっとだけ分かっちゃいました。志貴さんは平気なお顔をしていても、いえ、している時の方がたいへんな方なんですね。
　しばらくお待ちください、秘蔵の軟膏などを持ってきますので。それまでベッドから動いちゃダメですよ」
　琥珀さんはパタパタと足音をたてて部屋から出て行った。
　……ひとり残されて、異様な罪悪感が湧く。
　あの琥珀さんがあんなに元気のない声をだすなんて。
　琥珀さんの治療は、思いの<外|ほか>本格的だった。
　軟膏のあとにカカトを固定するテーピング、その後に脛まで固定するギプス。
「いや、そこまで大げさにしなくても」
「そこまでの事です。
　ご自分のお体をなんだと思ってるんですか。
　そもそもこんな怪我をどこでこしらえたんです？　志貴さんの健康を任された者として、これは見過ごせません」
「う……いや、それはですね」
「志貴さん。正直に仰ってください」
「その……ケンカ、みたいなものです。興奮して殴り合ったというか」
　苦しい言い訳だったが、それ以外説明のしようがない。
　真剣な琥珀さんに対して、“なんでもない”と誤魔化す事はできなかった。
「ケンカ、ですか？　もう、だめですよそんなこと。
　わんぱくなのはいいと思いますけど、暴力はいけませんっ！　手を上げられたほうも、手を上げてしまったほうも痛いだけじゃないですか」
「……………」
　殴ったほうも、殴られたほうも痛いだけ、か。
　琥珀さんの言葉は、妙に身につまされる重さがあった。
「……うん。それは、そうだな。痛いだけだよな、殴りあいなんて、さ」
「でしょう？　なのにこんな怪我までしてがっかりです。
　どんな事情があったにせよ、そんな事をしていると志貴さんを見損なっちゃいますからね」
「……ああ、俺もバカだったって反省中です。二度とこんな事にならないよう、努力します」
「はい、わかってくださったのなら結構です。
　それでは上の具合も診ますから、服を脱いでくださいね」
「―――はい？」
　琥珀さんは淀みのない動作で立ち上がると、ぐい、と俺が着ているシャツを掴んだ。
　つまり。彼女は、ここで俺に裸になれ、と言っている。
「ちょっ、ちょっと待った！
　そこまでしなくていいです、痛いのは脚だけだから！」
「なに言ってるんですっ。
　両脚も酷いですが、より厄介なのは肩や腰回りだと断言します。ほら、軽い炎症ができてるじゃないですかっ」
「あいたぁ!?　なに、いまのツボ？　ツボですか!?　っていうか、この悪辣な腕の取り方、もしかして琥珀さんに整体教えたのって、<時南|じなん>医院のじじいでは!?」
「はい。時南先生にはしっかりと志貴さんのお体について教えていただきましたとも。
あと悪辣、ではありません。巧みな指使い、と言ってくださいね♡」
「なっ―――！」
　あっさりとベッドに、うつぶせで倒されてしまった……！
　時南先生とは、有間の家で暮らしていた時からお世話になっていた近所の接骨医だ。
　いまだに頭のあがらない恩人の筆頭だが、同時にいつかやっつけたいじじい筆頭でもある。
「いや、それはともかくっ！　炎症なら自分で湿布とか貼るから！　裸になる必要とかないってば！」
「―――ははあ。照れてるんですね、志貴さん」
　琥珀さんはにんまりと笑うと、かまわずシャツを脱がしにかかる。
「志貴さんのお体なんて見慣れてます。いいから観念してくださいまし。
　昨夜もお着替えをさせていただきましたから。背中のほくろの位置までばっちりです」
「――――――」
　言われてみれば起きた時、学生服じゃなく寝間着だった！
「ほら、暴れないでください。
　せっかく固定した脚のギプスがズレてしまいます」
　……それを言われると弱い。弱いけど、琥珀さんの前で裸になるっていうのは、ちょっと………。
「もう。では仕方ありませんね。わたしが診るのは背中だけにいたしましょう。それなら恥ずかしい事はないでしょう？」
　十分気恥ずかしいが、精一杯の譲歩だった。
　背中に湿布を貼りたかったら、どっちみち誰かにやってもらわないといけないんだし。
「……そう、だね。じゃあ、お願いします」
　あきらめて力を抜く。
「念のため消毒もしておきましょう。ケンカをなされたのなら小さな傷を負っているかもしれませんし」
　消毒薬は肌に沁みた。
　あれだけの二日間だったんだ。知らずに擦りむいた傷もあるのだろう。
　消毒薬はしみたが、貧血の目眩に比べれば大した事はなかった。消毒薬を塗るたびに、
「わあ、男の子なんですねー」
　なんて琥珀さんが喜んでくれたものだから、余計痛みを我慢できたのかもしれないが。
　そうして、琥珀さんによる診察は終わった。
　予想以上の本格的な診察に、改めてこの人のすごさを思い知った１時間だった。
「ありがとう琥珀さん。左脚も痛まなくなったし、これなら午後もゆっくりできます」
「いえいえ、どういたしまして。
　それではお仕事に戻らせていただきます。
　痛みが引かない、あるいは悪化したらすぐにお声をかけてくださいね。午後は厨房で夕食の仕込みをしていますので」
　琥珀さんは弾むような笑顔を残して退室した。
　さて。
　俺も午後はどうするかな……
　阿良句博士に診てもらおう。
　いまだにどんな人物なのか不明だが、白衣を着ている以上、お医者さんであるのは確かなんだし。
「わかりました。阿良句先生には私から伝えておきますので、後は自室で待機していてください。
　阿良句先生は予想のつかない方ですが、医師としての腕は確かです。ここで暮らすのなら頻繁に会う人ですし、これを機に親睦を深めてください」
　淡々とした秋葉の声。
　連絡事項を伝えるような簡潔さだ。
　……さて。
　とりあえずは朝食、その後は診察を受けるとしよう。
　自室で文庫本などを読みつつ時間を潰す。
　午前10時にさしかかった頃、窓越しに廊下を闊歩する白衣が目に入った。
　きたな、と本をしまう。
　同時に、
「ハァーイ、おっはよっうチャーン！
　朝からカラダをいじってほしいとかぁ、
志貴チャンったら超インラーンーーー！　
アタシ、シチューみたいにたぎった思春期少年病の餌食になっちゃうのかしらぁん！」
　ノックもなしで、派手なバッグ片手に酔っ払いが入って来た。
　今さらながら琥珀さんを選ばなかった事を後悔する。
「すみません。どうも頼む人を間違えたみたいなんで、帰ってもらっていいですか？」
「ああん、ウソウソ、かぎりなく本気だけどジョウダンよぅ。外来の診察なんて久しぶりだから、患者さんとの距離感掴めなくてぇ。フランクな挨拶のほうがいいかなぁー？　って気を遣ってみたのよぅ」
　などと言いながら、阿良句氏は既にベッドまで歩み寄っていた。派手なモデル歩き……胸とか腰とか必要以上にくねらせている……にも拘わらず、足音ひとつたてない、忍者の如き忍び足である。
　以前はこれでもかとヒールを鳴らしていたものだが、今回は診察だし、少しは真面目になってくれているのだろうか？
「はーい、それじゃあ患部を出してねー。すぐ出してねー。どうせなら裸になってねー！　お姉さん、あふれる興味を一秒も抑えられないからぁ、モタモタしてると食ベチャウゾ♡」
「……酒、飲んでませんよね？」
「飲んでませんわよ？　アタシ、常時シラフだもぉん。アルコールなんて摂取するぐらいならチョコ飲むわよぅ、チョコ」
　……確かに酒の匂いはしない。
　このテンションは平常運転という事か。
「お、素直に見せてくれたわねぇ。でも裾をまくしあげるだけ？　パンツは？　パンツ一丁にならないの？　男の裸が綺麗な時期なんてせいぜい二十五までなんだから、いまのうちに露出癖つけておかないともったいないわよぅ？」
「いいから早く診てください博士。
　俺にも我慢の限度があります」
「博士って言った？　ねえ、いま博士って言った？　やっぱそう見える、アタシ!?」
「……まあ。白衣着ていますし、なんというか、ほら」
　マッドがつく方の科学者そのものというか。
「ラブい。ゴダイヴァばりにラブい。よし、ちょっと本気だすか」
　阿良句博士は腰を落として俺の両脚を触診する。
　……妙な感触だった。
　指が肌をなぞっていくというより、ヒタヒタと伝っていく感じがする。こーん、こーん、と体の内部に響くものがあるが、痛みはまったくない。
　なんというか、潜水艦のソナーのような触診だった。
「やっだぁ～、骨に<罅|ヒビ>入ってるわよぅ？
　志貴チャンは痛いの大好きな子だったのねぇ。だってこんなの、フツーは我慢できないし！」
　あー……やっぱりそうか。
　むしろ罅だけで助かった。
　所々、折れていても不思議ではなかったんだし。
「んー、でもヘンな話ねぇ？　ココに亀裂があるってコトは、このあたり折れてないとおかしいんだけどぉ。
んー、
おもむろにカプるアタシ」
「ひゃあ!?　アアアンタ、なにした、いま!?」
「ちょっとした消毒よぅ。
んー、でもこれ開く必要ないわねぇ。固定しとけば明日には治ってるわぁ。阿良句つまんなーい」
　阿良句氏……阿良句博士は不満げに頭を掻くと、バッグから医療器具を取り出した。
　いま封を切った新品のビニール手袋をはめると、注射器の準備をする。
「一応、痛み止めイっとくわねぇ？　必要ないンだけどぉ、当主チャンから念入りにって頼まれちゃったしぃ？」
　阿良句博士は流れるような手つきで、俺の左脚に注射をした。
　その後、カカトをテーピングで固定し、包帯を巻いて治療は完了した。
　……本当に見事な手際だった。
　有間の家にいた頃お世話になっていた医院のじじいにも引けを取らない。この人、黙っていれば名医なんじゃないのか？
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
「いいのいいの。アタシ、しょせん無免かつ専門外だし？　本職はカガク者だし？　
志貴チャン、博士って呼んでくれたし？」
　博士と呼ばれた事がよほど嬉しいらしい。
　……この様子では、今まで秋葉たちに呼ばれた事はないのだろう。
「けどぉ、志貴チャン、ずいぶんと体に無茶させたみたいねぇ。人体の運動性、その限界に挑んだ感じ？
　アタシ、そういう無茶苦茶なの大好きだから医者として止めないけどぉ」
「おや。医者は本職じゃないんでしょ？」
「きゃー、志貴チャンったら辛辣ー♡
　おとなしそうに見えて根は冷血？　みたいな？　身体だけじゃなく精神もハイブリッドなの？　
ってゆーかぁ、貴方、自分の体についてどこまで理解しているの？」
「……えっと、貧血持ちの事ですか？」
「そっちじゃなくて、筋肉と骨格のこと。エンジンとフレーム、でもいいわ。触れた感じ、キミ、珍しい体してたから」
「筋肉には瞬発力重視の速筋と、持久力重視の遅筋があるワケだけど、志貴チャンは速筋メイン。それはいいんだけどぉ……なんていうか、軽いのよねぇ。骨格じゃなくて骨そのものが軽いというか。なんか、生まれつき自重をごまかしてふわふわ浮く不思議チャン？みたいな？」
「なんですかそれ。骨が軽いって、鳥ですか、俺は」
「あ、そう、そんな感じ！
　こんなん自然には生まれないわよぅ？　よっぽど配合に凝ったのねぇ。志貴チャンはまさにサラブレッド、たった10秒を走る為だけに生まれてきた。
　うふふ。兄妹なのに、当主チャンとは正反対♡」
「……秋葉と正反対、なんですか？」
「そ。遠野家の子はみーんな優秀かつオールドな遺伝子の配合、異種配合の賜物だけど、当主チャンはちょっと例外。というか特例。つーか奇蹟？
　先祖返り……まあ、<隔世|かくせい>遺伝ね。配合を始める前の、純粋なパターンを持っている。
　そうねぇ。貴方が十年に一人の才能なら、あの娘は……十年、百年、千年、さて、何年に一人の逸材だと思う？」
　阿良句博士は口端をゆがめながら、そんな話を振ってきた。
　俺は―――
「なーんて、ぜーんぶ見当違いの話でーす！
　人為的才能と比べる事さえおこがましい！
　当主チャンはぁ、万年に一人の怪物だもぉん！」
　ケラケラと、心底から楽しそうに笑う阿良句博士。
　……その態度に、知らず、俺は拳を握りしめていた。
「あっらぁ、妹をけなされて怒っちゃったぁ？　アタシとしては最上級の愛情をこめたつもりだったんだけどぉ」
「そうですか。だとしても、今の言い方はやめてください」
　……怪物、という喩えはやめてほしい。
　吸血鬼という本物を知った以上、その単語を人間に使うのは許容できない。
　ましてや秋葉に向けるなんて、二度と。
「あらぁ、地雷踏んじゃったぁ？　きゃー、アタシこわーい！　怖いからオイトマしちゃーう！」
　阿良句女史はカツカツとヒールを鳴らしてドアに走る。
　その背中を呼び止める事はない。
　しかし、白衣の女はドアの前で立ち止まると、ニマリとした笑顔を浮かべて振り返った。
「でもちょっと、博士として忠告しちゃう。
　もしこの先もぉ、そーゆーケガをする予定があるなら相談にのってあげる。志貴チャン、体がなまりまくってるみたいだし？　ど？　七年間の<澱|おり>、とってみたくない？　ま、とぉぉぉっても痛いコトになるんだけど！」
　意味が分からない。
　ただ、彼女の提案に乗る事には、生理的な嫌悪があった。
「……つつしんで辞退します。もうこんな事は起きませんし」
「ええ、そうなるといいわねぇ。
　じゃあね、チャオ～♡　アタシはいつでも待ってるわよ～ん」
　投げキッスをよこして、阿良句博士は退室していった。
　……気を取り直そう。
　せっかく動けるようになったんだし、午後の過ごし方を考えないと。
　昼食を終え、午後になった。
　午前中の診察のおかげで、歩くだけなら支障はない。
　あまり遠出はできないが、午後はどう過ごそうか？
　庭を散歩するか。
　屋敷に帰ってきてからこっち、庭園には出ていない。
　七年前からどう変わっているのか、様子を見に行こう。
　ここからなら大階段の後ろにある出入り口から中庭に出られるはずだ。
　テラスに出る。
　ここは居間の裏側でもある。
　子供の頃、天気のいい日はここが秋葉の居場所だった。
　いや、居場所というより活動範囲か。
　秋葉ひとりでは園まで出る事はなく、このテラスまでがあいつの移動範囲だった。
「……そうだった。よく庭から声をかけて、家庭教師の目を盗んだっけ」
　遊びに行く時は必ずここに寄ってほしい、とも言われた気がする。
　自分たちだけで森に行くのはズルイ、とかなんとか。
　結果、秋葉を森まで連れ出してしまい、怒られるのは俺の役割だった。
　テラスから庭園に出る。
　子供の目には果てのない庭に見えたが、今は視点があがった事で全体像を把握できる。
　七年前に比べると花の数は減っているが、庭の雰囲気は変わっていなかった。
　ゆっくり、10分ほど歩いて<休|ガ><憩|ゼ><所|ボ>に着いた。
　ここが庭の終わりだ。
　ここから先はうっそうと木の茂った森になる。
　今日は脚の怪我もあるし、散歩はここまでにしよう。
「それにしても、つくづく日本離れした屋敷だよな」
　岩に腰を下ろして、広大な秋の庭を眺める。
　ここまでくると洋館というより城に近い。絶景には違いないが、俺には不釣り合いすぎて苦笑いするしかない。
　俺が知りうるかぎり、こんな風景が似合うのは秋葉と―――
「あいつ、ぐらいだよな」
　あの、呆れるぐらい華やかだった女しか思いつかない。
「―――って、なんだそれ」
　ぶんぶんと頭を振って、とち狂った妄想を振り払う。
　なんでここでアルクェイドのコトなんか思い返すんだ。
　そもそも、あいつとはもう会う事はない。
　目的であった<吸血鬼|ヴローヴ>を退治した以上、この街に残っている理由がない。
　だから―――こんなところで思い返しても、もう、何の意味もない。
「……だよな。
　もともとそういう関係だし、どうってコトない。本当、もうあんな無茶をしなくていいかと思うと、せいせい―――」
　言いかけて、口を閉じた。
　不出来な嘘を呟いても虚しいだけだ。
　……そりゃあ、あいつと手が切れてせいせいするけど、それがいい事かは別問題だ。
　だって、いまも胸に残ってる。
　後悔とか、未練とか、そういったものが。
　厄介ごとしか持ちこまないヤツだったけど、それでも少しは……まあ、一緒にいられて楽しかったんだし。
「……って、バカか俺は」
　一度殺されかけたっていうのに、何が未練なんだか。
　昨夜の傷はまだ脚に残っている。
　ヴローヴに殺されそうになった事を思い出せ。
　あんな目に遭うのは、もう二度とゴメンな筈だ。
　ため息をついてガゼボを後にする。
　帰りも中庭を散歩して時間を潰す。
　……けれど。正体の分からない未練は、日が落ちた後も、
簡単には消えてくれなかった。
　館内を観覧してみよう。
　七年前からそう変化はないと思うが、成長した今の視点ならではの発見があるかもしれない。
　―――さて。
　１時間ほど屋敷を見て回った結論として。
「立ち入り禁止の区画が多すぎない？」
　周りには誰もいないのに、つい同意を求めてしまった。
　遠野邸本館はホテルのように広く、また、ホテルのように『関係者以外立ち入り禁止』な部屋が多かった。
　とくに東館の二階は凄かった。
『酷い』のではなく『凄い』。
　なんていうか、圧、があるのだ。
　他の部屋は鍵がかかっているので入れなかったが、東館の二階は鍵や扉で塞がれている訳ではない。
　なのに、こう、踏み入ろうとすると眩暈がするというか、廊下が揺らいで見えるというか、
「許可なしで入ったら絶対に殺す、
　という強い意志を感じる……」
　おもに秋葉からの。
　単なる被害妄想、否、俺が気を遣いすぎているだけなのだが、それはそれとして社会的な生命の危機を感じるので、東館の二階には入らなかった。
「ああ、それが正解だ。
　おいそれと当主の生活空間に入るものじゃあない。それが家族であろうともね。
　昔からここではそうだっただろう、志貴君」
「―――」
　後ろから話しかけられて、ビクッと背筋が跳ねる。
　振り向くとそこには、
「屋敷の探索は終わったかね？　私としては、出戻った人間には自室で大人しくしていてほしいのだが」
「それはどうも。こっちも、よく知らない人間に家のまわりを歩いてほしくないですけど」
「私を知らないのは君だけなんだが、まあ、そこは流そう。お互い深く関わり合う立場じゃない。痛し痒しだ。
　今日は―――そうだな。
　私も気が緩んでいたらしい。君の後ろ姿から昔を思い出してね。声をかけてしまったんだよ」
「……俺を見て、昔を思い出した、ですか……？」
　……それは、もしかして。
「ああ。槙久さんがまだ万全だった頃だ。
　ここ数年は部屋に籠もりがちだったが、もともとは植物を愛する人でね。こうして屋敷のまわりを歩いていた」
「槙久さんが植物に造詣が深かった事は話したかな？
　私も少しは囓っていてね。二人で、よくそこの植物園で語り合ったものさ」
「植物園……なんか、厳重に施錠されてますけど」
「入り口はね。裏口は簡単な鍵で開けられる。
　持っているのは琥珀嬢かな？　ありがたい事に、今でも最低限の世話をしてくれているようだ」
「…………」
　ちょっと意外だ。
　斎木氏は琥珀さんに『嬢』と敬称を付けた。
　使用人だからといって過度に下に見る……という人柄ではない……？
「貴方は、琥珀さんと親しいんですか？」
「私が？　あの使用人と？　……は。
　はは。ははは。
ははははは！」
　男は皮肉そうに苦笑した後、本格的に笑いだした。
　何が面白かったのか、聞くまでもない。
　……斎木業人は、今、目の前の人間の滑稽さに笑っているのだ。
「……何かおかしな事を言いましたか、俺」
「ああ、いや、失敬。
　うん、今のは私が悪いな。なにしろ君に落ち度はない。ただ、あんまりな質問だった、というだけだ」
「私は琥珀嬢とはそう親しくはないよ。彼女と話すようになったのは秋葉が当主になってからだ。
　琥珀嬢は秋葉の秘書役でもある。必然、会話の機会も増える。
　どちらかというと、私は翡翠嬢と顔見知りだがね」
「え」
　二度目の予想外。
　この、見るからに怪人な斎木業人と、翡翠が顔見知りだって……？
「昔の話だよ、それも。
　ここ数年はまったく話をしていない。挨拶程度はするがね。
　さて。私も日射しを浴びすぎた。肌がかゆくていけない」
　斎木業人が片手をあげると、駐車場に待機していた乗用車が玄関前のロータリーに移動してきた。
　会話はここまで、という事だろう。
「ああ、本題を聞き忘れていた。
　どうかな、七年ぶりに屋敷を見た感想は？」
「特に驚きはないです。子供の頃の記憶合わせができたのは一階だけですし」
　包帯づくめの紳士、斎木業人に返答する。
「なんだ、面白みのない。
　……しかし、そうだな。過去から戻ってきたとしても、見違えるような現実など、そうはないという事か」
　言いたい事だけ言って、斎木業人は遠野邸から去って行った。
　けっこうな頻度で遠野邸を訪れているが、総耶に住居があるのだろうか。
「……次はそのあたりに切り込んでみるか……」
　斎木業人が遠野志貴を敵視、ないし邪魔者として見ているのは間違いない。
　敵を知れば百戦あやうからず。
　こちらも自衛手段として、彼の情報を少しは知っておかないと。
「まあ、それはそれとして」
　せっかくの休日をこんな気持ちで終わらせたくはない。
　気を取り直して屋敷の探索を再開する。
　今度は……そうだな、中庭に出てみよう。
　よし、駅前あたりまで出てみよう。
　この脚で坂を下りるのは不安だけど、痛むようだったら帰ればいい。
「少し出てくる」と声をかけると、
と声をかけると、
律儀に玄関まで見送りにきてくれた。
「志貴さま、お帰りは何時ごろでしょうか？」
「心配は要らないよ。今日はちゃんと夕方までには帰ってくるから」
「かしこまりました。それでは行ってらっしゃいませ」
　翡翠はふかぶかとおじぎをする。
　それに照れくさいものを感じつつ、玄関を後にした。
　気がつくと、駅前北口に足を運んでいた。
　昨夜の事故からまだ一日も経っていない。
　周囲には立ち入り禁止の看板と、何人もの警備員がいる。
　警備員の数は異様に多い。５メートルごとに一人が配置されている。
　これでは猫の子も中に入れないだろう。
　……昨夜の火災は地下配管のガス爆発事故として報道されている。
　死者は現在、20余名。負傷者は50名を超えている。
　この中に警察官の数はカウントされていない。
　あの炎の中。勇敢にも吸血鬼に立ち向かって燃え尽きた彼等の記録は、一般に開示される事はない。
「……？」
　そこで妙な違和感に気がついた。
　陥没した区域はきっちりと縄が張られ、立ち入り禁止になっている。
　その中に出入りする者はいない。
　てっきり事故の調査や復興を行う人間でごった返していると思ったのだけど……？
「……というか、そもそも……」
　パトカーの数が少ない。
　この区域を警備しているのは民営の警備会社で、警官の姿はあまり見られなかった。
　相次ぐ事故の対応で、警察も人手が足りなくなっているようだ。
　事故現場から離れ、駅前に戻る。
　ベンチに座って人の行き交う雑踏を眺める。
　……どのくらいそうしていただろう。
　不意に、
　その後ろ姿を見つけ、即座に立ち上がって、見間違いだと気がついた。
「―――って、なんだそれ」
　俺にはあいつに話しかける理由はない。
　そもそも、目的であった<吸血鬼|ヴローヴ>を退治した以上、アルクェイドがこの街に残っている理由もない。
　……まったく馬鹿げている。
　こんなところで時間を潰してもしようがないのに、どうして俺は、意味もなく街に出てきてしまったのか。
「……だよな。もともとそういう関係だし、もうあんな無茶をしなくていいかと思うと、せいせい―――」
　言いかけて、口を閉じた。
　見え透いた嘘は虚しいだけだ。
　そりゃあ、あいつと手が切れてせいせいするけど、それがいい事かは別問題だ。
　……だって、いまも胸に残ってる。
　後悔とか、未練とか、そういったものが。
　厄介ごとしか持ちこまないヤツだったけど、それでも少しは……まあ、一緒にいられて楽しかったんだし。
「……って、バカか俺は」
　一度殺されかけたっていうのに、何が未練なんだか。
　昨夜の傷はまだ脚に残っている。
　ヴローヴに殺されそうになった事を思い出せ。
　遠野志貴は、もう二度とあんな目に遭うのはゴメンな筈だ。
「もうすぐ夕方だ。屋敷に戻ろう」
　熱を冷ますように頭を振って、ありもしないアルクェイドの幻に背を向けた。
　休日の午後は何事もなく過ぎてしまった。
　あれから部屋に戻ってぼんやりしていたら、いつのまにか夕食の時間になっていた。
「……呆れた。いいかげん忘れろよ、俺……」
　脳裏にこびりついた、金髪の女を振り払う。
　秋の日はつるべ落としと言うが、それにしたって急すぎる。
　……時間の感覚を見失うほど、俺は、下らない物思いに耽っていたらしい。
　食堂には俺と秋葉と、その後ろに控えた琥珀さんと、俺の後ろに控えた翡翠の姿がある。
　琥珀さんお手製の夕食は、和牛をメインディッシュにした一連のコースだった。
　遠野邸のマナーなのか、秋葉は一声も発さず、厳かな顔付きで主菜を口に運んでいる。
　秋葉が帰ってきたのは１時間ほど前だ。
　なんでも予定外の問題が起こり、対応に追われていたらしい。
「……翡翠。念のため聞いておくけど、うちの夕食って私語厳禁だったっけ？」
　秋葉に聞かれないよう、小声で翡翠に話しかける。
「……いいえ。親族の皆さま間での談話は自由に行われておりました」
「……じゃあ秋葉が黙っているのは、単に機嫌が悪いだけ？」
「……申し訳ありません。私には分かりかねます。……あくまで憶測ですが、秋葉さまはお疲れなのではないでしょうか」
「……そっか。そりゃそうだよな。いつも不機嫌だけど、今はとくにご機嫌ななめだし。ほんと、ご苦労さまだこと」
　うんうん、と真剣に同情する。
　俺が言える事ではないけど、予定外の出来事で休日がポシャってしまった妹に出来る事といったら、ゆっくり休ませてやる事だけだ。あえて話題を振る愚はおかさない。さわらぬ秋葉になんとやら、である。
「聞こえていましてよ兄さん。
　別に午後の視察で疲れている訳ではありません。食事は静粛に、が当家のマナーですから」
　じろりと睨まれる。
　翡翠と話しているのがバレるのは当然として、内容まで伝わっているのが怖い。地獄耳かアイツは。
「……もっとも、それも過去の話ですが。
　どうしても話がある、今日一日の出来事を語り合いたい、というのであれば、そのかぎりではありません」
　なるほど、と頷いて食事を再開する。
　朝食と昼食を少なめにしていたおかげか、夜になって食欲が戻ってきた。
　……それでも、今夜の<献立|メニュー>はやや目に痛い。
　牛のヒレ肉やフォアグラだけでなく、真っ赤なソースが血液を連想させて、否応にも昨日までの出来事を思い返してしまう。
　突然の殺人。ありえない再会。ありえない怪物。
　多くの死に背中を押されて伸ばした指と、死の手触り。
　それと―――吸血鬼を倒せば、そうなると判りきっていた、当然の別れ。
「……………」
　……まったく情けない。あれだけ物思いに耽っておいて、まだ熱が冷めていないのか、俺は。
「―――それで。
　私の仕事ぶりを<労|いたわ>ってくれた兄さんは、午後の休みをどのように過ごされたのです？」
「へ？　あ、ああ、俺の事か。午後は散歩に出て、部屋に戻ってからはずっとベッドで横になってた」
「それは……あの、また貧血ですか？」
「いや、考え事をしていたらいつのまにか夜になってたというか。体の調子は悪くないし、脚の方も問題ないよ」
「つまり無為に時間を浪費した、という事ですね。
　……はあ。そんな下らない事を堂々と口にしないでください。私は何とも思いませんが、他の人が聞けば笑いものになるだけですから」
　容赦のない、そして反論のしようのない秋葉の感想だった。
　それはともかくとして、
「たしかに自堕落に思われる発言だった。
　というか自堕落だった、反省している。
　けど、秋葉は何とも思わないって、どうして？」
　もしかして、厳しそうに見えるだけで肉親には寛大なのか？
「どうしても何も、当然でしょう？
　私は遠野志貴に何も期待はしていませんから。
　兄さんがそういう人である事は初めから承知の上です」
「……………」
　なるほど、至言である。
　期待していなければ失望もしないという理屈。
　ぐうの音も出ないとはまさにこの事だ。
「いや、ごちそうさまでした」
「ごちそうさま。食後は習い事がありますので、私はこれで。
兄さん？　反省なされたのでしたら、今夜は早めに部屋に戻って勉学に励んでくださいね？」
　秋葉は席を立って食堂を後にした。
　夜の習い事は夕方に予定されていたヴァイオリン演奏だそうだ。……どれだけ高スペックなんだアイツ、と劣等感に負けそうになる俺に、
「志貴さん、ファイトです……！　秋葉さまに負けないで！」
　秋葉に付いていきながら、お茶目な家政婦さんが手を振って応援してくれるのだった。
　夕食後、早めにお風呂をいただいてから自室に戻ってきた。
　備え付けの勉強机に座る。
　秋葉の言う通り、自堕落に過ごした昼間のツケを払おうと参考書を広げる。
　どれだけ現実離れした事件をくぐり抜けたところで、遠野志貴は高校二年の学生である。やるべき事は山積みだ。
「……………いや。山積み、なんだけど」
　しかし、どうやっても集中できない。
　頭に浮かぶのは、
　もう俺には何の必要もない、忘れるべき女の姿だった。
「ああもう、今日は止め止め！」
　あきらめてベッドに横になり、意味もなく天井を見つめる。
　……大丈夫。こんなのは今夜までだ。
　良きにつけ悪しきにつけ、とにかく激動の二日間だった。
　あれを簡単に忘れる方がどうかしている。
　冷却期間には一日が必要だろう。
　今はこうして、何をするでもなく意識を漂わせる。
　記憶を遠ざけるように、印象を薄めるように、茫漠と時間を浪費する。
　……そうすれば、たいていの出来事は過去のものになる。
「……ん……」
　やがて目蓋が落ち始める。
　意識がゆっくりと閉じていく。
　耐えがたい暗闇が<五感|からだ>を包んでいく。
　……平穏に過ぎた休日はこうして終わった。
　俺はベッドに横になったまま、自分を騙すかのように、曖昧な眠りに落ちていった。
　―――どういう訳か、珍しく快適な目覚めだった。
　意識は目を開けた瞬間に覚醒した。
　いつもならどんなに気を張っても数秒は動かない手が、<淀|よど>みなく枕もとの眼鏡に伸びて、視界を正常化する。
「……驚いたな。今朝はメチャクチャ調子いいぞ……？」
　昨日一日ゆっくり休んだからか、それとも阿良句博士の点滴が効いたのか。
　どちらにせよ健康すぎる。あんまりにも目覚めが良すぎて、逆に不安になるぐらいだ。
　コンコン、と扉が叩かれる。
　10秒ほどの待機を経て、一礼して翡翠が入って来た。
「失礼します」
「おはよう翡翠。今朝もありがとう」
「おはようございます、志貴さま。お目覚めになられていたのですね」
「昨日はぐっすり眠ったから。着替えたらすぐに食堂に行くよ。お腹も減ってるし、琥珀さんに朝食はちょっと多めにしてほしいと伝えてもらえる？」
「かしこまりました。姉さんも喜ぶと思います」
　翡翠は一礼して退室しようとする。
　その仕草がいつもと違うような気がして、つい呼び止めてしまった。
「翡翠、何かいいコトでもあった？」
「はい。志貴さまのお顔の色がたいへんよろしいので。お世話役として、これに勝る喜びはありません」
　そんなコトを言って翡翠は退室していった。
「――――――」
　翡翠にとっては仕事として当たり前の言葉なんだろうけど、こっちは不意打ちもいいところだった。
「あ、うん……それは、どうも」
　上気した頬を指で掻きながら、照れ隠しに独り言をもらす。
「―――いや、ゆだってる場合じゃない。
　せっかく体調がいいんだ、てきぱき着替えないと」
　気を取り直して朝の支度をする。
　今日は月曜日。
　仕切り直しにはちょうどいい、一週間の始まりだった。
　朝食は和食だった。
　白いごはんとお味噌汁
。
　ほうれん草のおひたしにイカ大根。
　そしてかぶとえびの炊き合わせを主菜にした、胃に優しい献立である。
「はい、どうぞ召し上がってくださいな。
　足りないようでしたら一品足しますので、遠慮なく言ってくださいね」
「おお……お……」
　しかし、派手さのない料理ながら、この輝くばかりの<魅力|オーラ>はどうだ。琥珀さんはどこかの料亭で修業した割烹の達人なんじゃないだろうか。
「いえ、これで充分すぎます。喜んでいただきます」
　手を合わせ、感謝の礼をして食事を始める。
　昨日までの不足を補うように箸は進んだ。
　舌鼓を打つ暇もなくおかずは底をつき、お椀は空になった。
「……って、すみません、ろくに味わいもせず。
　……あの、お代わりいいですか？」
「もちろん。健啖なのはいいことですもの。待っていてください、すぐにもう一品お出ししますから」
　二杯目のごはんをよそって、厨房に戻ろうとする琥珀さん。
　その背中に、
「あ……それなら、その、」
「？　何かリクエストがございます？」
　遠慮なく欲しいものをお願いしようとして、咄嗟に口を閉じていた。
「いえ、何でもないです。琥珀さんにお任せします」
「はい、お任せください。いざともなれば秋葉さまの分をちょ～っとだけ少な目にするのもやむなしです！」
「それはそれで後が怖いような……」
　俺がお代わりを要求した事が嬉しいのか、琥珀さんは上機嫌で厨房に消えていった。
「…………、でも」
　琥珀さんに申し訳ないのだが、妙な物足りなさがあった。
　腹は減っている。料理も美味しいと思う。
　なのに、口にする度に食欲が下がっていく。
“なんかこれじゃない感”というか、上品な味付けではなく、もっと脂ぎったジャンクなもの。
　たとえば、生肉とか臓物とか。
　繊細に調理されたものではなく、命そのものをイメージさせる、大雑把なものが食べたくて仕方がなかった。
　翡翠の見送りに礼を言って、遠野邸を後にする。
　時刻は午前７時半。
　食事に時間を取ってしまったので、結局、いつも通りの登校時間になった。
　週初めの月曜日。駅前は通勤する会社員や通学する学生たちで混み合っている。
　駅前の様子は何も変わらない。
　変わった事といえば、あるデパートの入り口に『封鎖中につき立ち入り禁止』と告知がされているぐらい。
「……あのデパート……
」
　先輩たちが人知れず片付けてくれたのだろう。
　吸血鬼のねぐらに通じていたデパート。
　地下墓地が倒壊し、ヴローヴが死んだ以上、あのデパートもただの廃墟になったのだ。
「……そっか。本当に、ぜんぶ終わったんだ」
　吸血鬼を始末する事が目的だと先輩は言った。
　それが終わればこの街から消えるとも。
　だからもう、あの人に会える事はない。
　今までのように昼休みの教室で、有彦と三人で何でもない話に花を咲かせる事もない。
　……正直、未練は山ほどある。
　学校に行っても先輩がいないと思うだけで家に帰りたくなる。
　それでも、この退屈な日常は先輩が守ってくれたものだ。捨て鉢になるのはそれこそ先輩に失礼だ。
　それに、俺はこうして先輩を覚えている。
“明日になったら記憶を消す”なんて言っておきながら先輩はそうしなかった。
　俺に気を遣ってくれたのかもしれないし、単に手間を省いただけなのかもしれない。
　どっちだっていい。もう先輩に会える事はないけれど、思い返す事はできる。あの戦いの報酬として、それは充分すぎる幸運だと思うのだ。
　正門がもっとも賑わうＨＲ15分前。
　通学路にはうちの学生の姿しかない。
　あの時のように、ガードレールに腰を下ろして誰かを待っている、嘘みたいに美しかった女の姿も、当然のようにない。
「……ほんと。自分のコトを吸血鬼だって繰り返してたけど、最後まで吸血鬼らしくなかったよな、アイツ」
　自分でも顔がほころんでいるのが分かる。
　アルクェイドの事を考えるとつい笑ってしまうのは、アイツが最後まで突拍子もないヤツだったからだ。
　無邪気に笑ったり怒ったり、たまにとんでもなく怖かったりもしたけど、基本的にはいいヤツだった。
　アイツと過ごした時間は頭の痛いものだったけど、こうして思い返すと悪くなかったと実感できる。
　もっとも、それも終わった事だ。
　吸血鬼はいなくなった。アルクェイドも先輩も消えた。
　残ったものは何の変哲もない今まで通りの、
「おや。おはようございます、遠野くん」
「！？」
　今まで通りの、先輩の姿があった。
「ちょっ、先輩!?　なんで<学|こ><校|こ>に!?」
「なんでと言われましても、わたし、ここの学生ですし。
　この時間に登校しないと遅刻してしまいますよ？」
「いや、それはそうですけど、だって、ほら！」
　吸血鬼を倒したら街を去るって、クールに言ってたじゃないですか！
「おお。そんな話もありましたね。
　あんな状況だったのにしっかり覚えているなんて、中々の記憶力と言わざるをえません。先輩として鼻が高いです。と言いつつ、さりげなく眼鏡のズレを直すわたしなのでした」
　何が楽しいのか、先輩は満足げに微笑みながらホントに眼鏡をかけ直した。
　……明らかに、俺をからかって楽しんでいる。
「あんな状況だから覚えてるんです！
　先輩が言ったコトなんて一つも忘れてませんからね、俺！」
　正門前という事を忘れて先輩にくってかかる。
　自分でもなんでこんなに気が動転しているのか分からない。
　先輩がいる事の驚きと、先輩がいる事の喜び。
　それがまぜこぜになって、マトモに頭が働かなかった。
「とにかく、どうしてここにいるんですか!?　ぜんぶ終わったんだから、先輩は居ちゃいけないハズでしょう!?」
「なんと。わたしは居てはいけない系の先輩だと？」
「そんなワケないでしょう、居てほしい系の先輩に決まってるじゃないですか！　俺をバカにしてるんですか!?」
「ふむ。この場合、バカにされているのはわたしの方な気がしますが。果たして居ていいのかいけないのか、どっちかに統一していただかないと」
「いや、だから！
　事件はもう解決したじゃないですかっ！」
　おおー、と感心するシエル先輩。
　パチパチと拍手なんかもしてくれる。完全に子供扱いだ。
「……………はあ」
　そのあまりにもとぼけた反応で、俺の頭もようやく落ち着いてくれた。
「……もういいです。どうせ俺なんて先輩の中じゃどうでもいい扱いなんだろうし。騒いですみませんでした」
「ぁ……いえ、そう言われると、その……
　ごめんなさい、悪ふざけが過ぎました。遠野くんが予想以上に驚いてくれるから、つい」
　ごめんなさい、と律儀にもう一度謝ってくる先輩。
　……やっぱりさっきのは俺をからかっていたらしい。
「ま、まあ、反省してくれるならいいです。
　……それより説明してくれるんですよね？　ここまできて放置されるとかイヤですから」
「それは勿論。わたしにも立場というものがありますから。
　でも今は校舎に急ぎましょう。先輩として後輩の遅刻は看過できません」
　先輩は校舎に歩いていく。
　いつの間にか正門には誰もいない。先輩を問い詰めている間に、ホームルームまであと３分という状況になっていた。
　文句もあるけど今は先輩の言う通りだ。
　まだ動転している心臓を落ち着かせながら、先輩の後に付いていった。
　ホームルームまであと１分。
　廊下に生徒の姿はない。
　あるのは遅刻間際で小走りになる俺と先輩の足音と、
「あ、きたきた～♪　志貴クン、おはよー！」
　踊り場で待ち受けていた、ノエル先生の笑顔だった。
「ノエル先生!?」
　声をあげたのは先輩の方だ。
　俺はというと、さっきの先輩のサプライズが大きすぎて、ノエル先生がいても“先輩がいるんだから、ノエル先生だっているだろう”ぐらいの感想しか浮かばなかった。
　……あれ。
　なんかおかしくないか、それ？
　驚くのは逆のような……？
「あれから体の具合はどう？　ケガしてない？　体温とか、先生に測らせてくれるかな？」
「ちょっ、ノエル先生……!?」
　ノエル先生は俺の腕に腕をからめると、思いっきり体を密着させてきた。
　近い。すごく近い。というか耳の裏に息を吹きかけられるとくすぐった、っていま耳たぶ噛まれた、耳……！
「な、なにをしてるんですかノエル先生！」
「見ての通り、スキンシップよ？　いいじゃない、朝から個人的なアプローチしかけても。
　ほら、昔っから役割分担してるでしょ？　説明役はわたし、現場はアナタって。今回もそうしましょう」
「っていうかコレ、早いもの勝ちでしょ？　右も左も分かってない初心な志貴クンに、色々手ほどきするのは年上の役割だと思うな、先生！」
「バカな発言は控えてください！　ここは学校です！
　あと遠野くん！　もしやデレデレしていますか!?」
「はい！　いえ、してない、してません！」
「あら。あの時は心も体もピッタリくっついて、ふたりでドキドキしちゃったのに？　ま、こんな場所じゃ乗れないのも当然か。やっぱりナイショ話は二人っきりがいいってコトかな？」
　ノエル先生はますます体を寄せてくる。
　シエル先輩は味わい深い笑顔をしている。
　このままでは二日前もかくやという惨劇が巻き起ころうという時、
　絶好のタイミングでＨＲを告げるチャイムが鳴ってくれた。
「おおっと。担任が遅刻しちゃダメよね、男の子はいいとして、女子の皆さんに陰口たたかれるのはねー」
　ノエル先生はからませた腕を放すと、ササッと逃げるように階段を上っていく。
「それじゃあまた後でね志貴クン、先生は一足お先に教室に行ってまーす！
　詳しい話は放課後、校舎裏で！」
　ノエル先生は三階の二年教室に行ってしまった。
　一方、シエル先輩は二階にある三年教室に足を向ける。
「待った先輩、話は……!?」
「失礼、わたしも欠席はちょっと！
　詳しい話は放課後、茶道室で！」
　シエル先輩はあわてながらも軽快な足音をたてて廊下を走っていった。
　今の話をまとめると、つまりはこういうコトだ。
　ノエル先生は放課後、校舎裏で俺を待っている。
　シエル先輩は放課後、茶道室で俺を待っている。
　これみよがしな二者択一に戦慄する。
　これ、どっちを選んでも良くない展開が待っているのではないだろうか……？
　午前中の授業が終わり、昼休みになった。
　ノエル先生はＨＲ中も授業中も俺に視線を投げる事はなかった。話があるなら放課後に！　といわんばかりのスルーっぷりで、こっちは生殺し状態だ。
「オース、何日かぶりですかね遠野クン！
　おおかた季節の変わり目で風邪でも引いた……
おや？　遠野の様子が……？」
　有彦はおかしそうに首をかしげる。
　コイツとも長い付き合いだ。
“はたして放課後はどちらに行くべきか？”
　この選択に対する俺の苦悩を一目で察してくれたらしい。
「むう、いつも通りじゃんか。むしろ顔色いいじゃんか。
　体調不良で休んでたんじゃないのかよ？　シエル先輩からそう聞いてたんですけどぉ」
「―――あ。そっか、木曜は有彦がうちに電話してくれたんだっけ。いやあ、その節はどうも。色々と余分なコトまでありがとう」
「気にすんな一つ貸しな！
　ところでキミの妹さんね、声だけですげえ美人だと分かるのはどうかと思うよ？
　もし黒髪ロングでおとなしくて儚さゆえに守り甲斐のあるタイプだったら、なんとしても紹介してくれ」
「……なに。おまえ、そういうステレオタイプの年下、好きなの？」
「もち。姉貴しかいない男子高校生にとって、妹ってのはそれだけで最後の<幻想|ファンタズム>ですからね」
「そうか。そういう事なら今度うちに招待するから、ぜひ話相手になってやってくれ。守り甲斐ありすぎるからおまえの好みストライクだぞ」
　マジカ、と喜ぶ親友を生温かく見守る。
　いつまでも子供ではいられるハズもなし、幻想から覚めるにはいい頃合いだろう。
　それはともかく。
「有彦、これから昼食か？」
「おう。遠野はどうする？　学食と購買、どっちにするよ？」
「そうだな………」
　今日はともかくガツガツしたものが食べたい。
　ここは―――
　食堂で豪華な定食を頼もう。
　芸はないが、肉汁たっぷりのハンバーグ定食がいい。
　もちろん挽肉だけでは栄養が偏るので、単品で唐揚げもそえて牛と鳥のバランスもいい。
「食堂に行こう。今日は限界までいく」
「そうなん？　じゃあ俺も付き合うわ。カレー食べてれば先輩に会えるかもしれないしな！」
　ん？　と引っかかるものがあったが食欲には勝てない。
　俺は絶好のチャンスを棒に振って、男友達と仲良くランチに行くのだった。
　購買で揚げパンを買おう。
　今日のコンディションなら４ついけるはずだ。
「今日は購買で済ませる。有彦も何かあるならついでに買ってくるけど？」
「なに、カレーパン？」
「そう、カレーパン」
「じゃあ俺も二つ。卵入りと明太子入りのヤツ」
　了解、と席を立つ。
　しかし卵入りはともかく明太子とは。
　先輩が聞いたら、
『なんたる不純
！
　これはもう成敗する他ありませんね！』
　とお怒りになるの
ではないだろうか。
　あーん、と口を開けながら。
「む」
　閃光のように思いだした。
　俺には栄光の報酬があったのである。……多少無茶振りかつ事後承諾っぽいけど、とにかく約束は約束だ。
　どんな理由であれ、先輩に会えるなら少しでも早く会いに行きたい。
「わるい有彦、先約を思い出した。
　そっちは食堂でパスタでも食べていてくれ」
「パスタ？　パスタなんで？」
　この際、放課後に茶道室、という約束は都合よく失念する。
　善は急げ。時間が経っては無効扱いになる危険性もある。先輩にお弁当をもらうのなら今日こそが最適だ。
　購買部によって茶道室の前にやってきた。
　茶道室の扉をノックする。
中からごそごそと物音がして、人の気配らしきものがやってきた。
「はい、茶道部ですが、どなたでしょうか？」
　扉越しに先輩の声が聞こえてくる。
「遠野です。先輩、お昼ごはん一緒に食べましょう」
　あくまで自然に、かつ強気で切り出してみた。
　……返事はない。
　扉越しではあるが、先輩からの無言の圧力を感じる……。
「先輩、お昼ごはんだってば」
「放課後と言ったはずです。今日は遠野くんとは食べません」
　……やはりそこが問題か。
　先輩は“放課後に話を”と言ったのに、それを無視してやってきた俺に怒っているのだ。
　それはともかく。
「カレーパン、あるよ」
「遠野くん、わたしが食べ物につられる人間だって思ってるんですかっ！？」
　扉ごしに先輩が怒鳴る。
「……む」
　しまった。反応はいまいちどころか逆効果だ。
　……まいったな。このまま強引に入ったらますます怒られそうだし、やはり放課後まで先輩と話はできないのか……。
「まあ、それはそれでもらっておきますが」
「！？」
　ガラリ、とスムーズに扉を開けてシエル先輩が現れた。
「考えてみたら遠野くんに八つ当たりをする謂れはありませんでした。そもそも、せっかく来ていただいたお客さんを追い返すのは、失礼です」
　何が八つ当たりなのかは不明だけど、とにかく俺の行動は許されたらしい。
「えっと……つまり、お昼を一緒に食べていい？」
「……ええ。まあ。そうとってもらってかまいません。そんなに和室が好きなんでしたら、どうぞ中に入ってください」
　先輩は茶道室の中に戻っていく。
　その後に続いて、こっちも茶道室に入っていった。
　先輩の手にはランチセットがひとつ。
　お手製ではなく、購買部で売っているクラブハウスサンドのセットである。
「あれ。
先輩、お昼はそれだけ？」
「はい。今日はちょっと手持ちが少なくて、いちばん安くて量の多いものを。……昨日、予想外の出費があったもので」
　先輩は両手を合わせて指をモジモジと動かしている。
　指が痒いのだろうか。あいかわらず傷一つない、キレイな指をしているけど。
「それより遠野くん。事前に断っておきますが、吸血鬼の話は放課後になってからです。今はランチタイムですから、その事をきちんと弁えるように」
「わかってます。たんに先輩とお昼が食べたかっただけですから、真面目な話はまた後で、ですね」
　畳に腰を下ろしてランチセットを広げる。
　色々な疑問はあるが、今はまるっと忘れてしまおう。
　先輩と何でもない昼休みを過ごせるなら、そっちの方が俺は嬉しい。
「おや。遠野くんも同じセットですね」
「今日は他にカレーパンも付けましたよ。でも本当は違うものを期待していたんです。たとえば、
お手製のお弁当とか」
「そ、そうですか。お手製の。遠野くんのお家ならそれぐらい作ってもらえるんじゃないですか？」
「そうですね。めちゃくちゃ料理の美味しい家政婦さんがいてくれますから、お願いすれば用意してもらえるとは思います。
　でも大事なのは味ではなくてですね。がんばったご褒美にもらえる、真心的なものがほしかったんです」
　ちらりと先輩を見る。
　ピンとくるものがあったのか、シエル先輩は気まずそうに視線を泳がせていた。
「それは、その……遠野くんの一方的な要求にすぎないと言うか、強制力はあまりないと言うか、別に、実行できなくても問題にはならないと言うか……」
「ひどい。どうでもいい問題なので忘れていたワケですか」
「い、いえ、忘れていたワケではなく！　むしろ制作にもう少し時間が必要で、昨日一日ぐらいじゃカンとか全然戻らなくて、大事なのは味じゃないと言いますけどやっぱり一番大事なのは美味しいコトだと思うんです！」
「――――――」
　シエル先輩とは思えない必死さに圧倒される。
　けど待て、冷静になれ俺。もう少し時間が必要、美味しくないと出せない、というコトはつまりダメもとでお願いした夢と希望レベルの話だったけど、
「先輩、ホントに俺のお弁当を作ってくれたんですか!?」
「…………はい。作れません、でしたけど」
「期待に応えられなくて申し訳ありません……お弁当はもう少しお時間をいただくとして、何か他にお返しできるものがあればいいんですけど……」
　万能系の先輩にも弱点はあったようだ。
　そういえば先輩の昼食はたいてい食堂か購買部だったっけ。
「…………」
　しかし、他にお返し、か。
　俺としては、あんな無茶な約束をしっかり覚えていてくれただけで充分なんだけど……。
　しゅん、と肩をすぼめて落ちこむ先輩。
　その弱々しさが新鮮で、
「残念です。となると、体で返してもらうしかないですね」
　妙なスイッチが入ってしまった。
「……？　はあ、労働力で、ですか。わりと現実的なんですね遠野くん。
でも良かった、それならなんとかなりそうです。
　えっと、明日の放課後、２時間ぐらいならどんなアルバイトでも代わって、」
　なんて健全な思考なんだこの人。いや、逆にどれだけ遊びのない価値観なのか。それはともかく。
「そうじゃなくて。
もっと直接的な、スキンシップの話です」
　ずい、と正座を崩して先輩ににじり寄る。
「ちょっ、遠野くん!?　何を!?」
「何って、近くに寄らないと先輩に<触|さわ>れないでしょ。そうだ、肩まわりが見たいので上着を脱がせちゃいますね」
「そ、それは聖職者として許可できません！　っていうか肩まわりって!?」
「じゃあ眼鏡、取らせてください」
「なぜ!?　爽やかに気が狂ってます!?」
「なぜって、男はみんなそうですけど。女の子の装飾品を剥がすのとか大好きだし。うん、ゆで卵を剥く感じというか、それが末端であるほど興奮しますよね先輩」
「なんか堂々と屈折した紳士でした！」
　先輩の眼鏡に指を伸ばす。
　先輩はズザザっと後退しながら、
「と、取り替えっこなら！　そちらの眼鏡と交換ならいいです！」
　照れ隠しに、意外な条件を突きつけてきた。
「―――むむ」
　あと少しというところで指が止まる。
　なぜかシエル先輩の眼鏡を付けたり外したりしたくて仕方がなかったけど、その言葉で正気に戻った。スイッチ的な衝動で助かった。
「……すみません、どうかしてました。
　先輩があまりに可憐な反応をするもので、つい」
　反省します、と頭を下げて、しずしず元の位置に戻る。
「か、可憐ですか。よく分かりませんけど、正気に戻ってくれたのは助かります」
「……あの、眼鏡はいいんですか……？」
「残念だけどまたの機会に。眼鏡を人前で取るのは俺も苦手でした。自分にできない事を人にお願いするのは、ちょっと虫が良すぎましたね」
「……はあ。わたしはそこまで気にしてませんけど……突然だったから驚いただけで。
　遠野くんはそんなに目が悪いんですか？」
「視力は平均的です。この眼鏡だって度は入ってないし。
　外さないのはただの願掛けです。子供の頃にお世話になった人との約束というか。……まあ、それも」
　ここ数日の出来事で破ってしまったけど。
「ワケありという事ですね。それに関しては追究しませんが……先ほどの直接的なお返しというのは、その」
　先輩は上目遣いで恐る恐る俺の顔を窺った。
　……本当にどうかしていた。いくら先輩が強いからって、していい冗談と悪い冗談があったのだ。
「……すみません、改めて反省させてください。
　さっきのは健全な男子高校生の素直な気持ちというか、とにかく、弁当の代わりに要求するようなコトではありませんでした。今後はなんとか抑えますので、今回ばかりはお目こぼしの程をいただきたく……」
　平に平に、と畳に額をつけて謝罪する。
「そ、そうなんですか。わたしも年頃の男の子の生態は耳にしていますので、
遠野くんが基本ケダモノだったコトとか、何を言っているのかは理解できるのですが……」
「すみません、生態とか言われるのはきついです、先輩」
「で、ですよね！
　……とにかく、一時の気の迷いなのは分かりましたけど……あの、なんでそんな事を？　よ、欲情するのならノエル先生にだと思うんですけど……」
「なに言ってるんですか。
　そんなの先輩の体が魅力的だからに決まってます」
　……なんですかその反応……この人、自分がどんだけ危険な体をしているのかぜんぜん理解してないと見た。
「あのですね。いま話題にするのはルール違反だけど、我慢できないから話しますよ。
　シエル先輩はとんでもなく魅力的で、ヴローヴと戦ってる時の先輩はメチャクチャ格好良かったです」
「か、格好いい、ですか」
「はい。地下の広場の時点で頼もしさは最高潮でしたけど、鎧に身を包んでからの先輩の格好良さは別次元でした。
　あんな吹雪の中で一歩も引かなかった姿は完成されたアスリートみたいで、俺は外から見ている事しかできなかったけど、勇ましすぎて目が離せなかった」
「華奢な手足であんな重そうな銃器とかバカでかい剣を振り回すのも嘘みたいだったし、なにより鎧が剥がれてからの先輩は、こう、無防備すぎて脳にガツンときたというか。
　こんな反則級に凄い女の子がいるなんて、
こうして思い返しても信じられないぐらいです」
　たかぶる気持ちを抑えて感想を洩らす。
　あの極寒での戦いを思い返すだけで体温があがる。誇張ではなく本当に胸が痛くなる。
　……それが何に起因するものなのか、いまいち言葉にできないのが悔しい。
　この胸の痛みが何なのかを口にできるのなら、もっと素直に先輩に気持ちを伝えられるのだが。
「……えー、とにかく以上です。
　それぐらい先輩は魅力的だってコトを自覚してください」
「……はあ。にわかには信じられませんが、遠野くんが言うなら一割ぐらいは。
　でも、後半は褒め言葉じゃなかったような……」
「褒め言葉です。的確な表現が思い当たらなかっただけで、先輩はとことんモンスター級でした。もう夢にでるくらいに。
　先輩、自分のこと分からないんですか？」
「……そうですね。ちょっと自信はありません。
　わたし、あんまり自分に関心はありませんから」
　謝るような声で、先輩はそんな事を口にした。
「すみません。きっと、自分の事なんて好きじゃないんです、わたし」
「……先輩？」
「でもありがとうございます。
　誰かに褒められるのって、こんなに嬉しくて、こんなに照れくさいコトだったんですね」
　先輩は嬉しそうに微笑んだあと、視線を落として黙りこんだ。
　……なんとなく俺も会話を止めてしまう。
　そうして数分ばかりの沈黙が続いたあと、先輩はキッと俺を見つめてきた。
「話は変わりますが、遠野くん」
「は、はい！」
　打って変わった緊張感に姿勢を正して見つめ返す。
　先輩が深刻な話をしてくるのは火を見るより明らかだった。
「あの……予定を早めて、吸血鬼の話、ですか？」
「いえ。カレーパン、ください」
「話、変わりすぎだよ先輩っ！　だいたい、食べ物にはつられないって言ってたじゃないか！」
「それとこれとは別問題ですっ。遠野くん、自分が言った事をいまさら反古にする気なんですか!?」
「――――――」
　……俺は先輩の嗜好品への情熱を甘く見ていたようだ。
　そして先輩にとって“カレーパンあるならＯＫ”は大真面目な取引だったらしい。
「……はいはい。もとからその予定だったし、どうぞお納めください、将軍さま」
　ずい、とカレーパンを渡す。
　先輩は
わーい、と喜んでカレーパンを受け取った。
　……子供なんだろうか、このひとは。
「それでは遠野くんには食後のお茶をお約束しましょう。
　ご安心を、空気を読んで緑茶ではなく紅茶にして、オマケにお茶菓子もつけちゃいます！」
　……まあ、先輩が嬉しそうなら文句はないワケだけど。
　カレーパン一つでこの笑顔を見られるのなら、それこそ安い買い物だった。
　昼休みが終わる。
　結局、込み入った話はできなかった。
『詳しい話をしたいのなら放課後に！』というシエル先輩の主張は崩れなかったからだ。
　先輩は茶道室の片付けをしてから教室に戻るという。
　名残惜しくはあるが、ここに残っていてもシエル先輩に迷惑をかけるだけだ。
　気を取り直して自分の教室に戻る事にした。
　―――というワケで、放課後になってしまった。
　シエル先輩とノエル先生。
　同じ時間指定で場所は二つ。
　もうあれこれ悩んでいる時間はない。
　俺は―――
　やはりシエル先輩の茶道室に行こう。
　ノエル先生はいまいち緊張感がないというか、話をはぐらかすところがある。
　なぜ彼女たちが街に残っているのか―――
　それをはっきりさせない事には安心して家に帰れない。
　茶道室ではシエル先輩だけが待っていた。
　当然の事だがノエル先生の姿はない。
「わたしの方に来るとはまったく予想外でした。
　遠野くん的には、ノエル先生の方が話しやすいんじゃないですか？」
　いつになく刺々しい先輩だった。
　今朝のノエル先生との会話……いや、さかのぼって瓦礫に埋まっていた時のコトを責められている気がする……。
「いや、それは誤解だ！　ノエル先生とは何もないし！」
「そ、そんなコトは訊いてないし気にしてませんけど。
　……そうですか。あれはノエル先生の、いつもの暴走片道切符なんですね。まあそんなコトはどうでもいいので早く座ってください。立っていられると落ち着かないです」
　先輩に促されて畳に正座する。
「……………」
「……………」
　話を聞きに来たというのに、沈黙が重い。
　先輩はノエル先生とのコトを不快に思っている……のではなく、何か違う事を考えているようだった。
「あの、先輩？　何か悩みごとですか？」
「悩みというか疑問です。
　……そうですね。座ってもぜんぜん落ち着かないのは疑問があるからです。いい機会なのではっきりさせましょう」
　シエル先輩はやや前屈みになって俺の顔を上目遣いに覗きこむ。
「自分から呼んでおいて今更ですけど。
　なぜノエル先生ではなく、わたしに構うんですか？」
「？　なぜって、先輩のことが好きだからですけど」
　ホント、なに今更な事を訊いてくるんだこの人は？
「そ―――それは、えっと……先輩として尊敬している、とか、そういう意味で、ですか？」
「それもありますけど、女の子として好きです。チャンスがあれば先輩と交際したいぐらい」
「チャ、チャンスがあれば、ですか。それは、はい、完全否定はしません、けど」
　先輩は大きく咳払いをすると、気まずそうに顔を逸らしてしまった。
「……コホン。すみません、余分な話でした。
　時間もありませんし、本題に入りましょう」
　シエル先輩は強引に話を切り上げた。
　その反応が可愛くてつい口元がゆるんでしまう。なんでもできるクセに自分のコトに関しては不器用なんだな、この人。
　……本音を言うともうちょっと踏み込みたかったけどここは自重する。こっちもただ好きなだけなのだ。これ以上迷惑はかけられない。
「いらっしゃい遠野くん。放課後までよく我慢できましたね」
　シエル先輩はいつも通りの笑顔で迎えてくれた。
「どうぞ座ってください。
　長い話になりそうですから、足を楽にしていいですよ」
　先輩に促されて畳に腰を下ろす。
　足を崩そうとも思ったが、先輩は正座だろうし、こっちも正座する事にした。
「事情を説明する前に、こちらも訊かなければいけない事があります。
　遠野くんがなぜあの地下墓地にいたのか。この数日、貴方に何があったのかを教えてください」
　先輩の声は穏やかではあるものの、有無を言わせぬ強制力があった。
　たしかに吸血鬼と関わる事になった経緯を、俺はまだ先輩に語っていない。今までそれどころではなかったからだ。
「それは―――」
　自分でも記憶を整理しながら、これまでの事を説明する。
　独り言に近い俺の話を先輩は黙って聞いてくれた。
　……偶然アルクェイドと知り合った
事。
　……この街に吸血鬼が潜んでいるという事。
　……ホテルでの惨劇と、
　　　俺を庇って傷ついたアルクェイドの事。
　……その後、アルクェイドの方針を無視してデパートに向かった事を。
「それであの
地下墓地に居合わせたんですね。
　はあ。それにしても、ひとりでやってくるなんて」
「……反省してます。いま思い返すとどうかしていました。どうしてあんなに意固地になったのか」
「それは、それだけ貴方が追い込まれていたという事です。
　……それで、
その後は？」
「アルクェイドのところに戻って、ヴローヴを一緒に倒してくれって提案したんですけど……」
　いやだ、意味がない、とにべもなく断られたのだ。
　……むむ。あの時のあいつの冷血ぶりを思い返すと、なんかイラッとしてきたぞ……。
「なるほど、断られたんですね。吸血鬼らしい考えです。
　それで貴方はひとりで、わたしがあれだけ注意したのにもかかわらずあの場所に現れたワケですか」
「重ねてすみません……でもあれは先輩の忠告を無視したんじゃなくて……」
「わたしが怒っているのは貴方のコトじゃないですよ。真祖の対応が予想通りだったので呆れただけです。
　まあ、遠野くんの無鉄砲ぶりには言いたいコトが山ほどありますので、それはいずれ追及させていただきますが」
「そ、そうですか。お手柔らかにお願いします」
「その後はわたしが見た通りですね。
　貴方はひとりで死徒ヴローヴを倒そうと現れ、わたしたちに協力してくれた。度を越した蛮勇ですが、人間としてなすべき道を選んだのですね」
「え？　いえ、それはちょっと違うというか……」
「違う？」
　……むう、どう説明したものか。
　アルクェイドは交換条件付きでヴローヴ退治を約束してくれた。
　あいつが運んでくれたからあの陥没現場まで行けたのであって、俺ひとりだったら警察のバリケードを通り抜けられなかっただろう。
　そのあと、シエル先輩を見るなりアイツがワガママ言い出したもんだから別行動になったけど、
　結果的にアイツは俺たち……いや、この街を守ってくれた。
「アルクェイドのヤツ、ちゃんと協力してくれたんです。
　ヴローヴを一緒に倒そうって約束通り」
「アルクェイドが、人間と約束……？」
　驚きに目を見張る先輩。
　その反応を見るに先輩もアルクェイドを知っているようだ。
「あの。先輩、アイツと面識があるんですか？
　……もしかして、何度もやりあった敵同士、とか……？」
「面識はありますが話し合った事はありません。
　<教|こ><会|ち><側|ら>にとっても有名人ですから、彼女は」
「………………」
　……わずかに空気が重くなる。
　先輩は“敵同士である”事は否定しなかった。
「話は分かりました。大部分、予想通りの経緯です。
　遠野くんは彼女と協力して、この街に根付いている吸血鬼を倒そうとしたんですね？」
「はい。メチャクチャな話で、なかばアイツに脅されたようなものだけど……こうして思い返しても、ああするしかなかったと思います」
「……信じられません。
　遠野くん、吸血鬼の言う事なんて本当に信じてるんですか？」
「な、なに言うんですか先輩。先輩だって同じじゃないですか。吸血鬼をやっつける、教会のエク―――」
　ぴっ、と先輩の指が、俺の唇に当てられた。
「わたしのことはいいです。それより問題なのは遠野くんの方でしょう？」
「？　問題って、俺に……？」
「……はあ。自覚、ないんですね」
　困ったように肩を落として、先輩は溜息をついた。
「アルクェイド・ブリュンスタッドは吸血鬼です。
　ヴローヴと種別は違いますが、彼女も人間社会に居るだけで危うい異物です。
　真祖にとって人間は畑を荒らす害虫と変わらない。
　今回は利害関係が一致したので協力したようですが、本来はヴローヴ以上の災害だと理解してください」
「……………」
　先輩の言葉に、俺は素直に頷けなかった。
　きっと先輩が正しい。アルクェイドが吸血鬼である事はどうしようもない事実だ。
　それでも俺は、アイツを悪く思う事が、どうしてもできなかった。
「まあ、遠野くんには言うまでもないと思いますが。
　彼女の非道さはもう充分に体験しているでしょうから」
「？　アイツの非道さって？」
「だって彼女に脅されていたんでしょう？　真祖と二人きりなんて、処刑台の上に放置されたようなものじゃないですか」
　同情します、とまで付け足すシエル先輩。
　……確かに、背中が寒くなるような状況は何度かあったけど……。
「……でも、それも終わった話です。ヴローヴを倒した以上、アイツとはもう関係がないんですから」
　……そうだ。もうアイツの無茶なワガママを耳にする機会は、永遠にやってはこない。
「……すみません。もう少し確認しておきますけど。
　遠野くん、彼女にどれくらいの事を聞いてるんですか？」
「どのくらいの事って……この街に人間を食い物にする吸血鬼がいて、それを追いかけて来たって事ぐらいだけど」
「つまり彼女本人の事も、彼女が追いかけている敵の事も聞かされていないんですね」
「そりゃあ、詳しくは聞いてないけど」
「……そういうことですか。まあ、賢明な判断ですね。彼女にしてもこれ以上関係者を増やす事は避けたいでしょうし」
「……これ以上って、もう巻きこまれた後なんですけど、俺」
　なので部外者扱いはやめてほしい。俺だって立派な当事者だ。
「いいじゃないですか。ヴローヴ退治はもう済んだ訳ですし。
　それより本題に入りましょう。
　わたしたちがまだ街に残っている理由―――それが知りたいんですよね、遠野くん？」
　そうだった。
　<吸血鬼|ヴローヴ>さえ倒せば先輩たちは街から去る。
　そう聞かされていたのに、どうしてまだ街に残っているのか。
「単純に後始末が残っているからですよ。
　遠野くんも聞いているでしょう？　死徒は人間の血を吸って、手足になる下僕を作ると」
「親基が消えてもⅢ階梯より上の死徒は独自に活動できます。彼等はこれからも生者に擬態して人間を襲うでしょう。ですので、親基を倒してもやる事は残っているんです。
　吸血鬼に汚染された都市を元通りにするには時間がかかるものなんですよ」
　……そうか。
　ヴローヴは死んでもその手下たちが全滅した訳じゃない。
　先輩は街に残った吸血鬼の残党を倒してまわっているのか。
「そういう事です。これは地道な仕事ですから、一日二日で終わる事ではありません。
　そもそも、わたしはここの学生ですし。仕事が終わっても、よっぽどの事がないかぎり街を離れませんよ」
「―――離れないって、本当に？」
「はい。離れる理由がないかぎりは。
まあ、卒業式がきちゃったらさすがに出て行かざるをえませんが」
「…………！」
　胸に湧き上がる喜びに全身が熱くなる。
　先輩が学校に残ってくれる―――それだけで他の説明なんかどうでもよくなった。
　吸血鬼の事は無視できない問題だが、今はそれより、この先もずっと先輩と会える事が嬉しくてたまらない。
「けど仕事はちょっと山積みです。
　あの地下墓地について調べないといけませんし。もうなくなってしまいましたが、いくらなんでもアレは大規模すぎです。一年や二年で作れるものではありません」
　やれやれ、と肩をすくめる先輩。
　確かにあの地下の広さは現実的ではなかった。
　俺たちの街の地下にあんなものがあったなんて、今でも信じられないぐらいだ。
　それにあの広場。
　あれは一体、何の為の施設だったのだろう……？
「と。そういえば先輩、なんであの広場で眠ってたんですか？　もしかして油断して捕まってたとか？」
「油断なんてしてませんっ！　あれは演技です！
　あの寝台は特別な生け贄を送るものだったんです。
　だからわざと捕まって、親基がやってくる夜まで眠ったフリをしていたのに……」
「……あ……俺が邪魔しちゃった……んですね……」
　すみません、と小さくなって反省する。
「まったくです。ほんとに驚いたんですからね。
　お願いですから二度とあんな真似はしないように。助けられそうな他人より、助からなくてはいけない自分の命を考えてください。いいですね遠野くん」
　もっともなお叱りに、はい、とうなだれて返答する。
　本当、あの時の俺はどうかしていた。
　そりゃあ普段から血の気は少ない方だけど、極限状態に陥るとよけい脳に血が巡らなくなるのかもしれない。
「でも、ひどい話ですよね。
　なんだって遠野くんに死徒の寝床なんて教えたんでしょうか、彼女は。いえ、それだけじゃなくヴローヴと直接戦わせるなんて、遠野くんを殺す気だったとしか思えません」
「はい？」
　おかしな発言に顔をあげると、先輩はあさっての方角を見ながらプリプリと怒っていた。……さっきまでのクールさはどこにいったのか。
「わたしと遠野くんで倒せたから良かったものの、祖を殺せる程の概念武装があるんだったら自分で戦えっていうんです。
　結果、遠野くんをあんな危険な目に遭わせるなんて、あの場で彼女をこらしめようと思ったぐらい、あたまにきました」
「だいたい遠野くんも遠野くんです。いくら吸血鬼を倒せる武器を貰ったからって、生身で戦うなんてなに考えてるんですか？　もしかして彼女に弱みでも握られていたんですか？」
「あ、いえ……そんなコトは、ないんですけど……」
　……ますます立場がない。アイツを殺した責任から、なんて言える空気じゃないし、あの殺人を先輩に告白するだけの勇気がなかったのだ。
「そこ、聞いてますか遠野くん
！
　こんな時もぽやっとしてないでください！」
「は、はい、聞いてますとも！
　そ、それより先輩、吸血鬼を倒せる武器って、なに？」
　風向きが良くないので咄嗟に話を逸らす。
「なにって、遠野くんが持っていたナイフですけど」
　おお。苦し紛れの質問で起死回生できたらしい。
「俺のナイフが、吸血鬼を倒せる武器なんですか？」
「そうですけど……
そっか、彼女が教える筈がありませんよね。自分にとっても不利な事なんですから」
「えっとですね、吸血種は傷を受けても自動的に復元される生き物なんです。復元の強弱はあれ、これは吸血鬼……死徒たちが持つ種族的特性なので例外はありません。
　ですので、ありきたりの外的要因……通常の凶器では吸血鬼を殺しきれません。重火器ならともかく、遠野くんが使っていたナイフではとてもとても。そのナイフに、何か特別な力でもないかぎりは」
「……特別な力、ですか」
「はい。吸血種を滅ぼすには彼等の復元速度を上回る攻撃か、復元そのものを無効にする要素が必要となります。
　復元呪詛―――傷を治療する、ではなく破損した個所を元通りにしようとする時間の逆行。この呪詛を無効にする神秘を<概|がい><念|ねん><武装|ぶそう>と言うんです」
「概念……何かの決まり事を武器にするって事ですか？」
「はい。その通りです、よくできました。
　遠野くんたち風に言うと魔法の武器ですね」
「『元が人間の吸血鬼』には他により効果的な手段があるので使いませんが、『初めから人間ではない吸血種』を処理する時に使用する、言うなれば奥の手です。
　遠野くんのナイフもその一つだと思います。大方、あの真祖が持ち出した対死徒用の武器なんでしょう？」
「い、いえ、あれは自前のナイフというか……親父の形見、みたいなものでして」
「ほう。これはわたしの勘違いでしたか。
　遠野くんのお家、遠野家の家宝という事ですね？　歴史のある家には魔除けの品が伝わっています。日本の古い家系はそれこそ古代から続いてますから……
あれ？
　……でもヘンですね。遠野にあるとしたら魔を強めるものであって、退魔の祭具ではないような？」
　先輩の独り言は続く。
　どうも俺の眼の事はまったく知らないようだ。
　……ここで死の線について話してもこじれるだけだし、今は黙っておこう。それよりも……
「先輩、<遠|う><野|ち>のコト、知ってるんですか？」
「ええ、まあ。遠野家が古いお家である事ぐらいは。
　わたし、これでも教会の人間ですから、それぐらいの事前調査はこなしています」
「案外多いんですよ、それが特別な力を持つ道具だと知らないで保管しているお金持ちって。形見なんでしょう、お父様の？　なら、それぐらいの逸品だったって事ですよ」
　そうか、と話を合わせる。
。
　……でも、本当にそうだったらいいとも思う。
　受け取った時は随分な形見分けだと思ったけど、あれが何かしら特別なものだったのなら、あの父親とも何らかの繋がりがあったのだと思えるからだ。
「……コホン。ちょっと話がズレましたね。
　わたしの説明は以上です。遠野くんの方はどうですか？　あれから体に異常はありませんか？」
「俺ですか？　さすがにまだ全身筋肉痛ですけど、悪いところはありません。
　……けど、ヴローヴにやられた肩の傷はちょっとヘンかな。あんなに深い傷だったのに、なんかもう塞がってるし」
「あ、それはわたしです。ごめんなさい、勝手に治療してしまって……あの、ご迷惑でしたか？」
「まさか！　ぜんぜん嬉しいです、次もお願いしますっ！」
「は、はい。次なんてないだろうけど、そう言ってもらえると助かります」
　……助かっているのは俺の方だ。
　先輩は俺の傷を治してくれたばかりか、その後の事まで心配してくれた。
　その先輩が“次はない”と口にした事で、俺もようやく感じ取った。
　吸血鬼は消え、先輩はここに残った。
　俺と吸血鬼との関係は無くなったんだと。
「話は終わりましたね。
　後のことはわたしたちに任せて、遠野くんは普通の学園生活に戻ってください」
「はい。……あれは悪い夢だったと思っておきます。先輩がいてくれる事が分かっただけでホッとしたし。
　あ、でも―――」
“すべてが終われば記憶を消す”
　あれは、もしかして今の状況ではないのだろうか……？
「先輩、あの」
「はい。なんですか、遠野くん？」
「先輩たちは吸血鬼の秘密を守るんですよね。……じゃあ、やっぱり、この後俺の記憶を消すんですか……？」
「おや。消してほしいんですか、遠野くんは？」
「ワケないじゃないですかっ！
　お願いします、消さないでくださいっ！」
　このまま先輩を忘れるのはイヤだ。
　代わりに何をしてもいい。まずは誠心誠意お願いして見逃してもらえないか、と両手を畳につける。
　……と。
「消しませんよ。というか、消せません。一日消したぐらいじゃもうどうしようもないですし。
　遠野くんが信頼できる人なのは、ここでの会話だけで充分に伝わりました。リスクのある記憶消去は行いません」
「それに、お願いするのはわたしの方です。
　どうかヴローヴの事は口外しないで、わたしとノエル先生の事も見逃してください。
　それと……これが一番大事なコトですが、もう絶対に、危ない事はしないでくださいね」
　先輩は俺に頭を下げる。
　俺がいましようとした懇願なんかより、心のこもった一礼だった。
「……それは、もう吸血鬼とは関わるなってコト、ですか？」
「はい。だって遠野くん、怖いのイヤなんでしょう？」
「それはそうですけど……でも、もし……」
　吸血鬼の残党が誰かを襲う場面に出くわしたら、俺は逃げ出す事だけはできないと思う。
「……いえ、努力します。自分からは関わりません」
　結構です、と笑って先輩は立ち上がった。
　話はこれでおしまい、という事だろう。
　先輩は俺を悪夢から解放するように、和室の襖をあけて外に出るように促した。
「……うん。それじゃまた明日、先輩」
「はい、また明日、学校で。
　安心してください。遠野くんの平和は私がきっちり守りますから」
　えっへん、と胸を張るシエル先輩。
　……その笑顔を見て再確認した。
　俺はシエル先輩が好きだけど、それ以上に、この人の笑顔を見られる事が嬉しくて仕方がないらしい。
　まだまだ訊きたい事、知りたい事はあったけど、今はそれが分かっただけで充分だ。
　太陽は沈みかけている。
　失ったものは何もない。
　先輩を思い続けた一日は、俺が見たかった彼女の笑顔で終わってくれた。
「……あの。ところで、もし俺が先輩の秘密を誰かに話したらどうなるんでしょう？」
「それはもちろん、遠野くんが想像した通りの事をするだけです。痛いのが、もっと嫌いになっちゃうような」
　先輩は笑顔で恐ろしい返答をする。
　―――よし。先輩が代行者である事は、誰であろうと喋らないよう心がけよう。
　校舎裏に行こう。
　シエル先輩だと今朝のようにはぐらかされそうだし、ノエル先生は『説明役はわたし』と言っていた。
　なら、彼女の方が聞きたい事もすんなり教えてくれるかもしれない。
　偽教師であるコトは発覚したけど、そもそも聖職者であり、なにより大人である。
　責任を持って、迷える子羊を導いてくれるはずだ。
「って、誰もいないし」
　そもそも校舎裏というのがよくない。
　そりゃあ人目はないけど、いつ他の生徒がやってくるか分からない場所だ。
　もしかしてからかわれた？
　そうだよな、こんなところで吸血鬼の話なんか
「だーれだ♥」
　後ろから目隠しをされた。
「もーう、ぜんぜん危機感なくなーい？
　あんなのとやりあった後なのに、フツーここまで隙だらけになれるー？
　志貴クンはぁ、どこまで牧歌的な羊さんなのかなー？」
　めっちゃ耳元で囁かれている。
　こういう奇襲を受けるのならいくらでも牧場に住もう、と思わなくもなくもない。
「……すみませんノエル先生。これ以上は、ちょっと」
　理性的に耐えられそうにないので、なんとか真面目になってくれないでしょうか、と背中で申請してみる。
「おっけー、
耳まで真っ赤なコトで許しちゃう♥
　今日は真面目なお話、だものね！」
　後ろからの目隠しは解除された。
　こちらの背中に密着していたノエル先生は、悪びれた様子もなく、くるり、と俺の正面に現れた。
「時間通りね。もし来るとしたら、もっと遅れてくるかと思ってたのに」
「こんなところで待たせられませんよ。
　それより、なぜ今のような奇襲を？」
「ふふーん、青春っぽかったでしょ？
　こういうの、一度やってみたかったのサ☆」
「……なら誰でもよかった、というコトですね。まあ、役得でしたけど」
「やってみたい、とやっちゃう、は違うわよ志貴クン。
　理由がないと飛べないのがオトナってね。
　あの後シエルさんに聞いたけど、彼女にも誘われていたんでしょう？　その上で先生を選んでくれたコトへのお礼、だったんだけどなー」
「――――――」
　ノエル先生もこの強制二択を知っていたようだ。
　……そっか。
　それでお礼として後ろからむぎゅ～～っと……
いや教師としてどうなんだそれはありがとうございます。
「っていうか、聞いてよ志貴クン、酷いのよシエルさん！
　ヴローヴとの戦い、わたし、勇気ある撤退したじゃない？　それを根に持ってのけ者にしようとしてるの！
“もう先生はしなくていいです。私が二人分、働きますから”
って、今日のシフトまでバツいれちゃって～（涙）
　先生から先生をとりあげようっていうの！？　
こんな楽な役職、他の<代行者|ヤツ>に譲ってたまるかーー！」
「………………」
　いや、ありがとうの必要ないなコレ。
　さっきのは役得ではない。これはただの、一升瓶を持ってクダを巻くＯＬさんだった。
「ノエル先生。真面目な話をしに来たんですが。
　今からでも茶道室に行っちゃいますよ」
「げ。そしてこのクールな対応。
　ハイハイ、いつもの知的なノエル先生に戻りますよーだ」
　本気で拗ねるノエル先生。
　察するにグチを言える相手がいないのだろう。日々ストレスがたまっているようだ。
「じゃ、事情聴取といきますか。
　あの日、どうしてキミはデパートの地下にいたのか……は別にいっか、たいした疑問じゃないし。
　キミが吸血鬼の仲間だった訳でもないし。わたしを助けようと一生懸命になってくれたしね♥」
「それより、シエルさんにあれだけ脅されたのに現場に戻ってきた理由のが大事よね。
　どうして戻ってきたの？　シエルさんにいいとこ見せたかったとか？」
「……違います。あれは―――」
　ただ、自分だけ逃げる事はできなかったからだ。
　俺はアルクェイドと知り合った事、
　そしてアイツと協力してヴローヴを倒しにいった事を説明した。
「街が凍らなかったのは真祖が守ったからなんて……
　信じたくないけど、事実は事実、か。
　実際、わたしも生きてるワケだし」
「はい。アイツ、シエル先輩を見た途端にへそを曲げたけど、この街を守る、という点では、全力で手を貸してくれたんです」
「………………ま、いいわ。
　真祖が人間に手を貸す事例も、なくはないっていうし」
「それで、志貴クンはどうして協力したの？
　吸血鬼を殺す吸血鬼であろうと化け物は化け物でしょ？
　手を貸すとか、一緒に戦うとか、そもそも信頼するとか、人間としてありえないわよね？」
「もしかして―――真祖に気に入られれば不老不死にしてもらえるとか思っちゃったクチ？」
「―――
あ、そっか」
　そんな考えもあるのか、と感心した。
　吸血鬼は吸血鬼を作り出せる、とアルクェイドに説明されていたんだ。アイツも吸血鬼なんだから、そういう可能性を考慮する方が自然だったかもしれない。
　でも、あの時はそんな考え微塵も浮かばなかったし、
　これからも、浮かぶ事はないだろう。
「いや、そういう夢みたいな話はちょっと。
　それよりヴローヴの方
が<大事|おおごと>だったし。
　……だって、見殺しにはできないでしょ。
　そりゃそこまで好きなワケじゃないですけど、自分の住んでる街ですから」
　街のみんなを守る、なんて大きな目的ではなく。
　この街と、俺の知っている人たちの手前、逃げる事ができなかっただけだ。
「ノエル先生？」
「ゴメン、ちょっと待って。ちょっと待ってね？
　笑ってない。笑ってないから。
　ちょっとおかしくなっただけだから」
　ノエル先生はこちらに背を向けて顔を隠している。
　でも声だけで何を思っているかは明白だ。
　頭隠して尻隠さず、ということわざを教えてやりたい。
「ごめん、やっぱ無理、我慢できなーい！
　自分の住んでる街だから、って、もう、なんなのそれー！　信じられなーい！　かっわいーー！
　志貴クン、どこまでお人好しなのーー！」
「……すみません。さすがに恥ずかしいので、いい加減笑い止んでもらえます？」
「おっと、恥ずかしいとは思ってるのね！
　でも大丈夫、立ち直って！　もっと赤面して！
　一方、わたしはこれを肴に、今夜はパーティーとしゃれこむのでしたー！」
　この疲れたＯＬ、お持ち帰りで楽しむ気だった。
「あのですね、こっちは本気で、」
「―――うん。わたしも、ちょっと本気になったかも」
　それは突然の衝撃だった。
　ノエル先生は俺に駆け寄ると、そのまま<攫|さら>うように、駐輪場の壁に押しつけた。
「ノエ―――」
「……静かに。ほら、分かるでしょう？」
　彼女は俺の口を手で塞ぎながら、耳元で囁いた。
　……複数の足音がする。
　自転車で下校する生徒たちだった。
「…………」
　ここは死角になっているのだろう。
　俺たちがいる事は気づかれていない。
　生徒たちは各々の自転車を取り出し、談話しながら正門へと移動していった。
「……ノエル先生、あの」
　もう隠れる必要はないので離れませんか、と言いたいんだけど、声がうわずって言葉にならなかった。
　だって体温も、鼓動も近い。
　あの時、地下で生き埋めになった時、密着していた感触を否応なく思い出してしまう。
「……ふふ。吸血鬼は怖くないのに、こっちの方は怖いんだ。裕福そうで、優しそうで、お人好しで―――それでいて、人でなし。
　今まではお仕事だったけど……志貴クンのこと、本格的にリストに入れちゃおっかな」
　この上なく甘いトーン。
　蕩けるような囁きなのに、何かが薄ら寒い。
「……リストに入れるって、なんですか、それ」
「予定表。わたしね、子供の頃からリストを作るのが趣味なの。
やりたい事、やらない事、欲しいモノ、要らないモノ。そういうものを順序立ててメモっていくの」
「授業中にイラッときたからお仕置きするリスト、
　親切にしてもらったから恩返しするリスト、
　いやらしい教頭先生にブチかます社会的制裁リスト、エトセトラエトセトラ」
「そうやってスケジュールを消化していくの、すっごく楽しいの。
　ストレス解消はぁ、溜めこんだ分だけ気持ちいいって分かるでしょう？」
「……それは、わかりましたけど。
　俺の場合、具体的には？」
「いじめたいリストの上の、おかしたいリスト♥
　アナタみたいに綺麗な子がグシャグシャに泣き崩れる瞬間とか、大好き。ああ、わたしは生きているって感じがして」
　首元にかかる熱い吐息。
　壁際に追い詰めた獲物を<舐|ねぶ>る、蛇のような。
「なーんて、冗談さ、冗談☆
　青少年をからかうのはここまで。わたしそこまでサドっ気ないし～、まだ犯罪者になりたくないですし～」
　壁から離れ、元の位置に戻るノエル先生。
　陽気に笑ってはいるが、どこまでが冗談でどこまでが本気だったのか、まるで分からない。
「でも、アナタが本気である事は分かったわ。
　……自分の街を守る、か。
　笑うしかないくらい、いい理由よね、それ」
　……と。
　一転して、ノエル先生は穏やかな声でそう言った。
「あの……いい理由、でしたか？」
「うん♥
　だからわたしも真剣に答えてあげる。
　わたしとシエルさんがまだ街に残っている理由が知りたいんでしょ？」
　ようやく本題に入れる。
　俺は姿勢を正して、ノエル先生の説明に耳を傾けた。
「確かにヴローヴは斃せたわ。でも吸血鬼退治はそれだけで終わりじゃないの。
　親基は死んでも、Ⅲ階梯より上の死徒は死にはしない。アイツらはアイツらで、親基に成り代わって街を食い物にしようとする。
　わたしとシエルさんはその処理の為に残っているの。
　後始末……ようは残業？　みたいな？
　こんなドブさらい、やりたくないんだけどね～」
　……そうか。
　ヴローヴは死んでも手下が全滅した訳じゃない。
　先生たちには街に残った吸血鬼を掃討する仕事が残っていたんだ。
「それはどのくらいかかるものなんですか？」
「んー、あの地下墓地の規模から見るに、下手すると半年くらいかかるかも。
　シエルさんが頑張らなければ、だけど。あの子、ワーカーホリックだからさ～。明日する仕事も今日やっちゃうタイプなのよね～」
「――――――」
　思わず、ぐっ、と拳を握ってしまった。
　吸血鬼への憤りではなく、個人的な歓びでだ。
　ノエル先生の話が本当なら、シエル先輩はしばらく学校に残ってくれる事になる。
　問題は山積みではあるけれど、その事実が俺の胸を弾ませていた。
「……あ。でも、これって秘密なんですよね。
　先輩はヴローヴを倒したら俺の記憶を消すって……」
「そんなこと言ってたの、あの子？
　……あー、できちゃうかぁ。でも、さすがにもう遅いかな？　一日や二日なら『思い出せない記憶』があってもごまかせるけど、もう四日でしょ？
　いま志貴クンから『吸血鬼に関する記憶』を消しちゃうと、それまでとこれからの食い違いで、余計に『何かあった』事が外部に知られるし」
「安心して、わたしがいるかぎり、シエルさんにそんな怖いコトはさせないから。
　志貴クンの理由は分かったし。アナタは、いたずらにわたしたちのコトを言いふらしたりしないでしょ？
　頭をいじるとか、そんなの必要ナイナイ☆」
　そう言って、ノエル先生は俺から距離を取った。
　話はこれで終わり、という事だろう。
「じゃあね。わたしとしては志貴クンが味方になってくれれば嬉しいけど、シエルさんは真面目だから。
　あの子に見つからないよう、できるだけおとなしく過ごしなさい」
「あ、でも個人的興味で相談に来るのは大歓迎♥
　だって先生だものね、わたし！」
　投げキッスをしてノエル先生は去って行った。
　どこまで本気だか分からないものの、あのテンションの高さは見習いたい。
　日が沈む。今日はもうおしまいだが、明日になっても、学校にはシエル先輩がいる。
　それが分かっただけで十分な密会だった。
　帰路に就く。
　もう学校に残る用事も、街に立ち寄る理由もない。
　今日こそは時間通り屋敷に帰って秋葉を安心させてやろう。
「あれ？　ただいま翡翠」
「お帰りなさいませ、志貴さま」
　玄関には翡翠の姿があった。
　偶然にしてはタイミングが良すぎる。
「もしかして、俺が帰ってくるのを待っていてくれたのか？」
「はい。主人の出迎えは使用人の務めですから」
　ごく当然のように、翡翠は眉ひとつ動かさず返答した。
「いや、出迎えてくれるのは嬉しいけど、わざわざ外で待ってなくていいよ。俺は勝手に帰ってくるから、気づいた時だけ声をかけてくれればいい」
「―――――」
　翡翠はわずかに表情を曇らせた。
　……もしかすると。
　金曜日も土曜日も、翡翠はこうしてずっと俺の帰りを待っていたのかもしれない。
「承りました。明日からはロビーで志貴さまのお帰りをお待ちいたします」
　ぺこりと頭を下げて翡翠は玄関の扉を開けた。
「……ごめん。ありがとう、翡翠」
　改めて、ここ数日の自分の行いを反省する。
　俺は彼女の気遣いに感謝しながら、日没前に屋敷の玄関に入った。
「お荷物をお預かり致します。志貴さまは居間でおくつろぎください」
「いや、このまま部屋に戻るよ。着替えてから居間に下りる。
　琥珀さんと秋葉は？」
「姉さんは厨房でご夕食の支度をしています。
　秋葉さまは先ほど連絡がありましたので、あと30分ほどでお帰りになられるかと」
「そっか。じゃあ30分後に。
　ずっと外で待っててくれたんだ、翡翠もちょっとは休んでいてくれ。これは主人としての命令だからな」
「では、お言葉に甘えて失礼します。後ほどお迎えにあがりますので、ごゆっくりお休みください」
　翡翠は一礼して西館に向かう廊下に去って行った。
　西館には翡翠の自室があるから、そこで一休みしてくれるのだろう。
「よし、こっちも一息入れてくるか」
　ロビーの大階段を上る。
　豪華なシャンデリアを横目に楽しみながら、西館二階の端にある自室に足を向けた。
「あ、お帰り～♪」
「な／に／ぃ／！？」
　朝のシエル先輩を凌駕するサプライズが、ベッドに腰掛けて足をブラブラさせていた。
「お、お、お……！」
「お、なに？　もう、志貴ったらそんなに驚いちゃって。
　わたしに会えたコトがそんなに嬉しい？」
「おまえ、なぁ……！」
　あまりに能天気な発言に知性が回復した。
　最速で扉を閉めて鍵をロック、鞄を放り出してベッドまで一直線に突進する。
「なんど俺を驚かせれば気が済むんだオマエは!?　だいたい日も沈みきってないのに出歩くなんて、
ってうわぁ!?」
「つっかまえたー♪　うん、やっぱりイメージより実物の方が何倍もドキドキするね！」
「ちょっ、放せって、ホントなに考えてんだおまえ!?」
　文句を言う暇すらなかった。
　アルクェイドのヤツ、俺が近寄った途端、腕を引っ張ってベッドに倒しやがった……！
「なにって、志貴のコトを考えてたよ？　だからここにいるんだけど、これっておかしい？　人間的じゃない？」
「いや、おかしいかって、そもそも、」
　俺のコトを考えていたって、それ自体が妙というか、
「そ、それより離れろ、人に見られたら言い訳のしようがないぞコレ!?　って背中に手を回すなっ！　近い、近いってば！」
　離れないばかりか、もう完全に正面から抱き合ってる！
　両手でアルクェイドを引き離してベッドから離れる。
「もう。乱暴なのは相変わらずね」
　ベッドの上の大猫は甘ったるい声をあげて、やれやれと立ち上がった。
「一日ぶり。元気だった志貴？」
　夢でも幻でもない。
　何ものにも侵されない、ただそこにあるだけで周囲を魅了する姿は、間違いなくアルクェイドだ。
「おまえな……」
　文句を言いたいのは山々だがうまく言葉にできない。
　自分でもどうかと思うけど、俺はコイツとまた会えた事がとんでもなく嬉しいらしい。
「い、いや、騙されないぞ、もう色々懲り懲りだ。
　何しに来たんだよアルクェイド。ヴローヴは倒したんだ、もう俺に用はないだろう？」
「うん。気分がいいから血を吸いに来ちゃった」
「な―――」
　血を吸いに来たって、なに言ってんだコイツ……!?
「なーんちゃって、冗談よ、冗談。
　ちょっと志貴の驚く顔が見たかっただけ」
　楽しげに笑って、
アルクェイドは部屋の中を興味深げに観察する。優雅に、まるでこの部屋の主人は自分だといわんばかりのモデル歩きで、である。
「待て。待ってくれ、ほんとに頭が追いつかない。本気で俺をからかいに来ただけなのか？」
　だとしたらこんな暇な吸血鬼がいるもんか。
「うん、半分は志貴目当て。
出歩いてたら志貴の匂いがしたから、用事を放り捨ててこっちに来ちゃった」
　……そりゃあ用事の方も災難だったろう。
　お姫様の気まぐれですっぽかされる立場に同情しないでもないが、それはともかく、
「……あのな。敵を倒したら帰るんじゃなかったのかよ。
　いや、そもそも今すぐ帰ってくれ。うちから。秋葉に見つかる前に」
「あら。あとの半分、真面目な方の話に興味はないの？
　敵を倒したら帰るはずのわたしがどうして残っているのか、おかしいと思わない？」
「……それは……」
　……そうだった。コイツは気まぐれで街に残るようなヤツじゃない。自由奔放に見えて合理性の塊なんだ。
　アルクェイドがいるという事は、まだ倒すべき吸血鬼がいる事を意味している。
「じゃあ、おまえもヴローヴの残党狩りを？」
「ええ、残った下級死徒の始末よ。ヴローヴとは関係のない話だけどね」
「ヴローヴとは関係がない……？」
　それはどういう、と続けようとした時、
「志貴さま。物音が聞こえたのですが、何かございましたか？」
　話し声を聞きつけたのか、翡翠がやってきてしまった。
「ままま、まずい、ヴローヴよりまずい！
　いいから今は帰ってくれ、誰にも見つからないで、あの夜みたいにぴょーんとひとっ飛びで！」
「なに、この家の人？
　いい機会だし、挨拶していこうかなー？」
「バカ、殺されるからなそれ！」
　おもに俺が。秋葉に。
「志貴さま……？
　失礼とは存じますが、ドアを開けてよろしいでしょうか？」
「よくない、ちょっと待って、いま着替え中……！
　……たのむ、とにかく帰ってくれアルクェイド……！　あとで埋め合わせするから！」
「なら今夜10時、南口の公園で待ち合わせ、してくれる？」
「する！　するから、早く！」
「交渉成立ね。ありがとう、待ってるわ志貴」
「え……」
　殊勝なお礼なんかを口にして、アルクェイドは窓際まで移動する。
「でも気をつけて。この屋敷、良くないわよ。水気が濁ってる」
　入って来た時も窓からだったのだろう。
　そんな忠告を残して、白い吸血鬼は美しい鳥のように飛び去っていった。
　夕食は滞りなく終わった。
　７時前に帰宅した秋葉はいつになく上機嫌で、食後に場所を変えてお茶を楽しむ事になった。
　アルクェイドとの約束まであと２時間。
　気持ちはアイツとの待ち合わせに飛んでいるが、ここで焦っても仕方がない。
　就寝時間になってからこっそり出かける事になるので、今は怪しまれないよう余裕を持って過ごさなければ。
「んー、ダージリンでしたら二番目より一番目の方が好まれると思いますよ？　味も香りも控えめで後に残りませんもの」
「そうね、兄さんにはファーストフラッシュの方が合っているかも。私はセカンドフラッシュの方が好みだけど、たまには兄さんに合わせましょうか」
「でも好みで選ぶのなら紅茶より日本茶の方がいいんじゃない？　日本茶好きは兄さんと琥珀で、私と翡翠が紅茶党かしら」
「いえいえ、翡翠ちゃんはお茶にはこだわりませんよ。
　神経質そうに見えますけど、こう見えてわりとず―――」
「姉さん」
「見た目通り好き嫌いのない鉄壁のメイドさんですから。
　ほら、お掃除とかお裁縫とか、できない事ってないんですよ、志貴さん」
　話に参加していなかったのに、琥珀さんは唐突に話を振ってきた。
「紅茶の話をしてたように思うけど、なんで翡翠の話に？」
「だって志貴さんは翡翠ちゃんと一緒ですから。翡翠ちゃんの神経質なところは知っているでしょう？」
「いや、それは―――
」
「……………………」
　横目で盗み見た翡翠はどことなく緊張しているように見えた。
「うーん、神経質とは違うような。きめ細かい仕事と神経質なのは別でしょ。俺がポカやってもすぐに片付けてくれるし、自分でも気付かない体調を指摘してくれるし。
　あと夜遅くに帰っても誰かさんみたいに怒らないし。そういうのはおとなしい、優しい、と表現すべきだよ」
「兄さん。門限も守れない学生は糾弾されて然るべきだと思うのですが、私は間違っているかしら？」
「もちろん正しい。けど、いくらなんでも８時っていうのは早すぎないか？　子供じゃないんだから、この際10時ぐらいに決めなおそう」
「却下です。兄さんにはそんな時間まで外にいる理由はないでしょう。習い事をしている訳でも、部活動をしている訳でもないんですから」
「む」
　そう言われると反論のしようがない。
　俺のような自由人が家に帰ってこないのなら、その理由は遊び以外の何ものでもないからだ。
「もっとも、門限を守ればいい、という話ではありませんけど。これまでの自堕落ぶりを反省して早く帰ってきてくれたのは喜ばしいですが、その後が気になります。夕食から心ここにあらずという様子ですが、何かあったのですか？
　例えば―――この後、何かご予定が入っているとか」
「――――――」
　思わず目が泳ぎそうになったが、すんでのところで持ちこたえた。
　秋葉のヤツ、なんて勘の良さか。そしてその<疑|ネ><惑|タ>をここぞというタイミングで切り出すとか、いつもの俺なら一刀両断に切られてボロをだしていたに違いない。
　しかし吸血鬼との戦い、今朝のシエル先輩との再会、とどめにアルクェイドの強襲を体験した俺に死角はない。
「この後は風呂に入るだけだけど、なんだ、先に入るのか？　それならそれでいいけど……って、そうか。この家、浴槽は二つあったな。秋葉は東館の方だったっけ」
「そうですが、何か」
「東館のは大浴場なんだってな。たまにはそっちを使ってみたいもんだ」
「そ、その時は翡翠に伝えてください。時間を調整して入れ替えますから」
　よし、完璧な切り返しだった。
　あまりの平然っぷりに、秋葉は気まずそうに視線を逸らしている。
「……と、そうだ。風呂で思い出したけど、この屋敷の水回りで、どこか調子の悪いところとかあるのかな」
　アルクェイドの“水が良くない”発言が気になって訊いてみる。
「水、ですか？　私は特に気にしていませんが……庭に通している川の事かしら……琥珀はどう？」
「わたしも今のところ気になる故障はありませんけど……ああ、もしかして地下の古い水路のことかもしれません。
　もう何年もメンテナンスされていませんし、強い雨の日は悪い水が溜まる可能性もありますね」
　……との事だ。
　アルクェイドが言っていたのはその水路の事だろうか……？
「そう。お父様は屋敷の造りに手を入れたがらなかったから、そういう事もあるのでしょうね。いい機会だし、今の案件が落ち着いたら業者を入れて様子を見ましょうか」
　水路の話は終わり、何でもない会話に戻る。
　結局お茶会は８時過ぎまで続いたが、俺が入浴する事でお開きになった。
「それでは、お休みなさいませ志貴さま」
「ああ。おやすみ、翡翠」
　電気を消してベッドに横になる。
　アルクェイドとの待ち合わせまであと１時間弱。
　南口の公園……繁華街とは駅をはさんで反対側にある、このあたりで一番大きな公園。
　遠野邸からあそこまでは徒歩で30分はかかる。
「……でも、本当に何の用なんだろう、アイツ」
　アルクェイドが街に残っている理由は先輩たちと同じものだろう。
　<吸血鬼|ヴローヴ>の残党を処理するまで吸血鬼退治は終わらない。
　しかし、それにしても……
「意外だな。先輩たちはともかく、アルクェイドがそこまでしてくれるなんて」
　アルクェイドは“敵”を倒す事しか興味はないようだった。
　その後に残った処理なんて無視しそうなものだけど、アイツは街に残っている。
　思惑はどうあれ、結果的にこの街を守ってくれている。
「……はあ。
　ずるいよな、それじゃ無視できないじゃないか……」
　アイツがどれほど物騒な生き物かはともかく、悪いヤツじゃないのは充分すぎるほど分かっている。
　たとえ吸血鬼であろうと、あんなに綺麗な顔で笑う女を、俺は今まで見たことがない。
　10時を前にして屋敷内の明かりが消えていく。
　そろそろ頃合いだ。万が一の場合にそなえてナイフをポケットに収めて部屋を後にした。
　公園に<人気|ひとけ>はない。
　南口はオフィス街なので公園を利用する近隣住人も、遊びの帰り道に寄りつく若者の姿もない。
　夜の10時となれば人影はほぼ見られない。
　そんな無人の公共施設に、ひとつ、
場違いな白い影が立っていた。
「あ、きたきた！　こんばんは、時間ピッタリだね志貴！」
「…………」
　そしてこの笑顔である。
　見惚れそうになる自分を律して、キッとアルクェイドを睨み付ける。
　部屋を強襲され、あやうく家人たちに目撃されるところだったのだ。ただでさえ低い遠野志貴の発言力がゼロになったらどうしてくれる。
「ね、聞いて聞いて。さっきまでそこのベンチに二人組の男女がいたんだけど、おかしな話をしていたの。なんでも誕生日が近いから何か欲しいものがないかって、」
「待った。その前に言っておく事がある。
　というか、俺は怒っている。おまえがきっちり反省するまで話はしないから、そのつもりで」
「怒ってるって、なんで？」
「……やっぱりな。分かってないと思った。
　まあそこはいいよ、おまえに一般常識なんて求めてないから。どうせ吸血鬼のする事だと諦める。でも付き合わされるこっちはたまらないんで厳重注意だけはしておきます」
　猛獣のしつけ的な意味で。
「む。その言い方、なんかイヤ。
　わたし、貴方を困らせるような事はしてないんだけど」
「人の部屋に忍びこんでおいてそれか。
　人間の世界じゃ無断で遊びにくる事も、二階の部屋に窓からやってくる事も、そもそも家の敷地に入る事も犯罪なの。
　……まったく。見つからなかったから良かったものの、もし誰かに見られていたらどうするつもりだったんだよ。まさか力ずくで解決とかしないよな？」
「なによ、失礼ね。そんな野蛮なコトしませーん。
　だいいち人間に見つかるようなヘマはしないわ。監視カメラだって壊しておいたし、もし誰かに<出会|でくわ>しても意識を飛ばすだけだし」
「カメラ壊しただぁ!?　さりげに凄いコト言ったな、それを力ずくって言うんだこのばか女っ！」
「ばっ……ばか女って、あなたわたしを莫迦にしてるの!?」
「ばかをばかって言ってんだから、それ以外なにがあるっていうんだばか！　反論があるなら聞いてやるから言ってみろ！」
「え―――あ、う？
　なによ、わたしは志貴に会いに行っただけじゃない。
　そんなに怒られるようなコト、してないと思うけど」
「………………」
　余罪が発覚したというのにこの態度。呆れてものも言えないとはこの事である。
「う……わ、わかった、わかりました、確かにカメラを壊したのは、余分な行為だったと思う」
「要はアレね。人間的に、きちんと玄関から行けば良かったんでしょう？　次からはそうするわ。
招かれないと家に入れないなんて特性もないし―――
　ちょっ、待って、どこ行くの志貴!?　話、まだ終わってないよ!?」
　おお。足が無意識に帰路についていた。
　アルクェイドの発言に、いよいよ本能が危険信号を発したと見える。
　……とはいっても逃げ切れる訳がないので、テクテクとアルクェイドのもとに戻る。
「わるい、考え事をしていたら足が勝手に動いた。
　あと、玄関からやってきたらその時こそ絶交だからな。本気で恨んでやるから覚悟しやがれ」
「玄関からでも駄目なの!?
　じゃあどうすればいいのよ。わたしに貴方に近寄るなって言っているの？」
「そ、そんなコト言うか、ばか。
　何もかもいきなりすぎるから、ちゃんと段階を踏んでくれればいいんだ。
　おまえは居るだけで目立つんだから、もっとお淑やかに行動してくれってコト」
　<遠野邸|うち>にだって、まず俺が招待して秋葉に紹介して、何度か馴染めばいくらでも遊びに来てもらって構わないんだし。
　……そんなニュアンスで伝えたつもりなのだが、アルクェイドは猫のようにむーっと、不機嫌そうに睨んでくる。
「―――なによ、勝手なことばっかり言って。
　だいたい居るだけで目立つってどうしてよ。わたし、外見は人間と変わらないでしょう？」
「あのな、美人は居るだけで目立つもんなの。人間であるかどうかは関係ない」
　きっぱりと言い返す。
　無駄のない返答だったからか、アルクェイドもそっか、とあっさり納得したようだ。
「……まあ、こっちも言い過ぎたけど。
　とにかく、今後はあんな無茶は止めてくれ。俺の心臓が止まりかねない」
「……うん。分かったわ、志貴の心臓が止まるのはイヤだから、できるだけお淑やかにする」
　アルクェイドは神妙な顔付きで頷いた。
　なんだ。ちゃんと注意すれば聞いてくれるじゃないか。
　……というより、その……頼りなさげに肩を縮めたアルクェイドは、人間の女の子と何も変わらなかった。
「……コホン。じゃ、じゃあ本題に入るぞ。
　どうしてうちに来たんだアルクェイド。俺にはもう用はない筈だろう？」
「なにって、吸血鬼探しよ？
　志貴、わたしに協力してくれるって言ったじゃない」
「……やっぱりそうきたか。親基は倒したけどまだ手下が残ってるもんな。
　でもどんな心境の変化だよ。おまえの敵はヴローヴだけじゃなかったのか？」
「？　わたしの敵はヴローヴじゃないよ？
　わたしが探していたのはこの街に巣くった吸血鬼で、ヴローヴは関係ないもの」
「……は？」
　ヴローヴは、関係ない……？
「待ってくれ。それ、どういう意味なんだ」
「言った通りの意味だけど。
……
もう、志貴ってキレるようでどこか抜けてるのね。いい？　たしかにヴローヴは吸血鬼だったけど、あいつは人の血を吸っていた？」
「吸っていたかって、当然だろ。あいつはあんなに、人間をかたっぱしから燃やして―――、あ」
　そう、か。
　なんでそんな単純な違いに気づかなかったのか。
　通り魔殺人の被害者たちは、血を抜かれた後、何の損傷もない遺体として発見されている。
　けれどヴローヴは違う。
　あいつは死体を燃やしてしまう。血を吸いはしたが、それも主立った殺害方法じゃなかった。
　現に、ホテルの被害者たちは殺人事件としてではなく、火災による死傷者として扱われていた。
　なら―――ヴローヴは街で起きている連続殺人事件とは繋がりがないじゃないか……！
「待ってくれ。じゃあ吸血殺人事件はなんなんだ？
　いったいどこの誰が、あんな真似をしていたんだ？」
「だから、あの事件はヴローヴと別の吸血鬼の仕業なのよ。
　この街に隠れていたのは『ロア』という名前の死徒よ。
　年月をかけて都市を侵食するタイプで、その特色は“転生する”こと。一つの都市を汚染した後、その命を終えて次の都市を食い物にする吸血鬼」
　アルクェイドの声には隠しようのない嫌悪が込められていた。
　……一瞬、背筋が寒くなったのは、そんな彼女の声に気圧されたからだろう。
「転生って……あの、死んだら生まれ変わるって意味の、転生？」
　正しくは<輪廻転生|りんねてんせい>、だったか。
　人は死んでも次の命に生まれ変わるだけで、魂は永遠に消え去らない、という仏教の概念だ。
「そう。殺されても次の命に生まれ変わる、人間を利用した不老不死の亜種。
　転生は聖堂教会の教義にはないから、ロアは“いないもの”として扱われてきたわ」
「わたしはその<死|ロ><徒|ア>を殺すためにこの街にやってきた。
　ヴローヴが来た理由は……
うーんちょっとあやふやになってきたわね。
　名誉目当てでわたしを追いかけてきた祖かと思ったけど、ヴローヴにはそれだけの理性……死徒社会における協調性はなかったみたいだし」
「ま、そのあたりはもういっか。ヴローヴは死んだんだし。
　とにかくヴローヴとロアは別物よ。ヴローヴは正真正銘、この街の死都化とは無関係の第三者ってコト」
「わたし、標的がヴローヴだなんて言わなかったでしょ？
　ヴローヴにとっての標的はわたしだったけど、わたしにとっての標的はヴローヴじゃなくて、この街で『通り魔』と言われている吸血鬼だけよ。
　……志貴。まさかとは思うけど、ものすごく単純な勘違いしてたとか？」
「……あ、うん。勘違い、してた」
　なんとなく気まずくてアルクェイドから視線を逸らす。
　アルクェイドの目的が『吸血鬼殺し』だというから、完全に早とちりしていたようだ。
「それじゃあ、あの夜ヴローヴと殺し合ったのは無意味な事だったのか……？」
「無意味じゃないわ。
　ヴローヴが貴方たちにとって脅威だったのは事実だし、志貴はわたしの代わりに戦ってくれたんじゃない」
「だからそんな顔しないで、もっと自信を持って。
　あの時の志貴はキレイだった。わたし、あんなに目が離せなかったのは初めてだった。
　……まあ、だからこそアイツが視界に映るのが我慢ならなかったんだけど。目障りにも程があったわ」
「――――――」
　……やばい、ちょっと感動してしまった。まさかアルクェイドに励まされるとは。
　でも……確かに、あの行為は無意味なものではなかった。
　ヴローヴが何者であれ、ヤツはあの時倒さなければならない災害だった。モノを“殺す”ことしか能の無い俺でも、あの時だけは確かに有益だったんだ。
「……いや、でも待て。
　じゃあ吸血鬼事件は何も解決してないってコトか!?　ロアってヤツはまだ生きているんだから！」
「ううん、それも問題なし。もう危険はないから安心して。ここからは後処理みたいなものだし」
「後処理……？　ってことは……」
　もしかして、とは思うけど……
「ええ、ロア本体はとっくに始末したわ。
　言ったでしょ、志貴のおかげだって。ヴローヴに使う分の力が余ってたし、すぐに見つけてやっつけちゃった」
「な―――」
　あっさりと、アルクェイドは事件解決を報告した。
「そ、それは……街の人間として、助かる、けど」
　イヤな予感が背中に走って、心臓がどくん、と脈打つ。
「でも、ロアを殺してもその下僕はまだ活動している。
　前に話したでしょ、親基と下僕の関係。死者はみんな死体に戻っただろうけど、死徒にまで成ったのが数体残ってるみたいなの。
それでね、志貴」
　アルクェイドは甘えた声で俺の名前を口にした。
　……読めてきた。
　というか、読めてしまった。
　アルクェイドが俺を呼びつけたのは、つまり、
「ロアを倒すのに力を使っちゃったから疲れちゃって。
　誰かがわたしと一緒に、死徒の後始末をしてくれたら助かるんだけどなあ」
「う―――ぐ」
　やっぱりそうきたか……。
　アルクェイドには感謝している。
　街に残っている吸血鬼だって野放しにできない。
　けど、だからといってコイツに手を貸すのは別問題だ。
　ヴローヴとの一戦を思い出す。それだけで背筋に悪寒が走るほど、殺される一歩手前の恐怖は残っている。
　俺は俺の日常に戻った。
　吸血鬼とは関わらない。それは先輩とも約束した事だ。
「そっか。
じゃあとっておきを言ってあげる。
“お願いだからヴローヴを倒してくれ”
　これって誰の言葉だったかしら？」
「………………」
　それを言われると弱い。
　アルクェイドはシエル先輩を見てヘソを曲げたものの、しっかり俺たちを助けてくれた。
　あの時アルクェイドが寒波を防いでくれなかったら、俺だけじゃなく街全体が氷漬けになっていた。
　なら、今度は俺が約束を守る番だ。
「……分かった、手を貸す。貸せばいいんだろ。
　いいよ、俺も吸血鬼の排除には賛成だし。怖いのはイヤだけど、我慢して協力してやる」
「うん、そうこなくっちゃ！
　頼りにしてるわ志貴、わたしと一緒に戦ってね！」
　弾むような笑みを浮かべるアルクェイド。
　……頼りにするって、俺なんかいなくてもコイツひとりで充分だと思うけど……まあ、そう言ってくれるならやり甲斐はある。
　<吸血鬼|ヴァンプ>という言葉には男を惑わす毒婦、という意味もあるらしい。まさにその通りだ。あんな約束なんて持ち出さなくても、こんな笑顔を向けられたら断れる筈がない。
「<親|ロ><基|ア>を失った下僕たちのとる行動は二つ。
　身の危険を察して巣に引きこもるか、
　支配者から解放された事で自由に夜を闊歩するか。
　今夜は前者、引きこもっている方に狙いをつけましょう」
　アルクェイドはそう言って俺を住宅街に連れ出した。
　聞いたかぎりでは自由になった吸血鬼の方が危険だと思うのだが、それは俺たちが手を出さずとも代行者……シエル先輩たちが片付けているだろう、との事だ。
「まず危険なのは自由になってはしゃいでいる死徒だろうけど、この街にはアイツがいるから。そんなの昨日のうちに見つかって狩られてるわ。
　次に危険度が高いのは住み家で休眠している集団ね。親基を倒すぐらいの外敵が現れた以上、群れていた方が安全と考える知能があるから」
「で、危険度、難易度ともに高いのが自由になった時点で群れから離れて、じっと街に潜むヤツ。
　それだけの判断力と適応力があるならⅣ階梯を越えているだろうし、時間さえあれば新しい派閥を作りかねない」
「新しい派閥……あの地下の広場みたいなものをか？」
「地下の広場？　そんなのあったのね。
　うん、
ロアのコミュニティほどじゃないだろうけど、月に一人の割合で人知れず犠牲者を出すぐらいの。
　でも代行者がいるかぎり、そんなマネをしたらすぐに見つかって処理されるわ。だから代行者がいる以上、上級の死徒は中々尻尾をださないの。<代|ア><行|イ><者|ツ>らは死者狩りには便利だけど、同時に上級の死徒を警戒させる厄介者なのよ」
　……なるほど。
　先輩たちは吸血鬼たちにとって警察のようなものなんだ。
　あの人たちがいるだけで突発的な暴行は取り締まられ、計画的な犯罪は激減する。
　ただし、それは抑止力にすぎない。吸血鬼という犯人を見つけ出すには地道な作業が必要になる。
「……それじゃ、今から行く所は吸血鬼が集まっている隠れ家なのか？」
「ええ。確証は取れていないけど、それは志貴がいればはっきりするわ。
それより志貴、
ロアの棺がどこにあったのか、訊かないの？」
「？」
　アルクェイドは妙なコトを言う。
「別にいいよ。もう片が付いたんなら興味はないし、俺には関係のない話だし」
「そうなんだ。
『志貴の学校の地下にあったんだよ』って、驚かそうと思ったのになー」
　残念そうに唇をとがらすアルクェイド。
「い、いや待て、そりゃ驚くよ！　吸血鬼のボスのねぐらが、うちの学校の地下だったって……!?」
「ええ。上手に隠されてたけど、そこはほら、繊細？かつ緻密？な捜査？で見つけちゃった」
「なぜ疑問符が差し込まれる？」
　これほど不審な説明もまたあるまい。
　しかし……学校の地下か。アルクェイドのおかげで終わった事とはいえ、心中穏やかではいられなかった。
「志貴？　どうしたの、怖い顔をして」
「……いや。親玉の住み家が学校の地下にあったのなら、うちの生徒たちが犠牲になっていたかもしれない」
「それはないと思うけど。本体が眠る棺は最後の隠れ家だから、その周辺で食事なんて摂らないわ。下手に血の匂いを残したら代行者に辿られてしまうでしょう？」
「そっか。自分の家の玄関で事件を起こすようなものだもんな」
「そうそう。元凶の膝元では異常は起きない。これ、死徒でも人間でも共通の隠蔽法でしょ」
　なるほど、と納得する。
　アルクェイドは軽い足取りで先行する。これから吸血鬼たちの隠れ家に行くというのに気楽なものだ。
　俺は……どうだろう。緊張はしているが恐怖らしきものはない。ヴローヴとの戦いに比べればどうってコトはないとタカをくくっているのか、それとも少しは度胸がついたのか。
　どちらにせよ震えていないのはいい事だが……
「くしゅん！」
「？」
　ふと顔を上げると、アルクェイドがくしゃみをしていた。
　吸血鬼でも寒さを感じるのか、と言いかけて、ヴローヴとの戦いを思い返す。寒さなんて感じるに決まっている。
　アイツは人間より頑丈なだけで、傷つけば血も流すし痛みもする事を、俺は何度も見てきたじゃないか。
「そのミニスカが原因か……寒いのならこれ、着るか？」
　上着を脱いでアルクェイドに差し出す。
「いいの!?　やったぁ、ちょっとの間だけ借りるね！」
　アルクェイドは俺の上着を羽織ると、くるくると踊るように先行する。
「………………」
　くしゃみなんかしていたクセにアルクェイドは元気いっぱいだ。生命力の塊というか、大輪の花というか。
　とにかく、無心で眺めるのはあまりに毒だ。注意していないと見惚れてしまいかねない。
「……なんだそれ。ここまで惚れっぽかったのか、俺？」
　頭を振ってアルクェイドから視線を逸らす。
　高架線の下を抜ければ人通りの絶えた住宅地だ。
　アルクェイドの言う吸血鬼たちのねぐらまで、もう目と鼻の先なんだから。
　―――それは、住宅地のただ中にあった。
　ごく一般的な、何の変哲もない４階建てのマンション。
　部屋数は一フロアに四つほどで、その大半から灯りが漏れている。
「このマンションがそうなのか……？」
「……ええ。それを貴方で確かめるの。
　志貴。ここで眼鏡を外して、あの建物の周りを見て」
「眼鏡を外してって……なんで？」
「その方が確実だから。
　わたしは『人間と人間じゃないもの』の気配を感じ取れる。
　貴方は『生者と死者の違い』が視覚情報として読み取れる。
　索敵方法は多いに越した事はないでしょう？
　……これは明日からのテストもかねているわ。志貴がわたしと行動するという事は、その眼で街を視るという事だから」
「―――――」
　アルクェイドの説明は納得できる。
　協力すると言ったのはこっちだし、断る理由はない。
　この眼鏡を貰ってからの七年間、裸眼で街を歩く事なんて一度もなかった。
　そもそもモノを視るだけで頭痛が走るのに、その状態で街を、通り過ぎる人々を視たらどうなるのか、容易に想像できる。
　だが、それも数日前までの話だ。
　一度、俺は地獄を経験した。
　あの地下での惨劇を覚えているのなら、頭痛の一つや二つ耐えきってみせないと。
「……眼鏡を外すよ。それでカタがつくなら安いもんだ」
　線を視る。
　脳にかかる重みに吐きそうになる。
　……ここは、おかしい。建物に走る線はごく平均的なものだが、何か、異様な寒々しさがある。
　それは灯りのついている部屋から漏れる光の白々しさだったり、たった今マンションに戻ってきた女性の体に渦巻く、死の線の多さだった。
「―――そう。やっぱりアタリね」
　アルクェイドはマンションの入り口ではなく、地下ガレージに続く坂に向かった。
　地下ガレージの入り口にはシャッターが下りている。
「このシャッター、人避けと消臭の結界がかかってる。
　……それも、ロアが消えた事で薄れているけど」
　屈んでシャッターの縁に手をかけるアルクェイド。
　そのまま一気に引き上げるかと思いきや―――
「志貴。このシャッター、切れる？」
「そりゃ切れるけど……いいのか？」
「ええ。わたしより志貴が適任。無理矢理開けると警報が鳴るでしょ？」
　……それはそうか。
　いざ実行という段になるとアルクェイドは冷静だ。
　シャッターの“線”を断つ。
　ざらん、と音をたてて、鉄の扉がコンクリートの床に落ちる。
　切り取ったシャッターの隙間から、黒々とした闇を覗きこむ。
「なんだ、この匂い……!?」
　鼻を突く異臭。
　ガレージの中はすえた肉の匂いと、濃厚な血の匂いで満ちていた。
　中にうごめく“線”の塊たち。
　シャッターを切り崩した事で、俺たちという来訪者に気がついたのだろう。
　塊の数は四つ……いや五つ……！
「五体もいる……！　
いや、それより気付かれてる、あいつらやる気だぞアル……
アルクェイド!?」
　振り返った先に白い姿はなかった。
　俺がシャッターを切っている間に、アルクェイドはこの場から消えていた。
「ま―――」
　気がついた時には、もう取り返しの付かない死地にいた。
　一歩も下がれない。
　振り返る事もできない。
　<ヤ|・><ツ|・><ラ|・>から視線を切った瞬間、俺は無様な<生贄|くいもの>になる。
「は―――、ぁ」
　視界が朱く断裂する。
　亀裂の走った鏡。散らばったパズルのピース。
　のたうつ“死の線”が、眼球を通して、俺の脳に刻みつく。
「―――、ァ―――」
　俺は完全に不能だった。恐怖がないだけで、何の対策も考えていなかった。
　だから死ぬ。ここで死ぬ。あの半ば腐った死体の爪が、豆腐をべちゃつかせるように、俺の頭をすくい取る。
「―――、ァ―――」
　俺は完全に不能だった。一度窮地を経験したぐらいで<驕|おご>った理性が、遠野志貴である事を放棄した。
「は―――ハ」
　だから。
　その後に残ったものは、<寄|ツ><せ|ギ><集|ハ><め|ギ>の人間性からやっと解放された、剥き出しの<己|おのれ>だった。
　意識より先に体が走る。
　わずかな戸惑いもなく解体する。血の匂いを、手触りのない肉の<断触|だんしょく>を記憶する。
　―――その中で。
　俺の頭は、都合よく忘れようとしていたあの光景を、味わうように繰り返していた。
「―――――、
あ」
　呼吸を再開する。
　切りつけるような頭痛で目眩から立ち直る。
　１分の後、俺の周囲には五体分の人間の手足が、ゴミのように散乱していた。
「ふふ、見ちゃった。すごいんだ、本気になった志貴って」
「アル―――クェイド？」
　頭痛と微熱に目を<眩|くら>ませながら振り返る。
　いつのまに戻ってきたのか、アルクェイドは血の海の中を歩いてくる。
　散乱した肉片はサラサラと灰になって風に散っていく。
　残ったものはオイルのような血だまりだけ。
「でも無茶は禁物よ。ほら、早く眼鏡をかけて。そのままだと倒れちゃうでしょう？」
「あ……うん。そうだな、ありがとう」
　言われて眼鏡をかけて、ナイフをポケットに仕舞う。
　血の匂いで気持ちは悪くなる一方だが、眼鏡をかけただけで頭痛はすっかり治まってくれた。
「はあ、死ぬかと思った……じゃなくて！
　話が違うぞアルクェイド、なんだっていなくなるんだよ、おまえは！」
「あら。協力するってこういう事でしょう？　まさかわたしにだけ戦わせて、自分は何もしないつもりだったの、貴方は？」
「ぁ……いや、それは、そうだけど」
　もっともな意見に反論できない。
　吸血鬼に関わるという事は、死の危険に飛びこむ事だ。それを一時でも忘れていた俺が悪い。
「……たしかに、俺は気が抜けてた。それは認める。
　けど、それなら事前にそうと言ってくれ。おまえ、なんか意地が悪くなってないか？」
「ええ、楽しんだのは事実よ。志貴の魔眼がどれだけ凄いのか、自分の目できちんと確かめたかったから」
「……テストってそういう事かよ。
　はいはい、じゃあ結果はどうでしたか、お姫様」
「うん、文句なし！　貴方の眼は破格の魔眼よ。その希少価値は言葉では言い表せないぐらい」
「それは良かった。お眼鏡にかなって光栄ですとも」
　溜息をつきながら返答する。
　無邪気に褒められてもこっちは素直に喜べない。
　殺人の才能が認められるのは、おまえはろくでなしだ、と言われているようなものだからだ。
「でも、その眼と同じぐらい貴方自身もおかしな人ね。
　直前まで逃げ腰だったのに、ナイフを握って、殺すと決めた途端、迷い無く死者を解体するんだもの。
　そういうところ、わたしと似ているのかも。なのに人間よりも人間らしいなんて、すごく不思議」
「――――」
　その言葉にどんな感情がこもっていたのか、俺には分からない。親愛や憧れ。あるいは慈愛すらあったのかもしれない。
　ただあまりにも突然すぎて、何の言葉も返せなかっただけだ。
「ね。ロアの後始末が終わったら、わたしと一緒に行かない？　よく分からないけど、ひとりで帰るのイヤになっちゃった」
　アルクェイドは少しだけ離れて、振り向きながらそんな言葉を口にする。
　俺は、
「あのなあ。行くってどこにだよ。
　まさか、おまえの故郷じゃないだろうな」
　その深刻さに気付かず、減らず口を返していた。
「なにそのイヤそうな顔！
　わたし、いちおうお姫さまだよ？　玉の輿、乗ってみない？」
「お断りだ。そんな爆弾みたいな輿に乗れるか、バカ」
「む。なんかいますごく侮辱された気がするんですけど！」
　文句を言うアルクェイドを適当になだめて、改めて地下駐車場を見回す。
　……他に吸血鬼がいそうな様子はない。
　ロアとやらが健在ならマンションの住人すべてが襲いかかってきたかもしれないが、今はこれだけだ。
　他の住人たちは先輩の言うⅠ階梯からⅡ階梯までの、親基がいなければ死体に戻る下級死徒だったのだろう。
「……もうここには誰もいなそうだな。外に出ようアルクェイド。さすがに血の匂いがきつい」
　アルクェイドに声をかけてガレージを後にする。
　何年も密閉されていた死者たちの暗闇は、これでようやく、外からの明かりに照らされる事になった。
　外に出て新鮮な空気を肺に取り入れる。
　一仕事終えたものの、達成感はあまりない。
　これでロアの残党狩りが終わった訳でもないし、なにより、このマンションの処遇はどうしたものか。
「どうするんだアルクェイド。他に吸血鬼がいないとしても、ここはねぐらの一つなんだろ？　もしかしたら中に隠れているヤツがいるかもしれないし、念のために調べるか？」
「もちろん、しっかり後始末はするわ。
　じゃ、志貴はちょっと離れてて」
「？」
　アルクェイドはマンションに向き直ると左手を空に掲げた。
　直後、
「！？」
　ぐしゃり、と何かが潰れる音と共に、マンションは一瞬で倒壊した。見えない何かに、上から圧し潰されたケーキのように。
「どう？　志貴みたいな希少性はないけど、わたしだって凄いでしょう？」
　得意げに微笑むアルクェイド。
「そ、そ―――」
「うんうん、見直してくれた？　というか、驚いた？」
「そうか、バカだったなおまえ―――！」
　アルクェイドの手を取って走り出す。
　今さらコイツの力には驚かない。なにしろあの寒波から街を守るぐらいのデタラメさだ。
　が、この常識の無さだけは勘弁してほしい。
「なんで逃げるの!?　もう危険はなくなったのに!?」
「あんな騒ぎを起こしたら人が集まってくるだろうっ!?
　ちょっとは考えろ、ばか女！」
「あ。うん、それはそうよね。
わたしったらうっかりさん？」
「すごいな、分かっててやったのか！」
　余計始末が悪い。
　俺たちは騒ぎを聞きつけて出てきた人混みに逆らって、<人気|ひとけ>のない公園に走った。
　重機の力でもなく爆薬の力でもなく、コントロールされた自然現象―――自転のわずかな調整で圧し潰された建造物。
　文明の恩恵、人間社会が築き上げた“現代人の在り方”が倒壊する音を、彼女は呆れ半分、敵意半分で聞いていた。
　風になびく修道服。
　代行者は地上20メートルの高みから、事の顛末を見届けていた。
　彼女の任務は街にはびこる死徒の処理だったが、そちらは既に終わっている。
　昨夜のうちにⅣ階梯クラスの死徒は狩り尽くしてある。
　後に残った仕事は親の柩の発見と、先ほど潰された“食堂”の発見と、その壊滅だけだった。
「……空想具現化を惜しげもなく使うなんて。
　何を考えているんですか、あの吸血鬼は」
　呟きは苛立ちからこぼれたものだ。
　無言でアルクェイド・ブリュンスタッドを監視していた代行者だが、ついに耐えきれず感情を口にした。
「……彼も彼です。弱味でも握られているんでしょうか」
　アルクェイドの手を取って走る少年に視線を移す。
　すると苛立ちはより確かなものとなった。
　吸血鬼に嫌悪感を抱いたのか、
　それともあの組み合わせが気にくわなかったのかは代行者にも分からない。
　代行者は公園に走り去っていく二人組を見届けると、倒壊したマンションに視線を移す。
　周囲には騒ぎを聞きつけて集まった近隣住民の姿がある。
　駅前の大通りからは数台のパトカーがこちらに向かっていた。
「……迷宮入りの案件がまた一つ増えましたね。
　事後処理は貴方の方でこなしてくれるのですか、司祭代行？」
　代行者は振り向かず、背後の闇に声を投げる。
「なんだテメェ。気付いてんならそう言えっての。声をかけるタイミングが掴めなかったじゃねえか」
　ヒュン、と小さな風切り音がする。
　代行者が足のすくむ高所に立つように、その声の主も上空を闊歩していた。
　ただし、その足場には何もない。
　弱冠12歳の司祭代行、マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノは空中に浮かぶように、代行者の背後に立っていた。
「ノエル先生から貴方の事は聞いています。互いに自己紹介は必要ありませんね」
「まあな。テメェの経歴はイヤってほど目を通した。いまさら何を訊くまでもねえ。
　んで、アレの処理の話な。じきオレの使えねえ部下が駆けつけて話をつけるんで、テメェはとっとと消えていいぜ。下の野次馬どもにいちいち暗示をかける必要はねえよ」
　見れば、現場に到着したパトカーに遅れて黒塗りの一般車両がやってきていた。
　乗っているのはマーリオゥの息のかかった所轄の警部補だ。彼等は速やかにこの不可解な現象を事故として処理するだろう。
「それは結構。こちらも手間が省けます。
　……ですが、いいのですか？　ノエル先生には厳しく詰問したと聞きますが」
「ハ。埋葬機関の狗が権力になびくタマかよ。だいたい殺されても音を上げないって話じゃねえかテメェ。マグロ相手に拷問するほど暇じゃねえしな。テメェらの単独行動には目を瞑ってやるよ。それとも任意同行するか、オイ？」
「構いませんよ。司祭代行の言葉は尊重します。
　ただし、
それが正式な手続きによるものなら、ですが」
　マーリオゥは答えない。
　ただ楽しげに口元を吊り上げる。
「話が早くて助かるぜ。さすが歴戦の強者だな代行者？
　というワケで、テメェとの情報交換はなしだ。それとも借りを作っておくか？」
「必要ありません。こちらはこちらの責務を。貴方は貴方の職務を果たしてください、マーリオゥ」
「―――へえ。オレはてっきりここで殺し合いになると思ったんだがねぇ。邪魔者は事前に潰すのがテメェらの流儀だ。大司祭直下のオレは目の上の<瘤|こぶ>じゃないのかい？」
　殺気と挑発に満ちた少年の声。
　それを背中で、視線さえ向けず代行者は受け流した。
「そうですね。ただの司祭代行ならそれもあり得たでしょう。ですが貴方なら例外です。……いえ、ラウレンティスの人間であれば、誰であれ信用に値します。貴方は目先の利益で功を焦りはしないでしょう？」
「はあ？　なんだそれ、信用に値するだあ？　権力に尻尾は振らねえテメェが？　たったいま拝金主義にでも目覚めたか？　いやまあ、確かに金ほど信用しやすい見返りはねえけどな」
「……はあ。顔は似ていますが兄上とは正反対ですね、貴方は。心の底から失望しました」
「あ？　ちょっと待てよ尻デカ女。あのクソ兄貴がなんだって？」
「私は貴方の兄を知っています。以前、一度だけ同じ任務についた事があるので。
　ラウレンティス枢機卿の息子という事で周囲からは誤解されていましたが、彼は尊敬に値する人物でした。
　……その彼が言ったのです。もし弟たちに会う事があったらなるべく手加減してやってくれ、
ひねくれているが根は青臭い正義漢だ、と」
「―――ケッ。
なんだそれみっともねえ！
　死ね。死ねばいいってんだあのクソ兄貴！　使い捨てのメス犬一匹になに<媚|こび>売ってやがる！　ラウレンティスの面汚しが！」
「ええ。その一点で貴方たちは信用できます。父上の名誉を守る。その為に貴方たちは行動している。ここで私を捕縛するより、他に優先すべき事があるのでしょう？」
「…………なんだそりゃ。親父の名誉を守る？　そんなコト、あのクソ兄貴がほざきやがったのか？」
「いいえ、そういった事は一度も。
とにかく無口な方だったので。ただ共に過ごして、私がそう感じただけの話です」
「―――チッ。これだから20歳<前後|そこそこ>のガキは。ハンパに理想に燃えてやがるから始末におえねえ」
「昔の話ですよ。あれから６年、今はお父上の補佐に務めているのでは？　彼の事です、立派な人物になっているでしょう」
「――――――」
　過去を懐かしむ代行者と、それを冷めた目で見下す少年。
　司祭代行はわずかに歯ぎしりをした後、
「いい、シラけた。もうテメェとは交渉なんざしてやらねぇ。勝手にひとりでトチ狂ってろ。
　どうせロア狙いだろ？　こっちも同じだが、用があるのはヤツの工房だけだ。本体はテメェに任せてやるよ」
　ヒュン、と音をたてて代行者の背後から離れていく。
　先ほどまで漏れていた挑発の空気もない。代行者の何かがマーリオゥの琴線に触れたらしい。
「待ちなさい司祭代行。一件だけ貴方に頼みたい事がありました。それを条件に、ここから見逃してあげましょう」
「―――あ？」
　マーリオゥの<指|・>が止まる。
　彼はふざけた言葉を吐いた代行者を振り返ろうとして、ソレが掛け値のない真実である事に気がついた。
　少年を空中に浮かせている<糸|モノ>はもう一本しかない。
　先ほどまで代行者を中心に囲っていた七百を超える霊糸。そのすべてが、たったいま音もなく燃え尽きたのだ。
「……魔術詠唱はなかったな。指先から魔力を流しただけで燃やしやがったか。嘘みてぇな生成量だ。並の魔術師の何百倍だ？　とっくに化け物だな代行者シエル？
　まあ、そうでもなけりゃあ『<祖の不浄|イデアブラッド>』を二つも三つも保持していねぇか」
「お喋りは結構。最後の一本も燃やしますか？」
「待てやめろ、転落死なんてマヌケな死に方は冗談でも勘弁だ、ってもう燃えてる燃えてる、相変わらず容赦ねえなテメェ！
　……ああもう仕方ねえ、聞くだけは聞いてやるよ。用件を言ってみな」
「私の同僚の処遇についてです。
　既に貴方は彼女に会っています。なら、私からの提案は理解できると思いますが」
　代行者の口調は冷めきっている。
　どこまでも冷静に、ただ事実だけを述べる声。
　それが言葉にしなくともこう告げていた。
“代行者ノエルは限界だ。精神的にも能力的にも、もう空き容量が存在しない”と。
「―――ああ、そういうコト。
　人事異動はオレの領分だ、片手間でいいなら請け負ってやるけどよ。いいのか？　オレに預けるってコトは好き勝手に使い潰すってコトだぜ？」
「構いません。できれば近日中に手続きを。彼女はヴローヴ・アルハンゲリに血を吸われてもいます。問題ないレベルですが、万が一というコトもあります。貴方の権限で汚染審査を行ってください」
「万が一ねぇ……ま、プラシーボ効果ってのもあるしな。
　オレから見てもありゃあガタガタだ。早いとこ全身診察してやるとするか。それでテメェがこっちの邪魔をしなくなるってんなら安い買い物だ」
　取引は終了した。
　少年は今度こそ上空20メートルの高みから退出する。
　後に残ったものは風になびく修道服の姿だけ。
　彼女はもう一度眼下の倒壊現場を見据え、小さな溜息をこぼしていた。
　息を切らせて公園まで移動した。
　人に見とがめられなかったのは幸いだ。
　俺はようやく足を止めて、ぜいぜいと音を上げる体を休ませている。
　一方、あのお姫様はと言うと、
「……ごめんなさい。
　志貴の体のこと、まだよく考えていなかった」
　あの通り、珍しく反省などしてくれていた。
　……俺もほとほと甘いというか。どんな理由であれ、アルクェイドのあんな顔は見たくない。
「いい、結果的には誰にも見つからなかったし。
　……俺もちょっと言い過ぎた。アルクェイドがぶっ飛んでるのは今に始まった事じゃないしな。だから、そんなに気にしないでくれ」
「そ、そう？　志貴が怒ってないなら、わたしも嬉しいけど」
「ああ、怒ってない怒ってない。
　でもやりすぎなのはホントだぞ。次から大事を起こす時は、せめて一声かけてからにしてくれ」
「……！　
ええ、任せて！　
協力無比のコンビだものね！」
「…………」
　正しい漢字で言っているのか、一抹の不安はある。
「……、っ……」
　一息ついた事で油断したのか、一瞬、意識が消えかかった。
　頭蓋の中身がこぼれ落ちる錯覚に、膝から崩れそうになる。
「志貴!?」
　かけよってくるアルクェイドに、手をあげて“大丈夫”とアピールする。
「……少し疲れたみたいだ。ベンチに座れば落ち着くよ」
　ベンチに腰を下ろして呼吸を整える。
　アルクェイドは俺を心配してくれたのか、
「……そっか、死の線を視すぎたのね。
　志貴。貴方は自分の眼をどこまで理解しているの？」
　まるで教師のように、俺の“眼”について講義を始めた。
　……アルクェイドによると、俺の眼は死を視ているのではなく、死を解読しているようなものなんだとか。
『線』はあくまで死の露出であり、その線の基点である『点』こそが死そのもの。
　これを視る事は人間が持つ知覚、認識力を大幅に超えている。
　なので使いすぎると眼より先に脳がパンクするので、線を視るのはほどほどにしろ、との事だった。
「なんだそりゃ。自分で俺を振り回しておいて」
　アルクェイドの身勝手さについ苦笑してしまう。
　俺に協力しろという事は魔眼を使えという事だ。
　それを承知で、でも無理をするな、と言うアルクェイドの言い分がおかしかった。
　ともかく、俺には半分も分からない話は続く。
　アルクェイド先生はなかなかに口達者だ。
　それを俺はうんうんと相づちをうちながら聞いている。
　実のところ体力はすっかり戻っていた。なのに俺は話を切り上げず、目の前の白い女を見つめている。
　ちょっと前まではあんなに弱っていたのに、今では生命力に溢れている。眩しいとすら思うほどに。
「ちょっと、聞いてるのっ!?
　わたし、志貴は危ないって話をしているのよ？　笑うところじゃないでしょう！」
　真剣に怒られてしまった。
　しかし、こっちも別に笑っていたつもりはない。というか、そっちが元気になりすぎなのではないだろうか。
「なんだよ、偉そうに。ヴローヴにやられた時はそっちも危なかったクセに」
「あの時はあの時でしょう。
　なによ、志貴はわたしが苦しんでいた方がいいの？」
　まさか。そんな場面、もう二度と見たくはない。
「ああ。バランス的に、おまえは苦しんでるぐらいでちょうどいい。まあ、でも……」
　それは世間に合わせた時の話だ。
　俺個人で言えば、本当に、心の底から、
「……元気なアルクェイドを見ているのは、嬉しい。
　おまえはそのままが一番だと思うよ」
　叶うのなら、この笑顔をいつまでも見ていたい。
「ん～～～～～っ！」
　―――って、なんか、すごい勢いで突進してきた!?
「ちょっ、待て、イノシシかおまえ!?」
　あわてて立ち上がるも、避けられる筈がない。
　アルクェイドはまっすぐにベンチまで駆け寄ると、立ち上がった俺の手を両手で握りしめた。
「うん、わたしも同じ！　やっぱり一緒だね、わたしたち！」
「――――――」
　その笑顔の純真さに息を呑む。
　彼女の信頼に応えようと口を開ける。
　なのに、
　こんな時にかぎって、気を失いかけるほどの頭痛が走った。
「ぐ、っ―――！」
　地面に倒れかけた体を、ベンチにもたれかかって持ち堪えた。
「はっ、ァ―――……ハ、ァ……」
　大きく息を吸って目眩をやり過ごす。
　幸い、頭痛は一度だけだった。これならすぐに立ち上がれる。
「……わるい。体力、まだ戻ってなかった。
　アルクェイドの言う通り、魔眼の使いすぎってヤツだな」
　アルクェイドは何も言わない。
　ただ、信じられないものを見たように息を呑んだ後、
「―――そうなんだ。それは大変ね、志貴」
　くすりと笑って、タン、と軽い足取りで広場の中心に舞い戻った。
　……その後。
　アルクェイドは口数こそ少なくなったものの、どう見ても上機嫌だった。上機嫌すぎてこっちが首をかしげるぐらいに。
　これからの事を話し合っているうちに時間は過ぎ、気がつけば午前零時になっていた。
「もう日付が変わっちゃったね。
　今夜はここでお別れにしましょう。明日もよろしくね、志貴」
「……まあ、一日で終わる事じゃないしな。
　待ち合わせ場所はここで、時間は今日と同じでいいか？」
「ええ。一日も待つのは退屈だけど、志貴にはまだ志貴の生活があるものね。邪魔はできないわ」
　涼しげに笑って、アルクェイドは公園から跳び去っていった。
　登場も退場も待ったなしの女である。
「……って、感心してる場合じゃない。俺も早く戻らないと」
　あまり長く部屋を空けていると外出がバレてしまう。
　もう手遅れな気がしないでもないが、できるだけ急いで屋敷に戻るとしよう。
　深夜零時過ぎ。屋敷の明かりは完全に消えている。
　玄関を迂回して西館の勝手口に回り、中に入る。
　出かける時にこの勝手口を使ったのだが、幸運な事に鍵はかけ直されていなかった。
　西館に部屋のある翡翠や琥珀さんを起こさないように、抜き足で中へと入った。
「―――ふう」
　一息ついてベッドに腰をかける。
　歩き詰めで疲れきっていたのか、吸い込まれるようにベッドに倒れこむ。
　アルクェイドとの約束。
　なんの因果か、再び厄介ごとに足を踏み入れた自分。
「……仕方ないよな。放っておけないんだから」
　それとも放っておきたくなかったのか。
　あの奇跡のように美しい、人間ではない生き物を。
「―――――」
　一瞬、針を刺すような頭痛があった。
　……なんだろう。
　今の頭痛はこれまでのものとは違う気がした。
　苦痛ではなく後ろめたい、というか。
　アイツを美しいと思ってはいけない、と、自分自身、愚かな自分を<咎|とが>めるような。
　……ゆっくりと目蓋を閉じる。
　体と意識を深い闇に引きずり込もうとする、巨大な手のような眠気に身を委ねる。
　抗えない闇に落ちていく中、何が愚かなのかを追究しようとしたが、意識は千切れるように途絶えていった。
　……………………眠れない。
　考えるべき事が多すぎるからだろう。
　色々なものが浮かんでくる。
　目を閉じると思考が先鋭化するようだ。
　目覚めたからにはすぐには眠れない。
　観念してベッドから起き上がる。
　こういう時は読書にかぎる。
　体調を崩さないよう上着を羽織り、荷物を漁る。
　あいにくお馴染みの本しかなかったが、どうせ暇つぶしだ、新鮮味は求めていない。
　何度も目を通した本を片手に、隣室のサンルームに移動する。
　読書用の部屋があるのは趣味がいい。
　椅子に腰をかけページをめくる。
　一番初めの感情は、むしろ<憐憫|れんびん>だった。
　怒りでも失望でもない。
　ただ、目に映るすべてのものが哀れに思えた。
（無論、最も哀れなのはこの身ではあるのだが）
　十五世紀の終わりに彼は生まれた。
　裕福な家に生まれ、高級な教育を受け、心身共に健やかに成長した。
　善行を理解し、悪徳を認めず、一切の罪に関わらず。
　人々は彼を神童と敬い、自分たちの土地のさらなる発展を信じて疑わなかった。
　だが。彼は農園を継いでほしいという両親の希望を断り、神の家の門を目指した。
　教会の堕落……権力者たちによる現世利益追求……がじき根に回り、果実が地に落ちる寸前だった頃の話である。
　両親は残念がったが、彼が願うのなら喜んで送り出した。
　或いは、彼ならばこの国に蔓延した腐敗臭を払拭できるのではないかと。
　無論。
　なんの後ろだてもない一名家の息子に、世界を変える事などできはしないのだが。
　彼は多くの街を通り過ぎ、多くの人々と知り合い、多くの事の成り立ちを目の当たりにし、どうあれ同じ結論に辿り着いた。
　<人|・><間|・><は|・><素|・><晴|・><ら|・><し|・><い|・>。
　主が地に蒔いたものの中でもっとも優れた生命だ。
　この、弱く、脆く、<五月蠅|やかまし>く、救いのない動物の唯一にして最大の美点。
“意味を求めずにはいられない”人間の<性|さが>に、主の意図を見いだしたのだ。
　彼は毎日のように人と知り合った。
　都市に住む者。都市を訪れる者。どちらでもいい。
　見知らぬ誰かと語り合い、その人生を知る事が彼の喜びだった。
“一人の人生には、必ず一つの真実がある”
　取るに足りないもの、まったく関心が持てないものでも、そこに意味があるのは確かだ。
　彼は多くの人間を識ろうと励んだ。
　学友たちは“十人で充分だ”と彼を笑った。
　教師たちは“百人に留めなさい”と彼をたしなめた。
　司祭たちは“万人を知りなさい”とうそぶいた。
　唯一、親友だけが“地獄の始まりだ”と先を予見した。
　親友の言う通り、千人分の人生を丁寧に記録した時、彼は壁に突き当たった。
　面白みのない、何の見返りもない行為に心が折れたのではない。
　その逆である。
　彼は人をもっと知りたかった。千や二千では足りない。もっともっと多くの真実を集めたかった。
　だが足りない。
　圧倒的に足りない。
　仮に60年間生き続け毎日人々と語り合っても、この街の人間すら網羅できない。
　そればかりではない。こうしている間にも人間は増え続ける。世界は広がり続ける。可能性は生まれ続ける。
　ああ―――あまりにも、あまりにも人間には時間が無い！
　思えば。
　彼には初めから個人としての幸福が欠如していた。
　彼は神童と言われたが、それは周囲の人々の誤りである。
　彼は極めて平均的な能力の人間だった。
　人間の能力を単純に数値化した場合、その合計値は身近な隣人と何も変わりはしなかっただろう。
　ただ、その数値が一方向に<偏|かたよ>っていただけだ。
　彼は人間のあらましより、世界のあらましにしか関心が持てなかった。
　群像に興味を持つ代わりに、個人を愛する心が欠けていた。
　自身を高める向上心の代わりに、権力欲が欠けていた。
　未来への夢の代わりに、現在を省みる情が欠けていた。
　要は、あまりにも非人間的だった。
　それでも、彼は誰よりも善良だった。
　人間の価値を愛し、善き人々の生活を愛し、誰よりも熱心な信仰を持っていた。
　たしかに彼では宗教世界を変える事はできなかっただろう。けれどその一要因にはなれた筈だ。
　“人間”を愛しながら“人”は愛せない神童でも、<そ|・><の|・><時|・>が来るまで、彼は紛れもない聖者だったのだから。
　―――それは、彼が<他|ひ><人|と>の人生を学ぶ前。
　　　　まだ幼い、子供の頃の話。
　彼は精神が成熟していたが故に、童心であっても、そこにある不思議を“手の届かないもの”として処理できなかった。
　社会のあらましを理解していた少年に不思議はなかった。
　雨も雲も幽霊もすべて解明できる事だ。
　少年にとって不思議とは、その時代では解明できないもの。
　誰もが“ただそこにあるもの”と受け流すもの。
　それこそが彼にとって最後の童心、
　同じ年頃の少年たちが思う以上の、輝ける星だった。
　だから―――
　　　私は今でも覚えている。
　　　父の目を盗んで、一夜だけの旅に出たあの時間を。
　　　たかくたかく、
　　　何の支えもなく私を見つめていた、あの石の不思議さを。
　空に輝く白い円盤と、その円盤を霞ませる雲。
　あれはなんなのか。
　どのような意図で、どのような仕組みで在るものなのか。
　手の届かないものに対する期待、興味、恐怖。
　それらすべてが、彼の心に輝ける星として刻み付いた。
　事の始まりにして原動力。
　あまりにも罪深く、あまりにも愚かしい。
　彼はこの時、宇宙のすべてを論理的に明かしたいと、天上の主に願ったのだ。
　だが、やがて彼は知る。
　一生を費やすと決心した“あらまし”は、先人達によって解答にいきついていた事に。
　神の家は弾圧の名の下にあらゆる知識を貯蔵していた。
　数学。天文。地層。歴史。建築。経済。医術。農耕。そして、後に科学となる錬金術。
　この時代の神の家こそ、あらゆる先端知識が集まり死蔵されていく世界最高の学府にして知の墓場だった。
　猿は道具を得た。
　人は文明を得た。
　学者は星を読み、観測手段を考案し、空を飛ぶ手段に行き着く前に、宇宙の広さを推測する智慧を得ていた。
　あの夜に見上げた『石』がなんなのか。
　この大地がどう運営されているのかすら、既に答えは出されていた。
　万事がこの例に漏れなかった。
　あらゆる不思議は、既にその概要が解き明かされていた。
　名も無い賢者はこう記していた。
“この後の千年は、これらの証明をするだけの時代だろう”
　解明されていく世界。
　意味づけされていく宇宙。
　それが成されていると知った時、彼を支配したものは歓喜ではない。
　恐怖と、言語に尽くしがたい程の怒りだった。
“諦めていたからこそ許せたのだ”
“だがなんだ。これはなんだ。この結論はなんなのだ”
“人間はこのように、いずれ全てを知り得る日が来る”
“だというのに―――<こ|・><の|・><体|・><に|・><は|・>、<あ|・><ま|・><り|・><に|・><も|・><時|・><間|・><が|・><な|・><い|・>”
　世界の広さに比べて<人間|わたし>の生はあまりにも狭すぎる。
　すべてを知る為に生きてきたというのに、なにも知らないまま朽ち果てる無念。
　彼は人間の意味を求めていながら、人生に意味などないと知らしめられた。
　それがどれほど惨めな結論なのか、人間であれば理解できる筈だ。
　彼はこの時、初めて死を恐れた。
　死が怖い。無為が怖い。果てのない世界が怖い。これほど知識を得たというのに、私はまだ何一つとして知っていない。
　恐ろしいのは自らの消滅ではない。
　自らの<目|い><的|み>が砕け散るのが、こんなにも恐ろしいのだ。
　思考を切り替える必要があった。
　地上にはいまだ“永遠”はなく。
　増え続け、変化し続けるのなら“完成”を待つしかないと。
　彼は階段を踏み外した。
　天にかけられた梯子に背を向けた。
　見たかったもの、求めたものは単純なもの。
　彼はすべてを知りたかった。
　その為に無限の時間が必要だった。
　皮肉な話だが。
　無限に広がる人間を恐怖した男が、その解決として、無限の時間を求めたのだ。
『……ふうん。まあ、ここらで足抜けするのも悪くない判断だよ。例の改革はともかく、<印刷技術|グーテンベルグ>の一般化が致命的だからな。しばらく荒れるだろ、<教|う><会|ち>も協会も。
　もっとも<魔術協会|あっち>の方はより大打撃だろうがね。大量印刷によってあらゆる迷信が駆逐される。神秘の屋台骨は派手に軋むだろうさ。
　ああ、だから今なのか。どちらも庭掃除で手一杯。トチ狂った神童が真祖どもの城を目指したところですぐに追っ手は差し向けられん。まさに火事場泥棒だ。この隙に一番手近な永遠を手に入れようとするんだね、君は』
『まさか。吸血鬼はただ歳老いにくく、死に<難|にく>いだけの種ですよ。永遠にはほど遠い。彼等はあくまで工程の一つにすぎません。まずは簡潔に自殺し、人間としての死をこなすだけです』
『そ。永遠を求める男が生き急ぐとは皮肉な話だね。
　それで、明日にでも<教|う><会|ち>を去るのか』
『埋葬教室に関しては貴女に一任しますよ。
　司教の席は望めない。ここまでで父の遺産はすべて使いきりましたしね。潮時だったんですよ、これが』
『かたや田舎豪族の息子、かたや<聖痕|スティグマ>があるだけの女。ともに司教までは上り詰められない同士、慰めあっていたのもおしまいだ。まあいいけどね。
　それで、君は自分の魔術理論を完成させるわけか。あたしはここから離れる気はないから、君に合わせて生きていく事はできんな。ま、幸いあたしは女だ。さっさと子供を産んで君の事を伝えるとしよう』
『ほう。なんと伝えますか、
ナルバレック』
『そうだな。あと百年もたてば新参の死徒が台頭してくる。そいつの相手をしても無駄骨だから無視してしまえ、と口伝にしよう』
『いえ、百年も待つ必要はありません。貴女が生きているうちには異端審問の対象になるでしょう。この身は最も優れた吸血種に成るのですから、10年もあれば十分です』
『ハ、たわけたことを。死者からやり直すんだ、君が10年にひとりの天才であろうと百年はかかる。連中の世界はそれこそ地獄だ。苛烈さはあたしたちの比じゃないぞ』
『正統な方法ならそうでしょうね。
　しかし初めから最高位の吸血種になるのであれば、彼らの世界の法則も通用しない』
『……わからないな。どういうことだ、それは』
『なに、簡単な話ですよ。
　死徒の能力は、その血を吸った真祖の影響を受ける事はご存知でしょう。
　ですから―――』
『―――最高の死徒を目指すのであれば。
　　　　最高の真祖に、己が血を吸わせればいいのです』
　ぼんやりと目を覚ます。
　眼鏡に伸ばした腕がかすかに重い。
　ああ、これは微熱があるな、と他人事のように思いながら、眼鏡をかける。
　視界が正常に戻っても、まだ軽い目眩がする。
　風邪の症状に似ているが、これは朝特有の発熱だ。
　動かないエンジンを火にくべて暖めるようなもので、時間さえ経てば治まってくれる。
　コンコン、と扉が叩かれる。
　しばらく待った後、
「失礼します」
　一礼して翡翠が入って来た。
「おはよう翡翠。今朝もありがとう」
「おはようございます、志貴さま。お目覚めになられていたのですね」
「ああ。昨日はぐっすり眠ったから。着替えたらすぐに食堂に行くよ。
　……琥珀さんにはちょっと熱があるから、量は少なめだって伝えてほしい」
「かしこまりました。
　……あの、体温計は必要でしょうか？」
「いらないよ。どうせいつもの微熱だし」
「それでは、着替えはここに。食堂でお待ちしております」
　翡翠は一礼して退室していった。
　心なしか、普段よりややお辞儀にキレがなかったような。
「……心配してくれてるのかな。でもこんなの、ほんとにいつもの事なんだけど」
　気持ちはありがたいけど、もう騒ぎ立てる事でもない。
　のっぴきならない大事というのは、
　ああいう、どこから見ても重傷なものを言うのだし。
「……しっかし、ガムテープはほんとないよな。見てるこっちの血の気が引いたし。今度あったら―――」
　そう言いかけて、言葉は途切れた。
“今度”はもうない。
　俺たちはもう出遭わない。
　あんな物騒な女と関わるなんて、金輪際あってはいけない。
「……そうだ。それがいいに決まってる」
　わかりきった事実を呑みこむ。
　今日は月曜日。
　仕切り直しにはちょうどいい、一週間の始まりだった。
　顔を洗って、身支度を整えてから居間に入る。
　ソファーには秋葉が座っていた。
　時刻は７時になったばかりだが、既に朝食を済ませたらしく、優雅に紅茶などを楽しんでいる。
「あら、おはよう兄さん。今朝は早いんですね」
　俺が早起きした事が喜ばしいのか、秋葉は上機嫌だ。
「おはよう。秋葉の方こそいつも早―――」
　……と。
　ふいに立ち眩みがして、目頭を押さえる。
　それでも目眩は消えてくれない。
　自分でもどうかと思うぐらい、体温が、上がっていく―――
「兄さん……？」
　かすかな衣擦れの音と、近寄ってくる足音。
「どうかしました？　顔が赤いけど、熱でもあるんですか？」
「あ……いや、熱は、確かにあるん、だけど」
　秋葉は遠慮なく近づいてきて、下から俺の顔を覗きこむ。
　……おかしい。
　なぜか、秋葉を見ていると、目眩が強くなっていくような。
「……少し、熱があるようですね。
　昨夜はきちんと毛布を使いましたか？　環境が変わったから調子を崩しただけでしょうけど、念には念よね。
　そこで待っていてください兄さん。いま琥珀を呼びつけますから、朝食の前に熱を測りましょう」
　秋葉はロビーに視線を向けた。厨房で朝食の支度をしている琥珀さんを呼びに行く気なのだろう。
　その隙に秋葉から視線を逸らす。
　……やっぱり、それだけで目眩は治まってくれた。
「いいんだ秋葉、琥珀さんを呼ぶまでもないよ。
　起きたばかりで体調が悪いだけだから、いちいち気にしないで―――」
「体調が悪いのならなおさら放っておけませんっ。風邪だったらどうするんですか。<些細|ささい>な病気でも兄さんには<大事|おおごと>でしょう。免疫や抵抗力が人より低いんですから」
　秋葉は呆れながら、スッ、と俺のひたいに手を当てた。
　ひやりと冷たい、<華奢|きゃしゃ>な手のひらの感触に、首筋がぞくりとする。
「――――――」
　一瞬、完全に呼吸が止まった。
　秋葉の言う通り、今朝の俺は何かおかしい。
　どうしてかは不明だが、秋葉の一挙一動が気にかかる。
　仕草を見るだけでも体温が上がる。
　ましてや直に触られたら、目眩で倒れかねない程だ。
「……兄さん？　あの、ずいぶんと熱くないですか……？」
　秋葉の声が、耳にではなく脳に直接響く気がする。
　美しい黒髪が、白い陶器のような肌が、そのまま熱になって頭に流れこんでくるようだった。
「っ……」
　これは、まずい。
　こんなのは今だけのコト。
　単に疲れが溜まっていて体調が安定しないだけ。
　だから今は、とにかく、秋葉の前でとんでもない失敗をする前に、
「よし、急用を思い出した！」
　秋葉の手を払って、脱兎の如く走り出した。
「志貴さま？　朝食まであと５分ほどかかりますが……」
「そうか、ありがとう。ええっと、俺の鞄は？」
「鞄でしたら、こちらに」
　さすが翡翠、準備は万全だ。
　お礼を言って翡翠から鞄を受け取る。
「行ってくる。見送りはいいから！」
「お待ちなさいっ！　熱があるのに何をしているんですか兄さんは！　
だいいち廊下は走らない、妹の言う事はきちんと聞くが我が家のルールです！　おとなしく居間で熱を測ってください！」
　俺を止めにきたのか、秋葉はロビーで待ち受けていた。
　しかし本人の言い分通り廊下は走らない分、ロビーにやってきたばかりのようだ。
「悪い、ルールを守るのはまた後で……！
　熱も下がったしこのまま学校に行ってくる！　朝飯は勝手になんとかするから、今朝は大目に見てくれ！」
「なんとかするって―――ちょっと、兄さん!?
　待ちなさい、なんですかその言い分は……！　後で守るルールなんて、それじゃあ規則とは呼べませんっ！」
　秋葉のお小言から逃げるように、玄関から外に向かって走り抜けた。
　心の中ですまない、と秋葉に手を合わせる。
　体の心配をしてくれるのはありがたいけど、
“いや。実は、秋葉を見ていると目眩で倒れそうになる”
　なんて言えるはずもなし、言ったところでどんな反撃が待っているコトか。
「ふう」
　大きく息をはいて、ようやく落ち着いた。
　ここまで来れば安全だ。
　秋葉も登校すると言って飛び出した兄貴を追いかけてくるほど子供じゃないだろう。
「けど、怒る理由がルールについてなのが秋葉らしいな」
　先ほどの台詞を思い出して苦笑する。
　我が妹ながら、あいつの感情の沸点は低いんだか高いんだか、いま以て不明である。
「……コンビニにでも寄って行くか」
　財布の中は<心許|こころもと>ないが、軽く栄養を摂っておこう。
　こんな日にかぎって食欲がある事が恨めしい。
　いつもなら朝食を抜いても気にならないのに、今朝はとにかく腹が減って仕方がない。
　総菜パンの一つでも買って、昼食までのつなぎとしよう。
　コンビニエンスストアに立ち寄ったところで、時間は数分しか経過しない。
　いつもより30分ほど早い登校時間。
　歩道を行く制服姿はまばらだ。
　あと10分もすれば生徒達で賑わう正門前も、いまは自分を含めて二、三人しか歩いていない。
　あの時のように、ガードレールに腰を下ろして誰かを待っている、嘘みたいに美しかった女の姿もない。
　校庭では運動部が朝練をしている最中だった。
　それを横目に昇降口に向かう。
　体を動かす事は好きだ。だって生きている感じがする。
　けど、部活に入る事はできなかった。
　慢性的な貧血持ちなので、ここぞという時にまわりに迷惑をかけかねないし、そもそも、過度の運動は控えるようにと医者からも固く念を押されている。
　一年の頃は部活に誘ってもらえる機会もあった。
　そのたびに、『次の機会に』と断ってきた。
　そのたびに、言いようのない隔たりを感じる事があった。
　……あれは、結局。
　どうあってもあちら側には混ざれないと、無意識下に感じ取っての自己防衛だったのだろう。
「……………」
　つまらない感傷を切り上げる。
　心中、部活動に励む仲間たちに声援を送って、校舎へと足を向けた。
「あ、あらら？　おはよう志貴クン、今朝は早くない？」
「っと……はい、ちょっと時間を間違えて。
　おはようございます、ノエル先生」
　教室に向かう途中、ノエル先生とばったり出くわした。
　俺同様、こんなハンパな時間に誰かいるとは思わなかったらしく、ノエル先生はちょっと素っぽかった。
「時間を間違えると遅刻するんじゃなくて、早くから登校しちゃうんだ。志貴クンはあれね、勤勉家ね。今どきの若い子なら、もっと気楽に生きていいんじゃない？」
「十分気楽にやってますよ。勉強好きでもありませんし。
　それより、金曜日の無断欠席についてですけど……」
「ああ、アレね。大丈夫、お家には連絡入れてないから。
　たった一日のボイコットなんてフツーだものね。志貴クンだって、その方が都合が良かったでしょう？」
　ノエル先生は意味ありげな含み笑いを浮かべて、教師にあるまじき発言をする。
　……それは助かる。
　というか助かった。秋葉があまり怒っていなかったのは、金曜日の無断欠席が露見していなかったからだ。
「――――――」
　とはいえ、ノエル先生の教育方針は、ちょっと<大|おお>らかすぎないだろうか？
「あ、志貴クンったらあたま固いんだ。
　先生は不真面目なワケじゃありませーん。生徒の自主性を尊重してのコトですぅー。
だってみんな、こんなにも若くて美味しそうなんですもの。一日ぐらい、背伸びして遊びに行くのは仕方がないコトだと思うの」
「い、いえ、遊びに行っていたとか、そういうんじゃなくて……」
「なーんて、冗談よ。
　分かってます分かってます、例の貧血でしょう？　真面目な志貴クンが火遊びをするワケないものね。
　それで、体の方は大丈夫？　痛いところとか残ってない？」
　……真剣に心配されてしまった。
　本当はノエル先生の冗談こそ的を射ているのだが、あえて訂正することもない。
「貧血の方はなんとか。今朝は特に調子がいいです」
「そう。それは良かった。じゃあ今日から気楽な学生生活に戻れるわね。
ところで。慢性的な貧血という話だけど、志貴クンはいつからそういう体質なの？　やっぱり生まれつき？」
「？　生まれつき、ではないんです。子供の頃に事故にあって、それ以来というか」
「まあ……それは気の毒に。それで運動をしなくなったり、食欲が薄くなったりしたのね。
　それで、どんなだったのかしら？」
「はい？」
　意味不明の質問に、つい声をあげてしまった。
　ノエル先生は、リップを塗った唇を舌で舐めるように、
「だから、どんな事故だったの、と訊いたの。
　体がおかしくなるぐらいの怪我だったんでしょう？
　やっぱりすごく痛くて、泣きわめくほど怖かったのよね？　それこそ、一度死んで生まれ変わってしまうぐらいに」
「――――――」
　……言いようのない寒気が走る。
　ノエル先生の無神経な発言にじゃない。この先生は好奇心旺盛というか、空気を読めない人だというのは赴任初日から分かっている。
　俺が言い淀んだのは、その事故の内容を、俺自身いっさい覚えていないからだ。
「……ただの事故ですよ。こうして無事だし、大したコトじゃありません。そろそろ時間だし、失礼します」
　ノエル先生に一礼して、その横を通り過ぎる。
「志貴クン」
　名前を呼ばれて振り返る。
「体調がいいのなら、今日からしっかりね。これ以上、無断欠席はしない方が身のためよ♡」
　フランスからの帰国子女はウインクなどかまして、職員室に向かって行った。
　一番乗りだと思っていたが、教室には何人かのクラスメイトの姿があった。
「早いな遠野。金曜、どうしたん？」
「おはよ。金曜は体調不良。そっちは朝練終わり？」
「そーそー。放課後の部活動だけじゃなく、朝練まで自重しろって話になってきてさー。主将を交代したばっかだってのに、こんなんじゃ統率とれねぇよ。なぁ？」
　通常運転に見えた運動部も吸血鬼事件の影響を受けていたのか。
　まあ、それもあとしばらくの辛抱だ。事件はじき風化して、部活動も元に戻るだろう。
　ホームルーム５分前。
　こうして、何事もなく一日の授業が始まるのだ、と幸福を噛みしめていると、
「ヤッホーさぼり魔！　オハヨーゴザイマース！」
「――――――」
　背後から、朝の一時を台無しにする声をかけられた。
「ヨッス不良君！　金曜日はナイス無断欠席でしたね！
　おかげで今朝はまた一段と……一段と……元気ありそう？　
なんだよ、<金土日|きんどーにち>と寝こんでたんじゃねーの？」
「寝こんでないし、貧弱でもない。
　金曜日はたまたま気分が悪くなっただけで、家に帰ったら回復したよ。面倒なんで、そのまま学校は休んだけど」
「マジか。あの豪華なお屋敷でのんびりアンニュイ<生活|ライフ>とか、たった三日でお貴族さまの仲間入りかよ。
あいかわらず<肝|きも>太いっつーか、順応性高いっつーか、ほんと住めば<都|みやこ>なのな遠野は。うん、メチャクチャ羨ましくねぇーーー！」
　凄まじいまでの強がりを見せる有彦。
　この男の反骨精神は見習うべきところがある。
「言っとくけど慣れてないぞ。
　おまえな、あの家がどれだけでかいか見てないから……ん？　有彦、遠野の屋敷、知ってるのか？」
「うんにゃ、知らぬ。あんだけ高いところにあって、かつまわりは塀と林だろ？　敷地の中に入らねぇと見えねぇだろ。
　いや、<出歯亀|デバガメ>根性で見たいけどよ。でもほら、お宅、セキュリティとか、お凄いんでしょ？」
「俺が知るか。……ああいや、啓子さんの話じゃ年に数回泥棒騒ぎがあるらしいけど、遠野邸に警察が駆けつけた事なんかないって言ってたし。おまえだって、丘の上の屋敷に泥棒が入ったなんて話、聞いた事ないだろ？」
「おま、それ……年に数回賊が押し入るのに警察が来ないって……それやばくね？　蟻地獄っぽくね？」
「？　どこが？」
　警察が駆けつけるより先に泥棒を捕まえてるんだから、セキュリティは<脆弱|やばい>どころか優秀なのではないだろうか？
「いや、だからよ。そもそも外に出てきてねえんじゃねえの、その泥棒さん」
「なるほど。それならどんな噂も広まらないか」
　うむ、と真顔で頷き合う。
　……この話題をこれ以上考えると恐ろしいので、俺たちは全力で話題を切り替える事にした。
「そうそう。土曜の事故現場、もう見たか？　北口駅前の大火事。地下からの出火だったって話」
「……いや、まだ見てない。話だけは聞いているけど」
「ほれ、北口に改装前のデパートあっただろ。あの前にあった公園がごっそり地下に陥没してる。ありゃあひでぇぜ、元に戻すの一年はかかるんじゃねえかな。
　でもまあ、悪い事ばかりじゃない。警備員やらテレビ局やらが押し寄せてるんで、北口の<新|バ><参|カ>共、なりを潜めやがったからな」
「そうなのか。……じゃあ、鞍御橋駅のホテルの話は？」
「鞍御橋のホテルって、あのドームホテル？　あー……そういえば、あっちでも火災があったんだっけ。北口の壊れっぷりがすげえんで忘れてたわ」
　……有彦を軽薄とは咎められない。
　あれだけの人間が焼死した事件であろうと、有彦にとってはとなり町の話だ。
　日々ニュースが更新される現代において、どれほど辛い出来事だろうと、次の凄惨なニュースに上書きされ、消費される。
「……なんにせよ物騒なのは変わらねぇってコトか。
　そういうおまえさんもどうなんだよ。遠野は中学からこっち、貧血持ちのくせに学校だけは休まなかったじゃねえか。まあ、登校した瞬間に帰るっていう離れ技は何度かあったけどな」
「それと似たようなものだよ。交差点あたりまでは登校したんだけど、そこで気分が悪くなって帰ったんだ」
「ふーん。弓塚といいおまえといい、最近素行が悪いんじゃないか？」
「素行が悪いっていうのは否定しないけど……弓塚さん、どうかしたのか？」
「木曜からずっと欠席。今朝も来てねえ。あいつもずっと優等生してたからな、いいかげんテンパッてたのかもしれん。しかしフリテンだから上がれない、と」
「……………」
　有彦の喩え話は、なんというか独特だ
。
「おっと、んじゃオレはこれで。
　さらばだ、金曜さぼった分まじめに勉学に励むがいい！」
　有彦はいそいそと教室を出ていった。
　保健室にでもしけこむのだろう。
　今日はあいつが授業をボイコットするターンらしい。
　そして昼休みになった途端、
いかにも“いま起きた！”といわんばかりのあくびと共に、<乾有彦|ダメにんげん>が現れた。
「ふわぁ～、よく寝たぁ。
　遠野、メシ食おうぜ、メシ」
　これである。あの頭蓋の中には三大欲求しか存在しないのでは、と仮説を立ててみたい。
「そりゃあメシは当然のように食べるけど、いいのか、俺なんかに構って。ランチは先輩と一緒、がおまえのマイブームじゃなかったっけ？」
「あ？　先輩とランチだぁ？」
　むう、と苦虫を噛みつぶしたかの如く顔をしかめる有彦。
　どうやら今日も先輩にフラれたらしい。
　有彦と昼食をとる。
　保健室でたっぷり眠っていた有彦は、
「総耶駅前　で検索っと……んー、なんの新展開もねぇなあ」
　携帯端末を片手に情報収集にいそしんでいる。
　なんでも、“４時間<も|・>世間さまから遅れがあるなんて、致命傷にも程がある”とのこと。
　ネット依存症にもとれるが、コイツの場合は他の学生とは毛色が違う。
　有彦にとって総耶駅付近の<情報|ニュース>は他人事の娯楽じゃない。本気で夜の繁華街でサバイバルする道具、いわば“今夜の武器が何なのか”をかかさずにチェックしている。
「んー、また定番のコンビニレジ強盗ですか。
　店員、刃物で腹部を刺され重傷、犯人はアルコール依存症。うへぇ痛そー。酔っ払いに<話|はなし>通じねえもんなぁ。やっぱ買い物は通販にかぎりますなあ」
　有彦は片手で携帯を操作しながら定食を平らげていく。
　食事時に新聞を読む父親、という文化は、このように最新のものに切り替わっていく。
　いや、そんな現代批評はともかく。
「有彦。食事時にその手のニュース読み上げるの、楽しいか？」
「楽しくねえですよ。けど世間に興味を持たないマヌケな友人のために、世の中の物騒さを知らしめなきゃならんでしょ。
　聞いてますか遠野クン。北口は倒壊するわ、酔っ払いは人を刺すわ、無差別に人を殺す通り魔はいるわ、他人事じゃねえかもなんだぜ？」
「それは確かに。でも通り魔事件はもう起きないんだ。
　北口の事故はどうしようもないけど、それ以外はいつも通りって事だろ」
「そなの？　通り魔って捕まったんだ？」
「いや、捕まってはいないだろうけど―――」
　その犯人はもうこの世にはいない。
　だから現代の吸血鬼なんていう俗な見だしがニュースになる事はないし、意味もなく『誰か』が殺される事もない。
「ともかく、もうあんなふざけた事件は起きないし、犠牲者も出ないってこと。街は元に戻ったんだよ」
「…………むう。しかし、犠牲者は出ると思うぜ遠野」
「出ないよ。なんで断言できるんだよ、有彦は」
「だって、ほい。今朝で九人目の死体が発見されたって、いまニュースで流れてる」
　有彦は携帯端末の画面を見せつける。
　「―――――、
え」
　我が目を疑う。
　最新のニュースを集めるサイトには、確かに、総耶駅北口の俯瞰写真から始まる、吸血殺人事件の新情報があった。
「マジかよ。ここ、いつも行ってる映画館の裏じゃねえか？」
「待て。もう一度よく見せてくれ」
　有彦から携帯を借り受ける。
　素人によるデマゴギーでも、憶測から出た仮説でもない。
　画面にはハッキリと、昨夜、通り魔殺人による九人目の犠牲者が出た、と警察からの公式見解が発表されていた。
「そんな―――」
　あまりの事に言葉がない。
　あいつは。ヴローヴは死んだ。この手で殺した。
　なのにどうして、体内の血液が大量に搾取された死体、なんてモノが出てきやがる……!?
「しっかし、現代の吸血鬼か。
相手が美人のお姉さんなら吸われちゃってもいいんだがねぇ」
「―――美人の、吸血鬼？」
　有彦の軽口に背筋が凍り付く。
“美人のお姉さんなら吸われてもいい”。
　その戯言は、俺にとっては冗談では済まされない。
「事件は、まだ終わっていない―――」
　新たに出た犠牲者は、吸血鬼が健在である事を示している。
　……簡単な消去法をすればいい。
　ヴローヴは消えた。
　では、残ったもうひとりの吸血鬼は―――
　一日の授業が終わり、放課後になった
。
　いや、いつのまにか放課後になっていた、と言うべきだ。
　悪い考えばかりが頭の中を巡って、気がつけば教室には誰もいなくなっていた。
「……通り魔殺人は、まだ続いている」
　それがどういう意味なのか、本来なら考えるまでもない。
　でもあいつは言った。
　人間を殺した事はない、と。
　俺にはあの言葉が嘘とはどうしても思えない。
「……ニュースが間違いなのか、それとも―――」
　答えを知っているのはアルクェイド本人だけだ。
　あいつを探し出して、もう一度出会えれば、きっとすべてが氷解するだろう。
　……だからこそ、俺には自分が分からない。
　もうあんな事件と俺は無関係だ。
　俺はヴローヴと決着をつけた時点で日常に戻ってきた。
　責任は果たした。果たした筈だ。
　だから理由がない。好きこのんで、あんな異常な世界に踏み入る理由がない。
　俺はこのまま、何も気づかなかったふりをして、何も考えずに帰路についていい筈なんだ。
　このまま帰る。
　それはきっと二番目ぐらいに正しい選択だ。
　けれど俺は、一番目にあたる選択を、ずっとむかしに教えられている。
“―――どんな人間だって人生ってのは落とし穴だらけなのよ。君はそれをなんとかできる力があるんだから、もっとシャンとしなさい―――”
「……そうだ。
　何もしないって選択だけは、しちゃいけない」
　その言葉に救われた。
　そうあるようにやってきた。
　なら、このまま見て見ぬふりは出来ない。
　……事件はまだ終わっていない。
　一度関わってしまった以上、遠野志貴は最後まで、この厄介ごとから逃げられない運命にあるらしい―――
　学校を出た。
　手がかりは少ないが、俺にはあいつから預かったまま返せずにいた、マンションの鍵がある。
　とりあえずマンションに行ってみよう。
「いない……か」
　マンションの部屋はそのままだったけれど、アルクェイドの姿はなかった。
　少なくともあいつの痕跡はここにある。煙のように何もかも消えた訳ではない事に、ほっと胸を撫で下ろした。
「いいさ、そう簡単に捕まえられるなんて思ってない。
　とにかく、今は行動あるのみだ」
　ここで待っていてもあいつが帰ってくる保証はない。
　……その、初めてあいつを見かけた時のように、街に出て手当たりしだいに探すしかないだろう。
　日が沈んで、街は本格的に夜の顔に変わっていく
。
　おもだったところを探し回ってはみたものの、アルクェイドの姿は片鱗さえ見つからなかった。
「……どうでもいい時はひょこひょこ歩いてたクセに、どうしてこういう時に見つからないんだ、あいつは」
　……どうするか。
　夜はまだ始まったばかりだし、ここは―――
　時刻は夜の７時。
　もともと車通りの少ない国道だが、夜ともなれば完全に<人気|ひとけ>は途絶え、周囲は静まりかえっている。
　呼び鈴を押してロックを解除してもらおうとも思ったが、今はちょうど夕食前だ。
　琥珀さんも翡翠も厨房にいるだろうし、邪魔をするのも気が引ける。
　カードキーを使って、正門横の扉をくぐり抜けた。
「―――あ」
　……と。
　玄関口に立ったところで、今朝のやりとりを思い出した。
　慌ただしく屋敷を飛び出した事を、秋葉はまだ怒っているだろうか？
　諦めずに街を回ろう。
　そもそも、俺とアイツはすれ違いで出会った。
“ここに行けば会える”なんて、そんな当たり前の関係じゃない。
　偶然に頼らないのであれば、自分の勘と足を総動員して、あの白い背中を見つけないと。
「……そうだよな。人に会いに行くっていうのはそういう事だ。携帯に頼りすぎだった」
　まだ携帯端末が普及していなかった頃。
　待ち合わせの場所ですれ違っても、相手の生活習慣や考え方を考察すれば身一つで探し当てられた。
　それは『野生の勘』というより、人間が持つごく当たり前の能力だ。携帯に慣れた現代だろうと、やってやれない事はない。
　……とはいえ、俺の行動範囲は狭い。
　住宅地か繁華街、どちらかに的を絞るべきだろう。
「…………よし」
　小考して繁華街に決めた。
　総耶駅の北口と南口を交互に監視しながら、繁華街の方にも足を延ばそう。
　どんな人混みであろうと、アイツがこの街に残っているのなら―――あの後ろ姿がまだ残っていてくれるなら、俺は決して見逃さない。
「いや、ないわ」
　野生の勘とかぜんぜん無かった。
　そろそろ見つけられるかも？　という予感も、
　次こそこっちの駅前にいる！　という期待も、
　もうまるっきりしなかった。
　ここまで清々しい無駄骨は久しぶりだ。言い過ぎかもしれないが初めてですらある。
　いつ貧血が起きるか分からないため、遠野志貴は『無駄な行動』をしないよう努めていたからだ。
　……そう思うと、なんだってこんな“そうかもしれない”という不確かな理由で、
“見つけられるかもしれない”なんて根拠のない選択をしたのだろうか。
「でも夜はこれからが本番だし。
　あともうちょっとだけ探索を―――」
　携帯に着信があった。
　誰だろう、有彦かな？　と取り出してみると……
『志貴さん、
　急いでお屋敷に帰ってきてくださいますか？
　なぜかというと突然のお客様がいらっしゃいまして』
『とても素敵な、“志貴さんのガールフレンド”を名乗る外国人の女性と、
　朝の一件だけでなく志貴さまがお帰りにならない事に不機嫌だった秋葉さまとかけます。
　そのこころは？』
　琥珀さんからの謎のメールだった。
「―――
は？」
　頭の中が真っ白になる。
　つまり……アルクェイドはいま、遠野の屋敷に？
　思考は最悪の事態をたやすく理解し、そして理解を拒んだ。
　俺は甘かった。本当に甘かった。
　なぜ常識の範疇で、アルクェイドの行動を予測しようなどと思ったのか？
「にしても
意味不明すぎるだろーーー！？」
　脱兎の勢いで遠野邸に走り出す。
　アルクェイドがどんな発言をしているのか、想像するのも恐ろしい。
　そして、それを聞いた秋葉がどんな感想を抱くのかなんて、もはや想像するだけで死にそうなんですけど……！
　よし、最高記録を更新した。
　心臓破りの坂を走り抜け、息も絶え絶えで遠野邸に辿り着く。
　しかし、
「…………ごくり」
　全力疾走で乱れていた呼吸が鎮まる。
　激しく上下していた両肩もおとなしくなる。
　それもそのはず、今の遠野邸はホラー映画の導入もかくや、という威圧感を放っていた。
　っていうか、
『まあ、ちょうどいいところに。
　覚悟はできていますね、兄さん？』
　……いやあ。
　人間って、こんな簡単に死の覚悟を強制されるものだったっけ……？
　だが兄に退路はない。
　怯んでいても事態は悪化していく一方だろう。
　俺は覚悟を決めて、魔の洋館に突入した。
「ようやくお帰りになったようですね。
　……ふん。あと１分遅かったのなら、どうなっていたか分からなかったところです」
「……いや、子供じゃあるまいし。
　さすがにもう落ち着いているんじゃないか？」
　秋葉が怒鳴った理由は、俺が廊下を走った事と、診察を受けなかった事だ。
　どちらも夜まで引っ張るほどのものじゃない。
　きちんと事情を話す……のはできないけど、反省していると伝えれば秋葉も収めてくれるだろう。
「そうそう。妙に厳格な性格になってるけど、話せば分かるのが秋葉だし」
　まずは帰ってきた事を伝えよう。
　その後は屋敷の消灯時間までアルクェイド捜しの対策を練って、こっそり街に出かければいい。
「……いや、大人じゃあるまいし。
　あの剣幕がそう簡単に収まってるとは思えないぞ……」
　むしろ時間が経てば経つほど激化しているかもしれない。
　完璧主義の当主様におかれましては、感情のたき火は水をかけるまで永劫に燃え続ける、まである。敵に回すと恐ろしいタイプである。
　しかるに、朝の剣幕から経過すること約12時間。
　風船のように膨らみまくった秋葉の怒りは、原稿用紙一枚分の形容詞に達しているかもしれない。
「……ちょっと頭いたい。自称吸血鬼だって言い張る女より、うちの妹の方が迫力あるとか……」
　自分の置かれた環境の複雑さに今更ながらため息をつく。
　……ともあれ、ここで震えていても事態は好転しない。
　俺はカミナリが落ちる事を覚悟しつつ、決死の思いで扉に手をかけた。
「ただいまー」
　できるだけ呑気に声をあげてロビーに入る。
　……？
　なんだろう、居間から話し声が聞こえてくる。
　今は夕食直前だ。居間からの声は少し不自然に感じる。
　琥珀さんは厨房だろうし、翡翠は秋葉と会話をする<人物|キャラ>ではないと思う。
「……秋葉のヤツ、琥珀さんとお茶でも飲んでるのかな」
　あるいは他に客人がいるのか。
　ともあれ、様子を見に行こうと居間に向かう、と……
　ちょうど、居間から翡翠が出てきた。
　俺の声を聞いて出迎えにきてくれた……わりには、表情が妙に曇っているような……？
「遅くなったけど、ただいま翡翠」
「………………」
　翡翠は無表情で俺を見据えている。
　いつもの「おかえりなさいませ」もない。
「えっと……何かあった？
　気のせいか怒っているように見えるんだけど……」
「―――志貴さまにお客さまです。
　先ほどから居間でお待ちですので、どうぞお急ぎください」
「俺に客？」
　はい、と翡翠は頷く。
「……おかしいな。俺を訪ねに来るヤツなんていないはずだけど。引っ越した事を知ってるのは有彦ぐらいだし、最近知り合いになったヤツもいな――――」
　―――いや、まて。
　なにか、とてつもなくイヤな予感がする。
「翡翠。それ、どんなヤツ？」
「金色の髪をした、綺麗な女性の方です」
「―――、な」
　翡翠の説明は実に率直だ。
　俺は反射的かつ自動的に、可能なかぎり最速の足運びで、魔の居間へと駆け出していた。
「なにがどうなってんだーーーー！？」
　力いっぱい扉を開けて中に入る。
　だが、もう何もかも遅かった。
　事態は収拾不可能な、驚天動地……俺のライフパスにおいて……の展開を迎えていた。
「あら。―――お帰りなさい兄さん。
　今夜もまた、定例通り遅かったですね」
「あ、やっと帰ってきたな、こいつめ。妹さんばかりかわたしまで待たせるとか、やっぱり普段から横暴なのね」
　二人は正反対の表情で俺を見る。
　……知っている。この気持ちを知っている。
　映画でよく見る『後頭部に銃口を押しつけられて命乞いをしてみろ』と言われている兵士の切ない気持ちと同じだと思う。
「………………」
　なので、気の利いた言葉を返せる余裕はない。
　よりにもよってアルクェイドと秋葉が向かい合っている。
　アルクェイドは平然としていて、秋葉も同じように平然とソファーに座っている。
　けれど自然体……天然のアルクェイドと違って、秋葉の態度はアルクェイドへの敵意がミエミエだった。
　ちらり、と秋葉が俺を流し見る。
「どうしたんですか兄さん。そんなところに立っていないで、どうぞこちらに来て座ってください」
　いいえ。ソファーに近づいたが最後、そのままナイフでトスっと刺されそうな気がするので、とてもじゃないけど近づけない。
「こ、ここでいいです。
　それより秋葉、こいつはだな、その――――」
　……その、なんて説明すればいいんだろう？
　学校のクラスメイトだ、なんて通用する筈もなし、街で知り合った、というのも火に油を注ぐ気がする。
「その、なんですか？」
　秋葉の容赦ない視線が突き刺さる。
　ええい、こうなっては何を言っても無駄な気がするけど、誰も傷つかない……特に俺の平穏が脅かされない……弁明を繰り出さなければいけない。
　いけないんだけど―――そもそもの話、あそこで我関せずとニコニコ笑ってやがる吸血鬼女は、どんな<名目|めいもく>でうちにあがりこんだのだろう？
　秋葉が見ず知らずの人間を居間に通すなんて、ちょっと考えつかないぞ？
「……その前に、いいかな。
　コイツ、なんて言ってやってきたの？」
「ん？」
　アルクェイドは不思議そうに首をかしげている。
「……兄さんのご友人ではないんですか？
　この方はそう自称しましたが」
「ああ、うん、友人といえば、友人」
「そうですか。私にも紹介していただけると嬉しいわ。
　兄さんのご友人でしたら、無下にお帰りいただくわけにはいきませんし」
「あの、それはですね、秋葉さん」
　ムニャムニャと言葉を濁す。
「ふーん。友人、ねー。ふーん」
　と。無視され続けて我慢できなくなったのか、アルクェイドは兄妹水入らずの会話に割って入ってくると、
「あんな酷いコトしておいて、そういうコト言うんだ。わたし、まだ体が痛いんだけど」
「な――――――」
　くらっ。
　ああ、これが世間一般でいう目眩なのか。
　この、現実からすごい勢いで<離脱|ばびゅーん>していく<酩酊|めいてい>感、たまらん。
「……それはどういった意味でしょうか。私の兄が、身体面、あるいは精神面において貴女に危害を加えたとでも？
　失礼ですが、ご自分がどれほど信憑性のない発言をしているか、理解していますか？」
「ええ、バッチリね。でも安心して、そんなのもう気にしていないから。ちゃんと体で返してもらったし。
　なので、どうぞおかまいなく。わたしは志貴を誘いに来ただけだもの。すぐに出かけるわ。ね、そうでしょ志貴？」
　―――まずい。
　コイツにこれ以上<喋|しゃべ>らせては、遠野志貴の身の破滅だ。
「いやあ、あははははは！」
　やけくそ気味に笑いながらアルクェイドに走りより、
強引に腕を掴む。
「ちょっと志貴、急に何するのよ」
　文句を聞いている余裕はない。
　俺はアルクェイドの腕を引っぱって、呆然としている秋葉を残して居間から飛び出した。
　ロビーには翡翠が控えていた。
　翡翠はアルクェイドを引っ張って走る俺を、どのような心境で見ているのか。考えると胃に穴が空きそうなので、今は考えないようにしよう。
「お出かけですか、志貴さま」
「不本意ながら。すっごく申し訳ないんだけど、玄関の鍵は開けておいてほしい」
「はい、かしこまりました。どうぞ、たいへんお気を付けて」
　<慇懃|いんぎん>におじぎをする翡翠の横を駆け抜けて、逃げるように屋敷から外に出る。
「いったいなあ。いきなり外に連れ出すなんて、志貴って常識ないんじゃない？」
　この世でいちばんどの<顔|ツラ>な台詞だった。
「おまえこそ何のつもりだよ!?　真正面からうちの屋敷に来るなんて正気じゃないぞ、もしかして俺の生活をぶっ壊すつもりなのか、このばか女っ！」
「ばっ……ばか女って、あなたわたしを莫迦にしてるの!?」
「ばかをばかって言ってんだから、それ以外なにがあるっていうんだばか！　反論があるなら聞いてやるから言ってみろ！」
「え―――あ、う？」
　俺の頭は完全に沸騰していた。
　こんなに理解不能な状況ははじめてで、相手がなんであれ真っ正面から文句を言わなくちゃ気が済まない。
「なによ、わたしは志貴に会いに来ただけじゃない。
　そんなに怒られるようなコト、してないと思うけど」
「……会いに来ただけって、アルクェイド、おまえ本気で言ってるのか」
「そ、そうだけど、なによ。
　な、何の問題もないからね。魔眼も使ってないし、極めて人間的なアプローチしたんだし。
　志貴の妹さんにだって、志貴の目の事も、わたしが吸血鬼である事も、ちゃんと黙っててあげたんだから」
「そこは言わなくても分かる。そっちの話に関しちゃ常識ありそうだからな、おまえ」
「……わっかんないなあ。
　それじゃあ、なんでそんなに怒ってるのよ、あなたは」
「そっちがあんまりにも考えなしだからだよ！
　この際だからハッキリ言っておくぞ！？　周囲の目を考える、自分の特徴を自覚する！
　頼むから、もうちょっとおとなしめに行動するコト！　おまえは居るだけで目立つんだからっ！」
　……ふう。
　とりあえず言いたい事を口にしてスッキリした。
　が、言われたい放題のこいつは正反対だ。
　アルクェイドは猫のようにむーっと、不機嫌そうに睨んでくる。
「―――なによ、勝手なことばっかり言って。
　だいたい居るだけで目立つってどうしてよ。わたし、外見は人間と変わらないでしょう？」
「美人は居るだけで目立つんだよ。人間であるかどうかなんて関係ない」
　きっぱりと言い返す。
　無駄のない返答だったからか、アルクェイドもそっか、とあっさり納得したようだ。
「……まあ、こっちも言い過ぎた。
　こういう修羅場ははじめてだったから、気が動転してたんだ」
「……別にいいよ。悪かったのはわたしの方みたいだし」
　アルクェイドはやけに素直にうなずいた。
　なんか、それはそれで裏がありそうで恐いな、と思ってしまう自分が後ろめたい。
「……で。どうしてうちに来たりしたんだ。
　いや、俺もおまえに話があったから、渡りに船だけど」
「そうなの？　わたしは単に、志貴はどうしてるのかなって様子を見に来ただけなんだけど？」
「そうか。興味本位か。次は木の陰にでも隠れてこっそり見に来てくれ。できるだけ誰にも見つからないように。できれば俺にも見つからないように」
　……なんだか、どっと疲れた。
　でもまあ、こいつの気まぐれに振り回されるのもこれが初めてじゃない。
　秋葉には事情を話さなかったというし、こいつはこいつで、俺の立場をそれなりに尊重してくれていると思う。
「ともかくだ、真剣に話したい事がある。ここじゃ落ち着かないから場所を変えたいんだけど、いいか？」
「いいけど―――話ってなによ」
「すぐに分かる。……そうだな、そろそろ人気もなくなるし、公園あたりがいいかもしれない」
　行こう、と声をかけて歩き始める。
　アルクェイドは首をかしげながら、おとなしくこちらの後についてきた。
「話ってなんなの、志貴？」
「吸血鬼のこと。おまえ、前に言ったよな。<巷|ちまた>を騒がしている通り魔殺人は吸血鬼の仕業だって」
　ええ、とアルクェイドは頷く。
「それじゃあ今朝のニュースで新しい犠牲者が出たっていうのは知ってるか？
　昨日の夜に通り魔に殺されて、血を抜かれたらしいんだけど」
「―――――」
　アルクェイドの目が細まる。
　地面と思って踏みこんだ先が薄氷だと気づいたような、一歩間違えれば死に至るような緊迫感。
「ふぅん、それで？」
「それでって―――おまえ」
　ごくりと唾を飲みこむ。
　アルクェイドの視線は、まっすぐに俺を捉えている。
　こっちが少しでも動けば、即座に襲いかかってくる、そんな視線だ。
「……おかしいじゃないか、アルクェイド。
　ヴローヴは死んだ。なのに、どうしてまだ吸血鬼騒ぎが起こる？　まさかとは思うけど、あれは、おまえが―――」
　おまえの手による凶行なら、俺は―――
「はあ。もう、そんなワケないでしょ。
　それはわたしじゃなくて、他の吸血鬼の仕業よ」
　あっさりと緊張を解いて、呆れたようにアルクェイドは即答した。
「――――――」
　正体不明の喜びをのど元で押し止める。
　ホッとするのはまだ早い。
　他の吸血鬼の仕業なのはいいけど、それでは納得いかない点がある。
「他の吸血鬼の仕業って、そう次から次へと吸血鬼が出てくるのか？　ヴローヴの後にすぐ、新しい吸血鬼がやってきた？」
「まさか。あの事件は初めから一人の吸血鬼の仕業よ。
　この街を食いものにする『新しい吸血鬼』なんてやってこないし、ヴローヴだって、あの事件にはまったく関係ないわ」
　……ヴローヴだって、関係ない……？
「関係ないって……それ、どういう意味だよ」
「言った通りの意味だけど。……もう、志貴ってキレるようでどこか抜けてるのね」
「いい？　たしかにヴローヴは吸血鬼だったけど、あいつは人の血を吸っていた？」
「吸っていたかって、当然だろ。あいつはあんなに、人間をかたっぱしから燃やして―――」
　そう、か。
　なぜそんな単純な違いに気づかなかったのか。
　通り魔殺人の被害者たちは、血を抜かれた後、何の損傷もない遺体として発見されている。
　けれどヴローヴは違う。
　あいつは死体を燃やしてしまう。血を吸いはしたが、それは主立った殺害方法じゃなかった。
　現に、ホテルの被害者たちは殺人事件としてではなく、火災による死傷者として扱われていた。
　なら―――ヴローヴは街で起きている連続殺人事件とはまったく繋がりがないじゃないか……！
「待ってくれ。じゃあ吸血殺人事件はなんなんだ？
　いったいどこの誰が、あんな真似をしてやがる？」
「だから、あの事件はヴローヴとは別の吸血鬼の仕業なの。
　わたしはその吸血鬼を殺す為にこの街にやってきた」
「ヴローヴが来た理由は……うーんちょっとあやふやになってきたわね。
　てっきりわたしを追いかけてきた一人かと思ったけど、ヴローヴにはそれだけの理性……死徒社会における協調性はなかったみたいだし」
「ま、そのあたりはもういっか。ヴローヴは死んだんだし。
　とにかく、ヴローヴとこの街に巣くっている吸血鬼は別物よ。ヴローヴは正真正銘、無関係の第三者」
「わたし、標的がヴローヴだなんて言わなかったでしょ？
　ヴローヴにとっての標的はわたしだったけど、わたしにとっての標的はこの街で『通り魔』と言われている吸血鬼だけよ。
　……志貴。まさかとは思うけど、ものすごく単純な勘違いしてたとか？」
「―――――」
　愕然と息を呑む。
　けど、たしかにアルクェイドの言う通りだ。
　アルクェイドの目的が吸血鬼殺しだというから、俺は完全に早とちりして、こいつはヴローヴを倒すためにいるんだと思っていた。
「……それじゃあ何か？　あの夜ヴローヴと殺し合ったのは、無意味な事だったっていうのか……？」
「無意味じゃないわ。志貴はわたしの代わりに戦ってくれたんじゃない。
ま、志貴さえわたしを殺さなかったら、その必要もなかったでしょうけど」
「――――――」
　膝から崩れ落ちそうな脱力。
　……あの夜の戦いが無意味だった。
　……ヴローヴを殺しても何も解決していなかった。
　……吸血鬼はまだ街にいて―――俺はその責任を、一時的にしろ、こいつに押しつけようとしていた。
　……だめだ。
　虚脱感と自己嫌悪がぐるぐると回っている。
「……わるい。しつこいけど、最後に確認させてくれ。
　ヴローヴは吸血鬼殺人には関係なくて、ここ一ヶ月街を騒がしているのは別の吸血鬼って事だな……？」
「うん、そういうこと。
　でも、これはわたしが済ませる問題だから志貴は気にしないでいいよ。
そんなコトより、ねえ」
　やけに楽しそうな笑顔をうかべて、アルクェイドは俺を見上げてくる。
「……なんだよ。
　言っておくけど、ものすごく余裕がないぞ、俺」
　気持ちの整理がついていない。
　いま妙なコト言われたら、足元から崩れそうだ。
「ちょっとした疑問よ。ふたりでヴローヴを倒した時のこと。ね、なんで３分だったの？」
「……なんでって、なにが？」
「志貴、３分しか時間はないって言ってたじゃない。どうして３分なのか、ぜんぜん分からなくて」
「……あのな。言っただろ、あそこは海の底みたいなものだって。だから３分しか無理だって言ったんだ」
「？　海の底だと３分なの？」
「――――――」
　……良かった。
　元気があったらノータイムで言い返していたところだ。
「まあ、そうだよ。人間はおまえみたいなのと違って、それぐらいしか水に潜っていられないの」
「なによ。わ、わたしだって、ちょっとは寒かったわ！
　海の底だって、何時間も潜ってたら退屈だし！」
『ちょっと寒かった。』ときたか。
　こっちは死ぬ思いだったんだけど。
「？　下を向いてどうしたの？」
「……いや、ちょっと目眩がして。気にしなくてい……いや気にしてくれ。
　じっさい海に潜ったら３分だって怪しいからな。人間はか弱いんだから、頑丈なおまえと一緒にするな。吸血鬼は吸血鬼同士、我慢比べでもやっててくれ」
　頭を抱えながら、しっしっ、とアルクェイドを手で払う。
「……ま、いまさら言っても始まらないか。
　おまえたちが化け物じみてるのは身に染みてるし。
　いい、ヴローヴの事は俺が馬鹿だった。
　それよりアルクェイド―――」
　なんとか気持ちを落ち着けて、話を再開しようと顔を上げる、と……。
　なんなんだ、あの顔……？
「アルクェイド……？」
「なによ、志貴のいじわる。
　どうせわたしは人間じゃないですよーだ！」
　ぷん、とそっぽを向くと、アルクェイドはスタスタと歩き始めた。
「おい、ちょっと待て。どこ行く気だよ」
「人間な志貴には関係ないっ！　ついてこないでよね！」
　本当にご立腹なのか、アルクェイドは振り返りもせず行ってしまった。
「……………」
　あいつ、どこに行くつもりなんだろう。
　……もしかして地雷踏んだのか、俺。
　思い返してみると、邪険に扱いすぎたかもしれない……。
「……いや、でも、そんな悪口言ってないぞ……？」
　……言ってないよな？
　けど、あいつがあんなに怒ったんだから俺が悪い気もする。……それも全面的に。なんか最低っぽく。
「…………ああもう、悪かった、今のは俺が悪かった！
　だから待て、止まれってばっ！」
　あわてて白い背中を追いかける。
　あいつを怒らせてしまった罪悪感からでは断じてない。
　そもそも、肝心の話の続きをまだしていないワケだし……！
　アルクェイドは夜の街を歩いていく。
　迷いもなく、金の髪をなびかせる白い影。
　その姿は初めて見た時の姿と同じものだ。
　あるいは、崩落した瓦礫の中、ヴローヴと対峙していた時の姿とも。
　……先ほどまでの浮ついた気持ちが消えていく。
　間違いない。あれは狩人の在り方だ。
「アルクェイド」
「――――――」
　アルクェイドはこちらに振り向かず歩いていく。
「話を聞けって。どこに行くつもりだよ」
「――――――」
　白い女の歩みは止まらない。
　……ここで引き下がるのも情けない。
　情けないが、とりあえず無言で後を付いていく事にした。
　カツカツカツ。
　足音だけを響かせる、無言の散歩が続く。
　―――と。
　ピタリ、と立ち止まってアルクェイドは振り向いた。
「ついてこないで。あなたみたいな普通の人間にいられると迷惑だって、分からない？」
「人間で悪かったな。何をしているのか教えてくれたら帰るよ」
「……志貴には関係ないから、ほっといて」
　ぷい、とアルクェイドは前を向いて歩き始める。
　……まいったな。
　また無言の徘徊が始まるみたいだ。
　繁華街から離れた、人気の少ない高架線の下にさしかかった時、アルクェイドはぴたりと足を止めた。
「―――見つけた」
「え………？」
　アルクェイドの声は、別人のように冷たい。
「――――っ」
　……背筋が震える。
　背中ごしにも、今のアルクェイドがどれほどの敵意を帯びているのかが、はっきりと感じ取れる。
「―――なにを――」
　するつもりだ、とは言えない。
　彼女が何をしようとしているのか、言葉にするまでもなく判りきっている。
　アルクェイドから放たれているのは一点の濁りもない『殺意』だった。
「おい―――なに考えてるんだ、おまえ……！」
「――――」
　アルクェイドは答えない。
　その視線の先には、なんでもない、背広姿の男性が歩いていた。
「志貴。眼鏡を外してあの人間を見てみなさい」
「あの人間って……前にいるあの男を？」
「早く。
　わたしが何をしているか知りたいのなら、質問はあとよ」
「……はあ。あんまり街中で視たくはないんだけど―――」
　眼鏡を外す。
「………く」
　こめかみには軽い頭痛。
　その痛みと引き換えに、うっすらと、地面や壁に“線”が視える。
「確認しておくけど。あなたの“線”は、生物の方がはっきり視える？」
「……ああ。その方が、より確かに見える」
「でしょうね。あなたは生物だから、鉱物の死を理解できない。
　形の上の、摩耗というカテゴリーの“結果”は視えても、鉱物たちにとっての“終わり”は視えない。そのためには、彼らと同じ視点、同じ価値観を得なくてはいけない。
　……死を“視る”ためには、命を“理解”しないといけないから」
「それじゃあついでに訊くけど、今の志貴からみて、あの人間はどんな感じ？」
「――――？」
　そんなの、いつもと変わらないと思うけど―――
「――――！？」
　思わず、足を後ろに引いてしまった。
　……なんだ、アレ。
　たしかに、どんな人間だって“線”はある。
　けどそれは数えられる程度の数で、ゆっくりと流動する幾何学模様みたいなものなんだ。
　なのに―――アレは、なんだ。
　体中に“線”が走っている。<静脈動脈|じょうみゃくどうみゃく>のように浮き出た“線”に塗りつぶされて、あの男性がどんな風貌をしているのかさえ、見えない。
「――――ぐっ」
　吐きそうになる。
　……あれでは逆だ。人間に死の線があるのではなく、死の線が、ヒトの形をしているだけ。
「志貴にはどう見える？　わたしとしては、志貴には普通の人間に見えていてほしいんだけど」
「……………っ」
　アルクェイドの言葉に答えられない。
　今は吐き気を堪えるだけで精一杯だ。
「―――そう。
　残念ね、志貴はアレにも死を視てしまっているなんて」
「ああ……なんか普通、とは違う、けど……線は、視え、てる……」
「やっぱり。死者さえ殺せるのね、あなたは。
　命が有る無しの問題さえ無関係。動いているもの、破壊できるものなら例外なく停止させる―――なによ。ほんとの化物はあなたの方じゃない」
「え―――――」
「志貴が視ている通り、アレはもう人間とは呼べないわ。
　死という負債を、他人の血で誤魔化し続ける吸血鬼だから」
　アルクェイドは歩を速める。
　一直線に、どこにでもいるような男に向かって。
「おい、アルクェイド―――」
「志貴はそこにいて」
　男はアルクェイドに気がついたのか、一瞬で俺の視界から消失した。
　正しくは、人間離れしたスピードで、この場から跳躍した。
　男は姿を隠すように、高架線下の暗がりに逃げこんでいく。
　アルクェイドの姿は既にない。
　錆びた電灯が照らす中、彼女も人の目が届かぬ暗がりに入っていった。
　―――どくん。
　心臓の音が、やけに近くで聞こえた。
　まだ夜も深くない時間。
　通り過ぎていく車のヘッドライト。
　頭上を過ぎていく電車の通過音。
　そんな騒音のただ中にいるのに、自分以外の人の気配が、まったく感じられなくなった。
　―――ドクン。
　眼鏡―――眼鏡を、早くかけ直さないと。
　そうしないと、厭なものを見てしまう。
　今まで視えていたものなんて入り口にすぎないぐらいの淵を、見る事になってしまう。
　―――ドクン。
　でも体が動かない。
　ツギハギだらけのセカイを視る裸眼は、魅了されたように、アルクェイドが入っていった<黒洞|こくどう>を、闇越しに見つめている。
「―――――――」
　唐突に、音が消えた。
　風の音も、
　土の匂いも。
　すべて、ピタリと凍りついた。
　――――――ギ
　絶対零度の月の下。
　視界のむこうで、何か、異質な音がしている。
　――――――ゴ
　見えるはずがないし、
　音なんて聞こえてこない。
　――――――ず、ぶ
　なのに、視えた。
　死と死が衝突する音を、この眼が確かに確認した。
「ぐ――――」
　視界が<朱|あか>い。
　なんで―――見えない筈のモノの、“死”を視てしまっているんだ、この目は。
「――――」
　眼鏡。
　眼鏡をかけないと、頭がどうにかなってしまう。
　喉元までせり上がった嘔吐感をこらえながら、震える手で眼鏡をかけ直す。
　音と光が戻る。
　気をしっかり持って周囲を見渡せば、高架線下に異常はない。
　人影はなく、車通りも少ないものの、ここはまだ“まっとうな”夜の街だ。
　何の危険もない、あってはならない、人間の住む文明圏だ。
「はあ――はあ、はあ―――」
　呼吸がうまく出来ない。
　眼鏡をかけていても、視界の隅にさっきの“死”が残っていそうで、気持ち悪い。
「アル――クェイド……？」
　暗がりから出てきたアルクェイドは、俺以上に息をきらして、おぼつかない足取りだった。
「志貴……？　そっか、まだ残ってたんだ」
　気まずそうに顔を背けて、ゆらりと、アルクェイドは俺の横をすり抜けていく。
　その足取りは病人のように弱々しい。
　―――正直、こっちだって吐き気が治まっていない。
　けど、あんなに苦しげなアルクェイドを前にしたら、そんな事はどうでもよくなった。
「待てよ、一体どうしたんだおまえ……！」
　立ち去っていこうとするアルクェイドの肩を掴む。
　アルクェイドは虚ろな瞳のまま、ゆっくりと振り返った。
「大丈夫よ。すこし疲れただけだから、かまわないで。
　―――志貴には、ぜんぜん関係がないんだから」
「バカ、疲れているなら休め……！
　ヘンに汗かいてるし、どう見ても重傷だぞ……！？」
　ハア、と、うまく出来ない呼吸を抑えながら、アルクェイドの腕を掴む。
「……なによ。そういう志貴だって、いまにも倒れそうな顔してる」
「俺のはただの貧血、いつものコトだ。
　人を気にしてる余裕があるなら、自分の体も気遣えよ」
「―――いいのよ。どうせ気遣っても無駄なんだから」
　アルクェイドの呼吸は、本当に、切ないぐらいに弱々しい。
「まさか―――おまえ、あの時の傷―――」
　治ってないのか、とは聞けなかった。
　だって、それは俺を<庇|かば>って出来た傷なんだから。
「―――――」
　アルクェイドは<俯|うつむ>いたまま答えない。
　それは、否定ではなく肯定の意味合い……だと思う。
「ああもう、なんど言わせるんだこのばかっ！
　そんな体で、大人しくできないのか!?」
「……む。大人しく、してるつもり、なんだけどな」
「全然してないっ！　人間離れしてるからって、治りきってないのに出歩くヤツがいるかっ……！」
　真剣に怒っている自分に気がついて、痛感した。
　……放っておけない。
　やっぱり俺は、このどうしようもなくやっかいな女を、放っておけない。
「……おまえ、ホントに何してんだよ。
　こら、黙ってないで答えろ。話してくれるまでおまえから離れないからな！」
　白い両肩を掴む。
　アルクェイドは俯いたまま、こくん、とかすかに頷いたように見えた。
「……もう。わりとしつこいのね、あなたって。
　いいわ、それじゃ場所を変えましょう。どのみち、さっきのもハズレだったみたいだし」
　アルクェイドは俺の腕を払って<踵|きびす>を返す。
　行き先は繁華街ではなく、<人気|ひとけ>のない公園のようだ。
　公園に戻ってきた。
　歩いているうちに回復したのか、アルクェイドは元の調子を取り戻していた。
「あっさり元に戻ってるし……もしかして、さっきは油断して傷を負った、とかいうオチじゃないだろうな？」
「え……？　違うよ、傷が治りかけなのはホントだってば」
「……治りかけなのはホント、だぁ？
　ホントじゃないコトも言ったってコトだよなぁ？」
「む。なにその言い方。すっごくいやらしいんですけど」
「おまえの言動が怪しすぎるんだよ。
　文句があるなら、さっき何をしてたのか話してみろ。
　大方予想はついてるけど、何をあんな痛がってたんだ？」
「………………。
　さて！　それじゃあ志貴のお望み通り、わたしが何をしていたかを話してあげましょう！」
「……………」
　あからさまに話を逸らされた……。
　けどまあ、そっちの方が本当に知りたい事だ。
　アルクェイドの体調を訊くのは後に回そう。
「じゃあ確認からさせてくれ。
　さっきのヤツは吸血鬼の手足になってる死者だな？
　あれの大本が、おまえの本当の敵？」
「なんと。今度は話が早いのね、志貴」
「そいつはどうも。俺だって少しは頭は回るからね。さっきの話でだいたいの事情は呑みこめている」
「うん、善きかな善きかな。
　志貴の可愛い勘違いはヴローヴの事だけってコトね」
「可愛いって言うな。……仕方ないだろ。あの時は自分の事だけで手一杯だったんだから」
「ふーん。自分の事だけで手一杯、ね。
　ま、そういうコトにしておいてあげましょう」
　何が楽しいのか、くるっとターンなどしつつ、アルクェイドは俺の顔を覗きこむ。……まことに居心地が悪い。
「いいから話。……さっきの男は、もうとっくに死んでいたんだな？」
「そうよ。アレはあいつの下僕だから始末しただけ。
　下級の死者だったけど、それでも放っておくと人間を殺して力を蓄えられてしまうから。
　志貴、ホテルで話した吸血鬼の話、覚えてる？」
　もちろん、と頷き返す。
　……吸血鬼の生態。
　……城主とその配下の関係性。
　……親になる吸血鬼は人間を襲い、殺し、死者という下僕を作った後、下僕たちに血液の採集を任せ、自らは姿を隠す。
　アルクェイドはそういった吸血鬼を“城主”とも、“旧いタイプの吸血鬼”とも語った。
　不老不死であり、太陽の光に弱いという、ステレオタイプの吸血鬼。
「それはもう教えてもらった。
　……じゃあ、おまえの追っている敵とやらが、殺人事件の吸血鬼で間違いないんだな？」
「ええ、間違いないわ。
　たとえあいつが手を下したのは最初の一人だけだとしても、そこから発生した死者たちの殺人はぜんぶあいつの成果になる。
　だから―――」
「さっきみたいに街を歩き回って、吸血鬼の下僕を探していた。
　……そうすれば親の居場所が分かるのか？」
「強く“親”に結びついた下僕ならね。けど今のところハズレばっかり。
　棺……敵の潜伏場所が見つからないのは、それだけ多くの死者を使っているからよ」
「あいつが自分の手を汚すのは数回だけ。あとは死者にした人間を操って、自分は眠っているだけで領地を拡げていく。
　この街の犠牲者は百人を超えている。
　あなたたちが騒いでいる犠牲者なんて、人知れずいなくなった人間の一部分にすぎないわ」
「――――」
　……改めて、その事実を聞くと血が凍る。
　二日前はヴローヴが元凶だと思っていた。
　だからこの感覚は<敵|ヴローヴ>を殺す事だけに向けられた。それが精神の均衡を保っていた。
　けれど今は違う。
　事件はまだ続いている。
　百人を超える犠牲者。かつて同じ人間だったモノに襲われ、血を抜かれ、殺された人々。
　そして血を吸われた犠牲者は新たな怪物となって、先ほどの線の塊のように、動く<屍|しかばね>として街を徘徊している―――
　三日前。
　ホテルに泊まっていた人々が殺し尽くされたのを思い出す。
　俺はあのホテルにいたものの、決定的な“その”場面を見ていない。
　だから言葉の上でしか想像できず、それがどれほどおぞましい暴力であるかを肌で感じ取れなかった。
　今だって同じだ。
　人間の血を吸う吸血鬼がいて、そいつが少しずつ自分の領地を拡げているなんて聞いても実感は湧かない。
　―――ただ。
　何の根拠も、何の前触れもなく、身近な人間がそのように殺されたら俺は何を思うのか。
　……それを想像するのは不道徳だと理解しながら、ほんのわずかだけ。
　血を吸われ、それこそゴミのようにうち捨てられている秋葉の姿を想像する。
「―――――――――」
　脳が削られるような目眩を、排気する事でやり過ごす。
　本来なら<憤|いきどお>るべき心は妙に冷めていた。
　今は震えるより、考えるべき時だと自分に言い聞かせる。
　そんな出来事が明日にも起こりうる状況を認識する。
　危険に気がつきもしなかった自分自身の無力さ、腑抜けぶりを責めるのはその後だ。
「やっぱり怒ったわね志貴。
　……わたしがあなたに話したくなかったのは、これは捕食される側―――人間にとって度しがたいものだからよ。
　志貴にしてみれば、吸血鬼の行為は認められないものでしょうから」
　それはそうだろう。善か悪か、許すか許さないかの話は分からない。
　ただ、認められない、というのだけは確かな所感だった。
　たとえ顔も知らない人間でも、その人間にはそれまで生きてきた<重|か><量|こ>がある。その重さに比例するだけの<展望|みらい>がある。
　俺の与り知らない、俺には理解できないものだとしても、それは簡単に棄てられるほど軽くはない。
　……俺だって、そんな遊び気分で殺されたくはない。
　そんなのは悔しすぎる。そんなのは無念すぎる。
　そんなのは―――あまりにも無意味すぎる。
「でも安心していいよ、志貴。
　吸血鬼たちの天敵はこの国にはいないみたいだけど、今はわたしがちゃんといるんだから。
　言ったでしょ？　わたしの目的は、街を侵している吸血鬼を退治する事だって」
　さっきまでの淡々とした雰囲気はどこにいったのか、アルクェイドは一変して明るくなった。
　正直、その発言は頼もしい。
　俺はこいつがどれだけ凄くて、どれだけの人間の命を守ってくれたかを知っている。
　ヴローヴの寒波を、自分の身も顧みずに防いでくれたのはアルクェイドだ。
　……でも、だからこそ腑に落ちない点がある。
　それはヴローヴと戦う前にも抱いた、人間として当然の疑問でもある。
「……それが分からない。
　アルクェイドだって吸血鬼なんだろ。どうしてそんな、人間の味方みたいな事をするんだよ」
「わたし、別に人間の味方をしている訳じゃないよ。
　それ以外にやる事がないからやってるだけだもの」
「――――？」
　それ以外に、やる事がない……？
「ま、そんなコトをやっているから狙われるんでしょうけど。そこはそれ、必要経費みたいなものかしら」
「……いや。おまえの言いたい事はまるで分からないけど、その喩えだけは間違ってるぞ、きっと」
「まあまあ、細かい事は気にしないで。
　そんな引く手あまた、ヘイトいっぱいなわたしだったけど、志貴がヴローヴを倒してくれたでしょう？　これで障害は何もなくなったわ」
「あとはこの街に潜んでいる『敵』を見つけて、なんとか始末してみせるから。
　志貴は今まで通り普通の生活に戻って、わたしたちなんかに関わらなくていいんだよ」
「ああ―――うん。そりゃあ嬉しいけど、けど―――」
　けど―――おまえは、一人でいいのか？
　そんな言葉が脳裏に浮かんで、ぶんぶんと頭をふった。
　……どうかしている。
　こいつ一人に危険な真似をさせる事を後ろめたく思うなんて、どうかしている。
「……………」
「志貴？　なによ、また難しい顔しちゃって。
　志貴の聞きたい話ってこれで終わりでしょ？　他には何もないと思うけど」
　……いや、他に訊きたい事なんて山ほどあるけど、今はそれより―――
「……ばか。そりゃあ難しい顔ぐらいする。これは俺たちが住んでいる街の問題なんだから」
「だから気にしなくていいんだって。
　これからは毎日街を見て回って、もうこれ以上犠牲者は出さないようにするし。
　それとも、そんなにわたしの性能を信用できない？」
　ああ、こっちだって関わりたくはない。
　……でも、その台詞は。
　この街を守るという台詞は、アルクェイドではなく、この街に住んでいる俺が口にするべきで―――
「……アルクェイド。その、おまえの言う『敵』は強いのか？
　あのヴローヴより、もっと」
「まさか。ヴローヴはああ見えても祖の<一角|ひとり>よ。
　この街に巣くった吸血鬼は、ヴローヴより純度は落ちるわ」
「そうか。なら、おまえがやられる事はないんだな？」
「断言はできないわね。ちょっと前までのわたしなら問題なかったと思うけど、今のわたしは病み上がりだもの。敵の方が力をつけている可能性が高いわ」
　………………。
　って、待った、聞き慣れた言葉につい頷いてしまった。
　病み上がりって、アルクェイドが……？
「いやいや、風邪でも引いたのかおまえ！？
　というか吸血鬼って風邪引くのか！？」
「ええ、とんでもなく野蛮な通り魔を一つね。
　トオノシキっていう名前の悪質なウイルスなんだけど、ご存じかしら？」
「あ―――いや、それは、その…………ごめんなさい」
　やぶ蛇だった。
「冗談よ、志貴の傷はもう治ってるわ。ただちょっと、治すのに想定以上の力を使って疲れてるだけ。
　痛いのはヴローヴから受けた傷の方。こっちはまだ外を塞いでいるだけだから」
　アルクェイドは自分の腹部に軽く触れる。
　―――その傷も。
　俺を<庇|かば>って受けてしまった、余分な傷だ。
「―――――」
　言葉がない。
　アルクェイドを苦しめている要因はすべて俺だ。
　だっていうのに。
　どうしてこいつは恨み言さえなく、俺に対して、こんな無防備な笑みを向けるんだろう―――
「……やめろよ。せめて傷が治るまで、どこかで休んでればいいじゃないか。いまさら一日や二日休んだって変わらないだろ」
「だめよ。ヴローヴと戦った事で、敵もわたしが来た事に気づいている筈だもの。休んだりしたら、それこそわたしが弱っていると知らせるようなものだわ」
「……だからって、今夜みたいな真似を続けていくのか？」
「ええ。敵の居場所が判らない以上、あいつに血を送っている死者を片っ端から潰していくしかない。
　そうして血の供給源を断てば、本体が直に血を吸いに現れる」
「それがもし明日だったらどうするんだ!?
　弱っているのを隠したところで、そんな体じゃ逆に殺されるようなものなんだろ……！　なら―――」
　無理はやめろ、と言いかけた顔を下に向ける。
　アルクェイドの言う通り――そんな弱みを見せたら、敵とやらは<諸手|もろて>を挙げてアルクェイドを殺しにくるだろう。
　なにより俺は、あの二日間で思い知っている。
　こと戦いにおいて、アルクェイドは徹底的にシビアだ。
　自分が傷つかない戦法ではなく、敵を確実に倒す戦略。
　こいつは何より目的の達成を優先する。その過程で自分をごまかす事はしない。
「――――」
　アルクェイドは止まらない。
　放っておけばこうして話をする事もできなくなる。
　彼女は、自分の死を、頭にくるぐらい恐れていない。
　……なのに、なんで笑みなんか浮かべるんだ。
　あんな顔さえ見なければ―――こいつが、もっと吸血鬼のように振る舞ってくれれば、こんな気持ちには、ならないのに。
「どうしたの志貴？
　体ふるわせちゃって、もしかしてトイレ？」
「おまえってヤツは、どうしてそう―――」
　無闇に、緊張感がないんだ。
　……俯いていた顔をあげる。
「？」
　目の前には、白い女の姿がある。
　……無かった事には、できない。
　これがどんな感情なのかは知らない。
　ただ、こいつと過ごした二日間はそう忘れられる事じゃない。
　だから―――今ここで別れて、明日の夜には死んでいるかもしれないなんて、何度も何度も、それこそ馬鹿みたいに後悔するのは―――きっと、とても辛い事だ。
「……かんべんしてくれ。ただでさえ両目が壊れてるのに、頭まで壊れかけてる……」
　俺はもう吸血鬼に関わりたくはない。
　ヴローヴとの一戦を思い出す。それだけで背筋に悪寒が走るほど、殺される一歩手前の恐怖は残っている。
　それと同じ。今度の相手だってまともじゃない。自分が関わる必要はまったくない。
　アルクェイドがなんとかすると言っているんだから、まかせておけばいい。
　……なのに。
　そこまで道理が分かっているのに。
　それでも俺は、こいつを放っておけそうにない―――
「ああもう、どうかしちまったのか俺は！」
　だん、と地面を蹴った。
　どんな理屈も、どんな説得も受け入れられない自分にハラが立つ。
「な、なに？　どうしたの志貴、いきなり怒りだしちゃって」
「そりゃ怒りたくもなる！　なんだって俺は、あんな目にあったっていうのにこんな<戯言|たわごと>を口にしようとしているのかって！」
　口にしたら余計クラクラしてきた。
　こんな馬鹿みたいな自分、鏡があったら間違いなく叩き割ってる！
「ちょっ、落ち着いて。普通じゃないわよ、あなた」
「ああ、普通じゃないさ！　普通じゃなかったらこんな事、とても口にはできないだろ……！」
　くそ、と忌々しげに頭を掻いた。
　認めたくないけど、こりゃあもう決定だ。
　だって今、自分自身の口で認めてしまったんだから。
「もうっ、ぜんぜんわかんない！
　ちゃんと説明しなさい！　さっきからこんな事こんな事って、なにがこんな事だって言うの!?」
「だから！　
おまえの体が治りきるまで手伝ってやるって、そう言いたいんだよ、俺は！」
「―――、え？」
　アルクェイドは呆然とした顔で俺を見る。
　こっちは、ついに、というか、やっと、というか……
　とにかく言いたい事をはっきりと口にして、ようやく気持ちが落ち着いた。
「志貴。今の、ほんとう？」
「…………」
　むう、と<唸|うな>る。
　俺だっていまだに信じられない。
「わたし、ちょっと聞きそこねちゃった。
　お願いだから、もう一度言って」
「………………」
　むうう、と唸る。
　でも、後悔しても後の祭りだ。
　言葉にしてしまった時点で、俺は自分に嘘をつく事さえできなくなった。
「早く。わたし、今の台詞もう一度聞きたい」
　囁くように要求してくるアルクェイド。
　その、華のような微笑みから視線を逸らして、できるだけ不機嫌そうな声をだせるよう、努力した。
「……だから。アルクェイドが弱ってるのは俺の責任だし、街にはびこってる化け物を放っておけないし。
　弱っているおまえひとりじゃ頼りないから、俺でよかったら手伝ってやるって言ったんだ」
「志貴――――！」
　アルクェイドは、ぱあ、と目を輝かした。
　そのまま、嬉しそうにこっちの手を握って、ぶんぶんと上下に振り回す。
「……まあ。俺じゃたいした役には立たないだろうけど、いないよりはマシだろ」
「うん！　志貴が手伝ってくれるなら、恐いものなんて何もないんだから！」
　ぶんぶんぶん。アルクェイドはまだ手を離さない。
　こいつの馬鹿力で振り回されたらそのうちすっぽ抜けそうで怖くもあったけれど、どうしても止める気にはなれなかった。
　……なんていうか。
　彼女は本当に、嬉しそうに笑っていた。
　だから、それだけで―――この馬鹿げた選択は間違いではないと、少しだけ誇らしく受け入れた。
　アルクェイドとの握手……一方的に掴まれていただけとも言う……から解放された時、時刻は夜の９時にさしかかっていた。
　屋敷を出てから２時間ほど経過した事になる。
　帰ってからの事を考えると頭が痛いが、協力すると決めた以上、今夜はまだ帰れない。
　吸血鬼退治はここから仕切り直しだ。
「……それで、これからどうするんだ。
　やっぱり街を歩いて死者を探すのか？」
「そうね。この街にいる死者を全滅させれば、親基の吸血鬼は出てこざるをえなくなるでしょうし。
　今はそれぐらいしか手はないけど……」
　それでもいい？　とアルクェイドは視線で問うてくる。
「いいもなにも、俺はアルクェイドに付き合うだけだ。餅は餅屋って言うし、専門家に従うよ」
　……と。
　アルクェイドのやつ、今度はニマニマと余裕そうに俺を観察している。
「なんだよ。おかしなこと言ったか、俺」
「うん。志貴、やけに素直だなぁって」
「………………」
　……これからはもっと乱暴にいこう。
　こいつを調子に乗せると、またとんでもない無茶な要求をしてくる気がする。
「行くぞ。街を回ればいいんだろ。さっきの高架線下とか、もう一度調べて見るか？」
「ううん、あの区域はもういいわ。
　死者は互いに食い合わないよう、犠牲者の数を一区間に集中させないよう、それぞれ活動ルートを定めているの。
　一晩に食事をさせる死者の数は決まっている。今夜はさっきので打ち止めだと思うけど……せっかく志貴がいるんだし、もうちょっと探索してみましょうか」
「……互いに食い合わないように、か……本格的に統率されてるんだな。もっと無差別なものかと思った」
「親基の吸血鬼にしてみれば血液の採集は娯楽じゃなくて、生存するための必要作業、仕事だもの。ルーチンワークを良しとするのよ」
「貴重な労働力ってワケか。でも、それだと向こうも手を打ってこないか？
　アルクェイドが数を減らしているんだから、ここから先は増員させるか、あるいは、死者を引っ込めて姿を隠すとか……」
「基本的には“出し渋る”方でしょうね。
　けど、吸血鬼である以上、どうしても他者から血や精を搾取しないと生存していられない。
　親基はわたしに狙われていると判っていても、最低限の食料を得る為に死者を出すしかないってわけ」
　……なるほど。
　アルクェイドがやっている事は<兵糧|ひょうろう>攻めだったのか。
　この街のどこかで眠っている親を見つける事は困難だ。
　なので、探し出すのではなくいぶり出す。
　生きていく為に必要な労働力・栄養源を断たれた親は、最終的に自ら行動せざるを得ない。
　そして動きだしさえすれば、アルクェイドは吸血鬼の気配を感知できる。
　……吸血鬼退治はそこからが本番だ。
　ヴローヴと殺し合った時のように、俺たちは正面から、この事件の元凶を駆逐できる。
「状況は分かった。とにかく夜になったら街を歩き回って、まだ活動している死者を見つければいいんだな」
「ええ。それで、志貴。あなたには眼鏡を外して付いてきてほしいんだけど、いい？」
「眼鏡を外してって……なんで？」
「その方が確実だから。
　わたしは人間と人間じゃないものの気配を感じ取れる。
　貴方は生者と死者の違いが視覚情報として読み取れる。
　索敵方法は多いに越した事はないでしょう？」
「―――――」
　……アルクェイドの説明は納得できる。
　協力すると言ったのはこっちだし、断る理由はない。
　けど、眼鏡を外して行動するのは―――
「あなたの体に大きく負担をかける事になるでしょうね。
　でも、いい機会だからもう一度だけ確認したいの。
　志貴が大丈夫だと判断するのなら、眼鏡を外して付いてきて」
　……眼鏡を外して街を歩く、か。
　そんなこと、この眼鏡を貰ってからの七年間、一度も試した事はない。
　そもそもモノを視るだけで頭痛が走るっていうのに、その状態で街を歩いたらどうなるのかは容易に想像できる。
　それでも―――
「…………」
　……大丈夫、たかだか頭痛じゃないか。
　体の痛みを堪えているアルクェイドに比べれば、その程度、大した問題じゃない。
「いいよ、眼鏡を外して付いていく。
　それでカタがつくっていうんなら安いもんだ」
「―――そう。なら行きましょう」
　俺は一度だけ深呼吸をして、眼鏡を外し、街に向かって歩き出した。
　アルクェイドと肩を並べて、人混みの中を行く。
　こうしてラクガキだらけの風景を歩くのなんて、入院していた時以来だ。
「――――」
　いまのところ目眩はない。
　視るだけならそう頭痛はしないらしい。
　ただ、建物にある薄い線ではなく、道を歩いていく人間の“線”を見るたびに気分が悪くなる。
　……どうしても嫌悪感が先に湧く。
『体中にラクガキのある人間』が気色悪いんじゃない。
　そんなにも―――人間というのはそんなにも死に易い生き物なのかと知らされているようで、吐き気がするだけだ。
　夜の街を歩く。
　アルクェイドは何も言わずに、目的地があるかのように、迷う事なく足を進めた。
　２時間ほどかけて駅前の主立った場所を回った。
　結局、ただの一つも、異常な“<線|し>”を内包した人間を見つける事はできなかった。
「志貴、眼鏡をかけていいわ。
　やっぱり、もう今夜の死者はいないみたい」
　眼鏡をかける
。
　視界が健全なものに戻って、ホッと胸を撫で下ろした。
「そんな簡単に見きりをつけていいのか？　まだ一回しか街を見まわってないけど」
「ううん、一度見まわれば十分よ。気配っていうのはね、多少はその場所に残留するものなの。でも街には死者の気配がどこにもなかった。
　食料を調達する死者はさっきので最後だったのかも。ここからはもう一段階上の死者を潰していくわ」
「……不機嫌そうだな、アルクェイド」
「当然でしょう。せっかく志貴がいてくれるのに空振りなんだもの。あーあ。格好いいとこ見せようと思ったの」
「――――――」
　……。
　そんな理由で機嫌を損ねられると、なんか、困る。
「ま、まあ、俺は無駄骨でも気にしないけど……そんなにご不満なら、もう一度街をまわってもかまわないぞ。
　俺も今度は意識を集中して視る。もしかしたら何か見つけられるかもしれない」
「ダメよ。今夜はこれ以上、あなたに無理はさせられない」
「？　無理って、別に俺は無理なんか……」
「してるのよ。志貴本人は気がついてないだけ。いまだって顔色、すごく青いし。ほら、ベンチに座って。少しは楽になるんでしょ？」
　ほらほら、とベンチにまで押し込まれた。
　まあ、正直言うと吐く一歩手前だったし、とりあえず腰を下ろす、と……。
「ぁ……」
　あまりの心地良さに声が漏れてしまった。
　座った事で緊張が解けたのか、たまっていた疲れが一気にやってきたというか……肩が重くなったのに気持ちがいいなんて、無理をしていた証拠だ。
「……ありがとう、助かった。
　でも、これぐらい今までの頭痛に比べたら軽度だぞ。意識を保っていられない目眩に比べれば、危ない事もないんだし……」
　こうやって夜の風にあたって、深呼吸をして、少し休めば吐き気も治まる。
　アルクェイドの傷に比べたらどうって事ない。
　だから気にしないでいい―――
アルクェイド？
「弱い生き物のクセに無理はしないで。
　失神しなければ軽度？　それは間違いよ。あなたの眼に軽いも重いもない。
　あまり視えないものを視ようとしないで。そんなに脳を酷使したら廃人になりかねないわ」
「……？　廃人って、誰が？」
「あなたがよ！　どうしてそんなに危機感がないの!?
　こんな希少な魔眼持ちなのに平和主義者とか、おいしい獲物にも程があるし！　よく今まで生きてこられたわね、ひょいってつまんで食べられるわよ、普通！」
　……どこの国の普通だそれ。
　というか、世界有数の法治国家を舐めないでいただきたい。平和ボケと言われようと、これだけの治安の良さを維持しているのはホント凄いコトなんだぞ？
「……分かった。あんまり言いたくなかったけど、ちゃんと説明してあげる」
「いい？　志貴は生物の死は視やすくて、鉱物の死は視にくいって言ってたでしょ？
　それはね、結局はあなたの脳の回線の問題なの。
　モノの死。その因果を視る、という事は、実際は視ているではなく読んでいる、という意味合いに近いわ」
「すべての事象には大本になった原因、絶対の一がある。
　この宇宙のはじまりにしておしまいの地点。
　そこには“全てを記録したモノ”がある。記録というよりは“有る”ものだから、情報とは呼べない。ただ“有る”だけ。それ自体に意思はないし、方向性もありえない。原因を垂れ流しているだけの、根源の渦みたいなものね」
「この<宇宙|せかい>にあるものは、その渦から流れ、派生して、今のカタチに行き着いたわ。わたしも志貴も、吸血種も人間も、もとはそこから始まった原子にすぎない。
　……もう離れすぎ、複雑になりすぎてしまって、原因である始まりに戻ることはできないけど、とにかくそういった“一”があるのは分かるでしょう？」
「でもね、たとえどんなに大本からかけ離れたカタチになっても、派生した存在である以上、とても細い線だけど糸はつながっているのよ」
「全ての根源、全ての始まりと終わりを記録したレコード。
　それと繋がっているものは、物事の終わりを“識っている”事になる。
　高等動物の脳は受信と送信をつかさどる機能なんだけど、たいていの人間はその回線が自分に対してのみで閉じてしまっている。けど、中には潜在的に回線が開いている人間もいる。なんの魔術回路も利用せず、超越種でさえないのに超常現象を可能とする人間」
「これをね、魔術師たちは超能力者って区分している。
　人間でありながら、生まれついて何らかの魔術回路そのものという突然変異体。
　―――例えば何の神秘も学んでいないのに“物の死”を視てしまう人間とか、ね」
「――――――」
　……いや、申し訳ないんだけど、アルクェイド。
　せっかくのお話ですが、肝心の俺の脳みそは、まったく話に追いついておりません。
「いいわよ、志貴は理解なんかしなくて。
　言っておきたいのは、あんまり視えにくいモノを自分から視ようとしちゃダメってこと。
　わたしは視えないから断言はできないけど、志貴が視てしまってるものは『線』だけじゃないはずよ。あなたには『線』の他に、その基点である『点』も視えているんじゃない？」
「――――――」
　……確かにその通りだ。
　線だけのように視えて、目をこらすと点が視える事がある。事実、ヴローヴとの最後の瞬間、ヤツの体には大渦のような“点”があった。
　振り返ってみれば、それはヴローヴの時だけじゃない。
　たいてい脳幹をぶった斬るような<幻痛|ショック>から意識を失うけど、点は確かにあった。
「……そうだ。
あの時―――おまえを殺した時も、たしかに、点が見えてた。何個もあって、線は点と点を結ぶように流れてた」
　喩えるのなら、それは血管のように。
　線が血管なら、点はその血管を生み出す何かだ。
「『モノの死に易い線』と『その死』……なんでしょうね、それ。
　……志貴はその気になれば鉱物の死を視ることだって可能だと思う。けどそのために脳が生物の範疇から鉱物の範疇に回線を開いて、鉱物の死を識ろうとしてしまう。
　それは本来ありえない運動よ。脳は過負荷を起こして、志貴は間違いなく使い物にならなくなる」
　……使い物にならなくなる、か。
「それは、この目が死を視なくなってくれるってコト？」
「まさか。ねえ志貴、無茶をしてオーバーブロウしたエンジンはどうなるのかしら？」
「そりゃあジャンク行きだろ。一度でも焼き付いたエンジンは二度と使い物にならな――――」
　ああ、そういうコト。
　つまりは、死を見ている時の頭痛は、スピードをあげすぎて悲鳴をあげているエンジンと同じだったのか。
「分かった？　ただ視えているだけなら問題はないでしょうけど、視えないモノを視ようとするのだけは止めて。
　せいぜい、血管が破裂して脳に負荷がかかる、ぐらいに留めておきなさい。その先に踏み込んだら、生きながらにして石になる、なんて末路になりかねない」
「その眼鏡を作ってくれた魔術師には感謝しないとね。
　たいていの超能力者は自分の力がどんなに危険なものか知らずに使用して、自分から廃人になってしまうから。
　……まあ、人間でありながら人間の社会では生きられない存在的不適合者だから、その方が幸せなのかもしれないけど」
「―――――」
“どうやらそれが、私がここにきた理由のようだし。
　　　　私が君を、以前の生活に戻してあげる。”
　先生はそう言って、この眼鏡を作ってくれた。
　……感謝すべきことが多すぎて、胸がいたい。
　あの人は本当に色んな意味で、七年前のあの日、今の遠野志貴を救ってくれていた。
「ところで」
「うわあ!?」
　人が<感慨|かんがい>に浸っている中、アルクェイドは真横から顔を覗きこんできた。
　心臓に悪い。
　いい話の後なんだから、少しぐらいは気を遣ってほしい。
「なんだよ。眼鏡ならもう渡さないぞ」
「そうじゃなくて。
　これからどうする？　もう死者は出てきそうにないし、今夜はここでお別れにする？」
「…………」
　時刻は夜の11時。
　遠野邸の門限はとっくに破っている。
　俺は―――
　もう少しアルクェイドと話をしよう。
　吸血鬼退治をすると決めた以上、まだ知らない事が多すぎる。
「いや、まだ吐き気が治まらないし、落ち着くまでここにいるよ。その間、おまえに訊きたい事もあるし。
　街の巡回は無理でも、それぐらいならいいだろう？」
「そ、そう？　わたしはいいけど、志貴はいいの？
　人間って夜は眠くなるんでしょう？」
「別にいいよ。もともと眠るのは苦手だし」
「苦手ってコトは、不眠症？」
「いや、寝付きはいい。単に好きじゃないってコト」
「ふーん。夢は見ないの？」
　夢……？
　…………いや。
そういう曖昧な話は、分からない
。
「とにかく、零時までは付き合う。
　そっちが話ずくめで疲れてるならこのまま帰るけど」
「ううん、ぜんぜん疲れてない！
　むしろ全力で受けて立つわ！」
「……そ、そうなんだ。元気があって羨ましいけど、勢いあまって暴れ出すなよ。地面をブチ抜くのとか、もうなしの方向で」
「そんな無駄なコトするワケないし。
　もうっ、志貴はわたしのコトなんだと思ってるの！　なんか誤解してない!?」
「大丈夫、そこは完璧、ブレてない。アルクェイドの事は、手加減のできないやりすぎ吸血鬼だと思ってる」
　さて、それでは遠慮なく疑問をぶつけよう。
　いま訊いておきたい事と言えば―――
　まだ眠気はないが、体は休憩を求めているようだ。
　今日はとにかく色々あった。
　夕方からこっち、ある意味ずっとコイツに振り回されていたようなものだし。
「……そうだな。確かに、そろそろ帰らないと」
「ま、そうよね。志貴も疲れてるようだし、
こわーい妹さんの目があるしね？」
「いや怖くないし」
　問題を棚上げしてるだけだし。
　それはそれとして、
「で、明日からの予定は？　どこで待ち合わせる？」
「ここでいいわ。時間は10時ちょうどで。ナイフ、忘れずに持ってきてね」
　言われるまでもない。
　<空手|からて>で吸血鬼探しなんかするものか。
「でも10時か……」
　屋敷の消灯が９時半過ぎ、10時は出入り禁止となる。
　翡翠や琥珀さんの目を盗んで外出するのはたいへんそうだ。
　せめて11時に、と提案しかけて、まあいいか、と言葉を飲み込んだ。
　夜は長いようで短いのだし。
　一緒に探索する時間は、長いに越した事はない。
「良かった。それじゃあね、志貴。
　また明日、ここで会いましょう」
「――――――」
　今日一日のトラブルメーカーぶりはなんだったのか。
　白い吸血鬼は、これ以上ない穏やかな口調で別れの挨拶をして去っていった。
「……なんだよ。やればできるじゃんか」
　胸に湧いた感情をごまかすように、文句など言ってみる。
　……くそ。
　あんな笑顔を見せられたら、約束を忘れる事さえできなそうだ。
　……やはり、吸血鬼の知識が必要だ。
　親基の吸血鬼と、下僕にあたる死者たち。
　その関係性を詳しく聞いておこう。
「ふーん。地味なトコ、ついてくるのね」
「地味で悪かったな。何事も基礎からだって言ったの、おまえだろ」
「お、さっすが人力だけでピラミッドを建てちゃう霊長類！　堅実かつ誠実ね。
　いいわ、じゃあ今夜は吸血鬼講座中級編、吸血鬼社会の仕組みについてお話しましょう！」
　……あんまり知りたくない課目だが、リクエストしたのは自分である。
　ここはおとなしくアルクェイド先生の話を聞こう。
「とは言っても、その発生から話すと長すぎるから、ここはわたしたちの敵……死徒に話を限定するわね。
　死徒の大部分が旧いタイプの吸血鬼で、その生殖……繁殖の仕方は“血を吸って仲間を増やす”こと。
　これはもう説明するまでもない？」
「ああ。城主と下僕、だろ。
　一人の支配者と、大勢の働き蟻……なんだよな？」
「ええ。その働き蟻にも種類があるわ。
　前にも話したけど、こういう階梯」
「まずⅠ階梯、死者。
　自立できず、親の命令通りに動く操り人形。命令がなければ死体のまま放置され、死に至る。
　ようは下級兵士ね。ただ血を吸われて、血を送られただけのモノ。わたしたちが死者と呼んでいるものの一つ」
「次にⅡ階梯、屍鬼。
　意思はあるものの、明確な思考はできない、生前の姿を擬態している死者。
　親の魔力で腐敗こそしないものの、中身は完全に崩壊している。
　脳が腐り出しているから本能で血肉を求める分、Ⅰ階梯の死者より凶暴。あえていうなら兵士、かな。これも死者ね」
「Ⅲ階梯、不死。
　ここからようやく吸血鬼、と呼べる程度の生き物になるかな。
　生きる屍。アンデッド。生前ほどの思考能力はないものの、自分だけで人間生活を偽装できる。
　一度死んでから脳を再構成した上級兵士。日光も平気よ。ただし防腐処理はこまめにしないと、あっさり正体が露見する。
　死者と呼ばれるカテゴリーはここまでね」
　……なるほど。
　あのゾンビ……死者にもそんな段階があったのか。
　階梯が進めば進むほど、ただの死体から動く死体に向上していく訳だ。
　ところで、
「その階梯分けはともかく、死者とか屍鬼とか、名前分けって誰がしたんだ？　おまえか？」
「お生憎様、こういうのはたいてい教会の仕事よ。便利だから使っていたら魔術世界の常識になっただけ。
　問題は教会内部の<誰|・><が|・>これを広めたかなんだけど……ま、それはどうでもいっか」
「次はⅣ階梯、夜属。
　生前のパーソナリティを維持したまま、吸血鬼見習いとして活動する不死者。
　人間離れした身体能力を持つかわりに極度の冷えと渇きを覚える。いわば下級騎士、半人前の吸血鬼ね」
「Ⅵ階梯以上のモノが獲物を丁寧に、少しずつ吸血していくと、犠牲者はこの階梯の吸血鬼からスタートする。日光を浴びると貧血になる程度で、まだ焼かれはしない。
　魔術世界において、“ヒト”と呼べるのはこの階梯までなんだとか」
「吸血鬼見習い……つまり、もう“死者”じゃない？」
「ええ。Ⅳ階梯に達した吸血鬼は、もう親基から離れても生きていける。親基から見れば、モノからイキモノに成った、ぐらいの感覚だそうよ。
　このⅣ階梯になれるのは千人中一人の割合」
「次にⅤ階梯、夜魔。
　Ⅳ階梯の深度に加え、その血液に宿った呪いによって親基、あるいは個人に起因する異能を発揮できるようになる。
　上級騎士、一人前の吸血鬼ね」
「で、最後のⅥ階梯、死徒。
　完全に“吸血種”として自立。吸血・侵食によって子を作るコトもできるけど、Ⅵ階梯以上の子は作れない。
　成り上がりものの限界ね。あえて言うなら城塞、かな。
　この街に巣くっている吸血鬼はこの階梯。“親”として下僕を作り、村を食い物にする災害よ」
「以上が死徒における身分制度。何か気になった点はある？」
「ヴローヴはどの階梯だったんだ？」
「もちろんⅥ階梯、死徒よ。あいつの場合、そこから飛び級をしてしまったけど、それはまた別の時にでも」
「じゃあもうひとつ。こっちが本題。
　身分制度って言ったけど、それを決めるのは誰……いや、何だ？　吸血鬼は血を吸って仲間を増やすなら、どうしてこうも在り方が違うんだ？」
「いいところに気がついたわね。
　それが死徒の最大の欠点……いえ、特徴かな。
　死徒に血を吸われた人間は誰もが吸血鬼になる訳じゃないし、死徒は誰をも吸血鬼にする訳でもない」
「下僕作りと食事は別。
　血を吸われただけなら、人間は人間として死ねるわ。
　けれどその時、死徒の血を送られると人間は血に支配され、死亡する。その後に、吸血鬼として新生し、呪われていく。
　この階梯は、その呪いの深度を表したものなの」
「……じゃあ、さっきの男は、殺された後に蘇ったんじゃなくて……
はじめから吸血鬼にする為に、“親基”に殺されたのか」
「ええ。でも下僕を作るのだって簡単じゃないわ。吸血鬼は簡単に家族を増やせない。
　Ⅰ階梯の死者なら、殺した後に血を送ってむりやり兵士にしてしまえばいい。
　けどⅡ階梯以上の吸血鬼を増やすには、犠牲者自身の才能……
適性が必要になってくる」
「適性……？　適性って、なんの？」
「吸血種の血に抗える免疫力……かな？」
「たいていの人間は適性がない。だから吸血鬼の血を送りこまれると、その吸血鬼が持つ特性にあっさり支配される。死んだ後も働かされる病気みたいなものね。
　でも、それだと上質の下僕とは呼べない。親基としては、自分の力だけで自立してもらわないと困るのよ。働き蟻を動かすたびに自分の時間を使っていたら、それこそ本末転倒でしょ？」
　それはそうだ。
　親である吸血鬼は通常、棺に入って眠るという。
　長く生きた吸血鬼は燃費が悪いから、だとか。なので頻繁には動かず、自分が何も<消|つ><費|か>わなくとも<血液|エネルギー>を集める手足を必要とする。
　その手足を動かすごとに自分の力を消費していては話にならない。
「適性がある人間は吸血鬼の呪いに抵抗できる。
　その後は本人の生存力ね。吸血鬼の血に負けて絶命するか、これに打ち克って吸血鬼として新生するか。
　この街で遺体として見つかっているのは、適性はあったけど、そのまま絶命した人間よ。
　結果的にただ“殺された”遺体になって路上に放置される。死者たちは殺された後に自分で動き出すけど、死者になれなかった遺体はそのままでしょ？」
「……そうか。あのゾンビになったら遺体は残らないもんな」
「そういうこと。ニュースにあがっている犠牲者たちはむしろレアケースね。なまじ適性があったから目を付けられ、結果的に人間として死亡した」
「適性を持つ人間は百人に一人ぐらい。その中でも、送りこまれた異物に適応できて、耐えきれたものだけがⅣ階梯以上の吸血鬼になる。
　吸血鬼はよくネズミ講だなんて言われるけど、血を送れば誰でも子にできる訳じゃない。実際には時代と共に“吸血鬼”と呼べるものは減っているのが現状よ」
「……………」
　そう簡単に家族は増やせない、とアルクェイドは言った。
　吸血鬼にとって“配下”と“子”は違うのだろう。
　先ほどアルクェイドが仕留めた死者は、ただ動くだけの“配下”にすぎないという事だ。
「じゃあ、さっきの男はとっくの昔に殺されていて、自分でも分からないまま吸血鬼の言う通りに働いてたのか？」
「自分でも分からない、は階梯によるわね。
　Ⅰ階梯なら自動人形にすぎないけど、Ⅲ階梯なら脳は生きているし。彼等は自分がどういう生き物になったのかを理解した上で吸血鬼に従っている。自分から進んで人間たちを殺して、親基に血を送っているのよ」
「……いや、それは違うだろ。
　いきなり殺されて、気がついたら動く死体にされてるんだ。そんなの、無理矢理やらされているに決まってる」
「……前にも居たわね、そういう風に命乞いしてきた死者。
“逆らったら殺される”“命令されてやっていただけ”。
　つまり、自分が死にたくないから人間を殺しているってコトよね。これって、自分から進んで殺しているのと何が違うの？」
「――――――いや、それは」
「意識が残っている死者たちは決まって自由がない、こうするしかなかったと訴えるわ。
　でも主に逆らって死ぬ自由は残っている。なのに人間を殺す方を選んだのだから、彼らは自分から進んで、かつて同族だった<人間|イキモノ>を殺していると思うんだけど」
「まあ、どちらにせよ死徒に連なるモノはみんな殺すから、わたしは気にしないけど」
「………………」
　……言葉がない。
　アルクェイドの言い分は正しい。筋が通っている。
　けどそれは吸血鬼の……強い生き物の理屈だ。
　人間はそこまで正しくは生きられないし、シンプルにも生きられない。
「それともう一つ訂正。下僕だって親には逆らえるのよ。
　死徒と呼ばれる吸血鬼は下僕たちに自由意思を与えている。いつか自分に逆らい、挑むように。ヴローヴもそうやって親を殺して死徒になった吸血鬼だもの」
「いい、覚えておいて志貴。
　死徒に分類される吸血鬼はね、人間が大好きなの。
　いえ、人間的なものが大好きなの。だからいくらでも残酷になれる。<人間|あなた>たちはこの星でいちばん……いえ、唯一、<苦|・><し|・><め|・><る|・><為|・><に|・><命|・><を|・><消|・><費|・><で|・><き|・><る|・>生き物だから」
　……人間的なもの。知性、感情のことか。
　アルクェイドは言った。
　人間に鉱物の死は理解できないと。
　それと同じように、鉱物や動物にも人の死は理解できない。
　感情の死、精神の苦しみは、人だけの娯楽という事か。
「苦しめるために自由を残しておくっていうのか。
　……分かんないな。吸血鬼ってのはどうしてそんな事するんだよ。無駄すぎる。趣味が悪すぎるだろ」
「そうね。吸血鬼が悪趣味なのは認めるわ。
　でもそれは死徒にかぎった話よ。初めから吸血種だったものは、あまりそういう事はしないもの」
「――――？」
　初めから、吸血鬼だったもの……？
「……そういえば言ってたな、吸血鬼には二種類あるって。
　初めから吸血鬼の者と、人間から吸血鬼になった者。
　その、『人間から吸血鬼になった』ヤツらが、死徒ってコトなのか？」
「……まあ、そうね。
　魔術の果てに不老になったものか、真祖に血を吸われて下僕となったものとがいるわ」
「……志貴、あなたはさっき殺した人間を使役するのが悪趣味だと言ったけど、それでもまだマシなほうなのよ。中にはもっと理解不能な遊びを考案する死徒もいるんだから」
「遊びって―――遊びで人間を殺して、その死体を玩具にしてるって言うのか……？」
「……否定はしないわ。
　死徒にとって娯楽は呼吸と同じ事なのよ。
　人間という短命種でありながら、不完全ながらも不老不死に近付いた彼らにとって最大の敵は“退屈”だった。
　もともとわたし達と違って目的がないクセに不老不死になった彼らは、不老不死を手にいれた瞬間にあらゆる物欲がなくなってしまった。
　目的が不老不死だったんだから、仕方がないといえば仕方がないんだろうけど」
「……なんだそれ。退屈だから遊びたい、なんてふざけた事は言わないでくれ。
　だいたいさ、歳もとらないで死にもしないっていうんなら、もうそれで十分じゃないか。他の楽しみなんていらないだろ」
「だから、それで十分になってしまったのよ、彼らは。
　けれどそれでは存在の意味がない。
　自らを無価値と―――停止した生命と認識した知性体は、そこで存在の価値がなくなってしまう」
「彼らは段々と磨耗していく自身を恐れ、進んで娯楽を作る事にした。生きているんだって、自分たちはまだ楽しみがあるんだって自らを弁護するように。それが貴族の発端よ」
「彼らは人間の真似ごとをして、自分を城主に見立てて勢力を拡げていくゲームを始めたわ
。
　ありていに言ってしまえば死者の王国ね。思いの外、それは彼らにとって刺激的だったみたい」
「言ったでしょう？　彼らは人間の真似事をしてるって。
　死徒は娯楽のために、自らが吸い殺した人間に自らの血を分け与える。
　死体は何万分の一という確率をくぐりぬけて成長し、いずれ親を殺して、自らが新しい死徒になる」
「騎士が武勲をたてて君主となり、
　やがて王を墜とすように――――彼らもそういうゲームでもしなければ存在してられないの。
　悪魔的なるものの存在の軽さ、かな。
　たとえ不老不死だとしても、存在意義がなければ空気と変わらないんだもの」
　バカみたいね、とアルクェイドは肩をすくめる。
　アルクェイドだってその一人のはずなのに、こいつにはそういった嗜好はないようだ。
　吸血鬼の基礎知識はホテルで聞いたもので十分だ。
　今回はさらに踏み込んだ質問をしてみよう。
「さっきの死者じゃなくて、もっと危険なヤツ……
　二十七祖、だっけ？　ヴローヴもそのひとりだって言ってたけど、何なんだよ、そいつら」
「あー、それ聞いちゃうかぁ、
　やっぱりそれ聞いちゃうかー！」
「わかるわかる、ヴローヴを倒した後だもの。
志貴は食いついてくるわよねー！」
「う、うん？」
　待望の質問だったのか。
　アルクェイドの方こそ、こっちの腰が引くほどの勢いで食いついてきた。
「前にも言ったけど、二十七祖は死徒の頂点よ。王と捉えていいわ。
　でも、祖たちの話をするには、もうちょっと前知識が必要なのでぇ……」
「じゃーん！
　はい、ここで吸血鬼講座・上級編を開始しまーす！」
　しゅっと音をたてて出現するホワイトボード。
　もう見慣れたのでとくに驚きはなく、ぱちぱち、と手を叩いてみる。
「拍手？　それ拍手ってヤツ？
　もー、志貴ったらつまらなそうな顔してるクセに、反応だけはいいんだからー！」
　いや、どう反応していいか掴みかねているので、とりあえず真面目な顔をしているだけだった。
　アルクェイドはもっと真面目になってほしい。
「人間から吸血鬼になったものを『死徒』と区分するけど、彼らにはその能力・限界に応じた段階がある。
　これを階梯にして表したものがコレ」
「細かな説明は省くけど、
　Ⅲ階梯目までは『活ける死体』、
　Ⅳ～Ⅴ階梯目は夜を生きる『夜属』、
　そしてⅥ階梯目でようやく、一つのコミュニティを作れる『吸血鬼』になるわ」
「Ⅵ階梯目にまで変質できた者は完全に“吸血種”として自立できる。
　吸血・侵食によって子を作って、自分が作ったグループの頂点……親基になれる。
　でもⅥ階梯以上の子は作れない。通常の吸血鬼なら、その“成り上がり”はここでストップね」
「………………」
　吸血鬼は人間に血を移して変質させ、自分の奴隷にする。
　そうして増やした奴隷たちをまとめたものが『その吸血鬼のコミュニティ』だ。
　自分以上の“子供”は作れない、というのであれば、確かに階梯はそこで止まるだろう。
　しかし……
「ソレを生み出したものがいる……いや、死徒より上の立場の吸血鬼がいる、ってコトか」
「そうよ。それがⅨ階梯、祖。
　二十七つ<在|・><る|・>ことから、二十七祖と言われている」
「前後するけど、Ⅶ階梯目が上級死徒。
　Ⅵ階梯のモノが祖に認められ、更なる異能を与えられたもの。同じ呼び名でもその規模はⅥ階梯とは別物よ」
「この階梯になると居るだけで地域を汚染する毒になる。
　並の代行者じゃ太刀打ちできない異端であり、
　貴族として自らの意志を許された吸血鬼」
「……？　自らの意志、というと？」
「奴隷じゃないってコト。
　上級死徒は親基である祖に絶対服従という訳じゃない。逆らう事だってできる」
「上級死徒は機会さえあれば親基である祖を倒して、その呪いを受け継ぐ事ができる。
　まあでも、祖を倒す事はほぼ不可能よ。同じ『自由』を得たとしても祖が生きた年月は膨大だもの。上級死徒では祖の存在規模を上回ることは難しい」
「なので、祖を受け継ぐとしたらⅧ階梯。後継者。
　祖が自分の後継に認めた、才能ある吸血鬼。
　言うなれば王子、王女ね。
　祖の中には吸血鬼ではないものを見初めて、いきなりこの階梯まで引き上げてしまうモノもいる」
「王女って……
つまり、おまえみたいな？」
　たしか王族だって言ってたよな、アルクェイド。
「んー、中にはいるかもね、わたしに似た特性を持つように作られた死徒が」
「Ⅷ階梯はひとりの祖に最低ふたりいるとして、単純に50匹以上。中にはそういう試みをする祖もいたでしょう。
　ま、わたしと彼らでは根本が違うから、どこまでいっても模造品にすぎないでしょうけど」
「でもⅧ階梯の吸血鬼が強大である事は否定しない。
　そうね。基本的な蓄えだけで言えば、きっとヴローヴより優れている」
「――――――」
　あの<吸血鬼|ヴローヴ>を上回る……？
　そんな怪物が50以上だって……？
「ほら、やっぱり。
　殺したくて血が騒いできた、殺人鬼さん？」
「騒いでない。こういうのは怖じ気づいてるって言うんだぜ、吸血鬼さん」
　人間の尺度で返答する。
　協力するとは決めたものの、このあたりきちんと主張しておきたい。人間にできない事はできないのである。
「それで、いよいよ本題のⅨ階梯だけど。
　この二十七祖ってヤツらが、死徒の頂点でいいんだよな？」
「そうよ。非常食の立場から抜け出し、まったく違うモノとして独立を勝ち取った古い死徒たち。
　月から地上に落ちた真紅の染み。
　決して他と相容れない世界を持った猛毒たち。
　Ⅵ階梯の死徒を生み出し、アナタたち人間を“寿命”として摂取する長命者」
「<現|い><在|ま>に至る吸血鬼社会、この構造を創ったのもコイツら。
　存在規模は個体差があるけど、
　西暦以前から活動しているのが『古参』で、
　西暦以後から活動を始めたのが『新参』ね」
「たとえばヴローヴだけど、アイツはここ百年の間にⅥ階梯からⅨ階梯に……親である祖を殺して、新しい祖になった『新参』になるわ」
　吸血鬼の尺度で言うと、ヴローヴはつい最近祖になった死徒である、と。
　だから表だって街に現れ、伝統も様式美も<弁|わきま>えず、あんな凶行を起こしたのだ、とアルクェイドは説明する。
　そこはいい。吸血鬼たちのルールは俺には関係がない。
　気になるのはあの異様な能力だ。
　存在するだけで世界を極寒に塗り替える呪い。
　その寒さに耐える為だけにまき散らされた炎。
　これはもう、『人のカタチをしたもの』が持って許されるものではない。
「……わからないな。
　どんなに長生きだろうと、死徒は人間の延長にすぎないんだろ。人間は何年生き続けようとあんな芸当はできない。
　祖っていうのは他に何かあるんじゃないのか？」
「ええ。実のところ、祖になるには“何年生きたか”なんて関係ないの。
　祖を祖たらしめているのは、その血液の質」
「魂に刻まれてしまった大本の戒め。
　それぞれ戴いた真理、渇きの根底となる世界観。
　その血を巡らせるだけで惑星の物理法則を塗り替える特異点。
　原理血戒―――イデアブラッド」
「<原理血戒|イデアブラッド>―――」
　それは。
　ヤツの最奥の<最中|さなか>にあった、あの底なしの“孔”の事か。
「ま、言ってしまえば『王冠』ね。
　この血を継承した死徒は、どんな階梯であろうと祖に成り上がる。
　もっとも、原理血戒を動かすには千年クラスの土台がいるわ。数百年活動した程度の死徒が継承しても、その呪いで潰される」
「ヴローヴのように？」
「そうなんだけど……今にして思うと、アイツ、ちゃんと耐えきっていたみたい。
　……死徒としてはⅥ階梯クラスだったのに、なんであそこまで自我が残っていたのかしら……」
「まあ、とんでもない連中だって事は分かったよ。
　それが何の間違いか俺たちの街にやってきて、俺たちが始末した。
　……あまり考えたくないんだけど。これって、他の祖を怒らせる事になるのか？」
「あ、それは大丈夫。二十七祖は基本、敵同士だから。
　こんな島国でヴローヴが消えたところで気にする祖はいないわ」
「じゃあ、連中の報復はないんだな？」
「ええ。協力関係にあるのは一部だけ。
　古参の５匹……神代同盟に手を出さなければね。
　とはいえ、アイツらも全員が全員、人間の敵って訳じゃないし、既に倒されている祖もいる」
「『二十七祖』というのは在り方を示す呼称だから変わらないけど、実際にはえーと……残り二十一祖かな？
　ヴローヴが継承していたアッフェンバウムの原理、
　『実り』の原理、『城、即ち王国』の
原理、
　『剣』の原理、
　それと教会に封印された『熔ける』原理、
　『四肢』の原理……」
「三千年近くかけて減ったのはこれだけ。
　教会はひとりの祖を封印するため、100年単位で準備しては実行していたけど、成功例はたったの二回。
　どう？　今回のヴローヴ退治がどれだけ凄いコトだったか、ちょっとは実感できた？」
「……まあ、ほとんどおまえのおかげだけどな。
　凄いかどうかはともかく、二度とやりたくないのだけは痛感してる」
「そこは安心して。この国にもう二十七祖はいないから」
　それは良かった。
　というか、一つの組織が100年かけた計画を返り討ちにするような怪物にほいほいやってこられても困る。
　それこそ自衛隊の出番ではないだろうか。
　いい機会だ。否、絶好のチャンスだった。
　実はものすごく気になっていたんだけど、
「ヴローヴと戦っていた時に着てた服、
見せて」
　そうですよね。
　そういう顔しますよね。
　でも、転がり出した憧れは止められないんだ。
「あの時は遠くにいたからよく見えなくて。
　なんか、今と違う服装になってなかった？」
　できるだけ素朴に、あくまで学術的な興味だよ、という態度は崩さない。
　ここでアルクェイドに不審がられては、それこそ千金の損失だ。
「ああ、ヴローヴ対策で表面を変えていた時のこと？
　んー、疲れるからやりたくないんだけど、レシピはまだ残してるから……」
「はい。これでいいの？」
　それは、これでいいの？　なんて、なんでもない口ぶりで見せていいものではなかった。
　無駄のない流麗なフォルム。
　両腕を包む絹の手袋の滑らかさ。
　あらわな両肩は華やかでありながらあくまで清楚に。
　……言葉がない、とはこの事だ。
　可憐としか言いようのない、純白の美女がそこにいた。
「ツア――――――」
　意味不明の感嘆が漏れる。
　目の前にいる生き物が、今日一日さんざん俺を困らせてくれた吸血鬼とはとうてい思えない。
　というかこのドレスでもう一度遠野邸に来てくれないかな絶対絵になるから。
「これ、わたしの選択ミスだから、あんまり好きじゃないんだけど。
　ヴローヴの原理が『寒さ』だと見抜いていれば、もっとあったかいイメージで固めてたわ」
　……言われてみると、アルクェイドの周囲だけ気温が低い。
　きらきらと氷の結晶が舞っているようにも見える。
「そっか。耐熱仕様なんだもんな。そりゃあ冷房機能もついてるか」
「そう。くれぐれも触らないでね。触れると志貴も凍っちゃうから。
　これはわたし自身の護りじゃなくて、ヴローヴに組み付いた時、炎を消すために創ったものよ」
　防御しつつ攻撃する、というコンセプトか。
　いかにもアルクェイドらしい。
　……にしても、その……
　……悔しいけど……
　本当にお姫様だったんだな、こいつ……
「もう。なによ、難しそうな顔して。
　もしかして志貴、わたしの失敗を見て楽しいの？」
「そんなワケあるか。これが失敗なら世の中の９割は失敗だ。普段からこの格好……はダメだよな、目立ちすぎる。
　だいいち他のヤツに見せるなんてとんでもない。これは俺だけの特権だ」
「そ、そう？　じゃあ気に入った、ってコト？」
　ふと冷静になる。
　あまりの衝撃で迂闊な発言をしてしまった。
「ま、まあ、それなりに。一緒に戦う時、おまえが色々できると頼りになるだろ」
　なんとか取り繕う。
　“頼りになる”という言葉が嬉しかったのか、
「もっちろん！　わたし、基本的に万能だから！
　殺す事しか能の無い志貴を最大限にサポートするね！」
「――――――」
　……妙な自信をつけさせてしまった。
　コイツ、いま間違いなく俺をテニスボールのように打ち出すニュアンスで言ってたぞ……。
　ヴローヴとの戦いで、あんな無茶な作戦を立てたのが悪かったか……。
「ところで。その服、名前とかあるのか？」
「名前？　そんなのいちいち決めないけど……
　ドレスコードは、そうね……『氷河をまとう』かな？
　そういうイメージで創ったわ」
「ふむ。じゃあヴローヴの力を見抜いていたら―――」
「キラウエアをイメージしていたでしょうね。あそこは今も活動している火山だから」
　そこは可愛く『<南国|ハワイ>のわたし』くらいにしていただきたい。
「ね。そろそろ着替えていい？
　力、無駄に使いたくないし」
　……名残惜しいが、これ以上アルクェイドを止める理由が思いつかない。
　できるだけ冷静に、どうぞ、と返答する。
　それはともかくとして、
「なあ。ヴローヴとの戦闘服が、なんでドレスなんだ？
　社交界に行くワケでもあるまいし」
「？　社交界ってそういうものでしょ？」
「―――
なるほど」
　吸血鬼の世界において、社交界とはそういうものであるらしい。
　時計の針が頂点を指す。
　話しているうちに、時刻は約束の零時になってしまった。
「っと、もう日付が変わっちゃうね。
　もったいないけど、そろそろ休んでもらわないと」
「俺ならまだ元気だけど……」
「それは志貴がそう思ってるだけよ。今夜はここでお別れにしましょう。
　どうせ、また明日には会えるんだから」
　アルクェイドは踊るようなステップで、こっちを見たまま遠ざかっていく。
「明日って……ちょっと待て、待ち合わせ場所とかどうするんだよ、おい！」
「ここでいいよ。時間は10時ごろがちょうどいいかな。
　おやすみなさい、志貴。また明日、ここでね！」
　止める間もありはしない。
　楽しげに手を振って、アルクェイドは去っていった。
「な―――」
　なんて勝手なヤツ、と文句を言いたいのに言葉が続かない。
　その表現は間違っている。
　アレは勝手なヤツなんて、そんな可愛いものじゃない。
「―――なんだよ、今の顔」
　……ほんと、凶悪すぎる。
　あんな笑顔を見せられたら、約束なんて絶対に破れないじゃないか―――
　屋敷に帰ってきた。深夜という事もあって、屋敷の明かりは完全に消え去っている。
　玄関に鍵はかかっていなかった。
「……翡翠、ちゃんと開けててくれたんだ」
　ほう、と感謝の吐息がもれる。
　秋葉や琥珀さんたちを起こさないように、抜き足で屋敷の中へと入っていった。
「―――ふう」
　一息ついてベッドに腰をかける。
　あいつが言った通り、体はこの上なく疲れていた。
　吸い込まれるようにベッドに倒れこむ。
「………………はあ」
　横になったまま、大きく息を吐く。
　……アルクェイドとの約束。
　なんの因果か、再び厄介ごとに足を踏み入れた遠野志貴。
「……でも仕方ないじゃないか。放っておけなかったんだから」
　それとも放っておきたくなかったのか。
　あの奇跡のように美しい、人間ではない生き物を。
「――――――」
　馬鹿らしい。一度この手で殺しておいて、なにを血迷っているのか。
　俺が吸血鬼退治に手を貸すのは街のためだ。自分に害が及ぶから、仕方なく協力しているだけの話だ。
「……そうだ。それ以外、なにがある」
　……目蓋を閉じる。
　……眼鏡をはずす。
　体と意識を深い闇に引きずり込もうとする、巨大な手のような眠気に身を委ねる。
　……ともかく、またアルクェイドの手伝いをする事になったんだ。
　今は余計な事は考えず、明日に備えるとしよう――――
「志貴さま」
　朝の光と共に翡翠の呼び声が聞こえてくる。
「志貴さま、お目覚めの時間です」
　抑揚のない声で意識がはっきりと呼び起こされる。
「ん……おはよう、翡翠」
　上半身を起こして翡翠に声を返す。
　ずきり、とこめかみに痛みはあったが、立ち上がれなくなるほどのものではなかった。
「志貴さま……？　
ご気分が優れないのですか？」
「いや、今朝は普通だよ。昨日の調子が良すぎただけだ。
　貧血気味なのはいつもの事だから、気にしないでくれ」
　軽く頭を振ってベッドから出る。
「今朝もありがとう。起こしに来てくれて助かった」
「いえ、これがわたしの仕事ですから。
　志貴さまにお言葉をいただくほどの事ではありません」
「お礼を言うほどの事だよ。目覚まし時計の音なんかより何倍もあったかい。
　俺は眠りが深いらしくて、目覚ましじゃなかなか起きられないんだ」
　なので翡翠に起こしてもらえるのは本当に助かる。
　こうして着替えも持ってきてくれるし、至れり尽くせりだ。
「時間は……７時ちょっとか。あんまり余裕はないな。着替えて顔を洗ったら食堂に行くから、先に行っていてくれ」
「………………」
　……？
　翡翠は意味ありげにこちらを見ている。
　緊張しているのか、やや震えているようにも見えた。
　―――その、弱々しく<翳|かげ>る瞳の色が、俺には
「関係のない話なのですが。
　就寝時間の後、わたしと姉さんは２時間おきに屋敷の見回りをいたします。
　午後９時は姉さんが、11時はわたしが。午前１時には姉さんが屋敷中の戸締まりをチェックしているのです」
「そうだったんだ。……それ、大変じゃないか？　夜と朝だけでいいだろうに」
「決まりですから、どうかお気になさらないでください。
　……あの。その時の話ですが、仮にわたしが施錠を忘れた箇所があっても、午前１時には姉さんが見つけて施錠し直してしまうので……」
「――――――」
　そこまで説明されて、翡翠が何を言いたがっているのか理解できた。
　翡翠は西館の勝手口の鍵について、遠回しに説明してくれている。
「翡翠、俺が出ていったコトに気がついてたのか？」
「あ……いえ、決して咎めているのでは、なく」
　翡翠は申し訳なさそうに俯いてしまう。
「いや、違うんだ。怒ってないよ。
　……でも、そっか。翡翠は知ってたのか。だから勝手口の鍵、閉められずにいたんだな」
「……はい。鍵が開いていましたので、もしやと思い、勝手ながら志貴さまのお部屋の様子を拝見させていただきました」
　消え入るような声で翡翠は答える。
　主人の不正を糾弾するようで決まりが悪いんだろう。
「ありがとう。おかげで昨日は助かった。
　翡翠はぜんぜん悪くないよ。もともと夜中に出歩く俺に問題があるんだから。
　あ、でも―――」
　この事は秋葉には黙っていてほしい、とまでは言えなかった。
　それでは翡翠を余計に苦しめてしまう。
　彼女は俺の世話をしてくれているが、実質的な雇い主は遠野家当主である秋葉だ。秋葉に対して不義理を働いては、後々彼女の立場を悪くしてしまう。
「秋葉には俺から説明するよ。翡翠は何も知らないフリをしてくれればいい」
「―――――」
　翡翠からの返答はなかった。
　彼女はじっと俺の顔を見た後、
「……な、なにかな？」
「僭越ながら。
　志貴さまはまったく反省していません」
「あ……いや、はい？」
「……失礼しました、訂正いたします。
　そのお顔を見るに、志貴さまに改める気はないのですね？」
　う……大人しそうに見えて、ズバッと痛いところに斬り込んでくる。
「……すまない。約束があって今夜も出かける事になる。けど誓って悪い遊びをしてるワケじゃない。あれは、その」
　これ以上犠牲者を出さない為に吸血鬼の残党と戦っている、とは言えなかった。これではますます怪しい。
「それは今夜だけなのでしょうか？」
「……どうかな。俺にも分からない。ただ、
長くは続かないと思う」
「では、危険な事はないのですか？
　志貴さまがまた怪我を負って帰ってくるような事は？」
「ああ、それなら大丈夫。戦車みたいに強いヤツが一緒だから。何があっても怪我なんかしないよ」
　その一点においては胸を張って主張できる。
　この街でアルクェイドに勝てるヤツなんて、もう一人もいないんじゃないだろうか。
「……お話は分かりました。
　それではわたしも志貴さま同様、昨夜と同じ業務を行わせていただきます。どうか、お早いお帰りを」
　翡翠は慇懃に一礼して退室していった。
「……ありがとう、翡翠」
　彼女に許された最大限の譲歩に感謝する。
　つまり、自分が見回りをする時は見逃すから夜の１時までに帰ってくるように、と翡翠は言ってくれたのだ。
　学生服に着替えて部屋を出る。
　寝起きに頭痛はあったものの、体調そのものは良いようだ。
　二階の洗面所で顔を洗って食堂に行こう。
　秋になって水道の水も冷たくなってきた。
　いつもは手のひらにすくった水を顔にかけるだけだが、今朝はなんとなく、溜めた水の中に顔を沈ませた。
　冷水が顔面の体温を奪っていく。
　目、鼻、口の感覚が外気と隔絶されている。
　石膏に<死顔|デスマスク>を刻んでいるような錯覚を覚えて、沈めていた顔を上げる。
「―――誰だ？」
　一瞬、鏡に映った自分に違和感を覚えてしまった。
　すぐに眼鏡をかけていなかった事に気付く。
　顔を洗うのだから外していて当然だ。
　それにしても、
　さて、気分も落ち着いたし。
眼鏡をかけ直して、琥珀さんの待つ食堂に向かう事にした。
　朝食を済ませて居間に移動すると、とっくに朝食を済ませた秋葉の姿があった。
「おはよう秋葉」
「おはようございます兄さん。
　健康な学生らしい、余裕のある朝で何よりです」
　優雅にお茶を楽しんでいた当主様も今朝は見るからに上機嫌だ。何かいい事でもあったんだろう。
「兄さんも何かお飲みになられますか？
　時間はまだあるでしょう？」
「ああ、それじゃ普通のお茶を一杯」
「普通、などというお茶はないのですけどね。琥珀、兄さんにも一つ淹れてあげて。チョイスは貴女に任せるわ」
「かしこまりました。今朝の献立から考えますとほうじ茶などがよろしいかと」
　琥珀さんは笑顔で厨房に向かった。
　こっちは秋葉の対面のソファーに座って、携帯端末でニュースサイトを流し見る。
　あいかわらず細かな話題にはこと欠かないものの、殺人事件のニュースはない。
　もう判りきっている事とはいえ、吸血鬼事件による新しい犠牲者は出ていない。
　それを確認して携帯をポケットにしまう、と……
　当主様はマジマジと、不思議なものを見るような目で俺を見詰めているのだった。
「な、なんだよ。携帯ぐらいはいいんだろ。いまだってニュースサイトをチェックしただけで」
「別に怒ってはいません。すぐに仕舞ってくれましたし、朝のニュースぐらいは知っておくのは良い事ですから。
　ただ、兄さんがそういうものを使いこなす姿というのがイメージに合わなかったので驚いただけです」
「……おまえの中でどんなイメージなんだよ俺は。
　とはいえ、俺も使いこなしてはいないよ。今朝は気になる事があっただけで普段はあまり使わないし。話したい事や知りたい事があったら本人と直接話した方がいい」
「そうなんですか？」
「そりゃあ時間の許す限りは。一行や二行の言葉のやりとりで分かるのは一行二行分のコトだけだし。連絡事項としては便利だけど、会話をするなら会って話した方が断然いい」
「一部分しか表せない<連絡|システム>なのに、その一部分を見た人間はそれが相手の全部分だと錯覚する、という事ですね。
　たとえば、発信者は爪先しか見せていないのに、その爪が猫のものだっただけで全身まで猫だ、と決めつけるような。
　私もその意見には賛成です。文字だけならいくらでも嘘をつけるのが人間ですし」
「…………」
　当主さま。まことに言いづらいのですが、爪が猫のものだったら猫なんじゃないかな、その人。
「……まあ、そこまでは言ってないけど。
　簡素な人間関係もそれはそれで便利だと思うよ。知り合う人ぜんぶに全身全霊で向き合ってたら体力が持たないし。
　色んなところに行けるようになって、いろんな人と知り合えるようになった以上、人間関係も最適化させないと潰れちまう……ってのは友人からの受け売りだけど」
　もっとも、そう言う有彦自身、その風潮とは真逆に生きている人間だが。
「そう、安心したわ。兄さんにも心を許せるご友人がいたんですね。機会があれば私にも紹介してもらおうかしら。
　―――もちろん、遠野家の長男におかしな遊びを教えていないかどうか、じっくりと詰問させていただくのを前提で」
　……今さら言うまでもないけど。怖いよね、うちの妹。
　秋葉と雑談を交わしていると、琥珀さんがほうじ茶を運んできてくれた。
　渋みはあるものの清涼感のあるほうじ茶の熱さが、食後のけだるさを払拭してくれる。
　秋葉は登校時間になったのか、音もなくソファーから立ち上がった。
「お先に失礼しますね兄さん。
　私は夕方まで帰れませんが、兄さんのご予定は？」
「え？」
　何気ない一言に顔を上げる。
“今日はどうするのですか？”と秋葉は言った。
　その、何の変哲もない言葉がなぜか心に刺さる。
“今日はどうするのか”と質問されたのに、
“おまえはこれから何をするのか”と問われた気がしたのだ。
「いや、特に何もないよ。
　学校にいって、終わったら帰ってくるだけだ」
「……ふうん。そんな事なら午後の予定はキャンセルしておけばよかった」
　何やら不満げに呟く秋葉。
「秋葉？」
「いえ、何でもありません。それではごきげんよう。兄さんも遅刻などしないでくださいね」
　秋葉は琥珀さんと共に居間を後にした。
　ひとりになって改めて自問する。
　昨日までの俺は“何をすべきか”ばかりで、“何をしたいのか”を考えてもいなかった。
「……今の俺がしたい事……」
　知ってしまった者の責任として、いま優先すべきは吸血鬼の後始末だ。
　そういった義務感を抜きで考えれば、
　やっぱり、先輩の顔が脳裏に浮かんでしまう。
「……そりゃあ、シエル先輩の事は好きだけど」
　異性としても人間としても惹かれている。
　もっと先輩の事を知りたいとも思うし、あの人の笑顔を見ていたいとも思う。
　でも―――
　そこまで先輩を慕っていながら、俺はアイツの事も放っておけないでいる。
「……いや、違う。放っておけないのは吸血鬼の事だからだ。街から吸血鬼がいなくなれば、きっと」
　きっと―――アルクェイドとの協力関係も終わってしまって、何の未練もなく、今まで通りの日常に戻れる筈だ。
「そうだ。俺がしたい事なんてそれしかないじゃないか」
　よし、と納得してソファーから立ち上がる。
　時刻は７時半。
　そろそろ家を出ないと間に合わない。
「……それはそれとして。
　アルクェイドとの事は黙っているしかないんだよな……」
　先輩とアイツが水と油なのは分かりきっているし。
　隠し事をして気が引けるけど、事が終わるまで先輩には気付かれないようにしないと。
　ホームルーム10分前に教室に到着すると、俺の席で有彦とシエル先輩が和気藹々と談話していた。
「あれ、
シエル先輩？」
「………………」
　……？
　声をかけた途端、先輩はピタリと話を止めてしまった。
「よっ、おはよーサン。時間ギリギリで登校とか、おまえさんもここ一番でついてないね。今朝はシエル先輩が遊びにきてくれたってのに」
「あ、ああ。それは見れば分かるけど―――
　先輩、なんか様子がおかしくない？」
「はあ？　おかしいトコロなんてねえっての、いつもキュートなシエル先輩なめてんの？
　いまだってオレと遠野の昔話でもりあがって……
あれ？」
　有彦も気がついたらしい。
　あちらの方、目に見えて不機嫌なんですけど。
「…………………」
　沈黙が重い。というか怖い。
　有彦はこそこそと俺に近寄ると、小声で話しかけてきた。
「……おい。なんかしでかしたのか遠野。先輩、メチャクチャ不機嫌だぞ？　さっきまであんなに笑顔だったのに……！」
「……いや、俺は何もしてないっ！　おまえこそなんか失礼なコト言ったんじゃないのか……!?」
「……………」
　先輩はむすっと俺を見据えている。
　……まさかとは思うけど……アルクェイドとのコトがバレてる……とかないよ、な？
「え、えっと、おはよう先輩。
　俺の席にいるってコトは、今朝は俺に話でも？」
「別に。遠野くんになんて微塵も関心はありません。
　ただ、ちょっと気になったので様子を見に来ただけです。よく貧血で倒れるとの事なので」
「あの、それ俺に用ですよね？」
　しまった、つい脊髄反射で返してしまった。
「見、見ようによってはそう言えないコトもありません。
　まったく、朝から健康そうで結構ですね」
　先輩は気恥ずかしそうに眼鏡をいじりながら、丁寧な口調で、似合わない悪態などをついた。
「とにかく、わたしは乾くんと話しているのです。遠野くんに用はありませんから、教室の隅かロッカーの中にでも入って自己反省をしていてください」
　キリッと表情を引き締め、クールに言い放つシエル先輩。
「………………」
「………………」
　あまりの無理しているオーラに、思わず顔を見合わせる俺と有彦だった。
「つまりアレだ。理由は分からんが先輩は遠野をこらしめたいと。つーか土下座レベルで反省させたいと」
「い、いえ、そこまでの話じゃないんですけど……」
「いや、そこまでの話と見た。コイツは人並の情がないんでよく地雷踏むからな。
よし、そういうコトなら力になりましょう！　遠野、しりとりしようぜ！」
「なんでしりとり!?」
「正気かテメェ!?」
　先輩とふたり、同時に声をあげてしまった。
　シエル先輩は俺と目が合うと、気まずそうに視線を逸らす。
「ど、どうしてしりとりなんでしょう。説明を求めます」
「いやあ。先輩、遠野の泣かせかた知ってる？」
「遠野くんの泣かせかた……？
　知りませんが、興味が湧いてきました。是非教えてください」
「もちろん。ただし遠野と仲直りするのが条件っス。遠野の弱味を教えるってコトで手打ちにしてやってください」
　おおー、と感嘆の声をあげるシエル先輩。
　恐るべき有彦、それだけで先輩の機嫌を直してしまった。
　しかし。
「おまえ、それ言っていいの俺じゃないか、普通!?」
「だっておまえバラさねえじゃん。先輩、朝から来てくれたのにおまえは一向にこないし、加えて何かしでかしたんならこれぐらいのリターンねぇとな」
「いや、でも。だいたい面白い話じゃないだろ、それ」
「遠野くんは黙っていてください。さあ乾くん、ハリアップ。こうなったら話を聞くまでテコでも動きません」
「……………」
　ホームルームまであと３分。
　先輩とノエル先生が教室で顔を合わせるのはすごく胃が痛くなりそうだし、これはもうホントにしょうがない……。
「それがですね。遠野、しりとりすると泣くんですよ。試しに１分続けてみると分かりますよ」
「え……ホントに？　しりとりって、あのしりとりですよね？　言葉尻を繋げていく」
「そうそう。もうボロボロ泣く。中学の頃、それを知らない女子どもがビックリしてさー！　なんか悲しい出来事でも思い出させちゃったのー!?　とか、
無闇に大人気でオレは頭に来ましたけどね！」
“なんで？”と不思議そうに俺を見る先輩。
　その気持ちは分かる。
　しかし、人体というものは時としてよく分からない仕組みで動くものなのです。
「……その、繋がらない感じがイヤなんです。
　誰だってあるでしょ、理由はないけどダメなコトって。食べ物の好き嫌いと同じです」
「…………えっと、ホントに？」
　突拍子もない話に、先輩は恐る恐る聞き返してくる。
「はい、ホントです。
　……ああもう、だからつまらないって言ったんだバカ有彦。見ろ、先輩だって呆れてるだろ」
　耐えきれなくなって話を逸らす。理由はどうあれ、しりとりに弱いというのはやはり恥ずかしい事だ。
　……が。先輩はそうは取らなかったようだ。
「いえ、呆れてなんかいませんよ。逆に感動しました。そんな秘密、遠野くんにもあったんですね」
　先輩は遠慮がちにそう口にすると、コホン、と咳払いをして場を仕切り直す。
「たいへん失礼しました。個人的な理由で遠野くんを糾弾したかったわたしですが、それも筋違いだと反省しました。
　二度と教室に私情は持ち込まず、楽しい学園生活を送る事をここに誓いましょう！」
　機嫌を直してくれたのか、先輩はいつもの笑顔を俺に向けてくれた。
　しかし無情にもホームルーム開始のチャイムが鳴り響く。
　先輩との談笑は昼休みに持ち越しだ。
「おっと、時間ですね。
　それでは乾くん、遠野くん、縁があればまた放課後に。乾くんもあんまりさぼっちゃダメですよ」
　急いではいるものの自然な足取りで先輩は教室から退出していった。
　その背中に手を振る有彦。
　先輩に注意された事もあり、今日は真面目に授業を受ける事にしたようだ。
　午前中、３時限目、数学。
　日常は何の変わりもなく、こうして淡々と進んでいる。
　目に見える異常がないかぎり人間の習慣は変わらない。
　死者が残っている事を知りながら授業を受けている自分。
　殺人事件が起きていると知りながら<習慣|ルーチン>を守る人々。
　人間はかくも<逞|たくま>しい。
　未来の<生活|じぶん>のため、あらゆる危機感を鈍化させて<現|い><在|ま>の異状に順応する。それが現代社会に生きる者の基本スキルだ。
　ちなみに有彦は１時限目で姿を消していた。
　先輩の忠告も１時間しか効果はなかったらしい。
　これも一つの習慣だ。駅前に大穴が空いたところで乾有彦のライフスタイルは変わらない。アイツなりに異状を感じ取っていても、この習慣から逸脱できないでいる。
　かくいう自分はどうだろう。
　吸血鬼の残党がいると知りながら授業を受けている。吸血鬼を野放しにして遠野志貴の習慣を守っている。
　昼間は害がないし、夜にならないとアルクェイドと合流できない理由はあれ、善良さを語っておきながら、こうして自分の生活と利益を優先している。
「…………」
　欠如しているのは危機感か、正義感か。
　おそらくは両方だろう。吸血鬼であるアルクェイドに協力している時点でその両方に砂をかけている。
　俺は人間社会に準じながら、まっとうな人間では選ばない道に入り込んでいる。
　それを―――
　　　　　　　　―――当然のように感じている自分がいる。
「どうしました遠野君、気分が悪いんですか？」
　教壇からの声に、いいえ、と返答する。
　体調は悪くない。昨日から調子がいいぐらいだ。
　何を言っているんだろう、と首をかしげて窓に顔を向ける。
　ガラスに映った自分の顔色は、おかしな事に、透けていながらでも病的なものに見えた。
「―――」
　音もなく体が倒れる。
　教壇から心配そうに呼びかけてくる教師の声が聞こえる。
　……体調が良すぎた事が災いした。さっきから視界が途切れていたのは貧血による目眩だったらしい。
　必死に意識を保っても止められない。
　視界は唐突に落ちる幕のように、一瞬で無色になった。
　ふと、夢を見た。
　幼い頃からの疾患を治す為、何ヶ月かの間、馴染みの病院の世話になった。
　退屈だが安穏とした時間を過ごし、心身共に回復した。
　じき退院という時に、
　血の匂いのする夢を見た。
　親戚の家に預けられてからの日々は穏やかなものだった。
　模範的な学徒として振るまい、無事中学校を卒業した。
　ただ、死の手触りからはどうあっても逃れられず、
　絶映は影のように間近に在り続けた。
　父の訃報を聞き、数年ぶりに実家に戻ると妹に再会した。
　妹は幼年期の面影を残しながら美しく成長していた。
　屋敷には甲斐甲斐しく世話をしてくれる双子の少女もいた。
　まだ見ないように努めてはいるが、
　例外なく終わりは視える筈だ。
　見知らぬ女を見た。
　関係のない女だった。
　意味のない出遭いだった。
　異常を抱えていても自分は人間である自覚があった。
　彼女の部屋に足を入れた。
　瑞々しい生命力に目を奪われる。
　情欲に脊髄が打ち震える。
　愛という観念を知らずとも、これがそうなのだと理解する。
　俺はこの女を知りたかった。
　その結果が、
　何の言い逃れもできない、このような結末だった。
　血液は生<温|ぬる>く、肌を焼く染みのようだった。
　内臓は生<臭|ぐさ>く、断面からこぼれる<内|ワ><臓|タ>は<肥|こえ><溜|だ>めそのもので吐き気がした。
　腹部は鍋のようだが、末端はまた別の印象があった。
　腕や脚の断面はクリスマスケーキをナイフでぶった切ったようだ。<黄|ス><色|ポ><生|ン><地|ジ>と<白砂糖|クリーム>と<紅玉|イチゴ>の三色を連想させる。
　粘りつくような生臭さ。異臭は暴力と同義だった。
　血と臓物の混合した匂いは鼻孔から脳に侵入し、理性をグチャグチャに<攪拌|かくはん>する。現実感が曖昧になり、重力は消え失せ、視野はあまりに■■的な映像に釘付けになる。
　ぴちゃぴちゃと<囀|さえず>る水滴が、土砂降りか瀑布の音のように聞こえる。
　たった３リットル程度の血液が果てのない海に思える。
　断面はどの部位も見蕩れるほど圧巻だった。
　比較すればするほど己の醜さが際立った。
　パラシュートで落下した兵士の気分。
　さきほどまで見下ろしていたモノは、
　その実、見上げるほど巨大だった。
　死体が膨張していく。認知が津波になる。
　何もかも手遅れだった。手に負えないほど圧倒的だった。
　何の比喩でもなく、溺れるような情報量だった。
　逃げる事も、息をする事もできなかった。
　あまりにも膨大な、今まで機能として／道理として学んでおきながら目を瞑っていた、それは命の仕組みだった。
　意識が<矮|ちい>さくなる。自我が<些|わずか>になる。
　俺という個が、自らの低級さに耐えられず<萎|しぼ>んでいく。
　それを否定する材料はなく、<己|つみ>を<暈|ぼか>せば暈すほど、世界の拡大は止まらなかった。
　気がつくと自分は虫にすぎなかった。
　解体されたパーツは巨大な建造物のようだった。
　こぼれだす血液は都市を水没させる洪水だった。
　俺は死体にたかるウジ虫になって、その有様を見上げていた。
　人を殺すとはこういう事だ。
　自らがしでかした行為のただ中で遭難者のように震えながら、恥知らずにも助かろうともがいている。
“ほら見た事か。あっさり地金を<晒|さら>しやがって”
　誰かに話しかけられた気がして、虫の自虐から目を覚ます。
　目の前には当たり前の死体があった。
　人体は動かなくなると目障りなだけの荷物になる事を知った。
　とにかく場所をとり、始末に困り、処理に手間取る。
　なるほど。室内でコレが好まれないのは当然だ。
“相手が蘇生したから罪はない？　論点を逸らすなよ。相手がなんであれ、おまえが異常である事に変わりはない”
　ああ、本当に―――
“おまえはそもそも非人間だ。挽回の機会はない。だいたい、今までうまくやってきたと、本気で思っていたのかい？”
　最低に気持ち良すぎて、吐き気がする。
　……まったく馬鹿らしい。一度この手で殺しておいて何を血迷っていたのか。
　俺は虫以下の人でなしだった。
　美しい、なんて。
　そんな感想を口にする権利、初めから有りはしなかった。
　夢を見た。
　まっとうな人間でいるという、浅はかな夢を見た。
　……意識が<鈍|にぶ>い。
　何か、よくない夢を、見ていたようだ。
　目蓋を開けると、そこは学校の保健室だった。
　何度も使っているので天井を見るだけで判る。
　俺はベッドに横になっていて、まわりのカーテンは閉められていた。
　目は覚めたものの、体は動かせない。
　手足に血が通っていない感覚。
　自由になるのは呼吸だけで、それも意識していないと続かない。気を抜くとまた眠ってしまいそうだ。
　こういう時は何もせず、血の巡りが良くなるのを待つしかない。下手に声を出しても体力を失うだけだ。
「……………？」
　みじろぎもせず天井を見上げていると、ようやく音が聞こえるようになってきた。
　カーテンの向こうから話し声が聞こえる。
「この国に来てから出費が増えてタイヘンよね。安くていいものばかりなんだもの、お買い物もつい弾んじゃうんじゃない？
　あ、そうそう、昨日潰した死徒の話、したっけ？　高級マンションに引きこもってたヤツ。もうめっちゃくちゃいいお酒持ってたの！　処分した死徒の持ち物には手を出しちゃいけない決まりだけど、一本ぐらい拝借しても良かったかなー。そもそもアイツら味覚ないんでしょう？　なんでワインなんてコレクションしてたのかしら」
「……生前からの習慣でしょう。死徒化した人間は人間以上の体を得たにも拘わらず、人間だった頃の趣味に執着します。
　肉体が変化した事への反動として、人間的だった自己にすがりつくんです」
「あ、それちょっと分かるかも。先生も若い頃の洋服、大事にとってあるし。もう着れないのに捨てられないのよねー。
　だって一度も着れなかったし。お姫さまみたいなドレスでね、着こなすには勇気が必要だったの。そんな勇気が出る前に大人になっちゃったけど」
「ノエル先生」
「あ、そういう意味じゃないってば。ただの思い出話よ。
　でもなるほどねー。本国の死徒に宗教家が多いのはそういうワケだったんだ。この国の吸血鬼たちが物欲に走りがちなのも納得。あれ、でも日本人ってホトケ様にお祈りするんでしょう？　シエルさん、たしかお母さんが日本人だったわよね？　こっちに親戚とかいないの？」
「……それはいま関係のない話です。
　それより静かに。彼が起きてしまいます。疲れているようですし、昼食まで睡眠をとらせるべきでしょう」
　話し声はノエル先生とシエル先輩のものだった。
　話の内容からして保健室には彼女たちしかいないようだ。
　……もしかして、俺が倒れたのを聞きつけて様子を見に来てくれた……？
「そうかしら。志貴クン、もう目覚めないと思うけど。脈拍は平常時の半分、体温は30度あるかないか、意識レベルも睡眠というより昏睡じゃない。これで目が覚めるなら、それこそおかしいんじゃないかしら、シエルさん？」
　……どうも、その考えはぬか喜びらしい。
　ノエル先生の口調はどことなく冷淡に聞こえた。
「それは……そうでしょう、けど」
「そうなんだってば。……むう。なーんか、シエルさんにしては歯切れが悪いのよねー。これじゃいつもと立場が逆じゃない。悪い冗談みたい。オニのカクランっていうのかな？　もしかしてお風邪？　死徒のねぐらの調査、先生だけでいこっか？」
「それこそ冗談です。風邪を引くなんて、そんな人間らしい事がある筈がないでしょう。……身体に異常はありません。調査は私だけで行えます」
　死徒のねぐらの調査……そうか、本来ならその仕事はこの二人の役目なんだ。
　同じ吸血鬼でありながら死徒を殺しているアルクェイドの方がおかしいんだった。
　それはともかく、
「先輩。俺、目が覚めてますよ」
「！？」
　このままだと盗み聞きになってしまうので、なんとか肺に力をいれて声をしぼりだした。
「志貴クン、本当に大丈夫なの？　見た感じ、生きてるだけで精一杯って感じだけど？　お家の人、呼ぶ？」
「……ノエル先生。お家の人を呼ぶって、お葬式の準備をする、みたいなニュアンスでいいませんでした？」
「てへ、バレちゃった？　うん、冗談が分かるぐらいには覚醒できてるみたいね。
　どれどれ体温はっと……あらま、35度まで回復してる。もしかして、ホントにただの貧血だった？」
「そうですよ。これぐらいの貧血には慣れてます。もう少し横になっていれば持ち直しますから、その聴診器は引っ込めてください。心音とか聴かなくていいですから。掛け布団も剥がさないでください」
「ちぇっ、お胸の診察はまた今度か。
　残念だけど、このレベルの貧血が日常というトンデモ発言に免じて自重してあげます。これでも先生だものね、わたし。生徒の健康には気を遣わなくっちゃ」
「でも志貴クンが無事で安心したわ。地下で助けられた事もあるし、ここで死なれたら悲しいもの。
　ね、そうよねシエルさん？」
「そうですね。たとえ自業自得だとしても、私たちの前で死なれるのは困ります。
　今のように、話を盗み聞かれるのも面白くありませんが」
　先輩は淡々とそんな事を言った。
　朝の不機嫌な先輩とはまた違う、素っ気のない態度だった。
　……むむ。どう見ても演技だと分かるけど、盗み聞き扱いはちょっと酷いと思う。
「すみません、すぐ倒れる貧弱な体質で。先輩ほど頑丈じゃないんです」
「わ、わたしの体の話はしていませんっ。
　……とにかく、しばらく大人しくしているように。街はまだ危険な状態です。勝手に出歩いて、勝手に襲われる人を助けるほど、私たちも暇ではありませんから」
「あら。志貴クンなら死者ぐらいは返り討ちにできるんじゃない？　というか、先生ひらめいちゃった。
　ねぇシエルさん、死者探しの仕事、志貴クンに協力してもらうのはどう？　わたしたち、もう無関係な他人じゃないんだし」
　ね？　とウインクを投げてくるノエル先生。
　彼女の言う死者探しとはアルクェイドと同じ事だろう。
　俺は―――
「ありえません。人手は足りています。
　馬鹿げた発言は控えるように、代行者ノエル」
　俺が答えを返す間もなかった。
　先輩は作った声ではない、心からの冷徹な声でノエル先生を戒めると、ドアに向かって歩き出した。
「私はここで失礼します。
　ノエル先生は自分の職務に専念してください。
　遠野くんは二度と吸血鬼に関わらない。
　これは警告です。破った者には私から相応の処置があると覚悟するように」
「怒られちゃった。やっぱり本音出すと怖いわねー、あの子。
　……ま、そうでなくちゃ、わたしもやってらんないんだけど」
　シエル先輩は保健室を後にしたが、ノエル先生は椅子に座ったままだ。
　俺は……良かった、もう手足の感覚がある。
　深呼吸をしてから体を起こす
。
　時刻は午前11時前。この分なら４時限目には滑り込めそうだ。
「あら、志貴クンもう授業に戻るの？　
放課後まで休んでいくと思ったのに」
「そうしたいところですけど、体が動くなら授業にでますよ。いつ倒れるか分からないんだし、あんまり休めません」
「ふーん。可愛い顔なのに真面目なんだ。ますますキュンときちゃうかも。
　先生ね、無理してるクセに平気そうにしている人って昔からタイプなんだ。あ、もちろん男の人限定で。女の場合はまた別の話だから」
　なんて言いつつ、先生は空いているベッドに腰をかけた。
　悪ふざけで誘っている……のではなく、本当にベッドに横になるつもりらしい。
「じゃ、善良な学生生活、しっかりねー♪
　先生はもうちょっと休んでいくから。ちょっと風邪気味みたいなのよね。食欲もないしやる気もでないし。夏バテみたいなものかしら？」
　ベッドまわりのカーテンが閉まる。
　ノエル先生は陽気に口笛などを吹きつつ横になってしまった。
「あの。俺が言える事じゃないけど、教師がそんな簡単に休んでいいんですか？」
「ホント、キミが言えるコトじゃないわね。オトナだってさぼりたい時があるのよ。いいじゃない、自習の一つや二つ。わたしサンタクロースみたいなもんだし。ちょっと早いけど、子供たちにプレゼントをあげましょう！」
　妙な言い訳をして彼女は眠ってしまった。
　起こすのも気が引けるし、こっちも急がないと４時限目に間に合わない。
　一応、薬箱から風邪薬を出してテーブルに置いてから、保健室を後にした。
　４時限目の授業が終わった。
　茶道室に行ってシエル先輩に会うか、ひとりで済ませるか。
　どちらにしても購買部で昼食を買ってからの話だ。
「……あれ、
先輩？」
　購買部に向かう途中、中庭を横切っていく先輩の姿が見えた。
　先輩は通り過ぎる生徒たちと挨拶を交わしながら、一直線に正門に向かっている。
　この時間に、学校の外に出る……？
　……怪しい。あの購買部好き……というか特定のパン好き……の先輩が、わざわざ外にランチしに行くとは思えない。
　もしや、保健室で言っていた“吸血鬼のねぐら”を調査しに行くのではないだろうか？
　だとしたら放っておけない。先輩にいくつか確認したい事もある。
「……それに、アルクェイドとの約束もあるし。吸血鬼のねぐらを事前に見つけられるなら、アイツだって喜ぶだろう」
　元気な素振りを見せていたとはいえ、アイツも病み上がりのようなものだ。俺も少しは成果を出さないと立つ瀬がない。
　……よし、先輩を追いかけよう。
　ちゃんと話しかければ先輩も無下にはしないだろう。
　急いで正門を出る。
　こっちは全力で走って、先輩は普通に中庭を歩いていたものの、やはり距離の差があった。
　先輩は
―――
　いた、駅方面の通学路だ。
　あの後ろ姿、間違いない……！
「いや、間違いはないん、だけど……」
　なんか異様に歩くの早いぞ、あの人……!?
　さりげなく目立たない細道に入っていくし、
　急がないと見失う……！
「はぁ……はぁ……はぁ……」
　走りっぱなしだった足を止めて、乱れた呼吸を整える。
　なんとか先輩の背中を追ったものの、南口駅前に出た途端、あっさりと見失ってしまった。
　時刻は午後１時前。オフィス街であるこちら側は北口ほどの人通りはない。昼食を済ませて職場に戻る会社員の姿がちらほらと見られるだけだ。
「……結局、駅まで来たけど……」
　胸の上から心臓を押さえて、改めて周囲を見渡す。
　交通量の多い北口駅前と違い、南口は見晴らしがいい。
　多少の距離はあっても先輩を見失うコトはない、とタカをくくっていたのが失敗だった。
　先輩は俺に気がついていなかった。
　というか、声をかけられる距離まで追いつけなかった。わざわざ俺をまくために姿を隠すとも思えない。となると……
「……急ぎすぎて、途中で追い越しちゃったかな……」
「いえ、こういう場合は追い越しちゃったではなく待ち伏せされちゃった、というんですよ遠野くん」
「先輩！？」
「い、いつの間にこんな近くに!?
　さっきまであんなに離れてましたよね!?」
「あんなに、とは大げさかつ曖昧ですね。距離にして19メートル弱、ベースボールで言うところのピッチャーからキャッチャーまで離れていた、と正しく言ってほしいところです」
　……まずい。表情や台詞こそとぼけているものの、先輩の目は笑っていない。
　それも当然だ。朝と保健室の一件があったばかりなのに、こんな尾行めいた事をされたらそりゃあ誰だって怒る。
　けど、こっちも遊び気分で追いかけて来た訳じゃない。
　ここは強気で先輩を押し返さないと。
「こ、こんにちは先輩。こんな時間に外で会うなんて奇遇だね」
「ええ、奇遇ですね。わたしはこれから電車に乗って隣町まで行くんですが、遠野くんは？　早退して帰宅ですか？」
「……いえ、帰るのは後です。
　俺も先輩と同じ電車に乗りますから」
「ほうほう。５時限目はボイコットですか？」
“いや、それ言ったら先輩だってボイコットですよ”と指摘したいのをぐっと堪える。ここで先輩に<発|タ><言|ー><権|ン>を渡してはいけない。
「さぼります。今は授業より、先輩が何処に行こうとしているのかが知りたいです」
「……そうですか。
　保健室でわたしが言った事を覚えていますか？」
「――――――」
　緊張から<固唾|かたず>を呑む。
　ここで下手な言葉を返せば、先輩は本気で俺を邪魔者として押しのけるだろう。最悪、保健室に逆戻りかもしれない。
「これが最後です。わたしの行き先は貴方の想像通り、吸血鬼の調査です。危険ばかりで楽しい事なんてありません。おとなしく学校に戻って、」
「いやです、そんなの。
俺、吸血鬼に関わるなとは言われたけど、先輩に関わるなとは言われてませんから」
　両脚に力をこめて先輩に視線を返す。
　思わず口からでた言葉だったけど、それで俺も自分の気持ちを再確認できた。
　俺は吸血鬼の問題以上に、シエル先輩を気にかけている。
　……この人がひとりで吸血鬼の調査なんかをしているのが、とにかく我慢ならなかったらしい。
「……わたしに関わるという事は吸血鬼に関わるという事です。今のは詭弁にすぎません」
「それはずるい。学校の先輩であるシエル先輩と教会のシエル先輩は別枠でしょう。そうじゃなかったら先輩は俺の教室に来てないでしょ。だって教室に吸血鬼はいないんだし」
「それは……そうですが」
「俺は学校の先輩の手伝いがしたいだけです。下心で動いているんです。なのに、それが吸血鬼退治なんて話になってるんでホント迷惑してるだけです。先輩がもっと普通の悩みとか持っていてくれたら、こんな苦労はしていません！」
　今の素直な気持ちをはっきりと口にする。
　自分でもヤケになっているのは分かっている。でもこれぐらい強気にでないと、きっと先輩はひとりで行ってしまう。
　保健室送りになんかされるものか。ここまできたら石に齧りついてでも先輩に付いていってやる。
「……はあ。確かに、学校のわたしと代行者の私は違う立場と考えるべきでしたね。一緒にしてしまったら明日から学校には行けなくなります。
　……まったく。これだから遠野くんは怖いです。窮地になると急所を突いてくるんですから」
　やれやれと呆れ気味に溜息をこぼす先輩。
　……という事は、つまり……
「えっと……一緒に行っていいってコトですか、先輩？」
「はい。遠野くんに見つかってしまったわたしの落ち度というコトで、今日だけは特別です。付いてくるだけなら大目に見ます。……無鉄砲な後輩に、吸血鬼のねぐらがどんなものか知ってもらうのもマイナスではありませんし」
「先輩……！」
　俺の気持ちが伝わったのか、シエル先輩はいつもの笑顔に戻ってくれた。やっぱり先輩はこうでなくては。
「―――ただし。その前に反省してもらわなければいけません。貴方がどれほど度し難い失敗をしたのか、分かっていますか？」
「え……失敗、ですか？」
　まさか昨夜のアルクェイドとの件だろうか。
　あれを持ちだされたら流石に弁明できないんだけど……
「先ほどの尾行、あれは酷いです！
　足音も気配もだだ漏れで、見つけてくださいと言っているようなものでした。
　わたしだったから良かったものの、ノエル先生や死者相手にあんなコトをしたら翌朝には路地裏で目を覚ますコトになりますから、今後は注意するように！」
「……………」
　尾行の精度について怒られてしまった。
　さっきまでのお怒りも大部分はそこにあったらしく、ホントは俺をあっさり引き離すつもりだったものの、あまりに尾行が下手だから我慢できずに声をかけてしまったとのコト。
　今さら、あれは尾行じゃないんですよ、とは言えない空気だ。
「でも……うん、そうですね。次からは善処します」
　苦笑しながら先輩に答える。
　多少スパルタなところはあれ、シエル先輩はとことん面倒見のいい人なのだった。
　先輩と一緒に電車に乗って二駅ほど移動する。
　<櫛塚|くしづか>駅のターミナルから、バスで移動すること20分。
　最寄りのバス停から
歩くこと20分。
　住宅地から離れた工場地帯のただ中に、
その建物は静かに<屍|かばね>を<晒|さら>していた。
「先輩、ここは？」
「死徒のねぐらですよ。いえ、でした、と言うべきですね。
　以前に処理した死徒から手に入れた情報でしたが、完全に放棄されているようです」
　放棄された住み家……ハズレ、という事か。
　確かにこれでは死徒はおろか野犬すら住み家にはすまい。ここは都市に隣接しているだけの、誰からも忘れ去られた廃墟だ。
　廃院になる前はよほど大きな病院だったのだろう。
　正門からでも中の広さが窺える。
　剥がれたアスファルトは草に侵食されている。
　遠くに見える病棟はところどころが崩れている。
　あれは火災による崩落だろうか。
　それにしては壊れている部分と、そうでない部分の差が激しすぎるが。
「念のため、中に入って汚染状況を確認します」
　先輩はいちいち『付いてくるかどうか』を聞いてこない。
　これは俺が勝手にやっている事で、シエル先輩は強制していないという意思表示なのだろう。
　頷きだけで応えて先輩の後に続く。
　雑草を踏みつけて廃病院の敷地に入る。
「……………」
　ここは空が高い。周囲に背の高い建物がないため、視界いっぱいに青空が広がっている。
　その<清潔|クリア>さは鮮烈すぎて目に痛い。
「……吸血鬼の汚れは微弱に残っていますが、今は何の害もありませんね。この規模の病院ですから、廃墟になる前は大きな拠点だったとは思いますが」
「あの地下墓地みたいな、ですか？」
「ええ。病院は死徒にとって利用しやすく、また価値のある施設です。個人資産によるものなら尚更ですね」
　廃墟になった院内に入る。
　シエル先輩は一部屋一部屋、丁寧に見て回っている。
　……俺は当然として、先輩自身、もうこの場所には何もないと分かっている。
　それでも丹念に異常が残っていないか確認する先輩の姿は、アルクェイドの派手さとは正反対だ。
「先輩。ちょっと話をしていいですか？」
「……もう。いいですよ、それぐらいは覚悟していましたから。邪魔をしない程度なら、どうぞ」
「じゃあ遠慮なく。
　吸血鬼は二種類いて、先輩たちがやっつけてるのは死徒の方ですよね。先輩たちが追っていた死徒……この街に居着いた死徒はどんなヤツだったんですか？」
「詳しくは話せませんが、典型的な死徒ですよ。少しずつ街に浸透していき、勢力を伸ばしていくタイプです。ヴローヴ・アルハンゲリほど直接的な脅威ではありません」
　……そうか。やっぱり先輩の目的もヴローヴではなかった。
　ヤツはイレギュラーな来訪者だったのだ。
　アルクェイドとシエル先輩は共通の、何年も前からこの街に巣くっていた吸血鬼を追いかけて来た。
「そうですか。あの、そいつの名前は？」
「……………」
　一瞬の間。
　先輩は何度目かの部屋を調査済みにして、はあ、と徒労で溜息をつきながら、
「ロア。ミハイル・ロア・バルダムヨォン。
　人間だった頃は教会の司祭だったと聞いています」
　そう、敵の名を口にした。
　ロア。その名称はアルクェイドの話とも一致する。
　なんでも転生する吸血鬼だとか。
　それが具体的にどのような意味なのか、俺はまだ知らない。
　シエル先輩もそれ以上は語ってくれなかった。
　……廃病院の探索は続く。
　一階、二階をくまなく歩いた先輩は三階に足を向ける。
　その途中で、ふと、
「たとえば、の話ですけど」
　シエル先輩は独り言のように、俺に話しかけてきた。
「たとえば、の話ですけど。
　ある日、自分が突然ホラー映画の主役になっていて、何の説明もなく悪役だと知らされて、開始１分からさんざん暴れて登場人物たちをみんな殺してしまったとします。１時間半、もうノンストップで。殺害人数は四桁を軽くオーバーです」
「ちょっ、この状況でホラー映画の話とか。脅かしっこはナシですよ、先輩」
「たとえ話ですから最後まで聞いてください。
　遠野くんはたまたま、気まぐれで映画館によってその映画を観たとします。“誰か”が主役の、そのホラー映画を。見終わってふと横の席を見ると、そこには悪役だった“誰か”が座っていました。
　映画のエンドロールから抜け出してきたばかりの、血まみれの“誰か”が」
「彼は言います。
“はじめまして誰かさん。映画の世界からやってきたものです。ああでも安心して、怖がらないで。私は台本通りに殺人鬼を演じただけ。それがまさか、終わった後に映画から追い出されるとは思ってもいなかった”」
「貴方は彼をどう思いますか？
　脚本通りなら仕方がない、と歓迎するか。
　フィクションであろうと悪役は悪役だと糾弾するか。
　それとも―――映画の中に戻れと批難するか。
　この場合、どれが人間として正しいのでしょう？」
「……………」
　咄嗟に答えが出ない。
　先輩のたとえ話はあまりにも突拍子がなくて、そのクセ妙に薄ら寒いものがあって、選ぶ事さえ考えつかなかった。
「あ、あの、先輩……？」
　先輩の意図が分からず、冷たい背中に問いかける。
　彼女はくすりと、自分に対して嘲りの笑いをこぼして振り返った。
「なーんて、ちょっとした退屈しのぎでした。とつぜん遠野くんにいじわるしたくなったのです。
　昨夜そういう内容のホラー映画を借りてしまって。あんまりにも真に迫っていたので、遠野くんにもホラーを分けてあげようかなと」
「そ―――そうですか。とつぜん意地が悪くなったコトはどうかと思いますけど、その映画自体は面白そうですね。二重構造でよく出来ています。タイトルを教えてくれれば俺も借りてみますよ」
「ええ。この事件が片付いたら、是非」
　話をしているうちに調査は終わりにさしかかっていた。
　最後に残った階層……天井が崩れ、空が見える３階部分に到着する。
　ここは―――
「おっと、この部屋で最後ですね。
　残念、いえ幸いな事に死徒の痕跡はなし。今回は完全にハズレでした」
　先輩の声は先ほどより少しだけ明るくなっている。
　調査を終え、ここに危険がないと判断したので警戒態勢を解いたのだろう。
　俺は―――
「そっか。なら戻りましょう、先輩。
　さすがに疲れました。昼間とはいえ廃病院っていうのも気持ちが悪いし」
「おや。あの地下広場でも音を上げなかった遠野くんらしくありませんね」
「……あのですね。あそこまでぶっとんでるともう驚きしかないんです。一方、廃病院は立派な都市怪談ですから。身近すぎてこっちの方が怖いです」
「なるほど。そういう事なら夜に付いてきてもらえば良かったですね。遠野くんの怖がる顔、見るチャンスだったのに」
　先輩はとんでもないコトを言う。
　まだ意地悪の続きらしい。
　ともあれ、ここにもう用がないのは本当だ。
　先輩は俺の提案を聞き入れて、早々に廃病院を後にしてくれた。
　入る時と同じ感想だが。
　本当に、ここは空が広くて、<綺麗|クリア>だ。
　総耶駅に戻ってくると、時刻は午後３時を過ぎていた。
　午後の授業は完全にサボってしまった。今から戻っても放課後だけど、鞄ぐらいは取りに戻らないと……。
　……情けない。
　昼食を抜いたのが<祟|たた>ったのか、空腹を告げる腹の虫が鳴ってしまった。
「ふむ。
空腹ですか、遠野くん」
「……恥ずかしながら。購買部に行く途中で先輩を見かけたから昼抜きなんです」
「ごはん、食べていきます？
　ちょうどこのあたりに、いいお店があるんですよ」
「あ――――え？」
　降って湧いた幸運に喉が詰まってしまった。
　店でごはんってコトは、先輩と外食するってコトだ。
　棚からボタ餅すぎる。仮に何かの罠でもホイホイ乗ってしまいたい。乗ってしまいたいん、だけど―――
「……い、いえ、あまりお腹は減ってませんから」
　嘘である。昨日といい今日といい食欲旺盛だ。
　しかし悲しいかな、今月は外食するほどの余裕はない。
　先輩が“いい店”と言うぐらいだし、目を疑うほどの値段設定のレストランかもしれない。
　ここは断腸の思いで断るのができる男の対応である。
「まあまあそう言わずに。一食ぐらいでしたらおごっちゃいますから。
　先輩らしく、手伝ってくれた後輩へのお礼をさせてください」
　先輩にはすべてお見通しらしい……。
　見栄を張るのはここまでだ。だいたい、あんな笑顔で誘われたら断れない。
「……すみません、実はお腹が減って倒れそうでした。お願いですから、その素敵なお店に連れていってください」
　ははー、とシエル先輩に平伏する。
「はい、素直な返事でたいへん結構です。
それでは可愛い後輩のため、はりきってひと肌脱ぎましょう！」
　俺が素直に頼った事が嬉しかったのか、先輩は足取りを弾ませて繁華街へ歩き出した。
　そっちは小さな店がひしめき合う一角だけど、やはり隠れた名店的なものがあるんだろうか……？
　よし、ここカレーショップだ。
　もう一度言うぞ。
　どこからどう見ても本格インド風カレーショップだ。
「おっと残念。ランチタイムは終わってしまいましたか。スパイシーチキンはつきませんね」
　心底残念そうに顔をしかめるシエル先輩。
「はい、どうぞ遠野くん」
　はい、とポイントカードを手渡された。
　貯まりに貯まったスタンプは『アメイジング！　カレーセットなんでも無料!?』地点まで到達している。
「はい？」
　先輩の意図は分かるけど、一応、念のために“どゆこと？”と聞いてみた。
「カレーセット無料券です。どうぞ好きなセットを頼んでください。わたしのお薦めはバターチキンカレーです。辛ければいいというものでもありませんし、遠野くんは初心者ですし」
「だよね。そういうコトだよね」
　うん、と頷いて店員さんにバターチキンカレーをセットで注文する。メニューを開いた時、先輩の指が10倍スパイスセットとやらに伸びかけた事は見なかったフリをした。
　ところで、意外な事に先輩の注文はチャイだけだった。
「先輩、飲み物だけでいいんですか？　もっとこう、ほら」
　ここまできたんだから、安定のいつものネタをやってくれないと。
「い、いえ、わたしはお昼はちゃんと頂きましたので。夕食前だし、いま食べてしまうと一日四食になっちゃいます」
　つまり、女子高生の一日の平均エネルギー摂取量的なものを考慮して我慢している、と。
　バターチキンカレーはたいへん美味しかった。
　カレーソースはバターが効いているのか辛いのに甘いという絶妙なバランスで、ナンも熱く柔らかく、パン生地を噛みしめるだけで旨みが口内に溢れてくる。
　この店は当たりだ。
　カレーショップ・メシアン、覚えておこう。有彦にも教えてやろう。
　……しかし。
　味は素晴らしいんだけど、今はちょっと落ち着かない。
　先輩はカレーをまじまじと見詰めている。針の山に座るヨーガの修行僧のようだ。
　いまスプーンに掬ったソースもこれでは素直に味わえない。
「先輩、ちょっと食べます？」
　軽い気持ちでスプーンを向け、呼び水をかけてみた。
　先輩が食べるならそこの小皿に取り分けて、
「はい、ちょっとだけなら！」
「!?」
　わーい、と子供のようにスプーンにパクつくシエル先輩。
　一瞬の、待ったなしの早業だった。
「いえ、あの。スプーンじゃなくて、小皿に分けるという意味だったんですが……」
「え―――ご、ごめんなさい、つい釣られちゃって……！」
　うん、ホントに大漁でした。
　先輩は恥じ入るように肩をすぼめる。
　こっちとしてはたいへんいい先輩が見られたので、ぜんぜんごめんなさいではない。
「……失礼しました。小皿に分けるなんて、まったくの想定外だったので……」
「先輩の中でどんだけ心が狭いんですか、俺は。
　はい、どうぞ。ナンも一枚食べてください」
　小皿にソースを分けて、こっちも残ったソースをスプーンでパクつく。
「？　遠慮しないで食べてください。もともと先輩の日々の<食|どり><事|ょく>の成果なんですから。間食については考えない方向で」
「は、はあ……そういうコトでは、ないのですが」
　先輩はバスケットからスプーンを取って、おずおずとバターチキンカレーを食べ始めた。
　そしてこの顔である。
　一口で幸せそうに破顔する先輩を見て、ついおかわりを頼みたくなってしまった。
　この笑顔を見られるのなら、あと何杯だろうと平らげられる気がしたからだ。
　食後のひととき。
　店長のサービス……常連さんは大事にするのだそうだ……でお茶を振る舞ってもらったので、俺たちはまだ店内でくつろいでいた。
　学校のコトでちょっとした雑談を交わしていると、先輩は姿勢を正して、
「いい機会だから聞かせてください。
どうして遠野くんはこの事件に関わるんですか。
　あんな目にあったのに怖くないんですか？　それとも、死徒を殺せる異能があるから怖くないとか？」
　そんな事を切り出してきた。
「いえ、怖いですよ。銃を持てば戦争は怖くなくなる、なんて話は聞いた事もないし。
　自分にどんな武器があっても、怖いモノは怖いです。逃げられるものなら逃げてしまいたい」
　それは偽らざる俺の本心だ。
　なまじ死が“視える”分だけ、俺は人より臆病だとも思う。
「本当は逃げたいんですね。……でも、ならどうして？」
「どうしてって、そんなの―――」
　街の平和。犠牲になった人々への鎮魂。身近な人々の安全。
　そんな言葉が頭によぎったが、それはあくまで二次的なものだ。俺が今も逃げ出さずにいるのは、あの夜の光景を覚えているからだ。
「そんなの決まってます。先輩が頑張っているからです」
　感謝と尊敬をこめて、ごく当然の答えを返す。
　あの夜。
　誰もが逃げ出す極寒の世界で、先輩はひとり戦っていた。
　自分の為ではなく、顔も知らない人達の命を守る為に。
　俺のように自分の<命|いのち>可愛さではなく、この人は全身全霊で、
その後ろに広がる全てを守ろうと身を投げだしてくれた。
　……そうだ。眠りに落ちる時でさえあの光景が脳裏に蘇ったのは、あまりにも尊いものだったからだ。
　俺はシエル先輩の躍動に目を奪われながら、あの、泣きながら走るような悲壮さに涙せずにはいられなかった。
　だから、覚えていようと思った。
　……俺には、この人ほどの強さはないにしても。
　誰に感謝される事もなかったあの奮起を、せめて俺ひとりぐらいはありがとうと言えるように、ずっと覚えていたいと願ったんだ。
「わたしが……頑張っているから、ですか？」
「はい。人知れず戦ってくれている人がいるんだから、こっちだって簡単には逃げだせません。というか、そもそも―――」
　俺はこの人に救われた。
　アルクェイドを殺してしまったあの日、先輩が俺に手を差し伸べてくれなかったら、俺はここにはいないだろう。
「……そもそも、先輩がヴローヴを倒してくれなかったらみんな死んでいたんだし。俺がやってる事は、単に先輩への恩返しみたいなものです」
　さすがに照れくさいので本当のコトは言えなかった。
　それでも感謝の気持ちは伝わってくれたようだ。
「あー……でも、先輩の足手まといになってるのは変わりませんね。相手はもう死んでいる、相容れない敵だって分かっているのに、割り切れない」
　相手が人のカタチをしていて、人と類似した知性を持っているだけで俺の<思考|あたま>は鈍ってしまう。
　吸血鬼であっても葛藤する心の弱さをいいかげん克服しないと。
「……うん、怖い怖い言ってられませんね。先輩の役に立ちたいんなら、もっと強い心を持たないと」
「い、いえ、それを直すなんてとんでもない！　それはよくない勘違いですっ！」
「せ、先輩？」
「……失礼しました。
　でもそこは是非、そのままで。
弱くても、わたしはそんな遠野くんがいいです。いちいち迷ってしまう人だから、わたしも守りたいと思うんです」
「………………」
」
「………………」
　……まいった。照れくさいやら嬉しいやらで、先輩の顔がまともに見られない。
　先輩も誤魔化すようにお茶にスプーンをいれてカチャカチャと音を立てている。
　……あっという間に５分が経過し、すっかりお茶が冷めきってしまった。
　このままではいけない、と一念発起して話題を探す。
「えっと……
そ、そうだ先輩！
　先輩はすごく強いけど、格闘技とかやってるんですか？
　ほら、武器もいっぱい持ってたし！」
　って、なにバカなコト口走ってんだ俺は……！
「格闘技……とは言えませんが、基本的なサバイバル技術は教えこまれました。後は対吸血鬼専門の対処法をいくつか習得したぐらいです。
　黒鍵も結界も、秘蹟もそれなりに使える……と思います」
「そ、そうなんだ。俺は視る事しかできないけど、先輩はやっぱり色々できるんだね」
　あはは、と誤魔化し笑いをする愚かな俺。
　……が。
　なにやら、それなりに空気が変わってくれたようだ。
「視るだけ、ですか……？
　わたしもまだ詳しい説明を聞いてはいませんでした。遠野くんはヴローヴの腕を切断していましたが、あれはどういったものなんでしょう？」
「どういったものって……うーん……」
　実践するのは簡単だが、ここで眼鏡を外して先輩の“死”なんて視たくない。
　なんとか簡潔に、俺の眼と“線”について説明した。
「直死の魔眼……死の概念を捉える魔眼、なんて……」
「そんなに珍しいんですか、これ？　先輩の方が何倍も凄かったけど」
「珍しいとか強いとか、そういった次元の話ではありません。これは魔術と魔法の関係に近いです。
　わたしの黒鍵や武装は、言ってしまえば『たしかに超常のものではあるが、今の技術でも到達できる物理現象』です。戦闘機や空母を個人で保有できる人物とそう大差はありません」
「一方、貴方の魔眼は『どうあっても今の技術では到達できない現象』です。死に向かうのではなく、死をカタチにするなんて……それこそ人の手に余ります。
　厳密に言えば、人間はまだ“死”を知らない。まだ誰も視ていないものを、貴方は視ているようなものです」
　先輩はおかしな事を言う。
　人間がまだ死を知らない筈がない。
　死はそれこそ世界に溢れているというのに。
「あの。人間は誰だって死にます。みんな生きているうちは経験こそしないけど、死はやってくるんじゃないんですか？」
「それは生命活動の停止にすぎません。人間という装置が活動できなくなっただけの結果を、わたしたちは死と呼んでいるだけです」
「人間が死んでも失われるものは何もありません。ミクロの視点で見れば素粒子は失われていませんし、マクロの視点で見ても、個人が死んだところで星に損失はありませんから」
「でも貴方の眼が視ているものは違います。過程を飛ばして物事を終わらせるのなら、それはエネルギー保存則に頼らない、究極の意味での死です。
　ある司祭からの受け売りですが、<無|し>とはこの宇宙にいまだないもの。在ると想定する事で多くの事象を説明できるけれど、実在してはいけないものとされています」
　ふむふむ、と鹿爪らしく頷く。
　そんな俺をじーっと見つめるスパルタな先輩。
「ごめんなさい、ぜんぜん分かりません。
　もう少しレベルをさげて教えてください」
「つまり空想上のものです。ファンタジーですね。ありきたりのものどころか、どこにもないモノってコトです。
　……まあレアケースなのは確かですが、神話にはそういった魔眼の伝承があるので、過去に何人かの<保有者|ホルダー>はいたんでしょうけど」
「でも、その眼ならヴローヴを切断したのも頷けますね。
　てっきりあのナイフが特別なものだと勘違いしていました。
　それで、その眼は遺伝ですか？　遠野くんのお父様もそういった眼を持っていたとか」
「いえ、違いますよ？　親父は普通というか、うちにこんな眼を持ったヤツはいません。
　異常なのは俺だけです。子供の頃、事故にあったって言いましたよね。その後遺症なんです、これ」
「後遺症……？
　生まれついてのものではない、というコトですか？」
「はい。線が視えるようになったのは七年前からですし」
　先輩は俺の顔を凝視した後、息を呑んで立ち上がる。
「わたし、勘違いをしていたっぽいです。調べ物ができたので今日はこれで」
　先輩は伝票を手に取ると、止める間もなく会計を済ませてカレーショップを後にした。
　……と思ったら戻ってきた。
「大切なコトを言い忘れてました。
　遠野くん、ちょっと立ってください」
「？」
　言う通りに席を立つ。
　先輩は俺を上から下まで観察すると、
「わたしはこれで帰りますが、くれぐれも夜は出歩かないように。その眼があるからって、一人で吸血鬼を探したりしちゃダメですからね」
「え―――」
　思わず動揺が口に出てしまった。
　夜に出歩かないって、それはアルクェイドとの約束を反故にするという事で―――
「遠野くん？」
「あ、いや、うん、分かった。分かりました。一人で吸血鬼探しなんて、しない」
「良かった。約束ですよ」
　先輩は満足げに微笑んで、今度こそ店から出て行こうとする。
「あ、待って先輩。……その、今ので一つ気になる事を思いだしちゃって。吸血鬼って不死身なんですよね。なら風邪とかも引きませんか？」
「ありえませんね。呪いならともかく、人間でいう風邪を引く、なんてナンセンスです。死者に免疫機能はありませんから」
「……だよなあ。なら真祖ってヤツも同じ？」
「真祖にいたってはありえないというよりあってはならない、です。彼らの免疫機能を活発化させるウイルスなんて、下手したら人類絶滅クラスです」
「…………」
「ところで、何でそんな話を？」
「あ、いや、なんでもないのです。
　それじゃあ先輩、また明日、学校で！」
　これ以上はやぶ蛇になるので、手を振って先輩を送り出す。
「また明日……
はい、また明日ですね！
　それではごきげんよう、遠野くん！」
　シュターン、なんて擬音が似合うような足取りで先輩は去って行った。
　……さて。
　色々あったけど、俺も学校に戻らないと。
　鞄を回収して、日が落ちる前に屋敷に戻ろう。
「あらかじめ言っておくと、俺は嘘は言っていない。
　吸血鬼探しはしているが、一人ではないのである」
　<人気|ひとけ>の絶えた夜の公園。
　誰に宛てたものか<定|さだ>かではない独白が闇に吸い込まれるように消えていった。
「？　なにか言った、志貴？」
「いや別に。アルクェイドには関係のないコトだ、気にしないでくれ」
　それに、約束で言えばアルクェイドとの約束の方が先なのだ。
　心の中で先輩に平謝りして、それはそれ、これはこれ、と開き直るしかない。
「よし、吸血鬼探しを始めよう。今夜は何処に行くんだ？」
「今夜は特にアタリを付けている場所はないわ。街を歩いて死者を見つけるぐらい。貴方の眼なら生きている人間と死んでいる人間、一目で判別がつくから。
　ちょっときついだろうけど、できる、志貴？」
「…………」
　眼鏡を外して夜の街を歩け、とアルクェイドは言っている。
　人気のない場所で眼鏡を外すだけでも吐き気がするんだ。人通りの多い街中での負担は相当なものだろう。
　けど、あんな顔で“できる？”なんて言われたら、任せろと言い返すしかない。
「……もちろん。協力するってそういうコトだろ」
「ええ、頼りにしてるわ<協力者|パートナー>さん。
　あ、でも本当に辛くなったらすぐに休んでね。
貴方の眼は特別だから、大切に扱わないと」
　アルクェイドに<促|うなが>されて夜の街に向かう。
　眼鏡を外す覚悟を決めると、不思議とやる気が湧いてきた。
　まずは繁華街からだ。一体でも多く吸血鬼を暴きだし、解体しなくてはいけない。
　しかし、こちらのやる気に反して成果はゼロだった。
　繁華街から路地裏、オフィス街、はては工場跡地にまで足を延ばしたものの、死者は一体も見つからない。
　<親|ロ><基|ア>が倒されて警戒している……のだろうか。
　連中はアルクェイドを恐れて<何処|いずこ>とも知れない自分の部屋に閉じこもっている。
　これでは俺もアルクェイドも見つけられない。
　だが、連中だっていつまでも隠れてはいられない。
　食事をしなければ死人に戻るしかないからだ。
　生きる為に危険を冒すのはどちらも同じ。
　ヤツラが外に出てくるのが先か、俺たちが気を緩めるのが先か。しばらくはこんな根比べが続くのだろう。
　拍子抜けだが犠牲者が出るよりはいい。
　なにより―――アルクェイドと一緒に街を見て回る時間が増えるのは、純粋に喜ばしかった。
「今夜はかんっぜんに無駄骨だったな。緊張して損した」
　ベンチに座って、頭に残る頭痛をやり過ごす。
　夜の空気は冷たくて、深呼吸する度、脳にたまった毒が凍っていく気がする。
　おかげで少しずつではあるが、目眩と吐き気は治まってくれている。
「そうね。
でもわたしは楽しかったわ。志貴はあいかわらず文句ばっかりだったけど、無駄なコトがこんなに面白いなんて知らなかった。
　その点は空気を読んだ死徒たちに感謝ね。お礼に、出遭った時は容赦なく粉々にしてあげる」
　物騒な発言をしているものの、アルクェイドは上機嫌だ。
　ベンチで休んでいる俺の前で、くるくると回るようにステップを踏んでいる。
　……なんだろう、アレ。
　まるで生まれて初めて外に出た子供のような、
　長く囚われていた囚人が自由になってはしゃぐような、
そんな様子だ。
「…………まあ、元気なコトはいいコトだけど」
　憎まれグチを叩きつつも目は
アルクェイドを追ってしまう。
　……いい加減認めざるを得ない。
　先輩への想いが親愛なら、アイツへの感情は愛情に近い。
　俺は先輩に惹かれているのと同じぐらい、アイツに惹かれている。はじめはアイツを殺してしまった負い目だと思いこんでいたが、もうそんな言い訳はきかない。
　自分が愚か者である事は自覚している。
　先輩の助けになりたいと思いながら、先輩の敵である吸血鬼に焦がれているなんて。
　……俺はどうかしている。
　理性ではアイツと距離を取るべきだと分かっていても、本能が、あの白い女を美しいと感じている。
　―――一度。
　あそこまで無残に、情欲に身を任せて、醜すぎる行為に及んだクセに。
「――――――」
　頭を振って残像を振り払う。
　吐き気が戻ってきたが、おかげで頭が冷えた。
　俺はこんな風にアルクェイドと過ごしていい人間ではない事を思い出せた。
「……アルクェイド。
元気そうだけど、体の調子はどうなんだ。
　おまえ、昨日くしゃみしていただろ。風邪とか引いてないか？」
「風邪？　免疫機能の低下による発熱のコト？　そんなの引いてないよ」
「ね。どうしてそんなコトを訊くの？
　もしかして、わたしのコトを心配してくれてる？」
　アルクェイドは身を屈めて、ベンチに座った俺の顔を覗きこんでくる。
「べ、別にそんなんじゃない。……俺がやっちまった傷がちゃんと治ってるのか、気になっただけだ」
　その近さと、女の匂いに気を取られそうになって、誤魔化し気味に目を逸らした。
「志貴に付けられた傷はそう簡単には完治しないわ。
　昨日のはそれとは別。たぶん身体機能を変えていたからじゃない？　戦う時以外は、貴方に合わせて人間よりにしているから」
「は……？　人間よりって、なんで？」
「さあ、なんででしょう？」
　アルクェイドは笑いながら、また俺から距離をとった。
　その姿はひらひらと舞う蝶のようだ。
「ま、風邪の筈がないんだよな。
　吸血鬼は風邪を引かないって先輩も言ってたし」
　人間よりになっている、という無駄な行為には危険なものを感じたが、彼女が順調に回復しているのなら結構だ。
　そう安心して顔をあげると、
「先輩ってあの女のこと？」
「うぇ!?」
　さっきよりもっと近い距離から、俺を睨みつけるアルクェイドの顔があった。
「な、なんだよいきなり。あ、あの女って、誰さ」
「とぼけないで、あの女はあの女よ！　ヴローヴと戦っていたアイツ！
　やっぱり、昼間はアイツにまとわりつかれてるのね!?」
「い、いや、そんなコトは」
　まとわりついているのは俺の方なんだけど、とは口が裂けても言えない剣幕だった。
「ま、まあ、吸血鬼のコトを教えてくれたのは先輩だけど。
　いいじゃないか、先輩もおまえもやってるコトは同じなんだから。<親|ロ><基|ア>は倒したんだし、もう敵対する理由はないんだろ？」
「理由はなくても相容れないの、わたしたちは！
　いい、真祖であろうと死徒であろうと、吸血鬼にとって代行者は敵なの！　前にも話したでしょう、アイツらがどれだけ陰湿なヤツラかって！　もう忘れちゃったの、志貴のばかっ！」
「覚えてる。ちゃんと覚えてます。確か―――」
　以前、ホテルで説明された事だ。
　吸血鬼を殲滅する為だけに組織された一団。
　主の御名において主の教えを代行する異端狩り。
　それが教会の代行者、先輩の本当の顔だ。
　死徒が身を隠して行動する最大の理由は、彼等に発見される事を恐れての事だという。
「吸血鬼の天敵、だろ。夜の巡回だってもともとは先輩の仕事なんだろうし。
　ん……？　となると、おまえはなんだ？　吸血鬼界の裏切りものか？」
「それを言うなら、わたしは吸血鬼にとっての天罰よ。
　……まあいいわ。代行者なんて虫みたいなものだし、連中がどんなに出てきても関係ない。でもアイツだけは別」
　アルクェイドは本気で苛立っている。
　シエル、と名前を口にするのも嫌なようだ。
　……まいったな。仲が悪いだろうとは気付いていたものの、ここまでとは思わなかった。
「―――それで。貴方はどうなの、志貴」
「え？」
「アイツをどう思っているのかってコト。
　わたし、志貴のコトはなんだってイイんだけどアイツだけはダメ。貴方の気持ちがアイツに向くだけで許せない」
　アルクェイドの赤い瞳に光彩が混ざり始める。
　……ちょっと待て。
　コイツ、いま本気で殺意を持ってないか……!?
「ゆ、許せないってなんだよ。
　先輩は俺の学校の先輩だ。いつも世話になってるし、ヴローヴの時だって助けてくれた。アルクェイドだって、先輩と一度話せば仲良く、」
「絶対にならない。わたしはアイツが嫌いだし、アイツもわたしを殺したがってるし。
　志貴は騙されているだけよ。埋葬機関の人間はみんな好戦的で、隙あらば襲いかかってくるんだから」
「だいたい、貴方ははじめからアイツの正体を知っていたの？　どうせいつも通り、一般人のフリをして貴方をからかっていたんじゃない？」
「……………」
　それは。
　たしかに先輩は正体を隠していた。
　でもそれは仕方のない事だ。
吸血鬼から人々を守るには、吸血鬼の事を隠し通すしかない。相手が人間に偽装している以上、狩る側が正体を明かしてはたやすく警戒されてしまう。
　それに―――正体を知った今でも、俺はシエル先輩を先輩だと思ってる。
　あの人と一緒に昼食を食べたり、有彦と三人でバカな話をして盛り上がったり、茶道室で時間を過ごすのは楽しかった。
　……そう、出来ることなら。
　先輩の正体なんて、知らないほうが良かったと思うぐらいに。
「……ふうん、
そう。
　志貴。
貴方、あの女とわたし、どっちの味方？」
　質問には批難と敵意が秘められていた。
　……アルクェイドにとって、シエル先輩はどうしても許せない敵らしい。
　だからあんな張り詰めた瞳をしている。
　彼女の敵に味方をするのなら、その時点で遠野志貴さえも敵だというように。
「そんなコトは絶対にないと思うけど、あの女に関わるのはやめて。万が一にも仲良くなんてなってたら、殺すから」
「……アルクェイド……」
　言葉が詰まる。
　俺は、
　……あの雨の夜を思い出す。
　アルクェイドを殺してしまい、ひとり身勝手に死にかけていた俺を拾って、目を覚まさせてくれた。
「……俺は、あの人に命を救われた」
「わたしだって何度も救ってるけど」
　……ヴローヴとの戦いを思い出す。
　極寒の地獄の中で、ただひとり戦っていた無償の正義を。
「この街を、守ってくれた」
「わたしだってめっちゃ守ってますけど？」
　……カレーショップでの笑顔を思い出す。
　怖いままでも、迷いがとれないままでもいいと言った、あの
「わたしだってお昼ご飯ぐらいおごれますけど？」
「だぁーーーー！！！！
　ちょっと黙ってくれませんかね！？」
「って、なんでランチのコト分かるんだよ！？
　ついに俺の考えまで読むようになったのか！？」
「だ、だっていま、一緒にカレーショップがどうとか呟いてたから」
「―――む」
　しまった、声に出ていたか。
「なによ、はっきりしない志貴が悪いんじゃないっ！
　そんないかにもカッコイイ独り言で誤魔化されないからね、わたし！」
「カッコイイ独り言ってなんだ、ばか！
　おまえが邪魔しなけりゃ、今ごろはっきり答えてたよ！」
「へ、へえ。なら言えば？　聞いてあげる」
「……まったく。
　いいか。先輩は大切な人だ。あの人がいなかったら、俺はここにいなかった。だけど」
「だけど？」
「尊敬と、好き嫌いは別の話だ。
　……敵味方の話をするなら、俺はおまえの方が、何倍も放っておけない」
　……言ってしまった……。
　でも、自分の気持ちを偽る事はできない。
　今夜だってアルクェイドと街を歩いているだけで、裸眼の痛みに耐えられた。
「何倍……何倍も……」
　遠野志貴はどうしてか、コイツと一緒にいるだけで何かに許された気がして、安心できる。
　今だって油断すれば抱き寄せたくなってしまうぐらいだ。
　それはつまり、惚れた相手に抱く情欲に近いと思う。
「ん～～～っ！　
ほわぁーーーーッ！」
「どど、どうした、何があった！？」
　アルクェイドは猫背になってぷるぷると背中を震わせたかと思うと、勢いよく空に向かって両手を挙げて、このような奇声をあげた。
「うん、アイツの<存|コ><在|ト>は許せないけど、今の言葉だけで大目に見てあげましょう！
　気持ちが弾けそうだから、わたし帰るね！」
「ちょっ、帰るっていきなりか!?
　というか、明日もここで待ち合わせでいいんだな!?」
「もっちろん！
　志貴の言う通り、明日はもっともっと、何倍も綺麗になって待ってるね！」
「いや、何倍もってそういう意味じゃ、」
　指摘する声も間に合わない。
　アルクェイドはシュタターンと跳び去ってしまった。
「……綺麗って。
　人間なんてどうでもいいんじゃなかったのかよ」
　吸血鬼のクセに、なんて決まり文句ももう言えない。
　俺自身、その吸血鬼の笑顔ひとつで、顔を手で覆うほど赤面しているんだから。
「―――いや、ニマニマ笑ってる場合じゃない。
　俺も帰らないと」
　時刻はじき零時。
　体力が残っているうちに、屋敷まで戻らなければ。
　俺は、それでも―――先輩の事を、敵だなんて思いたくない。
「……先輩は大切な人だ。
　味方とか敵とか、そういう割り振りはできない」
「なによ。それじゃあわたしはどういう割り振りなの？」
「おまえは……放っておけないヤツっていうか……」
　うまく言えなくて頬を掻く。
　今夜だってアルクェイドと街を歩いているだけで、裸眼の痛みに耐えられた。
　遠野志貴はどうしてか、コイツと一緒にいるだけで何かに許された気がして、安心できる。
　今だって油断すれば抱き寄せたくなってしまうぐらいだ。
　それはつまり、惚れた相手に抱く情欲に近いと思う。
「ぁ……いや、それは」
　よくない。すごくよくない。何より卑怯だ。
　こんなのアルクェイドが美人すぎるから魅了されているだけだ、きっと！
「ああ、もういいだろ！
　なんだってそんな事を聞くんだ、おまえは！」
「そんなの、わたしに分かるわけないでしょ！
　もういい、わたし帰る！　また明日ね、志貴！」
　理不尽に怒鳴ったら、それ以上に理不尽に怒鳴り返された。
「ちょっ、帰るっていきなりか!?
　というか、明日もここで待ち合わせでいいんだな!?」
「あったりまえですぅー！
　もし破ったら志貴の家に押しかけてやるから！」
　とんでもない捨て台詞を残してアルクェイドはシュターンと跳び去ってしまった。
「……ったく。なんなんだよ、いったい」
　怒るなら怒る、約束するなら約束する、どっちかにしぼってほしい。
「でも、今ので怒るって事はアイツ……」
　アルクェイドなりに俺を気に入ってくれている、と思っていいんだろうか。
　俺だって友人が気にくわないヤツと仲良くしていたらいい気持ちはしないし。
「アイツ……人間なんてどうでもいいって言ってたのに……」
　……吸血鬼のクセになに考えてるんだ。
　いや、もともと吸血鬼の考える事なんて分かるハズないんだけど。
「……帰るか。そろそろ零時だしな」
　溜息をついて公園を後にする。
　体力は残っているのに、足取りは妙に重かった。
　振り上げられた鉄の塊は、停止する事なく振り下ろされた。
　もう何年も使い込まれ、いくら研いでも切れ味の戻らない中古品。
　鉄の先端には直径50センチ以上の刃物が付いている。
　１トンの重さだけが刃を進ませる推進力だった。
　ゴシャリ、と骨を砕く勢いだけは目を見張るものがある。
　なまくらの<刃|は>は、その重量だけで、逃げ惑う獲物の頭蓋骨を叩き潰した。
“え―――なに？”
　それを見て、誰もが疑問の声をあげ目を丸くした。
　何が起きているのか。
　何が起こったのかを、彼等はまだ把握すら出来ていない。
　だってここは安全地帯だ。命の危険がある筈がない。
　吸血鬼にとって、街はもう安全ではない。
　真祖の姫と代行者。二つの“処刑人”の手で、刻一刻と逃げ場はなくなっていく。
　その前に条件次第で特別に新天地に逃がしてやる―――そんな取引に乗って集まった彼等の理性は緩みきっていたからだ。
「あれ？　みんな反応わるいんじゃない？
　ここは蜘蛛の子みたいに逃げ回るところでしょ？」
　凶器を手にしたシスター服の女が首をかしげる。
　周りには13人もの人の顔。
　みな、シスターを頼って集まった、哀れな<逃亡者|きゅうけつき>たちだった。
「14人もいるから広い場所にしてあげたのに。
　これじゃちょっと拍子抜け、かな？」
　むむ、とシスターは不満げに首をかしげる。
　即興の作り話で釣ったにしては中々の成果だった。本国ならこうはいかない。一ヶ月ほどの時間をかけて広めた甘い汁でも、誘い出される獲物の数は２人か３人が限度だろう。
　それが14人も集まった。この国は都市構造だけでなく人間性まで<簡潔|イージー>で笑ってしまう。
「おっと、いま１匹潰れたからあと13匹よね。
　んー、ゲンが悪いからもう１匹潰しておこっか」
　振るわれる２メートルの凶器。
　槍斧はなんの躊躇もなく、満足に動けなくなっていた若者の頭に滑り落ち、ボコン、と腐った<南瓜|かぼちゃ>を叩くような音を立てた。
“ひ―――ひぃぃいいいぃぃぃいい！！”
　<人|・><間|・>の悲鳴があがる。
　集まった男女は大部分が二十代前半の若者だった。
　血に染まった“今まで顔も知らなかった仲間”から、放射状に拡散していく。
　その有様を満足げに眺めながら、シスターはゆっくりと足を踏み出した。
「あらあら。危機感のないいい子ちゃんばかりなのに、こういう時の反応はどこの国でも一緒なのね。
　真夜中の台所に集まったネズミみたい。電気がついた途端、我先にと逃げ出すんだけどぉ……ほら可哀想、こんな風にネズミ捕りに捕まって、あっさり踏みつぶされちゃうの♡」
　三度目の血しぶきが夜を濡らす。
　鉄塊は身近にいた若者のひとりに狙いを定め、脳天に向かって振り下ろされた。
　今度のは威力が大きい。頭蓋は跡形もなくはじけ飛び、刃は首から胴体の中心にまで到達していた。
「はーい、注目ー。これからお姉さんが害獣駆除をするワケだけど、変な勘違いされるとイラッとくるのであらかじめ説明しておきますねー」
「まずはこの大部屋。結界を張ったので貴方たちは絶対に逃げられません。窓から出ると溶けるから注意してね。
　次にわたし。何があろうと一匹も見逃さないのでわたしに命乞いをしても意味はありません。
　最後に貴方たち。助けを呼ぶ自由だけはあるので、助かりたかったらわたしにではなく神さまにお祈りしてください。
　本当に神さまがいて、貴方たちにそれだけの価値があるのなら奇蹟が起きて逃げられるよう、世界は作られている筈です」
　よっ、と肉塊から槍斧を引き抜く血まみれのシスター。
　かくして、若者たちの混乱は最高潮に達した。
　彼らはシスターから離れようと四方の壁に走るが、その足がうまく動かない。
　ここは既に対吸血鬼用の結界が張られている。
　本当の人間であれば何の効果もないが、階梯の低い死徒にとっては海の底にいるようなものだ。満足に走る事もできず、秒単位で身体が鈍化していく。
“なんで!?　指定額は用意しただろう!?　なんで逆に殺されるんだよ!?”
“やめ、やめて、頭はやめ―――脚も止めてよぉ！？
　いたい、なんでこんなに痛い、の!?　う、うそ、やめて、そこから引っ張られたらサカナみたいにまっぷたつになっちゃあああああああ！”
“うそ……うそですよね先生……？　助けてくれるって……僕だけは助けてくれるっていったじゃないですか。いい子にしていれば見逃してくれるって……！”
　シスターは笑顔を絶やさない。
　ねっとりと赤い糸を垂らす槍斧を持ち上げ、次の獲物の頭蓋骨に振り下ろす。
　呼吸を乱しながら。
　その一撃によって絞り出される悲鳴に興奮するように。
“早くドア開けなさいよ、殺されるじゃない……！
　ああもうグズが、モタモタしてんじゃねえよ！　あんな女、外にさえ出ればカンタンに”
“い……いぃぃ、無理、無理ですぅ……！　ドアに触ると指が溶けて、いやあああ、肘、肘まで崩れちゃう、アタシ溶けちゃってますぅ！”
“ひぃ……やめ、やめて、たすけ―――助けて、助けて神さま、助けて……！”
“ひでぇ……祈ってたのに、ちゃんと神さまに手を合わせて祈ってたじゃねえか！　この人殺し……！　てめえのどこがシスターだ！”
　無防備な背中を切り裂き、目を血走らせてビチビチ動く背骨を抉り出そうとしたところでシスターは手を止めた。
「キミ、いま妙なコト口走らなかった？
　人殺し？　人殺しってなに？　アンタたちみたいな害獣を殺す事が人殺し？　今までさんざん人間を食い物にしてきたクセに、自分のコトを人間と思ってたの？」
“ひぃ……ひぃいい、ぎぃぃいいいいいいい！？　やめ、やめて、すみませんごめんなさい、あやまります、あやまりますからああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ！”
　絶叫が室内を埋め尽くす。
　その<光|・><景|・>を、残った５人の若者たちは震えながら眺める事しかできなかった。
　シスターは槍から手を放すと、丹念に、執拗に、倒れた獲物に処置を施した。
　まずは秘蹟によって通常の痛覚を復活させる。目を閉じられないように目蓋を釘で固定する。
服を脱がして裸身にすると皮を剥いで中身をあらわにする。
　内臓の一つ一つを黒鍵で抉り取る。
もちろんそのたびに死に至る激痛が獲物を襲う。内臓をすべて消費した後は耳と鼻をそぎ落とす。変わり果てた自分の姿を見て獲物がモウ殺シテと嘆願する。
最後に頭蓋をパックリと割る。大皿のようなその容器に聖水を流し込む。
彼等にとって聖水は硫酸に等しい。脳に痛覚はない筈だが、洗礼によって清められた液体は痛覚以上の痛みで獲物を包み込み、
発狂させる。
　コロシテ、コロシテ、コロシテ、と繰り返すだけの蓄音機が完成する。
「――――――、ふう」
　はあ、と地獄には場違いな吐息が漏れた。
　シスターは槍を持ち直すと、よいしょ、
とかけ声をこぼして蓄音機を破壊した。
「しっぱいしっぱい、あんまりにも面白いコト言われたから趣味に走っちゃった。
安心してみんな。今ので満足しちゃったし、あなたたちは適当で済ませるから。手抜き作業でごめんなさいね」
　媚びるように甘く微笑むシスター。
　それが最後の引き金になった。
　残った獲物たちは金切り声をあげ、結界によって手足を溶かされながらも狂ったように壁を叩く。
　ここから出してくれ、と全身で叫ぶように。
“やだ、やだ、やだ、やだ……！　お願い、殺さないで、殺さないで、殺さないでください、神さま……！”
“お願いします、お願いします、お願いします。なんでもします、なんでもしますから、どうかワタシだけは”
“帰る……今度こそちゃんとお家に帰るからぁ……助けてようお母さん……お母さん、お母さん、お母さ”
“待ってよ、アタシはまだ誰も食べてない！　昨日コイツらに襲われてまだ吸血鬼にもなってないのに、まだ一つもいい目にあってないのにこんなのってな……！”
　残り１匹。
　さすがに大仕事で疲れが出たのか、シスターは一旦手を休めて休憩する。
　その無防備な姿に、最後の一体は問いかけた。
“……なあ。なんで、俺たちだったんだ？”
「はい？」
“俺たちはただの雑兵だ。放っておいてもあと数日で餓死していた底辺の怪物だった。アンタみたいな掃除屋が、わざわざ手を出す必要のないクズだ。
　なのにどうして、こんな……助けてやるなんて希望を持たせて殺しやがった!?
　ひとりひとり丁寧にさんざん怖がらせてさぁ!?　代行者ってのはもっと効率的で、上物だけを狙うんじゃなかったのか!?　それでもオマエは人間かよ!?”
　害獣の思わぬ発言にシスターは目を見張った。
　彼女は本当に驚いた。獲物がこの期に及んで人間らしい崇高さを見せたから……ではない。
「あのね。弱いものが弱いものを襲うのは、当たり前のコトじゃないの？」
　そんな、人間であれば誰もが知っている常識を、“何故”と言われた事に驚いたのだ。
“……は？”
「自分より強い相手なんかと戦うワケがないでしょう？
　わたしは弱いから、自分より弱いヤツにしか手を出さない。これ、人間社会じゃなくて生き物の一般常識よ？」
“じゃあ、おまえがオレたちを集めたのは、吸血鬼だからじゃなく―――”
「そ。都合よくストレスをぶつけられる相手がほしかっただけよ。そんなの見て分かりなさいよ。
　……あーあ、最悪。貴方たちって脳まで腐ってるのね。もしかしてクリームでも詰まってる？　詰まってたのよね？　そんな甘ったるい考えだから、神さまは助けてくれなかったのよ」
　最後の一撃が振り下ろされる。
　シスターの槍斧は獲物の首を一息で切り落とし、苦しむ間もなく絶命させた。
　14人もの遺体で散らかった大部屋を跡形なく清掃して外に出る。
　先ほどの興奮はどこにいったのやら、シスターは消沈しきった顔で、血にまみれた槍斧を投げ捨てた。
「…………」
　死んだ魚のような目で、肺の中の空気をはき出す。
　それは魂が抜け落ちたかのような、あまりにも憂鬱な溜息だった。
「ザコどもを纏めて処理か。
　さすが下っ端、<溝|どぶ>さらいだけは慣れてるじゃねえか」
「!?」
　背後からの声を聞いて、シスターはあわてて槍を拾い上げた。
　彼女は自分以下の敵の対処は抜群に巧いが、自分と同等以上のものにはめっぽう弱い。
　つねに最悪のケースを想像して自分を追い詰めてしまう性格が、彼女に本来の実力を発揮させないからだ。
　この場合もそれに近い。
　まだ相手を視認してさえいないのに、“自分が関与していなかった第三者が来た”という事だけで精神の均衡が崩れかけている。
「あぁ？　あんだけの殺しをやっておいてなにブルってやがる。落ち着けよ牝豚。テメェにとっちゃ神に等しい上司さまだっつの」
「マーリオゥ、司祭代行……？」
　ほっと肩を落として槍斧を下げるシスター。
　が、緊張はいまだ解けない。彼女はこの状況が自分にとって危ういものである事を理解している。
「……これは正当な討伐です。ロアをいぶりだすには、まず<食|けつ><料|えき>を集める兵隊を根絶する必要が、」
「知ってるよ、いちいち弁明すんな。はじめっから見てたからな、<戦果|スコア>を報告しなくてもいい」
「だがまあ、ちょいとやり過ぎだな。
　死徒どもに懺悔の機会なんぞを与えやがったのは見なかった事にする。代行者の殺し方はそれぞれだからな。
　問題は死体の数だ。中にはまだ成りきれてない犠牲者もいたように見えたがねぇ」
「いいえ、アレは吸血鬼より始末が悪いものです。
　あの少女は人間であるにもかかわらず、自分から奴等に協力して犠牲者を増やしていましたから。当然の末路です」
「ほう。チキンなテメェにしちゃあ冷徹な判断だ。吸血鬼に関わった人間は皆殺しってワケか。そいつは頼もしい」
「……何のご用でしょうか、司祭代行。
　定期連絡はしていますし、わたしの単独行動は許可されているのではないのですか？」
「ああ、秘蹟会と埋葬機関は別管轄だ。テメェがシエルの相棒である以上、オレたちは対等<だ|・><っ|・><た|・>」
「だった……とは、どういう事でしょうか」
「代行者シエルはテメェとのコンビを解くとよ。できうるかぎり早くテメェを引き取れなんて言ってきやがった。
　なんで、近いうちにテメェはオレの預かりだが……スコアも悪い、精神も不安定な不良物件を使うほどマヌケじゃねえ。
　この一件が終わり次第テメェは修道院送りだ。今のうちに身辺整理をしておけよ」
　修道院。
　それは教会の教えのもと、俗世と離れて共同生活を営むコトを選んだ信徒たちの施設である。
　法王庁が世界でもっとも小さな国であるように、修道院もそれぞれが独立した閉鎖世界といっていい。
　修道女はその後の一生を院内で完結させる事を誓約し、この完成された共同体の一員となる。
　彼らは外の世界と壁一枚を隔て、清貧・貞潔・従順を守りながら、父の子として相応しい一生を終える。
　望んで修道院の門を叩く者はいい。
　しかしこの閉ざされた世界を望まない者にとって、修道院送りは拷問に近い。
　ある理由から<彼女|ノエル>には代行者以外の道が閉ざされていた。
　なので修道院での再教育は代行者としてのものになる。若い時分なら耐えられた過酷な鍛錬に、今の自分がついていけるとは、彼女にはとても思えない。
　なにより―――今、修道院に送られては身体を検査されてしまう。
　代行者にとって、貞潔とは異性との交わりではなく、人体として清らかであるかの定義だ。
　今の彼女にとって、その検査だけは、何としても避けねばならないものだった。
「ま、待ってください……！
　わたしは常に最善を尽くしています、代行者として何の問題もありませんっ！　査問もなく修道院送りなんて、そんな横暴は許されない筈です……！」
「あ？　テメェみたいな凡人の最善なんて知らねえよ。
　いいか、ここは通勤時間のある事務職じゃねえ、殺し合いの最前線だ。無能なヤツも、無能じゃないだけの凡人も、等しく足手まといなんだよ。
　有能なヤツにしか居場所のない世界だっていいかげんあきらめとけ。夢見るネンネじゃあるまいし、今年で何歳だよテメェは」
　火のような反発心を抑える。
　一瞬、先ほどの“処理”でも抱かなかった憎悪が生まれたが、彼女は全力でこれを呑み込んだ。
　この少年自体は自分より弱い。なにしろ12歳の子供だ。手にした槍斧を振るうだけでミンチにできる。
　だが少年の<背景|バックボーン>はあまりに強大で、かつ魅力がありすぎた。
　少年の言う通り、凡人である彼女が人並以上に生きていくには、その背景に寄り添うしかない。
「……ですが、代行者シエルだけには任せておけません。
　彼女の行動は不審極まります。ロア探索の手を止めているばかりか、<同僚|わたし>を切り捨てて<単身|ひとり>になる事に危ういものを感じます。
　……司祭代行も彼女の経歴はご存じでしょう？　彼女は<十五|キャーンズ>です。なら、いま拘束すべきはわたしではなく……！」
「あの女が吸血鬼もどきってコトだろ。イヤっていうほど知ってるから安心しろ。
　いいんだよ、あの女はあれで。単独で動こうが上の意向に逆らおうが関係ねえ。何があろうとアイツはロアを殺す。そういう風にしか動けない女だからな」
　悪態しかつかない彼にとっては珍しい、大人びた声。
　少年の声にはかすかな諦観の響きがあった。
「いいからテメェは荷物を纏めて待機してやがれ。
　二日もあれば辞令が届くからな。くだらねえ手間を増やさせるんじゃねえぞ？　三下は何も考えず黙ってギィギィ回ってればいいんだよ」
　最後通告を口にして、少年は路地裏から去って行った。
　残されたものは返り血に濡れたシスターだけ。
　彼女は少年が完全に立ち去った事を確認した後、手にした凶器をうち捨てられた鉄骨に向けて振り上げ、渾身の力で叩きつけた。
「なによあのガキ……！　なんなのよ言いたい放題！
　子供のクセに、大人を舐めるんじゃないっての……！」
　音は一度では収まらない。
　聞くに堪えない罵詈雑言と共に振り下ろされた暴力は、実に８回。風雪に耐えてきた鉄骨は完全に打ち砕かれ、無惨な残骸になっていた。文字通り八つ当たりである。
「ハァ……ハァ……ハァ……、あ」
　女は槍斧から指を離し、大きく肩を上下させる。
　力任せに暴れすぎた結果だ。もともと彼女には槍斧を振るうだけの筋力はない。槍斧に宿った『軽量化』の秘蹟を一撃ごとに使わなければ有効打にはなりえない。
　それを一切使わず、感情にまかせて振るったのだ。
　腕の筋肉が断裂していてもおかしくない自暴自棄に、女は乾いた笑いをこぼす。
「バカね、なにやってるのよわたし……あの怪物じゃあるまいし、こんな鉄塊、自分の力だけでふり回せるハズないのに」
　それでも怒りは収まらない。
　状況は変わってしまった。すぐに頭を冷やして対策を練らなくてはいけないのに、心臓はちっとも落ち着いてくれない。
　加えて、こんな時にかぎって、
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　こんな時だから、
　悪夢のような発作がやってきてしまった。
「う、ぶっ……！　あ、ああ、あ……！」
　体をくの字に曲げて内部からの痛みに耐える。
　地面に跪いて、汚れた土を指でかきむしって“今の自分”にしがみつく。
　骨の髄まで凍らせるような悪寒と吐き気。
　経験したコトはないけど、まるでつわりのようだと彼女は思った。きっと、<胎|ハラ>にたまった子供は人のカタチをしていない。
「……さないと。早く、吸血鬼を殺さないと。わたしがダメになる前に、ロアを探しだして、殺さないといけないのに……
　あと二日……？　あと二日しかないの……？
　ああ、でも―――」
　そんな猶予さえないのかも、と彼女の弱気の虫が啼いている。
　丸めた背中が張り裂けそうだ。
　彼女は泥だらけの手を口にあてて、胃の中からこぼれそうな“何か”を抑え込む。
「……だいじょうぶ、神さまは見てくれてる……アタシはいい子にしてたもの……きっと助けてもらえる……わたしは、何も悪いコトなんかしてない。だから―――」
　今夜も吸血鬼を殺そう。
　明日も吸血鬼を殺そう。
　そうすれば助かる。きっと助かる。13年間追い続けた復讐が、やっとここで終わってくれる。
「……ええ、そうよノエル。わたしは代行者になった。この為に強くなった。あんなガキにも、あんな女にも、思い通りになんかさせるもんか―――」
　寒さに震える体に鞭を打って立ち上がる。
　シスターは口元にいびつな笑みを貼り付けたまま、腕力だけで槍斧を拾い上げ、一夜かぎりの処刑場を後にした。
　……午前零時。誰もが寝静まった深夜、遠野志貴の部屋にこっそり戻ってきた。
　夜に出かけて戻ってくる、この工程も慣れたものだ。
　寝間着に着替えてベッドに横になる。
　途端、急速な眠気が襲ってきた。
　体はそこまで疲れていないものの、魔眼の使いすぎで脳が休憩を求めているのだろう。
　眼鏡を外し、枕もとに置いて目を閉じる。
「……………あれ。
　何か、考え事があった気がするんだけど……」
　今夜も眠気に負けてしまう。
　俺は眠りに落ちる<苦|にが>い浮遊感を<嚥下|えんげ>しながら、起きていようとする意識を手放した。
「……なんだけど。ああもう、どうなってるんだ」
　掛け布団を剥がして立ち上がる。
　なまじ体力が余っているので寝付けない。
　頭は眠りたがっているのに、これじゃぬるい拷問だ。
　仕方なくサンルームに移動する。
　部屋の電灯をつけると翡翠や琥珀さんに気付かれるが、サンルームなら屋敷の外にしか明かりは漏れない。
　今夜も適当な本を取り出して、眠くなるまでテキストを追い続けるとしよう。
　１９８９年。
　わたしはフランスの片田舎の、一商人の子として生を<享|う>けた。
　わたしの容姿は東洋人の母ゆずりのもので、街のどこにいても異邦人のような違和感を持って育った。
　けれど街の人々はみな一様に陽気で、わたしを笑顔で迎えてくれた。その笑顔に応えられるように、日々を素直に、前向きに生きていた。
　父の手伝いをして、学校に通って、将来を夢見て。
　他の子に比べると早熟なコトにもちょっと悩んで。
　それがわたしに課せられた義務であり、当然のように許された幸福だと疑わなかった。
　12歳の誕生日を迎えるまでの、本当にわずかな時間ではあったけれど。
　それは、わたしの体に突然訪れた。
　たとえばトモダチと遊んでいるとき。
　理由もなく、そのか細い首をへし折りたくなる。
　たとえば道端でうつむいた物乞いを見かけたとき。
　楽しくて、その栄養失調気味のお腹を刺したくなっている。
　衝動の訪れには何の前兆も、法則もなかった。
　わたしはいつも“気がつけば”そう思っていて、
　あともう少しというところで自分の名前を思い出して、
　喉からでそうな悲鳴と泣き出しそうな顔を両手で覆って、その場から逃げ去った。
　わたしは健康で、記憶も鮮明で、誰も憎んでいなかった。
　なのに、わたしはそれが“自分で潰してしまえるもの”なら試してみたくて仕方がなかった。
　その時のわたしの顔は、いつも喜びに歪んでいた。
　外が怖い。
　人が怖い。
　わたしが怖い。
　この、日増しに大きくなっていく喜びが恐ろしい。
　でもこんなコト、誰にも打ち明けられない。
　わたしは日に日に部屋に閉じこもりがちな人間になっていった。
　わたしは最期まで冷静だった。
　自分が二重人格になってしまったとか、
　他の誰かの心がわたしの中に入ってきたとか、
　そんな非科学的なコトは信じなかった。
　結論として。
　わたしのこの嗜好は、誰にだってある、ほんのささいな破壊衝動なのだと受け入れた。
　夜更かしをした次の日、いつもどおり起こしにきた父さんにちょっとした恨み言を口にしたり。
　雨上がりの大通りを歩いていて、道を行く自動車に水たまりの水をかけられて不愉快になったり。
　そんな小さな、ほんの一瞬だけの“心の反発”がカタチになって自分を支配しているだけ。
　他の人がどうかは知らないけれど、わたしはそういう、自分の心に逆らえない人間だったみたいだ。
　このままだとわたしは間違いなく、取り返しの付かない事をしてしまうだろう。
　わたしに出来る事は、自分の部屋に閉じこもる事だけだった。
　誰にも会わず、何もせず日々を過ごしていくしかない。
　……そうすれば、誰を恨むコトもなくて、何に<憤|いきどお>るコトもなくなる。
　……けれど、それは間違いだった。
　わたしはもっと神さまを信じて、自らの<性|さが>を恐れず、神父さまに相談するべきだったのだ。
　部屋という檻の中で息を潜めて過ごしていくうちにわたしの心は磨耗して、やがて、臨界点を越えてしまった。
　その日。
　もう完全に入れ替わった“わたし”が思った事は、喉が渇いたな、というありきたりな不満だった。
　ゆるり、と弱った肉体を引きずって、部屋の外に出る。
　サロンでくつろいでいた両親は、一ヶ月かぶりに部屋から出てきたわたしに駆けよってくる。
　心配そうに語りかけてくる父と、涙を浮かべて微笑む母に出迎えられて、わたしはふたりを殺害した。
　本当に、あっけなかった。
　わたしは衰弱した体のまま、両親の喉に食いついてゴクゴクと喉をならす。
　二人分の血と命を吸い上げて、わたしは身を起こした。
「―――素晴らしい。この肉体は、過去最高の才能だ」
　それは、聞いた事もないわたしの声だった。
　口元にべったりと赤い<紅|べに>を引いて、わたしだったものは自らの体を抱きしめた。
　それはどんな偶然だったのか。
　本来、私が生まれ代わる<器|モノ>はあらかじめ定めたものだった。
　第一に、その土地の権力者である事。
　第二に、その一族が特殊な才能を有している事。
　重要なのは第一条件で、第二条件は補足にすぎない。
　第一条件に見合った家柄を探しだし、移転先として設定しておくのが私の最初の仕事である。
　……しかし前回の私はそれを決定しきる前に姫に討たれてしまった。私はやむを得ず急造の、占星術だけを頼りに不完全な転生を行った。
　その結果がこの体だ。私は社会的地位の低い、中流家庭の子供として生を享けてしまった。
　こうなると人間として街を掌握する事は難しい。いや、姫に見つかるまでの数年で権力を得る事は不可能に近いだろう。
　だが私は悲観しなかった。
　むしろ、体には閃光のような歓喜があった。
　私は『家柄』と『才能』を天秤にかけ、常に『家柄』を選んできた。
　その結果、真に優れた肉体には出会わなかった。
　だが今回は違う。この肉体が持つ魔術回路の強靭さ、その魔力生成量は凡百の魔術師を上回る。
　一流といわれる魔術師たちですら、この肉体の前では<塵芥|ちりあくた>に等しい劣化品だ。
　私は歴代の私の計算高さを<嗤|わら>った。
　条件は逆にするべきだったのだ。
　権力なぞ時間をかければ手に入る。
　だが真に優れた肉体、生まれながらの宝石には、それこそ主の奇蹟でなければ出会えない。
　こと■回目の転生にして、私はようやく、その真実にたどり着いた。
　目覚めた私は、ごく自然に、水が地面を浸食していくように、ひそやかに街を死都に変えていった。
　その手法は今までのような乱雑なものではなく、一度にあまり血を流さない穏やかなものだった。
　わたしは丁寧に、丁寧に。
　一夜で街を支配しておきながら、人間をひとりも逃がさず、かといって<無|・><駄|・>には殺さず、丹念に上質にわたしの城を築き上げた。
　真っ白いケーキの生地に、まずは絶望というクリームを一気に伸ばして、あとは少しずつ少しずつ
　　　　　　　　　　　　　　　　　　あざ笑いながら、
　ジャムやゼリーやミートを煌びやかに飾り立てるように。
　私としては無駄な手間ではあったが、仕方がない。
　転生した『私』という意識は、それ単体では存在できない。
『私』は知識と方向性にすぎない。
　その代の私の『性格』は、その肉体が育成してきた人格や価値観を基準として再構成される。
　肉体の所有者は『私』であっても、その思考手順、思考水準までは完全に変わりはしない。
　つまり―――わたしの肉体は『私』という転生者のものだったけれど、意識はもとのわたしのままだった。
　わたしの意識はあり、記憶も確かにある。
　わたしは眠ったまま、自分が犯す悪夢を見続ける事しかできない。
　だから覚えている。
　両親の喉に食いついた時の感触を。
　わたしに笑顔を向けてくれた街の人たちひとりひとり、じっくりと足元から熔かすように、その魂ごと陵辱し続けた日々を。
　わたしは、たった一週間で。
　街の人たちの命を掌の上に乗せて、ただ己の快楽の為だけに<弄|もてあそ>ぶようになった。
　いっそ、狂いたかった。
　狂って、全てを『私』にゆだねたかった。
　けれどそうすれば、『私』は今以上の罪を犯すだろう。
　わたしは、ずっと。
　このまま正気を保ち続けて、せめて『私』の行為が最小限に収まるように生きるしかない。
　……崩壊の時間まで、あとわずか。
　崩壊とは街の事ではなくて、もっと大きなものに向けられたものだった。
　わたしの中にいる『私』がずっと積み上げてきた事業の結実。
　その為に『私』は永遠を続けてきた。
　その為に多くの人間の血液を集めてきた。
　その為に、より多くの街を、わたしの街と同じような死都に変えた<ヤ|・><ツ|・><ラ|・>が集まってきた。
　わたしの意識はあと少しで燃え尽きる。
　この夜に起きる『世界の終わり』を見届ける前に、呪われたまま消滅する。
　……それでも、救いがあったとすれば。
　悪夢の終わりは一瞬で訪れた事だった。
　その白い女は、赤い月と共にやってきた。
　わたしは知らない。
　けれど『私』はそれが誰であるか解っていた。
　六番目の儀式が始まる。
　『私』はわたしという肉体を得て、ようやくあの白い女を手に入れられると判断し、そして―――
　……そして、あってはならない事変は収束した。
　戦いの末、あの白い吸血姫は『私』を仕留めたのだ。
　すでに転生の準備を進めていた『私』はまたも転生し、残されたものはわたしの遺体だけ。
　白い女は去り、わたしの遺体は、法王庁に運ばれた。
　その頃、屋敷は大きな遊び場だった。
　深い海のような森。
　高い城のような家。
　何日かかっても探険しきれない箱庭で、
　ボクたちは遊びまわった。
　毎日は楽しかった。
　おとなになることも知らなかったし、
　朝と夜はおなじように繰り返されるものなんだって、
　うたがいもしなかった。
　それは子犬のようにはしゃぎまわった幼年期。
　ボクらはとても気が合って、最高の遊び仲間だった。
　ふりむけばいつもあきはがいて、
　手をふるとはずかしがってかくれてしまう。
　うん、そんなのもいつもどおり。
　その頃、屋敷は大きな遊び場だった。
　深い海のような森。
　高い城のような家。
　何日かかっても探険しきれない閉じた世界で、
　ボクたちは遊びまわった。
　ゆるやかに覚醒する。
　朝の光が、張り付いていた眠りを剥がしていく。
　その中で。
　なにか、懐かしい夢をみた気がしていた。
「っ……」
　目を覚ました途端、<厭|いや>なモノが視界に入ってくる。
　こめかみの肉と骨をえぐるような、鋭い頭痛。
　今朝はあまりにも鮮明で、太陽が庭に落ちてきたようだ。
　強い陽射しがくまなく部屋を染め上げている。
「は……、あ」
　眼鏡だ。枕元の眼鏡に手を伸ばそうと腕に力を入れたが、反応は希薄だった。
　手足の感覚がない。うまく命令を送れない。まともに動いている身体箇所は、この思考だけらしい。
「――――――」
　目蓋を閉じる事もできず、ただ時間を食い潰していく。
　強い光が和らいでいく。
　手足の実感を思い出す。
　大きく息を吸って、ようやく、この視界に<眼|ふ><鏡|た>をかけた。
「は―――――あ」
　息を吐いて、ようやくベッドから体を起こす。
　なんという事はない。
　今の症状は入院時代によくあったものだ。
　消耗による一時的な視力の低下、手足の感覚の麻痺。おまけにいうと食欲の減退。
　裸眼でモノを見過ぎると、決まってこれがやってくる。
「けど、今のは―――」
　以前よりはっきりと視えていた気がする。
　建物の線は視えにくい。視えはしても薄いもので、今のようにはっきりと見える事は稀だったのに。
　こめかみに残る頭痛の余韻は、それこそ銃創のようだ。
　先生は言った。
　俺の眼はよくないものを呼ぶかもしれないと。
　アルクェイドは眼を使いすぎるなと言った。
　それは脳を―――遠野志貴を壊す行為だと。
「………………」
　これが人間の身で吸血鬼に関わる代償。
　吸血鬼と対峙する時に危険を冒すのではなく、常から危険を冒していく。
　……今さら確認するまでもない。それを踏まえた上で、俺はアルクェイドに協力したいと思ったんだ。
「……そうだよな。これぐらい、どうってことない」
　だいたい、見て見ぬふりでも渦中にある事は変わらない。
　吸血鬼を街から一掃する。
　秋葉や親しい人たちの安全のため、仕方なくアルクェイドに手を貸しているにすぎない。
「よし」
　気分を一転して、勢いよくベッドから起き上がる。
　さっさと着替えを済ませて、翡翠に昨夜のお礼を―――
「あれ――――？」
　そういえば翡翠の姿がない。
　時刻は朝の７時過ぎだ。
　いつもなら翡翠が控えていて、起きるよう呼びかけている時間なのに。
「……寝坊したのかな、翡翠」
　そのわりには、机の上にきちんと着替えの制服が用意されていたりする。
　なにか他の仕事があったのかもしれない。
　気にはなるが自分は与り知らぬ事だ。
　今朝は時間もないし、手早く制服に着替えて一階に下りよう。
「―――あ」
　扉を開けた瞬間、閃光のように昨夜の記憶が蘇った。
　すごい。我ながらほんとすごい。
　あんな恐ろしい<出来事|イベント>を失念できるとか、俺の精神構造はどうなっているのか、本気で一度スキャニングを求む。
　が、それはここを生き延びた後の話だ。
　俺は扉を開けたまま、中に一歩も踏み入れず、石像のように固まっている。
　一方、居間には。
　昨夜の焼き直しのように、ソファーに座る秋葉の姿があった。
　秋葉の後ろには琥珀さんが控えている。
　いつもはどんなに刺があろうが、
『おはようごさいます、兄さん』
　と挨拶をする秋葉は、今朝にかぎってこちらを見もしない。
「…………」
　言うまでもなく、昨夜のアルクェイドについての説明義務を放棄しまくった結果だ。
　優雅に寛いでいるように見えるが、秋葉からにじみ出る圧力はハンパじゃない。
　居間は、打てば響く緊張感に支配されている。
「おはようございます志貴さん
。
　朝ごはんの前にお茶にいたしますか？」
　……まあ、それもこの人だけには関係のない話っぽいけど。
「お、おはよう琥珀さん。お茶はまた、落ち着いた時に」
　琥珀さんに挨拶を返して、居間に入る。
　テムテムと足音を忍ばせて歩く俺に、秋葉はじろりと流し目を向けてきた。
　無言の圧力になんか負けないぞ。
　こういう時こそ人間力の真価が問われる。
　俺は、
　兎にも角にも、まずはこの緊迫した空気を変えねばなるまい。
　いつもの調子では負けてしまいそうなので、ここはちょっと趣向を変えてアプローチをしてみよう。
「グモニー。いい朝だね、秋葉」
　ははは、と軽快な笑いを添えながら、フランクに挨拶をしてみた。
「………………」
　しっぱい、しっぱい。
　秋葉の視線はよけいきつくなったようだ。
　……辛いな。
　これ以上ここで秋葉の無言の圧力を受けていると、間違いなく胃に穴があく。
「では、おじいさんは朝食を食べに食堂へ」
　さりげなく居間から撤退を開始する。しかし。
「兄さん」
　ぴしゃりとした秋葉の声が、俺を呼び止めた。
　と言っても、秋葉の威圧感はこれまでの比ではない。
　下手な事を言おうものなら必殺のカウンターが返ってきそうだ。
　なので、ここは大人しく反省の態度を示したい。
「おはよう秋葉。今朝も早いんだな」
　静かに、できるだけ柔らかな口調で挨拶をする。
「ええ。昨夜の一件が尾を引いてしまって、一睡もできませんでしたから。
　でも新鮮な体験ができました。辛抱と困惑が頂点を過ぎると、少し愉快な気持ちになってくるなんて」
　なるほど、静かに怒り心頭に発していらっしゃる。
　これはどんな話術も通用しないとみた。
「そうか。睡眠不足はよくないよな。些細なことでも気が立って落ち着かないだろうし。
　それじゃあ俺は朝食があるから食堂に行くよ」
　そうゆうコトで、と食堂に撤退する。
「―――お待ちなさい、
兄さん」
　惚れ惚れする強制力だった。
　だって、足ばかりか心臓まで止まりかけた。
「……はい。なんでしょうか、秋葉さん」
　あえて『さん付け』で白旗をあげてみたが、秋葉は眉ひとつ動かさない。
　昨夜の事はどうあっても言い逃れできない。
　どんな弁明も火に油を注ぐだけだろう。
　なので、ここは全速全開で謝るほかない。
　秋葉がこちらを問い詰めてくる前に、<怒涛の勢い|ごめんなさい>で押し切るのだ。
「昨夜のことだけど、あれは」
「兄さん、一つだけ忠告してよろしいですか？」
　―――と。
　秋葉はぞっとするほど怖い声で、俺の言葉をさえぎった。
「兄さんは遠野家の長男なんですから、いたずらに謝罪の言葉を口になさらないように」
「謝る、という事は自分が悪い、と認める事です。
　その場合、遠野家の長男に相応の罰則を与えなくてはいけなくなるでしょう？」
　与えたくなるでしょう？　に聞き間違えかねない、嗜虐性に満ちた微笑みだった。
　うーん。謝る事さえ許されないとなると、あとは殺されるしかない。
　よし、逃げよう。
「すまない秋葉。遠野家の長男として、朝食を摂りに食堂に行きたいんだけど、いいかな」
　そろそろと食堂に撤退する。
「兄さん
」
　ぴしゃりとした秋葉の声が、俺の足を止めた。
「食事の前に話があります。
　どうぞ、ソファーに座ってください」
　有無を言わさぬ、抵抗不可能の<言|こと>の<葉|は>なのだった。
　自業自得、<愚兄|ぐけい>死すべし、なんて単語が頭の中でかけ回る。
　……観念して、ここで戦うしかないようだ。
「……わかった、出来るかぎり手短に頼む」
　ちょこん、と秋葉の向かいのソファーに座る。
　すかさずティーカップを用意してくれる琥珀さん。
『頑張ってくださいね』と言っているようで、少しだけ勇気が湧いてくる。
　そう、当主と言えど我が妹。
　そこまで一方的な試合運びにはならない筈だ。
　紅茶を一口飲んで、秋葉と視線を合わす。
「それで、どんな話？」
「昨夜の女性と性交なされたのですか？」
「―――ごふっ！」
　あぶないあぶない。むせるむせる。
　秋葉のヤツ、初手から直球とは待ったなしにも程がある。
　あやうく紅茶で窒息死するところだった。
「兄さん、私の話を聞いてます？」
「聞いてるよ。よく聞こえてる」
「それでは答えてください。
　昨夜の女性について、できるかぎり正確に、嘘偽りなく、私を決して怒らせない範囲で、詳しく」
「その条件だと、何も口にする事ができない」
「私を怒らせないで、と忠告した筈ですが？」
　いまの、条件じゃなくて忠告だったんだ……！
「……いや、無理難題の匂いがプンプンしてきたな……」
「なんです？　声が小さくて聞こえません。もっとハッキリおっしゃってください。
　いったい、あの女の方は、兄さんにとってどのような方なんですか？」
「どうと言われても、協力関係というか、友達……のようなもの？　というか―――」
「ふうん。夜中に出かけるほどのご友人なんですね。
　ええ、私だって兄さんが将来どなたと関係を持とうと意見する気はありませんけど、兄さんはまだ学生でしょう？」
「遠野家の長男が、その、どこの者とも判らない女性と夜な夜な逢引きをしているだなんて、そんな恥知らずな事はつつしむべきではないでしょうか？」
　……なるほど。秋葉から見ると、俺とアルクェイドはそういう関係に見えた訳か。
「待て秋葉。まずはじめに言っておくと、俺とあいつはそういう関係じゃない。
　俺はあいつの探しものに手を貸してるだけで、用が済んでしまえば、もう二度と会わない関係なんだよ」
「……そのわりにはずいぶんと親しそうでしたけど、それは私の気のせいだと言うんですね、兄さんは。
　あの方とはあくまで一時的な、損得だけの関係だと？」
　秋葉の視線は冷たい。
　その通りだ、と頷けば話は丸く収まる。
　……けど、ここでそう口にするのは妙な抵抗があった。
　お互いに<利益|プラス>があるから協力しているものの、じゃあそれだけか、と言われると、そんな単純な話じゃない、と反論したくなる。
「それは、その……親しくはないけど、損得だけで手を貸してるわけじゃないというか」
「でしょうね。今まで見た事もないほどの慌てようでしたから。何事も真剣になってくれない兄さんが感情を露にするなんて、どういう風の吹き回しかと疑ったほどです」
「そこまで慌ててないし、薄情でもない。あいつが家に来るなんて、思ってもいなかったから驚いただけだ」
「そうですか。あの女の方は落ち着いた様子で兄さんの事をずっと待っていましたけど？」
　何か言いたげな流し目である。
　秋葉は俺とアルクェイドが付き合っている、と信じこんでいるようだ。
「あのな、秋葉。勘違いもそこまでにしてくれ。
　そもそも俺とあいつが知り合ったのは―――」
　俺がアイツを殺したからなんだ、と言いかけて口を塞いだ。
　……真実を話しても信じてもらえる筈がないし、そもそも、あんな事を秋葉に知られる訳にはいかない。
　かといって他にうまい説明も思いつかず、昨夜に引き続きムニャムニャと言葉を濁すしかなくなった。
「答えられないのでしたら質問を変えましょうか。
　先ほどから兄さんはあいつあいつと繰り返していますが、あの女性のお名前は？」
「名前は……アルクェイド、だけど」
「そうですか。という事はお知り合いになったのは学校ではありませんね。兄さんの高校には留学生はいませんから」
「うぐ」
　秋葉の言う通り、うちの高校には外国からの留学生は存在しない。……いないのだが、なぜ秋葉はそんな事まで知ってるんだろう？
「それで、兄さんはあのような方と、いったいどこで知り合ったんです？」
「ま、街で知り合ったんだよ。その、偶然」
「偶然ですか。ではアルクェイドさんの方から声をかけてきたんですね」
「あ―――いや、声をかけたのは、俺の方だけど……」
　実際は声をかけたのではなく殺害し、その後に追いかけられた。ともあれ、きっかけを作ったのは俺の方だ。
「どうして声をかけたんです？
　兄さんはアルクェイドさんとは何もないのに。それとも初めはそういうおつもりだったんですか？」
　秋葉の質問は実に的確だ。
　一歩ずつこっちの急所へ近付いてくる。
　これじゃあ蛇に睨まれたカエルみたいなもんで、じき誤魔化しきれないところまで追いこまれてしまう。
　……気は重いが仕方ない。
　ここはもう、強引にでも話を終わらせるべきだ。
「ああもう、とにかくあいつとは何でもない！
　だいたいな、俺が何をしようが秋葉には関係ないだろ。
　どうせ形だけの長男なんだから、誰と付き合ったところで遠野家に迷惑はかけない筈だ」
　勘当された長男である事を持ち出すのは卑怯だと分かっているが、こうでもしないと秋葉は引き下がってくれないだろう。
　秋葉は眉をひそめた後―――すぅ、と音もなく立ち上がった。
「――――？」
　……おかしいな。
　てっきり冷酷に切り返してくるかと思ったが、秋葉は逆に、気まずそうに視線を逸らした。
「私だって、こんな事は言いたくありません。
　……ただ、あの人は厭な感じがするんです。他の相手なら仕方がないと諦めます。けれど、兄さんがあの人に気を許すのなら、なんだか私が莫迦みたいじゃないですか」
　……なぜか。
　秋葉は悔しそうに唇を噛んで、そんな事を言った。
「？　どうしたんだ秋葉、なんかおかしいぞ、おまえ？」
「もういいですっ。兄さんは兄さんのなさりたいよう、ご自由になさってください……！」
　らしくなく乱暴な足どりで、秋葉は居間から出て行ってしまった。
「もう。志貴さん、今のはひどいですよ。
　秋葉さまがおかわいそうです。恋人を連れてくるのでしたら、もっと普通のひとを連れて来てあげてくださいな。
　そうすれば秋葉さまも納得してくださったでしょうに」
　はあ、とこれみよがしにため息をついて、琥珀さんは秋葉の後を追いかけていった。
　翡翠に見送られて遠野邸を後にする。
　……怒って退室した秋葉の事は気になるが、その原因がアルクェイドにある以上、追いかけて話をしても堂々巡りだ。
　秋葉にはすまないが、この事件が解決するまでこのままでいるしかない。
「……でも、どうだろう。考えた事もなかったけど……」
　正直に、俺が体験したコトをすべて話してみる、という選択もアリなんだろうか……？
　たとえ信じてもらえなくとも、それが街の安全に繋がるのなら、今からでも吸血鬼の事を知らしめるべきだ。
「……そうだよな。
　たとえばネットで噂話として流す、とか……」
　歩きながら携帯端末を取り出す。
　信憑性があろうがなかろうが、いま知っている事を掲示板に書きこめばいい。
　それをどう受け取るかは個人の自由だ。
　声だかに“信じろ”と言っても逆効果だが、情報を載せるだけなら、そこから警告めいた都市伝説として流布されるかもしれない。
「あー、もしもし？　そこのキミ、ちょっと」
「？」
　呼ばれて足を止める。
　振り向いた先には、
　背広姿の、見慣れない男性がいた。
「……俺の事ですか？」
「うん、キミ。だってキミ以外にこんな道歩いている子、いないでしょ」
　それはそうだ。
　ここは遠野邸前の国道で、通るのは乗用車ぐらい。
　徒歩で移動する人間は、俺と遠野邸の使用人だけかもしれない。
「それでさぁ。キミさ、今この家から出てきたよね？　もしかして中で働いている使用人さんの子かな？
　ならラッキーだよ、すごくラッキー。オレじゃなくてキミがね。お小遣い欲しくない？　遠野家の人の話とか、ちょっと知りたいんだよね」
「……………」
　なんとなく距離を保つ。
　男の軽薄な口調が癪に障ったからではない。
　むしろ本気すぎて怖かった。
　なんでもない言葉の中に、こちらの態度を一つも取りこぼさないよう注目する<本|・><気|・>を感じたというか……。
「あ、もしかして野次馬だと思われてる？
　まあ野次馬なんだけど、ちゃんと報酬はずむよ？
　とくに知りたいのはほら、最近帰ってきたっていう長男の話。来たばっかりで写真資料もなくてさあ。どんな外見なのか、好きな食べ物とか好きな女の子のタイプとか、ぶっちゃけ何に弱いのか教え―――
はうあ!?」
　股間を押さえてピョンピョン跳ぶ軽薄男。
「底の抜けた鍋かテメエ。どう見てもそいつがトオノシキじゃねえか」
　子供……？
　男の陰に隠れていたのか、十二歳ほどの少年が、後ろから男の股間を蹴り上げたらしい。
「ちょ、マジすか!?
　まったくブルジョワの匂いがしませんよねぇ!?」
「どんな匂いだソレ。金に匂いなんてねえだろ。それとも手垢の匂いってコトか？　金持ちはドイツもコイツも垢だらけってか？　ずいぶん舐めた発言だなオイ？」
「い、いえ、違います、成金だけ、一部の成金だけですってば！　ほら、一日の半分を金勘定で浪費する高利貸し、みたいな？」
「そりゃうちのジジイのコトか？　上司批判とはずいぶん太いなアンドー？」
　……なんなんだ、この状況……。
　とりあえず警察を呼ぶべきか？
「あ、そこ、無言で110番コールしない！　なーんで今どきの若い子はドライに無駄なコトばっかりするかなー。
ほら、これこれ」
「―――え？」
　１、１、まで打ちこんだ携帯端末から目を離す。
　男は黒い手帳を向けている。
　実物は初めて見たけど、それはまごう事なき、警察手帳というものだった。
「警察手帳って……もしかして刑事さん？」
「そうだよ。怪しいモンじゃないよ。刑事さんだよ。警視庁捜査第一課、<安藤裕吾|あんどうユーゴ>。
　なのにさー、昨日から門前払いでさー。
　こっちはちょーーーっと話を聞きたいだけなのに、アポとれっていってんばりでさー。なんで仕方なく、国道で張り込みしてたワケ」
「………………」
　これほど怪しい刑事もそうはいまい。
　……しかし。
　あの手帳が本物かどうかはともかく、うちの前で張り込んでいた理由は気にかかる。
　ここは―――
　……探りを入れてみよう。
　目的が分からない以上、こっちも対応のしようがない。
「……俺でよければ話ぐらいは聞きますけど。
　用件はなんですか？」
「うん、北口駅前の火災のコトだよ。
　ほら、当日と翌日まで現場を仕切ってた警備会社、お宅の子会社でしょ？　もう引き上げちゃったけど、当日の責任者と話をしたいんだよね。連絡先とか分かる？」
「―――そう、だったんですか。それは知りませんでした。
　ですので、俺には分かりかねます」
「なに、長男なのに知らないの？　そりゃクマった。やっぱり妹サンの方が実権にぎってるワケ？」
「……どうしてそんな話を？　荒唐無稽だとは思いますけど、あの火災の原因は遠野グループの過失だとでも？」
「うん？　そんな方針は持ってないナイ。ありゃどっから見ても自然発火だし。
　問題は別っていうかぁ……ま、お家の人ならバラしてもいいか。もう知ってるだろうしね」
「昨日さ、地下陥没の瓦礫の下から、ちょっとよくない……というか、意味わかんないモンがでてきてね。鑑識もお手上げ状態でさ。あの土地だって遠野の持ちものでしょ？」
「記録だと10年くらい前に、遠野槙久が相場を上回る高額で買い取ったとある。
　そのあたりの事情、聞きたいんだよね。なんで駅前の一等地を買っておいて、公園になんかしちゃったのかな、とか」
「俺には何とも。槙久は亡くなりましたので。
　話はそれだけですか？」
「え？　いや、妹さんに取り次いでくれないの？　ちゃんと身分と目的、話したよね？」
「あいにく、妹は忙しい身なので。
　お引き取りください。話がしたいのなら、しかるべき手続きをしてからどうぞ」
　踵を返して坂道を降り始める。
　用件は分かった。
　……事情は掴めないが、あんな胡散臭い刑事を秋葉に会わせる気はない。
「おい」
　トーンの高い声に呼び止められる。
　安藤刑事のものなら無視するつもりだったが、その少年の声は妙に逆らいがたい威厳に満ちていた。
「正義漢も結構だが分を<弁|わきま>えな。人間らしい死に方をしたいんなら、このあたりが引き際だぜ」
「……なんだって？」
　足を止めて少年を見据える。
　いま、コイツは“人間らしい”と言ったのか……？
「…………何が言いたいんだ、君？」
「言いたいコトは今ので全部だマヌケ。これで聞かなきゃ勝手に死んでな。
　オラ、帰るぞアンドー。いいかげん食事時だ、ケーキ食わせろ、ケーキ。チーズと蜂蜜たっぷりなヤツな！」
「へえへえ、仰せのままに。……なーんでオレ、日本に来てまでボンボンのお守りしてんだろうなぁ……」
　おかしな二人組は路上駐車させていた乗用車に乗りこむと、駅前方面に走り去っていった。
　風貌はどうあれ警察の人間がうちの屋敷を監視していた……しかも、駅前の事故現場が遠野家所有の土地だった……？
「……いや、ただの偶然だ」
　偶然の筈だ。
　そもそもあの崩落はアルクェイドのヤツが考えなしにやった事だし、吸血鬼事件と北口駅前の土地は関係がない。
「………………」
　厭な予感を飲み下す。
　俺は気を取り直して、長い坂道を下り始めた。
　……下手に相手をするのはよくない気がする。
　この自称刑事の油断ならない空気もあるが、俺自身、ここ数日の行動が不審すぎるからだ。
「すみません、学校に遅れるので失礼します。
　うちに用があるなら、しかるべき手続きを済ませてからどうぞ」
　踵を返して坂道を降り始める。
　長居すればそれだけ隙を突かれるだけだ。
「うぇー、ホントに行っちまったよ。
　今日は顔だけでも覚えてもらって、今後ゆっくり話を聞かせてもらいたかったんだけどナー。
　こりゃ出直しですかね、坊っちゃん？」
「ああ、テメエの態度がアホすぎたからな。テメエ何年刑事やってやがる。貴重な時間を無駄に使ったんだ、テメエの貴重な給料も無駄に減俸してやるよ」
「給料は無駄に減っていいものじゃないんですけどぉ！」
　…………。
　話くらいなら聞いてあげるべきだったかな？
　日常は淀みなく進む。
　四時限目、現代社会。
　教壇に立つ教師はごく当たり前の、何の匂いもしない<教文|テキスト>を読み上げる。
　それを平然と聞きながら、窓際の席の利点として、窓硝子に映る自分の顔を客観的に眺めている。
「………………」
　……どうにも気が入らない。
　授業が退屈な訳ではなく、この状況をうまく整理できていないからだ。
　多くの犠牲者を出した駅前の火災。
　吸血鬼に侵食された街。
　それを知っていながら、こうして平然と授業を受けている自分自身について考える。
　言うまでも無く、俺の行動は異常だ。
　この状況におかれた人間なら、家に閉じこもるか何処かに逃げるか、そのどちらかに寄るだろう。
　なのにこうして、今まで通りの<生活|サイクル>を守っている。
　吸血鬼がいようがいまいが、それは異常なだけであって、日常を放棄する程のモノではないと処理するように。
“……でもまあ、実際の話”
　単に、学生として学校を<疎|おろそ>かにできないだけでもあるのだが。
　屋敷で出会った斎木業人との会話を思い出す。
　あの男風に言えば、勉強は将来への投資だ。
　<現|い><在|ま>のわずかな安全のために、未来への積み重ねを放棄しては本末転倒だ。
　そもそも自分は遠野家の金で生きている。あの家で暮らすのなら、学生として最低限の義務は果たさなければ。これは義理ではなく義務、けじめの問題だ。
　我ながら卑屈なのか、頑固なのか。
　それとも鈍感なだけなのか。
　先生は“自分が正しいと思う人間になれ”と言ってくれた。
　あの言葉を頼りにする以上、俺はやっぱり、この日常を大切にしなければやっていけない。
　窓ガラスごしの陽射しに眼を細める。
　四時限目の授業も、あと20分で終わる。
　今日の授業は五時限目までだ。
　学校が終わって夜になれば、またアルクェイドと一緒に行動する事を考える。
　窓ガラスに映った顔は、楽しそうに口元をほころばせていた。
「――――む」
　口元をひきしめる。
　アルクェイドと夜の街を徘徊するのが楽しいワケでもあるまいし、なにをニヤけているのか、俺は。
「……まったく……」
　授業に集中できていないにも程がある。
　なにしろガラス越しに見下ろせる校庭に、優雅に歩いているあいつの幻が見えるなんて。
　―――って、どういうコトなのじゃーーーー！！！？
　授業をさまたげないよう、というか教室のみんなに気づかれないよう、少しだけ身を乗り出す。
　タノム、何かの見間違いであってくれ……！
　よし、幻じゃねぇ。
　そんなフワフワしたモンじゃねえ。どう誤魔化しても現実だ。
　もしかして脳内つねに晴天なのかあの吸血鬼！？
　どうする。どうなる。このままアレを放置していたら遠野志貴の学園生活はいったいどうなってしまうのだろう？
「……………っ」
　いや落ち着け、まだ大丈夫、問題ない。
　他の生徒は気づいていないし、隣の教室からも騒ぎは聞こえてこない。幸い、今はこの教室からしか見えない位置にいるようだ。
“正真正銘、根っからの<破壊魔|デストロイヤー>め……！”
　頭を抱えて心中で呪ってみる。
　が、そんな事では何も解決しない。
　昼休みまであと20分。
　あの天然吸血鬼を放っておいたら何をしでかすかまったく予測がつかない。
　俺は―――
　兵は神速を<尊|たっと>ぶという。
　災害の芽はできるだけ早くに摘むべきだ。
　あの白いお方がおもしろおかしいトラブルを起こす前に、とにかく学校から連れ出すべきだと思う。
「先生、気持ち貧血なので保健室に行ってきます」
　挙手をしつつ席を立ち、脇目もふらず廊下に向かう。
　許可を貰っている余裕はない。
　みんなが呆気にとられている隙に、早足で教室から脱出した。
「あ、来た来た。
　そんな全力で走ってくるなんて、志貴ったら元気なんだ」
「―――――」
　……開いた口が塞がらない。
　対処目標物体は校庭をあっさり通過し、中庭にまで到達していた。
　良かった。中庭に面した教室が無くて、ホントに良かった。
「でも、学校って狭くてシンプルなんだね。
　外から見た感じ、もっと堅くて頑丈で、蟻塚みたいにばーっと広がってると思ったのになあ。
　これじゃ普通の建物だよね。うん、子犬っぽい感じでわたしは好きだけど―――
きゃっ!?」
「―――おまえ、ちょっと来い」
　悠長に挨拶をしている暇はもちろん無い。
　問答無用でアルクェイドの手を掴んで走り出した。
　人気のない体育館裏に移動する。
　時間的に正門から出ては目立ちすぎる。ここは裏門からお帰り願うのが最善手だ。
「ちょっと、こんな所に連れこんでどういうつもり？
　ここ、ぜんぜん面白くない」
　アルクェイドはご不満のようだが、元来学校というのは特に面白い建物ではない。
「どういうつもりかぁ？　そりゃあこっちの台詞だ！
　おまえ、歩く爆弾かなんかなのか!?」
「え？　歩く爆弾って……わたしが？」
「そうだよ。それでも控えめな描写だよ！
　……あのな。なんだって昼間から歩きまわって、かつ俺の学校にやって来てるんだ？　おまえ、昼間は弱くなるんだろ？　傷だって治ってないよな？　なら、夜まで大人しく休んでいるのが吸血鬼ってヤツじゃないのか？」
「……それは、そうだけど。
　志貴が手伝ってくれるんだし、昼間のうちに手がかりを見つけておこうかなって。
　昨日みたいに、志貴に無駄な事はさせられ―――」
「それこそ余分な気遣いだっての。協力すると言った以上、どんな作業だって一緒にやるんだから夜まで待っててくれよ。
　……はあ。俺を心配させて楽しいのか、おまえは」
「―――うん、ごめんなさい」
「いや、分かってくれればい―――って、アルクェイド？」
「だから心配させて、ごめんなさい」
「――――――」
　どくん、と一際高く、心臓が鳴った気がした。
　アルクェイドが素直に謝ってくるなんて……その、思いもしなかったというか、拍子抜けというか……そんな顔をされたら、何も言えなくなるというか―――
「でも志貴も悪いんだよ。下からずっと見てたのに、わたしに気がついてくれないんだもの。
　どこから中に入っていいのか判らないし、いっそのこと志貴のいるトコまで駆けあがるところだったんだから」
「……いや、待て。駆けあがるって、三階の俺の教室まで？」
「ええ、凸凹もあって足場には困りそうにないし、跳びやすいでしょ、あそこ」
「――――――」
　前言撤回。
　こいつは、相変わらずの非常識さだ。
「……助かった。そんな事されてたら授業どころの話じゃなかった……」
　ふう、と安堵の息をもらす。
　さっきの校庭での事も、アルクェイドに気づいた生徒は少ないと思う。
「とにかく、反省したんならいい。
　……それで。うちの学校に何の用なんだよ。手がかりを探しているとか言ってたけど」
「なにって、ただの調査よ。ローラー作業ってヤツ？　死者の気配がないんだもの、足で手掛かりを見つけないとね」
「む……それはご苦労さま。いまが夜だったらなお言うコトないけどな」
「次からは気をつけるわ。
　それで、このあたりを歩いているうちに志貴の匂いがして、そういえばここって志貴の通っている学校なんだって気がついたら、つい」
「……校庭に入ってきた、と。
　猫かと思ったけど、犬か、おまえは」
「失礼ね、ちゃんと確証があったからやってきたのよ。
　他の場所に比べて、ここは死者の気配がないんだもの。どんなものか、実際に見ておかないとまずいでしょう？」
「？　いや、まずくないだろ？　死者の気配がないんなら関係ないって事なんだから。
　実際、学校では事件も事故も起きないし、夜になると誰もいなくなる。死者が人間を襲うとしたら、学校じゃなく街に出るだろ」
「………まあ、そう言えばそうだけど」
「ここに異常なんかないよ。吸血鬼の気配は分からないけど、俺だって死を視る目を持ってるんだ。死者が歩いてれば眼鏡をつけていても異常だって気がつくし」
「わかったわ。
　志貴がそう言うんなら、ここに異常はないかもしれない」
「ないかもしれない、じゃなくてないんだって、実際」
　アルクェイドは納得のいかない顔をしたままだ。
「―――やば、昼休みになっちゃったか」
　いくら体育館裏に人気がないといっても、昼休みになれば通りかかる生徒が出てくるだろう。
「とにかく、これ以上ここにいられると騒ぎになる。
　ちゃんと約束は守るから、おまえは早く帰って体を休めておくこと。今日の夜にも“敵”とやらに出会うかもしれないんだから」
「……ふーん。なんだかわたしを追い出したいみたいな口ぶりね、志貴。そんなに<学|こ><校|こ>にいられると迷惑？」
「迷惑―――じゃないけど、いろいろ頭が痛いんだよ！
　気に入ったなら、また都合のいい時に案内してやるから今は早く外に出てくれ」
　ほらほら、とアルクェイドの背中を押す。
「………………」
　アルクェイドは特に何も言わず、最後まで何か言いたそうな目をして立ち去っていった。
　……ふう。
　緊張が解けてようやく一息つけた。
　昼休みになったし、こっちも栄養補給をして午後に備えよう……おや？
「……？」
　いま、駐輪場の陰からかすかな物音がしたような。
　さりげない散歩を装い、物陰まで歩いていく。
　はたして、行き止まりには誰もいなかった。きっと野良猫か何かだろう。
　ふと冷静になった。
　出来る事と出来ない事を、俺はきっちり分けて考えられる人間である。
　運命という荒波を前にした時、ちっぽけな人間ひとりに何ができるというのか。
　そう、<祈るしかない|もうなるようになーれ>。
「そういえば、俺は現社大好き人間だった」
　脇目もふらず授業に集中しよう。
　ちょうど2000年代に入ってからの地球環境問題について熱く語られているところだし。
「………………」
　なるほど、地球の資源は今の人類では使い切れない量ではあるが、それと環境破壊による地表の変化は別の問題だと。人類はどれほどヤンチャをしてもこの惑星を破壊できない。しかし自分のヤンチャのせいで気温、生態系は変化していき、人類が生存するためのハードルが高まっていく。
自分の部屋を散らかしっぱなしにしても部屋に住めなくなるだけで家そのものは変わらないし、罰を受けるのは部屋から追い出されて居場所がなくなった俺だけ、という事だ。うん、当たり前の話である。
　ところで。
　全力で授業に集中しているというのに、さっきからガンガンに増していく悪寒はなんなのだろう？
「うん、ここがアタリ！
　同じような部屋ばっかりで手こずっちゃった！」
　あはは、と照れ笑い……何に照れ笑うというのか……しつつ、不審者はツカツカと教壇まで移動する。
「な、なんだねキミは。今は授業中、」
　現代社会の間宮教諭は戸惑いつつも不審者を叱りつける。さすがだ。だてに我が校最年長じゃない。教師の鑑である。
　しかし。
「キミを待っていたよ。はい、これ今日の教材ね」
　間宮教諭は不審者にあっさり教科書を渡すと、そのまま教室から退室していった。
　ざわめき立つ教室。突然の事に驚きながらも高速で携帯端末を操作し、チャット会話を始める頼れる<生徒|なかま>たち。
『ごめん、誰か説明して』
『間宮出て行っちゃったけどいいのかコレ』
『っていうか誰か知り合い？いい匂いする』
『我、有識者ノ意見求ム』
『やばいめっちゃ近いめっちゃ美人！』
『ノエル先生といい確変起きすぎこの学校』
『黒板前である事に神に感謝しています』
『授業中にくるのはテロリストだけなんだよなぁ』
「みんな……」
　どこまで危険意識が薄いのか。
「はじめまして、特別講師のアル美です！
　みんな、今日はわたしのためにありがとーう！」
　いや、これ危険意識とかそういう問題じゃねえな？
　椅子を体一つ分だけ後ろにズラし、
　床に倒れるように椅子から滑り落ち、
　そのまま教室後ろの出口に向かって移動する。
　教室のみんなは教壇に立つ特別講師・アル美に夢中で、俺の脱走に気がついていない。
　間違いない。間宮教諭といいこの状況といい、魔眼とやらが悪用されている。
「えーと、黒板に色々書けばいいのよね？
　現代社会……？　あ、社会勉強か！　じゃあせっかくだし、吸血鬼講座・特別編をはじめ―――」
　え、ちょっと待って、それ超聞きたい。
　いやしかしそれこそ敵の思うツボだ。
　昼休みまであと10分。
「あーーー！　志貴いなーーい！
　逃げたな、このーーー！」
　俺は努めて冷静に、いま行くべき場所に走り出した。
　人気のない体育館裏に移動する。
　ここなら他の生徒の目にとまる事もない。
　あとは……
「ちょっと！
　せっかく来てあげたのに逃げ出すとかどういうつもり！？
　もっとこう、どんなピンチも正面から受け止める気概を持ってもいいんじゃない！？」
　この通り、餌に釣られて破壊者が追いかけてくれば、窮地は脱したと言っていいだろう。
「ない。危ないと感じたら逃げる」
　ピンチの種類にもよるけど、そこは黙っている。
「そんな事より！
　アルクェイド先生、怒りたいのは俺の方です。
　おまえ、人間社会には関わらないって言ってたよな？
　目立つことも避けるって言ってたよな？」
「なのになんださっきの。
　めっちゃくちゃ堂々と人前に現れやがって、真面目に吸血鬼退治する気があるのか！？」
「なによ、真面目に決まってるでしょ、志貴のバカ！
　それに、わたしちゃんと変装してたもん！　目立ってなんかいませーん！」
「変装……まさか……その眼鏡が……か？」
　真に恐ろしいモンスターなのか？
「うん、その通り！
　志貴の気持ちが分かるかなって、昨日のうちに勉強しておいたの！
　学校といえば教師、教師といえば眼鏡なんでしょう？
　なんでかけるのかぜんっぜん分からないけど、どう、似合う？」
「―――む、ぐぅ……」
　心の底から弾むような声で、アル美先生は俺に眼鏡を見せつけてくる。
　……クソ、なんだこの吸血鬼……ずるいぞ……さっきまで叱りつける気満々だったのに、そんな顔をされたら気持ちが萎えてしまうというか……。
「ああもう、わかった、わかりました！
　話があるならちゃんと聞くから、もうアル美先生は禁止、眼鏡も没収します！」
「―――あ」
　アルクェイドから危険なブツを取り上げる。
　眼鏡属性までつけられたらもう太刀打ちできない。
　これは禁じ手として、二度と使わせてはならない。
「……せっかく作ったのに、志貴に取り上げられた」
「俺が悪いみたいに言うな。学校じゃ危険物は没収されるものなの」
「……似合ってなかった……？」
「――――――」
　つい、アルクェイドらしからぬ弱々しさに息を呑んでしまった。
　……いつも以上に目を奪われている。
　昼間だから元気がないのか、そんなアルクェイドは新鮮だから気になるのか、そもそも俺は、コイツが何をしようと結局のところ―――
　全力で無視する。
　うっかり窓越しにこちらの位置を特定されないよう、机に突っ伏して寝たふりをする。
「遠野ー。こら遠野ー。
　そんなに間宮流ガイア仮説は退屈かー？」
　ごめん、現社の間宮先生。
　でも現代社会の授業で、地球と人類の未来を憂えられても反応に困る。
　……それから20分。
　大きなトラブルなく授業は終わってくれた。
　俺の内申と引き換えに、学校はアルクェイドという台風の被害に遭わずに済んだのである。
　昼食をすませて教室に戻ると、有彦の姿があった。
　午前中はいなかったので、単に昼食を食べにきたと見える。
「おう遠野、おはよーッス」
「……………」
　社長出勤も甚だしい。
　もしアルクェイドの事が学校中に知れ渡っていたら、間違いなくこいつと一悶着あっただろう。
　アルクェイドがおとなしく帰ってくれて、本当に良かった。
「げ。なんスか、その冷めきった目。
“可哀想だけど、サイン券抜かれたら一枚１０円で売られるＣＤなんだな”みたいな目で人を見るの、やめてくれない？」
「そうか、悪かった。ちょっと一悶着あって疲れててさ、つい本音を隠しきれなかった。次から気をつけるよ」
「マジっスか。でも、隠すべきは今の発言の方ですよ？」
　などと言いながら、有彦は自分の席に向かうどころか、そわそわと教室後方の出入り口に気を向けている。
　昼飯を済ませたので、本気でトンズラするつもりらしい。
「んじゃ、今日も一日ごくろうさん。オレはネット越しに、たくさんの仲間とちょっと世界を救ってくるわ
」
　いそいそと教室を後にする有彦。
　その背中に、
「なあ。北口駅前が物騒だって前に言ってたけど、それ以外にヤバめな所って言えばどこだ？」
　なんとなく、そんな質問を投げかけた。
「なんだい突然に。
北口デパート並みにヤバめなスポットなんてそうそうねえぞ。……しいていうならアレか。<櫛塚|くしづか>の廃病院じゃねえか？　二年前まで<珍走団|ヤンキーども>の集会場になってたものの、今じゃ誰もよりつかなくなったっていう」
「櫛塚って二駅となりのか？　でも、廃墟が物騒なのは当然というか、普通、誰もよりつかないだろ」
「いや、だからさ。誰も居なくなったんだよ。ある日を境に、ぱったりと、そのヤンキーどもの姿がな。三十人近い行方不明者ってコトで、今でも捜索願が出されてる。
　ま、こっちは怪談レベルの話で、北口みてぇな暴力沙汰じゃねえけどな。今じゃ浮浪者も住み着かない、行政の不良債権みてえな場所だよ」
　来月に迫った文化祭の出し物を決めるホームルームは、予想に反して難航した。
　様々な意見が飛び交い、男女の意見が対立した結果、決定は来週に延期になった。
　放課後の部活動は禁止されている。
　生徒はみな速やかに下校していく。
「――――さて」
　教室でぼんやりとしていても仕方がない。
　この後は、
「……櫛塚の病院か……」
　アルクェイドに触発されたワケではないが、昼間のうちに不穏な場所を調べておくのも無駄ではない筈だ。
　二つとなりの駅では無関係とは思うが、夜まで時間もあるし、とりあえず行ってみるとしよう。
　櫛塚駅のターミナルから、バスで移動すること20分。
　最寄りのバス停からさらに歩くこと20分。
　住宅地から離れた工場地帯のただ中に、その病院だったものは、静かに屍をさらしていた。
「――――――」
　正門からでも中の広さが窺える。
　廃院になる前はよほど大きな病院だったのだろう。
　剥がれたアスファルトは草に侵食されている。
　遠くに見える病棟はところどころが崩れている。
　あれは火災による崩落だろうか。
　それにしては壊れている部分と、そうでない部分の差が激しすぎるが。
「――――――」
　ここは、空が高い。
　周囲に背の高い建物がないため、視界いっぱいに青空が広がっている。
　夕方前だというのに、その<清潔|クリア>さは鮮烈すぎて目に痛い。
　有刺鉄線をナイフで切断し、少しだけ敷地内に入ってみたがこれといった異常は見られない。
　……意を決して眼鏡を外しもしたが、あの“死者”のような線の乱れも見られない。
　ここはただの、もう誰からも忘れ去られた廃墟のようだ。
「――――――」
　無駄骨だったが、まあ、調査というものはこういうものだろう。正門に戻り、次のバスの時間をチェックする。
　10分後に戻りのバスがある。走ればギリギリ間に合う。
　やれやれと肩をすくめて、バス停に走る事にした。
　有彦の話は気になったが、所詮は二駅はなれた遠くの廃墟だ。
　<総耶|そうや>に巣くっている吸血鬼とは何の関係もないだろう。
　俺も体力がある方じゃないし、今日はこのまま屋敷に戻って夜に備えておこう。
　屋敷に帰ってきた。
　日もまだ沈みきっておらず、秋葉もまだ帰っていない時間だ。
「秋葉、今朝から怒ったままだろうな……」
　秋葉が遠野志貴の行動に腹を立てるのは当然だ。
　俺は帰ってきてからろくな事をしていない。
　いっそ事情を話せれば……とも思うが、吸血鬼の話なんて信じてもらえる筈がない。
　しばらくはだらしのない兄貴として、憎まれ役に徹しよう。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
「ただいま翡翠。わざわざ出迎えてくれてありがとう。
　……えーっと、秋葉はまだ帰ってきてない？」
「はい。今夜は特別遅くなる、との事ですので、ご夕食は志貴さまお一人で済ませるよう、言付かっております」
　……そうか。
　せめて、どんな<話|コ><題|ト>であれ話をしておきたかったが、残念だ。
　今日はこのまま、自分の部屋に戻って休んでいよう。
「―――志貴さま」
「ん？　なに、翡翠？」
　翡翠はちらり、とロビーを見渡してから、改まって声をかけてきた。
「つかぬ事をお伺いしますが、志貴さまは今夜もお出かけになるのでしょうか？」
　翡翠はまっすぐに見据えてくる。
　外に抜けだそうとしている事が見抜かれている……のは、気にならない。
　だって翡翠には毎夜部屋にいない事はバレている。
　彼女が今夜も抜け出すのでは、と考えるのは自然な流れだ。
　問題はこの質問の意図だろう。
　使用人として俺の帰ってくる時間を知りたがっている……としても、翡翠に知らせるという事は秋葉に知られる、という事だ。
　……これは気軽に対応していい質問じゃない。
　ここは―――
　……正直に話そう。
　どんなに誤魔化しても、屋敷の管理を任されている翡翠と琥珀さんに隠し通す事はできない。
　なら、せめて夜は留守にする事をちゃんと伝えておこう。
「……ああ。実はこれから何日か、夜は出かける事になる。
　でも誓って悪い遊びをしている訳じゃない。秋葉には嫌われる一方だろうけど、途中で止める事はできないんだ」
　……そうだ。
　得体の知れない吸血鬼がいて、何人もの人間が犠牲になって、これを止められるのがアルクェイドしかいないのなら。
　俺はこの街に住む人間として、見なかったフリはできない。
「翡翠にも迷惑をかけるけど、しばらくは見過ごしてくれると助かる。零時になったら帰ってくるから、玄関の鍵だけ開けておいてほしい」
「わたしたちに理由は話せない、というのですね」
「……そうだ。ごめんな翡翠。だらしないヤツだと思って、今はなにも聞かないでほしい」
「……いえ。志貴さまはわたしの主人です。
　主人をだらしない方と蔑む使用人はおりません」
　無表情で、淡々と翡翠は語る。
　それきり会話は途絶えた。
　俺は翡翠に頭を下げて、ロビーの階段を昇っていく。
「お待ちください
」
　……と。
　後ろから、今までにない落ち着いた声で、翡翠に呼び止められた。
「……その、差し出がましい事なのですが」
　翡翠は一度言葉をきってから、ぐっ、と両手を握り締めてこちらに視線を向けてきた。
「志貴さまさえよろしければ、夜に出かける事を秋葉さまにお隠しする事ができます」
「……それって、口裏を合わせてくれる……ってこと？」
「はい。夕食後、秋葉さまはお部屋からお出になる事は稀です。就寝前の見回りはわたしと姉さんがしておりますから、その報告を怠ってしまえば、志貴さまのお部屋の様子は誰にもわからなくなります」
「いや、そりゃあ助かる。助かるけど……いいのか？
　秋葉は二人の雇い主じゃないか」
「わたしの主人は志貴さまだと申しあげた筈ですが」
　……自分でもどうかと思う。
　さま付けはやめてくれ、なんて言っておいて、いま猛烈に感謝している。
　翡翠は翡翠なりに、俺のつたない言い分を聞いて、その助けをすると言ってくれた。
「ありがとう翡翠。そうしてくれると、とても助かる」
「それでは今夜からはこちらのカードキーをご利用ください。
　秋葉さまの言いつけで屋敷の正門の暗証を変えたのです。
　こちらのカードキーでしたら、深夜でも正門の鍵は外れます」
「うお、さすが秋葉、対応早いな……」
　危なかった……知らずに出かけていたら、帰りは正門の前で夜を明かす事になっていたかもしれない。
「わたしからの提案は以上です。
　夜の外出をお止めはいたしませんが、どうか怪我のないよう、お気を付けて」
　では、と一礼して翡翠は立ち去った。
「―――――やった」
　思わぬところで救いの手が入ってくれた。
　これでこの先、秋葉に心配をかけず屋敷を抜け出す事ができそうだ。
　ひとりきりの夕食が終わって部屋に戻る。
　時刻はじき夜の10時。
「よし―――行くか」
　ポケットにナイフをしまいこんで、できるだけ物音を立てないように部屋を後にした。
　翡翠には悪いが、やはり本当の事は言えない。
　アルクェイドとの事は秘密にしておくべきだし、
　街を<脅|おびや>かす吸血鬼を探している事も話せない。
　信じてもらえるか以前に、家族を巻きこみたくはない。
「いや、もう夜に出歩く用事はないよ。
　今朝も秋葉にお小言をもらったばかりだし」
「かしこまりました。それでは、今夜も通常通りに門を閉めさせていただきます」
　心苦しいが、これでいい。
　翡翠の立場上、俺が『しない』と言えば追及する事はできず、話はここまでになる。
　一礼して翡翠は清掃の職務に戻った。
　……俺も自室に戻るとしよう。
　夕食が終わって部屋に閉じこもる。
　時刻はじき夜の10時。
　今日こそは見付からないように、細心の注意をもって外に出よう。
　通り魔事件の影響だろう。
　ここまで誰ともすれ違う事はなく、公園にも人気はまったくなかった。
　そこに、ぽつんと白い女のシルエットが立っている。
「志貴！」
「！？」
　しかし。何があったのか、俺の顔を見るなりアルクェイドは怒鳴ってきた。
「な、なんだよ。もしかして時間間違えたか、俺？」
「そう！　もう、何時だと思ってるのよ！
　約束の時間を10分も過ぎちゃってるじゃない！」
　……10分もって……。そりゃあ、屋敷を出たのが10時前だったから、全力で走ってきても時間通りに到着はできない。
　一方、アルクェイドは時間ぴったりに来ていたようだ。
「ああ、悪かったよ。こっちもなんとか10時に合わせたかったんだけど、こっそり出かけるのに思いの外手間取ったんだ。
　おまえが携帯を持ってたら―――」
　連絡くらい入れられただろうけど、吸血鬼とメールでやりとりする、というコト自体が非常識な気がしてきた。
「いや、何でもない。
　次からはちゃんと時間を厳守する。今回は大目に見てくれ」
「―――もう。これから殺し合いに行くのに、ぜーんぜん自覚がないみたいね、あなたは」
　ぷんぷん、という擬音が似合いそうなぐらい、アルクェイドはご機嫌ななめだ。
「…………」
　もしかして、約束の時間より前から待っていたんだろうか？
「……なあ。アルクェイド、何時からここで待ってたんだ？」
「わたし？　わたしは起きてからすぐここに来たから、ええっと――――」
「やって来たのは７時ぐらい、かな」
「７時って、じゃあ３時間以上も待ってたのか？」
　いや、そもそも約束の時間より３時間も前にやってきてどうする。
「うん。なんかおかしいみたい、わたし」
　自分でも呆れているのか、アルクェイドはそんな独り言をもらした。
「……まあ、遅れた俺も悪いけど、そっちにだって問題はあるぞ。
　約束の時間より前に来て、勝手に待たれても困る」
「む。それとこれとは別問題でしょ。志貴が遅れたってコトは変わらないんだから」
「……それはそうだけど。
　しっかし、なんだって３時間も待ってたんだ。間違えて来たにしろ、それだけあれば部屋に戻っていても良かったじゃないか」
「そんなの、わたしにだって分からないわ。
　なんとなく楽しいし、このまま志貴を待っていてもいいかなって思ってたら、いつのまにか10時になってただけなんだから」
「楽しかったって、なんで」
「さあ。自分にだって分からないって言ったでしょ。
　……志貴に殺されたせいかしらね。わたし、体のどこかが壊れて治ってないみたい。
　自分でおかしいって思うんだけど、体のどこが、どうしておかしいのかてんで分からないんだもの」
「…………」
　それを言われると、返答に困る。
　アルクェイドを十七個に解体してしまった手前、身体に異常があるといわれたら、こっちはもう平謝りするしかない。
「ま、いいわ。
時間もなくなっちゃったし、無駄話をしている暇なんてないものね」
「ああ。そう言ってもらえると実に助かる」
「でも、次も遅れるようなコトになったら、その時は直接家に迎えに行くわ。約束を守れないのは志貴の方なんだから、文句はないでしょ？」
「ばっ―――それはダメ！　約束はちゃんと守る。守りますよそりゃ。
　けど、不測の事態はいつでも起きるだろ？　時間に遅れる、なんてのはその最たるものじゃないか！
　なんで、間違っても二度とうちには来ないように！　ただでさえ秋葉に誤解されたままなんだ、これ以上引っかき回されたらマジで部屋を犬小屋にされかねない！」
「ふーん……あきはって、志貴に全然似てない妹さんのコト？」
「……。似てないは余計だけど、そうだよ」
「そうなんだ。志貴はそんなに妹さんが恐いの？」
「あのな。どこの世界に妹を怖がる―――」
　兄貴がいる、と言いかけて言葉を呑んだ。
　別に怖がってはいないが、なんとなく、秋葉には苦手意識がある。
「単に、妹には余計な心配をさせたくないだけだよ。
　……昔から、あいつには迷惑をかけてきたから。できるだけこのまま、何も知らないままでいてほしい」
「なるほど。あの妹さんには優しいのね、志貴は」
「基本的に、俺は誰にでも優しくしているよ。
　最近になって例外が一人できちまっただけで」
「あはは、それってわたしのコトだー」
「……わかんないヤツだな。今のは皮肉で言ったんだけど。
　誉めたんじゃなくて、悪口ってヤツな」
「そうなの？　でも、わたしは志貴の例外ってコトでしょ？　わたしね、そういうの嫌いじゃないんだ」
　まだアルクェイドは笑っている。
　子供みたいに屈託のない笑顔だった。
「…………」
　妙に体が熱い。体温があがったらしい。
　これ以上こいつを見ていると毒気が抜かれてしまいそうなので、大げさに視線を逸らした。
「本題に入ろう、アルクェイド。
　昨日と同じように吸血鬼探しをするんだろ」
「っと、そうだったわね。今夜は眼鏡は外さなくていいから、わたしの後に付いてきて」
　夜の街を散策する。
　アルクェイドには明確な目的地があるとのコトだが、詳しく知らされていない俺からすると、二人で夜の街をそぞろ歩いているようなものだった。
「今夜はピンポイントで視てもらうわ。まずは騒がしい方ね」
　そう言って、アルクェイドは駅前の繁華街に足を向けた。
　10時を過ぎても眠らない不夜城。
　様々な音と光を並べた文明の博覧会。
　わずか数ヶ月で変化していく流行の街を、
　何世紀かけても変わらない姿で、白い吸血鬼が過ぎていく。
　……いや、何世紀、というのは言い過ぎか。
　吸血鬼は不老不死で長生きと聞いたから、なんとなくそんな言葉が浮かんだだけだ。
「志貴、あのビルを視て。六階建ての細い方。入っていく人間たちに線は視える？」
「……普通だな。死者は出入りしてない」
「ハズレね、次に行きましょう。はい、眼鏡かけて。先は長いんだから、あんまり無理しないように」
　昼間言っていたように、アルクェイドは死者たちの巡回場所に当たりを付けていた。
　その数、実に六箇所。
　最初の二箇所はハズレだったが、三つ目の貸しビルはアタリだった。
　空きテナントの一室に出入りする警備員は、死の線の集合体だった。
　アルクェイドは俺の表情だけで事を判断し、俺を廊下においたまま部屋に入り、１分後、何事もなく出てきた。
「ごめんなさい、ここもハズレ。低級の屍鬼だった。このあたりは昨日狩り尽くしたから、完全に警戒されたわね」
　やれやれと肩をすくめるアルクェイドには、かすかだが落胆の色が見えた。
「なによ、ニヤニヤして。わたしの失敗が楽しいの？」
「いや、違うよ。いつも気楽なおまえでも、気を落とす事があるんだなって」
「む。それ、どういう意味。わたしだってヒトなみに壊したり潰したりしますよーだ」
　そこは“人なみに悩んだり悲しんだりする”と言ってほしかったが、こいつには無茶な注文だろうと口をつぐむ。
　貸しビルからこっそり抜け出して、次の目的地へ。
　時刻は夜の12時になろうとしていた。
　さすがに歩行者の数は減り、ネオンの光も減少していく。
　流れていく車のテールランプ。
　その光に合わせるようにステップを踏むアルクェイド。
　五つ目のハズレを終えて、最後の目的地に向かう。
　行き先は住宅地のようだ。
　アルクェイドは語らないが、それが今夜の本命である事はなんとなく感じ取れた。
「……しかし。分かってはいたけどまだるっこしいな。
　足で調査するしかないなんて、前時代的にも程がある」
「昔から吸血鬼退治は面倒なものだもの。街のどこかにある親基の棺を探しあてるんだから、そう簡単には終わらないわ」
「そっか、ならいい―――って、別にイヤがってる訳じゃないぞ？　単に、アルクェイドも大変だなって思っただけで！」
「ん？　わたしは別に大変じゃないよ？　決められた作業だもの、手順を踏んでいけばきちんと終わるものだし」
　そうか、と空返事をする。
　こと吸血鬼退治において、アルクェイドはひたすらに合理的だ。どんなに地味な作業でも、それがゴールに繋がる一歩なら確実に、冷徹に積み上げていく。
　ぴょーんと10メートルの高さを跳べるからといって、やることなすコトぶっ飛んでいる訳じゃない。
　……考えてみれば、初めて出会った時もそうだった。
　こいつは人混みに紛れて、人間社会を乱さないように吸血鬼を探していた。その気になればヴローヴと同じような事ができたとしても。
「……って、なんだよ、人の顔をじろじろ見て。
　ちゃんと前向いてないと転ぶぞ」
「……うん。やっぱり、これって不思議なコトよね。
　ね。志貴はわたしといて平気なの？　吸血鬼退治とか、怖くないの？」
「はぁ？」
　唐突、というより今更な質問に、つい声をあげてしまった。
　アルクェイドと一緒にいて平気か、だって？
　そんなの考えるまでもない。
「別に。平気かどうかなんて、ただのえり好みだろ。
　俺たちは利害が一致した協力関係なんだし。そりゃ吸血鬼は怖いけど、街の為なら我慢するさ」
　ふーん、と納得するアルクェイド。
　会話はそこで途切れた。
　俺たちは無言で、すれ違う者のいない歩道を歩いていく。
　駅前から随分と離れた。この２時間、成果はほぼ無かったが不思議と徒労感はない。
　解決までには至らないが、事態の悪化は確実に防いでいる。
　それが充実感に繋がっているのか、つい、
「でも、気を遣わなくていいのは、いい」
　今まで口にしてこなかった、心情を吐露していた。
「志貴？」
「だから、気楽だってコト。……俺はその、根本的にろくでなしだからさ。おまえみたいに頑丈なヤツがいてくれると、なんていうか、」
　―――心底から、安心できる。
　俺の視界は壊れている。
　遠野志貴の認識は<穢|けが>れている。
　<お|・><ま|・><え|・><は|・><本|・><来|・>、<こ|・><こ|・><に|・><居|・><て|・><は|・><い|・><け|・><な|・><い|・><も|・><の|・><だ|・>。
　……そんな、七年前からずっと分かりきっていた結論が、こいつの前では薄れてくれる気がする。
「ねぇねぇ。
　それってつまり、私が志貴を楽しくさせてるってコト？」
「逆。あのな、おっかない吸血鬼と一緒なんだぞ？　災難極まってるだろ。気が楽っていうのは、どう転んだっていま以下にはならないってコトだよ」
「む。おっかないって、どのへんが？」
「山ほどある。殺しても生き返ってひたすら追いかけてくるとか、
3000℃の高熱をあちち、で済ますところとか、
ガムテープとか、ビルの屋上まで駆け上がるところとか、
駅前をオシャカにするところとか、」
　……ヴローヴの寒波を全力で防いでくれた事とか、
「岩盤をちゃぶ台返しするところとか、人の体によくわかんないものを塗りつけたりとか、あと、昼間に学校に来るところとか」
「はい、そこまでで結構です、志貴の気持ちはよっく分かりました！」
「ん？　いいのか、まだもうちょっとだけあるぞ？」
「いいわよ、自覚あるから！
　ふんだ、どうせわたしは吸血鬼ですものね！」
　アルクェイドはスピードをあげて、ずんずんと先行していく。
「ちょっ、待てってば！
　おまえが本気になったら追いつかないぞ、俺！」
　こっちも小走りで白い背中を追いかける。
　六つ目の目的地は、もう目と鼻の先だった。
　―――それは、住宅地のただ中にあった。
　ごく一般的な、何の変哲もない四階建てのマンション。
　部屋数は一フロアに四つほどで、その大半からは灯りが漏れている。住人たちはまだ眠っておらず、各々の時間を過ごしている。
　それがまっとうなものかどうかは、外から眺める他人は与り知らぬ事だ。
「――――――、っ――――――！」
　線を視る。
　脳にかかる重みに吐きそうになる。
　……ここは、おかしい。
　建物に走る線はごく平均的なものだが、何か、異様な寒々しさがある。
　それは部屋から漏れる灯りの白々しさだったり、
　たった今マンションに戻ってきた女性の体に渦巻く、死の線の多さだった。
「―――そう。やっぱりアタリね」
　アルクェイドはマンションの入り口ではなく、地下ガレージに続く坂に向かった。
　地下ガレージの入り口にはシャッターが下りている。
「普通のマンションだけど……ここなのか、アルクェイド？」
「ええ。このシャッター、人避けと消臭の結界がかかってる。
　あれはカメラかな？　わたしの姿を捉えてるけど、中の死者たちにもう逃げる時間はない。昼間、わたしひとりでやって来ていたら逃げられていたでしょうけど」
　屈んでシャッターの縁に手をかけるアルクェイド。
　そのまま一気に引き上げるかと思いきや―――
「志貴。このシャッター、切れる？」
「そりゃ切れるけど……いいのか？」
「ええ。わたしより志貴が適任。無理矢理あけると警報が鳴るでしょ？」
　……そりゃそうか。
　いざ実行という段になるとアルクェイドは冷静だ。
「志貴はガレージの入り口にいて。
　ここが“巣”なら、中には十体近い<不死|アンデッド>がいるはず。
　相手が一体だけなら志貴の方が強いけど、二体以上になると不利でしょうから」
「別に俺はそこまで……まあいいか。わかった、切るぞ」
　シャッターの“線”を断つ。
　ざらん、と音をたてて、鉄の扉がコンクリートの床に落ちる。
　切り取ったシャッターの隙間から、黒々とした闇を覗きこむ。
「なんだ、この匂い……!?」
　鼻を突く異臭。
　ガレージの中はすえた肉の匂いと、濃厚な血の匂いで満ちていた。
　中にうごめく“線”の塊たち。
　シャッターを切り崩した事で、俺たちという来訪者に気がついたのだろう。
　その数、二十二体。これだけの死者がいるという事は、ここが“親”の根城に違いない……！
「アルクェイド、予想より数が多い……！
　ここが根城なんだろ。なら、やっぱり俺も―――」
「？　ここは根城じゃないわ、ただの食堂よ。
　だいじょうぶ、起きたばっかりの不死なんて虫みたいなものだし。志貴はそこで待ってて、すぐ片づけちゃうから！」
「――――――マジか」
　予想外のシーンの連続に、意識の<対応|チャンネル>が間に合わない。
　ヘドロのつまった墓穴を見せつけられた後、
　華麗なフィギュアスケートが始まったような、そんな食い合わせの悪さだった。
　目を覚まし、来訪者に襲いかかる無数の死者。
　腕の<一|ひと>振るいで巻き起こる断裂。
　群がる牙。飛び散る死肉。その雨の中で、一片も濡れる事なく舞う白い影。
　もう何度も見たというのに、何度だって息を止める。
　……そうだ。
　あの死体たちと彼女とでは、戦いになる筈がない。
　性能が違う。視点が違う。存在の次元が違う。
　<鎧袖一触|がいしゅういっしょく>、無双とはこの事だ。
　アルクェイドにとって<血|・><を|・><吸|・><う|・><だ|・><け|・>の吸血鬼なんて、俺たち人間と何ら変わりのない獲物、なんだろう。
「っ…………」
　頭痛が走る。裸眼でいる事の代償だが、まだ眼鏡をかける事はできない。
　アルクェイドひとりで済むとは言っても、死体はまだ十体以上残っている。
　あのペースならあと１分もかけずに一掃できるとはいえ、アルクェイドの戦いが終わるまでは俺も―――
「……？」
　様子がおかしい。
　アルクェイドの動きが緩慢になっている。
　あいつは傷を受けていない。
　そもそも死者たちを近づけてもいない。
　なのに、
　一つ、また一つと死者を引き裂く度に、その顔が苦痛に歪んでいるようだった。
　―――吹き荒れる暴虐。
　気がつけば、残った死者はあと一つ。
　もう過度の暴力は必要ない。あいつなら腕の一振りで決着をつけられる。
　なのに、
　白い影はこれが最後と見たのか、力を温存する事なく、ヒトの形をしたモノを粉砕した。
　事は終わった。
　惨劇の中心で肩を落とし、乱れた呼吸を整えるアルクェイド。
　……あの馬鹿。どんな心境の変化かは知らないけど、無駄に力を使いすぎだ。
　あいつならもっと軽やかに、それこそ今の十分の一ぐらいの暴れようで事は済んだだろうに。
「アルクェイド」
　ガレージの入り口から声をかける。
「あ、どう？　見ててくれた、志貴？
　今夜はこれで終わりだし、あなたの前だし、いつもより張りきってやっちゃった」
「おまえな……こんな物騒な『張りきっちゃった』とか、初めて聞いたぞ……」
　はあ、とため息をつく。
　……まったく、勘弁してほしい。
　いつもより余分に暴れた理由が、単に俺に自慢したかったからとか、どう反応していいか本気で困る。
「……………まあ。
　確かに、ちょっと見とれたのは事実だ、け―――」
　浮かれていた気分が<切断|カット>される。
　思考の急停止。意識の空白化。
　まさに、目を疑う、としか言えない異常が、そこにあった。
　それはいつからあったのか。
　いや、いつから見落としていたのか。
　路地裏に現れた黒豹。
　燃える屍体。
　人間に擬態する死者。
　この数日、多くの異常を見てきた。多くの未体験を味わってきた。
　だが、それらはすべて現実から変わったもの、
　現実にあるモノが変調したものだ。俺たちの常識の延長にあったものだ。
　あれは、違う。
　空気が違う。種別が違う、存在にいたる工程が違っている。
　俺たちの街にも、アルクェイドの世界にも、いる筈のない“異種”だった。
　それはヒト型をしていた。
　死者たちと同じ匂いを持っていた。
　だが人間性を、ホモサピエンスである事を放棄していた。
　生存の息づかいを感じない。光に反応する機能が見て取れない。
　だだ漠然と、捕食する為だけの動物だと本能が理解する。
　見たことがないと言いながらも、俺はこれと似たようなものを知っている。
　―――蜘蛛だ。
「――――――」
　思考がまだ止まっている。
　喉の使い方を思い出せない。
　ぞぞぞ、と、波が引くように、ソレの腹部の肉が展開した。
　あの膨れあがった肉は、腹の脂肪ではなく『腕』を固めていたものらしい。
　軟体動物のようにしなる不気味な多腕。
　その先端が、
「アルクェイド！」
　声をあげる。
　異常を察し、アルクェイドが振り向く。
　振るわれた触手は鞭のように伸縮し、アルクェイドの首筋に振り落とされた。
　一瞬の出来事だが、アルクェイドの不意を突くには遅すぎる。
　死者たちを紙くずのようになぎ払ったアルクェイドの爪は、
　今回も当然のように、あの下品な肉の鞭を―――
「きゃっ……!?」
　だが、肉の鞭は真空の爪に切り落とされる事なく、
　弾かれはしたものの勢いは落ちず、白い女の背中に、回り込むように食らいついた。
「――――――」
　カチン、と頭蓋の奥で、引き金の落ちる音がした。
　隠れていた異形の死者。―――そういう事もある。
　隠していた外皮の硬さ。―――そういう事もある。
　先ほどの死者たちとは種別の違う醜悪さ。そういう事もある。
　その上で。
　アルクェイドを殺せると思いあがり、放たれる第二、第三の肉の鞭。
　―――それは、ない。
　馬鹿な。
　馬鹿だ。
　あんな事をしなければ、あんな無駄をしなければ、あんなバケモノに後れを取る女じゃない。信じられない。新しい傷を負っている。無様に壁に追い込まれている。呼吸も荒い。足取りもおぼつかない。あんな―――俺でさえやりすごせる一撃を、甘んじて受けている。
「て―――」
　眼鏡をかけていなくて、心底良かった。
　怒りでたたき割っていたかもしれない。
　異形の死者がはしゃぐように飛び上がる。
　本来なら決して届かない獲物を前に、下卑た笑いを頬にまで伸ばしている。
「―――て」
　ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。それは、俺のだ。俺の責任だ。俺の役割だ。俺の、俺が殺した、殺してしまったせいで地に落ち、ただ快楽の為に殺されたというのに、俺を、こんな非人間を、それでも許すと告げた女だ。それを―――
「―――ぶち殺すぞ、テメェ―――！」
　それを、<不出来|ブサイク>な肉で舐めまわしているんじゃねえ……！
　切断する。単純に、なんのひねりもなく、動物的に繰り出されただけの動作ごと切断する。
　俺が走っているのか。
　ヤツが迫っているのか。
　どうでもいい。踏み込んだ足に淀みはない。
　繰り出される<二腕目|にげきめ>。先ほどの大ぶりとは違う、敵対者から見れば点のような小拳。ボクシングで言うところのジャブだ。最小の行動、最速の筋肉の動作。威力は軽いものの、その速度は人の動体視力では追い切れず、また、肉体は<反応|かわ>しきれない。
　まったく問題ない。<人|オ><間|レ>では躱せないのなら、目の前で<割|わ>かれてもらうだけだ。
　逃げる背中を追う。<赤狂|あかぐる>う死の断線。
　考えるまでもなく効果的な線を断つ。
　もっとも警戒していたヤツの左脚が“死”に瀕した。
　残る警戒は噛みつきだけだが、もう、こちらの方が届く。
　丹田よりやや右上、鳴動する“点”を穿つ。
　断末魔の声は聞こえなかった。
　異形の死者は電池を抜かれた機械人形のように、あらゆる動作を停止し、死亡した。
「―――――、
あ」
　<始|こ><末|と>を終えて、ようやく呼吸が戻ってきた。
　周囲には散乱した腐肉の断片。
　俺が仕留めた死者は、既に灰になっている。
　アルクェイドが仕留めた死者は何の変化もないところを見ると、やはりあの異形は特別だったのか。
「は――あ」
　だが、殺した。
　異形であれ躊躇いもせずに、息の根を止めた。
「は、あ」
　あたまが、うまく思考してくれない。
　今のは、ただの暴力だった。
　先生が教えてくれた教訓を一部も含めない、<感情|いしき>にまかせた暴走だった。そうなってはいけないと、ずっと恐れを抱いていた殺人鬼の行為だった。
「はあ―――はあ―――はあ」
　後悔。自責。憎悪。失望。それらの感情が、必ず、冷静になった己に降りかかるだろう。
　……でもいい。それでもいい。
　アルクェイドが傷つくよりは、ずっといい。
　俺はいま、初めて。
　自分の理性を保ったまま、何の躊躇いもなく、ひとりの女の為に、この力を使ったのだ。
「………、……、………」
　振りかえれば、アルクェイドは両肩を震わせて、呼吸を乱していた。
「大丈夫か、アルクェイド……！」
　アルクェイドに駆け寄る。
　彼女は痛みを堪えるよう胸を押さえて、はあはあと、それだけしか知らない生き物のように苦しんでいる。
「馬鹿、油断しすぎだ！　あんな考えなしで暴れるから！
　大丈夫か？　体の傷、開いちまったのか……！？」
「―――、……、……っ」
　カタカタとアルクェイドの背中が揺れる。
　……酷い。体中に浮かんだ汗といい尋常じゃない。
　もしや胸に傷を負ったのか、と、屈んでアルクェイドの顔を見る、と―――
「ぷっ―――ふふ、あはははは！　あははは！」
「―――おい」
「もう、志貴ったらケダモノー！
　今の凄い、ちょっと凄すぎると思う！」
「……………………」
　これは　ひどい。
　アルクェイドは、傷が痛くて体を曲げていたのではなく。
　笑いを堪える為に、お腹を押さえていやがった。
「嘘泣きとか、おまえ人間社会に毒されすぎてないか!?
　というかそうだよな、心配した俺が馬鹿だった！　頑丈なおまえが、あれぐらいで痛がるはずないもんな！」
「あ、ひっどーい。痛いのは本当だったんだから。
　あとちょっと追いこまれていたら、誰かさんに切られたお腹が<ま|・><た|・>開いていたところよ！」
「う、ぐ……」
　それを言うのはズルい。
　何を言っても俺の責任になるので、全面的に黙るしかなくなる。
「……はあ。はいはい、分かりました。俺が悪うございましたとも。
　さっきのバカ笑いはどうあれ、おまえが無事で良かったよ」
　ふん、と嫌味まじりに切り返す。
　……と。
　この通り、またも謎のニマニマ顔である。
「なんだよ。まだ何かあるのか」
「うん。それと、嘘泣きじゃないよ。嬉しいのもほんと。
　だって、志貴がすごく頼りになるんだもん」
「――――――」
　頬が熱い。あまりの不意打ちに全力で顔を背ける。
「？　なに、どうかした、志貴？」
「ど、どうもしてない。ちょっと暑いんで、ほら」
　何が『ほら』なのか、具体性のない誤魔化しだった。
　とにかく、アルクェイドから視線を逸らす。
　手で顔をおおって頬の赤味を隠したものの、その行為自体が、よけいに熱を高めてしまった。
「――――――っ」
　だからなんだその顔。この陰惨な状況で殺人スキルを褒めてくるとかなに考えてるんだ。ＴＰＯわきまえてほしい。魔性の女にもほどがある。ってかそんなんで嬉しくなっている俺の方がおかしいのか。なら落ち着こう。落ち着いて、この不意打ちじみた熱をやり過ごそう。
「…………よし、落ち着いた。
　で、これからどうしよっか？　ほら、ここが敵の本拠地じゃないにしても、中に入って、手がかりを探す……とか？」
「そうね、人が来る前に調べてもいいかも。
　棺の手がかりはないでしょうけど、他の食堂の場所が―――」
「………………」
　ぜんぜんダメだった。
　一向に胸の動悸が収まらない。顔が熱い。
　頭がぼうっとして、アルクェイドの声が素通りしていく。
　……でも仕方ないとも思う。
　あんな笑顔であんなコトを言われたら、誰だって見惚れてしまう。
　こんなにも頭が痛いのも、手足が重いのも、ぜんぶアルクェイドの―――
「……志貴？　ちょっと、大丈夫!?」
「すごい熱……
　あの死者、そんなに視えにくい相手だったの！？」
「……いや、そんなコトはなかったけど……けど……
　……おまえ、なんか、近く、ない……？」
　頭がうまく働かない。
　意識はあるものの思考は<鈍|にぶ>くて、体の感覚がやけに遠いというか……
「ここの調査は止めて、休憩にしましょう。
　どうせ手がかりなんて残さないヤツだし、今日は食堂を潰せただけで十分よ。これだけの働き蟻を失ったらしばらく活動はできないし、もう自分から外に出てくるしかなくなるわ」
　握られた腕が引っ張られる。
　俺はアルクェイドの言葉に漠然と頷いて、死肉にまみれた地下ガレージを後にした。
　ベンチに座って体を休める。
　手足の感覚は30分ほどで回復した。
　自分でも気がつかなかったが、あの異形の死者の“線”を視た事が大きな負担になっていたようだ。
　ベンチの前にはアルクェイドが立っている。
　俺をここまで連れてきてくれた後、あの通り、ずっと俺を睨んでいる。
「……あのな、アルクェイド。
　目眩も消えたんだし、その、いかにも俺が悪いって顔はもう止めてくれ。
　そもそも、あの時はああでもしないと傷が開いたんだろ、おまえ」
「あれはコトバのアヤ。あんな変種ぐらいなんとでも出来たわ。そんな事よりあなたの体よ。昨日の話、ちゃんと覚えてる？」
「眼を使いすぎるなって話だろ。分かってる、俺だって廃人にはなりたくない。次からは気をつける」
「…………はあ。鈍感にも程がある。あなたに危機感を植え付けるのは難儀そうね。
　ま、一番身近にして最高級の“死”に慣れているんだから、それも当然か。……ほんと、どうしてやろうかしら。一度思いっきり怖がらせてあげましょうか？」
「………………」
　なぜここで恨み節らしきものをぶつけられるのか。
　誰か、明確な解説を求む。
「最高級の恐怖ならおまえに追いかけられた時のでお腹いっぱいだよ。
　この眼が危険だって事も、言われなくとも分かってる」
　なにしろ、七年間付き合ってきたんだから。
「さっきのだって、いつもなら目眩は起こさなかった。
　あれは、単に」
　……今にして思うと、死の線を視すぎた訳じゃなく、アルクェイドの事で歯止めが利かなかったんだと思う。
「単に、なに？」
「単に、歩き尽くしで疲れていただけだ。おまえは平気だろうけど人間は疲れるんだよ、２時間歩きっぱなしだと」
「それならいいけど……志貴ってたまに、自分を客観視しすぎてない？
　その魔眼のせいで自分嫌いになってるとか？」
「いや、自分が嫌いになれたら、目の事で悩んだりはしないだろ。
　言っておくけど、俺は自分のことも周りのことも、自棄になって視た事は一度もないよ」
「―――そうなんだ。ちょっと意外」
　そうだろうとも。
　これは矜持というか、依り所の話だ。
　こんな俺でも意味がある、と言ってくれた人がいる。
　ならその時まで、自棄になって自分を棄てる事はしたくない。ちっぽけな信条だが、それが俺をここまで支えてきたプライド……のようなものだ。
「それに、この眼だってそんなに悪い事ばかりでもないし。
　裸眼でいると色々と不都合があるけど、食欲が薄れるのは手間が省けて楽だよ。もともと小食だから相性はいいと思う」
「……魔眼による食欲の減少と持って生まれた消化機能の関係は、わたしには分からないけど」
「あ、いや、ごめん、今のは冗談というか、本気でとられると恥ずかしいというかですね、」
「真面目な話よ。あなたの眼は後天的なものと言っていたけど、それは表れるのが遅かっただけの話かもしれない」
「……？　表れるのが遅かった、だけ？」
「ええ。超能力は突然変異体だけど、それにだって誕生する土壌が必要なの。
　志貴のような『眼』を持つ先祖はいなかったとしても、似かよった『眼』を持った親はいたかもしれない。
　魔術師は知識と身体回路を子供に移植するけど、あなたのような異能は交配による遺伝子だけで伝わっていって、隔世遺伝として表れる場合が多いから」
「交配による遺伝子……つまり、親父から？」
「というより、あなたの一族全体の話ね。
　家系の中で貴方だけ特別、という考えかたのほうが不自然よ。
　あなたに異能があるのなら―――あなたの家系すべてが特別、と考えるべき。志貴の家族ってそういうヒトたちなんじゃないの？」
「――――――、は」
　そんな馬鹿な、と笑ってしまった。
　遺伝的？　この眼が遠野の人間……槙久や秋葉にある？
　それはないと断言できる。
　うちでおかしいのは俺だけだ。
　そもそもの話、あんな事故さえ起きなければ、俺はこんな眼にならなかった。これは遺伝ではなく、事故による後遺症に決まっている。
「でも忠告は受け取っておく。ありがとう、アルクェイド」
「？　な、なに、いきなりかしこまって。
　わたし、あなたにとってイヤな話をしたと思うんだけど……」
「イヤな話じゃなかったよ。ぜんぶ俺の体を気遣ってくれての事だったからさ。
　今日の学校での事前調査だって、俺に無理させたくなかったんだろ？　おまえだって昼間は辛いのに。
　だから、ありがとう。……ここまでされてやっと気がつくあたり、お礼を言える立場でもないけど」
「でも、そういうアルクェイドはどうなんだ？
　腹の傷、本当に塞がってるんだろうな？」
「？　そっちはちゃんと塞がってるけど……なんで？」
「いや、さっき調子悪そうだったから。何もされてないのに苦しそうだったというか、イライラしていたというか―――」
「―――？」
　いま、ずきり、と胸に妙な感触がした。
　痛みではなく、どちらかといえば<痒|かゆ>みのような感触が。
「志貴？」
「いや―――なんだ、これ」
　わけもわからず、首元からシャツの中に手をいれた。
　―――ぬるり。
　何か。
　胸には、絵の具のようなものが、付着している。
「なんだろ……なんか、濡れてる」
　シャツの中から手を引っ張り出す。
　開いた手の平には。
　真っ赤な血が、べったり、と。
「え―――――」
　ちくん。
　またおかしな感触がする。
　それが胸の古傷からだと理解するのに、ひどく時間がかかってしまった。
「志貴、それ――――」
「変だな、痛くもないし傷も開いてないのに―――胸から血がにじんでる」
　なんて、赤い。
　綺麗で、濁りのない、目を奪う赤い水。
「……あー、さっきのヤツの爪がかすっていたとか？
　痛みはないんだし、血もこれしか滲んでこないみたいだし、気にする必要は―――」
　アルクェイドは呆然と俺の手を見ている。
　いや、正しくは。
　俺の手にべったりと付着した、赤い血を見つめている。
「…………アルクェイド？」
「――――――――」
　アルクェイドは答えない。
　ただ、その呼吸が乱れだしている。
　はあ、はあ、と痛みを堪えるように、乱れている。
「おい、アルクェイド……！
　どうした、やっぱり傷が痛んで―――」
　アルクェイドの肩を掴む。
　――――と。
　彼女は逃げるように、俺の手を振り払った。
「……アル……クェイド？」
「志―――――貴？」
　短く。敵意さえ含んだ声が、俺の名前を不確かに口にした。
「ちが―――わたし、そんなコト、思ってない」
　……？
　アルクェイドは気まずそうに視線を逸らす。
「どうしたんだよ、ヘンだぞおまえ。
　体、まだ回復してないんじゃないのか？」
「……そうね。ちょっと無理しすぎたみたい。
　だから、わたし帰るね」
「あ、ああ。……まあ、どうせ今夜はこれでおしまいだって言ってたけど……」
「……うん。また明日、ここで待ってる」
　止める間もなければ、追いつける筈もない。
　アルクェイドは俺の目も見ないまま、たん、と虚空に向かって跳んでいってしまった。
　それこそ、月面を跳ねる兎のように。
　坂を昇りきって、屋敷の正門にたどり着いた。
　時刻は午前２時をまわったあたり。
　流石に眠気が襲ってくる。
「あれ……しまった、正門が閉まってる」
　正門が閉められている。
　昨夜までは俺が出て行った後、戻ってくるまで開いていたのだが……。
「オートロックは切っておいたんだけどな……」
　施錠のシステムが変わったのかもしれない。
　何にせよ参った。
　よじ登って中に入れない事もないが、警報が鳴り響いてしまうだろうし、鍵を『殺して』開ける事は避けたい。
　明日、間違いなく家族会議になる。眼を使うのは最後の手段にしよう。
「この屋敷、裏門とかなかったっけ……」
「はあ……はあ、あ―――」
　壁に背中を預けて小休止する。
　屋敷の周辺を調べていたが、今日一日の疲労から、ついに眩暈を起こしてしまった。
　……貧血の前兆だ。呼吸も少し苦しい。
　すぐに横になりたいが、あいにく、状況は芳しくない。
　歩ける範囲で裏口らしきものは見当たらなかった。
　この高い壁はどこまでも続いている。今更になって遠野の敷地の広さを思い知った。
　国道を大きくまわりこんで、丘を登って、森の方から入るしかないのだろうか……携帯の地図でみるかぎり、森までの道行きは３キロほどありそうだ。
「……体力、保つといいんだけど……」
　それ以前に、暗い森をひとりで歩くのは避けたい。
　道はまだ電灯があるが、森に入れば完全な暗闇だ。
　<丑三|うしみ>つ時に歩く事を考えると、それだけで背筋が寒くなってくる。
「ん？」
　なんだろう。
　街灯と街灯の中間。明かりの届かない暗がりに、何かが立っているような―――
　――――――どくん。
　身体血流が倍速化する感覚。あるいは錯覚。
　ソレは、明らかに人間だった。
　ただよく見えないだけ。その輪郭が異質なだけ。
　段々と近づいてくる。
　かつ、かつ、かつ。
　乾いた足音が聞こえてくる。
　その、<唯一|ゆいいつ>剥き出しの眼球が、血走りながら俺を凝視する。
　――――どく、ん。
　<短刀|ナイフ>の刀身を解放する。
　眼鏡のつるに手をかける。
　背筋には<百足|ムカデ>が這う悪寒がある。
　人影が、あと一歩で絶望的な距離に入る。
　途端―――ぱちん、と音をたてて、街灯の光が消えた。
　月も雲に隠れている。
　世界は、唐突に闇になった。
「！」
　――――どく、ん………！
　死を告げるように、心臓がはねあがる。
　眩暈が泥のように足首にまとわりつく。
　後ろに跳ぼう、とした思考に、肉体が着いてくるのが遅すぎた。
　闇に走る刃物。
　ざくり、と心臓の上あたりで、肉を裂く音がした。
「あ―――え？」
　―――よく、わからない。
　ただ、自分の胸に、ナイフがふかぶかと突き刺さっている、という事ぐらいしか。
　雲の隙間から一瞬だけ月が覗いて、人影の姿が顕になった。
　黒い靄に塗りつぶされた、不気味な人影。
　ああ―――どこか懐かしい。
　それが、俺の見た最後の光景だった。
　住宅街からの坂道を昇りきって、屋敷の外周にたどり着いた。
　時刻は午前２時をまわったあたり。
　流石に眠気が襲ってくる。
「……あいつ、あんなんで大丈夫なのかな」
　別れ際のアルクェイドの様子が気にかかる。
　あれは傷が痛むとか疲れているとか、そういったものではない気がするけど―――
「ん？」
　なんだろう。
　街灯と街灯の中間。明かりの届かない暗がりに、何かが立っているような―――
　――――――どくん。
　はじめにあったものは恐怖だった。
　心臓が停止するほどの非現実感。
　だがあいにく、この<肝|むね>には既にソレらへの耐性があり。
　再開した鼓動は<密|ひそ>やかに、右手に<短刀|ナイフ>を忍ばせる。
　――――――どくん。
　身体の血流が倍速化する感覚。あるいは錯覚。
　ソレは、明らかに人間だった。
　ただよく見えないだけ。その輪郭が異質なだけ。
　段々と近づいてくる。
　かつ、かつ、かつ。
　乾いた足音が聞こえてくる。
　その、<唯一|ゆいいつ>剥き出しの眼球が、血走りながら俺を凝視する。
　――――どく、ん。
　<短刀|ナイフ>の刀身を解放する。
　眼鏡のつるに手をかける。
　背筋には<百足|ムカデ>の如き悪寒がある。
　人影が、あと一歩で、絶望的な距離に入る。
　途端―――ぱちん、と音をたてて、街灯の光が消えた。
　月は確かに出ているというのに。
　世界は、唐突に闇になった。
　ドクン。
　死を告げるように、心臓が跳ねあがる。
　左手上腕部の線に迫る刃鉄。
　<意識|りせい>が追いつくのは、もうしばらく後の話だ。
　闇に走る刃物が伸びきる前に、その切っ先を下から弾きあげ、逸らして<凌|しの>ぐ。
「―――ク」
　影の口元が歪む。それが笑いである事は認識できる。
　だが、まずは―――
　この凶器を、片っ端から迎撃する……！
「っ……！」
　驚きはある。しかし思考は冷静だ。この人影を視た瞬間から一秒だって進んでいない。停止した思考。凍り付いた時間。自分が襲われているという事実さえ、今は驚きに値しない。
　二つの凶器が闇の中で火花を散らす。
　不自然な闇は互いの姿さえ隠している。
　その中において、なお、
　明瞭に輝く<生命|いのち>の<接続|つなぎ>。
　繰り出されるナイフを、予測通りに切り流す。
　―――驚くべきは。
　この闇の中で、休む間もなく振るわれる凶器を、的確に止めている自分自身の体だった。
　相手の<挙|ふ><動|り>が読みやすいのか。
　それもある。いや違う。
　単に裸眼で視えている線と点を、この腕が追っているだけ。
　見えるものはそれだけだから、それに対して最速で短刀を振るっているだけだ。
　あたま。
　あたまがいたい。
　白熱する思考。
　じくりと<傷|いた>む胸。
　頭がいたい。胸の古傷が熱い。
　目が、眼孔からこぼれそうだ。
　だが覚えがある。
　昔、確かに、こんな事があったような。
　あれは、そう。
　血にまみれた子供の亡骸と、
　血にまみれた秋葉の泣き顔と、
　血にまみれた、俺の両手―――
　<金属|ナイフ>が<金属|ナイフ>を咬む衝撃。
　理性を超越した本能が刃を弾く。
　危ない。いま、一瞬意識が消えていた。
　だがもうヘマはしない。
　何故なら狙われている個所が判る。判る以上、理性より先に本能がこれを切り流す。
　判る理由は単純だ。
　コイツの狙っている個所は俺の体の“線”だった。
　故に、どこを狙っているかを読むまでもない。
　この姿勢、この間合いで狙うに最も適した“線”を、俺は防ぎに回ればいいだけ。
　その事実を戦略として意識した時、俺はようやく、
「おまえ―――視えて、いるのか？」
　この“何か”が、俺と同じものを視ていると理解した。
　――――ク。
　闇の中で影が笑う。
　ぎょろりと血走ったその瞳が“ようやく気が付いたのか”と嘲笑している。
「―――、は」
　一際高く、心臓が血を送る。
　言いようのない高揚／恐怖を感じて、口元がつり上がる。
　そうか。では互角か。切られれば俺も即死するのか。
「―――は、は」
　どうでもいい。何を今更。俺はどこを切られても死に至る。その程度で引ける腰なら今ここに生きてはいない。あの寒波を思い出せ。ヴローヴは素晴らしかった。コイツはあの吸血鬼に比べるべくもない。そうだ。たとえ貴様がアルクェイドの目的であろうと。
　この条件なら間違いなく、俺の方が優れている―――！
　攻めている。
　攻めている。
　<攻|・><め|・><て|・><い|・><る|・>のは俺の方だ。
　それにコイツが全力で応えている。つまり。これは俺が防いでいるのではなく、この男が防いでいるということ。
　――――勝てる。
　ドコの誰だか知らないが、間違いない。
　今は自分が圧している。
　鳥肌が立つ。圧倒的な有利に高揚している。
　勝てる。俺は、こいつより強い。
　こいつより強いから。
　殺されかけたら、殺し返すだけの話。
　敵の凶器を弾き、飛ばす。
　一歩踏み込む。無防備な胸の“線”を断つべく、牙のように短刀を突き立てる。
　ああ、でも<自然|ふしぎ>だ。
　俺はこの状況で、なぜ、凶器を振るう手に<淀|よど>みというものがないのだろう―――？
「え―――？」
　街灯の明かりが戻るのに合わせて、白熱していた思考が正常なものに切り替わった。
　目の前には誰もいない。
　先ほどまで殺し合っていた人影は、
　細長いモノに腹を刺され、屋敷の塀にまで飛ばされていた。
　―――事態が、まったく掴めない。
　俺を襲ってきた人影……あれは男か……は、横合いから飛んできたパイプのようなものに体を貫かれていた。
　その衝撃で塀まで飛ばされたのだろう。
　人間であれば致命傷。
　だがどう見ても、あの男は人間ではありえまい。
「“―――ジャマ、ヲ”」
　しわがれた声。
　男は腹を串刺しにされ、あえぎながら虚空を睨む。
　俺は距離をとったまま男の視線を追う。
　そこに、
　見覚えのある人影が、街灯の上に立っていた。
「ノエル……先生？」
　外国の神父のような服装。
　右手に<携|たずさ>えた細い剣と、
　左に握った、あまりにも場違いすぎる巨大な槍。
　……あのカタチは知っている。
　いや、以前視界に入った事を、脳の一部が覚えている。
　ヴローヴとの戦いのおり、あの剣が遠野志貴を氷塊から救った事を、意識していなくとも事実として認識している。
「――――――」
　視線が合う。
　街灯の上に立った女は、にこりと俺に笑いかけ、次の瞬間、
　手に持った細い剣を、黒い影へと放っていた。
「“聖堂よ、あれ”」
　言葉と共に光が立ち上った。
　ごうん、と風を薙ぐ音。
　彼女は巨大な槍を構え直し、
　街灯の上から、男めがけて飛び降りていた。
「“アアアアアアアアアァアア！”」
　断ち切られた男が叫ぶ。
　まとわりついていた影のようなものが、ノエルの大槍になぎ払われる。
　駐車場にいた異形の死者のように、影もろとも姿が溶けていく。
　その中においても、男は俺を凝視していた。
　血走った、殺意だけしかない瞳。
　遠野志貴だけを呪っているような、凶器みたいな黒い瞳。
「―――――」
　呆然とするしかない。
　男はなぎ払われた影と共に、その姿を亡くしていった。
　……何の痕跡もなく、この世から消滅したのだ。
　虫の声と風の音。まっとうな夜の音が戻ってくる。
　あんなに禍禍しい叫び声があがったというのに、周囲は何事もなかったかのように夜の闇に沈んでいる。
　……そして、俺の前には明らかに異質な人間が立っている。
「こんばんは。この国の夜は安全だと聞いていたけど、このあたりは物騒なのね。ちょっと散歩していたら、吸血鬼みたいな化け物が、可愛い教え子に襲いかかっているんだもの。
　それとも―――貴方の周りが特別なのかしら、遠野志貴クン？」
　振り返る修道服の女。
　彼女はあふれ出る憎悪、明確な殺意を隠しもせずに、俺に微笑みかける。
　……間違いない。
　あれは学校に赴任してきた、ノエルという名前の何者かだ。
「ノエル先生……で、いいんですか？」
「ふふ。そうねぇ。先生って響きは悪くないけど、ここは学校の外なんだし？　先生は外したほうが何かと気が楽よね、お互いに」
　カツ、と硬い音が響いた。
　ノエルが足を進ませる。
　笑顔のまま、あの凶悪な槍を握ったまま、こちらに近づいてくる。
　俺は―――
「はっ、無駄だっての―――！」
「っ―――！」
　身構えた瞬間、ノエルは地面を蹴っていた。
　得物の間合いが違いすぎる。
　俺が反応するより早く、槍の柄に横殴りにされる。
「ご、ぶっ……！」
　凄まじい衝撃に目が眩む。
　体が１メートル近く吹き飛ばされる感覚。
　痛みをこらえて受け身をとる。
　アスファルトに背中から転がり、なんとか衝撃を受け止めるも、目の前にはもうノエルの姿、が、
「ダメよ志貴クン？　敵を前にしてあからさまに身構えるとか、もう甘すぎてニヤけちゃう。
　私、臆病だからつい本気で打ちこんじゃったけど、まだ生きてる？」
「っ……、は」
　腕をたてて体を起こそうとして、
「げはっ……!?」
　ノエルの重いブーツが、俺の胸を踏みつけた。
「はーい、おとなしくしていてねー。義理もなければ恋人同士でもないんだし？　下手に暴れるとその首、ボキッと潰しちゃうぞ♡」
「っ―――」
　倒れたままノエルを睨み付ける。
　状況はまったく掴めない。
　それでも、この女が持つ殺気は本物で、俺を殺したがっている事だけは明白だった。
「くそ、アンタも吸血鬼だったのか！」
「―――なんですって？
　いま、吸血鬼だって言った？　私が、あんな怪物と一緒だって言ったワケ？」
「っっ……！」
　胸にかかる圧力が増す。
　今の反応……吸血鬼扱いされた事を本気で怒っている……？
「……ふん。首筋に<唇痕|しんこん>なし。靴に染みこませた聖水にも拒絶反応なし。ついでに言うと、私好みのファニーフェイスにも変貌なし、か。
　はい、異端審査終了ー。立っていいわよ、遠野志貴クン？」
　胸に置かれた足が離れていく。
　俺は自由になって、息を整えながら立ち上がった。
　……ちなみに身体はメチャクチャ痛いものの、軽い内出血で収まっている。
「はいこれ、眼鏡。落とし物には気をつけなさい？」
「……そうですか。そっちの横やりで落としたものですけど」
　ノエルから眼鏡を受け取って、かけ直す。
　……さて。
　どういう状況なんだ、これ？
「とまあ、美少年がひとりで出歩くと、こんなふうに危険がいっぱいなワケ。忠告がてら脅かしちゃったけど、勢い食べちゃうところだったわ」
　うふふ、しっぱいしっぱい、と照れ笑いなどしている。
「………………」
　こっちは茫然とするしかない。
「あれ？　なにそのノーリアクション？
　私たちのこと、あの吸血鬼に聞いてないの？」
「……………」
「聞いてないのね。……あっそう、私みたいな雑魚は眼中にないってワケ。ま、いいけど、私も話題になんかされたくないし」
「いいわ。パパッとレクチャーしてあげる。
　簡単に言うと、私は街を守る正義のお姉さん？　みたいな？
　あのクソ吸血鬼どもから人間社会を守る、影の組織とか格好よくない？」
　どこまで本気なのか、クスクスと笑いながらノエルは語る。
　彼女の説明はともかく、その事柄には思い当たる節があった。
「……教会の代行者……ってヤツですか？」
「ええ、その代行者。
　志貴クンは無神論者でしょ？　だから実感は湧かないだろうけど、私たち教会は主の御名のもと、人の善き営みを守る意思がある。たとえそれが、こんな末法の国でもね」
「ある日とつぜん転任してきた魅惑の美人教師は、その実、教会から派遣された正義のエクソシストだったってコト♡」
　エクソシスト……たしか悪魔祓い、という意味だったか。
　吸血鬼が悪魔なのかはさておき、この人の言葉に、今のところ嘘はないと思う。
「……わかりました。いきなりの事で信じられませんけど、信じます。どうあれ、これで二度目ですし。
　危ないところを助けてくれて、ありがとうございます」
「二度目……？　あー……そういうコト。
　でもま、今回は違うわ。たまたま危ないところに出くわしたんじゃなくて、私、最初からキミを狙っていたんだし」
「最初から、俺を狙っていた……？」
「そ。キミが屋敷を出た時からずっと尾行していたの。
　私のお仕事は吸血鬼の殲滅だもの。その吸血鬼に従っている人間がいれば、監視するのが当たり前でしょ？」
「――――――」
　彼女の言い分は、確かに当然の帰結だ。
　でも前提が間違えている。
　俺はアルクェイドに従っている訳じゃないし、そもそもあいつは善い吸血鬼だ。彼女と同じように、街を守るために吸血鬼を追っているのに―――
「あの、それは」
「ま、本当なら真っ先に吸血鬼の方から殺してるんだけど、相手はあの怪物でしょ？　私ひとりじゃ返り討ちだし、師匠は上司に飛ばされちゃったし。
　仕方なく、小さい方の獲物に網を張ってたワケ」
「……む。小さい獲物ってのは俺のコトですか？」
「ええ。あの怪物が狂犬なら、志貴クンはぷりっとしたエビちゃんね。吸血鬼にしろ私たちにしろ、美味しい獲物なのは間違いなし♡
　―――でも、なーんか様子がヘンだった。
　ここ数日キミを監視していたけど、むりやり従わされてる雰囲気じゃないし、血も吸われてないでしょう？　ねえ志貴クン？　あなた、なんであんな怪物と一緒にいるの？」
「――――――」
　眉をひそめて、言葉を呑み込んだ。
　それはノエルの質問に気圧されてのものではなく、そんな質問をされること自体が、ひどく癪に障ったのだ。
「おやだんまり。キミは吸血鬼の仲間になりたいのかな？
　定番だけど、永遠の命が欲しいとか？」
「――――――は？」
　永遠の命、と言われて目が点になる。
　その発想は無かったというか……そうか、むしろそう考える方が自然なのか。
「……いや、でも」
　アルクェイドにかぎってそれはない。
　そもそもあいつは血を吸わないんだ。血を吸って仲間を作るとか、人間以上の力を与えるとか、その手の勧誘は成立しない。
「違うの？　なら、どうして？」
「……そんなの決まってる。自分たちが住んでいる街のために、吸血鬼を狩りだす協力をしているだけです」
　今度は身構えず、視線だけで彼女と対峙する。
　……この人と争う気はない。
　それでも、俺とアルクェイドのコトをとやかく言われる気もない、と訴える。
「…………そ。キミが噛まれていたなら、そんな戯言と一緒に手足ブッた斬って置物にしてるところだけど。
　残念ながら、ただの人間には手出しできないものね。うん、いまのは聞かなかった事にしておくわ」
　背を向けて歩き出すノエル。
　納得いかないといった態度だが、敵意は薄めてくれたようだ。……いや、それとも。単に、今の答えで興味を無くしただけかもしれない。
「ああ、でも忠告。さっき、最初からキミを狙っていたと言ったけどね。あれ、もっと深い意味なの。
　この街に巣くった死徒は数年以上前から根付いているわ。
　私の師匠の言うコトには、真祖のように昨日今日やってきたワケじゃないんだとか」
「吸血鬼は外から来るものばかりじゃない。
　あんがい身近なところにいて、何十年も前から潜伏しているケースのが多いの。それも<街|・><で|・><い|・><ち|・><ば|・><ん|・><力|・><の|・><あ|・><る|・>、<権|・><力|・><者|・><の|・><家|・>にとかね」
「わかる？　自分たちの街を守る、とか言っていたけど。
　そんな曖昧なくくりじゃなくて、キミは自分の身を守った方がいいってコト」
「―――それは、どういう」
「だってそうでしょう？
　さっきの不死はキミを狙ってきたんですもの。吸血鬼を殺してまわる真祖じゃなくて、ただの人間であるキミをね」
「――――――」
「ふふ。命があったらまた会いましょう、<遠|・><野|・>志貴クン」
　そうして、修道服の女は歩み去って行った。
　彼女は去り際、街灯の上に視線を投げて、
“よし、格好よく跳んで帰ろう。あ、でも無理。
　あの高さを助走なしで跳ぶとか無理ですぅー、できたら人間じゃないですぅー”
　なんて気配をアリアリと見せて、大きな槍を携えたまま坂道を下っていった。
「……あれはあれで、すごい人っぽいような……」
　毒気を抜かれて呟く。
　それがいけなかったのか、膝から力を失って、がくん、と塀にもたれかかった。
「でも……狙われたのは、俺だって……？」
　アルクェイドに協力している以上、いずれはその危険性もあるだろう。
　でも、それは違う。
　<理|・><由|・>は分からないが、その<理|・><由|・>は違う気がする。
「っ―――――」
　緊張から解放されて、目眩がぶり返してきた。
　塀にもたれながら、正門に向けて歩き始める。
　……胸が痛い。
　まだ意識があるうちに、足から体が崩れ落ちる前に、なんとか部屋に戻ろう。
　……難しい事はその後に考えればいい。
　……けど、思いの外、正門は遠かった。
　頭痛が薄れていく心地よさと、
　全身が弛緩していくおぞましさ。
　俺は塀に背中を預けたまま、うっすらと眠りに落ちていく自分自身を見つめていた―――
　敵として相対する。
　身構えず、今の姿勢でノエルを出迎える。
　なにしろ得物のリーチが違う。
　こちらが身構えた瞬間、ノエルは嬉々として槍を振るってくるだろう。
「あれ、逃げもしないし構えもしないの？
　そっか、怖くて動けないんだ♥
　うんうん、やっぱり文系の美少年はそうでなくっちゃ！
　吸血鬼と毎夜あんなコトしてるクセに、かーわいー☆」
　二歩。三歩。四歩。
―――あと一歩。
　こちらの武器は武器の短さと、無力である事。
　俺に余裕はなく。
　女には余裕があり、
「やっぱり―――無抵抗な人間しか、相手にしてこなかったのかしら、ねっ！」
　このように。
　右腕ごと俺の脇腹をなぎ払う攻撃を、容易に想像できた事だ。
　頭のすぐ上を通過する鉄の塊。
「ふぇ、転んじゃったの―――！？」
　前のめりに地面に倒れ込んで、地上80センチのなぎ払いを躱す。
　体ごと地面に向かって倒れ、地に触れる前に体勢を立て直し、女の目の前に体を運ぶ。
「ちょっ、うそ―――」
　女の腰に左手を回す。社交ダンスのように密着する。
　ナイフを握った右手は、女の首の後ろに回っている。
　このまま一息で殺す。
　ただ、その前に。
　この女は“誰の敵”なのか、考えるべきではないかと雑念が入ってしまった。
「こ、のぉ……舐めんな！」
　女は槍を手放すと、首の後ろに回されていた俺の右手を掴み、同時に俺の足を払っていた。
　柔道でいうところの大外刈りだ。
「ぐ、ぁ……！」
　背中から地面に叩きつけられる。
　先ほどの転倒もどきとは訳が違う。
　地面に倒れるだけでも、確かな腕力で地面に<落|・><と|・><さ|・><れ|・><る|・>と人体は容易に破壊される。
「あっぶな……でも今の切り返しはナイスよね！
　アイツの真似だけどめっちゃイケてた！」
　自分を鼓舞しながら槍を拾うノエル。
　そのまま、コホン、とわざとらしく咳払いをすると、背中から地面に倒された俺の胸を、そのブーツで踏みつけた。
「っ……」
「ま、まあ、まぐれにしちゃあ中々だったわ。
　逃げようとして転んじゃったのはカッコ悪かったけどね」
　ふふん、と勝ち誇った笑みを浮かべて、ブーツに力を込めるノエル。
　いまいち締まらないが、俺に対する敵意、殺意は本物のようだ。
「……もしかして。アンタも吸血鬼だったのか」
　念のために確認しておく。
「踏み潰される５秒前なのに余裕じゃない。
　今の質問もぜんぜん本気じゃないし。
　なに、コドモのくせにカマかけてきたワケ？　そういうところはナマイキで、先生、キライだな！」
「った……！」
　大げさな動作で踏み込まれたが、派手なだけで胸にかかる圧力は強くはなかった。
　今の反応……やっぱり、この女は人間だ。吸血鬼扱いされた事を嫌悪している。
　それはそれとして、都合よく先生に戻るのはいかがなものか。
　―――白。
　　　　白い色は、なつかしい記憶を呼び起こす。
　　　　忘れていたもの。
　　　　忘れなくてはいけなかったもの。
　　　　父に、忘れろと命じられたもの。
　夏の、暑い日。
　青い空と　大きな大きな入道雲。
　じりじりゆらぐ風景と
　気が遠くなるような蝉の声。
　蝉の声。
　みーん　みんみん
　みーん　みんみん
　みーん　みんみん
　うるさくて死にたくなる。
　広場には蝉のぬけがら。
　たいようはすぐそばにあるようで、
　広場はじりじりと焦げていく。
　真夏のあつい日。
　まるで、セカイがフライパンになったみたい。
　えーん　えんえん
　えーん　えんえん
　えーん　えんえ
ん
　秋葉が泣いている。
　おとなしくて、いつもボクの後についてきた秋葉が、
　ぽろぽろと泣いている。
　広場には子供がひとり倒れている。
　白いシャツが真っ赤に染まって、ぴくりとも動かない。
　ボクは、それを見下ろしている。
　両手は倒れている子供と同じように赤い。
　いや、違う。
　この両手は、倒れている<子供|イキモノ>の血で赤いのだ。
「■■―――――！」
　おとなたちがやってくる。
　この惨状に気がついて、血相を変えてやってくる。
「なんて事だ―――――」
　おとなたちは秋葉を連れていく。
　倒れた<子|モ><供|ノ>は死んだまま。
　遠くのそらには、白い白い入道雲。
　ボクはひとり残されて、ぼんやりと夏の空を見上げている。
「おまえが殺したのか――――」
　おとなたちは叫んでいる。
　子供をころしたボクの名前を叫んでいる。
　たった二文字の言葉を、気がちがったように叫んでいる。
　たった二文字。
　おとなたちはそろって、両手を真っ赤に染めたボクを、シキと呼んでおさえつけた。
　それが、今でもわからない。
　殺せるモノを殺して、
　生きてるモノを殺して、
　いったい、何が悪かったというんだろう―――？
　<塞|ふさ>がれた目蓋を開ける。
　よく意味の分からない、懐かしいユメを見ていた気がする。
「……………」
　自分の部屋にいる。
　あの後―――正門あたりで記憶は途切れているが、どうにかしてこの部屋まで戻ってきたようだ。
　まだあたまが働いてくれない。
　昨夜の出来事がぐちゃぐちゃになって思い出される。
　何もかもあり得ない事ばかりで整理できないが、特に思い返すとしたら、それは、
　やっぱりあいつの事だ。
　昼間の学校強襲から始まって、夜の巡回まで、あいかわらずさんざん振り回された。
　はては死者たちが棲息しているマンションに乗り込み、あの大立ち回りを見せつけられた。
　……七日前の自分からは想像もできない状況だ。
　日に日に要求はエスカレートしていくし、このあたりで“少しはお<淑|しと>やかにしろ”と釘を刺したい気分である。
　……まあ、しかし。
　俺が怪我をしないよう、あいつなりに気遣ってくれるのは助かるし、こっちも退屈はしなかった。
　なので文句も不満も浮かんでこない。
　気になるのはあの反応だけだ。
　傷が治りきっていないのに暴れた反動だろう。今夜あたり、ちゃんと完治しているか確かめてやる。
　……あの影の男の事だ。
　こうして思い返すと、あいつは俺を待ち受けていた。
　俺の帰り道を知っていたのだ。
　あの黒い影は人間のものではない。
　となると吸血鬼と考えるのが妥当だろう。
　アルクェイドの敵は、まずアルクェイドを狙うのではなく、彼女に協力する俺に狙いを定めてきたのだろうか……？
　……だが、それも終わった事だ。
　あの憎悪に<歪|ゆが>んだ眼。
　俺と同じように“線”が視えていたあの吸血鬼は、修道服の女によって消滅したのだから。
　ノエル先生……いや、ノエルの事だ。
　冷静に考えたら、アレはない。
　不自然に転任してきた担任……自称：美人教師……が、実は吸血鬼から街を守る修道服のお姉さんだった、とか、唐突にも程がある。
　アルクェイドだって度肝を抜く登場をしやがったが、ノエル先生の場合は脈絡がなさ過ぎる。
　昨夜の出来事はすべて夢だった、と言われたら、よろこんでその嘘にのっかる程だ。
　―――しかし。
　そうは言っても、あれは夢ではなかった。
　あの女性はアルクェイドと同じ世界の人間だ。
　吸血鬼を倒す側の人間。
　街を守る側の人間。
　……けれど、あの口ぶりでは俺たちとは根本が違う人間。
　おそらく、彼女にとって“吸血鬼”はすべて排除する対象なのだろう。それはアルクェイドも―――ともすれば、アルクェイドに協力する俺も例外ではない。
「……とにかく、まず起きないと」
　まだ他にも考えるべき事はあるが、今は体を起こさなければ。
　時刻は７時半。
　いつもならとっくに朝食を済ましている時間だ。
「翡翠は……いないな」
　いつも影のように控えていてくれた翡翠の姿はない。
　おそらく朝から何度も起こしに来てくれた筈だ。
　けど俺が目覚めないものだから、その度に退室し、今は他の仕事をこなしていると思われる。
「疲れが溜まってて、目が覚めなかったんだろうなあ……」
　深く息を吐く。
　今夜は事前に仮眠をとってからアルクェイドと落ち合おう。
　昨夜の異常な出来事について今は考えない。
　夜を待ってアルクェイドに相談すればいい。
　昼間ぐらいは自分の日常に戻らないと、俺もどうにかしてしまう。
「よし。まずは朝食だ」
　食欲はないものの、栄養を摂らないと始まらない。
　昨夜の疲れを取るためにもしっかり朝食を食べて……
「あ―――れ？」
　ベッドから起き上がろうとした体が、無造作に倒れこむ。
　きこりに倒される木みたいだ。
　肩口からフローリングの床に倒れる。
「――――――」
　手足に力が入らず、起き上がる事もできない。
　幸い、意識は朦朧として、恐怖もない。
　体は痺れているものの、呼吸だけは平常で、ああ、また貧血か、なんて他人事のように観察する。
　そうして。
　俺は床に倒れたまま、翡翠がもう一度<訪|おとず>れる８時過ぎまで、ぼんやりと時計の針を見上げていた。
「……申し訳ありません。どうかお叱りください。
　志貴さまの変調に気がつかなかった私の落ち度です」
「翡翠は悪くないよ。いつもの事だし、そう大げさにとらない、とらない」
　ベッドに横になり、上半身を背もたれに預けた状態で翡翠に声をかける。
　あの後、部屋の様子を見に来た翡翠に助けられて、今はベッドで落ち着けている。
「学校の方には姉さんが連絡を入れてくれました。
　……体調不良による欠席でよろしいのですね？」
「うん、それで頼む。ちょっと疲れが溜まっていただけだから、学校を休むのは後ろめたいけどね」
「―――立てなくなるほどの疲れは、もう疲れとは言えないかと存じます。志貴さまは遠野家の長男。ご自分のお体を、もっと大切にしていただかなければ困ります」
「いや、ちゃんと大切にしてるよ」
　翡翠に叱られ、苦笑いしながら返答する。
　俺を見つけてからの翡翠の慌てぶりはすごかった。
　まず、扉をあけて凍り付くこと数秒。
　俺を抱き上げようと駆け寄ってくるも、懸命な顔のまま固まること約１分。
　あわてて部屋中を歩き回り、琥珀さんを呼びに行くまでさらに数分。
　結局、翡翠は俺の体に触れる事はなかったが、その献身ぶりははっきりと伝わってきた。
　その後は琥珀さんの手をかりてベッドに戻り、病人食としてお粥をご馳走になり、今に至る。
　秋葉は既に登校していたのが不幸中の幸いだ。
　もし俺が倒れるのが30分早かったら、秋葉も学校に遅刻していたかもしれない。
「とにかく、ありがとう翡翠。
　おいしいごはんも食べたし、こうしていれば貧血も治まるから、仕事に戻っていいよ」
「かしこまりました。
　ですが、せめて診察は受けていただきます。
　今朝は阿良句先生がいらっしゃいますので、これを機にしっかりお体を診ていただくのはいかがでしょうか？」
　なんと。あの奇妙な先生も来ているのか。
　……本当のところ診察は不要なんだが、うんと言わない事には翡翠は行ってくれそうにない。
　ここは―――
　……そうだな。
　琥珀さんは使用人の職務で忙しいだろうし、ここは阿良句博士にお願いしよう。
　いまいち安心できない人ではあるが、あれでも専門家だ。
　外科専門なので外傷も診てもらえる。
　昨夜、ノエル先生とのいざこざでどこか内出血しているかもしれないし、念のため診察してもらうのもいい。
「ご指名と聞いてやってきたけどぉ。
　お客さん、悪いところは見当たらないわよぅ？　腕の一本、目玉の一つでもイッちゃってるかと期待して飛んできたのに、これじゃアタシ欲求不満よぅ？　あ、性的な意味もあるけど、おもに知識欲の話ねぇ？」
「……………」
　このように。阿良句博士は不満げに愚痴りながらも、しっかり診察をこなしてくれた。
　心音、脈拍を測ってもらった後、ヴローヴとの一件で不安のあった両脚の経過も診てもらう。
　結果はすべて正常値、問題なし。
　阿良句博士が“アタシったら無駄骨チャーン！”と唇をとがらせるのもやむなしだ。
「ま、体温は少しだけ下がってるしぃ、よし、つまんないから一本ぐらいお注射キメておきまショウ！
　んー、今回は試しにプラセンタいってみるぅ？
　もともと女性向けの栄養剤だけど、お勧めよコレ？」
　プラセンタ……女性の胎盤のエキスだ。
　肌をよくする美容効果が主とされるが、実際は疲労回復の促進剤でもあり、老化を抑える効果もあるという。
「お願いします。以前お世話になっていた医院でも、たまに打ってもらっていましたから」
「あらあら。話が早くて助かるわぁ。さっすが病弱少年、痛いのは慣れているのねぇ？」
「慣れてませんよ。基本は内服薬でしたし。注射はたまにしかありませんでした」
「ふむふむ。はーい、じゃあもう一度おててをだしてー。
　はーい、ザッキューン♡　
患部ごと患者のハートをイチコロよぉ♡」
　……針を刺す擬音としては最悪なものを聞いた気がする。
　注射も済み、診察は終わった。
　しかし。
　後は退室するだけの阿良句博士は、じーっと俺の体を見つめたまま、一向に動こうとしない。
「は、博士？　なにかまだ、他に用件？」
「そうなの。診察中にチラッと見えちゃったから気になって。
　志貴チャン、ガバッと洋服、脱いでくれる？」
「は……はぁ!?　ぬ、ぬぐって、裸ですか!?」
「そそそ。あ、マッパになる必要はないわよぅ。アタシもまだ当主チャンに殺されたくないしぃ。
　見たいのは志貴チャンの上半しーん！　うふふ……ソチラ、胸にすっごい傷跡があるんじゃなーい？」
「―――そっちですか。……まあ、いいですけど」
　気は進まないが、阿良句博士が医師である以上、断る理由もなかった。
　シャツを脱いでベッドに腰をかける。
「キャーーー！　いいじゃないいいじゃない、メープルでジューシーな感じ！　いい腕してるって思ったけど、こうして全体としてみるとソソるわぁ！　冬ごもって穴蔵ライフになっても志貴チャンひとりいれば食うに困らないわ、アタシ！」
　心底嬉しそうに、ペタペタと肩やら上腕やら脇腹などをまさぐる阿良句博士。
　開放的な服装もあいまって、正直、性欲を持て余す。
「……あの。胸の傷跡を診るんじゃないんですか？」
「おっとそうだった、失敗失敗。
　……ふーん。ほーう。なるほどぅ……なんか使ったにせよ、完全に塞がってるわー。貧弱なのに代謝機能は人並みというか、生き残りやすいというかぁ。あーあー、すっっっごく残念。志貴チャン、何も引くものがないんだもの。これじゃあアタシも足しようがないって感じぃ？」
　２分ほど観察して満足したのか、阿良句博士はベッドから離れた。
「でも、すっごい傷よねぇ。フツーの人間どころか、映画に出てくる吸血鬼だって死んでるわよぅソレ。
　事故にあった時はどのくらい痛かったのかしらぁ？
　アタシ、想像するだけでドキドキしちゃう♡」
「そ、そうですか。なんでもガラス片が降ってきて、突き刺さったらしいです」
　吸血鬼、なんて単語が出てきたので、つい慌てて、言わなくてもいい説明をしてしまう。
「あっれー、覚えてないの？　覚えてないのねぇ。
　なら、それはまた別の話としましょう。志貴チャンはここに帰ってきちゃったんだもの。どう足掻いても、もう逃げられっこないんだしぃ？」
　―――待て。
　いま、この女、妙な事を言わなかったか？
「なぁーんて、なんでもナイなんにもナイ！
　それじゃあアタシはこれにて退場。またいつか、ラブなタイミングがあった時に会えるといいわねぇ？」
　ヒールの音をたてて阿良句博士は去って行った。
　……なんだろう。
　何の根拠もないが、その後ろ姿は<獲物|えもの>に向かって<滑|すべ>る蜘蛛を連想させた。
　やっぱり琥珀さんでいい。
　疲労からの貧血だろうし、栄養剤だけでなく、眼精疲労や眩暈止めに効く薬を処方してもらおう。
　ただ、体の方を診てもらうのはよろしくない。
　昨夜のノエル先生とのいざこざであちこち擦り剥いているし、万が一、内出血でも起こしていたら大事だ。
　“志貴さんの野蛮人、どこでこんな怪我をしたんですか？”
　と、本気で叱られかねない。
「もう、志貴さんの一般兵！
　どこでこんなお怪我をこしらえてきたんです、お背中、どんより赤いじゃないですかぁ！」
「はい、すみません。反省してます」
　案の定、１分でシャツを脱がされて怒られた。
　ところで、琥珀さんの中で『一般兵』がどんなイメージなのか、興味はつきない。
「帰ってくる時、通学路の坂道で転んじゃって。
　どーん、と五体投地みたいに」
「まあ、それはお気の毒に……。
　湿布を用意しますので、しばらくそのままでお待ちください。あ、体温計で熱を測っておいていただけると助かります」
　持参した救急箱を手に持ったまま、琥珀さんはベッド脇から立ち上がった。
　救急箱ぐらい置きっぱなしでもいいのに几帳面だなぁ、などと思いながら、ぼんやりとその背中を見送る。
「―――って、ぼんやりしすぎだろ。
　琥珀さん、救急箱置いていっていいですよ。またすぐ戻ってくるんだし」
「いえ、こちらはお気持ちを鎮める<薬|もの>ばかりなので、打ち身専用のものと持ち替えて参ります。
　それに、ほら。志貴さんのお部屋は片付いているので、使用人の私物で散らかしてしまうのは申し訳なくて」
「そっか。でも、俺の部屋のコトは気にしなくていいですよ。べつに綺麗好きってワケじゃないし」
「そうなんですか？　志貴さんのお部屋、とてもさっぱりしていらっしゃいますが」
「単に持ち物が少ないだけです。まあ、たまたまそうなってるだけですけど」
「そういえば有間のお家から届いたお荷物もお着替えだけでした。志貴さんの私物は他にないんですか？」
「うん、鞄に入れてきたものだけで十分。
　大事なものは、ここに来る時に全部持ってきた」
　屋敷に戻ってきた一日目、学生鞄に入れた私物を机の引き出しに仕舞い込んだ。
　もしこの屋敷から追い出される時がきたら、引き出しにあるものだけ詰めて出て行けばいいので気が楽だ。
「……ごめんなさい、わたしったら……
　有間の家に預けられる時、私物を槙久様に取り上げられたのですね……？」
「え？　いや、昔からそうだったんだ。欲しいものとかなかったから、オヤジにもねだらなかったし。
　ああ―――ただ、事故の前後の事はよく覚えていないから、その頃はどうだろう」
　病室でひとりでいた頃を思い出す。
　見舞いは誰も現れず、死の線が視える事に怯え、病室から駆けだした。
　そのおかげで先生に出会えたんだから、結果的にはこれ以上ないほどの幸運と言える。
「そういえば……病室から一度だけここに立ち寄った時の事も、ちょっとうろ覚えだな。
　<槙久|オヤジ>の書斎に呼ばれた事だけは印象に残っているんだけど」
　その時、おまえは遠野家の長男に相応しくない、と絶縁状を突きつけられたんだっけ。
「きっと、長い病院生活でお疲れだったのかと存じます。
　療養中は退屈ですし、一日の感覚も曖昧になっていたのでは？」
「そう思う。結局、半年近く入院していたんだって。
　体感的には一ヶ月ちょいだったんだけどなぁ」
「ふふ。それは良い事ですよ、志貴さん。
　病院とはいえ、個室に半年は中々にお辛い経験かと。
　ただでさえ遊びたいざかりの年頃だったのですから」
　琥珀さんの言う通りだ。
　病院での生活を短く感じられたという事は、まわりの人たちからよくしてもらえた、という事だ。
　当時、遠野志貴の命を救ってくれたお医者さんと、親切にケアしてくれた看護師さんたちに感謝したい。
「と、いけません、つい話し込んでしまいました。
　すぐに戻ってきますから、おとなしくしていてくださいましね？　手当てがイヤだからってお出かけになられていたら、志貴さんを気ままなネコちゃんに認定です☆」
　星が弾けるような笑顔を残して、琥珀さんは湿布を取りに行った。
　午後になった。
　食堂で昼食を軽く済ませ、部屋に戻る。
　今日一日は安静に、と翡翠に念を押されたものの、とりあえずやるべき事がない。
「……体の調子は戻ったんだし、ここは―――」
　何をしようとしばらく考えこんだあげく、七年ぶりに屋敷の中を散歩する事にした。
　とりあえず一階と、中庭の方に出向いてみよう。
　天窓からの陽射しに眼を細める。
　遠野邸のロビーはいつ見ても圧倒される。
　子供の頃はよく屋敷の中を探検して怒られた。
あの頃はこの屋敷は城みたいなもので、きっと何処かに隠し扉があり、見た事もない世界に続いているのだと信じていた。
　今はそんな子供心はなくなり、口うるさい父親もいなくなった。
　すべてはもう、過ぎ去った過去の話だ。
「……懐かしいな。
　昔は屋敷の廊下を歩くだけでドキドキしたっけ」
　七年前、このロビーを忍び足で歩いていた記憶が蘇る。
　そんな思い出に誘われるように、のんびりと屋敷の中を歩き始めた。
　テラスに出る。
　不思議と屋敷の内より外の方が記憶に残っていた。
　遠野邸はとにかく広い。
　屋敷も一般家屋の十倍以上はある規模だが、その敷地にいたっては遊園地並みだ。
　七年前……まだ十歳だった自分にとって、それがどれほど冒険しがいのある世界だった事か。
　毎日少しずつ歩き回っては木や地面に自分の名前を刻み付けた。当時、秋葉との遊びで陣地取りみたいなゲームが流行ったせいだ。
　名前を刻んだところが自分の領地だ、なんて言い合って、二人で屋敷じゅう歩き回っては名前を刻んでいったんだっけ。
　そういえば、秋葉と遊んだのは、たいていがこの庭だった。
　秋葉は俺と違って槙久の言いつけを守っていたから、一日に30分ぐらいしか遊ぶ事ができなかった。
　なのにやる事といったら俺たちの後ろについてきて、じっと言うことを聞いているだけ。
　それでも、いざ遊び出せば元気に走り回って、何をするにしても俺と勝ち負けを競りあってたんだっけ。
「……なんだ。
　あいつ、昔っから今の性格の下地はあったんじゃないか」
　親父の手前、猫を五、六匹かぶっていたのかもしれない。
　ま、それにしたって今の秋葉は変わりすぎだ。七年間という歳月は、こっちが思っている以上に長いものだった。
　時間がたって、大人になって。
　俺と秋葉は、幼かった頃の遠野志貴と遠野秋葉ではなくなってきている。
「お、あったあった
」
　中庭に造られた<建物|ガゼボ>の外側。
　柱の下、陽射しの影に隠れて見つからない場所に、石を削って書かれた文字がある。
　ガゼボをぐるりと回って、もうかすれている文字をカウントする。シキ、アキハ、シキ、シキ、シキ。
　ここでは五回もの攻防が繰り広げられたようだ。
　他の場所でもそうだが、割合的には<俺|シキ>のほうが多い。
　なんだかんだと秋葉は女の子で、男の子であるこっちの行動範囲の広さには及ばなかったのだろう。
「まったく。手加減ぐらいしてやればよかったのに」
　子供の頃の行いを反省しても、落書きの数は変わらない。
　この様子では、負けず嫌いの秋葉にどれくらいの悔し涙を流させたコトか。
「……そうか。あんがいこの恨みを今になって晴らしてるのかもな、あいつ」
　秋葉にかぎってそんな事はなさそうだけど、あればあったで、それもたいへん可愛らしい。
「あーあ。なんか、俺もとことんバカ兄貴だ」
　<苦笑|くしょう>しながら、さて、と顔をあげる。
　懐かしい思い出を楽しめたし、そろそろ屋敷に―――
「……ん？」
　……と。
　ガゼボの天井の裏側に、もう一つ、落書きを発見した。
「……あんなところに……？」
　どうやって刻んだのだろう？
　子供の背では届かない。大人だって届くかどうか。
「なんだろ、俺の名前……だけど」
　ガゼボにあがって、手すりに足をかけて天井を調べる。
　……しかしこれ、大人の場合は地面を這ってから立ち上がらないとまず気づかない場所だ。
　陰に守られた天井には、短く、
　　　　　　　『兄貴　ニ　気ヲ　ツケロ』
「……………？」
　意味が分からない。
　兄貴に気をつけろ……？
　秋葉の筆跡ではない。となると、これを書いたのは俺という事になるが……。
　物音がした気がして振り返る。
　一瞬、木々の隙間に茶と白のメイド服が見えた。
「あれ、翡翠……？」
　翡翠はこちらに気づいていない。
　何をしにいくのか、翡翠は森の中に入っていく。
「なんで森に……？」
　ここから先は森があるだけだ。
　何があるわけでもなし、翡翠は何をしに行くのだろう。
「…………」
　興味を引かれて、少しだけ後についていった。
　森は舗装はされていないものの、人の通れる林道は作られていた。
　もともと遠野家の敷地はこの森だったという。
　今ある屋敷と庭はこの森の入り口にすぎないものだったが、戦後、当時の当主の手によって今のかたちになったそうだ。
　深くはないが、果ての見えない森を歩いて行く。
　途中、妙な建物が目に入った。
「……あんな建物、あったっけ？」
　翡翠はあの建物を目指しているのか、とも思われたが、翡翠が歩いて行った方向とは正反対だ。
　あの建物は森のただ中にある、何かのお堂かもしれない。
　―――と。
　10分ほど歩くと、とうとつに視界が開けた。
「……広場だ」
　森のただ中に、不自然に開けた広場に出た。
　ここは―――何だろう。
　少なくともあまり覚えはない。
　森の外からでは決して見えない死角で、屋敷にいる時は……翡翠に付いてこなければ一生気づかなかったぐらいの、木々に囲まれた小さな広場。
「……こんなところ、あったかな。
　あったならかっこうの遊び場だけど―――」
　少なくとも、森の広場で秋葉と遊んだ記憶はない。
　――――ない、ような、気が、する。
「…………」
　少しだけ思案してから中に足を進ませる。
　……広場には特別なにもない。
　先を歩いていた翡翠の姿もない。
「なんだ―――ただの空き地じゃないか」
　広場の中心は一段と陽射しが強い。
　空を見上げずとも、その強い陽射しで視界が白ばむ。
　涼しい森の中を歩いてきたからだろう。
　まるで夏の一日にいるようだ。
　ふと気がつくと、高い空には大きな大きな入道雲。
　じりじりゆらぐ風景。
　気が遠くなるような蝉の声。
　蝉の声。
「――――――、ああ」
　意識が焼かれる。
　どすん、と熱砂の地面に膝をつく。
　知っている。
　わすれてしまったけれど、しっている。
　とけるような夏のひざし。
　くりかえす蝉の声。
　むせかえる　　の匂い。
　足元には。赤黒い、さっきまで生物だった大きな塊。
「い――――痛…………」
　胸の傷が痛む。
　まるで／ざくりと。
　包丁で胸を刺されたような／この／痛み。
　殺した<。殺|み　ー　ん　><した殺し|み　ん　み　ん>た。
　止めろ<。止|み　ー　ん　><めろ止め|み　ん　み　ん>ろ。
　死んだ<。死|み　ー　ん　><んだ死ん|み　ん　み　ん>だ。
―――――
　――――どこかで、<蝉|ヒト>の声がしている。
　今はもう、秋なのに。
　あおむけの目には、閃光のような夏の陽射し。
　なまぬるい空気は気持ち悪い。
　見えるのは<空蝉|うつせみ>のこえ。
　足元には蝉のぬけがら。
　ぬけがら。誰かの、ぬけがら。
「――――………」
　傷が開く。
　胸が真っ赤に染まって、この両手まで赤黒く<赫灼|かくしゃく>と。
　……うずくまる誰かの影法師。
　　　近寄っていく幼い少女の足音。
　　　遠くの空には入道雲。空蝉の青いそら。
　　　気がつけば、
　　　目の前には血まみれの秋葉の泣き顔。
　みーん、みんみん。
　みーん、みんみん。
　……嗚呼。
　鼓膜を突き破ろうとする、針みたいな蝉の声。
「あ――――ぐ」
　なんだ。胸がいたい。吐き気がする。
　傷はとうのむかしに塞がっている筈なのに、どうしてこんなにも痛むのか。
　胸が　壊れてる。
　古傷が開いて　セキショクの染みが流れ出す。
　―――なんてこと。
　俺の傷は、ぜんぜん癒えてなんかいなかった。
　　　　　イタイ。
　　　　　　　コワイ。
　　　　　　　　　コレガ、
　　　　　　　　　　　　死トイウ衝動カ。
　意識が沈む。
　<膿|きず>が<咲|ひら>く。
　夏の幻覚に包まれて、精神が退行する。
　魂が抜け出るように。
　どさり、と、自身の体が、草むらに倒れる音をきいた。
　何をしようとしばらく考えこんだあげく、七年ぶりに屋敷の中を散歩する事にした。
　とりあえず二階を回ってみよう。
　遠野邸は東棟と西棟に分かれている。
　東棟には当主執務室があり、さらにその奥は秋葉の私室がある。いわばあいつの生活圏だ。
　……そちらに行くのは躊躇われるので、今日は西棟を回ってみよう。
　西棟の廊下に出る。
　すぐ右の通路はロビーに続いている。
　正面を真っすぐに進むと西棟の中心に。
　ちなみに、いま出てきたところが遠野志貴の部屋だ。
　この廊下に面した部屋はほぼ空き部屋とのこと。
　<槙|ち><久|ち>が存命の頃には親戚筋が間借りしていたと思われる。
「この先の行き止まりが、確か……」
　遠野槙久の書斎だった筈だ。
「………………」
　昨夜のアルクェイドの言葉が頭をよぎる。
“あなただけが特別なんじゃなく、あなたの家系が―――”
　……馬鹿げた話だ。
　馬鹿げた話だが、あいつは確証のない話はしない。
　俺は―――
「……秋葉は学校に行っている。
　琥珀さんは買い物で留守、翡翠は一階で清掃中か……」
　いま、この廊下には自分しかいない。
　故人の部屋をあさるのはルール違反だが、俺だってこの家の人間だ。
　父親の部屋に入るぐらい、そう大げさな事ではない筈だ。
　突き当たりの部屋には鍵がかかっていた。
　眼鏡を外し、鍵の部分の“線”を断つ。
　……今さら後戻りはできない。
　廊下を見渡し、誰にも見られていない事を確認して中に入った。
「なんだこの部屋……暗すぎないか？」
　カーテンを閉めきっていても、ここまでの暗さにはならない。
　壁に手をやって電灯のスイッチを探そうとし、思いとどまる。
　スイッチを押す事で外に“誰かが入っている”と知られてしまう可能性がある。
　用心しすぎだとは思うが、ここは携帯端末のライトだけで部屋を照らす。
「……なんだ。思ったより片付いているじゃないか」
　秋葉が使っていた執務室と同規模の内装だ。
　まあ、先月まで<槙久|おやじ>が使っていたんだから、荒れている道理もない。
　本棚も生前のまま保管されている。
　となると、残る疑問はこの暗さだ。
　カーテンは一体どうなっているのか、と携帯を窓に向ける。
「――――――、
え？」
　―――そこには。
　通常の部屋にはある筈のない、異様な<封|のり>が施されていた。
「……<鉄|てつ>……<格子|ごうし>……？　なんで……？」
　信じられない。
　信じられないが、目の前にあるモノは本物だ。
　槙久の部屋の窓は、一面の壁だった。
　遮光カーテンで陽射しを殺しているだけではない。
　窓には一面、頑丈な鉄格子が打ち付けられていた。
　まるで外から入ってくるものを拒むような、
　あるいは、
　中に入ったものを閉じこめているような、そんな光景。
「………………」
　これは、まずい。
　この闇が何を示しているかは分からないが、これが見てはいけない秘密……狂気の檻である事は分かる。
　今すぐこの部屋を出なければいけない。
　俺がここにいる事を他の誰にも……たとえ秋葉であろうと琥珀さんであろうとも……知られてはいけない。
　もし知られたら、その時は―――
　もう、これまでのような関係性は保てない気さえする。
「……いや、ここまできて何びびってるんだ、俺は」
　携帯の灯りを頼りに進む。
　本棚も気になるが、そう時間はない。
　まずは槙久の机の引き出しを調べよう。
　何か目的がある訳ではないが、あの几帳面な<槙久|おやじ>の事だ。
　秋葉の事や俺の事、会社に関する書類でも入っているかもしれない。
　机の引き出しには何も入っていなかった。
　ただし、二段目の鍵のかかっていない引き出しまで。
　三段目の引き出しには鍵がかかっている。
　どうやら親父の死後、誰も開けられずに放置されているようだ。
「…………」
　もう一度眼鏡を外して、鍵を“殺す”。
「……本？　日記帳か、これ？」
　中には古い紙の束と、分厚い日記帳が入っていた。
　紙の方は……遠野家の家系図のようだ。
「なんだってこんなところに……けど、随分と古い紙だな」
　もう何代も前から歴史として記されてきたものなのだろう。
　間違いない。
　遠野マキヒサの後には遠野シキ、遠野アキハという名前がある。
　あるの、だけど―――
「……なんだこれ。<槙久|おやじ>のやつ、九年前に養子をとってる。……あ、けどすぐに病死しちゃってるな」
　九年前といえば、俺が八歳の頃だ。
　大昔と言えば大昔だけど、まったく記憶にない。
　……もしかして妾の子で、外で囲っていた……とか？
　あの生真面目な<槙久|おやじ>が？
「……そんなワケないか。
　けど……うちの当主ってみんな短命なんだな。親父も五十前に病死した訳だし、その前は三十歳の時に事故死……その前は十八歳で自殺している……」
　――――いや、待て。
　いくらなんでも、これは、おかしい。
　改めて家系図に目を通す。
　……見間違いじゃない。
　遠野家の人間はみな異常な死に方をしていた。
　自殺。事故。他殺。行方不明。
　……誰一人として、安らかに寿命を全うした者がいない。
「…………」
　その一連の記録は、呪われているとしか言いようがない。
　異常なのは、死因の大半が自死である事だ。
　遠野家の当主たちは成人を迎える前か、その後に、自らの命を断っている―――
　視界から光が薄れていく。
　後頭部にぐらぐらと血液が溜まっていくような感じ。
　手足に力が入らなくなって、呼吸が段々と詰まっていく。
　俺は目眩と、イヤな予感から逃げるように、日記帳に目を移した。
　ページをめくる。冒頭の日付は2004年。
　……槙久によって養子にとられた誰かが、人知れず病死した年だ。
　日記に書かれた<文字|テキスト>を追う。
　<槙久|おやじ>らしい、整っているが神経質そうな筆跡。
　俺は熱に浮かされたように、その日の内容を読み上げる。
「……遠野の一族は呪われている。
　近代に移ってから、生まれてくる子供には……の……からの隔世遺伝が……」
　もう十年前のものだ。インクがかすれてよく読めない。
「……もちろん……私も、私の子供たちも例外ではない。
　秋葉には特……強……見られる。わが子の未来を思うと悲しい…………紹介された医師の話によると、幼年期から厳しく教育すれば発現は………」
「……今夜も手術が必要だという……秋葉に教える事はできない……あの娘は私を怨むだろう。理由なく厳しくあたる私を憎むだろう。それもすべて遠野の…………。
　だが私は安堵している。どれほど秋葉が……の血に近……と言っても、あの兄に比べれば、秋葉は遥かに人間的だ」
　……なんだこれ。
　遠野の一族は呪われている……？
　隔世遺伝？　秋葉に手術をした？
　それと―――最後の一行は、誰のことだ。
　あの兄。あの兄。あの兄。
　それはどう考えても俺の事で―――
「こんにちは、志貴君」
　……腹が、熱い……？
　胸の傷が痺れた事は何度もあったが、これは初めての経験だ。
　内臓を焼けた鉄棒であぶられるような激痛。
　ついで、足先から失われていく触覚。
　体は机にもたれかかるように倒れ、伸ばした手も踏ん張りがきかず、背中から地面に倒れこむ。
「その日記はまずい。なにしろまだ<検閲|けんえつ>が済んでいない。君に見られる予定もない」
「…………………」
　意識が遠のく。
　あの男は―――確か―――
「君にはもう少し、あの未熟な当主殿をかき回してほしかったのだがね。
　どうやってかは知らないが、鍵を手に入れたのが君の不運という事だ」
　……気がつけば、呼吸はとっくに止まっていた。
　あれほど確かだった死の線も、頭痛も、今は失われている。
　……そうか。
　こうなって初めて気がついた。
　あの忌々しい頭痛は、俺にとって助けでもあったのだ。
　だって、あれがないといつまでも起きられない。
　もともと死に<体|たい>だった遠野志貴の体は、このまま、目覚める事のない眠りに落ちていく―――
　……いや、それは止めておこう。
　アルクェイドの話は気になるが、槙久の書斎にその答えがあるとは断言できない。
　もし琥珀さんや翡翠にかち合ったら説明もできないし、リスクが高すぎる。
　気分を変えて、一階を散歩するとしよう。
　……話し声が聞こえてくる。
「……秋葉さま、お医者さまをお呼びしないのですか？」
「馬鹿なことは言わないで翡翠。呼べる訳がないでしょう、兄さんの傷は普通の傷じゃないんだから……！」
　……あきは／と／ひすい／が　はなして　いる。
　ここは　シキの　へやだ。
　ジブンは　ベッドのうえで　ねむっている　らしい。
　……ようやく意識が明確になった。
　よお、と声をあげて起きようとしたものの、体が思うように動かない。
　胸の痛みはないが、体は鉛のように重い。
　満足に動くのは目と口だけのようだ。
「一体どういうつもりなの翡翠。
　兄さんをあの場所に近づけてはいけないって、貴女も知っているでしょうに……！」
「もうしわけ…………ありません」
「謝って済む問題じゃないわ。貴女を兄さん付きの使用人にしたのは、こういう事態を避けるためでしょう？
　それを忘れて、貴女は何をやっていたっていうのよ……！」
　秋葉は普段からでは考えられないぐらい、感情を剥き出しにして怒っている。
　対して、叱られている翡翠は俯いたままだ。
　俺には事情はまったく分からない。
　分からないけれど、翡翠が俺のせいで怒られている、という事ぐらいは読み取れた。
「ほら。口にしてもらえないかしら翡翠。
　貴女は今日一日、どこで何をしていたのかを。
　……この人が朝に倒れた事も報告せず、あまつさえあの森に行かせてしまった。これは明確な意図があっての事よね？　そうでなければ犬以下の頭だもの。
　―――答えなさい翡翠。貴女も、私に逆らうつもりなの？」
　秋葉の質問に翡翠は答えない。
　二人の間の空気は段々と重苦しくなってくる。
　秋葉はぎゅっと唇を噛みしめて、翡翠に一歩近寄る。
　……秋葉が翡翠に手を上げようとしているのは、俺の目から見ても明らかだ。
　翡翠は俯いたまま、それを黙って受け入れようとしている。
「―――ちょっと、待て、秋葉」
「兄さん、気がついたんですか！？」
「ああ、秋葉があんまりにうるさいんで、いま目がさめた」
「あ…………」
　秋葉は気まずそうに視線を逸らす。
　翡翠は下を向いたまま、こっちを見ようとしなかった。
「……あのさ、あんまり翡翠にあたるなよ。
　事情は知らないけど、俺が倒れた事でもめてるんだろ？　なら翡翠に責任はない。こんなの、俺がかってに倒れただけなんだから」
　よっ、と腕に力をこめて、なんとか上半身だけベッドから起こす。
　今はそれが精一杯。もう指一本だって動かせそうにない。
　けど翡翠が落ちこんでいる手前、無理をしてでも元気なフリをしなくちゃいけない。
「まったく、おまえも俺の事なんかでケンカするな。大人びたように見えて、まだ子供なんだな」
「でも―――兄さんはあれからずっと気を失っていたんですよ？　10時間以上も昏睡しているなんて、今までなかったはずです。もし兄さんがあのまま目が覚めなかったら、私はどうすればいいんですか……！」
「ばか、縁起でもないこと言わないでくれ。
　こんなのはただの貧血……
って、なんだぁ！？　もう10時をまわってるのか!?」
「……はい。ですから、兄さんはお昼から今までずっと気を失っていたんです」
　遠慮がちに秋葉は語る。
　が、こっちの心配事は自分の体の事ではなくて、アルクェイドとの約束だった。
“夜の10時、次はぜったい時間厳守”
　そう言ったアルクェイドの目はわりと本気だった。
　もし破ったら今度はどんな無理難題を繰り出してくるか……！
「やばい、行かなくっちゃ……！
　秋葉、ごめん。俺は出かけるから、後の事はよろしく頼む。あんまり翡翠をいじめるなよ」
「そ、そちらこそ馬鹿な事は言わないでください！
　私、兄さんが毎夜どこに行くかなんてもう聞きません。聞きませんから、どうか今夜ぐらいは、ご自分の体を大事にしてあげてください……！」
「秋葉………」
　秋葉の声は、もう<懇願|こんがん>と言えるものだった。
　ここまで真剣に心配されると、俺も決意が鈍ってしまう。
「でも、こんなのはしょっちゅうなんだぞ？
　中学の頃なんて日に二回は倒れてたんだしさ」
「……だから余計に心配なんです。
　―――兄さん。お願いだから、今日ぐらいは私の言う事を聞いてください」
　秋葉は真剣な眼差しで見つめてくる。
　俺は―――――
「………………」
　……仕方ない。
　これ以上秋葉に逆らうと、なんだか泣かせてしまいそうだ。
「……わかった、今日はおとなしく眠ることにするよ」
　言って、ベッドに体を横たえた。
「ほんとう……？
　後になって部屋を抜け出したりするのもナシですよ？」
「しないよ。実を言うと、体がまだ重いんだ。
　秋葉の目を盗んで外に出るなんて、とてもできそうにない」
「――――よかった」
　ほう、と肩を落として秋葉は安堵する。
「翡翠、琥珀に兄さんが目を覚ました事を伝えにいって。
　兄さん、夕食はどうしますか？」
「……そっか。いや、琥珀さんには悪いけど、食べられそうにない。今夜はこのまま眠らせてくれ」
「……わかりました。翡翠、琥珀にそう伝えてきて」
　……さて。
　ベッドに体を預けたら、また眠気がやってきた。
　このままならあと１分もかからず眠れるに違いない。
　―――けど、その前に。
「秋葉。うちの庭に、あんな場所あったっけ？」
「ええ。私たちが子供の頃、よく遊んだ場所です」
「そっか。なんだか、よく覚えてないな」
　……ああ。本当に、忘れてしまってた。
「それともう一つ、ヘンな事を訊くんだけど。
　……その、子供の頃さ、俺と秋葉と―――もう一人ぐらい、子供がいたとかいう話は知らないか？」
「は？」
　秋葉は見当もつかない、と首をかしげる。
　……そうだよな。そんな子供、いるはずがない。
　でも―――そうじゃないとおかしいんだ。
　ユメで見た光景と、
　あの広場で見たユメ。
　この二つが同じものだとしたら――――
　この家にはもう一人、殺されてしまった子供がいないと話が合わない―――
「いや、なんでもない。ただのユメの話だ」
「そうですか。ではおやすみなさい、兄さん。
　今夜はゆっくり休んでください」
「ああ、そうする」
　秋葉の声に応えた途端、意識は唐突に断線した。
　眠りに落ちる際、<恒|つね>、胸にわだかまる感情も、今夜はない。
　……スイッチを切られた機械のような意思消灯。
　遠野志貴はこの一日の出来事から逃げるように、暗い淵に沈んでいった。
　……秋葉が俺の体を心配してくれるのは嬉しいが、アルクェイドとの約束は破れない。
「……わかった、今日はおとなしく眠るコトにする」
　上半身をベッドに倒す。
「本当ですか？　あとになって部屋を抜け出したりするのもナシですよ？」
「……あのな。こんな体で、秋葉たちの目を盗んで外に出られると思うか？」
「―――ええ、言われてみればそうですね」
　ほう、と肩を落として秋葉は安堵する。
「翡翠、琥珀に兄さんが目を覚ました事を伝えにいって。
兄さん、夕食はどうしますか？」
「いや、食事はちょっと。琥珀さんには悪いけど、食べられそうにない。今夜はこのまま眠らせてもらうよ。
　ああ、でも飲み物くらいなら通るから、野菜ジュースとかあったら助かる」
「わかりました。翡翠、そう琥珀に伝えてきて」
「かしこまりました。
　野菜ジュース……人参、トマト、白菜、キャベツ、赤ピーマン、ウメ、などのミックスを、至急」
「？」
　あんまり聞き慣れないけど、琥珀さんスペシャルかな？
「では私も退室します。なにかありましたら遠慮なく呼んでください。何時だろうとすぐに駆けつけますから」
　部屋の電気を消して秋葉は立ち去っていった。
「……すまない、秋葉」
　呟いて、体を起こす。
「っ………」
　明かりがついていないのに、視界が白黒に点滅した。
　体を起こしただけで意識が遠のく。
　今回の貧血はただの貧血じゃない。
　それは分かっているけど、今は公園に行かないと。
　……アイツの事だから、放っておいたらバカ正直に何時間も待つに決まっている。
　おぼつかない足取りで机までたどり着く。
　引き出しからナイフを取って、上着を羽織る
。
「はっ……まいったな、これじゃ本当に、秋葉たちの目は、盗めない」
　……あと少し、せめて満足に走れるぐらい体力を回復させないと、翡翠に見付かって部屋に戻されてしまう。
「……なんだ、結局」
　昨日よりもっと遅刻して、アルクェイドに怒られそうだ。それはそれで悪くはない。
　床に腰を下ろす。
　１時間。あと１時間だけ体を休めれば、歩ける程度には回復する筈だ。
　公園に着いたのは12時前だった。
　歩けるようにはなったものの、牛の歩みでさらに１時間近くかかってしまった。
「……はぁ……は……」
　肩で呼吸をしながら周囲を見渡す。
　夜の公園。待ち合わせ場所である休憩所に、ぽつんと白い人影が立ち尽くしている。
「……やっぱり、待ってた」
　アルクェイドもやってきた俺に気がついたようだ。
　カツカツと足音をたてて、一直線に向かってくる。
「今夜も壮大な意地悪、恐れ入るわ。
　来てくれたからいいけど、２時間もオーバーした理由をたっぷり
―――」
　人の顔を見るなり、アルクェイドは絶句している。
「ちょっと、どうしたの志貴……？
　顔は真っ青だし、生気も全然感じられないし……もしかして、先に死者探しをしてきちゃった？」
「どんな冒険野郎だよ俺は……。
　そんなんじゃなくて、ちょっと貧血ぎみなんだ。
　時々こういう風になるからそう驚かなくていい。
　……それよりごめんな、２時間も待たせちまって。できるだけ早く、来たつもりなんだけど」
「う、うん、わたしは別に、気にしてないけど……」
「……さっきまでずっと、なんで遅れてるんだろうって考えていたけど……。
　……ほんと、わかんない。そんな体で出てくるなんてヘンだよ、志貴」
「だって、約束だろ。アルクェイドの手伝いをするって言ったんだから、これぐらいじゃさぼれない。
　それに、ほら。昨日の事もあるし。おまえをひとりにしていたら、それこそどんな事件が追加されるか」
「それは嬉しいけど……後半のは余計だけど……。
　やっぱりおかしい。こんなの、いくらなんでも酷すぎる」
「酷いって、なにが……？」
「そういう、ぜんぜん自分の体を分かってないところ。
　人間の命は不安定なものだけど、志貴はその揺れ幅が大きすぎる」
「遠野志貴は普段からとても死に近い所に立っている。
　それが直死の魔眼の反動か、今日までの運命の代償かは分からないけど……波のように生と死の境界を行き来している。
　だから、あなたの貧血とやらは『前も大丈夫だったから今回も大丈夫』なんていうものじゃない」
「いい、志貴。あなたは外的要因の死には抵抗がある。
きっと一度、そういった要因の臨死を体験したからでしょうね。
　けどその反面、内的要因の死には抵抗力がまるでない」
「頻繁に貧血で倒れるのは<身体|からだ>が行っている防護策なのよ、きっと。
　人間は内側の異常には気づけないけど、あなたの身体はそれを本能的に感知している。“これ以上は取り返しがつかなくなる”という時、強制的に<自身|あなた>を休ませよう、という風に」
「今の貧血だって、本来なら死んでいてもおかしくない断線のはず。覚醒できたのは<偶々|たまたま>運が良かったからと思いなさい」
「――――――」
　目から鱗……までは言いすぎだけど、なるほど、と頷いてしまった。
　今まではパソコンの<強制終了|シャットダウン>のようなものと思っていたけど、逆の見方もあるのか。
　この貧血は虚弱体質ではなく、自分自身の命を守る為の安全装置ではないのか、という仮説。
「うーん……なんか大げさな物言いだけど、」
　けど、そんなコトは、
「つまり、貧血になってる時は、指先一つでコロッと逝きやすいってコト？」
　この七年間、毎朝、罰のように思い知っていた。
「もうっ、わたしは本気で忠告してるの！
　でも来てくれてありがとう！
　今夜はもう帰って、ゆっくり体を休めなさい！」
　ぐっ、と体を寄せてくるアルクェイド。
　本気で俺の事を心配してくれているのか、無防備に体を近づける。
「――――」
　体を引こうとするより先に、アルクェイドの胸が俺の胸に触れる。
　……どくん、と。
　いつもの眩暈とは違った立ち眩みが、脳内に駆け巡る。
　今まで意識しないよう努めていた、アルクェイドの胸の柔らかさとか、肌の白さとか、キレイな金の髪とか、そういった女性的な艶めかしさが。
「ごめん。アルクェイド、ちょっと離れてくれ」
「なによ、わたしの言葉は信用できないっていうの？　吸血鬼だから？」
「なにいまさらそんなこと言ってるんだ。アルクェイドのコトを信じないワケがないだろ」
「うそ。じゃあなんで視線を逸らしているの」
「だから、あくまで俺の個人的な理由でちょっと離れてほしい。……そう近くに来られると、俺も男だから、困る」
　……ふう。
　とりあえず、貧血の眩暈とアルクェイドに対する眩暈という、二重の拷問は去ってくれた。
「とにかく、アルクェイドに心配してもらうほどじゃない。
　だいたい、昨日の夜みたいに襲われたら今度こそ殺されるかもしれないんだから、こっちも休んではいられないんだよ」
「待って、どういうコト？」
「だから、屋敷に帰る時に……って、そうか。まずこれを報告しないと。
　アルクェイド。俺、昨日の夜に死者に襲われた。
　俺がひとりで屋敷に戻るところを待ち構えていたんだと思う」
　アルクェイドの表情が険しくなっていく。
「……信じられない。どうしてそんな大事なコトを忘れていられるのよ、あなたは」
「面目ない。でもほら、死ななきゃ安いというか……」
「ばか！　そんなだから心配してるの、わたしは！」
　……仕方ないだろ。
　今日は今日で、それ以上におかしな体験をしたんだから。
「……まあいいわ。それより詳しい話を聞かせて」
　真剣な眼差しでアルクェイドは問い詰めてくる。
　気を落ち着かせて、できるだけ克明に説明する。
　ただ、あの黒い男が『死の線』を視ていた、という事だけは黙っておいた。確証はないし、俺の勘違いの気もするからだ。
「……と、いうわけなんだけど―――――」
　ひとしきり説明を終えて顔色をうかがう。
　話が始まってからこっち、アルクェイドの目は鋭いままで和らぐことがなかった。
「どうなんだアルクェイド。真っ黒い死者と、シスター服の女はおまえの敵なのか？」
「……そうね。両方ともわたしの『敵』よ。
　その死者は何者だか知らないけど、修道服を着た女のことなら見当はつく」
「志貴を助けたヤツはわたしと顔見知りかもしれない。……確かにあの女ならわたしより先に『敵』を見つけ出せるわ」
　アルクェイドは悔しそうに唇を噛む。
　その苛立ちはほとんど殺気に近かった。
「……アルクェイド。俺を助けてくれたシスターは、おまえが前に言っていた……」
「ええ。教会の異端狩りよ。志貴を助けたヤツはそこで一番厄介な部署の代行者。
　……けどおかしいな。埋葬機関がこんなに早く代行者を送ってくるハズはないんだけど」
「そんな事より、志貴はどうして戦ったりしたの？
　わたしに協力してくれるって言ったけど、ひとりで戦うとは言わなかったわ」
　じろり、とアルクェイドは睨みつけてくる。
　一人で危険な真似をした俺の身を案じている……
「あーもう、すっごく損した気分！
　わたしに内緒でそんな楽しそうなコトするなんて！
　活躍のチャンス、逃しちゃったじゃない！」
　――――というワケでもなさそうだ。
「訊いていいか？　さっきまでの深刻な空気はどこに？」
「本気で怒ってるの！　せっかく志貴と一緒に戦えると思ったのに！」
「…………」
　欲求が物騒ではあるが、そう言われて悪い気がしないのも事実だった。
「……あのな。ひとりでやり合う事になったのはなりゆきだよ、なりゆき。
　俺はおまえ抜きで吸血鬼と戦う気はないんだから」
「……ふーん。なりゆきって、どんな？」
「世間一般でいうところの正義感……なのかもしれない。今は、少し後悔してる」
「正義感？」
　なにそれ？　とアルクェイドは首をかしげた。
　まったく同感だ。俺も、そんなものが大義名分にすぎない事を、昨日痛いほど思い知らされた。
　……あの時。
　目の前に人影があると気付いた時、俺の中には恐怖しかなかった。
　相手が普通ではないと理解しながら、ただ動揺するだけだった。
　そうして、アイツに合わせるようにナイフを取り出して、殺し合いを始めた。
　正義感では、人は人を殺せない。
“死にたくない”という生命保存の本能でさえ役に立たない。
“自分の死”と“何かの死”は、本来繋がっていない事柄だからだ。
　極限状態で手足を動かすには、強い理性が必要だ。
　殺せば助かる。
　殺さなければ助からない。
　結論を凌駕する結論。純化した<確|・><信|・>と<理|・><由|・>。その二つが、あの瞬間の俺の全てだった。
「……いや、なんでもない。
　ほら、一段落ついたところで始めようぜ。
　せっかく来たんだから、街を徘徊してる死者の一人でも見つけ出さないと勿体ない」
「……あのね。本気で怒るわよ、志貴。
　それとこれは話が別。
　ちゃんと休んでって言ったでしょ？
　死者の食堂もあらかた片付けたところだし、今夜は様子を見て、明日に備えましょう」
　アルクェイドは厳しい視線のまま断言した。
　……そう言われると、こっちも同意せざるをえない。
　もとから俺一人きりで吸血鬼を探す、なんていうのは不可能な事なんだし。
「……わかった。アルクェイドがそこまで言うんなら、今夜はおとなしく休む」
「素直でよろしい。
　志貴は昨夜襲われただけじゃなくて、そんなに体が弱っているんだもの。今晩はぐっすり眠って、明日までにはいつもの志貴に戻ってもらわないと、わたしが困るわ」
「……ああ、そうか。協力者が足手まといになってたら話にならない。
　オッケー、明日までには体力を回復させておく」
「……そういう意味じゃないんだけどなぁ……」
　どこか不満そうにこぼすアルクェイド。
　……やっぱり、こいつの考えはいまいち分からない。
「じゃあ屋敷に戻るよ。また明日な、アルクェイド」
　片手をあげて帰路につく。
「ね、志貴」
　と、アルクェイドに呼び止められた。
「なんだよ、まだ何かあるのか？」
「どうしてもって言うならなんだけど……
　わたし、送っていこうか？」
　アルクェイドは視線を逸らしながら、遠慮がちに提案してきた。
　こいつはこいつなりに昨日の事を心配してくれているらしい。
　そう思うと送ってもらうのも悪くないが……。
「いや、やめとく。屋敷のまわりでおまえといるところを誰かに見られたら、それこそ明日の朝が怖い。
　大丈夫、もうひとりで歩けるし。こんなの、おまえが心配する筋合いでもないしな」
「あ―――うん」
　少しだけ―――
ほんの一瞬、アルクェイドはうつむいてから顔をあげて、
「それじゃ、また明日ね！」
　バイバイと手を振ってから、白い吸血鬼は夜の闇の中へ歩み去っていった。
「――――――
！」
　バネじかけのカラクリにでもなったように、上半身がベッドから跳ね起きた。
　顔を上に向け、のど元までせり上がった嘔吐感を飲み下す。
　全身にはぬるりとした赤い感触。
　よほど<魘|うな>されたのか大量の汗をかいている。
　―――何か、良くない夢を、見たようだ。
「あ―――、ぁ」
　額に浮かぶ汗を拭って、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
　眠る前に読んでいた本の影響だろうか。
　どんな内容だったのかは思い出せないが、細かな描写……肉体の構造とか、使われた器具の細かさとか……が夢とは思えないほどリアルだった気がする。
「う……、まず……」
　まずい、吐き気がぶり返してきた。
　これ以上思い返すのは良くない。
　……きっと今の夢は、深く考えてはいけないものだ。
　夢は忘れ去られる運命にある、と有名な博士も言っていることだし。
「……また頭痛か」
　頭を振って夢の残滓を振り払う。
　喉が渇いた。
　起きたばかりで手足は重いが、着替えて洗面所に急ごう。
　冷たい水で顔を洗って、落ち着いてから水を飲めば、喉の渇きも嘔吐感も治まる筈だ。
　寝間着から制服に着替えていると、控えめなノックの音がした。
「おはようございます志貴さま。
　……失礼しました。今朝もお目覚めになられていたのですね」
「ほんの少し前にね。
　でも、起こしに来てくれてありがとう翡翠」
　なんとか制服のボタンを留める。指先の感覚が鈍くなっていたので手間取ってしまった。
「……あの、志貴さま。
　お着替えを済ませたばかりですが、今日はお休みになられてはいかがでしょう？」
　おや。翡翠が自分から意見してくるなんて珍しい。
「いや、休まないよ。だって学校に行かないとシエ―――」
　シエル先輩に会えないじゃないか、と言いかけて言葉を止める。危ない危ない、もし秋葉の耳に入ったらなんて追及されるか分からない。
「……コホン、なんでもない。
　それよりなんで？　今日は屋敷で催しものでもあるのか？」
「いえ、志貴さまのお顔の色が、今朝は特に優れないように見えたので……」
「ああ、それは大丈夫。ちょっと夢見が悪くて気分が悪かったんだ。それも顔を洗えば戻るから心配しないでくれ」
「朝食だろ、洗面所で顔を洗ったらすぐに行くよ」
「……かしこまりました。ロビーで控えていますので、何かありましたらお声をかけてください」
　ぺこりと一礼して翡翠は退室した。
　俺も洗面所に急ごう。鞄と眼鏡を手にとって、朝日の眩しい<己|おれ>の部屋を後にした。
　冷水に顔を<浸|ひた>しても、あまり頭痛は取れなかった。
　それでも吐き気は治まったので良し、と顔をあげると、
「あれ？」
　鏡に映る自分の顔がない。
　１秒ほど呆然とした後、洗面所の鏡がなくなっている事に気がついた。
　ロビーに移動すると翡翠が控えていてくれた。
。
　ちょうどいいので先ほどの問題を報告する。
「翡翠。２階の洗面所、鏡がないんだけど。どうして外してるんだ？」
「―――申し訳ありません。わたしの手違いで廃棄してしまいました。新しいものを用意していますので、志貴さまがお帰りになられる頃には戻っているかと」
　そうだったのか、と納得して食堂に足を向ける。
　吐き気が治まったら食欲が湧いてきた。
　今朝も琥珀さんが用意してくれた朝食をいただこう。
　しかし、現実は非情だった。
　今朝のメニューが洋食だったのがまずかったのか、一口食べただけで吐き気が戻ってきてしまった。
「申し訳ありません。お口に合わないものをお出ししてしまって……すぐに代わりのものをご用意いたしますね」
　琥珀さんはすぐに和食を用意してくれたが、これも口にする事はできなかった。
　ここまでくると味の問題ではなく、俺の体が満足に食べ物を消化できる状態ではないのでは、と考察する。
　……翡翠の言う通り、本来なら今日はベッドから起き上がるべきではないのかもしれない。
「いま一度、いま一度チャンスをください志貴さんっ！
　わたしの信念に反しますが、最終兵器、塩と梅しか使わないお粥を投入しますから！」
「いや、謝るのは俺のほうだよ琥珀さん。これは胃の調子が悪いっぽい。流動食でも無理だろうから、ビタミン剤か何かあったら貰える？　あと、できれば頭痛止め」
「お任せください、お薬でしたらわたしの領分ですもの！
　ではでは、ビタミン剤は糖分多めで、頭痛止めは……そうですねー。いい機会ですし、遠野家の方たちご愛用のものをお持ちしますね」
　琥珀さんが用意してくれた薬が効いたのか、手足の重さは随分と緩和してくれた。頭痛も嘘のように止まってくれた。
　念のため阿良句氏にも診てもらいたかったが、彼女は出勤していなかった。
　今日は外の仕事で早くから外出しているらしい。
「秋葉は……
そっか、もう登校しちゃったか」
　朝食に時間を取りすぎた。
　時刻は午前７時半、俺も急がないと間に合わない。
「行ってくるよ翡翠。帰りは夕方になる」
「……………」
　翡翠はまだうかない顔をしている。
「だからもう大丈夫だって。琥珀さんに薬ももらったし。
　風邪っぽいと思ったら早退するから」
「……いえ、そうではなくて……あの、志貴さま。
　今朝は、眼鏡をおかけになられないのですか？」
「――――――」
　言われて、ペタ、と自分の顔に手を置いた。
　そこには裸眼のままの自分がいる。
　体の重さの方がつらくて忘れていた。どうりでいつもと様子が違う筈だ。
「そう言えばそうだった。
これでいいかな？」
「い、いえ、別にかけていなければいけない、と言いたかったのではなく……眼鏡をかけていない志貴さまを見るのは珍しい事ですので、つい」
　それはそうだ。
　俺は人前で眼鏡を外すこと―――裸眼で人を視ることを頑なに避けてきた。
　それがここ数日うまくいっていないだけの話。
「お時間を取らせて失礼いたしました。
　―――行ってらっしゃいませ志貴さま。どうか、お早いお帰りを」
　翡翠に見送られて玄関を出る。
　頭上からの眩しい陽差しに目を細めて、青く透き通った空を見上げる。
「よし。とにかく一日の始まりだ」
　深呼吸をして清涼な空気を肺に取りこむと、吐き気と頭痛は完全に消えてくれた。
　……良かった、これならいつも通り登校できる。
　一刻も早く先輩の顔を見るために、早足で遠野邸を後にした。
　なんとかホームルーム前に間に合いそうだ。
　今朝もうちの教室にシエル先輩が遊びに来ているのでは、なんて淡い期待をしながら階段を二段飛ばしで上がっていく。
　と。
　まさに求めよ、さらば与えられん。なんたる僥倖、階段の上に見える後ろ姿は間違いなくシエル先輩だ……！
「オッス、シエル先輩！」
　神のタイミングに興奮して理性を失ったのか。
　俺は階段を駆け上がりながら先輩の無防備な両脇に手を滑り込ませ、抱え上げるという蛮行に挑戦したのだった。
「きゃっ!?　何事ですか!?」
「ごは!?」
　背中に目でもついているのか、背後からの暴走特急を当然のように回避する先輩。
　一方、俺は触れる事すらできず、勢いのまま壁に激突した。
「と、遠野くんでしたか。
　……あの、人が変わったような朝の挨拶でしたが、何か深い意味があったりするんでしょうか？」
「いえ、別に。朝から先輩の顔を見られた喜びでどうかしていただけです」
　ズレかけた眼鏡を直しながら、いたって冷静に答える。
　……いや。冷静になってみると、自分でも自分を疑いかねない奇行だった。
「は、はあ。それは、どうも」
　しかし堂々とした態度が幸いしたのか。
　先輩はむしろ自分が悪かったかのように恐縮して、
　……あれ。
　恐縮というより、あちら、たいへんご立腹のような？
「……すみません、一方的に俺が悪かったです。
　先輩を見たらつい悪戯したくなったというか……」
「いえいえ、朝から元気な事は結構です。このぐらいの狼藉、普段の行いに比べれば大した事はありませんし。
　おはようございます遠野くん。
　無茶ばかりして、体と頭は大丈夫ですか？」
　先輩は極上の笑顔で極上の挨拶をしてくれた。
　こっちも「おはようございます、先輩」と返す。
　なんか笑顔に異質なプレッシャーを感じるけど気にしない。先輩の笑顔はいつだって最高だ。
「もうすぐホームルームなので失礼しますね。
　あ、そうだ。お昼休み、茶道室に来てください。是非お話ししたい事があるので。
　ぜったいですよ？　いろいろ準備をして待ってますから♡」
「準備―――準備、だって……？」
　あまりにも甘ったるかった先輩の台詞……語尾にハートマークのニュアンスすら感じた……を脳内で何度も再生する。
　先輩らしからぬ奇行と言わざるをえない。さっきの俺の<奇行|タックル>に対抗している……？　だがそれがいい。たいへんいい。
　何か裏があるのかも、なんて、そんなコト考えつかないほど素晴らしい誘い文句だった。
「……？」
　教室に入るとそこは無法地帯だった。
　ホームルームのチャイムは鳴ったのに誰も席についておらず、思い思いの机で雑談を交わしている。
「ヨース、おはよーサン。
まいったねどうも。風邪気味だよオレ。もう帰りたい」
「おはよーさん。安定のやる気のなさで安心したよ。
　……ところでこれ、どういうコト？」
「１時限目のノエル先生が風邪で休みなんだとよ。なんで、うちの番が来るまで自習なんだと」
「？　ますます状況が分からない。うちの番ってなんだ？」
「だから予防接種の注射だろ。一週間前にノエル先生が……
って、そうか。あの日、おまえ早退してたっけ。
　体調を崩す生徒が例年より多いんで特別に決まったんだよ。一年は昨日、二年は今日ってワケ」
　あの日、とは俺がアルクェイドと出遭った日の事だ。
　どうやら放課後のホームルームで予防接種の話がでていたらしい。
　２時限目になってオレたちの番が回ってきた。
　保健室の外で列になって順番を待つ。通常なら保健室に５人まで入って待つのだが、どういう訳か、今回はひとりひとり個別で保健室に入る形式だった。
　ちなみに有彦は『めんどいし痛いのヤ』と華麗に帰宅済みだ。
『んー、ボクちゃんは合格かなぁ？
　はーい、ちょっと痛いお注射しまちゅから我慢してねぇ』
　……保健室から医師の声が聞こえてくる。
　特別に決まった予防接種だからか、いつものご高齢のお医者さまではないようだ。
『むぅ、ボクちゃんは健康ねぇ。
　はーい、ぜんぜん痛くないお注射しますから、テキトーに天井のシミでも数えてましょうねぇ』
「………………」
　ところで。イヤに聞き覚えのあるネットリした声だな、コレ。
「はーい、次のサンプルちゃん、どうぞー♡」
「……………」
　保健室に入る。
　見慣れた保健室には、やはり、学校に死ぬほどそぐわないファンキーな医師の姿があった。
「……阿良句博士？」
「あらぁ？　坊ちゃんったらここの生徒だったのぅ？
　アタシびっくりー。もしかしてこれ、運命の赤い糸ってヤツかしらぁ!?　いやーん、こまっちゃう！　これで遠野家の財産独り占めジャーン！
　あ、でもうっかりラブダイブしちゃったら当主チャンに殺されちゃう！　きゃー、ダメダメ、それ美味しくなーい！」
「……………」
　……遠野邸にいないと思ったら、こんな仕事していたんだこの人……というか、本当に医者だったんだ。
「なーんてウソウソ、はじめから知ってたっていうの！
　学校でお医者さんプレイとかアタシも初めてだし？　ハイトク的っていうの？　なんにせよ初物はサイコウよねぇ。ここなら当主チャンの目も届かないし！
　では出席番号ジュウサン番、遠野志貴君。カンネンして座りたまえ。逃げたら内申書にバツつけるゾ♡」
　阿良句氏は注射の準備などをしつつ、頭のゆだった発言をする。
　いちいち反応すると阿良句氏を喜ばせるだけなので、黙って椅子に座って右腕を差し出した。
「むぅ、なんという冷静なスルー。マジカヨ。しばらく見ないうちに大きくなっちゃってぇ、やっぱり人間の成長速度って偉大よねぇ？　生き急いでるようで悲しいけどぉ。
　さて、志貴チャンはどっちがいいかしらねぇ……んー、やっぱりこっち？どっち？パンチ？ミンチ？」
「……予防接種に種類があるんですか？」
「あるわよぉ？　アタシ、被験者にも選択の自由はあるべきだと思う派だしぃ？
　細くてあんまり痛くないけど効果が高いものとぉ、
　ぶっとくてすっごく痛いけど効果が薄いのがあるんだけどぉ……志貴チャンはどっちが好みかしら？」
　……なんか、妙な緊張感があるな。
　選ぶまでもない二択だけど、あえて言うなら―――
「痛くなくて効果がある方をお願いします」
「えぇ～？　志貴チャンったら遊びがな～い！
　でも仕方ないか、患者さんの決断は絶対厳守がアタシのプライドだし。はーい、ちょっとチクッとするけど我慢してねぇ？」
　阿良句博士は不満げではあったものの、その手際は見事なものだった。
「ウフフ、注射慣れしてるでしょ？　ほら、アタシ博士だけどナース服も大好きですし？　メスの感触も痺れちゃうけど、お注射のドクドク注入しちゃう感じとかたまらないじゃない？
　―――って、無言で席を立つとか志貴チャンひどくない!?」
「いや、後がつかえてますから。雑談はまた次の機会に」
　申し訳ないが、阿良句女史のお喋りに付き合っていると２時限目が終わってしまう。
　服を正して保健室を後にする。
　……と。
「アタシも仕事が入ってるから次の機会とかないんだけどね。ま、そのあたりはいっか、志貴チャンとは関係ないし。
　たしかに後はつかえてるしぃ？　楽しい日々はもうおしまい、ぬっるい休憩はいい加減ここまでかもねぇ？」
「――――――」
　不吉な言葉に一瞬だけ振り返る。
　……おそらく、いつもの皮肉だったのだろう。
　阿良句博士はカーテンの向こうで、その長い髪を蜘蛛の巣のように揺らしていた。
「じゃあ、痛くて効かないものを」
『良薬は口に苦し』の逆をいく注射がどんなものか、興味が湧いた。
「え、ホント？　こっち、使っていいの？　こんなノンケの美少年に？
　うわやば、アタシもってる。間違いなく蠍座の女の<星辰|うんせい>きちゃってる。
局地的な地震起こしちゃう。だってほら、もう体のバイブスマックスだし！
」
「……あー、でもさすがに当主チャンに悪いかぁ。
　ん、やっぱりフツーのにしとかない？　予防接種は<大事|だいじ>だけど、アタシの場合、やりすぎると<大事|おおごと>になっちゃうしぃ。
　ええ、そう。今ならまだ間に合うわ。気を落ち着けて、ボタンを外して、急いで選択をやり直して―――
　なぁんて隙アリ、もらったァ！
」
　電光石火の早業だった。
　消毒、
挿入、
投薬、
スマイル。
　阿良句博士はおよそ10秒で予防接種を済ませると、
　その、使い捨ての注射器とは思えない、不思議なデザインの注射器をケースに仕舞い込んだ。
「で、どう？　どうだった？
　あまりの痛みに腰抜けちゃった？　志貴チャンのバージン奪っちゃった？
　よちよち、ひとりで立てまちぇんかー？　ならそこのベッドまで連れて行ってあげまちゅねー？
　その後はぁ……悪いところを取り出す手術とかやっちゃう？　
麻酔なしの、ゴリッゴリのオペレーションになっちゃうけど！」
　わきわきと指を可動させながら手を伸ばす阿良句医師。
　しかし、なんていうか、
「ぜんぜん痛くなかったです
」
　構えていたものの、とくに痛みはなかった。
　痛いのは阿良句博士の言動だけである。
「うそぅ！？　あ、ホントだ、脈も瞳孔も異常なし！？
　なーんてあったりまえだっつーの！　だって今のインフルエンザの予防接種じゃなくて、ただの栄養剤だから！　アタシ特製のビタミン剤を食らうといいのだわー！」
「……あの。なんだってそんなコトを？」
「だって志貴チャン、ここの所精力的に活動してるんデショ？　なら体力はつけておかないと。
　どうせもう予防接種なんて間に合わないんだしぃ？」
「…………」
　阿良句博士はおかしな事を言う。
　その真意を問いただそうとした時、
「ザンネン、時間切れ。次の子が来ちゃったわ」
「え―――？」
　驚いて時計を見る。
　椅子に座ってからもう７分近く経過していた。
　生徒ひとりに使える時間は平均３分。そりゃあ次の生徒が入ってくるだろう。
「――――――」
　服を正して保健室を後にする。
　……と。
「それじゃあね、遠野志貴クン。
　どうなるか楽しみにしていたけど―――まあ、失敗する事にも意味はあるものねぇ？」
「――――――」
　妙な言葉に一瞬だけ振り返る。
　……おそらく、いつもの皮肉だったのだろう。
　阿良句博士はカーテンの向こうで、その長い髪を蜘蛛のように揺らしていた。
　果てしない待ち時間を経て、ついに約束の時間になった。
　これほど授業が長く感じられた事はちょっと記憶にない。
　大げさではなく１秒が10秒に値する苦しい時間だったが、最終的には俺の忍耐が勝利した。
　とくにボロを出す事もなく、貧血で倒れるなんてオチを迎えるでもなく、こうして万全の状態で戦場に赴ける。
「……いや、まずは購買部だ。昼休みなんだから昼食を持っていかないと門前払いもありうるぞ……」
　自分の分はもちろん、先輩へのお土産も完備したい。
　……今から献上品を差し出す関係にいささか思うところはあるものの、今日だけはやりすぎて損はないハズ。
　俺は茶道室に直行したい気持ちにブレーキをかけて、ごく平静を装って購買部に直行した。
　茶道室のドアをノックする。
　いつもは先輩が出迎えてくれるところだけど、今日は様子が違うようだ。
「あ、遠野くんですね？　すみません、いまちょっと手が離せなくて。遠慮せず入っちゃってください♡」
　中からシエル先輩の元気いっぱいな声が聞こえてくる。
　何の準備をしているかは不明だけどかつてない明るさ、つまりライトを感じる。この扉をスライドさせた瞬間、天上からの光で廊下が真っ白になるぐらいの。
「すみません、それじゃあ失礼しますね先輩」
　こほん、と咳払いしてドアを開ける。
　今日は過去最高の昼休みになる。そう確信して茶道室の中に踏み入った。
「―――かちゃり？」
　ドアがひとりでに閉まる音だった。
　今日から茶道室は<自動施錠|オートロック>になったのかな？　と首をかしげながら和室にお邪魔する。
「いらっしゃい遠野くん。どうぞ、そこの座布団に座ってください。お茶も入ってますから」
　温かく迎えてくれるシエル先輩。
　和室には二人分のお茶と座布団と、その中心に見覚えのある拷問機がどーんと鎮座ましましていた。
「先輩―――あの、それは」
「ああ、どうぞ気にせずに。安心してください、それは善良な人には反応しませんから。悪い人にしか利かないんですよ。
　たとえば、約束を守らない嘘つきとか」
　一点の淀みもないパーフェクトな笑顔が怖い。
　これ、ご褒美じゃなくて周到な<待ち伏せ|アンブッシュ>だ……！
「そ、それは結構ですけど、なんだってそんな物騒な<凶|も><器|の>をわざわざここに!?」
「いえ、ちょっと手入れをしていただけですよ。他意はないのです。わたし的に、今のところは」
　他意ありまくりの台詞だった。
　先輩はニコニコ笑顔で正座したまま俺を見上げている。
　これはまずい。ヴローヴよりまずい。今すぐダッシュで外に出ないと命が危ない、と腰が引けた瞬間、
「まずは座りましょう遠野くん。あ、もちろん正座で。
　ここ、お茶の間ですからね」
　絶妙のタイミングで先手を打たれてしまった。
「で、ですよね、座ります」
　しずしずと座布団に正座する。
“正座でなくてもいいですよ”とほがらかに語っていた先輩が懐かしい。
　俺は借りてきた猫のように身を縮める。
　先輩の笑顔と、いま目の前にある圧倒的な凶器を前にしたら誰だってそうなる。
「―――ところで、コレの事ですが」
　シエル先輩はお茶の点前をするように、ごく自然な動作でその凶器に手を伸ばした。
　何のかけ声もなしに持ち上げられる、パッと見ただけでも俺の体重の何倍もありそうな鉄塊。
「ホントは秘密なんですけど、遠野くんには一度見せていますから隠す事もありませんよね。
　これは大昔に作られた特別な道具を、対吸血鬼用にリストアしたものです。遠野くんには何に見えますか？」
　すごく悪夢に見えます、と言いたいのをぐっっっと堪えて、大型の銃に見えます、と答えた。
　もちろん、“たいへん格好いい”と形容詞付きで。
「その通りです。これはわたしが持つ武器の中でも大きなもので、
　ここから杭を打ち出して嘘つき……いえ、吸血鬼におしおきをする道具ですね。油圧式でしたが、それでは特殊環境化で故障する危険性が高いのでメイン動力は魔力による外部圧力に作り直しています。今まで三体もの大物を仕留めた、わたしの自慢の一品なんですよ」
「……………」
　何かいま、背筋が凍るどころか背骨ごと打ち砕かれそうな言い間違いがあった気がする。
　しかし、咄嗟の判断がその未来を回避したようだ。
　銃を褒められたコトで先輩の機嫌がちょっと良くなったと見た。ここはこの流れに乗るしかない。
「それはすごい。……えーと、わたしのってコトは先輩の手製なんでしょうか、このでっかいの」
「もちろんですとも。
　もともとはある用途の為に作られた装置だったのですが、それは祭壇のようなもので持ち運べない<大|サ><き|イ><さ|ズ>でした。
　なので、それらを部分部分に解体したものの一つがこの杭打ち機、断罪死の武装です」
「分かりますか、断罪死。ようは罪人……たとえば嘘つきとか……をこらしめる、審判、裁きの一撃ですね。このセブンの弾丸を受けて立ち上がれる遠……いえ、死徒はいないでしょう」
　えっへん、と自慢げに胸を張るシエル先輩。
　……たしかにこんな物騒な杭打ち機で
心臓を貫かれれば吸血鬼であっても死ぬ。
　問題は、その杭打ちの標的は、今回にかぎって俺ではないかという状況だった。
「他にもいくつか種類がありますが、それらは今の遠野くんには関係がないので紹介はできません。まことに残念ですが諦めてください」
「そうですか、それは良かった。
　……参考までに聞きますが、その銃……杭打ち機の他にはどんな無理難題があるんでしょう？」
「そうですね。火あぶり、挽きつぶし、切り刻み、毒まぶし、痛めつけ、といったところでしょうか。
　おや。不思議なコトに、これらは吸血鬼に協力した罪人にも適応される刑罰でした。
　それが何か？」
「――――――」
　バレ……てる……。
　もう疑いようがない。完全に、アルクェイドと夜に出歩いた事が知られている。
「ところでお茶をどうぞ。喉の渇きは会話の乾きですよ。
　きちんとしたお話をしてくれると思ったので、特別に渋いお茶を淹れましたから」
　よし、全力で謝ろう……！
　自白で罪が軽くなるのは人類共通のルールだと信じて……！
「……先輩。あの、ですね」
「はい。なんでしょうか、遠野くん」
「昨夜の話、なんですけど」
「ほう。昨夜のお話ですか。それは興味深い。静聴しますので遠慮なくどうぞ。懺悔だと思って」
「……すみません。俺は先輩との約束を破って、アルクェイドと吸血鬼を探しに行きました。アイツとは二日前からそういう約束だったんです」
「そうですか。成果はありましたか？」
「ありませんでした。吸血鬼は慎重になってるみたいで、しばらくは膠着状態だろうって、アルクェイドが」
「でしょうね。それに関してはわたしも同意見です。わたしと真祖がいる以上、下手に動く事はないでしょう。
　……まあ、それはいいとして。
　それで、貴方の感想は？　吸血鬼と協力して得るものはありましたか？」
「え……感想、ですか？」
　それは意外な質問だった。
　先輩は約束を破った俺を、もっとストレートに糾弾すると思ったのに。
「そうです。やっぱり怖かったとか、もう二度と関わりたくないとか、そういった感想です。
　だって遠野くんは言ったじゃないですか。武器があっても戦うのは怖いって。だから、これで懲りたりはしないんですか？」
「……それはありません。先輩の力になりたいのは変わらないし、吸血鬼の事を見なかった事にもできない。
　でも、ごめんなさい。先輩との約束を破った事は反省しています。あの時点で、アルクェイドと二人で吸血鬼探しをしている事を先輩に告白すれば良かったんです」
　深々と頭を下げる。
　俺はアルクェイドとの約束を守ろうとして、先輩の親切心を踏みにじった。
　……いや、違う。
　俺は先輩に嫌われたくなくて、アルクェイドとの約束を黙っていた。それが先輩への不義になると分かった上で。
「こ、告白、ですか。それは、そうですね。遠野くんはハッキリ、わたしに秘密を打ち明けるべきでした」
「ですが、わたしが反省してほしいのはそこではありません。遠野くんはもっと自分の身体を大事にしてください。貴方はふつうの男の子なんです。わたしのような掃除屋とは違う。
　……だから、遠野くんの身に万が一の事があったら、わたしは自分が許せません」
　……今さらながら自分の馬鹿さかげんを思い知る。
　俺はヴローヴを倒した事で浮かれていた。
　大きな危機が去って、先輩とアルクェイドの事ばかりで、吸血鬼の危険性を軽視していた。
　先輩が怒っていたのは約束を破ったからじゃない。
　この人は俺が危険に身を晒した事を、本気で叱ってくれたんだ。
「シエル先輩、あの―――」
　……だめだ。
　心からの謝罪と感謝がまぜこぜになって、うまく頭が働かない。今はただ、先輩の顔をまっすぐに見る事しかできなかった。
「……はあ。色々と言いたい事はありますが、そんな顔をされたら何も言えません」
「考えてみれば、ひとりで吸血鬼を探してはいけない、なんて言ったわたしにも落ち度はあったんですね。
　たしかに貴方はひとりではありませんでしたし。まあ、一緒にいた相手があまりにも問題でしたが」
「あ……いや、あれは……トンチというか、言い訳というか、ですね」
「いいです。わたしも反省、かつ学習しました。
　遠野くんがあれぐらいで大人しくしている人じゃないって、よーく覚えておきます」
　先輩はそう批難するものの、声には冗談がまじっている。
　……良かった。
　まだ話は終わってないけど、昨日の約束破りに関しては少しだけ許されたらしい。
「あ。でもアイツがいたって知ってるってコトは、先輩はどこから見てたんですか？　……やっぱり、俺たちと同じように街を探し回っていた時、隠れて見ていたとか？」
「さあ？　何のコトかまったく分かりません。わたし、昨夜はこの街を離れていたのでなんとも。
　ノエル……先生がたまたま見かけたとかで」
「ノエル先生が？
　今日は休んでますけど、昨夜は元気だったんですか？」
「はい？」
　先輩はノエル先生の欠勤を知らなかったらしい。
　数秒だけ思案した後、先輩は何事もなかったように話を切り替えた。
「ノエル先生のさぼりグセは後で追及するとして。
　今は貴方のコトです、遠野志貴くん。
　わたしにも落ち度があったので約束を破った事は水に流しますが、問題はより大きくなった事を理解していますか？」
「？　問題って、なんですか？」
「アルクェイドの事です。
　貴方は彼女の在り方を誤認しています。彼女が血を吸わないから人間の味方だ、なんて考えていませんか」
「――――――」
　突然の追及に絶句する。
　……それは問いかけが唐突なものだったからではなく、ここ数日、ずっと考えないようにしていた“疑問”そのものだったからだ。
「……そこまで、単純に考えてはいないけど。
　でもアイツはこの街に巣くっていた吸血鬼の敵だ。俺たちと目的は同じなんだから、協力したって……」
「やはり根本から間違えているようですね。
　いいでしょう。部外者である遠野くんに説明する事は避けていましたが、今回は特例です。
　貴方がこの先も吸血鬼に関わるというのなら、彼女と彼女の敵―――ロアについてお話しします」
　……空気が変わる。
“遠野志貴をこれ以上関与させない”事を諦めたのか、先輩は真剣な面持ちで俺を見据えてきた。
　俺も異論はない。
　アルクェイドと吸血鬼の事を話してもらえるのなら、それこそ願ったり叶ったりだ。
「世界に数多くいる吸血種の中でも霊長類、
ホモサピエンスの血液を糧とする異物を、わたしたち聖堂教会は吸血鬼と呼称しています」
「吸血鬼は大きく真祖と死徒とに分類され、
　アルクェイド・ブリュンスタッドは真祖であり、
　この街に巣くっているロアは死徒となります」
「上級の死徒たちはみな特殊な異能を持っていますが、ロアはその中でも異端扱いされている特例でした」
「特例……あのヴローヴみたいなヤツなんですか？
　祖とかいう、吸血鬼の頂点みたいな」
「……そうですね。行ってきた災厄量で認定するのなら、ロアは死徒階梯におけるⅨ位、二十七祖に匹敵します。
　事実、教会は彼を二十八人目の祖として捉えています。他の祖たちは彼を同位と認めてはいませんが」
　吸血鬼の王、祖のひとり。
　……ヴローヴがやって来ただけでも災難なのに、この街は何十年も前からそんなヤツに居座られていたのか。
　しかし……
「ロアってヤツはそんなに強いんですか？　ヴローヴと同じぐらいなら、俺たちとっくに死んでいると思うんですけど」
「ロア本人はそこまで強力な個体ではありません。
　ですが、“対処する”という意味で言えばヴローヴより遥かに厄介な相手なんです。
なにしろ、死んでも生き返ってしまうんですから」
「先輩。吸血鬼は不死身なんだから、死んでも生き返ってくるのは当たり前なんじゃないかな」
「不老不死と蘇生はまた別の話ですよ。
　たしかに吸血鬼は致死の傷を負っても血液があるかぎり復元しますが、血液が底をついた状態であれば消滅します」
「……消滅した後も隷属死徒たちが主の肉体を修復し、力ある血液を注ぎこめば復元はするでしょうが、完全に消滅した後、ひとりでに蘇生する吸血鬼はいない。
　けれどロアはそれすら克服してしまった吸血鬼なんです」
「遠野くんは輪廻転生という言葉をご存知ですか？　
仏教用語ですから日本の方には馴染みはあると思うんですけど」
　……輪廻転生。
　アルクェイドも言っていたロアの特性……。
「……はい、ありますけど。死んでも次の人間として生まれ変わるっていうヤツでしょう」
「ロアの特性はまさにそれです。
　彼は輪廻転生を魔術として成功させた。死んでも生き返る、殺しても殺せない、とはそういう意味なんです」
　殺しても殺せない……。
　たとえば、目の前にいる吸血鬼を殺して安心しても、そいつは次の世代の人間に生まれ変わってしまう、という事だ。
　それは生命としての不死ではなく、存在としての不死に近い。
　転生がどこまで汎用性のあるものかは不明だが、本気でロアという吸血鬼を消滅させたかったら、すべての人間を殺すしかないという理屈になってしまう―――
「もっとも、転生には制限があります。
　基本、ロアは存命している間に次の<肉体|じぶん>をあらかじめ決めておきます。これと定めた血筋の胎児にこれまでの自分の全情報を移植するんです」
「ロアの情報はその胎児が成人、ないし自己としての知性を持つまで影を潜めています。
　そして転生体が“自分”を引き継ぐに相応しい知性を持った段階で、ロアという吸血鬼になってしまうんです」
「―――ちょっと待って先輩。
　移植って、つまり赤ん坊が母親のお腹の中にいる時に手術みたいな事をするんですか……？」
「基本的にはそうです。移植は転生先の肉体が胎児の時に行われます。それは医学的な工程ではなく、自然のサイクルに近い工程です。
　さきほど全情報と言いましたが、ようは魂という名の電波と思ってください。電波を発信するのも受信するのも人間の脳」
「ロアはその肉体が死滅した際、魂を拡散させて次の肉体に転移します。転生先が決まっていればその肉体に。決まっていなければ一定条件を満たした胎児にランダムに。
　ロアの優れたところは魂なんていう計測不能の形而上のものを定義し、
伝達可能なモノとして加工したことでしょう」
「……………」
　にわかには信じがたいが、話の筋は理解できる。
　ロアという吸血鬼は“今の<肉体|じぶん>”が死んだ段階でどこかの赤ん坊に転生し、その後、肉体が成人するまで潜伏しているという事なんだけど……
「……先輩の話を鵜呑みにすると、そいつは本当に死なないじゃないか。不死身じゃないけどそれ以上に質が悪い。
　殺しても違う人間として産まれてくるなら、そいつは人間がいるかぎり永遠だ。不老不死ですらない」
「ええ、その通りですね。
　ロアが死徒に成ったのは今から八百年ほど前。それから現代まで転生した回数は16回。そのことごとくを、アルクェイド・ブリュンスタッドは殺害しています」
「アルクェイドが……？」
「はい。彼女にとってロアは特別な吸血鬼ですから。……わたしにとってもロアは特別な吸血鬼なんですけど」
「真祖は死徒に関心を持たないものですが、アルクェイドは真祖の中で唯一、吸血鬼を殺す真祖でした。
　彼女は今まで多くの吸血鬼を殺してきましたが、その中でも特に執心していたのがロアです」
「……………」
　アルクェイドが吸血鬼を殺してまわる吸血鬼である事は聞いている。
　実際、アイツはヴローヴとも戦ってくれた。
　それと同じようにロアを追っているんだろうけど、少し事情がこみ入ってきた気がする。
「……そうだ、ヴローヴとロアは違う。
　ロアってヤツは死んでもまた生まれてくるんですよね？
　なら何回殺しても意味がない。アイツ、それを知ってて今回も追ってきたんでしょうか？」
「ええ、彼女にはそれしか手段がありませんから。
　そしてロアは吸血鬼として覚醒し、行動を起こした時点で彼女に殺され、そのたびに転生し、また彼女に殺される。
　そんな繰り返しを、もうずっとしてきたんです」
　先輩はわずかに俯いて、無念そうに唇を噛んでいる。
　しかし……殺しても転生する吸血鬼、か。
　ヴローヴはいるだけで人間社会を破壊する吸血鬼だったが、ロアはまた別種の、人知れず忍び寄ってくる怖さがある。
　ヴローヴのような死徒は文明と敵対する災害だが、
　ロアのような死徒は人間社会に潜む病魔に近い。
「……厄介ですね。
　先輩、そのロアって死徒はどんなヤツだったんですか？」
「おや。ロアの説明はこれで終わりにするつもりでしたが、彼に興味があるんですか？」
「ぁ……いや、なんとなく。そんな回りくどい不老不死を実現した吸血鬼はどんなヤツだったのかなって……」
「そうでしたか。ではもう少しだけ。
　始まりのロアは男性ですが、その性別は転生先の肉体によって変化します。
　この死徒の厄介なところは、その発見が極めて困難という点ですね。なにしろ人の子として生まれてきて、きちんとした両親がいるんです」
「ロアが吸血鬼として肉体と意識を変貌させるのは、肉体が満足に活動できる歳からになります。
　ですのでロアの転生体は成長するまで吸血鬼としての片鱗をまったく見せません。そのくせ一度ロアとして目覚めたら、今まで培った人間関係を利用して完全に社会に融け込むんです」
「教会がロアに気づいた時にはもう手遅れのケースがほとんどでした。ロアが育った街は死の都と化し、その絶頂期にアルクェイドによって終わらされています」
　……回りくどいが理にかなっている。
　人間の子として成長するのなら周囲に気付かれる事なく血を吸い続け、勢力を伸ばせるだろう。
　ただ、疑問点が一つある。
　転生体は成長してロアとして目覚めるというが、それでは“それまで人間だった”方はどうなる。
　はじめから消える予定だった作り物の人格として、誰からも忘れ去られてしまうのだろうか……？
「……忘れ去られる、という事はありません。
　だってその代のロアの人格と記憶は、それまで生まれ育った転生先の人間そのものなんですから」
「たとえば、Ａという人物がロアの転生先だとしましょう。
　Ａが成人に達して吸血鬼になった時、覚醒したロアの<情報|たましい>がＡになるのではないんです。
　Ａという人物が、ロアという<情報|たましい>に汚染されるだけなんですよ。ある日突然、何の前触れもなく趣味や嗜好が変わるのだと思ってください」
「……二重人格のようなものじゃないんですね？」
「ええ。もとからの肉体が持っていた魂にロアの魂が<移植|プリント>される。転生体とロアは一心同体なんです。
　転生先がどのような善人であれ、ロアが覚醒すればソレは吸血鬼という悪になる。死徒はその生存手段そのものが人間にとって悪ですから。
　そのおり転生先の人格も肉体も変貌します。ロアという膨大な情報と価値観に切り替わるんです」
「……肉体も吸血鬼になるんですか？
　その、ちゃんと人間として生まれたのに？」
「転生するのは人格ではなく魂ですから。
　汚染されたロアの魂は、覚醒した段階で転生先の肉体を徐々に吸血鬼化させる。何代も蓄え続けた情報を生かすに相応しい怪物の肉体に。
　ですが―――」
「……ですが？」
「それだけでは万全とは言えません。転生は完成された不老不死のシステムですが、立ち上がりに不安材料が多すぎる。
　それを補うためロアは転生先の条件を絞ります」
「まず、生まれてくる家が富豪であること。社会的地位も高く、財産も豊かな家の子供として生まれれば、街すべてを吸血鬼化させるのに便利ですから」
「それともう一つが、転生先の肉体が強靭である事。
　……こちらは絶対条件ではなく、都合があえば、というレベルですね。
　人間の中にも特別な力を持って生まれてくる子供はいます。
　魔術と呼ばれる、学べば修得できる神秘ではなく、生まれつき肉体が持ってしまう特異能力。一般に超能力者や鬼子とされる人種の事です」
「特異能力というのは遺伝するケースが多いですから、ロアは自分の新しい肉体にそういった『人間ではないもの』の家系を選ぶこともあったと言います」
　先輩は淡々とその、“転生先の条件”とやらを語る。
　……富と名声があり、かつ、特別な才能を持つ人間を輩出する家系。
「………………」
　なにか。
　この話は、聞いていて、おもしろくない。
　自分に関わりのない事、興味のない話だからじゃない。
　俺は単純に―――その条件とやらを考えるのが、たまらなく気持ち悪かった。
「……ロアの話はここまででいいでしょう。
　言うまでもなくロアはわたしの敵であり、この街に住む人々にとっての脅威です。そして脅威というのなら、それはロアだけではありません」
「アルクェイド・ブリュンスタッド。
　彼女こそロアを上回る災害にして元凶。この街を吸血鬼の住み家にまで<貶|おとし>めたのは、他ならぬあの化け物です」
「な―――」
　沈んでいた気持ちが一言で切り替わった。
　首の後ろに火打ち石を当てられたようだ。
　いま、元凶はアルクェイドだと先輩は言ったのか。
　アイツを―――アイツを化け物だと、その口で？
「なに言ってるんだ先輩……！　アイツは俺を助けてくれて、街の為に戦ってくれたんだぞ！？
　元凶だなんて、そんな事……！」
「だから、それが間違っているんです。
　彼女はこの街の安全なんて、ましてや人間の命なんて考えてすらいない。彼女は個人的な理由でロアを追っているにすぎませんから」
「遠野くん。死徒だってもとは人間なんです。
　彼らが吸血鬼になる方法は二つあります。
　魔道を極めて自らの肉体を永久機関に変革させるか、
　真祖という初めから吸血種として生まれたモノに血を吸われるか。
　ロアは後者、真祖に血を吸われて死徒になりました。ロアという吸血鬼ですら真祖という超越種の犠牲者にすぎない」
　腰を浮かせた俺に動じる事なく、先輩はまっすぐに俺を見据えてくる。
　その感情のない瞳が、次に何を言おうとしているのかを告げている。
「……アルクェイドが、ロアの血を吸ったって言いたいんですか」
「憶測ではなく事実です。
　彼女は八百年前に一度だけ過ちを犯した。真祖の王族でありながら人間の司祭だったロアの甘言に乗り、杯に汲まれたロアの血を飲んでしまった」
「真祖はわたしたちとは大きくかけ離れた存在です。
　死徒はたしかに絶大な能力を持っていますが、それらは所詮“人間の延長”でしかありません。長い寿命を得たからこそ自己の能力を向上させ、結果としてあのような“超”能力を持つに至りました。
　極論ですが、ただの人間であっても長い寿命さえあれば、誰だって吸血鬼程度の能力は修得できる」
　……ああ、そういえば最近、何かの本で読んだっけ。
　やれ不死身の体だ、やれ不老不死だと言うけれど、吸血鬼なんてそう大したものじゃないんだって。
「……ですが真祖は違います。彼らは現れた時から人知の及ばない力を保有している。
　真祖とは精霊そのもの。地上で起きるあらゆる自然現象の化身。この<惑|ほ><星|し>の分身と言ってもいい」
「わたしたち人間は自然との共存から独立、自立する事で繁栄してきました。星の恩恵を受けながらも資源を略奪し、星が滅びようとわたしたちは滅びない未来を手に入れた。
　人間だけがこの原罪に行き着いた。人間が地球上でもっとも優れた種として確立したのは、この一点があったからです」
「けれど、星にしてみればそれは悪です。
　世界であれ一つの生命、一つの概念です。ですから自身を人間から守ろうという意思が働きます」
　……先輩はおかしい。
　自然に意思など在るはずがない。
　しかるに自己防衛なぞ、ましてや自分の身体を汚す害虫への敵意なんぞを抱くハズがない。
『―――否。
　それはある。確かにある。だがあまりにも生命としての段階、存在としての大きさが違いすぎて視えないだけだ。
　この現実を見ろ。
　実在する自然の感情を見ろ。
　矮小な知覚には耐えられない色彩を見ろ。
　この流動する生命の猛りと痛みを、おまえたちはまだ知らないだけだ』
“あ―――、あ”
　一瞬の恐怖から解放される。
　人間の知覚に見合った共通の価値観に安堵する。
『惑星が表層に生きる生命体に敵意を抱くのか？
　ある訳がない―――否。それは単に感じ取れないだけではないのか。
　自然に、世界に意思はある。だからこそ今も我々を生かし続け、我々を庇護し続ける。
　問題は、それが感じとれないという事ではなく。
　人間が美しいと思う基準に、自然が賛同してしまった事だ』
「惑星、自然現象が自らの触覚として独立させた存在。
存在。
　それが一般に妖精、精霊と呼ばれるモノたちです。
　真祖というのはその一種族なんです。
　もとから人間をいさめる役割として生まれた彼らは、人間を悪としか思っていない。
　わたしたちが人間を捕食する吸血鬼を『悪』と思うように、真祖にとって自然を食い物にする人間は『悪』なんです」
『しかし、それが真実であれば滑稽すぎる。
　何故連中は悪たる人間を食い物にしなければ存在できないようデザインされてしまったのか』
「分かりますか。
真祖にとって人間は敵にすぎません。
　もともと自然の一部、いえ、この星そのものとリンクしている彼らの能力は、それこそ際限というものがないんです」
「教会の歴史の中でも真祖と戦った記録は数えるほどしかありません。
　<真祖|かれら>は世界そのものから力を引き上げる。<真祖|かれら>を倒すということは世界を倒すほどの概念武装が必要になります。
　……もちろん、そんな武装はありません。
　ですから<真祖|かれら>には、外的要因による“死”を与える事ができない」
「……さらにはこんな碑文も残されています。
“真祖を討つのであれば万全のまま討ってはならない。
　死に瀕した真祖のみ葬るべし”と。
　奇襲ぐらいでしか殺せない怪物だというのに、不意打ちを禁じているとか訳が分かりません」
　あの夜。
　ホテルの一室で彼女は言った。
　遠野志貴が彼女と出遭ったのが『昼』ではなく『夜』であったのなら、たとえこの<眼|まなこ>を以てしても、彼女に死を視る事はできなかった、と。
　つまり。
　それは、何があっても死なないという事。
　死するが運命だからこそ転生を求めた男とは、真逆の在り方に他ならない。
「いいですか、遠野くん。
。
　アルクェイド・ブリュンスタッドがロアを追っているのは、ロアに与えてしまった自分の力を取り戻す為なんです。
　それは決して人間の為ではありません」
「……なぜ彼女が弱っているのかは判りませんが、もし力が戻れば遠野くんの手を借りる必要なんてなくなります。
　その時、彼女が遠野くんを無事に帰すと思いますか？」
　先輩は真剣だ。
　真剣に俺の命を心配してくれている。
　真剣に、アルクェイドは血を吸う化け物だと嫌悪している。
　……すまない、先輩。
　それは―――それは、俺には耐えられない。
　だってアイツは、先輩と同じように、人でなしの俺を“そこにいていい”と笑ってくれたんだ。
「…………帰すに決まってる、だろ。
　だって―――アイツが俺をどうにかするなんて、そんな理由ないんだから」
「彼女は吸血鬼です。それも死徒のように、自身が生き延びる為に血を必要とする吸血種ではありません。
　いいですか遠野くん。真祖たちが人間から血を吸わなければ、そもそも死徒なんていう吸血鬼は生まれなかった」
「彼らは―――人間の血なんか吸わなくても生きていけるくせに、ただ吸いたいという吸血衝動だけで人間の血を吸って、人間を人間以外の怪物にしてしまうんです。
　そんなモノの傍に、一般人である貴方を歩かせる訳にはいきません」
「――――――」
　先輩の話は、それで終わった。
　俺は―――さっきから繰り返す頭痛のせいか、目の前にいるこの人を、見知らぬ他人のように感じてしまっている。
「……長くなりましたが、わたしからの話は以上です。
　これで彼女がどれほど危険な存在なのか、理解してもらえましたか」
「……はい。額面通りには、なんとか」
「良かった。じゃあ、もう彼女には近づかないでくださいね。協力なんてもっての外ですから」
「……………」
　先輩の言っている事には納得できない。
　だって。先輩はアルクェイドを知らない。
　あいつがいいヤツなんだって、知らないクセに。
「遠野くん……？」
「……イヤです。アイツとの約束は破れない。
　だって、アルクェイドはいいヤツだし！　俺を殺そうとするとか、そんなコト絶対に、」
「ですから、その彼女自身が危険なんです！　いいかげん目を覚ましてください！
　彼女は人間じゃない、いつ気紛れから人間の血を吸うかわからない、死徒以上の化け物なんですよ……!?」
「っ―――！」
　分かってる。
　先輩が本気で俺を心配してくれているのは分かっている。
　それでも、今の侮辱は我慢できなかった。
「やめてくれ先輩。アイツと話してもいないクセに、そんなこと言わないでくれ」
「……それは、確かにそうですけど。
　だけど彼女は吸血鬼なんです。それだけはちゃんと理解してください……！」
「だから、それは違うんだって……！
　いいか先輩、アルクェイドは血を吸わないんだ。アイツは自分でそう言ったし、それに嘘があったとは俺には思えない！
　他の真祖がどうかは知らないけど、アルクェイドは別だ。
　アイツだけは、
きっと―――」
「きっと、
なんだっていうんです？
　たとえ彼女が危険ではないとしても、遠野くんが戦うこと自体が危険じゃないですか」
「貴方は彼女とは違う。傷つけば死んでしまう、普通の人間です。……わたしが許せないのは、それが判っていながら遠野くんを戦わせている事です。
　アルクェイドは貴方が死んでもいいと思っている。
　そんなの、遠野くんを道具としか見ていないってコトじゃないですか！」
　ここにいる俺ではなく、この場にいないアルクェイドに向けて先輩は怒鳴った。
　頭の中で火花が散っている。
　先輩が正しいのはちゃんと理解できている。
　俺の方がおかしい事は理屈できちんと分かっている。
　けど、だからこそ―――
今は、その声がうとましかった。
「……うる、さい」
「遠野……くん？」
「先輩はうるさい！　アルクェイドは俺を道具扱いなんかしていない！　知らないのに―――」
「アルクェイドの事を知らないくせに、勝手なコト言わないでください！
　アイツが守ってくれなかったら俺たちはとっくに死んでたんですよ!?　少しは感謝するのが筋ってもんでしょう!?」
　立ち上がって先輩に怒鳴りつける。
「感謝？　それこそあり得ません。あんな化け物に感謝してどうするんですか。そもそも元凶は彼女です、あれぐらい当然の義務でしょう」
「ああ、そういうコトですか。なるほど、納得しました。どうしてアルクェイドが街を守ったのか。あれは貴方を騙すための布石だったんですね。ああやって“人間らしい”フリをすれば、遠野くんがころっと騙されるから」
「なっ―――…………！」
　今のが俺への皮肉なのか、本気で言ったものなのかはどうでもいい。
　先輩にとってアルクェイドは倒すだけの吸血鬼で、そんなものを信じる俺は愚か者だと思っている。
「俺は騙されてなんかないっ！　だいたい、アイツが嘘なんかつけるもんか、先輩みたいに器用じゃないんだから！
　俺はアイツを信じます。っていうか、アレが嘘でも喜んで騙されてやる！」
「あのですね。自分が何を言っているのか理解していますか？　社会を守る私たちより、自由気ままに動いては街を混乱に陥れる、あのはた迷惑な真祖を信じるって言ったんですよ？
　さすがにそれは聞き逃せません。っていうか、わたしをバカにしてるんですか!?」
「バカにしてるんじゃなくて、アルクェイドを信じるって言ってるだけでしょう!?
　先輩こそどうして分かってくれないんですか!?　アイツと協力すれば、街はすぐに元通りになるじゃないですか！」
「彼女と協力するのなんて死んでもお断りです。月を重しにして眠った方がまだマシですから」
　む。なんか、どこかで聞いたような言い回しだった。
「ええ、そうですか。死んだ方がマシって話ですか。
　じゃあ俺も言わせてもらいます。アルクェイドを目の敵にする先輩はなんかぜんぜん先輩らしくありません。ヴローヴの方がマシってレベルで、不愉快です」
「ああそうですかっ！　わたしも同じぐらい不愉快です！
　そんなに言うならアルクェイドに騙されて、いいように使われたらどうですか!?　そんな人を心配するのもバカらしいですから、わたし！」
「ああ、余計なお世話だよ！　今日から大手を振ってアイツとパトロールできて清々する！　アルクェイドの方が先輩より頼りになるし、強いし、いちいち小言も言わないし！」
「～～～～っ！　もういいです、出ていってください！　
遠野くんなんか絶交です！
　ええ、こちらも清々します！　遠野くんなんて頼りにならないし、弱いし、放っておけないコトばっかりするし！　二度と話しかけたり様子を見に行ったり助けたりしませんから、そのつもりで！」
「それは良かった、じゃあ勝手にします！　失礼しました！」
　先輩に怒鳴り返して茶道室を飛び出した。
　勢いは止まらず、肩を怒らせて教室目指して廊下をばく進する。
「なんだよ、子供扱いして……！　先輩だって頑固じゃないか。アルクェイドを嫌うばっかりで、俺の話をぜんぜん―――」
　……いや。
　ぜんぜん聞いてくれなかったワケじゃなかった。
　先輩は辛抱強く聞いてくれていた。
　ただ、俺がアルクェイドの事で勝手に熱くなってしまっただけだ。
「で、でも分からず屋なのは変わらないし！
　俺から謝ったりしないからな、もう……！」
　冷静になりかけた自分を無理矢理<奮|ふる>い立たせて廊下を急ぐ。
　ここで足を止めたら茶道室に戻って謝ってしまいそうだ。
　……俺はともかく、アルクェイドは悪くない。
　だから今は、どんなに胸がモヤモヤしても茶道室に戻る訳にはいかなかった。
「おや、昼休みも終わろうって時にえらくシケた顔で戻ってきたな。
ははあん。購買部の袋を持ってるってコトは、ろくなもん残ってなかったな？」
「……………」
　予防注射をイヤがって早退した男は、なに食わぬ顔で教室に復帰していた。
　有彦に指摘されて、自分がまだ先輩と食べる予定だった昼食を持っている事に気がついた。
　昼休み終了まであと10分。
　精神的にも身体的にも、とても食べられる状況じゃない。
「有彦。おまえ、ハラの様子は？」
「まあ八分目ぐらいかね。なに、くれんの？」
「ああ、食べてくれ。ちょっと今は入りそうにない」
　購買部の袋を有彦に手渡す。
「そういうコトなら喜んで。
お、カレーパン多めだな。というかカレーパンしかないな。あとは牛乳だな。趣味どうかしているな」
　有彦は遠慮なくカレーパンを食べはじめた。
　もうすぐ５限目だが、あのペースなら平らげるだろう。
　昼休み終了のチャイムが鳴る。
　俺は自己嫌悪に潰れそうな自分をやり過ごすように、机につっぷして５時限目の開始を待ち続けた。
　放課後になっても気持ちは微妙に沈んだままだった。
　教室には自分しかいない。
　通り魔事件の影響で放課後の部活動も自粛中だ。大部分の生徒は帰宅し、校舎は静まりかえっている。
　……絶交の言葉通り、先輩がやってくる気配は微塵もない。
「い、いや、別に気にしてないし。
　たんに休んでいただけだし、もうさっさと帰るからな」
　誰に言い聞かせるでもなく呟く。
「メール？」
　屋敷に帰ろうと教室を出た時、携帯に着信があった。
　鞄から携帯を取り出す。
　メールの差出人は意外な事にノエル先生だった。
　内容は簡素なもので、
“時間ある？　見せたい物があるから来てほしいの。
　もちろんシエルさんにはナイショでね♡”
　目的地の住所と、地図画像が添付されていた。
　……行ってみよう。
　何の用かは知らないが、気分転換にはなるかもしれない。
　このまま屋敷に帰っても気持ちは沈む一方だろうし。
　街の外れ、営業破綻から数年前に閉鎖された廃工場。
　その管理棟である建物の四階。
　それがメールで指定された待ち合わせ場所だった。
「……ここでいいんだよな？」
　目の前には非常階段がある。
　待ち合わせ場所にしてはあまりにも物騒だが、住所に間違いはない。
　気後れする状況だが、ここまで来て帰るのも馬鹿らしい。
　……階段を上ろう。ノエル先生がいなければ帰ればいい。
　足音をたてないように錆だらけの階段を上っていく。
　ビルそのものが廃棄されているのか、階段は荒れ放題だった。
「これ、崩れないだろうな……」
　恐る恐る階段を踏みしめる。
　と……
　確かに物音が聞こえてきた。風の音とは思えない。
「今の足音……上からだな」
　上に登っていくにつれ音は大きくなっていく。
　ほどなくして四階に辿り着く。
　目の前には閉じられた鉄製のドアが一つ。
「…………」
　ノブを手に取るとすんなりと回ってくれた。鍵はかけられていない。物音は、この中から聞こえてきている。
　……ドアを開けて中の様子を窺う。
　暗い。中は閉め切られている。廃墟なので電灯の恩恵はない。
　ただ、
　部屋の奥で、何かが断片的に光っていた。
「ノエル先生……？」
　中に入りきる前に声をかける。
「あ、来てくれたのね志貴クン。ごめんなさい、迎えに行けなくて。とにかく入って入って♡」
　ノエル先生の声が聞こえてくる。
　場所はここで間違いないようだ。
　ノブから手を放すと、ドアはその重みでひとりでに閉まった。
　……暗闇に目を細める。
“何がある？”と考えるより先に、手が自然に鼻を押さえた。
　嗅ぎ覚えのある異臭。
　ぬちゃりと音をたてる床の感覚。
「………………」
　ナイフをいつでも出せるよう袖口に忍ばせて、部屋の奥へ足を進ませる。
　そこには、
　そこには。
　椅子に縛られ、口に猿ぐつわをかまされ、ビクビクと体を痙攣させている、二体の吸血鬼の姿があった。
　鼻を突く匂いの元はあの二人だった。
　ガタガタという物音は、痛みから逃れようとするカカトが床を蹴る音だった。
　椅子を囲む光によるものだろう、二体の足はジリジリと焼かれていた。生きたまま焼かれる苦痛からか、猿ぐつわの端には気泡があふれ、彼等のアゴをべったりと濡らしている。
　……何時間ああして<炙|あぶ>られていたのか。
　叫び続けた喉は筋張り、骨が浮き出るほど引きつっている。
　もがき続けた体は血まみれで、それらは拘束を解こうとして暴れたものと、様々な器具で傷つけられたものであるのが見て取れた。
「こっちよ志貴クン。シエルさんには内緒にしてくれた？」
　床と壁に飛び散った新鮮な血と肉の跡。
　部屋の空気はデパート地下の、あの通路と何ら変わりはない。
　その中で彼女―――ノエルは満面の笑みで、椅子に縛られた二人の男を見下ろしている。
「……ノエル先生」
　どういう事です、と口にするのも不快だった。
　俺は視線だけで目の前の女性に問いかける。
「分からない？　志貴クンには何度も助けられたし、いい機会だからわたしたちのお仕事を見せてあげようと思って。
　それに、ほら。この子たちのコト、覚えてる？」
「…………」
　言われずとも一目で思い出していた。椅子の二人は俺を地下に送りこんだ、デパートの二人組だった。
「そういうコト。わたしだけで始末してもいいんだけど、アナタもコイツらには貸しがあるでしょう？　だから仕返しさせてあげようと思って」
「はーい、お待ちかねの懺悔タイムよキミたち。もう誰もやってこないし、防音はカンペキだし。無粋なおしゃぶりは取っちゃいましょうねー？」
　吸血鬼のひとりが、口から猿ぐつわを外される。
　ゴボ、と壊れたポンプがたまった水を吐き出すような、人間の呼吸とは思えない音がした。
　ソレは咳き込みながら口内にたまった唾液と血泡をはき出すと、顔をあげて女を凝視する。
　殺意と憎悪のこもった眼……じゃない。
　そんな抵抗は、もう何時間も前に過ぎ去った希望にすぎない。
“やだ……いやだ、いやなんです……”
“死にたくない……死にたくない……せっかく不死身になったのに、こんなところで死にたくない”
“もう止めてください。許してください。助けてください”
“こんなのってないです。いくらなんでもあんまりです。俺たちだって被害者なんです”
　ソレは今、完全な弱者だった。
　か弱く、あと一歩で死んでしまう脆さに満ちていた。
　全身全霊で助けを乞い、生きたいと願っていた。
「……………」
　人間はなんであれ、弱い生き物に情を持つ性質がある。
　過去の行いより、現在の在り方に対応する知性がある。
　たとえば犯罪者への対応だ。
　どれほどの悪逆を為した者であれ、囚われ、無力になった者には許しと更生の機会を与える。
　それを甘いと否定するか、人間だけが持つ博愛として堪え忍ぶかは、悪逆の被害にあった当事者にしか語れない事だ。
“ひぃ―――いゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ！！！！　やめ、やめて、やめやめやめやめめめめめめめめめぇぇぇええええええええ！　ひぎぃ、ひぎぃ、ひぎぎぎぎぎぎぎぎぎきぎぎぎぎぎぎぎぎき―――！！！”
　女に慈悲はなかった。
　命乞いをする“弱者”の声を残らず聞いてから、その嘆願と同じだけの回数、丹念に処理を施した。
　まずは五本の指から始まって、手首。それから肘。肩。趣向を変えながらもう一本。
　それらが無くなってからは器具を変えて内臓に。
　切ったり砕いたりするのはやめて、刺したり焼いたりする器具で人体を処理していく。
　それは調理のようだった。
　生魚を解体する料理人。ただし技術も理念も天と地ほどの差がある。
　料理人の場合、どこから切り始めれば殺さないでいられるかを計る技術と、鮮度を保つべきだという理念がある。
　だがあの女は違った。そもそも優れた技術がない。
　ソレが未だに生きているのは、単にソレが死に難いからだ。
　かろうじて共通しているのは理念だけ。
“美味しく食べるため”という目的が一致している。
　生きたまま処理をしているのは／
　最後まで発声器官を残しているのは、
　ただ美味しく悲鳴を聞きたいからだ。
“ぁ―――ぁぁ、やめ、入れない、で、戻し、入れないで、フタ、そのフタを閉じないで―――――”
　ほどなくして悲鳴は途絶えた。
　ソレが息絶えたからではなく、椅子からそのカタチが消え去ったからだ。
　女は丹念に吸血鬼を解体し、首だけはまだ生きている状態にして、すべてのパーツを50センチ四方の箱に押し込んでフタをした。
　残されたもう一体は恐怖に歪んだ顔で、その一部始終を見つめていた。
　正しくは見せつけられていた。
　ソレらの目蓋はとっくに切除され、視界を塞ぐ事が不可能になっていたからだ。
　フゴウ、フゴウ、と血走った風の音がする。
　全身全霊の絶叫……おそらくは命乞い……が、猿ぐつわの隙間から漏れている。
「どう？　この階梯の吸血鬼に痛覚はないんだけど、特別にコイツらにも“通じる”道具でバラバラにしてあげてるの。
　たった一日の審問時間しかないんだもの。これぐらいはやらないと、このコたちに騙されて殺された人たちの無念は晴らせないでしょう？」
　女は吸血鬼から目を離し、粘ついた靴音を響かせて俺に近づいてきた。
　その手には年代物の、<糸鋸|いとのこぎり>のような器具が握られている。
「さあ、志貴クンもどうぞ。
　これは洗礼済みの器具だから、素人が使っても効能は発揮されるわ。切れ味は悪いけどその分頑丈で、吸血鬼は触れた箇所から焼かれていくから返り血もでない優れものよ」
「あ、いきなり首を切るのも悪くないけど、はじめはやっぱり小指からの方がカンタンだから。できるだけ苦しめて殺しちゃって」
　女は糸鋸を差し出してくる。
　俺は―――
「なに？　やっぱり、シエルさんと学生ごっこやってる志貴クンには荷が重い？」
　挑発とも批難とも取れる女の声。
　それに、
「まあ、いいですけど」
「え……？」
　自分でも驚くほど淡々と、どうでもいい事のように返答していた。
「そ、そう？　その割には厭そうな顔してるけど？」
「厭ですよ。面倒事なんだから」
　人だったものが載せられた椅子に歩み寄る。
「<糸鋸|イトノコ>」
　コッヘル、と言いたい気分だったが、控えておいた。
「は、はい。どうぞ。……やり方、分かる？　教えてあげましょうか？」
「先生のやり方は見ていました。
　最終的に、その箱に入れればいいんですよね？」
“―――、――――――…………！”
　こちらを必死に見上げてくる眼球は、今にも眼孔から転び出しそうだった。
　助けを求めている。
　慈悲を乞うている。
　何でもするから、と破裂しそうな目から、涙を流して訴えている。
　その気持ちは文脈として理解できる。
　デパート地下の死体置き場で何個も何個も展示されていたものだからだ。
　もうどうあっても助からず、
　どうあっても人間に戻れない状況でも、
　知性があるうちは有りもしない希望を見る。
　それはそれとして。
　コレが、俺の顔を覚えていたかは分からない。
「やっぱり、これじゃ上手くないな」
　糸鋸を床に落とす。
　椅子に載ったソレの瞳孔が、光を見たかのように収束する。
「……あなた」
「だって、時間の無駄でしょう」
　眼鏡を外して、ナイフを取り出す。
　そのまま、<滑|なめ>るように、椅子に載った生き物の首を<切|はず>す。
「え―――」
　報復も鎮魂も、断罪も俺には不要に思えた。
　過去の為に行う行動は人間的すぎた。
　殺すと決めたのなら殺せばいい。
　女と違い、俺に余分な<時間|エネルギー>はない。
　未来の事を考えるなら、事は淡泊に済ませるべきだ。
「―――」
　背後から女の呼吸が聞こえる。
　始めこそ俺の仕事への反感があったが、今は感嘆の熱がこもっている。
「不承不承だったのは、道具に不満があったからです。
　先生の趣味に文句があった訳じゃない」
　というより、特に何の意見も無い。
「後はコレを仕舞えばいいんですよね。
　先生、やってくれますか？」
「―――あ、うん！　やるやる、任せて！
　うわ、なにこれすご……！　頭蓋骨そのままなのに脳まるごと出てる！　うわ、心臓止まってるのに、なんでまだ脳活きてるの！？」
　<脳|そっち>に線が視えなかった事は、カレにとって幸いだったのか、不運だったのか。
「じゃあ、俺はこれで」
「待って待って！　下にシャワーあるから使って、汚れとっていって！
　私もここ片付けたらすぐ行くから！」
　こちらの手際が良すぎたからだろうか。
　女から毒気が抜けている。
　彼女は、俺の知っているノエルという女性に戻っていた。
「――――――、はあ―――」
　しかし、なるほど。
　これはこれで、悪くない経験だった。
「悪趣味だ。とてもじゃないが付き合えない」
　女の手を払いのける。
　振り払った手の勢いが思いの<外|ほか>強かったのは、女への反感によるものだろう。
「へえ、なに？　悪趣味ってどのあたりが？　もしかしてスプラッタすぎた？
　でも、その割には落ち着いてるわよねぇ志貴クン？
　普通に生きてきた人間ならこの部屋に入っただけでも嘔吐ものなのに、さっきからコイツらじゃなくてわたしにしか注意を払ってないし」
「趣味がおかしいのはわたしだけじゃないと思うけど。それとも、性癖がバレないように善い子ちゃんぶってるとか？」
「っ――――――」
　女の挑発に乗りかけた自分を押し止める。
　……善人ぶっているつもりじゃない。俺が悪趣味だと断じたのは、手間と成果が合っていないからだ。
「……殺すのなら無駄なく殺すべきだ。俺は人間を襲う吸血鬼を殺したいだけで、いたぶりたい訳じゃない」
「はあ!?　<人|・><間|・>を襲う吸血鬼を殺したいぃい!?
　バッカじゃないの、それが善い子ちゃんぶってるって言うのよ！　吸血鬼はなんであれ殺すの！　死ぬの！　考えられるかぎりの傷を重ねて、自分からもう殺してくださいって懇願するまで苦しめるものなんだってば！」
“■■■■■■■――――――!!!!!!”
　女は俺を見据えたまま、無造作に背後の椅子に凶器を投げつけた。
　凶器は股間に突き刺さる。
　声にならない苦悶がコンクリートに反響する。ソレの口がゴボゴボと泡立つ様は、火にかけられた鍋を連想させた。
「さあ殺して！　相手は何もできない生肉よ。アナタが今まで殺してきた死者よりカンタンな作業でしょう？
　違うのは、アレは人間らしい知性があって、人間らしい悲鳴をあげて、人間らしい生活をしてたってコトだけじゃない！
　人の痛みが判る相手なら、人間の痛みを味わってから無残におっ<死|ち>ぬべきなのよ！」
　女の眼には憎しみがある。
　それは吸血鬼に向けられたものではなく、器具を手に取らない俺に向けられたものだった。
　ノエルの憎悪は、自身の価値観に賛同しない俺と、そんな事で揺らいでしまいそうな自分自身の弱さに向けられている。
「じゃあどうするの？　もしコイツがもう人間は襲わない、なんて誓ったら見逃してあげるの？　生かしてあげるの？
　信じられない、コイツらが何人罪もない人間を餌食にしてきたと思ってるの!?　コイツらは怪物なのよ？　なのに、ただ人間っぽいって理由だけで人間扱いしてやるの、キミは!?」
「………………」
　そんな事はない、とは言えなかった。
　確かに俺は目の前の男に殺されかけた。
　同じ方法で殺された人々も数知れない。
　だが、その話と女の質問は違う問題だ。
　女はこう言っている。
“吸血鬼になったものは生かしておいてはいけない。彼らに人権はない。どのようなモノであれ、生きていていい権利はない”と。
　……その考えに、俺は賛同できない。
　ただそこにいるだけで災害となるヴローヴや、人間を食い物にする吸血鬼と出遭ったのなら、自己防衛として殺し合いになるのは避けられないだろう。
　けれどもし人を襲わず、人間らしく生きたいと願っている吸血鬼がいたとしたら、俺には殺し合うだけの理由がない。
　……そこまでの熱量を注ぐ動機が、働かない。
「ああそう、わかったわよ、わたしがやるわよ！
　こんな国でノンキに生きてるキミに期待しちゃったわたしがマヌケってワケね！
　せめてそこで見張り役でもやっといて！　カカシみたいに突っ立って、コイツらの末路をよーく覚えておくがいいわ！」
　女は俺に背を向け、椅子に縛られた吸血鬼に歩み寄った。
　猿ぐつわが外される。
“助けてください。助けてください”
　聞くだけで人の心を<抉|えぐ>る懇願がしぼりだされる。
　あるいは、ソレは本気で更生しようと誓ったかもしれない。
　この悪夢、目の前の女に生きたまま■■される悪夢から抜け出せるなら罪を償うと。
　多くの悪徳に手を染めた男がふとしたきっかけで主の愛に目覚め、敬虔な信徒になるように。
「だぁめ。アナタは死ぬの。
というか死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの。死ぬの」
　解体が始まる。
　空気を割る悲鳴が充満する。
　女の作業は１分ごとに激しさを増していった。
　一体目はまだ<マ|・><シ|・>だったのだ。
　丁寧だった器具の扱いは乱暴に、
　丹念だった腑分けは残酷に。
　口から漏れる断罪の声は、もうどちらが悪魔なのか判別がつかない程だ。
「殺してやる……殺してやる……殺してやる……殺して、殺して、殺して、殺して、跡形もなく殺してやる……！
　死ね、死ね死ね死ね死ね！　早く死ね、今すぐ死ね、最後まで苦しめ、限界まで助けを乞え！　吸血鬼も、吸血鬼のなりそこないも、吸血鬼になるヤツも！　みんなみんな、汚らわしいウジ虫と同じなんだから……！」
「ねえ、そうでしょう？
　わたしの言っているコト、分かるわよね志貴クン？
　吸血鬼になったモノは速やかに死ぬべきなの。
　コイツらはゴミ以下なの。病原菌なの。ただそこにいるだけで汚物を垂れ流す害悪なのよ……！」
　部屋の隅にあった鉄槌が持ち上げられる。
　もはや拷問でもなければ解体作業でもない。
　女は２メートル近い<槍斧|ハルバード>を持ち上げると、壁や天井をこすりながら吸血鬼の体を潰しはじめた。
　鈍い音をたてて、肉と骨が一撃で砕かれる。
　吸血鬼の体は椅子ごと二分の一に縮められる。
　行きすぎた凶行のおかげか、椅子に縛られていた腕の鎖はとけ、床に突き刺さっていた剣は吹き飛んだ。
　吸血鬼は自由になった上半身で、わさわさと這いはじめる。
「ほら、見てよこのアリサマ！　ゴキブリみたい！　こんなになってもコイツらは死なないの！　気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……！　こんなの生きてる価値もない！」
　……そうして、二体目の解体は終わった。
　二体目はハコには入れられなかった。誰が見ても何だったか分からないまで潰されたからだ。あれではハコに詰めて持ち帰る必要がない。
　女は、俺に背を向けて俯いている。
「……ほら。やっぱりわたしの方が正しいじゃない。
　吸血鬼は害悪なんだって。……だから、ね？
　もし自分がそうなんだって<理|わ><解|か>った時は………」
「死んで。自分から死んで。みっともなく泣き叫びながら、死にたくない、って謝りながら首をかっ切って。
　それができないなら糞尿もらしながらひざまずいて、何度も何度も命乞いをしたあと、わたしに首を差し出して」
　焦点の合っていない目で、女は呪いの言葉を吐く。
　ガラン、と槍斧が床に落ちる音がした。
　女は大きく深呼吸をして、激しく上下していた両肩を落ち着けると、
「なーんて、ちょっと脅かしすぎちゃった？
　志貴クンったら危機感が薄いから、お姉さん、ついやりすぎちゃった♡」
　人が変わった……というより、憑きものが落ちたように、女は俺が知っているノエル先生に戻っていた。
　ビルから出て、日の当たる路地裏に下りた。
　あの部屋では話にならないでしょう、というノエル先生の提案だった。
　外気を吸った瞬間、あれほど冷え切っていた感情が元の自分に戻っていた。
　……自分でも確かな理由はないのだが。
　あの工場内の空気が、マトモであろうとする理性を遮断していたのかもしれない。
「死徒と戦うってコトがどんな事なのか、ちゃんと教えておこうと思って。
　ほら、保健室で志貴クン、シエルさんの意見に文句がありそうだったから。それでピンときたの。アナタはわたしと同じで、吸血鬼から街を守りたい人なんだって。
　なら、お互いの<信|・><条|・>は知っておくべきじゃない？」
「……………」
　吸血鬼から街を守る。
　優先順位はあれ、俺もその方針に異論はない。
　……ただ、今の彼女には素直に賛同できない。先ほどの異常な光景がまだ頭に残っているせいだ。
　ただ、先ほどのように“無駄の多い”やり方に不安を覚えているだけだ。
「……俺の信条は単純ですよ。知ってしまったから無視できないし、先輩の助けになりたいだけです。
　それより、ノエル先生は反対しないんですか。シエル先輩は、一般人は吸血鬼には関わらせないと言っていました」
「なんで？　吸血鬼を殺すのはいいコトだし、特別な力があるのなら人々の為に使うべきでしょ？
　教会の代行者だからぁ、とか、普通の男子生徒だからぁ、とか、そんなの関係ないわ。わたしは志貴クンの勇気に拍手を送りたい気分だけど？」
　彼女はあっさりと俺の介入を認めた。
　保健室の時にも思ったが、二人の方針は違うようだ。
　シエル先輩は俺に戦うなと言って、
　ノエル先生は俺に戦うべきだと言う。
　……ますます先輩に申し訳なくなった。
　こうして相反する意見がそろうと、どちらが人間として正しくて、どちらが俺を気遣ってくれていたのか、明確に分かってしまう。
「それにしてもシエルさんにも困ったものね
。
　事態を一日でも早く収束させる事が最善の手段なのに、志貴クンの協力を拒んだり、優先度の低い調査を始めたり、気が緩んでるんじゃないかしら。
　……ま、それも演技なんでしょうけど。あの冷酷な悪魔が、たった数日で変わるはずがないんだし」
「？　冷酷って、シエル先輩のどこが？」
　言葉の内容はもちろん、ノエル先生の仕草にも気を取られるものがあった。
　ただの直感だけど、今の呟きにはこの人の真実が隠れていた気がする。
「ほら分かってない。あの子が誰にも優しい、底抜けの善人だとでも思っていたんでしょう。
　ほんっとバカらしい。アレはただの掃除屋で人間らしい感情なんてありっこないの」
「いい、志貴クン。あの子の笑顔はぜんぶ作り物だから。
　その方が仕事を進めやすいからそうしてるだけで、キミだって騙されているだけなのよ」
「――――――
」
　思わず身を乗り出したものの、反論は口にできなかった。
　さっき先輩を怒らせた俺が、どの口で先輩を擁護するのか。
「あら、思うところがあったみたいね。キミも薄々勘づいてたってコト？
　……ふうん。
ちょっと脅かして様子を見るだけだったけど、そういうコトならわたしも踏みこんであげる」
「志貴クン、シエルさんの事を知りたいんでしょう？
　あの子がどんな人間なのか。どうせあの子は話さないだろうから、特別にわたしが教えてあげる」
　ノエル先生の笑顔にはわずかな悪意が感じられた。
　……聞くべきじゃない、と自分を<戒|いまし>める気持ちと、先輩の事をもっと知りたいと焦る気持ちが混在する。
　……結局、俺は話を止める事ができなかった。
　そんな俺の葛藤すら愉しむように、彼女は先輩の“これまで”を話し始めた。
「わたしたち代行者は二人一組が基本だけど、狩りの成功率は高くない。たいていどちらかが死ぬか、両方とも殺されて終わりって世界よ」
「もし10年以上代行者をやってるヤツがいたら、ソイツはそれだけで立派な異常者として扱われる。心が壊れているか、とっくに吸血鬼化しているのに隠しているとか、まあ、色々陰口言われるワケ」
「そんなひっどい職場で、あの子は何体もの吸血鬼を殺してきた。
　どんなに酷い死徒が相手でも生き残る。
　どんなに<狡賢|ずるがしこ>い死徒が相手でも正体を突き止める」
「成功率は実に１００パーセント。ほとんど奇蹟よこんなの。あの子が<鬼子|おにご>の扱いじゃなきゃ聖女認定されてるくらい。
　……ま、それが出来たのはほんっと単純な理由なんだけど、それはまた後で話すとしましょう」
「代行者シエルの名前は死徒たちにも知れ渡ってる。
　13歳で代行者になった吸血鬼狩りのエリート。代行者になってからもひたすら死徒を殺し続けて、ついには<埋葬機関|まいそうきかん>にまでスカウトされた、吸血鬼を殺す為だけに生きてる<戦闘機械|マシン>。
　キミも見たでしょ？　ヴローヴなんて怪物と渡り合っていた、もうひとりの<怪物|モンスター>の姿を」
　今の言葉は否定したかったが、ここで話を止められない。
　それに……不思議なコトに、先輩を<怪物|モンスター>と説明したノエル先生の声は卑下するものではなく、むしろ尊敬の念の方が強かった気がする。
「あ、埋葬機関っていうのは<聖堂教会|わたしたち>にとって、そうね……教会の中の治外法権、権力に近寄れないかわりに権力に縛られない、動く武器庫みたいなものと思って。
　ごく少数で組織された公安警察、みたいな」
「埋葬機関は他の秘蹟会と連携を取る局長と、その局長に管理される七人の代行者で構成されている。
　ホントは予備の代行者がもう一人いて実戦要員は八人いるらしいんだけど、大司教から自由行動の特権を赦されたのは七人だけ。それ以上増やすのは危険と判断されたのね」
「局長ナルバレックを筆頭に集まった、それぞれが一つの秘蹟会に匹敵する聖人のなり損ない。
　枢機卿ノイ・セオナトール・グランファテマ。
　司祭アンドレイ・ゴッドビバーク。
　<尼僧|シスター>キアラ・キッショウイン。
　<悪魔祓い|エクソシスト>ミスター・ダウン。
　五人目は知らないけど、六人目が代行者アーガレオン。
　そして最後がわたしたちの知っているあの子、“弓”の称号を贈られた第七位、代行者シエルってコト」
「あの子は殺したわよ。わたしなんか比べものにならないぐらい殺してきた。相手が女子供でも容赦なく殺してきた。
　代行者になってから吸血鬼狩りをしてない日はないんじゃないかってぐらいに」
「一日、一週間、一ヶ月。何の不平も不満もなく、あの子は淡々と仕事をこなしてきた。
　わたしが聞いた中で一番長かったのは、たった一人の死徒を殺すために一年間、その街の下水路に潜伏していたって話」
「その死徒は街そのものを監視できる異能があって、部外者や異状に敏感な死徒だった。
　で、あの子が選んだ手段は排水溝からの侵入と潜伏。下水路すら死徒にとっては血管みたいなものだったけど、その血管の中を流れる汚物にまでは感覚が届かなかったのね」
「秘蹟も魔術も使えば感知される状況だったから、あの子は黒鍵の<柄|え>を胃に呑み込んで下水に入っていった。
　この国の整備された下水じゃない。汚物でつまったヨーロッパの下水路で、体を汚水にひたして、顔だけを水面に出してギリギリの呼吸をして、ただ機会を待ち続ける一年間！」
「……ほんと、想像するだけで寒気がする。この件ばっかりは吸血鬼に同情するわ。
　街を完全に支配下において、やってきた代行者も全員殺して、ようやく自由に闊歩できると安心しきった死徒が広場に踏み出した瞬間、下水口の網の下から一撃で即死よ？　蛇だってあの子の執念深さには尻尾を巻くわ」
「……わたしと組むまで、あの子はずっとそんな調子だった。
　わかる？　吸血鬼を殺す事だけに特化した非人間。
　それがシエルなの。わたしたちと同じ、普通の人間だなんて思わない方が身のためよ」
「……………」
　……先輩の経歴は、予想できた事だったにしても、俺の想像を上回っていた。
　アルクェイドが先輩を嫌い、
　先輩がアルクェイドを敵視するのは当然だ。
　けど、それでも―――俺には、あの人を“吸血鬼を殺すだけの人間”とは思えなかった。
「……先輩の事は分かりました。でもノエル先生は？
　先生も代行者なら、先輩と同じなんですか？」
「わたしが？　冗談やめて、あんなのと一緒にしないで。
　わたしはいたって普通の人間よ。あんな風にまわりを騙せないし、割り切るコトだってできない」
「そもそも代行者としての才能がなかったの、わたし。修道院に三年入ってやっと半人前だった。
　それでも人並みには頭が回ったから、司祭さまに取り入って、二年かけてやっと代行者になったの。それから……二年ぐらいたった後かな。あの子と知り合ったのは」
「あの子は埋葬機関に入ったばかりで相棒がいなかった。わたしは頼りになる相棒がほしかった。
　ほら、後は分かるでしょ？　同郷のよしみもあったし、わたしたちは晴れてチーム成立。それから五年、あの子の活躍のおかげでわたしはまだ生き延びてる」
「え―――？」
　待った。待ってほしい。
　これまでの内容も違和感があったけど、今のは決定的すぎた。
　ノエル先生は五年と言ったのか……？
「ちょっと待ってください。
　先輩と五年も一緒だったんですか……!?」
「そう言ったつもりだけど？
　わたしたち、五年来の師弟関係だもの」
「でも、それじゃ―――」
　なんていうか、その―――
「年齢が合わない、でしょ？
　当然よ。あの人、<あ|・><の|・><時|・>から歳を取ってないの」
「――――――」
　視界が真っ暗になりそうな感覚に、足を踏ん張って堪える。
　五年間変わっていない。
　それが真実なのか嘘なのか、五年間の何に驚いているのか、それすら判別がつかない。
「……そんな。それじゃ、まるで」
「そ、吸血鬼と同じよね。でもあの子は吸血鬼とは違う。だって完全な不老不死なんだもの」
　その断言に息が止まった。
　完全な不老不死。それはおかしい。
　やっぱりノエル先生の言葉は嘘だ。だってそれは、不死身の吸血鬼たちでさえ到達していないものだ。
「いいえ。あの子は本当に、何をやっても死なないのよ。
　殺しても蘇る。体が燃え尽きて灰になっても元通りになっている。何が起きてもあの姿のまま生き続ける」
「あの子はね、分類的には吸血鬼なのよ。わたしたちと違って一つの命に縋っていない。だから死を怖がらず、目的を達成するまで永遠に走り続ける」
「成功率１００パーセントの理由ってこういうコト。
　カンタンでしょ？　あの子に狙われた吸血鬼は、もう絶対に逃げられないんだから」
「……じゃあ、ノエル先生とシエル先輩は」
「そ。私が弟子で、彼女が師匠よ。さっきのやり方だってあの人の真似事。いえ、あの人の手管はもっと凄惨かな。
　あの人、たいていの拷問は体験済みだから。やられるのも、やるのも、寒気がするほど上手なのよ」
「分かってくれた？　代行者シエルは吸血鬼と同じ化け物なんだって。
　他人の<生|こ><命|と>をなんとも思っていない殺戮者。でも吸血鬼を殺してまわる分だけは、生きていていい権利がある」
　それが俺に聞かせたかった本題らしい。
「―――、――――――」
　胸を手でかきむしって、止まっていた呼吸を再開する。
　……俺はいま苛立っている。
　先輩がどんな人なのか、本当に不老不死なのかなんてどうでもいい。こうして今、ノエルの言葉に動揺している自分そのものに腹が立っている。
「ふふ、今にも倒れちゃいそうね志貴クン。
　やっぱりショックだった？」
「ええ、頭にくるぐらいショックです。
　……それより。なんだってこんなコトを話す気になったんですか、先生は。これも隠しておくべき事でしょう？」
「そうだけど、アナタの考え違いを正してあげたかったの。
　わたしが言うのもなんだけど、助けてもらったからってカンタンに心を許しちゃダメよ。あの人だってアナタを利用しているだけなんだから」
「………………」
　違う。
それこそ嘘だ。
　先輩が俺を利用した事なんて一度もない。
　協力を申し出たのは俺の方からだ。
　先輩はいつも俺の事を気遣ってくれた。先輩の方から俺を誘ってきた事は、一度もなかったんだから。
「そ、そうなんだ。……ふーん。意外ねそれ。
　ま、まあ、仮にそうだとしても、始まりが不正なのは変わらないわ。志貴クン、あの人に暗示をかけられていた事さえ気づいてないんだから」
　女の言葉に意識が凍り付く。
「暗示……？」
　今度こそ、目眩で視界が失われるかと思った。
「そうよ。あの人は“自分に好意を持つように”志貴クンを操っていた。嘘だと思うなら思い出してみなさい。
　アナタはいつからシエルと知り合いなの？　あの子を先輩と呼ぶようになったのはどんなきっかけだった？」
「――――――」
　いつからって、そんなの思い出すまでもない。
　先輩は俺の学校の三年生で、俺は一年生の頃から―――
　――――一年生の、ころから？
「あ……れ？」
　……ない。まったくない。
　先輩と過ごした学園生活の記憶がまったくない。
　俺が思い出せる最初の記憶は、
　あの、電車で出会った時のものだった。
　言われてみれば、先輩はいつからいた先輩だったんだろう。
　俺はあの人がどこのクラスなのかも知らない。
　―――ありがとうございました、遠野くん。
　先輩が笑顔でそう言うものだから。
　俺はあの人と、ずっと知り合いだった気がしただけ。
「う――――そ」
　そもそも、一番の違和感は。
　先輩は当たり前のようにシエルと呼ばれていたけど、それ以外の名前を誰も口にしなかった。
　そんな名前に、どうして誰も疑問を持たなかったのか―――
「ほらみなさい。わたしだって赴任して仰天したわ。
　いくら秘蹟に耐性のない一般人でも、百人二百人に暗示をかけるなんて並大抵の魔力量じゃないもの。
　さすがは第七位ってところかしらね」
「それとも暗示だからこれだけの事ができたのかしら。
　暗示はしょせん暗示、印象の操作にすぎないものね。記憶そのものをいじる洗脳とは違うんだし。
　志貴クンたちはきっと“シエルを疑問に思わない”という事だけを刷りこまれていたんでしょうね」
　……ああ、そうだ。
　俺だって初めは違和感があったけど、会うたびにそんな疑問は消えていった。
“そこにいても、それが当然だと思うこと”
　それが先輩の特徴だった。
「……でも、それは」
　それで先輩が俺を騙していた事にはならない。
　だってそれは、
「俺たちを危険に晒さないために、黙っていただけでしょう」
「ええ、一般生徒にはね。でも志貴クンはもう違う。あの地下を知った以上、暗示は解いてあげるべきだった。
　それに、教えてあげるべき事を黙っている、というのは思いやりになるのかしら？　知られたら都合が悪いから黙っているだけじゃないの？」
「…………」
　……悔しいが反論できない。
　俺は彼女の言葉から逃げるように、うつむいて息を呑む事しかできなかった。
「これで分かったでしょ。あの人が良い子ちゃんに見えるのはぜんぶ演技なんだって。
　……ええ。演技でなかったら、今までの冷酷ぶりはなんだったっていうの」
　草を踏む音が聞こえる。
　……うつむいていた顔を上げると、彼女はもう中庭の出口に移動していた。
「話はこれでおしまいよ。
　そろそろあの人もここを見つけるだろうし、志貴クンと密会していたなんて知られたら、何をされるか分からないわ」
「―――最悪、志貴クンとわたし、もう用済みだからって消されるかも。そもそも志貴クンは知っちゃいけないコトを沢山知っちゃったし？　なんであれ、証拠隠滅はしなくちゃねぇ？」
「しょ―――証拠隠滅って、何を」
「さあ？　それはこれからの行動次第よ志貴クン。
　あの子の機嫌を損なわないよう、あの子に見逃してもらえるよう、せいぜい頑張ってみれば？
　ま、仕事が全部終わった後は、いつも通り死人に口ナシってオチでしょうけど？」
「――――――」
　怒りと抗議で全身が熱くなる。
　そんな結末はない。仮に秘密を守るとしても、先輩は俺の記憶を消すだけだと言った。
　……けれど、その反面。
　本当に“この一週間”だけを消すなんて事ができるのかと、疑問に思っている自分もいる。
「そうそう、そういう顔してもらわないと危険を冒した甲斐がないわ。
　それじゃあね志貴クン。今日の話をちゃあんと胸に留めて、わたしみたいに、何もかも台無しにされないよう気をつけて♡」
「待―――」
　呼び止める声も間に合わない。
　俺を別世界に呼びこんだ女は、一方的に真実を語って笑顔で立ち去っていった。
「…………」
　……頭蓋の空洞に、不安という名の蜘蛛が住み着いたようだ。
　俺は頭の中の蜘蛛の巣を振り払って、赤く染まった廃工場を後にした。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
「ただいま翡翠。……ごめん、ちょっと頭が痛いんだ。少しだけ休むから、夕食になったら呼びに来てくれ」
　出迎えてくれた翡翠にろくな挨拶もできず自室に向かう。
「―――はあ」
　自分の部屋に戻って鍵をかけ、ベッドに腰を下ろして、ようやく気持ちが落ち着いた。
　……先輩とのケンカ別れ。
　……その後、廃工場で見せられた惨状。
　先輩はアルクェイドとの関係を断つように言い、
　ノエル先生はそんな先輩を信用するなと言う。
　彼女は吸血鬼を殺す為に、遠野志貴を利用しているだけなのだと。
「……なんだそれ、悩むまでもないじゃないか。
　先輩が俺を利用しているなら、アルクェイドとのコトであんなに怒らないハズだ」
　シエル先輩が俺を騙しているなんてありえない。
　先輩は吸血鬼退治より俺の安全を考えてくれている。
　だっていうのに、俺は、
　俺はそんな先輩の忠告を聞かず、考えなしの言葉で傷付けてしまった。
「……分かってる。先輩は悪くない。
　悪いのは、頭に血が上った俺の方だ」
　……本当に情けない。
　アルクェイドを信頼してほしかったら、俺の方こそもっと辛抱強く、先輩とアイツの仲を取り持つべきだったんだ。
「……………っ」
　……俺は先輩が好きだ。
　尊敬も友愛も情欲も、なんかもう色々こみで大好きだ。
　こんなに幸せになってほしいと思う人に出会ったのは初めてだし、もし俺が貧血持ちでなかったらとっくに交際を申し込んでいる。
　けど、それと同じぐらいアルクェイドを放っておけない。
　シエル先輩とは違う<感情|ところ>で、俺はアイツに惹かれている。
　あの笑顔を“ただの吸血鬼”なんて言われたから、俺はシエル先輩にあんなコトを言ってしまった。
「……なんだそれ。筋が通らない」
　くそ。自分がこんな人間とは知らなかった。
　先輩の事を好きだと自覚しているのに、どうしてアルクェイドが気になるのか。
　……それとも、好きだからこそ言ってほしくない言葉だったのか。
「……………はあ」
　先ほどとは違う、重苦しい溜息がこぼれる。
　太陽はもう沈んでいた。
　あと数時間でアルクェイドとの約束の時間になる。
　俺は答えを出せないまま、翡翠が呼びにきてくれるまで疲れきった体をベッドに預けていた。
　夕食を済ませて部屋に戻る。
「……っ」
　軽い頭痛に倒れそうになりながら、深呼吸をして目眩をやり過ごした。
　ここのところ頭痛が多いのは眼鏡を外して“線”を視すぎているからだ。
　こんなところにも吸血鬼探しの弊害が出ている。
　先輩の言う通り、俺は夜の街に出るべきじゃない。それは分かっているのだが……
「……そろそろか」
　もうすぐアルクェイドとの約束の時間だ。
　……吸血鬼退治を続けるにしても、終わらせるにしても、俺ひとりで決めていい事じゃない。
　もう一度アイツに会って自分の気持ちを確認しよう。
　その結果、アルクェイドとの協力関係が無しになるのなら、それは仕方のない事だ。
「……そうだよな。
　一番良くないのは、このまま答えをださないコトだ」
　身支度を整えて部屋の電気を落とす。
　ポケットの中のナイフを確認して、アルクェイドの待つ公園へ向かう事にした。
　誰に見とがめられる事なく正門を出た。
　遠野邸前の道路はもともと車通りが少なく、徒歩で利用する人間なんてそれこそ俺ぐらいだ。
　今夜は特に寂しい。通り魔殺人の影響で交通量は減り、眼下に見える住宅地も大部分の明かりが消えている。
　夜の10時前だというのに、午前１時のような静けさだった。
　10月も下旬にさしかかって、風も冷たさを帯びはじめている。
　じき秋も終わる。凍える冬が来る前に何もかも終わってくれればいいのに、なんて、重みのない願望を口にした。
　屋敷の周囲を歩く。
　ここから坂道を下りれば住宅地だ。
　学校に向かう時は住宅地から南西方向に舵を切って繁華街を目指す。繁華街を抜ければすぐに駅なので、そのまま反対側の南口に出て、10分間も歩けば学校だ。
　今夜の目的地は南口の公園なので、繁華街を抜ける必要はない。住宅地をそのまま南下して、街を二分する高架線を抜ければ南口公園だ。
　10時まであと15分弱。
　繁華街を通らないので暗い夜道になるが、今夜は最短距離で待ち合わせ場所に急ごう。
　……
と。
　その途中、屋敷の塀に黒い人影が見えた。
　こちらの道行きを邪魔する……というものではなく、見送るように壁によりかかっている、修道服を着た少女。
「呆れましたね。
こんな夜更けに何処に行く気ですか」
　足が止まる。
　先輩の眼差しは冷たく、その声も感情のないものだった。
「……………」
　明日、学校で探し出そうとしていた先輩の方から来てくれた。
　……そんな、願ってもない<機会|チャンス>なのに、俺は先輩の顔をまっすぐに見られない。
　……できるならすぐに謝って仲直りがしたい。
　けれど、それには果たすべき条件がある。
　俺がアルクェイドをどう思っているか―――
　それをハッキリさせないかぎり、先輩とは話せない。
「先輩、俺は」
「言い訳は聞きません。今こうしている事自体が貴方の心情を表していますから」
「まったく。あれだけ言ったのに彼女の所に行くって言うんですね、遠野くんは。そんなに吸血鬼がいいんですか？　ああ、もしや永遠の命とか、そんな甘い見返りを夢見ていますか？」
「な―――」
　それは先輩から出たとは思えない、あからさまな侮蔑だった。
　永遠の命……吸血鬼に噛まれ、死徒になれば不老不死のような<状|モ><態|ノ>になれるかもしれない、という誘惑。
　でも、しょせん人間と変わらない。ものを食べなければ死ぬし、殺されれば死ぬ当たり前のモノだ。
　そんなこと、これまでで充分に思い知っているし、そもそも俺は―――
「そりゃあ夢には見るでしょ。誰だって死にたくないし、先輩みたいに強くなりたいし。
　はい、そうですよ。丈夫な体になれるなら、俺、アルクェイドのモノになってもいいんです」
「え―――
えぇぇえ!?」
「と、遠野くん、なに言ってるんですか!?
　そこは“そんなワケないだろセンパイ、街のためにやってるんだぜ”って返すものでしょう!?」
「もちろんです。
　……で。あんな挑発をして、そういう反論を期待してたんですね、先輩」
　……やっぱりそうだったか。
　先輩の望み通りの返答をしていたら、どんな正論で打ち負かされていたコトか。
「今夜だけは先輩の言うことは聞けませんから。
　……でも、茶道室での事は反省しています。これが終わったら話を聞いてください」
　先輩に顔を向けず、先輩の横を通り過ぎる。
　……都合のいい言い分だけど、今はアルクェイドとの待ち合わせを優先する。
「……そうですか。そこまで覚悟ができているのなら、わたしからは何もありません。
　茶道室の件も気にしないでください。遠野くんは間違った事は言っていませんでしたから」
　背中に先輩の声がかかる。
　アルクェイドに会いに行くのを止める意思は感じられない。
　……そっか。
　これで本当に、俺は先輩に呆れられたみたいだ。
「それじゃあ。俺、行くから」
「はい、どうぞ遠野くんのお好きなようにしてください」
　声だけが聞こえてくる。
　それでも振り向く事はできずに、俺は屋敷から離れていった。
　トコトコトコトコ。
　夜の住宅街に固い足音が響く。
　それは男の重い足音じゃなく、もっと軽やかな足音だ。
　加えて言えば俺のスニーカーではこの音は出ない。
出ない。
　底の固い、例えば編み上げブーツじゃないとこの音は立てられない。
　というより。
　さっきからコツコツとついてくる足音は、紛れもなく編み上げブーツによるものだった。
　ぴたり、と足を止める。
　コツ、と足音も止まる。
「…………」
　ダメだ。
　これ以上無視して歩いていくと、じき公園に着いてしまう。
　ここは一つ、はっきり言ってやらねばなるまい。
「あのですね、先輩
」
　くるりと背後を振りかえる。
「はい？　何でしょう、そこの健康不良少年クン」
「……不良でいいですけど。
　先輩の家ってこっちの方だったっけ？」
「いえ、まったく違いますね。遠野くん、一度来たことあるでしょう。忘れちゃったんですか？」
「覚えてます、忘れません。……ちょっと確認したくなっただけです。もう曲がるところは通り過ぎたなって」
「はい、正解です。大した記憶力ですね。わたしの家への曲がり道は、ズバリさっき通り過ぎました」
　そっか、そうだよね、と愛想笑いをする。
　先輩はそうですよー、と笑い返してくる。
「それじゃ俺はこっちだから」
「はい。どうぞ、遠野くんのお好きなように」
　にっこりとした笑顔で先輩は俺を送り出す。
　……けど、なんか……すごく、イヤな予感がしてきた。
「――――――」
　すう、と息を吸いこむ。
「どうしました、行かないんですか？」
　先輩が問いかけてくる。
　その一瞬の隙をついて、
俺は夜道を走り出した。
「はあ、はあ、はあ―――！」
　後ろを振り向かず、全力で夜の街を走り抜ける。
　追いかけてくる足音はないけど、念には念を入れて、少しだけ寄り道をしてルートを変えた。
　駅前に来る予定はなかったが、この人混みなら先輩も簡単には付いてはこられまい。
　このまま人混みを抜けて、学校に行くと見せかけて高架線に戻ってやる……！
「はあ―――ぁ、はあ―――」
　……もう限界だ。ここまでくれば公園は目と鼻の先だし、いいかげん足を止めよう。
　肩で息をしながら全身を休ませる。
　……良かった。
　あの軽快な足音は聞こえないし、先輩も呆れてどこか余所に行って、
「感心できませんね遠野くん。誰もいないからといって、無闇に走り出すのはどうかと思います」
　ぽん、と背後から肩を叩かれた。
「うわあああ！」
　ぴょん、と<蛙|かえる>のように跳び退いた。
「な、なんで付いて来るんだよ先輩！」
「なんでもなにも、遠野くんひとりじゃ不安じゃないですか。遠野くんのようななんちゃって調査とは違う、真に街の平和を守る者として当然の行為ですが、何か？」
　なんか堂々と言いきられた。
「……う、ぐ」
　さっきの切り返しを根に持ってるぞ、この人……。
　しかし、これで状況はハッキリした。
　先輩は俺をひとりにする気はないらしい。
　返答に困るけど、ここは―――
　もう、はっきりと言い返して帰ってもらうしかない。
　意を決して先輩と向かい合う。
「先輩、いいから帰ってくれ。俺の安全を思うなら帰ってくれ。このままじゃ間違いなく、俺が大変な事になる」
　アルクェイドの手で大変な事になる。
「はあ。大変って、遠野くんはどんなふうに大変になるんですか？　スプラッタ？　それともサイコ？　どちらにせよ、それはそれで興味がありますね」
　鬼かこのひと。
　全部分かった上でとぼけてるぞ、ちっくしょう！
「そういうゴアな興味もたなくていいです！
　俺の好きにしていいって言ったのに、なんで邪魔しに来るんですかっ！」
「ですから、遠野くんは好きに行動してください。
　わたしも遠野くんを見習って、自分の好きに行動しているだけですから」
　きっぱりと笑顔で言って、先輩はコツコツと先を歩き出してしまう。
「ちょっ、先輩！」
「なんでしょうか、遠野くん」
「なんでしょうか、じゃないです！
　そんなに俺を困らせて楽しいんですか！？」
　ニッコリと笑うシエル先輩。
　言うまでもない、という顔だった。
「……分かりました。
　先輩がいじわるな人だというのは分かったから、今日はもう勘弁してください。
　これ以上は俺だけじゃなく、先輩まで危ない目にあっちゃいますよ」
「そうなんですか？　わたしは別に遠野くんについてきている訳じゃありませんけど」
「いや、実際」
「わたし、公園に用があるだけです。
　遠野くんが何処に行くのかは知りませんけど、行き先が公園でないのならここでお別れですね」
　冷静に言い返そう。
　シエル先輩の言い分にはつけいる隙があったからだ。
「ちょっと待って。先輩、さっき俺の好きにしていいって言ってくれましたよね……？」
「はい、どうぞ遠野くんのお好きなようにしてください」
　先輩は笑顔で頷いた。
「よかった、俺の幻聴ってワケじゃなかったんだな。
　……よし、それじゃここでお別れです。これ以上付いて来ちゃダメですからね」
「はあ。わたし、遠野くんに付いて来ている訳ではありませんけど」
「いや、実際付いて来てるじゃないですかっ！」
「公園に用があるだけです。
　遠野くんが何処に行くのかは知りませんけど、行き先が公園でないのならここでお別れですね」
　……そうきたか。
　確かにそれは、俺がとやかく言える筋合いじゃない。
　筋合いじゃないけど―――
「ああもうっ、それでもダメです！
　公園にはアルクェイドがいるんですよ!?
　アイツ、なんでか先輩を敵視してるし！　このまま会わせるワケにはいきませんっ！」
「おや。わたしの事を心配してくれるんですか？」
「心配なんかするに決まってます！
　俺は先輩とアルクェイドが争うところなんて見たくない。お願いですから、もうこれ以上ついて来ないでくださいっ！」
「なるほどなるほど。そうですか。わたしの心配じゃなくて彼女の心配をしているんですねー、遠野くんは」
　あさっての夜空を見つめながら、先輩はこっちの言い分を完全に無視した。
　……さっきの発言といい、先輩は俺を困らせて楽しんでいるような気がする。
「…………先輩。
　もしかして、茶道室の事もさっきの事も、いや、それ以前に俺がアルクェイドと夜出歩いた事自体、ずっと怒ってたんじゃないですか……？」
　先輩はにっこりと笑うだけで、何も言わない。
　……怒ってる。
　あれは、間違いなく根に持っている顔だ。
「……はあ。分かりました、ぜんぶ俺が悪かったです。
　もっとちゃんと謝りたかったけど、こうなったら仕方ないです。茶道室でのことは謝ります。あれは俺の失言でした。
　だから―――」
「だから帰ってくれ、
なんて言ったら本気で怒りますよ、遠野くん」
「……え？」
「わたしたち、いま絶交中なんです。けんかしてるんです。
　わたしも拗ねているみたいですから、生半可なコトじゃ素直になれません」
「あの……先輩？」
「ここで遠野くんが帰ってくれるのなら仲直りできるんですけど、それは無理だって分かってます」
「ですから、こんな話をしていても無意味です。
　貴方がわたしに謝る必要もありません。わたし、昼の事は気にしていませんから。
　わたしの仕事は吸血鬼を退治すること。今はそれを忠実にこなしているだけです」
「ちょっ、先輩!?」
　先輩は俺を無視して歩き出した。
　行き先は言うまでもなく、アルクェイドとの待ち合わせ場所である南口公園だ。
「待ってくださいっ！
　どうしてそんなにムキになってるんですか！」
「わたし、ムキになんかなっていません。貴方の方こそ、わたしと一緒にいると彼女に誤解されるんじゃないですか」
「ご、誤解って何がですか」
「貴方は彼女が好きなんでしょう？　なら、彼女の敵であるわたしと一緒にいるのは立場的にまずいと思いますけど」
「す、好きって……！
　べ、別に俺は、アイツの事が好きってわけじゃ……」
　わけじゃない、とは断言できなかった。
　どうあれ俺がアルクェイドに惹かれているのはどうしようもない事実だ。
「……もう。ほんと、自分自身にも嘘をつけないんですね、遠野くんは。
なんか正直すぎてまいっちゃいます」
　はあ、と呆れるような、観念するような、溜息をこぼすシエル先輩。
　……その溜息の真意は分からないけど、トゲトゲしかった雰囲気が消えて、いつもの先輩に戻ってくれた。
「けど、本当にここで別れたほうがいいですよ。
　わたしたちは絶交中なんですし、こんなところをアルクェイドに見られたら―――」
「ふうん。見られたらどうなるのかしらね、シエル」
「！」
　背後からの声に振り向く。
　そこには俺の知らない女の姿があった。
　月光を浴びて輝く金色の髪。
　あらゆる<穢|けが>れを寄せ付けぬ白い美身。
　夜の住人でありながら日中の陽差しを思わせる少女の姿。
　なのに違う。今のアイツは、俺が知っているアルクェイドとは違うものだった。
「アル……クェイド？」
　アルクェイドの名前を呼ぶ。
　白い姿は一瞬だけ俺を見たものの、ふい、と視線を逸らしてシエル先輩と向き合った。
「遠野くん、下がって。
　……いえ。なんとか隙を見て公園の外まで逃げてください」
　先輩は俺にそう耳打ちして前に出る。
“外まで逃げろ”なんて、さっきまでなら大げさだと反論していただろう。
　けれど今はそれが最適だと受け入れている。……同時に、それはもう不可能だと悟ってしまった。
　空気がひたすらに重い。
　アルクェイドの赤い眼が恐ろしい。
　比喩でも何でもなく、この公園のすべて、木の一本一本からその葉の一枚にいたるまで、アイツの眼は捉えている。
　この息苦しさはヴローヴと同じかそれ以上だ。
　一歩でも動けば命はないと、本能が理解している―――
「驚いたわ。志貴の声が聞こえたから来てみれば、まさか貴女が一緒だなんてね。
　何をしに来たのシエル？　わたしに用はないと思うけど？」
「ええ、貴方に用などありません。退治ならともかく、話をするなんて考えるだけでも怖気が走りますから。
　わたしは彼があんまりにも危なっかしいので指導をしてあげているだけです。どうも、頭の<緩|ゆる>い吸血鬼にたぶらかされているようなので」
「指導が必要なのはそっちの体の方なんじゃない？
　余分な肉ばかりついて、死に際の<河|か><馬|ば>のよう。それとも、どんなに切り崩しても重さの減らない贅肉かしら？」
「そっくりそのまま返しますよ。
“起きて”“殺す”事だけが貴女の美点でしょうに。人間に助けを求めるなんて、そんな余分はらしくありません。
　真祖の誇りとやらをどこかに落としたのですか？
　まあそんなもの、実際あったかどうか疑問ですけど」
　……なんだろう。
　息苦しさが少しだけ和らいだ気がする。
　さっきまで公園すべてに向けられていた重圧が、シエル先輩に集中したからだろうか。
　いや、というより……あの二人、見ようによっては同タイプというか、話が合いそうじゃないか……？
「つくづく癇に障る女ね。
　一度やられたぐらいじゃ物足りないってこと？」
「貴女こそ。手も足も出ずに地に落とされた恐怖が、まだぬぐえていないんじゃないですか？」
「…………言ったわねキャーンズ。
　なによ。人のパートナーを横取りするつもり？」
「ええ、状況次第では。
　彼がわたしを頼ってくれるのなら、今すぐにでも」
　……まさに一触即発状態だ。
　息苦しさは薄まったものの、このまま傍観してはいられない。
　先輩もアルクェイドも子供じゃないんだから殴り合いなど始めないだろうが、それでも、二人の共通の知人として争いを<諫|いさ>めないと。
「待った。待ってくれ二人とも。なんか空気が不穏だ、耐えられない。というか落ち着け。お互い目的は同じなんだろ？　ならここは仲良く、」
「志貴は黙ってて！」　　　　　　^@t「遠野くんは黙っててください！」
「―――――――」
　……失敗した。
　俺が声をかけても逆効果だった。二人のにらみ合いは険悪さを増してしまった。
「―――真似しないでよ。
　志貴に呼びかけるのはわたしだけの特権なんですけど」
「呼びかける？　今のが？　せいぜい恫喝の間違いでしょう。鏡を見た事がないんですね。ああ、吸血鬼だから鏡に映らないんでしたっけ」
「どこの迷信よ。鏡にぐらいちゃんと映るわ、わたし」
「おや、そうでしたか。それは失礼。死徒ですら自分の姿を恥じて姿を映さないというのに、大した厚顔っぷりです。さすがは吸血鬼の大本、感服しました」
「―――ねえ。もしかして挑発しているの、貴女？」
「まさか。
これは挑発ではなく糾弾ですよ。
　自分が何であるかを理解しない愚か者に、
現実を教えてあげているだけです」
　それはあまりにも華やかで、
恐ろしい笑みだった。
　ビリビリと指先が痺れる。
　ぞわりと全身が総毛立つ。
　溜息一つで公園中が死の予感に凍りつく。
　そんな微笑みを向けられて、なお先輩は引き下がらない。
「いいわ、
わたしからも最初で最後の勧告よ。
　志貴は貴女のことが<そ|・><れ|・><な|・><り|・>に大事らしいから、今回だけは見逃してあげる。また殺される前に、今すぐここから消え去りなさい」
「……驚きましたね。吸血鬼が人間の機嫌を<伺|うかが>うなんて。
　貴女なら人間なんて思い通りに操れる。
　彼に協力させるなら下僕にしてしまえばいいのに、なぜ魅了しないのですか、アルクェイド」
「貴女らしい、品位に欠けた発想ね。
　志貴はわたしのパートナーよ。そんな事をしなくてもわたしの手助けをしてくれるって言ってくれた」
「わたしを殺せる時でもわたしの側にいてくれた。わたしがひとりでいる時も、志貴に会えると思うだけで時間は瞬く間に過ぎていった。
　当然でしょう？　だって、志貴はわたしの運命の<相|ひ><手|と>なんだから……！」
　いや、運命の<相|ひ><手|と>ってなに言い出してんだアイツ―――!?
　先輩の無言の抗議が痛い。
　あの眼は“どういうコトなんですか!?”と問い詰めてきている。
　でも問い詰めたいのはこっちの方で、ホントに覚えがないんだけど……！
「ふざけてるんですか、貴女は。
何を言い出すかと思えば、よりにもよって<運命の人|オム　ファタル>、なんて、―――」
「ふざけてなんかいないわ。志貴の心も体も、彼がこれから得る喜びも悲しみも、死に<臥|ふ>せる権利さえわたしのもの。
　ええ、死徒の気持ちが少しだけ理解できたわ。
　人間の血を飲みたいとは思わないけど―――志貴の<血|いのち>は、わたし以外の誰にも渡さない」
「―――ちょっと、待て」
　喉から絞り出された声はあまりにも小さかった。
　俺は二人の因縁も知らないし、この、今にも殺し合いが始まりそうな状況にも対応できない。
　それでも今のアイツの発言は無視できない。
　死徒の気持ちが理解できる……？　それはない。短い付き合いでも、それはないと断言できる。だってそれじゃあ、吸血鬼である事を肯定しているようじゃないか……！
「―――アルクェイド。貴女、まさか」
「さあ、どうかしら。貴女からわたしはどう見えるのシエル。
　吸血衝動に呑み込まれて、堕天したように見える？」
「……いいえ。真祖が堕ちたのならとっくに世界は裏返っています。貴女はまだ狂っても堕ちてもいない。
　つまり―――」
「つまり？」
「今の段階なら、まだ間に合うという事です」
「ええ、その通りよシエル！
　これは吸血衝動とは違う。だって楽しいわ。すごく、すごく<心|むね>が弾んでいるの。まるで春の野原のよう！
　以前、貴女はわたしを愚かだと言ったわね。ロアに騙された世間知らずだって。本当にそう。志貴に殺されるまでのわたしは、本当に愚かだった」
「自由になる事が―――
　自由に手足を動かせる事が、自由に人間を好きになる事が、こんなにも気持ちいいなんて知らなかった。
　だから―――ふふ」
「今のわたしは貴女以上に人間的よ。
　たとえば、こんな風に自分の気持ちを表現できる」
　まるで野苺をかじるように、アルクェイドは自らの人差し指を噛んだ。
　白い指に赤い色がにじむ。
　ほんのわずかな血のしたたりが、ゆっくりと石畳の地面に落ちる。
　ぽちゃん、と。
　その一滴は音を立てて地面で弾け、途端―――
　―――途端。
　広場を覆い尽くすほどの、一面の<鏡面|プール>になった。
「な……!?」
「――――――」
　幻覚か。いや、実際に血が公園を覆っている。
　その証拠に、俺の<踝|くるぶし>は赤い血に沈んでいる……！
「安心して、一滴だけだから。
　これから楽しい時間になるのに、ここは色が薄すぎて。せめてこれぐらいはしないと趣きがないでしょう？」
　身にまとった空気こそ重苦しいが、アイツの発言には何ら邪悪なものがない。
　アルクェイドは変わっていない。
　アイツは俺の知っている、馬鹿みたいに純真で、太陽みたいに明るい女のままだ。
　……ただ、何かが外れている。
　本来なら取るに足りない些細な間違いが、アイツを違う生き物に変えている―――
「自由に、思うままに行動するというのですね。貴女が何の誓約もなく、思うままにロアを処罰すると。
　……その結果がどうなるか、理解していますか？
　自らを縛らない真祖は死徒と変わらない。ヴローヴのようにこの街を蹂躙するのが望みだとでも？」
「わかりきったコトを訊かないでシエル。
　人間の街に関心はないわ。邪魔をしなければ何もしない。こんなの道ばたの石と同じよ。……あ、でも、そっか」
「好きになるのも自由なら、憎んでみるのも自由よね。
　ロアに汚染された街。ロアの痕跡を残す土地。どちらにせよ汚らしいし、奇麗に掃除していくのもわたしの自由。
　それに―――」
「ここで思いっきり、今までずっと気にくわなかった女を八つ裂きにするのも、心底楽しそうじゃない？」
　―――始まりは一瞬だった。
　地面を蹴って跳躍する白い化身。
　その機先を制するように撃ち出されていた剣の雨。
　俺が制止する隙間すらなく、二つの影は交戦を開始した。
「遠野くん、下がって……！」
　背後に立つ遠野志貴に呼びかけながら、シエルは側面に跳躍する。
　間髪容れずに着弾する白い凶爪。
　アルクェイドは一足でシエルへの距離を詰め、体ごと叩きつけるように片腕を振り上げ、地面へと振り下ろした。
「決まりね。遊びましょう、シエル―――！」
　避けられた屈辱より、戦いを始められる喜びが勝ったのか。
　白い化身は弾む声で仇敵に呼びかけた。
「――――――」
　その声を聞き流しながら、シエルは今後の展開を脳内で組み上げる。
　最悪の展開になったのは明らかだ。
　相手は正気を忘れてはしゃぐ真祖。
　場所は市街地。手持ちの武装は<黒鍵|こっけん>のみ。
　この状況で何の関わりもない一般人……この場合は遠野志貴……を守りながらの戦闘となると、取るべき手段は一つだけ。
　防戦に徹し、アルクェイドの力の流れが途切れる瞬間を読み、その隙をついて最大限の結界を作りあげ、遠野志貴を保護したまま撤退する。
　<作戦|オーダー>はシンプルだ。
　だがその実行がいかに難しいものか、シエルは<精神|こころ>よりも先に<経験|からだ>で理解している。
　一直線に疾走する<追跡者|トレーサー>。
　その胴体を串刺しにせんと撃ち出される<投擲|とうてき>剣。
　投擲剣は<黒鍵|こっけん>と呼ばれる、代行者専用の異端審問具だ。
　普段は『柄』しかないが、秘蹟を実践する事で刀身を<顕|あらわ>し、剣として機能する。
　黒鍵は剣ではあるが、その用途は<刺突|しとつ>、そして投擲にある。要は切りつけるものではなく、吸血鬼を遠距離から射貫く弾丸なのだ。
　それも代行者シエルが<念|・><を|・><入|・><れ|・><て|・>使用すれば大砲にまで強化される。
　身体の超絶運営。ミリ単位の制止と連動、拡散される力を一点に収束しての投擲は、黒鍵の威力を十倍にまで押し上げる。
　これは魔術、秘蹟ではない人体動作の芸術。
　ある狂信が数百年の年月をかけて編み出した人の究極。
　コンクリートの壁すらブチ抜く鉄の一投。
　埋葬機関では、これを鉄甲作用と言う。
　だが、それも爪の一振りで蹴散らされた。
　放たれる黒鍵はすべて鉄甲。
　剣の雨を一身に受けながら、吸血鬼は笑みを浮かべたまま代行者に肉薄する。
「っ……！」
　シエルが離した距離は苦もなくゼロにされた。
　アルクェイドの爪が振り下ろされる。
　シエルは黒鍵を盾にして受けきったものの、黒鍵は砕け、衝撃は上腕部を貫通して肋骨まで響き渡った。
「しっ―――！」
　受けた衝撃に逆らわず、なぎ払われた方向に跳び退く。
　その両手にはさらに六本の黒鍵の柄。
　一息で10メートル以上の距離を離しながら再度黒鍵を放つ。
「また黒鍵？　わたしが言うのもなんだけど、そんな年代物いつまで使ってるのよ<教会|アナタ>たちは。
　ほら、もっとこう面白そうな
―――
きゃっ!?」
　アルクェイドの言う通り、黒鍵は1700年近い歴史を持つ古い武器だ。今ではその扱いの難しさ、代用できる近代兵器の強力さから愛用するものは少ない。
　だがそれは並の代行者の話。
　前時代の武装と笑うなかれ。千年もの歴史は黒鍵に様々な<種|バ><類|リエ>を生み出した。
　これはその一つ、火葬式典。
　不浄なる<活きる屍体|リビングデッド>を焼き尽くす、摂氏五百度の炎の壁。
「次―――！」
　無論、そんなものであの吸血鬼を止められる道理はない。
　炎は目くらましにすぎない。
　シエルの目的はあくまで拘束。黒鍵による直接攻撃は通じないが、結界による捕縛であれば彼女に一日の長がある……！
「捕らえた……！」
「もう。それは見飽きたんだってば」
　降りそそぐ黒鍵がなぎ払われる。
　シエルの結界は黒鍵を地面に突き刺し、疑似的な聖堂を作りあげるものだ。
　その強度はアルクェイドにとっても壁として機能するが、捕まえられないのなら意味はない。
　白い化身はそれこそ荒野を駆る美しい獣のように、降りそそぐ剣を避けながら代行者に跳びかかる。
「っ、このぉ……！」
　アルクェイドの突進に、シエルは正面から立ち向かった。
　シエルなら即座に躱せる突進だったが、その選択は許されない。彼女はもう公園の端に追いつめられた。
　これ以上の後退は、戦いを市街地に移す事を意味する。
「なによそれ、つまらない！
　ヴローヴに使ってた武器はどうしたの？　沢山の毒をバラまく道具は？　趣味の悪いギロチンは？　あの、重苦しくてぶっとい杭を、わたしには使ってくれないの!?」
「勝手な、コトを―――」
　シエルは物理防御の硬度を上げて猛攻を耐えしのぐ。
　その筋肉は爆発寸前だ。最大の一手を見舞うため、ギリギリと全身の<発|バ><条|ネ>を巻き上げ、それこそ火を吐くような呼吸で、
「―――言わないでください！」
　背中を見せた後、渾身の回し蹴りでアルクェイドの胸を蹴り抜いた。
　吹き飛ぶ白い影に、三本の黒鍵が追い打ちをかける。
「だから、それは効かないって―――
なんとぉ!?」
「なにこれ、新種の結界!?」
「貴女に聖堂は過ぎたものです。
　その<幽閉塔|タワーリング>で、緩んだ頭を冷やしなさい……！」
　<幽閉塔|タワーリング>。それは代行者シエルが対真祖―――いや、対アルクェイド用に編み出した束縛結界。
　黒鍵を地面に打ち付けて壁を作る―――その手法ではアルクェイドを囲む事はできない。
　自在に地面を走る獲物を捕らえるには、より立体的な“追い込み”が必要だ。
　例えば屹立した『聖堂』の壁を更なる基盤にして、縦軸、横軸、同時に空間を占有するような。
　その結界は対象を傷付ける効果はないものの、その強度はもはや生物に破壊できるものではない。
　なにしろ、あの光の塔は秘蹟の<原典|モデル>となった建物とほぼ同じ硬度と質量を持つ。中世最大の塔と謳われたストラスブール大聖堂。高さ140メートルに達する石と祈りの巨大質量が、吸血鬼の<跳梁|ちょうりょう>など許す筈がない。
「この……魔術は使わないんじゃなかったの！
　あの嘘くさい信条は
どこにいったー！」
「……貴女とロアにしか使わないだけです。
　諦めなさいアルクェイド。それは二十七祖であっても一時的に封じ得る強度を持ちます。真祖であっても容易には砕けません。加えて―――」
「加えて、なによ。やっぱりあの武器を持ってくるの？」
「聖典を持ち出す必要はありません。事は、既に終わっていますから」
　地面に突き刺さっていた無数の柱が繋がっていく。
　それは幾重もの壁になり、ついには一つの<匣|はこ>になった。
「これ、ヴローヴの時の……！」
「それは<大聖堂|ゴチックフォート>。ある祖から奪い取った原理を用いた結界です。本来は外界との遮断に用いますが、使い方によっては最大の武器にもなる。
　―――ところでアルクェイド。魔術世界における生命の質量定義は知っていますね？」
「！」
「生命そのものが持つエネルギー生産量、もしくは質量を段階として定義したものです。
　その基準はシンプルで、<規模|おおきさ>と<重量|おもさ>とで計られます」
「一番強いものが“小さくて重いもの”。
　二番目に強いものが“大きくて重いもの”。
　三番目が“小さくて軽いもの”。これは人間ですね。
　そして最後に“大きくて軽いもの”。これは情報や噂話、幽霊といった広範囲に拡がるものです」
「シエル、貴女―――」
「わたしの大聖堂は最大直径30キロメートルの隔絶空間。生命ではありませんが、“大きくて重いもの”です。
　これを極限まで圧縮すればどうなるか、試してみるのも一興だと思いませんか？　いくら凶暴な貴女でも抜け出すにはそれなりの時間が必要になる。……少なくとも１時間は、超高密度の監獄を味わってもらいましょう」
「ふ―――」
「<原理血戒|イデアブラッド>22番―――クロムクレイ・ペタストラクチャ」
　代行者の腕が<掲|かか>げられる。
　彼女は光の大聖堂を組み上げ、宝箱のフタを閉めるように、その空間を圧縮する。
　―――する筈、だった。
「ふざけるなぁぁあああああーーーーー！」
「な……―――ごぶっ……!?」
　吹き荒れる青い奔流と、見えざる一撃によって吹き飛ぶシエル。
　アルクェイドを閉じこめていた塔は無残に砕かれ、地面に乱立していた光の柱は一掃された。
「なによそれ。閉じこめるとか封じこめるとか、まわりを守ることばっかり……！
　これはわたしとの遊びでしょう？　なら、もっと本気になりなさいよね！」
「っ…………！」
　アルクェイドは苛立ちを踏み倒すように仇敵へと歩を進める。
　シエルに“本気になれ”と吸血鬼は糾弾した。
　……だが、それは大きな過ちだ。
　代行者は本気だった。現状の限られた装備内での話だったが、文字通り全力を尽くしたのだ。
　そもそも真祖……アルクェイドを相手にするのなら、それは防戦でなければならない。ある理由から、攻撃的であっては攻める方が自滅してしまうからだ。
　アルクェイドを本気で撃退するには、“一撃”で彼女を殺せる装備が必要になる。
　少なくともシエルはそう考える。
　今回はその余裕がなく、また、相手の状態があまりにも異常すぎた。
　もはや彼女に待つのはいたぶり尽くされた後の死しかない。
　その現実を見据えながらも、彼女の胸によぎったものは死への恐怖ではなかった。
“―――こんな、ことって―――”
　たった一撃で内臓のほとんどが壊死している。
　意識を失うほどの激痛に耐えながら、代行者は歩み寄る吸血姫を凝視する。
“―――信じられない。あの<真|バ><祖|カ>、本当に自分の感情で力を使っていませんか―――!?”
　それは数多くの死徒を殺し、ヴローヴを破った彼女にとってすら夢だと信じたい、最悪の現実だった。
「遠野くん、下がって……！」
　先輩は俺にそう呼びかけながら、強風のようなアルクェイドの突進を避けていた。
　跳び退いた先は広場の<隅|すみ>……あきらかに俺を逃がすために距離を取っている。
　……二人の戦いは俺の理解の及ぶところではなかった。
　アルクェイドの動きは目で追えるものじゃない。夜の闇に白い残像が流れているようにしか見えない。
　そんなアルクェイドの猛攻をシエル先輩はさばき続ける。
　先輩とアルクェイドは文字通り、正反対の生き物だった。
　常識<外|はず>れのアルクェイドに対して、先輩は無駄のない実直な対処をする。
　距離をとり、剣を投げ、アルクェイドに接近されれば地面を踏みしめて持ち堪える。
　……二人の戦闘能力は伯仲している。
　自由奔放なアルクェイド、質実剛健なシエル先輩。
　けれどこの戦いは先輩に不利だ。
　先輩は周りへの被害を気にして自由に動けないし、なによりアルクェイドには疲れ……というより、限界らしきものがないように見えた。
　いくら先輩が並外れた達人でも、その実力は今以上に伸びていくものじゃない。
　なのにアルクェイドの勢いは際限なく増している。
　あれではいずれ先輩の防御を上回ってしまいそうで―――
「……！」
　厭な予感が現実になる。
　……勝敗は決した。アルクェイドを拘束していた光の壁は破壊され、同時に、シエル先輩自身も透明な何かに弾かれる。
　先輩の体は<宙|ちゅう>に浮いて、ダン、とゴミのように地面に転がっていった。
「ま、だ……！」
　先輩は苦痛を<堪|こら>えながら立ち上がった。
　だが無駄な抵抗だ。
　先輩の体はまたも“何か”に弾かれ、いっそう大きく宙に浮いて地面に落下した。
　骨と肉の折れる音が確かに聞こえた。
　じわりと。公園のレンガ道に広がっていく、赤い血液。
「は、ぁ……ぁ、っ……！」
　それでも先輩は意識を失わなかった。
　砕けた体に鞭を打って立ち上がり、目前の敵に向かおうとする。
　……青い火花を散らしながら、無造作に歩み寄っていくアルクェイド。その赤い眼は先輩の首だけに向けられている。
「――――――、
ア」
　声が出ない―――あたりまえだ。
　理性が働かない―――それがどうした。
　アルクェイドは容赦なく先輩を殺すだろう。
　それを―――
　―――それこそ、絶対にあり得ない。
　そんな馬鹿げた事を、このまま見過ごせる筈がない……！
「やめろ、この大馬鹿ヤロウ……！」
　ただ夢中で両脚を動かした。
　俺は先輩を<庇|かば>うかたちで、アルクェイドと先輩の間に割って入っていた。
「志貴!?」
　火花を散らしていたアルクェイドの様子が一瞬で元に戻る。
　アイツにとって、俺が先輩を庇うのはそれほど意外な事だったのか……？
「なんで？　どうして志貴がそいつを庇うの……!?」
「なんでも何もない。……言っただろ、先輩は俺にとって大事な人だ。いくらおまえでも、これ以上先輩に手をあげたら許さないからな」
　ポケットの中のナイフを握り締めて、目前のアルクェイドを睨みつける。
「……そう。そいつと仲良くなってたらどうなるかって、わたしも言ったはずだけど」
　アルクェイドの目が殺気を帯びていく。
「退いて。今ならまだ許してあげる。早く。そんなヤツを庇うのはやめて。わたしにそのナイフを向けないで」
　赤い瞳が蝋燭の火のように揺らいでいる。
　アイツの殺気は先輩にではなく、俺に向けられようとしている。
　……一瞬で喉が渇いて口の中がカラカラになる。
　すぐに退かないと取り返しのつかない事になる、と本能が警告している。
　けど、それでも―――
「………ダメだ。
　おまえが先輩に手をあげないと言うまで、退かない」
「聞きたくないっ！　退いて、志貴！」
「おまえこそ退けアルクェイド……！　おまえは俺に言ったじゃないか、人間は殺さないって！　それとも、あれは俺を安心させる為の嘘だっていうのか……！」
「―――ええ。わたしは人間は殺さない。
　けど人間の規格を大きく外れた<生命|いのち>には敬意を表してる。だから対等の存在として殺すことも厭わないわ。
　例えば貴方や、そこの女みたいな相手にはね」
　一歩。
　アルクェイドが、踏み込んできた。
「っ…………！」
　逃げ出そうと暴れだす両脚をなんとか抑えつける。
「そう―――貴方はまた、わたしにナイフを向けるんだ」
　さらに一歩。
　アルクェイドは無造作に近寄ってくる。
「一度目は許した。けれど二度目を許せる自信はないわ。
　もっとも、あの時の再現はありえないけど。
　いくら貴方の直死の眼でも、今のわたしから死を読み取ることはできないでしょう？」
　真正面から。
　金の瞳が、俺の眼球に飛び込んできた。
「――――ア」
　心臓はおろか、全身の細胞が止まったかのような緊張。
　背骨がまるごと引き抜かれる。
　<内臓|なかみ>が内側から<捲|めく>られる。
　ヴローヴとは比べ物にならない、自分以外のもの全てに睨まれているような、圧倒的な絶望感。
「―――、ぁ」
　何も、できない。
　これがアルクェイドを敵に回すというコト。
　もとから生き物としての在り方が違いすぎる。
　正面から戦闘になったらどうにもならない。
　先輩を助けるには―――俺たちがここで生き延びるには、アイツを<言|・><葉|・>で止めるしかない。
　俺は、
　……そ、それでいいんだろうか……？
　確かに今の自分の心境を正確に表しているが、それで一体なにが―――
「くっ……待て、アルクェイド……！
　いいのか、ホントにいいのか!?」
「言ってるコトが分からない。いいのかって、何がよ」
　だ、だから、
「それ以上進んだら、おまえのこと嫌いになるからなっ！」
　……信じられない。
　本当に止まっちゃったぞ、アルクェイド……。
　―――ぞくん、と首筋に悪寒が集中する。
　もうアルクェイドは俺を殺せる位置にいる。
　その腕が動けばこの首は切断される。それが当然の結果だと冷めきった目で眺めている自分がいる。
　……アルクェイドは吸血鬼だ。初めから俺たちとは価値観の違う生き物で、共存できる筈がなかったのだと。
　でも―――それでも、こんな結末は、認めたくない。
「……なんで。俺にはわからない。どうして先輩にだけ、おまえはそんなに酷いヤツになっちまうんだ。
　そりゃあ何もかもメチャクチャなヤツだったけど、気にくわないから殺すとか、そんな事を口にするヤツじゃなかっただろう……!?」
「志貴―――」
　アルクェイドの足が止まった。
　……俺の訴えに耳を傾けてくれたのか、その殺気も少しだけ薄れている。
　これなら、ちゃんと話し合えば場を収められるかも……。
「……ダメ、逃げて遠野くん……！」
「先輩!?」
　一瞬の出来事だった。
　満足に立ち上がれないほど傷ついていた先輩が、俺の前に回りこんできた。
「生命力だけは流石ね。でもそれでどうするの？　さっきの大魔術で魔力は空っぽのクセに。
　今の貴女じゃ志貴の盾にもならない。志貴が無茶をしている間に逃げれば良かったのに」
「……貴女こそ、そんな気もないクセに、笑わせないでください。わたしが背中を見せれば、喜んで、トドメを刺す気だったでしょう？」
「でも、おあいにくさま、でしたね。わたしはまだ、戦え、ます。だって、彼を―――無関係な人々を守るのは、わたしの役目、なんですから」
「先輩……」
　先輩は満足に息も出来ていない。
　なのに虚勢を張って、血に濡れた修道服のまま、必死に俺を守ろうとしてくれている―――
「……貴方も、下がって、ください。ここはわたしが、」
「ああもう、下がるのは先輩の方だっ！
　いいから休んでろ、ここは俺がなんとかするから！　でもありがとう、大好きです、先輩！」
　全力で先輩の前に回りこむ。
　たぶん、今ので俺は無敵になった。アルクェイドがさっきの状態になっても震えない。何故なら俺はいま、自分でもどうかと思うぐらい馬鹿になっている……！
「ちょっ、まま、待ってください、無理、無理ですから！
　遠野くんじゃアルクェイドに殺されちゃいます！　ここを何とかするのはわたしの方ですよ!?」
「そんな傷でなに言ってるんですか！　いいから下がって、ほら！　ここで意地を張るのは俺の役目です、たまには先輩を守らせてくださいっ！」
「ま、守るって、ででででも！」
　俺たちは互いの肩を掴んで、代わる代わる入れ替わった。
　そのうち訳が分からなくなってダンスをしている気にさえなった。ちょっと楽しかった。
　―――そして。
　そんな俺たちを見て、わなわなと震えているお方がひとり。
「なによバカぁ！　もういい、志貴なんて知らない！
　そんなにシエルが大事なら勝手にすれば!?　わたし、もう助けてあげないから！」
「ア、アルクェイド……？」
「いい、わたし帰る！
　言っておくけど、その女は貴方が思っているようなまっとうな人間じゃないから！　利用されて搾り取られて、薄皮一枚にまでなればいいわ！」
　アルクェイドはそう怒鳴り散らして、ふん、と俺から顔を逸らした。
「な、なんだよそれ。おまえだってさっき物騒なコト言ってたじゃないか！　俺を自分のものにするとかなんとか！」
「わたしは隠し事はしないもん！
　志貴が好きって言っただけよ！」
「じゃあね！　あとでわたしに泣きついても聞いてあげないから！　
せいぜい血を吸われないよう気をつけるコトね！」
　……アルクェイドは激高したまま、流星のように公園から跳び去ってしまった。
　あまりの展開に思考が追いつかない。
　俺と先輩は呆然としたまま、アルクェイドが消えた夜空を見上げていた。
「……星になってしまいましたね、彼女……」
「……うん。星というよりロケットっぽかったですけど」
　二人でしみじみと感想を言い合う。
「って、そうじゃなくて！
　なんて無茶をするんですか遠野くんは!?　真祖と戦おうとするなんて、自殺願望にも程がありますっ！」
　先輩は俺の両肩に手を置いて叱りつけてきた。
　その言い分はもっともなので、こっちも反論はしない。
「そうでしたね。今でも背中、すげえ冷たいです。アイツ、やる時はほんと容赦ないから。先輩が割って入ってくれなかったら、首が飛んでました」
「そこまで分かっていて、どうして……！」
「だって先輩を放っておけないし。
　……その、改めてありがとうございます先輩。俺の為に戦ってくれたのぐらい、分かります」
「……えっと、はい。お礼を言うならわたしも、でした。
　遠野くんがいなかったら、どうなっていたか、分からなかった、です」
　先輩は俯きながらも、そんな事を言ってくれた。
「………………」
「………………」
　なんとなしに言葉がない。
　気がつけば体が触れ合うほど近くて、先輩の体温がほのかに感じられて、ムズムズする。
「……その。
先ほどは意地を張って、ごめんなさい。
　遠野くんを困らせるつもりじゃなかったんです」
「？　さっきのって、アルクェイドの事？」
「そ、そうじゃなくて、お屋敷から公園までのコト、とか。
　……昼間の茶道室のコト、とか」
　そんなコト、謝るのは俺の方だ。
　けど、それを口にしても先輩はますますかしこまってしまうだろう。先輩が謝りたいと言っているのなら、素直に聞いてあげたい。
　……それに。俺も先輩と和解できるのなら、こんなに嬉しいコトはない。
「うん、そうですね。じゃあケンカ両成敗ってコトで、仲直り、してください。明日になったら先輩に無視されるとか、考えるだけで怖いですから」
「そ、そうですか。そんなコトでいいなら、喜んで」
　先輩は照れくさそうに身を縮ませると、どこからか眼鏡を取り出してかけ直した。
「……と。それより先輩、体は大丈夫ですか？」
　一歩下がって先輩の体を確かめる。
　さっきまで地面を血に染めていたぐらいだから、今すぐ傷の手当てをしない、と………
「あれ？」
　血痕は消えていた。
　レンガを濡らしていた血だまりだけではなく、赤く染まっていた修道服も元の色に戻っている。
「……あの。遠野くん、これは」
「そっか、先輩はあれぐらいの傷、なんともないんでしたっけ。ヴローヴの時なんてもっと深い傷を受けてたし、並大抵のコトならアイツみたいにすぐに治って―――」
　―――なんて愚かな。
　死の危険が去って、俺は気が緩んでいた。
　気が緩んでいたから、今まで無意識に避けてきた<事|コ><実|ト>に、触れてしまった。
“吸血鬼と同じよね。だって完全な不老不死なんだもの”
“その女は貴方が思っているようなまっとうな人間じゃないから。血を吸われないよう気をつけるコトね”
　頭をよぎった言葉を、意識の深いところに押しこめる。
　けれど、
　そんな俺の沈黙が、すべてを雄弁に物語ってしまった。
「い、いや、でもアレだよな。アルクェイドのヤツもデタラメなコトばっかり言うよな。
　先輩が俺の血を吸うなんて、そんなコト、絶対にありえないのに」
　そう、そんな事は万に一つもありえない。
　だって先輩は昼間でも歩いていた。そりゃあアルクェイドも昼間に歩ける吸血鬼だけど、アイツでさえ昼間は弱くなる。
　その点、先輩は昼間も夜も変わらない。
　そもそも先輩は教会側の人間だ。
　吸血鬼退治の組織に、吸血鬼がいるなんて矛盾している。
「取り繕わないでいいです。
　わたしの体の事、ノエル先生から聞いたんですね」
「――――――」
　……はい、とは言えなかった。
　シエル先輩を気遣っての事じゃない。俺は俺の為に、その事実から目を背けたかっただけ。
「……ノエル先生のおかげで目が覚めました。
　質問の続きです、遠野くん。
　どうしてわたしを庇ったんですか。アルクェイドが本気で貴方を殺すつもりだったのは分かっていた筈なのに」
　……先輩の目には感情というものがない。
　俺の姿さえ見えていない、人形のように虚ろな目。
「……どうしてって。さっきも言ったでしょう。
　先輩が殺されかけたんです。誰だって庇います」
「自分が殺されるというのに？　献身とは自分の命を投げ出す事ではありません。自分の命を蔑ろにして他者の命を救おうというのは、献身でも犠牲でもなく、ただの自己愛です」
「貴方は、ただ自分が後悔したくなかっただけ。
　それだけであんな真似をして、満足しています。
　……はっきり言って、すごく、迷惑です。
　正しく生きようとするのは立派ですが、貴方の身勝手な正しさに、わたしを巻き込まないでください」
「―――それは」
　反論しようのない指摘。
　……確かにさっきの俺は考えが無かった。シエル先輩を助けたいと思うだけで、アルクェイドに対抗する手段も、策も、考えようとしなかった。
　思考を止めて、自分の都合を通しただけだ。
　自己愛と言われても仕方がない。でも―――
「……それでも、先輩を守りたかったんです。
　それが、それが迷惑だっていうんですか……？　先輩はあのまま、アルクェイドに殺されていても良かったって―――」
「はい。わたしの命なんですから、貴方にどうこう言われるモノではない筈です。いえ、死んだ方がまだマシでした。吸血鬼にお情けで見逃されて生き延びるなんて、無様すぎます」
「――――――」
　……無様って。
　死んだ方がマシって、いくらなんでも、それはおかしい。
「じ、自分の命をなんだと思ってるんですか先輩は!?
　死んだらそれまでなんですよ!?　どんなに酷くて、どんなにみっともない事をしてでも、生きていられるのなら生きるべきです！　だって、」
「―――だって。生きていなくちゃ、何もないじゃないですか。無様だからなんだって言うんです。どんなに情けなくても、何もなくなるよりずっとずっと、何倍もいい！
　俺は先輩を守りたかった。死んでほしくなかった。先輩と一緒に、また茶道室に居たかったんです……！」
　……自分でも冷静になるべきだと分かっていても、堰を切った感情は止まらなかった。
　せっかく仲直りが出来たのに、俺はまた先輩を責めている。
「そうでしたね。貴方は七年前に一度死にかけた人でした。だからそんな単純な考えで満足できるんです。
　―――幸せなひと。
そんな言葉、わたしには言えません」
　虚ろな目のまま先輩は俺から離れた。
　手を伸ばせば届くほど近いのに、今はあまりにも遠い距離。
「……アルクェイドが言っていた事は本当です。
　彼女の言う通り、
わたしは人間とは呼べません。遠野くんも見たでしょう？　さっきまであんなにこぼれていた血が、まるで無かった事のように消え去っているのを」
「それは―――」
「いいんです。わたし、化け物なんです。
　わたしは吸血種ではありませんが、普通の、人間らしい体ではないのも事実ですから」
「……なに……言ってるんですか、先輩。人間らしい体って、先輩はじゅうぶん普通じゃないか……！」
「これでも、ですか？」
「せ、先輩……!?」
　……止める間なんてなかった。
　彼女は自らの首を、自らの剣で切りつける。
　刃は鈍い音と共に肉と動脈を傷つけ、
　ざばり、と。
　眼球に染みこんでくる、鮮やかな朱色があふれ出した。
「ぁ――――――」
　どくどくと<零|こぼ>れていく。
　生命そのもののような鉄の匂い。
　あまりにも目に痛い原色。美しい。視界も意識も奪うような鮮血が、だらだらと黒い修道服を染めていく。
　あの修道服の下。
　先輩の白い裸体に流れていく色は、まとわりつく<蛇|くちなわ>のように、いっそう濃さを増している事だろう。
　チッ、と指に血が飛び散ってきた。
　なにかに奪われていた心が、それで現実に戻ってきた。
　目の前には。血に濡れていく先輩の姿がある。
「先輩……！」
　返り血を拭いながら先輩に駆け寄る。
「あわてる必要はありません。……ほら、見てください」
　白い首元から剣が離される。
　……先輩の傷は、とうに塞がっていた。
　そればかりか、あれほど流れていた血液が消えていく。
　―――それは。
　ヴローヴと同じかそれ以上の、蘇生や治癒という表現を超越した、異常な光景だった。
「……………」
　言葉がない。
　今の現象を前にして、先輩に言うべき言葉がどうしても見当たらない。
「……はい、この通りです。
　出来る事なら、遠野くんには知られたくなかったですけど」
　先輩は寂しそうに笑った。
　俺は。
　その笑顔を前にしても、何を言っていいか分からない。
「……だから、昼間の事は謝らなくていいんです。ぜんぶ正しかったんですから。
　わたしは貴方の事を騙していました。あんなふうに怒られても、それは仕方のない事なんです」
「………………そんな、コトは」
　ない、とどうして言えなかったのか。
　先輩がどんな人であれ、どんな体であれ―――たとえ、本当に何かの間違いで、吸血鬼なんだとしても。
　それでも、俺にとって先輩は、大切な<女|ひと>である事は絶対だったのに。
「……ほんとうは、もっと距離を取る予定だったんです。
　ただの顔見知りとか、それぐらいの。そうすれば貴方の方から話しかけてくる事も、こんな風に、嫌われる事もなかった。
　けど、いいんです。今までの事を後悔はしていません。
　遠野くんがわたしとの思い出が楽しかったって。守りたかったと言ってくれて、嬉しかった」
「―――先、輩」
　だって、それは。
　本当に、ずっと続けばいいと思うぐらい、穏やかな時間だったから。
「さよなら」
　最後にいつもの笑みをうかべて、先輩は俺の前からかき消えた。
　……アルクェイドとは何もかも正反対だ。
　アイツは流星のように跳び去ったけれど、先輩はその後ろ姿さえ残してはくれなかった。
「――――――」
　頭の中身がぐちゃぐちゃに回っている。
　先輩の後を追う事さえできない。
　アルクェイドは先輩を吸血鬼だと言い、
　先輩はそれを否定もせず、いっそう確かな証拠を残して消えてしまった。
　嘘でも。
　たとえすぐに見破れる嘘でもいいから、そんなコトはないと言ってくれれば、それだけで良かったのに。
　―――さよなら。
　その意味を考えるまでもない。
　先輩の正体を知ったり、先輩を傷つけたりしたけど、それでも先輩は会いに来てくれた。
　……けど、それも終わり。
　こんな唐突に、あんな不注意から漏れた一言で、俺はすべてを失った。
　頭が正常に働いてくれない。
　何を失ったのか、何がこんなにも苦しいのか。
　ノエルという女が語った誰かの話。
　アルクェイドの告発。
　それらを裏付けた首の傷。
　それとも―――
「――――――」
　……頭痛がする。
　自己嫌悪は泥のように、肺の中にわだかまっていく。
　……吐き気がする。
　脳内に植物が芽生えたような錯覚。
　あまりの痛みに何も考えられない。……もう先輩には出会えないという現実を、考えたくない。おぼつかない記憶と崩れそうな足取りで、公園を後にしていた。
　―――ズキン。
　―――ずきん。
　―――ズキン。
　―――ずきん。
　……ああ。
　　　ひどく、疲れた。
　頭痛の芽は群生する<茨|イバラ>になっていた。
　ギシギシ、ギチギチと音をたてて、<木|で><偶|く>の<脳|のう>を締め上げている。
「―――、―――――――――」
　死ぬ思いでベッドに倒れこむ。
　……背中からのしかかってくるように、忌まわしい暗闇がやってくる。
　思い浮かぶ顔は、朝見たものと変わらないのに。
　……最後に残った思考で目を閉じる。
　今は何も考えずに、ただ<案|か><山|か><子|し>のように眠りたかった。
　―――この頃、昔の<自|コ><分|ト>を夢に見る。
　人間、<代|とし>を重ねると思い出話が増えるというが、これもその一種だろうか。
　この先も使う<技|も><能|の>と、使わない<技|も><能|の>。
　必要なモノと不要なモノ。
　現在の私と明日の私。
　そういったものを整理しては、古いものを工房に置いていく。もう読む事のない回顧録を作っているようなものだ。
　人間は誰しも、過去の自分を切り捨てている。
　いま私は、死に瀕している。
　正確には余命一週間といったところか。
　もうじき白い化身がやってくる。
　それで『この私』の人生はおしまいだ。
　感慨らしきものはなかった。
　人間は死ぬ。こればかりは避け得ない結末だ。
　恐れているものがあるとすれば、それは目を覚ます時の感覚だ。終わりのない暗闇から這い出るような感覚。アレだけは、何度経験しても慣れない不快感だった。
　私は過去にひたりながら、未来の航海図を思い描く。
　<過去|こんかい>の私は失敗だった。
　生まれつき体が弱かった為、肉体の寿命を延ばす研究に没頭してしまった。不老という一つの成果には辿り着いたものの、結果は失敗に終わった。永遠の若さというのは、やはり肉体には備わらない。
　次は何を拾い上げたものか。
　研究半ばで終わった課題は山ほど残っている。
　今回の『不老』は逆行、あるいは退化そのものだった。
　では次のテーマは『継承』にしてみよう。
　人間は優れた遺伝子提供者の遺伝子と遺伝子を配合する事で、より優れた因子を持つ子孫を産みだしていく。
　それをより端的に、一切の無駄なく行えないだろうか？
　たとえば死徒だ。下僕たちに“不死”を分け与えられるものの、異能は引き継がれない。
　いや、そもそも死徒は生殖機能が失われている。
　彼等は情欲、性欲こそあるものの、子孫を作る事はできない。単一で長い寿命を得た彼等は、子供を作る機能を不要としてしまったのだ。
　死徒社会において、親族とは入念に手を入れた下僕を指す。
　Ⅵ階梯以上の死徒が“息子、娘”として扱う死徒は、才能のある人間を養子にし、頃合いを見て人間から死徒に変貌させたものを言う。
　本当の意味で血が繋がっている死徒の一族もいるが、それは生前、彼等が親子だっただけの話だ。
　例えばロズィーアン卿。愛すべき娘たちと共に吸血鬼になった男。貴族主義の最後の希望。彼の派閥は死徒社会でも最大のものの一つとされ、その成功ぶり、その満ち足りた在り方は同じ祖たちからですら羨望の対象となっている。
　だが、そのロズィーアン卿の最大の悩みは“孫の顔が見られない”事だ。
　死徒は子供を産めない。
　死徒は異能を継承できない。
　自らの遺伝子を伝えられない。
　彼らは生き物として致命的な欠点を持っている。
　人間を超える彼等が霊長類にカウントされない最大の理由がこれである。
　つまり、死徒は死徒の子を作る事ができない。
　死徒の呪い……祖にいたっては世界と対峙するほどの呪いは、それを保有する個体が消えれば消失してしまう。
　それは完全ではない。
　完全でないのなら、私が立ち向かうべき問題だ。
　次のテーマは決まった。
　二十七祖が持つ呪い。それらを継承する異能を開発するとしよう。
　もっとも、原理はこの世でただ一つのもの。
　模倣はできないし、複写してしまっては唯一性を失って弱体化する。
　だからこその『継承』だ。その原理をすべて自分の物にし、自分用に<再設定|デチューン>する技術を考案しよう。
『XV　あらゆる呪い、負債の継承と、その利用』
『あるいは。自らの異能、運命力の強制的な譲渡』
　私は次の私の効能をラベリングする。
　殺し、奪い、乱用する。
　そう、まずは殺害が基本となる。
　人間でいうところの遺産相続と思ってほしい。
　……言葉にするのはまことに無粋だが。どのような遺産であれ、受け継ぐ為には前所有者の死が必要不可欠だ。
　我ながら、遺産という表現は的確だ。
　親からの相続なぞ手放しで喜べるものじゃない。
　その大半は頭を抱えるほどの借金が関の山だ。
　次の私は、そんな負債に耐えられる強い肉体を持ち得るだろうか？
　―――ああ、星が流れていく。
　白い化身は去っていった。
　私は胴体がなく、手足は灰化し、残ったものはあと数秒で燃え尽きる<脳|かお>しかない。
　死の淵にありながら、私はもう一度自問する。
　恐怖はないかと。
　無論、恐怖はない。
　あるのはただ無念だけだ。
　私は完全を求めた。
　では君の言う完全とは何かと、教会に残った古い友は問うた。
　古い友にとって、完全とは『全知全能の父』を表す言葉だった。当然だ。それが我々の教義でもある。
　教会は不変であるものを作り、広める事で全能を証明した。
　この世界が広がり続ける事を知った上で、<宇|か><宙|み>は定住していると謳ったのだ。
　しかし違う。それはまったく違う。
　不変では<古|おそ>すぎる。
　知覚、知識を更新するのは、常に『その時代』の人間だ。
『古い時代』で全能である事に何の価値があるだろう？
　完全とは在るものではなく、
　辿り着くべき場所でなくてはならない。
　人間の到達点。人間の結論。
　私という魂の意味。我々は何を成すべきかという答え。
　その結論に辿り着きたい。
　その状態こそ、何も加わらず何も失われない不変のもの。
　即ち、この地上でただひとつ、永遠と呼ばれるものだ。
　祖と呼ばれる吸血鬼たちは永遠そのものを求めた。
　私は永遠に辿り着く手段を求めた。
　彼等が私を異端と蔑むのも当然だ。
　根本からして、私と彼等は違う生き物なのだから。
　私の<航|み><路|ち>は間違ってはいない。決して。
　たとえ、その手段が間違っているとしても。
　―――だが、それも虚しい遠吠えだ。
　あの星の花が咲き誇る城に辿り着いた時、神学者である“私”は死んだ。
　永遠は既にあった。
　否。永遠に留めておきたいと思ってしまったモノが、そこにあった。
　今でも―――何度この世から退場しようと、
　身を切り裂くほどの憎悪と歓びが繰り返される。
　あの時。世界の全てを知る事と、あの女を知る事を、私は<秤|はかり>にかけてしまった。
　神学者としての私は、あの瞬間に死んだのだ。
　……だから、君よ。
　この忠告を、つね、魂に刻みつけ給え。
　ヒトの認識でホシの<光体|すがた>を観る事は罪深く。
　すべてが過ぎ去った後、おまえは、何に恋していたかを知るだろう、と―――。
　……窓が開けっぱなしになっているんだろうか。
　外から小鳥の鳴き声が聞こえてきている。
　ひんやりと冷たい風が頬にあたる。
　目蓋には淡い陽の光。
　静かで、ゆるやかな周囲の色合い。
　柔らかな朝の訪れを感じて、
　無意識のうちに枕元の眼鏡を手に取る。
　……そうか。
　昨夜は秋葉と話した後で眠ったらしい。
　体のふしぶしが微かに重いけれど、それでも昨夜よりは回復している。
「―――よし」
　鼓舞するように声をもらす。
　目を開けて、清々しい朝を迎える事にした。
「あ。やっと起きたな、こいつめ」
　しかし。
　目を開けると、そこにはアルクェイドの顔があった。
「――――――」
　あまりの出来事に思考が吹っ飛んだ。
　脳が豆腐になったかのような真っ白さ。
　口は呼吸さえ忘れて固まっている。
　本気で、何がどうなっているのか分からない。
　目前にはアルクェイドがいて、
　ここは自分の部屋で、
　時刻は朝の９時すぎで、
　ついでに言うと、アルクェイドはブーツのままベッドに乗っている事しか分からない。
「お、お、お、ま、え」
「うそつき。また明日って約束したのに」
　いたくご機嫌ななめなのか、アルクェイドの赤い瞳は本来の美しさを損ねている。
　―――いや、損ねてはいない。
　こんなに間近で見てしまっている分、むしろ普段より鮮明に、美しいと感じられる。
　アルクェイドはじぃぃい、と俺をにらんでいる。
　それが、すごく近い。
　彼女の息づかいも、体温も、肌の滑らかさすら感じ取れる近接状態
。
　倒れた俺に覆い被さる姿勢。
　格闘技で言うところのマウント状態だ。
「ちょっ、ちょっと待ってくれアルクェイド。
　おまえ、なんで朝から俺の部屋にいる……!?」
　怒鳴ろうとして、声を極力小さくした。
　ここで大声を出して翡翠が部屋にやってきたら、それこそ終わりだ。
　状況は掴めないものの、それぐらいの理性はちゃんと働いてくれている。
「と、とにかくどいてくれ……！
　人の部屋に勝手にあがって眠ってる隙に馬乗りとか、人権無視にも程があるっ！　<侵略者|インベーダー>か、おまえは！」
「なによ、その態度。わたしがこんなところにやってきたのは、志貴が約束を破ったからでしょ。
　人を待たせておいて自分はずっと眠っているなんて、いったいどういうつもりなの？」
　むーっ、と不機嫌そうにアルクェイドは睨んでくる。
　……約束……そうだ、約束だ。
　昨夜のアルクェイドとの待ち合わせの約束を、俺は破ってしまったのか。
「――――」
　ようやく事情が飲み込めた。
　アルクェイドの怒っている理由は判った。
　判ったけど、それにしたってコレはない。
　今夜の待ち合わせで文句を言えばいいものを、一足飛びで人の部屋にやってくるとか本気でありえない。
　窓が開いているところを見ると、そこから忍びこんできたみたいだし。
「……そうか、約束を破ったんだから、そりゃあ、たしかに俺が悪い。けど、そんな事で<人|ひと>の<家|いえ>に侵入するのはやりすぎだぞ」
「ここ、志貴の家じゃないわ」
　アルクェイドはきっぱりと言い返してくる。
「それにね、ほんとはわたし、もっと怒ってたんだから。
　何時間も待ち惚けで、約束を<反|ほ><古|ご>にされたんだって気づいた時、自分でも驚くぐらい頭に血がのぼったわ。
　もう、絶対にこのままじゃすまさない、乗りこんでいって捕まえて、志貴の首根っこぐらい引き千切ってやる、並の言葉じゃ許さないからって」
「あんなの、経験した事のない精神状態だった。
　自分でも冷静になろうって思うんだけど、思えば思うほど頭にきちゃって、どんどん熱があがっていくの。
　あなたへの文句だけで詰まった底なし沼にはまって、暴れれば暴れるほど沼が広がっていくような気分、分かってもらえる？　もう本当にどうにかなりそうでたまらなかったんだから」
　今でもそういう気分なのか、アルクェイドの赤い瞳は俺への不満・抗議・怒り・文句に満ちていた。
「……ああ。たしかにたまらないな、それは」
　相づちを打ちつつ、こっそり自分の首が無事なのを確認した。
「でしょ？　それで、もう我慢できなくなって忍びこんだんだけど、志貴が眠ってるから待ってあげる事にしたのよ。言い訳ぐらいは聞いてみたかったから。
　でも志貴、なかなか起きないんだもん。やる事もなかったし、しばらくあなたの寝顔を見てるしかなかった」
「……うん、志貴の寝顔はね、恐いくらい、静かだった。
　死人のように眠っていて、もう起き上がる事はないんじゃないかって不安になったぐらい」
「……はあ。不安だったら起こしてくれればよかったのに。
　こっちはおまえにいられる方がよっぽど不安だよ」
「けど、起こすのも勿体なくって。
　……わたし、自分の眠っている姿は知らないけど、志貴みたいに眠れるのなら幸せかもしれないなって。どうして志貴はこんなに穏やかなんだろうって、ずっと考えながら見つめてた。
　そうしていたらね、あれだけ湧き上がっていた気持ちも収まって、その後に志貴が目を覚ましたの」
「……。それじゃあ夜から今まで、ずっとそこにいたのか？」
「うん。何度か家の人がやってきたけど、見つからないようにしておいたから大丈夫よ。
　さっきも志貴を起こしに女の子が来たけど、気に食わないから追い返しちゃった」
　あはは、とアルクェイドは能天気に笑う。
「待て、追い返したってなにを―――」
「手荒な真似はしていないわ。ほら、前に吸血鬼には魅了の魔眼があるって言ったでしょ？
　あの女の子には『志貴はもう学校に行った』って暗示をかけたから、わたしの事も記憶に残ってないよ」
「記憶に残ってないよって、おまえね……」
　ほんと、なんて強引なヤツなんだ。
　……まあ、それでもアルクェイドなりに、こっちの家庭環境に気を使ってくれたみたいだけど。
「経緯はよく分かった。
　……それと、昨日の事はすまなかった、アルクェイド。
　その謝罪……ってワケじゃないけど、俺は二度とおまえとの約束は破らない。約束する」
　はっきりとアルクェイドの顔を見つめながら断言する。
「反省してる？」
「反省してる。……なにしろあとの報復が恐ろしいって、いま思い知ってる最中だ」
　ベッドに横になったまま、降参します、と両手をあげるジェスチャーをする。
　さっきまでの不機嫌そうな素振りはどこにいったのか、よろしい、と満足そうにアルクェイドは頷いた。
　ようやくアルクェイドはベッドから離れてくれた。
「……にしても、ブーツでベッドに乗っかるなんて。
　シーツに足跡がついたら洗濯が大変だな、とか思わないのか」
　文句を言いつつベッドから体を起こす。
　アルクェイドは部屋の真ん中で、のそのそとベッドから出る俺を眺めている。
「……あのさ。おまえ、何してるの」
「なにって、志貴が着替えるのを待ってるんだけど。
　その格好のまま出かける訳にはいかないでしょ？」
「まあ、寝巻きのまま出歩くほどだらしなくは―――
　待て、なんて言ったアルクェイド？」
「うん、今日一日はずっと志貴と行動しようと思って。
　約束を破った埋め合わせ、してくれるんでしょ？」
　アルクェイドはさも当然のように言う。
　一日ずっとって、つまり、学校をさぼってこいつに付き合えって事か……!?
「なに言ってるんだ、こっちには学校がだな、」
「なによ。反省してるって言ったのに、わたしより学校をとるの、あなたは」
「―――う」
　それを言われると弱い。
　ちらり、と時計を見る。
　時刻は午前９時をまわっている。
　今から学校に行っても遅刻だし、アルクェイドを一晩中待たせてしまった責任もある。
　それに、まあ……ちょっとだけ白状すれば、俺だって、その方が何倍も楽しいだろうと感じている。
「わかったよ、今日一日はアルクェイドに付き合う。
　けど昼間に街に出ても、手がかりは何もないんじゃないか？」
「ん？　そこは気にしなくていいよ？
　だって、街を散歩するだけなら昼間でも関係ないんだし」
「……？　なんだよ、昨日の夜できなかった分、これから吸血鬼探しをするんじゃないのか？」
「ええ、もちろん夜になったら調べるわ。
　けど一日ずっと手伝ってもらうのも大変でしょうから、お昼ぐらいは休んでもいいと思うの」
「……もっともな意見だけど、二人で街を歩くだけって、それって……」
　さんざん夜に出歩いておいて何だけど、それは世間一般においてデート、と言うものじゃないんだろうか？
　吸血鬼であるアルクェイドにそんな考えはないだろうから、単に、『面白いところに連れて行け』ってコトだろうけど……その、本当に？
　これからこいつと、普通に、吸血鬼退治なしで過ごす……？
「どうしたの志貴。顔、赤いわよ？」
「―――――う」
　あわてて顔を手で隠し、アルクェイドから視線を逸らす。
「？」
　……そりゃあ、今まで何度もこいつとは二人きりになった。
　けど、あれは緊急時下でのことで、男と女である前に協力者同士という枠組みがあったからだ。
　だから―――アルクェイドをどんなに綺麗だと感じても、意識する事は避けていた。
　けれど、もし。
　何の危険も何の目的もなく、ただ普通にこいつと過ごしてしまえば、俺は、気づいてはいけないものに気づいてしまいそうで―――
「志貴？　ね、やっぱり学校に行くの……？」
「……わけないだろ。うんと言ったんだから付き合うよ。約束は破らないって言っただろ。どんな気まぐれか知らないけど、街を散歩するぐらいなら問題ないだろうし」
「……！　うん、ありがとう志貴！
　それじゃさっそく行きましょう！」
「……………」
　なにが“ありがとう”なのか。
　アルクェイドは跳ねるように、侵入経路と思われる窓へと歩いていく。
「ちょっと待った。すぐに着替えるから、そこで外でも見ててくれ」
「なに、呼んだ？」
「あー、呼んだけど呼んでない！　止めて悪かった、外に出ていてくれ。すぐに追いつくから」
「うん、屋敷の正門で待ってるわ。今までさんざん待ったんだから、これ以上待たせないでね、志貴」
　タン、と猫みたいな身軽さでアルクェイドは窓から出て行った。
　とん、とん、と庭の木々がしなっていく。
　地面ではなく庭の木の枝を足場にして、身軽な猫のように消えていく。
　あの身のこなしなら俺の部屋に忍びこむのなんて造作もない事だろう。
「……感心してる場合じゃないか。
　俺も翡翠に見つからないよう、外に出ないと」
　寝巻きから普段着に着替える。
　なにしろ平日の昼間だ。街を学生服で歩いていては補導されてしまう。
　ドアを少しだけ開けて、廊下に誰もいない事を確認してから移動する。
　ロビーは使えないので、一階の空き部屋の窓から庭に出た。
　正門に到着。
　人目に付かないルートを選んだので、少し時間がかかってしまった。
　アルクェイドは……いた。
「お待たせ。とりあえず移動しようアルクェイド。屋敷の周りにいると琥珀さんに見つかっちまう」
「え？　あ、うん、行くなら早く行こっか」
　さっきまでのはっきりした様子と違って、アルクェイドの返事には元気がない。
「なんだよ、らしくないな。
　俺を待ってる間に、また何かあったのか？」
「……ううん、別に何もなかったけど」
　また、という部分を力強く発音しておいたのだが、アルクェイドの返事は上の空だった。
「……もしかして昼間だから体調が悪いのか？
　無理をしてまで出歩く必要はないんだ。苦しいのなら止めにしても―――」
「ん、体調は良好なんだけどね。ちょっとこの塀を見ていたら、昨日のこと思い出しちゃって」
「昨日のことって、公園で俺をずっと待ってたこと？」
　そう、とアルクェイドは神妙な顔でうなずく。
「昨日の夜はここを全力で飛び越えて、そのまま志貴の部屋に忍びこんだんだけど……今にして思うと不思議だなって。
　どうしてわたし、あの時あんなに怒ってたんだろ。約束のひとつぐらい、今まで何度も果たせなかったのに」
　わかんないなぁ、とアルクェイドは両手を組んで考えこむ。
「あ、そうだ。志貴なら分かるかな？
　いつもわたしをばかばかって言い伏せるんだから、これぐらい分かるでしょ？」
「あのな……」
　アルクェイド本人に分からないものが、他人である俺に分かる筈もない。
　分かる筈もないけど、あえて答えるのなら――――
「単に、アルクェイドは怒りやすいだけなんじゃないか？
　基本的にわがままな性格しているからな」
　きっぱりと、思ったままの意見を告げた。
「そっか、言われてみればそうかも。わたし、志貴に殺されてからすっごく感情的になってるみたいだし」
　うんうんと満足そうに頷くアルクェイド。
　事の真偽はどうあれ、当人が納得したのなら問題解決だ。
「……そうだな。
　俺に復讐したいから、じゃないか？」
「復讐？　わたしが、志貴に？」
「……俺は一度アルクェイドを殺しているだろ。
　ヴローヴの件で許してはもらったけど、あれはあくまで“元に戻せない”代わりの補填というか、借金は返せたけど借りていた時にかけた迷惑は残っているというか……」
「？　差し引きが合っているならいいんじゃないの？」
「…………」
　実のところ、差し引きは合っていない。
　俺はアルクェイドを殺し、その後、護衛役として役にはたった。
　けどそれとは別に、アルクェイドは俺の無責任な言葉を鵜呑みにして、この街を守ってくれた。
　……気持ち的には、俺はこいつに何も返せていない気がする。
「ええーと。そうだな、感情的な話なんだ、きっと。
　殺された時のコトを思い出すとむかつくだろ？
　やっぱり許せない、いつかやり返してやるー、って」
「うーん……やり返したい気持ちはないでもないけど……だって志貴、一度も待ち合わせ時間を守ってくれないし。そういうところ、今もどうかと思ってるし」
　たった２回の遅刻でこれか。
　そして、やり返したい気持ちはないでもない、という事実にも戦慄した。
　次は絶対、時間を守ろう。
「ま、まあ、そういう前提があるからおまえは怒ったんだろうし、俺を憎らしく思ったんじゃないか？」
「憎らしく……確かに、そうかも。
　わたし、誰かとこんなに話したコトなかったから、分からないけど……」
　アルクェイドは深刻な顔で俯いたあと、
「……じゃあ。
　志貴はわたしのこと、嫌いなのかな……？」
　なんて事を、聞いてきた。
「――――――、
ば」
　あまりの不意打ちに思考が止まりかけたが、ここは遠野邸の正門。
　そして今は太陽眩しい日中であり、寝覚めの一件で奇襲にも慣れている。
　なので、
「ばかなコト聞くな。好きも嫌いもない。
　だいたい、俺がおまえを嫌いだって言ったらどうする気なんだ？　見逃してくれるのか？」
「？　そんなの、力尽くで協力させるけど？」
「ほら見ろ。好きも嫌いも関係ないじゃないか。
　感情と目的は別。協力関係って、そういうコトだろ」
　よし、今の説明で納得してくれたらしい。
　もともとアルクェイドは合理的な思考をしている。
　そのアルクェイドがあんな質問をしてきたぐらい、昨夜はお怒りだったのだろう。
　……仕方ない。
　今日はできるかぎり、命に危険が及ばない範囲で、こいつのワガママを聞いてやるか……。
「いや、俺に聞かれても。
　アルクェイドは吸血鬼なんだから、俺たちとは考え方が違うんだろうし」
「むっ……！　なによそれ、わたしの思考の雛型は<霊長類|にんげん>と同じなんだから、志貴とたいして違ってないんですけど！
　ネコとネズミぐらいの違いなんですけど！」
　すげえ違うんじゃないかそれ。
　ああいや、同じ脊椎動物か。違うのは狩る側と狩られる側ってだけで。
　…………どっちが猫で、どっちが鼠なのかは、あえて聞かない事にしよう。
「まあ、そんな事は別にしても他人の感情なんて分からないよ。自分の感情さえ確かじゃないんだから、吸血鬼であるアルクェイドの感情は理解の範疇を超えてる」
「そうねっ！　わたしだって志貴がどんな人か分からないし、分かる必要なんてないもの！
　えーえー、志貴なんかに聞いたわたしが浅はかでした！」
　ふん、とアルクェイドは顔を背ける。
　なんか怒らせてしまったけど、ともあれ、それなりに納得はしてくれたようだ。
「疑問は氷解しましたか。ならさっさと移動しよう」
　行く当てはないにしても、まずは遠野邸の敷地から出なくては。
　街を見下ろす小高い丘にあるのは遠野の屋敷と、その背後に広がる森だけだ。
　とてもじゃないがアルクェイドを満足させられる遊び場はない。
　とりあえず、総耶の中心である駅方面に向かう。
「おっでかけ、おっでかけ♪」
　我先にと坂道を降りていくアルクェイド。
　はじめてのお使いにはしゃぐ子供のようだ。
「ところで志貴、今日は服装が違うのね。
　いつもの黒い服はどうしたの？」
「いつもの黒い服って……」
　……そうか。こいつの中では『昼間の遠野志貴→学生服』という図式で固まっているのか。
　それと、うちの学生服は黒色じゃなくて群青色だ。隙あらば人を暗いイメージで固めるのも止めてほしい。
「あのな、昼間っから学生服で出てこられるか。
　デー……じゃない、今日は特別な、今までとは違う街の探索なんだろ？　だからこっちも、ちょい上品な私服に着替えてきたんだよ」
　まあ、靴をスニーカーから革靴に替えた程度だけど、何もしないよりはマシだろう。
「――――――なるほど。特別、だものね」
「？」
　何か思いついたのか、アルクェイドはぴたりと立ち止まると、
「志貴。そこでストップして、回れ右して、目をつむって。
　んー、そうね。10秒、ううん、３秒でいいから」
「？　回れ右って、後ろを向けってコト？」
　あまりに気軽に言ってくるものだから、疑いなく指示に従ってしまった。
　くるっと後ろを向いて目を閉じる。
　目を閉じてから、『俺はなにしてるんだ？』と冷静になった。
「ふふーん。見てなさい、わたしも負けないから！」
「？」
　負けないって、何に？
　……なんだ、いま後ろで妙な風圧を感じたんだけど！
「おい、これに何の意味、
が
―――
」
　あるんだ、と言いかけた口が、いや、思考が止まる。
「どう？　昼間なら戦うコトもないし、これくらい着込んでいても邪魔にならないかなって」
「――――――」
　……やばい。
　なんだこいつ、なんだこいつ、なんだこいつ……！
　なにその普段着。なにそのファー。なにそのリボン。一瞬でどう着替えたのか、そういえばこいつ洋服はどう調達しているんだろう、とかそんな疑問がどうでもいいくらい似合ってる衝撃的変身にしても程度と節度を持ってですね……
「ね。わたし、普段と違うわたしになってる？　かわいい？」
「―――お、お―――」
　言うに事欠いて、おま、おまお、おまえ、おまえーーーー！
　あのな。
　かわいい？　とかそういう次元の話じゃねえよ。
　こんなの理解の外の話だよ。理性の外の話だよ。
　吸血鬼がデート服まで完備してるとかやめてくれよ。
　今まで一方的に驚かされっぱなしだったのにまだ上があるのかよ。どこぞのグラビアアイドルかよ。兎の<擬人化|かわいい>かよ。正直いますぐ写真に撮っておきたいよ。
　つーか反則しか知らねぇのかよこの生き物！
「むー。黙ってちゃ良いか悪いかも判らないんですけどぉ！
　特別な日なんだから、これくらいの方がいいのよね、志貴？」
「良いか悪いかって、おまえ―――」
　悪いに決まっている。こんな精神侵害は許されない。もう人間代表として悪いヤツだと抗議したい。
　しかし、このアルクェイドを“なし”と言える人間が、はたしてこの地上にいるのだろうか……？
「（く、ぐっ……！）」
　歯をかみしめて、軍門に降りたい<己|こころ>を律する。
　俺は全身の矜持を結集して、
「―――まあ。それくらいなら、問題、は、ない」
　人間としての威厳を保って、アルクェイドに返答した。
　……予想外の展開で序盤からダメージを負ったものの、地の利はこちらにある。
　だいじょうぶ、何も慌てる場面じゃない。
　気を取り直して、今まで通り、アルクェイドの手綱を握らなくては。
「……よし。
　アルクェイド、行きたい所とか、あるのか？」
「ん、分からないから志貴にまかせるわ。
　どこか適当なところに連れていって」
「………………」
『夕飯は何が食べたい？』『何でもいいよー』レベルの、
　気楽のようでいて難易度の高い要望を返しやがって……。
　アルクェイドが喜ぶような場所に心当たりはないけど、駅前に到着するまでに候補を考えなければ。
　幸い、財布の中はそれなりに余裕がある。
　ここは―――
　別にデートという訳ではないが、定番として映画はどうか。
　観るべき物さえ面白ければ退屈はしないし、観終わった後での意見交換で互いの趣味嗜好も読み取れる。
　いいぞ、この選択は悪くない。
　こういう時は映画館にかぎる。そして繰り返すが、別にデートという訳ではない。
「ここはいつも賑やかね。何があるのかはよく知らないけど、娯楽施設が集中してるってコトでしょ？」
　アルクェイドと並んで日中の街を歩く。
　途中―――というか今も現在進行形で、道行く人々からちらちらと視線を送られている。
　言うまでもなく、アルクェイドがそう簡単にはお目にかかれない美人だからだ。
　周りからそういう反応をされると余計に意識してしまい、さっきからアルクェイドが投げてくる質問にまったく返答できていない。
「ねえ、聞いているの志貴？
　これからどこに行くのかって訊いてるんだけど、わたし」
「聞いてる。というか、もう着いた。
　ほら、あれが目的の映画館だ」
「映画館……ふぅん、映画を観ようってことなんだ」
　……やはり安易すぎたか。
　お姫さまは明らかに気が乗らない模様。
　しかし、ここまで来たからには他の選択肢はない。
　だいたい俺に吸血鬼の女の子が喜ぶような場所なんて分かるはずがないのだ。
　ここまできたら、つまんなーい、と文句を言われようと、映画館に<突貫|とっかん>する他ない。
「いいから入るぞ。
　不満があるならここで別行動すればいいだろ」
「……。まあ、不満はないけど」
　はあ、とため息をついてアルクェイドは付いてくる。
　しょぼん、と落ちた肩が『この甲斐性なし』と訴えてきているようで、背中が痛い。
「チケットを買ってくるけど、なにを観る？
　今やってるのは、えーと……恋愛ものと恋愛ものと恋愛ものだな
」
　頭の先からつま先まで砂糖でできているのか、この映画館。
「ふざけてるな……俺も帰りたくなってきた」
「わたしはどれでもいいわ。なんか、どれも同じみたいだもの。退屈でも我慢する。これも乗りかかった船、でしょう？」
　どこかで聞いたフレーズを返された……ネットで事前調査していなかった俺のミスだ。
「……面目ない。できるだけ面白そうなの、選んでくる」
　短い行列に並んで、二人分のチケットを購入する。
　アルクェイドは……吸血鬼と言えど……外国人なんだし、邦画より洋画だろう、という事でフランス製の映画に決める。
　上映開始は10分後だ。
「お待たせ。上演時間まで10分あいてるから、そこの喫茶店にでも入ろう。陽射しの下にいるの、辛いだろ？」
「もう、昼間だから辛いとか眠いとか、そういうの関係ないって言ってるでしょう。
　10分ならここで問題ないわ。次に“吸血鬼だろ”みたいなコト言ったら怒るからねっ！」
　<音速|マッハ>で怒られた……。
　が、確かにこっちも気を遣いすぎたかもしれない。
　アルクェイドは俺より何倍も頑丈なんだから、あんまり過保護に扱われるのも鬱陶しいのだろう。
「了解。じゃ、ここで時間を潰そう」
　デパートの壁際に寄る。
　アルクェイドはむすっとした顔で人混みを眺めている。
　俺はそんな彼女の横顔を盗み見ている。
　……こんなに不機嫌になるなら映画館はなかったな……やっぱり公園とか、もう大奮発して遊園地にでも行けば良かった。そうすればこいつも、こんな退屈そうに顔を曇らせる事はなかったのに。
「志貴。
わたし退屈。何かやって」
　……早速これである。
“退屈だ。その方、ちと芸をせよ”ときましたか。
「……だから、どこのお姫様だよおまえは。何かって、たとえば何？」
「んー、しりとり、とか？」
「はあ？」
　なんで唐突に？　と眉をひそめる。
　……と。ちょっと離れた壁際にいる男女二人組が、そんな遊びをしているところだった。
　あいしてる、ルアマンド、どこまでも、モンテスキュー、と数珠つなぎに続く単語に、俺でなくとも目眩を覚えるだろう。
　これだから……人目を気にしないカップルというヤツは……！
「やめよう。しりとりは良くない」
「なんで？　映画待ちのカップルはしりとりをするものだってあの人たち言ってたけど？」
「そんなのはただの戯言だ、気にするな。だいたい、しりとりで時間つぶしなんて旧時代にも程がある。携帯でネットニュースでもあさってなさい」
「そうなの？　でも楽しそうだよ、あの二人？」
「あの手の二人組は何やっても楽しそうなの！
　そもそもしりとりは苦手なんだ。やってると悲しくなる。それだけは何があっても却下だからな」
「志貴、しりとりに弱いんだ？　語彙、少ないの？」
「弱いんじゃなくて苦手なんだよ。っていうかつまんないだろ、言葉を繋げても。
　……いい、５分前だしそろそろ入ろう。これチケットな。中に入る時に見せればいい。券の半分を取られるけど、それが決まりなんだから怒ったりしちゃダメだぞ」
「それぐらい知ってるわ。志貴はわたしのこと、なんにも知らない女だって思ってるのね」
「あ……いや、なんとなく。あんまり人間社会のこと知らないのかなって」
「知識だけならきちんと蓄えているって言わなかったかしら。わたし、映画館の事ぐらい知ってるわ」
　アルクェイドはぷい、と顔を逸らして映画館に入っていく。
　……やっぱり失敗か。
　お姫様を映画館に連れてきても、退屈に思われるだけだったみたいだ……。
　―――映画館を後にする。
　アルクェイドと見た映画は恋愛もので、つまらなくはなかったが、とりたてて面白くもなかった。
　典型的なフランス映画で、ぐわっと盛り上がる場面はなく、しっとりとした雰囲気に重きを置いた作品だった。
　アルクェイドは無言で俺のとなりを歩いている。
「…………」
　……沈黙が気まずい。
　せめてアクションものとかホラーものだったら、もうちょっとはこう、アルクェイドも喜んだかもしれないのに。
「あのさ、アルクェイド。今日のはたまたま、向いてな―――」
「うん、すっっっごく面白かったね志貴！」
　―――ぜ、全アルクェイドが泣いたとでも!?
「いや、でも」
　面白いかつまらないかは個人の主観だけど、そこまで面白かったかなぁアレ！？
「まいったなぁ、聞くのと観るのとじゃ大違いなんだもん。
　そりゃあ知識としては知っていたけど、そんなの瑣末な空想でしかなかったみたい」
「暗がりっていうのがいいのかな。大きい音なのにうるさくなかったし、志貴がとなりにいるのも楽しかったし。
　でも、なにより内容が良かったよね！
　よくもまあ、架空の話をあそこまで作り上げられるものだなって驚いたわ。あの情景の細かさに比べたら、わたしの創るイメージなんて子供だましみたいなものだし、ほんとに感心しちゃった」
　アルクェイドは心底嬉しそうに笑っている。
　本気であの高尚な恋愛映画を楽しんでくれたらしい。
「……そ、そうなのか。まあ、エッフェル塔もどきの建物は、確かに見応えあったけど」
　でもあれ、どう見てもスカイツリーのパクリですよね？
「あれ？　志貴ったらさえない顔してる。
　もしかしてつまんなかった？」
「いや、つまらなくはなかったけど、普通だなって。
　アレだったら他にもっと面白いものがあるし」
「うそ。だってさっきの、すごく良かったよ」
「……うーん、総合点は低いんじゃないかな……。
　今は時期を外しているからやってないけど、大作の映画はあの数倍退屈しないぞ。はっきり言って、さっき観たのは中の下ぐらいのランクだよ」
「びっくり」
「……わかりやすい感情表現をするんだな、アルクェイド」
　驚いたというより、呆れた。
　アルクェイドのやつ、観る前は冷めていたからさぞかし文句を言ってくるかと思えば、映画ひとつで子供みたいにはしゃいでいる。
「……残念だな。昨日までなら文句なしにいい映画がやってたんだ。そんなに喜ぶと知っていれば、夜のうちに連れて来てたのに」
　……なんというか。ありがとうと感謝される為じゃなく、そうなったらこいつがどんな笑顔を見せてくれるのか、純粋に気になってしまった。
「そっかあ。間が悪いんだね、わたしと志貴って」
　がっかりと肩を落とすアルクェイド。
「ほんとだな。なんだかカラぶってばっかりだ」
　同じく肩を落とす俺。
　……うん、本当に。
　もうちょっとぐらいアルクェイドがはしゃぐ姿を、見ていても良かったのに。
　我ながら正気だろうか。
　正気である。
　このエスコートに間違いはない。
　なにより、ヴローヴと戦った日からずっと<燻|くすぶ>っていた大いなる野望が俺にはある。
「お手をどうぞ、お姫様。常識知らずという意味で箱入り娘なおまえに相応しい、紳士淑女の社交場にご案内いたしましょう」
「にゃんと！？」
　<恭|うやうや>しくお辞儀をして手を差し出す。
　アルクェイドはぱちくりと瞬きをした後、
「うん、すっごく楽しみ！
　どんな素敵なところか、期待してるね志貴！」
　期待と感謝に満ちた笑顔で、俺の手を握り返した。
　とはいえ。
　別に手を握ったまま、ここまで移動した訳ではない。
　さっきのはあくまで雰囲気作り、舞踏会に誘う作法である。
　目的地まであと少し。
　あとは大通りから離れて、人気のない路地裏に出るだけなんだけど―――
「なに？　どうかした、志貴？」
「いや、まわりからの視線がすごくて。
　夜はここまで注目集めてなかったのに」
「あ、それは仕方ないかも。
　自然保護、いま薄くしているの。わたしひとりなら昼間でも“人の意識”にはとまらないけど、今は志貴と一緒だから。
　あ。もしかして問題ある？」
「ちなみに、その自然保護とやらを最大にすると？」
「んー……志貴にもわたしの印象が薄く見えちゃうかなー」
「そのままでいい。これは俺の心の狭さの問題だった」
「？」
　……そういう事だったのか。
　さっきからじろじろと見られるのはアルクェイドが原因だった。
　それはそれでいい。
　こいつがそう簡単にはお目にかかれない美人である事は、出遭った時から承知している。
　道行く人々に、この白い姿が羨望の目で見られるのも、どことなく喜ばしい。
　だが。
「急ごう、アルクェイド。今日はおまえを独り占めしたい」
　今回は独占欲、否、好奇心が抑えられない。
　俺は戸惑うアルクェイドの手を引いて目的地へ急ぐのだった。
「さあ、ここが都会の社交会場だよ」
「さすがに特殊性癖すぎない！？」
　アウチ。
　まだろくに説明もしていないのに一足飛びでとんでもない罵倒を受けてしまった。
　俺はともかく、この路地裏を愛用するプロの人たちから誹謗中傷として訴えられかねないぞ、このお姫様。
「まあ待ちなさいアルクェイド君。
　ここで俺がどんなリクエストをすると？」
「ドレスに着替えろって言うんでしょ。
　その後、撮影会とかする」
「マジかよどこまで察しがいいんだその根拠は？」
「そういう目をした！」
「フッ」
　それだけで看破するとは思えない。
　おそらく事前に情報を得たのだろう。
　あまり多くはないんだがな……ここの情報を知っているヤツは……。
「いや、俺もたまたま知ったクチなんだ。
　寝る前にネットを見てたら、ここ、一年くらい前に映画のロケ地に使われてたんだって。
　それ以来、たまにアマチュアの写真家たちがモデルの卵たちといい<画|え>をとりに」
「コスプレってヤツでしょ。知ってるから。とりつくろわなくて結構です」
「とりつくろってないよ。正しい情報を伝えたくて」
　やっば。
　いま、当たればミンチになりそうなモノが壁にドーンってぶつかったぞ、ドーンって。
「ごめんなさい、よく聞こえなかったー☆
　なにかバカなコトでも言ってた？」
「いえ何も」
「―――それで？
　志貴は何を考えて、あんな芝居がかった真似までして、わたしをこんなところまで連れてきたの？」
　アルクェイドからの視線が痛い。
　しかし軽蔑や失望のニュアンスは感じられない。
　どうも、ここに至るまでの俺の言動に怒っているようだ。
　失敗した。
　そういう事なら素直にお願いするべきだった。
「ごめん。ヴローヴと戦った時に着ていたあのドレスを、もう１度見たかったんだ……」
「すみません、ヴローヴと戦った時のドレス、もう一度見せてください」
　なので、正直に白状した。
「―――もう。
　はじめから素直にそう言えば良かったのに。
　あやうく<路地裏|ここ>でリベンジしかけるところだったわ」
　リベンジとは何を指しているのかはさておき、
「あの服に着替えてくれるのか？」
「志貴が見たいっていうのなら、いいけど。
　後ろを向いて、目を瞑っていて。
　もう５日前のレシピだし、思い出すのに数秒かかりそうだから」
　１秒でアルクェイドの言う通りにする。
　ドレスに着替える事が恥ずかしいのか、
　ヴローヴに負けた服に着替えるのが恥ずかしいのか。
　どっちであれ今のしおらしい顔を見せられて、異論を挟める筈がなかった。
「うん、想像してたよりなんかすっごく楽しかった！」
　華麗なターンをして、アルクェイドは上機嫌だ。
　はじめは照れていたクセに、最後の方はかなりのドヤ顔だったのを見るに、こいつ、モデル気質があるのかも知れない。
「ああ、思う存分撮らせてもらった。
　っていうか、携帯のカメラ機能をこんなに使ったのは初めてだ。
　こんな綺麗なドレス、俺の人生じゃ生で見られる機会はそうそうないからつい興奮―――
ああーー！？」
　ちょっと待って、ちょっと待って！
　いま撮った写真、ぜんぶピンボケ……！
「あ。言い忘れていたけど、この服だとわたし、写真にはうまく写らないかも。
　吸血鬼は鏡に映らないって話、知らない？」
「ぐっ……聞いた事はある……。
　けど写真だぞ、データだぞ！？　鏡とは違うんじゃないのか、そのヘン！？」
「人の認知出力を通さない点で言うと、写真の方がより鏡に近いんじゃない？
　肖像画なら“その時”の姿のまま、ちゃんと残るんでしょうけど」
　絵に描けってコトか……。
　それはハードル高いな。
「お披露目はこれで気が済んだ？
　なら次はこっちのリクエストを聞いてもらおっかな」
「？　もちろんいいけど、どんな？」
　いかなる心境の変化か。
　アルクェイドは俺の右腕に抱きつくと、
「ふふ。行きたいところ、思いついちゃった」
　満面の笑みで、とんでもない行為に及んだ。
「おおぉおおおーーーー！？」
　いつぞやのビル側面三角跳びの悪夢が蘇る。
　いや、今回はもう跳躍ですらない。
　ビルの側面を使わず、一息でビルより高い位置まで跳びやがった、コイツーーーーっ！
　白昼、堂々とビルの屋上に着地する。
　幸い、というか当然、というか、屋上には人影はないので騒ぎにはならなかったが、
「おまえな、跳ぶ前に一言ぐら、」
「はい、お待たせしましたお客様。
　誰もいない、秘密の社交会場にようこそ」
「――――――」
　……ぐうの音も出ない。
　アルクェイドは俺の腕から手を放して、涼やかに、それでいて楽しげに笑いながら、そんな意趣返しをしてきやがった。
　ここが宴会場なら座布団あげたいところだ。
「……くそ。
　ほんと、やられたらやり返す性格だよな、おまえ」
「もちろん！　だって、そうじゃないと志貴を捕まえられなかったでしょ？」
「―――
ま、まあな。
　それは、確かに」
　あまりの眩しさに、そんな言葉しか返せなかった。
　……くそ、なんだ今の。
　本当に自分のことを分かっていない。
　やり返す必要はない。その何気ない笑顔だけで、たいていのヤツは捕まるだろう。
「けど、なんだってビルの屋上なんだよ。
　高いところ、好きなのか？」
「前は夜だったし、火の手もあがってたし。
　なんでもない街の風景を一緒に見たかったの。
　それに志貴は人気のない場所が好きみたいだから。ほら、ここも邪魔は入らないよ？」
「――――――」
　それは、問答無用の不意打ちだった。
　屋上までの急上昇で昂ぶっていた気持ちが、それとは違う感情に上書きされる。
　吸い寄せられるように、白い体に手を
伸ばす。
　俺の<理|い><性|し>とは無関係に、ごく自然にアルクェイドに触れようとする。
「すみません。ここ私有地なんですけど」
「うおおっ！？」
　突然、見知らぬ第三者に声をかけられた。
「きき、君は一体！？　どこから！？」
「どこって、はじめからいました。
　先輩、やっぱり頭悪いんですね」
「え」
「失礼、つい口が滑りました。
　やっぱり目が悪いんですね。よく見てください」
　言われて屋上を見渡す。
　……確かに。ビルの給水塔の近くに、風を避けるようにテントらしきものが張られていた。
　この娘、あのテントにいたのか？
「やっと気づきましたか。不注意にも程があります。
　全身いたるところ鈍ってるんじゃないですか。
　それとも恋人とのデートでうかれてるんですか」
　人聞きの悪いことを言わないでほしい、コイツが調子にのったらどうする。
　いや、今はそうじゃなくて、
「なんでこんなところにテントを？
　そもそも君、俺のコト知ってるのか？」
　見も知らずの子に『先輩』と呼ばれる覚えはない。
「中学、同じでした。カグ中。
　先輩は三年生で、あたしは一年生でしたけど。
　面識はありません。保健室で何回かすれ違ったぐらい」
　……どうやら本当のようだ。
　カグ中、というのは俺が通っていた<神楽岡|かぐらおか>中学校の略称である。
「でも、それなら今は学校じゃ……」
「一身上の都合で休学中です。家にもいづらいので、ここでニートしています。
　せっかく俗世を忘れていたのに、ドレス服の美女を連れた情けない先輩がやってきて、うんざりしています」
「――――――」
　引きこもり、というヤツだろうか。
　それにしては中々豪気なこもり方だ。これ、山ごもりみたいなものでは？
「あと、なんでこんなところに、と言う権利があるのはこっちです。ここ、うちのビルですから。通報しますね」
「げ」
　そして最悪の展開だった。
　逃げたところで顔と名前を知られているし、不法侵入なのは紛れもない事実だ。
　たとえ、
　あの負けず嫌いで思いつき優先のお姫様に、とつぜん連れてこられたとしても。
「ふーん。通報するの？」
「…………いえ、言ってみただけです。
　そこの人のニヤケ顔が癇に障ったので、つい。
　別に何も見てませんから、続きは隣のビルでしてください。ここにいられると迷惑です」
　少女はテントに向かって歩き出す。
「ごめん、お騒がせしてー！
　それで、君の名前はー！？」
　背中に呼びかける。
　少女は足を止めて、
「みお。斎木みおです。
　別に、覚えてなくていいですよ」
　そう、聞き覚えのある名字を口にした。
　結局、あの後に隣のビルに飛び移る事はなく、パーティータイムはお開きとなった。
　どうせならビルの上ではなく、ビルの中の店舗を回るべきでは、という真実に気がついたからだ。
　第三者の冷静な指摘が入った事で、自分たちがどれだけうかれているか気づいてしまった、というのもある。
　それから２時間ばかり。
　好奇心の塊みたいなアルクェイドの要望に応えて、駅前デパートをはしごする結果となった。
　俺にとっては見慣れた風景ではあるが、アルクェイドにとっては新鮮だったのだろう。
　大きなトラブルこそなかったものの、デパートを出るまでアルクェイドは楽しそうだった。
　天気もいい事だし、公園に連れ出す事にした。
　まずは公園を散策して、気持ちを落ち着けてから駅前に出ればいい。
　公園に入る。
　平日の午前中でも利用者は多かった。背広姿の社会人、子供連れの女性、俺よりやや年上のペアなどが、のんびりと過ごしている。
「ふうん、昼間だと人が多いんだ。志貴とは何度も来てるところだけど、なんだか別の場所みたい」
　冷めた物言いのクセにアルクェイドは楽しげだった。
　公園を散歩するだけ、というコースに不満はないらしい。
「あ、あんなところにお店が開いてる。
　志貴、あれは何を売ってるところ？」
　興味深そうに店を指差すアルクェイド。
　噴水から離れた道には、ワゴン車で営業しているアイスクリームの店があった。
「あれは季節はずれのアイスクリーム屋。冷たいものは体に悪いから、とりあえず我慢してくれ」
　物欲しげなアルクェイドを先に封じておく。
　秋空の下でアイスを食べるのも悪くはないが、今日は先が長そうだし。胃を冷やすのは避けるべきだ。
　―――しかし、なんだろうこの違和感は。
　歩いているだけなのに、妙に背中が落ち着かない。
「ねえ志貴、ここの人たちって志貴の知り合い？」
「いや、平日に学校をさぼって遊びまわる知り合いは一人しかいないけど、どうして？」
「んー、みんなわたしたちを見てるから、志貴の知り合いなのかなって」
「……なるほど。違和感の正体はそれか」
　納得した。
　風景もよく、人目にはあまりつかず、できれば木陰、な条件の芝生を探していたが、ちらちらと視線が向けられていた。
　言うまでもなく、見られているのは俺たち……というよりアルクェイド個人だ。
　アルクェイドは協力者であり吸血鬼である。
　……なので、<常|つね>意識しないよう努めているが、こいつが桁外れの美人である事は隠しようがない。
　公園を歩いていれば人目を引くのも当然だ。
　そればかりか、アルクェイドに声をかけるタイミングを窺っている男たちもいる。
「アルクェイド、場所を変えよう」
　周囲の視線からアルクェイドを守るように寄り添ってその手を握り、半ば強引に公園の奥へと歩き出した。
　待ち合わせ場所に利用される休憩所は、噴水前にくらべると人気がない。
　結局ここか、とガッカリしないでもないが、先ほどよりは幾分ましだ。
「しばらくここで時間を潰そう。飲み物がほしいなら何か買ってくるけど、リクエストはある？」
　繋いでいた手を放して、アルクェイドに振りかえる。
「……あ、うん。
　えっと、水が飲みたいけど、いい？」
「了解。それじゃあベンチに座っててくれ。
　……と、そこいらのヤツに声をかけられたら適当に聞き流すように。くれぐれも相手にしないコト」
　小走りで近くの自動販売機に向かう。
　……仕方ない。
　水だけじゃ味気ないし、さっきのアイスクリーム屋、まだ残ってるかな……。
　正午過ぎになっても、俺たちは公園から移動する事はなかった。
　駅前に出ようとも誘ったが、まだここで周りを見ていよう、とアルクェイドが提案したからである。
　公園の端にあるベンチから、アルクェイドは公園全体を眺めている。
　列を作って道を行く鳩。
　昼休みになってさらに数を増した背広姿。
　俺と同年代の学生たちも増えてきた。
　それと、母親に連れられて無邪気に走りまわっている子供たち。
「………………」
　そういった人々の絵を、アルクェイドは眺めている。
　その横顔は普段の無邪気なものとも、
　死徒を前にした時の冷淡なものとも違っていた。
「ヘンなコト、聞いていいか？」
「ん？　志貴がヘンじゃない時はないと思うけど、なに？」
「アルクェイドはヘンな質問大好きってコトだな。
　……いや、そこはいいけど」
　そもそもマトモだったらコイツとこんなコトしてないけど。
「おまえ、人間に関心はないって言ってたけど、あれ正しくないんじゃない？
　だっておまえ、人間嫌いじゃないよな？」
　好きかどうかは、また別の話として。
「やっぱりヘンな話だった。
　―――志貴は、どうしてそう思うの？」
　どうしてって。
　そんな顔をするヤツが、人間嫌いな訳がないからだ。
「いや、なんとなく。
　別にそうだったらいいな、とか、それならもっと助けてくれ、とか、そういうコトじゃないぞ？
　おまえがそんな優しい生き物じゃないコトはよく分かってる。なにしろ地面ごとドカーンなヤツだから」
「失礼ね、優しくしてますよーだ！
　ただ、ちょっと加減が難しいだけですぅー！」
　そうそう。
　やっぱりアルクェイドはこれくらい元気じゃないと。
　さっき俺が持ってしまった感想は忘れよう。
　しかし、会話はそれで止まってしまった。
　別に空気も居心地も悪くはない。
　ただ、今はアルクェイドが沈黙を望んでいる気がするので、それに合わせているだけだ。
「……ね、志貴」
「ん？　ぼうっとしてるのは飽きたか？　なら街に戻ってメシでも食べようか」
「ううん、別にそういうんじゃないけど……さっきの、一体なんなのかなって思って」
「……？」
　さっきの……？　俺のヘンな感想ではなく？
「わからないな。さっきのって何のこと？」
「だから、志貴がわたしの手を握ったコト。
　志貴には何度か触れられてるけど、それは理由があっての事でしょう？　けどさっきのは理由がなかったから、何だったのかなって」
「何だったのかなって
―――」
　それは口にするまでもないコトで、
「別に、理由はなかったけど」
　それは、隠しておきたい気持ちだった。
「……あれもなんとなく、だよ。
　いいだろ、手を握るなんていまさら大した事じゃないし。ああいう突発的なことってわりとあるんだよ、人間っていうのは」
「そうなんだ。理由のない事がわりと多いなんて、志貴って無駄が多いんだね」
「理由がない＝無駄が多い、という意見には異議を申し立てるけどな。
　実行に移る際の工程が一つ少ないんだぞ？　むしろ無駄がないだろ。……まあ、それで物事が上手くいくかはバクチだけど」
「なるほど」
　感心したような、呆れたような、そんな相づちを打って、アルクェイドは噴水に視線を戻した。
「ねえ志貴。関係のない事を聞くけど、志貴にもああいう時があったの？」
　本当に突然、まったく関係のない事を聞いてくる。
　アルクェイドの視線の先には遊んでいる子供たちがいるから、彼女の聞きたい事はそういう事なんだろう。
「さあ、どうかな。たしかに子供のころは遊びまわってたけど、それは屋敷の中だけの話でさ。こういう公園で遊んだ事は少なかった」
　遊び仲間といったら秋葉たちで、あの子供たちのように見知らぬ誰かと遊ぶような事はなかった。
　俺はどちらかというと、無菌室のような環境で育てられた子供だったのかもしれない。
「そういうアルクェイドはどうなんだよ。
　……言いにくかったら言わなくていいけど」
　吸血鬼に子供時代というものがないのなら、アルクェイドに聞くのは失礼だからだ。
「志貴の想像通り、幼年期の思い出はないよ。
　個体として弱い時代は眠っていたから、主な活動時間はわたしという生命が一番優れている、この状態だけだもの。
　だから、ちょっと不思議に思ったんだ。
　幼年期や老年期なんていう無駄な時間を、どうしてあなたたちは過ごせるんだろうって」
　その言葉は、俺に対する問いというよりアルクェイド本人に対する問いのように聞こえた。
「なんでもない。こんなふうに無作為に時間を浪費するのなんて初めてだから、思考が誤作動しちゃったみたい」
　言って、アルクェイドはベンチから立ちあがった。
「じゃ、駅前に行こっか！
　ここ、おもしろいこと何にもなかったし！」
「なかったのかよ！」
　思わず反応してしまった。
「……ばか。退屈だったんなら退屈だって言ってくれればよかったのに。俺はてっきり、」
「ん？　退屈だったけど気持ちは良かったよ？
　こういう退屈だったらまたしてもいいかなって思ってるけど、志貴はそうじゃなかったの？」
「―――まあ、それは」
　確かに退屈ではあったけど、それがつまらなかったというワケでもなかった。
　考えてみればアルクェイドと公園で時間を浪費するなんて、滅多にない事なんだし。
「……そうだな、たまにはこういうのも悪くない。
　でもま、今は昼食にしよう。朝から何も食べてなくてさ、いいかげん腹ペコなんだ」
　言って、公園から歩き出す。
「ん―――――」
　ほんの一瞬、アルクェイドの手を握ろうと思い、すぐに止めた。
　さっきのは理由がなかったから良かった。
　自分自身の気持ちに気づいていないから良かった。
　けど、もし『そうしたい理由』からアルクェイドに触れてしまえば、それは遠野志貴にとって『良いこと』でないのだから。
　午後２時を過ぎ、遅めの昼食を摂る事になった。
　……アルクェイドといる以上、いつもより高めの店を選びたかったのだが、悲しいかな、こちらの財布事情はそこまで裕福ではなく、
「わたし、志貴がいつも食べているところがいい！」
　などと言うものだから、
仕方なくフードコートにやってきた。
　アルクェイドがこういったものを食べるのかどうかは疑問だったが、ものは試しだ。
　アルクェイドはむー、とメニューとにらめっこしたあと、結局、俺と同じセットメニューを注文した。
「…………」
　席に座って、アルクェイドと向かい合う。
　アルクェイドはきょろきょろと周囲を見渡したあと、慣れた手つきでフライドポテトを口に運んだ。
「慣れてるんだな。
　てっきり、こういう店は初めてだと思ってた」
「ええ、こういう所は初めてよ。前からどういった施設かは知っていたけど、それは知識だけのものだしね」
「知識だけって……そっか、ニュースを見るんだから、雑誌だって目を通しているのか。服も普通だし、わりと<人間|こっち>の事情に適応してるんだよな……」
　西洋の吸血鬼のイメージと、ヴローヴの服装があまりにも時代がかっていたので、勝手にゴシックな印象を抱いていた。吸血鬼社会とやらもしっかり近代化が進んでいるのかもしれない。
「んー、そういう<過程|プロセス>で適応してる訳じゃないけど、ともあれ人間の文明圏に入るのなら、それに即した常識は必要でしょう？
　だから起きた時は、その時代の情報を覚えてから行動するの。ま、たいていは一日や二日で決着がつくから無駄になるんだけどね」
「……？」
　アルクェイドは時々、こういったわかり難い事を言う。
「無駄になるって、どうして？」
「だって、事が終わればすぐに眠りに戻るから。
　次の目覚めが何年先になるか判らないんだし、覚えた知識はすべて棄てて、次の目覚めに備えていたの」
「……ん、
でもそれって損をしてたみたい。
　わたしはね、今まで知識でしか世界を知らなかった
。
　こういう人間たちの集まりがあるって知っていても、それを経験する事はしなかったのよ」
「なるほど……けど知ってるんならそれでいいんじゃないのか？　現にさっきだって、メニューに迷いはしたけど注文自体はスッとしてたんだし」
「当然よ。そういうふうに対応できるよう、知識を得ているんだから」
「でも、それは数値だけの話なのよね。
　情報だけの世界はそれはそれで<真|しん>だけど、受肉からの感覚は正しい理論より芯がある。
　経験は理論を凌駕する、ってこういう事だったのね。
　何千億の単語を覚えていても、実際にやってみないと何も手に入らないんだなって」
　はあ、と切なそうにアルクェイドはため息をつく。
「どうだろう。理論は経験を補う、っていう逆説もあるとは思うけど？」
「それは理論だけしか知らない人の言葉でしょう。
　……まあ、ちょっと前までのわたしがそうなんだけど」
　ますますアルクェイドの顔は暗くなっていく。
　……。
アルクェイドにつられてか、俺も気持ちが沈んでしまった。うまく言えないが、こいつのそういう顔を見るのはイヤだった。
「早計じゃないか？　たんにさ、理論だけで経験を補えるヤツと、経験で理論を覆せるヤツがいるだけだと思うけど？
　ほら、周りを見ろよ。この店だけでもこれだけ違う人たちがいるんだ。いろんなヤツがいるんだから、誰もが自分と同じじゃないだろ」
「うわあ、
志貴がマジメなコト喋ってる」
「そっちがマジメな話をしたから、こっちもそれに付き合ってるんですよ。話の腰を折らないでくれ」
　せっかく、おまえが自分の話をしてくれているんだから。
「うん、知ってる。志貴ってわたしの話したいコトを、話したい時にちゃんと付き合ってくれるって。
　いつもは怒鳴り散らすけど、深刻になれば話を聞いてくれるでしょう？」
　あはは、とアルクェイドは陽気に笑う。
　口にはできないが、やっぱりこいつの笑顔は、ほんと吸血鬼らしくない。
　……それはそれとして、今までそんなに怒鳴り散らしてたかな、俺……。
「わたしって視野が狭かったのね。自分がこうと決めたら、
それ以外のものは見えなくなるんだもの。
　わたしには自分しかいらない。自分だけが正しくあればいいって、そんなふうにしか考えられない」
「でも、そうよね。こんなにいろんなココロがあるんだから、わたしに出来ない事を当たり前のようにやってしまえる人だって、世の中には沢山いるんだわ」
　なんでか、優しい口調でアルクェイドは自省する。
「もっとも、反省したところでわたしの<性能|せいかく>は変わりはしないんだけど。
　わたし、いまの自分が一番好きだし。やっぱり正しいんだって信じてるから」
　笑顔で勇ましい事を言うと、またもきょろきょろと周囲を見渡してから、ぱくり、とハンバーガーを食べる。
　ぱくり、ぱくり。
　吸血鬼のイメージを払拭するように、こんなジャンクフードを食べていく。
「…………」
　なぜだろう。
ハンバーガーの食べ方なんて、どう取り<繕|つくろ>おうと上品には見えないのに、アルクェイドの<食|ソ><事|レ>は、場違いなまでに美しく見えるのは。
「なに……？　人のことジロジロ見て。
　あ、これってこういうふうに食べるものじゃないの……!?」
　慌ててハンバーガーをトレイに戻すアルクェイド。
　紙のナプキンで口もとを拭く。そんな単純な仕草までこの上なくしなやかで、気品がある。
「いや、それで合ってる。合ってるけど、なんかヘンだ、おまえの場合。似合わないから食べるな」
「なによそれ。似合わないってどういう意味？」
「イメージの問題だよ。おまえみたいに口が小さいヤツにファーストフードは向かないんだな。大人しくポテトをかじってる分には問題ないから、俺の分もやる」
　アルクェイドのトレイに自分のフライドポテトを置く。
　なんていうか、自分でもよく分からない行動だった。
「いらないっ。せっかく食事を摂る事にしたのに、そんな柔らかいものばっかりじゃモノを食べてるって気がしないもの」
　アルクェイドはむー、と唇をとがらせてから、かぷっとハンバーガーに口をつけた。
　今度は俺の目を気にしているのか、仕草がとても大げさだ。
　さっきの謎の美しさが少しだけ消えて、ぎりぎり許容できる光景になった。
　……しっかし、ハンバーガーを食べる吸血鬼というのはなんなんだろう。
　食事をし、活動に必要なだけの栄養を摂らなければ生き物は生きてはいけない。
　以前、アルクェイドは血を吸わない、と言った。
　なら彼女の栄養源は俺たちと同じ、人並みの食事になるのだろうか……？
「……なあ、アルクェイド」
「なによ、いじわる」
「いや、もう文句は言わないって。
　聞きたい事が出来たんだけど、いいか？」
「いいけど―――なに？」
「あのさ、おまえは吸血鬼だろ？　なら食事って呼べるものは血液だけじゃないのかなって、そう疑問に思った」
　アルクェイドは目を見開いて俺を見る。
　……やっぱり、これは<不躾|ぶしつけ>な質問だったみたいだ。
　ほら、
アルクェイドだって表情を強ばらせて……
ない？
「あのね、志貴。基本的にわたしは食事を摂らないんだ。
　確かに、こういうふうに栄養素を口にすれば自分の力だけで動けるけど、それは気分の問題なの」
「わたしの熱量の補充方法は志貴たちとは違う。たしかに食欲はあるけど、それは人間で言うところの性欲と同じかな。
　食べないとイライラするけど、わたしはあんまり食事に重きを置いていないから、反転衝動に襲われる事は少ないよ」
　あっさりとアルクェイドは血液食事説を否定した。
　彼女は本当に、血を飲まなくてもいいらしい。
「そうか――――」
　良かった。アルクェイドが他の吸血鬼のように、食事の為に人を殺すヤツじゃなくて、本当に良かった。
　……まったく。アルクェイドも、
『わたしは血を吸う必要のない吸血鬼だよ』
　と、はじめから言ってくれたのなら俺だって素直に協力してたの……に………
「って、ちょっと待った！
　おまえ、そりゃあ吸血鬼って言わないぞ！？」
「言うわよ。志貴だって食事が“味のないもの”ばかりだったら耐えられなくなるでしょう？
　栄養素より毒素が多いものを食べたいと思う時がある。たとえばこのハンバーガーね」
「志貴、あなたはなんでこの店を選んだの？
　単純な熱量補充のため？
　それとも―――この、加工された粗末な肉と安いパンと化学調味料の塊をさしたる工夫も技術もなしに調理した大量生産品を、心の底から食べたいと思ったから？」
「う……恥ずかしながら、そういうジャンクなハンバーガーを食べたいと思ったからです……」
「うん、それでいい。別に恥ずかしがる事はないんだよ？
　わたしだって、毒になると判っていても美味しそうに見えるものはある」
「わたしにとって人間の血液はそういうもの。
　摂らなくてもいいものを摂りたい、という欲求において、わたしと<人間|あなた>は変わらないわ」
「ほら。知性体は繁殖であれ食事であれ、それに何らかの二次的利益を付加しないとさぼってしまう生き物でしょう？
　美味しいからものを食べる
。
　気持ちいいから交配をする。
　その究極があなたたち人間なんでしょうね。なんであれ快楽に繋げる事がより強い繁栄方法だと知っている。比較的弱い生命体がもっとも強い生存力を示した、この宇宙でも希有な例なんだから」
　歌うようにアルクェイドは語る。
　そこには俺たち人間への<蔑|さげす>みは感じられなかった。
　むしろ、子供の成長を見守る母性さえ感じられた。
　しかし―――
「い、いや―――それは、どうなんだ？」
　<人間|どうぶつ>は娯楽がなければ生きていけない、と言われているようなもので、人間として認めがたいというか……。
「いいのよ、それで。だからこそあなたたちはこの星で一番の高等動物になった。生存する事に意味を見いだそうとする生命なんて、星からしたらとんでもない進化だもの。
　まさに“その発想はなかった”ね」
「とにかく
。
　真祖である吸血種―――わたしの場合は、そんな形而上の二次的利益を満たしてくれる最上級の食べ物が血液なの。
　だから『活動する』という事だけを目的とするのなら、人間の血を摂る必要はまったくない」
「……つまり、真祖という吸血鬼にとって、
精神的空腹を満たすのに一番適したものが血液だと……。
　けどアルクェイドは血を吸うのは嫌いだって言ったよな。
　あ。そうか、人間に食べ物の好き嫌いがあるように、アルクェイドは血の味が嫌いってワケだな！？」
　会心の閃きを口にする。
　しかし、アルクェイドは辛そうに眉をひそめた。
「……わからない。血の味なんて、
わたし知らないもの」
「……？」
　血の味を、知らない……？
「わたしは吸血種としては半人前だって言ったでしょう。血の味は知らない。それがどんなものなのか、まだわからない。
　わかるのは―――血を吸うという事は、その相手を人と認識しなくなるっていう事だけ」
　俺から視線を逸らして、アルクェイドはそう呟いた
。
「ねえ志貴。もしもよ。もしも鳥や魚にあなたと同じぐらいの知性と寿命があったら、あなたは食べられる？
　どんなに知性があっても食べ物は食べ物だからって、わりきって食べられる？」
「―――いや、それは」
　食べられる―――んだろうか？
　わからない。わからないけど、他に知性を持たない動物がいるのなら、まずはそちらを食べるだろう。
「ほら、そういうコト。
わたしが血を嫌っているのはそういう理由なんだ。……まあ、志貴の言う通り好き嫌いはあるのかもしれない。わたし、できることなら血は見たくないもの。
　だけど―――そうね、もしもわたしにヒトの知性や価値観がなかったら、ためらう事なく血を吸っていたかもしれない。
　生きる為に他の生命を奪う事は、自然界じゃ当然の摂理なんだし」
「――――――」
　驚きから、つい体を動かしてしまった。
『生きる為の殺害は罪ではない』
　吸血鬼として当然の話だとしても、それをアルクェイドに言われたら反発するしかない。
　俺はそのように考える吸血鬼を殺す為にここにいる。
　……アルクェイドを、やつらと同類だと認める為にいるんじゃない。
「……そりゃあ生きるために他の生き物を食うのは自然の摂理だろう。けど、人間とおまえは似たようなモンじゃないか。同種を食べるのが禁忌なのも自然界のルールだろう。
　……だから、そういう喩え話はやめてくれ。
　もしもの話は、あんまり好きじゃないんだ
」
「そう？　わたしはイフって好きよ。
　どんな結果になるか分からないけど、とりあえずその時は、どこかに救いがあるような気がするでしょう？」
　イフ……もしも、か。
　じゃあ、もしもこいつが吸血鬼でなかったのなら、俺はこんな気持ちにならなくて良かったのか。
　あるいはこいつが他の吸血鬼のように血を吸う怪物だったとしたら、こんなふうに苛立つ事もなかったのか。
「どうしたの志貴、
いきなり暗い顔しちゃって。
　あ、もしかしてトイレとか？」
「……あのな。人が真面目に悩んでるっていうのに、よりにもよってソレか、おまえは」
　はあ、とため息をつく。
　……でもまあ、その気楽さに救われた。
　こっちがいくら深刻に考えたところで、血を吸うか吸わないかはアルクェイドにとってどうでもいい問題みたいだ。
「……そうだよな。俺には、関係のない話だった」
「もう、さっきからひとりでぶつぶつ言っちゃって。
　隠し事はズルいわよ、志貴！」
　むー、とまたも猫のようにうなるアルクェイド。
「隠し事なんかしていないよ。
　そもそも隠し事だらけなのはそっちのほうだろ。いつも俺には分からない話をして面白がってるんだから」
「面白がってるって―――そんなコト、あるけど」
「なんだ、本当にこっちが頭を抱えてる姿を面白がってたのか。
　いたずら好きっていうか、秘密主義っていうか。
　ま、どうせ俺はおまえとは違う生き物だから、どうでもいいけど」
「そ、そんなコトない……！
　わたし、ちゃんと志貴には話してあげてるよ。
　隠し事が多いように見えるのは、志貴があんまり訊いてこないだけなんじゃない……？」
　……痛いところを突かれた。
　確かに俺はアルクェイドへの質問を意識的に避けていた。
　人間として、吸血鬼の世界にこれ以上踏みこむべきではない、という恐れと、
　遠野志貴として、今ならまだ戻れる、という自制があったからだ。
　だが。ここまで来てしまった以上、知らなくてはいけない事がある。安全な<境界線|ボーダー>にいられる時期は、きっと昨夜で終わったのだ。
「よし―――訊けば教えてくれるんだ、なんでも」
「ええ。わたしたち、協力しあってるチームだもの」
　それならお望み通り、疑問点を追究してやろうじゃないか。
　……アルクェイドが意図的に語る事を避けていた本題。
　俺たちが追っている敵の正体。
　そいつがどんなヤツなのか、ここで聞いておくべきだ。
「それじゃあ質問。
　アルクェイド、おまえの敵って結局どんな吸血鬼なんだ？　ここまで追って来た以上、それなりに面識はあるんだろ？」
「それは―――その―――」
「なんだよ。俺に隠し事はしないって、さっき言ったばかりじゃないか」
「そうなんだけど、怒らないで聞いてね。
　この街に吸血鬼が潜んでいると判ったのはつい最近の事で、わたしはまだ本体に出会えてさえいない。
　今回の敵がどんな姿をしているのか―――
男性なのか女性なのか、子供なのか大人なのかさえ判らない」
「……じゃあ、他の特徴は？
　ほら、ヴローヴの超抜能力、だっけ？　ああいう特徴はないのか？」
「それも実際に見るまでは断定できない。
　わたしの追っている敵はそう強力な死徒じゃないけど、今回は何を得意として、どんな<人間|カラダ>になっているのか、わたしには予測できない」
「……そうね。その幅広さがアイツの特徴と言えるかも。この街に“アイツ”の気配がある事しか、わたしには判らないわ」
「………………」
　アルクェイドは嘘を言ってはいない。
　言ってはいないが、やはり核心を隠している気がする。
　例えば、そう―――
「……まだ見つけていない以上、相手の特徴は判らない……
うん、それはいい。当然の話だ。
　けど、そいつの名前ぐらいは知ってるだろ？」
「名―――前」
「そう、名前」
　アルクェイドは俯いて黙りこんでしまった。
　……どうやら、何か事情があって俺に名前を教える事ができず、困っている……
　そう、思っていた。
「―――アイツの、名前」
　ぞくり、と。
　彼女の一息だけでこの店のすべてが凍結してしまったような、そんな悪寒が首筋に打ち付けられる。
「アイツの名前はね、志貴」
　アルクェイドは隠してなどいなかった。
「アイツの名前はミハイル。ミハイル・ロア・バルダムヨォン。人間から吸血鬼になった、どこにでもいる死徒の一人よ」
　俯いたまま、美しい唇が動く。
　そこにあるのは、ただ、血を吐くような憎悪だけだった。
「アルクェイド、おまえ―――」
「―――――」
　アルクェイドの肩は震えている。
　今にも暴れ出したい感情を、なんとか自分の中だけで抑えようとしている。
「……つまらない事を聞いて、悪かった。
　名前が知れただけで充分だ。あとは直接見つけて、この目で確かめればいいさ」
　アルクェイドはかすかに、ふるふると首を横に振る。
　忘れる事などできない、と言うかのように。
　しばらく、無言のまま時間が経った。
「……ごめんなさい、志貴。
　みっともないよね。わたし、アイツの名前を口にすると、冷静でいられなくなるみたい」
　アルクェイドは俯いたまま謝ってくる。
　しおらしい姿は、それこそらしくない。
「気にしないでいいよ。おまえには悪いけど、むしろ人間らしくてホッとしたぐらいだし」
「そ、そうなの？　人間らしいって、どこが？」
「ああ。憎い相手だから追いかけて、感情的になりそうだから“敵”としか口にしなかったんだろ？
　無感情に、事務的に吸血鬼を殺すって事より納得がいく。
　おまえにちゃんと理由があるのなら、俺はその方が―――」
　力を貸したくなる、と言いかけて、口を塞いだ。
　それは街を守るという理由を、違うものにする言葉だったからだ。
「とにかく質問は終わり。あったかいうちに食べようぜ。
　この手の飯は冷めると致命的に不味くなるからさ」
「…………うん。
　でもこれ、もともと美味しくないと思うよ？　志貴の味覚って、ちょっとアレよね」
　低俗よね、と言いづらそうに視線を逸らすお姫様。
　……今日はたまたま、たまたまハズレメニューだっただけですよ。美味しい時だってあるんですよ、バーガー。
　食事を終えて大通りをひやかした後、俺たちは学校に向かっていた。
　じき日も沈むというこの時間。
　何を思ったか、アルクェイドは
『志貴の通っている学校に行きたいなっ！』
　などと言い出し、その凶悪な笑顔に押し切られてしまったからである。
　午後５時前。
　部活動禁止と早期下校の通達のおかげで、正門に<人気|ひとけ>は皆無だった。
　この分なら人が残っていたとしても片手で数えるほどだろう。目立つ事さえしなければ、中庭ぐらいまでは案内できそうだ。
「言っとくけど、校舎の中には入れないからな。俺は今日ずる休みしちまったし、アルクェイドは部外者なんだから」
「わかってるって。志貴に迷惑はかけないから、安心して」
　ちらちらと校門から中の様子をうかがうアルクェイド。
　正門で金髪美女がうろついている方が人目につく。
「アルクェイド、こっち。とにかく中庭に入ろう」
　手を引いて先を急ぐ。
　中庭は静まりかえっている。
　……そういえば<学|こ><校|こ>にアルクェイドがやってきたんだっけ。
　あの時は心臓が飛び出るかと思ったが、こうして振り返ると口元がニヤけてしまう。
　吸血鬼のクセに昼間出歩いて、かつ学校を散策するとか、ほんと、非常識にもほどがある。
「ね。気づいてる、志貴？」
「？　気づいてるって、何が？」
「学校のこと。わたしが見るかぎり、誰もいないみたいだけど」
「……なんだって？」
　言われて、中庭から校舎中を見回してみる。
　教室は言うに及ばず、教員が詰めているはずの職員室にも灯りは灯っていない。
　アルクェイドの言う通り、ほんとに無人状態だ。
　……正門は開いていたけど、中庭に入る時に最後の職員とすれ違ったのか。
「ねえねえ。中には誰もいないんだよ？
」
　アルクェイドはじっと上目遣いで見つめてくる。……なんとなく、アルクェイドの言いたい事が分かってしまった。
「イヤです」
　きっぱりと断言するも、アルクェイドはこれっぽっちも聞いちゃいない。
「人がいないんなら中に入っても怒られないわよね。
　ふふ、いいタイミングで来たんだ、わたしたち」
「だから、金輪際イヤなんだって」
「へえ、思ったより中は広いんだ。
　廊下も広いし、これなら十分使えそうね」
　……不思議だ。
　アルクェイドの声が近くからではなく、校舎の窓際から聞こえてくる。
「志貴ー。
　このドア開かないんだけど、壊しちゃっていいかなー？」
　そして問答無用の高速移動。
　アルクェイドは窓ガラスの前で、ぐるぐると片手を回している。これからブチ抜くぞ☆　といった判りやすいアピールに目眩を覚える。
「こ……の、なんで人の話を聞かないんだ、おまえはーー！」
　僕らの学舎にあんな破壊魔を解き放つ訳にはいかない。
　止めるのは不可能でも、せめて努力ぐらいはしなければ……！
「あっ、来た」
　何が楽しいのか、アルクェイドは笑みをうかべている。
「……おまえな。俺の高校を見て何が楽しいんだ？
　遊び場なら他にも沢山あるだろ、適当に連れて行ってやるから余所に行こう」
「そうでもないんじゃない？
　志貴の通ってるココは、それなりに楽しそうなんだけど」
「志貴、わたし校舎の中に入ってみたい。
　そこの入り口のカギ、殺してくれない？」
「殺してくれないって、おまえな―――」
「わたしがやるより志貴の方がキレイでしょう？　志貴の切り口はどんな刃物にも出来ない切断面だもの。後になって誰かが見つけても、究明できずでおしまいだよ」
　ほらほら、と廊下の窓ガラスを指差される。
「……まったく、ヘンに子供みたいなんだから」
　つい、とメガネを半分だけずらす。
　……クレセント錠に『線』が視える窓ガラスは、と……。
「……くそ、都合よくあるんだもんな」
　ポケットからナイフを取り出して、スッ、とカギを切り落とす。
　……いや、切り落とすではなく『殺し切る』が正しいのか。
「いいよ。ここから中に入ろう」
　窓ガラスを開けて、土足のまま校舎の中へ入る。
「………………はあ」
　まあ、予測通りというか、お約束というか。
　アルクェイドが真っ先に行きたがったのは、三階にある俺の教室だった。
「志貴はここで何を習ってるの？」
「なにって、世間一般の学生が習うことだよ。
　歴史の勉強から自国の文化への深い造詣。ついでに物の在り方の理解度を深める物理や数学。ああ、いずれ諸外国に旅発つ事も想定して英語も教わっている」
「そうなんだ。志貴のことだから、効率のいい人体解剖術とか刃物の扱い方を習ってるのかと思った」
　しれっと、なかなか愉快な発言をしてくれるアルクェイド。
「……アルクェイド。おまえ、初めっからここがどういう所だか知ってて言ってるだろ」
「あはは、おおあたりー」
　ぱちぱちぱち、と拍手まで付けてきやがった。
　……こいつが何を考えているのかは常に分かり難いが、今回は際立っている。
　吸血鬼退治に関係のない学校にやってくるなんて、一体なんのつもりなのか。
「志貴
」
「なんだよ、急にまじめな顔して。
　やっぱりここに連れこんだのはワケありなのか？」
「いえ、ここに来た事にさして理由はないわ。
　わたしはただ、ここでの事を聞きたいだけ」
「……ここでのことって、学校のことか？」
「そう。志貴はここで一日の半分を費やしているのよね。
　そうまでした知識や経験は、全て使いきる事があるの？
　あなたは人生に不必要な事を学んで、時間を浪費していたりするんじゃないの？」
「はい―――？」
　アルクェイドの質問は、今までで一番意図が掴めない。
「ここで習った知識や技術は、あなたの人生において一度も使われない事もあるのよね。そういうのって無駄じゃないの？」
「……まあ、確かに多くは無駄になるかもな。
　数学を習ってはいるけど専門職につかないのならそこまで活用はできないだろうし。生きていく上で使うのは算数までのレベルでいいし。
　国の歴史や英語を習ったところで、それをこの先使うかどうかは分からない。アルクェイドの言う通り、ここで過ごす時間の大半は、人生にとって余分なものだよ」
「なんだ、ちゃんと
気づいてたんだ。
　なら……どうして、そんな無駄な事をするの？
　あなたたちの時間は短いんだから、そんな事をしている暇なんてない筈なのに」
「暇はないって、まあ、はっきりとした目的が今はないからね。それまではこうやって無駄に生きているワケだけど」
「信じられないな。無駄だと分かっていながら、それを日々の枷にしているなんて。
　……うん、わたしには、信じられない」
　アルクェイドの声はひどく落ちこんでいる。
　……その理由は、やはり俺には分からない。
　ただ、彼女の独白に答える事だけはできる。
「日々の枷、か。確かにそうかもしれない。
　けどさ、無駄ってそんなに悪いコトかな」
「――――え？」
「いいじゃないか、余分な事って
。
　ここで習った事がここでしか使われなくっても、それはそれで日々の名残りになるだろ。
　いつか歳をとって、ぼんやりと過ごしている時にさ。
　ああ、そんなこともあったなって、苦笑しながら思い出せる出来事なら、それはそれで意味があるよ」
「……その思い出自体が無駄な事なのに、それを楽しく思い出せるっていうの、志貴は？」
「ああ、そのあたりは大丈夫。自分にとって都合の悪いものは思い出せないように出来てるんだよ、人間って。
　人生は無駄な事だらけだし、突き詰めて考えると生きてるコト自体が無駄……じゃないか。その反対で、無駄な事をする為に人間は生きてるのかもしれない。
　だから、俺はあんまり深刻にはならない。すべては無意味なコトなんだって気づかないよう、ごまかしごまかしやっていくのが、当たり前の生き方なんだと思うよ」
「無駄だと認めた上で、それをこなすんだ。
　……わたしは無駄な事はできない。今までだって、必要なこと以外はやってこなかったから」
「なに言ってるんだ。それなら今日一日のコトなんて無駄だらけじゃないか。
　アルクェイドの目的は吸血鬼を見つける事だろ？
　なら、俺と街を歩く必要なんてないし」
「……そうよね。それが、わたしにもよく分からなくて。
　無駄しかないような志貴に質問してみたんだけど、よけい分からなくなっちゃった」
「はいはい、悪うございました、どうせ俺は無駄しかない人間だよ。自分でも、自分の居て良い理由が証明できないしね」
「………あ―――うん」
「ごめんね、志貴の言いたい事は判るんだ。
　人間という種は、価値基準を個人ではなく全体で持っている。
　だから個の間違いも、全体が正しければ許してもらえる。あなたたちは最後に、種が終わりを迎える瞬間にたった一つの答えを生み出す為に繁栄できる」
「……けどわたしたちは個体だから、自身の間違いは決して許されない。
　自分以外の意思を、決して自身に反映させてはいけない。
　だから―――余分なコトは、しちゃいけないんだなって、ずっと教えられてきた」
　……静かに。
　まるで懺悔するように、アルクェイドは言葉を紡ぐ。
「―――でも、わからなくなっちゃった。
　たった少し、たったの七日間だけなのに。
　……わたしは正しいのかなって。だって、すごく楽しいんだもの。こうしてるのが、生きているっていうのが、ただそれだけで嬉しいなんて、今まで考えたこともなかった」
「……わたし、壊れちゃったのかな。
　今までこんなに長く起きていた事がないから―――
　本当はもうとっくに眠ってしまっていて、自分勝手なユメを見てしまっているだけなのかな
」
「―――――」
　声をかけられない。
　それこそ、俺には分からない。
　アルクェイドが何に苦しんでいるのか、一欠片も俺には分からない。あるのはただ、そんな顔は見たくないと苛立つ感情だけだった。
「……壊れてるって、なにが。おまえは、普通に見えるけど」
「外見はそうだろうけど、中身が違っちゃってるんだ。
　……楽しいとか辛いとか、そんな余分な感情が、いまはとても大きくなってる。以前は無視できたものが無視できなくなっているなら、それは壊れてるという事でしょう？
　それにね、わたしは普通じゃないよ。志貴とは違う、吸血鬼なんだから」
　寂しげに、アルクェイドは笑ったように見えた。
　儚げに、夕焼けの赤色に隠れるように。
「―――――――ら」
　それは、おかしい。
　こんなのは、ヘンだ。
　夕焼けの教室。
　赤い日を浴びて、頼りなげにうつむく女。
　そんなものが、目の前にいるなんて。
「らしく―――ないな」
　そう、らしくない。
　おまえは吸血鬼なんだから―――そんな、普通の女の子みたいな、頼りない側面なんか見せないでくれ。
「無視できないとか、無駄な事をしているとか、気にするな。そんなの放っておけばいい。
　自分の事なんて、真剣に考えてもいいコトないぞ。何を迷ってるか知らないけど、おまえはそのままでいいんだ。
　だって誰にも、迷惑なんて、かけてないんだから」
「……そうかな。
　わたし、志貴によく怒鳴られるけど、あれは違うの？」
「ばか、俺は例外。俺にはおまえを殺した罪があるんだから、おまえにひっぱりまわされるのは自業自得なんだよ。
　……だから、いいんだ。俺は好きでやってるんだから、俺にかける迷惑なんて考えないでくれ」
「………………」
　アルクェイドの視線は暗いままだ。
　……そんな顔をされると、本当に、こまる。
　弱々しくて。このまま、抱きよせてしまいかねない。
「……頼むから、もっとシャンとしてくれアルクェイド。
　そりゃあおまえはワガママだったり自由すぎたり手を焼かされるけど、それ以外の部分はまともだよ。壊れてなんかいないし、普通の女の子と変わらない。
　だから、いつもみたいに笑ってくれ。おまえにそんな顔をされると、こっちの気持ちが悪くなる」
「……ひどい言いようね。わたし、そんなにワガママかな」
　ぽつり、とこっちの顔色を窺うようにアルクェイドは呟く。
　まずい。ちょっと気が緩んだ。
　今までワガママである事を自覚しておりませんでしたか、このお姫様ときたら。
「ばっか、なに言ってるんだおまえ！
　アルクェイドからワガママって単語をとったら、もう骨しか残らないぞ、骨しか！」
　軽い気持ちで茶化そうとしたのだが、つい大笑いしてしまった。
　だって、アルクェイドが自分の事を恥ずかしそうに聞くなんて、夢にも思わなかったから。
「……………………！！」
　あ、
怒った。
「志貴のばかっ！　人が真剣に相談してるっていうのに、なによ、この薄情者っっ！！」
「そりゃそうだよ。俺はおまえ以外には優しいって言ったじゃないか。薄情なのは今に始まったコトじゃないし？」
　だろう？　と同意をとるように苦笑して、アルクェイドを見返す。
　文句なしだ。さっきまでの<翳|かげ>りはどこにもなくて、こいつらしい純粋な顔をしてる。
「……うん。やっぱりおまえは元気な方がいい。俺もなんだかホッとした」
「え……？　な、なんで志貴がホッとするの？
　わたしに対しては薄情なんでしょ、あなたって」
「―――いや、まあ。それはそうなんだけど……」
　どんなに振り回されても、どんなに厄介事を持ってきても、それはそれでいい、というか。
　俺はただ、こいつが落ちこむ姿だけは見たくはな―――
「………………」
　まて。それ以上、深く考えるのはまずい。
　たしかにこいつはキレイだし、いいヤツだって分かっている。一緒にいると退屈しないとも思ってる。
　……けど、それだけだ。
　それ以上の感情を持ってはいけない。
　しっかりしろ俺。どんなに愛らしいと感じても、
こいつは吸血鬼なんだから―――
「もう、はっきりしない人ね。
　自分で自分のことも分からないの？」
「さっきまで弱音はいていた吸血鬼に言われたくない。
　いいんだ、俺は自分が分からなくて。おかしいって自覚はしてるし。いつも記憶が曖昧で、貧血ばっかり起こしてるんだぞ？　基本、自分の事さえ面倒見きれないんだよ」
「そっか。だから志貴はいつもぼーっとしてるんだ」
　うんうん、と心底納得したように頷くアルクェイド。
「……………」
　その場しのぎの言い訳をそこまで信じられると、怒る前にホントにそうなのかな、と考えこんでしまう。
　……まあ、秋葉にも“いつもぼんやりしている”とお小言をもらうし、実際、外から見たら頼りないんだろう。
「さて」
　いつまでも教室にいる訳にもいかない。
　いいかげん外に出よう。今は誰もいないだけで、当番の先生が戻ってくる可能性もあるんだし。
「ほら、そろそろ出るぞ。もう用事はないんだろ？」
「うん、用事はないんだけど……志貴？」
　ん？　と視線を投げる。
　アルクェイドはわずかに言葉を飲みこんでから、おかしな事を訊いてきた。
「志貴には、楽しいことってあるの？」
「……今日は熱でもあるのですか、お姫様」
「茶化さないで。わたし、少しはあなたの体の事を知っているわ。志貴だって分かっているんでしょう？
　自分の体が、いつ死んでもおかしくないって事ぐらい」
「――――――」
　唐突な、けれど真剣な問いに、奥歯を噛む。
　―――じくり、と。
　胸の古傷が<惷動|しゅんどう>した気がした。
「……まあ。そりゃあ、人間はいつか死ぬ」
「あなたの場合、<他|ヒ><人|ト>より早いでしょうけどね」
　アルクェイドの目は真剣だ。
　けど、誰にだって死の線はあるんだから、死に<易|やす>い部分は沢山ある。
　俺だけが―――そんな、死に易い体をしている訳じゃない。
「どうしてかしらね。あなたを見ていると、時々、訳もなく怖くなる。……だから聞かせて。
　そんな不安定な命で、楽しいと思える時があるの、志貴？」
　楽しいと思える事があるのか、だって？
　ああ、こいつは本当に―――
「―――ホントにばかだな、おまえは。
　そんなの、俺に分かる筈がないじゃないか」
　自分の人生は
楽しいかどうかなんて、俺に分かる筈がない。
　模範になる正義感。社会的に良しとされる道徳。和を尊ぶ人間性。
　それらすべては先生からもらったもので、それが生きていく上でとても便利で万能だから、生存する為にこなしていた。
　俺は根本的に人でなしだ。
　はじめから、その手の曖昧な話は、よく分からない。
　……ただ、はっきりと断言できる事だってある
。
　俺は七年前に死にかけて、ほんの少しのあいだ、病院の手術室で手当てを受けているあいだだろうけど、真っ暗なところにいた気がする。
　夢かと言えばそうだろう。
　あの時、俺は自分が死んだと実感してたし、あの暗い場所が死なんだと思っていた。
　そのあと。奇跡的に助かって、先生に出会って、普段通りの生活に戻れた事に、底なしの感謝を抱いた。
　一度死ぬまで気がつかなかったコトだけど。
　世界はこんなにも平和で、こんなにも美しいものだった。
　たとえこの眼が、その感想を、すべて否定していても。
　俺にはここに生きる事が、楽しい事とは分からない。
　きっと一生思えない。
　この両眼がある以上、死を楽に思う事は許されない。
　でも―――それでも、人生は美しい。
　多くの人々は楽しい事なんて見つからない、というけれど。
　人間は、生きているだけで楽しいのだと、昔の自分は知っていた。もう遠い過去の話だろうけど、事故に遭う前の自分は、きっと毎日が輝いていた。
　だからこうして、何もかも無駄だって見せつけられても生きている。
　今の俺は非人間だ。
　まっとうな価値観を、まっとうな道徳を、<誠|まこと>と思う事は難しい。遠野志貴から“楽しい”という感想は、随分と昔に失われた。
　そんな自分でも、今が楽しいかと聞かれたら、それが本当に許せないこと以外なら、俺は楽しいと答えるだろう。
　どんな絶望でも、在るという事は満ち足りている。
　誰に教えられるまでもない。
　こうしていられるだけで、人間は本当に、生きている意味があるのだと。
「―――たださ、生きてるだけで楽しいんじゃないかな。
　今までが楽しかったから、これからもやっていこうって気になるんだ。きっと、そうに違いない。
　……まあ。おまえの質問に答えるとしたら、こんなところか」
　そう返したものの、少しばかり面はゆい。
　所詮、たかだか十七年しか生きていない俺の所感である。これが正解である筈もない。
　なのに、目の前の女は、
「そっか、それが志貴のココロなんだ。
　……そうしているだけで楽しい、か。
　そうよね、余分なことだって分かっていても、楽しいのなら切り捨てる事はできないもの。
　……わたしはそれが恐くてつまらない事を訊いたけど、いまはそれが答えでいいかな」
　この上ない笑顔で、俺の未熟な心を認めていた。
「―――なんだよ。さっきのコト、まだ引きずってたのか」
「そうだけど、とりあえずわだかまりは消えてくれたわ。
　だから、この街に巣くっている吸血鬼を倒すまでは迷わない。それまで志貴と一緒に戦うよ」
　ねっ、とうなずいてアルクェイドは笑った。
「――――」
　吸血鬼を倒すまで、か。
「……そうだったな。
　俺とおまえって、そういう関係だったっけ」
　今日一日があんまりにも普通だったから。
　そんな当たり前の大前提、不覚にも忘れていた。
「なあ、アルクェイド。
　全部終わった後……吸血鬼を倒し終わったらさ。
　別れる前に、もう一度だけこうして遊ばないか？」
「？　それ、どういうこと？」
「アルクェイドの目的が済んだら、もう一度ぐらい無駄なコトをしようって言ったんだよ。
　結局、俺とおまえは協力しあっているから一緒にいるだけだろ。だから本当に、何の義務もなくなった後、何の意味もなく会えたらどうなるかなって、そう思っただけ」
　……そうじゃなくて。
　気が合う友人同士として、本当になにげなく、吸血鬼のことなんか考えずに。
　ただ当たり前の思い出を作ってやったら、きっとアルクェイドは喜ぶだろうと、そう思えてしまっただけ。
「……まあ、おまえが忙しいっていうんなら別にいいけど」
　心とは正反対の事を言う。
　アルクェイドは呆然と目を見開かせた後、
「うん―――！
　ぜんぶ終わったら、またここに来ようね志貴！　なんの意味もないけど、それはきっと、きっとすごく楽しいよ……！」
　輝くような笑顔で、弾むような仕草で、確かにそう約束した。
　夕焼けの教室。
　時間から切り離されたような色彩の中、その姿は俺にとって、この上なく確かなものとして、記憶に残った。
　……結局、あの後も放送室やら美術室やらを案内させられ、学校から出る頃には日は沈みきっていた。
　時刻は夜の７時半を過ぎたあたり。
　少し時間は早いけれど、吸血鬼探しを開始しよう。
「すっかり暗くなったな。他に行く所もないし、そろそろ始めようか、
アルクェイド
」
「もう行くの？　まだ街は明るいよ？」
「早いにこした事はないだろ。昼間は十分に遊んだんだから、夜ぐらいはきちんと仕事をこなさないと」
「志貴ってヘンに生真面目よね。そんなに真面目なのに、どうして昨日は約束を破ったりしたのかしら」
「……仕方ないだろ、昨日は体が動かなかったんだから。直前までは公園に行くつもりだったんだ」
　……まあ、今にして思うと無謀だったけど。
　秋葉が止めてくれなければ、あんな体のままアルクェイドと合流して、ここ一番で足を引っ張ったに違いない。
「ふーん、そうなんだ。じゃ、そうしよっか」
「……なんだその顔。イヤな予感しかしないんだけど、なんだよ、そうしよっかって」
「だから、志貴は公園に行くつもりだったんでしょ？
　まだ時間はあるんだし、昨日できなかった事なら、今やり直せばいいじゃない」
　アルクェイドはタタッ、と軽い足取りで走り出す。
　本気で公園に向かっているようだった。
「―――ちょっと、待てってば、おい……！」
　駆けていくアルクェイドを見失わないように、こっちも全力で走り始めた。
「ほら、なんだかんだ
言ってちゃんと付いてくるんだよね、志貴って」
「……ばか、おまえを、ひとりにする、と、何するか分からない、から、だろ……」
　肩で息をしながら乱れた呼吸を整える。
　人混みの中をここまで走らされるとか、今日はほんと、こいつに振り回されてばっかりだ。
「でも、やっぱりこの時間だと
人が多いのね。
　そこかしこに人の気配がして、ちょっと落ち着かないかな」
「……だから。どうして、こっちの話を聞かない、んだ、おまえって、ヤツは……」
「そう？　わたし、志貴の声はちゃんと聞いているつもりだけど？」
「……そうか。聞こえていて、無視しているとなると、余計に<質|たち>が、悪い」
「無視もしてないよ。志貴の小言に返答すると決まって“ばか”って言われるから、黙ってるだけなんだけど」
「……そうか。それは、こっちにも、問題があったかもしれない、か」
　はあ、はあ、と呼吸を整えていく。
　学校前から公園まで、ざっと1.5キロ。
　小走りだったとはいえ、それだけの距離を走った心臓はなかなか落ち着いてはくれなかった。
　……別段、アルクェイドが速く走った訳じゃない。
　どっちかというと、アルクェイドにしては遅かったと思う。昨日の貧血の後遺症なのか、俺の体が本調子でなかっただけだ。
「……大丈夫、志貴？　無理しないでベンチで休んだら？」
「……そうする。体が落ち着いたら、街のほうに行くからな、アルクェイド」
「もう。志貴がやる気になってるのは嬉しいけど、まだ時間が早すぎるのよ」
「ヴローヴの時もそうだったけど、吸血鬼は自分たちの時間でなければ無闇に活動はしないものなの。
　彼らはもっと夜の気配が濃くならないと活動しないから、しばらくは時間を潰さないとね」
「――――」
　そういう事は、もっと早く言ってほしかった。
　ベンチに座って、やる事もなく時計を眺める。
　公園の時計は９時を過ぎたあたり。
　段々と人影は減っていき、夜は刻一刻と深まっていく。
　アルクェイドはどうしてかベンチに座らず、退屈そうにそこいらを歩きまわっていた。
　時間だけがすぎていく
。
　静かな夜。
　<晧晧|こうこう>とした月光が、夜の公園とアルクェイドを照らしている。
「……月明かり、か……」
　二日前の夜、遠野邸の前で襲われた事を思い返す。
　あの時もこれだけ明るければ、あの黒い影もはっきり見えたかもしれない……って、
「あーーーーーーーー！」
　がばっ、とベンチから立ちあがる。
「志貴！？　どうしたの、死者でも
見つけちゃった！？」
「いや、そうじゃなくて―――
とんでもない事を、忘れてた」
　我ながら図太すぎた。
　帰り道に襲われておきながら、それを今まで失念していたなんて！
「アルクェイド。俺、二日前の夜に、ヘンなヤツに襲われた」
「？　ヘンなヤツって、どんなヤツ？」
「えっと、それが――――」
　気を落ち着かせて、できるだけ克明に、二日前の夜に起こった出来事をアルクェイドに説明する。
「……と、いう訳なんだけど―――――」
　ひとしきり説明して、アルクェイドの顔色を窺う。
　話が始まってからこっち、アルクェイドの目は鋭いままで和らぐ事はなかった。
「あの黒い死者と、ノエル先生―――代行者っていうんだな？　あの人はおまえの敵なのか？」
「……そうね。両方ともわたしの敵よ。
　その黒い死者は何者か知らないけど、修道服を着た女のことなら見当はつく」
　アルクェイドは不機嫌そうに目を細める。
　いや、不機嫌というより神経質そうに苛立っているみたいだ。
「志貴を助けたヤツは確かに代行者でしょうね。
　……念の為に訊いておくけど、そいつ、ひとりきりだった？」
「あ、ああ。ノエル先生ひとりだったけど……」
　そういえば、代行者は二人一組で行動する、という話だったっけ。
「そう。そいつの独断か、あるいは動けない理由があるのか。……もうひとりが<あ|・><の|・><女|・>だとしたら目障りね。
　アイツならわたしより先に“棺”を見つけ出せるでしょうし…………先に、そっちを潰しておくか」
　アルクェイドの苛立ちはもはや天井知らずだ。
　理由は不明だが、どうもノエル先生の『相方』が
気にくわないらしい。
　今まで敵意や殺気、威圧感を感じさせる事はあったが、ここまで露骨に嫌悪を表すのは珍しい。アルクェイドと“あの女”とやらはよほど相性が悪いのか。
「アルクェイドにとってノエル先生が敵だっていうのは分かる。あっちもそう言っていたし。
　でも、目的は同じなんだから協力し合えないのか？」
「……まあね。場合によっては手を貸してあげる事もあるわ。
　でも今回は絶対に無理。人間には譲らないし、もし代行者があの女なら、まずそっちを始末してる」
「……………」
　まったく穏やかじゃない。
“ノエル先生と協力し合おう”という意見は取り下げた方がよさそうだ。
「……ＯＫ。あっちとは協力しないんだな。
　おまえがそう言うなら俺もこれ以上は言わない。理由は聞かないよ」
これ以上は言わない。理由は聞かないよ」
「え……う、うん、
ありがと。
　……なんか志貴、優しくない？　いつもなら、もっとしつこく食い下がってくるのに」
「おまえが嫌がってるのは分かったからな。
　でも、ノエル先生との関係と、ノエル先生の背景については別問題だぞ。いいかげん、その代行者ってのが何なのか教えてくれ」
「……そうね。余分な知識だから話さなかったけど、こうなった以上、話しておくわ」
「以前も説明したけど、城主タイプの吸血鬼は己の存在を隠蔽しようとする。犠牲者を出しても、周囲にそれを異常だと気がつかせないよう、様々な魔術を働かせる。
　これ、どうしてだか分かる？」
「外敵を呼びこまない為、だっけ？　派手にやるとやってくるんだろ、吸血鬼退治の専門家たちが」
　……まあ、人間社会にも警察機構がある訳だけど、吸血鬼はそちらは脅威と見ていない。
　それはヴローヴとの戦いで思い知らされた。
　吸血鬼が恐れるものは、吸血鬼と同じ怪物だけだ。
「そう。吸血鬼には天敵がいる。
　それも今ではパワーバランスは<天敵|あっち>の方が上っていう、殺し屋みたいな集団がね。
　吸血鬼たちが人間を秘密裏に搾取するのは自己保身のためよ。彼らは社会的な風聞ではなく、その天敵に嗅ぎ付けられる事を嫌って、自然に死体を隠蔽する」
「……それがノエル……先生みたいな連中か。
　吸血鬼たちの天敵って、また化け物じみたのが出てきたな」
　普通の人間のこっちとしては、これ以上常識外れのモノが乱入してくるのは勘弁してほしいのだが。
「何いってるのよ。確かに代行者は人間離れしているけど、彼等はどこまでいっても“人間”よ。
　吸血鬼……死徒の天敵というのは、あなたたち人間そのものなんだから」
「――― 天敵って、俺たちが？」
　為す術なく食料として殺されるのに……？
「もうずっと昔、西暦が始まったばかりの頃。
　人間は様々な魔術、神秘学、式典儀礼を基に組織体系を作り、人間以外の霊長類を排除しはじめた。
　その最たる物が聖堂教会―――普遍的、という名を掲げた欧州の一大宗教よ。彼等は昔から“人間でないモノ”を徹底的に淘汰してきたけど、その中でも吸血鬼に対する敵視はどうかしているわ」
「世界中のどんな宗教を見たって、教会以上に吸血鬼を敵視している宗教はない。
　あれはね、すでに憑かれてる。病的すぎる。このわたしでさえ、出来るなら関わりたくないぐらいだもの」
　はあ、と呆れるように溜息をつくアルクェイド。
　……しかし。口ではそう言っているものの、その教会とやらと、それなりに付き合いがある事は読み取れた。
　そうでもなければ“出来るなら”なんて言葉は漏らすまい。
「で。志貴を助けたのはその中でも異端狩りを専門としている連中よ。主の教えを代行する、という役割から<代行者|エクスキューター>って呼ばれてる。
　教会の矛盾点を法ではなく力で処理する、決して表には出てこない、殺し屋みたいなエクソシスト」
「…………」
　エクソシスト、悪魔祓い。吸血鬼を退治する神父……。
　なんていうか、あんまりにも嵌まりすぎて言葉がない。
「ま、<た|・><だ|・>の代行者なら可愛いものだけど。
　これが<埋葬機関|まいそうきかん>の代行者になると話は違ってくる。あいつらは死徒を捕縛する為なら手段を選ばない。
　もし派遣された代行者がそっちだったら、ヴローヴが暴れる前にこの街は地図から消えていたかもね」
「ヴローヴ以上って……そんなに<見境|みさかい>なしなのか、そいつらは」
「ええ。連中は相手が吸血鬼であるのなら、何をしても許される権限を持っている。それは死徒に狙われた街も同じ。まだ人間が生活していようが、すでに穢れた土地ならもろともに焼き尽くす」
「そのノエルって代行者が今まで何もしなかったのは、わたしと死徒を同時に始末する機会を窺っていたんでしょうね。埋葬機関にとって、人間ではない霊長はそれだけで“悪”だから」
　苛立たしげに言って、アルクェイドは公園を歩き始めた。
「……………」
　なんだか、色々と混みあってきた。
　アルクェイドは仲間である吸血鬼に狙われて、吸血鬼を敵視する連中にも狙われている。
「……なんだよ。
それじゃひとりきりじゃないか、あいつ」
　理由もなく歩き回るアルクェイドの姿を眺める。
　月光の下。その姿は、行き場のない迷子のように見えた。
　こつこつと時計の針は進んでいく。
　公園に来てから、いつの間にか２時間近く経過していた。
「―――ふう」
　体はとっくに落ち着いているし、人の姿もなくなった。
　人間であれ吸血鬼であれ、夜の住人が動き出す時間帯だ。
「アルクェイド、そろそろいいんじゃないか？」
「そうね、そろそろいいと思う」
　俺の意見に同意しつつも、アルクェイドはまだ乗り気ではなさそうだ。
「……はあ。さっきからおかしいぞアルクェイド。
　気の乗らない事でもあったのか？」
「―――そういうワケじゃないけど。
　志貴が話してくれた黒い死者の事が、ちょっとひっかかって」
　アルクェイドは目に見えて元気がない。
　何が気になるんだ、と声をかけようとして、
「あっ、そういえばね志貴。
　わたし、昨日ここでナンパされたのよ」
「――――はい？」
　一転してこの切り返しである。
　くるくる回る万華鏡か、こいつは。
「ごめん。ちょっと意味が分からない」
「だーかーら！　昨日ここで、志貴を待っているあいだ、男の人に声をかけられたって言ってるのっ！」
「……いや、何が起きたのかは分かるんだが……おまえ、黒い死者について考えごとしてるんじゃなかったのか？」
「してたわよ。だから思い出したのっ！
　志貴が襲われたみたいに、わたしも男の人に声をかけられたなって！」
「……なるほど。そりゃあ、良かった。
　たしかに外見だけならおまえは美人だからな、まっとうな感性と驚嘆に値する胆力を持つ男なら声の一つぐらいかけるさ」
「やっぱり？　わたしも最初は敵かなって思ったんだけど、志貴が言ってたじゃない。わたしはいるだけで目立つって。
　だから、しばらく出方を窺ってたら、ただの人間だって分かったわ」
「まさに間一髪ね、あの人。ほら。昨夜のわたし、誰かさんのおかげで、ちょっとイライラしてたから
」
「……ちょっと待って。
　まさかとは思うけど、ナンパしにきた男を、その、だな」
「ううん、何もしなかったよ。ちょっとだけ話して、わたしのコトを忘れてもらっただけだから。
　……その、志貴の言葉を思い出さなかったら、どうにかしてたかもしれないけど」
「そうか、偉いぞアルクェイド。おまえにも分別ってものがあったんだ」
「当然でしょう。
わたしを怒らせるなんて志貴ぐらいのものだもの。他の誰にも、わたしを殺したり助けたりしてくれる人はいないんだから」
「――――――」
」
　信頼のこもった、鮮やかな声。
　それはもう数えるのも馬鹿らしい、不意打ち気味の笑顔だった。
「……そりゃあ、まあ。誰だって、殺されれば頭にくる」
　なんとか切り返して、夜の公園ではしゃぐアルクェイドから視線を逸らす。
　……一ヶ月前。
　この街に連続殺人事件さえ起きなければ、この時間でもここには若いカップルだの、夜遊びから帰る学生やらの姿があった。
　今では、ここで話しているのは自分とアルクェイドだけ。
　吸血鬼探しも死の線も今はちょっとだけ<隅|すみ>に。
　俺たちはごく当たり前の因子として、この風景に溶け込んでいる。
「あ。ねえ、ほら」
　唐突に呼びかけられ、顔をあげる。
「なんだよ。なにかあった？」
「うん。ほら、あの時計。これでちょうど時間になったね」
　満面の笑みを浮かべて、アルクェイドは公園の時計を指差す。
　見れば、たしかに時計は10時を指していた。
　約束の時間。
　夜の10時にここで会う、口だけの約束。
　昨日の夜、俺が守れなかった、通り過ぎた待ち合わせ。
「―――――――」
　なぜか言葉がつまる。
　なんで、こんな些細な事で俺は胸を打たれていて。
　なんで、こんな些細な事で、こいつはこんなにも嬉しそうにするんだろう。
　……本当に、わからない。
　今日一日、こいつと街を歩いてみて。
　アルクェイドが、本当に吸血鬼なんていうモノなのか、ぜんぜん実感できなくて。
「……一つ、訊くけど」
　――――やめろよ、志貴。
「ん、
なに？」
「……その、おまえってさ」
　――――そんなつまらない事は、やめろ。
「うん、わたしがなに？」
「……本当に、吸血鬼なのかなって」
　――――どんな答えを期待してるんだ、おまえは。
「吸血鬼なのかって……志貴、いまさら何を言ってるの？」
「いまさらじゃない。今になってそう思っただけだ」
　視線を逸らして、そう言った。
「……はあ。志貴ってあたまが柔らかいんだか固いんだか。
　わたしは気にしないけど、それってひどい侮辱よ。なにを根拠にそんなことを言うのか、聞かせて」
　根拠はない。
　けど、それと同じくらい、おまえが吸血鬼だっていう証拠がないんだ。
　だから―――
「……だって、おまえは血を見るのもイヤなんだろ。そんな吸血鬼がいるもんか。自分で半人前だと言ってたけど、血を吸った事のない吸血鬼なんて、半人前以下だと思う
」
　―――そうじゃなくて。
　吸血鬼でなんか、いてほしくないんじゃないのか、遠野志貴の本心は。
「……そう。
　なら志貴、ベンチから立って、こっちに来て」
　感情のない声で、アルクェイドはそう言った。
「……………」
　言われるままに立ちあがり、アルクェイドに歩を進める。
「――――」
　アルクェイドと視線が合う。
　ちょうど距離にして２メートルぐらい、俺とアルクェイドは離れている。
　……そうして。
　アルクェイドは大きく息を吐くと、にこりと、作り笑いのように微笑んだ。
「そうだよねー。わたしもホントはそう思ってたんだ。
　果たして、アルクェイド・ブリュンスタッドは本当に吸血鬼なのでしょうか？　って」
　……ホッとした。
　抑えきれずに吐き出してしまったが、この質問はアルクェイドを傷つけるんじゃないかと、そう思えて仕方がなかった。
　アルクェイドが冗談のように受け止めてくれて、助かった。
「……だよな。アルクェイドはどう見ても吸血鬼らしくない」
「じゃ、試してみよっか」
　いたずらに笑いながら、アルクェイドは、そんな言葉を口にした。
「ああそうだな、なんなら試―――え？」
「わたしがホントに血を吸えるのかどうか、試そっか。
　もし出来たら、なにかご褒美くれる、志貴？」
「な――――」
　アルクェイドは笑顔のまま、一歩ずつ俺の方へと歩いてきた。
　かつんかつん、
と。
　白い女は足音をたてて近寄ってくる。
　冗談である事は、お互いに分かってる。
　分かっているのに―――体が、まったく、動かなかった。
「ま――――」
　て、と言おうとして、言えなかった。
　アルクェイドの力じゃなくて―――俺自身、その言葉を飲みこんでいた。
　アルクェイドは近づいてくる。
　一歩。また一歩。
　うつむいたまま、少しずつ。
　俺は指一本も動かせないまま、彼女の、<瑞々|みずみず>しくも肉感的な、唇を見つめている――――
「志貴は、わたしのことを半人前だって言ったけど」
　頭の後ろに響くような、甘い声。
　かつん、と足音が間近で止まる。
「―――ほんとはね。血を吸うのなんて、簡単だよ」
　そんな声が、耳元で、聞こえた。
　呼吸が近づく。
　指先が触れる。
　肩口に、全身に、アルクェイドの重みを感じる。
「―――――――」
　それは。意識を失いかけるほどの、心音だった。
　欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。
　暴れ出す情動を必死に抑える。
　背中をかき乱そうと<戦慄|わなな>く左腕を、
　抱き寄せたくてたまらない右腕を、
　懸命に抑えつける。
　欲しくてたまらない。我慢できる筈がない。それでも、今この女を求めてはいけない。
　だって、何もかもが違う。
　あの時より強い。あの時より激しい。
　あの時とは、根本的に、求めているモノが違う。
　殺したい、のではなく。
　それとは違う衝動で、ここまで狂いだしそうだと言うのなら。
　俺は、こんな事で、彼女の精一杯の勇気を、汚してはいけない筈だ。
「――――――」
　奥歯をかみ砕く勢いで、わき上がる情動を呑み込んだ。
　時間にして１秒もなかった葛藤。
　その間、アルクェイドの動きに変化はなかった。
　……ぞくり、と背筋が凍る。
　これは冗談だ。俺にではなく、自分に言い聞かせる冗談だった筈だ。
　なのに首元には、いまだ彼女の、火のように熱い吐息がかかっている。
「アル―――――」
　名前を呼ぼうとして、口を閉ざす。
　それは彼女を信用していない事を指す。
　もう終わる。
　こんな悪ふざけはこれで終わって、いつもの笑顔でアルクェイドはこう言う筈だ。
“なあんて、やっぱり血なんて吸わないよ”と。
「――――――」
　……なのに、かかっていた重みが変わる。
　柔らかな感触は、鋭い痛みになる。
　肩をつかむ白い指が、カタカタと震えている。
　―――恐がっている。
　俺の思考はまっさらで、恐怖も何もない。今は、まだ。
　ただ、アルクェイドだけがカタカタと震えていた。
　苦しげな呼吸。
　アルクェイドの息遣いはこんなにも近いのに、遥か遠くのものに感じる。
　顔は見えない。
　首筋にかかる吐息だけが、彼女の体の震えに重なっていく。
　はあ、という弱さから、はあはあ、という荒々しさに。
「アル―――クェイド？」
　……堪えきれず、その名前を口にしてしまった。
「冗談―――――なのに」
　アルクェイドの声が震えている。
　肩に置かれた指は、もう震えてはいなかった。
「っ――――！」
　痛みに声があがる。
　動きたくはないのに、反射的に体は■■から逃れようと後じさる。
　けれどアルクェイドの爪は弱まらない。
　離れようとする俺の体を逃がすまいと、万力のように食い込んでくる。
「―――ごめん、悪ふざけがすぎた。
　からかって悪かった、から……離れて、くれないか」
「志――――貴」
　アルクェイドの指が離れない。
　―――いけない。それは、いけない。
　誰にとって禁忌なのか。
　警鐘を鳴らす理性。
　アルクェイドの体を押しのけようと腕が動く。
　だが、もう遅い。
　何もかもが遅い。
　それはいつから。
　今か。ほんの５分前か。それとも一日前―――いや、初めて出会った時からか。
「“は―――はぁ―――は―――”」
　乱れた吐息が首筋から脳髄までせり上がる。
　それは駆け巡る脳内物質のように、彼女の昂ぶりを伝えてくる。
「“だ、め―――わた、し―――”」
　<耳|じ><朶|だ>に滑りこむ本能の<響き|エコー>。
　粗野な腕力は必要ない。その甘い<喘|こえ>だけで、
「“<志貴|あなた>が、―――欲しく、て―――”」
　肉体ごと、精神が溶かされる。
「―――、―――、―――――――」
　首筋に触れる。
　狂おしげな吐息がかかる。
　瞬間、
「――――――、あ」
　俺の理性は、崩壊した。
　それは、根源的な恐怖だった。
　抵抗しようのない摂理だった。
　わかり合える筈もない生き物だった。
　嵐のように渦巻く瞳。
　山脈のようにとがった歯。
　意思の疎通など出来ようのない、<瀑布|ばくふ>じみた力の<撓|たわ>み。
　いま、俺の首筋に牙をたてようとしているモノは、遠野志貴の知っている<女|モノ>ではなく、剥き出しの本質だった。
　自然の摂理から逃れた人の身で、原始の摂理に立ち戻る。
　何もできない。
　指先さえ動かない。
　食われる、とは。
　ただ捕食される立場というのは、こういう事か。
　この生命の前では、
　人間は飲まれるだけの飛沫にすぎず―――
「―――、ひ
」
　じくり、と首筋に牙が刺さる。
　あたまのなかにあるのは、恐怖だけだった。
「[ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00]」
　悲鳴をあげる。
　自分で、自分の声を聞いて情けないな、と思った瞬間。
　ほんとうに、気のせいかもしれないけれど。
　アルクェイドの動きは、そこでピタリと止まってくれたような気がした。
　が、それを確かめるより前に。
　目の前で激しい炸裂音が響いて、突風に<煽|あお>られるように、アルクェイドの体は吹っ飛ばされた。
「うっわあ、恐かったあ……！　いちかばちかでちょっかいだしたけど、反撃されなくて助かったぁ……！」
「ノエル先生……!?」
「はあい、こんばんは！
　でもごめんなさい、ゆっくり話している暇はないの！」
　ノエル先生は俺のとなりまでやってくると、吹き飛ばしたアルクェイドに視線を向ける。
　……アルクェイドは、無事だった。
　10メートル近く吹っ飛ばされていながら傷ひとつない。
「わた………し」
　アルクェイドは呆然としている。
　俺も―――何をするべきなのか、考える事さえできない。
　そこへ。
「おっと、はいはい、ダメよ志貴クン。
　アレを追い返したら次はキミなんだから。悪いけど、そこで大人しくしていてね♡」
「!?」
　目の前に白い壁が立ち上がる。
　いつのまにか、俺の周りには三本の剣が刺さっていた。
　剣はそれぞれを支点にして三角形をかたちづくり、その中にいる俺を、光の壁で閉じこめている―――
「ふふ、師匠譲りの<秘蹟|ひせき><黒鍵|こっけん>、聖堂よ。
　あ、くれぐれも壁には触れないようにね？　触ったら塩の柱になっちゃうから。ま、キミの手が塩化しようが、わたしにはどうでもいいんだけど。
　それより、いま問題なのは―――」
「志、貴―――？」
　アルクェイドが立ち上がる。
　壁に閉じこめられた俺を見たあと、そのとなりにいる修道服の女に視線を移す。
「……問題は、不意打ち食らっても無傷の怪物よね。
　チッ。わたし程度の鉄甲作用じゃ通らないってワケ」
「代行者―――」
　アルクェイドの気配が変わる。
　その眼が。
　渦巻くような殺気となって、修道服の女を射貫いている。
「……なにを、してるの……？」
「っっっ……！　無理、やっぱ無理！
　わたしじゃアレどうにもできなーーーい！」
「“うるせえ、死ぬ気でいけ肉体労働。
　怪物相手に体を張るのがテメエらの仕事だろうが”」
「あわわ、あわわわわ！　ああもう、後でぜぇっっったい、
　<枢機卿|すうききょう>に御目通りさせてくださいねーーー！」
　背中を押されたように、つんのめりながらアルクェイドへと飛びかかる修道服の女。
　……まるで話にならない。
　あんな突進ではアルクェイドを止められる筈がない。
「志貴を―――放して……！」
　事実、アルクェイドはこちらに走りながら、虫を払うように片手を振るって―――
「！？」
「うっそぉ！？」
　な……何だあれ、あんな腰の引けている突進で、アルクェイドを止められるのか……!?
「おう、やればできるじゃねえか。給料分しっかり働けよ。
　テメエらの食い扶持も<善|タ><意|ダ>じゃねえんだからな」
　真横から、流暢だが乱暴な日本語が聞こえた。
　身動きがとれない状態で視線を向ける。
　そこには、
　以前、遠野邸の前で見た外国人の子供の姿があった。
　子供の両手には籠手のような物がつけられている。
　カタカタと音をたてながら、波打つように上下する五指。
　どことなく古いタイプライターを思わせる。
「あ？　なに見てんだガキ。こんなの珍しくもねえだろ。<操り|マリオ><人形|ネット>の一つも知らねえとか、ふざけたコトぬかすなよ。勤勉なのが日本人の美徳だろうが」
　俺に話しかけているらしい。
　しかし……マリオネット、というのはあれだろうか。
　関節のある木製の人形に糸を繋げ、上から吊るし、操者の手の動きだけで“生きている”ように見せる大道芸。
「チ、２分もたねえのかあの三下。……仕方ねえ、ここからは口八丁か。
―――
おい、下がれノエル！　首ねじ切られるぞ！」
　一際大きな打ち合い。
　修道服の女は逃げるように後退し、アルクェイドは肩で息をしながら光の壁―――俺のいる方へと向き直る。
「“はぁ―――は、あ―――………！”」
　<爛|らん>と輝く赤い瞳。
　アルクェイドは息を乱しながら、大型の肉食動物のように身を屈め、ここまで一足で跳びかかろうと前に出るが……。
「あーあ、ひでえもんだ。そこいらのグールと大差ねえじゃねえか。それでも最後の真祖かよ、姫様。ラウレンティスのジジイが見たらさぞ失望するだろうぜ」
「―――なん、ですって？」
　アルクェイドの瞳に理性が戻る。
　それを好機と見たのか、俺の横にいた子供は一歩前に出て、白い吸血鬼と対峙した。
「お初にお目にかかる。<東方慰問|とうほういもん>司祭代行、マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノだ。
　役職の高さにはつっこまないでくれ。言いたかねえがジジイの何人目かの、便宜上の養子ってヤツでね」
「……そう。この国の、代行者の司令塔？」
「ああ、赴任したばかりだがな。
　親の七光りだろうと役職は役職だ。オレのシマで勝手はさせねえ。―――特に、真祖が魔堕ちする不始末なんざ、クソを食うよりご免でね」
「――――――」
　アルクェイドから戦意が消える。
　いや……あれは恐れ、だろうか。
「ようやく自覚したか。このガキの血を吸って殺そうとしたんだよ、アンタは。
　真祖だなんだと偉ぶっておいても所詮は吸血種だな？　同族である吸血鬼を滅ぼして回ろうが、同じ怪物である事に変わりはねえってワケだ！」
「ちが―――わたしは、志貴を殺そうだなんて、思ってない」
「なにカマトトぶってやがる。殺意の話じゃねえだろ。生態として当然の話だろ。いるだけで迷惑な生き物だって自覚はどこにいった？　このガキがアンタの本性を見てどんな声をあげたのか、理解できなかったワケじゃねえよな？」
「―――――」
「本気で我が眼を疑うぜ。痛いところを突かれれば逆ギレかよ。ジジイ曰く冷徹な兵器だって話だったが、まるっきり不出来な人間じゃねえか。
　……まあいい。その眼。その凶眼をアンタはそこのガキに向けたんだよ。ゼイゼイとみっともなく、男に媚びる娼婦みてえにな。その時の感想を本人に聞いてやろうか？」
　少年……マーリオゥがようやく俺に視線を向ける。
　その眼差しの鋭さに息を呑む。
　口汚さとは裏腹に、この少年はなんていうか―――そう、公正さに満ちている。
「出番だぜトオノ。感想を聞かせてやれ。
　ボク、あやうく一口で食べられるところでした、ちびりそうなぐらい怖かったですぅ、てな！」
「――――――」
　そんな事はない、と怒鳴ろうとして、言葉を止める。
　……それは、嘘だ。
　事実、俺は恐怖した。それを誤魔化す事は、嘘をつくよりアルクェイドを傷付ける事になる―――
「―――――――」
　辛そうに視線を逸らすアルクェイド。
「司祭代行の言う通りです。下がりなさい吸血鬼。あなたのような怪物が人間と共にいるなんて、許されるとでも思っていたのですか」
「力に任せて人間を従わせる―――フン。
　吸血鬼らしい下卑た考えだけど、そうはさせないわ。
　わたしたちに感謝しなさい、志貴クン。あやうく吸血鬼にされるところだったんだから」
「――――――」
　いや。それは違う。俺が怯えたのは本当だ。弁明できない事実だ。けど、それだけは絶対にない。
　……一度もなかった。
　あいつはいつだって俺の選択を尊重していた。
　力任せなんて、一度もなかったんだ。
　俺がアルクェイドと一緒にいたのは、他の誰でもない、俺自身がそうしたかっただけの話だ……！
「違う……！　なんだよアンタら、いきなり出てきて、全部わかってるようなコトを言って……！　アルクェイドは血を吸った事なんて一度もない！　さっきのはただの冗談だ……！」
「……何を言っているんです？　一度も血を吸った事がない、ですって？　そんな戯言を信じろとでも？
　たしかにそこの真祖は優秀よ。ここ八百年ほど犠牲者を出した記録もない。けど、そんなのは―――」
「うるさい！　そんな話なんてどうでもいい……！
　いいか、アルクェイドの邪魔をするなら、アンタらが何であろうと許さない。
　だいたい俺が―――
俺本人が好きでアルクェイドと一緒にいるんだ！　外野にとやかくいわれる筋合いはない！」
「…………はあ？　許さない、ですって？」
　ノエルの声に、微かな感情がこもる。
　アルクェイドに向けていたモノの一部が、そのまま俺にシフトする。
　ノエルは、その手に持った剣をぶら下げたまま、ゆらりと、
「おい、ブタノエル」
「はあ？　ブタ？　ブタって言いました？　どこが？　どうして？
　っていうかアナタ口悪すぎ！　お偉いさんのボンボンだからってあんまり調子にのる
ぴぎせゃあにゃーーーーーあ！！！！？」
「……………、えっと」
　修道服の女は不思議な叫び声をあげ、ひとりでにぴょんぴょんと跳ね回っている。
　先ほどの殺意も、地平線の彼方に消え去った。
　……なんか、だんだんノエル先生の立ち位置が分かってきたぞ……。
「うちの脳筋がチャチャいれてマジすまん。チキンのクセに沸点低いんだコイツ。後でヤキいれとくから大目に見てやってくれ。
　……だがまあ、バカはバカなりにいい言葉を引き出した。
　一度も血を吸っていない、とは泣かせるじゃねえかトオノ。なあ、そうだろアルクェイド・ブリュンスタッド？」
「アルクェイド……？」
　アルクェイドは答えない。
　ただ俯いて、悔しげに唇を噛んでいる。
　……それは。
　それは、あの子供の言葉を、暗に認めているようで―――
「あと訂正な。このガキにかけた結界は捕まえるためじゃねえ。今ここにいる、おっかねぇモンスターから守るために仕方なく、ロハでかけてやったもんだ。
　この意味―――<口|・><に|・><し|・><な|・><く|・><て|・><も|・><分|・><か|・><る|・><よ|・><な|・>？」
「………………」
　アルクェイドの顔があがる。
　ごめんなさい、と。
　わずかに聞き取れる声で、彼女はそう謝って、
　夜の闇に逃げるように、この場から跳び去っていった。
「ふざ―――」
　声が漏れる。
　俺は月を見上げながら、眼鏡をズラして線を視る。
「けんな、チクショウ……！」
　地面に突き刺さった剣を二本、一撃で殺し切る。
　思考は完全に混乱している。
　止まらなかった牙。
　悲鳴をあげた自分。
　部外者たちの勝手な<戯言|たわごと>。
　それを否定せず、
「ごめんなさいって―――それじゃあ、まるで」
　あんな苦しそうな顔で逃げ出すとか、こいつらが正しいようじゃないか……！
「テメエも短絡思考だな。
　追いかける前に礼の一つも言っとくもんだぜ、クソガキ」
「……おまえ」
　マーリオゥ……と名乗った少年は、道を塞ぐでもなく、走り出そうとする俺を呼び止めた。
「礼なんて言うか。おまえさえ……おまえたちさえ来なければ、アルクェイドは何もなかったんだから……！」
「あ？　本気で言ってんのか？　それともヤケか？
　どっちにしろそこの噴水に頭つっこんでこい。白けきった嘘なんざつきやがって。それであの女が救えるのかよ、テメェ」
「――――――」
　……予想外の言葉に、混乱しきっていた意識が静止した。
　ただの偶然。今のは本当にただの偶然だ。でも的確で、厳しい指摘だった。自分すらだませない嘘はつくなと。
　それは相手を傷付け、何より自分を損なう行為だと、この少年は吐き捨てたのだ。
「……………」
　大きく息を吐いて、アルクェイドを追いかけたくてたまらない頭を、少しだけ冷静にする。
「そうだな、悔しいけどその通りだ
。
　……助かった。アルクェイドを助けてくれて、礼を言う」
　マーリオゥたちへの不審は棚に上げて頭を下げる。
「いいぜ、気が変わった。ちょっと話聞いてけトオノ。
　いや、違うな。オレが話を聞きたいのか。まあいい、どっちも同じだ。オラ、こっち来な」
　マーリオゥはトコトコとベンチに向かって歩いていく。
「――――――」
　深呼吸をして、その後に続く。
　……本音を言えば今すぐアルクェイドを追いかけたい。
　が、それだけでは何も解決しないのだと、心の底で気づいている。
　あの少年は間違いなく、これから俺が何をするべきなのかを知っている気がする。
「あの、代行？　わたしもですか？　っていうか、座って休んでいいですか？」
「死ね、ブタ。テメェ俺の後ろでＳＰだろうが。ベンチに座んのはオレだけだ。トオノはそこまで気を許しちゃいねえからな、どうせそこで立ちん坊だろ？」
「…………」
　完全に見抜かれている。
　ノエル同様、この少年も普通のカテゴリーには含まれないようだ。
「んじゃあまあ、こっちから確認だな。
　オレたちの事はどこまで聞いている？」
「……吸血鬼退治の専門家だろ。アルクェイドは聖堂教会の代行者だと言っていた」
「そうか。それだけ知ってりゃ充分だ。説明が省ける。
　オレは親父の代わりに派遣された新人でな。実のところ、この国の事情はまだ半分ってところだ。
　そこの三下はオレより早く調査していたがな。ただし独断。オレじゃなかったら師匠だけでなくテメェも更迭されてたからなブタ。感謝しろよ」
「はーい、感謝していまーす♡　お坊ちゃん大好きでーす！
　……チッ」
チッ」
　マーリオゥくん。いま舌打ちしたよ後ろの人。
「オレたちの仕事は吸血鬼掃除だ。ただし標的は真祖……アルクェイドじゃねえ。厄介な競争相手だが、アレと正面からやり合うほど蛮勇じゃねえからな。
　……で。姫さまが追っている吸血鬼が何者なのか、何か聞いてるか？」
　マーリオゥの声のトーンが、かすかに変化する。
　……ただの質問ではないようだが、今の俺には彼の真意は読み取れない。ここは正直に答えるしかない。
「……ロアって名前ぐらいは。
　城主タイプの吸血鬼で、もう何年も前からこの街に潜んでいるんだろ」
「………。それだけしか姫さまは口にしなかったワケか。
　こりゃあ二重の意味でハズレだな。トオノも知らないし、真祖も知らない。それであの迷走っぷりかよ。
　……ったく、真祖に何があったんだ？　精度が低いにも程がある。隕石でも落ちてきたか？」
「……いや。その。
　それはきっと、俺が―――」
　殺してしまったからだ、とは言えなかった。
「まあいい、もう一体大物が来てたって報告もあるしな。眉唾だったんで後回しにしてたが、調査対象にあげておくか。
　よし、確認はこれで済みだ。
　ここからは本題―――テメェを呼び止めた理由、テメェが殺したがってる“敵”の話をしてやるよ」
「ちょっ、司祭代行、それは！」
　うしろでノエル先生があたふたしている。明らかに話してはいけない系のネタらしい。
　……もっとも、俺からしたら喉から手が出る情報だ。
　アルクェイドの敵がどんな吸血鬼なのか、俺はまだ何も知らないんだから。
「……俺は助かるけど。いいのか、そんな話をして」
「よくはねえ。機密事項だ。
　だがまあ、トオノは当事者だし？　異教徒はともかく、無神論者は厚く遇するのが信条でね。いずれ大事な資金源になる」
「そ、その発言は教義にもとります！　警告、けいこーく！」
「黙ってろ、肝心な部分はモザイクいれるよ。
　んじゃあまあ、姫君の稀なる協力者にレクチャーといきますか」
「なあトオノ。“敵”は旧いタイプの吸血鬼だと言ったな。
　ってことは、ヤツらが不完全な不老不死だってコトも聞いているな？」
「……聞いている。死徒は人間の血を吸わなくちゃ体が保てない。けど、逆に人間の血を吸っている分にはずっと老いずに生きていられる……だろ？」
「そうだ。けどさぁ、それって結局“不老不死”とは言えねえよなぁ？　不老不死ってのは完全のイメージだろ？　人間程度の血がなくちゃ生きていけない、血を飲まないと体が崩れていく生き物なんざ完全には程遠い。むしろ人間以下だろう」
「―――それは」
　詭弁ではあるが、間違いではない。
　たしかに吸血鬼は人間以上だ。けれど血を吸わなければ生きていけないのなら、それは他の生き物と何が違おう。
「……うん、確かに。
　どんな外的要因であれ“死んで”しまうのなら、それは不老不死とは呼べないよな」
「なんだトオノ、話が早いな。となり座るか？　有能なヤツは好きだぞ、オレ？」
「……結構だよ。
　けど、それがどうしたんだよ。欠点はあれ、吸血鬼はかぎりなく……人間の血があるかぎり不老不死なのは変わらない。
　こんな不老不死の定義が、アルクェイドの敵についての話なのか？」
「ああ。ちょいと遠回りだがな。もうちっと我慢しろ。
　とにかく死徒と区別される吸血鬼の『不老不死』は不安定なものなんだよ。ヤツらの場合、単純に寿命が人間の数倍になった、という事だけだからな」
「……単純にって。あいつら、寿命だけじゃなくて力とかも人間離れしてるだろ」
「おう、そこだ。
　死徒の固有能力はヤツらが人間だった頃に手に入れたモノを、そのまま何百年と成長させた<異能|スキル>にすぎない。
　ヤツらは自身が学んだものを吸血鬼になっても学び続け、結果としてそれが原理になっただけだ」
「原理……？」
「その死徒の命題。生きる目的。死ねない呪い。
　<真|しん>の不老不死に至る唯一の<路|みち>。
　これを原理血戒―――イデアブラッドとヤツらは呼んでいる。ま、一生かけても終わらない夏休みの宿題とでも思っとけ」
「この原理のため、死徒たちはそれぞれまったく別の目的で活動する。学んでいた<真|も><理|の>が一人一人違うからな。
　で、だ。そんな死徒たちの中に、真剣に不老不死を学んでいやがるクソ野郎がいやがった」
「……？　不老不死になったのに、不老不死を研究していたっていう事か？」
「ああ。死徒たちは吸血鬼になった時点で、それがヒトの身での不老不死の頂点だと自覚する。
　だがな、ソイツはむしろ退化だと感じたらしい。
　こんな不完全なものはいらない、自分はもっと完全な不老不死を作り上げる、なんてな」
「だがカタチがある以上滅びは必然だ。時間の圧迫、細胞の摩耗、魂の型落ちはいかなる存在にも例外はない。
　生命は生まれでた時点で死を内包している。自分がここに存る以上、たとえ歳をとらない肉体を持ってしまっても、存在の死から逃れる事はできない。
　死から逃れる、という事は死ぬ、という事だ。
　この絶対の矛盾は、どうしても解決できない問題だ」
「……そうだな。死は誰にだってある。
　ないヤツがいるとしたら、それは―――」
　初めから“死”が存在しないヤツだろう。
　アルクェイドだって昼間には死があるんだ。本当に死なないヤツなんて、この世にいる筈がない。
「ああ。存在の死からは逃れられない。
　そこでな、ソイツは寿命を延ばす方法ではなく、<死|・><ん|・><だ|・><後|・><も|・>自己が存在し続ける方法に目を付けた。
　それこそが不老不死だと開眼しやがったのさ。うちの教義にはねえが輪廻転生ってヤツだな。
今の自分が死んでも、自分を保存できたままで新しい人間としてやり直す事ができれば、それは死を先駆けている。
　ま、もっとも消滅していない時点で“死”とは言えない。死の先を行く、というのは言い過ぎか」
「輪廻転生って―――つまり、今の体が終わったら、また胎児からやり直す……？」
「そうだ。ソイツは存命している間、『次の自分の肉体』をあらかじめ決めておき、その赤子が誕生した時点で“自分”の全情報を移植する。
　ソイツの情報はその赤子が成人、ないし自己としての知性を持つまで影を潜める。
　そして“自分”を引き継ぐに相応しい知性が育まれた段階で、その赤子は<吸|ソ><血|イ><鬼|ツ>になっちまうのさ」
「―――ちょっと待ってくれ。
　それってなにか？　まさか赤ちゃんが母親の中にいる時に手術をするのか？」
「いや、医学的な手段じゃない。ソイツは今の肉体が滅ぼされた瞬間に、あらかじめ決めておいた体に転生する。ようは複写だな。さっきは“全情報”と言ったが、ようするに電波みたいなもんだ。
　この場合、電波を発信するのも受信するのも人間の脳になる。ソイツの優れたところはな、魂なんていう計測不能にして、肉体という器がなければ霧散してしまうモノを、伝達可能なモノとして加工した事だろうよ」
「………………」
　……そんな事が本当に可能なのかどうかはさておくとして。
　その理屈なら、そいつは人間として生まれて、
　人間として育ち、ある日を境にして、まったく別人の“吸血鬼”になるという事だ。
　それは―――
「……マーリオゥ。つまり、そいつが」
「ああ、そういう事だ。
　オレたち聖堂教会と、真祖の姫様が追っている吸血鬼。
　かつての名をミハイル・ロア・バルダムヨォン。
　今はアカシャの蛇とも、転生無限者とも言われる死徒だ。
　蛇は無限や循環のシンボルだからな。脱皮して新しい体になるってのは、コイツにはぴったりの俗称だ」
「それが、アルクェイドの敵―――」
　……転生する吸血鬼。
　その響きには薄ら寒いものを感じるが、今までアルクェイドが口にしなかった敵の正体が、ようやく分かった。
「しかしここからが問題でね。
　姫様はもともと吸血鬼を殺すための装置だったんだが、ロアが現れてからはヤツだけを執拗に追いかけるようになっちまった。
　ロアが今まで転生した回数は十六回。
　そのことごとくを、真祖は消滅させている」
「……ことごとく消滅させてるって……でも、そいつは死んでもまた生まれてくるんだろ？　……なら、倒す意味はないんじゃないのか」
「そうだ。ロアは真祖に殺され、そのたびに転生し、また真祖に殺される。そんな繰り返しをもうずっと続けてきた。
　その年数、実に八百年。
　あの姫様に『相手の肉体』ではなく、その『意味』を消滅させられるような力があれば、あんなクソ野郎をのさばらせる事もなかったんだがな
」
　憎々しげにマーリオゥは言う。
　……気のせいだろうか、彼自身もロアとやらに思うところがあるようだ。
「……話はこれで終わりか？
　なら―――」
「待てよトオノ。
ここまでのはサービスだ。善い報せと悪い報せ、どっちから聞く？　ってヤツだ。
　もちろん、ここまでのはオマエにとって善いニュース。<勉|た><強|め>になっただろ？」
「……ああ。ロアってやつの情報は感謝してる、けど……」
　……漠然と。
　ここから先の話は、聞いてはいけない気がしている。
「あとちょっとだ、観念して聞いていけ。
　ロアの厄介なところは、その発見が極めて困難な事だ。
　なにしろ<歴|れっき>とした人間の子供として生まれ、人間の両親がいるんだからな」
「ロアが吸血鬼として肉体と意識を変貌させるのは、ロアが満足に活動できる歳になってからだ。
　そのため、その<人|・><間|・>は吸血鬼としての片鱗をまったく見せない。そのくせロアとして目覚めれば、今まで培った人間関係を利用して完全に社会に融けこみやがる。
　教会が異変に気がついた時は既に手遅れ、一つの街がそのまま死都になった後なんだとさ」
「――――――――」
　……適切な相づちが打てない。
　その話は、ひどく―――聞いているのが、恐い、気がする。
「どうしたトオノ。顔、青いぞ？」
「……いや。おかしいだろ、それ。よく分からないけど、その話はおかしい。
　生まれた時は人間なんだろ？　なら、いくら前世の人格とやらが目覚めても、体は人間のままなんじゃないか……？」
「残念ながらノー。転生するのは人格ではなく魂だからな。
　一度真祖に血を吸われた人間は、その肉体のみならず魂まで汚染される。
　ロアは魂という情報すべてを“次の自分”に引き継がせる。
　たとえ人間であろうと、ロアが目覚めた時点で肉体も吸血鬼に変貌する。だが―――」
「だが、なんだよ」
「トオノの言う通り、それではちょいとばかり弱い。
　転生先の肉体が平凡なものなら、その代のロアは“無能な”吸血鬼になっちまうからな。
　だからロアは生きているうちに
転生先を決定しておく。
　転生先に選ばれる条件は二つ。
　一つは富豪であること。社会的地位も高く、財産も豊かな家の子供として生まれれば、街すべてを吸血鬼化させるのに便利だからな」
「そしてもう一つ。これが肝なんだが、人間の中にも特別な力を持つ輩がいる。
　魔術のような学んで修得する神秘ではなく、生まれついてその肉体が持ってしまう特異能力。
　一般に超能力者、鬼子と差別されるもの。
　特異能力ってのは肉体的なものだからな、家系―――血筋で遺伝する。ロアは自分の新しい肉体にそういった『人間ではないもの』の家系を選ぶって話だ」
「富と名声があり、その裏で人間以上の力を持つ家系。
　それが転生先に選ばれる条件ってワケなんだが―――
　理解してくれたか、<遠|・><野|・>志貴くん？」
「――――――」
　目眩がする。
　ニヤついたマーリオゥの口元。
　冷めきったノエルの視線。
　この街でその条件に見合う家系は、一つしかないという事実。
「は」
　乾いた音が聞こえる。
「はは、は」
　乾いた音は、俺があげているものだった。
「……なに言ってるんだ、おまえ。
　俺か秋葉、どちらかが吸血鬼だって言うのか？」
「いえ、今回の転生先は男子です。それは証言が取れています。今代のロアは、遠野家の長男に間違いはありません」
　―――わからない。
　この女の言っている事は、なに一つわからない。
　俺がアルクェイドの敵だって……？
　そんな筈、あるワケがない。ならどうしてアルクェイドは、今まで俺を殺さなかったんだ―――
「そりゃあロアの意識が出るまで、ソイツは人間だからだよ。
　だがまあ―――どうにも風向きが違うな。
　そこの三下の報告は間違いだ。オマエはロアの転生先じゃあない。アカシャの蛇は別の人間だ」
「―――はい？」
　……いや、ちょっと待ってほしい。
　ここまで入念に話しておいて、俺じゃない……？
「はあ!?　ちょっ、わたしたちの報告書、ちゃんと読んでるのかこのジャリガキ!?　調査に何日かけたと思ってるのよ！
　もう100パーセント間違いなく、遠野志貴がロアなのに！」
「100パーセントだあ？　なら前提が間違えてんだよ、このお布施泥棒が。オレは悪名高き“人間使い”、ラウレンティス枢機卿の秘蔵っ子だぞ？　人を見る目だけはテメェにも、テメェの師匠にも負けてねえ」
「なんのために事情聴取したと思ってんだ。10分も話せば人となりも、その心理も読み取れる。
　こいつは……まあ、まっとうにいかれてるが、同じくらいまっとうな人間だ。
　吸血鬼の魂がプリントされた人間に、こんな情けねぇ反応はできねえよ」
「――――――」
　……この長話は俺がロアであるかどうかを測るためのものだった……？
　いや、疑いが解けて助かるけど―――ますますこの少年の人となりが分からない。
「……つまり……どういう……？」
「オレたちにテメェをどうにかする権利はねえってコトだ。
　けどまあ、まったくの無駄話でもない。ロアはおまえの関係者であるコトは動かねえしな」
　少年はやれやれと肩をすくめてベンチから立ち上がる。
　もう俺にも、俺のこの後の運命にも興味がない、という態度だった。
「あ？　どうした、さっさと行け。人の恋路の邪魔をして悪かったな。あの吸血鬼を追うんだろう？　今の真祖は血に飢えた破壊衝動の塊だが、理性ぐらいは残っている。自殺なんざお勧めできねえが、まあ、止めるのもヤボだしな」
「か、重ねて本気ですか司祭代行!?　みすみす吸血鬼の餌食を増やすなんて……！　仮に彼がロアではないのなら、それこそ保護すべきでしょう！
　貴方も貴方よ!?　さっき噛まれかけたクセに、まだあの怪物の本性が分からないの!?」
　ノエルは敵意を剥き出しにして立ちふさがった。
　……彼女にも吸血鬼を敵視する理由があるのだろう。
　だが、それは俺には与り知らぬ事だ。
　彼女に譲れない信念があるように、俺にも、今すぐに追いつきたいヤツがいる。
「そっちこそいいかげんにしてくれ。
　……さっきのは、ただの冗談だったんだ。あいつは血を吸わない、いい吸血鬼なんだから」
「人を殺していないから善人、ですって……？
　笑わせないで。吸血鬼は人間にとって何であれ悪なのよ。
　いえ、人間でありたいと思うなら、あの枠組み自体を悪と区別しなくちゃいけない。
　―――それができない人間に、人としての権利はないわ」
「人でないのなら、わたしの排除対象です。
　よく考えて答えなさい。
　あなたは、これから何処に向かうの？」
　……生か死かの選択を迫る声。
　ここでアルクェイドを追うと告げれば、この女は本気で俺の首を断ちにくるだろう。
　俺は―――
「やめとけノエル、無駄な体力使うな。
　だいたいオマエの技量じゃそのガキは殺せねえぞ。返り討ちにあうのがオチだ」
「はぁ!?　なんで!?」
「なんでって、そろそろ<調律|ピアノ>の影響が出る頃だからだよ。
　オマエね、あの姫様と打ち合ったんだぞ？　一ヶ月は手足に力が入らねえから、まだ動けるうちに教会に帰っとけ
」
「な―――あ、
いた、いたたたたた！　ちょっ、なによこれ、体中がビリビリするんですけどー！？」
　修道服のノエル女史は、またもやひとりでに道を譲った。
　今回はばたばたと地面でもんどり打っている。
「後はそっちの問題だ。ノエルの発言は気にするコトはねぇが
―――
まあ、帰れるうちに帰っておくのが人間らしい知恵ってヤツだ。……何もかも無かったコトにできるのは、これが最後のチャンスかもな？」
「……………」
　……答えず、公園を後にする。
　もう余計な無駄足は踏めない。
　俺はアルクェイドを追うため、夜の街へ走り出した。
　夜の街を闇雲に走る。
　アルクェイドの姿は見当たらない。
　街は広すぎて、何の手がかりもなしで人間ひとりを捜し当てるのには時間が足りない。
　……的を<絞|しぼ>ろう。あれだけ目立つヤツだ、同じ区域にいれば遠目でも見つけられる。
　アルクェイドの行き先を予想し、ヤマをかける。
　あいつがいるとしたら、それは―――
　―――アルクェイドのマンションに行こう。
　今夜は死者を狩り出すことを諦めて、自分の部屋に戻っているかもしれない。
　……呼び鈴を押す。
　どれほど待っても呼び出しに応答はない。
　扉越しに、動く気配を感じない。
　帰って来ていないのか、
　それとも出てこないだけなのか。
「――――――ふう」
　わずかな逡巡。
　焦る気持ちを深呼吸で落ち着かせて、ナイフを取り出す。
　『線』を切って鍵を殺す。
　アルクェイドには後で謝る。
　その前に、一応ノブに手をかけてみた。
「……？」
　ドアに鍵はかかっていなかった。
　がちゃり、と音をたてて簡単に開いてしまった。
「……アルクェイド、いるのか？」
　返事はない。
　ベッドに乱れもない。
　あいつは昨日の夜から公園で俺を待ち続けて、朝を迎えた後、俺の部屋にやってきた。
　だからたぶん、丸一日、ここに帰ってきていない。
「っ……！」
　ガン、と壁を殴りつけて、すぐさま部屋を飛び出した。
　自分の間抜けさに失望している暇はない。
　壁に八つ当たりをする時間があるのなら、街に出てあいつを捜さないと。
　駅前に出る。
　人の多さと人工の明るさに目を細める。
　……憶測と足でひとりの女を見つけ出す。
　絶望的だが、俺にはわずかな可能性がある。
　文字通り、この細い線を辿ってアイツを見つける。
　―――繁華街だ。
　確証はないが、街の暗がりをあいつは選んだ気がする。
　……アルクェイドはあんなに苦しそうだった。
　だから誰にも会うことのない、誰もやってはこない場所に跳び去ったんじゃないだろうか。
　部屋とは思えない。本当に逃げたくなった時、“自分の場所”に戻るのは何もかもが終わった後だと思う。
「…………」
　けれど、それだけじゃ足りない。
　この憶測に、せめてもの精度を付け加えるとしたら、俺にはこんな手段しかない。
　……眼鏡を外す。
　自分から“死”に溺れる。
　街並みに、人混みに、あらゆる個体に“線”が脈打つ。
　その不気味さに吐きそうになる喉を抑える。
「……これが、何の足しになるかは、分からないけど」
　アルクェイドは死の少ない生き物だ。
　この死に溢れた世界において、あいつだけは極端に線が少ない。
　なら―――こうして街を一望した時、線のない箇所を探せばあいつの姿を見落とさずに追える。
　短絡的だが、これが今の俺に出来る唯一の手段だ。
「うっ――――」
　裂くような痛みが走る。
　……個々を意識せず全体像を捉えるように“線”を視る。
　あいつに言わせれば、この痛みは脳にかかる負担らしい。
　あまり長く裸眼ではいられない。
「っ……やっぱり大通りにはいないな」
　繁華街を歩いていく人々は、みな普通の“線”だった。
　以前に見た、全身がラクガキで塗り潰れた人影はどこにも見当たらない。
「ぐっ……う、っ……！」
　こめかみを指で押さえる。
　眼鏡を外しているかぎり頭痛は強まっていく一方だ。
　それでも―――万が一、この大通りにあいつがいる場合を考えて、裸眼で走る。
　……大丈夫、ここからは少し楽になる。
　人が途絶える路地裏に入ってしまえば、線の数は大幅に減ってくれる。
　だから早く、この街の暗部に行こう。
　月の明かりも届かない暗がりの中なら、あいつの白い姿は、それこそ簡単に見つかる筈だ―――
「はあ―――はあ、はあ――――」
　走り疲れと、頭の痛みで吐き気がする。
　額に手をやると異常な熱を帯びていた。
　手のひらでも判る高温。ひどい風邪に罹って、四十度近い熱をだした時でもここまでは熱くなかった。
「……でも、ここで――――」
　巡回は、このあたりで最後になる。
　この先はあいつと初めて話した路地裏だ。
　ここにいなければ、俺は選択を間違えた事になる。
「……………、え？」
　その場所に踏み入った時、感じたのは冷気だった。
　四十度近い頭の熱を冷やすほどの寒気。
　―――おかしなものが視える。
　あの暗い闇の向こうで、バチバチと火花が散っている。
　いや、正確には。
　多くの“死”が混線しながら弾け合い、消えている。
「――――まさか、あいつ」
　混線する“死の線”は死者のものだ。
　それが消えていくという事は……
「あんな体で、ひとりで戦ってるのか……!?」
　疲れも頭痛も、愚かにも、先ほどの寒気も忘れて進む。
　錆びた鉄の扉を押し開けて、暗い通路に身を滑らせる。
　路地裏の入り口。
　ビルとビルの間にある細い道。
　弾け散る死の数は濁流のようだ。
　数にして百を下らない断線。
　異常だ。この奥の構造は知っている。百体もの死者が入るスペースは存在しない。
　だから、この奥で繰り広げられている光景は。
　ひとつの<死|からだ>を、何十もの<死片|パーツ>にバラしているものだろう。
「――――――」
　知らない。その意味は考えない。
　耐えられないのは。
　通路を進む度に、ギ、ギ、と音をたてる背骨の軋みだった。
「は―――――あ」
　<鋸|のこぎり>のような本能が、延髄を撫でている。
　止まれ。行くな。戻れ。
　この先は、おまえが夢見ているようなモノではない、と。
「うる―――さい」
　そんな事は判りきっている。
　ひき返せない。
　アルクェイドを放っておけない。
　もし―――ここで自分が逃げ帰ったら、あいつは勝手に死んでしまう。
　そんな予感がどうしても消えてくれず、俺は自分から、死が充満する死角に足を踏み入れ―――
「――――――」
　そこには。
　死者の<肉|かげ>など、どこにも存在しなかった。
　意識が凍りつく。
　視界が侵される。
　地面を満たす赤い廃液。
　顔がなく、腕も潰され、はらわたを引き裂かれ、必要以上に蹂躙された死者の痕跡。
　むせかえる血の匂いと、吹き荒ぶ死の冷気に、声を失う。
　壁も、床も、ともすれば頭上の月さえも。
　ここでは、ただ、赤かった。
　ずしゃ、という鈍い音。
　最後の一体だったのか、全身をラクガキに塗り潰されたヒト型は、彼女の手によって絶命した。
　片手で。無造作に。慈悲もなく。蟻のように。
　死者の頭部は見えざる手に掴まれ、空中で圧し潰され、血と脳漿はペイントのように壁にぶちまかれた。
「アル―――クェイド」
　月明かりすら赤い世界。
　その中心にアルクェイドがいた。
　彼女はこちらに気がついていない。
　ただ月を見上げて―――恍惚と、荒い呼吸を繰り返している。
「―――――」
　声が、かけられない。
　背骨の軋みは頂点に達している。
　<鋸|のこぎり>はもう、骨を切断してしまったみたいだ。
　――――ギ、ギッ。
　意識が悲鳴をあげている。
　ココにいてはまずいと。
　自分はまだ死にたくない、と叫んでいる。
　何もかも遅かった。
　白色でも赤色でもない俺は、この空間において異物だった。
　白い女が振り返る。
　単眼の鬼のように、ぎょろりと眼球がこちらを見る。
　―――なんて<目映|まばゆ>い、金の瞳。
　目が合った訳ではない。
　ただその『眼』を見てしまっただけ。
　それだけで、
　体中の血が昂ぶって、<表層|こ>の<理|オ><性|レ>は消失した。
　初めに感じたものは、純粋な生存本能。
　ここにいてはいけない。アレを見てはいけない。
　知らしめてはいけない。見られてもいけない。
　話シ合エナイ。共存デキナイ。到達デキナイ。
　タタカエナイ。ニゲラレナイ。カナイッコナイ。
　要ハ。何ヲシテモ、モウ
オマエ
ハ
タスカラナイ。
　そうだ。あの生き物は<数値|レベル>が違う。
　レベルが高い低いというのではなく、レベルの基準そのものが自分たちとは違いすぎる。
　違いすぎる。違いすぎる。違いすぎる。だからこそ―――
　全ての血管が膨張する。
　初めは恐怖。
　その次に来たものは、歓喜に似た殺意だった。
　晴天に走る稲妻。人類史上かつてない明確な解答。
　覚者に匹敵する悟りの到来に細胞が歓喜する。
　なぜなら、アレはいてはいけないものだ。
　我々には不要なものだ。
　だから殺せ。はやく殺せ。ここで殺せ。すぐに殺せ。
　この血の脈動にかけて、アレをこの場で排斥しろ。
　心臓が跳ね上がる。
　勝てないと判っているのに殺せと全身が鳴動する。
　なんて矛盾。
　死にたくないなら殺せというのか。
　殺されるのに殺せというのか。
　殺すことしか、この頭には詰まってないのか。
「――――、ア」
　だめだ。<自我|じぶん>がここにはいない。
　あの目。あの金色の目を見てはいけない。
　出来る筈がない。あの女の目からは逃れられない。
　どくん、どくん、と血液が沸騰する。
　抗いがたい血の躍動。
　だが、それ以上に理性の殻を破ろうとするものがある。
「ア――――あ、ア―――」
　殺したいのは何のためだ？
　死にたくないから、殺される前に殺すのか？
　笑い死ぬ。まったくもって阿呆の極み。
　殺意に理由は必要ない。
　いいかげん素直になれよ、遠野志貴。
　とっくの昔に、おまえは、あの女を。
「だま―――れ」
　いや、黙るのはこの<理性|おまえ>の方だ。
　確かにその通り。
　俺はただ、あいつが、アルクェイドが欲しいだけだ。
　初めて見た時から、そんな事は反吐を吐くほど判っていた。
「ア―――――あ」
　そう、全てが欲しい。
　心も体も、
　涙も唾液も、
　血も肉も欲望も焦燥も。
　呼吸が狂しい。意識が保てない。
　<昏|くら>くゆらぐ金の瞳。
　それは、
殺しても殺したりないほどの。
「―――志貴……？」
　女の眼が赤に戻る。
　けれど、いまさら。
　そんな事は、遅すぎた。
「っ……！」
　押し殺した悲鳴が聞こえた。
　構わない。ナイフを手にして女の体を押し倒す。
　女の体には力がない。押さえつけるのはたやすい。
　馬乗りになって、片腕を女の首に、ナイフを持ったもう片腕を高々と振りかざす。
　あとは。
　その胸の谷間に、この一撃を落とすだけ。
「落ち着いて志貴……！
　その眼は、もう使っちゃダメ……っ！」
　女の声が聞こえる。
　―――あたまの芯が、ぐつぐつと煮えたぎってる。
“だまれ……！”
　首をしめる腕に力が入る。
　女は苦しげにアゴをあげる。
　……信じられない。
　あんなにも強靭な命が、今はこの腕一本さえ振り解けない。
「志―――貴」
　苦しげな呼吸のまま、女はそう喘いだ。
　どくん、と。
　心臓が、血の高ぶりで脈動する。
“はあ―――はあ――――はあ――――！”
　呼吸が乱れる。
　まともに視界が働かない。
　体が溶岩になったようだ。
　熱くて熱くて、今すぐに解放されたい。
“はあ―――はあ――――はあ―――――”
　体をずらす。
　女のハラに乗っていた腰をスライドさせる。
　アルクェイドの両脚を開かせて、その間に体を沈める。
「志……貴……！」
　不安そうに見つめてくる。
　その視線が、脳の<滾|たぎ>りを助長させる。
“はあ――――はあ――――はあ――――”
　充血する。失神しそうだ。
　全身の細胞が、おまえはこの時の為に生まれてきたのだと歓喜している。
　オレは、今すぐこの女を■さなければ、間違いなく気が狂う。
　朱のかかった頬。
　柔らかな首筋。
　オレの下になった、これ以上はない、女の躯。
“はあ―――はあ―――はあ―――”
　躍動が伝わってくる。
“はあ―――はあ―――はあ―――”
　金色の。魂さえも吸いこまれそうだった、瞳。
　首から腕が離れる。
　そのまま女の胸に触れた。
　体に触れた。脚に触れた。
　白い腹に指を這わせて、肉の体温を感じ取った。
「違う―――」
「違うよ―――こんなの、志貴じゃない………！」
　熱を帯びた声。
　懇願する赤い瞳。
　それで、オレの思考は、完全にタガが外れた。
「ん………！」
　羞恥を押し殺すような声が聞こえた。
　女は必死に両手で突き放そうとする。
　その腕を両方とも掴む。
　動けないように地面に押さえつける。
　釘でもあれば良かったか。
　両手を押さえつけられた女の姿は、<磔|はりつけ>の贄のようだ。
　その眼は憎々しげに／明らかに悔やむように、のしかかった男をにらみ返す。
　その姿がよけいに艶めかしい。
　こっちも両腕は使えない。放せば女は間違いなくこの首を削ぐだろう。
　緊張に笑みがこぼれる。
　犯すより殺しあう拮抗こそ、ケダモノには相応しい。
「―――やめ、て―――やめないと、後かい、する―――」
　片腕が女の白い、白い白い白い美しい喉を掴む。
　唯一自由になる口が、女の胸に歯を立てる。
「……んっ、志貴、落ちつい、て―――！」
　体を痙攣させながら、まだそんな抵抗をしている。
　――――ハ、ア、と。
　乱れきった男の吐息が、女の腹をなぞっていく。
「あ――――ん…………！」
　よほど敏感なのか、それだけで女は身をよじらせた。
　服をずらしながら白い肌に舌を這わせる。
　ふと空腹である事を思いだした。
　そうだ。いつも胃は空っぽだった。いつも空腹だったのだ。
　今まで得られなかった食欲に<涎|よだれ>を垂らす。
「志……貴、だめ……！」
　女の腕に力が入るが、今は食欲の方が強い。
　そうだ。なにをためらう事がある。
　これはさっきの食事と同じだ。
　あの時は食われる側だった。今は食う側に回っている。
　生命として違いはあろうが、生物的にやるコトは同じだった。
　公園での吸血も、この愚かな衝動も、昼間のハンバーガーも何一つ変わらない。
　必要だから食べる。楽しいから食べる。
　欲しいから食べる。―――愛しいから、<貪|むさぼ>りあう。
　それだけだ。動物なんてそれだけでいい。
　抵抗は必然だ。
　ぶるん、と二つの胸が上下する。
　カタチのいい、確かな女の証がそこにある。
　そのまま、片方の胸に歯を立てた。
「んあ――――！」
　女の声があがる。
　びくりと体が弓反りになって跳ねる。
　かまわない。
　食いちぎる寸前まで歯をたてて、味わうように舌を這わせる。
「志……貴………、やめ………！」
　女の体温が上がっていく。
　あの冷たさはもう見る影もない。
「―――――――！」
　それが恥ずかしいのか、女は必死に声を殺している。
「志貴――――こんなコトして、後で―――」
　憐れむような声。
　意識が眩む。
　理性も思考も捨て去ったクセに、まだ、オレというものが輪郭を失っていく。
「……はっ……やめ、て………ぜったい……、こんなの、許さない……か、ら……！」
　悲しむような声。
　知らない。そんな事は聞こえない。
　ナイフが上がる。眼球に朱色が滲む。
　―――オレは、己に殺意を覚えるほどに。
　自分の体が、止められない。
「やめ……志貴、おねが、い―――」
　悔やむような声。
　潤んだ瞳で、女は涙しながら、
「ちがうよ……しき……は、わたしのコト、すき、じゃ、ない……のに……！」
「―――――」
　頭痛が走る。
　走り続けろ、と本能が叫んでいる。
　ここで止まれば命はない。
　ここでこの女を組み伏せておかなければ、後々になって必ず寝首をかかれると心臓が猛っている。
「――――――」
　でも、泣いている。
　あの、どうしようもないほどまっすぐな笑顔をするやつが泣いている。
　信じられない。許せない。
　俺だったら―――おまえを、決して、泣かせたりしないのに。
　頭痛が走る。
　走れと叫ぶ。
　相反する衝動で意識が<暈|ぼや>ける。
　何がしたいのか、最後に己に問う。
　俺は、アルクェイドが―――――
　―――夕方の一件が気になって、学校にやってきた。
　思い返してみると、学校でのアルクェイドの様子はおかしかった。
　今日だけの話で言えば、この校舎もアリのように思える。
　夜の学校は人気がない。ひとりになるにはもってこいの場所かもしれない。
　あたりには人の気配はおろか物音一つさえしない。
　明かりもついておらず、校舎は墓地のように沈黙している。
「………いや、
なにか………」
　なのに、校舎の中に<何|・><か|・><い|・><る|・>のが分かる。
　風の運んでくる匂いが手触りとなって、ぞくりと、首筋を滑り落ちていく。
「……入るぞ、志貴」
　ためらっていても時間の無駄だ。
　夕方、『線』を切って開けた窓から、校舎の中に入りこんだ。
　――――一階に、人影はない。
　――――
ズキリ、と首の後ろが痺れる。
　――――二階に上がる。
　人影はない。
　人影はない。
　人影は、ない。
　だが。
　背中に、ぬめりと。
　蛇の腹のような、冷たいくせに柔らかい、感触がのしかかってきた。
「―――――誰だ！」
　振りかえる。
　そこには、たしかに、
「え――――？」
　トス、という音。
　次の、瞬間。
　俺の胸が、切開した。
　血が流れる。胸の古傷が開く。
　突然、背後から胸をナイフで貫かれた。
　杭で、吸血鬼の胸を打ち<貫|ぬ>くように。
「あ―――――」
　ずるり、と体が落ちる。
　――――ワケが分からない。
　意識が薄れる。
　その最後の瞬間。
　いつかの、遠い夏の日の映像が、繰り返された。
　ただ、欲しいだけのケダモノだ。
　このうつくしい生き物を、
　このおぞましい生体を、
　このくるおしい感情を、
　あの時のように、
　この体に蓄積された全てを以て、
　蹂躙したいだけの人でなし。
　女を気遣う俺の出番はない。
『―――ああ』
　覚醒する血の<瘧|おこ>り。
　理性を阻害する<頭蓋瘤|ずがいりゅう>。
『―――ああ』
　人の形であれば人の理が適用される。
　折れる。曲がる。割れる。解ける。
　取れる。剥ける。分ける。裂ける。
　果てがない。切りがない。終わらない。
　本当に、殺しても殺したりないほどの、
『―――あああ』
　やっと思い出しました。
　もともとはこういう生き物です。
　段取りが<吉|よ>くなかっただけなのです。
　自動的に、あるいは生態的に、<反転|くりかえ>して<反応|くりかえ>して、
『―――あああああ[ber00][ber00][ber00][ber00]―――！』
　七つ夜が明けるまで、人である事を忘れましょう。
「――――――、
はあ」
　血の海から体を
起こす。
　それほど遠大な生命だったのだろう。
　生き物を一匹解体しただけなのに、路地裏は血と内臓でいっぱいだった。
　単調すぎて目に痛い。ヌチャヌチャと歩き<辛|づら>い。<生臭|なまぐさ>い。血の<匂|にお>い。
「――――――」
　頭痛は途絶えた。
　己の信憑性も棒に振った。
　帰ろう、と踵を返すも、帰る場所をとっくの昔に<喪|うしな>っていた。
「―――ああ、おまえか」
　そういえば、この路地裏で遭遇したんだっけ。
　奇縁というか一途というか。
　人生というヤツは、よく出来ている。
　野生の牙がこの喉に狙いを定めている。
　背後からはぐじゅぐじゅと肉片が蠢く音がする。
　前門の虎、後門のなんとやらだ。
　もっとも、後ろで蘇生しつつある魔は、人の手で倒しきれるものではないが。
「―――まったく。下手だね、どうも」
　みっともない、と肩をすくめて喉を差し出す。
　ガキン、とものすごい音がした。
　骨伝導というやつだ。肉ごとかみ砕かれた<頸|ほ><椎|ね>の音が、狭い頭蓋に炸裂する。
「――――――」
　最期に何か遺そうとしたが首が無くては声も出せない。
　何が恋しかったのか、
　何が愛しかったのか、
　何が恐ろしかったのか。
　人でなしにはどうでもいい問題だ。
　もともと何もかも忘れている愚か者だ。
　ほぼ即死なので、この直ぐ後にくるであろう、この世でもっともむごたらしい殺され方を味わう事もない。
　思い残す事は何もない。
　でもまあ、わざわざ始末しに来てくれた黒豹ちゃんに、礼ぐらい言いたかったぜ。
　―――できない。
　アルクェイドを泣かせるような真似は、二度とできない。
　俺は一度、この頭痛にうなされて彼女を殺してしまった。
　だから、もう二度と。
　たとえこの脳が焼き切れようと、アルクェイドを穢す事だけは、決して―――
「は――――あ」
　アルクェイドから離れた。
　頭痛も消えて、心臓も普通に戻っている。
　さっきまでの凶暴な情動は消えて、俺はようやく、自分が何をしていたのかを認識した。
「―――なんて―――こと、を」
　自分でも信じられない。
　けれど、はっきりと記憶に残っている。
　アルクェイドを押し倒したこと。
　その首を絞めてナイフで刺そうとしたこと。
　……そして、獣のように、その肌を求めたことを。
「―――――」
　言葉がない。
　アルクェイドは服を正して立ちあがっている。
　俺は―――なんて謝罪すればいいんだろう。
　すまなかった、なんて、そんな言葉で許される事じゃない。
「―――アルクェイド、俺は――――」
「気にしないで。……謝らなくちゃいけないのは、わたしの方なんだから」
　違う。悪いのは俺の方だ。
　何が慢性的な貧血だ。何が目覚める事のない目眩だ。
　そんなもの、本当にどうでもいい。
　俺が―――もっとしっかりしていれば、こんなコトには、ならなかった。
「志貴はわたしの魔眼を見てしまった。抑える事なんてできる筈がない。
　吸血鬼の眼は魅了の魔眼だと言ったでしょう。見た人間の気持ちに関係なく、自分の<虜|とりこ>にする呪い。だから気にしないで。志貴がわたしに性的欲求を感じたのもその一環。
　……直死の魔眼があっても、貴方は所詮人間だから」
　呪いだから、と冷たく言い放つアルクェイド。
　……でも、それは違う。
　確かにおかしくなったのは金の瞳を見たからだ。
　けど、それは切っ掛けにすぎない。
　俺はあの時、本当に、心の底から―――
「……身勝手な勘違いはしないで。
　わたし、さっきは正気じゃなかったの。どうしようもなく渇いてて、自分じゃ解決できなかった。だから死者たちを見つけて発散した。あなたはそれに巻きこまれただけ。あなたの心とは関係なく、あなたの体を操ってしまった」
「公園での、ことだって―――あと少しで、わたしは志貴を、台無しにするところ、だった」
　……アルクェイドの声が苦しげに途切れる。
　唇を噛みしめて、アルクェイドは言葉なく、全身で俺に謝罪していた。
　……そんなふうに謝られると、胸が痛い。
　俺には操られていた感覚はなかった。
　むしろ―――それをよしとして、自分から欲望に従ったようなものだったのに。
「アルクェイド、俺は――――」
「謝らないで。……志貴、これは事故よ。
　わたしも忘れるから、あなたも忘れて。そうした方が、お互いの為になるわ」
　アルクェイドはそう言うと、静かに歩き出した。
「アル―――」
　名前を呼ぶ事が、ためらわれる。
　呼び止めようと伸ばす手が、動かない。
「……怖い思いをさせて、ごめんなさい。
　さよなら志貴。わたしたち、もう会わない方がいいよね」
　そうして、アルクェイドは路地裏から消え去った。
　最後に、あんなむりやりな笑顔をして。
　今までと同じように、ターン、と、月に跳ねる兎のように。
「―――、なんで」
　追いかけたくても追いつけない。
　そもそも引き止める事なんて、今の自分にはできない。
「―――なんで、おまえが謝るんだよ」
　自分への怒り、自責の念が胸をえぐる。
　惨劇の舞台となった路地裏で、懺悔するように<白|つ><貌|き>を見上げていた。
　　　　　　 　　　『機能不全』
　　　　　 　　　『磨耗積載重量過多』
　　　　　　　　『壊れた器は直らない』
　　　　　　　　『壊れた食器は役立たず』
　　　　　　　『見苦しいだけなので、
　　　　　　　　棚の奥に仕舞いましょう』
　月を見る夢を見ていた。
　何処で、如何して月を見上げているかは思い出せない。
　ただ他に何も見たくなくて夜空を見上げた時、月があっただけなのかもしれない。
　ぎちり、と背骨が軋む。
　血管を駆け巡る真冬の気温。
　一人きりの暗闇は、眩暈がする。
　眩く、心を病みつかせるような、月。
　……不思議
と。
　息苦しいはずの寒さは、それ以上に懐かしい空気を持っているような気がした。
「―――志貴さま」
　……朝の光に交じって、翡翠の呼び声が聞こえてくる。
「―――志貴さま、お目覚めの時間です」
　抑揚のない翡翠の声に、意識がはっきりと覚めていく。
「――――――」
　目を覚ましたとたん、厭なモノが視界に入ってきた。
　ずきり、とこめかみには銃創のような頭痛。
「あ――――」
　起きたばかりの意識が、がらり、と足場を失っていく。
　そのまま眩暈を起こしてしまう前に、急いで枕元の眼鏡を手に取った。
「志貴さま……？　ご気分が優れないのですか？」
「……いや、昨日の疲れがまだ残ってるだけ。すぐによくなるから、心配は無用だよ」
　軽く頭をふって、さっきまで視えていたものを記憶から振り払う。
　昨夜、無理をしてアルクェイドとの約束を守った代償だ。体の感覚はまだ鈍かった。
「おはよう翡翠。
　今朝も起こしにきてくれてありがとう」
　ベッドから上半身を起こしながら、できるだけ自然に笑顔を向ける。
「いえ、これがわたしの仕事ですから。志貴さまに感謝される程の事ではありません」
「そうかな、俺はすごくありがたいけど。目覚まし時計の音なんかより、何倍もあったかい感じがする」
　今朝もそのおかげで目が覚めた。
　ベッドから立ちあがる。
　時刻は朝の７時前―――いつもより10分ほど早い。
「朝食だろ。すぐに行くから先に行ってていいよ」
「はい。それでは食堂でお待ちしております」
　翡翠はいつも通り一礼して、静かに退室……
あれ？
「………………あの、志貴さま」
「ん？　他に何か伝言とか？」
「…………いえ。何でもありません。
　どうか今日一日、健やかにお過ごしください」
　翡翠は退室していった。
　―――さて。
　本調子でないとはいえ、学校に行けないほどじゃない。
　琥珀さんの作ってくれる朝食を食べれば体力も戻るだろう。
　居間にはソファーに座った秋葉と、壁際に控えている翡翠の姿があった。
「おはようございます兄さん。
　昨夜はゆっくり休まれましたか？」
「あ、ああ。おはよう、秋葉」
　俺が居間に入るなり、秋葉はいつもより明るい……というか、弾んだ声で挨拶をしてきた。
　機嫌がいいのは精神衛生的にもいい事なので喜ばしいが、それより、
「どうしたんだよ。制服に着替えなくていいのか？」
「ええ、本日は自主休校とさせていただきました。屋敷の方でやる事ができましたので。
　兄さんはいつも通り学校ですか？　どうぞ、気ままな学生気分を堪能してきてください」
「？」
　上機嫌なのは見て取れたが、それにしても妙なテンションだな、秋葉のヤツ……。
「それにしても、今朝は顔色がいいんですね。
　やっぱり、昨夜ゆっくり休んでくれたから、ですか？」
「ま、まあな。今朝は起きるのも早かったし……」
「ふふ。それならもう心配する必要はないですね。
　兄さんが言う事を聞いてくれる人で良かった」
　信頼が痛い
。
　結果として昨日はアルクェイドとの約束を守って、無理をする事なく部屋に戻って来られたものの、秋葉に嘘を言っている事に変わりはない。
　これ以上ここにいるとボロが出てしまいそうなので、早々に退散しよう。
「その、食堂で朝食をもらってくる。
　食べたら学校に行くから、俺の事は気にしなくていいぞ」
「わかりました。でも、まだ何かあるようでしたら遠慮なく立ち寄ってください。
　あと少しだけ、ここで待っていますから」
　まだ手足はだるいが朝食を摂れば元気も出る筈だ。
　俺は体の不調を秋葉に隠して、なんでもないそぶりで食堂に向かった。
　朝食を終えて屋敷を出る。
　朝食を摂れば元気になる、なんてのは甘い考えで、そもそも朝食をうまく食べられなかった。
　食欲がまったく働いてくれなかったのだ。
　そのせいでたっぷり30分かけた、学生にしては悠長な朝食になってしまった。
「うう……今朝は適切なお食事を用意せず、申し訳ありませんでした……
明日、明日こそは必ず、志貴さんの目に星が散るような朝食をご用意しますから……！」
　ぐっ、と両腕を前にあげて気合いをいれる琥珀さん。
　今朝は珍しく、翡翠ではなく琥珀さんが見送りにきてくれた。
　今日は秋葉の見送りをする必要がないからだろう。
「いえ、こっちこそ食が細くてごめんなさい。
　いつもご迷惑をおかけします」
「――――――」
　琥珀さんは無言で俺を見つめてくる。
　……なぜか。
　その、わずかな変化も見せない眼差しを、機械のようだ、と思ってしまった。
「……琥珀さん？　俺の顔、何かついてます？」
「いえ、そういうワケではないのですが。
　志貴さんのお顔の色が優れないので」
「――――――」
　ドキリとした。
　秋葉にはバレていなかったけど、俺の顔色、まだ悪かったのか……？
「やっぱりお止めするべきですよね。
　秋葉さまもいらっしゃいますし、志貴さんも今日は学校をお休みになられては？」
「あー……いや、大丈夫。少し体が重いだけ。昨日の事で心配するのは分かるけど、行ける時は学校に行っておきたいし」
「もう。そんな優しい顔で言われてはお咎めもできません。わかりました、秋葉さまには内緒にしておきます。
　でも、本当に無理は禁物ですよ？」
「……ですね。今日は早めに帰ってきて休みますから、それで大目に見てください」
「はい。お帰り、お待ちしています」
　琥珀さんの笑顔に送り出されて、遠野邸を後にする。
　嘘から出た<実|まこと>ではないが、今日は寄り道せずに帰ってこよう。
　ちゃんと体力を戻して、秋葉たちを安心させて、アルクェイドとの待ち合わせに行けばいい。
　学校に向かう。
　手足がまだ重く、他人の体を着ているような感覚で坂道を下りていく。
　すぐに回復すると思っていた手足の淀みも、なかなか消えてはくれないようだ。
　　　　教室に辿り着く。
　二時限目の途中だったらしい。
　教師に遅刻を　　られながら席に座　。
　椅子に体を預けてやっと　　　　た。
　昼休みになった。
　有彦は休みらしい。今日の欠席者は乾有彦と弓塚さつきの二名。有彦はともかく、弓塚の欠席が続いている事が気になった。
　風邪をこじらせた、という、誰もが納得できる理由であればいいのだが。
　ところで、昼休み、は何をすればいいんだっけ。
　…………。
　…………。
　…………。
　…………食事。
　そう、食事を摂らないと、治るものも治らない。
　しかし食欲は一向に湧いてこない。
　気分が悪いのではなく、
　機能そのものが無くなった気がする。
　なので食事の必要はなく、椅子から立ち上がる理由も、立ち上がるための活力もなく、まったくもって無駄が無い。
　不思議なのは、それらの錯覚を違和感なく受け入れている自分だった。
　授業が始まっている。
　なんの授業だったか。今日の５時限目の科目が思い出せない。
　黒板を見ても、教師の声を聞いていても、
　俺には、万象が読み取れない。
　文字が、水に流される絵の具のように、ぐちゃぐちゃに混ざっていく。
「うっ…………」
　吐き気が、する。
　教室全体が傾斜している。
　バランスが崩れる。
　坂道に落ちていく。懸命にしがみつく。しかし凹凸のない世界。
　<眩|くら>り、と意識が病んでいく。
　何の抵抗もなく椅子から落ちた。
　ボウリングの球を床に落としたような、硬くて重い、厭な音がした。
　女生徒の悲鳴があがる。
　教師がかけよってくる足音が聞こえる。
　俺は。
　完全に気を失ってしまっているのに、どこか離れた所で、冷静に自分が倒れこむ場面を眺めていた。
　……その後はお決まりの展開だった。
　貧血で気を失った俺は保健室に運ばれて、体調が良くなるまでベッドで眠る事になった。
　夜の７時過ぎ、まだ熱が38℃近くあるため、養護教諭は遠野の家に連絡した。
　迎えはすぐにやってきた。
　学校の駐車場に黒塗りの高級車が停まる、という、映画のようなワンシーンを目の当たりにしながら、遠野志貴は病院ではなく遠野邸に運ばれた。
　熱があるだけなので当然の
処置である。
　俺も体がひたすらに重いだけで、意識ははっきりとしているからだ。
　黒い高級車は俗世のアレソレと混じり合う事なく、無関心に夜の街を走っていく。
　車内には自分と運転手しかいなかった。
　運転手は一言も話さなかった。
　遠野志貴は後部座席に、シートベルトで固定されている。
　外の空気も、中の空気も重苦しい。
『これ、霊柩車みたいですね』
　冗談を思いついたが、口にするのは止めておいた。
　暗い木々のアーチを抜けて、古い屋敷が現れる。
　ああ、と。
　感嘆とも、<諦観|ていかん>とも取れるため息が漏れた。
　この屋敷は七年前から何も変わってはいない。
　堅固な城には必ず牢が作られている。
　恐ろしいもの。邪なもの。常識とは違うもの。
　すべて、隔離されてしかるべきもの。
「お帰りなさいませ、
志貴様。
　お話は聞いております。すぐにベッドまでお連れしますので、それまでもうしばらくご辛抱を」
　使用人がロビーで出迎えてくれる。
　なんとか玄関から中に入れたものの、膝はふんばりがきかず、絨毯に倒れそうになる。
「危ない……！
　失礼しました。どうぞこちらに。まだ熱があるのですね。遠慮なさらず、わたしの肩をお使いください」
　使用人は倒れかけた遠野志貴の体を支えてくれたばかりか、肩まで差し出してくれた。
「……いや、大丈夫。まだ歩くぐらいはできる。
　それより、ありがとう。確か、触られるの苦手だっただろ、君」
　精一杯の強がりを口にする。
「―――確かに、苦手です。
　ですが、今は志貴様の手当を優先させていただきます。
　秋葉さまや姉には黙っていますので、どうかお体をわたしにお預けください。
　志貴様が病気がちなのは志貴様のせいではありません。志貴様は甘えていいのです。
　人間、誰だって頼りたいし、頼られたいものなのですから」
　使用人はそう言って、冷え切った手を握ってくれた。
「……そっか。じゃあ、遠慮なく」
　素直に、その甘い声に従った。
　……頼られたい。頼りたい。
　……守られたい。守りたい。
　……生かされたい。生かしたい。
　なるほど。
　反対の指向性ではあるが、二律背反では決してない。
　確かにそれは、誰もが同時に抱く願望だ。
「階段を上りますので、ご注意の程を」
　手を引いて使用人は歩き始める。
　……歩くだけで明暗／断絶する。
　朦朧とした意識のまま、使用人に任せて足を進ませる。
「あ――――れ？」
　ここは違う。方向が違う。
　この先は東館だ。遠野志貴が立ち入ってはいけない領域だ。
　この先には、
　この先には―――
「こっちは違うよ」
　遠野志貴は声をかける。
　使用人からの返事はない。
　いや、そればかりか―――甘かった手の感触も、もう見慣れた筈の給仕服さえ、ない。
「……あれ……」
　定まらない意識を総動員してあたりを見渡す。
　廊下には誰もいない。
　物音は聞こえない。
　感触はまるでない。
　気がつけば、そこは、
　入り口も出口もない、
　もう使わなくなったガラクタを仕舞う、
　巨大な引き出しの中だった。
「ああ―――」
　倒壊するように倒れ込む。
　遠野志貴を生かしている何かの不興を買ったらしい。
　地面は柔らかなクッションのようにも、
　草で編んだ固い畳のようにも思えた。
　もう肌の感触はない為、真相はおそらく、次に目覚めるまで分からない。
　何の説明もない終わり。
　何の道理も明かされない不明瞭な幕引き。
　唐突だが、これも遠野志貴らしい結末だ。
　夢を見ている。
　曖昧な、とくに意味のない、
　灼けたアメのようなユメを見ている。
　あの女が、ほしいのか。
　……分からない。
　理由はあった筈だし、経緯だってあった筈だ。
　今は何もかも混ざり合ってしまって、始まりの自分がどうしても思い出せない。
　けれど、どんなに<攪拌|かくはん>された経緯だろうと、俺が彼女に好意を抱いているのは紛れもない事実だった。
　あの女が、好きなのか。
　……今はもう分からない。
　すぐにでも会いたいし、すぐにでも話を聞きたい。
　なのに心の底から、堂々と求める事が<躊躇|ためら>われる。
　俺にとって大切な人であっても、
　あの人にとって俺は何なのかを考える事が怖かった。
　マンションでの<逢瀬|ころし>の後。
　俺は自分がどんな人間なのかを思い知った。
　酌量の余地はない。
　吸血鬼が人食いの化け物だというのなら、この両眼もあってはならない害悪だ。
　俺は何かの間違いで生まれたような人間で、本来ならあの夜、雨に打たれて消えるべきだった。
　でも、<償|つぐな>えると言ってくれた人がいた。
　俺にはその手が大切すぎて、愛したいと思うより先に、悲しませたくないと思ってしまった。
　……だから、今は分からない。
　ただ笑顔を見ていたいと思ったのに、どうして―――
　俺は一番見たくなかった顔を、
　あの人にさせてしまったんだろう……？
「―――志貴さま」
　……朝の光に交じって、翡翠の呼び声が聞こえてくる。
「―――志貴さま、お目覚めのお時間です。
　どうかお気を確かに」
　……沈みこんでいた意識が覚醒する。
　抑揚がないクセに芯の強い、祈るような声を頼りにして、深い底から意識を持ち上げた。
「――――――」
　……昨夜の疲れの影響だろうか。
　目を覚ました途端、こめかみに酷い鈍痛が走った。
「おはよう翡翠。今朝もありがとう。時間は……ちょっと余裕ないかな。すぐに着替えて食堂に行くよ」
　寝間着のままベッドから出る。
　頭痛は続いているが、しばらくすれば治まるだろう。
「志貴さま。眼鏡はおかけにならないのですか？」
「ん？　ああ、かけるよ。ちょっと頭痛がするから、忘れてた」
「……志貴さま。今朝もご気分が優れないのですか？」
「だいじょうぶ、頭痛はすぐに治まる。体調だって悪くないし、ここのところ調子はいい。考え事があって、ちょっと寝不足なだけなんだ」
「………………」
　翡翠には俺に元気がないように見えたんだろう。
　実際、強がれる余裕はない。
　夢の中でも、目を覚ました今でもシエル先輩との別れが頭から離れない。
　昨夜のアルクェイドとの事も、本来優先すべき<吸血鬼|ロア>の残党を探し出す事も、今は真剣に考えられない。
「では、学校はお休みにならないのですね？」
「ああ、行くよ。急がないと遅刻しちゃうけど」
　学校だけが先輩と俺を繋ぐ場所だ。
　頭痛がするぐらいで休んではいられない。
「……かしこまりました。
　それでは、どうかご無理をなさらぬようお願いします」
　翡翠は何か言いたそうな目のまま退室していった。
「っ――――」
　また、意識を割る頭痛がした。
　翡翠と話をしていた時は治まっていたクセに、一人になった途端にズキズキと痛みだす。
「……まず、これ―――すぐに、治まりそうに、ない……」
　<断裁機|シュレッダー>に頭をつっこんでいるようだ。
　いつもの落下していくような眩暈ではなく、意識を細切れにするような眩暈。
「が、あ……！」
　立っている余裕さえない。
　ベッドに上半身をうずめて、両手で頭を押さえつけて痛みに耐える。
　痛みは消えない。
　もともと内側から来るものだ。逃げようがない事はこの七年間で骨身に沁みている。
　……けど、今朝のは特に酷い。
　頭に五寸釘を打ち込まれているようだ。脳幹まで貫くような痛みで、さっきまで何を思っていたか忘れてしまう。
　振り返ってみれば事故に遭ってからの七年間、遠野志貴はずっとこんな体と折り合いをつけてきた。
　突発的にやってくる眩暈。頭痛。貧血。
　おかげでどれだけの事を諦めなければならなかったのか、数えきれない。
　医者は奇跡的に命を取り留めた、と言っていた。それだけで充分に感謝すべきだと。
　こうして生きていること自体が奇跡なんだから、多少の痛みは我慢するべきだ、と言いたかったのか。
　死を間近に視る眼。
　この眼と折り合いをつけさせてくれた先生は、その奇跡を大切にしなさいと言っていた。
　……あれは。
　人の命は尊くはないが、戻らないものだから、大事にしなさい、という意味だったんだろうか。
　ここ数日、俺は沢山の人の死を視てきた。
　あっけない。笑うしかないほどあっけない命。ただ運があるかないかだけの差で犠牲になった人々。
　生者と死者の垣根はない。誰も死を拒む壁になど守られてはいない。我々の生存は何の保証もされていない。
　もとより生命とは個人の意思とは無関係に終わるもの。
　それを尊いと考えること自体、生命の本質を理解していない。
　…………あ、れ。
　オレは、　　　　　　　　　　　　オマエは、
　なんで、　　　　　　　　　　　　いつまで、
　　　　そんなコトを考えている／んだろう？
「……ふう」
　ようやく頭痛が治まってくれた。
　気を取り直して大きく深呼吸をする。
　朝の新鮮な空気をとりこんで、<厭|イヤ>な気持ちを洗い流す。
「―――よし、落ち着いた」
　こんな時こそ冷静にならないと。
　俺のやるべき事は変わっていない。
　この街から吸血鬼を一掃する。その為にアルクェイドとも協力するし、先輩の力にもなる。
　……そうだ。
　吸血鬼が残っているかぎり先輩は消え去らない。
　なら、『学校に通う生徒』の偽装は変わらない筈だ。
　今は、そう願うコトしかできない。
　……早く学校に行こう。
　俺は頭の隅に残る<頭痛|しこり>を堪えながら、自分の部屋を後にした。
　階段を下りてロビーに着いた。
　右手側には食堂に続く廊下。
　正面には外に通じている玄関がある。
「………………」
　わずかに気持ちが揺れた。
　食堂によって朝食をいただいて、まだ居間にいる秋葉に声をかけて朝を過ごすか。
　それとも、一刻も早く学校に行って先輩を探すべきか。
　俺は―――
　朝食をゆっくり食べる事はできないが、挨拶ぐらいはしていこう。
　どんなに先輩が気になっても、俺は遠野家の長男……というより、秋葉の兄貴なんだから。
　居間には秋葉と翡翠、琥珀さんの姿があった。
「おはよう、秋葉、琥珀さん。
　翡翠もさっきしたけどもう一回、おはよう」
　先輩への逸る気持ちと、かすかな頭痛を抑えて、できるだけ自然に声をかける。
「おはようございます兄さん。
　翡翠から聞きました。今朝は特に体調が悪いのだとか。
　先週の件もありますし、学校を休まれては？」
「――――――」
　思わず目を見開いてしまった。
　なんてこった、今日にかぎって秋葉が優しい。
　先週の件とはシエル先輩のアパートに泊まって、一日帰れなかった事だろう。
「なんですか、幽霊を見たような顔をして。
　当主が家族の健康を気に懸けるのは当然のことだと思いますが」
「もっともだ。でも、今朝は調子がいい方なんだ。ちょっと頭痛がしているだけ。
　朝食は軽めのもので手早く済ませたいんだけど、いいかな、琥珀さん」
　それじゃ、と早々に食堂に向かう。
　……と。
「お待ちなさい兄さん。
　まだ十分に時間はあるでしょう。頭痛がするのなら、尚更ゆっくり休まれるべきでしょう。
　……まあ。確かに、顔色は良いようですが……」
　秋葉はじっとこちらを観察する。
　いつもの『素行チェック』……とは思うが、どこか、測っている基準が違う気がした。
「……つかぬ事を伺いますが。
　ここ数日、手足の感覚に不調を感じた事は？」
「？　いや、特に」
　命の危険は何度も感じたが、それとこの質問は別のモノだろう。
「わかりました。
　どうぞ、食堂で朝食をお摂りください」
　秋葉に促されて居間を出ようとする。
「ごめんなさい、兄さん」
　瞬間。
　一瞬だけ、今朝の頭痛とは違う、沈むような眩暈がした。
「秋葉、いま何か言った？」
　呼び止められた気がして振り向く。
「なんだそれ。すごい顔してるぞ、おまえ」
　つい笑ってしまった。
　今度は秋葉が幽霊を見るような目をしていたからだ。
「すごい顔、とはなんですか。女性の容姿を評するときは、具体的な表現をお願いします。
　―――いえ、そうではなく」
　コホン、と恥ずかしそうに咳払いすると、秋葉はまじまじと俺の体……つま先から頭まで、確かめるように見つめた。
「なんでもありません。
　理由はまだ分かりませんが、兄さんが健康である事はいい事です。
　後日、改めて検査をしましょう」
　その笑顔を見て、先輩の事で急いていた気持ちがわずかに落ち着いた。
　小言の多い秋葉だが、真剣に遠野志貴の体を案じてくれている事が伝わってきたからだ。
　朝食を軽く済ませた事もあり、いつもより20分早く校門についた。
　時刻はまだ７時30分。部活動が禁じられているいま、この時間が登校のピークと言えた。
　刻一刻と混雑していく正門。
　人混みの中に先輩らしき姿は影も形も見当たらない。
　７時55分。
　校門が閉まるまであと５分もない。
　結局、先輩の姿を見つける事はできなかった。
　既に登校していたのか。裏門から登校していたのか。
　そもそも―――もう、学校には来てくれないのか。
「………っ」
　最悪の想定に胸が苦しくなる。
　するべきじゃない“もしも”の話に寒気がする。
　……恐ろしいのは。
　それはあり得ない事だ、と否定するより、
　それが当然なのだと肯定する自分がいる事だった。
「……バカなコトを考えるな。
　先輩は何があっても学校にいるって言ったじゃないか」
　……そうだ。だから、単に今日はいないだけだ。
　昨夜、俺とあんな事があったから休んでいるだけ。
　明日になればきっと会える。
　明日は無理でも次の日に。それでも会えなければその次の日に。どのみち、俺には待ち続ける事しかできない。
　たとえこのまま、永遠に先輩が現れないとしても。
「だから、バカなコトは考えるな」
　脳裏によぎった不安を振り払う。
　……時間切れだ。ここにいても仕方がない。
　最後にもう一度通学路を振り返って、校舎へと足を向けた。
　……いや、今朝だけは先輩を優先したい。
　少しでも遅れたら二度と先輩に出会えない気がする。
　ゆっくり朝食を食べている場合じゃない。
「志貴さま？」
　玄関に足を向けると、食堂の方から翡翠の声が聞こえた。
　翡翠は心配そうな目でこちらを見ている。
　いつまでたってもやってこない俺を迎えに来たのだろう。
「ごめん、このまま学校に行くよ。
　琥珀さんと秋葉にも伝えておいてくれ」
　翡翠にそう声をかけて先を急ぐ。
　朝飯は行きがけにコンビニで買っていけばいい。
　翡翠には迷惑をかけてばかりだけど、今は１分でも早く学校に行きたかった。
　校門についた。
　屋敷から休まずに走りきったおかげで、時刻はまだ７時半にもなっていない。
「…………」
　正門に立って先輩を待つ。
　ちらほらと登校してくる生徒たちに不審者を見る目で見られたが、そんな事はどうでもよかった。
　時刻は７時半を過ぎてしまった。
　生徒の姿が目に見えて多くなる。
　部活動が禁止されている今、登校するにはこの時間がもっとも適している。
　刻一刻と混雑していく正門。
　人混みの中に先輩らしき姿は影も形も見当たらない。
　７時50分。
　校門が閉まるまであと５分もない。
　結局、先輩の姿を見つける事はできなかった。
　既に登校していたのか。裏門から登校していたのか。
　そもそも―――もう、学校には来てくれないのか。
「………っ」
　最悪の想定に胸が苦しくなる。
　するべきじゃない“もしも”の話に寒気がする。
　……気持ちが悪いのは。
　それはあり得ない事だ、と否定するより、
　それが当然なのだと肯定する自分がいる事だった。
「……バカなコトを考えるな。
　先輩は何があっても学校にいるって言ったじゃないか」
　……そうだ。だから、単に今日はいないだけだ。
　昨夜、俺とあんな事があったから休んでいるだけ。
　明日になればきっと会える。
　明日は無理でも次の日に。それでも会えなければその次の日に。どのみち、俺には待ち続ける事しかできない。
　たとえこのまま、永遠に先輩が現れないとしても。
「だから、バカなコトは考えるな」
　脳裏をよぎった不安を振り払う。
　……もう時間切れだ。ここにいても仕方がない。
　俺は最後にもう一度通学路を振り返って、校舎へと足を向けた。
　ホームルーム開始のチャイムと共に教室に入る。
　……担任のノエル先生は今朝も欠勤らしい。
　もともと代理であったノエル先生の代わりはおらず、日直の生徒が連絡事項をまとめたプリントを配っていた。
　教室には有彦の姿があった。
　ここのところ真面目に学生をやっている。
「おはよう。今朝は何かあったのか、有彦」
「おう、おはようさん。何もないから学校に来てるんですけどね。そういう遠野の方こそ様子がヘンですよ？
　鬼気迫る顔で校門を張ってたって話じゃんか」
「耳が早いな。ちょっと用があって先輩を探してたんだよ。あいにく見つからなかったけど。
　有彦、今朝は教室にいたんだろ。先輩、こっちに顔ださなかったか？」
「？　先輩ってどこの先輩だよ。おまえさん、部活やってないんだから上級生と知り合う機会なんかねぇだろ。
　あれか、精神的な先輩とか、そういう意味？　ゲームの先輩とか、人生の先輩とか」
「なんだそりゃ。シエル先輩は<歴|れっき>とした三年生じゃないか。　……そりゃあまあ、時々あの人は下級生なんじゃないかって思う時もあるけど、基本的に先輩は先輩だよ。いや、そうじゃなくて、先輩が来なかったかって話なんだけど」
「しえる先輩って……誰それ？
　うちの学校に留学生なんかいたっけか？」
「――――――」
　持ち直しかけた気持ちが凍り付いた。
　背筋を走る悪寒に耐えながら、もう一度有彦に質問する。
「シエル先輩だよ、シエル先輩。おまえだって追いかけてたじゃないか。昼飯だって何度も一緒に食べただろう!?」
「う、うん？　そりゃあ一緒にランチする相手には事欠かないオレだが、そんな不思議な名前の先輩は知らねぇって。
　遠野、病み上がりであたまイッちまってるのか？」
「――――――」
　床が消えて、空中に放り出される感覚。
　有彦の軽口もよく聞こえない
。
　俺は何を考えればいいかも分からないまま、自分の椅子に、尻餅をつくように落下した。
“―――ああ、そうか―――”
　やっぱりな、と皮肉っぽく語る自分がいる。
　今になってやっと、自分が取り返しのつかない選択をした事を思い知る。
　……先輩はもういない。
　彼女は自分がいた痕跡ごと、この学校から消えてしまった。
　午前中の授業がすべて終了した。
　俺は半ば放心状態のまま机に座っているだけだった。
　授業の内容は見知らぬ経文のように通り過ぎ、自発的に、何かを考える事さえできなかった。
　こうしている今も、今後の予定さえ決められない。
「……有彦は、いないか」
　教室を見渡す。残っている生徒は数えるほどだ。
　……昼飯時だし、栄養は摂っておかないと。
　何もする気が起きないなら、何も考えずに済む食事に没頭したい。
「…………腹、減ったな」
　心がまったく働かなくても空腹は感じるらしい。
　有彦はもう昼食に行ってしまった。
　……いい加減目眩もしてきたし、今は何も考えずに食事に没頭しよう。
　……もうラッシュの時間は終わったのか、注文待ちの行列はできていなかった。
　販売機で目に付いたメニューのボタンを押し、窓口の職員に渡してトレイを受け取る。
　俺が頼んだのはコロッケ定食だったらしい。
　揚げ物が今の胃に入るかな、なんてどうでもいい事を考える。
　食堂を見渡して適当な席を探す。
　―――と。
　……一瞬、先輩によく似た生徒を見つけてしまった。
　お笑い草だ。
　ちょっと似ているだけでシエル先輩と見間違うなんて本格的にまいっている。
　……どこまで本格的かと言うと、見間違いだと分かっていながら先輩似の誰かから視線を外せない。
　先輩に似た誰かはテーブルにつくと、いただきます、と丁寧に手を合わせてからうどんをつるつると食べ始めた。
　奇しくもカレーうどんである。
　食べているものまで先輩そっくりだ。
「――――――あ」
　というより、何度見てもシエル先輩本人だった。
「先輩……っ！」
　全力で先輩の座っているテーブルへ駆け寄る。
「―――――――」
　先輩はチラッと俺の顔を見上げると、ぷい、と顔を背けてしまった。
　明らかに避けられているが、それで止まる精神状態ではない。
「先輩、意味が分かりません！　どうしてこんなトコにいるんですか!?　おかしいでしょう、色々!?」
「なんでって、わたしはここの生徒です。お昼になったらごはんを食べないとダウンしちゃうじゃないですか」
「いや、それはそうなんだけど、だって、昨日―――」
　なんて口にしていいか、あんまりに突然すぎて頭が働いてくれない。
　先輩はいかにも文句がありそうな顔で、つーんと俺から顔を背けている。
「……すみません。気が急いてしまって、バカなコトを口走りました。席、座っていいですか？」
「いいですけど。なぜ気が急いていたんですか？」
「だ、だって、もう先輩に会えないと思っていたから……先輩がいるのが、夢みたいで……」
「ほ、ほう。夢みたい、とは大げさですね」
「大げさじゃありませんっ！
　あんなコトがあったし、有彦は先輩を覚えてないし、見放されたんだって思うじゃないですかっ！
　俺は―――本当は、昨日からずっと。先輩にさよならって言われた時から、もう会えないんだって―――」
　……そう。
　本当はあの時から理解していた。ただ自分を誤魔化して、先輩を失う辛さから目を背けていただけだった。
「どうしてあんなコトを言ったんです。
　さよならなんて、そんな、もう会えないみたいに」
「はい。だって昨日はもう時間が遅かったでしょ。健全な学生さんは家に帰る時間です」
　しれっと。
　とんでもないボケを、この人は言ってくれた。
「ふ、ふざけないでください！
　あんなの、どう取ったって真剣な別れの言葉でしょう!?」
「仮にそうだとしても、それは貴方とわたしの話であって、わたしの学校生活とは関係がありません。
　それとも遠野くん。わたしみたいな怪物が学校にいちゃいけませんか？」
　先輩は昨夜と同じ無感情な目で、まっすぐに俺の目を見つめてきた。
　……わたしみたいな、と先輩は言った。
　先輩が本当に吸血鬼かどうかは分からない。
　本来なら真っ先に考察し、検証するべきコトを、俺は考える事すらできなかったからだ。
　先輩が吸血鬼かどうかなんて、疑う事さえしたくなかった。
　確かに先輩の体は俺たちとは違う。
　死ぬような傷を負ってもすぐに治ってしまうのなら、それはアルクェイド同様、遥かに人間離れしている。
　その特異性は吸血鬼と呼ばれても―――いや、それ以上の“何か”とされても反論できない。
　……けど、それでも。
　俺にとって、この人は大切な人なんだ。
　たった半日間でも、先輩がいないと思っただけで現実が希薄に感じられた程に。
　だから、そんな事は全然……というのは言い過ぎにしても、本当に気になっていない。
　たとえシエル先輩がアルクェイドと同じ“何か”であっても、この人に抱く気持ちは変わらない。
「いいです。どうせわたしなんて嫌われても仕方ないんですから、もう気にしません。
　そもそもこれはわたしの日常ですから。遠野くんがなんと言おうが、好きにやるって決めたんです」
　先輩はカレーうどんをもくもくと食べ始める。
　……心配になるほどのヤケ食いだった。
“文句があるなら言ってみなさい、でも言ったら絶交ですからね”と、意固地に曇った<表|か><情|お>が告げている。
「……………」
　シエル先輩が今まで通りにいてくれるのは何より嬉しい。
　けれど、今は喜ぶより先に言うべきことがある。
“それとも遠野くん。
　わたしみたいな怪物が学校にいちゃいけませんか？”
　張り詰めた顔でそう言った先輩に、俺はまだ答えていない。
　今こそ自分の気持ちを伝えるべきだ。
　俺は―――
「……文句なんかありません。
　俺にとってシエル先輩は先輩です。いつもきびきびしていて、<他|ひ><人|と>のことばっかり気に懸けて、眼鏡が似合っていて、格好よくて、俺を助けてくれた先輩です。
　そんなこと、先輩が否定しても俺が断言します」
「……文句なんかありません。
　だって、シエル先輩はそこにいてくれるだけで可愛いんですから。いつもぷにぷにしていて、それでいて健康的で、眼鏡が似合っていて、たまにイタズラなところもあって、色々な意味で目が離せない、最高の先輩です。
　そんなこと、先輩が否定しても俺が断言します」
「……い、いえ、たいへん心のこもった意見で恐縮なのですが、断言されるのもどうかと思う部分があったような……？」
「文句なんかありませんとも。
　たしかに先輩の言う通りです。先輩が食堂で特定の料理を食べている事は、東から太陽が昇って西に落ちるのと同じぐらいの真理ですから。
　俺もバカでした。先輩に謝りたいなら落とし穴の上に、ある特定の料理を置いておけばいつでもチャンスはあったのに。
　ところでそのカレー、美味しいですか？」
「さりげなくわたしとカレーをバカにしてませんか遠野くん!?」
　しまった、つい口が滑ってしまった。
　正しくは“何があってもシエル先輩は先輩です”だった。
　―――コホン。
　気を取り直して本題に入ろう。
「とにかく、俺にとって先輩は何があっても先輩なんです。
　吸血鬼だなんて思った事もないし、怪物だなんて思う事もありません。すごい人だと思ったことは何度もあるけど、それで怖じ気づく事もないんです。
　だからさっきみたいなコト、言わないでください。
　先輩は、なんかな人じゃないんですから」
「……それに、シエル先輩がいずれ消えてしまう人なんだって事も、ちゃんと覚悟しています。先輩は卒業するまで学校にいると言ってくれたけど、街から吸血鬼がいなくなれば何処かに行ってしまうんだって、分かってる。
　でも、あんなさよならはしたくない。最後に見る先輩の顔は、笑顔であってほしいんです」
　気持ちを口にした途端、目尻から涙がこぼれそうになった。
　うつむいて誤魔化す。
　今まで予感していた事を自分で認めてしまって、いずれ来る別れとやらが悲しくて、感情が漏れてしまっただけだ。
　……けど、ちゃんと言えた。
　言いたい事、聞きたい事は山ほどあるけど、この気持ちを伝えられたのなら、今はそれで充分だ。
「ありがとうございます。今のお返事は、素直に、びっくりするぐらい嬉しいです。
　……それとごめんなさい。意固地になっていたのはわたしの方だったみたいです」
「先輩？」
　遠慮がちな声に顔をあげる。
「お話はよく分かりました。
　……えっと。それじゃあ遠野くんは、わたしがどんな体でも、気にしないと言うんですか？」
「もちろんです。……まあ、どんな体、という意味を広義に解釈するとそのかぎりではないですけどね」
「……じゃあ、一緒にいても嫌わない、ですか？」
「嫌いません。むしろ謝らせてください。
　昨日は一日、先輩を困らせてばかりでした。アルクェイドの事だって、先輩に相談していれば穏便にすんだだろうし。
　だからホントにもう、全面的に俺が悪かったです。これからはちゃんと先輩の忠告を聞きますから、許してください」
　頭を下げて謝罪する。
　経緯はどうあれ俺は先輩を悲しませた。二度とあんな顔をさせないよう、自分の胸に刻みつける。
「……まったく。遠野くんには<敵|かな>いませんね。忠告を聞くって、まだ戦う気満々じゃないですか。
　もうわたしや吸血鬼には関わるなと念を押しに来たのに、そんな顔をされたら放っておけません」
「先輩、それじゃ」
　先輩はやれやれと楽しげに溜息をついて、椅子から立ち上がった。
「よろしい。なら、握手しましょう」
「あ、握手ですか？」
「はい。仲直りの握手です。それで昨日の事はお互い水に流しましょう。
　まあ、遠野くんがわたしと手を繋ぐのがイヤだと言うのなら別にしなくてもいいですけど」
「イ、イヤなワケがありません！」
　差し出された先輩の手を握り返す。
　……先輩の指は細く、白く、柔らかかった。
　吸血鬼とは違う、人の心の通った温かさ。
「はい、これで仲直りです。
　これからもよろしくお願いしますね、遠野くん」
　先輩はいつもの調子で笑いかけてくる。
　それに照れながらこちらこそ、と返答した。
「あ……それと、ありがとう。ちゃんと俺にわかるように食堂に来てくれて。先輩にまた会えて、嬉しくて仕方がありません」
　一番はじめに言いそびれた気持ちを伝える。
　先輩はわずかに息を止めた後、
　まるで愛し子を見守るような、穏やかな笑みを浮かべた。
　先輩と昼食を済ませた後。
　昼休みも残り数分というところで、それぞれの教室に別れる事になった。
　俺は二年の自分の教室、先輩は三年の教室だ。
「……む？」
　ちょっと待った。
　再会できた嬉しさで気が緩みすぎていないか？
　このままアルクェイドや吸血鬼の件を後回しにしていいんだろうか？
　問題はない。話は放課後にすればいい。
　いま呼び止めたら授業に遅れてしまう。
　これ以上先輩に迷惑をかけるのはよろしくない。
「じゃあ放課後に、先輩」
　去っていく先輩の足音を聞きながら、俺も自分の教室に足を進めた。
　かくして、今日一日の授業は無事終了した。
　放課後の茶道室が待ち遠しかったけど、それはそれとして、もどかしくとも授業は真面目に受けた。
　貧血のため欠席がちなので、受けられる時の授業は大切にしないと勿体ない。
「―――さて」
　これなら胸を張って茶道室に行ける。
　鞄を手に、人気のない部活棟に足を向けた。
「あれ、志貴クン？　シエルさんと一緒じゃないの？」
「ノエル先生こそ、どうして茶道室に？」
　……って、そうか。
　ここがシエル先輩の隠れ家なら、ノエル先生が利用していてもおかしくはない。
　二人はペアの代行者なんだから。
「わたしはお留守番。お昼にちょっと、わたしたちの上の方で動きがあってね？
　マーリオゥってナマイキな司祭がいるんだけど、そいつにシエルさん呼ばれちゃったのよ。
“何か報告を忘れてねえか？”って。
　あー、もうイヤミでやんなっちゃう！　
はい、志貴クンにもお茶とケーキ！　二人で一緒にヤケ喰いしちゃおうぜ！」
　和室で寛ぐノエル先生の前には、お茶とショートケーキのセットがあった。
「まったく。それ、シエル先輩の虎の子ですよ」
　食べると怒られますよ、と態度で示しながら、ノエル先生の前に座って、お茶をいただく。
　下手人がノエル先生と俺になるなら、シエル先輩もそこまで怒りはしないだろう。
「―――ほんと。いい子よね、志貴クン。
　自分は食べたくもないのに合わせてくれるんだもの。
　あーあ。
　キミがもうちょっと酷いヤツなら、後腐れのない仕事だったのに」
「―――え？」
　言葉の不吉さに顔を上げる。
　視界はぐにゃりと歪んでいた。
　―――まずい。
　　　　まずい。
　　　　まずい―――
　背筋に走る警告が麻痺しつつある体に活を入れる。
　なんとか腰を起こし、出口のドアへと体を泳がせる。
「うーん、努力は買うけど残念賞～☆
　最後の食事が安物のケーキでゴメンね♥」
　後頭部に重いものが落下する。
　手心は一切なかった。
　耐えきれず断線する意識と、
　朽ち木のように倒れる体。
　この期に及んで危機感の欠けた学生と、日没の赤い影。
「……いい筈がない。先輩、ちょっと！」
「はい？」
　急いで先輩を呼び止めた。
「なんですか遠野くん？　５限目、始まっちゃいますよ。
　早く教室に戻らないと」
「そうですけど、今日はちゃんと話したいんです。
　……あの、茶道室に行きませんか？　あそこなら誰にも話は聞かれません」
　先輩は今の言葉だけで俺の考えを察してくれたらしい。
「仕方ありませんね。５時限目をサボタージュする事になりますが、単位は大丈夫ですか？」
　もちろん、と頷く。
　先輩は俺とは無関係を装って、部活棟に向かった。
　……なるほど。学校で怪しまれないように活動するには、こういう気配りが必要なんだな。
　５時限目の開始を告げるチャイムが鳴っている。
　こんな堂々と授業をさぼるのは初めてだ。なにしろ同じ学校内である。
「ご心配なく。先生方は茶道室に近づきませんから、見つかる事はありませんよ」
　シエル先輩は台所でお茶の準備をしている。
　……あの落ち着きようからして、授業を抜け出すのは一度目や二度目ではないと見た。
「お待たせしました。こちらは今日のお茶となります。
　一口いただいて落ち着いたところで、遠野くんからお話をしてください」
　……さて、どう切り出したものか。
　昨夜のアルクェイドとの事が本題だけど、いきなり入るとせっかくの平和な空気が崩れてしまうかもしれない。
　ここは―――
　今までなんとなく訊けなかった、ノエル先生との関係を訊いてみよう。
「シエル先輩とノエル先生って、仲がいいですよね。
　ノエル先生、シエル先輩のこといつも“すごい子だ”って褒めてましたよ」
「え」
　ものすごい声がした。
　いつも穏やかな先輩にあるまじき、全力の否定声だった。
「違うんですか？」
　あえてこの路線で話を進めてみる。
　先輩は、
「え、ええ。まあ。シスター・ノエルとは、もう何年もコンビを組んでいますから。
　あの……遠野くんにはそう見えているんですか？　あと、彼女がわたしを褒めていたんですか？　本当に？」
　まるで叱られた子供のように、おそるおそる、そんな質問で返してきた。
　……失敗したかもしれない。
　これは、俺が感じているより根が深い問題のようだ。
「すみません、ちょっと探りを入れました。
　一見すると二人の仲はいいように見えますが、
　ノエル先生はシエル先輩への敵愾心……
　というか、競争意識があって、
　シエル先輩は、ノエル先生にどことなく遠慮しているように見えます」
「……もう。わたしとノエル先生が不仲ではないのか、と心配しての質問でしたか」
「ご安心を、それは遠野くんの杞憂ですので。
　わたしたちは代行者です。互いの役割に私情を持ち込みませんし、私生活には踏み込みません。
　ノエル先生が何に興味を持ち、時間外なのに遠野くんに
ちょっかいをだしたり、職務のあとどれほど深酒をしていようと、咎めたりする事はないのです」
「………………」
　それは不仲ではない、というより、なんの交友もない、というのではないだろうか？
　……シエル先輩、友達作り下手なのかな……。
「じゃあ吸血鬼を退治する時以外、会ったりはしていない、と……それもそうか。
　歳も離れているし、趣味も違いそうだし、休日一緒に過ごしている二人を想像できないし」
「…………歳が離れている…………。
　参考までに質問させてください。わたしくらいの子が、ノエル先生と一緒にいるのは不自然ですか？」
「まあ、教師と生徒の関係ですから。
　ノエル先生、教師としては若いといっても25歳だし」
「ま゛？」
　再度、ものすごい声がした。
　どんな発言も笑顔で受け止める先輩とは思えない、驚愕の威嚇音だった。
「あの、先輩？」
「……25歳って……潜入任務ですから、多少の偽装はするでしょうけど……シスター・ノエル……」
　ヤバイ。この話題、これ以上踏み込むと危険な気がする。後でノエル先生に背後から襲われかねない。
　シエル先輩の味わい深い顔を見られた、という事で、他の質問をしよう。
　いい機会だし、ちょっとした脱線だ。
　昨夜、アルクェイドとのいざこざでチラッと聞こえた単語。
　大聖堂について訊ねてみよう。
「ちょっとした好奇心なんですけど、アルクェイドを閉じこめようとした大聖堂というのはなんなんでしょうか？
　あれ、ヴローヴを閉じこめている時に使ってたヤツですよね。何か特別なものなんですか？　シエル先輩の必殺技、みたいな」
「え……は、はい、確かにアルクェイドに使ったものとヴローヴに使ったものは同じもので、特別な魔術ですが……
　必殺技、という響きは恥ずかしいものがありますね。照れちゃいます」
「……………」
　……なるほど。先輩を上機嫌にさせるツボが段々わかってきた気がする……。
「いいじゃないですか。必殺技、カッコイイ。あれでこそシエル先輩です。見惚れる事この上ない。
　見たところ、あれはシエル先輩だけのオリジナルとみましたが、いかがでしょう？」
　というか、ノエル先生には絶対無理な気がするし。
「先輩が選りすぐりの代行者である事はなんとなく分かります。そもそもあのアルクェイドが敵として意識するぐらいなんだから、教会の中でも一、二を争う吸血鬼ハンターだったりするんですか？」
「そ、そこまでのコトはありません。対吸血鬼に特化しているだけで、他に偉大な方は何人かいますから。わたしなんてまだまだで。アンドレイさんとか本当におかしな人ですし」
「それより大聖堂についてでしたね。アレはⅨ階梯の死徒を封じ込めるために開発した、相転移式隔絶型の結界です。
　もともとは王国を表す祖が持っていたモノで、最大範囲は直径30キロメートル。壁で囲った内部を外界と遮断するものでしたが、わたしが使う場合はそこまでの事はできません」
「対象物を一個、ないし一種設定し、これを封じ込めるだけです。元々は一つの王国をまるごと保存していたものですから、かなり劣化しています。概念的な<結|も><界|の>に寄ってしまったワケですね」
「そのかわりと言ってはなんですが、わたしの大聖堂には原盤にはない機能が生まれました。
　それがヴローヴに使った時の空間歪曲です。
　外から見ると数十メートルの正方形だったと思いますが、中の広さは直径にして10キロメートルに設定されていました」
「要は外側の大きさと内側の大きさを別々に、ある程度任意に変更できるんです。
　使いどころさえ間違わなければ単騎で死徒の軍勢を隔離できる、奥の手の一つといっていいでしょう」
「しかし、だからといって過信してはいけません。
　結界内に閉じこめるには対象を<黒鍵|こっけん>で囲む必要がありますし、大聖堂のような大魔術は連発できないんです。
　通常の魔術が無料で汲める水道水なら、大魔術はワインボトルに入ったワイン、と思ってください」
「一個のワインボトルで大聖堂を起動するには二回が限度です。ヴローヴで一度、彼女で一度。もうわたしの大聖堂の<容器|ボトル>は空になってしまいました。
　ボトル内の<限定魔力|ワイン>は<通常魔力|すいどうすい>とは違い、そう簡単に補充はできません。
　今後、ヴローヴのように災害を振りまく死徒が現れた場合、その被害を抑える事はできないので、遠野くんも注意してくださいね」
「……………」
　……とにかく、大聖堂がもう使えない事だけは理解できた。
　ヴローヴのような死徒が現れたら……と先輩は言うが、ヴローヴは倒され、ロアとやらも倒されている。
　先輩の心配は杞憂というものだろう。
　……さて。
　先輩もノリノリになってくれたところで話を切り替えよう。
　ここは―――
　今ならドヤ顔で説明してもらえる気がする。
　あの武器……<黒鍵|こっけん>について訊いてみよう。
「次の好奇心なんですけど。
　シエル先輩がぽいぽい投げているあの武器は、どんなものなんでしょう？」
「そこに目を付けるとは、さすが遠野くん。
　必殺技もいいものですが、戦闘においてもっとも重要なのは基本技ですからね……。
　いいでしょう。黒鍵について、エキスパートと言われた<私|・>がお教えします」
　ドヤ顔を通りこしてガチ顔になってしまった。
「事の起こりは西暦300年頃。
　欧州にもっとも死徒が蔓延ったとされる時代。
　不老不死の呪いを持つ異端者、死徒。
　その肉体を人間に戻す―――正しく死体に戻し、塵に返す事が教会の使命でした。
　偉大なる主の『大規定』……その文言を読み上げ、聞かせる事で亡者は主の愛を知り、この地上から消え去ります」
「あれは刃のように見えますが、実際は『聖言』なんです。
　死者を悼み、<葬|おく>る<規定|ことば>を基にして作られた、
教会の秘蹟。
　日本風に言うと、そうですね……ありがたいお経と思ってください」
「では、なぜその『言葉』が刃の形になっているのか？
　鍵と名付けられているのか？
　それには代行者と死徒の、長い闘争の歴史を語らねばなりません」
「死徒に対して通常の武器では殺傷効果は望めません。
　死徒にとって『傷』は血で復元するもの。
ただ斬ったりもいだりしただけでは死徒は死なないのです。
　一方、代行者は多少無茶が利くといっても人間ですから、戦闘になれば生存力の差で押し切られてしまいました」
「そう。死徒には『点』の攻撃ではなく『面』……圧倒的な破壊力でぶっ潰す戦法だけが有効だったのです。
　ですがあの時代、一撃で死徒の肉体を消し去る高火力の武装はありませんでした。
　もっとも効果的な手段は、建物や森に閉じ込め、その場所ごと焼いて、血を使い切るまで燃やす、というものでした。しかし、こんな事をいちいちやっていたら教会が破産してしまいます」
「そこで当時、最高峰の剣士にして司祭と謳われた方が、『量産が利き、携帯が容易く、即効性があり、被害を最小限に抑える』武器を考案したのです。
　それが黒鍵を始めとする聖典武装……
　武器に聖言を刻んで対異端用の効果を付加するのではなく、
　聖典そのものを武器にして対異端の猛毒にする、という画期的なアイディアでした」
「死徒をはじめとする『完全に人間ではなくなった』モノたちには、言葉による退去は敵いません。
　彼らの魂は『その意味がもう理解できない』からです。
　人の理は人にのみ通じるもの。
　死徒となったモノに、主の言葉は届かない」
「ですので―――私たちは魂ではなく肉体そのものに聖言を刻みつけ、正しいルールに書き換える。
　汚染された魂は救えませんが、肉体だけは聖言によって人に戻る。
　『不死』という虚無の<孔|ドア>に鍵をさして、回すように。
　聖典武装を受けた死徒は、その部分だけでもかつての肉体を『思い出し』、消滅します」
「以上が聖典武装の根本的な仕組みです。
　黒鍵はその時に作られた、最初期の武装でした。
　柄に見えるものは聖典の写本から切り抜いた頁です。
　代行者はこれを自らの魔力……失礼、祈りの力で柄の形に固めて持ち歩きます。
　戦闘時はこの柄に魔、失礼、祈りをこめると自動洗礼状態に移行します。この『洗礼』の部分が、たまたま刃に似ているだけなんです」
「九世紀頃、黒鍵は今のカタチに落ち着き、もっとも優れた聖典武装として広く愛用されました。
　投擲の技法も多く、影縫い、時飛び、鉄甲作用、火葬式典、土葬式典、コンクラーベ、と多くのバリエーションが生まれたのです。
　ですが……黒鍵は弓矢のようなもので、使い手のスキル、魔力の量によって威力が変わる、安定性のない武器でもあった」
「すみません、魔力でいいんですか？」
「面倒なのでもういいです。
　聖堂教会は魔術協会と反目しているので呼称にはとてもうるさいのですが、どうでもいい問題なので」
「黒鍵は入手しやすい武器でもありましたが、使いにくい武器でもあったのです。
　一人前の射手になるには10年の修業が必要なだけでなく、そもそもの構造がシンプルすぎてこれ以上の威力向上は望めなかった。
　年月を増すごとに強力になっていく死徒を相手にするには力不足だったのですね。
　文明が発達し、銃器が量産できるようになって、黒鍵使いは数を減らしていきます」
「1450年、グーテンベルク氏による印刷機の台頭で黒鍵の流行はちょっと持ち直しますが、やはり銃器のお手軽さには勝てず、黒鍵はメイン武装からサブ武装、『お守りがわりに持っていると通っぽい』ものに転落します。
　以後、黒鍵は教会において『敬虔な信徒のみが好んで使う』マニアックな武器となりました。
　ですが！」
「それはあくまで使用者の未熟によるもの。
　黒鍵は今以て最適解の一つ、グランファテマの語る『結論兵器』の一つになりえると、私は断言します。
　だって魔力さえあればいくらでも編み出せて、どこにでも持っていけるんですよ？
　面倒な入国手続きも余裕でスルー。
　セブンのようなメンテナンスも必要なし。
　優れた体術、精神力、そして魔力を持つ代行者であれば、黒鍵は無限の可能性を秘めているのです！」
　―――よし。
　そろそろいいかな？
「ＳＴＹＬＥ」
「はい？」
「ごめん、好奇心が前に出すぎた。
　ありがとうございます、たいへん勉強になりました。
　必殺技、通常技ときたので、あとはもう一つ、一番気になっていた事を訊ければ―――先輩、後ろ！　黒い虫が！」
「！」
　後ろに黒い虫が這っている、という情報に逆らわず、あわてて立ち上がるシエル先輩。
　それを座ったまま見上げる下級生。
「すみません、錯覚でした。
　でも話は続けますので、先輩はそのままで」
「は、はあ？」
　別にこの視点が重要なのではないが、事実確認のため、先輩には起立姿勢でいてもらう事にした。
「先輩、戦う時は着替えますよね。
　シスター服と、ヴローヴの時の鎧みたいなヤツ。
　あれ、どういう使い分けなんでしょう？
　素人意見ではありますけど、戦い方とか変わるんですか？」
「ああ、スタイルってそういう……
　あれはですね、探索用と殲滅用に分けたもの、と思ってください」
「修道服は汎用のスタイルです。
　代行者でもありシスターでもある、というか。
　代行者としての異端審問がメインではありますが、被害者の治療や保護、要救護者の探索、他代行者との連携など、ようは何でも屋ですね」
「この時のわたしは大きな武器は持てません。邪魔になりますし、被害者を威圧してしまいます。
　先ほど黒鍵が優れた武器である、と言ったのは、このスタイルとの相性がいいからです。
　黒鍵の柄だけなら修道服の下に忍ばせても目立ちませんから」
　なるほど。
　シスター服の時は警察官のようなもので、戦闘メインの服装ではなかったのか。
　昨夜、アルクェイドとの戦いで防戦一方だったのも頷ける。……いや、そんな装備でアイツと渡り合っていた事を褒めるべきだ。
　とくに、
「編み上げブーツがいいですよね。
　可愛いだけじゃなく、凜々しくて、かっこよくて、シエル先輩に似合ってました」
「そ、そうですか？　一応、制服のようなもので……その、ありがとうございます」
　こちらこそありがとうございます。
　教会の偉い人にもお礼を言っておいてください。
「ヴローヴとの戦いで用いた武装は殲滅用のものです。
　戦場が人々の目の届かぬ場所であり、
　対象が救済の余地のない害獣である場合のみ、
　選択されます」
「……とはいえ、遠野くんに助け起こされた時には半壊していましたけどね。
　わたしの魔力が尽きないかぎり破損しない甲冑だったのですが、あの極寒と重槍の前に音を上げてしまったようです」
「遠野くんが見たあのスタイルは、甲冑が剥がれた後のインナーなんです。
　ヴァージンペインはセブンのところで修理中なので、しばらくは使えません」
　インナー……そうだったのか。
　どうりで薄着だった訳だ。
「じゃあ防御力において、今はシスター服の方が優れてるんですか？」
「いえいえ。一見して薄着に見えますが、防御力は修道服とは比較になりません。ある意味、あのインナーがペインの本体ですから。
　<甲冑|たてまえ>は壊れても<信念|ほんね>は汚されません。アルクェイドの爪の直撃でさえ耐えるでしょう」
「アルクェイドの爪っていうと……」
「まあ、大雑把に戦車の砲弾くらい、と思っていただければ。
　耐刃、耐火、耐毒、耐衝撃、耐神秘。
　あれ一着でどんな極限状態にも飛び込める希少品です」
「なるほど。希少品だから布面積が少ないんですね」
「はい、ほんとその通りで―――
　そういう目で見ていたんですか遠野くん！？」
「そりゃ見ますとも。
　格好いい、と美しい、は両立するんだから。
　先輩はもっと自分の魅力を自覚するべきです」
「～～～～～……！」
「も、もうスタイルの話はここまでですっ！
　遠野くんはもっと真面目なコトを聞くように！」
　いや、いつまでも先延ばしにしていられない。
　意を決して本題に踏みこもう。
「……本題に入ります。
　その、アルクェイドの事なんだけど……」
「――――――」
　先輩の表情が一変する。
　やっぱりこの話は簡単にしていいものじゃなかった。
　……けど、これ以上うやむやにはできない。
　シエル先輩が大事だからこそ、アイツとの関係をハッキリさせないと。
「……怒らないで聞いてください。
　先輩はさんざん止めろって注意してくれたけど、俺はやっぱり、アルクェイドを敵だとか、吸血鬼だとかは思えない。
　思惑はどうあれ、アイツだってこの街を守ってくれているんです。だから―――」
　……ぞくり、と背筋に寒気が走る。
　まるで昨日の茶道室の焼き直しだ。
　先輩は真剣に怒っている。
　……ただ、その真剣さは昨日とは種類が違う。先輩は俺の覚悟を見定めている気がする。
「―――だから、アルクェイドと協力してほしい。
　目的が同じなんだから、先輩とアイツがいがみあう理由なんてない筈です。というか、ケンカしないでください。似たもの同士なんだから」
　色々あるけど、俺の言い分はこれに収束される。
　街に巣くう吸血鬼の残党を一掃するにはシエル先輩の力も必要だし、アルクェイドの力も必要だ。
　この二人が手を組んでくれれば、事はもっと早く終わってくれる。
　先輩は、はあ、と深くため息をついて
「イヤです」
　なんて、笑顔で断言した。
「イヤですって、なんで!?」
「あったりまえですっ！
　遠野くん、昨日の夜だって彼女に殺される寸前だったって、自覚してないんですか!?」
「そもそも吸血鬼を探すなんて、いつ殺されてもおかしくない危険な事なんです。そんな事に遠野くんを巻き込むなんてできません！」
「―――
うわ」
「うわ？」
　おっといけない。あまりの発言に、つい目が点になったばかりか、心の声が漏れてしまった。
　……けど、今のは先輩が悪いと思う。
　この期に及んで“巻き込む”とか、ちょっと酷い。
　そりゃ先輩から見れば今までの俺の覚悟なんて甘口カレーパンのようなものだろうけど、それでも、素人ながら決死の覚悟でやってきたのです。
　もうとっくに当事者のつもりだったのです。
　後戻りできるくらいなら、あのホテルの後、とっくに逃げ出していたのです。
　それなのに、先輩の中では、俺はまだ『守るべき無関係な人々』と同じ位置にいるのが、嬉しい反面、悲しいのです。
「あの……うわ、とはどのような意味でしょうか？
　それと、とても泣きそうな顔をしているのは……」
「泣きそうだからです。
いま、シエル先輩にいじめられたというか、デコピン一つで大気圏まで叩きのめされた気持ちです」
「え―――いえ、あの、そんなつもりは微塵もない、のですが―――本当に？」
「……本当に。
　あのですね。いまさら、巻き込みたくない、はないです。
　先輩。俺は俺なりに覚悟の上でここまできたんです。散々死ぬような目にあってきたし、これからも危険はあるってわかってます」
「その上で、吸血鬼退治をすると決めたんです。だから自分の身ぐらい自分で守れます。
　いや、守れなくてもいい、後悔はしません。だって―――」
「だって……だって、なんでしょう？」
「……それぐらいじゃないと、先輩と一緒にいられないじゃないですか。
　俺はこれからできるかぎりの時間、先輩の隣りで、先輩の力になりたいんです」
　自分でも意識していなかった本音がこぼれてしまった。
　……でも、そうか。
　それなら納得できる。俺が吸血鬼の世界に踏みとどまっていたのは、街の為だけじゃない。
　この人と一緒にいたいから、これまで逃げずにいられたんだ。
「……もう。そんなの、わたしが後悔しちゃいますよ。
　だいたいですね、自分の身は守れない、なんて、なにを根拠に言ってるんですか。
　遠野くんの運動神経は優れていますし、その眼の事も分かっています。貧血がちなのは欠点ですが、運動能力そのものは信頼に値します」
「貴方が本気で自分の身だけを考えてくれるなら、わたしもこんなに目くじらを立てたりはしませんよ」
　肩をすくめて、先輩は意外な<意|コ><見|ト>を口にした。
「あれ……そ、そうなんですか？」
　毒気を抜かれてしまい、つい聞き返す。
「ええ。遠野くん、わたしの部屋に泊まったとき裸になったじゃないですか。贅肉のない引き締まった筋肉で、あの時からキレイな<躯|からだ>しているなぁって思っていたぐらいです」
「裸って……俺、裸になんかなってないけど」
「忘れちゃったんですか？　遠野くん、お風呂に入るとき台所で着替えてたじゃないですか」
　……そうだった。
　そういうコトも、ありました。
「知らなかった。
　先輩、人の着替えを覗き見するような人だったんですね」
「い、いえ、アレはですね、不可抗力と申しましょうか、その、隙間から見えてしまって、
ちょっとだけ興味があったものですから、いいかなーって」
　先輩は弁解しながら顔を真っ赤にしていく。
　その時の光景とやらを思い出しているらしい。
　……まあ、それはともかくとして。
「じゃ、じゃあ俺がちゃんと身を守っていれば文句はないんですね!?　先輩と一緒に吸血鬼退治をしても、アルクェイドと協力しても！」
「……そうですね。遠野くんをソロで放置するぐらいなら、わたしと一緒にいてくれた方が助かります」
「先輩……！」
「ですがアルクェイドとの協力だけは出来ません。
　この際ですからはっきりと忠告……いえ、警告しておきましょう。現在、この街で最も危ういのは彼女です。それは彼女が吸血鬼だから、という事ではありません。
　今の彼女はかつてないほど異常な状態です。下手に刺激すれば炸裂する爆弾と言ってもいい」
「……爆弾、
ですか？
　そりゃあアイツは何しでかすか分からないヤツですから、その表現は正しいですけど……でも、別に……」
　危うい、なんて事はない筈だ。
　アイツは意味のない行動はしない。その力はすべて吸血鬼を倒すことに使われていた。
「どうでしょうか。今の彼女は自分の感情に従って活動しています。
　これまでは真祖としての<条約|コード>に従っていたのに、その条約を破りかけている」
「……アレは無邪気な子供そのものです。
　恐ろしいのは、その子供が初めて手にしたオモチャが太陽だった……と言えば、現状がどれほど危険なのか理解できると思います」
　先輩は淡々と語ってはいるが、その眼は笑っていなかった。
　……先輩はこう言っている。
　この街の人間にとって吸血鬼はもう脅威ではなくなった。
　いま祈るべきは、ひとりの子供がその手から太陽を落とさずに去ってくれる幸運だけだと。
「そんな、大げさすぎますよ先輩。
　だいたいアイツにケンカをふっかけたのは先輩じゃないですか。先輩が仲良くしてくれればアイツだって暴れません」
「そ、それはそうですがっ！
　わたしだって考えなしではありません、この一週間ずっと自重してきたんです！
　でも……遠巻きに見る分には我慢できましたが、ああして目の前にしてしまったら抑えきれなかったというか……」
「ついカッとなってやっちゃった、と」
「……ごめんなさい……
今はたいへん反省しています……」
　しゅん、と肩をすくめて反省する先輩。
　……口では大げさだと言ったけど、先輩の話がどれほど現実味を帯びた“もしも”なのかは理解できる。
　たしかに昨夜のアルクェイドはおかしかった。
　……俺もアイツを怒らせてしまったし、しばらく距離をとって、冷静になってくれるのを待つべきかもしれない。
「……わかりました。
　もうアルクェイドと仲良くしてほしい、とは言いません。先輩とアイツは天敵っぽいですから」
　同属嫌悪ですね、と言いたいのをぐっと堪える。
「俺も自分からアルクェイドには近寄らないようにします。少なくとも、アイツが冷静になるまでは。
　そのかわり、先輩は俺と一緒に吸血鬼を探すコト。それでいいですね？」
「え？　あ、はい、そういうコト、ですけど……あれ？
　……遠野くんがわたしに協力する、じゃなくて、わたしが遠野くんに協力する、んですか……？」
「似たようなものです、気にしないでください。俺の気持ちの問題です」
　よし。二転三転したけど、ようやく話はついた。
　これで心置きなくシエル先輩と行動を共に出来る。
　……たとえあと僅かな時間しかないとしても、何の<疚|やま>しさもなく一緒にいられるだけで、俺には十分すぎる報酬だ。
　一つの区切りがついて、いつものお茶の時間がやってきた。
　先輩の淹れてくれたお茶を味わいながら何でもない話をする。
　授業の話。街の話。趣味の話。
　そこには吸血鬼なんて単語はなく、どこにでもある平凡な時間だった。
　５時限目終了のチャイムが鳴る。
　楽しい時間はあっという間にすぎるというが、もうそれだけの時間が経っていた。
「さすがに６限まではさぼれないですよね」
　座布団から腰を上げる。
　湯呑みを台所に運ぼうと左足を踏み出した時、それは唐突に―――いや、いつも通り、やってきた。
「――――――」
　視界が黒く点滅する。
　見えている風景と意識がいっしょくたの版画になって、ぐちゃぐちゃと丸められながら脳の奥に消えていく。
　手足の感覚が麻痺して、ぐらりと、根元から崩れ落ちる。
　俺はもう飽き飽きするほど体験した、慣れる事のない昏睡に落ちて―――
「遠野くん、しっかり……！　気分が悪いんですか……!?」
　畳に倒れる寸前で受け止めてくれた先輩の声で、なんとか踏みとどまれていた。
「……すみません、ちょっと目眩が。
　でもいつもの貧血だから、心配はいらないですよ。ちょっと休めば落ち着くから」
「心配しますっ！　そんな青い顔で強がらないでくださいっ！
　いま体にいいお茶を用意しますから、そこに横になって。無理に動いちゃダメですからね！」
　先輩はあわてて台所に向かっていった。
　……ここで強がっても先輩を困らせるだけのようだ。
　畳に寝そべるのは抵抗がある……先輩の前でみっともない……ので、
壁に背中を預けてだらりと座り込んだ。
「――――――ふう」
　楽な姿勢をとった事で、少し落ち着いた。
　……意識が落ちないで良かった。
　この分ならすぐに持ち直してくれるだろう。
　壁によりかかったままチャイムを聞く。
　もう準備時間の10分が過ぎたらしい。
「６限目、始まっちゃいましたね」
　横にはいつの間にかシエル先輩がいた。
　俺の顔色を診察するように覗きこんでくる。
「ジンジャーミルクティーにたっぷり蜂蜜を入れてみました。
　湯呑みなのはご愛嬌というコトで流してください」
「……ありがとうございます」
　先輩にお礼を言って、湯呑みを手に取る。熱い。
　正直冷たい水の方が欲しかったな、と一口すすってみる、と……
「っ！　先輩、これすごい。一口で目が覚めた……！」
「はい、お父さん直伝の配合ですから。元気のない時はこれで一発です」
　先輩は我が事のように喜んでくれた。
　鼻の奥にツンとくる生姜の香りと、柔らかい牛乳の舌触り、蜂蜜の甘さが絶妙にマッチしている。
　気がつけばお茶を飲みきり、俺はぐったりと脱力していた。
　疲れたのではなく放心状態に近い。
　……思えば朝からここまで、ずっと神経が張り詰めていた。
　先輩と和解できた事で糸が切れて貧血になったんだろう。
　それが温かいお茶で緩和されて、ほどよい疲労感に浸りきっている状態だった。
「先輩としてあるまじき提案ですが、観念して放課後までここにいましょう。単位、足りているんでしょう？」
「……まあ、なんとか。
　有彦ほどギリギリで生きてはいませんし」
「遠野くんにそう言われるとは、乾くんは大人物ですね。
　ちょっと羨ましいです」
　先輩は俺の体調を気遣って話しかけてこなくなった。
　隣りで静かにお茶を飲んでいる。……俺がいつ気分を悪くしても対応できるよう、控えてくれている。
　時間だけが過ぎていくが、沈黙は重くはなかった。
　むしろ心地良い。
　俺と先輩はこのまま、互いの気遣いだけを肌に感じて、穏やかに６限目を終えて―――
「ところで遠野くん。
　暇なのでしりとり、しましょうか？」
「しないよ！」
　脈絡がないにも程がある！　あと色々台無しすぎる！
「そもそもなんでしりとり!?
　先輩、オレの泣き顔見たいんですか!?」
「見たいです。遠野くん、人のコトばっかりで自分のコトで泣きそうにないですから」
　いや、さっき泣きそうでしたけどね！
「そ、そんな顔で言われたら余計にイヤです。
　……しりとりは絶対にしませんから。暇ならさっきのお茶のお代わりください」
「それは残念。では、いつか遠野くんの隙を突くことを夢見て、ジンジャーミルクティーの二杯目を入れてきますね」
「……まったく。ヘンなところで子供っぽいというか、意地悪というか……」
　天井を仰ぐように息を吐いて、目を閉じる。
　……でも、ちょっと面白かった。
　シエル先輩とこんな風に馬鹿話ができるなんて、思いもしなかった。
「遠野くん……？　眠っちゃったんですか……？」
「起きてますよ。ちょっとクールダウンしてるだけです」
「そうでしたか。ではわたしにお気遣いなく、そのままで。楽にしていてください」
　……先輩の言葉に甘えて、少しだけ体を横にした。
　ぴったりと壁に預けていた背中が、ずるりとだらしなく畳に落ちる。
　……10分ほどそうしていただろうか。
　もう少しで眠ってしまうところで、今度は本気で、さっきの質問を口にした。
「……それで、どうしてしりとりなんですか？」
「遠野くんに弱音を言ってほしかったんです。ずっと無理しているように見えたから。
　今だってそうでしょう？　本当は疲れきっているのに気を休められない。貴方は眠ってしまうのが怖いんです。
　……たぶん、七年も昔から。
目を閉じてしまえば、目覚める保証がないと判っているから」
「――――――」
　ああ、と静かに認める自分がいた。
　それは誰にも話さず、誰にも打ち明けず、誰にも気付いてほしくなかった事だ。
　俺は吸血鬼が恐ろしいと言った。
　戦いは、殺し合いは恐ろしいと。
　それらは瞬間的なものにすぎない。
　俺にとっては、この毎日こそが常にある恐怖だった。
　この美しい時間は明日には続かないと。
　そう受け入れるしかない眠りの前が、何よりも苦しかった。
「そんな事はないですよ。今は健康で、貧血だってたまにしかないんですから。怖いものなんて吸血鬼ぐらいです」
　でも、それは口にしてはいけない事だ。
　恐怖は憎しみや妬みに繋がる。
　毎日を恐れている自分を、俺はちゃんと抑えないと。
　だって俺はなんだかんだいって生きている。
　ならいま生きている自分を、
　　　　　　　　　　　　　　それがどんな視界であれ、
　目にしている景色を、素晴らしい事のまま受け入れていたい。
「……そうですか。遠野くんがそう言うのならそういう事にしておきます。
　……うん、そうでした。ごめんなさい、バカなコトを言ってしまって。わたしが憧れたのは、貴方のそういう強さでした」
　……額に温かな感触があった。
　先輩は俺の額に手を置いて、体温を測っている。
「だから、わたしが力になります」
「先輩……？」
「……貴方がもしその恐怖に耐えられなくなったら、わたしが力になります。わたしには何もできないけど、手を握るぐらいはできますから」
　ああ、と眩しくて視界を細めた。
　今の言葉にどうしようもなく安堵して、ようやく自分の心に気がついた。
　……俺はこの人に幸せでいてほしい。
　アイツへの感情とは方向性の違うもの。俺が先輩に抱く気持ちは友愛や感謝に近い、相手の幸福を祈る愛情だった。
「―――そうですね。
　それじゃあもしそういう時がきたら、先輩を頼ります」
　漏れかけた弱音を呑みこんで、強がりを返した。
　半ば横になっていた体を起こして、先輩の淹れてくれたお茶を飲む。少し冷めてしまっているのが残念だ。
「ところで先輩。さっきの仕返しですけど」
「は、はい？」
「先輩って、いったいどういう人なんでしょうか。
　考えてみたら俺はシエル先輩の事をなにも知らない。これまで何をしていたのかとか、どうして吸血鬼と戦う事になったのかとか、そういうの、教えてください」
「わ、わたしの事、ですか？
　そんなの話してもつまらないというか、ホントにガッカリさせてしまうので話したくないというか……」
「いいんです。話せる範囲で話してください。
そうじゃないと自分を抑えられる自信がありません」
「そ、そうですか。……話せる範囲でいいなら、しますけど。せっかくの時間が、つまらないものになっちゃいますよ？」
　是非、と先を促す。
　たとえ話題が重いものになっても、先輩の事なら何でも知りたい。
「とは言っても、本当に大した事はないんです。
　わたしはフランスのある地方都市の生まれで、お父さんはパン職人で、お母さんは日本人で。
　12歳の時に教会に入って、あとはずっと死徒を討伐する仕事をしていました。それと、今回みたいに学校に潜入調査するのは初めてです。勝手が違うので最初は戸惑いました」
「今回が初めて……。
　そ、そうですよね。吸血鬼を相手にするんだから、普通、学校に用はありませんよね」
　―――あれ。
　いま何か、妙な事を口走らなかったか、俺？
「そうですね。今回は特殊なケースでした。
　あとは代行者になった理由ですが、これはわたしにその才能があったからです。せっかくの“死なない体”を使わないのは勿体ないですから」
「死なない体が才能……？　……まあ、そう言えなくもないけど、先輩、生まれつきそういう体だったんですか？」
「いいえ、遠野くんと同じです。わたしも生まれつきこういう体をしていた訳ではありません。
　一度死にかけて……いえ、一度死んで、そこから生き返った人間なんです。なんか、そうしたら生き返るのがクセになっちゃいまして」
「な……」
　冗談のつもりなのか、先輩は苦笑まじりだ。
　でも今のは笑い話にできるコトじゃない。
「なんですかそれ。
　一度死んだって……もしかして、それは」
「はい。吸血鬼に殺されたんです。でもご存じの通り、わたしは何があっても元通りになる体質だったので、なんとか生き返れたんですよ」
「生き返れたって……
　普通、死んだら生き返れないというか……」
「ですから、わたしは普通じゃなかったんです。それは遠野くんも見たでしょう？」
「……………」
　確かに、先輩の不死身ぶりは何度か見ている。
　ヴローヴとの戦いではまだそこまでじゃなかった。
　けれどアルクェイドとの戦いの後に見せたアレは、俺の眼以上の“あり得ないもの”だった。
「でも、先輩は先輩です。普通じゃなくてもいいです。俺は今の先輩が大好きです」
「そ、それはお昼にも伺いました。
　……でも、ちょっと分かりません。こんな体、気味が悪いだけだと思います。
わたし、遠野くんを怖がらせてばかりだと思ってました……」
「―――あのですね。そんなの何度も言ってるでしょう。
　異性として先輩が魅力的なのは言うまでもないし、吸血鬼と戦う先輩は格好いいです。
　……俺は今でもヴローヴと戦う先輩が忘れられない。
　あの地獄みたいな状況で、先輩はみんなを守る為に戦ってくれた。怖がるなんてとんでもない。俺はあの勇敢さに、今まで何度も励まされたんですから」
　本当は“格好いい”なんて浮ついた言葉じゃなく、尊敬していると伝えたかった。
　でも、俺から“尊敬しています”なんて言われても先輩は困るだろうし、と自重する。
「遠野くん、それは違いますよ。
　私は勇敢なんかじゃありません。死への恐怖がないだけなんです。だって私は死にませんから。あの時だって恐怖なんて欠片もなかった」
「……私はただ、鈍感なだけなんです。
　本当に勇気を持つ人間とは、死に怯えながらも戦える人の事です。
　私にその勇気はありません。だって死にませんから」
「私が普通ではないのはこの精神性です。死への恐怖に関してだけ言えば、私は吸血鬼以上の化け物でしょう」
「化け物って、先輩」
「いいです、事実ですから。
　私は死なないから何も怖くない。
　なにをやっても生き返るから、どんなに酷いコトをされても、どんな酷いコトをしても、何も怖いとは思えない。
　私はそういう人間なんです。そこはちゃんと理解していてくださいね」
「……………」
　先輩はいつもの笑顔で、他人事のように自分の事を語って聞かせる。
　それが冗談まじりの自嘲なのか、本気でそう思っているのか、俺には分からない。
　ただ―――どうしても引っかかるものがあった。
「……でも、傷を負えば痛いじゃないですか。生き返るから怖くないとしても、痛みはあるでしょう？
　ならやっぱり先輩は、」
「そんなの、<痒|かゆ>かったり、イヤだったりするだけです。
　蘇生が約束されている私に恐怖はありません。ただ痛いだけなら誰にだって耐えられるでしょう？」
「……そう、誰だって私と同じ体だったのなら、同じ事ができたんです。
　……昔、私はこの体になるきっかけで罪を犯しました。
　多くの間違いをおかして、多くの人命を見殺しにした。
　その後、私に課せられたのは犠牲になった人々の数と同じだけの処罰でした」
「……私はそれを耐えた事で罪を許され、代行者に選ばれた。“聖人に匹敵する忍耐だ”なんて、司祭さまに褒められたりもしました。
　でも、そんなのは違うんです。私はぜんぜん強くない。
　単に死なない体だから、体が強いから罰に耐えられただけ。普通の体だったなら、きっと一日で投げ出していたんです」
　そう言って、先輩はこの話題を切り上げた。
　……何か据わりの悪いものを感じたが、先輩がそう断言している以上、俺が蒸し返す事もできない。
“ただ痛いだけなら誰だって―――”
　……それでも。
　その言葉のいびつさだけは、頭に残って離れなかった。
　夕日が茶道室を赤く染める。
　結局、先輩と放課後まで一緒に過ごしてしまった。
「では今日からわたしと遠野くんはチームですね。ふたりで事件を解決しましょう。
　いったんお<家|うち>に戻りますか？　死者の探索は夜になってからの方が効率的ですし」
　湯呑みを片付けながら先輩が声をかけてくる。
　その提案は順当なものだったが、先輩の口から出るのは意外だった。
「ホ、ホントに俺でいいですか？」
「もちろんです。協力してくれると言ったのは遠野くんの方じゃないですか。
　遠野くんをひとりにするのも危険だし、わたしがつきっきりで監督させてもらいます。
　これでも先輩ですから。やるとなったら吸血鬼探しのイロハをたっぷり教えこんであげましょう！」
　えっへん、と胸を張るシエル先輩。
　その張り切り様はとても頼もしい。
　頼もしい、のだけど……
「とは言っても、死者の数は減ってきているのでイロハを教えこむ前に終わってしまいそうですけど。
　この分ならあと一週間、といったところでしょうか」
「い、一週間ですか……!?　ホントに、そんなに早く!?」
「ええ、経験則からいってそれぐらいです。遠野くんさえ望むなら、もう一日二日程度の短縮はできますが」
「………………」
　……一週間。
　アルクェイドはこの事件の終わりを口にしなかった。
　だから漠然と、いつまでも続いてしまうと思っていたけど、それがあとたった一週間で解決する……？
「遠野くん？　どうしました、浮かない顔をして。
　もしや、今日中に解決しろ、なんて事は言いませんよね？」
「そ、そんな無茶は言いませんっ！　隠れている死者を見つけ出すのは地道な調査だって知ってますから！
　……ただ、その―――」
「？」
「……その。街に潜む吸血鬼をぜんぶ殺したら、先輩の仕事も終わってしまいます。そうしたら、先輩は」
　……考えたくない予想をしてしまって、先輩から目を逸らす。
　理解はしていたものの、こうはっきりと宣言されるとどうしようもなく辛くなって、つい、
「先輩は、すぐに次の街に行ってしまうんですか？」
　そう、言うべきではない言葉を、口にしていた。
「？　何を言っているんですか遠野くんは。
　死者を一掃したところで仕事は終わりませんよ。私はロアを倒すまでこの街に残ります。元凶を残したまま職務放棄はできませんからね」
「―――、
え？」
　……互いの認識の違いに気がついて、背筋が凍った。
　ロアを倒すまで、と先輩は言ったのか……？
「……ちょっと待ってくれ先輩。
　そのロアってヤツ、もういないんだろ？」
「はい？」
「いや。だってアルクェイドのヤツ、ロアはもうやっつけたって言ってましたよ？」
　空気が凍る。
　先輩の視線が俺に突き刺さる。
　驚きを通り越した、敵意すら感じる眼差し。
　この人のこんな切迫した顔を見たのは初めてだ。
　……だから、だろうか。
　俺はいま、自分の手で、最後の幕を下ろしたのだと気付いてしまった。
「……先輩。ロアはもう死んでいます。
　それは確かな事だと、俺も思います」
「……アルクェイドの発言は、信じられません」
「アイツが嘘を言っていると？」
「いえ、彼女にそんな気の利いた真似はできないでしょう。
　……この目で見るまでは信じられない、という意味です。
　遠野くん。彼女は他になにか言っていましたか？」
「他には……ああ、そうだ。ロアの<柩|ひつぎ>は学校の地下にあった、
なんてふざけたコトを言って
―――
先輩!?
」
「―――確かめに行きます。
　遠野くんはここに残っていてください」
　先輩は出口の扉に手をかける。
　その背中は悲壮な決意に満ちていた。
　……突っ立っている場合じゃない。
　俺は―――
　あんなに切迫した先輩をひとりきりにさせたくない。
　それにロアの柩―――吸血鬼の住み家に行くというのなら、俺にも同伴する資格はある筈だ。
「待った、俺も行きます……！
　協力していいって言ったばかりでしょう、先輩！」
「――――――」
　先輩の動きが止まる。
　俺を連れて行くか、それとも断って結果的に俺を自由にするのか。数秒でも悩むかと思われたが、彼女の判断は一瞬だった。
「無駄な所感は挟まず、冷静な判断を保てると誓いますか？」
「……誓います。先輩の邪魔はしません」
「―――いいでしょう。同行してください遠野くん。
　貴方が私の指示に従うかぎり、安全は保証します」
　有無を言わせぬ命令に、固唾を呑みながら頷く。
　指示に従うかぎり、と先輩は言った。
　それは全力で俺を守るという事でもあり、同時に、指示に従わないのなら切り捨てるという事だ。
　冷酷な方針だが反感はない。
　今から向かう先はそれほど危険な場所なんだと、先輩は暗に教えてくれたのだから。
　……先輩の指示に従おう。
　ロアはもう死んでいる、とアルクェイドは言ったものの、その隠れ家が安全とはかぎらない。
『吸血鬼の寝床には侵入者用の罠が張り巡らされている』
　その説で言えば、素人の俺が踏み込んでも先輩の足を引っ張るだけだ。
「……わかりました。ここで待っていていいですか？」
「もちろん。でも、１時間経っても戻ってこなかったら街の方に出ていてください。
　前に食事をしたお店を覚えていますか？　あそこで合流しましょう」
　先輩は俺の返事を待たず、茶道室から飛び出していった。
　……。
　…………。
　………………そろそろ１時間経過する。
　シエル先輩は戻ってこない。
　先輩にかぎってピンチになる事はないだろうが、つい、最悪の事態を想定してしまう。
　仮に、ロアの寝床に死者たちが残っていたら？
　問題ない。
　先輩ひとりなら、死者なんて百体いても返り討ちにする。
　仮に、アルクェイドと鉢合わせたら？
　……危ういが、それも問題ない。
　まだ太陽は昇っている。この時間なら昨夜のようにはならないと思う。
　では、仮に―――
　もし。ロアの棺があるという地下で、
　見てはならない物証を見つけたとしたら？
「……は。なんだよ、物証って」
　自分の意味不明の考えに、むりやり笑う。
　とにかく茶道室を出よう。
　あんがい、あのメシアンというカレー屋で先に待っているかもしれないし。
　いま、茶道室のドアが開く音がした。
「先輩？」
　畳の和室から、ドア近くのスペースに顔を出す。
「？」
　ドアは閉まったままだ。人の姿はない。
「……隣の教室からの音だったのかな……」
「クソムシ、みぃーつけた♥」
　地面が揺れた。
　ずいぶん大きな地震だ。
　まるで、世界が壊れてしまったかのような。
「……やっぱりそうじゃない。
　……やっぱりそうじゃない。
　……やっぱりそうじゃない」
　……静かに、口にする本人の喉を少しずつ裂いていくような、渇いた声が聞こえる。
　それが見知った女性のものであり、
「――――、――――――？」
　そういう自分の声も、封じられている事に気がついた。
　口は何かを咥えさせられている。
　出るのは涎ばかりで話しかける事もできない。
　はあ　　　はあ　　　はあ。
　あえぐような呼吸が、他ならぬ自分の口から漏れている。
　だが気分はまったく悪くない。
　どちらかというと、何も感じられないぐらい、感覚というものがない。
「……何がもう少し様子を見る、よ。
　バカじゃないの？　バカじゃないの？　バカじゃないの？
　疑わしきは罰する、でしょ？
　吸血鬼殺しに『人助け』なんて余裕、あるワケないじゃない。慈善事業じゃないんだから」
「―――ああ、でもそっか。
　慈<善|そ><事|れ>業なら<偽|そ><善|れ>で、趣味に走ってもいいってコトだ」
　はあ　　はあ　　はあ　　はあ　　はあ。
　苦しくないというのに、肺は酸素を取り込もうと喉を駆動させる。
　しかし喉には感覚がない。
　まともに動いているとは思えない。
　なにより、
「ねえ、そうでしょう志貴クン？
　ここまで時間をかけたんだもの。その分、楽しんでもバチは当たらないわよね？」
　―――この状況が。
　もう、とっくに手遅れだとしか思えない。
「―――、―――……！！！！」
　声を上げる。言葉は出ない。
　抵抗したくとも手足がまったく動かない。
　ハア　　ハア　　ハア　　ハア……！
　茶道室に響いているのは俺の呼吸ではなく、女の昂ぶった<呼|こ><吸|え>だけだった。
「ああ、シエルさんを呼んでいるの？
　そうだよねー、志貴クンは私よりあの子ばっかりだったもんねー？
　でもザーンネン♥　キミの大好きな先輩はぁ、司祭様に呼び出しをうけて尋問中。
　そしてキミは、」
「いま、残った最後のアレを失ったのでしたー☆」
　―――何を失ったというのか。
　感覚がないので何も分からない。
　それが女なりの慈悲だったのか、
　当惑する獲物の顔を楽しむ為なのか、分からない。
　分かるのは。
　俺は『手足の感覚』が無いのではなく、
　もう、
　その■■そのものが無い、という事だ。
「ロアの棺の話をするの、一日遅かったわね？
　私より先にシエルさんが見つけていたら、少しはマシな裁判になったかも」
「―――、―――、――――――」
　……視界が朦朧としていく。
　陸に上がったトビウオになった気分。
　暴れても暴れても何処にもいけない。
　降ってくるのは、あざ笑うような、謝るような、どうしようもないような、女の乱れた呼吸だけ。
「普通の武器を使ってあげてるから痛みもないでしょ？　ただ気持ち悪いだけでしょ？
　ねえ、どこをカットしてほしい？　肩？　背中？　お腹？　お尻？　志貴クンのお願いならなんでも聞いてあげる。
　あ、でも<猿轡|ギャグ>を外すのはＮＧね。助けてー、なんて声をあげられたら、私、たぶん一撃で頭潰しちゃうから」
「―――、―――…………」
　でも、決してそうはならないだろう。
　女は俺を殺さない。
　簡単には殺せない。
　……どうかしている。
　この状況で、俺は、この壊れた女を理解している。
「―――、…………」
「もう、泣いちゃってカッワイ～♥
　だいじょうぶ、夜はこれからだもの。たっぷり楽しみましょう？
　どんなに泣いても漏らしてもかまわないわ。
　だって、最後には」
　カタン、と音をたてて畳に黒い影が落ちた。
　女の両手に収まる程の大きさでありながら、
　刑務所の壁のように<聳|そび>える、
「泣き叫びながら、この中に入るんだから」
　見覚えのある、正方形の。
「待った先輩、ノエル先生には報せないんですか？」
　どうしてそんな言葉が出たのか、自分でもよく分からない。
　先輩をひとりで行動させるのは危険だと感じたからか、
　それとも、ノエル先生にも知る権利がある筈だ、と思ったのか。
「そ、そうでしたね。
　すみません、あまりの事で動転してしまって。
　すぐ彼女にも通達を―――」
　シエル先輩は携帯端末を取り出して連絡をとる。
　……のだが。
　通話もメールも、ノエル先生からの返事はなかった。
「何をしているんです、シスター・ノエル……！」
　こんなに苛立つ先輩を見るのは初めてだ。
　ますますひとりでは行かせられない。
「先輩、俺も行きます。
　協力していいって言ったばかりでしょう」
「――――――」
　先輩の動きが止まる。
　俺を連れて行くか、それとも断って結果的に俺を自由にするのか。数秒でも悩むかと思われたが、彼女の判断は一瞬だった。
　住宅地の合間に作られた、コンクリートで固められた水路。
　通学路でもあるごくありふれた街の一角に、シエル先輩はやってきた。
「先輩、あの下水道に入っていくんですか……？」
「そうですよ。あの横穴から中に入ります。
　日本の下水路は近代化されていますから、水路に落ちなければ濡れる事もありません。
　……ただし、背後や側面に気をつけて。中は明かりがありませんから、目より耳に気を配ってください」
　そう言うなり、先輩は橋の上から水路まで下りてしまった。
「……………っ」
　ここで<怯|ひる>んでいては先輩においていかれる。
　俺も覚悟を決めてフェンスを乗り越え、壁に作られた梯子を使って水路に下りた。
「……まだ太陽は昇っていますが、中に入れば陽差しも届きませんし、時間も経過するでしょう。
　貴方はうしろから離れないように。異常を感じたらすぐに私の背中を叩くか、声で報せてください」
「……はい。それより先輩、武器は？
　俺はナイフがありますけど……」
「心配には及びません。黒鍵は必要数常備しています。
　今回はあくまで調査ですから。ロアの柩を発見次第、撤退して準備を整えます。本格的な交戦はこの後です。
　内部で明かりは使わないので、そのつもりで」
「……そっか、吸血鬼に気付かれるもんな。
　携帯の明かりもダメ……ですよね？　でも、それだとどうやって中を調べるんですか？」
「暗視程度なら私でも使えますから心配は不要です。
　水路内は私が先導しますから、先ほど言ったようにとお……貴方は手を握っていてください」
　差し出された左手を握る。
　……緊張しているのか、先輩の指はぎこちなく俺の手を掴んできた。
「行きます。ここからだと学校下付近の水路までは20分ほどでしょう。その間、余計な気は起こさないように」
　余計な気……迷ったり怯えたりするな、という事だろう。
　もちろんと頷き返す。
　俺は先輩の
手を握ったまま、一寸先も見えない暗闇に身を進ませた。
　下水道の中は予想していたものとは違っていた。
　幅２メートルほどの水路の左右には人間が歩けるだけの道が作られていて、先に進む事自体はそう困難じゃない。
　生活汚水が流れる空間なので臭いがきついかと思えば、そこまででもない。
　たまに足元のコンクリートにぬるっとした感触があるだけで、ネズミたちが走っている事もない。
　シエル先輩の言う通り、都心の下水路はきちんと整備された“公共施設”だった。あのデパート地下と比ぶべくもない。
　不安をかきたてるのは不潔さではなく、止まる事のない水の音と、反響する靴音と、先の見えない暗闇だ。
　……学校の地下まで20分ほどだと先輩は言っていた。
　今のところ俺たち以外の足音はない。
　俺を気遣ってか、先輩の足取りはいつもより遅めだった。
「…………」
　無駄口をたたかず、先輩の背中だけに集中する。
　……この闇に入ってからもう20分は経っただろうか。
　……異常はおろか先輩からの合図もない。
　知らず、俺は先輩の手をいっそう強く握っていた。
「……止まって。
いま明かりをつけます」
　先輩の手が離れ、ペンライトの光が壁に向けられた。
　そこには乱暴に破壊された壁と、その奥に広がる空洞が見てとれた。
「これは……？」
「アルクェイドの仕業ですね。こんなところでこんな事をするのは、あの考えなしだけでしょう」
「なるほど」
　うん、と頷く。
　これがアイツ流の、繊細で緻密な調査なのだった。
「これ、奥に部屋があるんですか？」
「……そのようですね。下水地図にはこんな場所に部屋はありませんでしたが。
　罠は……ありませんね。中に入ります。足元に気をつけて」
　先輩は外からでも中に危険がないか判るらしい。
　崩れたコンクリート塊をまたぎながら中に入る。
　……そこはちょっとした空洞だった。
　石畳の地面。ごつごつとした岩壁。そして、天井から差し込むわずかな光。
　この景色を俺は知っている。
　あのデパートの地下の最深部にあったものと同じだ。
　となると―――
　……やはりあった。
　空洞の中心、外から差し込む光の直下に２メートル大の寝台が作られている。
　それは石で出来た柩であり、そのフタは何者かによって暴かれた後だった。
「―――そん、な」
　先輩は柩の前まで移動していた。
　俺も柩の中身を確認しに行く。
　……予想通りだ。
　石柩の中には一体の遺体があった。
　遺体といっても“人のカタチをしたものがいた”と判る程度の骨だけだが。
　あばら骨と思われる部分だけがかろうじて見て取れる。
　おそらく、一撃で心臓を引き抜かれたのだろう。
　……これがロアという吸血鬼の末路。
　アルクェイドの手で仕留められた、この街に根付いていた元凶のなれの果てだった。
「そんな―――そんな、コトは―――」
「先輩……？」
　先輩の様子がおかしい。
　過程はどうあれロアは死んでいる。
　それは喜ぶべき事なのに、まるで悪夢に直面した子供のように、わなわなと震えていた。
「どうしたんですか、そんな怖い顔をして。
　ロアってヤツはもういないんでしょう？　なら、これで万事解決じゃないですか」
　……先輩が街にいる理由がなくなってしまうのは耐えがたいが、それは俺個人の欲求だ。
　大局的に見てこれは最良の結果なのに、先輩は棺に手をついて、倒れそうな体を支えている。
「……違うんです。ロアが死んでいる状況は、間違っている。これじゃ道理に合わない……！
　転生体が死亡すればロアは次の転生先に移動する。彼を通常の手段で殺しきる事はできません。でも、それでも一時的に痕跡は消えるんです」
「その街を汚染しているロアの転生体さえ消してしまえば、少なくとも街に根付いた下級の死徒は全滅する。
　だから―――もしこれが本当にロアの遺体なら、この街に<死|・><者|・><が|・><残|・><っ|・><て|・><い|・><る|・><筈|・><が|・><な|・><い|・>んです……！」
　アルクェイドから聞いた吸血鬼の階梯を思い出す。
　確かにアイツは言っていた。
　Ⅲ階梯より下の吸血鬼―――死者たちは、親が倒された時点で元の死体に戻ると。
「で、でも、それは下級の死徒だけの話でしょう？
　Ⅲ階梯より上の吸血鬼なら、ロアがいなくなっても自分の意思で行動するって」
　そうだ。
　たとえばあの地下ガレージの吸血鬼たち。連中はⅢ階梯より上だった。ロアが死んでいたとしても、そこに矛盾はない。
「……ニュースは、ありましたか？」
「え？」
「テレビでもネットでもいい。ここ数日で身元不明の遺体を発見した、というニュースはありましたか？
　ロア……親である死徒が消滅したのなら、その時点で隠蔽されていた事件が明るみになる。
　死徒討伐において、<街|・><が|・><ま|・><だ|・><平|・><穏|・><で|・><あ|・><る|・><事|・>―――それ自体が何も解決していない証拠なんです……！」
「―――じゃ、じゃあ。
　そこにあるロアの遺体は偽物で、ロアのヤツは、」
「そう。死徒ロアはまだこの街にいる。
　いえ―――はじめからずっと同じ<器|からだ>にいたんじゃないかしら。ねえ、そう思わない、遠野志貴クン？」
　石室に女の声が響く。
　振り向けば、俺たちが入って来た入り口には修道服を着たノエル先生の姿があった。
「ふふふ。
志貴クンを尾行していたらとんでもない場所に案内してもらっちゃった。それがロアの柩？　今の話じゃもう何の意味もないゴミ箱みたいだけど」
　槍斧を手にしたまま、女は石室に踏み入った。
　その不吉さに全身が警戒する。
　……今の彼女を“先生”と呼ぶことは難しい。
　廃工場での惨劇が頭をよぎる。
　あからさまな作り笑い。隠そうともしない嫌悪と殺意。隙あらば凶器を振り下ろそうと<窺|うかが>う下卑た視線。
　いま、そのすべてが俺に向けられている。
「……………」
　ノエルに気付かれないよう、袖の下にナイフを忍ばせる。
　わずかに踵を浮かせて不意の襲撃に備える。
　―――そんな俺の様子を、女は愉しげに眺めている。
「でもさすがシエルさんね。
　こんな逃げ場のない場所に標的を誘き出すなんて、あいかわらず手際がいいわ。
　ほら、早く始めましょう？　入り口はわたしが押さえておくから、貴女はそこの吸血鬼を殺してあげて」
　ノエルの呼びかけに、シエル先輩が反応する。
　先輩は弱々しく肩をせばめ、ゆっくりと―――痛ましいものを見るような目を俺に向けた。
「―――え？」
　頭が真っ白になる。
　まったく話についていけない。理解しようとさえ思えない。
　いま、二人はどんな内容を口にしたっけ……？
「まだ分かってないの？　それとも分かってない演技？
　まあどっちでもいいんだけど。物証も取れたし、今なら真祖もやってこないし、ようやく年貢の納め時よね」
「こんな結果になっちゃったのは残念だけど、ま、八割方分かっていた事だから悲しくもないか。
　それじゃバイバイ。貴方の悪運もここまでよ、吸血鬼」
「―――なに、を」
　言っているんだ、あの女は。
　意味が分からない。足に力が入らない。
指先が震えて、忍ばせていたナイフを取り落としそうになる。
「シエル先輩」
　知らずこぼれた声は、まるで助けを乞う罪人のようだった。
　先輩は気まずそうに俺から視線を逸らす。
　いま好き放題に妄言を垂れ流している<女|ノエル>の方が正しいと言うかのように。
「あのさあ。いつまでも被害者面しないでもらえないかなあ。
　この付近でロアの転生先に該当する家柄は遠野家だけ。その遠野家には長男と長女がいたけど、次の転生先は男子である事だけは判ってた。だから必然、キミが今代のロアなわけ。
　こんなコト、いちいち言わなきゃ分からない？」
「―――ば、バカな事を言わないでくれ！
　俺は吸血鬼なんかじゃないし、ロアなんてヤツも知らない！」
　あまりの暴言に全身の麻痺が取れた。
　だって、身に覚えがないにも程がある。
　俺は吸血鬼を追っている側で、間違ってもアイツらの仲間じゃない……！
「あれ……？　もしかしてホントに気付いてなかった？
　志貴クンったら、そこまで見事にシエルさんと同じなワケ？
　……
　……あっちゃあ。これはちょっと悪いコトしちゃったな……でも……でも……」
　修道服の女はわずかに顔をうつむかせ、口元に手を当てた。
　その背中は小刻みに震えている。
　呼吸を止めて何かを堪えているらしい。
「ふふ……うふふ」
　……塞がれた口の隙間から、気味の悪い音が聞こえる。
　<女|ノエル>はもう我慢できないとばかりに口から手を離し、
その顔を俺に向けた。
「あははははははははは！
　さいっこう、
それでこそロアの生まれ変わりよね！
　最後まで自分が無実だなんて思いこんでるとか、無様すぎてワクワクしちゃう！」
「……笑うな。何がおかしいんだ、アンタ」
　ナイフを握り締めて<女|ノエル>を睨む。
　俺がロアの生まれ変わり……？
　あり得ない。そんな事は絶対にないし、そんな証拠はどこにもない。たとえ冗談でも、聞いているだけで吐き気がする。
「もう、必死になって可愛いんだから。
　でもそういうものらしいよ？　ロアの転生先になった人間はみんな自分を保ったまま、ある日あっさり変わるんだって。
　ねえ、そうでしょうシエルさん？」
「そもそも、アナタは自分をマトモだと思っていたの？
　ナイフ一本で人間を解体できる力はなに？
　常人ばなれした判断力は？　いくら吸血鬼だからって、人間だったものをあっさり殺してしまえる価値観はマトモだと言えるのかしら？」
「――――それ、は」
　目の奥で赤い火花が散る。
　俺は、
「いいかげん自覚したら？
　貴方は人殺しをなんとも思わない―――いえ、殺人だけが得意な非人間なのよ。
　貴方自身が気がついていないだけで、本当はとっくの昔に死んでいる、気の狂った殺人鬼なんだって！」
　―――それは。
　そんなコトは絶対にない―――と言いきれるのか。
　そういえば俺はいつから、この<魔眼|いじょう>を、
　日常だと呑み込むようになったのだろう……？
「……違う。下らない言いがかりはやめてくれ。
　それ以上は、ノエル先生でも許せない」
「ええ、許せなくていいわよ。
　わたしも、絶対に許さないし、
逃がさないから」
　それは一瞬の出来事だった。
　<女|ノエル>の右手がだらりと下げられる。そのまま後ろに持ち上げられる。野球でいうサイドスローのカタチに近い。
　持ち上げられた右手には剣の柄が握り込まれている。
　右手がスイングされる。手にした凶器を、俺に向かって投げるように。
　モーションが見えなかった訳じゃない。
　<女|ノエル>の投擲は先輩に比べると遅すぎる。
　それでも反応できなかったのは、吸血鬼を殺す為の凶器が、自分に向けられた事への現実感の無さからだった。
「――――――、
あ」
　<躱|かわ>すべきか、<弾|はじ>くべきか。
　思考は冴えきっているのに判断ができない。
　だって躱すという事は、自分が狙われているという事だ。
　それはおかしい。道理が合わない。
　俺は吸血鬼でも何でもない。狙われる筈がない。だから、これを躱す必要はない。
　そんな倒錯した考えに縛られて、動けない。
　凶器の切っ先が胸に触れる。
　俺は自らの潔白を証明するため、ここでその<心臓|いのち>を終わらせてしまった。
「先輩!?」
「何のつもり、シエル！」
　……間一髪。
　放たれた黒鍵は先輩の手で弾かれていた。
　先輩は俺の前に立って、<女|ノエル>と対峙している。
「……下がりなさい、代行者ノエル。
　彼がロアである確証はとれていません。今はロアの消滅の確認を先にすべきです」
「……は？　何を言ってるの？
　確証なんて十分すぎるほど取れたでしょう。もうこの街に、彼以外のロア候補はいないって、」
「早計すぎます。……それに、彼はまだ何の罪も犯していない。無実の者を殺めることは、許されません」
「――――――」
　……ぺたん、と場違いな音がした。
　<女|ノエル>は呆然と先輩を見詰めたまま、自らの頬を手で叩いた。
　顔の半分を手のひらで覆いながら、<女|ノエル>は先輩から視線を外さない。
　顔を覆った手は頬だけでなく、<女|ノエル>の顔全体を覆った。五本の指が、グシャグシャと顔を揉みしだいていく。
　……それは悪い夢を見た後、恐怖に耐えきれず<癇癪|かんしゃく>を起こす、子供のような行為だった。
「……ふざけ、ないで……」
　<女|ノエル>の両肩に力がこもる。
　シエル先輩は、それを苦しげに見つめている。
「無実！？　無実ですって！？　なに言ってんのアンタ！？
　今まで！　さんざん！　疑わしきは罰してきたクセに！　なんでコイツだけ見逃してやるっていうのよぉ！」
　槍斧を両手に構え、<女|ノエル>は俺に向かって突進してくる。
　あの女には俺しか見えていない。
　先輩を無視し、塞いでいた入り口さえ放棄して、槍を振り下ろして俺を両断する。
　が、それは実現しなかった。
　先輩の横をすり抜けたものの、あっさり先輩に横腹を蹴られて壁際まで吹き飛ばされたからだ。
「シエ、ル……！」
　咳き込みながら体を支える<女|ノエル>。
　その手に槍斧はない。今の一撃で柄がヘシ折れ、女の手から離れたのだ。
「落ち着きなさい代行者ノエル。貴方の行動は明らかな戒律違反です。先ほどの暴挙は見逃しますから、今は」
「<庇|かば>うの？」
　……それは決定的な決裂だった。
　後ろにいる俺ですら、先輩が動揺したのは見て取れた。
　向き合っていた<女|ノエル>にすれば、先輩の動揺は言い逃れのできないモノに見えただろう。
「……なにそれ。なんなのよそれ。のぼせあがるのも大概にしろっていうのよ。
　あの代行者シエルが？　こんなどこにでもいそうなガキ相手に？　まさか、情とか移してるんじゃないでしょうね!?」
「私の個人的感情とは別の話です。
　……仮に彼がそうであったとしても、まだ発現していないのなら間に合うかもしれない。ロアに上書きされる前に助ける手段が、」
「ないわよ！　転生先に選ばれた時点で終わりって、もう結論が出てるじゃない！　いえ、そもそも助ける理由がないわ。
　吸血鬼に情は無用でしょう!?　いつだってそうしてきたでしょう!?　相手が何であれロアともども殺すだけだって、アンタはいつも言ってたじゃない！」
「それは……」
　先輩の体から力が抜ける。……今までどんな時でも隙のなかった彼女が、年相応の少女の姿に戻ってしまっている。
　……それがどれほど許されない事なのか、おそらく、<あ|ノ><の|エ><女|ル>は知っている。
「は。惚れた相手は別だってワケ？　すっごい。愛らしすぎて泣けてくる。ねぇ、もしかしてアンタもワタシもバカじゃないの？
　いいえ、違うのよね。もしかしなくても、はじめからワタシだけがバカだったワケ？」
　……血走った目で<女|ノエル>は黒鍵を握りこむ。
　その視線の先にあるものは、既に遠野志貴ではなかった。
「ふざけやがって―――
　アンタの贖罪は、何もかもウソじゃない！」
　舞い飛ぶ三本の黒鍵。
　それを右手一本で彼女は弾いた。
「それなら……！」
　実力差がある事を<女|ノエル>は承知している。
　左手を限界まで酷使して放った黒鍵三本は<囮|おとり>にすぎない。
　本命は右手に隠した火葬式典だ。
　これを呆然と立ち尽くしている第三者―――俺に向けて放つ事が、<女|ノエル>の全身全霊の秘策だった。
「―――、へ？」
　……だが、その秘策は実行すらされなかった。
　<女|ノエル>が黒鍵三本を放った時点で、その右肩にはシエル先輩の黒鍵が突き刺さっていたのだから。
「きゃあああああああああああーーーー！！！」
　耳をつんざく閃光と悲鳴。
　<女|ノエル>の右肩に刺さった黒鍵が放電し、全身の筋肉を舐めるように感電させる。
　殺傷より制圧に特化したソレは、<女|ノエル>の表面を焼かず、その<筋|う><肉|ち><組|が><織|わ>を徹底的に蹂躙した。
「はっ、ぁ―――あ、うう、う、ぐっ……！」
　満足に立ち上がれず、よつんばいになってシエル先輩を睨みつけるノエル。
　その目には怒りと―――圧倒的な力の差を思い知らされた、弱者の怯えが混濁していた。
「……………」
　先輩が、落ちた黒鍵を拾い上げようと踏み出した。
「ひっ……！」
　それをトドメを刺す行為だと勘違いしたのか、ノエルは必死に逃げようともがきだした。
　手足をもがれ、背中だけでみじめに蠢く虫のように。
「あ……ああ、いや、いや―――」
　殺さないで、と恐怖に震える唇が痙攣する。
「……立ち去りなさい、シスター・ノエル。
　今夜の件はその傷で不問とします。支部に戻り手当てを受けなさい。その右腕は貴女では癒せない。回復した後はマーリオゥ司祭代行の指示に従うように」
「ぁ……う、ううぅぅぅ……！」
　……それは血を吐くようなうめき声だった。
　<女|ノエル>は壁に左手をついてなんとか立ち上がり、麻痺した片脚を引きずってこの空洞から逃げ去っていった。
　涙で濡れた目で、最後まで先輩を睨みながら。
　……予期せぬ闖入者が去った事で、空洞は元の静けさを取り戻した。
　重い沈黙。
　俺はノエル先生の言葉が忘れられず、
　先輩は苦渋の面持ちで柩を見下ろしている。
「……先輩。ノエル先生の言ってた事は、その」
　本当なのか、と言葉にできない。
　たとえ何の根拠もないデタラメであっても、彼女はそれを真実と信じきっていたからだ。
　……ロアの転生先に選ばれる条件。
“貴方自身　気がついていないだけで―――”
　……それは間違いなく俺に該当していた。
　なら、もしかして本当に―――
「それはあり得ません。まったく、遠野くんまで本気にしないでください。ノエル先生の言い分はあくまで可能性の話で、現実的とは言えません。
　だいたいロアはここで死んでいるんですから、それでいいじゃないですか」
「でも、ロアは遠野家の長男だって」
「ええ、それは確かです。
　だってここで死んでいる遺体が、その長男なんですから」
「―――!?　ちょ、長男って、そのミイラが!?」
「ミイラ……まあ、ミイラですけど。
　わたしの調べでは、遠野家にはもうひとり子供が……養子がいたんですよ。七年前に死亡したと記録にはありますが、その遺体はどこにもなかった。
　おそらく秘密裏に生き延び、ここでロアとして活動していたのでしょう」
「じゃ、じゃあ……そいつは遠野家の養子、だったのか？」
「間違いなく。そうでなければ死体の数が合いませんから。
　遠野くんは覚えがありませんか？　遠野の家にいた子供の筈なんですが」
「いえ、それが―――」
「―――すみません、ちょっと記憶にないです。
　親父が養子をとっていた事自体、初耳でした」
「そうですか……遠野家も古い家柄ですから叩けばホコリが出るのでしょうけど……
　ああ、そういえば遠野名義で、オフィス街の土地売買で不自然なお金の流れがありましたっけ。アレなんかいかにも非合法スレスレな感じでしたが……」
「ちょっ、ちょっと待ってください！　親父はともかく、秋葉にやましいところなんかありませんから！
　養子のことだって秋葉は知らないだろうし！」
「おやおや。こんな時でも妹さんを立てるとは感心です。
　家ではさぞ頼りにされているお兄さんと見ました」
「ぁ―――いえ、それは、その」
　……頼りにされているかは、まったく自信がないですけど。
「そのあたりの事実関係は今後の調査ですね。
　下級死徒の遺体が出てこないのは気になりますが、思い返してみればデパート地下の件がありました。ヴローヴが暴れた事で下級死徒の大部分は瓦礫に埋もれたのでしょう」
「繰り返しますが、遠野くんがロアの筈がないんです。
　今日だって普通に学校に来ていたでしょう？　ロアは死徒なんですから、太陽の下には出歩けません」
「あ」
　そういえばその通りだ。
「じゃあノエル先生の考えは、ただの的外れって事……？」
「でしょうね。……まったく、早とちりにも程があります。
　遠野くんは遠野くんです。ちょっと特別な眼があるだけの、あぶなっかしくて放っておけない男の子ですよ」
　先輩はいつもの笑顔で、いま一番言ってほしい事を言ってくれた。
　……肩に取り憑いた不安があっさりと解けていく。
「っ……」
　息をついた途端、軽い貧血に襲われた。
　あまりに予想外の展開が続きすぎて麻痺していたけど、俺もいいかげん体力の限界だったようだ。
「後はこの遺体の処理ですね。
　焼却処理しますから遠野くんは離れていてください」
　先輩の指示に従う。
　俺が下水路に出るのを見計らって、先輩は柩ごとロアの遺体を焼き払った。
　あっけないと言えばあっけない。
　何年にも<亘|わた>って街を侵していた吸血鬼は下水路の一角で人知れず消え去った。
　転生という不老不死を体現している以上、ロアは完全に消え去った訳じゃない。
　それでもこの街に根付いていた脅威は去った。
　……吸血鬼事件は、これで本当に終わったのだ。
　頭上には月が出ていた。
　水路から外に出るまで、先輩は何も話さなかった。
　……俺は先輩の背中を見つめながら、もう目の前まで迫っている“その時”を考えていた。
　ロアは消えた。
　アルクェイドとの協力関係もなくなった。
　彼女たちの目的がロアの消去であったのなら、もう、先輩がここに残る理由はない。
「………………っ」
　……沸き立つ焦燥に歯がみをする。
　そうであるコトは理解しているつもりだった。
　でも、いくらなんでもこんなに早く、その時が来るなんて思ってもいなかった。
　俺は先輩に残ってほしい。
　残ってほしいけど―――こればっかりは俺がどうこうできる問題じゃない。
「…………」
　先輩の顔を盗み見る。
　先輩は。
　先輩はこれからどうするつもりなんだろう……？
「遠野くん」
　不意に、先輩は足を止めて話しかけてきた。
「……なんですか、先輩」
　……告げられるであろう言葉に耐えられるよう、腹に力を入れて呼んだ。
　できるだけ自然に、声が硬くならないように。
「いえ、ただの私情なのですが。
　……その、昼間の話の続きをしていいですか？」
「……？」
　昼間の話……それはもしかして、先輩の体についての話、だったろうか。
「ぜんぜんいいですけど……その、先輩の体がアルクェイドみたいってコトですか」
　前を向いたまま、はい、と先輩は頷いた。
　……しばしの沈黙。
　先輩ははあ、と大きく深呼吸をして、
「もしもの話ですよ。遠野くんは違うと言いましたけど、
わたしが本当に吸血鬼だったらどうしますか？」
「――――」
　一瞬、頭の中が真っ白になった。
　先輩が何を言いたいのか、俺にはてんで分からない。
「わたしは彼女と同じなんです。彼女が経験のない吸血鬼であるように、わたしは自覚のない吸血鬼なのかもしれない」
　独白するように先輩はそう言った。
「……………」
　言葉がない。
　そんな事を言われても、経験のない俺には何の慰めも、何の反論もできない。
　……ただ。今の独白は先輩にとって精一杯の弱音なんだって事だけは分かる。
　だからこそ嘘は言えない。俺にできる事は、今の気持ちを口にする事だけだ。
「いいです、そんなの」
「え……？」
「だから、いいって言ったんです。たとえ吸血鬼でも、俺は先輩が好きだよ」
「――――」
　くるりと振り返る先輩。
　その急反応っぷりは、背中に冷や水を入れられて驚く子供のようだった。
「そ、そうですか。吸血鬼に喩えたのは別の意図、だったのですが。その、わたしを信じられるかどうか、といった。
　……事件も解決しましたし、遠野くんの記憶を消すかどうか、決めなくてはいけないので」
「あ―――そそ、そうですよね、そういう話ですよね！
　もちろん信じます。っていうか、先輩の秘密はちゃんと守ります！」
　先輩も頬を赤くしていたけど、こっちはそれ以上に赤面しているに違いない。
　ああもう、空気を読めずなに言ったんだ、俺は！
「と、とにかく、俺にとってシエル先輩は何があってもシエル先輩ってコトです！　それより早く帰りましょう、ここ寒いですか、ら……」
　照れ隠しに言って、現実に引き戻された。
　帰る。
　帰るって、先輩はどこに帰るのか。
「――――――」
　気持ちが凍っていく。
　先輩の顔を見るのが恐くて、顔を上げられない。
「遠野くん」
　……先輩の声が聞こえた。
　その、感情のない静かな声を聞いて、もうソレは避けられないのだと受け入れた。
「……なに？」
　顔を上げずに返答する。
「わたしが何の為にこの街に来たか、知っていますよね」
「……もちろん。ロアを退治するためです」
「ええ。けど、その理由までは話していませんでした。
　本当は今夜、二人で街に出た時のお話ししようと思ってたんですけど、なんかあっけなく終わっちゃいましたね」
「……そうですね。
　拍子抜けするぐらい、あっけなく終わりました」
　……でも時間の問題ではあったんだ。
　それが色々な偶然が重なって、こんなに早く終わっただけ。
「……けど、先輩がロアを追っていたのは教会の仕事だったからでしょう？　理由なんて、他にあるんですか」
「ええ。わたしの所属しているチームは、なんていうかあんまり仕事がないんです。あっても年に数回、ちょっと呼び出される程度で。
　ですから今回の件はわたしの独断なんです。わたしは教会の指示ではなく、自分の意思でこの街にやってきました」
「……先輩の、意思？」
「はい。わたしは自分の事情だけで行動していました。
　……わたしは人間として死にたいから、ずっとロアを追っていたんです。わたしの体がこんなになってしまったのは、彼に原因がありましたから」
　……死にたい。死にたいって、それは―――
「それだけの為に、わたしはこうして生き長らえてきました。けど、それも終わりです。
　……代行者になってから六年間。長かったのか短かったのか、よくは分かりませんけど」
　感情のない声はそこで終わった。
　うつむいた俺の視界に先輩の手が映る。
「あ……」
「顔を上げてください。最後は笑顔で、と言ったのは遠野くんの方ですよ」
　先輩の手が、俺の手を握っている。
　その笑顔はもう何度も見た、沈んだ心を勇気づけてくれる、最高の<笑|も><顔|の>だった。
「遠野くんには感謝しています。
　わたしの仕事はこれでおしまいです。あとは残った自分の責任を果たさなくちゃいけません」
「先輩、やっぱり―――」
　もう、行ってしまうのか。
「記憶を消そうと思ったけど、やめます。遠野くんには嫌われたくありませんから。
　……うん。今までありがとうございました。
　わたし、こんなに嬉しかったの久しぶりです。ですから、最後に握手しましょう」
　……ああ。だから手を差し出してくれたのか。
　包まれていただけの手を、こちらからも握り返す。
　……胸がいっぱいで、今はそれしかできなかった。
　ただ強く握っただけの握手ぐらいしか、この人に返せるものがない。
「それではお別れです。えっとですね、わたしがいなくなっても乾くんと仲良くしてくださいね。
　わたし、遠野くんと乾くんみたいな学生になりたかった」
「あ、あとですね、あんまり眼鏡を外しちゃダメですよ。
　特異なモノは特異なモノを引き寄せるんです。今回は解決しましたけど、次はどうなるか分からないんですから」
「……はい。それは知ってます。
　昔、厳しく教えてくれた人がいましたから。そもそもですね、俺が眼鏡を外したのはここ最近の話ですよ」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
　先輩の指が離れる。
　握手が終わって、俺たちは数歩分の距離をとった。
　もう手を伸ばしても掴めない。
「―――先輩。また会えますか、俺たち」
　抑えきれず、口にしても仕方のない質問をする。
「もちろん。縁があれば、きっと。
　だってわたしも遠野くんも、まだ生きているんですから」
　そうか。それはその通りだ。
　生きているのなら、いつか出会える幸運もあるだろう。
　……たとえそれが、もともと巡り会える運命になかった関係だったとしても。
「……もうちょっとだけお話がしたかったけど、キリがないからここまでにします。遠野くんにはこんなのばっかりですね」
　照れ隠しに笑って、先輩はくるりと背中を向けた。
「それじゃあ、さよなら。
　帰り道、迷わないように気をつけて」
「――――」
　返事はできなかった。
　止める事もできなかった。
　この数日間追いかけ続けた人は、幻のように消え去った。
　後に残ったものは、胸に<空|あ>いた虚無感だけ。
「………そっか。今になってようやく分かった」
　なのに俺の心は落ち着いていた。
　昨日のように沈みこむ事も、自己嫌悪にまみれる事もない。
　共にいられない事は初めから予感していた。
　俺たちは同じ世界、同じ時間に生きてはいないと。
　そもそも人間は誰であれいずれ別れる。それがあんなに苦しかったのは、きちんとした別れができなかったからだ。
　今は違う。俺は先輩と笑顔で別れる事ができた。
　それが出来たから、俺はこんなにも落ち着いていられる。
　……そうでなくては、いけない筈だ。
「……戻ろう。いつまでもここにはいられない」
　そう自分に言い聞かせて足を進ませる。
　長い夜は終わった。
　何もかも過ぎ去った事にして、元の日常に戻る時がきただけだ。
　何事もなく屋敷に帰ってきた。
　時刻は夜の９時過ぎ。……門限を１時間もオーバーしてしまっている。
「お帰りなさいませ志貴さん。
　お疲れでなければ何よりです。今日はいくぶん遅いお帰りになりましたが、お体の具合はいかがですか？」
　ロビーでは琥珀さんが出迎えてくれた。
　正門で俺が帰ってきたのをチェックして、ロビーで待っていてくれたのだろう。
「ただいま琥珀さん。それとごめん。ちょっと私用で遅くなっただけで、具合を悪くしたとかじゃないんです」
「いえ、無事に帰ってきていただけたのならいいんです。
　ご夕飯でしたらすぐにご用意いたしますので、居間の方でお待ちいただければ」
「あ―――居間には秋葉はいる？」
　……門限が守れなかったからではなく、ノエル先生の話が気になって、今は秋葉とまともに顔を合わせる自信がない。
「いえいえ、秋葉さまでしたらお部屋の方に戻られていますので、どうかご安心くださいな。お小言は明日の朝にまで持ち越しというコトで」
「いや、そういう訳じゃないんだけど……あのさ、琥珀さん。
　この家に俺と秋葉以外の兄弟がいたって話、聞いたことがある？」
「志貴さんと秋葉さま以外のご子息さまですか？
　んー、そういった話はないと思いますよ。どうしたんですか志貴さん。なにかあったんですか？」
「―――いや。ただ、俺に兄貴がいたかもしれないって、そんな話を聞いてさ。ちょっと記憶に自信がなくて」
「志貴さんと秋葉さまは二人きりの兄妹ですよ。
　幼い頃からお屋敷で働いているわたしが言うんですから間違いはありません」
　誇らしげに笑う琥珀さん。
　そうか、琥珀さんも子供の頃からうちで―――って、
「琥珀さん、昔からここで働いてたんですか……!?」
「はい。見習としてですが、翡翠ちゃんと一緒に簡単なお手伝いをさせていただいておりました。なにぶん昔のお話ですから、志貴さんが覚えていらっしゃらないのは当然だと思います」
「いや、でも会っているなら少しは覚えているべきですけど……」
　自分の忘れっぽさが恥ずかしい。
「それは仕方のない事です。昔の遠野邸はご来賓の方も多かったですし、なにより子供の頃の話ですから。
　今ですらこんな大きなお屋敷なんですよ？　子供の視点では果てのない迷路のように思えたものです。この本館だけでも覚えきれなかったのに、今はもう取り壊されたテニスコート横の迎賓館や植物園、離れのお屋敷もありました。
　ご親戚の方々も滞在していましたし、あの頃、誰がどこにいたのかを把握していたのは、それこそご当主であらせられた槙久様だけかと存じます」
「……そうですね。言われてみれば、確かに……」
　子供の時分は危ないからひとりで二階には行かないようにとか、迎賓館には近づくなとか叱られた覚えがある。
　これだけ広い屋敷なんだから、顔を合わせる機会がないまま生き別れた誰かがいたのかもしれない。
「そうですとも。秋葉さまがお忙しいので今はお暇をだされていますが、乗馬用の馬屋もあったんですから。
　あの頃のお庭は毎日がお祭りのようで、たいへん楽しゅうございました」
　昔を懐かしむように笑って、琥珀さんは厨房へ向かった。
「……俺より年上で、何年も前に死んだ養子か……」
　……いや、それこそ琥珀さんの言う通り、考えても仕方のない事だ。
　ロアの転生先に選ばれ、吸血鬼に変貌して屋敷を去り、街の地下で生き続けた……そんな“誰か”の人生を、俺が<偲|しの>んでも何が戻る訳でもない。
「……秋葉が知らないなら無理に伝える必要はないよな。もう終わった事なんだから」
　ひとり呟いて、居間に足を向ける。
　食欲はないけどきちんと栄養をとって、全身の疲れを少しでも緩和したかった。
　食事とお風呂を済ませ、ベッドに横になる。
　布団をかぶって、ぼんやりと天井を見上げる。
　いつもはわずかな不安をはらむ眠りへの工程が、今は純粋な解放感に包まれている。
　たとえそれが、喪失感からくる<虚|うろ>のような安らぎだとしても。
　――――終わった。
　傷や思い出とかは残ったままだけど、とにかく、これで終わったんだ。明日からは普通の学生として、今まで通り平穏に生きていける。
　殺したり殺されたりするのはいい加減こりごりだ。
　忘れよう。
　みんな忘れて、また明日から―――
「―――――」
　目蓋に浮かぶ光景を振り払う。
　それはもう過ぎ去ったもので、俺の我が儘だけで呼び止められるものじゃない。
「……………くそ。そんなワケ、なかったんだ―――」
　初めから俺と先輩は住む世界が違っていた。
　だからあそこで別れるのが最良だと言い聞かせた。
　―――あの人に嫌われたくなくて、そんな理解を示したつもりでいた。
　その結果がこれだ。
　最後に笑顔で別れられればいいって？　ひどい誤魔化しだ。
　あの人との時間を忘れられるワケがない。
　こんなに苦しいのなら、いっそあの時、記憶を消してもらっていれば―――
「……馬鹿か、俺は」
　一瞬でも頭に浮かんだ弱音を押し殺す。
　…………いい、もう眠ってしまえばいい。
　明日になればきっと諦めがついてくれる。
　いつも通り。戻れる保証のない、あの暗い眠りに落ちれば、何もかも削ぎ落とされて新しい朝を迎えられる。
　今はそう信じて、
　どうしようもない虚脱感に身も心も委ねていった。
「は……ぁ……はあ、はあ、あ―――！」
　原因不明のガス爆発により崩落した公園跡。
　警察によって封鎖されたものの、事件当日以降は調査を打ちきられ、今では都市の死角となった瓦礫の山。
　その不毛の地に、
　<彼女|ノエル>は苦痛を吐き出しながら逃げこんでいた。
「ぁ、はあ……あ、づ……！　あぐ、ううぅうう……！！」
　電撃で麻痺した片脚は満足に動かず、這ったまま瓦礫の坂を下りていく。
　頬は泥で汚れ、修道服は破れ、右肩を抉った傷口は完全に壊死している。
　その姿は<見窄|みすぼ>らしい事この上ない。
　事情を知る者なら下級の死徒、それも最低位の死者と判断するだろう。彼女がほんの数刻前まで代行者だったと話したところで信じる者はいない程に。
「あ―――きゃあああ…………!?」
　運悪く積み上がった瓦礫のバランスを崩し、捨てられるゴミ袋のように最下層まで転がり落ちた。
「ひ、ぎ……！　いい、ぃ、い、い……！」
　喉からこみあげる悲鳴をかみ殺す。
　追っ手はいないと分かっていても大声はあげられない。
　彼女は様々なものから逃げてきたからだ。
　同じ代行者の少女から。
　生意気な司祭代行の出頭命令から。
　そして―――今も自分の喉を攻める、卑しい血の渇きから。
「治療……治療なんて、受けられるワケ、ないじゃない……」
　肩口の痛みに耐えられず彼女は泣き続けている。
　教会の支部にまで行けば傷の治療は受けられる。だがそれだけは選べない。いま自分の身体を診られる事は、彼女にとって自殺と何も変わらない事だからだ。
「ぁ―――ああ、はう、うぅぅう…………！」
　今にも腐ってもげ落ちそうな右肩の痛みと、
　喉を燃やすような渇きが彼女の精神を侵していく。
　マトモな人間なら痛みに耐える事しかできない状態。
　しかし。
　その極限において、彼女の思考を埋めるのは<あ|・><の|・><女|・>への憎しみだけだった。
「なにあれ……なによあれ……なんなのよぉ……！」
　唯一可動する左手で地面を殴りつける。
　血を吐くような悔しさの中、彼女は先ほどの戦いを思い返す。
　―――戦いは一瞬で終わった。
　もとよりあの女と正面から戦って勝機があるとも思わなかった。だから、やるのなら初撃で決める。あの女を狙うと見せかけて、後ろにいる少年を仕留めればそれでいいと決めていた。
　なのにそれすらできなかった。
“それなら―――！”
　渾身の黒鍵連投は防がれた。
　それは……本音を言えば通用してほしかった……予期していた事だった。
　けれど。次の本命こそが勝負の一撃だ、と移行する前に、もう勝負はついていた。
　あの時。
　彼女の脳裏を占めたものは、自虐にも似た絶望だった。
“いつの間に？　モーションも何も見えなかった。実力差がある、なんてものじゃない。六年前から敵わないと分かっていて、それでも懸命に努力してきて、少しぐらい差は埋まってきたと信じていた。
　けど―――この差は、六年前よりもっと遠い。
　あの女の前では、私は本当に虫けら以下だ―――”
“立ち去りなさい、シスター・ノエル”
　女はそう言った。あえてシスター、と。
　おまえはもう代行者ではない。自分の弟子でもない、と宣告したのだ。
「ぁ―――、ぁぁ、あ―――」
　それはいい。
　自分が道を踏み外している事は承知している。
　遠野志貴の件がなくても、いずれこの日はやってきただろう。
　でも。
　でも、でも、でも、でも、
「―――悔しい。悔しい、悔しい、悔しいぃぃぃぃ……！」
　絞り出される怨嗟の声。
　あんな姿はありえない。
　あんな無様さは許されない。
　弱さを剥き出しにし、今さら人間らしさを見せるなんて、そんな裏切りは、絶対に、絶対に許されない……！
　<彼女|ノエル>は今までずっと堪えてきた。
　シエルの天才性を妬みながらも、心の中では自分より下の奴隷にすぎないと信じていたから、この六年間耐えられた。
　なのにアレはなんだ。
“アレは英雄であり、もう人間ではない”。
　そう納得していたから復讐心を棚上げできていた。
　だが、それらがすべて嘘だったら？
　今までの非人間ぶりの方が演技で、心の中では幸福を求めていた、なんて人間的な苦しみを持っていたのなら、それは最大の裏切りだ。
　<彼女|ノエル>に対する贖罪。
　あの女が台無しにしたすべてへの贖罪。
　それらを放棄して、心の底から笑うなど許されるのか。
　あの女が許されていたのは、あの女が超人だからだ。
　人間ではないから過去の罪を不問にしてきた。
　だが、それが同じ人間にすぎないとしたら、絶対に許さない。
　罪には罰を。悪には報いを。非道には更なる非道を。
　あの女の行為は、罰せられるべきものになる。
「なのに……なのに、何もできない……！
　強いから……強いからって、幸せになるの!?　わたしは弱いからこのまま死ねって言うの!?
　悔しい、悔しい、悔しい、悔しい……！　わたしに、わたしがアイツより、もっと強かったら……！」
　天罰を与えてやれるのに。
　鋼鉄の処女、戦うだけの機械人形に、身の程を思い知らせてやれるのに、と彼女は嘆いた。
　爪を剥がし、指の第一関節がとうになくなっている事に気付かないで、ひたすらに地面を掻き続ける。
「神さま、神さま、神さま……！」
　どうか救いを。
　わたしに救いを。
　あの女にしかるべき結末を。
　代行者だった女は一心不乱に呪い続ける。
　……もとより祈りとは主そのものに捧げるもの。
　地上の出来事を、あまつさえ己を救わんが為に捧げるものではない事を、彼女はもう完全に失念していた。
「うん、でもそれがタイヘンいいのです！
　アタシ、その祈りだけで十分オカズにできちゃいそう！」
「―――、え？」
　不意に現れた人間の気配に振り向く。
　でも、その時には何もかもが遅かった。
「はあい、こんばんは。こんなところに隠れ家を作ってるなんてイケナイ子ねぇ。
　ま、そのあたりはどうでもいいけどぉ。なぁに、ノエルちゃんは強くなれればそれでいいのぅ？」
「――――――」
　理解が追いつかない。
　マーリオゥ司祭代行の目から逃れるため、ここでキャンプしていたのは事実だ。
　それは<あ|シ><の|エ><女|ル>にさえ知られていなかったのに、どうしてこの女は知っている？
「来ないで……誰よ、あなた!?」
「アタシィ？　アタシは通りすがりの善人よぅ？　ノエルちゃんにちなんでスクルージとか名乗ってもいいんだけど、アタシ、キャロルはなーんか嫌いなのだわ。
　だってあれ強者が弱者になっちゃう話じゃない？　愛が足りないんだってば、愛が」
「その点アタシはラブ大サービス、弱者を強者にするのがライフワークなの。どう？　今なら底辺で出会った記念に、アナタを強くしてあげるけど？」
「――――――、は」
　あまりに馬鹿げた話すぎて、彼女はつい笑ってしまった。
　このワケの分からない来訪者があまりにも愚かすぎて、警戒心さえ吹き飛んでしまった。
「ふざけないでよ……何も知らないクセに、なに気軽に<語|うた>ってるのよ！　強くなれるのならとっくになってる……！
　わたし、わたしみたいな凡人じゃ、あの天才には何をやったって敵わない……！」
　心の底からの怒りと悔しさ。
　６年……いや、正しくは13年間、溜まり続けた想いを口にする。
「何をやったって？　いま、そう言ったのかしら、お嬢さん」
　……それが本当のスイッチだったのか。
　白衣の女はかつん、とヒールを響かせて、這いつくばった彼女に近づいた。
「貴女は<ま|・><だ|・><何|・><も|・><し|・><て|・><い|・><な|・><い|・>。
　ただ生きてきただけ。強くなる努力も工夫も、対価も愛も、なにひとつ支払っていない」
　ソレの指が彼女の唇に触れる。
　白い指が、泥にまみれた顔を上げさせる。
「でもまだ間に合うわ。ねぇ、可愛いお嬢さん？
　強くなれるのなら、本当に何をしてもいいのかしら？」
「――――――」
　……返答は、小さいが確かな意思を孕んでいた。
　ソレの誘惑に恐ろしいものを感じながら、もちろん、と<彼女|ノエル>は頷いた。
　頷いてしまった。
「でも、どうやって……？」
「そんなのカンタンよ。
　アタシがアナタを、ホンモノの吸血鬼にしてあげる」
「え……ちょっ、待って、なに言ってる、の……？
　吸血鬼にするって……ううん、それよりホンモノって、え？」
「そ、ホ・ン・モ・ノ♡
　ノエルちゃんったら血を吸われたから死徒化してると思ってるけど、それ、ただの勘違いだから。
　アナタには死徒になる才能すらない。ホントの凡人である事をまだ受け入れてなかったのね。
　でも安心して。アタシの方法ならどんな人間も―――それこそ虫ケラだって吸血鬼にしてあげられるわ」
「ま―――待って、待って、待って……！
　わたし汚染されてないの!?　だって喉が渇いて、こんなに苦しいのに……!?」
「ああ。それ、ただの思い込み。あとちょっと風邪気味なだけなんじゃない？」
「――――――！」
　逃げだそうともがく彼女の背中に、ソレはゆっくりとのしかかった。
　……気がつけば、彼女の体はところどころが白い糸に縛られていた。背中にのしかかった何者かはぬらりと光る舌で、彼女の唇を舐め上げる。―――捕らえた獲物をいたぶって悦に入る、醜悪な蜘蛛のように。
「さあ、いってみましょうか可愛い虫ケラさん？
　いやぁん、臨床実験はアタシも初めてだから、ドキドキして思わず食べちゃいそう！」
「や、やめ―――お願い、やめて―――！
　やだ……いや、いやいやいやいや……！　吸血鬼になるのだけは死んでもイヤァァアアアアア！！！！！」
　苦痛をともなったものの、新生は数分で終わりを告げた。
「ぁ………ぁ…………ああ、ア――――――」
『彼女』の肉体は完全に変態したが、精神の在り方に変化はない。
　今は人間としての知覚、知能、価値観が、吸血鬼という“新しい”カタチにバージョンアップされている最中だ。
「……ハア。はは……あはは、は……」
　口から漏れる声には苦痛と歓喜が混濁している。
　かつて、『彼女』は吸血鬼にだけはなるまいと誓っていた。
　今でもその誓いは生きている。
　吸血鬼への復讐こそが彼女の生存理由だったからだ。
　だがそれもあと数分で消え去るだろう。
　人間だった頃の執念なぞあまりに小さい。今はそれ以上の快感が全身を駆け巡っている。
「ほら、なってしまえば楽でしょう？
　そういう姿になったのは予想外だけど、そっか、ノエルちゃんはその頃が一番ノリノリだったってコト？」
「………そうよ、文句ある？
　これが私。この姿が私。こうなりたかったのが私。
　―――すごく上出来。気に入ったわ、この姿。
　ありがとうって言ってあげる」
「お礼は結構、慈善事業だもの。
　でも、それだけじゃああの代行者には勝てないわよぉ？　むしろカモになった感じ？」
「……そんなの、言われなくても分かっているわ。今の私なら黒鍵一本で始末される。どうすれば……いいの？」
「もちろん、追加のお注射をしなくちゃねぇ？」
「……それは？　さっきの注射と違うの？」
「同じものよ。これ一本一本がイデアのレプリカ。一本ごとに死徒の階梯をあげる、アタシ特製の魔薬ってワケ。
　ただしぃ。一本ごとに死の痛みが魂にふりかかっちゃう。痛覚のない死徒にとって原理の書き換えは死の痛みだもの。命の保証はできないってのが泣き所かしらねぇ？」
　ソレが手にしたアンプルは残り６本。
『彼女』は今の自分がⅡ階梯の死徒に相当する事を、誰に言われずとも把握している。
　通常、Ⅳ階梯の死徒であれば代行者を圧倒し、
　その上のⅤ階梯になれば、代行者が束になろうとものともしない呪いを帯びるという。
　この説が正しければ、あと二本、ないし三本で彼女は心身共に自由になれる。
　すべて使えばⅧ階梯―――真祖すら寄せ付けない、祖に手が届く死徒の頂点にまで上り詰める。
　だが、一本で一度の死。
　それを乗り越えるだけの魂の許容量が自分にはない事も、死徒になった『彼女』には理解できていた。
「…………一本で、Ⅰ階梯…………」
「ええ、それは保証してあげる。
　さあ、アナタは何本まで試すのかしらぁ？」
　粘着性の笑みが新参者の死徒を挑発する。
　……彼女は躊躇した後、
ソレが手に持つアンプルをすべて奪い取ると、
恐怖に歪んだ顔でまず一本、自らの心臓に打ち付けた。
「ア――――――アア、ア？」
　血管内を駆け巡る<疑似原理|イデアモザイク>。
　先ほどの変態など比べものにならない激痛が、
　この地上すべてから拒絶される不快感が、
　彼女の体に収束していく。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！！」
　もう、そこにあるのは苦痛をあげるだけの装置だった。
　ひとつの変革を試作し、失敗とみるや次の変革に移行する地獄のトライアル。
　おぞましい死とおぞましい誕生が秒単位で交代する。
　助けを叫ぶ事さえできず、苦しみ続ける深紅の体。
　見上げれば月はなく、夜空さえない。
　此処は地の獄、逃げようのない<八脚|やつあし>の檻。
　絶叫は誰に知られる事もなく、『彼女』の心が“本当の”吸血鬼に成り代わるまで、暗い闇に響き続けた。
　夏の、暑い日。
　青い空と　大きな大きな入道雲。
　じりじりとゆらぐ風景と
　気が遠くなるような蝉の声。
　蝉の声。
　みーん　みんみん
　みーん　みんみん
　みーん　みんみん
　――――うるさくて、死にたくなる。
　広場には蝉のぬけがら。
　たいようはすぐそばにあるようで、
　広場はじりじりと焦げていく。
　真夏のあつい日。
　まるで、セカイがふらいぱんになったみたい。
　えーん　えんえん
　えーん　えんえん
　えーん　えんえん
　秋葉が泣いている。
　秋葉の前には子供がひとり倒れている。
　白いシャツが真っ赤に染まって、ぴくりとも動かない。
　それを見下ろしている。
　自分の両手は倒れている子供と同じように赤い。
　いや、違う。
　この両手は、倒れている子供の血で赤いだけ。
　つまりオレは。
　ガキの時分から、人でなしの人殺しだった。
　日の当たらぬ庭園。
　月光だけを頼りに咲き誇る大輪の花々。
　天には<宙|ソラ>を塞ぐ<白貌|はくぼう>。
　巡る星の<最中|さなか>には無垢純白の女がひとり。
　言葉さえ知らず。
　自己の意義も解せず。
　殺戮の手段としてしか扱われない。
　鮮血にまみれながら傷はなく。
　ドレスを濡らす朱は<同胞|はらから>どもの心血だけ。
　女に許された自由はそれだけ。
　用を済ませ帰還した女は、落ちる星のように城の深部に幽閉される。
　自身で起きる事さえできない眠りに落ちる。
　……白い女はその運命さえ知らず、ただ、遠い目で月を見上げている。
　―――そこに、永遠を見た、と思った。
　錯覚か。
　おそらくは錯覚だろう。
　だがかまわない。幻だろうと真実だろうと同じ事だ。
　網膜に焼きついた像はたとえ死のうと消え去らない。
　幽玄の花。この地上でただ一つの、輝ける星の素子。
　その星を、摘み取ろうと考えた。
　不滅なる者同士であれば、死が互いを分かつ事はない。
　血で結ばれた<環|たまき>。
　殺すにしても殺されるにしても、決して終わる事のない業を結べばよいと。
　……地獄に落ちるのは当然だ。
　かつて無限を求めておきながら、私はその実、閉じた輪に身を落としたのだから。
「あ――――」
　……長い眠りから覚醒する。
　ここが自分の部屋である事を視認して、眼鏡をかける。
　窓が開かれたままなのだろうか。
　庭から小鳥の鳴き声が聞こえてきている。
　ひんやりと冷たい風が頬にあたる。
　目蓋には淡い陽の光。
　柔らかな朝の訪れ。
　寝床から起き上がり、時刻と曜日を確認する。
　午前７時前、金曜日。
　体の調子はいいとは言えない。
　疲れが取れていないのだろう。体中が気だるく、熱っぽい。
「う…………」
　深呼吸をするだけで吐きそうになった。
　いつもの貧血ではなく、空腹からくる不快感だ。
　腹のあたりに毒物があるようで、気持ちが悪い。
「失礼いたします」
　使用人が部屋に入ってくる。
　まだ部屋の主人は眠っていると思ったのか、起きている俺を見てかすかに驚いたようだ。
「おはようございます。
　お目覚めになられていたのですね、志貴さま」
「――――」
　なぜか。
　そんな些細な仕草が癇にさわった。
「おはよう。朝食だろう、分かっている。
　すぐに行くから出ていってくれ。着替えるんだ、これから」
「……失礼いたしました。
　それでは、食堂でお待ちしております」
「……って。なにやってんだ、俺」
　気分が悪いから<他|ひ><人|と>にあたるなんて、どうかしている。
「……それにしても」
　気分が悪い。
　心に余裕がないからあんな発言をしたのだろう。
　これじゃ授業に集中できそうにないが、だからといって欠席する理由にはならない。
「……そうだ。学校には行かないと……」
　吐き気が酷くて考えがまとまらないが、
　学校でなければ起きない出来事があった筈だ。
　ゆっくり深呼吸をして胃の不快感を紛らわせる。
　慢性的な……しかし不便だなこれは……眩暈を抑えこんで、自分の部屋を後にした。
　味気ない食事を終え、居間に顔を出す。
「………………」
　先客は見るからに気分を害している。
　こちらが先に折れないかぎり態度は変えない、といわんばかりの刺々しさだ。今まで意識しないよう努めていたが、あれはあれで中々に愛らしい。薔薇は棘があってこそだ。
「おはよう秋葉。今朝も早いな」
「おはようございます兄さん。
　兄さんも今朝はそれなりですね。昨夜は夜更かしをしていたようですが」
　ああ、それで怒っている風を装っていたのか。
　家の決まりを守らせる為の威圧。
　少女としてはともかく、家長としては文句のつけようがない。
「門限を１時間やぶった事は謝るよ。
　今朝もだけど、ここのところ具合が悪くて。ちょっと公園で休んでいたんだ」
「そういう時は連絡をするように、と言った筈です。すぐに迎えを出しますから。
　……それで。体の具合が悪い、というのはどのくらいなんですか？」
「食欲がない程度だ。しばらくすれば良くなるから心配しないでいい。なに、ちゃんと栄養をとれば元に戻るさ」
「……大丈夫なんですか？　顔色が悪いようですし、気分が優れないのでしたら今日はお休みになったほうが―――」
「いいよ。明日から休みなんだし、今日ぐらいは乗り切るさ。いいから自分の事に気を遣いなさい。俺なんかよりおまえの方が毎日働いているんだから」
「い、いえ、私は職務というか、当主としての義務というか」
「義務で家計が回せるなら破産する家はないだろう。
　遠野の家を存続させる事がどれほどの大仕事か、部外者ながら分かってるつもりだよ。休みの日なら俺も力になれるから、何かあったら言ってくれ」
「に、兄さん……？　何かわる……いえ、善いものでも食べたんですか？　あ。それとも、何かとんでもない悪さをしたので、発覚する前に善行を積んで根回しをしているとか？」
「……おまえ、実の兄をなんだと思ってるんだ？
　昨日までは学校以外のコトで忙しかっただけで、今日からは心を入れ替えて遠野家の長男らしく努めるさ。
　ほら、のんびりしてる暇はないだろ？　時間、いいかげんやばいんじゃないか？」
　時計は７時20分になろうとしていた。
　妹は自動車による通学だが、それでも７時過ぎには出発しないと間に合わなかった筈だ。
「そ、そうですね。それではお先に失礼します。
　……あの、兄さん？」
「？」
「先ほどの提案ですが、喜んで受けさせていただきます。
　日曜日の午後に兄さんの歓迎会を開きますから、空けておいてくださいね」
　妹は凛とした態度のまま居間を後にした。
　長い黒髪を涼やかに、僅かとも揺らす事なく。
「………………」
　品のある立ち振る舞いに見惚れてしまう。
　我が事ながら自分が分からない。
　あんな高級品を前にして、今まで何をしていたんだ？
　屋敷を出て学校に向かう。
　手足がまだ重く、他人の体を着ているような感覚で坂道を下りていく。
「おいーす、おはようさーん」
　教室には見慣れた顔があった。
　<欠席|さぼり>の多い友人だが、出席する日は余裕をもって登校している。
　学校に家が近い事もあるが、やると決めたら一から十まできっちりこなす律儀さによるものだろう。
「おはよう遠野くん。久しぶりだね」
「あれ、弓塚さん？　そういえばしばらくぶり。何日か休んでいたけど、風邪か何か？」
「うん、ちょっとケガしちゃって。大事にはいたらなかったんだけど、お父さんが心配性でね。例の通り魔事件の犯人が捕まるまで休んでいなさいって」
「それは何より。でも捕まってないよな、犯人」
「ああ。ま、ここ数日ニュースもねえし、逃げたか隠れたかしてるんじゃねえの？」
「うん。いつまでも休めないし、事件も途絶えたでしょう？　それでお父さんもしぶしぶな顔で、学校に行きなさいって」
　それは良かった。
　どうして怪我をしたのかはあえて訊かない。
　彼女の父親がそこまで過保護になっていただけで、なんとなく察せられる。
　もしかすると遠野志貴のように、俺の知らないところで弓塚も何らかの<虎口|ここう>から逃れていたのかもしれない。
「っと、退屈な一日の始まりだ。
　んじゃあな遠野、また昼休みに」
　ホームルーム開始のチャイムと共に、友人は自分の席に戻る。
「……………」
　……と。
　クラスメイトは上目遣いで俺の顔を見つめている。
「どうしたの弓塚さん。机、戻らないの？　それとも俺の机で一緒に授業とか受ける？」
「え!?　う、ううん、嬉しいけど遠慮しますっ！
　……きょ、今日はおかしなコト言うんだね遠野くん。わたしが休んでいる時になにかあった？」
「べつに何も。弓塚さんの方こそヘンじゃない？」
「わ、わたしはいいんだよ、病み上がりですからっ！
　……うん、でもやっぱり……ちょっと似てる、かも」
「？　似てるって、俺のこと？」
「うん。休む前、遠野くんっぽい人を見かけてね。声をかけてみたらぜんぜん違う人で、あわてて逃げ出したんだ。
　後になって思い返すとなんで遠野くんっぽいと思ったのか不思議だったんだけど……」
「だったんだけど？」
「今朝、遠野くんを見た時にあれ？　やっぱり似てた？　って思っちゃった。
　きっと歩き方とか、そういうのが似てたんだよね」
　それで納得したのか、彼女も自分の机に戻っていった。
「……歩き方、ねぇ？」
　彼女が休み出す前……それは俺が
　　　　　　　　　　　　　　　　　を殺害し、
　茫然自失のまま彷徨っていた頃と一致する。
　もしかするとそれは本当に俺だったのでは、とも思ったが、声をかけたというのなら別人だ。俺はクラスメイトに話しかけられた記憶はない。
「なんにせよ、弓塚さんが教室にいるのはいいよな。ホッとする」
　反面、女子グループが騒がしくなるがそのあたりは愛敬だ。
　俺は彼女の■■そうな背中に未練を残しながら席に座り、今日という新鮮な学生生活を楽しむ事にした。
　期待とは裏腹に、これといった旨味もなくすべての授業が終わってしまった。
“学校が退屈なのは当たり前だよ”
　昼休み、友人が言っていたコトは正しかったワケだ。
　正門に向かう途中、気まぐれで校庭に足を向けた。
　グラウンドに人影はない。
　部活動は禁止され、下校時間も過ぎたので、校舎に残っている生徒は皆無だ。
　遠くの地平線に日が沈んでいく。
　こうやって、別段やる事もなく学校に残っている物好きは自分ぐらいしかいない。
　茜色に染まっていく学舎。
　夕焼けはあまり見たくない。
　床にべったりと付着した血液に見えて、ここ数日の出来事を思い返してしまいそうだ。
　赤いなにか。赤い街並み。赤い処理場。
　石造りの礼拝堂に敷き詰められた、人肉で作られた<絨毯|カーペット>。
　新雪を踏むようなあの感触は、中々にクセになる。
「――――いた」
　眼球からの痛みに意識が飛びかける。
　眼鏡をちゃんとかけてるのに、頭が、痛い。
　　　　　　　どうして。
　ずきりと。　　　　あたまが
　　　どうして。
　　　　　　　　　　　あたまが。
　どうして。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　ずきりと
　　　　　　　　どうして
「はあ――――はあ――――は―――――」
　痛みは程なくして収まった。
　人気の無い時間で助かった。
　誰か、誰でもいいので、誰かが近くにいたら、それだけで気は収まったのに、誰も近くにいないで助かった。
「帰るか。まだ、ここに用はないし」
　ほう、と肺にたまった空気をはき出す。
　俺は渇ききった喉に手を当てながら、真っ赤な校庭を後にした。
　けだるい体を引きずって帰路につく。
　朝から一向に手足の鈍さはとれない。
　根本的な解決が必要だ。
　これは早急に、今夜にでもアテを見つけないと話にならない。
「ただいま……あれ、翡翠？」
　ロビーでは翡翠がなにやら作業をしていた。
　模様替えだろうか、見なれない椅子をロビーに運んでいる。
　使用人は俺に気がついたのか、トツトツと静かな足取りでやってきた。
　危機感なく近寄ってくる小鳥を思わせる。
　……無防備すぎて溜息がでる。節度のある俺だからいいものの、心ない<猟師|ニンゲン>なら今ごろ撃ち抜いている。
「お帰りなさいませ志貴さま。
　……お帰りに気付かず、申し訳ありません」
　……ますます酷い。そんな病的に白いうなじを、これみよがしに見せないでほしい。
「いいよ、たまにはそういう事もあるだろうし。それよりなに、模様替え？」
「はい。遊戯室の椅子を新しいものに替えましたので、古い方を椅子の少ない部屋に移動させるよう、秋葉さまから」
「そっか。琥珀さんはいる？」
「姉さんは外に出ているところです。ご用でしたら後ほど、お部屋の方に二人でうかがわせていただきますが……」
「いや、それならいいんだ。自分でできるから。
　喉が渇いてるんで食堂にあるお茶一式、使わせてもらっていいかな？」
「あ……はい。
　トレイに載っているものなら問題ないと思います」
「そっか。仕事中、呼び止めて悪かったね」
　それじゃまた後で、と声をかけて食堂に向かった。
　喉を潤してロビーに戻る。
　トレイには緑茶のセットと軽いお茶請けがあったので、思いの外長いお茶の時間になってしまった。
　さて。
　家人たちもまだ帰ってきていないようだし、夕食まで自分の部屋に、
「痛っ」
　膝に痛みを覚えて視線を下げると、そこには先ほど使用人が運んでいた椅子があった。
　椅子は邪魔にならないように壁際に置かれていた。
　きちんと前を見ていればぶつかる事のないものだ。
「……まいったな。こんなのに気がつかないほど疲れてるのか」
　はあ、とため息をつく。
　ロビーに椅子を置いても仕方がないだろう。
　ロビーに椅子は有り余ってる。あるものを余計においてどうする。無駄に数が多いのは目障りだとなぜ分からない。まったくもってセンスがない。慎みがない。使い途がない。
　……クソ。椅子にぶつけた膝が、まだ痛んでいる。
　これは余分な痛みだ。
　椅子さえなければ使わなかった感情だ。
　ケチがついた。
　せっかくの自由時間を、こんな、使用人ひとりの不始末で台無しにされるなんて―――
　ごく自然に椅子を蹴りつけた。
　ずきん。
　すると、蹴った反動で足がよけいに痛んだ。
　ずきん、
ずきん。
　ずきん、
ずきん、
ずきん。
「―――――――コイツ」
　なんて、邪魔な、ヤツ。
　神経を逆なでする。
　目障りだ、この椅子。
　この椅子。
この椅子。
この椅子。
この椅子。
この椅子。
この椅子。
この椅子。
この椅子。
この椅子。
この椅子。
この椅子。
この椅子！
「志貴さま……!?」
「―――あれ、翡翠。
　どうしたんだ、いきなりそんなところに、いて」
　言って、驚いた。
　呼吸が乱れている。喉がぜいぜいと喘いでいる。
　まるで何十キロとマラソンをしてきたようだ。
「あれ……なんでこんな、息があがってるんだろう、俺」
　顎をあげて呼吸の通りをよくする。
「志貴さま―――なにを仰っているのですか？」
「？　なにって、翡翠こそどうしたんだよ、そんな不安そうな顔して。なにかあったのか？」
「……志貴さま、ご自分が何をなさっていたのか、わかっていらっしゃらないのですか……？」
「何をしてるかって、俺は別に何も―――」
「くっ―――」
　また頭痛がした。振り払うように頭を振って、足元にあるモノに気がついた。
　そこには原形を留めていない、
　叩き壊された椅子の残骸が散らばっている。
「――――――え？」
　どくん、と。
　心臓が、早鐘を打つ。
「これ……俺が？」
「……はい。志貴さまが椅子を持って、床に何度も叩きつけた結果です」
「な――――」
　驚きで心臓が止まるかと思った。
　体温が急速に落ちていく。
　頭の中が音をたてて凍っていく。
　呆然と自分の両手を見下ろす。そこには確かに椅子の脚を握り続けた跡がある。
「なん、で？」
　意味が分からない。
　行動が把握できない。
　遠野志貴らしさがない。
　そりゃあたしかに椅子に足をぶつけて、痛いなって思ったけど。なんでそんなコトぐらいで俺は、こんな子供みたいに、些細な怒りにまかせて物を壊したりしたんだろう……？
「……志貴さま、ご気分が優れないのですか？
　体調が悪いのでしたら、お医者さまをお呼びいたしますが」
「――――――」
　その目は知っている。
　昔、病院で何度も見てきた目だ。
　俺を、遠野志貴を異物だと見つめる目だ。
「―――違う。なんでもない。なんでもないんだ。
　ごめん翡翠、ごめん……俺、どうかしてる」
　小鳥から離れる。
　壊れた、俺の手によってバラバラになった椅子から離れる。
「志貴さま、落ち着いてください。
　そんなに息を乱してはお体に障ります」
「いいんだ、ほっといてくれ！
　一人になりたいんだ、一人にさせてくれ……！」
　怒鳴りながら階段を駆け上がる。
　まるで逃げだしてるようだ、と他人事のように思いながら。
　部屋に戻ってベッドに転がりこむ。
　布団をかぶって外界から隔離される。
　まただ。
　また、こめかみが<疼|うず>く。
　ずきんずきん、と。脳の中に新しい心臓ができたみたいに、休みなく頭痛が繰り返される。
「…………くっ」
　痛い。
　痛い。
　痛い。
　わけもなく凶暴な気持ちになったのはこの痛みのせいだ。
　連日の事件で線を視すぎて頭がどうかしてしまったのか。
　ともかく―――今は、落ち着かないと。
　頭痛だって、眼鏡さえ外さなければこれ以上強くなることはない筈だ。
「そうだ……これはいつもの頭痛だ。すぐに落ち着く。
　ただ痛いだけの、いつも通りの頭痛なんだ……」
　それ以外に何がある。
　静かに。静かにしていれば収まってくれる。
　……。
　…………。
　…………………。
　……………………………ほら、収まってきた。
　部屋はとても静かだ。
　時計の音しかしないこの部屋なら、すぐに気持ちも静まってくれる。
　チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。
　…………時計の針。
　チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。
　…………ちょっと、静かにしてくれ。
　チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。
　…………おい。
　チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。
　…………静かにしろって言ってるのに………！
　―――とまった。
「よし。静かになった」
　これならもう誰にも邪魔はされない。
　頭痛が治まらないのなら眠ってしまえばいい。
　目を閉じれば暗い夜がやってくる。
　夜になれば何もかも忘れられる。
　今はそれでいいじゃないか。どうせ、何もかも終わってしまったんだから。
「―――ああ、そうか。そういえば、もう」
　吸血鬼もいない。
　恐れるべき相手もいない。
　追いかけてくる悪夢もない。
　もう目障りな<代|お><行|ん><者|な>もいない。
　―――ならいい。
　俺は深く息を吐いて、深い眠りに落ちる事にした。
　―――気のせいか。
　　　　何人かの悲鳴を聞いた気がして、目を覚ました。
　時刻は午前零時を過ぎている。
　早くに眠ってしまい、夕食を食べ損ねた事で体は空腹を訴えている。
　仕方がない。自分で料理ができる訳でもなし、外で済ませる事にしよう。
　ところで。
　単純に食事と言っても、その在り方は二つに分けられる。
　愉しむ為の食事……これには手間暇がたいへんかかる……と、
　生きる為の食事……こちらは簡潔に済ませられる……だ。
　今回は後者の方だ。
　まだ手足がだるく余分な体力は使えない。しかし―――
　結果的に、このような食事を見る羽目になった。
「死んでる―――？」
「おねがい、私だけは殺さないで……！」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめん―――！」
　ビルの屋上から、のたうち回る人体を観察する。
　ふむふむ。今は６人だけだが、ああして<死|・><者|・>にしてしまった以上、ねずみ算式に犠牲者は増えていくだろう。
　まさにゲーム感覚だ。遊びで獲物をいたぶり、その苦悶をスパイスにして自らの加虐趣味を満たしている。
　まったく、これだから慣れていない田舎者は話にならない。
　はじめは一匹で十分だというのに、つい夢中になって手当たり次第に食い散らかしてしまうのだから。
　―――ふと、自分の手に視線を落とす。
　我々の食事は善なのか悪なのか。
　生きる為の食事ではなく、愉しむ為に―――より美味なる時間を求める事は許されるのか。
　勿論許されるとも。
　負債はすべて殺される側が被る。自分の身も自分で守れない生命なら、餌食になるのが自然の摂理だ。
　他の生き物を殺す。
　他種の動物を食い物にする。
　それを強者とするのなら、頂点は<死徒|かれら>ではない。
　人間こそ究極の捕食者だ。
　種として劣る部分を文明で補う知性体。
　真祖ならばこう語るだろう。
　最終的に世界という最大の生物を殺してしまえるのは、きっと人間という種だけだろう、と。
　だが究極は最強という訳ではない。
　ただ“その手段が極まっている”だけの話だ。
　人間は種として優れている反面、一個の生命としては弱すぎる。自分たち以外のあらゆるものを犠牲にしなければ生存できない弱さは、構造的な『悪』に他ならない。
　知性の有無の違い、生態としての違いはあれ、人間は何かを捕食する事で生きている生物だ。
　であれば、<殺|ア><人|レ>を悪と<罵|ののし>る事こそ<傲慢|ごうまん>だ。
　罪があるとすれば、それは捕食者として生活しながら、その自覚がなく、自分の身さえ守れなくなった彼等側にある。
　―――それは違う。
　それは一方的な強者の理屈だ。
　おまえたちの理屈は、おまえたちの中でだけ語っていろ。
「たすけて、たすけて、たすけて……！」
「ひぃ……ひぃぃ、ひぃいいいい……」
「なんで？　なんで？　なんで？」
　胸躍る光景だが、今夜はこのあたりにしておこう。
　自分自身に食事の<献立|メニュー>やら<作法|マナー>やらを評価されるのは興醒めだ。
　残り香で十分に<胃|ハラ>は満たされた。
　目を覚ます前に自分の部屋に戻らなければ。
　帰り道、空を見上げる。
　それは今にも落ちてきそうな月だった。
　我慢できていた筈の喉が、上質の蜜を求めてしまう。
「よう。そろそろ目は覚めたか、バルダムヨォン？」
　口にするのなら女性がいい。
　屋敷に帰れば極上のものがあるが、アレに手を出すのはためらわれる。
　家族には手を出しづらいという精神的な問題ではなく、
　死にたくないので危険を避ける本能的な問題だ。
　アレは最後にするか、それとも―――
　まだ誰も変化に気付いていない<最|い><初|ま>のうちに、不意を突いて済ませるしかない。
「上出来だ。一縷の望みにかけた甲斐があった。
　テメェは電波情報の<癌|がん>だ。回線が繋がっている肉体ならたやすく安全な方に転移できる。
　今までの資料に目を通して分かったよ。テメェはできれば転生なんざしたくねえのさ。失われるものが多すぎるからな。
　だから―――まだその時代に残れる術があるのなら、そっちに賭けると信じてたぜ」
　たとえばの話だ。
　他人から生命力を奪う生き物Ａがおり、
　Ａに生命力を奪われた人間Ｂがいるとする。
　吸血鬼と人間の関係のようだが、本質は違う。
　Ａにとって生命力とは資産そのものだった。
　ＡはＢが生きているかぎり、Ｂが生み出す資産を自分の口座として利用できる。
　Ａのみに利益のある事だが、ＡとＢは共存関係になったのだ。
「これは今までのテメェにはできなかった事だ。
　ま、偶然のなせる奇跡ってヤツだな。
　たまたま転生した先のガキに吸血鬼じみた異能があり、その犠牲者がしつこく生き残りやがった。
　悲惨な話だがね。この街には、一心同体の人でなしが二人もいた事になる」
　<生物Ａ|遠野シキ>はこの国独特の古い生き物の末裔だ。
　生物Ａはその異能が発現した際、怪物として父親に殺されてしまったが、彼には<人間Ｂ|遠野志貴>という命の<口座|ストック>があった。
　結果、Ａは生き延び、口座を使いきられたＢは死んだ。
　事情が複雑化したのは、死ぬはずだったＢが、なんらかの外的要因で命を吹き返した事だ。
「だが、そのおかげでオレも薄皮一枚で首が繋がった。
　代行者は本国に帰投させた。真祖もオレが抑える。
　テメェは安心して目を覚ませ。その後、ゆっくり不老の秘術について取引しようじゃねえか」
　人間Ｂは病院に運ばれ、手術により一命を取り留めた。
　いや、瀕死状態の人間を強引に生き残らせたと言うべきか。
　西洋の吸血種ならば己が血を与え眷属として生きながらえさせる。
　しかし東洋の吸血種は違うようだ。血も与えず、死に瀕した人間を、人間のまま蘇生させる未知の術式。
　たいへん興味深い。この国は小さく、閉じられているが、だからこそ古代の神秘を色濃く残している。
　―――その一端が、この古い一族だ。
　外来の吸血鬼なんぞ訪れずとも破滅は約束されていた。
　―――ああ、懐かしい。
　―――私は八年ぶりに、この家に戻ってきた。
　想定より早く目が覚めた。
　よからぬものが混じったからだろう。
　左の上腕に右手を置き、肌の上から血管を圧迫する。
　痛みはない。人間であればあっただろう。
　効果はない。既に必要がないので当然だ。
　余計な事を。
　やらなくてもいい事しかやらないのが、あの女の悪癖だ。
　時刻は午前零時を過ぎている。
　街からは<醜|よ>い悲鳴が聞こえている。
　肉体が、心臓が、魂が、栄養を求めている。
　まったく。手元に目覚めの一杯すら用意されていないとは、<俺|わたし>も落ちぶれたものだ。
　地上で物色した食糧を、ビルの屋上で飲み下す。
　ここは空が近い。
　最低品位の食事だ、場所くらいは拘りたい。
　地上から届くオーディエンスの声。
　<俺|わたし>は屋上の端に立ってその様子を眺める。
「死んでる―――？」
「おねがい、私だけは殺さないで……！」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめん―――！」
　なんという事はない。
　路地裏には赤い髪の吸血鬼と、ソレに襲われる六人の男女がいた。
　吸血鬼は新参者のようだが階梯は高い。
　Ⅵ階梯、死徒。
　性能は十分に達しているが、精神は未熟にすぎる。
　今は六人だが、ああしてしまった以上、ねずみ算式に犠牲者は増えていくだろう。
　遊びで獲物をいたぶり、その苦悶をスパイスにして自らの加虐趣味を満たしている。
　これだから慣れていない田舎者は話にならない。
　はじめは一匹で十分だというのに、つい夢中になって手当たり次第に食い散らかしてしまう。
「――――――」
　目が覚めたばかりだからか。
　つい、それを微笑ましいと見守ってしまった。
　そもそもこんな場所で食事を摂っている<俺|わたし>も同類だ。
　自虐ついでに過去の記録を閲覧する。
　まさしく、<俺|わたし>にもあんな<時代|からだ>があったからだ。
　ただ衝動に任せて手を広げ、その結果、凡百の死徒のように信徒どもを生み出してしまった。
　<俺|わたし>の理念に賛同したのなら、そもそも死徒などという不完全な不老不死を求めるべきではない。
　Ⅳ階梯の夜属にとどまっていれば良いものを、
　自立するⅤ階梯、あまつさえⅥ階梯まで望む信徒が現れた時の<俺|わたし>の失望と怒りは、歴代の中でも最たるものだった。
　結果、白い処刑人に殺される前に、自らの手で信徒どもは処理した。
　忌むべき<転|か><生|こ>だが、今は妙に懐かしい。
　この街の夜は、<俺|わたし>にとっては過ごしやすいもののようだ。
　その証拠に、
「たすけて、たすけて、たすけて……！」
「ひぃ……ひぃぃ、ひぃいいいい……」
「なんで？　なんで？　なんで？」
　あの惨状を見ても、<私|おれ>は何も感じない。
　この体は<俺|わたし>のものだ。
　遠野志貴は、もう目覚める事はない。
　帰り道、空を見上げる。
　宙に張り付いたような月だった。
　この瞳が幾つ変わろうと、移ろわぬ観測対象。
　―――さて。
　それでは、カレとの約束通り宴を始めよう。
　天体の卵。
　永遠の証明。
　大いなる主の愛に応える為―――
　―――私のパンティオンを、起動させるのだ。
　―――朝になった。
　枕もとの眼鏡をかけてから目を開ける。
　窓越しに見える空は、穏やかな青空だった。
「………………」
　非の打ち所のない朝を迎えながら、気持ちは暗く沈んでいる。
　何故と問うまでもない。
　ごめんなさいと告げたアルクェイドの横顔が、脳裏から離れない。
“お互い忘れましょう―――”
　それは何の話か。
　あの路地裏での乱暴か。
　それとも、アルクェイドとの一切合切すべての事か。
　……どちらにしても不可能だ。
　俺はあいつの事を、ただの一つも忘れられない。
　じっと両手を見つめる。
　この指はまだアルクェイドの体を覚えている。
　滑るような肌の感触を、
　冷たくも熱かった、体温を思い出せる。
　後悔はそれこそ数え切れない。あの時、あいつが俺を殺したとしても、それは当然の結果と受け入れる。
　……けれど。それでも、身勝手に思ってしまった。
　あの時、どうして俺はまともな理性を持てなかったのか。
　あんな動物みたいに触れるんじゃなく、もっと人間として触れていれば、それはどんなに―――
「――――――っ」
　身勝手な考えに歯を噛む。
　俺はアルクェイドの金色の目を見て我を失ったんじゃない。
　いつからか本気になっていただけ。
　理由を言葉にしないまま、本気であいつに惹かれていた。
　もうずっと以前から―――おそらくは、あいつが俺のような人でなしを許すと言ったあの時から―――ロアの事なんて関係なく、あいつ自身にいかれていたんだ。
　けど―――
“もう会わない方がいいよね、わたしたち”
　あの寂しげな笑顔が、頭から離れない。
　……本当に、何もかも遅すぎる。
　もっと早くに気づいていれば―――あいつに、あんな顔をさせる事はなかったのに。
　朝の光景はいつもと変わらない。
　翡翠が起こしに来てくれて、
　居間に行くと秋葉と琥珀さんがいて、
　学校に行く前に軽い挨拶を交わし合う。
　いつもと何も変わらない。
　この時間を守るために、危険に身を晒してきた。
　だから俺は満足の筈だ。失ったものは何もない。
　なのに気分はどうしようもなく空っぽで、誰に話しかけられても上の空な返事しかできず、定型文をこなす機械のように自動的に、穏やかな屋敷を後にした。
　正門をくぐる生徒はみな陽気そうだ。
　登校する生徒たちはこぞって明日の休日を話題にしている。
「そっか。今日は金曜日だったっけ」
　ここ数日間、あいつに振りまわされていた事もあり、曜日の感覚が薄れていた。
　初めてあいつと出会ったのは金曜日の朝だった。
　ちょうどこの場所、学校前の交差点で俺を待っていた。
「……あいつ、笑ってたんだよな、たしか」
　最初からそうだった。
　自分を殺した相手を待ち伏せしていたのに、楽しそうに目を輝かせて、見も知らぬ殺人鬼を待っていた。
「……なんでだろうな。理由ぐらいは訊いてみたい」
　もっとも、その機会は失われた。
　夜の公園に彼女が来る事は、もうあり得ない話になった。
　自分の席に座る。
　ホームルームまであとほんの５分ほど
。
　何をするでもなく、ぼんやりと校庭を眺めていた。
「おっ、おはよーさん。
ここんところ欠席が目立ちますが、ついに本気だしてきましたかー？」
「…………」
　はあ、と重苦しいため息をもらす。
　いつもなら憎まれ口を投げ合うところだが、今朝はその元気さえない。
「なんだよ、またえらく元気がないな。昨日は学校に来ない、来たら来たでヌケガラとはね。やだやだ、遠野がそんなんだと学校に来ても面白くもなんともない」
　有彦は大げさに肩をすくめる。
「悪いけど、今日は一人にしてくれ。いいだろ、俺なんかいなくても、おまえには先輩がいるんだから。いや、むしろ俺がいないほうがラッキーなんじゃないか？」
「は？　先輩って、オレ三年に知り合いはいねえけど？」
「……なに言ってるんだおまえ。先輩は―――
」
　そこまで口にして、こちらの口も止まってしまった。
　先輩……先輩とは、誰だろう。
　有彦と同じく、俺も上級生の知り合いはいない。
「っと、時間だな。
そいじゃまた、昼飯時に」
　有彦はこそこそと教室後ろの扉から退散していく。
　入れ替わりにやってきたのはノエル先生……ではなく、となりのクラスの担任だった。
「あれ、<馬隈|まくま>センセー？　ここ２－Ｃですよ？　間違いました？」
「間違いじゃありませんよー。それがですねぇー。皆さんのクラスの担任さんはー。今朝、
学校をお辞めになられたというかー」
　のんびり屋の数学教師は、気の抜けた声でそんな事実を口にした。
「うそ、ノエル先生いねえの！？」
「教師ってそんな簡単に辞められるものなんですか！？」
「一週間もたないとか自由にも程がある」
「やっぱビッチ系だったかあの肉食！」
　ノエル先生派だった男子陣から悲鳴があがる。
　俺は漠然と、そうか、と頷いた。
　まったく関係のないところで、
　こんなどうでもいい事で、
　もう全てが終わった事を受け入れた。
　ノエルという名前の女性は、俺を監視―――いや、吸血鬼ロアを調査する為に教師として赴任してきた。
　その彼女が消えたという事は、もうここに用はないという事だ。
“吸血鬼”というモノから、俺は完全に切り離された。
　遠野志貴の世界において、もう、あいつと繋がるものは何一つなくなったのだ。
　放課後になった。
　明日は土曜日という事もあり、ホームルームが終わるやいなや生徒たちは蜘蛛の子を散らすように教室から出ていった。
「――――」
　さあ、学生としての責務は終わった。
　ここから夜までは自分の時間だ。
　俺は―――
　俺は―――
　……俺は、何をすれば、いいのだろう。
　糸の切れた<凧|たこ>のようだ
。
　街を守るという正義感も、
　吸血鬼を倒す使命感も消えてしまった。
　所詮、俺の行動原理はその程度だった。
　なら、もういい。
　ここで目を閉じるのが、まっとうな人間らしい選択だ。
　あいつも消えた。
　ノエル先生も消えた。
　だいたい―――
　吸血鬼なんて、俺の手には余りすぎる。
『人間にとって善い吸血鬼』はいない、と代行者は言った。
　あの姿を見て、まだ俺は信じるというのか。
“帰れるうちに帰っておくのが人間らしい知恵ってヤツだ。
　何もかも無かったコトにできるのは、これが最後のチャンスかもな？”
　金髪の少年は口汚くもそう忠告してくれた。
　……そうだ。これはいい機会だぞ遠野志貴。
　あんな物騒な事件から手を引いて、おまえはおまえの日常と折り合いを付ければいい。
　俺は―――
　……何も無かった事にしよう。
　アルクェイドと出会ってから今までの事を、夢のようなものだったと思えばいい。
　考える事を止めて、アイツの事を忘れて、街に<蔓延|はびこ>る吸血鬼の事も忘れてしまえ。
「………そうだな。それが、」
　マーリオゥの言う、まっとうな人間の暮らしというヤツだ。七年前の事故から、俺は『世間的な正しさ』を基準に自分の基盤を守ってきた。
　その在り方に立ち返るだけだ。
　きっと、何の問題も喪失もない。
「――――――」
　……なのに、何をしているのか。
　何もやる気が起きない。
　それこそ死者のような生気のなさで『忘れる』と決めたクセに、こんな所に足を運んでいる。
「………………そうだな。
　ここが潮時だ。それは間違いない」
　俺はもうあいつと会えない。合わす顔がない。
　でも、それでも最後に、せめて責任を果たそう。
　俺が救えなかったものを、もう一度だけ直視する。
　そうすれば綺麗さっぱり、この気持ちに幕を引く事ができるはずだ―――
　崩落事故現場前。
　あの火災から六日経って、あたりは静まりかえっている。
　かつては人々の憩いの場だった駅前の公園は、今では無残な廃墟と化している。
「……………」
　かつて、ここには生活があった。
　俺とは無関係の、俺とは交わる事のない人々の生活が。
　知らなかったで済まされる話ではない。
　知らなかったで済まされる話ではある。
　結局のところ、直接手を下していないのなら、あらゆる罪は棚上げされる。
　無知が罪だというのなら人間は誰もが罪人だ。
　不実である事が悪なら人間は常に悪人だ。
　だから俺に、この光景に頭を下げる所以はない。
　知らない人間の死は悔やめない。
　ただ悲しいから、という理由で死者を<悼|いた>む事は、間違っている。
　送別は生者との思い出を想うものだ。
　その人物がどれほど輝かしい人だったかを想い、その偉業に感謝する涙の筈だ。
　悲しいから流す涙、悲しいから行う謝罪は、ただ自分のために行われる儀礼にすぎない。
　だから―――俺はこの風景に背を向ける事ができる。
　できる筈だと、思っていた。
「――――――馬鹿か、俺は」
　なのに、いつまでも離れられない。
　悲しみはない筈だ。正義感もない筈だ。
　俺はつまるところ、己の命が惜しいだけの男の筈だ。
　なのに、これは違う、と思うものがある。
　幕というものは、何もかも失ったから引くものではなく。
　もう成すべき事がなくなった後に、胸を張って下ろすべきものではないのかと―――昔、誰かに。
　何でもない、
　誰でもない誰かに、示してもらった気がして―――
　背後からの足音。
　そこには、
　うちの学校の制服を着た、見覚えのない―――
　そう。本来なら見覚えがなくてはいけない、もう名前さえ思い出せない先輩が立っていた。
「こんにちは。貴方も献花に来たんですか？」
「いや、俺は―――」
　先輩はバリケード前から目を逸らさない。
　見れば、そこには多くの献花が、故人を偲ぶように揺れていた。
「……俺は、自分を確かめに来ただけなんだ。
　それももう、半分ぐらい答えは出た。結局、俺は」
　吸血鬼から目を背ける事はできない。
　ロアという吸血鬼の事も、
　あいつの事も、このまま忘れるなんて、できない。
「やっぱりそうでしたか。困った人ですね、貴方は」
　先輩はいっさい俺に視線を向けない。
　俺も、この人と目を合わせない。
　それがこの場での、わざわざしなくてもいい忠告をしにきてくれた誰かへの礼儀だと思ったからだ。
「ロアを追うという事は、彼女を追うという事です。
　その意味が分かっていますか？」
「分かってます。どのみち俺ひとりじゃ何もできない」
「……分かっていませんね。
　彼女を追っても貴方は殺されるだけです。アルクェイド・ブリュンスタッドとは、もうこれ以上会ってはいけません」
「……それは、どうして？」
「一度でも吸血衝動に負けた真祖は、もう手遅れだからです。
　……血を吸いたいという欲求は真祖にだってある。
　いえ、そもそも“人間の血を吸いたい”という欲求は真祖から人間にうつされたもの。
　死徒は所詮、人間のなれの果てにすぎない。わたしたち人間にとって正真正銘の怪物は、真祖と呼ばれる“始まりの吸血鬼”。彼女にとって貴方は、協力者である前に血液にすぎません」
「始まりって……それは、どういう……？」
「考えたことがない、とは言わせません。
　血を吸われた事で人間が吸血鬼化するのなら。その根源、大本にあたる“初めから吸血鬼だった存在”がいる事を。
　この、生命としての系統樹が異なる吸血種を真祖といいます。
　人間の血なんて必要なく、死徒たちと同等、いえそれ以上の超越能力をもつモノたち。
　彼女はその真祖と呼ばれる一族の王族なんです。
　……彼らには身分階級がありませんから王族、というのは正しくはありませんけど」
「――――――」
　その説明に、少しだけ絶句した。
　……驚いたな。
　あんまりにも浮き世離れしているんで口にしたけど、あいつ、本当に姫だったんだ。
　……まったく。
　あんな、ばかみたいに明るくて、呆れるほど無鉄砲なお姫様とか、絵本の中にだっていやしないぞ。
「……いいですか。
　真祖と呼ばれる吸血種には、死徒たちよりはるかに業の深い吸血衝動がある。
　真祖たちはもともと人間の血がなくても生存できる。
　けれど、その誕生にどんな間違いが起こったのか、彼らは唯一の欠点……不要な機能を持ってしまった。
　それが吸血衝動―――<た|・><だ|・><人|・><間|・><の|・><血|・><が|・><欲|・><し|・><い|・>、という嗜好性です」
「過去真祖に襲われればこれに対抗できる人間はいなかった。そして血を吸われた人間は、その時点で人間でなくなってしまう。
　原因は生命体としてのスケールの違いとも、彼らが血液を魂として捉えている、とも言われています」
「真祖という強大な生命に血を奪われた時点で、人間は人間ではいられなくなる。その真祖の分身―――平たくいえば人形になってしまう。
　……仮に。血を吸う側の真祖が、それを望まなくとも」
「………思い出した。死徒は自分の血を送る事で、人間を仲間にするんだっけ。逆に真祖ってヤツは、ただ血を吸うだけで人間を侵すって事ですか？」
「ええ。そして問題は、彼らの吸血衝動には理由がない、という事です。理由がないから止めようがない。
　真祖という完璧な生命が内包した欠点。
　死に至る病、とでも言えましょうか。彼らは“血を吸いたい”という衝動を抑えて生きています」
「それは理性で我慢をする、といったレベルの話ではありません。具体的、物理的に、彼らは持てるすべての力を使って、常に自分自身の欲求を封印している。
　強大な異能を自身に使う事で、彼らは吸血衝動を抑えている。けれどもし―――何等かの外的要因でその真祖の能力が低下してしまった場合、抑えていた吸血衝動がどうなるか、分かりますか？」
　何等かの外的要因で、自身の能力が低下した場合……？
　例えば、深い傷を受けてその治療に力を使ったり。
　一度、これ以上ないレベルで殺されて、蘇生するのに力を使ったりした場合。
　……アルクェイドには10の力があるとしよう。
　そのうちの７つぐらいを、彼女はずっと自分自身の抑制に対して使っていたとする。
　けれどもし10の力のうち５の力を失ってしまったら、残った５の力すべてを使っても、彼女は自分自身の欲求を殺せない。
　なら、その足りない分のマイナスを、
　彼女は何を削る事で、補充していたのだろう―――？
「……それで。その衝動とやらを抑えられなくなった真祖は、どうなるんですか？」
「もちろん人の血を吸います。その後には何もありません。
　一度衝動に負けた真祖は、あとは堕ちていくだけです。
　一度血の味を知った真祖は、その衝動による痛みも倍化すると聞きます。結果として、もう二度と吸血衝動を堪える事ができなくなる」
「真祖は極めて優れた種ですが、吸血衝動を抑えなくてはいけない為、全力を出せません。
　ですが堕ちた真祖は、もう自らを束縛する必要がない。
　あとはただ、自らの快楽の為に人の血を吸う怪物になる」
　……昨夜のアルクェイドの姿がうかぶ。
　血走った目。
　荒い呼吸。
　首筋にかかる、焼けつくような吐息。
「……でも、それは」
　真っ赤な嘘だ。
　だってあいつは、血を吸うのが恐いって、たしかに―――
「―――あ」
　……そう、恐いんだ。
　一度吸ってしまったら、もう歯止めがきかないと自分自身で分かっていたから、あんなにも怖がっていた。
「……ただ、かろうじて救いがあるとしたら、衝動は突発的なものだという事です。
　真祖たちは一人だけ、耐えきれなくなった時の為に下僕を用意しておきます。それが死徒と呼ばれるモノたちの始まりですね。
　彼らはすでに死んでいる使徒。真祖たちに痛み止めとして生かされていた吸血鬼。それがこの街に巣くっている、死徒と区分される吸血鬼の始まりです」
「ですが、アルクェイド・ブリュンスタッドにはその下僕がいない。
　……いえ、今まで必要がなかっただけですね。
　真祖の中でも特別だった彼女は、自らの意思だけで吸血衝動を抑えられていた。ですが、それも昨夜で限界を迎えた」
「吸血衝動に果てはありませんし、消える事もない。
　何度も抑えてきた衝動という沈殿物は、そのうち器から溢れてしまう」
「彼らは長く生きれば生きるほど、自らに抱えた吸血衝動を肥大化させていってしまう。
　そうして自分の力だけでは抑えきれなくなった時―――
　自らの衝動が自らの能力を越えてしまった時、彼らは同族の手によって命を絶たれます。
　それが寿命のない彼らにとっての<寿命|おわり>なんです」
「…………」
　なんだ、それ。
　血を吐くような思いでひたすら自分を抑え続けて、
　それが限界に達したら、仲間の手で殺される……それが真祖という生き物なのか。
　そんなの、ぜんぜん完全じゃない。
どれほどの力があろうと、その発生に致命的な<故障|エラー>がある―――
「……いや。でも、あいつは大丈夫だったよ。
　昨日だって、すぐに元に戻ったんだ。今は俺のせいで力が弱ってるけど、怪我さえ治って、力を自由に使えるようになれば、きっと―――」
「ありえません。
　だって、もともと彼女は限界なんですから」
「―――え？」
「彼女が誕生したのは十二世紀と言われています。
　いくら実際の活動時間が数年に満たないと言っても、彼女の存在時間そのものは変わらない。
　長く彼女の中にわだかまった衝動は、じき彼女自身を食い破ります。むしろ今までよく保った方でしょう。
　彼女は―――アルクェイドは、もう未来のない命なんです」
　―――どくん、と。
　初めて。自分の貧血なんかじゃなくて、誰かの言葉で、
　目の前が無くなってしまうほどの、眩暈を覚えた。
「―――――」
　つまり、なんだ。
　あいつは自分自身がもうダメだって判っていたのに、こんなところで吸血鬼退治なんかをやっていたのか。
　―――それは、ヘンだ。
　そんなの―――どう考えたって、ヘンだ。
「……先輩の話は、筋が通らない。
　だってさ、もう自分がダメだって判っているヤツが、俺たちのためなんかに、吸血鬼を退治しに来る訳がない」
「彼女が吸血鬼を処理するのは<人間|わたし>たちの為ではありません。それが彼女の役割だからです」
「役割って―――そんなの、誰が決めたんだよ」
「彼女以外の真祖たちでしょうね。
　彼女が生まれた十二世紀は、もっとも堕ちた真祖がはびこった時代です」
「真祖たちは堕ちた真祖も、その真祖が<徒|いたずら>に増やしていく死徒も放ってはおけなかった。
　その手段として、ただ殺す為だけの、それ以外の事を何も必要としない純粋な真祖を誕生させ、処刑役にした」
「それがアルクェイドという真祖なんです。
　彼女はミサイルみたいなもので、ひとたび城から放たれれば最後、標的になった吸血鬼は確実に滅び去ったという話です」
　―――どくん。
　また、眩暈がした。
　やめてくれ。……そんな言い方は、やめてほしい。
　あいつは血の通った、痛みを知っている、痛みを持っているのに、俺たちを助けてくれた、お人好しだ。そんな、兵器みたいな言い方は、あたまにくる。
「いえ、兵器なんですよ。もともと彼女はそういった意味合いでのみ存在を許されていた。
　……ですから、この街に来てからの彼女はどうかしていたんでしょうね。あんなに話をする彼女を見たのは初めてです。
　もともと彼女は言葉を口にする事さえなかったのですから」
　―――――は？
　それこそ馬鹿げた話だ。
　あのお喋りではた迷惑なやつが、言葉を話さなかったとか、どの口で。
「だって彼女は余分な事はしないんです。
　昔から―――もう何百年も昔から、彼女はそうやって生きてきた。あの山間の古城に生を享けた時から、ずっと、永遠に変わる事なく」
　―――どくん。
　心臓の音と、暗い眩暈。
　……どういう事だろう。
　知らないはずの景色、見えないはずの記憶が、くらりと視界に広がっていく。
　山間に広がる最後の楽園。
　星の内海を思わせる黎明の原野。
　その領域に根付く城の中庭。
　咲きほこる白い花の海で、女は眠るように佇んでいる。
「彼女には余分な知識も、自由もありませんでした。
　倒すべき対象が決定された時だけ外に出される。
　その時に応じた知識を教えこまれて、確実に敵を処刑できるように」
　誰もいない。
　話すべき相手もいない。
　顔を合わせる相手もいない。
「定められた吸血鬼を殺して帰ってきた彼女は、知識を洗い流されて眠りにつかされます。
　何も知らないまま、吸血鬼を殺すこと以外に意義を持たないよう、幽閉される」
　何もない。
　誰かと視線を交わす喜びも、
　誰かと会話を交わす充実も、
　はじめから与えられていなかった。
「彼女の力は堕ちた真祖たちさえ滅ぼせるほど強力だった。
　……けれど、皮肉ですね。あまりに強大すぎる能力が災いして、彼女は真祖の間でも<疎|うと>まれてしまった」
「姫と讃えていながら、誰も彼女には近寄らなかった。
　城を与えられていながら、彼女の世界は薄暗い地下室だけだった。だから、彼女に感情を与えてくれるモノはどこにもいなかった」
「真祖たちは兵器の手入れをするように彼女を扱った。兵器に余分な機能は必要ないですから。
　パンを焼く機能も、洗濯物を洗ってくれる機能も不要です。
　そんな余分なものを付属させるなら、もっと兵器らしい機能を付属させるでしょう？」
“――余分なコトはしちゃいけないんだなって、ずっと教えられてきた”
　そう、歌うように言っていた。
　今まで自分だけで決めてきたと、空虚な目をしていた理由がそれか。
　ずっと、あいつには他人は必要なく、存在しなかった。
　それが単に、知らなかっただけだとしても。
「真祖たちが彼女に求めたものは高い殺傷能力だけ。
　故に、彼女は何も知らない。
　言葉も感情も存在しない。
　非人間である死徒より、もっと上の<怪物|モンスター>。
　生きている意味も意義も、あの生き物には初めから存在しない」
　……そうかもしれない。
　でも、あいつは、いつもあんなに陽気で、
　些細な事でも嬉しそうに笑っていたんだ。
　だからあいつは、もとからああいうヤツなんだって、思ってしまった。
　……なんて残酷な勘違いだったのか。
　あいつは、ただ―――
“―――だって、すごく楽しいんだもの。
　こうしてるのが、生きているっていうのが、ただそれだけで嬉しいなんて、今まで考えたこともなかった”
　それが理解できない不安のように。
　控えめな声で相談してきた、夕暮れの教室。
「アルクェイドは長く活動しているくせに、生きるという意味合いをわたしたちより知り得ていない。
　彼女が行動を許されていたのは、活動時間に換算すると驚くほど短いんです。彼女の生涯は、ほぼすべてが睡眠だった。それもおそらく、闇のような眠りだったのでしょう。
　夢すら見ないようでは、そこに人間性など発生する筈がありません」
“―――そう？
　わたしは話しているだけで楽しいんだけどなぁ”
「……そうして、堕ちた真祖をすべて処断した後、彼女が城から出る事はなくなりました。
　一応の目的が済んだ訳ですから、真祖たちも彼女にまともな教育を施そうとしたのでしょうね。
　けれど、彼女は自由にはなれなかった。
　本当に些細な間違いで、城に残った真祖たちを皆殺しにしてしまったから」
　……そうか。
　吸血鬼殺しだけを教えられたモノは、律儀に、きちんと命令通りに、最後まで仕事を果たしてしまった。
　ひとり残って、結局、あいつは。
「同族であり親である真祖たちを処断した後、彼女は自分から城に閉じこもりました。
　もう誰もいなくなった真祖たちの城の玉座、城壁から伸びた千の鎖に繋がれて。
　ロアという吸血鬼が転生する度に、眠りから覚めてわずかな間だけ活動する」
　その定められた世界の中で。
　ただの一言も、言葉を口にする事がなかったんだ。
「これがアルクェイド・ブリュンスタッドの正体です。
　彼女は根っからの処刑人。
　自分を縛っていた真祖たちがいなくなっても、まだ吸血鬼殺しだけを目的にして徘徊している。
　彼女にはそれ以外の楽しみがないのでしょう」
　それは、うそだ。
　あいつが喜んでいたのは、そんなコトじゃない。
　俺は、何も見てなかった。
　あいつの言葉とか、喜ぶ顔とか。
　もっとよく見ていれば、わかったのに。
　あいつが今までどんなに独りだったか、気づけなかった。
　気の合う友人と何の価値もない馬鹿話をして、なんとなく時間を忘れる程度の楽しさとか。
　一日の終わり、無為に時間を過ごす時の、あんまり大事に思えないような安らぎとか。
　そういった些細な繰り返しが、あいつにとっては、今まで見た事もなかった喜びだった。
「―――――うそ、だ」
　なにが悔しいかって―――あいつ自身、自分がどんなに馬鹿げた道を歩いてきたかを、これっぽっちも感じていない事だ。
　そんなふざけた話が、そんな不当な話が、よりにもよってあいつの“今まで”である事が、俺には許容できない。
「―――――全部、うそだ」
　……本当に、俺は半分しか答えを見つけていなかった。
　やるべき事なんて一生わからない。
　でもやりたい事だけは、今ようやく実感できた。
　あいつが当たり前の事を、倖せなんだって感じずに。
　そんなもの、いつだって手に入るものだと感じるようにしてやれたのなら、それはどんなに――――
「もしもし？」
　見知らぬ先輩の声で、埋没していた思考を起こす。
　ここが遠野志貴の<現|イ><実|マ>。
　長い寄り道をしたが、おかげで気持ちはスッキリした。
「……わたしの話、聞いてました？」
「いや―――ごめん、記憶にない。
　先輩が話してたようにも聞こえたし、他の誰かが話してるようにも聞こえてました」
　はあ、と先輩は納得いかなそうに頷く。
「えっと、つまりですね、彼女は――――」
「もういいですよ。
　アルクェイドが何をしていようが、どんなにメチャクチャなヤツだろうが、もう、どうでもいいんです。
　そもそもあいつを殺したのは俺なんだし。俺はちゃんと、自分のしでかした事の責任を、倍にして返さないと」
　いまやりたい事はそれだけだ。
　これ以上、あいつをひとりにはしておけない。
「……そうですか。
　ですが、それは本当に、貴方が負うべき責任なんですか？」
　実のところ、どんなに俺が訴えたところで、遠野志貴には何の責任もない。
　だからここで第三者になるべきだと先輩は言っている。
　街を守るためにアルクェイドの敵を倒す？
　そんなのはきれい事だ。こう正しく言い直せ。
“おまえがやろうとしている事は、アルクェイドのために見知らぬ何者かを殺す事だ”と。
「―――うん。でも―――」
　視線をあげる。
　目前には死者に手向けられた花束。
　振り返れば何の変哲もない街並みが、いまも変わらず息づいている。
“ああ―――”
　眩しくて目眩がする。
　俺が救えなかったものと、
　あいつが、自分の命を削って守ったもの。
　本来、何よりも優先するべき、自分たちの幸福の在処。
“―――なんて、ろくでなし”
「でも―――俺にはそういうものと同じぐらい、いやそれ以上に、あいつの事が大切なんだ。
　あいつが人間なんて気にしない吸血鬼だって言うのなら、俺は、吸血鬼なんて気にしない、殺人鬼でいい」
「――――――」
　まっとうな人間として間違った価値基準。
　それがヴローヴやロアと同じ、人間として最低のものだと受け入れる。
　それらを引き替えにしても、俺はアルクェイドといたいだけだ。
「はあ、呆れました。
　ここまで言っても無駄な人とは思いませんでした」
「申し訳ありません。頑固なのは妹譲りらしくて」
「……妹さん、ね。ま、いいですけど。
　せっかくですからオマケの忠告です。一度吸血衝動を抑えられなかった真祖は立ち直れない。もし彼女が貴方の前に現れたとしたら、それは貴方の血を吸いに来た、という事です」
　先輩の台詞は、彼女にとっての真実だろう。
　けど、それは俺とは違う真実だ。
「そんな事はないですよ。
　だって、あいつはまだ血を吸ってないんだから」
「いいえ。ノエルが止めていなければ、貴方は吸われていました」
「違う。だって、止まったんだ。あいつは大丈夫だったんだよ。だから―――誰が邪魔をしなくても、結果は変わりはしなかったんだ」
　そう、たしかに。
　ちゃんと、アルクェイドの牙は止まっていたから。
「付ける薬がありませんね。
　そろそろ飛行機の時間ですので、失礼します。うるさい上司が来て、左遷されてしまったので」
　先輩が通り過ぎる。
　最後まで俺と視線を合わせず、名前を口にしなかった人との別れは、こんな風にあっさりと過ぎ去った。
「―――あ、でも一つだけ俺からも質問です。
　どうして俺だけ、先輩を覚えていたんですか？」
　名前はもう思い出せないけれど。
　確かに俺は、この人を覚えていた。
「そんなの、単に消し忘れただけですよ。
　それも、これでおしまいですけどね」
　……手向けの花が揺れている。
　振り返ると、名前はおろか顔さえ思い出せない、先輩だった誰かの後ろ姿があった。
　去っていく足音。
　それにありがとうと一礼して、俺も、自分が戻るべき場所に歩き始めた。
　屋敷への帰路につく。
　アルクェイドのマンションには行かなかった。
　行ったところで居る筈もないし、いまは他にやっておくべき事がある。
　あいつを捕まえるのはその後だ。
「お帰りなさいませ、
志貴さま」
　屋敷に帰るなり、翡翠が出迎えてくれる。
「ただいま。
いつもありがとう翡翠」
　その気遣いに心から感謝の気持ちを述べる。きっと、今までもこうやって俺の帰りを待ってくれていた。俺にはその気遣いを察する余裕がなく、何度も翡翠を困らせた。
　だから今日ぐらいは決まり通り日没前に帰って、彼女に職務を全うさせてあげたかった。
　秋葉との夕食を済ませて、食堂を後にする。
　今夜はわりと兄らしい振る舞いができたと思う。秋葉とも、琥珀さんとも何ら飾ることなく話が弾んだ。……や、今までに比べたら、の話だけど。
　部屋に戻って荷物をまとめる。
　といっても俺の荷物なんて学校の教材ぐらいだ。
　すっかり愛用品になってしまった<短刀|ナイフ>は懐にしまってあるので、あとは携帯端末と、白いリボンをポケットにしまうだけだ。
「――――――さて」
　軽く部屋を掃除して、深呼吸をする。
　こんな短期間に二度も、自分の部屋に別れの挨拶をするとは思わなかった。
　いや、戻ってくる気満々だけど、万が一という事もあるし。
　帰れない時に備えて、礼は尽くしておくに越した事はない。
　灯りを落とす。
　時計は９時半。
　屋敷を出るにはちょうどいい時間だった。
　10時より少し前に公園に着いた。
　あたりに人影はまったくない。
　ベンチに座って、時計の秒針を数えるように、アルクェイドが来るのを待つ。
　昨日のように夜の街を走り回る事も考えた。
　けどそれはきっと意味がない。
　だって、あいつが本気で俺に会わないよう動けば、俺はどうあってもあいつを捕まえられない。
「………うん。だから、ここでいい」
　だって約束なんだ。
　ここで待ち合わせようと二人で決めた。
　俺たちはまだ今夜の約束を果たしてない。
　俺にとってこの約束は反故にできないもので、
　アルクェイドもそれを大事に思っているのなら、あいつはここに戻ってくる。
　それを信じて待ち続ける事が、俺に出来る精一杯の償いだ。
　時間が過ぎていく。
　時計の針は正確に、丁寧に時を刻む。
「―――――――」
　こんな時間、息がつまる。
　体はたったの一分だって待っていられない。
　置物のように座っているだけなら、今すぐにあいつを捜す為に走り出したい。
「―――――――」
　なのに、心は落ち着いている。
　夜の中、月だけを見つめて待ち続ける。
　―――ひどく、静かだ。
　まるで世界に自分とあいつしかいないような。
　そんな中で待ち続けられるのなら、いつまでも、何時間だって苦痛じゃない。
　だからこんな時間、幸福で息がつまる。
　輝いていた頭上の月も今は<幽|かす>か。
　夜明けまであと３時間。
　夜が明けてしまえば、きっと何もかもが終わる。
　アルクェイドも今の自分も、こんな満ち足りた気持ちで夜を過ごす事はなくなるだろう。
　―――と、いうかだな。
「………はあ」
　情けない溜息がこぼれてしまった。
　可笑しくてこぼれたのか、落胆からこぼしたのか、自分でも分からない。
　でも仕方がないと思う。
　休憩所の陰に白い影がチラチラと見えている。
　本人は隠れているつもりらしいが、絶望的に隠密に向いていない。
「おい。もう３時だぞ。いつまで待たせるんだ、ばか」
　ベンチに座ったまま、休憩所に向かって声をかける。
「……っ」
　隠しきれない息遣いが聞こえた。
　……そうして数秒後。
　観念してくれたのか、それこそ雪原で出会う兎のように、彼女はひょっこりと姿を現した。
「…………………」
　アルクェイドは何も言わない。
　目を伏せたまま、ベンチに近寄ろうとしない。
「――――アルクェイド」
　名前を呼んでも、アルクェイドは返事はおろか、俺を見ようともしなかった。
「………………」
　続く言葉が頭に浮かばない。
　さっきまで思い描いていた言葉は、あの顔を見た瞬間にすべて消え去った。
　……くそ。なにを言えばあいつをまた笑顔に戻せるのか、俺には分からない。
　今は何を口にしても、あいつをよけい悲しませるだけになりそうで。
　………。
　…………………。
　………………………………。
　錯覚では永遠にも感じられる時間。
　実際ではおそらく百に満たず秒針が動いて。
　アルクェイドは、何か眩しいものを見るような仕草で顔をあげた。
「志貴、いつまでも帰らないんだもの。
　放っておけなくて来ちゃったわ。……ほんとは、このまま部屋に帰ろうって思ってたのに」
　口調は、ところどころつぎはぎだらけだったけど、とりあえず普段の彼女と同じ明るさだった。
「……そりゃあ帰らないよ。おまえはもう会わないとか言ってたけど、それとこれとは別問題だろ。
　ここで待ち合わせるのが俺たちの約束だ。一緒に吸血鬼を倒してくれるんだろ？」
「――――――」
　だから―――そんな顔を、しないでほしい。
　何かもう、いろんな自制をとっぱらって、捕まえたくなってしまう。
「……信じられない。まだそんなこと言ってるの？」
「ああ。アルクェイドとの約束は破らないって言っただろ。
　今夜はまだ、おまえの手助けをしていない」
「―――いいよ。もう、そんなのはいいの。
　志貴はひとりで帰って。
　ロアの事なら、わたしが何とかしてみせるから」
「……いいって、なにがいいんだ、アルクェイド」
「言うまでもないでしょう。やっぱりわたしは吸血鬼で、志貴は人間だっていうことよ。
　わたしは志貴に助けてもらう資格なんてなかった。協力なんて求めてはいけなかった」
「……そんな事にも気づかないままで、わたしは、あと少しであなたを台無しにしてしまうところだった。
　だから―――」
　もういいの、と彼女は呟いた。
「っ――――――」
　叫びそうになる気持ちを抑える。
　―――なにを、いまさら。
　そんなこと、こっちはおまえに協力すると言った時から覚悟していた。
　わかった上でおまえの手助けをすると誓ったのに。
　こんなの―――俺には、何一つだってよくはない……！
「……アルクェイド。
　ここでの事なら気にする必要はないだろ。
　おまえは体が弱ってて、ただ、疲れていただけなんだ。
　……俺はバカだからさ、おまえの嘘に気づいてやれなかった。おまえを苦しめてたのは体の傷なんかじゃなくて、吸血衝動ってやつだったんだろ。俺の血がほしくて、あんな真似をしたんじゃない」
「……あいつら。埋葬機関はいつからそんなにお喋りになったのかしらね」
　憎たらしい、というよりは疲れた、という顔をして、アルクェイドはため息をもらす。
「……ああ、話は全部聞いた。全部聞いた上で、はっきり言ってやる。
　おまえには問題なんてないよ、アルクェイド。
　今は苦しいけど、何日かすれば元に戻るんだろう？
　なら気にする必要はない。
　それにあの夜だって―――あんなに苦しそうだったのに、ちゃんと我慢できたじゃないか。だから大丈夫だよ。これからも今までみたいにやっていける」
「………………」
　アルクェイドは辛そうに、弱々しく、笑った。
「……志貴はぜんぜんわかってない。
　無理なのよ、こうなっちゃったら。
　わたしは今でも志貴の血が欲しいと思っているんだから」
「―――思ってるだけだろ。なら気合いれて我慢しろ。
　……今までだって、そうやって頑張ってきたんじゃないのか、おまえは」
「……そうよね、今までそうやって自分を抑えてきた。いえ、抑えてこれた。
　けど、もうダメみたい。
　わたしは浅はかで、吸血鬼殺しだけがわたしの意味なのに、余分な事をたくさんしちゃった」
「……何も知らなければ、何かを欲しいだなんて思うこともなかった。志貴なんかに頼らず、自分だけで敵を追っていれば良かった。
　そうすれば―――ひとりで、何もかも片付けられたのに」
「―――――」
　……ああ、ダメだ。やっぱり俺は、こいつ相手になると最低の人間になってしまう。
　だって今のは本気でカチンときた。
　本気で泣きたくなってしまった。
　ひとりでやっていけば良かった……？
　嘘だろうと強がりだろうと、そんな戯言、そんな顔で言いやがって―――
「ああ、もうあったまくる！
　いいかげんにしろ、この最上級ばかおんなーーーーっ！」
　頭をかきむしって、ベンチから立ち上がって、大声でアルクェイドを怒鳴りつける。
「さ、最上級、最上級ばかって言った、いま！？」
「ああ、気にくわなければ惑星級でも銀河級でも、なんでも付け足してやる！　ふざけやがって、何が自分だけで敵を追ってれば良かった、だ！
　ひとりじゃ無理だから、ひとりじゃできない事があるって気づいたから、俺に手を貸せって言ったんだろう！？　なら最後まで頼れよ……」
「俺が助ける。何があっても、おまえが何でも、関係ない。
　俺は、ずっとおまえを、助けるから――――」
　だから、どうか、自分自身のために、
「二度と……もういいなんて、言わないでくれ」
　……やっと。
　やっと、生きている事が楽しいって、思えたんなら。
　その当たり前の倖せを、簡単に手放すなんて事だけは、しないでほしい。
「志貴―――
あなた、泣いてるの……？」
「わけないだろ……！　なんで俺が、おまえのために泣かなくちゃいけないんだ……！」
　仮に目が潤んだとしても、それは怒りだ。
　アルクェイドがあんまりにもバカなコトを言い出すもんだから、感情がどうかしてしまったに違いない。
「ああもう、とにかく吸血鬼探しは続けるからなっ！
　ロアとかいうヤツを殺せばおまえだって休めるんだろ。
　そうすれば万事解決だ、問題なんて一つもない……！」
　潤んだ目を見られたくなくて、顔を背けながら言い捨てる。
　アルクェイドは静かに、ひどく穏やかな目をして、そうね、と頷いた。
「でも、やっぱりダメなんだ、志貴。
　あの時―――志貴の首筋に触れた時、志貴はわたしは我慢できていたと言ってくれたけど、わたしは我慢できなかった」
「……一瞬だけ止まったのは、志貴がわたしを怖がったから。
　わたし、今まで何人もの人間に怖がられてきた。だから自分に向けられる嫌悪の念なんて、もう何も感じなくなってた」
「……でも、おかしいよね。志貴がわたしをそういうふうに見るのだけは、すごくイヤだったんだ。わたしはどうあっても、志貴にとって化け物なのに」
　あはは、と。
　乾いた笑いを、彼女は無理やりこぼしていた。
「……違う。俺は怖がってなんかいない。
　アレは、いきなりのことだったから、驚いて―――」
　……嘘だ。
　それは、自分さえ騙せない嘘だ。
　アルクェイドは辛そうに目を伏せる。
　……先生が、言っていたのに。
　自分さえ騙せない嘘は、相手を傷つけるだけだって。
「……わたしが一瞬だけ止まったのは、そのせい。
　志貴にそんな目で見られるのが怖かった。この先も、あんな目で見られたらわたしはきっと壊れてしまう。
　だから―――志貴とは、もう会えないって思ったの。
　それがきっと、お互いの為なんだって」
「―――――――」
「……待っていてくれてありがとう、志貴。
　でも待ち合わせはここで終わり。
　わたしたち、きっと馴れ合いすぎたのよ」
　くるり、と背中を向けて。
　俺の顔を見ないようにして、アルクェイドはそう言った。
　それは、確かにその通りだ。
　俺もアルクェイドも、互いを深く知れずにいたら、こんな事にはならなかった。
　俺はあっさり日常に戻っていただろうし、アルクェイドだってまた一人でやっていけた。
　―――こうして、互いを気遣う事なく。
「……そうだな。本当に、馴れ合いすぎた。
　けど俺はそれでいいと思うよ。
　だって、いつまでもひとりきりは寂しいだろ」
　アルクェイドは答えない。
　一瞬だけ、その肩が震えただけで。
「街の事は心配しないで。わたしは絶対にロアを殺す。相打ちになっても必ず仕留める。
　……だから志貴はもういいの。この街はすぐにもとのカタチに戻って、心配するような事はなくなるから」
　背中ごしの声には、いつもの明るさはまったくない。
　……もう、耐えられない。
　これ以上、おとなしくしているのは、やめた。
「……馬鹿。俺が心配してんのはそんな事じゃない」
　アルクェイドに詰め寄っていく。
「あ――――」
　逃げようとする背中を、離れていく肩に手を置いて、強引に振り向かせる。
「志―――貴」
「はっきり言わなくちゃ分かんないんなら口にする。
　いいか、俺が手助けをすると言ったのは、街を騒がしている吸血鬼を倒す為じゃない。
　自分が住んでいる街を守るとか、そんなご大層な理由なんて、本当はなかったんだ」
　口ではそう言ってごまかして、自分自身にも言い聞かせていた。
　恥知らずな大義名分だ。
　俺は、ただ。
「単純に、おまえが好きだから。おまえの力になりたかったから、協力するって言ったんだ。
　それをいまさら―――無かった事になんて、できない」
　はっきりと告げて。
　正面から、震える体を抱きしめた。
「あ――――」
　アルクェイドの声は、抵抗の意思がない。
　呆然と立ち尽くしたまま、抱きしめる俺を受け止めている。
「おまえが俺の血を欲しいと思っているのなら、それでいい」
　柔らかな感触に、喉が焼ける。
「……志貴、いたい―――腕、いたいよ―――」
　耳元に触れる声に、胸が沸き立つ。
「そんなものおあいこだ。だって、それなら―――」
　口にしてはいけない禁忌を、視線で返す。
「俺だって、ずっと、おまえが欲しいって思ってた。
　こうしている今も―――アルクェイドの心音をきいて、気が狂いそうなぐらい、欲情してる」
　とくん、と。
　抱きしめた腕から、重なり合った体から、
　アルクェイドの鼓動が、感じられる。
「……ちがうよ、志貴。それは……ただこの瞬間だけ、わたしに、気が触れてる、だけだもの……」
「―――それでもいい。
　いまアルクェイドを愛してるなら、それが遠野志貴の真実だ。そのあとの事なんて、知らない。
　それとも―――俺のこと、嫌いか」
　とく、ん。
　心音が、乱れて止まった。
「……だめ。その質問には、答えられない」
　心音が途絶える。
　その代償に、彼女の両腕が、応えるように俺の背中にまわされる。
　はじめは優しく。
　あとは、ただ応えるように激しく。
　アルクェイドの両腕が、ぎゅっと、この体を引き寄せていた。
　抱擁は一瞬だった。
　どちらが離れたのか、自分でもよくわからない。
　ただ申し合わせたように、俺たちは互いの顔を見るために、抱きしめた腕を解きあった。
「…………………」
　アルクェイドは俯いたまま、ただ頬を赤らめている。
　……その表情に胸を打たれながら、ホッとする。
　彼女はいま目の前にいる。
　俺たちの距離が離れる事は、もう決してないのだと。
「……よかった。やっとアルクェイドを捕まえた。
　正直に言うと、ずっと怖かった。俺はあの時、おまえに酷いことをした。ここで約束を守ると信じながら、もう会えないとも、思ってたんだ」
「――――」
　アルクェイドの髪が揺れる。
　彼女は何かを言おうと顔をあげて、俺と視線が合うやいなや、また俯いて頬を赤らめる。
「……だめだよ、志貴。
　あのコトは忘れましょうって、言ったのに」
　アルクェイドの声は弱々しい。
「あ―――――」
　……無神経にも程がある。
　アルクェイドは俺を気遣って、路地裏での事は触れないようにしてくれていたのに。
「……悪い。俺が馬鹿だった。……これじゃおまえのこと、怒鳴る資格なんかないよな」
「……そうじゃなくて。責任があるとしたら、それはわたしの方。……だから忘れてって言ったのに」
　……信じられない。もしかして吸血鬼じゃなくて悪魔なんじゃないのか。
　そんな顔をして忘れろ、なんて、もうぜったい忘れられない。
「……違うよ。俺が悪いと言ってるのは、昨夜の事じゃない。俺が馬鹿だって言っているのは、忘れるべき事をどうしても忘れられないからだし」
「志貴―――？」
「今日だって朝からずっとおまえの事を考えてた。
　おまえに会えたらなんて謝って、なんて言ったらいいだろうって、ずっと考えてた。
　なのに、おまえに謝りたいと思いながら、俺はあの時の事が頭から離れなかった。もう一度、ううん、もっともっとアルクェイドに触れたいって、馬鹿みたいに思ってた」
「――――」
　アルクェイドは俺から視線を逸らす。
　俺も―――彼女を正面から見る事はできなかった。
　言ってはいけない事を言ってしまった気がして、彼女と目が合わせられない。
　でも、これは本当の事だ。
　俺はアルクェイドの魔眼であんな事をしたんじゃない。
　今もずっと、こいつにいかれてるだけなんだ。
　アルクェイドからの返答はない。
　お互い、相手の次の台詞を待って、結果として、長い沈黙が訪れた。
「……うん、ほんとうのことを言えばね」
　たどたどしい言葉。
　彼女は恥じらいながらも、そっと悪戯を告白するように、
「わたしだって忘れられなかったよ、志貴」
　俺の目を見詰めながら、そう言った。
「きゃっ！？」
　しまった。
　あまりの破壊力に、勢い抱きしめてしまった。
　でも誰が俺を責められよう。
　あんな顔をされておかしくならなかったら、それこそ生き物なんて辞めた方がいい。
　……まあしかし、それはそれとして、
「……ごめん。いきなり抱きついた」
　これじゃケダモノだ、と反省する。
　胸元でくすりと笑い声が聞こえた。
　アルクェイドがその重さを俺に預けながら、もう一度、両腕を背中にまわしてくる。
「……志貴って、すごいね」
　ぎゅっと抱きしめ返す両腕。
　その感触に、溶けそうになる。
「……えーと。すごいって、具体的には？」
「すごく、乱暴。今まで出会ったどんな死徒より野蛮で、笑っちゃった」
　そうですか。ごめんなさい、自分でも自覚はあります。
「……でも、可笑しいね。殺した男と殺された女が、こうして抱き合ってるなんて」
「……？」
　そう囁くアルクェイドの体は震えている。
　傷が痛むのだろうか……？
「大丈夫か、アルクェイド？」
「……うん。たぶん嬉しいんだと思う。
　いろんな感情が溢れてきて、体がぽわっとして、頬が自分のものじゃないみたい。自分がいまどんな顔をしているか分からないくらいに。
　―――ね。志貴なら、わたしがどんな顔をしているか分かるかな」
「無茶いうな。抱き合ったまま顔を見られるもんか。
　……うん、でも―――」
　抱きしめた腕に、少しだけ力を込める。
　強すぎず、弱すぎないよう、アルクェイドの体を抱きしめる。
「でも、きっと同じ顔をしていると思う。
　俺もさっきから、頬がバカみたいに緩みっぱなしだ」
　体を重ねながら、ふたりで笑いあった。
　情欲より強い歓びが、冷えきった体を温めてくれる。
「―――ねえ、志貴」
　耳元で囁かれる声。
　アルクェイドは眠りにつくような穏やかさで、
「わたしを守ってくれるのなら……
　今夜は、帰ってほしく、ない」
　俺の肩に、顔をうずめる。
　夜明けまであと１時間ほどしかない。
　夜は明ける。アルクェイドの時間が終わる。
　それは俺の気持ちでもある。このままアルクェイドと別れるなんて、耐えられる筈がなかった。
　アルクェイドの部屋は、以前と何も変わってはいなかった。
　変わったのは俺たちだ。
　……背中には、アルクェイドの気配だけを感じている。
　振り向けばどうにかしてしまいそうなほど、感情は昂ぶっている。
　……なのに、思考は冷静だった。
　よく、俺にはわからないけれど。
　何かを愛するという事は、狂っていながら正気だという、矛盾した衝動を言うのかもしれない。
「――――アルクェイド」
　後ろに振り返ろうとする。
　その矢先―――とん、と軽く、アルクェイドの手が背中に触れた。
「振り向かないで。……しばらく、このままで、いて」
　……アルクェイドの声は落ち着いている。
　背中に触れた手は、何かを確かめるようにじっとして動かない。
「……ねえ志貴。わたしが、初めてあなたを待っていた時のこと、覚えてる？」
「覚えてるよ。自分が殺した相手がニコニコ顔で待ち伏せてたんだ。忘れられるワケないだろ」
「うん―――あの時ね。
　わたし、あなたのことがすごく憎かった」
　言葉とは裏腹に、アルクェイドの声はとても優しい。
「―――もう自分でも吸血衝動は抑えられないと判っていて。
　きっと、これが最後のチャンスだって覚悟してロアを追いかけて。
　ようやく見つけたと思った時に、見ず知らずの誰かに殺されて、何もかも壊されてしまった。
　あの時のわたしには、ただ、憎しみしかなかった」
「そうして、自分を殺した誰かを探し出して、あなたが来るのをね、あの道でずっと待っていたの。
　早く、早く来なさい。わたしに気がついた瞬間に、寸分<違|たが>わず同じ目に遭わせてあげるからって。
　……本当に、あなたのことが憎かった。
　憎くて憎くて、胸が張り裂けそうになるぐらい、ずっと待ち続けていた」
　ぐっ、と背中にかかる手に力がこもる。
「……アル……クェイド……？」
「でもね、わたしをあんなふうに殺した相手なんて、今までいなかった。少しだけ、どんなヤツなんだろうって興味もあった。
　それに―――あんなふうに、誰かを強く思うなんてコト、今までなかった」
「初めは、ただ憎しみしかなかった。けどあなたはどんな人間なのかなって思った時、くるって反転しちゃった。
　もう一秒でも早く会いたくなった。
　わたしをあんなふうに殺したヤツ、わたしが初めて、自分を見失うぐらいに―――ずっと、思い続けている誰かに」
「……志貴、さっき言ったよね。ひとりは寂しいだろうって。わたし、そんなコトはないと思ってた。
　けど―――あんなにも狂おしく誰かを思って、あなたを今か今かと待ち続けた時の気持ちは、すごく幸せだった」
「本当は今すぐにでも会いに行きたいけど、我慢して、あなたがやって来るのを待っていて、良かった。
　あの時間は楽しかったよ。すごくドキドキして、志貴がどんな人なんだろうって、かってに想像したりもした」
　……アルクェイドの手が、背中から離れる。
「……思えばね。
　その時からわたしは誰かを必要としてしまって、ひとりの自分を物足りなく感じてしまった。
　志貴はわたしの事を好きだって言ってくれたけど。
　……わたしは、志貴に会う前から、あなた自身に恋をしてたんだなって―――」
　アルクェイドの声は、ただ、いとおしい。
　……もうためらう事はない。
　振り返って、そのままアルクェイドを抱き寄せた。
「ん………」
　自然に、唇が重なり合った。
　どちらかが求めたのかもしれないし、どちらもが求めたのかもしれない。
　ただ、本当に優しく。
　互いの存在をより近くに感じ合おうとして、唇を重ねあった。
　……呼吸を止めて、アルクェイドを実感する。
　やわらかな唇。
　決して触れ合う事のない肌が、こうして触れ合っている。
　そう思うだけで頭の中がはじけそうなのに、実際の彼女の感触は温かくて、ホッとする。
　アルクェイドの体は微かに震えている。
　けれど脅えている様子はまったくない。
　閉じられた目蓋、上気した桜色の頬が、たまらなく愛らしい。
　……息が詰まるようで、温かい。
　あんなに惚れこんでいたアルクェイドが。
　こうするだけで、もっともっと、何倍も愛しく感じられるなんて、想像もできなかった―――
　そっと離れる。
　腕は絡ませたままお互いを見詰め合った。
「……いまの、キス、だったね……」
　上目遣いに見つめてくる赤い瞳。
　目の前でさらりとゆれる金色の髪。
「アルクェイド……こういうの、イヤか」
「―――ううん。わたし、すごくどきどきしてる」
　どくん、と。
　たしかに、彼女の心音はとても大きくなってきている。
　……そんなの、こっちも同じ事だけど。
「でも、ちょっと困っちゃった。
　……わたし、いいのかなって」
「……いいのかなって、なにが？」
「……うん。だってね、志貴。
　<唇|くちびる>を重ねあったりする吸血鬼なんて、いないよ」
　頬を赤らめて。
　彼女は照れくさそうに、はにかみながらそう言った。
「ば――――――」
　その仕草が、もう完全に王手だった。
　自分が遠野志貴という人間である事さえ消失した。
　アルクェイドを抱きしめてベッドに倒れこむ。
　彼女の肌に、彼女の髪に手を伸ばそうとして、
　寸前で押し止める。
　……くそ、呼吸が荒い。
　でも同じ過ちは繰り返せない。
　どんなに彼女が欲しくても、もう自分だけの気持ちはぶつけられない。
　……アルクェイドはそんな俺の顔を見上げて、
「……うん。いいよ、志貴。あの時の続き、しよ？」
　羞恥と不安にふるえながら、それを乗り越えるように、歓びに満ちた目で微笑んだ。
　―――吐息が重なる。
　―――肌が融けあう。
　昂ぶった感情が心も体も裸にする。
　俺たちは互いの気持ちを確かめるように、時に貪欲に、時に繊細に、体を求めあった。
「――――――、はあ」
　深呼吸と共にベッドに体を預ける。
　……いや。夢を見ない自分が言うのもなんだけど、夢のような時間だった。
　となりにはアルクェイドが眠っている
。
　彼女は安らかな寝息をたてて、満ち足りたように、俺の手を握っていた。
「……ん」
　……振り返ってみると気恥ずかしい。
　アルクェイドを抱いた事に、それこそ一片の後悔もない。
　ただ、もう少し。
　もう少しちゃんと理性を働かせて、アルクェイドの肌の感触とか、恥じらうときの表情とかを噛み締めたかった。
「……まだ無理かな。今はついていくのが精一杯だし」
　……というかこの先、アルクェイドの体に冷静でいられる時がくるのかどうかさえ疑問だ。
　今だって、結局は自分でどんな事をしたのかまったく記憶にない。
　喩えようもなく気持ちが良かったという事だけしか覚えていない。
　どれくらい気持ちが良かったかというと、実はもう一歩だって動けないぐらい、体力を消耗してしまってる。
「――――ふぁ」
　あくびをかみ殺して、ただ、アルクェイドの寝顔を眺めた。
　俺は彼女を愛している。
　一方的なその感情に、アルクェイドは応えてくれた。
　俺が愛しているカタチとは違うかもしれないけど、アルクェイドも俺の事を必要としてくれている。
　それだけで、今はとても嬉しい。
　自分が求められている事だけ、じゃない。
　こいつが―――今までずっとひとりきりだったアルクェイドが、自分以外の誰かを必要だと思ってくれた事が、どうしようもなく嬉しいのだ。
「……そうだ。そうすれば、この先もきっと―――」
　くらり、と意識が薄れる。
　……どうも、こっちもそろそろ限界みたいだ。
　ベッドに背中を預けて、大きく息を吐いて気を緩める。
　よほど疲れていたんだろう。それだけで、意識は沈むように眠りへと落ちていった。
　深い眠りの中。
　アルクェイドが先に目を覚まして、なにか、よくない事をしている夢を見た。
　アルクェイドはひとりでこそこそと、イタズラっぽい細工を仕掛けているようだ。
　何をしているんだ、と聞いてみる。
「あれ？　志貴ったら起きてたの？」
　起きている……というより、ぼんやりとしてる。
　アルクェイドのおかげで、まだ体が言うコトをきかないのだ。
「―――そっか。嬉しいけど、なんか恥ずかしいね」
　……アルクェイドは少女のように笑った。
　……目を閉じているのに彼女の仕草が判るのはおかしいと思うんだけど、あんまりに幸せそうな顔をするものだから、些細な疑問だと切り捨てる。
「ねえ、志貴？」
　なんだろう、改まって。
　アルクェイドも疲れているんだから、夜になるまで眠ってればいいのに。
「もしもよ。もしわたしが本当の吸血鬼になったら、志貴はどうするかな」
　……ヘンなことを訊いてくる。
　けど、それは起きえないコトだ。
　だって彼女は、血を吸うのが恐いんだから。
「―――だから、もしもの話。
　生きる為に他の生命を奪う事は、自然界じゃ当然の摂理だと言ったでしょう。だから―――
　もしも、わたしがそうなってしまった場合の話」
　やめてくれ。
　そんな事ありえないし、もしもの話は好きじゃないって、以前、きちんと話した筈だ。
「そう？　わたしはイフって好きよ。
　どんな結果になるか分からないけど、とりあえずその時は、救いがあるような気がするから」
　……ああ。
　そう言えば、前にもそんなコトを言っていたっけ。
「うん。だから……志貴がもっとひどいヤツだったら、わたしはどうしてたかなって」
　……アル……クェイド……？
「―――大好きよ、志貴。
　こんな気持ちを持たせてくれて、それを言葉として伝えさせてくれるなんて、ほんとうに優しかった」
　……なんで。
　アルクェイドは、泣いているんだろ、う。
「それじゃあ、志貴が目を覚ます前に行くね。
　……面と向かってさよならが言えないから、これでゆるして」
　……ガチャリ、という扉の音。
　眠ったまま。
　ぼんやりと、その音を聞いていた。
「―――――――ん」
　目が覚めた。
　カーテン越しに入ってくる陽射しは明るい。
　時計を見ると時刻は午後になったばかりだった。
「やばっ、学校……！」
　体を起こす。
　……と、考えてみれば今日は土曜日だ。
　学校に行く必要はないし、気に病むことがあるとすれば、それはまたも家に連絡を入れず、アルクェイドの部屋に泊まった事ぐらい。
「―――――」
　そういえば、おかしな夢を見た気がする。
　なにやらアルクェイドと話をして、最後に、あいつがキスをしてくる夢。
「……はあ。なんかゆるみきってるな、俺」
　ベッドにはアルクェイドがまだ眠っているのに、そんな都合のいい夢を見るなんて幸せな証拠かもしれないけど。
「そう思うだろ、アルク――――」
　ベッドを振り返る。
　声は、そこで途絶えた。
「―――アル……クェイド？」
　呆然とベッドを眺めた。
　ベッドの上には何もない。
　アルクェイドの姿は、どこにもありはしなかった。
　―――これで、行くね。
　夢の中で。
　彼女は、そんなコトを、言っていた。
「ちょっと、待て」
　部屋中を探しまわる。
　アルクェイドの姿は当然のようにない。
　見つかったものといえば、
　テーブルの上にある一枚の紙きれだけだった。
「―――な」
　……何の冗談か、どこの国の言葉なのか。
　紙きれには、ただ、ばいばい、としか、書かれていなかった。
「―――なん、で」
　信じたくない。
　けれどそれ以上に―――アルクェイドがどうしてしまったのかが、理解できてしまう。
「――――なんで、だ」
　……ふざけてる。
　ばいばい、だなんて、簡単すぎる。
　ちゃんと、約束したのに。
　一緒にいるって約束したのに、あいつに最後まで協力するって言ったのに。
　どうして――――どうしてまたひとりに戻るっていうんだ、おまえは――――
「―――なんでなんだ、アルクェイド―――！！」
　力のかぎり叫んで、紙きれを握りつぶす。
　そのあと。
　俺は気が触れたように部屋を飛び出して、街中を走りまわった。
　……アルクェイドは見つからない。
　わかってる。
　もう絶対にあいつは俺の前に現れないって、わかってる。
　―――それでも、諦めきれない。
　このままじゃ気が狂う。
　あいつを探して、バカヤロウと怒鳴りつけなくちゃどうにかしてしまうのに、アルクェイドは見つからない。
　もう、絶対に、出会えない。
「―――――――、ああ」
　なにかが、絶望的に、終わった。
　あいつはひとりきりでロアとかいう吸血鬼と決着をつけて、消え去るだろう。
　……いや、もうそんなコトは済ませてしまって、とっくにこの街にはいないと思う。
「―――――――」
　気が狂う前に、何も考えられなくなった。
　……みーん、と。耳の奥で、蝉の声が聞こえる。
　蝉の、ぬけがら。
　自分の体が軽くて、中には何も入っていなくて、考える事さえ出来なくなった。
　魂が抜けるとはこういう事か。
　涙さえ湧いてこない。
　ぬけがらのまま、足が動く。
　動物の帰巣本能。
　何も残ってはいないクセに、俺は自分の寝床に向かって歩き出していた。
　翡翠の声で目が覚めた。
　あれから―――屋敷に帰ってきた後、自分の部屋に引きこもって眠ったのだろう。
　……目玉から脳に響く頭痛に溜息をつく。
　どうでもいいが、これも習慣だ。
　枕元に手を伸ばして眼鏡をかけた。
「志貴さま……どこか、ご気分が優れないのですか？」
「別に、何もないよ。おはよう、翡翠」
　返答して、ベッドから起きあがる。
　……自分でも、呆れるぐらい。
　何も口にしたくないのに、体はいつも通りに生活をしようとする。
「朝食だろ？　大丈夫、すぐに行くから」
「………はい。それではお待ちしております」
　何か言いたそうな顔をして翡翠は退室する。
　携帯をチェックする。メールはなし。曜日は月曜日。
　信じがたい事に、土曜の夜に帰ってきてからまる一日、ベッドで休んでいたようだ。連日の疲れがでたのだろう。
　学生服に着替えて食堂に向かった。
　朝食後、居間に立ち寄る。
　居間にはいつも通り、秋葉と琥珀さんがいた。
「おはよう」
　そのままソファーに座って、意味もなく時計を眺めた。
「……兄さん？　その、早起きなのはいい事ですが、
今日は学校があると分かってますよね？」
「うん―――？　ああ、そっか。
　学校には、行かないといけないよな」
　忘れていた。
　何もやる事がなくなったから、あとはヌケガラのままやっていくのだと、ぼんやりと思ってしまった。
「……俺には俺の生活があるもんな。何もやる事がないなら、とりあえず学校に行くよ」
「兄さん……？」
　秋葉が不審げな眼差しを向けてくる。
　弁明も説明も、今は頭が働かない。
　結局、無言のまま屋敷を出た。
　何の異常もなく時間は流れていく。
　こうして何時間めかの授業を、何の目的もなく受けている。
　かつかつ、というチョークの音。
　黒板にせわしなく書かれていく数式を、無意識にノートに書き写していく。
　ふと、窓の外から校庭を見た。
　前もこんな事をした気がする。
　当然のように、そこには誰もいない。
「――――――」
　―――何をしているんだろう、俺は。
　こんなところで、おとなしく授業なんか受けたりして。
　あいつを探しもしないで、普通の学生に戻ってしまって。
　けれど、俺にはアルクェイドを探す方法も手段もない。
　あいつが自分から消えた以上、俺があいつを探し出せる可能性は皆無だろう。
　だから、本当に。
　俺は、アルクェイドを失ったんだ―――
「…………」
　自分の机の上で音がした。
　特筆するべき事でもない。
　シャープペンを強く握りすぎて、折ってしまっただけの話だ。
　授業が終わった。
　ざわざわと教室が騒がしくなる中、俺だけが授業中と変わらずに席に座っている。
「遠野、ちょっと来てください」
　教壇から物理の教師が声をかけてくる。
「はい、なんですか」
　返事をして教壇に向かった。
「ちょっとした確認です。最近、夜遅くに繁華街の方で君を見かけた、という報告が届いていまして。覚えはありますか？」
「あります。ここ数日、深夜の街に用がありましたから」
「おっと。本当でしたか」
　物理の教師は難しい顔をした後、すまなそうな顔をした。
「遠野が夜遊びする生徒でない事は知っていますが、職員会議で問題にあがっていてね。生徒指導部の先生方が遠野と話がしたいそうだ。
　そういったワケだから、放課後は茶道室に行くように」
　それでは、と教師は教室から去っていった。
　放課後。
　茶道室に顔を出すと、指導部の教師はまだ来ていなかった。
　この学校には生徒指導室はない。
　たいていは空き教室か職員室で行われるが、今日のように使われていない部室を使う事もある。
　……どうやら、茶道部はずいぶん昔に廃部になっていたようだ。たしかに今どき、茶道部は流行らない。
「―――――」
　畳に正座して生徒指導の教師を待つ。
「………くっ」
　ぎり、と唇を噛む。
　こんな事をしている場合じゃないのは分かってる。
　分かってはいるが、俺には他に手段がない。
　部活動が禁止され、下校時間も早まった校舎は、刻一刻と静まりかえっていく。
　……あたまに、くる。
　なんだって自分はこんな所で、こんな事をしているのか。
　自分の無力さにどうしようもなく腹がたつ。
　けれどそれを解決する手段がないから、結局はヌケガラのように言われた事をこなすしかない。
「……なにやってるんだろ、俺」
　答えはない。
　胸の苛立ちを堪えながら、無人の部室で夜の到来を待ち続けた。
　かちん。
　長い秒針が音をたてて、６時を過ぎた事を告げてくる。
　茶道室には誰もやってこなかった。
　学校の閉鎖時間は４時、教師たちが帰るのが５時というから、校舎には誰も残っていない事になる。
「……忘れられたかな」
　漠然と、それはそれで好都合だ、と思う。
　なにしろ屋敷に戻る理由が潰れてくれた。
　戻りたくないワケじゃないが、今はまだ戻れない。
　足を崩して立ちあがる。
　……茶道室も悪くない。
こうして、ひとりで思案し続けたおかげで、少しはマトモな頭に戻ってくれたみたいだ。
　ずっと、考えていた。
　自分はどうするべきか、何を優先すべきかを。
　俺は、これから―――
　―――アルクェイドを、見つけ出す。
　それがどれほど不可能めいていても、それしか考え付かない。
　見つけるまで探し続けてやる。
　あいつをひとりにしておけないし、勝手に―――
　この事件に決着をつけられてたまるもんか。
「――――よし」
　ふんぎりはついた。
　そうと決まれば時間を無駄にはできない。
　一刻も早く街に出て、<藁|わら>にすがってでもあいつを探し出さないと。
　――――屋敷に戻ろう。
　何のあてもなしにアイツを探し出すのはもう不可能だ。
　今は無闇に動き回るより、屋敷に戻って自分に何ができるのかを考える他ない。
「…………」
　自分の無力さを痛感するが、もう腐ってはいられない。
　俺にできる事はものを『殺す』事だけだ。
　それを最大限に活かす方法を探してやる―――。
　―――ロアを探す。
　もうアルクェイドは俺の前には現れない。
　こっちからアイツを探し出すのは不可能だ。
　だから、その逆をとる。
　要は<目|ゴ><的|ー><地|ル>が同じであればいい。
　アルクェイドの目的がロアであるのなら、俺がロアを探し当てれば、必然、もう一度出会う事になる。
　……それに。
　それなら最後の瞬間、アルクェイドの手助けもできるだろう。
「――――よし」
　ふんぎりはついた。
　そうと決まれば時間を無駄にはできない。
　一刻も早く街に出て、<藁|わら>にすがってでもロアの寝床を探し出さないと。
　無人の廊下を行く。
　燃えるような夕日が廊下を赤一面に染め上げている。
　秋の日はつるべ落としだ。
　あと数分足らずで世界は変わる。夜が訪れる。
　見上げた空はすでに暗い。
　黒と赤の境界線。
　昼でも夜でもないあいまいな時間に自分はいる。
「―――あ」
　廊下から空を見上げて気がついた。
　空には既に月が出ていた。
　これ以上ないほどの真円の<貌|かお>。
「…………」
　わずか、我を忘れて月を見上げた。
　銀色の月。
　浮き彫りの、ガラス細工じみた美しさ。
　鮮明すぎて空からこぼれ落ちてきそうな白貌。
　そんな月を、こどものころ、
　<昏睡|こんすい>の際で　
見つめていた　
きがする。
　――――ぞくん。
「ぐっ…………！？」
　突然、胸の古傷が痛んだ。
　――――どくん。
　心臓が<一際|ひときわ>跳ねる。
　体中の血管が活性化して、呼吸が一定しなくなる。
　――――ぞく、ん。
　胸に手を触れてみれば。
　じくり、と制服は真っ赤に染まっていた。
　傷が開いて、出血している。
　――――どく、ん。
「は―――ア、ハア―――ハッ――――」
　呼吸が乱れる。
　背筋に走る悪寒は氷のようだ。
　あまりの震えに、背骨が皮膚を破って外に飛び出しそうなほど、痛い。
　―――ぞく、ん。
　―――どく、ん。
　―――ぞ、く
　―――ど、く
　――――――かつ、ん。
　心音にまぎれて、何か、硬い音がした。
「あ――――――」
　誰かが、やってくる。
　廊下の奥から、長い影を床に這わせて、
　かつん、かつん、と、冷徹な足音を響かせて。
　―――なにか、まずい。
　ヴローヴのような、吹き荒ぶ脅威とは違う。
　<外界|そとがわ>からではなく<内界|うちがわ>から生じる潜在的な恐怖が、全身を脈打たせる。
　頭蓋を駆ける<閃|いた>み。
　この痛覚。この危機感は、自分自身に対するものだ。
　俺は―――遠野志貴は、あの人影にだけは、会ってはいけない気がしている――――
「―――、――――――」
　足を止める。
　逃走は既に遅い。背中を見せればそこで終わりだ。
　定まらない息遣いのまま眼鏡を外す。
　懐に隠した<短剣|ナイフ>を<抜刀|ひきぬ>く。
　人影が、やってくる。
　長身の男性。
　身体にうごめく“線”は驚くほど少なく、視辛い。
　反面、中心で脈動する“点”の<禍々|まがまが>しさよ。
　どくん、どくん、と、心臓のように<不死|せいめい>を<謳|うた>っている。
「―――――――――――――――――――――」
　呼吸が止まった。
　いくつもの<疑|な><問|ぜ>が交錯する。
　あんな人影、俺は知らない。
　知らないのに―――誰かに似ているような気がしてならない。
　かつん、かつん。
　男は近づいてくる。
　もうすぐ、その顔がはっきりと見て取れる。
「―――――――――――――――――――――」
　誰に似ているのか。
　誰に似ているのか。
　誰に似ているのか。
　自分は、誰を忘れているのか――――――
　俺に合わせるように、男の足が止まった。
　まだ遠い。赤い斜陽で貌も見えない。
　だが<皎皎|こうこう>と輝く、獲物を狙う二つの<蛇|じゃ>の目。
「“私が思うに。人間の一生は、主題の無い本のようだ”」
　それは、朗々とした声だった。
　穏やかでありながら、ここまで背筋が寒く―――
　いや、反吐がでそうなほど胸くその悪い音を、俺は知らない。
「“本は片手に掴めるほど小さく、
　　紙は年月に霞むほど<脆|もろ>い。
　　水に濡れる。火に<炙|あぶ>られる。自らの手で切り捨てる。
　　過去の<記録|できごと>など、つね<改竄|かいざん>される幻想だ。
　　<然|しか>るに―――”」
　ナイフを構える。
　腰を落とす。距離を<目|つ><視|か>む。
　考える時間も躊躇する余裕もないと本能が告げている。
　だが、理性はあまりにも<頑|かたく>なで、
　ほんの<一息|ひといき>分、ヤツを殺す事に意識を切り替えられなかった。
「“君という個人もまた、不出来なテクストにすぎない。
　　人生はあまりにも曖昧だ。
　　その自覚はあるか？　遠野―――志貴”」
「―――はっ！」
　<堰|せき>を切って走る。
　<い|・><ま|・><さ|・><ら|・><遅|・><い|・>、と焦りながら最高速をたたきだす。
　かつてない運動性能の発揮。
　10メートル近い距離を一息のうちに駆け抜け、ヤツの線を切断す―――
「――――――」
　だが、やはり、あまりにも遅かった。
　こちらが一息で詰めるのなら、
　ヤツは瞬きのうちに、俺の背後にすり抜けていた。
「――――――」
　間に合わない。
　男は俺の手を打ち、ナイフを奪った。
　その目は青く光りながら、俺の体の線を、直視している。
　俺だけがスローモーションのようだ。
　ヤツは、愉快そうに口角を釣り上げ、
「残念だったな。
　死を視るのは、何もおまえだけの特権じゃない」
　俺のナイフを、俺の体めがけて振り下ろした。
　背筋が凍る。
　脳髄が凍結する。
　以前、同じ事をされた体が、その痛みを覚えている。
「―――――――――――あ」
　ずざ、と肉を裂く音。
　白い鋼は、まるで紙でも<穿|うが>つように、この胸に突き刺さった。
　体が倒れこむ。
　全身から力が抜けて、床に崩れおちていく。
　その最中。
　見上げるように男の顔を見た。
「――――――」
　目の前が真っ暗になる。
　男の顔。こんな男の顔を、俺は知らない。
　なのに、覚えがある。この血の流れを覚えている。
　だって、こいつは―――
　あの夏の日に、俺の前で、
　血にまみれていた少年の<未来|すがた>そのものだ。
　だん、と床に倒れこんだ。
　不思議と痛みも出血もない。
　胸にはナイフが刺さったまま。
　ただ、体温が下がっていく。意識が段々と薄れていく。体の自由がなにもかも消え去っていく。
「おまえ<が|・>殺された借り、たしかに返却した。もはや思い残す事もないだろう。
　焚書の時だ、遠野―――<四|シ><季|キ>」
　男は虚空に向けて言葉を送っている。
　ああ―――どうして今まで忘れていたんだろう。
　こどもの頃。
　遠野の屋敷で遊んだ、自分と、秋葉と、もう一人のこどものことを。
　いつだって―――いつだって<自|・><分|・><た|・><ち|・>は一緒だった。
　秋葉と遊ぶときだって、いつも自分はカレと一緒になって秋葉を迎え入れたというのに、どうして――――
　俺は今まで、カレの名前を忘れていたのか。
「シ――――キ」
「そうだよ志貴。本当に、久しぶりだ。
　まあ―――いささか、遅すぎたようだがね。
　この体の持ち主、遠野四季はたったいま消え去った。
君への復讐を完遂して、な」
　男は語る。同じ響きでありながら、違う言葉の男の名を。
　遠野四季。
　シキ。志貴。秋葉。シキ。シキ。秋葉。志貴。
　そんな落書きの跡が脳裏に蘇る。
「おま、え、が―――」
「そうだ。私が君の目的だ。
　この肉体に転生した吸血鬼。姫君の敵対者。
　それも、今夜かぎりの異名だが」
　厭な笑い声と、ヴローヴからさんざん感じとった不快感。
　薄れゆく意識の中で悟る。
　コイツが―――アルクェイドの“敵”なのだ、と。
「さて―――そのナイフは貰っておこうか。
　じきに消え去る君には不必要なものだろう」
　ロアの手が、胸に刺さったナイフに伸びる。
　ぐっ、とナイフの柄を握られる。
　抜かれた瞬間、自分は間違いなく死ぬだろう。
　どうしようもない。
　体は、もう目蓋を閉じる事さえできないほど、まったく動いてはくれなかった。
「―――――――」
　消えた。
　突然、ロアの体が視界から消失した。
　それと同時に、修道服を着こんだ人影が現れる。
　三階の窓ガラスを破って、転がるように飛びこんできたのは、
「――――――」
「――――――<Ⅹ|デケム>」
「……数秘門による雷霆ですか。
　どうやら完全に入れ替わったようですね、ロア」
「……先……輩？」
　先輩……そうだ、この人はシエル先輩だ。
　もういなくなった筈の人が、俺を庇うように、あの吸血鬼と対峙している―――
「………………」
　ふたりの実力は拮抗している。
　まだ太陽が沈みきっていない状態で、という条件付きだが。
　――――と。
　何かに気がついたのか、突然ロアは笑い始めた。
「―――ふ、ははは、ははははははは！」
「そうか、そういう事か女！　想定すらしていなかった、こんな<事態|ケース>もあるのだな！
　素晴らしい、それでこそだ。八百年繰り返しての転生だ。一度や二度の特例が、ようやく発生した訳か！」
　心底可笑しそうにロアは笑い続ける。
　……先輩は、ただ無言で吸血鬼を睨んでいた。
「どうした？　私を殺す為にやってきたのだろう？
　それともなにか？　やはり脱け殻には何もできないと？」
「――――――」
　先輩は答えず、
　吸血鬼から視線を逸らして、倒れこんでいる俺の体を抱き上げてくれた。
「ほう。私との因果を断つより、そのニセモノのほうが大事という事か。
　だが、それは無駄だぞ。彼はもう助からない」
「今まで遠野志貴が好き放題やってきた事を、そのまま返してやったのだからな。
　死線を裂かれたモノにはどのような治療も無意味だ。
　あの姫君でさえ蘇生するのに八百年の歳月と引き換えにするしかなかった。ただの人間に、“死”から逃れる術はない」
　嘲笑う声だけが聞こえる。
　先輩は唇を噛みしめて、あの吸血鬼への激情を堪えている。
　今すぐ<奔|はし>りだしたい殺意を呑み込んでいる。
　……それは。
　助け起こした俺をかばっての事だった。
「“おう、承知しているよ。転生完了おつかれサマ。
　この時を待ってたぜ。ようやく会えたな、バルダムヨォン”」
　先輩の胸から、子供の声が響いた。
　あれは……マーリオゥの声をマイクで流しているのか……？
「何者だ。随分と<私|・>に気安いようだが」
「“この街に派遣された司祭代行だよ。
　名前はマーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノ。
　テメェならこれで意味が通るだろ、ヘビ野郎”」
「ベスティーノ……ラウレンティスの隠し子だな？
　そうか―――まだ生きているとは驚きだ。
　どうやら、そちらはそちらで愉快な<事|こ><態|と>になっているな？」
「“ああ、おかげさまでな、爺さんは今も正気じゃねえよ。
　……で、どうなんだ？　テメェ、完全にバルダムヨォンか？
　転生は成功したんだろうな？　まだだったら遠慮はいらねえ、あと七日は教会からの支援は止めておくから、さっさと目を覚ましてきな”」
「……<改|あらた>めなさい司祭代行。それは教会への背信行為です」
「“ほざけ、テメェに言われたくはねぇよシエル。
　つーか安心しろ、死徒は例外なくブッ殺す。その前に拾っておかなきゃならねぇお宝があってな。ジジイの密命と言えばお利口なテメェも納得だろ？
　……で、どうなんだアカシャの蛇。<今|・><回|・><は|・><ち|・><ゃ|・><ん|・><と|・><思|・><い|・><出|・><し|・><た|・><か|・>？　<解|・><脱|・><の|・><法|・><は|・><ど|・><こ|・><に|・><あ|・><る|・>？”」
「不老不死が必要なほど老いたのかラウレンティス。
　だが―――私は確かに書き残した筈だ。
　人のままでは完全な不老不死は実現しないと。
　私の書庫を漁った盗人どもがこの忠告を受け入れなかったのなら、自業自得と言うほかない」
「“……偉ぶってんじゃねえよ。ようは未完成のまま放置したってコトじゃねえか。
　………じゃあ、アレか。ジジイが望むような不老不死は、存在しないと？”」
「残念ながら。私の研究は魂の分野に切り替わった。
　肉体に関する研究はそれこそ下手の横好きだ。理論だけで実践の域には達していない。
　そんな不確かな儀式は魔術とは呼べない。それは呪いと言うのだ、ベスティーノ」
「“…………つまり？”」
「徒労だったな。不老の解決法はない。せいぜい健やかに、<死|・><ぬ|・><ま|・><で|・><苦|・><し|・><め|・>」
　……それは、恐ろしい沈黙だった。
　マイク越しですら伝わるマーリオゥの落胆。失望。憎悪。怒り。
「“…………呪いと言ったな、バルダムヨォン”」
「そう言った。アレらは私が開発した魔術基盤。
　魔術に疎い聖堂教会であろうと、司祭代行であればその成り立ちは知らされていよう」
「“……引き上げろシエル。仕留めるのはまた後だ。このヘビ野郎は数で潰す”」
　シエル先輩は俺を抱きかかえたまま、ブチ破ってきた窓の枠に足をかける。
　……ヤツは、それを薄ら笑いで見逃している。
「―――構わん、立ち去るがいい。なにぶん私は忙しい。
　こうしてロアとして地上に出た以上、姫君はじきに訪れよう。
　歓迎の支度に、念を入れなくてはいけないのでね」
　先輩は吸血鬼に背を向けて、三階のガラス窓から外に飛び降りた。
　三階分の高さなんて、先輩にはあまり意味のないモノだったらしい。
　タン、と軽い足取りで地面に降り立つと、先輩は振り返らず学校から離脱していく。
　―――その最中。
　俺は虚ろになっていく目で、あの男を眺めていた。
　……俺の記憶にある子供と同じ名前。
　かつて生きていた、遠野四季という人間を上書きした、ロアという名の吸血鬼を。
　先輩は俺を抱えたまま、一直線に遠野の屋敷に到着した。
　……なんのつもりか知らないけど、ちょっと、それは困る。
　俺の胸にはナイフが刺さったままで、間違いなく死にかけている。そんなところを秋葉に見せたら、心配させるどころの話じゃない―――――
「――――――」
　……くそ、声が出ない。
　やめてくれと言いたいのに、喉はかろうじて息をするので精一杯だった。
「遠野くんは黙っていてくださいっ！
　……大丈夫、妹さんなら、きっと遠野くんを助ける事ができるはずです……！」
「――――――」
　……助けるって、そりゃあ無理だよ先輩。
　胸をナイフで刺されて、もう体の自由もきかない。
　……そんな死にかけた人間を助けられるヤツなんて、どこにもいないんだから。
「いいえ、できます。<そ|・><う|・><で|・><な|・><け|・><れ|・><ば|・><理|・><屈|・><が|・><合|・><い|・><ま|・><せ|・><ん|・>……！　いいですか、彼女が遠野志貴を助けられなければ、そもそも貴方は七年前に死んでいます。
　だから、きっと、今回もまだ間に合う筈なんです……！」
　……先輩、それはどういう……
「もう、いいから黙っていてくださいっ！
　これ以上喋ると、本当に保たないじゃないですかっ！」
　今まで見た事もないほど、真剣な顔で怒られた。
　……なにか、とても悪い気がしたので目を閉じる。
　…………まあ、どのみち。
　……………………いいかげん、
　起きているのが　辛くはあった　から―――
「――――――！」
　勢いよくベッドから跳ね起きた。
　酷い夢を見ていたのか、体はべっとりと汗をかいていた。
　……けど、うなされるような夢を見た覚えはない。
　むしろいつもより深く、長く眠っていた気がする。
　それこそ丸一日眠っていた気分だ。
「……眼鏡、かけたまま眠ったのか」
　起き抜けにイヤなものを見ないですんだが、これでよく熟睡できたものだ。
　眼鏡を外す余裕もなかったなんて、昨日の俺はそれほど混乱していたらしい。
「……なんであんな事を、俺は……」
　……いや、ロビーでの事を思い返すのはやめよう。
　椅子を壊してしまった件については、俺の方から秋葉に伝えれば翡翠が叱られるコトもない筈だ。
　―――コンコン。
　やや強めのノック音がしたかと思うと、ちょっとだけ意外な人物が扉を開けて入って来た。
「おはようございます志貴さん。今朝の具合はどうですか？」
「あれ、琥珀さん？」
　起こしにきたのは翡翠ではなく琥珀さんだった。
「珍しいですね。翡翠はどうしたんですか？」
「いやですよ志貴さん。翡翠ちゃんはお休みだって言ったじゃないですか。今朝は志貴さんだけですから、ごゆっくり食堂にいらしてくださいね」
　琥珀さんは着替えの制服を置くと、
それでは、と微笑んで退室していった。
　―――コンコン。
　控えめなノックの音と共に、もう見慣れた人物が入ってくる。
「おはようございます志貴さま。
　昨夜はよくお眠りになられましたでしょうか？」
　あんな事があったのに翡翠はイヤな顔ひとつせず、深々とお辞儀をしてくる。
　使用人として当然の態度なんだろうけど、今はその気遣いがありがたかった。
「……ああ、おはよう翡翠。それと、昨日はゴメン。
　椅子を壊した事は俺から秋葉に謝るから、翡翠は知らなかった事にしてくれ」
「―――かしこまりました。
　ですが、椅子の件でしたら姉さんが内密に処理してくれましたので、秋葉さまへの報告はなくともよろしいかと存じます」
「琥珀さんが……？」
　失敗を隠すようで後ろめたいけど、秋葉がヘンな勘違いをして翡翠を叱るよりはいい……かな？
「わかった。俺もそういう事にしておくよ。
　ありがとう翡翠。琥珀さんにもお礼を言っておいてくれ」
「はい、志貴さまにそう言っていただけるのなら、姉さんも喜ぶと思います。
　……それより、志貴さま。あの……今日は何曜日だか、お分かりでしょうか？」
「……？」
　時計は午前７時過ぎ、月曜日を示している。
　こんなの、俺に訊くまでもない事だろうに。
「月曜日だけど、それが？」
「……失礼いたしました。わたしの思い違いだったようです。
　それでは制服に着替え次第、食堂の方へおいでください」
　翡翠は手に持った着替えの制服を机の上に置いて、
しずしずと退室していった。
「と、制服に着替えないとな」
　気を取り直してベッドから起き上がる。
　寝間着から制服に着替えると、机の上にナイフが置かれている事に気がついた。
　ここ数日間、ポケットに忍ばせていた父の形見という短刀。
　それも、もう使う事はないだろう。
「……そっか。終わったんだ、全部」
　シエル先輩もアルクェイドも、
　ヴローヴを始まりとした吸血鬼との関わりも、すべて、いっしょくたになって何処かに行ってしまった。
　先輩のいない学校には以前ほどの魅力はない。
　けど、それが今までの遠野志貴の日常だった。
　俺は新しく得たものを無くしただけ。
　もとからあったものはありのまま残ってくれている。
　そしてそれが、先輩の残してくれた唯一の<成|も><果|の>だった。
「―――よし」
　そう思えば先輩がいなくなってもやっていける。
　忘れられないけど、やっていける。
　……それが虚しい嘘でも、繰り返しているうちに日常になる筈だ。
　机の引き出しにナイフをしまって、自分の部屋を後にする。
　さあ。
　今まで通り、今日も学校に行くとしよう―――
　７時45分。
　登校に適した時間帯という事もあり、通学路は登校する生徒たちの姿で賑わっていた。
　休み明けで気怠そうな顔も見られるが、それでも場の雰囲気は明るい。連日の猟奇事件が完全に途絶え、みんな胸のつかえが取れたのだろう。
　そんな周りの様子に俺はまだ溶け込めない。
　猟奇事件の真相を知ってしまった事もあるが、こうして学校を前にすると否応でも現実を思い知らされてしまう。
　……情けない話だけど、どんなに自分を鼓舞したところで先輩がいないという事実が、重く肩にのしかかって――――
「―――え？」
　………………ちょっと、待った。
　今のは幻……のようで、幻でない……ような……
　そもそも俺があの人の後ろ姿を見間違えるなんてコトは許されない……ような……
　というか、なんでこう、何の緊張感も感慨もなく、ごく普通にヒョコヒョコと登校してるんだ先輩は―――!?
「あああ、あの、先輩…………っ！！！！」
　思わず声をあげて駆け寄る。
　先輩はさっきから俺に気付いていたとしか思えないほど、くるり、と自然に振り返った。
「おや、遠野くん。おはようございます。
　今朝はいつになく元気いっぱいですね」
「はい、おはようございます―――って、そうじゃなくて！
　三度目！　こういうの三度目です！　先輩、帰ったんじゃないんですか！？」
「その予定でしたけど、当面仕事がないようなので、残らせていただきました。
　それに、ちゃんと卒業までいると約束しましたし。わたしが遠野くんを置いて帰るワケないじゃないですか」
「――――――」
“俺を置いて帰るワケがない”
　淡い笑顔で先輩はそう言った。
「―――えっと、それは」
「はい、なんですか？」
「その、言葉通りの意味として、受け取っていい、んでしょうか」
「はい、遠野くんの想像にお任せします」
　先輩は笑顔ではにかみながら、くすぐるような声で、俺の言葉に頷いた。
「――――――」
　こみ上げる感情で息がつまる。
　今まで生きてきてこんなに嬉しかった事は―――いや、生きていて良かったと感謝した事はないかもしれない。
　少しでも理性を緩めたら、迷わず先輩に抱きついてしまいそうだ。
　間違いなく、いま俺の胸には火が付いている。
　もし周りに誰もいなかったら、それこそ何をしでかすか分からない。
「先輩！」
　がしっ、と先輩の手を握る。
「それじゃあ、もう本当にどこにも行かないんですね!?
　ずっと、このまま学校にいるんですよね!?」
「あのですね、ずっと学校にいたらおばあさんになっちゃいます。わたしは三年生なんですから、あと四ヶ月で卒業です」
「そ、そうでした、すみません……でも昨日みたいにいきなり帰るなんてコトはなくて、ちゃんと話はできるんですよね？」
「もちろんですとも。初志貫徹はいい言葉です。
　こうなったら最後までお付き合いしますよ、遠野くん」
　ああ、と自分が大きく胸を撫で下ろしているのが分かる。
　体は今すぐグラウンドを何周も走りたがっているのに、心はより深い気持ちで満たされている。
　泣きたいほど嬉しいのに、勿体なくて喜びさえ洩らしたくない、なんてコトが自分にもやってくるなんて！
「むむ。思いの外落ち着いていますね遠野くん。
　じつのところ、ちょっと驚かせようと思わないコトはなかったのですが」
　先輩もサプライズの自覚はあったようだ。
　その悪戯心に苦笑してしまう。
「ええ、嬉しすぎて馬鹿になりそうですけど自制ぐらいできるんです。……それに、ほら。心のどこかで、また驚かされるんだろうなって気はしてましたから」
　今の気持ちを伝えたくて素直に笑いかける。
「そ、そうですか。それは、日頃の行いが祟ってしまった、と反省すべきところでしょうか」
　先輩は照れくさそうに視線を逸らす。
「と、そろそろ朝礼の時間ですね。
　遠野くん、そろそろ行かないと遅刻しちゃいます」
「そうだね。それじゃ先輩、また休み時間に！」
　先輩に手を振って、先に校舎に向かう。
　俺はにやけてしまう口元をそのままに、
全力で教室まで走りだした。
　１時限目の授業が終わった。
　次の授業まで10分間の休み時間がある。
「よし」
　昼休みを待っていられない。自分でも浮かれすぎていると分かっているが止められない。
　顔を見るだけでいいから、三年の教室にいる先輩を探しに行こう……！
「あれ、どこかに行っちゃうんですか、遠野くん」
「ほあ!?」
　あまりの出会い頭に面食らってしまった。
　階段には俺より先にやってきた先輩の姿があった。
「い、いえ、先輩を探しに行こうと飛び出したというか……
　いつも待ってるばかりだから、たまにはこっちから行こうと思ったんです」
「それはそれは。嬉しいですけど、遠野くん、わたしのクラスを知らないでしょ？　３年のＢクラスですから覚えておいてくださいね」
「……………」
「な、なんでしょう、その沈黙。
　なにか不名誉な指摘を受けている気がしますがっ」
「いや、茶道部の部費でお茶飲んでるだけじゃなくて良かったなと。うん、感心感心。分かってましたけど、真面目に授業を受けてたんですね」
「はい、なんとか授業についていってます―――
って
　遠野くん、わたしの事をそんな風に思ってたんですか！」
「あ」
　……しまった。微塵も思っていなかった、と断言できないのが我ながら薄情だ。
「……すみません、あまりに先輩が神出鬼没なんで、良からぬ想像をする時もなくはありませんでした。先輩の耳には届いてないだろうけど、一、二年の間じゃ楽しい噂話もあるし」
「ほほう。良からぬ想像とは、どのような？」
「授業にいないのにいるように見えたりとか、実は何人にも分身できたりとか、いくらなんでも万能すぎるし実は学校を裏で牛耳ってるんじゃない？　とか、まあ、諸説色々……」
「遠野くんはそう思っていたんですか？」
　―――ここは魔界か。
　ほんわかしていた空気が一瞬で氷点下に落ちた気がする。
　下手な発言をすれば命を落としかねない緊張感。
　俺は―――
「とんでもないっ！　思ってたのは一つ目のヤツだけです！」
　というか、それだけは確実にしてますよね！
「うっ……反論したいところですが、遠野くんの言う通りです。たまに、どうしても間に合わない時は欠席を誤魔化したりしています」
　お恥ずかしい、と肩をすくめる先輩。
　……でもそれは仕方のない事だ。
　先輩の本職は吸血鬼を退治する事なんだから、授業を欠席してしまう時もあるだろう。
「分身くらいはできるでしょ？　忍者にだってできるんだし、カレーあんなに食べてるんだし」
「シャ！」
「失礼、つい体が先にブレてしまいました。
　それより、ニンジャとカレーは何の関係もありませんよね？」
「は、はい。ないですね、そういえば。
　……はは。根拠のない噂話をして、すみません」
　だって根拠のない話じゃなかったし。
　この御方、いまガチで分身していましたよ。
「生徒会を牛耳ってる、ぐらいはアリなのかな、と……」
「ありませんっ。
　そもそも、生徒会会員の皆さんはたいへん優秀です。
　学校行事をより良くしようとする姿勢だけでなく、来たるべき中高一貫校への変化に対応できるよう、日々努力なさっています」
「わたしがしている事なんて、ちょっと弱気ですぐネガティブになってしまう会長氏のお尻を叩くくらいです。
　また、私怨で行動しがちな人物なので、そういう時はボクシングジムなどに連れて行くくらいです」
「なるほど」
　<生徒会長|トップ>の首根っこを押さえている、と。
　フランスの人だから、『牛耳る』という言葉の意味を知らないのかな？
「あー……でも先輩、茶道部については疑問があるというか、質問があるというか。
　前に部員はいないって言ってましたけど、この学校、初めから茶道部そのものがないんじゃないですか？」
「……あの。もしかして本当になかった？
　じゃあ茶道室は先輩が作った……いや、学校側に作らせた謎の空き教室なんですか!?」
「さあ。わたしにはてんでわからないお話みたいです」
　シエル先輩は窓の外に視線を移して、あからさまに話を逸らしにきた。
「……いいけど、別に。どんな悪さをしても先輩は根っからの悪人じゃないし、誰にも迷惑はかけてないんだろうし。
　でも先輩の暗示ってそんな事まで出来ちゃうんですか？」
「ですから、遠野くんのお話はてんでわからないのでお答えできません」
「―――――」
　じっとシエル先輩を見つめる。
　沈黙すること１分弱。
「……わりとしつこいんですね、遠野くん」
「別に。先輩の目って青いんだなって、見てただけですよ」
「……………」
　はあ、と根負けしたように先輩はため息をつく。
「言っておきますが、暗示というものはそんなに都合のいいものじゃないんですよ。人を言いなりになんかできませんし、無理難題を通すコトもできません。
　暗示とは物事の捉え方を変える、のではなく逸らす、というのが大前提なんです」
「わたしがいくら『遠野くんはカレーが大好き』と言い聞かせても、遠野くん本人がカレーが大嫌いならその暗示は成立しません」
「あれ、そうなんですか？
　じゃあ本人が嫌がっている事は無効化される？」
「はい。まあ、それでも遠野くんにカレーを食べてもらう方法はいくらでもありますけどね。
　たとえば『大好きだから食べる』というのではなく『食べなければ死んでしまう』と暗示をかければ――」
「ああ、なるほど。大嫌いでも食べるしかないですね。
　……なんだ、やっぱりなんでも出来るじゃないですか、それ」
「だから何でもじゃありませんってば。
　そういった意味の挿げ替えはとても難しいんです。きちんと舞台を整えて、よっぽど巧い<物語|ストーリー>を作らないとかかってくれません。
　暗示にかかりにくい人も大勢いますし、わたしに出来ることなんて『わたしを疑問に思わない』という暗示ぐらいです」
　……ああ、それは前にノエル先生も言っていたっけ。
　全校生徒に“見知らぬ先輩がいても不思議に思わない”状況を作ること。
　それがシエル先輩がかけていた暗示だ。
　だから―――学校のみんながシエル先輩を頼るようになったのは暗示とは関係ない。
　単に、この人がみんなのピンチを何度も救ってくれたから、自然に今の立ち位置になったんだ。
「っと、そろそろ時間ですね。
　また昼休みに来ますけど、体の方は大丈夫ですか？　今朝はずいぶんと顔色が悪いようですが」
「はい……？」
　顔色が悪い……？
　体調もいいし、そんなコトないと思うけど……。
「大丈夫ですよ。ちょっと寝過ぎたのか、体がだるいだけで」
「そうですか。頭痛の方はどうです？」
「そっちは……相変わらずかな。でも今朝は調子がいいです。
　そもそも、少しぐらい痛くても眼鏡をかけていれば問題はありません」
「そうですか。それを聞いて安心しました。
　でも油断は禁物ですよ。事件は解決しましたが、何があるか分かりませんから。というワケで、携帯をだしてください」
「携帯ですか？」
　ポケットから携帯端末を取り出す。
　……と。先輩も同じように携帯端末を取りだしていた。
　これは―――まさか―――！
「はい、これがわたしのメールアドレスと電話番号です。
　よかったら遠野くんのアドレスも教えてくれますか？　大事な話はメールや電話の方がいいと思います」
「あ―――はい、もちろん！
　ちょっと待って、ちょっと待って……！」
　はやる気持ちを抑えられず、あたふたと携帯を操作する。
　……我ながら情けない。生まれつき小市民なせいか、突然の幸福にまったく対応できていない。
「はい、確かにいただきました。
　それじゃあ、何かおかしなコトがあったら遠慮なく相談してください」
　先輩は笑顔でそう言って階段を下りていく。
「……………」
　その背中を見送り、余韻にひたること数分。
　嬉しさで立ち尽くしている間に２時限目開始のチャイムが鳴っていた。
　４時限目が終わって教室はにわかに騒がしくなった。
　これから昼休みだから―――ではない。
　４時限目の終わり、物理の<鴨加茂|かもかしげる>先生はこう仰った。
『あー、連絡があるのを忘れていました。
　今日の授業は私でおしまいです。校舎に欠陥が発見されたので、午後は工事のための調査が入ります。
　皆さんはこのまま午後２時までに下校するように。食堂は１時まで開いていますので、定期食券をもっている生徒の方は利用してもかまいません。ではでは』
　発見された欠陥は地盤沈下のたぐいらしく、ロアの柩があった地下空洞との関連性が気になったが、どうあれ吸血鬼はもういない。
　そもそもあんな物騒な場所と繋がっていたら先輩が黙っていないだろうし、俺たちには関係のない話と思われる。
　教室にはいまだ午後の予定を決めあぐねている生徒が10人ほど残っていた。
　かくいう自分もそのひとりだ。
　先輩を待つべきか、こっちから茶道室に行くべきか。
　いや、いっそさっき手に入れたばかりのメアドを有効活用するべきか……と。
　午前中ひたすら机につっぷしていた三年寝太郎が、怪しい笑みをうかべてこちらに近寄ってきた。
「みなまで言うな。遊びに行こう、遠野」
「……また、今日はえらくストレートにきたな。なにかイヤな事でもあったのか、おまえ」
「べっつにー。今日はワケもなく親友と遊びに行きたくなっただけだぜー？」
　……露骨にあやしい。
　財布の中身が心許ないとか、毒味役が必要だとか、そんな事情が見え隠れしている。
「お断りだ。どうせ約束をすっぽかされたかなんかだろ。
　今日は先輩と帰るんだから、おまえのグチに付き合ってやる余裕はないよ」
「先輩？　先輩って、シエル先輩？」
「そうだけど……有彦、おまえ先輩のこと覚えてるのか!?」
「なんですかソレは。先輩はオレの大本命だぞ、忘れるワケないでしょーが」
　あっさりと、当たり前のように有彦は即答した。
「………………」
　そっか。シエル先輩が学校に戻ってきたんだから、何もかも元通りになったのか。
　……でもそれ、さっき聞いた暗示の範囲から逸脱しているような……。
「あっ、せんぱいだー！　ヤッホー！」
　ブンブンと手を振る有彦。
「お待たせしました遠野くん。乾くんも、こんにちは」
　シエル先輩は丁寧におじぎをする。
「予定が変わってしまいましたけど、どうします？
　遠野くんはお家に帰りますか？　それとも茶道室に寄っていきます？」
「茶道室に行きます。このまま帰ると正門でお別れになるし。今日はもっと先輩と話がしたいから、茶道室でゆっくりお茶を、
ををををを!?」
　両肩をがっしりと掴まれ、上半身をぶるんぶるんと前後にシェイクさせられた。
「こーんーにーちーはー！　おーきーてーまーすーかー！」
　犯人は有彦だった。
「……なんだよ有彦。まだいたのか」
「ずっとテメエの目の前にいたっつーの。そしてあまりのタワゴトに覚醒したっつーの。
　その、アレだ。あんまりこういうのに口だしする趣味はねえが、今のはあんまりにもアレだったんで口だしする」
　有彦は呆れたような目で俺と、さらにシエル先輩まで一瞥する。
「？」
　思わずシエル先輩と顔を見合わせてしまった。
「あのね、キミたち。せっかくの半ドンをどうしてそういう風にしか使えねえんだよ。茶道室に寄っていくとか正気を失う、いや疑うレベルだからな。
　ここは人工失楽園、二十一世紀のトーキョーだぜ？　もっとマシな遊び場はあそこに山ほど転がってるだろうが！」
　ビシッ、と大げさに有彦は窓の外を指差した。
「……えっと、ドコでしょうか」
「窓の外は、まあ、ようするに外だと思うけど」
　シエル先輩の疑問に、自分なりに答えてみる。
　と。
　また有彦にお叱りをくらった。
「遠野、オマエがそんなだから先輩までボケちまってんのサ！
　まだ昼なんだぞ？　駅前なんて徒歩10分なんだ！？　ついでにオレたちは学生なんだぞ！？
　これだけの条件が揃っていて、どうして街で遊びまくる企画力がねえんだよオマエは！」
「む」
　ばかもの。
　それぐらい俺だって<企|たくら>みたい。
　企みたいが、その―――
「？」
　シエル先輩の姿を盗み見る。
　この人は街で派手に遊ぶより、公園をのんびり散策したりする方が性に合っているような気がして、どうも誘えない。
　これから街に遊びに行こうと言っても、先輩は断ってくると思うし―――
「ふむ。乾くんの意見はもっともです。
　遠野くんへのご褒美もありますし、せっかくなので三人で遊びに行きましょうか」
「マジデ!?」
「ちょっ、先輩？」
「いいじゃないですか、たまにはこういうのも。
　もう何も気がねをする必要もないんですし、遠野くんと乾くんと三人で遊びに行くんならきっと楽しいです」
「まあ……うん。先輩がいいっていうなら、俺も嬉しいけど」
「はい。乾くんもいいですよね？」
「―――――――」
　なあ、それどういう感情表情？
「それじゃあ決まりですね。
　えっと、お二人ともお昼ごはんはどうします？　お家で食べてくるか、それとも三人で一緒に食べましょうか」
「いや、それは学校でいつもやってるし、外食する分の金は遊びにまわそう。俺も有彦もあんまりもってないし。
　な、有彦」
「……オレ、姉貴に金借りてもいいかも」
　……どうも有彦はシエル先輩と外食がしたいらしい。
「先輩は？　なんか外で食べに行きたいところとかある？」
「食べに行きたいところ、ですか……
特にリクエストはありませんけど……そうですね、あまり値段が高いところは、ちょっと」
「そっか。人よりいっぱい食べるもんな、先輩。
　そりゃお金がかかるか」
「ち、違いますっ！
　なんてコトを言うんですか、遠野くんは！」
　……今まで茶道室で食べてきたデータをもとにした意見だったが、強く主張するのはやめておいた。
「いいです、わたしも乾くんに賛成です。
　いまから三人でお昼ごはんを食べに行きましょう。映画館の横にある喫茶店のインド風パイがおいしいと聞いて、いつか行こうと決めていたんです」
「おっ、アーネンエルベとは通だね先輩！　あの喫茶店のマスター、どこぞのイタリア料理の達人らしいぜ！」
　そして何故この男はその手の噂話に詳しいのだろうか。
「それでは映画館の前に30分後に集合としましょう。
　いいですね、遠野くん！」
「いや、先輩。俺、家に帰るのに30分かかるんだけど……」
「それでは解散です。遅刻者は食後のデザートを振る舞う刑にします」
　シエル先輩はスタスタと廊下へと去っていった。
「おーし、盛り上がってきたな遠野！　シエル先輩と親密になるチャンスは今、ただ今なり！
　……ところで、いっそ一日ぐらい遅れてくれてもかまわないですよ……？」
　有彦もダッシュで教室から立ち去っていく。
　なんだか、あれよあれよとおかしな話になってきた。
「―――ま、いいか」
　とにかくシエル先輩と遊びに行けるんだ。
　こんなに嬉しいハプニングもない。
　鞄を手にとって、俺もダッシュで家に帰る事にした。
　息を切らせて坂道を登りきる。
　ここまで15分は経過している。
　驚異的な新記録だが、これではとても間に合わない。
　さらに５分。
　家に辿り着くだけなら20分でこなせたが、これから出かける支度をして、坂道を下りて駅前まで行くにはどう急いでもプラス20分はかかってしまう。
　先輩は俺の家が坂の上にあると知っていて、あんな無理難題な待ち合わせ時間を指定したのだ。
「……ああもう！
　時々思い出したように意地悪になるんだから、先輩は！」
　ロビーに飛びこんで、ようやく足を止めた。
　ぜいぜいと肩で息をして心臓を落ち着ける。
　家の中で走りまわるのはマナー違反だし、休憩がてらここからは早歩きに切り替えよう。
「あら志貴さん。今日はお早いお帰りなんですね」
「ただいま琥珀さん。ちょっと急いでるから、また後で！」
　食堂から顔をだした琥珀さんに挨拶をして階段を上る。
「志貴さま？　お帰りになられたのですか？」
「ただいま、いま帰ってきた。
　すぐに出かけるから昼飯は用意しなくていいよー！」
　居間から出てきた翡翠に挨拶をして階段を上る。
　―――――ずきん。
「――――――え」
　―――――ずきん。
　いきなり、何の前触れもなく。
　―――――ずきん。
　目の前が、真っ赤になった。
「志貴さん……!?」
　……琥珀さんの声が聞こえる。
　あわてて駆け寄ってくる足音。……いつもほがらかな彼女とは思えないほど、素早い身のこなし。
「志貴さん、体をまるめて！　頭を打たないように！」
　遠くで声がして、無意識のうちに背中を丸めた。
　……背中が硬いものの上を滑っていく。
　幸い、そちらの痛みはなかった。
　ただ、頭蓋が砕け散るような痛みがあるだけ。
「志貴さま!?」
　……翡翠の声が聞こえる。
　重く絨毯を踏みしだく足音。……翡翠とは思えないぐらい、慌てている。
「志貴さま、お怪我はありませんか!?」
　耳元で声がする。翡翠の姿は見えない。
　ただ、頭蓋が砕け散るような痛みがあるだけ。
「落ちついて翡翠ちゃん。階段から落ちた怪我は軽い打撲だけよ。お医者さまを呼ぶほどのものじゃないわ。
　……それより危ないのは体の熱です。階段を踏み外したのも熱のせいでしょうから、すぐにベッドの用意をして」
「……はい。姉さん、この事は秋葉さまには……」
「このまま大事がなければお報せする必要はありません。
　解熱剤はわたしの部屋にあるから、お願い」
　翡翠の足音が遠ざかっていく。
「志貴さん、気がつかれました？」
「……琥珀……さん？」
「はい。志貴さん、階段から転がってきたんですよ。背中を軽く打ってしまわれましたが、幸い大事はありません。
　ですが熱がおありのようですね。お出かけの予定かと存じますが、どうか今日はこのままお休みください」
　琥珀さんは俺の肩に手をやって、なんとか立たせてくれた。
「いや……大丈夫、休まなくてもすぐ治まります。ここまで全力で走ったから息があがってるだけで―――」
「いけません！　そんな青い顔をして何を仰っているんですか。志貴さんのお体を看る者として、これ以上の無茶はさせられません！」
「でも、約束が―――」
「お断りの連絡でしたら引き受けます。
あんまり無茶するようでしたらお注射の出番ですからっ……！」
　……琥珀さんは俺を引き止めようと立ちはだかっている。
　――――頭蓋のひび割れる音がする。
　俺は―――
　―――それでも約束を破る事はできない。
「ふ―――……！」
　刃物を突き刺すような頭痛を堪えて、なんとか足を進める。
「いけません、志貴さん！
　そんなお体で出かけられては、わたしどもが秋葉さまに叱られます！」
「――――」
　……琥珀さんの言い分は正しい。
　だいたい、こんな頭痛を抱えて遊びに行っても倒れるに決まっている。
　どんなに楽しみでも、俺は屋敷で休むべきだ。
　この七年間、ずっとそうしてきたじゃないか。
「―――でも、それは」
　欲しいものが、なかった時の話だった。
　それに―――
　いま会いに行かなければもう二度と、マトモなままで先輩に会えない気がする。
「約束がおありでしたら、わたしが代理で断りに参ります。
　機会は何度でもありますでしょう？　志貴さんは部屋に戻って、」
　ない。
　だって俺に、『何度も』なんて、そんな夢のある話は一度も無かったんだ。
「あ――――いけません、志貴さん！」
　行く手を遮ってくれていた琥珀さんを押しのけて、外に向かって走り出す。
　吐き気を堪えながら走った。
　先輩との約束に追いつけるように、
　何か得体のしれないモノから逃げるように、
　倒れる寸前の体に鞭をうって走った。
　―――街は■■で
　―――街は人間で溢れかえっている。
　熱い陽射し。
　惰性に満ちた活気は見苦しい。
　どうしてこう。
　無為な昆虫のように、知性あるものが、命題もなく群れているのか。
「―――――――」
　……朦朧とする。
　絶え間ない吐き気と頭痛で、自分が、自分でないような、気がする。
「――――――先、輩」
　周囲を見渡す。
　先輩は――――何処に、いるんだろう。
　意識が霞んで見つけられない。
　―――――見つけられない。
　こう人が多いと。
　　　　　　　　　　。見つけられない――――
　　　　　　　　　　　　こう雑多すぎると。
　何も。
　　　　　　　　　　　　　　　意味などないような
　　　　　　　　　眩暈が　　
「遠野くん？　ほんとに時間通りに来たんですか？」
　聞きたかった声がする。
　でも、疲れて顔をあげられない。
「……全力で走ってきてくれたんですね。
　さっきは意地悪をしちゃってごめんなさい。わたしも、自分の立場を忘れてはしゃいでしまって―――」
　謝らなくていいのに。
　先輩のそういう、ここ一番で厳しいところも、大好きというか―――
「遠野くん―――！？」
　……ああ、吐き気がする。
　けど来て良かった。
　先輩も楽しみにしてくれていたんだ。
　なら、こんな眩暈ぐらい我慢して、三人で楽しく、ありふれた日々のように―――――
　気がつくと、ベッドで眠っている自分がいた。
「あ―――れ」
　首だけを動かして周囲を見る。
　貧血によるものか、手足はうまく動かない。
　ここは遠野の屋敷で、窓の外は夕暮れ。
　部屋には翡翠がいて、眠っていた俺の様子をうかがっていた。
「志貴さま、お目覚めになられましたか？」
「……翡翠。俺は、どうして」
「志貴さまは外出先でお倒れになられました。
　ご同伴されていたご学友さまから連絡があり、志貴さまをお屋敷にお連れした次第です」
「―――そうか。結局、俺は」
　琥珀さんを押しのけておいて、気を失ってしまった。
「……バカみたいだ。琥珀さんに、合わせる顔がない」
　後悔と一緒に頭痛がやってくる。
　……手足の感覚は鈍いというのに、頭痛だけは消えてくれない。
「……翡翠。俺の体、どうなったんだ？」
「ご安心ください。志貴さまのお体に大事はありませんでした」
「ご安心ください。志貴さまのお体に大事はありませんでした。
姉さんが処方した鉄剤も鎮痛剤もありますから、頭痛がするようでしたらお飲みください」
「……そうか。ひどくなったら自分で飲むから、そこに置いておいてくれ」
　翡翠は銀のトレイに水と、琥珀さんが用意してくれた薬を置いて退室した。
　のそりとベッドから出て、薬を飲んで、ベッドに戻る。
「――――――仕方ないさ。
　だいじょうぶ、慣れてる」
　脳裏に浮かんだ先輩の笑顔から逃げるように、目を閉じる。
　……今は眠るしかない。
　夜まで休めば、この頭痛も消えているだろう。
　……たしかに、こんな頭痛を抱えたままでは、ふたりに迷惑をかけるだけだ。
　もう会えない訳じゃないんだ。今は無理をしない方がいい。
「……そう、だね……今日は、もう」
「よかった、お休みいただけるんですね。
　……志貴さん、おひとりで歩けますか？」
「……うん、なんとか歩けます。
　部屋までは行けそうですから、琥珀さんには連絡をお願いできますか？」
　琥珀さんに有彦の連絡先を伝える。
　アイツなら『体調不良で行けなくなった』と言えば事情は察してくれる。
「かしこまりました。
　乾さまにご連絡した後、お薬を持って行きますから。どうかお部屋のベッドでお休みください」
　……彼女は着物の<裾|すそ>をわずかに乱しながら、小走りで東館に向かって行った。
　……逃げていくような後ろ姿。
　……そういえば、
　……似たような光景を、つい最近、味わっていたような。
「――――――」
　吐き気がする。気持ち悪い。記憶の検索をしたくない。厭な予感しかしない。
　このままだと一歩も動けなくなってしまう。
　意識があるうちに、ひとりきりになれる場所に移動しよう。
　重い風邪をひいた時のように頭の中が回っている。
　ゴムマリになった脳が跳ね回っている。
　平衡感覚がまるでない。目眩に負けて倒れないよう、壁に手をつけて歩く。
　と。
　いま。
　廊下の壁に、真新しい、血の跡があったような。
「――――――」
　ひときわつよい頭痛で、何もかも忘れてしまった。
　部屋はもう目と鼻の先だ。
　おかしなモノを見てしまう前に、
　おぼえのないコトを思い出す前に、
　安全なベッドに逃げこんでしまえば、また今朝のようにあらゆる事が解決されている筈だ。
　いつの間にか日は沈んでいた。
　琥珀の用意した薬は気休め程度には効果があった。
　頭痛は治まらないものの、手足の鈍さ、かゆさは気にならなくなった。
　俺はベッドに横になっている。
　横になって、屋敷の物音に気を配っている。
　外からは遠い喧騒が聞こえる。
　坂の下、屋敷から１キロ以上離れた駅前の雑踏。
　住宅地に点在する営み。
　国道を走る自動車のエンジン。
　庭でざわめき合う木々の葉。
　そういった細やかな音が、今の俺にはよく聞こえる。
「―――それにしても」
　ベッドの上で時間を数える。
　時刻はそろそろ７時、<一|し><階|た>では夕食時だろう。
　屋敷は誰を迎える事もなく、いつも通り平穏な夜に、
「―――今日は、やけに静かだな」
　何かを欠いたまま沈んでいく。
　目蓋を閉じる。
　頭痛から遠ざかる。
　海の真ん中で浮き輪から手を離したような水没感。
　……これでやっと楽になれる。
　俺は現実の苦痛から逃れる為に、赤い眠りに身を委ねた。
　……たしかに、こんな頭痛を抱えたままでは、ふたりに迷惑をかけるだけだ。
　もう会えない訳じゃないんだ。今は無理をしない方がいい。
「……そう、だね……今日は、もう」
「よかった、お休みいただけるんですね。
　……志貴さん、おひとりで歩けますか？」
「っ……いや、ごめん」
　どうにも、立っている事さえ無理そうだ。
「あ、ちょうど良かった翡翠ちゃん！　志貴さんをお部屋までお連れして！」
「ぁ―――姉さん、ですが、わたしは―――」
「翡翠ちゃん！　志貴さんは病人なんですよ、困っている人を見捨てるのは貴女の性格じゃないでしょう？
　ええ、今日ぐらいはわたしが許します。ちゃんと志貴さんを看病するべきです！」
「……はい。ごめんなさい姉さん、わがままを言って」
「わかってくれればいいんです。それでお薬は見つかった？」
「……その、姉さんの部屋の薬箱は多すぎて。解熱剤はこれ、でしょうか？」
「あはは、それはちょっと違う用途に使うものです。志貴さんはしっかりしてますから、まだ精神安定剤はいりません」
「そうですね……診たところ、志貴さんの熱は疲れからきているようですから、薬はわたしが処方します。
　翡翠ちゃん、すぐに行くからあとはよろしくね」
　琥珀さんは早足で屋敷の西館……彼女の部屋がある棟へと歩いていく。
「それでは志貴さま、お部屋にお連れします」
　失礼します、と断ってから、
翡翠はおそるおそる俺に肩を貸してきた。
　……翡翠の手をかりて階段を上がっていく。
　途中。ギシギシと繰り返される頭痛より、すぐ真横にいる翡翠の辛そうな顔の方が、ひどく記憶に焼きついた。
　結局。
　俺は映画館前で待っているシエル先輩への伝言を琥珀さんに頼んで、ベッドに横になった。
「…………」
　頭痛はやまない。
　反面、体の熱は
　　　　　　　　　　　　　手足の感覚が麻痺する程度に、
　すっかり下がってくれた。
　後は横になって、指一本動かさず、頭痛が治まるのを待てばいい。
「姉さんは槙久さまのご厚意で薬剤師としての教育を受けさせていただいたんです。
　槙久さまが亡くなられる前は、槙久さまの健康面での相談役でもありました」
　翡翠はいつもの無表情な顔に戻って、訊いてもいないコトを言ってくる。
「…………」
　キリキリとこめかみが痛む。
　頭にナイフを一センチほど斬り込んで、缶詰を開けるようにカリカリと回しているようだ。
　こっちはこんなに苦しんでいるというのに、翡翠は眉一つ動かさず、俺の看病をしているつもりらしい。
「ぐっ……！」
　ひときわ深い斬り込み。
　今まで肉を裂いていたモノが、カツン、と骨に触れた感じ。
「志貴さま、まだどこか痛むのですか？」
「―――翡翠、悪いけど」
「はい、なんでしょう」
「目障りだから、出ていってくれ。そこにいられると気になって眠れない」
「―――はい。それでは失礼いたします。
　ご用がありましたらお呼びください」
　翡翠が部屋を出ていく。
　心なしか、それで気持ちがスッとした。
　頭痛も治まって、これでゆっくり眠れるだろう。
　……。
　…………。
　…………………。
　…………………………。
　…………………………………。
　…………………………………………。
　……………………………………………………。
　コンコン、と甲高い音がして、扉が開いた。
「失礼します、兄さん。起きていらっしゃいますか？」
「……ああ、起きてるよ。なにか用か秋葉」
　喉が渇いているからか、絞り出した声はしわがれた老人のようだった。
　とてもじゃないが、自分の声とは思えない。
「……いえ、兄さんが貧血で休んでいると聞いたので、様子を見にきただけです」
　秋葉の視線は、ベッドで横になっている俺に向けられている。
　いかにも心配しています、といった憂いを帯びた視線。
　……頭痛のせいだろうか。
　そういった気遣いは、今は逆に不要に思えた。
「体はなんともない。看病されるほどのものでもないから、こうして一人で休んでいるんだ。おまえも自分の部屋に戻れ」
「……翡翠の報告通りですね。今の兄さんは体はもちろん、精神まで落ちこんでいるようです。
　ですが食事はどうなさるおつもりですか？　じき夕食の時間ですが」
　……夕食……？
　ああ、もうそんな時間なのか。
　けど空腹でもないし、何か食べたいという意欲もない。
「食欲はないから、夕食はいい。
　いいから今日は下がってくれ。気分が悪いんだ」
「……わかりました。今日はゆっくりお休みください。
　ですが、起きていらっしゃるのなら部屋の電気ぐらいはつけてください。暗がりにいると目を悪くするでしょう」
「―――いいんだ。このほうが落ちつくから」
「………………」
　秋葉は最後まで何か言いたそうな目をして、部屋から出ていった。
「………………」
　ああ、イライラする。
　翡翠の態度とか、秋葉の心配そうな目とか、なんだってそんな腫れ物を扱うみたいに俺を扱うのか。
　こんなのはいつもの事だろう。
　別に血を吐いてるとか血を吸ってるとか大怪我をしている訳じゃないんだから、放っておいてくれないのか。
　――――ギリ。
　暗がりの中で、自分の歯軋りの音がする。
　神経が腐り出しているのは自分でも分かる。
「…………喉が、渇いたな」
　頭痛より息苦しさでみんな■してしまいたい。
　このまま起きていると鬱になってしまいそうだ。
　　　　　　　　　　　　　　　　　もう日も沈んだ事だし、
　眠くはないが、なんとか眠ることにしよう。
「…………<熱|あつ>」
　息苦しさで目が覚めてしまった。
　ベッドから起きて寝間着から私服に着替えて、机に仕舞ったナイフを取り出す。
　たしか食堂には水差しが常備されていた筈だ。
　<一|し><階|た>まで下りて水を飲もう。
　食堂に。
　食堂に。
　食堂に。
　午前零時過ぎ。
　屋敷の廊下に人影はなく、誰ともすれ違わないし、誰の無防備な背中も見つけられない。
　時間を誤った。
　あと１時間早く出歩けば、もうすこし、えり好みというものが出来ただろうに。
　ずるずると歩く。
　ずるずると音をたてているのは、
　ずるずるとしているモノであって、
　ずるずると自分が歩いている訳ではない。
　時間は正しかった。
　あと１時間早く出歩いていたら、こんなふうに、気軽に散策する事はできなかっただろう。
　ずるずる。
　片手に女の髪を掴んで歩く。
　長い髪。秋葉に似ていたから、この女に決めた。
　顔は似ても似つかない。ただ、髪が気に入った。
　ロビーを抜けて食堂に到着した。
　髪から手を離す。
　女は意識を失ったままだ。
　殺してはいない。
　夕食を食べていないので、食事は、できるだけ食欲をそそる方法でとりたかった。
　死人の血は、冷えていてあまり旨くはなく、命の価値も失われていると聞いた。
　化粧けのない女の首筋は、甘く透ける洋菓子のようだ。
　悪くない。
　俺はナイフを片手に握ったまま、その首筋に口を付けて、
　―――なんて。
　悪趣味にも程がある夢を見て、目が覚めた。
　眠りから覚めて、意識がゆっくりと周囲を認識していく。
　喉がひどく渇いていて、全身がざわざわと総毛だっている。
「なんて―――夢を」
　見ているんだろう、俺は。
　信じられない。
　夜の街に出て、見ず知らずの女を後ろから昏睡させて、路地裏に連れこむなんて。
　夢だからいいようなものの、現実にあんな真似をしていたらそれこそ狂っている。
「はあ―――はあ、はあ――――」
　なぜか荒くなっている呼吸を整える。
　目蓋を指で押さえて深呼吸をする。
「はあ―――は―――は―――」
　……胸が苦しすぎて二度寝はできそうにない。
　部屋の電気をつけて、朝が来るまで本でも読んでいよう。
　頭に冷水をかけられたようだ。
　目が、次第に。
　暗闇に、なれてきた。
「―――――――――――な」
　息が止まった。
　自分の部屋じゃない。
　さびれた路地裏。
　俺の手には剥き出しのナイフ。
　目の前には。
　気を失って倒れている、見知らぬ女が。
「は――――――――――」
　何を。
　何をしているんだ、俺は。
　夢じゃないのか。
　さっきまでのは夢じゃないのか。
「――――――――――」
　夢のはずだ。
　だって俺は、こんなコトをしたいなんて一度も思った事がない。
　見ず知らずの女を襲って、そのしなやかな体に走る幾条もの線にナイフを走らせ、手足を解体して赤い、あかい血を見たいだなんて、少しも――――少しも？
「―――、あ」
　覚えのない光景に目が眩む。
　赤い血。温かい血。喉を潤す血。
　そんな事は少しも考えたくないのに。
　今はどうしようもなく、その色が見たくて仕方がない。
　バラせ。バラせ。バラせ。バラせ。
　心臓の鼓動に合わせてリピートする衝動。
　なんだこれは。
　これじゃまるで■■■だ。
　たとえば、アイツのような。
　つまらないしがらみから解放された、誰にも束縛されない生き物みたいだ。
「……なに、を」
　そういえば。
　似たようなコトを、あの女にも言われたな。
“それじゃバイバイ。貴方の悪運もここまでよ、■■■”
「―――違う」
“いいかげん自覚したら？
　貴方自身気がついていないだけで、本当はとっくの昔に死んでいる、気の狂った殺人鬼なんだって！”
「―――違う。そんなの、ありえない」
　けど、なんだ。
　これはなんだ。
　俺はどうしてこんな事をしているのか。
　こうして気がついた今も、どうしてナイフを女の首に当てているのか。
　そもそも、この―――
　昨日の夜に味わった、血の光景はどうなっている？
「違う、違う、違う……！
　夢だ、そんなのは夢だ！　だって俺にはそんな記憶はない、日曜日に何をしたかなんて―――なん、て―――」
　―――そこで、ようやく気がついた。
　今朝の違和感。まるごと断絶している記憶。
　そもそも俺には、土曜と日曜の二日間、自分が何をしていたかの記憶がまるでない―――
「あれ―――あれ、あれ、あれ―――？」
　必死に思い出す。土曜日はおぼろげに記憶がある。
　けど日曜日は空白だ。何もない。記憶がまるでない。
　俺には、いつから、
“ロアの転生先になった人間はみんな自分を保ったまま、ある日あっさり変わるらしいですから”
　遠野志貴ではない時間が出来ていた―――？
「――――ん」
　女の目蓋が動いた。
　女の意識が覚める。
　まずい。まずい、まずいまずいまずいまずい。
　起きてしまえばもう取り返しはつかない。弁明はできない。証拠を隠滅するしかない。この女が動き出す前に確実にバラしておかないと、俺は―――
「あ」
　ナイフが動く。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　違う。
　死の線を視るまでもない。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　それだと、本当に。
　躊躇う意味がない。なぜならおまえは
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　俺はこのまま、
　もう幾度となく、白い首筋を切断してきただろう？
　　　　　　　　　　　　　　　　畜生以下の生き物になる。
　指先が痺れる。引く事も戻す事もできない。
「……だれ？」
　女の声が聞こえる。
　彼女は、自分の首元に当てられているナイフに気がついた。
「き―――」
「ああああああああああああ！」
　女の悲鳴は、俺の叫び声にかき消された。
　叫んで。壊れたサイレンみたいに叫び続けて、気がつけば走っていた。
「はっ、はっ、はっ、はっ―――！」
　指が震える。
　頭の中が真っ白だ。
　それでもかろうじて、あの女性にナイフを突き刺す前に走り出せた。
　もし……もし彼女が俺より先に悲鳴を上げていたのなら。
　俺は、あのまま――――
「はっ、はっ、はは、ははははは………！」
　恐い。
　それは恐い。
　今まで体験してきたどんな恐怖より、これは恐い。
「はっ、はっ、はっ……！」
　追ってくる。
　背中に覆い被さってる。
　いくら逃げても―――自分の恐さから逃げられない。
「はっ、はっ、はあ！」
　部屋に飛び込んで鍵をかける。
　突起した金属片を掴んで回すだけなのに、ガチャガチャとから回る音だけがする。
「……は……あう、ううう……！」
　恐い。
　早く鍵をかけないと部屋に入ってくる。
　得体のしれない何かが入ってくる。
「ああ、あああ、あああ…………！」
　鍵、鍵をかけないと。
　この部屋に入れちゃダメだ。
　この部屋から出しちゃダメだ。
　でも何を？
　わからない。
　わからないまま、狂ったように鍵をかけ続ける。
　回っているのはドアノブだけだった。俺の指はノブを掴んだままどうしても離れてくれない。狂ったようにノブを回す。ガチャガチャガチャガチャ。耳障りな音が鼓膜から脳にどくどくと注ぎこまれる。ガチャガチャガチャ、
ザク。
頭にきたもう一方の手で、ドアノブを掴んだ手首にナイフを刺した。
　ようやく音が途絶えてくれた。
　ぬるり。ぬるり。今度は滑って鍵をうまくつまめない。
　ぬるり。ぬるり。ぬるり。
ぼきり。ぼきり。ぬるり。ぼきり。
　三本目を折ったところで、もうダメだと思った。
　俺はもうダメだと分かった。
　でももう一方の手はどうしてもナイフを離してくれないので、このままでは永遠に鍵はかけられなかった。
「は―――はあ、はあ、は…………！」
　仕方ないので、手のひらにナイフを突き入れてちょうどいい差し込み口を作った。つくった！　嬉しくなって手のひらを鍵に当てる。
ぬちゃり。肉の隙間に金属片がはまる。激痛に爆笑する。笑いすぎて口元が裂けるかと思った。痛みに笑いながら手首をひねる。ぬちゃ、
かち、ずるり。お見事です。
ようやく鍵は回りました。
「は―――やった、やった―――！」
　笑いが止まらない。
　喉が渇いたので食堂に行こうとドアに体当たりをする。
　開かない。開かない。開かない。
　仕方がないので血まみれの手の平に口を付けて液体を飲んでみる。
まったく美味くない。喉はまだ人間製なので、粘性の液体を飲み干すだけの強靭さがない。
　ふと、見知らぬ誰かと目が合った。
　窓に映る男はこの上なく楽しそうでこの上なく哀れだった。
　それでようやく理解した。
　<俺|おまえ>は、もう終わっているのだと。
　――――ずっと、家族とは他人なんだ。
　そんな言葉を、幼い頃から持っていた。
　遠野の家から有間の家に預けられた時から。
　いや、正確にはもっと昔から、ずっと、家族とは他人だった。
　どうしてなんだろう、と疑問に思う事もない。
　気がつけばひとりで。まわりには両親らしき人たちがいたから、そこの子でいようと自分なりに頑張っただけ。
　古い座敷のある家が一番はじめの家だったと思う。
　そこから、何かの事故で大きな洋館に引き取られた。
　……洋館には同い年ぐらいの兄妹がいて
、
　自分とは、とても仲がよかったと、思う。
　でもその兄妹の父親とは、ずっと壁があったままだった。
　努力はした。
　望まれる家族になろうと心を砕いた。
　血の繋がりはなくても親子だと信じるように。
　それも、あっけなく終わった。
　大きな事故があって、病院に運ばれた。
　誰も見舞いに来なくて、自分の目がおかしくなった。
　それまでもひとりで、けっきょくは独りで。
　もう、そのまま消えてしまおうかと思っていた。
　あの、澄んだ青空みたいにキレイだった、魔法使いに出会うまでは。
　…………………懐かしい、夢。
「生き――――てる」
　ぼんやりと、そんな声が出た。
　体は指一本さえ動かないものの、声だけは出てくれる。
　……胸には包帯が巻かれ、ナイフは抜かれていた。
　意識もはっきりとしてきて、ここが自分の部屋である事も把握できた。
「……兄さん？　気がついたんですね？」
「あきは―――なんだ、そこにいたのか」
　秋葉は枕元に座って看病をしてくれていたみたいだ。
「秋葉、おまえ―――」
　いまいち状況が掴めず、秋葉を見つめる。
　秋葉はどこか気まずそうに視線を逸らす。
「……その……この傷は、さ」
　あいつに―――<四|ロ><季|ア>にやられたんだ、とは言えない。
　そもそもこんな傷を負った俺を、秋葉はどうして受け入れてくれたのだろう。
　胸にナイフが刺さった人間なんて、普通は病院に送るものだが。
「……いいんです。どうか楽にしてください。
　大体の事情はあの人たちに聞きましたから」
「……あの人って……先輩のことか？」
　こくん、と伏し目がちに秋葉は頷く。
「……………」
　……困ったな。
　大体の事情、とはどのあたりまでの事情なのか。
　先輩が秋葉をどう言い含めたか判らない以上、下手な質問はできない。
「……それで、秋葉。先輩はどうしたんだ？」
「客間を与えましたので、そちらで休んでいるのでしょう。
　本来ならあのような悪党、屋敷に入る事は許可しませんが、仮にも兄さんを助けてくれた方です。無下には扱えません」
「は、はは……」
　悪党とはまた、秋葉はいつにも増して容赦がない。
「それより、兄さん。
　その胸の傷はシキに負わされたものですね」
　きっぱりと。
　秋葉は、その事実を尋ねてきた。
「言ったでしょう、大体の事情は聞いたと。
　……もっとも、聞かなくとも兄さんの容態を見れば一目でわかる事ですが」
「――――」
　驚きと緊張で喉が動かない。
　それは、はじめからシキの事を知っていたような口ぶりだった。
「秋葉、おまえ……シキの事を、」
「ええ、知っています。私はすべてを承知した上で、兄さんを屋敷に呼び戻したんですから」
「……ちょっ、ちょっと待ってくれ。すべてを承知した上って、どういうコトだよそれ。
　俺はまだ……正直、整理がつかないんだ。
　子供のころ、俺と秋葉の他にもう一人、子供がいたのは確かだと思う。そうでないと辻褄が合わないからな。
　けど、それを聞いたらおまえは――――」
　三人目の子供なんて、いないと言ったじゃないか。
「それについては謝ります。
　……私、兄さんには嘘ばかりついていました。今回の事も……こうなる事が分かっていたのに、ずっと、嘘をついてごまかしていたんです」
「……じゃあ三人目の子供はいたんだな。
　けどどうして、あいつは」
　……七年前から、この遠野邸に存在しなくなったのか。
　俺には確かな記憶がない。
　他の子供……自分と同い年ぐらいの少年がいて、いつも二人で遊びまわった事は、おぼろげではあるが思いだした。
　俺たちは、そうして時おり父親の目を盗んで外に出てきた秋葉と遊んだんだ。
　なのに、それ以外の事が記憶にない。
　あいつがいなくなった理由。
　あいつの名前が、俺と同じシキだったという事。
　何もかもを、綺麗さっぱり忘れている。
「……わからない。
　覚えている事と言えば、それは――――」
　森の広場で見た光景。
　この屋敷に帰ってきてから、何かの白昼夢のように脳裏に浮かんだ、あの暑い夏の光景だけ。
　あきはがいて、自分がいて。
　目の前には、血にまみれたもう一人の少年の死体があって。
「…………、死体？」
　……待て。確かにあの吸血鬼は言っていた。
“殺された借り、たしかに返却した”と。
　それは、つまり――――
「あの夢は―――俺は、本当に、あいつを―――」
　殺してしまったのか。
　だからアイツは突然いなくなって、俺は自分にとって都合の悪い思い出を忘れていた……？
「秋葉、俺は――――」
「いいえ、違います。兄さんは誰も殺してはいません。
　そう思いこむよう、お父様……遠野槙久に言いつけられたんです」
「親父……に？」
　……そんなの、よけいに訳が分からない。
　どうして親父が、俺にそんな事を言いつける……？
「それ、どういう事だ。
　秋葉はすべて……七年前の事も、あのシキの事も、全部知っているのか？」
「……はい。シキの事は、兄さんには思い出してほしくなかった。出来る事なら、ずっと忘れたままでいてほしかった」
「……けど、
それもおしまいですね。
　はじめから……隠し通す事なんて、無理な話だったんです」
　そう言って、どこか自嘲ぎみに笑って。
　秋葉はまっすぐに俺の目を見て話を始めた。
「兄さん。遠野の家が特別な血族だという事はあの人たちに聞いたでしょう？　信じられないでしょうけど、遠野の血は人間以外の血が混ざっているんです。
　……少なくとも、私は幼い頃からお父様にそう教えられて育ってきました」
「もちろん、それをまっとうに信じてはいませんでした。
　けれど、信じざるをえない出来事が起きてしまった。
　……それが七年前の、兄さんがシキに殺された事故です」
「……殺されたって……俺が、シキに……？」
　秋葉は無言で頷く。
　……けど、それはおかしい。
　それでは逆だ。
　血まみれで倒れていたのはシキの方だし……あいつはたしかに、『殺された借り』と言っていたが……？
「……遠野家の人間は、個人差はあれど歳をとるごとに自分の中の異なる血が増えていきます。この血は、あまりいいものではないんです。
　遠野の血筋に混ざっている異種は、人とは違った生存本能を持っている。人間らしい部分を理性とするのなら、異種の部分は本能、獣性と言えるものです」
「……………秋葉、それは」
「……わかってます。にわかには信じられない話でしょうから、今は黙って聞いてください」
「けれど、遠野の血筋の者が人として終わってしまうのは年老いてからなんです。
　私の兄のように……シキのように、幼年期に反転してしまう例なんて、今までなかった」
「遠野の人間が持つ異能にはそれぞれ個人差があるそうです。外見がまったく変わらないモノがいれば、本当に体の形が変わってしまうモノもいる。
　―――シキは、典型的な後者でした」
「後者……体の形が変わるってこと……？」
「……はい。なぜシキがあんな幼さで狂ってしまったかはわかりません。
　ただある日、何の前触れもなく反転してしまった。
　その時シキに襲われたのが兄さん……貴方なんです」
「シキが……俺に、襲いかかった……？」
　ズキリ、と。
　胸の古傷がうずいた気がした。
「その時の場所があの森の広場なんです。
　兄さんはシキに胸を貫かれて瀕死の状態でした。
　そこに父が駆けつけて、シキを止めたんです」
「……理性を失っていたシキを止めるには、息の根を止めるしかない。遠野家の当主には、そうやって反転してしまった一族の者を処理する義務があります。
　ですから―――兄さんが見た血まみれのシキというのは、父に処理された後のシキではないでしょうか」
「―――――――」
　よく、思い出せない。
　その時、もっと何か。とても大切なコトがあった気がするのだけど、思い出せない。
　……それに。
　もう取り戻せない記憶の中に、俺はこの手で<何|・><か|・><の|・><命|・><を|・><断|・><ち|・><き|・><っ|・><た|・>確信がある。
　誰がなんと言おうと、俺はあの森で、人を殺してしまった気がして―――
「……幸い、兄さんは奇跡的に一命を取り留めました。
　あとは兄さんの記憶にある通り、遠野志貴は事故に巻き込まれた、と偽証をして病院に運ばれたんです」
「――――」
「……私が当主に決まったのは、この一件が原因です。
　一度でも反転した者は当主には迎え入れられない。
　シキは跡継ぎではなくなり、唯一、父の血を継いでいる私が当主として育てられました」
　……そうか。
　そういう経緯で秋葉に当主という責任が……いや、待った。
「秋葉。それ、おかしい。だってさ、その、反転してしまったのはシキの方だろ？
　俺は―――その、まともじゃないのか」
「……驚いた。
　兄さん、こんな話を信じてくれるんですか……？」
「あのな。おまえがこんな嘘をつくワケがないし、その、こういう話には慣れているというか。
　……と、とにかく話の続きだ。秋葉が当主に選ばれた理由……俺が有間の家に預けられた理由を教えてほしい」
「……簡単です。
　兄さんには、どうしても遠野家を継げない訳があった。
　本当にそんな事さえ忘れてくれていたんですね。
……
その蜃気楼が、ずっと続いてくれたら良かったのに」
「……秋葉……？」
「………兄さんは、遠野家の人間ではないんです。
　ただ父の気まぐれで、私の兄であるシキと同じ名前というだけで、養子にとられた子供でした」
　――――――――――――、え？
「……兄さんと私、それにシキ。
　私たちは本当の兄妹として育てられました。
　兄さんとシキはとても仲が良くて、私も幼心に嫉妬するぐらいでした。……けれど、シキがあんな事になってしまった時にすべてが狂ったんです」
「お父様はシキを内々に処理した。けれど対外的に、遠野家の長男を無くしてしまう事はできなかった。
　遠野家は社会的にも地位のある家柄でしょう？
　だから……軽率に、跡継ぎである長男がいなくなりました、と周りには報せられなかった」
「そこで父は思いついたんです。
　シキに殺されかけた遠野志貴を実子として扱い、反転して人間でなくなったシキを、事故で死亡した養子として扱えばいい、と。
　……その時、兄さんとシキは入れ替わったんです。
　殺された<志|が><貴|わ>が生き残って、殺した<四|が><季|わ>が死んでしまった。それが兄さんとシキの関係なんです」
「……じゃあ、なんだ。俺は秋葉の兄貴なんかじゃなくて、遠野の人間でもなくて――――」
　もちろん、有間の家の人間でもなくて。
「俺は―――どこの誰だって、言うんだ」
「……ごめんなさい……もう誰も、その質問には答えられません。兄さんは―――志貴という名前をしていた子供は、もう何処にもいないんです。
　志貴という子供は七年前に死んでしまった。それは命としての死ではなく、存在としての死です。戸籍も過去も家も、その記憶も、もうどこにも残ってはいない。
　兄さんが遠野シキの代わりになった七年前に、全部……父が、処分してしまいましたから」
　―――――――――――
は。
「だから……兄さんは有間の家に預けられたんです。
　世間体のために、遠野家の長男は生きていなくてはならない。けれど本当は血が繋がってはいないから、跡継ぎにはさせられない」
「お父様は事故で体が弱っていると理由をつけて、兄さんを有間の家に追放した。……二度と、遠野の家に立ち入らせないようにと、残った私に言いつけて」
　………秋葉の声は、どこか震えている。
　俯いて、胸から沸き立つ何かを堪えている。
　おそらく俺に対する罪悪感なのだろう。
　でも、それはお門違いだ。責める気は微塵もない。
　むしろ秋葉がそう思ってくれるだけで、本当に救われる。
　それでも―――
今は聞かなくちゃいけない事がある。
「……ダメだ。疑問点がまだ二つもある。話を続けてくれ秋葉。物事がまだちゃんと解決していないよ、それじゃ」
「まず一つ目。……まあ、こっちは別に些細な疑問というか、確認なんだけど。
　俺が遠野の人間じゃないのは分かった。遠野の血が普通と違うのも信じるよ。
　でも、そうなると俺の眼の説明ができないというか。
　……実は俺も少しだけおかしな体質をしているんだけど、これってたまたま、なのかな？」
「……わかりません。たしかに父は気紛れで養子をとるような人ではありませんでしたから―――兄さんを養子にとったのも、何かしら<理|わ><由|け>があっての事だったのかもしれません」
「そうか……まあ、このさい自分が何者かなんて事は、本当にどうでもいいんだ。秋葉もそんなに気にしないでくれ。
　その、さ。俺、生きてるだけでラッキーだって思うんだ。
　本当なら死んでいたような傷だったんだろ？　ならこうしていられるだけで幸運だよ」
　そう。そんな事より、問題は――――
「二つ目の疑問。シキは、どうして生きてるんだ？」
「……兄さん……それは……」
「おかしいだろ、あいつが生きているのは。
　シキは遠野の血に負けて、反転とやらをしたんだろう？
　そうして俺を殺して、<槙久|おやじ>に息の根を止められた。
　なら、ああして生きているハズがない」
「……………」
「可能性があるとしたら一つだけだ。俺が一命を取り留めたように、あいつも一命を取り留めた。
　……いや、もしかすると親父は息の根を止めなかったのかもしれないな。
　どんなに狂ってしまっても血を分けた自分の息子だ。だから殺せず、人目につかないところで養生させていたんじゃないのか？　俺が病院に担ぎこまれたみたいに」
　秋葉は答えない。
　違う、と嘘でも言えないのが秋葉の長所であり、弱さだ。
　今の推理は大筋で合っているのだろう。
「……そうか。それでシキがまともに戻ったら遠野志貴として屋敷に呼び戻すつもりだったんだろうな、あの親父の事だから」
「そんな……そんなことは――――」
　ない、とは言いきれず、秋葉は俯いた。
「いいんだ。秋葉が悪い訳でもないし、親父が悪い訳でもない。もちろんシキが悪い訳でもない。
　……原因はさ、本当にたまたまなんだよ。
　たまたま運が悪くて、よその国のイカレたヤツがシキに入っちまっただけなんだ。本当に悪いモノがあるとすれば、それはシキを狂わせたモノだけだ」
　秋葉は俯いたまま、何も言わない。
　……話はこれでおしまいだ。
　正直に言えば自分の事なんて知りたくはなかった。
　今はそんな事より、一刻も早くアルクェイドに会わなくちゃいけない。
「ごめん、少し疲れた。眠るから、外に出てくれないか」
「…………はい。兄さんがそう言うのでしたら」
　秋葉が扉へと去っていく。
「――――秋葉
」
　訊きたい事がもう一つ残っていて、秋葉を呼びとめた。
「なんですか、兄さん」
「ああ。……秋葉は、どうして俺をこの屋敷に呼んでくれたんだ？　俺は……本当の兄貴じゃないのに」
「……そんな莫迦なこと、言わないでください。
　私にとって兄さんは貴方だけです。今も昔も、兄さんは忘れてしまっただろうけど、子供の頃からずっと。
　―――遠野秋葉にとって、兄さんは貴方だけなんです、志貴」
　がちゃり、と扉の開く音がして、秋葉は部屋から出ていった。
「………………」
　秋葉が去って、ようやく自分の置かれた状況が飲みこめた。
　時計は夜の10時を回ったばかり。
　学校でヤツに襲われてから、まだ４時間しか経っていない。
　……体は一向に動かない。
　リモコンで動くロボットになったような気分だ。
　意思は明瞭でどこにも痛みがないのに、手足はピクリとも動いてくれない。
「―――――はあ」
　大きく息を吐いて、気分を落ち着かせる。
　腕や脚といった『大きな部位』をいきなり動かそうとするから無理があるんだ。
　まずは細かく、小さなところから。
　右手の小指を動かす事に神経を集中させる。
「っ―――――――、ぐっ」
　全神経を小指にこめる。
　小指をわずかに動かす事に全力を尽くす。
　それは破裂しそうな全身の筋肉を、一点に集中させるような作業だった。
　数分が経って、全身が汗だくになって、ようやく小指は微かに反応した。
「―――、よし」
　はあ、と大きく肺から空気を排出する。
　小指だけにしろ、体が動くという感覚は頼りになる。自分は人形ではない、動く事ができる、というイメージを取り戻せる。
　次いで、触覚がどんなものかを思い出すように、小指から薬指、手の平、肘、腕、肩、と動く場所を増やしていく。
「はあ―――はあ――――はあ――――」
　動ける個所が増えれば増えるほど、痛みは多くなっていく。
　痛みを感じなかったのは、全身が麻痺していたからだ。
　こうやって少しずつ神経を取り戻していけば、同時に痛みも取り戻していくのは当然だった。
「ぐっ………づ……！」
　額にあぶら汗がうかぶ。
　刺されるような痛みが全身に走る。
　しかし、こうして体の自由を取り戻さないと部屋から出られない。
　部屋から出て、街に出て、学校に行って、
　アルクェイドを掴まえる事が、できない。
「がっ―――――ぐっ………！」
　吐き気をこらえて上半身を起こす。
　……やった……歩くことが精一杯だろうけど、かまわない。
　だいたいロアに胸の“点”を突かれて生きている事が奇跡だ。これ以上を望むのはバチが当たるというものだろう。
　ナイフで刺された胸の傷を見る。
　―――と。
　自分の胸には、死の点と思われるモノはどこにもなかった。
　体に点は二つあるが、どちらも胸には存在しない。
「…………？」
　ふと冷静になった。
　考えてみれば、死の点を突かれたのなら、その瞬間に問答無用で“死”を迎える。
　ヴローヴという不死身の化け物だって、それは例外ではなかった。なら……俺程度が、死の点を突かれて生きていられる筈がない。
「視えているものが、違うのか……？」
　思案しながら、時間をかけて上着を羽織る。
　……と。
　コンコン、と軽いノックの音がして、先輩が部屋に入ってきた。
「遠野くん！？　絶対安静だって言われたでしょう、
　なんで起き上がろうとしているんですか、貴方はっ……！」
　先輩はずかずかとベッドまで歩み寄ってくる。
「…………………」
　とりあえず、そんな先輩の様子を無言で見詰める。
「……？
　なんですか遠野くん、わたしの顔、何かついてます？」
「ん。眼鏡がついてる」
「ええ、遠野くんとおそろいですね」
　……ここで笑みをうかべるあたり、やっぱり先輩は先輩だ。
　消えると言ったのにわざわざ俺を助けに来てくれて、ロアとまともにやりあえるような人でも、先輩は俺の知っている先輩のままだった。
「……ありがとう。また先輩に助けられた」
「ええ、これで荒事は二回目です。いいかげん次は見捨てますから覚悟していてくださいね」
　……荒事？　俺が言っているのは事故現場で話したコトだったんだけど……俺の気づかないところで助けられていたんだな。
「……そっか。二回目だったんだ。
　わかった、覚悟しとくよ。次はかならず、やられる前にやるコトにする」
　言って、先輩をまっすぐに見据える。
「遠野くん。もしかして、まだ懲りてないんですか？」
「……懲りてないも何も、俺は被害者だよ。あっちから問答無用でやってきたんだ。懲りるも何もないだろう」
「それはそうですけど……遠野くん、やる気まんまんじゃないですか」
「……………………」
　先輩の言葉を無言でやり過ごす。
　自分がどんな顔をしているかは知らない。
　ただ―――こんなところで、休んでいる気はないだけだ。
「先輩。質問していいですか？」
「……嫌です、と言っても遠野くんには通じないようですね。
　いいですよ、それで遠野くんが大人しくしてくれるなら安いものです。しばらくお喋りにお付き合いしちゃいます」
　先輩はさっきまで秋葉が座っていた椅子に腰を下ろす。
　……てっきり止められると思っていたけど、この人の真意はやっぱりよく分からない。
「マーリオゥも来ているんですか？　あとノエル先生は……」
「先生は自宅療養中です。マーリオゥでしたら下で秋葉さんと交渉中ですね。今後の対策の打ち合わせと、まあ、急所の探りあいでしょうか」
　他人事のように先輩は言った。
　マーリオゥとは関係はあるものの、そこまで親しくはないようだ。
「じゃあ訊きます。さっきのヤツがロアなんですね、先輩」
「……はい。アレが今代のロアの転生体です。七年前に遠野くんの命を略奪した遠野シキ。……そのあたりの事情は秋葉さんに聞きました？」
「ああ、聞いた。……なんだ先輩、秋葉と仲良くなったの？　あいつ、先輩たちのこと嫌ってるみたいだったけど」
「ええ、嫌われてますよ。秋葉さんは異端狩りというわたしの仕事も嫌いなら、わたし自身の事も気に食わないそうです。
　ええっとですね、並大抵の嫌われようじゃありません。この件が片付き次第、殺し合いをするのも辞さない感じです」
　……なんかものすごいコトを先輩は笑顔で言う。
「―――そっか。まあ、それは置いておいて。
　話はロアに戻るんだけど、ヤツの住み家はうちの学校だったんですか？」
「ロアの隠れ家は他にも複数あったようですが、現在、あの校舎を根城にしているのは間違いないようですね。
　アルクェイドがロアの死者たちを残らず排除した結果、自分から動き出したんだと思います」
「………………」
　つまり、まだアルクェイドはロアを見つけていない、というコトか。
　それなら―――まだ、あいつを掴まえるチャンスはある。
「遠野くん？
」
「あ、いえ、考え事をしてました。けど、どうしてロアはうちの学校なんかを住み家にしてるんですか？
　そもそもアレは本当にロアなのかな。なんか、聞いていたのとイメージが違いすぎて」
「そのイメージというものが間違いですね。
　ロアは転生する吸血鬼。その時の姿や性格、嗜好性が変化するのは当然です」
「いいですか遠野くん。ロアが転生先に選んだ肉体は、ロアとは別の人格・人間として育ちます。知性が十分に育たなければロアは己を発揮できませんから。
　そうして一個人として成長した人間のすべてを苗床にして、ロアは姿を現します」
「依り代がロアに変身するのではなく、
　ロアの思想を依り代が受け継ぎ、新しいロアになる、と考えてください。
　ですので、ロアとして覚醒した後も、その代のロアの行動原理は肉体に添うものになりがちです」
「……肉体に影響される……じゃあアイツは間違いなくシキの考え方を持ったロア、という事なんですか？」
「半々の状態、といったところでしょうか。転生先となった遠野シキの意識は七年間<譫妄|せんもう>状態だった。
　だから―――シキ本人の自我が弱い時、思想はオリジナルの……初代ロアのものに近くなる。アレが転生者ロアであると同時に、吸血鬼シキとして活動していたのはその為です。
　こんなケースはロアの歴史の中でも珍しい事でしょうね」
「ある意味、ロアという人物はもう存在しないんです。あそこにいるのは永遠という事柄、不老不死を求める強迫観念にすぎません。
　厄介なのはその強迫観念に意思と歴史、積み重ねた魔道の知識があるという事」
「ロアは不老不死の探求を続けられるのなら、<肉体|じぶん>が何をしようとかまわない。
　シキ本人の意思、シキの欲求を止める事はしません。むしろ欲望の達成を手助けするでしょう。依り代の確執が消えれば、思想は完全にロアだけのものになりますから」
「……シキ本人の、やりたい事……」
「はい。おそらく彼はアルクェイドから隠れる事より、遠野くん、貴方の殺害を第一としていた筈です」
「……？
　シキの目的が俺の殺害って、どうして」
「……そうですね。言いにくい事ですが、遠野シキにとって貴方は、自分を殺した人だからだと思います」
「殺されたのはこっちのほうなのに。あべこべですよ、それ」
「でも遠野くんは生きている。そしてシキは殺されてしまった。その結果、貴方は遠野志貴になってしまったでしょう？
　シキは遠野の身内たちの手によって処罰された後、奇跡的に蘇生しました。けれど、その後に自分の家に戻っても彼の居場所はなくなっていたんです。
　だって、遠野家の長男はきちんと生きていて、妹の秋葉さんと暮らしていたんですから」
「ある意味、貴方は遠野シキという人物を殺してしまったんです。彼の帰る場所を、貴方がすべて奪ってしまった。
　遠野槙久によって幽閉されていたシキが、自分として暮らしていた貴方にどんな感情を抱くかは分かり易すぎるぐらいです」
「……シキにとって、俺は自分の名前を使って遠野シキになりすましているニセモノなわけか」
「はい。シキは、何よりも貴方を憎んでいたんだと思います」
　こっちだって好きでした事じゃないが、それこそ、シキにとってはどうでもいい話だろう。
　アイツにとって、俺は憎むべきニセモノだ。
　自分の居場所を他人に奪われた男。
　その恨みは増す事はあれ薄れる事なく、七年間も蓄え続けられた。
　……なるほど。
　それなら確かに、まず俺を殺そうとする。
「―――でもさ。殺されたのは俺のほうなんだ、先輩」
「遠野……くん？」
　そう、奪われたのはこっちだって同じこと。
　七年前という事は十歳の頃か。その時まで生きていた志貴という人間は、綺麗さっぱり消されてしまった。
　十歳より昔、幼少期の記憶は思い出せない。
　本当の両親に会いたいという発想は浮かばないものの、おそらくは大切であったろう思い出もなくなっている。
　もとの名字も分からず、ただの志貴だった子供は、もうどこにも存在しない。
「遠野くん。
憎しみで戦おうとするのは、いけない事です」
　俺の呟きに何か危ういものを感じたのか、先輩はそんな指摘をしてくれた。
　でもそれ、申し訳ないけど見当違いの心配だよ、先輩。
「そんなんじゃないです。俺がロアを殺すのは別の理由ですから」
「？　憎しみは、ないんですか……？」
「まったく無い訳じゃないけど、それはただあるだけの話です。憎しみの他にも思うところはありますから。
　それとは関係のないところで、ロアは放っておけない。放っておくと、ひとり、とんでもない無茶をするヤツがいる。
　……うん。だから俺も急がないと。最後まで手伝うって、あいつと約束したんだから」
　……そうだ。
　こんな所でのうのうと休んでいる訳にはいかない。
　あいつはずっと、この程度の痛みなんか堪え続けて、俺に明るい姿を見せてくれていた。
「……わかりません。どうしてそこまで彼女に肩入れするんですか。アルクェイドは吸血鬼です。遠野くんとは違うモノじゃないですか」
「それも関係ないですよ。俺はアルクェイドだから肩入れするんです。仮にあいつが人間だろうと怪獣だろうと……」
　いや、怪獣はまずい、後で本気で拗ねられかねない。
「……コホン。えー、人魚だろうと、結果は変わらない。それぐらい、俺はあいつそのものに惚れてるんです」
　先輩の目を見返して、はっきりとそう告げた。
　先輩は頬に手をあてて、なぜか頬を赤らめたりしている。
「……はあ。
　あくまで彼女に協力すると言うんですね、遠野くんは」
　もちろん。
　だから、体が回復次第、学校にいかないと。
　アルクェイドがロアを見つけて戦ってしまうかもしれない。
　そうした時、あいつが無事でいられる保証はない。
　今の自分がどこまで戦力になるかは疑問だけど、それでも、アルクェイド一人よりマシな筈だ。
「無理ですね。たとえ遠野くんが満足に動けたところで、今の彼女ではロアには対抗できません」
「対抗できないって……どうしてそう断言できるんですか、先輩」
「単純な足し算ですから。
　彼女は一度決壊した吸血衝動を抑えて活動している。その為に能力はさらに低下し、ロアの半分にも満たないでしょう。
　遠野くんの力はロアの半分もありませんから、遠野くんが協力したところでロアには太刀打ちできません」
「……そもそも彼女は死にかかっています。
　能力が弱っているのに、自分の衝動を抑えつけている。わたしたちで言うのなら、肺が潰れているのに動き回っているようなものです」
「なっ―――――」
　なんだ、それは。
　死にかかってるって、なんで。
　たしかにあいつは苦しんでいたけど、そんな様子はまったくなかったのに……!?
「もちろん、それは吸血衝動を抑えなければ回復できるものです。楽になりたいのなら人間の血を吸えばいい。
　けれどアルクェイドは二度と人の血は吸わないでしょう。
　だからロアを追いかけるかぎり、彼女は自分から死に近づいているんです」
「ふざ……ふざけるな、そんなのっ……！」
　ベッドから立ちあがる。
　とたん、床に倒れこんだ。
　受身もとれずに、ゴミのように床に打ち付けられる。
「はっ―――ぐっ……！」
　情けなさすぎて殺意が湧く。
　アルクェイドがそんな状況にあるというのに、俺は、ひとりでは満足に歩けないぐらい、弱い、なんて―――
「無茶はしないでください。
　傷自体はあってないようなものですけど、遠野くんの生命力は空っぽなんです」
「ロアの今代の転生体、シキの能力でしょう。
　貴方はナイフで刺されただけで、ごっそりと“命”そのものを削り取られたんです」
「……いの……ち……？」
「生命を活動させる動的な結合力……平たく言えばエネルギーですね。生きているかぎり動的な結合力は作り出されますけど、その蓄積量は個人差があるんです。
　一人の体から取り出せる生命力は無尽蔵ではなく、限度がある。蓄積している生命力を一瞬にして奪われたら、その個体は生命活動を停止するんです」
　……命。
　命を、動かしている、命。
「それは……モノを、活かしている、という事ですか……？」
「そうですね、厳密に言うと死ではありません。ガソリンがきれてしまったから動かなくなる、という事ですから。
　エンジンは壊れていないんですから、エネルギーさえ戻ればまた走り出せます」
　言って、先輩は倒れている俺を立ちあがらせて、そのままベッドに寝かしつけようとした。
「……いい。もう、横にはならない」
「もうっ。自分ひとりじゃ立ってられない人が何を言ってるんですか。
　横になるのがイヤでしたら、こうしてください」
　先輩は強引に俺の体を押して、ベッドの上に座らせた。
「……は……あ」
　ベッドの上に腰を下ろすだけで、息があがっている。
　……くそ。
　こんなんじゃ、とてもじゃないけど学校にたどり着けない。
　アルクェイドに出会えたとしても、足手まといになるだけじゃないか……！
「いいんですよ、遠野くんはもう戦わなくて。
　ロアの事なら、あと数日もあれば決着がつきますから」
「？　けっ……ちゃくって、どうやって……？」
「ロアの転生体が特定できましたから、法王庁……えっと、わたしたちの本拠地ですけど、そこに要請が通ります。
　今回はマーリオゥもいますし、三日もあれば充分な数の代行者が送りこまれますから、ロアはそれでおしまいです。
　……結局、また同じ事の繰り返しになりますけど、とりあえずそれで今代のロアは処理できます」
　……三日。
　三日、だって………？
「……だめだ。そんなもの、待ってられない。今夜にでもアルクェイドはロアとやり合うかもしれないんだ。
　だったら―――そんなもの、何の意味もないじゃないか……！」
　両足に力を入れる。
　乱れていく呼吸をなんとか誤魔化しながら、ベッドから立ちあがった。
「……先輩。俺のナイフ、どこだ」
「わたしが預かってますけど―――貴方に渡すと思いますか？」
「……思わない。けど、人のものを取り上げないでほしい。
　たしか、汝盗むべからず、なんでしょう？」
　そうですね、と答えて、先輩は修道服からナイフを取り出した。
「この短刀は遠野くんのですからお返ししますけど。
　学校に戻るつもりなんですか？」
「―――何度もそう言ってる。
　アルクェイドがロアを見つける前に、俺が―――」
　ヤツを、仕留める。
　シキの目的が俺の命なら、どうあれ殺し合うのは避けて通れない。
　それなら―――アルクェイドを守るために、自分からアイツを殺しにいってやる。
「そんな体で、ですか。
　……やっぱり分かりませんね。貴方がそこまで彼女にこだわる理由、聞かせてください。それを聞かせてくれるのなら、わたしはもう止めませんから」
　……先輩はさっきと同じ質問をしてくる。
　俺は震える膝に力を入れながら、ここから走り出す力を取り戻そうと、自分の気持ちを再確認する。
「――――俺は――――」
　俺があいつを助けたい理由。
　アルクェイドが好きだから、か。
　あいつといると楽しかったから、か。
　……ああ、それは当然のようにある大前提だ。
　けど、もっと深いところで、どうしても譲れないものがある。
「……あいつ、ひとりだからさ。なんか、ほっとけないんだ。たぶん、理由はそんなものだよ」
「―――嘘です。そんな事で、自分の命を<蔑|ないがし>ろにはできません。真面目に答えてください遠野くん。
　……そんな理由じゃ、わたしは納得できません」
「いや、本当に理由はそんなことなんだ。
　……あいつは今までひとりで、楽しいことがいっぱいあるって事も知らなくて。
　ずっと、馬鹿みたいに、独りだった。
　そんなのは寂しすぎるだろ。そんな意味のない人生、俺は許せない。だから―――」
　だから、ただ、知らせたかった。
　世の中には沢山の出来事があって、その大半は無意味で無駄なコトだけど。
　それを知っていく事が生きていく喜びだと、子供でも知っているような事を―――
「……ただ、教えてやりたかった。
　あいつはあんなに楽しそうに笑っていたけど、そんなのは誰にでも手に入れられるものなんだって、教えてやりたかった」
「世の中にはもっと―――
　もっと、つまらない悩みなんて消し飛ぶぐらい楽しい事があるんだって、何回でも連れ回したかった。
　当たり前のことを、当たり前のように感じられるように――あいつを、幸せにしてやりたかった」
　悲しみからではなく。
　単純に、俺がそうであってほしいと願った。
　あいつがいつでも笑っていられるように。
　アルクェイドの笑顔が、俺には本当に、美しいものに見えたから。
「だってそうだろう。
　あいつは今まで救われなかった分、その何倍も幸せにならなくちゃいけない。帳尻は合わせないと嘘だ。
　だいたい、あいつが独りでなくなる方法なんて簡単すぎる。そんな事で悩んでるとか、馬鹿みたいだ」
　……そう、すごく簡単だ。
　たんに誰かと話して、自分のやりたい事をやるだけでいいんだから。
「……きっとさ、それは誰にだってしてやれるコトなんだ。
　他の誰でもあいつを幸せにする事はできる。
　だから―――たしかに、俺がこんなみっともない体で、こんなふうに躍起になる必要はない。他の誰にだって、あいつを独りでなくす事ができるんだから」
　……わかってる。
　そんなコトはわかってるけど、理屈じゃない。
「―――けど、ダメなんだ。
　他の誰かになんて任せられないし、このままあいつと別れる事なんてできない。
　……俺には、もうあいつ以外にいないんだ」
　だって、こんな人でなしの俺が。
　多くの事を諦めて、犬のように死ぬだけだった俺が。
　今はこんなにも、欲深く求めている。
「……アルクェイドを愛してる」
　男として、何もかも愛している。
「でもそれ以上に、俺は、自分の手で、あいつを幸せにしてやりたい。その為に自分の命が使われるのなら、それでいい。
　このままであいつに消えてほしくない。……今はただ、それだけなんだ、先輩」
　そう、それだけだ。
　自分の命を思うより、今はもっと強く、アルクェイドを思っていたい。
　この眼はその為に在ったのだと、今は心から断言できる。
「他の誰でも、ですか。
ばかなこと言わないでください。他の誰にもできませんよ。だって、そんなコトを言えるのは世界中で遠野くんだけみたいですから」
　大きくため息をついて、先輩は両肩をすくめた。
「―――先輩」
「……はあ、
ちょっとあたまにきちゃいました。
。
　彼女、もう十分幸せじゃないですか」
　皮肉まじりに口元をほころばせて。
　先輩は優しい声で、そんなことを呟いた。
　―――と。
　窓の外でがさ、と木の枝がズレる音がした。
「……？」
「あ、驚かないでいいですよ。彼女が立ち去っただけですから。
さっきからおかしな違和感があったんですけど、やっぱりそうだったんですね」
　ちらり、と先輩は窓の外に視線を投げる。
「ロアより遠野くんの方を優先して来てたなんて彼女らしくないですけど。―――まあ、これでロアの方を優先しているようでしたら、わたしがトドメを刺しに行きますが」
「な、なんで!?
　なんでアルクェイドが俺の部屋なんかに来るんだよ………！」
「遠野くんがロアにやられたから心配で見に来たんでしょう。
　わたしたちの話に聞き耳をたてていて、たったいまロアのところに行っちゃいましたけど」
「行ったって、どうして!?」
「当たり前じゃないですか。あんなこと聞いちゃったらわたしだって同じ行動をとります。
……
うん、羨ましいけど、同じぐらい哀れですね」
「―――だから、どうして―――」
「遠野くんはアルクェイドを助けたい。
　けどアルクェイドは遠野くんを巻き込みたくない。
　なら答えは一つです」
「さて。これで諦めがついたでしょう。
　遠野くんがどう頑張ったところで彼女には追いつけません。ですから、あとはわたしたちに任せて、ゆっくり体を……」
「―――ふざけるな！」
　激情のまま、先輩の襟元に掴みかかった。
　それだけで眩暈がしたが、そんな事は気にならない。
「こうなると分かって、俺に理由を訊いたのか―――！」
「……いいえ。わたし、遠野くんが彼女をそういうふうに見てたなんて知りませんでした。
　……たしかに、これはわたしの失策です」
　それでも先輩の表情は動かない。
　穏やかな瞳のまま、襟元を掴む俺を見つめている。
「―――――――――っ」
　……こんな事をしていても、始まらない。
　アルクェイドは行ってしまった。
　俺がやるべき事は先輩を責める事なんかじゃない。
「―――彼女の後を追う。連れていけ」
「そんな体の人の脅迫を聞くと思っているんですか？」
　ああ、もちろん思ってない。
「知るか。言う事をきかないなら、ここでメチャクチャに暴れてやる」
「――――」
　先輩の表情が崩れる。
　さっきまでの冷静な顔は、憮然としたものになって、じっと何かを考えこむ。
　そのあと。
　先輩ははあ、ともう何度目かのため息をこぼした。
「その提案は魅力的ですけど、仕方ありません。
　わたしの失策でもありますし、乗りかかった船ですから。こうなったら終着までお付き合いします」
　先輩は襟元をつかむ俺の手を離すと、トコトコと横にまわりこんでくる。
「それじゃあ連れて行ってあげますから、おとなしくしていてくださいね」
「え―――？」
　こっちが驚く間もない。
　先輩はよっと声をあげて俺の体を抱きかかえる。
「秋葉さんに見つかると止められますので、彼女と同じ方法で行きましょうか」
「え―――はい、ちょっと、シエル先輩!?」
　タン、という軽い音。
　先輩は俺を抱えたまま、窓から外へと飛び出していた。
　欠ける事のない月の下、美しい化身が跳ねる。
　建物の屋根から屋根へ、
　止まる事なく、落ちる事なく、放たれた矢のように、まっすぐに。
　目的地は既に固定されている。
　この街に建てられた教育機関。街の喧騒から切り離された高等学校の校舎が、彼女の怨敵が巣くう戦場だ。
「ふ―――ふふ」
　丘の上の屋敷から校舎まで、直線わずか２キロメートル。
　彼女の脚力なら数分とかからず到着する。
　それは、彼女にとっては慣れた動作だった。
　一切の無駄はせず、標的を射貫く事だけに特化した<行動|アクション>。
　多くの死徒たちにとっては死の稲妻と同義だった姿。
　けれど、今夜だけは、その軌跡は柔らかく、温かだった。
『大好き―――大好き、大好き、大好き！』
　彼女は空を仰ぎながら、こみあげる気持ちを空に放つ。
　そうしなければ胸が弾けそうだった。
　頬に手を当てなければ、それこそにやけて落ちてしまいそうだった。
　形容しようのない光が胸をいっぱいにする。
　首筋から脳に流れ続ける、痺れにも似た充実感。
　そのすべてが新しい発見であり、喜びだった。
　先ほどまで彼女を縛っていた悲観はどこにもない。
　体は崩壊しかけているかもしれない。
　戦うだけの力は残ってないかもしれない。
　あの校舎に潜む吸血鬼を倒したところで、自分にはもう未来がないのかもしれない。
　今までの全ては、何の意味も救いもない、無意味な戦いだったのかもしれない。
「―――かまわない。そんなの、ぜんぜんどうでもいい」
　彼女にとって、それはもう過去の問題だった。
　自分の事も、<仇|ロ><敵|ア>の事も、取るに足りない確執だ。
　いま彼女を走らせているものは胸にある想いだけ。
　―――大切なものを守りたいという、
　はじめて手に入れた感情だけ。
『今代のロアは今までと違う』
『真祖への執着も、不老不死の探求も薄い』
『このロアは―――
　ひとりの人物に対して、深い動機を持っている』
　一連の事象を俯瞰し、彼女はそう結論した。
　ロアと自分の関係がそうであるように、
　四季と志貴の関係を、彼女は理解したのだ。
『だから―――わたしが倒す』
　もう彼を死地に招く事はしない。
　もう、ロアと戦う事をためらう事はない。
　ほんの数分前まで、彼女はロアとの対決を恐れていた。
　根底にある合理性が、ロアに勝利する確率は低いと告げていたからだ。
　恐れたのは粛清を果たせない事ではなく、
　敗北し、自分が消える事で、彼と会えなくなる事が怖かった。
　けれど今は違う。
　いま彼女を駆動させるものは、全身を包む歓びだけ。
『……あいつ、ひとりだからさ。なんか、ほっとけないんだ。たぶん、理由はそんなものだよ』
「――――――」
　ああ、と瞳が、唇が、全身がはにかんでいる。
　勝利できるだろうか？
　生き残れるだろうか？
　また、彼に会う事ができるだろうか？
　そうできたらいい、と彼女は思った。
　その為に戦う。自分の希望の為に戦う。
　それは今まで一度も持たなかった行動原理。
　憎しみや使命ではなく。
　嬉しくて、彼の為になれる事が嬉しくて、白い化身は夜を駆ける。
『わたしに、返せるものはないけれど―――』
　この胸の温かさの、せめてもの感謝として。
『あなたの敵を、やっつけるわ―――！』
　残された全ての力を使って、
　この夜を終わらせると彼女は決めた。
　―――今も胸を焦がす、わずか数秒の記憶。
　あの一言が、千年に<航|わた>る旅の報いだったと微笑みながら。
　夜の街を駆け抜けて学校に着いた。
　先輩は俺を抱えているのに息切れ一つせず、アルクェイドと同じように建物の屋根を駆けて、ここまでやって来てくれた。
　……今更の話だけど、この人、もしかしてアルクェイドと同じぐらいデタラメな人なのかもしれない。
「遠野くん、歩けますか？」
「歩けなくても歩きます。
　これから、ロアを殺しに行くんですから」
「……そうですね。では、この先は自分の足でお願いします」
　先輩は俺を地面に下ろす。
「―――――」
　校舎は、不気味に静まり返っている。
　この中に入れば、あとはヤツと殺し合うだけだ。
　はあ、と深呼吸をしたあと、眼鏡を外した。
　頭痛が走る。
　満足に動かない体とあいまって、気分は叫び出したくなるぐらい、不快だ。
「………まずいですね。目覚めたばかりとは言え、やはり月齢の影響を受けますか……」
　先輩は深刻な顔で夜空を見上げる。
　皎皎と降りる月の光が、夜の校舎を照らしている。
「……まずいって、なにがです？」
「ロアの状態です。真祖は月齢によってその能力限度を上下させます。彼らは満月に近いほど力を増す。それは死徒であるロア本人も同じです。
　……今夜のロアはかぎりなく不死身に近いでしょう。今のわたしの装備では殺しきれないかもしれません」
　―――限りなく不死身に近い、か。
　けど、それは俺には関係がない。
　“死”の要因があるのなら、それがどれほど死に<難|にく>いモノであろうと例外なく殺し切る。
　近づければ。次の瞬間にこの胸を貫かれてもいいから、近づければ、一息のうちにヤツの“死”を貫いてみせる。
「それにしても今夜は明るいですね。これじゃあ闇に紛れて忍びこむのも難しいです。
……
月の明るい夜は好きなんですけど、今日だけは別ものですね」
　はあ、とため息をつく先輩。
　……月光<冴|さ>え<凍|こご>える青い夜。
　美しくさえ視える、存在の死の証明。
「そうかな。俺は月の明るい夜は、嫌いです」
「遠野くん……？」
　ずきりと。
　脳髄を軋ませる。
「……太陽じゃなくて、月の弱い明りだとよけいにはっきり視えるから。線をかき消すぐらい強い陽射しか、本当の暗闇のほうが、気が楽だ」
　ずきりと。
　痛みではなく、その<事実|みらい>が軋ませる。
「ああ―――今夜はとくに狂いそうだ。
　なにもかも死に<易|やす>そうで、まるで月の荒野にいるみたい」
　―――けれど、これなら。
　万が一にも、ロアの“死”を見逃す事はないだろう。
「遠野くん、ここでお別れです。
　ここから先は一人で行ってください。わたしは別行動をしますから」
「別行動……先輩、何かするんですか？」
「あのですね。わたしだってロアを処理するのが目的なんですよ？　ただ、今代のロアは今までより強力なようですから、真正面から挑む事はしません。
　遠野くんとアルクェイドがロアに殺された後、その隙をついてロアを処断します」
　的確な戦闘方針を、先輩は真顔できっぱりと断言する。
　……うん。嘘で誤魔化さないその<真摯|しんし>さが、今はとても頼りになる。
「わかりました。……勝手ですけど、その時は後始末をよろしくお願いします」
「はい。仕事に私情を挟むのはここまでです。
　遠野くんは彼女の為に戦うのでしょう？　それと同じように、わたしにも自分なりの理由があるんです。
　ですから―――これ以上、貴方たちを助ける事はできません」
「はい。ありがとうございます、先輩。
　……これでお別れかもしれないから言っておきますね。俺、先輩のこと好きでしたよ。先輩と有彦と三人で、バカみたいな話をしてるのは、楽しかった」
「―――はい。わたしも、夢みたいでした」
　先輩は闇に溶ける鳥のように、校庭へと消えていった。
「さあ―――行くか」
　俺も覚悟を決める。
　正門をくぐる。
　満足に歩く事が難しい。
　校舎までの距離は、ひどく遠く感じられた。
　進むたびに眩暈がする体に鞭を打って、校舎へと走り出した。
　遠野志貴に先行して、代行者は夜の校舎に潜入した。
　突入ではない。潜入だ。
　敵地に踏み込む事には慣れている。
　代行者シエルにとって吸血鬼退治は“使命”であって“矜持”ではない。
　正面から突入するなど、ましてや正々堂々と戦いを挑むなど、それこそ正気を疑う行動である。
「――――――」
　影のように身を進ませる。
　物音ひとつ立てないのは当然として、自らの気配……匂い、体温、鼓動といった生体反応すら外界に漏らしていない。
　今は思考する事さえ封殺している。
　吸血鬼の中には侵入者が“そう考えた”時点で因果を結び、感知するものもいる。
　今夜のミハイル・ロア・バルダムヨォンがその域に達しているかは定かではないが、真祖アルクェイドであればその程度の空間支配は行うだろう。
　アルクェイドがシエルの潜入を知覚すれば、
アルクェイドと対峙するロアにも状況は伝播する。
　それでは奇襲は成立しない。
　その事態を避けるため、シエルは自身を人形化した。
　自らが定めた『命令』だけを行う、何も考えない、何ごとにも動じない、自動人形になったのである。
　シエルは自動的に、ロアの死角になる確殺地点に移動する。
　周囲の情報は感知魔術によって把握していた。
　ロアは体育館に多数の魔術式を敷いて待ち構えている。
　アルクェイドは渡り廊下を体育館に向かって移動している。
　ちりちりとコンクリートの表面が焦げている。
　ロアがここまで貯蔵した<魔|オ><力|ド>と、
　アルクェイドの持つ魔力は拮抗している。
　シエルに意識があれば火薬庫を連想しただろう。
　帯電すらしている魔力濃度は、わずかな働きで反応し、侵入者ごと爆発しかねない。
「――――――」
“遠野志貴はこの中を通るのだろうか？”
　そんな考慮も発生しない。
　中庭から屋上に向かう殺戮装置。
　たとえロア本人であろうと、今の彼女から“意識”を取り戻させる事はできない。
　その上で、
「――――――え？」
　そこに。
　致命的な運命のように、目を疑う<何|・><か|・>がいた。
　異質なものが壁に張り付いている。
　多くの死徒、多くの怪物を斃してきたシエルですら、見た事はおろか、聞いた事もない異形だった。
　樹皮のような、革のような、硬くしなやかな外皮。
　だらしなく肥大化した腹部。
　その腹部から伸びた六本の脚。
　右肩の瘤には大型の恐竜もかくやという爪と牙。
　蜘蛛に酷似した下半身。
　人間に類似した上半身。
　八つの単眼はやはり蜘蛛を思わせる。
　だが、なにより異質なのは―――
「――――――」
　その“異物”から放たれる、殺意とも敵意ともとれない、ドロドロに入り乱れた“意識”だった。
　向けられるだけで死を覚悟する殺意は知っている。
　向けられるだけで全身が粟立つ敵意は知っている。
　だがこの意識は経験にない。解析する術もない。
　きっと、教会のどの資料にも記されてすらいない。
　この“意識”が何に起因するものなのか、常人には不理解だ。
　とある高名な画家の油絵を思い出す。
　星と月が描かれた、ひたすらに青く暗い夜の街。
　まるで、異次元にいるかのような。
「―――、――――――」
　知らず、シエルは呼吸を再開していた。
　ロアの事も、志貴の事も、アルクェイドの事も、空白のように思考から消え去った。
　いま彼女にあるのは原初の恐怖。
　代行者になる前、まだ怪異を知る前の少女が当たり前のように持っていた人間らしさ。
　即ち―――気味の悪いモノに対する、堪えようのない嫌悪感だ。
　校舎が歪み、揺れる。
　大気に充満した魔力が連鎖起爆し、校舎の背骨にあたる鉄骨をきしませる。
　これはあの“何か”によるものではない。
　ロアとアルクェイドの戦いが始まったのだ。
「しまっ―――」
　わずか数秒の、しかし致命的なロス。
　シエルはロア暗殺の機会を逃した事を悟り、
　何と戦うべきなのか、瞬時に思考を切り替えた。
「[ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00]―――」
　動く。３メートル近い、昆虫とも獣とも取れないモノが、滑るように壁を闊歩する。
　震動する校舎の影響は受けていない。
　正体不明の怪物は、８メートル離れたシエルに向け、そのおぞましい多腕をかざし、
「ッ……！」
　鞭のように伸縮する腕。
　その一本一本から死徒と同じ匂いを嗅ぎ取って、シエルの思考はより冷静になっていく。
「新種の<屍鬼|グール>、なんですね……！」
　ロアが配置した対<自分|シエル>用の防衛措置。
　そう考えれば驚く事は何もない。
　シエルは地上から、壁に張り付いた大型屍鬼の生態を観察する。
　全身凶器の塊だが、注目すべきは二点だけ。
　肩の瘤から群生した牙と、巨大な左腕。
　肩の牙は接近戦用のものではない。
　あれは間違いなく、
　このように。
　遠距離から獲物を撃ち抜く<生|ミ><態|サ><機|イ><能|ル>だ。
　この質量、スピードで直撃すれば、人体なぞ木っ端微塵に砕け散る。
　上を取られたままでは一方的に狙われる。
　代行者は一息に、さしたる窮地も感じず、乱れ飛ぶ弾丸を躱しながら屋上まで跳躍した。
　代行者を逃がすまいと屋上に這い上がる巨大屍鬼。
　六本の脚は壁同様、滑るように地面を移動する。
「……サイズの割には素早いようですが……」
　その一挙一動を観察しながら、シエルは攻略手順を組み立てていく。
　あの巨大屍鬼は移動砲台のようなものだ。
　伸縮する右腕と、肩から群生した……もう次の歯が生えている……牙が表武装だろう。
　遠距離戦に特化した調整体。
　だが近距離戦に難がある、という訳でもない。
　懐に飛び込んだが最後、巨大な左腕が防御ごとシエルを叩き潰すだろう。
「もっとも」
　当たれば、の話である。
　巨大な左腕はあの屍鬼のコンセプトに反している。
　全体のバランスを崩し、移動にも悪影響を与えている。
　あの左腕が右腕と同じものであれば、より安定した移動砲台として、あるいは遠距離戦でシエルを追い詰められたかもしれない。
「[ber00][ber00][ber00][ber00][ber00][ber00]―――！」
「フッ―――！」
　再び繰り出される多腕の鞭。
　それを紙一重で躱しながら、代行者は前進する。
　先ほどまで背筋に張り付いていた恐れは消えている。
　敵の正体、成り立ちは不明のままだが、その戦力は把握した。
　今まで遭遇した事のない種別の脅威ではあるが、シエルに敗北する要素はない。
　あの屍鬼の性能では自分を倒しきれず、
　今の武装だけで駆除できる事をシエルは確信している。
　問題があるとすれば、それは―――
「時間―――」
　未知の敵であり、
　上級死徒に匹敵する性能である事も考慮して、
　一度や二度の“処断”で息絶えるとは思えない。
　もう再生しなくなるまで殺しきるのに、はたしてどれほどの時間を消費するか。
「―――10分。それ以上は使えない……！」
　代行者の魔術が屍鬼の体を焦がす。
　一撃で大型動物の身体機能を停止・破壊する雷撃を受けながら、屍鬼は後方に跳躍し、代行者との戦闘を続行する。
　見た目以上の<耐久力|タフネス>に奥歯を噛む代行者。
　この敵を仕留めるまでの僅かな断絶。
　それがこの夜の結末にどう作用するのか、今の彼女には知るよしもない。
「……なんだ、これ」
　校舎の中は傷だらけだった。
　小型の台風が荒れ狂って、そのまま上へ上へと移動しているような。
「っ……！」
　街を駆けるシエル先輩も速かったが、アルクェイドの速度には及ばなかったようだ。
　アルクェイドとロアの戦いはもう始まっている……！
「……上の階……！」
　廊下を走る。
　異様な破壊音と、空気の焼ける匂いが届く。
　一歩ごとに遠くなる意識を、手を握る事で押し留める。
　手の平に爪をたて、その痛覚で体を押し進める。
　これで体が動くなら左手を爪で潰してもかまわない。
　ナイフを持つ右手があればそれでいい。
　廊下を抜け、階段を駆け上がる。
　音が近い。発生源はおそらく三階。
　あと少しで追いつく。
　追いつけばチャンスはある。アルクェイドは俺の眼を知っている。戦いなら冷静かつ合理的になるあいつの事だ。俺が来たと知れば効果的に使ってくれる。ヴローヴの時のようにアルクェイドがディフェンスで、俺がオフェンスになればいい。あいつがロアを押し止めてさえくれれば、後は俺の役割だ。なにがあろうと、どんな無謀だろうと、その<路|みち>を突破する。
　だから―――だから、まだ……！
「はあ―――はあ―――はあ―――――！」
　三階にたどり着いた。
　壁という壁に走っている傷跡は、そのまま廊下の先―――
　校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下へと続いている。
「く―――――そ！」
　よろける足を動かして、渡り廊下へと走り出す。
　廊下を抜けて、渡り廊下へ続く曲がり角にたどり着く。
　―――そこが、争いの終着だった。
　渡り廊下のただ中。
　二つの人影が、距離を保って対峙している。
　渡り廊下の奥、向こう側の校舎の手前には、余裕ありげに佇むロア。
　渡り廊下の真ん中には、荒い息遣いのまま、床に膝をついているアルクェイドの姿があった。
「――――――」
　―――でも、なんだ、あれは。
　知らない。あんなアルクェイドは知らない。
　全身に走る<黒縄|こくじょう>。
　衰弱し、砕ける寸前の<躯|からだ>。
　あの夜。ホテルの最上階で見た美しい花は、もう、見る影もなくなっている―――
「アルクェイド――――！」
　走り出す。ロアの姿なんてどうでもいい。
　この廊下にどんな罠があるかも知らない。
　一刻も速くアルクェイドに駆け寄るだけ。
　けれど、その前に。
　ぎらり、と。
　<跪|ひざまず>いたまま、アルクェイドは俺を睨みつけた。
「………………！？」
　体が、動かない……!?
　アルクェイドの目を見た瞬間に、体が石化したように動かない……!?
「フッ……冷たい女だ。死ぬ思いで駆けつけた仲間を魔眼で束縛するとは。
　共に死にたいという彼の忠義ぐらい、受けてやってもいいだろうに」
　愉快そうな声が響く。
　その口元は俺ではなく、跪いたアルクェイドを見て笑っている。
「魔眼って―――なんで」
　なんで、アルクェイドがそんなモノを俺に向ける。
　せっかく。
　せっかく、こうして間に合ったっていうのに――――！
「―――解け。
　解いてくれ、アルクェイド……！！」
　アルクェイドは俺から視線を逸らして、ロアへと向き直った。
　……何も、言わない。
　アルクェイドは何も、俺に言わない。
　ただ目前の敵を、苦しげに凝視するだけだった。
「なんで――――なん、で――――」
　声をあげる事さえ、できなくなる。
　アルクェイドの魔眼とやらのせいじゃない。
　ここまで来たのに。何もできない自分が悔しくて、今まで無理やり動かしていた体が、熱を失っていく。
「いいぞ、ようやく覚悟を決めたな姫君！
　まったくもって正着だ。なにしろもう後がない。ここで私を仕留めなければ、無残な死体は二つになるからな。
　それが嫌なら―――最期の誇りを見せるがいい」
「ロ――――、ア…………！」
　ロアは一歩、また一歩とアルクェイドへ足を進ませる。
　その度にヤツの肩が、腹が、手足が歪み、ねじ切れる。
　だが、それは一瞬のみ。
　体はすぐさま復元し、歩みを止めるには至らない。
「しかし、大したものだ少年。
　姫君はおまえを逃がす為に、私と刺し違える事にしたらしい。だが―――」
「かつての姫君なら恐ろしくもあったが、今の君はただの吸血鬼だ。真祖としての力も十全に発揮できない。
　……悲しいな。胸を裂くように悲しい。そして醜い。そこまでの無様を晒すのなら、いっそ欲望のままに堕ちていれば良かったものを」
「―――、黙れ……っ！」
　アルクェイドの声が廊下に響く。
「一時的な物理現象の書き換え。自然現象、空間に在る熱量の自由操作。真祖が持つ、星の触覚としての当然の権利。
　まさに創造の権能だ。いかな魔術を極めようと、人間ではおまえたちには遠く及ばない」
「しかし―――同時に、おまえたちも人間には直接干渉する事はできない。
　繁栄し、学習し、独立し、知恵ある<動|サ><物|ル>として進化した人間は、もうこの星とは違う分類だからだ」
「出来る事といえば、こうして真空を作りあげ私にあてがう事ぐらい。
　だがこれでは足りない。加えて、今の私はおまえより優れている。私にあって、おまえには無いものがあるからだ」
「――――――」
　アルクェイドの呼吸は、止まっていた。
　今の自分の全てを放棄して、力を溜めているような、そんな危うさ。
「解るだろう？　そう、死の実体験だ。
　私は<そ|・><れ|・>を知っているが、おまえは知らない。
　それが私たちの決定的な差だ。生きているかぎり生物は死を体験し得ない。それを知り得るのは、転生者たるこの私だけの特権だ」
「だ―――め、だ」
　アルクェイドの周囲の揺らぎは、段々と大きくなっていく。
　……止めないと。
　今すぐにあいつを捕まえて、頬を叩いてでも、止めないと。
　そうしないと、何もかも―――
「ヒトは未知を本能的に恐れる生物だ。それは超越者である真祖であろうと変わらない。
　しかし、いかに神秘を学ぼうと、どれほど長寿の生物がいようと、無に還る<終|つい>―――本質的な死を体験する事はできない」
「おまえたちは死を拒む事でその強大な力を得るが、同時に弱さをも作り上げた。
　死を避ける貴様と、死を受け入れた私。
　それがアルクェイド・ブリュンスタッドと、ミハイル・ロア・バルダムヨォンの質の違いだ。
　私は今も人として人の時代に生きている。時代から外れた亡霊にすぎぬおまえに、私を罰する権利はない」
　ぱりん、と。
　渡り廊下の窓ガラスに、違うモノが<上書き|コーティング>されていく。
「や、め―――」
　ロアには視えていないのか。
　あの、“死”すら立ち入れない、膨大な力のうねりが。
「それでも私に挑むというのなら止めはしない。
　身をもって千年の代償を受けるがいい。
　その後は―――そうだな。
　やはり、この体の目的を、ゆっくり果たすとしよう」
　三日月のように歪む口。
　ロアの視線はようやく俺に向けられた。
　愉しんで殺す、と。<肉|シ><体|キ>の怨念に応えるように。
「……つまらない。口上はそれで終わりか、下郎」
「―――！？」
　アルクェイドの周囲が変貌する。
　星の大気。星の記憶に刻まれた<原|あ><子|り><構|か><造|た>を、彼女が懐かしむように。
「―――確かに、私は堕落した」
　でも、それでいいと。
　それは後悔のないものだったと、あいつは、噛みしめるように息を呑んで、
「―――消えろ。おまえに、わたしの志貴は殺させない」
　世界が変わる。
　見知らぬ風景に切り替わる。
　その外側、彼女の宇宙の外にいる俺ですら、見えない圧力で全身が締め付けられる。
　あの宙域にいるロアにとって、それがどれほどの“恐怖”なのか推し量る事さえ遠い。
「魔術基盤が―――エーテルが―――存在しない……!?
　待て、これでは魔術が成立しない、魔力枯渇どころではない、秩序そのものが未完成だ！　これでは、まさに―――！」
　アルクェイドの手が、厳かに振り上げられる。
「あ―――――」
　声が、出ない。
　まずいと。それはダメだ。それをすればロアは殺せるだろう。
　けれど、同時に失われる。
　彼女に残った最後の、かろうじて残ったものが失われる。
　それが分かっているのに、俺は声すらあげられない。
「そうか―――これが天体を成すもの！　私のパンテオン、私を堕落させた原初の一……！
　おお、祝福あれ！　祝福あれ！　祝福あれ！
　間違ってはいなかった―――私の理論は、間違ってはいなかったのだ！」
　絶望に苦しみながら、歓喜の声をあげる吸血鬼。
　……それを嫌うように。
　彼女は、目の前の羽虫を、払うように消し去った。
　目を開けた時、ロアの体は存在しなかった。
　歪曲し、切断され、圧縮された。
　廊下は<現|も><実|と>の姿を取り戻している。
　今の風景は一瞬だけのものだったらしい。
　渡り廊下に変化はなく、
　ただ、そこにロアの足首だけが残っている。
　―――しかし。
　戦いは、それで終わってはくれなかった。
「“まさしく魔の王。人知いまだ及ばぬ、<虚|ソ><空|ラ>を覆う<天蓋|てんがい>よ”」
　足首が動く。
　カツカツと音をたてて、足首<だ|・><け|・>が血の海を歩いていく。
　その過程。
　一歩進むたびに足首から腿が、腰が、もう一本の脚が、胴が、両腕が、生えていった。
「“だが魔術の進歩とて、その<御業|みわざ>に負けてはいない。
　このように―――術者が滅びようと発動する自動詠唱は、近年において完成の域をみた”」
「ア―――」
　呼びかける声は届かない。
　アルクェイドは膝をついたまま、もう顔を上げる事さえ、しない。
「“無意味だった。はじめから無意味だった。
　あなたの<航|た><海|び>は、八百年前から無意味だった。
　何故なら、私にとって肉体の死など通過儀礼にすぎず、
　仮にこの場でこの肉体が死滅しようとロアはまた人の世に孵ってくる。
　知るがいい。私こそ完全なる不老不死。私は知っている。死を。あの闇を。何十回とくぐり抜けたあの虚無を……！”」
「―――危ない危ない。やはり今夜を選んでおいて正解だったな。満月でなければ、足首からの蘇生など出来はしまい」
「そして姫君。おまえはこの傷からは蘇生はできない。
　私の爪は、そこにいる男と同じ能力だからな」
　体が動かない。
「アル――――――」
　呼びかける声も間に合わない。
　完全に元通りに蘇生したロアは、そのまま、アルクェイドの腹を切った。
　線を切るようにあっさりと、肉を裂く事もなく、血を流すこともなく。
　どさり、と。
　アルクェイドは床に崩れ落ちた。
「―――これが死を体験した末に得た力だ。
　皮肉な話だが、私自身もこれの使い道は解らなかった。
　サンプルとして教授してくれたのは彼でね。なに、コツさえ掴めばどうという事はない。幾たび死を見てきた私にとって、モノの死を読む事はそう難しくはない事だ」
　誇らしげに語ると、ロアはアルクェイドの体を蹴りつけた。
　ざざ、とこちらに向かって弾き飛ばされる。
「アルクェイド……！」
　体が動く。
　それは、アルクェイドの魔眼の力が無くなったということ。
　……アルクェイドの力が、もう、働いていないということ。
　そんな思考を振り払ってアルクェイドの体を抱きとめ―――
　―――抱きとめた瞬間、ぞっとした。
　アルクェイドの体は、ひどく冷たい。
　かろうじて残っている熱は<蝋燭|ろうそく>の火に似ている。
　……本能的な恐怖から眼鏡をかける。
　目の前にはまだロアがいる。
　けれど、そんな事どうでもよかった。
　今はただ―――アルクェイドを、助けたかった。
「アルクェイド――――！」
　呼びかける。
　閉じられた目蓋は、眠りから覚めた時みたいに、ゆるやかに開かれた。
「あは―――かっこわるいとこ、見せちゃっ、た」
　ツギハギだらけの明るさで。
　アルクェイドは、うっとりとした笑みを浮かべる。
「この……なに、ばかなこと言ってるんだ、おまえ。
　どうして―――どうして、こんな―――」
　……声が作れない。
　もっと、もっといい言葉を言ってやりたいのに、頭がどうかしてしまっている。
　だって、とても冷静じゃいられない。
　抱いているアルクェイドの体温は、もう絶望的だ。
　もし眼鏡をつけていなければ―――もっと絶望的なモノが、視えてしまったに違いない。
　―――そんなのは。
　そんなのは、絶対に視たくない。
「どうして―――どうして、どうして―――」
　くだらない言葉しか、口にできない。
　自分自身に苛だたしくなって、
　今までで一番強く、アルクェイドを抱きよせる。
　……けれど、返ってくる力はない。
　アルクェイドの体には、もうどんな力だって残ってない。
　彼女はただ、嬉しそうに、笑みを浮かべるだけだった。
「うそだ―――――」
　そう。こんなのは、うそだ。
「―――どうして―――どうしてこんな―――どうしてひとりで、こんなコトするんだよ……！
　俺たちは仲間だろ、協力するって―――最後まで助けてやるって、ちゃんと言ったのに……！」
「……そっか……そういえば、そうだったね。
　なんか……忘れちゃった」
「忘れるなよそんなコト……！
　これじゃ―――これじゃ俺は最低じゃないか。
　おまえを助けるって、言ったのに。ちゃんと助けるって言ったのに―――ただの少しも、助けて、やれなかった」
「……ううん、そんなコトないよ志貴。
　わたし、あなたにいっぱい助けてもらったもの。
　……だから助けてもらうのは……もう、いい、んだ」
　こふ、と。
　唇から血をこぼして、彼女は苦しげに笑った。
「……だから、お礼に、これぐらいは、しなくちゃって。
　……うん。ちょっと、無理しちゃったけど。
　最後に、ロアから志貴を守れて、良かった」
「―――――――」
　息を飲んだ。
　……アルクェイドの目は、何も見ていない。
　自分の傷口の事も、ロアがまだ生きているという事も。
　……彼女の時間は。
　さっきの一撃を行った時点で、もう終わりを告げていたんだ。
「―――、―――」
　やめてくれ。やめてほしい。
　言葉が出ない。喉が張り付いて動かない。
　でも、でも、彼女の夢に、応えなくては。
「あ―――あ、あ。ありがと、う。助かっ、た、」
　狂いそうだ。
　そんな嘘さえ、俺は、うまく言えない。
　……アルクェイドの目の色が薄れていく。
　体温が、段々とゼロになっていく。
　―――失う。
　このまま彼女を<喪|うしな>うのか。
「……アル、クェイド」
「―――な、に？」
「……俺の血を飲め。
　そうすれば力が戻るんだろう、おまえは……！」
　……何も考えず。ただ、そんな事を叫んでいた。
「…………」
　アルクェイドは答えない。
　ただ、見落としてしまいそうなほど<微|かす>かに。
　首を、横にふった。
「―――なんで！？
　まだ恐いとか言ってるのか!?　いいか、よく聞けよ。前に言ってたよな、もしも鳥や魚に自分と同じぐらいの知性があったら食べられるかって。
　俺は食うぞ。食わなきゃ生きていけないからな。
　生きるために奪うことは、自然界じゃ当たり前のことなんだろう……！」
　それは、アルクェイド自身が言った言葉だ。
　なのに。
　彼女は哀しい目をして、首をふった。
「わたし、もしもの話って、好きじゃ、ない」
　拒絶の台詞。
　それは―――
俺の、口癖だったのに。
　アルクェイドは言ってたのに。
　イフは。もしもの話は好きだって。そこに、救いがあるような気がするからって。
「そ―――そう、か？　おれ、俺は好きだぞ。
　たとえ、たとえ詭弁っぽくても、さ。
　そ、それなりに、どこか―――救いがあるような、気が、」
　するじゃないか、と。言いたかった。
　けど、喉がふるえて。
　うまく発音する事が、できなかった。
「……そうだったね……けど、今はそれより、もっと欲しいものが、あるんだ」
「……欲しい、もの？
　いい、何でもしてやる、から―――言ってみろ、よ」
「……うん。志貴にね、キスして、ほしい」
　―――なんだ。
　そんな簡単なことで、いいのか。
　唇を重ねる。
　それは、いつかのように甘いものでもなかったし、優しいものでもなかった。
　ただ。
　冷たい唇に自分の唇を合わせただけの、何の温かみもない、口づけ。
　そのあとに。
　本当に嬉しそうに、彼女はわらった。
「……よかった。憧れてたから、こういうの」
「……そっか。ヘンなものに憧れてたんだな、おまえ」
「……うん、なんだか嬉しい。たったそれだけのことなのに、すごく気持ち良かった。ずっと長く生きてきたけど、今ぐらい幸せな時間はなかったよ」
　――――だから
「このまま消えてなくなっても、いいかなって、思えちゃった」
　そんなコトを、呟いて。
　それきり、彼女の体温は無くなった。
「アル……クェイド……？」
　返事はない。
　体は、あるのに。
　まだこんなにも柔らかいのに。
　鼓膜は、ちゃんとアルクェイドの声を覚えているのに。
　―――もう、二度と。
　それらが、繰り返される事はなくなったのか。
「あ―――――――――」
　何をしていたんだろう、俺は。
　……こいつを、幸せにしてやりたかったのに。
　色々なことを教えてやりたかったのに。
　色々な場所に連れまわしたかったのに。
　ずっと、一緒にいたかったのに。
　それは、永遠に叶わない。
「―――――――――」
　やられた。
　いくらなんでも、今のはない。
　唐突に、何の気の利いた言葉も言えずに、ひとりで勝手に<逝|い>かれてしまった。
　こんなんじゃ――――一生、自分は忘れられない。
　この死を。気が狂ってしまうほどの、この静かな気持ちを。
　俺は、一生忘れられない。
　かつん、と。
　今まで静観していた男の足音が聞こえた。
「終わったかね、志貴？」
　美しい化身の<跡|あと>を、床に寝かす。
「ああ、終わっちまった」
　彼女の敵へと、顔を上げた。
　月明かりの回廊で、俺たちは向かい合った。
　ロアに動きはない。
　今まで黙って見ていたのは胸くそ悪い余裕の表れだろう。
「しかし。生きていたのは、予想の外だったよ」
　何事もなかったように、ロアは語りかけてくる。
　―――眼鏡を外して、ナイフを構える。
「死が視える人間というものは、死から逃れる術に長けているという事か。生命力の強い弱いの問題ではなく。
　まあ、往生際が悪い、とも言うがね」
　……生き汚いのはお互いさまだ。
　俺もあの男も、一度は死に損なった半死人にすぎず。
「死から帰ってきたものは、死というものを理解できる。
　私と君は、その中でもさらに特別な能力があったケースだ。
　私はこの極点に到達するまで十六回もの死を体験してきたが―――そちらはただの一度だけか。
　正直、才能の違いだろうな。もしその体に転生していたらどれほどの異能になったのか、興味深くはある」
　得意げな韻、耳障りな声。
　聞いているだけで、頭が痛む。
「……二つ訊くことがあって、
　一つだけ、教えてやることがある」
　頭痛で埋め尽くされる思考が、最後の会話を強制する。
「―――ほう。いいだろう、言ってみたまえ」
　絶対的な優位からの余興。
　ロアは楽しそうに返答した。
　ありがたい。
ヤツが<知|ヒ><性|ト>らしくあろうとするほど、俺はそれらに怒りを覚える。
　もう、そこに固執しなくていいのだと、<嗤|わら>い至る。
「……一つ目に訊くことが一番大事なんだけどさ。
　おまえ―――なんで、アルクェイドを殺した」
「何故もあるまい。
自分の命が狙われているんだ。殺し返すのは当然だろう？
　もっとも―――私が欲しかったものは弱りきった姫君ではなかったが。今回の私なら最高の状態にしあげた彼女を解体できた。……だというのに、その機会は失われた」
「一介の吸血鬼と変わらぬ真祖で手に入れても意味はない。
　よって価値がないと判断し、始末をつけた。こんな結果に終わったのは、私にとっても残念だよ」
　口元をゆがめて敵は笑った。
　―――頭が、痛い
。
　早く。一刻も早く、息の根を止める。
　こいつが一秒でも長く『存る』ことが、我慢できない。
「さて。それで、この後はどうする？
　まさか、その体で私とやりあおうというハラでもあるまい。
　無様な抵抗ほど冷めるものはないぞ、殺人鬼」
　……周知の事実を云う。
　くらり、と眩暈がして、床に<跪|ひざまず>いた。
　それでも―――もう起きあがる力さえないというのに、凝視する<も|・><の|・><が|・><あ|・><る|・>。
「よせよせ。いくら私の死を視たところで触れられなければ意味はないし、その戦意は間違えている」
「……間違えている？」
「そうだ。君は私の敵にはなりえない。
　性能の差を言っているのではない。殺害が可能か不可能かの喩えでもない。
　君にはある一点において、私を敵にする真理が欠けている」
　―――
その言葉は、唯一、記録に<値|あたい>するものだった。
　これまでも、これからも、この男の言葉なぞ覚えておく価値はない。しかし今の言葉だけは、この男の真実が含まれていた気がする。
「私は君の能力を高く買っている。
　……ふむ、どうもシキとしての人格は消えつつあるらしい。遠野志貴への恨みを晴らした以上、今の私はシキよりではなくロアよりというコトか」
　ヤツが近づいてくる。
　その足音が響く度に、この<輪郭|からだ>が溶けていく。
　錯覚か。錯覚だろう。実際に溶けてはいない。溶けているのは視界の方だ。
　ヤツへの怒り。憎しみ。己への怒り。憎しみ。
　感情は混ざりあい、沸騰し、閉じていた蓋を上下させる。
　―――ああ。脳の彼方で、<夏|せみ>の悲鳴が、手招いている。
　己という孔から。ごぼり、
と。
定義しては、
いけないモノ
が、
「この力は素晴らしいだろう、志貴。
　喜んでいい、直死の魔眼を所持できる者は私たちぐらいのものだ。その稀少能力を無くしてしまうのは惜しく、なにより我々は同じもの。誰よりも互いを理解できるだろう。
　パートナーとして、これほど心強いモノはいまい」
「……仲間になれ、と言っているのか」
「まさか。仲間にしてやるんだよ、この私がな。君の意思なぞ知らない。そんな不純物はここで消す。
　安心しろ。その血を吸い上げ、魂まで略奪したあと。私が君を、何のためらいもなく死を行使できる存在に仕立て上げよう」
　距離はもうどうでもいい。
　俺より前にいればそれでいい。
　ただ、<生|・><き|・><て|・><さ|・><え|・><い|・><れ|・><ば|・>、それでいい。
「あと一つ。おまえに視えているモノは、生き物だけの話だな」
「当然だろう、生物でなければ命はない。
　命の源である“個所”は、生き物にしかありえまい」
「――――やっぱり。<合点|がてん>がいったよ、吸血鬼」
　ナイフを握る。
　<指先|まったん>から<心臓|ちゅうしん>まで生命として<凍結|ていし>する。
　脳髄は痛みだけで構成されている。
　だが足りない。まるで足りない。
　その先に行く。何の躊躇もない。それを<咎|とが>めた女は、もうこの世には存在しない。
「……腑に落ちんな。最後の言葉にしては不相応だ。
　……まあいい。お喋りは終わりにしよう。どこぞに隠れている教会の女の始末もある。
　―――喜べよ志貴。私の下僕にした後の最初の相手は、頼りにしているあの女だ」
「――――――」
　ああ、最高の挑発だ。お望み通り乗ってやる。
　倫理／常識は残っていない。
　展望／定形は思い出せない。
　我を構成する<肉|もの>は腐れ落ちた。
　個を主張する<私|もの>を取りこぼした。
　俺は、もう、
　人間でいる意味が、分からない。
「!?」
　ヤツの足が止まる。その顔が凍り付く。
　“生きる”という根拠を失った肉体が、胎児のようにこわばっている。
「待て―――なんだ、これは」
　世界には何の変化もない。ヤツには何のマイナスもない。
　ヤツの認識できる範囲において、自身を脅かすモノは何も視えない。
「なぜ―――私の足が、震えている？」
　だからこそ、ヤツの目は恐怖だけを映していた。
「俺とおまえが視ているものは違うよ、吸血鬼」
　―――からだが、
炎になったようだ。
「おまえは命を視ているだけだ。死を理解していない。
　だから俺も殺せず、弱りきった女しか殺せない」
　―――脳髄が、白熱する。
「死が視えているのなら、
正気でなんかいられない。おまえに分かるのは物を生かしている部分だけだ。
　死が視えるのなら―――とても、立ってなんていられない」
　喩えるのなら、それは月世界。
　なにもかもが死に絶えた荒野に似ている。
　……物事の“死”が視えるという事は、すべてがあやふやで脆い世界に投げ込まれる事だ。
　地面は無いに等しく、空は今にも落ちてきそうなほど、弱々しい。
「なにを―――何の事を言っている、貴様？」
　ロアの声が、動揺している。
　……それはそうだろう。
　俺の独唱をあいつは一ミリだって理解できない。
　それはつまり―――ヤツと俺の目はよく似ているだけで、まったくの別物という事だ。
「―――やめろ。その目で、その目で私を見るな」
　ロアの声に恐れが交じる。
　いみじくもヤツ自身が言っていた。
　ヒトは、未知なるものを本能的に恐れる生き物だと。
「……一秒先にも世界すべてが死んでしまいそうな錯覚を、おまえは知らない。
　―――それが、死を視るという事だ。
　この目は、得意げに語れるモノじゃない」
　そう、歩くことさえ恐ろしかったあの頃。
　俺だって―――あの人に出会っていなければ、とうの昔にどうかしていた。
「それがおまえの勘違いだ、吸血鬼。
　命と死は背中合わせでいるだけで、永遠に、顔を合わせることはないものだろ」
「だから―――その目で私を見るなと言っている―――！」
　迫る足音。あの雷速は発揮できない。
　アルクェイドに力を使いすぎた代償だ。
　それなら無論、ことさら再認するまでもなく、
「―――教えてやる。
これが、モノを殺すということだ」
　この一刺しの方が、何倍も簡潔だ。
　瞬間。渡り廊下という個は、怨嗟の声をあげて崩落した。
「―――――！」
　ロアの叫び声も、崩れていく瓦礫の音にかき消される。
　渡り廊下は文字通り殺された。
　意味を亡くした固まりは一瞬で瓦解し、崩れていく。
　ヤツは廊下の崩壊に巻きこまれ、瓦礫に潰されながら地上へと落下していった。
「……………」
　不自然な崩落。
　渡り廊下は俺の前から校舎まで、そこだけが違う素材で作られた異物のように崩れている。
　痛む頭と、凍える体をこらえて、階段に向かう。
　月明かりの下。
　中庭は一面の瓦礫の海と化していた。
　その中心に、ガラガラと動くモノがある。
「……………」
　ほんとうに、生き汚い。
　倒れこむ一歩手前の体を引きずって、瓦礫を乗り越える。
「“ァ―――ア、アァア…………”」
　ロアの下半身は、まるで存在していない。
　その部位だけ『もうない』と運命付けられたように、再生しない。
　だというのに瓦礫から這い出てきた上半身は、肉体の死とは無関係に活動している。
　その生命力には、純粋な敬意を表すべきだろう。
「“―――なんだ、今のは”」
　ソレはビタビタと、自らの血の海でのたうっている。
　復元はするのか。するよな。
　なるほど、切り替えが早い。蘇生も再生も適わないのなら、新しい部位を作ってこれを補えばいい。吸血鬼らしい発想だ。数分も経てば、とりあえず下半身の代わりになる<部|あ><位|し>は作られるのだろう。
　瓦礫を踏み、ソレの前へと歩いていく。
「“―――志、キ”」
　ソレは顔を上げてこちらを凝視する。
　その目には、眼球から溢れ出しそうなほど、憎しみが満ちていた。
「“化け物め―――化け物め、化け物め、化け物め……！”」
　憎々しげな怨嗟の声。
　急速に増長していく下半身。
　あれほど瓦礫を濡らしていた血液が、巻き戻し映像のようにソレの体に吸い込まれていく。
「どっちが」
　感想を口にして、右手から力を抜く。
　ソレの点は心臓のやや右よりにある。
　ナイフでとん、と突き刺す。
　紙を貫くような感覚。あまりにも味気ない／特別なものではない、死の感触。
　あ
　と、ソレは短い声をあげた。
　曲がりなりにも何度も死を体験してきた男だ。
　この感触がなんであるか、人並み以上には悟っている。
「恐ろしくはないだろう。おまえにとっては馴染んだ道だ。違うところがあるとすれば、一つだけ」
　　　　「―――今度は、帰って来られない」
　ナイフを抜いて背を向ける。
　ソレはもう停止している。
　終わりは目蓋を閉じるより簡潔で、簡単だった。
「は…………あ」
　意識が眩む。
　体も限界なら、頭はもっと限界だ。
　……アルクェイドが言っていたっけ。
　死を視すぎてはいけないと。無理をすれば脳の血管が焼き切れるとかなんとか。
「………………」
　―――そんなの、どうでもいい。
　こんなコトで良かったのなら。
　俺が廃人になるぐらいのコトでよかったのなら、もっと早く、ロアを仕留めればよかったんだ。
　それならあいつだって、
　あんなコトには、ならないまま――――
「………！？」
　倒れた。地面に、自分が倒れている。
　足首には痛み。
　振り返れば、そこには――――
　右腕だけで這いずる、怪物の姿があった。
「キッ、キキ、キサ、マ―――――」
　ずるずると、倒れた俺の体にのしかかってくる。
「消絵、消江る、ワタ、、、シが、キエ、留――――」
　血にまみれた右腕を、俺の首にまきつけてくる。
「ナにヲ、ナニヲ、シタ―――キエル、ナゼ、ドウ、ヤッ、テ、ワタ死を、殺シ、シシ死死し死し死、たた、たた、たたたたタたたタたた――――」
　刃のような口をあけて、俺の喉へと噛みつこうとする。
「消エ、ナイ、ワタしとオマエは、繋ガッて、いい、ル。オマ、エニ、移レバ、マ、ダ、存在ノ鎖ハ、切れナイ………！」
　―――牙が。
　喉に突き刺さる。
「あ―――――」
　消えた。
　ロアの体は、一瞬にしてバラバラに断ち切られた。
「ふう、危ない危ない」
　俺の前には、
　剣を手にし、息を弾ませた先輩が立っている。
「とまあ。これで、この人を殺したのはわたしですね」
「…………」
　ちょっと、よく、先輩の意図がわからない。
「ですから、ロアを殺したのはわたしです。
　その功績も責任も全てわたしにあります。貴方になんて、ただの一つもあげません。
　なので、遠野くんは手ぶらで、何もできなかったといじけて帰っちゃってください」
　両手を腰にあてて、とても偉そうに先輩はそう言った。
　……ほんと、ずるい。
　もう笑う事なんてないと思った矢先に、苦笑い、させられるなんて。
「……先輩。それ、詭弁だよ」
「詭弁、でしょうか。でも優しい嘘なら、それもいいと思います。たとえ偽善でも、なんとなく救いがありそうじゃないですか」
「――――――」
　その言葉は、似ている。
　俺がもしもの話は嫌いだと言った時、あいつが返してきた台詞に、似てる。
「……そう、だね。……なんとなく―――どこか救いが、残っているのかも、しれないなら」
　それは、どんなに幸せな事だろう。
「……って、今は体の問題が先でした！
　大丈夫ですか遠野くん、噛まれませんでした!?」
　倒れこんだ俺を先輩は介抱してくれる。
「――――――」
　意識が遠のく。
　もうこれ以上は活動したくない、と脳が休みたがっている。
「……くん……遠野…………ってば……！」
　……段々と遠くなる。
　自責も後悔も、
　脳を刻む頭痛も、両手に残った温もりも。
　熱が冷めるように、失われていく。
「――――――」
　……こんな月を、いつか、見上げ続けた記憶がある。
　俺は目を開けたまま、
　モニターのスイッチを切った時のように、
　何の余韻もなく意識を閉じた。
　時間は焼けた鉄のように、鈍く、熱く、重く過ぎていった。
　血まみれの右手をまともに見られない。
　折れた指は戻り、出血は止まり、傷口はふさがっている。
　人間離れしすぎていて、自分のものとは思えない。
　はあ、はあ、はあ
　ケモノの息遣いめいた呼吸音が部屋に充満している。
　一睡も出来ないまま朝を迎えていた。
　頭がいたい。
　眼鏡をどこかで落としてしまったらしい。
　見つからない。
　大切なモノなのに見つからない。
　大切なモノほど見つからない。
　部屋中に『線』が視えて、吐き気がする。
　はあ、はあ、はあ
　あんまりにも吐き気がするから、片っ端から切りつけた。
　気持ちが少しだけ楽になる。
　モノを切断する瞬間だけ苦しみが停止する。
　反面、モノを切れば切るほど、その後にまっているのは倍化する渇きだった。
　はあ、はあ、はあ
　何に渇いているのか、もう分かりきっている。
　俺はとにかく、あらゆる物に渇いていた。
　目に映る全てのものが腹立たしい。
　見苦しい。
　終わりが定められていながら、限界が見えていながら、際限なく増え続け生き続ける意味が分からない。
　不始末すぎて無様すぎる。見えているモノが全て不気味に見えてしまう。
　かといって目を閉じれば、思い出すのは人を殺した時の感触だけだ。
　硬い、血のかよっていない刃物が、
　柔らかな、脈打つ肉と一体化していく感触。
　知性持つ高等動物にとって障害になるほどの精神損傷。舌を噛み切りたくなるほどのおぞましい感触。もうこれ以上はないのだと絶望するほどの行き止まり。アレを知ってしまえば元の位置になど戻れない。
　とりわけ始末の悪いことに、俺の場合はきっかけの相手が最悪なまでに最高だった。
　アルクェイドを十七つに解体した時の興奮が、脳に焼き付いて離れない。
　あの美しい<肢体|からだ>を。
　人間の器でありながら、ヒトを遥かに凌駕した強靭な命をザックザクに切断した時の快感は終わっていた。
　あの時。殺されたのはあの女の方ではなく、俺の脳髄だったに違いない。
　はあ、はあ、はあ
　健常のものを壊したくて、
　健全なものを殺したい。
　それが禁忌だと理解しながら抑制できない。
　体中が興奮してどうにかしそうだ。
「おや志貴さん、起きていらっしゃいます……？」
「志貴さま、起きていらっしゃるのですか……？」
「――――――」
　とつぜんの他人の声に恐怖する。
　扉の向こうから、女の声が聞こえてきた。
「おはようございます。着替えをお持ちしましたので、鍵を開けていただけますか？」
「志貴さま、着替えをお持ちしました。お目覚めでしたら鍵をお開けください」
「…………け……る……？」
　ドアを、開ける？
　扉を開けて、■■を中に入れる？
　―――冗談じゃない。
　そんな事になったら、俺は何をするか保証できない。
　こうしてひとりきりになって、頭を抱える事でかろうじて自分を抑えつけている。
　だっていうのに、あんな、
　簡単に■れそうなモノに入られたら、それこそ―――
「―――うるさい！　俺にかまうな！」
　ドアに向かって、大声で叫んだ。
「……志貴さん？　もしかして、頭痛が悪化しています？」
「……志貴さま？　体調が優れないのですか？」
「かまうなって言ってるだろ……！
　いいから、ひとりにさせてくれ……！」
　部屋に―――中に入ってきたら、きっと取り返しのつかない事をしてしまう。
「……………」
　沈黙のあと、■■の足音が聞こえた。
　静かに、俺の部屋の前から遠ざかっていく。
　はあ、はあ、はあ
　これで安全だ。まわりに誰もいなければ誰を■■事もない。
　そう思ったら少し落ちついた。
　気晴らし。気晴らしに、本でも読もうか。
「……あれ？」
　サンルームにあった本がない。
　様々な国の言葉で書かれた伝記。誰かの旅路を綴った航海日誌。……満足に読める筈もなかったが、それでも気晴らしにはなる筈なのに。
　いくら探しても見付からない。
　はあ、はあ、はあ
　見つからない。
　必死にどんな装丁だったかを思い出す。
　どうしても思い出せない。
「本……本……」
　考えてみれば。
　あんな本がどうして俺の部屋にあったんだろう。
　題名もない。著名もない。どこで印刷されたものかも判らない。この世にある筈のない、長い長い<人間|じんせい>の物語。
　本棚を探す。テーブルにないのなら本棚に戻したのか。
　見つからない。では棚には空きがある筈だ。一冊かけているのなら当然だ。本棚に空きはない。背表紙の壁はぴったりと<聳|そび>えている。
　だから知らない。あんな本を手にした記憶がない。
　あんな本がどこにあったのかも知らない。
　そもそも―――そんなもの、本当にあったんだろうか。
“……ね？　もし自分がそうなんだって<理|わ><解|か>った時は”
「……うる、さい……」
　……耳障りな女の声を思い出す。
　あの本。その内容。
　いつも眠れなくて読んでいた本。
　でもそれは、眠っている時に、眠れないという夢を、見ていただけじゃ、なかったのか。
“……で。自分から■んで。みっともなく泣き叫びながら、■にたくない、って謝りながら首を……”
　ユメ―――ゆめ。
　でも、俺は夢をみない。
　そもそも遠野志貴にあんな知識はない。
　あんな夢を見る材料がない。
　アレは、俺の夢なんかじゃない。
“……単に、キミ本人が気づいていないだけで……”
「……だまれ。だまって……」
　はあ、はあ、はあ
　それじゃあアレはなんだ。
　俺はいったい何処から、自分ではないヤツの夢を見るようになっていた。
“……本当はとっくの昔に死んでいる、気の狂った殺人鬼なんだから……！”
　違う。違う。違う……！
　今は記憶が混濁しているだけだ。
　アルクェイドが特別なだけだ。あの時は、ただ、自分の欲求を抑えきれなかっただけなんだ。
　俺はおかしくない。俺は狂っていない。
　せっかくシエル先輩が戻ってきてくれたのに、こんなコトで、イカレてなんかやるものか。
“そういうものらしいよ？
　ロアの転生先になった人間はみんな自分を保ったまま、
　ある日あっさり―――”
「―――だまれって言ってるだろう……！」
　はあ、はあ、はあ―――――
　……呼吸が荒い。
　太陽の光が癇に障る。
　喉が。喉が渇いて、どうかしそうだ。
「■■■■？　■■■■■■■■■、■■■？」
「志貴さま……！
　なにをしていらっしゃるんですか、志貴さま!?」
　ドアの向こうから女の声が聞こえる。
　……答える余裕がない。
　コトバ。自分のコトバを、思い出せない。
　頭に浮かぶのは。
　頭に、浮かぶのは。
　こみ上げる衝動のままに。
　生き物を、■したくて、■したくて
　喉を鳴らしている、自分の姿だけ。
「うわあああ――――！！！！！！！」
　頭。頭を壁に打ち付ける。
　何度も何度も、額が割れそうになるまで打ちつける。
　それでも―――■■をズタズタにするイメージが、頭の中から消えてくれない。
　……そういう、コトか。
　俺の意思を残したまま狂わせようとする衝動。
　人格や記憶は残したまま、目的―――欲求だけが少しずつ上書きされていく。
　自分という意識を残したまま、違うものに変化していく恐怖。
　これが。
　これがロアなのか。
　どんどん、とドアを叩く音がする。
　開けるワケにはいかない。
　開ければ、俺はそれで終わってしまう。
「あ―――――」
　あの夢は、俺より前のロアの記憶だ。
　部屋に閉じこもって、そのあげくに両親を殺して、自分の住んでいた街を吸血鬼だらけにしてしまった、見知らぬ誰かの、最後の記憶。
「――――――」
　……手段がない。
　コイツは、俺が自殺すれば解決するという問題でもない。
　こればかりは、もうどうしようもない。
　あの夢のおかげだ。
　前の<転生先|ヤツ>の気持ちを経験として理解する。
　俺が死んだところで死ぬのは俺のイシだけで、残ったロアのイシがこの体を完全に操るだろう。
　そうなれば、オレはもっと酷い<状|コ><況|ト>になる。
「■■■■■。■■■■■■■■■■■、■■■■？」
「志貴さま、開けてください、志貴さま！」
　ドンドン、と扉の向こうから女の声が聞こえる。
　……聞き慣れた声は、どこか知らない異国のコトバのように聞こえた。
　遠すぎる。
　たった一枚。たった一枚の壁を隔てただけなのに。
　今はそれが、もう月と<地|ほ><球|し>の間ぐらい、遠く離れて聞こえていた。
　午前10時になった。
　女は諦めて引き下がった。
　……安心する心の底で、それにしても引き際が良いな、と思う誰かがいた。
　午前10時になった。
　女は諦めて引き下がった。
　代わる代わる違う女がやってきて扉をノックしたが、すべて無視した。
　12時。
　……腹が減った。
　けど、まだ大丈夫だ。
　壁に背中をあずけ、ガタガタと震える体を抱きしめている。
　２時。
　……喉が渇いて、死にそうだ。
　時間の経過が少しおかしい。
　10分が１秒で過ぎる時もあれば、１秒が10分かかっても経過しない時もある。
　興奮剤の連続投与。萎びていく意識とは裏腹に、身体は力と衝動を持て余している。
　４時。
　……またドアがノックされた。
　名前を呼ばれる。
　それが誰の声だったか、誰の名前を口にしているのか、どうしても判別できない。
　５時。
　段々と暗くなっていく。
　６時。
　７時。
　８時。
　―――誰か、きた。
「志貴さん、夕ごはんを持ってきました。
　朝から何も食べていないのでは参ってしまいますよ」
　■■の声だ。
　扉をノックしている。
「もう、こうなったらお食事だけでも食べてもらいますからね」
　ガチャガチャ、という音。
　ドアをノックする音ではなく、鍵を開けているような、そんな音。
「ふふふ、最後の切り札マスターキーの出番ですよー」
「――――あ」
　<関|カギ>が、開く。
　……扉が開く。
　もう遅い。今から追い返しても中に入られる事は変わらない。
　―――それでも。
　食事を食べる、という選択そのものが間違っている。
　なにしろ直接的すぎる。
魅力的すぎて負けそうになる。乾ききった喉が、毟り続けた思考が、休息を求めてしまう。
　かろうじて残っている“遠野志貴”を、粉々に砕くように。
「……はあ……はあ……はあ……」
　息があがっている。
　なんとか。
　コレを、抑えつけないと。
「志貴さん、中に入りますからねー……って、どうなされたんですか、これ」
　■■は笑顔のまま、そこらじゅうズタズタに裂かれた部屋を見て驚いている。
「……………………」
　恐れを知らない可憐な顔立ち。
　俺をまったく警戒していない、無防備すぎる姿。
　男を蕩かす為だけに磨かれたような、生々しくも瑞々しい、極上の白い肌。
「志貴さん、これはあんまりです。
　気が立ってしまう時は誰にだってあると存じていますが、これはちょっとやりすぎだと思いますよ？」
　ためらいも、強ばりも無かった。
　■■は部屋の惨状を目の当たりにしながら、普段通りに、慎重に、言葉を選んでいてくれていた。
　……ああ。
　抑えられない。抑えなければ。
　耐えられない。耐えなければ。
　この信頼を。この博愛を。
　善いものとまだ感じられているのなら、俺は、自分を殺してでも、自分の殻に閉じこもって―――
「志貴さん……？　おかしいですよ、なにがあったらこんなふうになっちゃうんですか」
　なのに。
　■■は笑顔のまま、ベッドの上に丸まった俺に近づいてくる。
　……ああ。
　なるほど、と、俺ではないオレが嗤っている。
　この女は看病に慣れている。
　相手を注意しながらも叱らず、慈しみの笑顔で優しく歩み寄ってくる。今までさぞ人皮を被ったケダモノの相手をしてきたのだろう。
―――――――――――――――――早く。
ダメだ
――――――――――――――早く。
　　　　ちがう
―――――――――――早く。
　　　　　　　　やめろ
――――――――早く。
　　　　　　　　　　　　だまれ
――――――早く。
　　　　　　　　　　　　　　　　オレは
「に―――げ、ろ」
　最後に残った理性を限界まで引き上げて、なんとか、そういった意味合いの単語を口にした。
　つもりだった、のに。
「え？　ごめんなさい、よく聞こえませんでした。
　申し訳ありませんが、もう一度言っていただけます？」
　なのに、逆効果だ。
　■■は安心しきって、ベッドにうずくまった俺の／オレの、体に／躯に、顔を／貌を、寄せて／捧げて、きた。
　ぽん、と白い指がおレの肩に触れた。
　血の通った指。
　わずかな体温。
　パチン、と頭の後ろの方で、火花が散った。
　……扉が開く。
　もう遅い。今から追い返しても中に入られる事は変わらない。
　それなら、夕食だけでも置いていってもらおう。
　渇いてる。
　体中が萎んでいる。
　なにしろ朝から何も口にしていない。
　とにかく、もう。
　全身に巣くった痛みを吐き出さないと、<正常|マトモ>な思考もおぼつかない。
「……はあ……はあ……はあ……」
　息があがっている。
　早く。
　この、芽生えたばかりの<志|ワ><向|タ><性|シ>を外にはき出さないと、中身の<自|お><分|れ>が消されてしまう。
「志貴さん、中に入りますからねー……
って、どうなされたんですか、これ」
　彼女は笑顔のまま、そこらじゅうズタズタに裂かれた部屋を見て驚いている。
「……………………」
　恐れを知らない可憐な顔立ち。
　俺をまったく警戒していない、無防備すぎる姿。
　男を蕩かす為だけに磨かれたような、生々しくも瑞々しい、極上の白い肌。
　早く。
　早く。
　早く。
「志貴さん、これはあんまりです。
　気が立ってしまう時は誰にだってあると存じていますが、これはちょっとやりすぎだと思いますよ？」
　……なるほど、この女は看病に慣れている。
　相手を注意しながらも叱らず、慈しみの笑顔で優しく歩み寄ってくる。今までさぞ人皮を被ったケダモノの相手をしてきたのだろう。
　ぽん、と白い指が肩に触れた。
　血の通った指。
　わずかな体温。
　パチン、と頭の後ろの方で、火花が散った。
　―――歯止めは利かなかった。
　　　　自分の体ではなくなっていた。
　　　　■■■として、人間の血が欲しくてたまらなかった。
『―――、あ』
　彼女に駆け寄ろうとする両脚に力を込める。止めようと力を込める。
　なのに、それは反対の行為にしかならなかった。
『―――、ああ』
　彼女を押さえつけようとする両手に力を込める。止めようと力を込める。
　なのに、それは勢いを増すだけだった。
『―――、あああ』
　彼女を守ろうと力を込める。
　なのに、何一つ<正常|マトモ>には働かなかった。
　それならこれしかないと思った。舌を噛んだ。息が止まれば体も止まる。
止まる。止まる。止まる。
右手はそれで塞がった。彼女を裂こうと振り上げた右手は、舌が喉につまらないよう、口の中につっこまれた。
　けれど左手は、左手だけは、泣きながら力を込めても、鼻から血が出るほど力を込めても、
　左手一本さえ俺は自由に動かせず、
　左手は、獲物に巻き付く蛇のように、
『―――ああ、
ああ、
あああ……！』
　左手は、彼女の白い首を締め上げていた。
　ふと。
「はあ―――は、はは……ははは、は」
　乱れきった自分の呼吸と笑い声で、目が覚めた。
　足元には無くしたはずの眼鏡があった。
　今まで無かったものが見つかった。
　その理屈は分からない。今は考えたくない。
　これでようやくピントが現実に合ってくれる。
　そうして、
「は―――――は」
　目の前には、琥珀さんの■■がある。
　ぴくりとも動かない。
　意識を失っているのか。生命を失っているのか。
　もうそれすらも分からない。
　ただ、目の前には動かしようのない現実があるだけだ。
「はは、は」
　血まみれになっている左手と、左手を止めようと血まみれになっていた右手を、だらりと下げる。
　噛みちぎった筈の舌が、痛みと共に治っていく。
　それが、いまここにある全てだった。
「は―――――」
　狂っている。
　もう、再生不能なぐらい、狂っている。
　俺には確固とした意識があったのに、腕一本、止める事ができなかった。
　思考が萎んでいく。
　吐き気はまったく治まらない。
　罪悪感は乾きに塗りつぶされていく。
　すぐにでも、あの白い喉に。
　彼女の旨そうな肉筋に。
　喉に、歯を、つきたてて―――
「――――はは」
　壊れた。
「あは、あはは」
　もう、本当に壊れた。
　俺は、駄目だ。
　これ以上、正気でいられる自信がない。
「あはは、あはははは」
　外。
　外に出ないと。
　このままだと琥珀さんを殺してしまう。
　屋敷にいれば秋葉や翡翠にも手をかけてしまう。
　だから、またあの衝動が来る前に、消えないと。
「あははははははははは！」
　誰もいない<檻|ところ>。
　誰もいない檻に行かないと、また俺は狂ってしまう―――
　だが。
　その前に、カリッ、と音がした。
　床を爪が掻いた音。
　それが血にまみれた■■さんの指から聞こえたものと気付いて顔をあげる。
　―――ああ、神さまに感謝したい。
　彼女はまだちゃんと生きて―――
「良かった、琥珀さ―――」
　ソレは折れた骨のまま、ガクン、と顔をあげた。
　青白い肌。生気の欠けた<眼|まなこ>。呼吸をしない口。
　そこには。
　生きていないのに、活きようとしている肉塊が、
「■■■■■―――！！！！！！！」
　自分でも聞き取れない叫び声を上げて走る。
　今までまったく気がつかなかった景色の中を走る。
　廊下には隠しようもないほどの血の匂い。血の匂い。
　これは今日できたものじゃない。
　一日、いや二日前にブチまけられた惨状だ。
「■■―――！」
　二階のロビーを過ぎて、西館の執務室に飛びこむ。
　ここなら■■がいると思ったのだ。
　■■なら俺を殺してくれると思ったのだ。
　なのに、
　そこは俺の部屋以上に変容しており、
　豪奢な机の陰には、死後二日は経過した、■■と■■の体が散乱していた。
「――――はは」
　壊れた。
「あは、あはは」
　もう、本当に壊れた。
　俺は、駄目だ。
　これ以上、正気でいられる自信がない。
「あはは、あはははは」
　外。
　外に出ないと。
　このままだと生き返った■■さんと鉢合わせる。
　もうそうなったら自我を保てる筈がない。
「あははははははははは！」
　もたつく足を走らせる。
　俺は取り返しのつかない喪失感に打たれながら、
　もう誰も居ない遠野邸を飛び出した。
　　　　　　　　　　　―――獣のように屋敷の外に出る。
　皮膚感覚の異常発達か、それとも聴覚の鋭敏化か。
　　　　　　　　　　　―――耳鳴りが脳を串刺しにする。
　視界には誰もいないのに。
　乱立する建物から、<夥|おびただ>しいまでの人の気配が読み取れる。
「はあ―――はあ―――――」
　こんなに人が／溢れかえる藪蚊のように／密集したところにいると、また堪えきれなくなる。
　誰もいないところ。
　何の間違いも起こらないところ。
　まだ<意識|ジブン>があるうちに、誰にも迷惑のかからない場所に逃げこまないと―――
「……はあ……はあ………」
　夜の公園に辿り着く。
　オフィス街の中心に作られた憩いの場。
　日中は人の姿が見られるが、夜になれば<人気|ひとけ>の絶える都市の死角。
　墓地のように静まりかえった公園は、しかし、人の気配で溢れていた。
　誰かの息遣いか、耳障りな話し声が、真綿のように全身を締め上げる。
　信じられない。
　駅前から200メートル以上離れているのに、繁華街の喧騒が手に取るように判る。
　遠くに見える住宅地の窓明かりはあんなにも小さいのに、目が眩むほど明るい。
「うるさい……うるさい、うるさい、うるさい……！」
　額を片手で掴み、頭痛を<堪|こら>える。
　……これほど密集した街の中で、人間の気配がまったくない場所なんてある訳がなかった。
　本当の意味で一人になる事なんて、文明の発達した街じゃもう不可能なコトだった。
「ぁ――――あ」
　そうだ。観念して周りを見ろ。
　ちょっと歩くだけで獲物なんていくらでも手に入るじゃないか。なにしろこれだけの数だ。ひとりやふたり間引いたところで全体に影響はない。むしろ余分なものを削いでほしいと誰もが無意識に願っている。これは掃除だ。ゴミ拾いと何が違う。
「だま―――れ」
　頭がいたい。
　<俺|ひと>の頭の中で臆面もなく騒がないでほしい。ただでさえ頭が痛くて倒れそうなのに、こんなに五月蠅いと自分から目を閉じてしまいかねない。
「っ――――――」
　それはまずい。目を閉じれば眠ってしまう。なにしろ一日まるまる眠っていない。心も体も眠りたがっている。眠ってしまえば今度こそ目覚めないと分かっている。
　目覚めたとしても、それは自分ではない何者かだ。
　それは怖い。すごく怖い。なら。そうなる前に、
俺は自分の喉に、
ナイフを突き立ててしまえば―――
「は、づ……！」
　無様にも切っ先しか入らなかった。
　……できない。
　ただ恐いという理由だけでは、俺は自分の命を失えない。
　いつかどこかで、生き延びた以上、この命は限界まで使い切るのだと誓ったような―――
「……助け……誰かに、見張って、もらわないと……」
　なら、せめて管理されればいい。
　眠らないよう、俺が正気を失わないよう、誰かに見張って貰うしかない。
「そうだ……先……輩」
　こんな自分を見せたくなかったが、もうそんな余裕はない。
　それに、そうだ―――何かあったら相談していいと、先輩は言ってくれたじゃないか。
　最後の希望に縋ってポケットから携帯端末を取り出す。
　……俺の体は誰にも治せない。
　いくらシエル先輩だって、俺の中身までは治せない。先輩に連絡したところで、あの人を困らせるだけだと分かっている。
　でも会いたい。
　シエル先輩の声を聞きたい。
　シエル先輩がいてくれるなら、俺はまだ遠野志貴で居続けられる―――
　登録済みの番号で先輩に電話をする。
　呼び出し音が三回鳴ったあと、スピーカー越しに、シエル先輩の声が聞こえてきた。
「はーい、もしもし！　シエルです。
　遠野くんから電話なんて珍しいですね。あ、いえ、珍しいというよりこれが初めてでした！」
「……………」
　不思議だ。
　この人の声が、今はすごく温かい。
「もしもし？　Qu'est-ce qu'il y a?　もしかして、ただの操作ミスでしょうか……
　おーい、聞こえてますかー？」
　とぼけた声。
　一度だけしか行っていないけど、シエル先輩があのアパートでくつろいでいる姿が想像できた。
「………………」
　言葉が出ない。
　何を言っていいのか、考えつかない。
　……俺は本当に馬鹿だ。電話なんかするんじゃなかった。
　このまま何も言わず電話を切って―――
「………先、輩」
　なのに、その声があまりにも温かだったから。
　こらえきれず、喉から、そんな言葉を返してしまった。
「良かった、繋がっていますね。
　どうしたんです、こんな夜更けに」
「………………」
　やめよう、と思った。
　当たり障りのない嘘を言って、また明日学校で、と告げて電話を切ろうと努力した。
　けど、できなかった。
「先輩、俺、ダメ、みたいだ」
　かすれた声で呟く。
「―――遠野くん？」
　シエル先輩の声が凍りついたように、聞こえた。
「遠野くん、それどういう意味ですか？
　ダメって、なにがダメなんです？」
「―――だから、ダメなんだ。自分なりになんとかしてみようと努力はした。けど無駄だった。俺はノエル先生の言っていた通り、ただの殺人鬼、みたいだ」
　それもとびきり質が悪い。
　今でも気を抜けば屋敷に戻って■■たちの喉をナイフで切り裂きたいと思ってしまう。
　他の誰でもなく、身近な人々の血が見たいと思っている時点で、俺の本性は根底からして腐っている。
「……どうすればいいんだろう。俺、自殺なんてできない。自分で自分を殺すなんて、そんな手段、教わった事がない」
「……その必要はありません。今どこにいるんですか」
「……南口の公園です。人気がないところに来たつもりだけど、ここもダメでした。まわりに家が多すぎて、頭が痛い」
「わかりました。人気を避けるのは私も賛成です。
　ヴローヴと戦ったデパート跡に向かってください。あそこなら誰も近寄らないし、なにより静かでしょう？　こちらもすぐに向かいます」
「―――そうか―――あの場所なら、誰もいない」
「遠野くんならバリケードの隙間を切って中に入れるでしょう。先に忍び込んで、地下で待っていてください」
　ぶつ、と電話が切れた。
「―――――」
　携帯を仕舞って、なんとか立ち上がる。
　先輩―――シエル先輩に会える。
　会ってどうなるワケでもないけど、それでも会いたい。
「――――は、あ―――」
　また体中が熱くなり始めた。
　デパート跡に行くまで誰にも出会わないよう願いながら、おぼつかない足取りで公園を後にした。
　人目のないバリケード前。
　眼鏡を外して、バリケードを繋げている鎖を断ち切る。
「あ」
　……信じられない。自分でも意識しないまま、俺はナイフをポケットに収めていたらしい。
　たぶん、きっと。
　いつでも人を殺せるように。
「――――」
　その事実を無理矢理呑み込んで、バリケードの隙間に体を滑り込ませる。
　……今は何も考えたくない。
　先輩に言われた通りに行動すれば、それでうまくいく筈だ。
　砕けたコンクリートの足場を下りていく。
　瓦礫で組み上がった段差は巨人の階段のようだ。
　下りるだけなら子供でも可能だが、いざ地上に戻ろうとなると登るのは不可能な一方通行。
　２メートル近い段差を一つよじ登るだけでも難しいのに、それが連続して続き、力加減によっては段差そのものが崩れてしまう危険性がある。
　改めて人間の不便さ、動物としての運動能力の低さを認識する。
　一つ、また一つと段差を飛び降りる度に雑音が消えていく。
　距離的には公園とそう変わらないのに、駅からの喧騒はこの地域には届かないようだ。
　ズボンを砂まみれにしてスロープを下りきる。
　見渡しても見えるものは夜空と、崩れた建物の跡だけ。
　……以前は気がつかなかったが、何もない荒れ地という訳でもない。地下礼拝堂にあった柱が壊れずに残っていたり、いくつか大きな瓦礫の山もある。
　張り詰めた足をなんとか前進させて、陥没地帯の中心まで辿り着く。
「は…………あ」
　……もう一歩も歩けない。
　広場に着いた途端、膝から地面に崩れ落ちた。
　倒れようとする体を両手で支えてよつんばいになる。
　……土下座の姿勢だが、今の俺には相応しい。
「………………」
　体が熱い。
　けど、自分が自分でなくなるような感覚は薄れている。
　きっと、
　琥珀さんを襲った事で、
　一時的に衝動が収まったんだ。
「――――ぐ」
　胃液が逆流する。
　口の中が苦い。
　今日は何も口にしていないから、吐き出すものは酸味のきいた胃液だけだった。
「琥珀―――さん」
　謝って許される事じゃない。
　謝る事すら許されない。
　死んでは……殺してはいない筈だ。けどそれが何の慰めになる。そんな最低限の事が、一体なんの足しになる。
　……もう何日も前の話。
　アルクェイドを殺して自暴自棄になっていた俺を、シエル先輩は助けてくれた。
　あの人は罪を犯す人と犯さない人がいるのではなく、償える人と償えない人がいるだけだ、と教えてくれた。
　……でも、どうすれば。
　一方的に犯した罪、一方的に傷つけた心に、償えるというのだろう――――？
「……………？」
　すう、とあたりが暗くなった。
　月明かりに伸ばされた影が俺の体に重なる。
　かつ、かつ、と。
　硬い靴底で石を叩く、乾いた足音が聞こえてくる。
　……誰かが、俺に向かってやってくる。
「懺悔の真似事ですか、遠野くん」
「―――先輩」
　……本当に、来てくれた。
　疲れきった体に熱が戻る。
　ただ先輩の顔を見たくて、夜空を仰ぐように顔をあげる。
「――――え？」
　―――それは。
　―――俺の知っている彼女ではない、
　　　　違う<貌|かお>をした誰かだった。
　学生服でも修道服でもない出で立ち。
　汚物を見るように冷めきった視線。
　両腕は剥き出しで、手には重火器を扱う無骨な手袋。
　……いや、何より違うのはその手に握った鉄塊だ。
　ヴローヴとの戦い―――この人が<本|・><気|・>で何かを殺す時にしか使わなかった、１メートル以上の刃を持つ巨大な銃。
「―――――――」
　……知っている。
　俺が知らずとも<こ|・><の|・><頭|・>が、あの凶器がどんなモノであるかを知っている。
　聖堂教会が人為的に作りあげた奇跡の具現。
　今を<遡|さかのぼ>ること千年前、いまだ地上に残っていた稀少な幻想種をおびき寄せ、呼び水となった少女ごと<竈|かまど>にくべ神鉄を錬成し、教典として組み上げた概念武装。
　そこには人間が背負うであろう死の要因があまねく記され、神鉄はその固有震動でこれを戒める洗礼を詠唱し続ける。
　<詠|うた>う教典は数あれど、これほど対“延命”に特化した教典はないだろう。
　その<名称|な>を第七聖典。
　聖堂教会が主の威光を示す為に作りあげ、
　長く使い手不在だった門外不出の聖遺物―――
「先―――輩？」
「やっぱり貴方がロアだったんですね、遠野くん」
　冷たい目のまま。
　先輩は、同じように冷たい声でそう言った。
「――――」
　ぞくりと背筋が震える。
　<理|ワ><由|ケ>もなく。
　いや、本能と理性が総動員で警告を発し、思わず先輩から跳び退いた。
「――――――」
　先輩は固く口を閉ざしたまま、また一歩、不吉な凶器を持って近寄ってくる。
　―――その動作に吐き気がする。
　あの武器は怖い。見ているだけで自分の優位性を見失って泣きそうになる。この体は生物として上等なものに変わろうとしているのに、それがあの武器の前では真逆に働く。
　……だが真に恐ろしいのは、先輩の、なにげなく踏み出した一歩の方だ。
　だって隙がない。何をしても勝ち目がない。五感すべてが鋭敏化している今の俺ですら、つけいる隙が見つけられない。
　下手に逃げれば。
　このまま背中を向けて走り出せば、自分の心臓がアレで貫かれ、転生もかなわぬまま消滅するのが理解できる。
「―――なんで。俺は、ただ―――」
　ただ、先輩に会いたかっただけなのに。
「わかっています。ロアの意識が浮上しているんでしょう？　なら、もう手遅れです」
　ざっ、と。
　もう一歩、無造作に近づいてくる。
　その姿はまるで―――
「―――おかしいよ先輩。
　それじゃあまるで―――俺を、殺そうと、しているみたいじゃないか」
「―――――」
　返答はない。
　女はただ、俺のカラダのどこを狙えば確実に仕留められるのかを測っている。
「―――先、輩」
　本気だ。
　この人は、本気で、俺を殺すつもりだ。
　―――ギッ。
　殺される運命を感じとって、神経が軋みをあげる。
　びりびりと悲鳴をあげる首の<脊髄|うしろ>。自律神経がゴムのように引き伸ばされる。
　けど―――そんな死の恐れより、俺は。
　この人がどうしてそんなコトを言うのか、本当に、信じられなかった。
「――――なん、で？」
　わからない。
「先輩は、俺のために残ってくれるって、言ったのに」
「――――――」
　ぴたり、と代行者の足が止まる。
　彼女は俺を凝視したまま、クスリと、笑った。
「貴方の人の良さは国宝級ですね。
　人を信じるのは結構ですが、もうすこし冷静に物事を考えられたのなら、逃げおおせる事もできたのに」
「だいたい、私がなぜ生徒として学校に紛れこんでいたのか、その理由を一度も考えなかったんですか貴方は。
　私が好きで学生の真似事をしていたと、本気で思っていたんですか？」
「私の目的はロアを消滅させる事です。
　貴方の学校に潜入したのはロアの転生体がいると狙いをつけたから。その確証を得る為に転生体の様子を見ていただけ」
「――――――」
　待って。待って、ほしい。
　それは、いくら何でもやめてほしい。
　俺がロアで、最低の人間だったと嫌われるのはいい。だって事実だ。それは本当に寒気がするけど、それでもいい。
　先輩は人間の為に吸血鬼を殺す。
　今までそんな場面を何度も見てきた。だからいい。
　俺が■■■になるのなら、先輩が俺を殺そうとするのは筋が通る。
　でも―――
　でも、いま言いかけた言葉だけは、やめてほしい。
　その事実をここで語られたら、俺はきっと耐えられない。
「もう分かっているでしょう？
　私が誰を標的にし、誰を憎み、誰を追い詰めていたのかを。
　ロアを殺すには単純に転生体を殺してはいけない。まず完全に覚醒してもらう必要がある。半分しか覚醒していない時に殺しては、半分しか殺せませんから」
「それもこれで決着です。
　まったく、ノエルのせいで台無しになるところでした。
　ここまで周到に追い込んだのですから、完全に“起きて”もらうまでは泳がせてあげないと」
「もっとも―――あの時、殺したくて殺したくて仕方がなかったのは私も同じですけどね」
「―――――」
　声が出ない。
　渇ききった喉がねじ切れそうだ。
　―――殺したくて仕方がなかった、と彼女は言った。
　俺がおかしくなる前、まだロアが他にいると安心させてくれた時から、ずっと。
「―――嘘だ。先輩は、俺をずっと守ってくれた」
「そう見えましたか？　単に観察していただけですよ。
　……まあ、確かに間違いはありました。
　人格的に貴方はロアとは思えない、転生体は遠野秋葉の方ではないのか。ノエルもそう意見してきました」
「ですがそれはあり得ない。ロアの転生先は遠野家の長男なんですから。
　しかし、確信はあっても確証はなかった私は、貴方の調査を続けなくてはならなくなった」
　シエル先輩は淡々と語る。
　俺は―――何も、言えない。
「調べてみれば、貴方は七年前に大怪我をして親戚の家に預けられている。遠野家に引き取られた養子が消えたのもこの時期です。
　この記録に辿り着いた時、私は安堵しました。
　遠野志貴はロアではない―――いいえ、違いますね。
　正確に言えば、遠野志貴が今ロアでなくても合点がいく、と」
　先輩の視線がかすかに緩む。
　それは唯一といっていい、この女が匂わせた隙だった。
　―――だが。
　オレは無様にも、今の話があまりにも不可解で、動く機会を逃してしまった。
「ど……どういうコト、ですか。
　先輩は、俺がロアじゃないって、思ってくれたのに……？」
「思いません。下らない憶測は止めなさい。
　貴方がロアである結論は変わらないんですから」
「いいですか。七年前の遠野家で何があったのか知りませんが、貴方は遠野家の長男に殺された。
　いえ、命を奪われたんでしょうね。その結果、貴方はロアの転生先である人間と繋がってしまった」
「戸籍を消され、存在を抹消された養子は貴方の方だった。
　貴方は遠野家という怪物たちの家に引き取られ、その長男に殺された、都合のいい<操り人形|マリオネット>にすぎない。
　吸血鬼に消費されて捨てられた、どこの誰とも知らない子供。それが貴方の正体です」
「――――――」
　感情のない声で、淡々と先輩は語る。
　……今の話が真実であるかなんてどうでもいい。そんなことはもう終わった事だ。今の俺には関係がない。
　……頭が痺れて何も考えられないのは。
　いま目の前にいる人が、俺の知らない先輩だということ。
　つまりこれが本当のシエル先輩で、今までの優しかったこの人は、全部――――
「事情は計りかねますが、その後、遠野家長男は表舞台にいられなくなり、地下に隠れ棲む事になった。
　その代役として、貴方は長男として生かされる事になった。
　ロアの転生体に命を奪われたものの、一命を取り留めた人間として」
「これまで<長|カ><男|レ>を通じてロアの記憶が流れ込んでくる事もあったでしょう。
　もともと魂という、カタチに出来ないモノを加工した吸血鬼です。ロアにとってみれば、生命力を共有した事のある貴方たちは都合のいい二重の依り代だった」
「だから―――長男の肉体が滅んでも、ロアは次の転生先に行く必要がない。この時代には、まだ貴方という避難先があったんですから」
「――――――、だ」
　冷たい。
　まるで仇を睨むように、彼女は俺を憎んでいる。
「でも、それもこれで終わりです。あの夜は突然の事で準備が出来ませんでしたが、今夜は違います。
　ロアは貴方に逃げこみ、今度こそ完全に覚醒した。
　紆余曲折ありましたが当初の計画通り、やっと貴方を殺せます」
　女の視線が俺の胸に落ちる。
　そこを貫く、と冷酷な目が告げている。
　俺は、
「――――そんなの、嘘だ」
　狂いそうな心臓を押さえて、女を見上げる。
「どうぞ、勝手に否定して、そこで惚けていてください。
　その方が私の仕事も楽になります。もっとも―――」
　かちゃり、とあの凶器が音をたてる。
「貴方がその気になったとしても、楽に始末できる事に変わりはありませんけどね、ロア」
　彼女の言葉に嘘はない。
　彼女の目は“俺”を見ていない。
　彼女の気持ちには、初めから“俺”なんて存在しなかった。
「……なんだよ、それ。
　それじゃあ先輩ははじめから、ロアは俺だって当たりをつけてたのか。……先輩が。先輩が、俺を助けてくれたのは、学校で出会うのが楽しいと言ってたのは、全部…………！」
　―――言えない。
　その先は、口にできない。
　そうしてしまえば、その瞬間に全ての出来事が嘘になってしまいそうで。
「みっともない。なに言葉を濁しているんですか。
　ええ、信じられないならわたしから言ってあげましょうか？
　すべて作り事ですよ。私が貴方を助け、学校に残ったのは、ロアをいぶり出す為です」
“わたしが遠野くんを置いて帰るわけないじゃないですか”
　先輩は笑顔でそう言った。
　アレは、俺の為じゃなくて。
　この人はまだ生きているロアを探す為に残って、その追跡者に、俺は自分から最終通告を入れた訳だ。
「――――は」
　じゃあ、あれも。
「はは―――」
　あの時のことも。
「はは――――は」
　あの夜、俺を救ってくれたのも。
「あ………は、は」
　あの、痛ましかった悲痛な目も。
「はは――――は」
　……そうだ志貴、なんてコトはないじゃないか。
　こんな記憶、きっと、どうというコトはない。
　ただ、愛してるって。
　愛されてるって、思っていただけの話。
「はは―――ははははは」
　全部、全部ウソで塗りかためられた夢物語だった。
　ならいい。もう笑う必要もない。
　この女がそういうモノであるなら、俺も、自分が生き延びる手段に徹するだけだ。
「ああ―――納得いった。
　……けどさ、先輩。どうして先輩にはロアが生きているって判るんだ。どうして、遠野家の長男がロアの転生先だと確信したんだ？」
「わかりますよ。だって自分の事なんですから」
　しれっと、先輩は理解不能な事を言う。
「……自分の、こと……？」
「ええ。遠野という血筋を探し当てて、それを次の転生先に選んだのは私です。
　実際にロアの意識が浮上しないと“現れた”と判りませんから、あまり役に立つ記憶ではありませんでしたけど」
「先輩、何を―――言ってるんですか、いったい」
「何って、ちょっとした昔話です。
　今から13年前、貴方と同じように何も知らなかった子供がいました。
　彼女がその衝動に汚染されたのは12歳のころ」
「……それまで何も。その子は貴方みたいに特別な力なんてありませんでしたから、本当に何も知らないまま、普通に暮らしていたんです」
「お父さんの手伝いをして、学校に行って。
　早起きするのが苦手で、お父さんの手伝いをするのはいつも夕方からのお店番でしたけど、それでも将来はお父さんのお店を受け継ごうと思ってたんですね」
「――――――」
　いま、なにか。
　見た事はないのに見覚えのある風景が頭に浮かんだ。
　彼女の話は、俺が見た夢にとても似ていた。
「でも、その子の夢は叶わなかった。当たり前のようにあった幸せを、自分の手で壊してしまったんです。
　その子は、ロアの転生体でしたから」
「少女の体はすごく才能があるって、ロアは喜んでましたっけ。
　その子も今の貴方みたいにそれなりに努力はしたんですけど、無駄な努力でした。結局お父さんとお母さんの血を吸って、街の人たちを笑いながら殺していって。
　その子、その時に気が触れてしまったのかもしれませんね」
「ほら、分かるでしょう遠野くん？
　アレって止めようがないんです。やめよう、とかいけない、とか、そういう考えさえ浮かばなくなる。
　おかしいですよね。―――ちゃんと、自分の意識はあるっていうのに」
　それは。
　その話は、まさか。
「でも悪夢はわりあい早く終わりました。
　白い吸血鬼がやってきて、ロアの心臓を貫いたから」
　―――ああ、知っている。
　そうして少女は死んでしまって、ロアは遠野シキっていうヤツに転生した。
　でも、それは。
「けど、その子、死にきれなかったんです」
　ぽつりと。
　蔑むように、彼女は言った。
「少女の死体は教会に運ばれて、吸血種から人間に戻った死体のサンプルとして保存されました。
　……けど、さっきも言った通り、その子の躯はすごく特殊な躯で、人並み以上の蘇生能力があったんです。
「その子は六年たったある日、よせばいいのに死から目覚めてしまった。おかしいですよね、ロアという魂に見捨てられた脱け殻のくせに生き返っちゃうとか」
「そのあとはタイヘンでした。
　教会の人たちは異端者であるその子を何度も何度も殺すんですけど、どうやっても死なないんです。
　その子は半年間毎日、殺されるだけの生活を送ったんですよ」
「………………な」
　死ねない、体。
　どうあっても元通りになる肉体。
　それは誰のことだろう。
　……痛そうだった。
　どんな傷を受けても治るというけど、先輩は、傷を負うたびに苦痛で顔をゆがませていた。
　それを、半年？
　半年もの間、一日も休む事なく、殺されて生き返るだけの生活を送ったって……？
「それでですね、教会の人たちもいくらなんでもコレはおかしいって気がついてくれました。
　対処できない問題、解決できない問題はみんな埋葬機関っていうところに回されるんです。
　そこで、その子は自分がどうなってしまったのか教えられました」
「……まあ、ようするにその子は矛盾しているんです。
　その子はロアとして生まれた人間です。たとえ12歳までの人格が少女のものであっても、魂の名前はロアなんです。
　その子はその子でありながら、ロアでもある。
　だから、ロアが生きているのにロアであるその子が死んでいては矛盾している」
「この世界はわずかな綻びがあれば、世界が世界自身のためにその綻びを修復します。
　ですから――その子は、ロアという転生する魂が消えないかぎり、永遠にあり続けてしまう。他の誰でもない、この<秩序|せかい>が勝手に『治して』しまうんです」
「司祭様は『輪から外れている』と言いました。
　局長は『認証エラーだ。ロアのアドレスを消さないかぎり、おまえは一生、人間社会にログインする事も、かといってログアウトも許可されない』とも言いましたっけ」
「その子はロアが生きているかぎり永遠に止まったまま。
　歳をとることもできませんから寿命では死ねませんし、消し炭にしても時間が巻き戻って元に戻ってしまう」
「そんな怪物、本来ならずっと幽閉されたままでしょうけど、その子はロアだったころの魔術の知識とか受け継いでいたんです。埋葬機関は利用価値があるといって、その子を代行者に推薦してくれました」
「そうして脱け殻はかつての名前を捨てて、吸血鬼を退治する為の生き方を選んだんです。
　―――わたしはロアの主であるアルクェイドよりも、ロアという魂が何処に居るかを知覚する事ができます。
　その理由は、もう言うまでもないでしょう？」
「―――――――」
　そう、言うまでもない。
　俺が認めたくないだけで。
「前に言いましたよね、遠野くん。
　私が何のためにロアを殺すのか。
　何がほしくて、吸血鬼を殺すのか」
“―――わたしは、人間として死にたいから―――”
　あの時、それがどんな意味なのか分からなかった。
　けど今なら。
　今なら、少しは―――理解ができるのか。
「――――できない」
　ああ、悔しいぐらい、できっこない。
　俺には死を望む苦しみが分からない。
　生きている以上、生を苦しく思う事はあるだろうけど、心の底から死を望む事はない。
　けど、この人にとってはそれだけが望みであり、救いになっている。
　俺はまだ知らない。
　自分の手で大切な人間を殺してしまう痛みを知らない。
　そんなもの、一生涯知りたくはない。
　……でもこの人はその上にいる。
　だから―――もう死んで、楽になりたいと思うのか。
「違う……そんなのは、違う」
「違わないですよ。
　わたしは、人並に死にたいだけなんですから」
　先輩の声はどこまでも冷たい。
「………………だ」
　……俺は、<俯|うつむ>くしかない。
　彼女の望みも。
　彼女が得てしまった苦しみも、知ってしまったから。
「…………いや、だ」
　なにもかも、自分の境遇もシエル先輩の望みもイヤだ。
　悪夢だとしても救いがなさすぎる。
　だが現実は非情であり、無視は許されない。
　時計の針は決して戻らない。
　わずかな音さえ洩らさず、
　シエルという代行者が、俺を殺す為に踏み込んできた。
　もうこれ以上は語る言葉もなければ語る必要もないと。
　女の両腕が、あの“凶器”の引き金に当てられる。
　第七聖典は多くの死因をカタチにしたものだが、その本質は『魂砕き』にある。
　聖堂教会の教義には輪廻転生の概念がない。
　人は死後、生前の行いによって地獄に落ちるか天上に召されるかのみ。再び地上に生まれるなどあってはならない。
　アレはその教義を基に鋳造された転生批判の聖典だ。
　杭打ち機による<断罪死|パニッシュメント>。
　アレに撃たれれば、魂そのものが霧散する。
　なるほど、要は順番だ。
　<15|キャーンズ>があの杭打ち機で自分を打ったところで、ロアがいるかぎり“戻って”しまう。
　何を使うにしても、どんな自決を選ぼうとも、その前に、あの女はロアを消滅させなければ死ねないのだ。
「――――――」
　銃口が跳ねあがる。
　その切っ先がこちらに走る。
　なぜか、ゆったりと。
　彼女なら―――あの代行者なら、刺されたと気付く間もない速度で突き刺せる筈なのに。
「――――」
　考える余裕はない。
　俺は――――
　屈み込んだ姿勢から、全力で、前に向かって走り出した。
　後ろを向けば―――
　背中を見せれば無防備な背後から、心臓を撃たれる事を感じ取っていたからだ。
「ひゃ――――！」
　ズン、と顔の真上を銃身が通過していく。
　低い姿勢と、近すぎる距離が幸いした。
　俺は顔面に突き出された銃口を紙一重でかいくぐり、地面を踏む足裏の重心を横にズラした。
　このまま突進すれば正面からぶつかるだけだ。タックルのカタチで押し倒す事も考えたが却下する。
　あれだけの重機を片手で持つ相手だ。組み合っての力勝負は選択肢に含まれない。
　俺は体をわずかに横に逸らして、彼女の真横を―――
「っ――――！」
　真横をすり抜けようとした矢先、先輩の動きは一変した。
　体が消えたと錯覚する程の速度。
　彼女はあのバカでかい凶器の重さを真っ向からねじ伏せ、軸足の力だけで銃を横に薙いだ。
　ゴオン、という風切り音が脳に響く。
　直後。俺は、彼女から何メートルも離れた瓦礫の小山に、背中から衝突していた。
「―――――――」
　女は不快げに舌打ちをして俺を睨む。
「痛っ……！」
　左腕が痛む。
「なん……えぇえぇぇ……！？」
　理解が追いつかない。
　左肘から先が山形にひん曲がっている。
　その上、巨大な<鑢|やすり>で削られたように、肩口まで肉がごっそりと削ぎ落とされている―――
「首を<庇|かば>って腕一つですか。
　何もしなければ今ので楽にしてあげたのに」
「首を庇って――――？」
　……実感できない。
　俺が判断するより早く、体の方が反射的に横殴りの銃身を受け止めたのか。
　その結果がこの有様。
　前腕部は粉砕され、腕そのものが半分に削られた。
　……自分の体が無残に破壊される光景は恐ろしい。
　だがそれより恐ろしいのは、これだけの傷を負って気を失わない、今の自分の<状態|からだ>だった。
「ナイフ、抜かないんですか」
　女はつまらなそうに<獲|お><物|れ>を見る。
　……見下してる。
　先輩は、俺をいつでも殺す事ができると、見下している。
「ぐっ……！」
　痛み。今になって腕の損傷具合が正しく信号化された。
　折れた腕の血が、そのまま毒になって脳髄に送り込まれたような痛み。
　それだけで意識に白いブランクができてしまう。
「―――――」
　先輩は、冷めた目で俺を眺めている。
「こ―――の」
　人の腕を半分に<摺|す>りおろしてそれか。
　これがどのくらい痛いか分かっているのか。
　馬鹿にして。
　馬鹿にして。
　馬鹿にして―――――！
「先輩が、その気なら」
　ポケットの中にあるナイフを握る。
「こっちだって、むざむざ」
　かつん、という硬い感触。
「殺されてなんか、やるもんか」
　バチン、という音をたてて。
　ナイフの刃を突き出した。
「―――馬鹿ですか、貴方は」
　瞬間。
　先輩の体が<爆|は>ぜた。
　―――いや、違う。
　ソレは視界から消失するほど低く、体を地面に<擦|す>る寸前まで傾けた姿勢で、俺の目の前に現れた。
　それこそ、地を這うトカゲのように。
　瞬きの間に６メートルの距離を完走する。
　もう目の前にいると判っているのに、俺はまだ彼女の体を視認できない。
　反射的に頭部を後ろに逃がす。逃がしながら足元に視線を下げる。
　その、一息にも満たない動作が終わる前に、
　真下から突き上がる銃口は、惚れ惚れするぐらいの正確さで、俺の喉を串刺しにした。
「は、あ……………！」
　息、息がもれる。
　痛みは、痛みはあるか？　ある、まだ痛いと感じられる。
　意識、意識は？　よし、まだなんとかそれなりに。
「あ、ああああああ…………！」
　体、体は―――どうか、してるか。
　噴出するドス黒い血。
　それは俺の左肩に開いた風穴から噴き出している。
　たった今。
　先輩の銃口が、俺の喉を<逸|そ>れて左肩を突き刺した結果だった。
「あ、ああ、あァああああああ―――！！」
　イタイ。
　イタイとかそういう問題じゃないぐらい、イタイ。
「うあ、あ、あうぅぅぅぅぅぅう…………！」
　でも、生きている。
　なんとか生きてる。
　体。体は、また先輩から離れている。
　肩からは<燻|いぶ>すような火薬の匂い。
「あ、ああ、あ」
　あの銃口が突き刺さった瞬間、引き金を引かれたのか。
　それで俺は吹っ飛んで、また先輩と距離が離れている。
「……二度続く、という事は偶然ではありませんね。
　その出血でもショック死しないという事は、精神だけでなく肉体まで変態済みなのでしょう」
　ジャコン、という音。
　凶器の切っ先が地面に落ちる。
　俺を撃った杭はパラパラと本のページになって散っていった。
「紙……紙で出来てる、銃弾、とか」
　デタラメにも程がある。
　でも、今はそのデタラメが恐ろしい。見ているだけで頭を地面につけて泣いて謝りたくなるぐらい、恐ろしい。
「あ、く………っ！」
　肩が燃えている。
　このまま全身が焼かれてしまいそうな灼熱痛。
　白骨すら残さない焼却炉のようだ。
　頭の中の■■が語る。
　アレはこの体に触れるだけで致死性の毒を放つ拷問具だと。
　だから死ぬ。
　不死身であっても死ぬ。
　間違いなく、何があっても殺される。
　恐怖と痛み、混乱と緊張がせわしなく点滅する。
　死ぬのが怖いのか。殺されるのが怖いのか。死ぬような激痛を受けるのが怖いのか。泣いて許しを乞いたくなるほどの凶器で殺されるのが怖いのか。
　わからない。今はあの武器から、あの冷酷な代行者から目が離せなくてわからない。
　ガシャン、と軽快なスライド音が聞こえた。
　女は次弾を装填し、凶器を構え直す。
　……２回。
　２回もアレをなんとか出来たのは、奇跡以外の何物でもない。
　次は間違いなく――――
　あの銃口が顔の中心を撃ち抜き、鉄の釘が鼻っ柱から後頭部に抜ける絵を想像した。
　それは恐いというよりおぞましい。
　死は。それがどんなカタチであれ、無様で、汚くて、おぞましいもの。
　俺は自分の命が大切だから―――そんな目には遭いたくない。
　だから恐いのか。
　わからない。わからない事を心底から軽蔑する。
　俺はあれほど死を視ておきながら、死の垂れ流す多くの毒性を考えた事がなかった。
　結果だけを見て、その過程にある死を考慮しなかった。
　死ぬ事より。
　不意打ちで解体される未来ばかり考えて、死よりおぞましい生についての考察を、ものの見事に忘れていた―――
「っ、ぐっ……！」
　肩口の痛みで意識が引き戻される。
　今はそんなコトどうでもいい。
「はっ、はっ、はっ……！」
　逃げないと。
　死にたくないなら、今は逃げる事だけ考えて―――
「眼鏡、外さないんですか」
「―――え？」
　あまりに場違いな言葉に、つい声を出してしまった。
　だっておかしいにも程がある。
　眼鏡を外すという事は先輩の“線”を視るという事だ。
　そんな状況になれば、俺は先輩を、万が一にも殺してしまうかもしれず―――
「な―――なにを、言うんですか、先輩は……！」
「―――――――」
　それは。
　大気が燃え立つかのような、暴力的な怒気だった。
「……付き合っていられません。
　いいですから、もう死んでください」
　先輩の姿勢が低くなる。
　―――来る。
　また走りこんで来るのは明白だが、俺には先輩の姿を視認する事さえ難しい。
　……逃げるしか手段がない。
　幸い、距離はさっきより離れている。このまま全力で走れば瓦礫の谷間に逃げこめる。
　見通しの悪い瓦礫の中に入り込めれば、あとは隠れてしまえばいい。かつての地下聖堂は半壊してはいるものの、周囲にはまだ機能している通路だってある。
　行くぞ、そこまでたどり着ければ……！
「――――――」
　背中。
　背中に、何か―――刺さって、る。
「い―――た」
　どさり、と体が前のめりに倒れた。
　あと少し。
　あと少しで、あの瓦礫の裏側に、逃げ込めたのに。
「くっ―――――」
　片手で体を立たせる。
　背中に刺さったのは代行者が使う、釘のような剣だった。
「こ―――の………！」
　力任せに剣を引きぬいた。
　体を貫通していたから、頭にきて胸の方から抜いてやった。
　幸い、痛みはとうに麻痺している。堪える必要すらない。
「よし………！」
　これで瓦礫の隙間に逃げこめる……！
「逃げてどうするつもりですか、遠野くん」
　その前に。
　後ろから、先輩の声がした。
「まだ解らないんですか。貴方は今どのくらいの速さで走ったと思っているんです。致命傷を受けて、どうして死なないでいるんです。
　―――貴方は箱の中のマウスと変わらない。
　なのに、まだ、何から逃げ出そうというんですか？」
「な――――」
　いま引き抜いた凶器を見る。
　胸を貫通した傷口は止血されている。
　俺はもう、完全に人間ではなくなっている―――
　意識が、白くなる。
　騙されるな。
　騙されるな。
　その女にはずっと騙されてきたじゃないか。
　もう耳を貸すな。
　聞けばそのまま死に至る。
　無視しろ。
　受け入れるな。それが真実だろうと、もう跳ね除けるしかないと開きなおれ―――
「――――やめ」
「もう何処にも逃げ場なんてないんです。
　貴方には戦うか殺されるかの道しかない。けれど戦う事ができないのなら、あとはもう死ぬしかない」
　かつかつと。
　これ見よがしに足音を立てて、処刑人がやってくる。
「や、め―――」
「せめてあがいたらどうですか。私を殺せば一日は生き長らえる。そんなありえない希望を見ながら、無様に死ぬのが貴方にはお似合いです」
「やめ、て―――」
「いまさら格好つけなくていいですよ。
　貴方は無邪気に目の前のエサに飛びついて自滅するんですから。ほら。学校では、いつだってそうしていたでしょう？」
「だから、やめろって言ってるだろう――――！！！！」
　跳ねた。
　背中も、肩も、腕もほとんど破壊されているのに、瑣末な事のように体が跳ねた。
　俺は荒い息遣いのまま、先輩に負けない程の速さで、20メートルもの高みにある外壁の廃屋へ飛びこんでいた。
「はっ、はっ、はっ、はっ―――――」
　走った。
　何も考えずに、ただ、何かから逃げたくて走り続けた。
「はっ、はっ、はっ、はっ―――――」
　それも限界だ。
　息があがったのか、千切れかけた左手を振る事もできなくなったのか。
「はっ……はっ……はっ――――――」
　足がもつれて、前のめりに倒れこんだ。
　背中の傷はもう元通りのクセに、左手と左肩の傷はそのままだ。やはりあの杭打ち機は特別な武器らしい。
　対抗策も対処法も思いつかない。
　確かな事は、左半身がまともに動かないという事。
　起きあがろうと右の手足に力をこめて、馬鹿らしくなった。
「……はっ……はっ……は」
　ごろんと体を転がして、仰向けになって、ずるずると背中で地面を這って壁に寄りかかる。
　なんとか上半身を起こしたものの、それが限界だった。
　顔をあげ、喉を無防備にあらわにして、大きく息を吸う。
「―――月」
　見上げれば、壁の隙間から月明かりがうかがえた。
　体力も精神もすり潰したからか。
　目に見えるものすべてに靄がかかって、<虚|うつ>ろに見える。
　……ああ、そうか。
　俺がロアであるかどうかなんて、それこそ些末な問題だった。
　だって俺はその根っこから虚ろだった。
　遠野志貴という名前だけの、初めから正体のなかった、不確かな“誰か”だったんだから。
「……い……た………」
　ずきりと肩が痛んだ。
　……それとも。
　自分がこの痛みぐらい確かなものだったら、こんな事にはならなかったのか。
　俺はずっと自分を『遠野志貴』だと思って生きてきた。
　けどそいつは別にいて、俺は、どこの誰とも知れない養子だという。
　……それはそれでいい。悲しいけど悲しいだけだ。
　悔やむ事も、憎む事もない。
　けど養子としての記憶、遠野の屋敷に引き取られる前の記憶がないのは、悲しいを通り越して滑稽だった。
　だってそれは。
　俺は本当に、何者でもなかった事の証左だからだ。
　夜空には、ただ独りきりの月がある。
「――――」
　すごく、不思議だ。
　どうして今まで気がつかなかったのか。
　今夜はこんなにも―――
「ああ―――けど、笑うのはちょっと、難しい」
　ただ滑稽なだけで、ぜんぜん笑えない。
　結局、俺に意味はあったんだろうか。
　自分の事は何一つ知らないまま、自分そのものがなくなろうとしているなんて、馬鹿げてる。
　なにもかもぼんやりしていて、馬鹿げてる。
　死の見える世界。
　死が視える視界。
　七年前のあの日。
　俺は先生に出会えて、こうしてマトモに生きてこられた。
　アレは正しい出会いだったと今でも断言できる。
「……でもさ、先生。
　俺は、生きてちゃいけない人間だったみたいだ」
　……まだそう思える自分がいるうちに、自らの命を絶つべきなんだろう。
　でも出来ない。
　自殺なんかできない。
　無様だろうと、間違っていようと、俺は生きていたいんだ。
　だって、死んだら何もかも嘘になる。
　生きていたい。どんなに罪深かろうと、色々なものをなくしてしまうとしても、生きていたい。
「――――――」
　……あの人さえ。
　シエル先輩さえいてくれれば、あとは、何を無くしても構わなかったのに。
“―――それだけの為に、わたしはこうして生き長らえてきました。けど、それも終わりです。
　……六年間。長かったのか短かったのか、よくは分かりませんけど”
「……うそつき」
　そんな言葉、聞きたくなかった。
“遠野くんには感謝しています。
　わたしの仕事はこれでおしまいです。あとは残った自分の責任を果たさなくちゃいけません”
「……うそ、つき」
　ああ。けど、真実だってあったのかもしれない。
　だって、あの人は俺を騙してはいたけど、ただの一度も、
“……うん。今までありがとうございました。
　わたし、こんなに嬉しかったの久しぶりです。ですから、最後に握手しましょう”
「………おお、うそつき」
　ただの一度も。あの人は、俺に嘘はつかなかった。
“わたしがいなくなっても乾くんと仲良くしてくださいね。
　わたし、遠野くんと乾くんみたいな学生になりたかった”
「…………………」
　でも、あの人自体が嘘だった。
　あの笑顔が本当の嘘とは俺には思えない。
　けど、現実なんてこんなもんだ。
　……シエル先輩という役柄が嘘で、俺を殺す為に傍にいてくれただけ。
　騙されていた。
　あの人は俺を許してなんていなかった。
　俺がダメになっていた時に助けてくれたのも。
　休み時間に二人で意味もなく過ごしたことも。
　全部、俺がロアかどうかを確かめていただけだった。
　ぎり、と歯が軋んだ。
　奥歯を強くかみ締める。
「……ちく、しょう」
　悔しくて壁を掻く。
　そう、騙されていた。
　あの人はすべて計算ずくで自分に近づいてきた。
「……それなのに」
　悲しくて壁を掻く。
　……ああ。
　けれど、それでも――――
「―――俺は、先輩を憎めない」
　憎める筈がない。
　あの人にとって真実でなくても、俺は楽しかった。
　どうあってもそれだけは本当なんだ。
　先輩と出会って二週間にも満たない時間だったけど、本当に―――あんなに生きていて嬉しかった事は、なかったんだ。
「……ちく、しょう――――」
　でも、それは俺だけの幻想だった。
　……目を閉じてしまいそうだ。
　憎しみでも怒りでもなく、ただ悔しくて、こんなにも胸が痛んでいる。
　視界が滲んでいく。
　頭上には煌々と輝く白い月。
　灰色の瓦礫で埋まった静かの海。
　ゆらゆらと揺らいでいる。
　何もかも偽りで、近づけば消えてしまう幻。
　それは一つの、掴みようのない蜃気楼のようだった。
　かつん、かつん。
　海の底で乾いた足音が響きだした。
　月光を背に、荒涼とした大地に伸びる断罪者の影。
　……間違いなくこれでおしまい。
　……彼女がもうすぐやってくる。
　色々あったけど結論は出せた。
　まあ、そういう事なら、
「――――
殺すか」
　深呼吸の後、口から出た俺の声は別人のようだった。
　死にたくないのならバラせ。
　自分が間違っていないと思うのならバラせ。
　いいからバラせ。バラせ。バラせ、バラせ、バラせ、バラせ、バラせ、バラせ、バラ、バラバラ、バラバラバラバラバラバラバラバラ――――――
「――――――、はあ」
　……本当に、俺はここまでみたいだ。
　また頭の中がぐちゃぐちゃになりはじめた。
　それでも俺は死にたくない。
　死にたくないのなら、やる事は一つだけ。
　かつん、かつん。
　足音は大きくなってくる。
　終わりの時間はすぐそこまでやってきている。
“―――眼鏡、外さないんですか”
　それが何を意味するか理解していながら、彼女は言った。
　なら、俺は―――
　とっさに、後方に跳んでいた。
　危機を感じて後ろに跳び退く。
　それだけで先輩との距離は何メートルも離れていた。
「え――――？」
　驚きはこちらだけ。
　先輩は銃剣を構えたまま、無表情で追ってくる。
「っ……！」
　そのまま陥没地帯の端、地上に続く崖へと走り出した。
　自分の体が恐ろしいまでに軽い。
　風を切るように体が走る。
　これなら何であろうと、追いつかれる事はない……！
　――――と。
　脳から筋肉への停止信号も無く、道を塞ぐ障害も無く、慣性すら無く、体が止まっていた。
　前に出ようとしても足があがらない。
　左右に切り返す事もできない。
　両足が、地面に張り付いて離れない……！
「―――――な」
　首だけで振り返る。
　すぐ後ろの地面に、あの黒鍵が刺さっている。
　黒鍵は俺の影を刺していて、それが原因で両足は地面から離れないようだった。
「こ……の……！」
　両足に力を込める。
　しかし、１ミリも動かない。
　トラバサミにかかった犬の姿が脳裏に浮かぶ。
　そこへ、
「浅はかですね。逃げるにしても、もう少し上手いやり方があったでしょうに」
　“弓”の異名をとる代行者が現れた。
「先―――輩」
「体まで吸血鬼化している貴方を、外に出す訳にはいきません。ここで、その魂を断罪します」
　鎌首をもたげる杭打ち機。
　……獲物を刺激しないという配慮か。
　ゆらりと、代行者の姿はこの視界から消失し、
「―――さようなら。せめて、これで―――」
　小さな、聞き取れないほど小さな声で呟いて。
　彼女は切っ先を吸血鬼の心臓に押し当てて、弾劾の引き鉄を引いた。
　教会の鐘を思わせる、体内で反響する炸裂音。
「ご―――ふ」
　逆流した血液が口からあふれだす。
　脳髄の中心が炸裂するような閃光のあと。
　消えていく自分のなか、バラバラと散っていく、古い本のような魂を、見た。
　……頭の中で、最後の撃鉄が落ちた。
　―――殺した。
　―――殺した。
　―――殺した。
　<遠野志貴|じぶん>の無いまま、俺を信じていた家族を殺した。
　すべては自分の命を優先したが故。
　なら、もう―――
　―――すべて。
　幻になってしまえば、いい。
　ナイフを強く握って、立ちあがる。
　足音が大きくなっていく。
　敵が近づいてくる確かな気配。
　その度、頭の中に響く“誰か”の声。
　バラせ　バラせ　バラせ　バラせ　バラせ
「っ――――」
　バラせ　バラせ　バラせ　バラせ　バラせ
　バラせ　バラせ　バラせ　バラせ　バラせ
　バラせ　バラせ　バラせ　バラせ　バラせ
　バラせ　バラせ　バラせ　バラ――――
「黙れ
」
　強く意思を保って、頭の中を黙らせた。
「これは俺が決めた事だ」
　バ――――
「オマエに指図される謂われはない」
　ラ――――
「シエルに殺されたくないのなら」
　せ――――
「終わるまで黙っていろ」
　―――――
　声は完全に消えた。
　かつん、という足音と、伸びてくる影。
　―――代行者が、俺の前に現れた。
「ようやく戦う気になったんですね」
　なぜか、安堵するような声で彼女は言った。
「良かった。これでお互いに罪はありません。
　互いに殺し合うという条件なら、私たちの罪は相殺されます。あとは、生き残った者に罰が残るだけです」
「………………」
　自身の死を以て罪を殺す。
　それは、俺には理解できない世界の話だ。
「けど、残った方の罰は償えるんですか」
「ええ。果たす事のできる代償行為を罰といいます。
　消えさってくれないものは罪だけです。
　ですから―――
そんなもの、いまさら背負いたくはないでしょう？」
　一歩、彼女は踏みこんでくる。
「―――それじゃあ、ここで先輩を殺す事は、罪じゃないのか」
「はい。わたしは貴方を殺します。
　だから貴方も私を殺していい。条件は同じです」
　さらに一歩。
「――――――――」
　……よくはない。
　それは、ぜんぜん、これっぽっちもよくはない。
　
確かに俺は殺されようとしていて、
　自分の命を守るために殺し返そうとしている。
　でも、彼女はそうじゃない。
　彼女は初めから片思いの殺人意思を持ってやってきた。
　それは―――
「さよなら。
　これで、くだらなかった芝居に幕を下ろしましょう」
　最後の一歩。
　銃剣の切っ先が俺の心臓に向けられる。
　その前に。
　ただ無造作に前に乗り出して、彼女の右肺の『点』を狙った。
　―――殺せるとは、思っていなかった。
　ナイフの間合いに踏みこむより先に、彼女の銃剣が俺の心臓を貫くのは道理だ。
　だから、驚いた。
　銃剣をかわして、トン、とあっけなく彼女の『点』を刺せた<結|こ><末|と>に。
「――――先、輩」
　彼女はわざと、俺のナイフを受け入れたように、見えた。
「貴方に、わたしを殺させて、しまった」
　死に至る前の、弱々しい声。
「それが、一番大きな、わたしの罪でした
」
　泣くような声をあげて、彼女は最後の力をふりしぼって、俺の胸に、銃剣をつきたてた。
「――――――ご、ふ」
　破壊された心臓から、血液が逆流する。
　喉からこみあげてくる血液を吐き出して、床に倒れこんだ。
　目の前には。
　俺より少し前に絶命した、彼女の体が倒れている。
「――――
なんて」
　わかって、いたのか。
「――――愚か、な」
　初めから―――罪があるとしたら自分にだけだと、分かって、いたのか、あなたは。
「はっ――――あ」
　手足の感覚がなくなっていく。
　血液の供給が途絶えた以上、あと数秒保つまい。
　あの銃剣で刺された瞬間。
　自分の中で、何か古い本のようなモノが、ページを撒き散らして消えていくイメージがあった。
　おそらく。
　それで、ロアと呼ばれたモノは霧散したのだろう。
「…………
」
　何も思い浮かばない。
　彼女が初めから、自分の命と引き換えに俺を殺そうとしたこと。
　それがせめてもの罰だと思ったのか。
　―――バカげてる。
　そんなもの―――何の意味も、ない。
「―――それでも」
　俺に謝ることなく死んだのは、悲しかった。
　ごめんなさい、と言ってくれれば、彼女も少しは救われただろうに。
　……この人は、それさえ口にできなかったのか。
　謝って償える事ではないと分かっていたから、彼女は最後まで謝らなかった。
　その決意。そこまで追いこんだのが自分だという事が、俺にはどうしようもなく―――
「なんだ、結局」
　俺は、この人が、好きだったのか。
　最後まで。
　死の直前であろうと彼女を悲しいと思うぐらい、大切だったんだ。
「―――――っ」
　軽く咳き込んで、血を吐いた。
　それで終わり。
　ぼんやりと月を見上げたまま、とうに<喪|な>くした子供の頃のように、いつのまにか、眠っ、て――――
　なら―――どうするっていうんだ、俺は。
「できる………、か」
　<痙攣|けいれん>する指で眼鏡の<蔓|つる>に触れる。
「……できるわけないだろ、そんなマネ―――！」
　激情に任せて手にしたモノを放り投げた。
　自分自身に殺意を覚えた結果だ。
　カラン、カラン、と硬い物が暗い夜に転がっていく。
　……線など見えない。
　放り投げたものは、持っていたナイフだ。
　眼鏡は外さない。……絶対に、外さない。
　ただ、俺はもう自信がないから、ナイフを遠くに投げただけだ。持っていればきっと、俺は自分が死ぬよりイヤな事をしてしまう。
「―――――――」
　そうして、彼女がやってきた。
　感情のない瞳も、不吉な凶器も、何ひとつ変わっていない。
　彼女は、座り込んだ俺の前で足を止めた。
　……どうしてだろう。
　トドメを刺そうとしてこない。
　俺たちはぼんやりと見つめ合うだけだった。
「―――一つ、訊きますけど」
　銃の切っ先が、俺の胸に向けられる。
「どうして眼鏡を外さなかったんです。どうして―――ただの一度も、わたしと戦おうとしなかったんです」
「……どうしてって、不思議でも何でもない」
　単に、思いもしなかっただけ。
「そんな酷いこと、先輩にはできないだろ」
「………愚かにも、ほどがある。
　わたしは貴方を殺すんですよ。わたしは貴方の先輩なんかじゃない。すべて嘘だったって、あれだけ言ってまだ分からないんですか、貴方は……！」
　罵倒する声。
　冷静な顔のまま、手足が震えるほどの怒りと苛立ち。
「……知ってる。先輩は、ずっと俺を騙してきた。
　シエル先輩なんていう人は、初めからいやしなかったんだって、分かってる」
「分かっているんなら、どうして……！」
「……いいんだ。先輩が嘘でも、関係ない。
　俺は、すごく楽しかった。先輩と過ごした時間は、先輩にとってはどうでもいい時間だったかもしれないけど、俺にとっては大切だった」
　……そうだ。
　アレは本来、俺には手に入らないものだった。
　<未来|し>を恐れるだけの俺には見る事のできなかったもの。
　気付かないうちに見限っていた、何でもない光景だ。
　……だから、いいんだ。
　たとえ先輩にとってすべてが嘘でも、
　俺がそれに救われていたのは真実なんだし。
「―――だから、いいんだ」
　この二週間は楽しかった。
　けどここで先輩を憎めば、それさえも亡くなってしまう。
　先輩にとってそれが嘘だったのなら、せめてあとの半分。
　半分の俺ぐらいは、最後まで本当のものにしておきたい。
　……自分の命と引き換えにするにしては、滑稽な望みだと分かっていても。
「―――そんなコト。そんなコトのために、命を投げ捨てるんですか。望みは。貴方の望みというのは、その程度のものなんですか」
「……そっか。やっぱり小さい、かな」
　……でもまあ、今はそれが二番目ぐらいに大切なんだ。
　それ以外の望みなんて、どうあっても一つしか思いつかない。
「―――わたし、色々な人を見てきましたけど」
　一歩、踏み込んで。
「貴方ほど馬鹿な人は、初めてでした」
　先輩は銃口を俺の心臓に当てた。
「――――――」
「――――――」
　……どうしてだろう。
　なぜか、引き金が引かれない。
　俺を見つめてくる目は虚ろだ。
　先輩が時折見せる、感情のない瞳。それは、この人が冷酷な人という訳じゃなくて。
　最後の最後の<局面|ライン>で自分自身を騙せないから、結局、自分の感情を殺しているだけ。
　先輩の言う通り……俺は本当に馬鹿だ。
　この目をする時、先輩はいつも―――俺ではなく、自分自身を騙していたんだと、やっと気付いた。
「―――忘れていました。最後に、懺悔を聞いておかないといけません。わたし、これでも神職ですから」
「……そうですか。懺悔なんてないけど、一つだけ、訊いていいかな」
「―――はい。手短にお願いします」
「……うん、すぐ済む。どうして先輩は、そんなに泣きそうな顔をしてるのかなって、思って」
「―――――――」
　びくり、と。
　彼女の体が震えた気がした。
「―――わたしは、泣いてなんて、いません」
　断言する先輩の顔は冷酷そのものだ。
　……そう言われると、こっちもつい首をかしげてしまう。
　けれど、どうしても俺には――――
「……泣きそうな顔に、見える。どうしてか、わからないけど」
「それは貴方の錯覚です。わたしは何も感じていませんから」
「わたしにある感情は、人間として死にたいというものだけです。それ以外の感情なんて、ない」
　ひどく、悲しい。
　こんな時に、それが嘘だと分かってしまうのは、皮肉すぎる。
「……ひどいな。最後まで、先輩は俺に嘘をつくのか」
「―――――――」
　返答はない。
　凍りついたように、先輩は動かない。
「―――貴方こそ、嘘をついてる。ここでわたしに殺されることが望みなんて、思ってはいないでしょう」
「……当然だろ、そんなの。死んだら何もないじゃないか。一応経験があるから、それぐらいは分かってる。
　……本音を言えば生きていたい。けど、ただ生きているのは、もうダメらしくて」
　……そう、ダメだ。
　もしここでなんとか生き延びても、その先には何もない。
　遠野志貴なんていう人間もいなくなって、この人が経験したあの惨状を繰り返す。
　けど、そんな事より。
　そこにはもう先輩がいない。
　そんな生活には、俺はきっと耐えられない。
「……今まで、すごく楽しかったんだ、先輩。有彦と俺と先輩でバカな話をしている時は、悪くなかった。ただの休み時間でも、先輩が来てくれるだけで夢みたいに、楽しかった」
　……だから、それが今の俺の<欲求|もくてき>だ。
　もう叶う事はないとしても、
「……うん。俺はずっと、あのままの時間が続いてほしかった」
　そう口にした瞬間、ひどく心が落ち着いた。
　届かない幻でもいい。
　初めから存在しなかった蜃気楼でもかまわない。
　むしろ幻だったからこそ、先輩と過ごした時間が、こんなにも愛しく感じられる。
　どのみち俺は助からない。
　それなら―――あのゆめを夢みたままでいられるなら、それはどんなに――――
「な―――んて」
　愚か、と呟いて。
　先輩はわずかに銃口を動かした。
　ギチッ、と音をたてて鉄塊が胸を圧迫する。
　ほんの少し。爪の先ぐらいだけ、銃口が胸にえぐりこむ。
　あとは、そのまま。
　彼女が一歩踏み込むだけで終わる。
「―――――――――」
　最後の一歩が始まらない。
　彼女は銃を構えたまま、感情のない瞳で俺を凝視している。
　ぎり、と。先輩は、苦しそうに、唇を噛んだ。
「………そっか」
　……俺に見られていてはやりづらいだろう。
　これ以上、この人のこんな、泣き出しそうな顔を見ていたくなかったコトもあるし。
　せめて、苦しませないように。
　目を閉じて、受け入れる事にした。
　―――どくん、と心臓が震える。
　覚悟している筈なのに、吐き気と寒気は消えてくれなかった。
「――――――――」
　喉が熱い。
　指先がガチガチと震えている。
　分かっている。ここで殺される<結|コ><末|ト>が一番いい方法なんだと分かっているクセに、ただ、恐かった。
　――――はあ。はあ。はあ。
　漏れそうになる呼吸を必死に圧し留める。
　先輩があと10センチも手を前に突き出せば、俺はただの肉片になってしまう。
　……気を抜けば正気を失う自分。
　感度を増した五感。即死ではない傷なら治ってしまう体。
　そのすべてが人間として手遅れである事を示している。
　だから覚悟するしかないのに、本当は恐くて恐くて震えているココロも、たぶん跡形もなく消えてしまう。
　――――はあ、はあ、はあ、はあ。
　ただ必死に、口を閉じて受け入れようと努力した。
　胸を刺されれば痛いだろう。
　今こうして恐怖している自分が、怖がる事さえできなくなるのは恐怖以上の何かだろう。
「っ―――――ぁ」
　額に汗が滲む。
　それでも、声はあげたくなかった。
　静かに、潔く果てる事ができたのなら。
　先輩は罪悪感なんて抱かずにいられる筈だ。
「――――――――」
　息を呑む音がする。
「どうして―――――」
　搾りだすような声。
「どうして、そんな」
　胸に突きつけられた剣が震えている。
「わたしを恨まないで、いられるんですか」
　……違う。震えているのは、先輩の声だった。
「わたし、わたしは貴方を殺そうとしているんですよ……!?
　騙して、裏切って、こうして残酷に追い詰めているのに、なんでそんな穏やかな顔をしてるんですか、貴方は……！」
　かつん、と。
　銃口はそのままで、先輩は俺に踏みこんできた。
「答えなさい……！　わたしは貴方を殺すんです。貴方の都合なんて関係なく、ただ一方的に殺そうとしているんです……！
　ならせめて、わたしを恨まないと貴方は報われないじゃないですか……！」
　火のついた激しさで、先輩は問い詰めてくる。
　……やだな。せっかく恐いのを堪えているのに、ここで声をあげたら感情が<堰|せき>をきりそうだ。
「それとも本当に馬鹿なんですか貴方は……！
　わたしは、貴方を汚らわしい吸血鬼として処理するんです！
　なのに、どうして―――」
　……もう。どうしてって、それはさっき言ったのに。
「―――だって。それは、先輩のせいじゃないだろ」
「っ………！」
　ズッ、と。
　剣の切っ先が胸に食い込む。皮膚を裂いたのか、ぬらり、と生ぬるい血が流れていった。
「ぎ、ぁ………！！！！」
　全身の肉という肉、骨という骨の芯に、火花が走る。
　今までのどんな頭痛さえ足元に及ばない激痛。
　傷自体はそう深くはない。ただ第七聖典という凶器が体内に侵入しただけで、意識がバラバラと砕けていく。
「あ――――ぁ、あ………っ！」
「痛いでしょう。本来なら無痛で消してあげられるのに、こうしてわざと貴方を苦しめているんです。
　……今まで貴方に付き合わされた分、こうでもして楽しまないと帳尻が合いませんから」
　たどたどしい声でそう言って。
　いっそう深く、銃口が食い込んできた。
「ひ――――――アっ！」
　あまりの痛みに全身から汗が噴き出す。
　内臓が、口からこぼれてくるかと、思った。
「ほら、わたしが憎いでしょう……！
　だから、だから早く恨んでください！　わたしに裏切られたって、わたしなんか信用しなければよかったって言ってください。そうでないとわたし―――貴方を殺す事が、できないじゃないですか……！」
　震える声で、そんな事を言った。
　……けど、それはおかしな話だ。
　恨まれないのならそれに越した事はないのに、この人は俺に恨まれたがっている。
　せめて、そうやって一番悪いヤツになる事が―――自分の罰なんだって、言うみたいに。
「あ……………あ」
　でもそれは無茶な注文だ。
　こんな、泣いている子供のような人を、これ以上苦しめる事だけは、どうしても。
「……まさか。先輩を恨むことなんて、できない」
「や―――やめてください……！　なんで最期までそんなコトを言うんですか……！　悪いのはわたしで、貴方は被害者だっていうのに……！」
「…………」
　……被害者なのは、先輩も同じだろうに。
　どのみち俺はもうすぐロアに支配されてしまう。
　その前に、シエル先輩の時のような間違いを犯す前に、俺はロアを殺さないといけない。
　その手段が俺の死以外にないのなら―――これは、もうどうしようもない事だ。
「……いいんだ。先輩は悪くないよ。
　それよりごめん。こんな役目を、先輩に押し付けて」
「や――――め」
　やめて、と小さな声がして、胸を圧していた鉄の感触がわずかに離れた。
「だめ―――わたし、わたしは―――ロアを、見逃すコトなんて、できない」
　ゆらゆらと銃口の切っ先が揺れている。
　……だが、それもじき終わるだろう。
「そんなコト―――許されないんです、遠野くん」
　第七聖典の切っ先が俺の心臓を狙いこむ。
「――――――」
　先輩の息を飲む音が聞こえた。
　目を閉じていても、引き鉄にかけた指に力が込められていく気配がわかる。
　カチリ、と。
　硬い鉄の音がする直前。
「ありがとう。
　たとえ嘘でも―――先輩が先輩でいてくれて、良かった」
　最後に、一番伝えたかった言葉を<遺|のこ>した。
「………う、う」
　―――声が、聞こえる。
「うあ………あ、ああ、あ」
　―――ぽろぽろと。
　　　　子供が泣くような、声が聞こえる。
「うぁ……あ……あ、あ」
　鉄の塊が床に落ちる。
　俺の背後の壁には、槍で貫かれたような銃痕が一つ。
「――――」
　懸命に<嗚咽|おえつ>を堪える声。
　それが誰のものか分かって、ゆっくりと目を開けた。
「――――――」
　そこにいるのは、さっきまでの先輩じゃなかった。
　俺の前で立ち尽くしているのは、うつむいて苦しそうに泣いている、どこにでもいる普通の女の子だった。
　彼女の両手には何もない。
　第七聖典は床に落ちている。
　俺の心臓を撃ち抜くはずの弾丸は、俺のわき腹をすり抜けていった。
「……う……うあ、あ、あっ……！」
　……先輩は、ただ泣いていた。
　何が悲しいのか、血を吐き出すような苦しさで泣いていた。
「…………先、輩」
　声をかける。
「……ずるい……遠野くんは、ずる、い……！
　……あんな……あんなコト言うなんて、ずるい、です……！　なんで、わたし、なんか、を……！」
　ポロポロとこぼれる涙。
「……できない……わたし、自分だっていつでも殺せるのに、あんなコト言われたら、できない……！」
　……彼女は俺を見る事さえ恥じいるように、
「ありがとう、なんて―――そんな幸せな人を、死なせるなんて、ヤだ――――」
　両手で両目を覆って、ただボロボロと泣き続ける。
「……先輩。そんなに泣かれると、困る」
　……どうしていいか、分からなくなるから。
「うっ……うう、うあぁぁぁぁぁぁぁん……！」
　……俺の言葉が悪かったのか、先輩は声をあげて一際大きく泣きだしてしまった。
「ああ、もう――――」
　どうしていいのか分からない、なんて言ってる場合じゃない。
　目の前で泣いているこの人を放っておけなくて、腕を引っ張って抱き寄せた。
　先輩はあっさりと俺の胸に倒れ、声を押し殺して泣き続けた。
「………ごめん、なさい……！」
　震える声で、何度も何度も、そんな言葉を繰り返しながら。
「――――――」
　なんだ。
　嘘だったのは、さっきまでの先輩じゃないか。
　……やっと先輩に会えた。
　連絡をしてから１時間も経っていないけど、長い間、先輩を待っていた気がする。
「……謝らなくていいんだ、先輩」
　ただそうしたくて、右手で先輩の体を抱く。
「あ――――――――」
　張り詰めていたものが切れたような声。
　落ち着いてくれたのか、先輩はようやく泣きやんでくれた。
　……どくん、とくん、という音。
　お互いの心音が、自分のもののように聴こえる。
「………………」
　ひどく、静かだ。
　かける言葉は必要ない。
　ただこうして―――この人の鼓動を聞いているだけで、満ち足りている。
　……求めていたものは。
　俺が望んだことなんて、本当に小さな事だった。
　こうして、先輩が先輩のままでいてくれるだけでよかったんだから。
「……先輩。先輩の体、あったかい」
「……違います。あったかいのは遠野くんのほうで、わたしは、イヤになるぐらい、冷たい人間です。
　こんなに―――優しいひとに、酷いことを、しました」
　……違うよ先輩。俺は優しくなんかない。
　今だって、先輩に触れていたいだけなんだ。
　他の事をすべてうっちゃって、自分の欲求のまま、ずっとこうしていたいだけなんだから。
「……いいです。俺はまだ生きているんだから、それでいいんです。もう……こうしていられるなら、それでいいんだ」
　俺は昔、死にかけて。
　その後に見たくもない視界を与えられた。
　死の見える世界。
　死が視える世界。
　いつだって簡単に、何かの弾みで失われていくモノたち。
　けど、だからこそ―――生きているという事は、それ自体が奇跡のような事だと思い知った。
　それを実感できる事。
　こうして先輩の体温を感じられる事は、俺のような死人には、この上ない歓びだった。
「―――先輩。俺、先輩がすごく大切だ」
「……遠野くん？」
　先輩を愛している。
　俺は自分も大切だけど、それ以上にこの人が大切だ。
　この人に二度と、あんな泣き顔をさせたくない。
　この人には、あの笑顔通りの、幸せな日々を送ってほしい。
「俺はやっぱり死にたくない。ぎりぎりまで生きて、こうして先輩と一緒にいたい。
　だから―――」
　どんなに身勝手で強欲な私欲だろうと口にする。
　俺は自分自身と、この人の過去を清算する為に、
「俺はもう逃げない。自分から死のうなんて考えない。
　だから―――お願いします先輩。どうか、俺がロアに勝てる手助けをしてください」
「……フフ。大きくでましたね。
　ロアを倒すではなくロアに勝利する、ですか。それは、今まで誰もできなかったコトですよ？」
「……勝算なしで大口を叩いてるのも承知の上です。でもそうしないともう先輩といられないんだから、やるしかないです」
「―――どんな無茶でも、ですか？」
「はい。俺が死ぬ以外の手段があるなら、今はそれに懸けてみたい。……あ、いえ、そもそも選択肢があるかどうか、からですけど……」
「ありますよ。わたしにも分からないけど、きっとあります」
　ぎゅっ、と。
　先輩の手が、強く、握られる。
「貴方がロアと戦うというのなら、わたしも諦めません。
　大丈夫、聖堂教会だって無駄に二千年も続いていません！　教会中をひっくり返せばきっと他の手段が見つかる筈です。
　―――まあ、遠野くんがわたしの言うコトを何でもきいてくれるなら、という条件は付きますが」
　さらりと恐ろしい冗談を言うシエル先輩。
　……良かった。いつもの先輩に戻ってくれた。
「―――なんですかそれ。そんなに無茶なコトばっかりなんですか、教会って」
「まあ、時と場合によっては。たいへんな難病ですので、患者さんはお医者さんの判断を信じてくれないと話になりません」
「そういうコトなら問題ないですね。何があっても先輩が好きですから、俺」
「そ、そうですか。奇遇ですが、わ、わたしも同じですので、信頼関係はばっちりですね！」
「……………」
　やばい。あわてる先輩が可愛すぎる。
　こんな状況なのに先輩の事しか考えられず、じっと顔を見つめてしまう。
　……お互いの顔が近い。
　先輩を引き寄せた腕が、細い肩に回される。
「あ、あの、遠野くん……？」
「……ごめん、先輩。もう我慢の限界だ」
「え、はい………!?」
　引き寄せられるように先輩の唇を求めた。
「ぁ……ん……」
　ささやかな抵抗から、遠慮がちに応えてくる感触。
　……口づけは深いものではなかったけれど、長く、互いの気持ちを確かめるように長く続いた。
「…………もう。こんな時なのに、男の子なんですね」
「本能に忠実だと言ってください。
　目の前にこんな可愛い人がいたら、誰だってこうします」
　またもあわてるシエル先輩。
　より強く抱きしめたい衝動に駆られたけど、今度こそぐっと我慢する。これじゃあ夜が明けるまでここから出られない。
「とにかく、先輩が手助けしてくれるなら百人力です。
　まずは教会に行けばいいんですね？」
「ええ。本国は無理でも、この国にはいくつかの支部がありますから。
……
でも。その前に、もっと大きな問題がありました。ロアなんかより、もっと大きな問題が」
「？　ロアより大きな問題、ですか……？」
「……いえ、何でもありません。
　今はここから出ましょう。わたしのアパートなら、少しは遠野くんを楽にしてあげられると思います」
　休んだおかげか、体力はいくぶん戻っていた。
　さんざんやられた傷も塞がりつつあり、痛みも緩和されている。
　……ロアの上書きで体が吸血鬼のものになりつつあるのはおぞましいが、こういうところは正直助かる。
「はい、そうでした。こちらどうぞ。
　落とし物ですよ。大事なものなんでしょう？」
　……先輩が手にしたものは、俺が投げ捨てたナイフだった。
　父親の形見。もしそれが本当の意味でのものなら、確かに俺にとって唯一の“以前の持ち物”だ。
「……そうですね。ありがとうございます」
　拾っておいてくれた先輩に感謝して、ナイフを受け取る。
「さて、後は地上に戻るだけですか。今の遠野くんならひとりでも瓦礫を登っていけますよね」
　先輩は登りやすそうなスロープを探している。
　俺はその背中を頼もしく見つめながら、
「……？　なんだ、この音？」
　遠くから響いてくる音に耳を傾けた。
「――――――」
　先輩にも聞こえたらしい。
　降りそそぐ鐘の音。
　これは……そうだ、チャペルの鐘だ。
　金属と金属のぶつかる音。
　聞き慣れているが、特別な日にしか耳にする事のない音。
　でも、そんな音がどうして……？
　今日はクリスマスでもないっていうのに―――
「遠野くん……！」
　先輩が俺を突き飛ばす。
　その直後―――
　鉄柵のような細長い凶器が、昆虫採集の標本のように、シエル先輩の体を貫いていた。
「ふうん。殺すどころか助けるとか意味わかんない。
　ロアに乗り移られた者同士、手をとりあって生きていこう、ってコト？」
「……!?」
　廃墟に響く少女の声。
　だが視界に人影はない。となると―――
　先輩に駆け寄りながら視線を上げる。
　そこには、
「なにそれ、美談のつもり？
　そんな身勝手、許されるハズないじゃない」
　体を禍々しい<赤|いろ>に染めた、吸血鬼の姿があった。
　半壊した柱の上に、それは蝶のように降りたった。
　外見にして12歳ほどの少女の姿。
　赤く変色した髪と、<爛|ラン>と輝く紅色の瞳。
　吸血鬼。
　……そう、アレは吸血鬼だ。
　<判|わか>りたくもないが、今の俺は同属として、アレがどれほどの吸血鬼なのか感じ取れる。
　階梯にしてⅥ階梯。
　親から自立した、本当の意味での死徒。
　自らの手で隷属する死者を生みだし、一つの集団を作りあげる超越者としての吸血種―――！
「あれ？　反応薄くない？　タイミングはかったつもりなんだけど、わたしったらまた外しちゃったのかなー？」
　少女は俺たちを見下ろしながら軽口を叩く。
　……寒気がするほどの<上|うわ>っ<面|つら>。
　アレは微笑んでいるものの、その目は俺たちの隙を一ミリも見逃すまいと血走っている。
　態度こそ余裕に満ちているが、その全身からドブ川並に濁った殺気を放っている。
「ま、いっか。取り乱して悲鳴をあげてもらうのは後のお楽しみにすればいいんだし。それより今はこっちの話よね。
　ほら、早く殺してよ。
　ロアに汚染された魂は本人の意思が残っていようと例外なく消滅させる。そうでしょう、シエル先輩？」
「シエル先輩……？」
　アイツは先輩を名前で呼んだ……じゃあ、もしかして先輩と知り合いなのか……？
「その姿……死徒に身を委ねたのですね、ノエル」
「!?　ノエルって、ノエル先生!?」
　先輩の指摘を少女は愉しげに受け流した。
　……信じがたいけど、間違いない。あの吸血鬼の少女は、ノエルと呼ばれた女性が変貌した姿だった。
「そう、ノエル<先|・><生|・>よ志貴クン。
　見違えた？　見違えてくれた？　アナタから見たらまるで別人みたいでしょう？」
「でも……ウフフ。そこの人にしてみれば驚くコトでもなんでもないわ。
　この顔は13年前のあの日の、14歳の頃のわたしだもの」
「っ……！」
　周囲からヒタヒタと、物音が群れをなして近づいてくる。
　……死者だ。それも一体や二体じゃない。
　<地|う><上|え>からヤモリのように這って降りてくる人影は、優に30体を超えている……！
「おまえ……！」
　ナイフを構えて襲撃に備える。
　ここに集まりだした死者はまだ新しい。
　つまり―――彼等はロアの犠牲者ではなく、あの少女の手で命を奪われた犠牲者という事だ。
「……ノエル、貴女は―――」
　鉄柵に貫かれながら、ノエルを見据える先輩。
　胸元から背中を、左腕と右脚を貫かれながら、先輩の声にダメージは感じられなかった。
　ロアが消滅しないかぎり死なない体。
　それに加えて、目の前の吸血鬼―――吸血鬼を処罰する同僚でありながら吸血鬼化し、既に多くの人間を犠牲にしたノエルへの敵意が、その闘志を燃やしている。
「ええ、三日かけて50人近くの兵隊を作ったわ。
　はじめは加減が判らなくて殺しちゃったり壊しちゃったりしたけど、今はこの通り、一つの群れの先生役」
「なってみればカンタンよね、吸血鬼の生活なんて。軽く心をいじって抜け殻にしてあげれば、健気で憐れな『働き蟻』が一匹できるんだもの。
　しかも<奇跡|ギフト>のオマケ付き。人間一匹の血を吸うだけで力も寿命も延びるなんて、チートすぎて笑っちゃうわ！」
　……死者の数はまだ増えていく。
　数分を待たず、俺たちは完全に包囲されてしまった。
「……よく分かりました。
　経緯はどうあれ、貴女は吸血鬼になった。吸血鬼として生き延びる為に、<代|わ><行|た><者|し>を殺しに来たのですね」
　痛みに顔を<歪|ゆが>ませる事なく、先輩は胸を貫いていた凶器を引き抜く。
　その横顔は―――さっきまで散々見てきた、涙する一歩手前の、代行者としての顔だ。
　……戦いが始まる。
　いや、単純明快な“討伐”が始まる。
　シエル先輩とノエルの実力差は明らかだ。
　ノエルの体を覆う呪いの規模は、人間を遥かに凌駕している。以前の彼女から10倍や20倍では利かない性能の向上だろう。
　しかし、それでもシエル先輩の地力の方が勝っている。
　加えて対吸血鬼に特化した第七聖典。
　Ⅵ階梯―――平民出の死徒として最上級の怪物になったところで、戦いになればノエルは敗北する。
「ま、そうなるわよね。アナタにとって吸血鬼は<誰|・><で|・><あ|・><れ|・>殺すもの。そうでなくちゃ許されない。
　でも、ねぇ？　それならわたしより先に、殺すべき相手がいるんじゃないかしら？」
「――――――」
　先輩の動きが止まる。
　戦いになれば事は終わる。
　それを俺以上に理解している<少女|ノエル>は、戦いになる前に、<彼女|シエル>の心を砕きにきた。
「わたしが吸血鬼かどうかなんて、今は些細な問題でしょう？
　ねえシエル先輩？　わたしたち、よく語り合いましたよね。この命は復讐の為に。ロアを殺す為なら何でもするって」
「だから、見て？　わたしはその誓いを守ったわ。
　アナタがやってくれないから、わたしは<自|・><分|・><か|・><ら|・><こ|・><う|・><な|・><っ|・><た|・>。ひとりじゃ何もできないわたしは、ロアを殺す為に、<大|・><嫌|・><い|・><な|・><吸|・><血|・><鬼|・><に|・><生|・><ま|・><れ|・><変|・><わ|・><る|・><し|・><か|・><な|・><か|・><っ|・><た|・><の|・><よ|・>」
「―――わたしの、せい？」
「そう、ぜーんぶアナタのせい。アナタがいつまでも腑抜けてるからこうなった。
　ほら。次はアナタの番よ。早く。早く殺して。
　そこの坊やを、アナタの手で八つ裂きにしてみせて」
「――――――」
　……状況は一瞬で逆転した。
　先輩は動けない。先ほどの闘志は見る影もない。
　……ショックによる呼吸障害。
　先輩は俺とノエルを視界に収めながら、ぜいぜいと喉を震わせる。
「あは―――あはは、あはははははははははははは！」
「そう。できないの。やっぱり。やっぱりウソだったのね！
　何もかもウソ！　あの涙も<懺悔|ざんげ>も<悔恨|かいこん>もみーんなウソっぱちだった！」
「そんなアナタがわたしを殺す？　恥知らずにも程があるわ！　誰よりも薄汚い犬畜生……！　オマエなんか、あの時死んでいればよかった！　生きていること自体、許されるハズがないんだから！」
　降りそそぐ罵倒は呪いのようだ。
　二人の間に何があったのか、俺は知るよしもない。
　だがこれ以上、あの吸血鬼の言い分を聞くことは我慢ならない。
「なに好き勝手言わせてるんですか先輩！
　アイツは吸血鬼です、周りをよく見てください！」
「ぁ……遠野くん……？」
　先輩の前に出てノエルの視線を受け止める。
　右手でナイフを構え、頭上の敵を睨む。
　左手はまだ満足に動かないが、体力はかつてないほど溢れている。自慢できる事じゃないが、吸血鬼化の恩恵があるのはアイツだけじゃない……！
「あら、まだ志貴クンが残ってるんだ。てっきりロアに飲まれたと思ったのに、健気にがんばるのね。
　キミには恨みはないし、できるだけ楽に殺してあげようと思っていたんだけど……」
「気が変わったわ。そいつを庇っただけでイラっときちゃった。アナタにも生き地獄を味わってもらおうかしら」
　……そうかよ。頭にきてるのはお互い様だ。
「アンタが先輩をよく思っていなかったのも、根が卑しい事も知っていたけどさ。まさか、ここまで先輩を怖がってるとは思わなかったよ」
「―――へえ。それ、どういう意味なのか教えてもらえる？」
「分かっている事をいちいち訊くな。戦うのが怖いからベラベラ喋って矛先を惑わしやがって。
　……だいたいアンタの目的は俺だろう。ロアを殺したいんなら俺を狙え。吸血鬼に成り下がったアンタに、先輩を責める資格はない」
「吸血鬼に成り下がったわたしに、責める資格はない？」
　―――ぞわり、と背筋が総毛立った。
　……俺は何を間違ったのか。
　少女の姿をした吸血鬼は、心から憎い俺と先輩に、心底からの笑みを向けた。
　我が意を得たりとばかりに、悪魔が哄笑するように。
「ああ、そう―――知らないんだ。
　志貴クンは、その女が何をしてきたのか、知らないんだ」
「ノ―――」
　凍り付いていた先輩の顔があがる。
　それだけは言わないで、と懇願する。それを満足げに見下ろして、
「なら直接見せてあげる。
　戦うのが怖いなんて笑わせるわ。だって戦う必要なんてないんだもの」
「人間を壊すコトがどれほど造作もないコトか、身をもって教えてあげる。
　さあ―――わたしの眼の中にいらしてくださる？」
　一瞬の不明。
　俺はソレと目を合わせてもいないし、
　何らかの攻撃を受けたのでもない。
「―――!?」
　ただあの眼が咲き乱れただけ。
　それだけで認識は占有され、俺の世界は一変していた。
「な―――」
　見渡すかぎりの薔薇、薔薇、薔薇。
　世界はむせ返るほどの薔薇の香りに支配された。
　無限とも思える赤い海。
　その中でポツンと佇む俺は、本当に、庭園の薔薇を食いつぶす矮小な虫そのものだった。
『“ようこそ、歓迎いたしますわ、名も知れぬお客様。
　　これは快楽と背徳の園。
　　この地上に存在する魔眼の中で最も美しく
　　最も醜悪と謳われた、<薔薇姫|ロズィーアン>の原理血戒”』
　花を散らす風が囁く。
　あまりの色彩に目が潰れる。
　薔薇の香気が嗅覚を陵辱する。
　境界が解らない。
　この世界では、五感すべてが<魔薬|まやく>によって侵されていく。
『―――訪れた者には快楽を。
　　　　囚われた者には背徳を。
　　　　遊覧腐爛のツギハギモザイク、
　　　　一夜ばかりの幻も　終わらぬものなら不治の<恋|どく>。
　　　　手に手を取って
　　　　夢の狭間に参りましょう―――』
「っ……！」
　危険を察して走り出したが、一面の赤色で自分がどこにいるのか、自分が何なのかさえ判別できない。
　手足も意識も一面の薔薇に飲みこまれていく。
　俺は自分の名前さえ見つけられない記上の登場人物になって、何処とも知れぬ<頁|ページ>に落ちていった。
　チャペルの鐘が鳴っている。
　わたしは外に設置されたテーブルを拭きながら、顔を上げていつもより賑わう街を見渡した。
　街に一つきりの教会の前には多くの人影。
　広場では人形師や手品師によるチャリティ・ショーが開かれていて、街中の子供たちが集まっていた。
　2001年、12月24日、午後３時、晴れ。
　クリスマスが始まるまであと数時間。
　わたしの家は広場に面したカフェで、今は開店前の支度中。
「こんにちは。お店は準備中？」
「――――――」
　いつもの調子で話しかけられて、わたしはあわてて振り返る。
　ぴょこん、と背中に羽が生えた感じ。
　わたしはぶんぶんと首を振って、“どうぞ座ってください”と一礼する。
「ああ、メニューはいらないよ、ちょっと寄っただけだから」
　彼は流暢なフランス語で気軽に言って、メインストリートが見えるいつもの席に座った。
　この街にきて半年になる東洋人の留学生。
　礼儀正しいのに親しみやすい人で、休日はうちの店でピアノ演奏をしてくれる。
　音楽を学びに来たのだけど、都会の家賃は高いので、ツテのあるこの町に住んでいる、とのこと。
「君は広場に遊びにはいかないのかい？」
　はい。一緒にしないでください。ああいうのに興味とかありませんから。そもそも、こう見えても14歳です、わたし。
「そういう意味で言ったんじゃないんだけど……ゴメン、謝るよ。お詫びにハイ、一日早いけどプレゼント」
　彼は手にした紙袋からきちんと包装された小箱を取り出した。
　間違いない。あれはわたしが欲しがっていた銀製のアクセサリ－。十字架とベルを兼ねた、中学生にはまだ早い<ま|・><せ|・><た|・>品物だ。
「オヤジさんにはいつもお世話になってるからね。こことアルルカンがなかったら僕はとっくに飢えて倒れている。お金はあっても料理ができないのは困りものだ」
　優しい笑顔を直視できなくて、わたしはうつむきがちにありがとう、とお礼を言った。
　わたしは人よりちょっと発育の遅い事もあり、人付き合いが苦手だった。
　でも彼だけは別。東洋人らしい童顔という事もあるけど、この人は街の誰よりも優しく見えたからだ。
「……でもアルルカンはここのところ休みが多いよね。
　せっかくのクリスマスなのに、街で一番の<ケーキ屋|パティスリー>が閉まっているなんて、ちょっとがっかりだな」
「――――――」
　その言葉にわたしも暗い気持ちになった。
　最近は<ケ|ガ><ー|ト><キ|ー>も始めたので彼は勘違いしているが、メインストリートの端にあるアルルカンは老舗の<パン屋|ブーランジェリー>だ。
　うちはアルルカンから焼き菓子を仕入れているから、お父さんたちも顔見知り。
　わたしは外ではあまり遊ばないけれど、アルルカンのひとり娘とは面識がある。
　今年<中学|コレージュ>にあがった娘で、わたしとは正反対の、のっぽで活発な<黒髪|ブリュネット>。
「そういえばアルルカンの娘さんも見かけないな。
　以前はよく焼きたてのパンをくれたものだけど」
　正直に言えば、わたしはあの娘がちょっと嫌いだ。
　いつもメインストリートで彼と楽しそうに話しているし。年下のクセにわたしより背が高いし。
「もっとも、様子がおかしいのはアルルカンだけじゃなくて街全体の話だけどね。ここのところ物騒な事件も頻発しているし、夜も静かすぎるだろう？
　<余|よ><所|そ>の町に親戚がいるのなら新年はそっちに行ったほうがいいと思う。コラそこ、胡散臭い顔しない。こういう時の僕の勘は当たるんだぞ」
　彼はコーヒーを飲み終えて、それじゃあ、と教会へ歩いて行った。
　もうじきクリスマスだから、と早足で、わたしに手を振りながら。
　クリスマスは夜から始まって夜に終わる。
　24日は<前|イ><日|ヴ>なんて言われているけど、正確には24日の夕方から25日の夜までがクリスマス。
　日が沈めばうちのカフェも本格的に忙しくなる。
　わたしは少しだけ淋しい気持ちになって、去って行く彼の背中と広場の子供たちを眺めていた。
　それがわたしと、わたしの町が生きていた頃の、最後の記憶。
　開店の手伝いが終わって、わたしは自分の部屋に引きこもった。
　学校の宿題もあったし、クリスマスのミサに誘ってくれる友達もいなかったからだ。
　ミサに行かないと世間体が悪くなるけど、行きたくないものはしょうがない。お父さんには風邪気味だから、とウソを言って誤魔化した。
　わたしの部屋はお店の二階にあって、夜中までお店の音が聞こえてくるのが日常だった。
　今夜はクリスマスだから余計に騒がしいだろう。
　わたしは自分がひとりぼっちである事を自覚したくなくて、イヤホンで耳を塞いで、頭から布団を被ってベッドに潜り込んだ。
　明かりを消した部屋の中でまんじりともせず時間を過ごす。
　でもなかなか寝付けなくて、外が気になって、尿意も覚えてきたしで、もそもそとベッドから這い出した。
　時間はまだ夜の７時。夜はまだ終わりそうにない。
　あれ、と。
　その時、わたしは窓から見える景色に首をかしげた。
　広場は明るいのに、教会の明かりが途絶えている。
　メインストリートからは、今まで聴いたことのない種類の、伸びるような大声が聞こえる。
　―――足元。
　一階のカフェからの喧騒が、完全に途絶えている。
　わたしは寝間着のまま扉を開けて、狭い廊下から一階に続く階段を覗きこむ。
　まず、お父さんとお母さんに呼びかけた、と思う。
　返事はないし、お客さんの声もしてこない。
　この時のわたしはまだ余裕があって、考えもなくて、あらゆるコトに無防備だった。
　だから、なんの準備もないまま階段を下りて、カフェを一望して、
　人血と人肉と人骨が散乱した、悪夢に足を踏み入れた。
　まず、意味が分からなくてじっくりとカフェの様子を観察してしまった。
　壊されたテーブル。壊された椅子。
　散らばったお皿。散らばった人体。
　いらなくなったキャッシャー。いなくなったお父さん。
　いち、にの、さん、で呼吸ができなくなった。
　精神活動とは切り離されているはずの<生|し><命|ん><活|ぞ><動|う>が、心に引きずられて張り裂けたかのよう。
　わたしは叫ぶ前に<嘔|え><吐|ず>いて、体を猫みたいに丸めて<嘔|え><吐|ず>いて、一生分ぐらい<嘔|え><吐|ず>いて、胃から逆流したもので窒息死する寸前までおいこまれて、とにかく<嘔|え><吐|ず>き終わったあと、喉が焼けて悲鳴をあげられなくなった。
　耳を澄ませば広場からは歓声が聞こえてくる。
　わたしは誰かに、誰でもいいから誰かに、何がおきたのかを説明してほしくて、店から外に飛び出した。
　外に出たとたん、説明はしてもらえた。
　燃え盛る広場。積み上げられた死体。教会から響くいつもの鐘の音。
　街は二つの人種に分かれていた。
　追う人と逃げる人。殺す側と殺される側。
　さっきまで人間だった生き物と、
　まだ人間として逃げる生き物と。
　何がどうしてこうなったのかは解らない。きっと一生解らない。ただ、わたしがベッドでいじけている間に世界終了のお知らせがあって、わたしだけがそれを聞き逃してしまったから、お父さんとお母さんに置き去りにされてしまったんだ、と悲しくなった。
　悲鳴をあげられないのが幸いしたのか、わたしは怪物たちに見つからずにメインストリートから抜け出せた。
　とにかくお父さんたちに会いたかった。
　ここは危険だから今ごろは街の外に出てわたしを待っているに違いない。
　メインストリートから二番街に抜けて、坂道を下りきれば国道に出られる。
　まわりは田園だらけで誰も助けてはくれないだろうけど、国道にさえ出ればいいんだと、希望を持って顔を上げた。
　でも、そこには見た事もない壁がそびえ立っていた。
　街をぐるりと囲む、10メートルを越える城塞。
　そこには逃げてきた大勢の大人たちの姿があった。
　広場にいた怪物たちより恐ろしい形相で、ケンカしたり、罵り合ったり、殺し合っている。
『なによ、壊せないなら誰か登って、ロープを下げればいいじゃない！』
　この場において、とても理性的な金切り声だった。
　大人たちはケンカをやめて、とにかく壁を登ろうと協力しだした。
　わたしはそれで安心した。
　怖くて遠くから様子をうかがっていたけど、あれなら近くに行ってもいい。
　そう思って物陰から出ようとした時、ぐい、と、肩口を乱暴に掴まれた。
　……悲鳴をあげられなかったのが、幸いした。
「待って。いま近づいちゃダメだ」
　憧れの彼。東洋人の留学生。
　息を切らして、たったいま地獄から逃げ出してきた顔で、彼はわたしを物陰に引き戻した。
　でもどうして？　一緒に逃げられるかもしれないのに。
「……うん。それはそうなんだけど……」
　彼はうまく答えられなかった。
　ただ青ざめた顔で壁を<睨|にら>んでいる。
　壁にはより多くの大人たちがやってきていた。
　街から逃げ出してきた人たち。数え切れないほど。
　わたしの街にはこんなにも大勢の人が生活していたんだと感心する。
　でもそれ以外のコトはダメだった。肩車をして壁を越えればいいんだけど、誰が一番上になるのかまだ揉めている。
　その時。
　わたしは、奇妙なものが、地面からにょっきり生えてくるのを見た。
　それは、黒くて、そのくせ透けている、高い高い壁だった。
　街を囲む城塞の内側にできた、一回りだけ小さな壁。
　異常に気付いた大人たちが叫ぶ。
　自分たちの背後にできた壁に駆け寄って、何度も何度も強打する。
　けど壁は壊れなくて、わたしの見間違いでなければ、いまズズッと音を立てて―――
　……ちょっと待って。
　アレ。なにをしようと。しているの？
「動く!?　この壁、動くぞ!?」
「おい、どうなってるんだ!?　村長を呼べ！」
「下がれ！　押すなよ、下がれクソども！」
「おい、これ……止まらないぞ。止まらないぞ!?」
「早く、早く俺を上にあげろ！　上げてくれよ！」
「い、ぎ、押すな、つぶれ―――つぶ、ぎゃ」
「端はまずい！　もう隙間がない！　真ん中だ、真ん中に逃げ、ひ、手、手が挟まって、おい、助けて、助け―――べ」
「うそ―――いやぁぁあああああああああ！」
　巨大で古風なミキサージュースのようだ。
　百人以上のおとなたちが、少しずつ、ゆっくりとプレスされていく。どぶどぶと溢れる血液だけを、壁は大切に保管していく。
　その様子を、城壁の上に立つ、奇怪な影が観賞している。
「逃げよう。ここにいちゃいけない……！」
　彼はわたしの手を引いて二番街に<踵|きびす>を返す。
　わたしはクラクラした頭で従った。
　ところで。
　いま、あの透ける壁の向こうに、わたしに気付いて助けを呼ぶ、お母さんの顔が、あったような。
　逃げる途中、色々なものを見た。
　たとえば一面の展覧会。
　広場に続く道路には幾つものオブジェが立っていた。よく見るとそれは人間の大きさぐらいのサボテンで、もっとよく見ると人間そのものだった。
　彼らの表面は<茨|いばら>のようなものでグルグル巻きで、サボテンに見えたのも仕方がない。
　そのサボテンには真っ赤な花が咲いていた。人間を苗床にして咲く吸血花。血液で咲く<深紅の薔薇|ルージュメイアン>。
　サボテンになった人たちは頭ぐらいしかもう人間ではなかったけど、とても幸せそうな顔で笑っている。
　死体に襲われて食べられたり、
　死体と間違われて隣人に撲殺されたり銃殺されたり、
　壁に挟まれてジュースになったりするよりは上等な末路だと思った。だって夢見るような死に様で、わたしも殺されるのならこの方法がいいと思ったぐらい。
　たとえば一面の舞踏会。
　道をずりずりと移動していたのは、大きな大きな虫たちだった。
　六本脚の昆虫。八本脚の蜘蛛。多足類のわじわじしたもの。
　みんな泣き叫びながら、モドシテクレ、と合唱している。
　それらはやっぱりよく見なくても人間で、体中のいろいろなところから新しい部位が生えていた。
“愛だよ。愛だ。あれこそ愛だ”
“ワタシは哀しい。なぜワタシの愛がワカラナイ”
“愛とは与えるモノ。見守るモノ。人を強くするモノ”
“解ってほしい。ワタシはアナタたちが愛しくてたまらない！”
　あきらかに動物の声ではない、機械のような昆虫の声が“人間だったモノたち”に愛を説く。
　それは空中を散歩していた。
　屋根と屋根の間に巨大な巣を張っていた。
　見てしまった途端、もう生きている事を諦めてしまいそうな、ゾッとするほど奇怪な異形だった。
　童話に出てくる悪魔が可愛くおもえる。
　八本もの長い長い脚がキラキラとうごめいている。
　ピアノの鍵盤を叩く指のように、めまぐるしくも美しい<舞曲|タランテラ>。
　他にも見所はたくさんあった。
　凍りついた街並、地面に空いたいくつもの穴、<逃|い>きる事を諦めた人だけを襲う美しい<鳩|とり>の群れ。
　気が狂いそうだった。
　いや、もう無くしてしまった正気がさらに一回転して正気に戻ってしまいそうで狂いそうだった。
　わたしはとっくに限界で、彼に引っ張られて走るだけの生き物だった。
　そんなわたしがいたから、彼はまだギリギリで正気を保ってしまっていた。
「……教会の明かりが消えているのは、どうしてだろう？」
　彼は足を止めてそんな独り言。
　わたしは考える事をやめていたので、そういえばそうですね、なんて相づちも返せなかった。
「もしかして本当に、アイツらは教会には近寄れないのか？」
　そう判断して、彼はわたしを連れて教会に逃げこんだ。
　礼拝堂には他にも多くの人たちがいた。
　お父さんの姿もあった。わたしはお父さんに抱きしめられた温かさと後ろめたさで、<堰|せき>を切ったように泣き出した。
　礼拝堂は避難場所だった。
　50人以上の人間が肩を寄せ、息を潜めて夜明けを待った。
　このまま夜が明ければすべての不思議が終わって、もとの日常に帰れると信じながら。
　でも、
「ああ、なんて嘆かわしい。
　街中の人間が殺到すると期待していたのに、集まったのはこれだけなんて。
　この時代は不信心者が多すぎる」
　祭壇から足音がする。
　ソイツは、暗闇の中でも判る真っ赤な眼を光らせて、
「でも、だからこそ歓迎しましょう。
　ここに集まったアナタたちこそ、生け贄に相応しい敬虔な信者ですから」
　わたしたち全員を、暇つぶしのオモチャにした。
　礼拝堂には血のプールがあった。
　べこん。音をたてて礼拝堂の床がへこんで、わたしたちでは逃げ出せない飼育穴ができあがった。
　どの方法がいちばん鮮度が
　保てるのか試したい、とアイツは
　言った。
　　　　　最初に選ばれたのはクラスメイトだった。
　　体の末端部分から内側に畳まれていく。
　　火にあぶられて丸まるイカの足みたいに、くるくると。
　　<蛇|ク><口|チ>からは悲鳴と中身がどろどろと。
　ひとりひとり
　　　　　　　　　どうも、薄皮にまでノスのがいいらしい。
　二人目とか三人目とか、生きたままで箱になったりカーペットになったり、めまぐるしい。
　ひとりひとり
　アイツは誰かを待っている。その暇を持て余している。
　わたしはいつかの自分を思い出した。お菓子のつまった袋を開けて、テレビを楽しむ片手間に、お菓子をぽいぽいと口の中に放り込む。
　それと変わらないんだな、とやっとわかった。
　<教|こ><会|こ>はスナック菓子をつめた袋で、わたしたちは名前のついたチップスにすぎなかった。
　ひとりひとり
　プールの中は液体ではなく、ぐちゃっとした薄い人間たちで満たされていく。
　悲鳴。懇願。助けて。助けて。カリカリカリカリカリカリ。高く聳える壁を、みんなで仲良く磨き上げた。カリカリカリカリ、ベリベリベリ。爪がはがれても、ぺたぺたぺた。
　ひとりひとり
　名前がどうしても思い出せないけど、ずっとわたしを抱いてくれていたおじさんが選ばれた。泣きわめいたけどダメだった。ヤケになってさからった。そうしたら、アイツは愉しそうにわらって、いちばんひどい方法で、おじさんを、おじさんを、おおおおおおおじさんおじさんおとうさんを殺さないで、ぉねがいです、助けてあげて、やめてあげて、ああもうもうリンゴみたいな大きさに、いやだいやだ、食べないで、食べないで、
　　　　　　“アナタは最後に殺してあげる”
　まずいからってゴミみたいに捨てないで、誰かひろって、ひろってください、踏み潰されちゃうまえに、あの<肉塊|ダンゴ>をひろって。
　　　　　　　　　ああああああああああああああああああ。
　ひとりひとり
　やっと半分がなくなって、プールは半分ぐらい埋まって、みんなみんな頭を<肉|ゆか>にうちつけて、怖くてアイツの顔を見てられないからって、顔を肉にこすりつけて、必死にアイツのごきげんをうかがって、
　わたしたちは、ひとりひとり
　でもけっきょく、そんなのは何の意味もなく、
“夜が明けない”と、だれかが、ようやく口にして。
　ひとりひとり、丹念に、でも何の愛着もなく■された。
　……いちじかんにひとりぐらいのペースだったから、たぶん、みっかぐらいたったあとのはなしです。
　かおをあげると、まだ何個かスナックはのこっていました。
　ふくろのそこ、はこのすみにある、見のがしがちなアレとよくにています。
「……逃げよう。いまなら逃げられる」
　ふと、こえをききました。
　彼は（かたあしとかためがなくなっていたけど）まだイきていました。
　よくみると、アイツはいなくなっています。きょうはかぜがつよいのか、おそとからはビュウビュウと、異様な音がきこえていました。
「死体を積み上げるんだ。そうすればギリギリ届く。……みんな聞いてくれ。この子だけでも助けたい」
　それは、さいごのひかり、でした。
　たすかること。いきてでられることなんて、もう、だれもほしくはありませんでした。はやくたべられておわりたかったです。でも、彼の目は、わたしたちとはちがっていて。
　そのこういは、だれかをたすけようと願うのは、とてもニンゲンらしいと、おもったのです。
　わたしたちはつみあげました。肉製のスーツをつみあげます。それはてんごくへのかいだんみたいに、ぷーるのうエまでとどきました。
「さあ、早く。アイツが帰ってくる前に」
　彼がわたしのてをひいてくれました。
　あれだけとおかったぷーるのウえにはいあがれました。
　よろこぶ残りものたちです。こうなるとちょっとだけキボウをいだくのは、わたしたちのわるいところだとおもいます。
　彼はナガイスをつかむと、わたしのよこで、みんながつくったかいだんを散らしてしまいました。
　なんで？
「……全員で逃げたら気付かれる。仕方のない事なんだ」
　わかります。中身がカラになったらわたしだってきづきます。スナックがちょっとなくなってるぐらいなら、アイツだってきづきません。
　でも、なんで？
　彼はナガイスをこわして、つえがわりにしました。
　わたしの手をひいてそとへ。
　あんなにみなれていて、あんなにこがれたそとへ。
　そとには　おおくの　かいぶつが。
　わたしは彼に背中をおされて、かいぶつたちのめのまえに。
　おかげで彼はあんぜんに　にげだすことが　できるのです。
　うらむことはありませんでした。
　だって、その人がとくべつ、あくにんだったワケではないのです。
　ただ魔がさしただけ。どんなにすばらしいヒトでも、ジョウキョウしだいでひょうへんするのは、よくあるコトなのです。
「―――おい見ろよ、ここにうまそうな女がいるぜ！」
　……うん。
　でもその一言は　余計だったなあ。
　……悲鳴をあげながら食べられている。
　結局。喉を潰したわたしは、こんな時でも悲鳴をあげられなくて。
　先に声をあげていた彼が、よってたかって食べられました。
　わたしは広場に捨てられたまま、骨だけになっていく彼と、変わり果てた町をみあげて、みあげて―――
　その終わりを、見届けました。
　わたしの町の終わりなんて、ちっぽけでした。
　だって、
　世界が凄い事になっている。
　あってはならない変革が起きている。
　すべてを理解する。
　壊れ、幼かった私でさえ進化の目を開かされる。
　ああ―――この<儀|た><式|め>に、わたしの町は使われたんだ。
　けれど儀式は失敗した。
　アイツは白い化身に殺されて、べしゃっと音をたてて、わたしの目の前に落下した。
　逃げたくても体が動かない。
　アイツがわたしを見つめている。
　うち捨てられた人形のようなわたしが、その瞳に映っている。
　気を失うまでの長い長い夜の中。
　わたしは、哀れで無力な、自分自身を看取り続けた。
「―――ぁ、ぐ……………！！」
　凄まじい吐き気に襲われながら、なんとか両足を踏ん張って持ち堪える。
「…………！」
　<酩酊|めいてい>状態の頭を左手で押さえつける。
　負傷した左手は動かすだけで骨が軋み、その痛みで、俺は遠野志貴に立ち戻れた。
「―――出てきた……？
　ただの人間のクセに、わたしの眼の中から……？」
「ハ―――あ、ぁあ、は…………！」
　止まっていた心臓が、心肺機能が再稼働する。
　あえぐように酸素を取りこむ。
　いったいどのくらいの時間、俺は俺でなかったのか。
　今のは俺の記憶でも夢でもない。
　アレは彼女の―――ノエルの記憶の追体験だ。
　現実ではおそらく数分程度。
　けれど夢の中では６日以上、俺はノエルになって、彼女の過去を味わわされた。
「あっと、そっか。ただの人間じゃなかったんだ。
　今じゃ志貴クンは半分吸血鬼、死ぬような目にあっても生き延びるんだっけ。
　―――ほんと、生き汚いにも程があるわ。ロアの精神ごと“夢の中で”殺せると思ったのに」
　頭上から響く声に、脳の隅にいる何者かが反論する。
　ああ、まったくだ。<本|・><物|・>の『薔薇の魔眼』ならソレも可能だっただろう。付け焼き刃ではこの程度の嫌がらせでしかない。
「でも、その人は耐えきれなかったみたい。
　そうよね、もう一度あの出来事を体験させてあげたんですもの。
　ロアに乗っ取られて心が死んで、真祖に殺されて体も死んだ。ひとりひとりの死に様も教えてあげた。今ごろは記憶の中でひとりぼっち。二度と目覚めないのではないかしら？」
「シエル先輩……！」
　ノエルの声を無視して先輩の名前を呼ぶ。
　けど目覚めない。
　名前を呼んでも、体をゆさぶっても、頬を叩いても先輩は目覚めない。
「無駄よ。わたしの魔眼から自力で抜け出したのはアナタだけ。
　そいつはもう目覚めないわ。だって心が死んでいるもの！
　見せつけられた罪に耐えきれず、自分から覚醒を拒否した大罪人。卑怯で下劣な肉人形なんだから！」
「先輩、シエル先輩……！」
　諦めず名前を呼びかける。
　先輩は死んではいない。
　だって呼びかける度に、体がわずかに反応する。
　シエル、と。
　その名前を聴く度に、びくりと、泣くように肩が震えている。
「諦めの悪いひとね。
ああ、生きて出てこれたのも、その往生際の悪さがあったから？
　でも無駄な努力よ。どうあってもアナタは助からない。命乞いをきく耳もないし、逃がすのなんて絶対にない。
　アナタはここで、夢の中のどんな死に方より痛くて酷くて可笑しい死に方で殺されるの」
「あ。でもその前に、せっかくだから聞いておこっと。
　これって<希|レ><少|ア>かつ一度きりの美味しい機会だし」
「ねえ、わたしの<夢|なか>はどうだった？　濃密すぎて興奮した？　可愛すぎて欲情した？　<中|ク><毒|セ>になるぐらい酩酊した？
　っていうか、そいつがどのくらい最悪でわたしがどのくらい正しいか分かってくれた？　心の底から謝って、二人仲良くわたしに殺されたくなったかしら……！」
「――――――」
　愉しげに笑う吸血鬼。
　円陣を組んで俺たちを取り囲む死者の群れ。
　目の前には、目を開けたまま悪夢を見続ける愛しい女。
「………ああ、そうかよ」
　つまりは我慢の限界だ。
　カチン、と。頭の隅で、撃鉄が落ちる音がした。
　一秒だって無駄には使えない。
　状況は言うまでもなく最悪だ。
　俺は、
　―――最短で殺す。
　眼鏡を外して疾走する。
　俺の体験した“悪夢”がノエルの能力であるなら、ヤツを殺せば、先輩も解放される筈だ。
　あんなものを先輩には見せたくない。
　一秒でも短く、あの吸血鬼を黙らせる……！
「あはっ、きたきた♥
　志貴クンったら我慢が利かないんだぁ。これだから若い子はチョロいってゆーかぁ……
　考えてるコトまるわかりで、嬉しくなっちゃうくらい憐れよね！」
　飛び出した俺に合わせて、左右から死者たちが押し寄せてくる。
　挑発に乗った俺が突進するのを、ノエルは舌なめずりをして待ち構えていた。
「あ、ゴメーン！　今はわたしの方が若いんだった☆
　志貴クンが憐れなのは若いからじゃなくて、そんな女に騙されるあたま―――」
　今更、５体の死者では障害にもならない。
　俺の体が半ば吸血鬼化しているからじゃない。
　シエル先輩に比べれば、死者はただ“痛みを感じない肉の壁”にすぎない。
「どういうコトよ、今の選りすぐりなのよ！？」
　俺の接近を認め、とっさに後ろに跳ぶノエル。
　一瞬で10メートルの後退。
　―――問題ない。
　今の俺なら、あと４秒でその首を切断する。
「ああそう、なら―――！」
　シエル先輩を串刺しにした鉄の槍が放たれる。
　単純な直線軌道なのでこれも躱す。
　ナイフが届く距離まで、あと３秒。
「―――うしろ、うしろ♥」
　吸血鬼の広い視野が、鉄の槍の<本|・><当|・><の|・><狙|・><い|・>を察知する。
　ノエルの槍は膝をついたまま動かないシエル先輩めがけて飛んでいく。
「――――――」
　一瞬の躊躇もない。
　俺は、
　その結果を、一切考慮しなかった。
「コイツ……！」
　吸血鬼が代行者を<そ|・><の|・><よ|・><う|・><に|・><使|・><う|・>事は予想の範囲内だ。
　その上で、最短で殺すと決めた。
「―――ああ、もう―――」
　２秒。
　破壊された左腕がもどかしい。
　疾走する体のバランスが取れない。
　0.3秒の予想値とのズレ。
　それもここまで来れば誤差の範囲だ。
　この一歩で、俺はこの吸血鬼を、
「―――どうしてそう、わたしの癇に障るのかなぁ！」
　―――それは、俺自身、理解不能の反応だった。
　ノエルの背後に死者が立っている。
　死者の傍らには16歳の少女がいる。
　恐怖が張り付いた少女の顔。
　その首すじに食い込む、吸血鬼の―――
　あくびがでるほど単純な槍の掃射。
　躱すどころか、反応もできず串刺しにされる。
　視点が一段落ちる。
　……なんて屈辱。
　俺は殺すと決めた吸血鬼の目前で、ひざまずくように、膝を折っていた。
「―――、あ……」
　一瞬。ほんの一瞬、遠野志貴の意識は吸血鬼から剥離された。
　本当に、シールのようだ。
　あれほど“それだけを行う”と決めた思考が、外的要因で簡単に剥がされるなんて。
「―――ふふ。あと一歩だったのに、ザーンネン。
　でも内容自体は百点満点だったわ。
　今のは志貴クンのミスじゃないから、減点はしないであげる」
「……っ、ぁ―――！」
　串刺しの槍を手に取ると、吸血鬼は鼻歌まじりに引き抜いた。
　槍に絡め取られた肉と血管から、赤い血が滝のように噴出する。
「ねえ不思議？　不思議だった？
　どうして手が止まったのか、ぜんぜん分からないでしょう？」
「あ、が―――！」
　吸血鬼の体は痛みを感じない、というのは嘘だ。
　この痛みは、人間である時より遙かに脳にくる―――！
「ゴメンね？　アナタがわたしの記憶を見ていた時、わたしもアナタの記憶を見せてもらっちゃった。
　志貴クン本人も忘れている、とっても楽しい、子供時代の大切な思い出をね？」
「ひ、ぎ、ぃ―――…………！」
　一本ごと、引き抜かれる度に脳が焼け付く。
　それはいい。すぐに戻る。
　問題は血だ。
　体に流れる血液が減れば減るほど、俺は人間以下になってしまう。
「それを見て分かったの。
　キミは今の光景を無視できない。
　もうどうしようもないほど手遅れで、救いがなくて、可哀想な生き物だってコトがね！
」
「ぐぁ、ぁああぁああ―――！！！」
　……最後の槍が引き抜かれる。
　……血液が足りない。
　……できる事はもう少ない。
　……ナイフはまだ握られている。
　……あと20センチ。
　……それだけの距離、吸血鬼が頭を下げれば、まだ、
「……趣味が、悪い、ぜ……
　殺すなら、さっさと、殺せ、よ」
　顔をあげて、ノエルを挑発する。
　俺にできるのはこれくらいだ。
　もう他のものは見ない。
　余分な景色に意識は割かない。
　……残った最後の一振り。
　その全てを、この女に集中する。
「わたしの趣味が悪い？
　そんなの知ってたでしょ？
　言ったじゃない、キミは特別。犯したいレベルだって。……ふふ。こっちの望みも叶っちゃった」
「わたしの趣味が悪い？
　……ふふ。ふふふ。うふふふふふふふ……！
　そうね、ここからが本番だもの！　身も心もメチャクチャに犯してあげる！」
　笑いながら、吸血鬼が敗者の顔を覗き込む。
　勝ち誇った笑みが下りてくる。
　―――０秒。
「―――え？」
　何の歪みもなく、ストン、とまっすぐに落ちる首。
　熟れて落ちる柿を連想する。
　……相手がノエルで助かった。
　出血で薄れていく意識の中。
　俺はナイフと共に、意識を闇に落としていった。
「―――え？」
　暗闇で声を上げる。
　どういう事だ。俺は気絶していない。
　最後の力を振り絞っても意識はある。
　いや、あるどころか元気いっぱいだ。
　自分の体を確認する。
　鉄の槍に串刺しにされた跡はあるが、傷は完全に塞がっている。
「まさか―――」
　転生体であるロアが、俺の体を守ったのか？
　そうとしか考えられない。
　ヤツと俺はある意味、一心同体だ。
　自らを守る為、瀕死だった俺に手を貸した―――？
「……でも、それなら」
　納得できる。
　問題は解決していないが、とりあえずの窮地はしのげたという事だ。
「……ぷ。
　ぷぷ、あははははははははは！」
「っ、ノエル！
」
　どこからか響いてきたノエルの声に、とっさに身構える。
　しかしノエルの姿はどこにもない。
　気配も感じない。
　いや、そもそも―――ここは、どうしてこんなに暗いんだ？
「ロアのおかげか……？　とか、おっかしーぃ！
　あんなヤツ、わたしが許すワケないじゃない。
　ここにいるのはアナタだけよ、志貴クン」
「何処にいる、ノエル……！」
　不安から声をあげる。
「えー。何処ってまだわからない？
　もー、仕方ないなぁ。はい、特別サービスね？」
　視界に広がっているのは、元の瓦礫の広場だった。
　死者の群れと、
　串刺しにされたままのシエル先輩と、
　地面に膝を突いた俺がいる。
　ノエルの首を断ってから数秒と経過していない……
　いや、待った。
　なにかおかしい。この景色は何か。
「―――なんだ。なんだこれ。なんだこれ―――！」
　先輩に駆け寄ろうと走り出す。
　何も変わらない。
　視界は何も変わらない。
　かわりに、ドン、と何かにぶつかった。
　目の前に透明の壁がある。
　決して破壊できない、逃げだせない、世界の果てのような壁。
　右手を振りかぶるがナイフはない。
　そもそも死の線が何一つ視えていない。
　胸の傷もない。
　頭痛もない。貧血もない。
　それと、あのおぞましい、ロアの吸血衝動が存在しない。
「―――夢。
　夢だ。これは夢だ。でも、」
　起きている、という実感がある。
　これが現実だという確信がある。
　……この感覚はさっき、イヤというほど味わった。
　死徒ノエルの魔眼の世界。
　じゃあここは―――
「ええ。わたしの瞳の中よ、遠野志貴クン。
　アナタの<精神|トラウマ>、いただいちゃった♥」
　響き渡る女の声。
　ヤツの姿も気配もないのは当然だ。
　俺は今、精神だけがあの女に囚われている。
「アナタの方からわたしを熱心に見てくれたでしょう？
　そのおかげでもう一度、アナタを薔薇の魔眼に写しこめたの。
　さっきはわたしの記憶だったけどぉ、今度は魔眼そのものに<精神|なかみ>をずきゅゅゅゅゅゅうん！
　かくして志貴クンの精神はこっち側に！
　外に遺された肉体には、言うまでもなく―――」
　のそり、と傷ついた遠野志貴が立ち上がる。
　ソレはニタリと笑うと、死者のような緩慢な足取りで、シエル先輩に向かって歩き出した。
「ま―――」
「当然。志貴クンがこっちにいるんだから、あっちにいるのはロアだけよね？」
　遠野志貴が歩いていく。俺を置いて歩いていく。
　その先には、
もう動く事のない先輩が、
「やめろ、
やめろーーー！
　ダメだ、先輩逃げて―――！」
　眼球の壁を叩く。
　壁は震えるどころか、打撃音さえしなかった。
「見て見て、ほらちゃんと見て！
　あの女は志貴クンの手で八つ裂きにされて、ロアに全てを奪われるの！
　どうどう？　なかなかのオチじゃない？」
　耳を塞ぎたくなるような、甘い笑い声が響く。
「うるさい、黙ってろ……！
　出せ、出せ……！　チクショウ、出せ……！」
　視界では解体が始まっている。
　ナイフはなめらかに先輩の肉を捌いていく。
　丁寧に。緩慢に。
　獲物の苦痛を、味わうように。
「ああああああああ！
　出せ、出せよ、出して……！
　お願いします、出してくださいノエル先生……！」
　精神だけになっても傷はつくのか。
　壁を叩く腕は拳の根本から折れていた。
　それでも壁を叩き続けずにはいられない。
　いま<目|・><の|・><前|・>で起きている惨劇を、どうか止めてくださいと縋るしかない。
「――――ああ、たまんない
。
　これが吸血鬼の愉しみ……魂を陵辱するって、こういうコトなんだぁ……」
　陶酔する声が響く。
　どれほど縋っても、何を捧げても、吸血鬼は俺の願いを聞き届けない。
　それは、あの悪夢の中で思い知った事実だった。
「あ―――ああ、ああああ―――」
　無力さに泣き崩れる。
　俺に出来る事は、もう何一つ―――
「いいえ。そんなに自分を下げちゃダメよー？
　だって、わたしに飼われているかぎり、できること、やるべきことは沢山あるんだから」
「アナタには自分の<過去|トラウマ>を見せてあげる。
　任せて、同じ展開なんてさせないから。
　犠牲者がひとりだったら、次はふたりに。
　指を一本失うなら、次は二本に。
　思い出すだけで心が削られる思い出を、少しずつ少しずつ、より悲惨な<過|も><去|の>に変えていって―――」
「ひとかけらの救いもない“思い出”になったら、それが本物なんだって、アナタの過去に組み込むの。
　それでもまだ心が壊れなかったら―――」
「その時はもっと酷い地獄を用意してあげる。
　愉しみね、わたしの愉快な暇つぶしさん？」
　吹きすさぶ薔薇の天幕。
　遠野志貴だった<俺|もの>は、出口のない劇場に囚われた。
　―――状況は理解できている。
　死者たちに囲まれている以上、普通の人間なら生きては出られない。
　俺ひとりで抵抗しても数体と揉みあっているうちに手足を掴まれ、食い殺されるだけだ。
　だが俺はもう普通じゃない。
　血を口にしていないだけで、半分以上おかしな<体|コト>に成っている。
　右手でナイフを握る。
　左手の痛みは歯を食いしばって我慢する。
　俺は左手でシエル先輩を抱き抱えて、死者の円陣を全力で跳び越えた。
　助走をつけて、10メートル近い距離を一息で突破する。
　足首に負担をかける、ただ落ちるだけの乱暴な着地。
　先輩を抱えているので何の受け身も取れなかったが、靱帯に深刻なダメージはなかった。
　……これが吸血鬼の身体機能。
　相手が死者だけなら十分に逃げきれるが―――
　……一瞬だけ背後に振り向く。
　赤い吸血鬼は満足げに笑っていた。
“そうでなくては面白くない”と、嗜虐心をむき出しにして。
「走るぞ、先輩……！」
　脇に抱えていた先輩を背負い直して、瓦礫の道を走る。
「……！」
　その直後、地面を蹴る脚の<腿|もも>を凶器がかすめた。
「“愉しい狩りの始まりね。ああ―――ほんとう、夢みたい。
　ずっとこうしたかった。ずっとこの時を待ち続けたの！
　最高、ありがとうって言ってあげる！　期待通りの反応で嬉しいわ、お人好しの人殺しさん！”」
　耳元で<鐘|こえ>が響く。
　……落盤地帯全体に響く鐘と、俺に向けて放たれた指向性の音波。鐘の音はここの構造を把握する為の<探|ソ><知|ナ><波|ー>だろう。
　死徒もⅥ階梯となれば固有の超抜能力を持つ。あの吸血鬼の異能は音にまつわるものらしい。
「知ったことか、馬鹿……！」
　生き残るためには必要な考察だが黙っていろ。
　今は悠長にヤツのぼやきを聞いていられる状況じゃない。
「はあ……はあ……はあ……！」
　背後からの気配を振りきって走る。
　走りながら俺は怒りに震えている。
　とてもじゃないが、今は一つの事しか考えられない。
　俺は<理|わ><解|か>っていなかった。
　13年前に起きた一つの事変。
　人の力では止めようがなかった悲劇。
　それを知らないまま、ロアを倒すなんてよくも口に出来たものだ。
　代行者ノエルが、俺を心の底で軽蔑していたのは当然だった。
　……そうだ。彼女には同情する。
　彼女が復讐をかかげる経緯には何の異論も挟めない。
　殺された人々の仇をとる。
　ただひとり“人間として”生き残った彼女にとって、ロアへの復讐は正当な権利だ。
「“ほら、急がないとヤキトリ串みたいになっちゃうぞ？
　まずは足から？　そうしたらお腹を刺して一纏めにしてぇ、最後はやっぱり股間から脳天までブッ刺すのが定番よね！”」
　背後に鉄の雨が降っている。
　吸血鬼は完全に遊んでいる。
　俺が少しでも足を緩めれば串刺しになるよう、紙一重のタイミングで追い立ててくる。
　先輩を抱えたままじゃ逃げる事しかできない。
　それもいずれ追いつかれ串刺しにされる運命だ。助かりたければ先輩を置いていくしかない。
　あの吸血鬼は『その場面』が見たくてわざと俺を逃がし、こうしてゆっくりと追いつめている。
「は、あ……！」
　関係ない。今の状況なんてどうでもいい。
　俺の頭の中は渦巻いた怒りでどうかしそうだ。
　―――俺は本当に、何もわかっていなかった。
　地獄の責め苦の末に生き延びた少女の事も。
　その地獄を引き起こした後、現実に戻らされた彼女の事も。
「くそ……くそ、くそ……！」
　怒りを吐きながら走る。
　自分だけが被害者だと思っていた。
　先輩の数少ない吐露に気付きさえしなかった。
　ロアの転生先になった人生。
　それがどんなものなのか、考える事さえしなかった。
“……昔、私はこの体になるきっかけで罪を犯しました”
“多くの間違いをおかして、多くの人命を見殺しにした”
“その後、私に課せられたのは犠牲になった人々の数と同じだけの処罰でした”
　ふざけてる。なんの悪夢だそれは。
　今の俺と同じ、自分の意思が残ったままロアの行為を見続けて、ロアとしてアルクェイドに殺された。
　それでようやく終わったのに、“その後”ってなんだ。
“教会の人たちは異端者であるその子を何度も何度も殺すんですけど、どうやっても―――”
　殺した数だけ殺された。
　生きたまま、人間でありながら不死身の<物|モ><体|ノ>として扱われた。
　それだけの贖罪をして、まだ―――
“でも、そんなのは違うんです。私はぜんぜん強くない”
“単に死なない体だから、体が強いから罰に耐えられただけ。普通の体だったなら、きっと一日で投げ出していたんです”
　―――まだこの人は、自分を<赦|ゆる>す事が出来ていない。
「ふざけ、やがって……！」
　人間として死にたい、だって？
　それは何もかも忘れて楽になりたい、なんて救いですらなかった。
　この人にとって、それは絶対の義務だった。
　ロアに奪われる命を救い、ロアを殺し、自分も死に裁かれる。そこまでしてようやく罪が償われると、彼女は思いこんでいる。
「っ、は―――は、ぁ……！」
　俺には無い。
　やっぱり、俺にはそんな強さはないです先輩。
　あるのは暴力的な怒りだけ。
　シエル先輩がどれだけ重い荷物を背負っていたのか分かっていなかった、自分自身への怒りだけ。
　ああ、でも―――
「“ふーん。まだそんな体力が残っていたんだ。
　志貴クンひとりならとっくに地上に逃げられたのにね。いったいいつまで、そんなガラクタを背負ってるつもり？”」
　―――今は、それが良かったと自分勝手に思っている。
　俺は貴女に殺されないで良かった。
　たとえロアを見逃したとしても、貴女をあのままひとりにしなくて、本当に良かった。
　力のかぎり跳躍して、崩れかけた廃墟の中に隠れる。
　追撃はやってこない。
　……やっぱり。あの吸血鬼はまだ未熟だ。
　今の段階では音を立てるもの……動いているものしか感知できない。
　ようやく条件に合った場所を見つけられた。ここなら人ひとりぐらいは隠せる。
　建物の端に先輩を下ろす。
　……先輩は目を開けたまま眠っている。
　傍目には死人のように見えるが、生きている。
　……決して死ねない体だから、この人はここまで苦しんだ。
　こんな事で―――あの吸血鬼の魔眼なんかで倒れる訳がない。きっとすぐに目を覚まして、俺の前に現れてくれる。
　だから。
　俺がやるべき事は、それまでの時間を作る事だ。
「――――――」
　動かない先輩を抱きしめる。
　藍色の髪を撫でながら名前を呼びかけて、今の自分にある精一杯の言葉を伝える。
　……たった10秒の<抱擁|ほうよう>で、互いの体温を伝え合う。
　先輩から離れる。
　いま自分がしたい事はこれで果たした。
　後はやるべき事を果たすだけだ。
　俺は大きく息を吸って、見晴らしのいい広場に跳び出した。
　瓦礫の谷間から抜け出して、陥没した大地の中心に戻る。
　俺ひとりなら体はここまで軽い。
　今なら瓦礫の段差を足がかりにすれば、数分で地上に生還できるだろう。
　もっとも、
「あら、<茂み|ブッシュ>から出てきてどうしたの？
　もしかして諦めちゃった？　それとも命乞い？
　どっちにしろ、楽しいウサギ狩りはここまでかしら？」
　そんな展開を、アレが見逃す筈もない。
　周囲を鉄柵で封鎖し、吸血鬼はトン、と軽い足取りで地上に降りてきた。
　俺と同じ視点。―――今の俺が踏み込めば２秒で到達できる、目と鼻の先の荒れ地に。
「うんうん、お荷物は暗がりに落としてきたのね。
　ええ、それでいいの、それが正解だもの。良かった。アナタにもまだ人間らしいところが残っていたのね、志貴くん？」
「っ…………」
　身構えながら相手の隙をうかがう。
　もう戦いは始まっている。口調こそ親しげだが、言葉には殺意しか籠もっていない。
　吸血鬼を見据えながら、横目で周囲を確認する。
　俺の移動に追いつけたのはノエルだけだ。死者の群れはこちらを目指しているが、到着まであと数分かかるだろう。
　まわりに打ち込まれた凶器は１メートル間隔で突き刺さり、鉄柵となって俺を取り囲んでいる。
　大きさにして直径40メートル近い円形の囲いだ。
　……跳び越せない事はないが、鋭敏化した五感がそれは罠だと告げている。
　たとえば音波妨害。先ほどの魔眼ほどではないにせよ、脳を揺らされれば思考と平衡感覚が狂わされる。
　そうなれば俺はただの<的|マト>だ。あっさり心臓を串刺しにされてしまう。
　おそらく、これがあの凶器の本来の用途なんだろう。
　ノエルの根底にあるのは『軟禁の責め苦』だ。
　ある程度の広さを持つ牢獄に閉じこめられ、緩やかな地獄を見せつけられた事が<異能|のろい>の原型になっている。
　この<円陣|サークル>から抜け出すには、大本である彼女を排除するしかない。
「あら、怖い怖い。眼鏡をとったってコトはぁ、わたしを殺す気になったってコトよね？」
　―――これで、後は殺し合うだけになった。
　わずかな判断ミス、わずかな運の差で俺は殺される。
　恐ろしいか……？
　恐ろしいとも。ヴローヴと向かい合った時でさえ、ここまでは怖くなかった。
　互いの戦力差だけでなく、あの少女の内情を見てしまった。
　俺はあの吸血鬼を根本から憎む事はできず、それは明確な敗因に繋がるだろう。
　だが負ける訳にはいかない。俺はここで倒れる事はできない。
　ノエルの手には一本の凶器が握られている。
　……これまでさんざん撃ち込んできた鉄串だ。その気になれば複数操れるだろうに、今は一本で十分だと笑っている。
「知ってるわ。キュウソネコを噛む、でしょ？
　あ、それはダメか、わたし負けちゃうもの。えーと、この場合はシチュウに活ありってヤツ？　ま、どっちでもいっか。
　大事なのは、生意気にもわたしをどうにかできると思ってるその目つきをどう教育するか、なんだし」
　……来る。武器の有利不利、身体能力の差はどうあれ、受けるのは二回が限界だ。
　俺はナイフを順手に握り、重心を<両踵|かかと>に預け、
「うん、まあ体罰が妥当よね。そんなナイフでどこまで持ち堪えられるか、先生が試してあげる……！」
　力まず、気を緩めず、倒れるように後方に身を流した。
　ブリッジに近い姿勢で、飛びこんできたノエルごと凶器をやり過ごす。
　心臓を貫こうとする串の切っ先が鼻の先をかすめる。
　こわばったノエルの口元が見える。
　目の前には無防備に“線”をさらけだした女の腹。
　俺は下に回りこんだ状態で、その線に狙いを定め、
「っ……！」
　串を持ったノエルの肘を躱しきれず、次の瞬間には無様に弾き飛ばされていた。
「い、っ……！」
　背中から地面に落ち、何度か回転して勢いを流す。
　失敗した。吸血鬼化しているのはノエルだけじゃない。自分の動きが<想定|イメージ>より早すぎて、こっちから肩を当てにいくカタチになった。
　結果、掠っただけでこの始末だ。
　あの小さな体でも小型トラック並の馬力がある。反省しろ。凶器さえ躱せばいいという訳じゃない。
「すごい、マタドールみたい！　それともウツセミの術？　
ううん、違うわよね、主役はわたしなんだもの。せいぜい目障りなカトンボってところかしら？
　どっちにしろ面白い、素敵よ志貴クン！　今ので当たらないのなら、次はもっと少し強くいってあげる……！」
　一方、敵も似たような状況だった。
　今のはノエルにとっても全力での突進だった。
　それ以外なんの<予備策|フォロー>も考えていない愚直な攻撃。躱されたあとも勢いを殺せず、鉄柵にぶつかる事でようやく止まっていた。
　力を持て余している……いや、アレは楽しんでいるとしか思えない。
　とはいえ、こっちも相手を笑えない。
　肘に弾き飛ばされただけで右肩の骨が粉砕した。
　焼くような痛みは傷の痛みではなく、傷を治す痛みだ。
　見なくても分かる。いま肩の内側では、砕け散った骨をヒルのような筋肉が集め、包み、強引に“元に戻して”いる。
「―――なあ。さっきから、気になってたんだけど」
　数秒でいい。せめて肩が繋がるまで時間を稼ぎたい。
「なに？　わたしの魅力にまいっちゃった？　年下の先生って興奮しちゃう？」
「……そりゃあ、別の意味でまいってるけど」
　死徒とは“生命のバージョンアップ”だ。
　吸血鬼になる事でその身体の最適解ともいえる美貌を得る事もあるし、人間以上の快楽を与える名器にもなり得る。
　彼女の場合、美の最適状態があの外見年齢という事。
　未成熟な時期が最適となっている時点で、動物として哀しいものを感じないでもない。
「いや、そうじゃなくて。
　アンタがロアを憎む理由は分かった。でもいいのか、こんな方法で。俺を殺してもロアは死なないぞ」
　ロアは転生する<情報|たましい>だ。
　俺を殺したところでロアは死なない。ロアを殺したいのなら第七聖典による洗礼か、過程を問わず“死”の結果だけを与えるものでなくてはいけない。
「ええ、その通り。頭のいい命乞いね。
　確かにアナタをメチャクチャにしたところでロアには何のダメージもないわ。わたしの復讐は果たされない」
「なら」
「うん。でもいいの、そんなの。ロアへの復讐なんて今さらなんの意味もないと思わない？
　ロアを殺せば誰かに褒めてもらえるワケでもないんだし。そういう良い子チャンごっこはあの女にお似合いでしょう？」
「――――――」
　その台詞を聞いても驚きはなかった。
　ノエルの<心|こ><理|と>はとっくに気付いていた。
　右肩は……よし、もう骨が出来ている。
「やだ、ビックリさせちゃった？
　そう、わたしはロアの転生体を殺したいだけ。アナタを殺して気持ち良くなりたいだけ。あの女を殺して気持ち良くなりたいだけなの……！」
「その後のコトは、またその時に考えればいいと思わない？
　だってせっかく吸血鬼になったんだもの！　後先を考えてガマンするなんて、そんなの、人間らしいにも程がある！」
「……矛盾してる。ロアを殺さないと先輩は死ねないのに」
「馬鹿じゃないの？　アレは生き返るだけで死なない訳じゃないでしょ。殺せばちゃんと死ぬのよ、あの人は」
「だから、ね？　ずっと殺し続けておけばいい。たとえば濃硫酸のプールに浸しておくとかどう？　生き返っても即死する状況にしておけば、あの子は永遠に生き返るけど“生きていない”事になるでしょう？」
「――――――」
　十分すぎるほど時間は稼げた。
　右肩は完治した。頭痛がするのは血液を使ったからだ。
　まったくもって冷静だとも。
　その証拠に、鉄柵の周りには死者たちが集まってきているコトも把握している。
　だから、頭痛を押し殺して最後の質問だってできる。
「ノエル先生。これが貴女との最後の会話でしょうけど」
「最期、の間違いよ志貴クン。日本語は正しくね？」
「……むざむざ殺される気はありません。それでも、貴女が俺だけを殺すというのなら、筋は通っています」
「へえ。だからシエルは見逃せっていうの？　本気？
　でも無理。無理だから。というか志貴クンの命なんてどうでもいいし？　先にアナタを殺しておけばアイツはもっと苦しむでしょう？
　分かる？　アナタはただの前菜なの。わたしにとってメインディッシュはあの女の処刑ってまだ分かんない？」
「――――――そうか」
　これでもう会話はなくなった。
　礼拝堂で震えていた少女の姿を、思い返す事も、なくなった。
　ここで倒れられない理由も明確になった。
　俺はかろうじてあった<同情心|にんげんらしさ>を切り捨てて、
「訊いた俺が馬鹿だった―――！」
　こめかみの頭痛を噛み潰して、二度目の接触を試みた。
　距離にして<三間|６メートル>。踏み込みは二足で事足りる。
　一足。こちらを迎え撃とうと構えるノエルの右手と、地面を踏みしめる右足のつま先を確認する。
　右手に構えた武器を突き出すのなら軸足は左になる。右足に力が入るという事は、
　二足。敵の間合いに入った。
　武器の<射程|リーチ>でこちらは劣っている。
　まずはこの一撃をかいくぐらなければ<蠢|うごめ>く線を切断できない。
　俺は直前で急停止して、心臓めがけて突き出された凶器を躱して今度こそ、
「なーんて、<真|マ><剣|ジ>で付き合ってあげると思っちゃった？」
　ピン、と。
　中指だけの最小の攻撃で横腹を弾かれ、鉄柵まで吹っ飛ばされた。
「ご、ぶっ……！」
　背中から鉄柵に衝突する。
　横腹の感覚がない。横隔膜の損傷で呼吸が出来ない。
　加えてこの音。
　鉄柵に触れた途端、脳をかき回す音に襲われる。
　目を開ければ、すでに死者の手が伸びている。
　地面に倒れこんだ俺に殺到する手、手、手。
　倒れたまま転がって鉄柵から離れる。
　ノエルの指示なのか、死者たちは鉄柵の中には入ってこない。
　となれば、間髪入れずにノエル自身の追撃が来る―――！
「あ―――ああああ―――ああもう、最っっっ高！」
　……追撃は来なかった。
　円陣の中心には、自分の体を抱きしめる吸血鬼がひとり。
「これが吸血鬼の体なのね！　イメージ通りに体が動いて、イメージ以上の力に満ちている……！
　わたし、ずっと疑問だった！　どうして吸血鬼たちはあんなに偉そうで、ドイツもコイツも人間を虫ケラ扱いするのかって！　でも、その理由が分かっちゃった！」
「だって実際虫ケラなんだもの、<人間|あなた>たち！
　たった一度生きてたった一度死ぬしかないなんて、小さすぎて笑っちゃうわ！」
「………………」
　鉄柵から離れ、吸血鬼に向かって歩き出す。
　呼吸はまだ不完全だが、歩いているうちに回復するだろう。
「そうよ、いらっしゃい。
　アナタが逃げ出さないかぎり死者たちには手を出させない。
　次は指一本じゃなくて、ちゃんと平手打ちで真っ二つにしてあげる。この舞踏場の中で、ボロボロになるまでわたしと楽しみましょう？」
　先ほどと同じ距離まで歩いて、足を止める。
　吸血鬼は更に本気になったようだ。
　今まで機能しなかった左手を握りこむ。……指はまだ動かないが腕は動かせる。
　また、二度の攻撃を受けて必要な情報は手に入れた。
「…………チッ」
　苛立ちから舌打ちがこぼれる。
　―――まずいな。
　コレ、ホントに殺せるぞ。
　俺の溜息を恐怖からの諦めと見たのか、吸血鬼は<恍惚|こうこつ>の笑みで地を蹴った。
　凶器を突きだしての、推力に任せただけの突撃。
　三度目はない。
　多少速度はあがっていても、この吸血鬼の上限はもう見えた。
　迫り来る鉄串に、復元した左腕をあてがう。
　手首に突き刺さる串。そのまま心臓を貫くソレを、左腕ごと横に払う。ああ、また左腕が吹き飛んだ。でもまあ、安い取引だ。目の前には、
　あまりにも無防備な、少女の首が差し出されている。
　俺は、
　地面に転がっていく、手鞠のような丸いもの。
　一方、それを落としてしまった吸血鬼の体はだらしなく地面に倒れ、滑走していく。
　滑落した列車のようだ。
　倒れた後、衝撃に耐えきれずひしゃげ、ひび割れ、スクラップになっていく。
「え―――なに、これ？」
　最後まで、自分がどうなったのか、何が悪かったのか悩むこともできず、その首は灰になった
。
　<死徒|ノエル>に命を奪われ、尊厳を手繰られ、死してなお活動していた彼らも、次々と地に伏していく。
　何もかも元の、死徒が現れる前の世界に戻っていく。
　その中で、
　シエル先輩だけが、たちあがることなく、うずくまっていた。
「先輩。済ませましたよ、先輩」
　あゆみよって声をかける。
　先輩はピクリともうごかない。
　なにをしても反応しない。
「もう。わかりました、付き合います」
　いって、先輩のよこに腰をおろす。
　さいわい夜はこれからだ。
　時間はいくらでもある。
　あさまでに目覚めればいい。
　俺もまだ吸血鬼化ははんぶんくらいだし。
　太陽のひざしで丸やけになる、なんて目には、あわないだろうし。
　…………。
　…………………。
　…………………………ああ、そうか。
　ちょっとまちがっちゃったかな。
　先輩にはいくらでもじカんがあるけど、
　俺は、わりとそうでもなかったんだっけ。
　それはそれとして絶好のチャンスだ。
　膝をかかえた先輩のよこがおをのぞきこむ。
　かわいい。美人だ。なんかもうぜんぶ愛せる。
　なので、こんな状況なのに、にへっと笑ってしまった。
　に時間が経っていた。
　うごくものは、
　うごいたものはなにもなかった。
　でもとくにいろんは
ナい。
　彫像になっても先輩はかわいい。
　反面、俺の方はよろしくない。
　頭痛はどんどんヒドくなって、ズキリとくるたび、視界があカくかわっていく。
　そういえば、そもそもておくれなんだった、
と口にだしてみる。
　先輩からの返しはない。ちょっとさみしい。
　でも、隣にいてくれるだけでうれしかった。
　吸血鬼をたおせば、そのきゅうけつきのあくじは消える、とふつーはおもう。おもうよな？
『馬鹿ですね、遠野くんは』
　せんぱいはそう言って笑った気がした。
　そうなのである。
　そいつをたおせばすべてもとどおりなんて、そんな都合のいいはなしはない。
　あったら、せんぱいはとっくに、ロアをころしてかいほうされているんだから。
　時間もあるので、
　やしきのことをかんがえようとおもった。
　あきは、ひすい、こはくさん。
　おれがいなくてもしあわせにすごしてほしい。
　いや、おれがいないほうがしあわせかな？
　お姫さまのこともかんがえる。
　もっとちがう出逢いだったらどうなっていただろう。
　まじぼれしてたかな。してたかもな。
　でも、こんかいはそうじゃなかった。
　あいつがもんどうむようでハッピーになって、おれもこころのそこからわらえる“もしも”を、かみさま、どうかよろしくおねがいします。
　―――ああ。
　　　　それにしても、頭がいたい。
　いたすぎて、となりにいるびじょがみられないぜ。
　ごめんな、せんぱい。
　のえるせんせいとは、せんぱいがカタをつけなくちゃいけないって、じつはわりときづいてました。
　でも、それはとても、つらいので。
　貴女にとって、とても辛い事なので。
　俺が、身勝手に引き受けました。
　もういいかげん、いたすぎてつらいので、ここでおれはおしまいです。
　そのまえに、もうひとり、わるいヤツをたいじします。
　目がさめたとき、ほめてくれるとうれしいです。
「―――まあ、仕方なかったよな」
　やくそくをはたせなくてごめんなさい。
　末期の感覚に、少しだけ意識は鮮明に。
　夜は長く。
　夜は深く。
　誰も知らずに。
　一端の幕は落ちた。
　夜明けは遠い。
　どうかそれまでに、彼女が目覚めますように。
　敵の首元を刈り取るナイフを止める。
　千載一遇の機会を見送る。
　俺は一度目の衝突を<反復|リピート>するように、吸血鬼の末端部分……今度は膝だった……を躱しきれず、荒れ地に弾き飛ばされた。
「っ…………！」
　左手はもう使い物にならない。
　肩に付いているのが不思議なぐらいの<挽肉|ミンチ>ぶりだ。
　出血がひどくて意識が遠のく。この分じゃすぐに呼吸ができなくなる。唯一の幸運といえば、体温はとっくに冷めていたので寒さに震える事はないぐらい。
　文句のつけどころがないほど完全な死に体だ。
　仕方がない。今のはこうなる事を前提にして呼びこんだ唯一の殺害の機会だった。
　それを自分から放棄した時点で、残るものは死の運命だけだった。
　あの吸血鬼は、
　俺から10メートル以上離れた場所で、首に何度も手を当てて確かめていた。
　恐怖に凍った顔で、ちゃんと自分の首が付いている事を。
「えっと―――いま、もしかしてヤバかったの……？」
「……………」
　答えてやる義理はない。
　もう二度とあんな機会が訪れないだけだ。
「待って。待ってよ。待ちなさいよ。どういうコト？　情け？　情けをかけやがったの？　ピンに刺されるだけの虫のクセに、こんなに強くなったわたしを、まだ下に見るっていうの!?」
「そ……そうよね。そんなワケ、ないわよね。
　だってわたしの方がずっと強いんだから。吸血鬼としてもわたしの方が上なんだから。キ、キミなんかに、怯えてなんかないんだから！」
　吸血鬼は<喚|わめ>きながら柱の上まで飛びあがると、忌まわしい虫を見るように俺を睨んだ。
「もういい、遊びは終わりよ。そこでみじめな肉になっちゃえ」
　……<鉄柵|ボーダー>を越えて死者たちがやってくる。
「……ほんと今さらだけど。
　アンタのそういうところは、素直に凄いと思うよ」
　だってこれが最善策だ。
　俺に近づかれれば何であれ死ぬ可能性がある。
　それを実感したのなら、死が怖いのなら、俺と白兵戦なんてする筈がない。遠くから射殺するか、こうして数に任せて持久戦に持ち込むのが正しい。
　あの吸血鬼は力に溺れながらも、自分の器というものが分かっている。臆病さは<生存|サバイバル>において大切なパラメーターだ。
　俺と真っ向から斬り合う酔狂なヤツは、既に死んでいる怪物か、死を知らないかデタラメなヤツか、恐怖を飲み下して戦える人間だけだ。
「あとは俺の体力次第か。……くそ。生きたまま食べられるのって、痛いんだろうなぁ……」
　ナイフを握り直す。
　俺はあの鉄柵には近寄れない。跳び越えたところで、それこそ煙に巻かれた蚊のように墜落するだけだ。
　包囲網を狭めてくる死者たち。
　……さて。吸血鬼の体力なら、うまく立ち回って20体はいけるかもしれない。その先は暗黒だ。お先真っ暗、生きている未来像がこれっぽっちも見えてこない。
　なんだって俺は手を止めたのか。本当に分からない。
　ただ、あの吸血鬼と決着をつけるのは俺ではいけない気がしただけだ。
「っ、は―――！」
　後悔している余裕はない。
　そもそもこんなところで死ぬことはできない。
　俺は残り少ない血液と意識をかき集めて、覆い被さってくる死者の壁を切り裂いた。
「……、ふっ―――！」
　何十体目かの死者を切り払う。
　吸血鬼の体は大したものだ。なにしろ数分なら呼吸ができなくても意識が飛ばない。精度こそ落ちるものの体も動く。
　失われた血液は急速に骨髄から生成される。おそろしい事に、吸血鬼は夜であれば提供される生命力に限りが無い。
　もっとも左腕は完治せず、死者たちの爪で致命傷を受け続ける以上、出血量と生成量はイーブンか、下回るかだったが。
「は―――はぁ、はぁ、は―――！」
　だが、おかげで意識があるうちは戦えた。
　これで40体。たしか残りは10体程度。
　頭痛はもう気にならない。それより全身にかかる負荷で内側から破裂しそうだ。
　―――でもいける、まだ戦える。
　うまくすればすべての死者を片付けて、あの吸血鬼をもう一度引きずり下ろせる可能性が、
「いい顔ね。終わりが見えてきて生き返ったって感じ？
　ええ、実際アナタは凄いわ志貴クン。わたし感動しちゃった。だからご褒美をあげる。―――その希望をグチャグチャに踏み潰して、思いっきり泣かせてあげるわ」
　葬礼の鐘が鳴る。
　この乱戦が始まってからもうどのくらい経過したのか。
　俺が気付かないうちに、円陣のまわりには始まりと同じか、それ以上の数の死者が群がっていた。
「……ふふ。うふふ、あはははははははははは！」
「残念だったわねお馬鹿さん！
　ここを何処だと思っていたの？　ロアの地下墓地のなれの果てよ？　手足になる死者なんてそれこそ掃いて捨てるほど埋まってる。そうね……わたしから見ても、ざっと中隊分ぐらいはいるんじゃないかしら？」
「――――――」
　かろうじて維持していた気迫が萎えかける。
　中隊分……つまり百人以上、増えやがったのか。
　それ以上に増えていくのか。
　もう楽になってしまえ、と囁く声がする。
　吸血鬼な分たちが悪い。だって損傷による痛みはあまりない。痛いのは“治ろう”とする行為だけだ。
　だから死は痛くはない。
　このまま諦めてしまっても、それはそれで恐怖はない。
　なんだそれ。まったくもって笑い話だ。
　恐怖はない、なんて理由だけじゃ、一時の気の迷いさえ起こらない……！
「は―――はあ、は……！」
　何回目かの波状攻撃を切り抜ける。
　……思えば、あの吸血鬼は<ま|・><た|・>遊んでいる。
　死者たちの生存欲求に任せていれば、俺はとっくに呑み込まれて終わっている。
　なのにまだ生きているのは、死者たちの動きが統率されているからだ。
　あの女は高みから死者を一体ずつ操り、俺にけしかけて遊んでいる。
　一度殺されかけた屈辱を晴らす為だろう。
　俺が自分から投げ出すのを今か今かと待っている。
「驚いた、それで50体目よ志貴クン。
　でもいいかげん疲れたでしょう？　自分から殺してくださいって思えてきたでしょう？」
「そもそも何の為に戦うの？　もうロアに乗っ取られるって分かっているんでしょう？　どのみちアナタは消えるんだから、もう楽になったら？」
　……うるさい。
　際限のない死者の増員は刺激的だが、あの声は耳障りだ。
　そもそもいいかげんにしてほしいのはこっちの台詞だ。
　俺を殺したかったら真剣になるしかないと分かってほしい。
「…………本当、しつこいひとね。
　ねえどうして？　死にたくないから戦うの？　でもアナタはもうすぐ消えるじゃない！　なのにどうして諦めないの!?
　目障りなの。むかつくの。見ていられないの……！」
「ほら、さっさと死ね虫ケラ……！　あの時のわたしみたいに、何もかも投げ出せって言ってるの……！」
　頭上からの凶器を感知して後退する。
　ただ投げつけただけの串が、俺の足元に突き刺さる。
　それを吸血鬼は呆然と見下ろしている。
　自分の手で、自分の<誇り|プライド>を台無しにしたかのように。
「―――ハ」
　死地において、つい笑いがこぼれてしまった。
「……何がおかしいのよ。先に頭の方がいかれちゃった？　諦めないのは脳が腐って、もうゾンビになってるからなワケ？」
　正気かどうかは我ながら自信はないが、憐れみはしっかり残っていたようだ。
「……まったく。言いたくはなかったけど、アンタの勘違いは耳障りだから教えてやるよ。
　俺は死にたくないから足掻いてるんじゃない。シエル先輩がいるから立っているだけだ。アンタが何をしようが知った事か」
「な―――なんですって？」
　はあ、と大きく深呼吸をする。
　これを口にすれば“遊び”は終わる。
　あの吸血鬼は本気で俺を潰しにかかるだろう。
　それでもいい。それぐらい、いくらでも凌いでやる。
　そんなコトより、ここでこいつを口にしないと、俺の<原|こ><動|こ><力|ろ>が消えそうだ。
「俺が諦めないのは先輩を信じているからだ。もっと生きていたいからだ。
　っていうか、俺はこれからずっとシエルと楽しくやっていくんだから、こんなところで死ねるかバーカ！」
　ざまあみろ、言ってやった言ってやった！
「―――ああ、そう。そういうコト。
拷問って、苦しめるだけが答えじゃないのね。命を奪うコト。未来を奪うコトそのものが責め苦になるヤツも、いるワケ」
　死者たちの動きが停止する。
　ノエルの背後に複数の―――俺では捕捉しきれない数の串が展開される。
「いいわ。それならさっさと殺してあげる。
　あの女への見せしめに、隙間なく埋まって死ね！」
「―――！」
　串は横に連なり、一つの鉄柵になっていた。それを何重にも重ねて放たれた。線ではなく面としての掃射。死者たちを巻きこむ絨毯爆撃。
　避けようと反応した足が停止する。
　駄目だ。これはどうあがこうと避けられない……！
　だが。
　降りそそぐ鉄の雨は、横合いから放たれた鉄の砲弾によって弾かれた。
　地面に突き刺さる吸血鬼狩りの黒鍵。
　それは間違いなく―――
「！」
　俺は喜びから、
　吸血鬼は苛立ちから顔をあげる。
　放たれた黒鍵の射線を目で追う。
　彼女は半壊した柱の上に。
　月光を背に、<毅然|きぜん>と吸血鬼を見据える瞳。
　それは悪夢から自らの意思で生還した、シエル先輩の姿だった。
　日々が終わる地獄を見た。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　“やめて”
　親が子供を殺す地獄を見た。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　“やめてください”
　子供が親を殺す地獄を見た。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　“お願い”
　誰も彼もを分け隔てなく殺す地獄を見た。
　　　　　　　“やめて、やめてやめてやめてやめて……！”
　ただの一度の制止もできず。
　それらすべて、わたしが引き起こした地獄を見た。
　手を止めたくても止められなかった。
　目を塞ぎたくても塞げなかった。
　口を閉じたくても閉じられなかった。
　殺したくても。
　自分を殺したくても、殺せなかった。
　わたしは悪趣味な機械だった。
　血を集められればそれでいい圧搾機だった。
　いや、機械に申し訳がない。
　機械にはあんな余分はない。悲鳴を聞きたいからとか反応がみたいからとか、そんな目的で作業工程は増やさない。
　わたしはとっくに人間じゃなかった。
　人間のフリすらしてはならない生き物だった。
　罪があろうがなかろうが、生まれてはいけない素材だった。
　誰もがそう口にしたし、誰の言葉も正しかった。
　わたしなんかが、生きていていい理由はなかった。
　せめて一日で終わってほしかった。
　でも夜は明けなかった。
　あの<儀|・><式|・>はほとんどが成功していた。
　アルクェイドはわたしの手に落ち、あと少しで彼女を丸呑みにできるところだった。
　なのに、
　呼ばれもしないのに現れた六人目が、あっさり天秤をひっくり返した。
　そうして、わたしは殺された。
　やっとやっと殺された。
　どうせならもっと早く殺してほしかった。
　わたしだった<物|も><体|の>はわたしが殺してきた人々と同じように、無造作に道に捨てられた。
　その後に何があったのかは、目を閉じたわたしには知り得ない結末だった。
　わたしはようやく暗い暗い死に埋没した。
　……そうだ、これでいい。
　もう目を覚ます事もない。
　もう毎晩、繰り返し思い出す事もない。
　わたしはずっと、こうして死んだままでいればいい。
　……でも、眠っていても忘れられない。
　あの時の記憶を忘れていい筈がない。
　だから戦った。
　少しでも人々の役に立てればと願った。
　生きているのなら休めない。
　こんなわたしでも、何かが出来るのだと信じてしまった。
　なんて浅はかな願いだったんだろう。
　わたしは周りを傷付けただけだった。
　彼女の魂を汚しただけだった。
　ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
　思い上がってごめんなさい。
　死ねなくてごめんなさい。
　もう戦えなくてごめんなさい。
　この６年間は無駄だったのです。
　わたしはとっくにわたしではなくなっていて、ただ生きているだけの肉にすぎなくなっていて。
　このまま自分を殺し続けて只の肉塊に成り下がるのが一番いいんだと理解しました。
　本当に、ごめんなさい。
　こんなわたしが何かを救えるだなんて、思ってさえいけなかった。
“ぁ――――――”
　なのに、どうして。
　わたしの頭を、温かな手で撫でてくれる人がいるんだろう？
　……そうか。
　外ではまだ誰かが戦っている。
　わたしなんかを背負っている。
　見捨てずにシエルという名前を呼びかけ続けている。
　密着した胸に、冷たく変わりきった体温が伝わってくる。
　……やめてほしい。
　ここで捨てていってほしい。
　こんな風に自分を必要としてくれる人もいる。
　たぶん、今まで他にもそういう人はいてくれた。
　けれど、それでも戦えない。もう耐えられない。もう思い出したくない。
　辛い。ずっと辛かった。ずっと楽になりたかった。
　わたしは強くなんかなくて、立ち止まるのが怖かっただけで、いつ壊れてもおかしくなかった。
　だから、これ以上は戦えません。
　だってどんなに吸血鬼を倒しても、
　どんなに誰かを助けても、
　わたしが許される時はこないのだから。
『自分は許されないだって……？
　そんなの当たり前だ。あなたは絶対に許されない。
　何よりあなた本人が、自分を許すことを認めない』
“え……？”
　その声はすぐ近くから。
　ここにはもういない誰かが、全霊をこめて、わたしに残した言葉だった。
　でも彼の言う通りだ。
　一生<赦|ゆる>しはない。一生<贖|あがな>えない。
　わたしは過去を清算できない。
　だから、このまま―――
『違いますよ。あなたが許さないと誓ったのは過去じゃなくて、この先の行いでしょう？
　何をしても結果は同じなら。
　何をしても失われたものは戻らないのなら。
　せめて、一つでも多くの『善いこと』をやって死なないと』
“ぁ……あ、あ……あぁ、あ―――”
　みっともなくぐずぐずと泣いている。
　誰かの厳しい叱責があまりにも的を射ていて、自分の愚かさに胸が裂ける。
　……それは分かってる。分かっているのです。その為に今まで生きてきたのです。
　けれど、それすら許されるのでしょうか。
　多くの命を奪ったわたしは、善き人々の生活に触れる事さえ、
“許されないの、では―――”
　嗚咽が止まらない。自らの醜さと弱さを思い知る。
　わたしは地上でもっとも汚れた生き物で、誰であろうと、わたしを弾劾する資格がある。
　なのに。そんなわたしを、力強く抱きとめる腕があった。
『あなたは言った。死なない体だから、体が強いから罪に耐えられた。自分と同じ体なら誰でも耐えられたと。
　でも、それは違う。ぜったいに違うんです。
　体が強いからじゃない。あなたは始まりから心が強かった。そういう<善|つよ>い心があったから、罪を背負い続けられた。
　それは―――』
　それは自分には無いものだと彼は語った。
　万人に誇れるあなたの光だと。
　どれほどの罪を背負うとも、善良な心を持ち、育み、これを捨てる事をしなかったのなら。
　あなたの贖罪は、決して無意味ではなかったと。
　……どうしようもないほどの悲しみを隠して。
　彼は、自分がほしくてほしくてたまらなかったものを、諦めるようにそう言った。
『俺はどうしようもない人間で、実のところ、感謝する事はたくさんあったけど、楽しいと思える時はなかったんです。
　でもあなたがいてくれた。
　あなたがいてくれると嬉しい。あなたが笑ってくれると嬉しい。俺は先輩のために、生きていきたいと思ったんです』
『あなたの道に付き添っていく。
　あなたが許される日は来ないと分かっていても。
　あなたが自らを許せる日が来ることを願って、ずっと一緒に歩いていく。
　だから―――厳しいけど、力尽きるまで戦うのを止めないで』
　抱きとめられていた感触が失われる。
　やわらかく離れていく。
　今も自身が失われていく中、彼は照れくさそうに笑って、わたしを信じて戦場に駆けていった。
「“なんて見当違いの信頼でしょう。
　　私が始まりから<善|つよ>かった？　まったくバカらしい。
　　あなたは自分を殺さなかった。
　　自分の命可愛さにみんなを見殺しにした。
　　この世でもっともありきたりな利己主義という悪心。
　　それが私たちの正体でしょう？”」
　嗚咽を止める。
　鉛にまで落ちていた<鈍|おも>い体に血を巡らせる。
“あ―――、ぐっ―――！”
　痛い。すごく痛い。数えきれないぐらい生き返ってきたけど、この痛みだけは何度味わってもガマンできない。
　本当に―――わたしは、謝ってばかりだ。
　ごめんなさい、わたしの体。こんなコトでまたダメにしてしまったけど、懲りずにわたしに付き合ってほしい。
「“私たちは元からそういう生き物だった。
　　ロアという吸血鬼は契機にすぎない。
　　私は優れた肉体を持って生まれてしまった。
　　いずれ周囲との軋轢は起こっていた。
　　それがあのようなカタチになっただけだ。
　　私はどうあれ、きっと、多くの罪を犯していた。
　　多くの人間に石を投げられる運命だったのよ”」
“こ、の―――！”
　力ずくで、バリバリと背中の皮を剥がす。
　暗闇に癒着してしまった背中だ、これぐらいはしようがない。
　でも、だって、ほら。今も、遠くから音が聞こえる。
　今もひとりでわたしを信じて、抗っている音が聞こえる。
　あの信頼に応える為なら、皮はおろか骨まで剥がされてしまってもいい。
「“―――どうして。
　　まだ希望を見るの？　まだ罪を認めないの？
　　私は絶対に救われない。
　　代行者としてのあなたは犠牲者にすぎない。
　　私たちには救われる奇跡も、生きている理由も、
　　愛される価値もない。そうでしょう、エレイシア？”」
　……そう、確かにわたしには愛される価値はない。
　でも奇跡を見た。たったいま、なにより尊いものを見た。
　彼には何もない。幼い頃から奪われるだけの人生だった。
　彼本人、奪われすぎて何があったのか、それがどういう事なのかすら気づく事さえ奪われている。
　だから、何よりもまず自分の人生を、自分の幸せを取り返さないといけない人だったのに。
　そんな人が、<自分|わたし>の為に願うと言ってくれた。
　それだけの強さを持った人が、わたしなんかを選んでくれた。
　なら―――わたしも、その価値を示さないと。
　それだけが、自分に残された意義だと思い出した。
「“………………そう”」
“ぁ―――、く、あ―――………！”
　暗闇から手を伸ばす。
　体に力は戻らない。心は今も弱いままだ。わたしはずっと、こんな迷いを抱き続ける。
　うん、それでも立たないと。
　この命は過去を嘆く為ではなく、もう一度―――
“ああ、あ、あ―――！”
　いや、幾たび倒れようと、祈りあるかぎり、戦う為に与えられたんだから―――！
「“………………この、偽善者”」
「吸血鬼になっても甘い狙いですね。
　貴女の本命は私でしょう、ノエル」
「……！」
　柱の上に現れたシエル先輩はノエルを見据えている。
　それでいい。地上にいる俺に視線を向ける必要はない。
　先輩の体は万全で、傷一つない。それだけ見て取れれば俺からかける言葉もない。
　俺の役目は終わった。ここからは先輩と、あの少女の戦いになる。
「ハ。さっきまでメソメソ泣いていたクセに、戻ってきた途端に上から目線とか笑えるわ。
　なに？　もしかしていじめられるのがクセになっちゃった？　もう一度、わたしの眼に魅入られたいの？」
「そうですね。ソレがどんな仕組みの魔眼なのか興味はありますから、使っていただく分には益があります。
　でも止めておいた方がいいですよ。貴女の魔力量ではその魔眼は多用できない。もう一度使えば貴女は自壊します。
　なにより―――」
「―――なにより、もう効きませんから、それ。
　魔力はより強い魔力に洗い流される。どこの祖の<模造品|レプリカ>かは知りませんが、分かっていればこの通りです」
　シエル先輩の右手の甲が輝いている。
　吸血鬼になりかけている影響か、二人の間で渦巻く魔力が可視化される。
　ノエルの魔眼からは茨のような呪いが放たれ、先輩を包もうとしている。
　が、茨は先輩の体に触れた瞬間に崩れていく。あの右手に埋め込まれた呪いの質量が、ノエルの魔眼を圧倒している。
「……………」
　あの輝きを俺は知っている。
　ヴローヴの胸の奥、呪いの中心に輝いていたモノだ。
「―――ほんと、どこまでも偉そうな女。
　やだやだ、そんなにセンパイ面したいんですか、シエル先輩？　これみよがしに昔の勲章をみせびらかすとか、代行者としても吸血鬼としても上だって言いたいの？」
「え？　
……
あの。そんなコト、いちいち言わなくちゃ伝わらないレベルでしたか」
「いつもの辛辣さが戻ってきたじゃない。でも、いまさらやる気になっても手遅れだから。
　冷静になって下を見下ろしたら？　志貴クンはわたしの指先一つで死者どもの食い物になる。もうアナタが何をやってもあの子は助けられない。
　それがイヤなら、おとなしくわたしの魔眼に」
「失礼。そちらなら当然、真っ先に終わらせました」
　……？
　一瞬、先輩がこっちに視線を送ってきた。
　何かを伝えようとしたのだろうけど、まるで意図が掴めない。柱の上に立つ先輩を注意深く見上げるしかない。
　……待て。
　夜空に星の光ではない光点が増えていく。
　十や二十ではきかない震動が伝わってくる。
　これは―――間違いなく、先輩の黒鍵だ……！
「な……!?」
　唖然とした声は俺とノエルのものだろう。
　空から降りそそいだ黒鍵は一体も逃す事なく、円陣を組んでいた死者たちを跡形もなく消滅させた。
「――――――」
　ノエルは殺意に満ちた目で俺を―――すべての手勢が消え去った地上を見つめ、切り捨てた。
　殺す対象である俺を完全に視界と意識から切り離した。
　当然だ。俺だって同じ立場ならそうしている。
　もうわずかな油断も下策も許されない。
　実力差は明白になり、戦いの目的は切り替わった。
　これより数分。
　あの吸血鬼は『殺す為』ではなく『生き残る為』に、己の全存在を懸けなくてはならない。
「私の今までの戦い、今までの贖罪はすべて嘘だったと言いましたね、ノエル」
「言ったわ。何度だって言ってあげる。アナタは嘘つきで、ホントのコトなんて何一つなかったんだって」
「……そうですね。私の心は嘘にまみれています。
　けれど消えないものもある。遠野志貴を助けたいという気持ちも、贖罪の名のもとに殺してきた犠牲者たちも、犯してしまった過去の罪も、決して消えない私の真実です」
「私は、それを認めます。これから私が侵す命、私が残す憎しみをすべて自分の罪だと認めます。
　貴女が私を殺す事を、正当なものだと受け入れます」
「―――はあ？　なにを当たり前のコトを言ってるのよ。
　認めたからなんだって言うの。そんなコトで自分が正しいだなんて言い張るつもり？」
　ノエルの背後に鉄の壁が形成される。
　敵に向けて切っ先を並べる様は、それこそ吸血鬼の牙のようだ。
「いえ。善か悪かで言えばわたしは悪でしょう。
　ですが、悪だから<善|よ>き生き方を望んではいけないかと言うのなら、それは間違いでした。
　……だって。人間の善悪と人生の善悪は、哀しいほど違うものなんですから」
「私のせいだ、と復讐に走る貴女の言い分は間違いであり、正しい。ロアの転生を止めるという私の使命感も間違いであり、正しい。いま、私たちは同じ境界に立っている」
　同じ境界。
　善悪の狭間にいる同じ罪人だと彼女は言った。
　この状況において、私たちは対等だと。
「なら、あとの<秤|はかり>は力で示すしかない。
　互いが間違いであるのなら―――それぞれの正しさは、互いの強さでしか量れない」
　第七聖典が起動する。
　今のが最後の言葉だと彼女の目が告げている。
「なにそれ。結局、強い方が正しいっていうワケ？
　―――ああ、ほんとに信じられない。最後の最後までむかつく女」
　それは違う。
　強い方が正しいのではなく、己の強さで正しさを証明するしかない、と彼女は言ったのだ。
“……この期に及んでも、ごめんなさいと謝れなくて、ごめんなさい”と。
　その気持ちは、最後まであの少女には伝わらなかった。
「開きなおりやがって―――それが不公平なんだって、何度も何度も言ってるじゃない……！」
　放たれる聖夜の鐘。
　真っ正面から迎え撃つ代行者。
　少女は彼女を赦す事ができず、
　彼女は少女を救う事ができない。
　もう殺し合う事しかできない、両者の激突が始まった。
　次々と放たれ、流星と化して敵を撃つノエルの槍。
　たとえ相手が人間離れした怪物であれ、瞬く間に串刺しにする凶器の雨。
　距離は十分に離れている。
　遠距離での戦いなら<彼女|ノエル>の優位は揺るがない。
　それが、『人間離れした怪物』程度の話であれば。
「………！」
　あれだけ離れていた距離が一瞬で詰められる。
　あれだけ撃ち放った槍が<防|ふせ>がれるまでもなく砕けていく。
　気がつけば、もう必殺の間合いに陥っている。
「は、あ……！」
　銃剣を槍の壁で防いだものの、壁は粉砕され、大きく後方に弾き飛ばされた。
　こんな攻防を既に三回。
　ノエルの<魔|や><力|り>は底が見え始めていた。
　対して、あの<重戦車|ジャガーノート>の魔力はまだ減ってすらいない。
「ぐ―――う、うう、う……！」
　悔しくて泣きだしかけた自分に、ノエルは全力で活をいれる。
　分かっていた。これぐらいは分かっていた。なにしろ相手は人間以上の怪物ではない。怪物の中の怪物だ。先ほどの哀れな吸血鬼モドキとは違う。戦いになれば簡単には勝利できない。そんな事、初めから分かっていたのに―――！
「ちくしょう―――ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう！」
　一撃ごとに圧されていく。
　一撃ごとに削られていく。
　こんなの、あと数回も耐えられない。
　だからここで殺す。この瞬間に殺す。すべての余力を注ぎこんで、この一息で殺し切る―――
「ふざけんな！　死ね、死ね、死ねぇぇえええ！」
　全身の血液を一滴のこらず捧げ尽くす。
　撃ち出せる凶器はすべて吐き出した。
　けれど絶望を見せつけられた。
　代行者は止まらない。傷さえつかない。
　反撃の糸口なんて―――勝てる要素なんて、これっぽっちも見当たらない……！
「なによ……なによ、なによ、なによ……！　一本ぐらい刺さってよ、少しぐらい痛がってよ……！　かすり傷さえ負わないとか、こんなのあんまりにも酷すぎる……！　わたしのが正しいのに、わたしのが正義なのに負けちゃうの!?
　やっぱり神さまなんていないじゃない！
　わたしは、ただ……！」
　奪われたモノを、奪ったヤツを、許せないだけなのに、と。
　吸血鬼に堕ちた少女は血に染まった眼で叫ぶ。
　その訴えを彼女は真っ向から切り捨てた。
　吸血鬼ロアへの復讐。
　殺された街の人々への<弔|とむら>いだけなら少女は正しかった。
　けれどノエルの心には個人的な快楽があった。
　死徒への暴力。犠牲者たちへの個人的な制裁。
　そして悦びから殺しに殺した50人の命。
　自分の目的の為に、多くの事を正当化してきた。
　その行為は、決して正義とは呼べないものだ。
「悪い!?　そうでもしないとわたしみたいな凡人は貴女に追いつけなかった！　貴女の足元にも及ばなかった！　貴女を責める事が、できなかった！」
　残されたものは手持ちの槍だけ。
　吸血鬼は人間だった頃に培った槍斧の技術を、満身の力で叩きつける。
　皮肉な事に、彼女たちにとってそれは慣れ親しんだ打ち合いだった。
　共に過ごした５年間、こうして何度も鍛錬を交わした。
　その記憶、その経験が、一時の拮抗状態を招き込む。
「そうだ、倒れろ、おまえなんか消えてなくなれ……！
　ええそう、わたしはロアなんてどうでもよかった！　この先ロアに食われるヤツらなんて関係ないし、気にもならない！」
「わたしは、わたしの町を食いモノにしたアンタを、殺したかっただけなんだ―――！」
　それが少女の、消しようのない真実だった。
　ロアによって失われる命ではなく、ロアによって失われた命だけに固執した。
　その果てがここだ。
　少女は己が欲望で変貌し、多くの人々を手に掛けた。
　その姿は―――少女が恐れ憎んだ、ある吸血鬼と何も変わりはしなかった。
　断罪の刃が吸血鬼をなぎ払う。
　股下から肩口まで断ち切られ、吸血鬼は力なく地面に崩れ落ちた。
「は……あ、はあ、あ―――」
　少女は折れた槍を支えにして、倒れかけた上半身を押しとどめる。
　勝敗は決した。
　歩く事さえできない吸血鬼に向かって、代行者は淡々と歩み寄る。
「吸血鬼になった事ではなく、吸血鬼として行動した事。それが貴女の間違いです。
　死徒ノエル。弱き人々を守護する聖霊と父の名において、貴女への刑を代行します」
「死―――徒」
　その言葉が、崩れかけた少女の意識を呼び起こした。
　代行者でもなくなって、シスターでもなくなった。
　死徒ノエル。
　それが今の自分の名前らしい、と崩れゆく身体を見て驚く。
「ぁ……ああ、あ……」
　それが悲しみだったのか疑問だったのか、少女には分からない。もう死徒である少女には分からない。
　ただ、火花のような激情があった。
　なんでこんな事になったの？
　仲良くやっていたのに。憎くてもうまくやっていたのに。
　いつかこうなっていたかもしれないけど、それは今じゃなかったはず。わたしがもっとダメになってからのコトだと、なんとなく思っていたのに。
　なのにどうして、今この時だったんだろう？
　―――そうだ。
　決まってる。
　わたしはどうしても我慢できなかった。
　ほんとは別に赦さなくてもいいと思っていた。
　彼女が彼女のままなら赦しはしないけど嫌いもしないと決めていた。
　だけど、
“すっごいすっごい、大成功ー！
　ノエルチャンってばものすっごーい！
　よーし、サービスでもう一本あげちゃいましょう！
　あ、でもこれはシャレだから、追加で射つのは止めときなさいねぇ？　今ですら破裂寸前なんだもの。もう一つ上を目指すなんて、ほんと、一瞬で融けちゃうから！”
「あ―――ああぁぁあああ！」
　少女の体が変貌していく。
　身体に新星が生まれ、爆発し、銀河になった。
　そう錯覚するほどの内部変革。
　あふれ出す呪いを抑えきれず、まず真っ先に少女自身が崩壊した。
　それでもソレには歓びがあった。
　戦える。これで、あの女と戦える―――！
「イデアブラッド……!?
　そんなものを射ちこむなんて、ノエル……！」
「ハ―――うるさい、うるさい、うるさい……！」
「痛い、痛い、痛い……！　助けて、シエル助けて、うるさい、おまえなんかに助けられるか！　こんな、ひどい、いたい、どうして、どうして！」
　それは、燃え尽きる前の蝋燭だった。
　代行者に匹敵する一撃を、少女は狂ったように繰り返す。
「なんで、なんでよ……！　演技のままなら良かったのに！　いつもの、非人間のままなら、わたしだって赦せたのに！
　吸血鬼を狩るだけの、戦うだけの<機関|エンジン>なら良かったのに！　―――本当に、心から尊敬していたのに！」
「なんで、なんでこんなところで―――
　わたしを置いて、ただの人間に戻っちゃったのよぅ……！」
　体を崩壊させながら、最期の一撃が放たれる。
　これ以上はない限界の刺突。
　ノエルという存在が打ち出せる極点を前に、彼女は銃身を回転させ、杭打ち機をセットする。
　魂の咆哮とも言える少女の一刺し。
　それを甘んじて受けたいと想う<情|じょう>ごと、彼女は敵を粉砕した。
「あ―――、あ、ああ…………あ」
　杭打ち機は少女の真芯を貫いた。
　カラン、と鉄の槍が地面に落ちる。
　少女は血まみれの手を虚空に伸ばす。
　目の前にある、最後まで届かなかった誰かに向けて。
「―――返、せ」
　ふと。代行者でもない、吸血鬼でもない、いつかの日の声で、少女は言った。
「……お父さんを、返せ。お母さんを、返せ。
　わたしの―――わたしの人生を、返せ……！」
　もう胴体すら消えている。
　少女は砕けていく体と、朦朧とした意識の中で、
「……お願い。返して……ねぇ、返して、よ……」
　13年前に言えなかった、最後の願いを口にした。
　廃墟は元の静けさを取り戻した。
　先輩はうつむいたまま立ち尽くしている。
　……握った銃のトリガーは引かれていない。
　杭打ち機がその真価を発揮する前に、少女の体は灰化し、風に散っていったからだ。
「………………」
　先輩は銃から手を離す事もなく、
　大きく息を吐いて肩を休める事もなく、
　静かに歩み寄った俺を振り返る事もなかった。
　……ただ、唐突に、
「―――５年間は、ちょっと長かったですね」
　ぽつりと。
　なんでもない事のように、淡々と呟いた。
「先輩……？」
「基本的に、わたしたち代行者のチームというのは１年も続かないんです。任務中にどちらかが死ぬか、生還しても引退させられるのが常ですから。
　だから代行者は、こういうコトに慣れているんです。
“どちらかが吸血鬼に堕ちたら変わる前に殺してほしい”とか、ほんと、よくある約束で。任務前には冗談半分、本音半分で言い合ったりするチームばっかりで」
「……先輩」
「だから何でもないコトで、特に悲しむコトでもない。
　ノエルは吸血鬼になって、人間社会にとって害悪になった。
　精神的な問題ではなく、構造的な問題です。彼女はもう人間を殺さなければ生きていけない体になっていた。
　彼女は身体能力も精神強度も並だったから当然の結果とも言えます。むしろ５年もよく続けられたものです」
「先輩」
「あの子とは教会で再会しました。
　ちょっと驚きました。だってわたしより年上になってたんですよ？　彼女はあれからずっと、ひとりで６年も教会に留まっていた。
　修道院に引き取られて、５年かけてやっと代行者になった。
　でも、お世辞にも優秀とは言えなくて。いつも死にそうな顔をして、すぐにリタイヤしそうだった。その度にわたしに会いにきては言いたい放題いって元気になるんです。呆れます」
「それから２年たって、わたしたちはチームになりました。
　ちょっとした失敗で司祭さまの不興を買った彼女が、泣く泣くわたしを頼って来たんです。自分を弟子にしてほしい、更迭から守ってほしいって。彼女からすれば死ぬほどイヤな選択でしょうけど、生き残るにはそれしかなかった。
　わたしは埋葬機関にスカウトされた後だったので、それなりに権限がありましたから。足手まといになると分かっていたけど、彼女を弟子として迎え入れました。
　それからずっと、任務以外では口をきかない関係のまま、５年間が過ぎました」
「……先輩」
「正直、肩の荷が下りました。あの子はとても生き残れなかったし、欲望を抑えるのが下手だった。こうなるのは目に見えていたんです。だから、わたしと組まなければ、あの子はもっと早く代行者なんか辞められて、」
「……いいんだ。謝っていいんだよ、先輩」
「―――っ」
　息を呑む音がした。
　淋しげな背中が少しだけ震えたように見えた。
　……変化はそれだけ。彼女は顔を隠したまま、こみ上げるものを必死に抑えつけて、
「……ごめん、なさい」
「貴女に、何も返して、あげられなかった」
　静かに。声も涙もなく、ただ泣き続けた。
「先輩」
　後ろから、もう一度声をかける。
　先輩が自分から振り向くまでは近づくべきではなかったけど、これ以上はあの人を独りきりにできなかった。
「そろそろ行こう。秋でも夜は冷えるんだし。そんな薄着じゃ風邪を引きます」
　こくん、と俯いたまま頷くと、先輩は大きく息を吸って、無理矢理な笑顔で振り返った。
「はい、ご迷惑をおかけしました。
　わたしはこの通り元気なので、風邪なんて引きま―――
　とと、遠野くん、なんですかその体!?」
　先輩は血相を変えて俺の左腕に飛びついた。
「っ……！」
　先輩の指が触れただけで飛び跳ねそうになる。
　そういえば左手、完全にオシャカになっていたっけ。
「治療、すぐに治療します……！
　あ、でも死徒化しているなら秘蹟は逆効果だから、えっと、この場合はどうすれば―――」
　俺の腕の前で慌てる先輩。
　……良かった。まだ辛いだろうけど、さっきの無理矢理な笑顔よりずっといい。
「いいですよ、無理に治さなくて。放っておく分には痛みはないし、栄養を摂れば治ってくれそうです。まだ半分は人間ですから、俺」
「あ……そ、そうなんですか。じゃあわたしからの魔力供給なんかより、ゴハンの方が効果的、ですよね」
「ええ、きっと。だから早く帰りましょう。先輩のアパートなら食べ物、あるでしょう？　ほら、作り置きのカレーとか」
　なぜそれを!?　と言いたげな先輩の反応が嬉しい。
　……やっと日常が戻ってきた。
　俺と先輩にとって長い夜がようやく終わったと実感でき、
「づ―――！」
「遠野くん!?」
　……クソ、空気の読めない<頭痛|ヤロウ>だ。それともここまで自重してやがったのか。
　緊張が解け、心が緩んだ途端、脳を侵す頭痛が再開した。
「―――ごめん、先輩。俺、歩けそうになくて……情けないけど、先輩の部屋まで、肩を、かして、」
「情けなくなんかないです。無理をせず、頭痛に耐える事だけに集中してください。後はわたしに任せて」
　先輩は右肩に回りこんで俺に肩を貸してくれた。
「……ごめんなさい。抱えてあげたいのは山々なんですけど、わたしも荷物があって。……ああもう、こんな時にセブンは起きもしないんですから……！」
　……荷物、というのはあの銃の事だろう。
　先輩は片手であの銃を持って、片手で俺を支えて瓦礫を昇り始めた。
　……いっそ気を失ってしまいたいが、いま眠る訳にはいかない。ここで眠れば次に目覚められる保証はないし、なにより、俺はまだ先輩に伝えたい事が残っている。
　だからせめて、この夜が終わるまでは、このまま遠野志貴で居続けないと―――
　かくして、ロアの転生体を巡っての戦いは幕を下ろした。
　今夜に限っての話ではあるが、少なくとも明日の夜まで遠野志貴がロアに書き換わる事はない。
　月光を浴びながら、彼女はその一部始終を傍観していた。
「ヘンな邪魔が入ったけど、結局アイツのひとり勝ちかぁ。
　……ほんと、どこまでも目障りな女。いつもわたしの気を<逆|さか><撫|な>でるんだもの。邪魔者は大小様々だけど、間違いなく大きい方の邪魔者ね」
　華のような笑みを浮かべながら、白い化身は去り行くふたりの人間を見つめている。
　遠野志貴と代行者。
　そのどちらにも、冷酷な殺意と、慈愛の微笑みを向けている。
「おっかねえ独り言はそこまでだ。
　殺気を抑えろよ吸血姫。そのヘンにしておかねぇと、このあたりのカラスがストレスで全滅するぞ」
　廃墟を見下ろすビルの屋上には多くの気配が潜んでいた。
　堂々とビルの端に立つ吸血鬼と、
　彼女の後ろに立つ金髪の少年のものではない。
　隠れ潜む気配は戦闘服に身を包んだ代行者たちのものだ。
　彼らは今も増え続けている。
　建物の陰、隣りのビルの屋上に彼等は展開している。
　ここまで露骨な動きでは言い逃れのしようもない。彼等の陣形は、白い吸血鬼を包囲・制圧する為のものだ。
「―――マーリオゥ。わたし、一度忠告したわよね？」
「ああ、してやがったな。なんでこっちも本気でやる。
　俺も後がないんでな。死徒になっちまった部下を放置してでもこっちに戦力を集中させた。あれはオレの責任だ。悔やんでも悔やみきれねぇ。せめてその代償に、アンタにはここで一旦消えてもらう」
　少年の言葉は真実だ。
　周囲に展開した代行者は30人以上。その全員が対真祖用の聖遺物、概念武装を所持していた。
　少年の用意した戦力は吸血鬼アルクェイドを打倒できるものだった。上回ってはいないが、殺し切るに足る道筋が用意されている。
　このまま戦闘になれば、<少年|マーリオゥ>を残して彼女も代行者たちもそろって息絶える結末になるだろう。
　その事実を、彼女は素直に賞賛した。
「お見事。昔からきちんと計算するのよね、アナタは。
　この街に来る前のわたしなら、微笑みの一つでも送っていたかも」
「やめてくれ縁起が悪い。そもそもアンタが笑うコトなんてなかっただろうが。
　……ったく、異常すぎるぜ今回のアンタは。
　だいたい、なんでロアを殺しにいかなかった？　アイツがロアの逃避先だって判ってたんだろう？」
「ダメよ。今だとシエルが邪魔するでしょう。
　アイツがいるうちは我慢しなくちゃ。わたし、コトはできるだけ穏便に、お淑やかにすませたいの」
「？　お淑やかって、どういう意味だ？」
「人間らしいって意味。シエルと戦いだしたらわたし、楽しくなりすぎて街の人間をみんな殺してしまうと思うの。
　ほら。そうなったら、志貴に嫌われてしまうでしょう？」
　弾むように彼女は言った。
　それは少年の知る彼女ではない。
　殺人鬼に殺された後の自由奔放な彼女でもない。
　……何か未知の<在り方|アバター>。
　涼やかに人を<試|ため>し破滅させる、無慈悲な女神のような微笑みだった。
「おい」
「でも、その前にこっちが先ね。
　アナタがいるとロアを生かそうとするし、なによりシエルの味方をされたら面倒だし。
　小さい方の邪魔者は、ここで蹴散らしておきましょうか」
　―――月下に不可視の花が咲く。
　<少年|マーリオゥ>の合図に応じて、周囲に展開した代行者たちが状況を開始する。
　白い吸血鬼に集中する火線。
　少年の知る彼女なら確実に殺しきれるソレは、赤い瞳の微笑みだけで霧散した。
　蹂躙は丁寧に、ひとりひとり順を追って行われた。
　鮮血はない。不可視の圧力は代行者の心臓を一時的に停止させ、無傷のまま失神させた。
　まばたきのうちに事は終わり、吸血鬼は少年を振り返る。
「ああ、でもアナタは別よベスティーノ。
　指導者として、少しは血を流しなさい」
「がっ……！」
　金髪の少年は四肢を切り裂かれ、糸の切れた<人形|マリオネット>のように崩れ落ちた。
　<頭|こうべ>を下げ、地面を舐める姿勢になって。
「ぐっ……！　どうなってやがる……吸血衝動で弱ってるんじゃねえのか、テメェ……！」
「もちろん。渇いて渇いてどうかしそう。
　ロアに盗まれたわたしの一部を取り戻さないと、このまま壊れてしまうぐらい。
　だから一刻も早く、志貴を取り戻さなくっちゃ」
「取り戻す……？　なにトチ狂ってんだテメェ。
　あのガキの中にはロアがいる。あのガキだっておまえの敵じゃねえか」
「？　志貴がロアであるコトに、何か問題があるの？」
「――――――」
　絶句しながら、少年は不安の正体にようやく辿り着いた。
　己の力を制限無しで自由に使う真祖は脅威なだけで、そう不可思議なものではない。
　過去、吸血衝動に負け暴走した低級の真祖を鎮めた事も一度ぐらいなら経験がある。
　だが、これは前例がない。
　この真祖は有り得ない故障をしてしまった。
　よりにもよって、一番狂ってはいけない吸血鬼が、一番陥ってはいけない状況に落ちてしまった。
「ええ―――これは運命なんだわ。
　必要なモノと欲しいモノが同じになるなんて。こんなに嬉しいコトがあるなんて、わたしは今まで知らなかった」
　白い化身は陶酔しながら空を見上げる。
　虚空に輝く月を掴むように手を伸ばす。
「ロアの逃げ先が志貴で良かった。
　それって心身共に、彼は私のモノってコトでしょう？」
　その姿は血の味に酔う、恋する少女のようだった。
　先輩のアパートに着くまで、人目に付く事はなかった。
　なんでも最小限の人避けの魔術を使っているとかで、先輩とくっついているかぎり他人に見つかる恐れはないとのコト。
　……吸血鬼も常識外れだけど、教会だって大概だと思う。
　先輩の部屋に上がる。
　中に入るのはこれで二度目だ。……たった10日前の話なのに、ずいぶん昔の気がする。
「どうぞ。狭苦しいところですが、楽にしてください」
「は、はい。ではお邪魔します」
　今さらながら、こんな夜更けに先輩の部屋にあがる事を意識してしまう。
「頭痛はどうですか？
　ここなら少しは緩和される筈なんですが……」
「あ」
　部屋に入った途端、頭痛は弱くなっていた。消えた訳じゃないがこれなら十分に耐えられそうだ。
「すごい、めちゃくちゃ楽になった！
　さっすが先輩、ホントなんでもできるんですね！」
「それは良かったです。……わたしの知識も、たまには人の役に立てるんですね」
　先輩は安堵して微笑むものの、その顔には翳りがあった。
「遠野くんはそこにいてください。ごはん、温めてきます」
　台所に向かう背中も元気がない。
　……少しでも早くいつもの先輩に戻って……ん？　いつもの、先輩？
「先輩、ちょっと待って」
「はい？　なにかリクエストですか？
　ゴハンを大盛りに？　それともルーを二倍ですか？」
「……………」
　そこはどんなサイドメニューを足しますか、というのが女子力だと思うけどスルーする。
　今はもっと根本的な問題を指摘しなければ。
「あの、着替えないんですか……？
　その服、なんていうか……」
　<殺|や>る気に満ちあふれているというか、目の毒というか。
「え……お、おかしいですか？」
「いえ、文句なしで似合ってます。そこは自信を持ってください。ただ、つい廃墟で追いかけられた事を思いだしそうになるというか……」
　正直に言うとトラウマというか。
「そ、そうですよね、失礼しました……！
　ゴハンの前に着替えるのが先ですよねっ……！」
　早足で脱衣場に飛びこむシエル先輩。
　先輩も俺の気持ちを察してくれたらしい。
　たいへん味のある夕食をいただいた後、先輩はせめて外見だけでも、と俺の左腕の手当てをしてくれた。
　簡単な添え木をして包帯を巻いただけでも随分と違うものだ。
「……それで、先輩。俺はこれからどうすればいいのかな」
　教会に行けばロアを抑える方法があるかもしれない、という話だけど。
「まずは遠野くんの中のロアを一時的に沈静化させます。
　この部屋は簡易的な聖域になっていますから、とりあえずここに籠もっているかぎり危険はない筈です」
「……ですね。頭もヒリヒリするぐらいで目眩も起こらないし、高揚感に襲われる事もないし。
　でもそれは一時的なもので、万全ではない？」
「はい。あくまでロアを沈静化させているだけですから、根本的な解決にはなっていません。
　加えてロアの意識は日に日に増大していくものです。この部屋もいずれ意味を成さなくなる」
「ですから、その前にロアを消し去る方法を見つけだします。
　先ほども言いましたが、法王庁に戻れば何らかの手段がある筈なんです。だって13年前とは違う。わたしというサンプルがあったのですから、彼等が転生体とロアの魂を切り離す研究をしていない筈がない」
「じゃあ、本当にうまくすればロアを切り離せる……？」
「……ですが、仮にその手段が確立されていたとしても、貴方を待っているのは地獄かもしれない。
　その術式がわたしひとりで扱えるものならまだいい。けれど、もし本国でなければ行えないものなら―――」
「……シエル先輩だけじゃなく、俺も教会に行かなくちゃいけないってコトですね」
「……はい。彼等から見ればわたしも貴方も異端者です。人並の扱いはされないでしょう。
　遠野くんの場合、目の事さえ黙っていれば普通の男の子ですから、わたしのように研究材料として扱われる事はないでしょうけど―――」
「……それでも、すごく痛い？」
「……どうでしょう。痛みや耐性を測る手術ではありませんから、麻酔ぐらいは使うと思いますが。
　まあ、そのあたりは立ち会う人間の趣味ですね。異常性癖者でないコトを祈ってください」
「――――――」
　趣味って……と抗議したくなるのをぐっと堪える。
　先輩はたまに泣く子もドン引くクールさを垣間見せてくれる。天然か。
「問題は過程ではなく結果です。
　教会でも治療ができなかった場合、遠野くんは吸血種として扱われてしまうんです。
　……そうなってしまったら、貴方はわたしと同じ扱いを受ける事になる。死んだ方がマシな扱いを、されてしまう。
　だから―――」
　だからいっそ、ロアになる前に終わらせようとして先輩はあの廃墟に現れた。
　でも今は違う。
　そんな責め苦から俺を守るために、俺を教会に行かせたくないと苦悩してくれている。
「……いいですよ、先輩。それが一番確実ならどこにだって行きます。この部屋だってずっと安全な訳でもないんでしょう？
　どんな結果になっても先輩に文句は言わないし、誰にも文句は言わせません」
「―――いえ。たとえ何を敵にまわそうとも、誰にも遠野くんを傷つけさせない。それだけは信じてください」
「もちろん。先輩が大好きですから、俺」
　そこは心配していないしとんでもなく頼りになるので安心していますとも。
　むしろ旅費やらパスポートやらを心配してしまう自分の小市民ぶりが情けない。
「どちらにせよ、遠野くんはしばらくここで待機です。
　その間、わたしはこの国の支部に出向して本国と渡りを付けます。なんとか一週間以内に話をつけますから、それまでひとりで待っていてください」
「え……ちょっと待って、先輩の部屋にひとりで何日も泊まりこむんですか、俺!?」
「……あのですね。遠野くんの命がかかっているんですから、それぐらい我慢してください。
　あ、妹さんに連絡をいれるぐらいはいいですけど、あんまり事情は説明しないでくださいね」
「……いや、この部屋に不満があるんじゃなくて、むしろ逆なんですけど……先輩がいいなら、いいです」
　とにかく、これから自分がするべき事は飲み込めた。
　シエル先輩を信じてここで待つ。
　それまで俺がロアに負けなければ解決だ。
　……あとは、そう。
「俺の話はこれで済みました。次は先輩の番です」
　俺の問題なんかより何倍も大切な、先輩の話をしておかないと。
「わたしの番、ですか……？」
「はい。何もかもうまくいって、何もかも終わった後の話です。
　ロアが消えて、体が元に戻ってたら先輩は俺と付き合ってください。もちろん恋人としてですよ。ちゃんと学校も卒業してくれないとイヤです。二人で青春を謳歌しましょう」
「こ、恋人って、つつ、つつしんでうけ、じゃなくて、なんか性格かわってませんか遠野くん!?　すごく動物的のような!?」
「もともとこういう性格です。やりたい事はやります。
　とにかく先輩は俺と一緒にいてください。今までがんばったんだから、ちょっとぐらい普通の生活をするべきなんです。
　それと、死にたいと思うのもなしです。……それだけは、絶対になしですから」
「――――――」
　……やっぱりそうだ。
　先輩の心には、まだ自分への罰が渦巻いている。
“ロアを殺して体が元に戻ったのなら死を受け入れる”
　それだけを希望にこの人はここまでやってきた。
　そんな結末に縋らないと戦ってこられなかった。
　でももう、そんな生き方はしないでほしい。
「……………だめ、ですよ、そんなの」
　舞い上がっていた空気を振り払うように。
　泣きそうな声で、彼女は言った。
「……遠野くんの言いたい事は分かります。
　わたしも、安易に死を望むことはもうありません。彼女を殺した以上、自分の為に死ぬことはできません」
「でも、それとわたしの在り方は別問題です。
　わたしはロアとして多くの人間を殺しました。その罪の清算が残っています。
　たとえ不死身でなくなっても―――わたしは、最後まで償わなければいけません。いえ、償いたいんです」
　死ぬ為に戦うのではなく、
　ひとりでも多く救う為に戦う。
　……ほんと、自分が見えていないにも程がある。
　いまになってようやく開眼したような言いぶりだけど、そんなの、こっちは初めから知っていた。
「うん。それはそれで。いいと思いますよ、すごく。
　先輩は一生償えばいい。もう納得するまで償ってください。それと同時並行で、自分の幸せを求めてください」
「だいたいヴローヴの時からそうだったし。
　先輩はヴローヴが憎いんじゃなくて、人間として当たり前の義務として戦っていた。そのあたりからして考えがまっとうなんです、貴女は」
　……ヴローヴを殺す事しか考えていなかった俺とは違う。
　どんなに強い力があっても、どんなに辛い出来事に直面しても。この人はずっと、公務の為に生きられる人だった。
「で、でもそれは、わたしにはそれしかできないから、」
「なに言ってるんですか、あれだけ学校で人気者だったクセに。戦う事しかできない、なんて笑わせないでください」
「いいですか。先輩は普通の生活だってできるんです。でもそれだけじゃ物足りない。貴方は欲張りだから、ぜんぶ解決したがってるだけなんです。
　自分の過去も未来もハンパにはできない。だからいっつも貧乏くじを引いて、いいように利用されるんですよ」
「そ、そんなコトはありませんっ！　わたし、そこまでお人好しではありませんから！」
「ならちょっとは悪いコトをしましょう。
　先輩には両立できるだけの素質も努力もあるんだから、続けたいんなら続ければいいんです。
　そうしていれば、いつか」
　先輩が自分から幸福を望める日だってくる。
　……この人は自分を絶対に許さないけど。
　彼女に救われた多くのものの感謝が、いつか、彼女を縛り続ける後悔の念を越えるだろう。
　それが何年、何十年後の事かはわからない。
　ただ、その時まで俺も生きていて、先輩の隣りにいられたとしたら、これ以上の喜びはないと思う。
「……とにかく。
　先輩が楽しくやっていける時だって来ると思います。それを自分から切り捨てるのはやめてください」
「…………そう、でしょうか。
　それは、夜に虹がかかるような話だと、思います」
「夜に虹……？」
「お父さんの口癖です。わたしたちの町のたとえ話。
　起きてはほしいけど、起きるはずのない出来事をそう言っていたんです。
　虹は太陽の可視光が分かれて見えるものですから。昔の人は、そんな仕組みは知らなかったでしょうけど」
「？」
　つまり……ええっと？
「……いえ、なんでもありません。
　ありがとう遠野くん。貴方にそう言ってもらえるのは、本当に嬉しいです」
「でも、やっぱりだめですよ。
　わたしはもう学生には戻れないし、と、遠野くんの恋人になんて、なれません。
　わたしは貴方を騙して、助けを求めてきた貴方を殺すところでした。……あれだけの事をして、今さら―――」
「そんなコト気にしてたんですか、先輩は」
「そ、そんなコトじゃないです！　思い出す度に死にたくなります！　っていうか死にます！」
　むう。そんなの、助けてくれたんだから気にしなくていいのに。乙女心は分からない。
「大丈夫、俺は気にしてませんから。先輩も気にしなくていいよ。ほら、好きな人に追いかけられるっていうのも貴重な経験だったしさ」
　乙女心は分からないが、できるだけ明るい口調で慰めてみた。
「…………」
　先輩は泣きそうな顔で押し黙っている。よく見ると耳がちょっと赤くなっている。
「なにより今夜の先輩、かっこ良かったし。
　いつもの制服も法衣姿もいいけど、ここぞという時に特別な服装で決めてくるとか反則です。あんなの誰だって惚れ直します」
「…………………」
　……先輩は黙っている。でもちらっとこっちを見てくる。
「あとは……そうだ、眼鏡をかけてないとイメージ変わるんですね。キリッとして、なんだか年上みたいに見えました」
「…………みたい、じゃなくて年上です。……そりゃあ、あの時から体は成長してません、けど」
「―――なんですと？」
　待て。
　今、とんでもない問題発言しなかったかこの人……？
　ここは流すべきだと分かっているが、俺は―――
「……………」
　生唾を呑みこむほど気になるが、今は先輩をいじめていい時ではない。
　ここは断腸の思いでスルーしよう。
「……………」
　あの時からって、ロアとしてアルクェイドに殺された時からだよな。
　今までの情報から逆算すると、つまり……
「先輩、12歳の時からそんな<体格|スタイル>なのか!?」
　いくらハーフだからって発育良すぎない!?
「ひ、ひとより早熟だったんです、それに、目覚めてから少しは成長しましたから！　ぜったい！」
　……ノエル先生は５年間ずっと成長していない、と言っていたけど……これ以上つっこむと流石に先輩もおとなしく受けに回ってはいまい。
　肉体年齢問題はここらが引き時か……。
「でもほら、くぐってきた修羅場が違いますもんね。先輩は吸血鬼退治のプロフェッショナルなワケだし。
　俺は吸血鬼になりかけなんだから、先輩が非情に徹したのは当然というか」
「…………………」
　……まいった。
　何を言っても先輩は応えてくれない。
　場を和ませようとした話題も空振りしてしまって、他に言うべき言葉が見付からない。
「…………まいりました。先輩、何か言ってください。
　それとも、俺なんかとは話したくない？」
「………………………」
　息を呑む音がする。
　先輩は観念したように、泣き出しそうな顔のまま、
「……………………ばか」
　小さな声で、そんな言葉を返してくれた。
「遠野くんは、ばかです。
　わたしは遠野くんが思っているような人間じゃないのに、どうしてそんなにわたしに優しくできるんですか？
　……そんな資格、わたしにはありはしないのに」
「資格なんて俺にだってなかったですよ。
　でも、そんなものは必要ないって笑い飛ばしてくれたのは先輩です」
　……そういえば、あれはこの部屋だったっけ。
　アルクェイドを殺してしまって、自殺ぐらいしか考えつかなかった俺を救ってくれたのは、この人だけだった。
「……うん、そうでした。
　先輩。俺は先輩の罪なんて知りません。それは俺には関われない事です。俺は先輩が好きだから、先輩を愛しているからここにいるんです。
　……貴女がどんな人間でもかまわない。
　先輩と―――シエルとずっと一緒にいたいから、幸せになってほしいんです」
「―――遠野くん、いま―――」
「なんで、もう先輩が何を言おうと騙されませんから。こうなったら地獄の底まで付いていって無理矢理笑わせます。
　……だから、ほら。先輩にとっては迷惑だろうけど、たちの悪い後輩に捕まったと思って、いいかげん降参してください」
　右手を差し出して先輩の返事を待つ。
　これぐらいしないと本当の事を言ってくれないと思ったからだ。
「……しょうのない後輩ですね。
　聞いているこっちの方が恥ずかしくなるなんて、想定外もいいところです。そんなコトを言われたら、完全降伏するしかないじゃないですか」
　差し出した右手に、先輩の手が重なる。
　握り合うものではなく、指に指を重ねただけの、ささやかな繋がり。
「先輩、それじゃ」
「はい。お言葉をお受けします。自信はありませんけど、遠野くんといる時は、自分から諦める事はしないと誓います。
　こ、これからは恋人同士なワケですし」
　先輩はつっかえながらそんなコトを言うと、差し出した手を引っ込めて、上目遣いで俺の目の前まで近づいて、
「でもこれだけは先輩として言わせてください。
　……あのですね。遠野くんの十倍、いえ百倍以上、わたしの方が大好きですから。覚悟してくださいね」
　今まで見たことのない、<悪戯|いたずら>な微笑みをうかべて、俺の胸を指でつつくのだった。
　……でも、ようやく元に戻れた。
　俺と先輩の間にはもう何のわだかまりもない。
　茶道室でお茶を飲んでいる時のように、心が穏やかで、弾んでいる。
　それは本当に嬉しい。嬉しいんだけど……
「…………………」
　こう目の前にシエル先輩が立っていると、いても立ってもいられなくなるというか。
　シエル先輩の部屋はいい匂いがするというか……
「っ！？」
　何事かと振り返ると、壁に掛けられた時計の音だった。
　時計の針は午前零時を示している。
「もうこんな時間だったんだ……」
「はい。夜明けまで、あとちょっとしかないですね」
「……………」
「……………」
　口ごもりながら見つめ合う。
　ええい、これじゃ埒が明かない。時間がないんだ、ここで素直にならなくてどうする！
　いうぞ。というか行動に移すぞ。
　せーのっ、
「先輩、ベッドを使いましょう！」^@t「遠野くん、ベッドにどうぞ！」　
　……カッチカッチ、と秒針の音が響く。
　恥ずかしくて先輩の顔が直視できないけど、それ以上に今の先輩の顔は愛らしすぎた。
　それは先輩も同じだったようで、俺たちは互いの台詞を頭の中でたっぷり１分<反芻|はんすう>した後、
　クスクスと。何もかもが嬉しくて、笑いあった。
「じゃあ、今度は床に寝るのはなしで。ベッドは一つしかありませんから、一緒に寝るしかないですね」
「な、なるほど。
　そ、それではわたし、先にシャワーをあびてきます……！」
　先輩はあわてて浴場へ走っていく。
　その様子がおかしくて、頬がニヤけっぱなしだ。
　俺はロアという爆弾を抱えているのに、今は不安にさえ思わない。我ながら即物的にも程がある。
　……でも、それぐらいは大目に見てほしい。
　今まで何度も失ったと思わされてきたひとが、本当に俺の傍にいてくれる。
　シエル先輩がいてくれるなら、不安なんてどこにもない。
　夜の廃墟で、俺はあの人を抱きしめた。
　あの時は愛しいというより悲しくて、抱きしめてあげたかった。
　けど今は違う。
　今はただ愛しい。
　朝になれば離ればなれになるのは分かっていても、あの人をこのまま行かせたくないぐらい、愛しいと思えていた。
　……時計の針が５時を回ろうとしている。
　時間はあっという間に過ぎてしまった。
　俺と先輩はベッドに入って、眠らずに天井を見上げている。
「夜は絶対に眠っちゃいけません。逆に日中なら眠っていいですよ。ロアは吸血種ですから、朝になれば沈静化します」
　それは助かる。まる２日眠っていないので、いいかげん限界ではあったし。
　そういえば、こんな話もした。
　もし俺が教会に行かなくちゃいけなくなったらの話だ。
“……そもそも、どんなに手続きをして許可をとっても、吸血鬼なら門前払いを受けるんじゃないですか？”
「それは大丈夫です。遠野くんは血を吸ってもいなければ、人を殺してもいないでしょう？　吸血鬼になりかけていても無実なんですから、裏口からならそろっと入れます」
“…………”
　その自信はない。俺には数日の記憶がない。
　なにより彼女に―――琥珀さんに、俺は取り返しのつかない事をしてしまった。
「だから、記憶はないんでしょう？　ならやっぱり潔白です。精神面での話ではなく、現実のお話として」
“……自分の記憶がないのに、何もしていないと断言できるんですか？”
「はい。実際に行為に及んでいる記憶がないのなら、貴方は罪を犯していない。
　いいですか遠野くん。転生体の意識とロアの意識は同じなんです。たとえロアの意識が上回って行動した時があっても、自分のした事はかならず記憶しています。
　殺害の記憶がない、というのは何よりも確かな無罪証明なんです」
　ああ、と安堵する気持ちと、改めて先輩の強さを実感する。
“ロアの行為は必ず記憶されている”
　……それは、彼女が何一つ残さず、自分の罪と向き合っているという事だからだ。
　……窓の外が<白|しら>ばんできた。
　もうすぐ時間だ。
　俺はずっと先輩の声を聞いている。
　自分から話しかけたら、きっと先輩を引きとめてしまう。
　だから黙って、せめて彼女の吐息とか肌の感触とかを、傍で感じていたかった。
　衣擦れの音がする。
　外がまだ藍色のうちに先輩はベッドから出て、修道服姿に着替えていた。
　その横顔を、ベッドに横になったまま見上げている。
「……時間ですね。
　遠野くんをポケットにしまえたら、一緒にいられるのに」
　俺と先輩はいつも一緒にはいられない。
　今までずっとそうだったし、場合によってはこれからずっと、一緒にはいられない。
　もし教会でもロアを切り離す手段が見つからなければ、後は自分たちで決着をつけるだけだ。
　俺が遠野志貴でなくなる前に、先輩の手で―――
「―――死なせません」
「え……？」
「貴方は、絶対に死なせない。ロアなんかに遠野くんは渡さない。わたしが貴方を守ります。必ず、必ず救ってみせる。
　だから―――そんなこと、言わないでください」
「……言ってないです。先輩の気のせいですから、それ。
　でも……」
　ありがとう、と気持ちを言葉にするのは止めておいた。
　今のは本当に、一時の気の迷いだ。
「行ってきます。できるだけ早く戻ってきますから、それまでこの部屋から出ないでくださいね」
　ちなみに一週間分の食糧はあるそうだ。
　その大半がレトルトのカレーだったりするのは、この際おいておこう。
「また、言うまでもありませんが、わたしがいない間に浮気なんかしないでくださいね。
　わたし、すごく嫉妬深いですから」
　笑顔でさらっと恐いことを言って、先輩は部屋を後にした。
　……窓からの陽差しに目を細める。
　太陽が昇る。これでようやく眠りにつける。
　胸に沈殿する多くの不安は忘れて、今ぐらいは眠りに身を委ねよう―――
「志貴さま、朝です。お目覚めください」
　……聞き慣れた声がする。
「志貴さま……どうかお目覚めください。
　昨日に引き続き遅刻をなされますと、秋葉さまとの約束を破る事になってしまいます」
　……切迫しているのか落ち着いているのか、なんとも判別しにくい声がする。
「では。僭越ながら、本日のスケジュールをまとめさせていただきます。
　今朝も秋葉さまにお叱りを受ける、という事で。二日目となると、指導も体罰の域に達するかと存じますが」
　……いや、世にも恐ろしいまとめをしないでほしい……。
「……起きる。起きるから、ちょっと待って」
　毛布をかぶったまま返答して、ゆっくりと目を覚ますことにした。
「おはようございます、志貴さま」
「あい、おはよう」
　寝ぼけた頭で挨拶を返して、眼鏡をかける。
　時刻は朝の７時すぎ。
　いつも通りの時間に起こしに来てくれた翡翠と、珍しく目を覚ました俺がいる。
「朝食の支度が整っています。
　着替えが済みしだい、食堂にいらしてください」
　一礼をして、翡翠は部屋から立ち去っていった。
「は――――あ」
　大きく伸びをして、ベッドから起きあがる。
　制服に着替えて、昨日の予習で散らかったままの机を片付ける。
　小物を仕舞おうと引き出しを開ける。
　引き出しの中には、あの夜から使われていない<短刀|ナイフ>が入っている。
　ふわり、とカーテンがゆらいだ。
　翡翠が開けていったのだろう、窓越しの空は気持ちいいぐらいに晴れあがっている。
　ただ、吹き込む風が少しだけ肌寒い。
　あの後、俺が目を覚ましたのは自分の部屋だった。
　先輩が運んでくれたらしく、幸いにも俺が部屋を出た事は秋葉たちには知られていなかった。
　あの夜から一ヵ月。
　遠野志貴の生活は以前と変わりがない。
　秋葉との関係はたまに、ちょっとした弾みで昔の事を思い出してしまうものの、やっぱり兄と妹なわけで。
　過去を知らされたところで、長年培ってきた関係性は変わりはしなかった。
　学校は渡り廊下を修理中という事を除けば、そう大きな変化はない。
　夜半に起きた崩落事故における死傷者は無いとされている。現場にはひとりの怪我人もなければ血痕もなく、すべては跡形もなく消え去っていたからだ。
　唯一の変化は、生徒の数がひとり減ったこと。
　もっとも、その“いなくなった先輩”の事を覚えている者は、自分ぐらいしかいない。
　街を騒がしていた通り魔事件も途絶えている。
　犯人が捕まったわけではないので夜の街は寂しいままだが、あと<一月|ひとつき>も経てば元の活気を取り戻すだろう。
　俺は、結局。
　胸の中に埋めようのない穴を持ったまま、それでも以前のようにやっていけている。
　……なんとか、耐えていけている。
　時折、何かの拍子に思い出し、どうしようもなくなる時があるけれど、まだ気が触れる事はなさそうだ。
　この思いに耐えきれずどうにかなってしまうのか、それとも、それにさえ慣れて空虚なまま過ごすのか。
　人間の記憶は、永遠には続かない。出来事は忘れずに記録できても、そこにあった輝かしい時間……彼女の仕草や声は、だんだんと失われる。
　この鮮明な記憶も、いつかはただ、“そういう事があった”という記録として整理されるのだ。
　ただ、それまでは。
　無意味だと知りながら、残った約束を毎日のように守っている自分がいた。
「……はあ。秋も、じき終わりかな」
　外は、息が詰まりそうなほど澄んだ空。
　一度だけ大きく深呼吸をして、ガラス窓をぱたんと閉めた。
　授業が終わり、
　教室から誰も居なくなっても、
　日が落ちるまでは、屋敷には帰らない。
　赤い教室。
　窓越しには燃えるような夕焼けが広がっている。
　深空に沈むように、真っ赤な太陽がとけていく。
「―――――」
　ずっと、こうして待っている。
　彼女との約束を覚えていて、それを忘れられないかぎり、この風景が消えるまで、ここで待ち続ける。
　一つだけ、果たせなかった約束がある。
“全部終わった後……吸血鬼を倒し終わったらさ。
　別れる前に、もう一度だけこうして遊ばないか？”
　彼女は、不思議そうに首をかしげていたっけ。
“だから―――本当に、何の義務もなくなった後、何の意味もなく会えたらどうなるかなって、そう思っただけ”
　……言葉では、そんな事を口にして。
　心の中では彼女の事だけを考えていた。
　協力しあう者同士なんて関係ではなく、
　気が合う友人として何でもない思い出を作れたら。
　きっと喜ぶだろうと思えたあの時。
“うん―――！
　ぜんぶ終わったら、またここに来ようね志貴！　なんの意味もないけど、それはきっと、きっとすごく楽しいよ……！”
　呆然と目を見開かせたあと、こくん、と頷いて。
　夕焼けの教室の中、
　まっすぐな笑顔をして、彼女はそう約束した。
　―――その約束を、覚えている。
　―――その笑顔を、覚えている。
　―――なにもかも、覚えている。
　忘れられない。
　忘れてなんかやらない。
　燃えるような教室の中、ここにまた来ようと約束した時を、ずっとずっと覚えている―――
「………………」
　深く沈んでいく。
　この朱色が消え去るまでの数時間。
　真紅の空気がなくなるまでの静かな時間。
　永遠にも一瞬にも感じられる、止まった世界。
　或いは、自分はとっくに気が触れているのかもしれない。
　訪れる筈のない相手を待ち続ける。
　幸福だった時間を噛みしめるように。
　―――カタン。
　何かが机に触れる音。
　視線を移す。
　閉じていた窓が開いている。
　気がつけば。
　赤い陽射しに染まった、彼女が窓際に立っていた。
　彼女は窓際から動くことはない。
　こうして目の前にいるのに、
　決して手の届く事のない<隔|へだ>たり。
「―――――――」
　声が出ない。
　けど、気持ちはひどく落ち着いている。
「……まいったなぁ。本当はそっと消えるつもりだったんだけど、志貴、いつまでも待ってるんだもん。
　放っておけないから、
出てきちゃった」
　照れるように、彼女は柔らかに微笑んだ。
「……そりゃあ、そうだよ
。
　言っただろ、おまえとの約束は、二度と破らないって」
「そうだったね。ありがとう、約束を守ってくれて」
　それはお互いさまだ。
　たとえこれが現実でも、
　気が触れた末の幻でも、
　叶ったのなら、ありがとうと言わないと。
「でも、ごめんね。今度はわたしの方が約束を守れない
」
「……なんで？」
　……自分でも驚く。
　怒るのでもなく縋るのでもなく、本当に優しい声で、彼女にそう問えた事が意外であり、嬉しかった。
「……うん。志貴にはわたしがロアを追いかけている理由を話してなかったよね。
　その、実はね。わたし、ずっと昔に一度だけ人間の血を飲んだ事があったの。その時に力の一部をその人間に<奪|と>られてしまって、そいつはすごく強力な死徒になって」
　―――それは、つまり。
「……それが、ロア？」
「そう。その時まで、わたしは吸血衝動というものを知らなかった。他の真祖たちも、わたしにだけは無いんだって信じてたみたい。
　けど、わたしの衝動は単に来るのが遅かっただけ」
「その時まで……血に渇く時が来るまで、わたしは自分が吸血種である事さえ意識しなかった。
　だから―――
アレが、いけないコトなんだっていう事も、わからなかった」
　……そうか。
　なに一つ余分な事を教えられなかった彼女は、
　自分が、殺してまわる相手と同じものだという事さえ、教えられなかった。
「でも、それは弁明にならないわ。
　たった一度の過ちで、わたしはみんな壊してしまった。
　……だから二度と人の血は吸わない。
　けど一度でも血を吸ってしまった真祖は、人の血を吸わないと正気でいられなくなってしまう」
「――――」
「……わたしがこうしていられるのはね、志貴がロアを完全に
“殺”してくれたから。
　今まで何度あいつを消滅させても、消えるのは肉体だけで魂までは殺せなかった」
「けど、志貴はあいつの存在そのものを殺してくれた。
　おかげで奪われていた力が戻って、なんとか蘇生することができたんだ」
「―――そ――――な、コト」
「でも、それが精一杯。わたしの中の吸血衝動は、もう抑えきれないところにまでやってきちゃった。
　だから――――」
「―――そんなコト―――どうでも、いい」
「……志貴とは、もう会えない。
　約束、破っちゃって、ごめん」
　……そんなコトは、どうでもいいんだ。
　ただ俺は―――
おまえに、傍にいてほしいだけで。
「……約束、守れるよ」
「志貴……？」
「俺の血を吸え。そうすれば、何もかも解決じゃないか」
　時間だけが流れる。
　お互い、何も言えない。
　本当にどうかしてしまいそうな沈黙のあと。
「―――すごく、嬉しい。
　けどやっぱりいいや。志貴の血はいらないよ」
「なんで。俺の血じゃ駄目なのか。
俺の血を吸えない理由なんか、あるのか」
　彼女は、うん、と頷いて。
「好きだから、吸わない」
　そう、咲き誇る花のような笑顔で、万感の別れを告げた
。
「…………………っ」
　大きく息を吸いこむ。
　無様にも狂い出す気持ちを、全力で抑えつける。
　止めたかった。
　止めたかった。
　止めたかった。
　――――たとえ殺してでも、止めたかった。
　けど、その笑顔があまりにも華やかすぎて。
　俺のわがままな思いで、汚す事だけはできなかった。
「―――さよなら。今まで本当にありがとう、志貴」
「………………」
　喉がふるえて、声が出ない。
　それでも―――お別れを、言わないと。
　幼い頃。
　大切な人はそうやって送るものだと、知ったはずだ。
「……俺は、嘘つきだ」
「どうして？　志貴は約束を守ってくれたよ」
「―――どうしようもない嘘つきだ。
　おまえを……幸せにするって、言ったのに」
　そう、誓ったのに。
「……ううん、そんなコトない。
　わたしはこれから眠り続けるけど、その間に志貴の夢を見る。あなたと過ごした時間はすごく楽しかった。だから、その時の夢をずっと見るの」
「――――――」
「なんの意味もないけど、それはきっと、きっとすごく楽しいよ。だからね、志貴。わたしは幸せだよ。
　志貴はちゃんと、わたしに幸せをくれたんだから」
「………………っ！」
　喉がつまる。
　そんなもの―――そんなものを、俺は。
「……優しいね、志貴。
　うん、やっぱり最後にお別れを言いに来てよかった」
「わたし、志貴のことを愛してる。
　正直で、危なげで、わたしにだけうるさくて、一生懸命、前向きだったあなたを愛してる。
だから、お願い。これからもずっと、そのままで生きていってね」
　ほんの一瞬。
　哀しそうに、彼女は笑って。
　ばいばいと手をふって、夕暮れに融けるように、俺の前から消え去った。
「…………………」
　必死に歯を食いしばって、堪えた。
　彼女が最後まで笑顔だったから、せめて、涙は見せないよう、堪えていた。
　―――教室には誰も居ない。
「………そっか。約束、守ったじゃないか、おまえ」
　この教室で。
　夕暮れの教室でまた会おうという約束は、ちゃんと守られた。
　……失ったものがあるけれど、これで、終わったんだ。
　あいつと知りあって、駆けぬけるような時間が、ここできちんと幕を下ろした。
　考えてみれば、別れはいつだってある。
　俺とあいつの場合、それが少し早かっただけ。
　これは満足のいく別れだった。
　あいつは生きていたんだし、
笑顔で、自分は幸せだと、
言ってくれた、の、だ、し
「うそだ……！　そんなんじゃない、
そんなモノが―――
　俺は、欲しかったんじゃない………！
」
　―――そう。
　もっと―――
　もっと、一緒にいたかった。
　もっと話をしたかった。
　もっと体温を感じたかった。
　もっと――――もっと、あの笑顔を、見ていたかった。
　ずっと。
　いまなんかよりずっと――――彼女を、幸せに、してやりたかったのに。
　なのに、あいつは。
　最後まで笑顔で、俺に、生きていけだなんて、残していった。
「……ばか……やろう……」
　それが彼女の最後の望みだった。
　……俺の深層が、その実、死人そのものの空虚さであり。
　常に恐怖を押し殺しているだけの臆病者と知った上で。
　どんなに、この不確かな生が辛くても―――今は誤魔化して誤魔化して、いつか思い出と振り返れる時まで、前向きに生きていってと、笑顔で言い残した。
　そんな事、できる筈がない。
　俺には―――そうやって生きていく自信なんて、本当は、これっぽっちもないっていうのに。
　それでも―――彼女が幸せな夢を見ていられるように。
　せめて、それぐらいは叶えてやらなくちゃ、いけないのか。
「…………あ」
　気がつけば、とっくに日は沈んでいる。
　真紅だった空気は消えて、空は青く青く染まっていた。
　蒼い夜空。
　白く輝く月。
　―――残ったものはそれだけ。
　けど、とても美しい、記憶。
「―――――――」
　はあ、と。
　長く、祈るように、大きく息を吐いた。
　もう彼女はいないけれど。
　言い忘れていた事を、言葉にして残さないと。
「じゃあな。……俺も、すごく、楽しかった」
　それが彼女に関する、最後の記憶になった。
　いつか月は<翳|かげ>り、夜は終わる。
　夜空には<硝子|がらす>のような月だけがある。
　遠い、触れれば壊れそうな月の記憶。
　それをいつまでも―――
　夜が明けるまで、いつまでも見上げていた。
　今でも私は、この感情を保管している。
　もう利用価値もなく、共感もできないかつての<記録|じぶん>。
　無限の航路に身を投じる前に抱いた、
　私だったものの<断末魔|おもいで>を。
　目的は変わったのか。
　いや、到達点そのものは変わっていない。
　私は永遠を目指す。
　一切の報酬もなく永遠を目指そうとした。
　それはなんて純粋で、<穢|けが>れのない意思だったのだろうか。
　変わってしまった。
　私は、変わってしまった。
　永遠の定義が、それを証明する方法が変わってしまった。
　私は長い時間を経て、完成を見たかったのに。
　今は完成を得る為に、長い時間を求めている。
　その無様さを理解していながら、己の心を変えられない。
　あの女。
　あの女がいるせいだ。
　あの女のせいで―――かつての私は、純粋さを失った。
　人間には千年を生きる強靭さはない。
　肉体的にも精神的にも、人の器はその磨耗に耐えきれない。
　吸血種として不死の肉体を手にいれても、精神の鈍化は止められない。
　無論、精神の老化を防ぐ事はできる。だがそれは停止を意味する。変わらない自我。変わらない思想。時代に取り残された客観性。そんな不老に価値は見いだせない。
　私は、弱者であるが故に変わり続ける人間として、その純度を保ったまま在り続けねばならない。
　何の為に？
　言うまでもない。そうでなければ意味がないからだ。
　私は観測者としてではなく当事者として、
　人間の到達地点を知らねばならない。
　そうでなくては―――あの女には届くまい。
　……やはり、転生という手段をとろう。
　私は一から生まれ直し、私となってまた死ねばいい。
　この循環の中でなら、私は私という純度を保ったまま<在|い>きられる筈だ。
　個人としての永続に執着するのではなく、
　結果としての永続に漂流し続ける。
　それは道筋を変えてしまった自分への、
　最後の抵抗でもあった。
　……だが。
　理論は純度を保ったままでも、
　私自身の純粋さは見る影もない。
　永遠を知ろうとした私は、何度目かの旅で失われた。
　私は他の死徒たちと同じように、自分の為の永遠を証明したいと考えてしまう。
　それがどのような磨耗を呼びこむのか、始まりの私には分からない。
　ただ、憎悪というものを初めて知った。
　この失望もこの不純も、全て、あの女さえいなければ起きえない<感|も><情|の>だったのだから。
「……あの……女……？」
　水に浸かった体が、背中から引き上げられる感覚。
　眼球がこぼれるような加圧と、
　決して動かせない重い石のような<言|こ><葉|え>で、目が覚めた。
　ズン。
　目を覚ますと既に日付は変わっていた。
　時刻は深夜零時。俺は12時間以上、化石のように眠っていたらしい。
「……いまの、声、は―――」
　聞き覚えのない声。
　見覚えのない景色。
　なのに、ヤツが見ていたものが何なのか……いや、誰なのか思い当たる。
　ズン。
「い――――た」
　さっきから頭を鈍器で殴られている。
　<蟹|カニ>の甲羅を砕くハンマーを連想してしまった。死骸とはいえ、生き物の体を砕くアレ。
ズン。
美味しく食べるために、笑顔で鈍器を振るう姿は、人間こそ地上でもっとも裕福な捕食者である事を実感させる。
ズズン。
「……待て、待ってくれ。死ぬ。それは、さすがに」
　乗っ取られる前に、この痛みで殺される。
　何を取り乱してやがるのか。
　おまえは俺の体が必要な筈だ。俺そのものにならないと意味がない筈だ。切り替わる前に俺の頭蓋をコナゴナにしたら共倒れだと分かっているハズだ。
　それとも、そんな事を見失うぐらい、あの女とやらが憎い、
「がっ―――！」
　頭部を打つ衝撃で床に倒れた。
　脳は揺れていない。
　衝撃は外から内側に向けられたものではなく、
　内側から外に向けたものだった。
「う、ぼ…………………！」
　全身が痙攣する。
　脳からの信号が、神経伝達がエラーを起こす。
　俺は倒れながら嘔吐し、胃の中のものを吐き出した後は、赤い血を吐いて咳き込んでいた。
「あ―――、あ……！」
　やめ、やめ、ろ
　これ以上、これ以上続くと、割れる。
　あたま、が、くだ、ける―――――
「ッ――――！」
　びくんと体が跳ねる。
　脳に電極をブッ刺された犬のようだ。
　もうとっくに頭蓋の手触りがない。頭の上半分は野ざらしになっている気がする。
　それでも、
「は―――」
　それでも、頭痛は治まってくれなかった。
「は―――、ぐ―――い、い、っっぃぃいい！！！！」
　あんまりに痛くて、テーブルに痛みの<原|も><因|と>を打ち付けた。
　硝子製である事が幸いした。先に割れたのはテーブルの方だった。木製でも割れていたかもしれない。なにしろ今ハンマーとして使ったものは人体で最も硬いカルシウムだ。割りたければ<鋸|のこぎり>とかレーザーメスじゃないととてもとても。
　額からは血が流れている。
　もちろんまったく痛くはない。
　そんなものより、断りもナシに振り下ろされる鈍器の方が、今は遥かに―――
「―――――――、て」
　耐えられない。
　気絶する事さえ、できない。
　何秒。何分ごとに、この、痛みが、くる、のか。
「―――た、すけ」
　いたい。どうにかしようと、ナイフで掌をザクザクと刺してみた。ダメだ。ぜんぜんイタク、ない。そうか。たぶんきっと線の　セイだ。眼鏡。眼鏡をかければ、いつものように、こんな異常は、収まって
「―――かけ、てる。……かけてる。かけてる―――！」
　だめだ。わらうな。わらえば、タガがハズれる。でもわらいたくて仕方がない。だってこれじゃ、もうどうしようもない。
「―――――――」
　シエル先輩は、まだ、帰ってこない。
　目を覚ましてから、まだ10分も経って、いない。
　夜。よるがきたから、こうなったのか。
　夜が明けるまであと６時間以上ある。
　その事実だけで、気が狂いそうになった。
「は――――――あ」
　とっくに限界は超えている。
　これ以上この痛みを我慢していたら、先輩が帰ってくる前に俺自身が死んでしまう。
　自分の手で解決しないと。
　自分の手で。
　自分の、手で―――
「―――――――は」
　解決手段は、ハッキリしている。
　原因は一つだけだ。今までこんな痛みはなかった。
　遠野志貴の部屋なら異常はなかった。
　だから、私にとって異常なのはこの部屋だ。
　この部屋にいると頭痛がする。
　外。
　外に出ないと、気が狂う。
「ダ――――め」
　この部屋から外には出るなと注意された。
　分かっている。
　この頭痛が私の罠であろうとなかろうと、外に出れば俺には逃げ場はなくなるのだと。
　けど、今はまだ逃げ場がある。
　この部屋から出れば数時間は逃げられる。
　この部屋にいては、その数時間の前に<脳|おれ>が死ぬ。
「だメだっ―――て、いってる、のに」
　ふらふらと足が玄関に向かう。
　吐く息が熱のある人間とは思えないほど冷たい。
　喉は渇かず、腹は減らず、情欲は消え、意識は霞む。
　なのに、ふと。
　何の理由もなく、金色の月が見たくなった。
　―――歪みが、消えない。
　視界は悪化する一方だ。
　街に人の気配はない。
　ビルというビル、
　建物という建物にかかる、蜘蛛の糸のような繭。
　夜の街は白い霧に覆われていて、
　もう何千年も前に死んでしまった遺跡に見えた。
　そんな幻視に<眩|まど>わされながら歩く。
　頭上にはひときわ輝く金の月。
　月の光の恩恵だろうか。
　あれだけあった頭痛は消え、今は海の底にいるように、穏やかだ。
　……そうして、この場所に辿り着いた。
　引き寄せられていたのか、誘われていたのか。
　どうあれ同じ結末だ。
　<皎皎|こうこう>と照らされた石の広場。
　何もかもあやふやな視界の中、ただひとつ鮮明な<美|か><貌|げ>がある。
「――――――」
　息を呑んで、朦朧としていた意識を現実に引き戻す。
　街は沈み、世界には俺と彼女だけ。
　太陽の明かりほど眩しい月下。
「こんばんは、わたしの素敵な殺人鬼さん。
　こうして会うのは久しぶりね」
　そこには夢で何度も出会った、アルクェイドという名の吸血姫の姿があった。
　……頭痛で切り刻まれた知覚が見せる幻じゃない。
　容姿は何一つ変わらないのに、アルクェイドのカタチは変化していた。
　ロアの記憶にあった王族としてのたたずまいとも、
　俺の記憶にある天真爛漫な仕草とも違う。
　その二つが交わったような、そんな印象だ。
「……アルクェイド。おまえ、帰ったんじゃなかったのか」
「あら。どうしてそう思うの？
　わたし、自分からこの街を去ると告げたかしら？」
「………………」
　愉しげに微笑むアルクェイド。
　その仕草はかつてないほど優雅で恐ろしい。
　占いの花びらを摘むような可憐さに見えて、
　戯れに捕まえた虫の羽を千切る残酷さにも見える。
　正直に言えば、今すぐにでもアルクェイドに駆けよって、以前のように話がしたい。
　アイツとろくに話も出来ず仲違いした事は本意ではなかったからだ。
　……けれど、今は無闇に近づく事さえできない。
　本能が警告を発している。
　アイツはロアを探し、殺す為に残っている。
　即ち―――俺の中にロアがいると知られれば、アイツにとって俺は殺すべき対象になってしまう。
「……ロアはもう死んだって言ったのはおまえだろ。
　死者の後始末だって先輩がやってくれるんだし、おまえがこの街に残る理由はもうないんじゃないか」
　内心の緊張を悟られないよう、平然と言い返した。
　……これは以前アルクェイドが俺に言った事だ。自分の言葉ならアイツだって納得して―――
「ええ。柩にいたロアは殺したわ。
　でもロアそのものは殺していない。わたしには魂を殺す手段はないって志貴も知っているでしょう？」
「……そうだったな。次の転生を待つしかないんだっけ」
「その事情が変わったの。
　運がいい事に10年以上も待つ必要はなくなった。
　だって―――ロアは依然、わたしの目の前にいるんだもの」
　そう言って。
　アルクェイドは無造作に、紅い瞳を向けてきた。
「っ―――――」
　呼吸が止まる。
　全身の毛穴が開く。
　自分たちとは本質的に違う生き物を前にした事で、遠野志貴の現実が溶けていく。
　息ができない。
　喉が動かない。
　そんな余分な真似をすれば、次の瞬間、この首が千切られて転がる予感が、全身を縛って離れない。
　人間であるうちは、無知である時はまだ良かった。
　だが今はもう駄目だ。
　吸血鬼化した五感が正確に現状を把握してしまう。
　……勝てない。逃げる事さえできない。
　吸血鬼としての階梯が違いすぎる。もし戦いになるのなら、それは文字通り、蟻が象に挑むようなものなのだ。
「ばかな志貴。あんな女に肩入れしなければ、そんな目にあわなかったのにね」
　……アルクェイドはまだ動かない。
　余裕の表れ……じゃない。アイツにとってこれは確認にすぎない。
「……そんな目ってなんだよ。毎日充実してるぞ、俺」
「物は言い様ね。信じた人間に殺されかけたり、吸血鬼になった女に殺されかけたりしたのが充実？」
「そんな事でいいのならわたしも交ざればよかったかな。
　わたしを裏切った志貴のために、もっと残酷な遊びを考えてあげたのに」
「…………」
　やっぱりそうなのか。
　シエル先輩を庇った事は、アイツにとってそれほどの事だった。……それも仕方のない事だ。
　あの時は知り得なかったが、今は十分に承知している。
　アルクェイドとシエル先輩。
　この二人はどうあっても反発し合う関係だ。
「まあいいわ。シエルの話はしないであげる。
　今はもっと聞きたい事があるんだし」
「それで、どうなの志貴？　自分の中にロアがいる感想は。
　あの時みたいに―――
　やっぱり、わたしを殺したくてたまらない？」
　一瞬、ぞくん、と全身が浮いた気がした。
　……事実として世界が揺れたのかもしれない。
　天上の花を摘むような微笑みで、アレは、形容しがたいほどの殺気を俺に向けてきた。
「………………」
　……はっきりと目が覚めた。
　アルクェイドは俺を殺す。その為に現れたのだと。
　……距離にして７メートル弱。
　アイツが相手なら100メートルあっても安心できないのに、たった７メートルしか離れていない。
「……あのな。何度も言うけど、人を殺人鬼扱いするな。
　俺がおかしくなるのはおまえに対してだけだ。殺せるか殺せないかなんて、いつだって考えてる」
　なんだそれ。
　肯定してどうするんだ、というか今のが本音なのか俺。
「相変わらずおかしなひとね。
　殺人鬼じゃないって言い張るのに、私だけは特別なの？　それとも嘘つきなのかしら？」
「う、うるさい、黙ってろ吸血鬼……！
　だいたいな、嘘つきなのはそっちだろ。……おまえ、最初から知ってたんだろう。地下にいたロアを殺した後、ロアが俺に転移した事を」
「ええ、もちろん。ロアはわたしが死徒にしたヤツだもの。奪われた自分の力がどこで脈づいているかなんて、簡単に感じ取れる。
　覚えてる？　志貴がわたしに協力すると言ってくれた夜、死者の食堂を壊した後のこと」
「――――――」
　……そうか。
　思えば、自分を殺しかねない頭痛はあの時から始まった。
　既に俺に転移していたロアは、俺がアルクェイドに心を許す度に反発してやがったのか。
「……そうかよ。じゃあアレか。死者狩りはもののついでで、本命は俺の監視だったのか」
「？　……あ、そっか。そういうコトになるのね、志貴から見ると。観察って意味じゃ合ってるから、それでいっか」
「色々な意味で貴方は希少だったから。
　ロアはここにきて法則を変えた。次の時代に移るのではなく、この時代に留まって“永続”しようとした。
　今まで何回も繰り返してきたパターンを放棄したのよ。それが罠かどうか、見極める時間もほしかった」
　……紅い、瞳。
　アレに見つめられていると、ずきりと、頭痛が戻ってくる。
　ずきり、ずきり。
　頭の中で。
　ロアという吸血鬼が、活性化しようとしている。
「疑問はあるわ。
　どうしてロアは貴方に転移したのか。貴方はどうしてそんな事が可能な体なのか」
「でも、もう気にするのは止めることにしたの。
　だって、殺してしまえば結果は同じでしょ？」
「―――――――」
　……痛む。
　アルクェイドがヤツの名前を口にするたびに、脳髄の中でヤツの記憶が暴れまわる。
　ずきり。
　ずきり。
　ずき――――――り。
　―――それは、遥か<彼方|かなた>の記憶だった。
　人跡未踏の星の深淵。
　月の花が咲き乱れる山間の古城。
　地上からもっとも高く、
　もっとも深い内海に囚われていた女の姿。
　それだけが、記憶に成り果てた男の魂に焼きついている。
　……悔しいが、それは俺には解らない永遠の断片だった。
　真祖である彼女は自らの意味も教えられず、
　堕ちた真祖たちを狩る道具として扱われていた。
　言葉を知らず、<生命|いのち>を知らず、時間を知らず。
　頭上には空を塞ぐ天蓋。
　花々が咲き誇る庭園で、彼女の姿だけが、鮮明だった。
　その姿を、男は、美しいと感じた。
　生まれて初めて。
　おそらく、いや、生涯にただ一度のみ。
　ミハイル・ロア・バルダムヨォンは、その白い姿に恋をした。
「――――――――」
　……認めがたいが。それがヤツに残された、人間としてただひとつの感情だった。
　かつてのロアという人格はもう読めない。
　多くの時代、多くのロアによって上書きされ、原典はどこにもない。
　その中で消えずに焼きついている一枚の絵があった。
　何度転生しようと色あせず忘却されない記憶。
　―――ある神学者の人生を根底から覆してしまった、どこにでもある、ありきたりの<人生|いのち>の<解答|こたえ>。
　……そうか。
　だからアルクェイドが憎かったのか。
　憎むしかなかったのか。
　自分から純粋さを奪った女。
　たった一瞬。ただ一度見ただけで心を奪われてしまった自分。
　挑むべき命題が無意味だと悟らせた花。
　その存在、白い吸血姫の全てが憎かったのか。
　生涯をかけた目的は砂のように掌からこぼれ落ちた。
　その呆気なさ、脆弱さに<憤|いきどお>ったのはロア自身だ。
“私が見た夢はこんなもので上書きされるものではない”と。
　その信念が、矜持が、敵対以外を選ばせなかった。
　この憎い敵を打倒し、<貶|おとし>める事でしか、かつての自分を取り戻す方法はないと信じたのだ。
　それは摂理として間違いではなかったが、
　人としては間違えた選択だった。
『不老不死になる為』に最も優れた真祖の<下僕|しもべ>になろうとした男は、
『最も優れた吸血種を陥れる為』に不老不死になった。
　ロアは己が吸血種だという事を知らないアルクェイドを<拐|かどわ>かし、自分の血を吸わせ、魂を結びつけた。
　アルクェイドの死徒になったヤツは吸血鬼として万能をほしいままにし、アルクェイドはたった一度の吸血で我を失い、細々と生き残っていた真祖たちを皆殺しにした。
　そうなるようヤツはアルクェイドを追いつめ、転生という不老不死に到達しながら、<寿命|リミット>をアルクェイドの手に委ねた。
　……なんで、わからなかったのか。
　十何回と転生してはアルクェイドを待ち続ける憎しみ。
　それは憎悪の類じゃない。
　ひたすらに命題を究明し続けた男は、人間らしい感情を知らなかった。
　自分の行く道を変えるほど、他者の事を思うこと。
　確かにそれは憎悪に似ているが、憎しみにまみれた人間は、そこまで他者を信じられない。
　ロアはアルクェイドを信じた。
　彼女ならば幾たびも自分を追い、憎み、殺し、永遠まで導いてくれるだろうと。
　それが果たされない望みだと理解した上で、ヤツはこの航路に乗りだした。
　無限に続く旅路。
　自身が摩耗し、消え去り、
　何か他の<概|モ><念|ノ>になっても続く魂の漂流。
　それがミハイル・ロア・バルダムヨォンの選んだ結末。
　自らの感情をついぞ愛と知り得なかった、
　或る男の人生だった。
　一瞬。いや、長い間。
　全ての元凶、転生して『<最|い><新|ま>』に在り続けようとした男の、夢を見ていた。
　そんな俺を、アルクェイドは無言で見つめている。
　……向けられる殺気に変わりはない。
　アイツは俺を殺す気で立っている。
　なのに今の空白を見逃して、俺にまだ猶予を与えている。
「…………」
　もしかして、これはアイツなりの冗談で俺をからかっているんじゃないか、なんて甘い幻想が浮かぶ。
「余裕ね。考える時間をあげたのに、そんな無駄なコトに使うなんて。逃げる算段はしないの？　それともとっくに観念して、わたしに首を差し出すつもりなの、志貴？」
「―――だよな」
　そんな都合のいい話はないよな、とつい笑ってしまった。
　こと戦い……吸血鬼同士の潰し合いにおいて、アイツに遊びはないんだから。
「どっちも有り得ない話だ。
　俺はロアなんてヤツには負けない。吸血鬼にもならない。
　明日になれば、きっと―――」
　<彼女|シエル>が帰ってきてくれる。
　だからそれまで。
　ここで、アルクェイドに殺される訳にはいかない。
「―――やっぱり。志貴はそうでなくちゃ。
　貴方はどんな時でも強がりを言っていた。自分の状態を把握した上で、できもしない事を達成する為に、本気で自分の命を使っていた」
「……うん。だからわたしも確信していたわ。
　貴方は簡単にロアにはならない。遠野志貴という意思が残っているうちは、最後まで貴方のままなんだって」
　アルクェイドの声は弾んでいる。
　敵意不在の殺意。
　俺を殺すと決めただけで本気になっていない……というより、会話を楽しんでいる節がある。
　……思えば、ここは俺たちにとって大切な場所だった。
　協力を約束して、お互いを待った場所。
　だからアイツも俺も最後の一線を越えていない。この思い出を壊したくないと思っている。
　……なら、話し合いの余地はまだあるのかもしれない。
　アイツを納得させられれば、このまま朝を迎える事だって夢じゃない。
「……そりゃありがたい。そこまで信じてるんならもう放っておいてくれ。
　ロアとは俺がきっちりカタをつける。……結果はどうなるにしろ、必ず息の根を止めて転生を終わらせてやる。俺たちならそれができるんだ。
　だから、おまえはこのまま―――」
「帰れっていうのなら聞かないわ。
　志貴がアテにしているのは教会の連中でしょう？　あいつらにロアを封印されるのはお断りよ」
「ロアを処分するのは自分の力を取り戻す為でもある。だから、ね。ロアを内包した人間は、わたしの手で始末をつけないと意味がないわ」
「バカ、それだって意味がないぞ。ロアの転生体を殺したところでヤツは生き続ける。おまえがヤツに与えちまった血だって戻らな―――」
「―――わたしが与えた血が、何？」
　―――言いかけた口が止まる。
　全身の筋肉が硬直する。
　肉体から意識が弾き出されて、コントロール不能になった感覚を味わった。
　……今のは、まずい。
　アイツの触れてはいけないところに、触れてしまった。
「……ロアに取られた力だって、戻らないだろう」
「全部はね。でも封印と転生は別よ。いま封印されたら力を横取りされたままだけど、殺して転生させてしまえば、ロアはわたしから力を引き出さない。
　たった10年程度の事だけど、気持ちは落ち着くわ。
　人間だって自分の小指を他人に使われたらイヤでしょう？　それと同じよ」
　……そうか。
　ロアの転生体を殺したところでアルクェイドとロアの主従関係は解約されない。
　けどロアが胎児に転生し、目覚めるまでは契約は一時的に無効になる。
　だからアルクェイドはロアが“目覚めない”と見つけられず、一時的な解決として転生体を殺すしかなかった。
　それは今も例外じゃない。
　アイツは自分の力を使わせない為、ロアの転生体を生かしてはおけないんだ。
　それが根本的な解決ではない、一時のものであれ。
「――――そうかよ。それじゃどうしても―――」
　俺を、殺すっていうのかアルクェイド。
「でもね、志貴。
　貴方の中にいるロアの波動は弱々しいわ。きっとあいつは胎児から始めないと、その人間に成り代われない。
　わたしに転生体を潰されて、なんとか貴方の中に転移したのはいいけど、それが限界。ロアと貴方は意識こそ融けあうものの、完全に上書きされる事はない」
「完全には、上書きされない……？　アルクェイド、それって」
「ええ。ロアの純度はますます下がるでしょう。
　それなら殺すまでもない。わたしはロアに奪われた力が、わたしの下で動けばそれでいいんだから」
「……？」
　殺すまでもない、とアルクェイドは言う。
　ならどうして俺の前にやってきたんだ。
　どうしてそんな―――
　不安そうな、真剣な目で、俺を見ている。
「……わからないな。何が言いたいんだ、アルクェイド」
「貴方に、わたしの下僕になれと言っているのよ」
「――――――」
　アルクェイドからの重圧とは関係なしに、思考が真っ白に洗い流されて、息が止まった。
　……アイツは本気で言っている。
　それがどれほどの意味があって、
　どれほど重い言葉なのか、理解できる。
　歯を噛みしめて、涙を滲ませそうな自分を抑えつける。
　……話は終わりだ。終わってしまった。
　それを言われたら、もう道は一つしかない。
　俺とアイツは、二度と―――以前のように笑い合えないのだと受け入れた。
「わたし、本気だから。返事を聞かせて」
　アルクェイドの声には、あってはならない事だが、かすかな緊張があった。
　今までとは比べ物にならない頭痛。
　ロア。俺の中のヤツが、アルクェイドの言葉に憎悪している。
　……それが失望から生まれた怒りなのか、それとも遠野志貴に対しての嫉妬なのかはどうにも。
「わたしの下僕になるのならロアの侵食は止めてあげる。
　それで今までの遠野志貴の生活はおしまい。
　これからは夜の世界に活きるモノになるけど、貴方の在り方は維持されるわ。
　そのままじゃ貴方は大なり小なり自分が失われるんだから、考えるまでもないと思うけど」
「……簡単に言ってくれるな。どうやってロアを抑え込むって言うんだよ、おまえは」
「あら、ロアを止められるのは貴方だけよ、志貴。
　けどその方法では志貴自身も死んでしまう。
　だから、わたしの方法は志貴自身を強くするだけ。
　貴方がロアより強い心を持てば、ロアがどう暴れようと関係ないでしょう？」
　バキン、ともう一度頭痛が叩きつけられる。
　ロアが暴れている。
　騙されるな。あの女はおまえを人形にするつもりだ、と暴れている。
「―――――ふう」
　一度だけ、深く息をついた。
　ロアの言い分は信じないが、今のアルクェイドが危険である事は読み取れる。
　……アイツはタガが外れている。
　そんなアイツが言う方法が人間にとって<正常|マトモ>とは思えない。
　ロアを抑えられる―――この頭痛に耐えられるぐらい強くなった心というのは、もう何も感じなくなるぐらい、不感症な心になるという事ではないのか。
　眼鏡を外す。
　ナイフをポケットから出す。
　刃を出して、自分の目の高さに構える。
「――――志貴」
「お断りだ。俺はおまえの物になんかならない」
「そっか。仕方ないな、なら力ずくね」
　かつん、という硬い足音。
「貴方には殺されたこともあるし。
　一度、お返しをしてあげなくっちゃって思ってたんだ」
　突風と共に白い影が<迫|せま>ってくる。
　<躊躇|とまど>う贅沢も、決断する時間もない。
　絶対にないと……絶対に戦いたくないと思っていた吸血鬼との殺し合いは、既に始まっていた。
　アルクェイドの爪と、俺のナイフがぶつかり合う。
　金色の月の下、飛び込んでくる白い<麗躯|からだ>を、反射だけで受け流す。
　また弾けあう。
　正直、俺にはアルクェイドの動きなんて見えていない。
　さらに弾く。
　アルクェイドの爪にはまったく殺意が乗っていない。
　それでも俺の手足を引き裂くのは容易すぎる。
　まだ弾く。
　体が動く。俺は何も考えていないのと同じだ。
　この手足、この体が、ただ死にたくないという号令の下、自動的にアルクェイドの爪を弾いている。
「く―――――」
　口元に皮肉な笑みが浮かぶ。
　認めたくないが、俺の体はここまで吸血鬼に変貌していた。
　夜であれば死にづらく、身体能力も比べものにならないほど向上している。
　……今ならノエルの気持ちが分からないでもない。
　ここまで自由自在に動ける肉体になってしまったら、人間としての倫理感も価値観も保ってはいられなくなる。
　だが、それも限界だった。
　手足はアルクェイドの猛攻について行けず、完全に圧されている。
　そもそも、俺の唯一の武器である『線』が視えない。
　俺には彼女を傷つける手段がない。
　いつかアルクェイドが言っていた。夜であるのなら、アルクェイドは死の要因がなくなる生命だと。
　勢いよくナイフが弾かれる。
　<捌|さば>ききれなかった衝撃が左肩に触れる。
　爪ではなく手の平だったのが幸いしたが、結果はそう変わらない。
　アルクェイドの腕の一振りで、俺は大きく弾き飛ばされた。
「くっ――――！」
　なんとか地面に着地してナイフを構える。
　窮地に陥っても状況は変わらない。いくら凝視してもアルクェイドの体には『線』一つ視えない。
「は――――あ、あ」
　喉があつい。
　心臓が爆発しそうだ。
　いま気がついたが、俺はアルクェイドと出会った時から紅い瞳に威圧されて、満足に呼吸さえしていなかった。
「どう？　少しは目が覚めた？」
　一方、アルクェイドは息ひとつ上がっていない。
　……ったく。こっちは酸欠で脳が止まりそうだっていうのにいい気なもんだ。
「本当に強情ね。それだけの強さがあるんなら、さっさとロアを殺してしまえばよかったのに」
「は―――なに、言ってる、んだ、おまえ」
　ぜいぜいと喉を動かして、なんとか酸素をとりこむ。
　吸血鬼になっても血液を十全に活かすには酸素が必要だなんて、知らなかった。
「いいか、自分の手でロアを殺すって、コトは、アレだ。
　ようは、自殺するって、コトだ、ろ」
　イメージとしては、自分の心臓にナイフを突き刺すようなものだ。
　確かにそれならロアは殺せるだろうし、
　アルクェイドもシエル先輩も、ヤツの呪縛から解放される。
　ただし、それは前例のない試みだ。
　俺は自分の“死”を正確に視られるのか。
　視えたとして、それを的確に切断できるのか。
　いや、そもそも―――
「それができればとっくにやってる。
　死にたくないから、生き物として弱いから、俺はこんなところまで、きちまったんだろ」
　苛ついた感情を吐き出しながら呼吸を整える。
　……でも、それだけの強さ、か。
　逃げるのではなく戦う為に自殺しようとする選択は、“強い心”と言えなくもない。その正否はともかくとして。
「そんな強さは願い下げだよ。
　悪いけど、そう簡単におまえの思い通りには、」
「呆れた。そこまで吸血鬼の体になっているのに、まだ人間の基準から抜け出せていないなんて。
　でもまあ、しょうがないか。人間は停止したら直らないんだもの。そう簡単に考えは変わらないわよね」
「……？」
　アルクェイドの声には失望と憐れみがあった。
　今のは挑発でも罵倒でもない。
　俺にとって重要な事柄を示唆するような言葉だった。
「貴方がその眼をもう一段階深く理解すれば、魂だけを仕留める事だって出来る。
　魂を失った肉体は存在指針を無くして停止してしまうけど、それはあくまで二次的な結果。
　吸血鬼であれば、肉体は『生きてさえいれば』蘇生する」
「あとはどちらの魂が生き残るか。
　<一度|ひとり>分の死の点と、二重になっている魂。
　なら、死に絶えるのは意思が弱い方だと思わない？」
「―――待て。ちょっと、待って。それはどういう………」
「だめ。待ったげない
」
　雷の速さで、アルクェイドは俺の目の前に踏み込んでくる。
「しっ―――！」
　付いてはいけないものの、こっちだってコイツのスピードは承知している。
　その姿を視認できなくなった瞬間、俺は無駄と理解しつつもナイフを振るっていた。
　美貌の鼻先を滑り抜けていくナイフ。
　やはり『死の線』を介さない攻撃では通じない。
　コイツが硬い……というのもあるが、単純に俺の腕力が弱すぎるのだ。
　俺にヴローヴ並の魔力と筋力があれば、刃は立てられずとも眩暈を起こさせるぐらいはできたのに……！
「軽い、かるーい！」
　野球でいうならたっぷりと時間を使って投げるオーバースローだ。隙だらけ、かつ、こちらに猶予を与える王者の一撃。完全に俺を舐めている。
「ああ、おまえの頭がな！」
　こちらの攻撃は通らない以上、足を止めての切り合いなんぞに付き合っていられない。
　大げさに振り下ろされる大熊猫の爪を、後ろに跳ぶことでやり過ごす。
「―――え？」
　驚いたのは。半歩だけ後ろに跳んだつもりが、５メートル近くもの距離を“跳んで”いた事だ。
「そうそう、そうでなくっちゃ……！
　少しは分かってきたようね、志貴！」
「！」
　舐めていたのは俺の方だった。
　先ほどの大振りは『切り裂く』ものではなく『撃ち出す』もの。
　視認できる風圧が、後ろに跳んだ俺へと迫ってくる……！
「こ、の……！」
　あれは死者たちを薙ぎ払ったアルクェイドの自然干渉だ。
　何の魔術防御も持たない俺ではボロ雑巾のようにねじ切られるぞ、と思考の隅で警告するヤツがいる。
　だが、警告されたところでどうしようもない。
　アルクェイドの一振りは視界を埋める壁そのもの。
　後ろにも左右にも逃げられない。
　逃げ場があるとすれば、それは―――
「うわあ！？」
　上しかない、と思った途端、両足は地面を蹴っていた。
　その行為に声をあげて取り乱してしまった。
　高いなんてもんじゃない。
　眼下に公園の噴水が一望できる。
　10メートル以上の高さを、いま、俺は自分の脚で飛び上がったのか……!?
「いや吸血鬼すごいな！？」
「でしょ？」
　真上からかけられた声に驚く間もなかった。
「ガ―――！」
　容赦のない一撃で地面に叩きつけられる。
　アルクェイドは今度こそ、これが本命、と見せつけるように、俺の胸に大振りのパンチを叩きつけた。
　結果、俺は背中から地面に落下し、そして、
「休む暇とか、あげないから！」
「くっ……！」
　地面に落ちた無様なズタ袋に追い打ちがかけられる。
　先ほどの連撃より更に重い。
　一撃、二撃、三撃、四撃。
　五撃目にはもう、俺には防ぐ手段がなくなっていた。
「――――――」
　当然だ。馬鹿なのは俺だけだった。
　俺に今の落下のダメージがなくとも、アルクェイドの攻撃を防げる筈がなかった。
　弾むような声とは裏腹に、アルクェイドには一切の油断も、遊びもなかった。
　コイツは真剣だった。
　俺の前に現れてからずっと、これ以上ないほど気を張っていた。
　俺は自分のスペックも確認できず、敵の真剣さも測れていなかった。
　そんな状態で、こんな、むき出しの感情をぶつけてきている白い吸血姫相手に、勝てる道理は無かったのだ。
「ぐっ――――！」
　ガン、と後頭部が石畳に衝突する。
　両肩にはアルクェイドの体重がかかっている。
　倒された。
　一瞬で、反応する時間さえなく、アルクェイドに押さえつけられてしまった。
「――――――」
　アルクェイドは俺にのしかかったまま、無言で睨みつけてくる。
　……完全に勝負ありだ。馬乗りになられた場合、同程度の重さでは相手を押しのけられない。そもそも力勝負じゃはじめから勝てっこない。
　あとはあの爪で、首を無残に引き千切られて終わりだろう。
「……………」
　だが終わりはやってこなかった。
　今すぐロアを―――俺を殺せるというのに、アルクェイドは口を閉ざしている。
　……張り詰めた糸のような、
　青ざめた月のような、狂おしい静寂。
「――――――」
　ああ、と我知らずに息を呑む。
　こんなに間近。
　相手の息づかいが自分のものに思える。
　抱き合う寸前まで近づきながら、俺たちの距離は、地上と月ほど離れている。
「……なんだよ。もういいだろ、ひと思いに始末しろよ。
　殺した後で血を吸って、ゾンビにでもなんでもしろ」
　……正直、コイツのそんな顔を見ているのは、辛すぎる。
「……命乞いはしないの？　前言撤回とか、まだ受け付けてもいいんだけど。
　殺したら血を吸うしかなくなるわ。貴方が自分から私と契約するのなら、血のやりとりなんてしなくて済む」
「……そっか。血を吸うのが怖いんだっけ、おまえ」
「……………」
「……それはいいけどさ。俺がおまえに従うと仮定して、ロアをどうするつもりなんだ。
　おまえは俺を殺さないっていうけど、俺が生きているかぎりロアは生き続けるんだぞ」
「希薄になったロアは放っておいてもかまわないわ。
　……そうね、だから貴方を見逃してあげてもよかった」
「なんだ。遠慮しないで見逃せよ。俺なんかにかまってないでさ、早く故郷に帰ってパパを安心させてやれ」
「でもね。もともと自分の力なんだから取り戻そうとするのは当然でしょう？
　それに、なにより―――」
　ぎり、と。
　両肩にかかる体重が、重くなる。
「……わたしは貴方を殺してロアを眠らせるより、このまま志貴を取りこみたい。殺して無くしてしまうより、もっと一緒に過ごしたい。前みたいに、志貴の声を聞いていたい」
　だから殺さない、と紅い瞳が訴えてくる。
「信じられないけど、私は貴方が好き。大好き。だから助けてあげる。血も吸わないし、志貴の嫌がることは決してしない」
　だから言うことを聞いて、と紅い瞳が語ってくる。
「――――――」
　……今のは間違いなくアルクェイドの本心だ。
　アルクェイドは嘘をつかない。
　コイツは本当に純粋で、自分の気持ちに正直なだけなんだ。
　……なら、俺は。
　俺の正直な気持ちは―――
「……お願いだから逆らわないで。私に貴方を殺させないで」
　懇願するような声が<囁|ささや>かれる。
　……けど、聞けない。
　俺はもうアルクェイドと一緒にはいられない。
　それは人間社会の倫理に照らし合わせた答えではなく、
　男として単純な気持ちだった。
　俺は根本的に人間を知らず、
　生と死の境界も曖昧で、
　末路は間違いなく、ろくでもない人でなしだ。
　そんな俺を“よく頑張った”と褒めてくれた人がいた。
　そんな俺にも、やるべき事があると教えてくれた人がいた。
　……本当に、嘘のような話だけど。
　今の俺には、自分より大切な人がいる。
「――――――、
はあ」
　深く。覚悟を決めて息を吸う。
「志貴」
　アルクェイドの目がかすかに歪む。
　もう分かっているだろう、俺の返答を止めるように。
「―――ダメだ。おまえには従わない」
「――――――」
　……思ってもいなかった。この完璧な女の目が、胸の痛みで<陰|かげ>る事があるなんて。
　もし俺が、自分さえ騙せるぐらい嘘が上手かったのなら、コイツにそんな顔はさせなかっただろう。
　いや、だとしても、
「どうして？　志貴がこんなに好きなのに、ダメなの？」
「当たり前だろ。今のおまえはロアと同じだ」
　俺にとって、永遠に思えた女は、あの路地裏でどうしようもない殺人鬼に笑いかけてきた女であり、
「だから、<吸|・><血|・><鬼|・>には従わない」
　今のアルクェイドを、あの時のアルクェイドと同一に考える事を、なにより、俺自身が許さない。
　無駄と知りながらナイフを振るう。
　殺意の欠けた、しかし渾身の一撃は、アルクェイドの首筋でピタリと停止する。
　俺が止めたのではなく、コイツの首の皮一枚すら斬れず、止まったにすぎない。
「―――やめて。なんで、なんで―――」
　白い美貌が悲しみに歪む。
　今の返答はコイツにとって最大最悪の侮辱であり、
「―――違う。違うもの、違うから……！
　やめて。取り消して。アイツと同じなんかじゃない。
　いくら志貴でも、そんな言葉―――」
　―――自分への怒りで、頭痛がする。
　アルクェイドの首筋に変化が起きた。
　それはほんのわずかな濃度の死の線であり、
　黄金の月の下のコイツが、そんなものを持ってしまうほど、今の言葉は残酷な罵倒だったと思い知る。
　それでも―――
「違わない。
　いいから、頭冷やして出直してこい……！」
　その涙に付け入るように。
　俺は、彼女の『線』をかっ切っていた。
　拘束が解ける。
　喉の線を断たれて一時的に脱力したのか、アルクェイドは動かない。
　白い腕から抜け出し、今のうちにと距離をとる。
「はぁ……は、は……！」
　自由になってようやく呼吸を再開できた。
　両肩で息をして、とにかく心臓を落ち着かせる。
　傷はないが、これじゃあまともに走れない。
　けどアルクェイドの事だ、あの程度の傷はすぐに治して、また襲いかかって―――
　アルクェイドの体を支えていた両腕が、ずるりと滑る。
　まだ意識が回復しないのか、アイツは眠るように石畳に倒れこんだ。
「――――――」
　その赤い液体を目にして、凍り付く。
　確かに俺は首を切った。血が出るのは当たり前だ。でもコイツがこんな簡単に、まるで人間のように倒れるなんて思ってもいなかった。
「アル……クェイド？」
　彼女はぴくりとも動かない。
　石畳には赤い血が今も広がり続けている。
　白い体は毒に染まるように、禍々しい朱色に侵されている。
　―――まさか。殺して、しまったの、か。
「嘘、だろ―――アルクェイド、そんな―――」
　逃げようとした足を止めて、アルクェイドに駆け寄ろうとして、息を呑んだ。
　片腕。
　倒れこんだアルクェイドの片腕が、ぎっ……と、蜘蛛の脚のように、地面に手をついた。
　この時。
　俺は確かに、世界の凍る音を聞いた。
「こ　　　　ろ　　　　し　　　　て」
　……彼女の喉から漏れる鮮血と、呼吸。
　アルクェイドの腕に、ぐっ、と力が入っていく。
「し　　　て、　　　　　　げ　　　　る、」
　……朱い血はまだ流れ続けている。
　静かに、彼女の体が地面から離れていく。
「こ　　　　ろ　　　　し　　　　て」
　……血だまりから顔が浮き上がる。
　金色の髪の間に目が見える。
　黒く<穿|うが>たれた<娑齢頭|されこうべ>の眼。
　その中に、燃え盛る火のような、<皓皓|こうこう>とした赤があった。
「ころ　　　して　　　あげ　　　る」
「アル―――クェイド」
　彼女の目は、何も見ていない。
　片手で立ちあがろうとするが、力はまだ戻らないのか、血しぶきをあげて倒れてしまう。
　そのたびに白い体は赤くなっていく。
　何度も、何度も。
　立ちあがろうとして、滑って、倒れて。
　……そんな無様な行為さえ、彼女は愉しんでいるようだった。
「まっ、てて」
「―――――――」
　動けない。
　アルクェイドの声が、姿が、意思が―――否応無しに頭の中に流れこんでくる。
　俺という意思が流される。<融|と>かされる。<翻弄|ほんろう>される。
　ぐるぐると世界が回る。
　その中で、彼女の思考が濁流のようにねじ込まれる。
　これほど痛みに溺れた事はない。
　これほど憎らしいと思った事はない。
　―――だから、愉しい。
　自身を引き裂くほどの衝動を叩きつけるコトがどれほど気持ちよい事か想像もつかない。
　たぶん砕け散る。ぜったいに砕け散る。それはきっと胸が晴れ晴れして穴が開いてしまうほど、取り返しのつかない<惨劇|かいかん>だ。そうだ。皮も中身もブチ撒けて何も残さなければいい。塵すら残らなければいい。決して逃がさないし許さない。あの生き物を、あの温かな心音を、もう二度と失う事のないように―――！
「待っていて、すぐに殺してあげるから……！」
　笑って、狂ったように笑い続けて、アルクェイドは自らの血の海でもがいている。
「―――」
　動けない。
　思考が追いつかない。
　ここにいたら殺される。
　命が惜しければ逃げるべきだ。
　どこでもいい。早くここから離れないと殺される。
「―――――」
　なのに足が動かない。
　ここ一番で根底にある悲観性―――自らの合理性を思い知った。
“もう何処に逃げても殺されるだけ”
　そう理解した体が、弱者に残された最後の抵抗を放棄している。
「ァ―――はぁ―――はぁ、ア―――」
　血の海から、ずるり、と<躯|からだ>を起こす吸血鬼。
　俺はそれを、凍りついた目で眺める事しかできない。
　……皿の上に置かれたトマトを連想する。
　アイツにとって、今の俺はその<類|たぐい>のものだろう。
　トマトに動く自由がある筈もなく、
　飢えた獣に、これを見逃す道理はなく―――
「はーーーーーーーあああああ！」
「！」
　横合いから放たれる、何重もの流星。
　黒鍵と呼ばれる対吸血鬼用の武器は、無防備なアルクェイドの躯に突き刺さり、
「第７の死因よ、来よ―――！」
「あ、ああああ……！」
　その仕上げとばかりに、旋風を思わせる黒い“何か”が容赦なく撃ち出された。
　それは一瞬の出来事だった。
　上空から現れたシエル先輩はアルクェイドに向けて黒鍵を放ち、そのまま、あの巨大な杭打ち機を手にして突撃した。
　衝突する黒と白。
　結果、シエル先輩が手にした杭打ち機はアルクェイドの爪によって切り裂かれたものの、その長い杭は確かに、標的を地面に縫い付けた。
「なによ、これ―――
　なによこれ、なによこれ、なによこれ―――！」
　先ほどまでの血の海の中でのひとり遊びとは違う。
　アルクェイドは自分の体を貫通した杭を引き抜こうともがくが、血に濡れた手は滑るばかりで杭を<僅|わず>かにしか動かせない。
　それとも―――あの杭はアイツの力を以てしても簡単には抜けないものなのか。
「シエル、シエル、シエル……！！！！」
「遠野くん！　何してるんですか、こっちです！」
　殺しても飽き足らない、という<感|こ><情|え>と、
　俺を奮い立たせようとする決死の<感|こ><情|え>。
　その声で、恐怖から解放された。
「先輩……！？」
「いいですから、早く逃げるんです……！
　彼女が杭を抜く前に、早く！」
「あ――――」
　当惑する俺の腕を掴んで、先輩は強引に走り出した。
「ちょっ……先輩、どうして―――！？」
「どうしてもなにも、聞きたいのはこっちのほうです！
　急いで帰ってきてみれば公園<で時空が|が><歪むぐら|ア><いの圧力|レ>があっ<て|で>、アルクェイドがアレなんですから……！」
　―――世界が凍るような圧迫感は錯覚ではなく、ただの現実だったらしい。
　それはともかく、その異常を前にして即座にあれだけの対処を行えるシエル先輩も負けてはいない。
「……すみません、部屋から出たのは謝ります！
　頭の痛みにどうしても耐えられなくて、外に出たらアルクェイドがいて、アイツ、自分のものになれとか言い出して―――」
「―――そうですか。アルクェイドは、ロアと遠野くんを混同しているんですね。……やはり、彼女との対決は……」
「いえ、それも覚悟の上です……！
　ここでは話になりません！　急ぎます！」
　シエル先輩は走り続ける。
　この方角なら目的地は口に出さなくても判る。
　俺たちの学校だ。
　……グラウンドは静まりかえっていた。
　この時間の学校は誰もいない、街の喧騒とも関わりの無い、忘れられた<礼|モ><拝|ス><堂|ク>のようなもの。
　先ほど見たアルクェイドの地獄も、
　白い繭に覆われた街の幻想も、
　この聖域にまで手を伸ばしてはこない。
　―――今は、まだ。
「落ち着きましたか遠野くん。
　背中を打っているようですが、怪我は？」
「ありません。さっきまでは痛んでいましたけど」
　……吸血鬼化が進んでいるからだろう。
　アルクェイドに押し倒された時、あまりの衝撃で肩胛骨を損傷したが、今はもう回復……いや、復元している。
「……それより先輩。アルクェイドから離れたいのは分かるけど、どうして学校に？」
「ここなら他に被害は出ませんから。
　遠野くんは先に校舎の中に入っていてください。
　彼女の排除は、私がします」
「――――――」
　突然の宣言に思考が止まる。
　……いや。嘘だ、理解なんてとっくにしていた。
　ただ、俺がその事実を考えたくなかっただけで。
「……先輩は、アルクェイドと戦うんですか」
「それ以外に選択肢はないでしょう。彼女の方からこちらにやってくるんですから。
　今代のロア……
いえ、
他ならぬ貴方を殺すために」
「――――――」
　反論したい気持ちを飲む。
　……先輩の意見は正しい。
　先ほど流れてきたアイツのイメージを思い返す。
　……アレはもう、俺を殺す事しか考えられない生き物だ。
　話し合いの余地は、あの公園でとっくに使い果たしていた。
「……もう時間はありません。
　いま、アルクェイドが杭を外しましたから。
　校舎に移動しましょう。遮蔽物がある方が人間には有利です」
　行きます、と俺の腕をひいて、シエル先輩は校舎へと走り出した。
「どのみち遠野くんを守るためには、彼女と決着をつけなくてはいけなかった」
　月明かりの廊下を早足で移動する。
　先輩は移動しながらも壁に指をあて、いくつもの魔術式を刻んでいく。
　言うまでもなく、これからやってくるであろう“吸血鬼”を倒す為のトラップだ。
「彼女が活動していると、その下僕であるロアの意思も活性化する。
　遠野くんの中のロアを抑えるには、まず彼女を眠らせるか追い返す必要があった」
「ですから、
ここで彼女を倒すのは一石二鳥です。
　何があったのかは知りませんが、あの出血量はアルクェイドであっても致命傷でしょう。<断罪死|くいうちき>を壊されましたが、手持ちの武装だけで倒しきってみせます」
「……ここまでですね。
　遠野くんは３階で隠れていてください。彼女と戦うのはわたしの役割ですから」
「…………」
　それは出来ない。
　アルクェイドを追い詰めたのは俺の責任だ。
　……さっきまでのシエル先輩の声は、力無いものだった。
　アルクェイドには敵わない。
　そう分析していながら、俺を不安にさせまいとしていたのは明白だ。
「……俺も戦います。
　アイツをおかしくしたのも、先輩の言いつけを守れなかったのも、俺が馬鹿だったからです。
　だから―――せめて、自分でケリをつけないと」
「遠野くん。わたし、怒りますよ」
「え……？」
　じっ、と先輩が睨んでくる。
　けどそれは怒る、というよりいじけているような、そんな視線だった。
「わたしの体の事は知っているでしょう？　わたしは何があっても死にません。けど遠野くんは別です。
　たしかに貴方の目ならアルクェイドを倒せるかもしれませんが、その前に彼女の爪が貴方を殺します」
「遠野くん、言ったじゃないですか。わたしを幸せにしてくれるって。
　なら、お願いですからこんなところで死なないでください」
「でも……先輩ひとりじゃ、アイツには……」
「見くびらないでください。わたしが今まで何体の死徒を仕留めてきたと思っているんですか。
　こと吸血鬼退治なら、わたしの右にでる者はいないのです」
　自信ありげに先輩はガッツポーズなんかをとったりする。
　……けど。
　彼女の指先が震えているのが見えてしまった。
「……だめだよ。
先輩、俺はそれでも―――」
　この人をひとりにして、自分だけ逃げる事はできない。
　その思いを口にする前に、先輩は俺の口に人差し指を当てて、言葉をさえぎってしまった。
「その先はそれこそ言っちゃダメです。お願いですから、わたしの我が侭を聞いてください」
「一度ぐらい―――本当に一度ぐらい、わたしだけの意思で貴方を守りたいんです。
　そうしないと、わたしは遠野くんに心から笑顔を向けられなくなっちゃうじゃないですか」
　彼女は瞳に涙をたたえて、そう言った。
「……わたしがこんなに早く帰ってきたのは、駄目だったからなんです」
「―――――」
「遠野くんを助ける手段は教会にはありません。
　教会にあるものはロアを利用する方針だけで、転生体を助けようとする方法なんて、なかったんです。
　貴方を失わずにロアだけを殺す手段なんて、どこにも」
　―――そう、か。
　それは、まあ、仕方ない、よな。
　そんな、何事も都合良く片付く筈はないの、だし。
「―――でも。
　それは、シエル先輩が泣くような事じゃない」
「いいえ……！　わたし、わたしがもっとしっかりしていれば、ロアを追う事ばかり考えず、もっと他の道を探していれば違う可能性だってあった筈なんです……！」
「だから、もう―――わたしに出来ることは、ロアの侵食を少しでも遅くする事しかできない。
遅くする事しかできない。
　……苦しいって。遠野くんがどれだけ苦しいのか知っているのに、それでも少しでも長く傍にいてほしいって、そんな自分勝手なコトばっかり考えてるんです、わたしは―――！」
「――――――」
　先輩の涙は見たくない。
　見たくないから、見えないように、彼女を抱きしめた。
「遠野……くん」
「うん。俺だって、できるだけ一緒にいたい。
　先輩は自分勝手じゃないですよ。自分勝手なのは俺のほうなんだから」
「それに、先輩がしつこくロアを追いかけていたから今があるんじゃないですか。
　全部を取るなんてできない。こうして先輩と一緒にいられる今の代わりに、ロアを消す手段を作られても嬉しくない。そんなの、ぜんぜん欲求不満です」
「でも―――でも、それじゃ……！」
「勘違いしないで。俺、ロアなんかに負けるつもりはこれっぽっちもありませんから」
　アルクェイドの指摘を思い出す。
　どうなるかは博打だが、ロアだけを殺す手段はまだ残っている。
「ロアの相手は俺がします。自分の事ですからね。
　けど、たしかに俺じゃアルクェイドを止められないんで、そっちは任せます。吸血鬼に関してなら百戦錬磨なんですよね、先輩は」
「―――はい。ありがとう、ございます」
　背中にまわされた先輩の腕がぎゅっと締まる。
　抱きしめ合って、唇を重ねようとする。
　と、先輩はウサギみたいにぴょこん、と離れてしまった。
「―――キスはダメですよ。そんなことされたら、わたし嬉しすぎて気が抜けちゃいます。
　ですから、今は抱き合うだけにしておきましょう」
「………だね。じゃあ少し離れてるけど、ピンチになったら呼んでください。すぐに駆けつけますから」
　こくん、とシエル先輩は無言で頷く。
　俺は―――彼女を信じて、背中を向けた。
「あ。……ごめんなさい、一つだけ忘れ物がありました」
「？　忘れ物、ですか……？」
「はい。
……その、明日になったら街に遊びに行きましょう。
　乾くんと三人で、この前のやり直しをするんです」
　息を呑んで、その笑顔に感じ入った。
　……よかった。
　先輩にとってあの約束が大切なものであってくれて、本当に、よかった。
「うん。それじゃあ約束」
　片手を差し出す。
「はい、今度はちゃんと守ってくださいね」
　先輩の手が俺の手に触れる。
　ぶんぶん、と元気よく振って、柔らかな感触は離れていった。
　―――静かだ。
　３階の渡り廊下まで身を隠し、ナイフを手にして、深呼吸をする。
　……先輩を信頼している。
　あの人が守ると言ってくれたのなら、絶対に守ってくれる。
　けど、それは俺だって同じ気持ちだ。
　先輩が俺を守ると言ってくれたように、俺だって先輩を守りたい。
「……そうだよな。何を弱気になってるんだ、俺は」
　今はわずかでも前を見ないと。
　いったんここで待機するにしても、いつまでも傍観してはいられない。
　シエル先輩と戦っている時なら、アルクェイドにだって隙はあるだろう。
　その一瞬。
　その間隙を突く事はできる筈だ。
「……俺が、先輩を勝たせる」
　一歩間違えればアルクェイドの爪で八つ裂きにされる。
　それを恐れてシエル先輩は俺を下がらせた。
　その気遣いに逆らう形になるが、よく状況を見極めて、最後の最後、決定的な場面で助太刀する。
　そうして二人でアルクェイドを上回って、胸を張って仲を認めさせてやる。
「…………なんだそりゃ。仲人役の神父か、アイツは」
　こんな状況なのについ笑みが溢れてしまった。
「……オマエとの決着はその後だ。いいだろ、ロア」
　そうして、アルクェイドを追い返したあと。
　俺は成功率の低い綱渡りをしなくちゃいけない。
　生き残れる保証はないし、そもそも『そんな方法』でいいのかどうかも分からない。
　けど、もうそれしかない。
　―――その力が、君に有るという事。
　そこには何かしらの意味があって、俺の未来にこの力を必要とする時がくると教えてくれた人がいる。
「……ああ、そうだね。
　きっとこれが俺の役割なんだ、先生」
　……覚悟は決まった。
　後はシエル先輩とアルクェイドの戦いを―――
「―――！？」
　校舎が揺れる。
　ダンプカーが一直線に、フルアクセルでつっこんできたような衝撃。
「まさか、もう―――！？」
　校舎はまだ揺れている。
　おそらく一階の壁をブチ破って突撃してきた。
　アルクェイドが杭を抜いた、と先輩が言ってから数分しか経っていない。
　あの公園からここまで、たったそれだけの時間で、一度も足を止めず、戦場にある罠を見定める事もなしで、<感情|いかり>に任せて一直線に飛び込んで来たのか、アイツは……！？
「っ……！」
　伝わってくる衝撃は絶え間ない。
　……信じられない。どんなに強力で、どんなにデタラメなヤツでも、アルクェイドには理性があった。
　人間社会との関わり。
　吸血鬼は隠されたものであるべき、という生存の為の法則。
　アイツは冷酷に目的をこなすが、
　目的の為に冷酷になるヤツではなかった。
　それが今は違う。
　目的の為に手段を選ばない生き物になっている。
　それじゃあヴローヴと変わらない。
　……夜の公園での戦いを思い出す。
　あの時、シエル先輩が押していたのはアルクェイドなりに“人間社会のルール”に準拠していたからだ。死徒ではなく真祖としての誇りがあったからだ。
　けれど、もしアイツがそれらの矜持すべてをかなぐり捨てたとしたら―――
「―――違う。捨てたんじゃない」
　俺が、切り裂いてしまっただけ。
　いま直下にいるのは俺の知っているアイツじゃない。
　ヴローヴと同等か、それ以上の血に飢えた吸血鬼だ。
　今までと同じと考えた事が、致命的に間違えていた。
「―――先輩！」
　階下に向かって走り出す。
　一瞬の隙をつくなんて思い上がりも<甚|はなは>だしい。
　こっちこそ理性をかなぐり捨てて、もてる力を振り絞らなくてはいけなかった……！
　―――それは、悪夢だった。
　階段前の踊り場で立ち尽くす。
　強大な力で破壊された廊下。デパート地下にあった死者の祭壇や、ヴローヴの極寒に比べれば、まだ常識の範囲内の光景ではある。
　なのに、足が凍った。
　呼吸も意識も、完全に“その光景”に釘付けになった。
　廊下にはまっとうな空気がない。
　物質という物質、粒子という粒子。
　その全てが、アルクェイドという吸血鬼の意思で塗り固められた、生き物の胎内じみた息苦しさ。
　その中で、ふたりの戦いは、あっけないほど一方的に終わってしまっていた。
「――――先、輩」
　たった30メートル先の、しかし、あまりにも遠い光景。
　廊下には夥しい数の黒鍵が砕け散っている。
　壁や天井に附着した血液や肉片が、“元に戻ろう”と、ひとりでに■■のもとへと集まっている。
　■■の両手には何の武器もなく、アルクェイドに首根っこを掴まれ、為す術なく壁に打ち付けられている。
　その無惨な姿は、蝶の標本を連想させた。
　■■はほとんど死にかけていて、アルクェイド以外は何も見えていないようだった。
　アルクェイドの指が、■■の首筋に触れる。
　爪はぷつり、と音をたてて■■の皮膚を破り、そのまま腰まで撫で下ろされた。
　鮮やかな水しぶき。裂かれたイカを連想させる二枚下ろし。
「―――あ、」
　アルクェイドの<掌|て>が、■■の胸元に落ちる。
　広げられた五指は新雪を無遠慮に踏み抜くように、ずぶり、という音をたてて、■■の心臓を抉り出そうとする。
「―――、ア」
　それは、あんまりだ。
　いくら死なないといっても、そんな、生きたまま心臓を引きずり出すなんて、あんまりだ。
　アルクェイドの爪が、■■の頭を撫でる。
　無造作に置かれた手は、脳天から股下まで、まるで消しゴムをかけるように、■■の肉をこそぎ落とし―――
「アルクェイド―――！」
　制止の声をあげる。体はまだ凍りついている。
　アルクェイドが振り向く。
　なにげない、虫でも見るかのような一瞥。
　それだけで、自分が生き物だという事さえ、忘れてしまった。
「なんだ、ちゃんといるじゃない。
　そこで待っていて、すぐに終わらせてあげるから……！」
　そう<哄|わ><笑|ら>いながら、アルクェイドは■■を加虐する。
　首の骨を折ったまま、もう一本の腕で何度も何度も体を引き裂いていく。
「……呆れた。これでも元に戻るなんて。
　やっぱりロア本人を殺さないとダメってコト？」
　ざくざくと。
　■■が教会で味わった、殺しては生き返ってしまう、という繰り返し。
「わたしがロアを奪り込んでしまえば、貴女はわたしが死ぬまで生き続けるしかなくなる。
　貴女が死ぬには教会で用意した転生批判の聖剣でロアを殺さないといけない」
「っ……それが……どうしたって、いうん、ですか」
　苦しそうに、朦朧とした意識で■■は応えている。
「けれど、いいの？　ロアが死ぬという事は貴女も死ぬという事なのよ。ロアを消滅させてしまえば、貴女のこの体も普通の、つまらない人間の体に戻ってしまうでしょう」
「……それが……わたしの、望み……です」
「そう。かわいそうね。貴女の望みは叶えられない。
　わたしは今度こそロアを奪り込む。
　あそこにいる肉塊を、この手で何百回と引き裂いてね……！」
「―――――！」
　どくん、と■■の体が<跳|は>ねた。
　内臓<一式|まる>ごと引き抜かれる赤い心臓。
　それでもすぐに意識が戻る■■は、ごぼごぼと口から血液を逆流させる。
「―――――――アル」
　バキン、という音。
　激しい頭痛。
　吐き気。
「黙ってろ、テメエは―――！」
　ガン、と頭を壁に打ち付ける
。
　見ろ。
　今はこんなヤツにかまっている時じゃない。
　もう、あれ以上、指一本だって■■を傷つけさせない。
　見ろ。
　血管が焼ききれるほどの負荷を脳に与えて、凝視しろ。
　見ろ。
見ろ。
見ろ。
　あの吸血鬼を、絶命させる『死』を視つけろ。
「どうして――――！」
　狂いそうになる。
　生命の死。鉱物の死。空間の死さえ視えている。
　なのに、アルクェイドには死の要因がない。
　あれはこの自然界の上にいるだけで完璧な生命だと、前に誰かが言っていた。
　自然の延長である真祖は、この世界という地盤からいくらでも活力を引き上げられる。
　だから死なない。寿命がない。限界というものがない。
「――――」
　つまり。
　それは、自然界の上だけの完全なのか。
　―――探せ。
　あるはずだ。
　あらゆるものの死、『点』が視えるのなら、必ずどこかにあるはずだ。
　俺は間違っていた。
　アルクェイドに死の要因はない。
　それなら―――
　その要因をなくしているものを先に“殺して”しまえば、アイツの完全性は失われる―――！
　あった。
　遠い。この条件―――
　敵が目の前にいる状態で走り出せば勘づかれる。
　確実に追いつかれて殺される。
　だがこれ以上は許せない。
　その繰り返しを、俺の前でする事だけは、決して。
「―――？」
　こちらの決意を感じ取ったのか、それとも、アイツには“死の運命”を感じ取る器官でもあるのか。
　アルクェイドは怪訝そうに、俺と、
俺の視線の先にあるものを見比べると、
「―――
本気？」
　呆然と呟いて、シエル先輩から手を放した。
「チッ……！」
　迷っている余裕はない。
　人間らしく階段を使ってやる気もない。
「―――動くな！」
　うるさい。止まれと言われて止まるヤツがいるか。
　俺はアルクェイドが動き出すより早く、窓から校庭目指して飛び降りていた。
「ハァ、ハ―――！」
　―――それはグラウンドの真ん中に存在した。
　遠い。間に合うか。
　背後からは、無駄に壁をブチ破る破壊音がした。
　その余分で“間に合う”と確信する。
　アルクェイドの脚は速いが、今の俺も人間の脚力じゃない。
　今度ばかりは俺が先をとる―――！
「はっ―――！」
　一際大きな点に辿りつく。
　アルクェイドは一直線に俺へと向かってくる。
　その前に。
　この足元にある一際巨大な『点』、
　このあたり一帯の世界そのものの『死』を、ナイフで刺した。
　ごん、というズレ。
　文字通り、一撃で命脈を断つ。
　すべての基盤。アルクェイドと繋がっている『星の活力』の供給源である自然を、この一帯だけ殺害する。
「考えたわね、志貴！
」
　白い化身が、俺だけを凝視して向かってくる。
　その体には幾つもの線。
　夜の恩恵があろうと、彼女の威光はもう地に落ちている。
「よし―――――！」
　やれる。やれるとも。
　これならアイツを仕留められる。
　その可能性が存在する、と自分を鼓舞するより早く。
「ご―――――ふ」
　己の口から吹き出した血に、目の前が染まっていた。
「え……？」
　……彼女の動きがあまりに速すぎたせいだろう。
　ただ、信じられなくて、痛みも衝撃も、何も感じなかった。
　肉と骨を裂く音が、今さらになって耳に響いた。
　ドボドボと大量の液体がこぼれていく。
　見れば。
　アルクェイドの爪は瞬きの間に、俺の胸を串刺しにしていた。
「―――――――あ」
　視界が輪郭を失っていく。
　急激に、何もかもが<喪|うしな>われていく。
　白い腕は胸の古傷を塗りつぶして、貫通している。
　それは。
　人間なら、間違いなく即死の傷だ。
「は――――――」
　けど、まだ死なない。
　今の俺なら、まだ僅かに活動できる余地がある。
　……足首から、真っ黒い死の影が侵食してくる。
「――――――ア………！」
　かまうものか。
　口から逆流してくる血液を無理やり飲みこんで、片手で、彼女の胸の『線』にナイフを突き立てた。
「いっ、たぁ………！」
　今のはアルクェイドの<文|こ><句|え>、か。
　もう、よくは聞こえない。
　あたま。あたまが、とけてる。
　アルクェイドに貫かれた痛みで意識が飛びそうなのか、
　限界まで酷使して脳が焼き切れようとしているのか。
　どちらにしても、死が俺の肩に手をかけた事に変わりはない。
　……意識が遠のく。
　その前に、このナイフで線を切断する。
　俺は、できるのなら、自分の手でコイツと決着をつけたがっている。
　コイツのコトはよく分かっている。
　たった数日一緒にいただけだったけど、コイツがどれだけ非常識で、吸血鬼のクセにヘンなコトばっかり言うヤツで、すごいヤツだったか、分かっている。
　でも、それにしても、なんていうか―――、
「いったぁ、じゃねえ……！　死にづらいにも程があるだろ！
　突かれたんなら消えろ、吸血鬼―――！」
「っ……！
　ふざけないで、この程度でわたしは死なないんだから！」
　アルクェイドの手が俺の頭を掴む。
　そのまま握り潰されるより早く、ナイフを彼女の胸下まで切り下げた。
「いいから消えろ……！　ロアは俺が連れて行く！
　おまえに手間なんかかけさせないで、必ずあの世に連れて行ってやる！　だから、消えろ。俺はおまえと、バカな殺し合いなんざやりたくない……！」
「いまさら何よ！　わたしを拒んだのは貴方の方じゃない！」
　ぐ、とアルクェイドの腕に力がこもる。
　めきり、と頭蓋に亀裂の走る音。
「ロアはここで殺すの。絶対に殺すの！
　そうでもしなければ帰らないって言ったでしょう!?」
「こ―――の―――！」
　逆上するのもそこまでにしてほしい。
　オマエがロアを殺しても意味がないって、今までさんざん分かっているクセに……！
　ナイフが踊る。
　肉を切る音も立てず、刃はアルクェイドの腕を貫通した。
　切断には至らなかったが、その白い腕から解放される。
「っ……！」
　……良かった。アルクェイドも余裕がないらしい。
　今の出血が堪えたのか、アルクェイドはよろよろと後退した。
　ずるり、と胸を刺していた腕が引き抜かれる。
　……アイツの感覚が、遠ざかっていく。
　それを見届けた途端、俺は地面に崩れ落ちた。
「志、貴――――」
　……どこか、ためらうような、アルクェイドの声が聞こえた。
「――――――――」
　声が、うまくでない。
　ごぼっ、と。
　喉を動かすと、赤い血がこぼれるだけだ。
「志―――貴」
　……薄れていく。
　さっきまでアルクェイドに纏わりついていた殺気とか威圧とかが、薄れていく。
　俺のつけた傷がいい気付けになったのか、
　アルクェイドは、俺のよく知っている、以前の彼女に戻りつつある。
「―――よかっ、た」
　何がいいのかは、もう分からない。
　ただ、やっぱり、俺は。
「しっかりして志貴……！
　そんな傷ぐらい、志貴がわたしのものになってくれるなら、すぐに平気になるんだから……！」
　アルクェイドが手を伸ばしてくる。
「――――――」
　朦朧とした意識で。
　イヤだ、と手をあげて彼女を止めた。
「なんで……？　志貴、このままだと死んじゃうんだよ？
　いい、さっきのことは許してあげる。シエルの事も気にしない！
　そんなコトより、わたし、志貴に無くなってほしくない……！
　だから―――お願いだから、わたしのものに―――」
　ふるふる、と。
　満足に息もできない体で、首をふる。
「……わからない。志貴が死んじゃったらロアはまた転生してしまう。志貴だってロアを恨んでいるんでしょう？
　そのままだと貴方が死んでしまったあと、ロアがその体を乗っ取るだけ。そんな結末でいいの!?」
「―――――――」
　……そうか。それは確かに―――放っておけない。
　けど、このままアルクェイドに従っても、同じことの繰り返しになる。
　例えば、俺がアルクェイドに血を吸われて、かつてのロアのようになって、ロアに負けないぐらいの意思の強さを手に入れても。
　結局は、アルクェイドがロアに振り向いてやらないかぎり、ロアが消える事は、ないんだ。
「……ダメだ。おまえの言う事は、きけない」
「どうして。そんなに―――そんなに、わたしの事が嫌いなの？」
　……まさか。そんなこと、たとえ嘘でも―――
「……おまえの気持ちも分かるけど、もう許してやってくれ。
　ロアはさ、おまえに振り向いてほしかっただけなんだ。そのために何回も生き返って、おまえがやって来るのを心待ちにしていた。
　……でもあいつは人間なんだ。おまえのように長く長く生きられる命じゃない」
　……そう、人間に不老不死は遠すぎる。
　ロアは転生なら自分を自分のままで維持できると考えた。
　けど、それさえも限界があったんだ。
　その方法では同じ目的意識を持つ『分身』を作るだけで、原初の記憶、始まりの自分を、その時の自分の気持ちを、同じ価値のまま残す事ができなかった。
　かつて美しいと感じたものが、その美しさを信じる心が、時代と共に色あせていく。その不純に、誰よりもロア自身が耐えられなかった。
「……ロアは居ないのと同じなんだ。あいつは始まりの命令にそって、同じことを繰り返すだけのプログラムと変わらない。
　……だから、このあたりで終わりにしてやらないと」
「志貴―――あなた、もう」
　……アルクェイドの目が、正気に戻っていく。
　金の瞳が、赤い瞳に薄れていく。
　月の下、金色の髪がゆれている。
　そこにいるのは、やっぱり、俺が好きだったアルクェイド本人だった。
　月を見上げるように、彼女を見上げる。
　……ごめん、シエル先輩。やっぱりさ、俺はアルクェイドを、すごく、キレイだって思うんだ。
　赤い瞳も、毅然としているクセに人懐っこい仕草も、白く細い輪郭も、俺がたった今つけてしまった、胸に咲いた赤い血の<痕|あと>でさえも。
　だから残念。
　こんなふうに決着がついたのは、胸が痛い。
　……まったく。アルクェイドも、もうちょっと早く正気に戻ってくれれば、こんな真似しなくても、良かったのに。
「そうなの、志貴。貴方……もう、ロアと一つなの？」
「……………」
　分からない。
　ただ、今のは無茶をしすぎた。
　こうしている今もボロボロと記憶が欠けていっている。
　遠野志貴の価値観が、ロアの価値観と融合していく。
　誰かが言っていたっけ。
　本来視えないものを視ようとすれば、血管が切れて、廃人になっちまうって。
「……なによ、馬鹿。
　それじゃあシエルに殺されてやるっていうの、貴方は」
「―――まさか。けど、おまえのおかげでこのザマだ。
　もう、長くは保たないだろ」
「………………」
　アルクェイドは自分の体を見下ろす。
　胸と、そのまま縦一文字につけられたナイフの傷。
「信じられない。
　今まで、わたしをこんなに傷つけた相手はいなかったわ」
　そりゃそうだろうとも。
　他の誰にも、アルクェイドを傷付ける事はできない。
　それが俺の、ちょっとした自慢だった。
「……本当に残念。けど、わたしもそろそろ限界みたい。
　この傷を治すには故郷に戻って、また長い眠りにつかないと」
「―――だろ。なら、さっさと帰っちまえ」
「………………」
　彼女は応えない。
　実際には、沈黙なんてなかったのかもしれない。
　ただその間。
　お互いの別れになるこの時を、長く感じたかっただけ。
「……はあ。
　いやな男。最後まで憎まれ口をたたくんだから。ちょっとぐらい優しいコト、言ってくれるかなって期待したのに」
「なんだそりゃ。優しくしてほしかったら、もっとか弱いトコ見せろ、ばか」
　お望み通り、心の底から本音を返す。
　……いつかの夜を思い出す。
　アルクェイドとふたり、夜の街を<逍遙|しょうよう>した。
　口ゲンカばかりで、互いに触れる事はなかったけれど。
「うん、でも―――
　志貴の、そういうところが好きだったなあ」
　そう言って。
　笑顔のままで、彼女の体は霧のように消えていった。
「なんだ―――同じだったのか」
　呟いて月を見上げた。
　最後のわずかな間だけ、俺たちは元の関係に戻っていた。
「――――っ」
　アイツのことが、好きだった。
　俺の中にいるロアの影響なんて知らない。
　ただ、アイツの笑顔をもっと見ていたかった。
　だからこんな、殺しあった末に別れるなんていう結末は、痛すぎる。
　……どうしてこんな事になったんだろう。
　俺とアイツにかぎって、目もあてられないような過ちなんて、そう犯してはいなかったと思うんだけど。
「ご――――ぼ」
　血が止まらない。
　息を吸おうとすると、ポンプのように口から血の塊が吐き出される。
　……意識が、途絶える。
　アルクェイドがもう少しお淑やかだったら良かったのに。
　こんな、胸に大穴を開けられたら、吸血鬼になりかけの半端な俺じゃ助からない。
「――――――っ」
　どくん、と振動する。
　心臓からの震えじゃない。心臓はもうとっくに止まっている。
　原因はこの頭だ。
　アルクェイドを追い返すために脳を酷使したせいだろう。
　俺―――遠野志貴というモノが段々と削れていって、ロアの意思が強くなってきている。
　……この体は、じき停止する。
　その後に俺まで亡くなってしまえば、この体はロアのモノだ。
　俺では助からないこの傷も、吸血鬼であるロアなら蘇生させる事ができるだろう。
　そうなってしまえば―――俺は、先輩と同じ過ちを繰り返す事になる。
「―――ごめん」
　それが罪深い自己弁護だと分かっていても、口にせずにはいられなかった。
　どくん、という躍動。
　本当に、意識が、保てなくなっている。
　その前に―――
俺は、自分の体を直視した。
　我が胸の古傷にその『点』は存在する。
　俺と―――ロアの死ともいうべき『点』が。
　―――遠野くん、言ったじゃないですか
。
　わたしを幸せにしてくれるって。
　なら、お願いですからこんなところで死なないでください。
「―――――――」
　だから、謝るしかない。
　色々な事をしてあげたくて、けど結局は何一つ叶えられなかったというのなら。
　せめて、最後に。
　彼女を、こんなつまらない因縁から解放するぐらい、こなさないと。
「―――――はあ」
　大きく息をはいて、ナイフを胸に突きつける。
　ナイフの先にあるものは『点』だ。
　あとは、力をいれるだけ。
　それだけで。
　―――――ヤメロ。
　……声が聞こえる。
　おそらくは幻聴だろう。
“…………遠野くん…………！”
　泣き叫ぶような声が届く。
　見れば、傷の塞がった彼女が、俺に向かって走ってきている。
　―――――ヤメロ。
「………………」
　……顔を見れば決意が鈍る。
　きっと、申し訳なくて、ナイフを持つ力が無くなる。
　だから、彼女がやってくる前に。
　ナイフを持つ手に力を入れた
。
　スウ、と音もなく感触さえなく、ナイフの刃が体に透る。
　それだけで
。
　それだけで。
　もう何年も前に落ちたことのある、
　深い深い闇へと落ちていけた。
“遠野くん、遠野くん……！”
　―――声が、聞こえる。
“遠野くん、そんな……どうして……！”
　―――ほら。やっぱり思ったとおり。
“……やだ。こんなの、わたしはイヤです……！”
　―――こんなふうに、泣きじゃくる声を聞けば。
“どうして……!?
　死なないって、死なないって言ったのに……！”
　―――きっと、
後悔すると、
思っていた―――
「……お願いだから逆らわないで。私に貴方を殺させないで」
　……気が緩んでいるのか、アルクェイドの体から完全性が薄れている。
　懇願するような声が<囁|ささや>かれる。
　……だからこそ聞けない。
　俺は今の彼女から目を背ける事はできない。反感からではなく、俺はその間違いを、どうしても見逃せない。
「……志貴。それとも、わたしのことは嫌い？」
　まっすぐに見つめてくる。
　押さえつけられながら彼女の顔を見つめ返す。
　真摯に。―――脳が焼き切れてしまうほど、強く。
　どうしても出来なかった／視たくなかった、その個所を。
　……びきり、と頭の芯で音がする。
　今までのように頭蓋骨を割る音ではなく―――脳そのものに亀裂が走ってしまいそうな音。
　……もうこの先、これ程の静かさはないという程に、アルクェイドの体を凝視する。
　全体像では絞りきれない。
　視るのは一点だけ。……もっとも接合が弱いと思われる、意識と心の中間点を、刻むように。
「……アルクェイドのことは、嫌いじゃない」
「ほんと？」
　弾むように彼女は言った。
　それは彼女にとって輝く星のような答えだったのだと思う。
　……でも、ダメなんだアルクェイド。
　その告白は、前提から間違っている。
　相手を従わせるか殺すかの選択肢しかない段階で、その望みに応えてやれない。
　あの夜、窓辺で笑っていた月の花。
　俺は、本当にアルクェイドの事を想うのなら―――
　……額が熱い。
　脳がぐつぐつと高温に熔ける中、確かに―――
　たった一本だけの、死に易い『線』を見た。
「けど、やっぱりお断りだ。
　俺が惚れてるのはシエルであって、アルクェイドじゃないんだから……！」
「―――――――！」
　アルクェイドの目が怒りに染まる。
　だがその前に。
　俺は、彼女の『線』をなぞっていた。
「―――、―――、――――――！」
　人々の住まう住宅地、その上空。
　鳥たちしか見とがめるもののいない街の死角を、代行者が全力で疾駆する。
　その表情は切迫し、呼吸は千々に乱れている。
　死徒との戦いですら眉ひとつ動かさない代行者シエルは、今まで知らなかった不安と恐れに身を苛まれていた。
「早く―――もっと早く……！」
　住居の屋根から屋根へ。
　ビルの屋上から屋上へ。
　地上の<路|ルート>を無視して、シエルは一直線に総耶の街を、否、この<気|・><配|・>の元へと急ぐ。
　この異変に気づいたのはほんの数分前。
　教会支部からの帰路、高速道路の出口。
　利用していた<車|タクシー>が総耶に近づいた時に、彼女は、<彼|・>が取り返しの付かない事態に陥っている事を理解した。
　街全体が眠っている。
　魔術、呪いによる大気汚染ではない。
　大気にそこまでの魔力異常は感じられない。
　だが、<街|・><全|・><体|・><が|・><自|・><然|・><な|・><状|・><態|・><で|・><は|・><な|・><い|・>事を、シエルは肌で感じ取った。
　包まれている。
　閉ざされている。
　なにか、あまりにも逸脱した存在の力が、現実を歪めている。
　これはそういった、ひとりの<意|・><志|・>による同調圧力。
　曰く。
　真祖は“想う”だけで世界の在り方を変えるという。
　その神秘を、
　彼女は、記録の中で知っている。
「マーリオゥ司祭代行は何を……！」
　焦りが余分な悪態をつかせる。
　頼りにはしたくないが、唯一の味方であるマーリオゥ司祭代行とは連絡が取れないでいた。
　総耶に潜伏した司祭代行直下の代行者たちに動きはない。
　その全てが、昨夜のうちに戦線離脱した事をシエルはまだ知らされていなかった。
「―――、―――」
　混乱する意識を平静に保つ。
　何が起きているのか知る術はない。
　けれど、誰が起こしているかは考えるまでもない。
　……これは予想されていた局面。
　最悪の敵が、彼女の命を奪いに来た最後の狩り。
「アルクェイド―――！」
　逸る気持ちを両脚に乗せ、代行者は一直線に<気配の源|アルクェイド>へと加速する。
　第七聖典を取りにいく為の<寄|ル><り|ー><道|ト>すら考えられない。
　その冷徹さ……彼の命ではなく真祖との戦闘を第一にする考えそのものが、今回こそ自分からすべてを奪うのだと本能が叫んでいた。
「見えた……！　南口、公園……！」
　魔術で強化した視界が、向かうべき場所と目的を捉える。
　間に合う。
　これなら間に合う、と彼女は瞳を輝かせ、
「――――――え？」
「っ……！」
　それは不可解な遭遇だった。
　ビルの側面。垂直にそそり立つコンクリートの壁に、あまりにも奇怪な“モノ”が停止していた。
　樹皮のような、革のような、硬くしなやかな外皮。
　だらしなく肥大化した腹部。
　その腹部から伸びた六本の脚。
　右肩の瘤には大型の恐竜もかくやという爪と牙。
　蜘蛛に酷似した下半身。
　人間に類似した上半身。
　頭部の単眼はやはり蜘蛛を思わせる。
　だが、なにより異質なのは―――
　その“異物”から放たれる、殺意とも敵意ともとれない、ドロドロに入り乱れた“意識”だった。
「――――――」
　この状況が生んだものか、
　あの怪物のフォルムが連想させたものか。
　漠然と、しかし運命のように、致命的だと彼女は思った。
　戦いは１分で終わった。
　シエルはあらゆる“躊躇”をしなかった。
　人間としての倫理感、
　戦闘における大前提、
　生存を望む生命の基本定義。
　それらすべてを外して、敵の排除を行った。
　即ち。
相討ちを前提にした、互いが肉片になるまでの撃ち合いである。
　破裂、あるいは断裂するような音を立てながら、怪物は消失していく。
　その体はシエルの黒鍵によって完全に破壊された。
　表面の９６パーセントが貫かれ、焼かれ、はじけ飛び、再生困難な状況になり、
　接近戦用の左の巨腕は<関節技|アームロック>によってもぎ取られ、
　とどめとばかりに、無防備になった大胸骨に50トンもの<正拳|インパクト>がたたき込まれた。
　その外見通り、不死身と思われた怪物もここまで破壊されては退場する他ない。
　真の不死―――限度のない復元者であるシエルと<耐久力|タフネス>で競った時点で、怪物は敗北していたと言える。
「ハァ……ハァ……ハァーーーー…………」
　とはいえ、この戦闘は彼女にとっても予想外のダメージを与えていた。
　体力、肉体の損傷ではない。
　精神的な傷を、である。
「今のは……いったい……？」
　アレは決して自然発生したものではない。
　死徒に血を送られて変貌する元人間もいるにはいるが、あそこまでの異形に成ることはない。
　考えられるとしたらロアの置き土産だ。
　何代目かのロアは人と動物を掛け合わせる合成生命を作る研究をしていたのかもしれない。
　そんな想像が彼女の心に爪を立てていた。
　……もしかすると。
　ロアの知識を紐解けば、自分もアレと同じ犠牲者を作り出す事ができるのではと―――
「いえ、そんな事、より……！」
　復元したばかりの体に血を巡らせ、代行者は意識を切り替えた。
　彼女の敵はあんな名前のない怪物ではない。
　この世でもっとも美しい宿命。
　そして自分の命より大切なひとが、目の前で戦っている。
「お願い、遠野くん……！」
　代行者は空を駆ける。
　総耶の街を包む、絶望的な世界の檻。
　そこが想像を絶する死地である事を、誰よりも理解しながら。
　拘束が解ける。
　喉の線を切られて一時的に脱力したのか、アルクェイドは動かない。
　俺はその隙をついて、彼女の下から抜け出して、今のうちにと距離をとった。
「はぁ……は、は……！」
　自由になってようやく呼吸を再開できた。
　両肩で息をして、とにかく心臓と脳を落ち着かせる。
　今は数秒でも休息を取らないと走れない。
　アルクェイドの事だ、あの程度の傷はすぐに治して、すぐ起き上がって―――
　アルクェイドの体を支えていた両腕が、ずるりと滑る。
　まだ意識が回復しないのか、アイツは眠るように石畳に倒れこんだ。
「――――――」
　その赤い液体を目にして、凍り付く。
　確かに俺は首を切った。血が出るのは当たり前だ。
　でもコイツがこんな簡単に、まるで人間のように倒れる姿を、想像さえしていなかった。
「アル―――クェイド……？」
　異常はそれだけに留まらない。
　血。濃厚な、ワインのように深い紅色の液体が、大量に流れている。
　それはアルクェイドから溢れた血の海であり、
　世界そのものに出来た、孔のような傷に見えた。
　石畳には赤い血が今も広がり続けている。
　白い体は毒に染まるように、禍々しい朱色に侵されている。
　この光景には覚えがある。
　あの鈍く光る血溜まりは、
「……そんな。まさか、そんな」
　―――殺して。
　殺してしまったのか、俺は。
　そんな馬鹿な。そんな馬鹿な。そんな馬鹿な……！
　あの時とは違う、『線』はかろうじて首に見えただけだ、
　吸血鬼になりかけて、改めてアイツとの性能差を理解していたからこその抵抗だったのに、ただ動きを止める為の悪あがきだったのに、そんな、今さらアイツが、俺なんかに殺される筈がない―――！
「アルクェイド……！」
　逃げようとした足を止めて、アルクェイドに駆け寄ろうとして、息を呑んだ。
　片腕。
　倒れこんだアルクェイドの片腕が、ぎっ……と、蜘蛛の脚のように、地面に手をついたから。
“―――ふしぎ。停止したのは首なのに、
　そっちより遥かに、胸が異常を訴えている。”
　それは<言葉|テキスト>でも<感応|テレパス>でもない、<呼吸|ブレス>のような、
　自然意志の融解だった。
“痛い。いたい。好きなのに。辛い。嬉しい。
　熱い。くるしい。やっぱり、大好き……！”
“でも、手に入らないものは、無いのとおなじ。
　逆だ。どこにも無いから、わたしの手には入らない。”
“でも拒絶された。比べられた。また無惨に殺された。
　また。また。また。また。
　なら、わたしも　おなじことを。”
“無い。無い。無い。無い。
　あんなヤツ、はじめから存在してい無い……！”
　この時。
　俺は確かに、世界の<軋|きし>む音を聞いた。
　遥か遠くでありながら、すぐ近く、俺の耳元で鳴った音。
　聞き慣れた音。命が割れる音。
　ならそれは間違いなく、世界そのものが死んだ音だ。
「こ　　　　ろ　　　　し　　　　て」
　……彼女の喉から漏れる鮮血と、呼吸。
　アルクェイドの腕にぐ、と力が入っていく。
「し　　　て、　　　　　　げ　　　　る、」
　……朱い血はまだ流れ続けている。
　静かに、彼女の体が地面から離れていく。
「こ　　　　ろ　　　　し　　　　て」
　……血だまりから顔が浮き上がる。
　金色の髪の間に目が見える。
　黒く<穿|うが>たれた<娑齢頭|されこうべ>の眼。
　その中に、燃え盛る火のような、<皓皓|こうこう>とした赤があった。
「ころ　　　して　　　あげ　　　る」
　―――なんだ、これは。
　石の地面が、街灯が、建物が、この地表に築かれたあらゆる人工物が、アイツに向かって滑り落ちていく。
　装飾を脱がすように。
　絵の具を溶かすように。
　まるで世界の皮を剥がすように、あらゆるものがズルズルとその在り方を没収されていく。
　俺の頭では理解できない現象を、ヤツは高らかに謳いあげる。
“これこそは真祖の力。星の触覚として地表を思うままに作り変える空想具現化。
　もうこの街はおしまいだ。この領域はおしまいだ。建物も生き物も変換される。四次元から二次元に潰されて呑み込まれる。事象変換から事象収納。その後に来るものはおまえたちを見限って移り変わった星の内海。讃えよ。畏れよ。跪き死に備えよ。さあ―――あともう一押しで、<お|・><ま|・><え|・><の|・><世|・><界|・><が|・><裏|・><返|・><る|・><ぞ|・>！”
「アル―――クェイド」
　彼女の目は、何も見ていない。
　片手で立ちあがろうとするが、力はまだ戻らないのか、血しぶきをあげて倒れてしまう。
　そのたびに彼女の体は赤くなっていく。
　何度も、何度も。
　立ちあがろうとして、滑って、倒れて。
　……そんな無様な行為さえ、彼女は愉しんでいるようだった。
「まっ、てて」
「―――――――」
　動けない。
　アルクェイドの声が、姿が、意思が―――否応無しに俺の頭の中に流れこんでくる。
　俺という意思が流される。融かされる。翻弄される。
　ぐるぐると世界が回る。
　その中で、彼女の思考が入ってくる。
“こんな屈辱は味わったことがない。
　こんな恥辱は経験したこともない。
　―――だから、愉しい。
　志貴にこの身を焦がすほどの憤怒をぶつけ、叩きつける時がどれほど気持ちのよい事か想像もつかない。きっと愉しい。すごく愉しい。世界を引き替えにしてもいいぐらい愉しいに決まっている。嬉しい。嬉しい。嬉しい。もう我慢しない。もう見逃さない。もうこれ以上待ちきれない。四肢を引き千切って肋骨をあばいて臓物をよじり出して、助けをこう喉を踏み潰して頭蓋を切開して脳を地面に塗りたくるその瞬間―――――！”
「待っていて、すぐに殺してあげるから……！」
　笑って、狂ったように笑い続けて、アルクェイドは自らの血の海でもがいている。
「――――――」
　動けない。
　いけない。
　魂が芯から固まっている。
　ここにいたら、本当に殺される。
　逃げないと。
　どこでもいい、早くここから離れないと、殺される。
「―――――あ」
　なのに足が動かない。
　世界は／俺のせいで／もう影も形もない―――いや、影だけの世界に成りはてて、あらゆる<事|も><象|の>が持っていかれてしまった。
　建物も。人間も。すべてが薄っぺらな絵にされて取り上げられた。
　その中で俺とアイツだけが<立体|た>っている。
　アイツは俺を許さない。他の<事|モ><象|ノ>のように収納しない。
　生きたままバラバラにしたくて俺を仲間はずれにした。
　俺だけをこの街に残して、他の生き物をすべて、あの孔に消してしまった。
「あ―――、あ」
　無駄だった。俺がやろうとした事は、こんな事で無くなった。
　街を守ると言い張っていた俺が殺してしまった。
　……足は動かず、逃げ場所すら思いつかない。
　どのみち、何処に逃げても。
　もう、絶対に殺されるって理解してやがるのか。
「遠野くん！　何してるんですか、こっちです！」
　―――その声。
　その声で、恐怖から解放された。
「先輩……!?」
「いいから、早く逃げるんです……！
　彼女の蘇生が終わる前に、早く！」
「あ――――」
　先輩は当惑する俺の腕を掴むと、一足で上空まで跳び上がった。
　一軒家の高さを軽く超え、建物の屋根に着地する。
　そのまま屋根を走ると、また次の屋根に跳躍する。
　アルクェイドと夜の街を跳んだ時と同じ。
　違うのは、俺がこの跳躍について行けている事だ。
　先ほどのアルクェイドとの戦いで、身体の吸血鬼化……ロアの侵食は秒単位で加速していた。
「先輩、どうして―――!?」
「どうしてもなにも、訊きたいのはこっちです！
　あれほど部屋から出ないでくださいと言ったのに、どうして外でアルクェイドと会ってたんですか、遠野くんのうわきもの！」
「――――」
　いや、浮気者って、今はそういう場合じゃなくて。
「部屋から出たのは謝ります、でも誤解ですから！
　どうしても耐えられなくて、外に出たらアルクェイドがいて、アイツ、自分のものになれとか妙なコトを言い出して―――」
「くうぅ、言い訳はあとでたっぷりしてもらうにして！
　今は急いで―――」
「先輩、前！」
　突然、俺たちの前に巨大な壁が現れた。
　それはどう見ても中世の城の壁面で、俺たちは空を跳躍している最中で、もう衝突するしか選択肢は存在しなかった。
「っ……！　遠野くん、口を閉じて！」
　先輩は俺の腕を掴んだまま、出現した壁を蹴りつけた。
　タン、と硬い石を踏んでいく音がする。
　先輩は壁を足場にして、真横につっ走って回避した。
　この現象も常識から外れているが、先輩も負けじと反則技を見せてくれる。
「先輩、これ何ですか!?
　今の、どう見ても城の壁でしたけど!?」
「アルクェイドの空想具現化です。こんな大規模なもの、わたしもはじめて見ました。
　……急ぎます。この規模ではあと数分で、街がなくなってしまう」
　外皮を失い、その中身も消失し、輪郭だけになったビル街。
　次々と出現する巨大な城の一部。
　もはや異界と化した夜を、俺と先輩は跳躍する。
　……おそらく、目的地は学校だ。
　地下にロアの本拠地があったからなのか、この付近では学校だけが、街を襲った“簡略化”から逃れていた。
　20メートル近い高さから、滑空するようにグラウンドに降り立った。
　深夜零時。グラウンドに人気はなく、校舎は静まりかえっているが、まだ十分に俺の知っている世界だった。
　だが、街はもう完全に色を削がれている。
　いずれこのグラウンドも校舎も、あの渦のようなものに呑み込まれてしまうのだろうか……？
“無論だ。この拠点も例外ではない。
　他の祖が持つ原理であれば拮抗もできようが、彼女の原理の前には私の結界も紙同然。
　なにしろ時間さえ停止させての事象変換だ。
　いや、時間を潰すからこその平面化か。
　都市そのものを形而上のものに変えて没収し、残されたモノは惑星の一部として残留させる―――
まさに惑星を初期化する異能。もはや権能と言って差し支えはない。
　この街で、あの現象に耐えられるモノは一つだけだ”
「っ―――」
　眼孔の奥で、自分のものではない信号が走る。
　……くそ。外だけでも手に負えないってのに、いよいよ中までおかしくなってきやがった。
「遠野くん？　どこか、怪我を？」
「……いや、大丈夫。背骨がまだ軋んでいるけど、すぐに慣れます。それより先輩。先輩はこれがどういう状況なのか理解できるんですか？」
「…………」
　先輩は俺から手を離すと、やってきた方角を振り返った。
「アルクェイド……いえ、見境を無くした真祖の機能が現れたのでしょう。真祖が<本|・><気|・>で能力を発現する時、世界の方が真祖に合わせた環境に切り替わる」
「この土地は彼女の望む環境になる為に、いったん更地に戻されたようなものです。残ったのは街の残像だけ。現れている城壁は彼女が作りあげているものでしょう。
　そして元にあった街は、不要な異物として別の場所に仕舞われてしまった」
「仕舞われた―――街ごと、生き物ぜんぶ!?」
「ええ。地表に生きるものは細菌に至るまで、すべて。
　例外は彼女に異物として弾かれた遠野くんと、障壁を張っていたわたしだけです」
「……文字通り、規格外の怪物ですね。
　このままでは世界が裏返る。そうなってしまったらこの街はもう取り戻せない。星の内海に収納された事象は、二度とこちらに戻って来られなくなりますから」
「――――――」
　話についていけない。あまりにも<桁|ケタ>が違う。
　明白なのは、このままアイツを放置しておくのはまずいという事だけだ。
「はい。あの城が完成する前に真祖を排除できなければ、この街は消え去ります」
「排除……先輩は、アルクェイドと戦うんですか」
「それ以外に選択肢はないでしょう。
　いえ、そもそも彼女の方からこちらにやってきます。遠野くんは校舎の中に入っていてください」
　アルクェイドが来る……アイツが、ここまで追いかけてくるっていうのか。他の誰でもない、俺を殺すために……？
「……違う。それは違う。
　先輩、怒らないで聞いてください。
　アイツは本当にいいヤツで、さっきのは俺がやりすぎて血迷っているだけで、傷が治って落ちつけば―――」
「無理ですね。その落ち着くまでの時間で貴方は殺されていますし、この街も戻らなくなります。
　そもそも遠野くんの中にはロアがいる。アルクェイドにとって最も不要な吸血鬼を殺す事に戸惑いはないでしょう」
「……今の彼女は血に飢えた吸血鬼と化しています。
　貴方が知っているアルクェイドには、遠野志貴を殺すまで戻ってはくれないでしょう」
「――――――」
　反論したい気持ちを飲む。
　……先輩の意見は正しい。先ほど流れてきたアイツのイメージを思い返す。
　……アレはもう俺を殺す事しか考えられない生き物だ。
　話し合いの余地は、あの公園でとっくに使い果たしている。
　そして事態はもう俺だけの問題じゃない。
　この街が消えるか戻るかの瀬戸際にまでなっている。
　アイツは俺に殺された事でああなった。
　なら……考えたくもない選択だけど、俺さえアイツに殺されれば、少なくともシエル先輩とこの街は―――
「遠野くん」
「ほあっ!?」
　いま、右の肩胛骨を絶妙な力加減で叩かれた！　ツボを押されたみたいでちょっと気持ちいい。
「おかしな事は考えないように。真祖がああなったのは自業自得ですし、貴方に責任はありません」
「……彼女はいずれ吸血衝動に負ける事が確定していた。それが何年か早まって、たまたまこの街で起きただけの話です。
　アレは悪魔の見えざる<賽子|ダイス>のようなもの。<人|・><間|・>であるわたしたちは巻きこまれた後、最善を尽くすしかないんです」
　言って、先輩は東の空を睨み付けた。
「……でも、やっぱりこうなる運命だったのかも、ですね。
　遠野くんを守るためには、彼女と決着をつけなくちゃいけなかった」
「彼女が活動していると、その下僕であるロアの意思も活性化するんです。遠野くんの中のロアを抑えるには、まず彼女を眠らせるか、追い返す必要があった。
　ですから、ここで彼女を倒すのは一石二鳥です」
　先輩は俺の腕を引いて校舎へと走り出した。
「遠野くんは校舎に待機していてください。彼女と戦うのはわたしの役割ですから」
「ま、待ってください……！　先輩こそここで隠れていてください！　アイツとは、俺がケリをつけますから！」
「……遠野くん。わたし、怒りますよ」
　じっ、と先輩が睨んでくる。
　けどそれは怒る、というよりいじけているような、そんな視線だった。
「わたしの体の事は知っているでしょう？　わたしは何があっても死にません。けど遠野くんは別です。
　たしかに貴方の目ならアルクェイドを倒せるかもしれませんが、その前に彼女の爪が貴方を殺します」
「遠野くん、言ったじゃないですか。わたしを幸せにしてくれるって。
　なら、お願いですからこんなところで死なないでください」
「でも……先輩ひとりじゃ、アイツには……」
「見くびらないでください。わたしが今まで何体の死徒を仕留めてきたと思っているんですか。
こと吸血鬼退治なら、わたしの右にでる者はいないのです」
　自信ありげに先輩はガッツポーズなんかをとったりする。
　……けど。
　彼女の指先が震えているのが見えてしまった。
　恐いのか。
　今まで何十もの吸血鬼を退治してきた先輩でも。
　いや、退治してきた先輩だからこそ、今のアルクェイドがどれほど危険な相手か理解してしまえるのか。
　……だめだ。俺はそれでも―――。
　この人をひとりにして、自分だけ逃げる事はできない。
　その思いを口にする前に、先輩は俺の口に人差し指を当てて、言葉をさえぎってしまった。
「その先はそれこそ言っちゃダメです。お願いですから、わたしの我が侭を聞いてください」
「一度ぐらい―――本当に一度ぐらい、わたしだけの意思で貴方を守りたいんです。
　そうしないと、わたしは遠野くんに心から笑顔を向けられなくなっちゃうじゃないですか」
　彼女は瞳に涙をたたえて、そう言った。
「……わたしがこんなに早く帰ってきたのは、駄目だったからなんです」
「―――――」
「遠野くんを助ける手段は教会にはありません。
　教会にあるものはロアを利用する方針だけで、転生体を助けようとする方法なんて、なかったんです。
　貴方を失わずにロアだけを殺す手段なんて、どこにも」
　―――そう、か。
　それは、まあ、仕方ない、よな。そんな、何事も都合良く片付く筈はないの、だし。
「―――でも。
　それは、シエル先輩が泣くような事じゃない」
「いいえ……！　わたし、わたしがもっとしっかりしていれば、ロアを追う事ばかり考えず、もっと他の道を探していれば、違う可能性だってあった筈なんです……！」
「だから、もう―――わたしに出来ることは、ロアの侵食を少しでも遅くする事しかできない。
　……苦しいって。遠野くんがどれだけ苦しいのか知っているのに、それでも少しでも長く傍にいてほしいって、そんな自分勝手なコトばっかり考えてるんです、わたしは―――！」
「――――――」
　先輩の涙は見たくない。
　見たくないから、見えないように彼女を抱きしめた。
「遠野……くん」
「うん。俺だって、できるだけ一緒にいたい。
　先輩は自分勝手じゃないですよ。自分勝手なのは俺のほうなんだから」
「それに、先輩がしつこくロアを追いかけていたから今があるんじゃないですか。
　全部を取るなんてできない。こうして先輩と一緒にいられる今の代わりに、ロアを消す手段を作られても嬉しくない。そんなの、ぜんぜん欲求不満です」
「でも―――でも、それじゃ……！」
「勘違いしないで。俺、ロアなんかに負けるつもりはこれっぽっちもありませんから」
　先輩と向き合えて冷静になって、さっきのアルクェイドの指摘を思い出せた。
　どうなるかは博打だが、ロアだけを殺す手段はまだ残っている。
「ロアの相手は俺がします。自分の事ですからね。
　けど、たしかに俺じゃアルクェイドを止められないんで、そっちは任せます。吸血鬼に関してなら百戦錬磨なんですよね、先輩は」
「―――はい。ありがとう、ございます」
　背中にまわされた先輩の腕がぎゅっと締まる。
　抱きしめ合って、唇を重ねようとする。
　と、先輩はウサギみたいにぴょこん、と離れてしまった。
「―――キスはダメですよ。そんなことされたら、わたし嬉しすぎて気が抜けちゃいます。
　ですから、今は抱き合うだけにしておきましょう」
「………だね。じゃあ少し離れてるけど、ピンチになったら呼んでください。すぐに駆けつけますから」
「はい、信じています。
　あ、でも、その必要はないですよ。ほんとに今日は切り札があるんです。以前のようにはいきません。
　―――希望でも強がりでもなく、アルクェイドは倒しきります。だから、問題はその後です」
「アルクェイドが消えれば、ロアは全力で貴方の体を支配しにくる。……その時、わたしには何もできないけど、お願いします。わたしが戻ってくるまで、どうか遠野くんのままでいてください」
　……そっか。
　先輩にとってアルクェイドは強敵であっても恐怖ではないんだ。この人にとって一番怖いものは、俺がこのまま消える事だけらしい。
「凄いな、先輩は。
　この状況で勝利宣言とか、どんだけ自信があるんですか」
「わ、笑わないでくださいっ！　真面目な、切実なお話です！」
「もちろん。おかげで安心できました。
　大丈夫、ロアには負けないって言ったでしょう。俺が勝てないのは先輩だけです」
　ありったけの信頼をこめて、笑って送り出す。
　先輩は無言で頷いて、階段に向かって走り出して、思い出したように立ち止まった。
「待ってください」
「？　なに、忘れもの？」
「はい。……その、明日になったら街に遊びに行きましょう。乾くんと三人で、この前のやり直しをするんです」
　息を呑んで、その笑顔に感じ入った。
　……よかった。
　先輩にとってあの約束が大切なものであってくれて、本当に、よかった。
「うん。それじゃあ約束」
　片手を差し出す。
「はい、今度はちゃんと守ってくださいね」
　先輩の手が俺の手に触れる。
　ぶんぶん、と元気よく振って、離した。
「遠野くんは校舎から出ないように。
　あ、でも危険だと判断したら、校庭か体育館に移動してください」
　青い後ろ姿が階段を駆け上がっていく。
　先輩は今度こそ行ってしまった。
　―――遠く、今はもう変わり果てた市街地から地響きが聞こえてくる。
　それは大気の軋む音、世界の悲鳴だ。
　天変地異そのものと言える白い吸血姫。
　それを正面から打倒する為、彼女は戦場へ赴いた。
　灰色の都市のただ中を、まだ<活|い><動|き>ている者が駆ける。
　色を失ったビル群は、かつてそこにあったという痕跡だけを示していた。
　まさに物質意味の形骸化。もはや岩の塊となったビルの屋上に、代行者は降り立った。
　身につけた修道服を脱ぐ。
　ここからは人を救う為の戦いではない。
　敵を処断する為の、全力の殲滅戦。
　屋上には黒々と輝く物体が“元のまま”で鎮座していた。
　アルクェイドの事象変換から逃れたのではない。コレは彼女と同質の存在であるため、変換の対象にならなかったのだ。
「万が一に備えて、移動させておいて正解でしたね。
　―――仕掛けますよセブン。断罪死への換装を済ませなさい」
　シエルの呼び声に応じて、ソレは変形を開始した。
　二つの銃器。一つの銃剣。一つの大剣。一つの甲冑。
　そして一つの破城弩弓。
　六つの武装で構成された鉄の塊。
　これこそ『<一角馬の角|コーノカント>』の秘蹟を基本骨子に作られた対吸血鬼武装車両、第七聖典の姿である。
「<第|ブ><一|レ><死|イ><因|ズ>、<第|ブ><三|レ><死|イ><因|ド>、<第|ブ><四|レ><死|イ><因|ク>を補助武装として合成。
　使用弾頭はコーノカント反応光から劣化ウラン弾に変更。テキストスロットは転生批判文から新約天使記に書き換え。
　ああ、照準は手動形式に。自動では彼女に気付かれる」
　オーダーを告げて、シエルは眼下の街を一望した。
　―――標的はここから500メートル離れた公園。
　真祖アルクェイドはいまだ再生の中にいる。
　地面にうずくまったまま動かない。
　その背中は隙だらけだ。
　シエルが一介の代行者であったのなら、絶好の機会として襲いかかっていた事だろう。
「……まったく、騙し討ちもいいところですね。
　チャンスと見て仕掛ければ、仕掛けた方が追い詰められる。
　甘い蜜で誘ってパクリ、とか、食虫植物ですか」
　広がり続ける赤い鏡面。
　アルクェイドは自己変革の最終段階に入ろうとしている。
　あの静けさは嵐の前の凪の状態だと、シエルは<以|ロ><前|ア>の経験で痛いほど知っている。
「蘇生中の守りは万全。下手に傷つければ存在規模が跳ね上がって更に手に負えなくなる。
　……ここで倒しきるなら、仕掛けるのはまだ早い」
　シエルは埋葬機関に所属する歴戦の代行者だ。
　堕ちた真祖……吸血衝動に狂った真祖がどのようなものなのか、実戦経験こそないがシミュレーションはこなしている。
　過去、教会は何度か『真祖の王族』と交戦し、これを撃退したと記録に残っている。
　もう何世紀も前の戦闘記録なので現代の代行者から見れば参考にはしづらいが、武装は変われど、参考にできる事項は幾つかあった。
“一対多数を原則とせよ。”
“標的の罪状を明らかにせよ”
“武装、戦闘者の質は均等にせよ。”
“その時代、最新の『鉄』を用意せよ”
“文明に覆われた都市でのみ開始せよ。”
　幸か不幸か、それらの条件は半分ほど当てはまっている。
　<自陣|こちら>が単独であるのは厳しいが、同時に戦闘者の質を均等にする、という条件はクリアできている。
　真祖を相手にする際、もっとも考慮すべきなのは“人間たちの実力の違い”だった。
　強力な指揮者をたて、統率のとれた軍隊で交戦する、という人間社会における必勝のセオリーが、彼女には通じない。
「……他の代行者を気にする必要はない。
　ここにいるのはわたしだけ、なんですから」
　それが気楽でもあり、怖ろしい。
　味方による援護もフォローもない状況では、一度のミスが敗北に繋がる。
「……それと……例の戒め、ですか」
　教会には対真祖における戦闘記述は多くあったが、その中で一つだけ、“記録”ではなく“警告”のようなものがあった。
“絶対条件：器を定めさせた後、器を空にしておくように。”
　この記述の意図が判らない。
　器を空にする、とは何を指しているのか、彼女がロアであった頃にも、それに似た状況には遭遇しなかったからだ。
「普通に考えれば、魔力をすべて使わせろ、ですが……」
　真祖の王族、それも最高純度であるアルクェイドに『魔力切れ』はない。
　となると『相手を弱らせてから殺せ』といった至極当然の手順としか取れないが、対真祖の記録において、そんな叱咤激励と変わらない気休めが残されるだろうか？
「！
」
　だが、この一文の意図をかみ砕く時間はない。
「……きた」
　―――事象収納が<環境|せかい>を“彼女好み”に変えるものなら、
　あの反応は<器|からだ>を“望む姿”に調整するもの。
　真祖とは地球の触覚。
　その力の供給源は星そのものであり、
　その供給量も星の資源そのものとされる。
　真祖と戦うという事は、その土地と戦う事に等しい。
　アルクェイド・ブリュンスタッドはその中でも最大の権能を秘めた個体だ。
　彼女の『<限界|リミット>』はこの星の上にいるかぎり、事実上存在しない。
　際限のない魔力と、際限のない体力。
　そして際限なく向上する性能。
　それが真祖の王族、ブリュンスタッドの名を冠した彼女の特性である。
　普段は真祖としての<使用規定|ドレスコード>がかかっており、その特性は制限されている。
　真祖は星の分身であるため、その資源を人間のように自己利益に使う事ができない。その発想がない。
　アルクェイドは戦闘行為に移行する際、敵対者を殲滅するだけの能力―――敵対者を上回るだけの力しか与えられない。星の分身として、消費を最低限に抑えるためだ。
　この特性の前に多くの堕ちた真祖、死徒が、彼女の前に敗れ去った。
　当然だろう。相手は常に自分より強い器で現れ、
　エネルギーの供給源は自分たちが住むこの星そのもの。
　この化身に狙われ、生き延びる事は不可能だ。
　―――ただし。
　その特性の唯一の隙をつけるのなら、結果は正反対のものになる。
「アルクェイドを上回る性能を発揮すれば、アルクェイドはより性能を向上させる。
　<生半|なまなか>な攻撃、隙を窺う長期戦になればなるほど、彼女は手に負えない怪物になる。
　だから―――」
　勝負は一撃で決める。
　アルクェイドがその器を安定させてから……
　この領域において最高峰の戦力を持った器に固定させてから、
　これを上回る火力で、アレが性能を向上させる前に地上から消滅させればいい。
　単純明快な作戦だ。
　問題は、その実行が人間には困難すぎるというだけで。
「……この領域にいる以上、私の力は<も|・><う|・>測られている。
　蘇生を終えた時、私と第七聖典の合計値を基準に、力の上限を変えてくる。
　―――それが貴女にとって最大の<短所|じゃくてん>です、アルクェイド・ブリュンスタッド」
　シエルはこの後の戦闘方針を再検討し、覚悟を決めた。
　思考予測において、勝利する手段までは確立した。
　……この先はその結果をもぎとる為の戦い。
　あまりにも<無望|むぼう>な過程を生き延び、最後の王手に辿り着かねばならない。
「―――」
　それを怖いと、シエルは思った。
　不死の体になってから久しく無くしていた感情。
　アルクェイドならシエルを生かしたまま殺す手段を持っているだろう。例えば、あの事象の渦に叩き込まれればもう二度とこちらには戻って来られない。
　そうなった後―――<自分|シエル>はアルクェイドの影の中から、地上の様子を見上げる事しかできなくなる。
　血に狂った<吸血鬼|アルクェイド>が、愛しい人を無惨に食い殺す場面を、見続ける事しかできなくなる。
　それ以上の恐怖は、無念はない。
　勝算は三割以下。一度歯車が乱れ、戦力のバランスが傾けばシエルは為す術なくアルクェイドに倒されるだろう。
「――――――ああ、でも」
　大きく息を吸って、代行者は顔を上げた。
　死ぬ事を考えていた自分が、今は死ぬ事を恐れている。
　生きる希望を持った途端、心は死に怯えて泣きたくなる。
「――――――これが、生きるという事でした」
　だからこそ、石に囓りついてでも成し遂げる。
　……アルクェイドの蘇生が終わる。
　第七聖典の換装が終了する。
　シエルは破城弩弓となった銃器を手にして、体内に巡る魔力そのすべてを注ぎこんだ。
「―――主の御名において。第七の死因よ、来よ」
　断罪死。肉体ではなく魂を破壊する聖典が起動する。
　シエルは一度だけ標的を目視し、視線を逸らした。
　今の一瞥で狙いどころ、当て勘は把握した。後は<撃|・><つ|・><時|・><だ|・><け|・>見ればいい。
　照準を自動から手動に変えたのはギリギリまでアルクェイドを狙わない為だ。
　１秒でも狙いを定めれば、アルクェイドは確実に狙撃手の存在を感知する。
　感知されればこの狙撃は失敗する。確実に勝利するには、シエルは無意識のまま敵を捉えなければならなかった。
「―――、―――」
　言うまでもなく、無理筋にも程がある。
　本来、狙撃とは息を殺し己を殺し、ひたすらに標的の行動を予測し、その眼に捉えるもの。
　標的の手が届かない遠距離から一方的に見続ける事が絶対条件であり、有利である。
　その最大のアドバンテージが使えない。
　標的を見るどころか意識すら向けられない遠距離処刑。
　飛び出してくる標的に反応して撃ち落とす<早撃ち|クイックドロウ>と何が違おう。
　違うのは、この大弓がトリガーを弾けば放たれる単純機構ではない事だ。
　シエルの魔力を食い、おびただしく成長する霊木の根。
　こうしている今も上昇している内部圧力の調整に、神経の半分を。
　流動する魔力による聖典詠唱の反復制御にまた半分を。
　秒単位で減少していく自身の魔力貯蔵を平常心で計測し、
　荒れ狂う猛牛の如き鉄弓を腕力だけで押さえつける。
　それは極限の精密作業であり、制圧行為だった。
　シエルの状況は、軍艦の主砲発射、その全工程を個人の力だけで実行しているに等しい。
「――――――、ハア」
　直前、一度だけ息を吐いた。
　緊張はあるが不安はない。
　シエルの最大射程は５キロメートル。
　それに比べれば500メートル先を狙うなぞ、彼女にとって針の穴に銃弾を通す<程|・><度|・>の難易度だ。
　手袋越しの指が、<破城弩弓|ゆ　　み>の重さをグラム単位で推し量る。
　風向きを測り、自身のコンディションを確認し、心臓のリズムを舌に乗せる。
　精緻極まる筋肉繊維の連続運動。
“――――――今！”
　果たして、奇蹟はここに執り行われた。
“弓”の名を冠するもの。
　魔人どもの巣である埋葬機関においてさえ“特例”と言わしめた代行者、その神髄。
　初動から構え、射撃まで０．２秒。
　狙撃手すら“撃った”と意識するより速く、必殺の一撃は真祖の頭部を貫いた。
　<彼女|アルクェイド>にしてみれば、それは到底、承伏できない奇襲だった。
　なにしろ完全に世界を把握していた。
　首の切断によって失われた生命力を、星から汲み上げて器に注ぎ直す。
　その最中、彼女はすべてを見ていた。
　逃げていく二人の人間も。その後、高い塔に移動した虫の姿も。虫が持つ毒針の威力も、力も、すべて正確に把握していた。
　自分が動きだせば虫も反応する。
　彼女はそう思ったし、事実、高い塔にいる虫にはこの時、何の害意もなかった。
　だから目覚めた。
　十分に力を汲み上げたので星との接触も断った。
　彼女は１秒後に始まる<戯|たわむ>れの為、最初の一歩を踏み出した。
　その直前。
　足を踏み出した途中ではなく、踏みだそうと思考した瞬間に、彼女の頭部は撃ち抜かれた。
　無意識の<弓兵|シエル>によって放たれた無拍の<神技|しんぎ>。
　いかに星の分身と言えど、<人|ひ><間|と>を相手にする以上、その身は神の位には至れず。
　無防備な意識は、代行者の弓の前に呆気なく刈り取られた。
「―――次弾、装填！」
　撃鉄を起こす。弓の弦を引き絞る。
　頭部に直撃させても真祖の体は健在だ。
　それはシエルも想定済みの結果である。
　まず頭を潰して意識を刈り取る。
　その後、彼女が思考能力を取り戻す前に本体を破壊する。
　決着には二射目がどうしても必要だった。
　なにしろ<魔力|ちから>を最大限に溜めた一撃では狙わずとも悟られる。最小の起こり、最小の狙い、最短時間で最大の魔力圧縮。それが一射目の狙撃だった。
　ただ、誤算があったとすれば。
　標的は初めから思考を―――
　理性を使う気さえなかったという、あまりにも野蛮で、
　不釣り合いなほど無垢な状態だった事だ。
「―――!?」
　シエルの確認より彼女の反応の方が早い。
　500メートルの高地差など無に等しい。
　美しい獣は、もう狙撃手の目の前に。
「ハ―――はぁ、は―――！」
　ひしゃげてしまった弩弓から手を放す。
　シエルは全身で呼吸をしながら、地上に落ちていったアルクェイドの状態を視認する。
　間一髪で第二射が間に合った。
　ほぼゼロ距離からの一撃はアルクェイドを再び地上に叩き戻した。
　だが、撃墜とはとても言えない。
　今のは必死に照準を合わせ、弦を引き放っただけ。
　弾丸が命中したのは偶然にすぎず、また、直撃ではなかった。
　渾身の魔力をこめた一撃。
　直撃すれば真祖の<器|からだ>を吹き飛ばす筈のものが、ただ“はじき返した”だけに終わってしまった……！
「ハ―――はぁ―――は、ふ―――」
　シエルは呼吸を整え、弩弓から武装を引きはがす。
　アルクェイドの爪で弩弓はひしゃげた。もう狙撃による追撃は不可能だ。
　残った武装、第一死因であるアサルトライフルと、第三死因・第四死因の複合装備である杭打ち機で戦うしかない。
　だがシエル本人の魔力はほぼ使い果たした。
　平均的な魔術師の魔力生成量を20とした場合、シエルの生成量は5000に届く。
　その膨大な魔力を込めた一撃を無意味に消費したシエルの精神的消耗は計り知れない。
「―――無傷。今ので無傷ですか、アルクェイド―――」
　眼下にはゆっくりと、崩れ落ちるビルから立ち上がる真祖の姿。
　ほんのわずか、シエルの思考に迷いが生まれた。
　勝てない。やはり勝てない。逃げよう。逃げなくては。きっと他に方法がある。まだ可能性は残っている。だから逃げよう。だって死にたくない。あんな、死ぬより痛いモノになりたくない。今ならまだ間に合う。彼と一緒に手を取り合って、力のかぎり逃げればきっと―――！
「―――いいえ。それだけは、決して。
　勝負はここからですアルクェイド。
　他の事ならともかく―――彼の事で、貴女には負けられない」
　決死の覚悟を決めて、シエルは最後の切り札を開封した。
　杭打ち機に収納していた『果実』を手に取る。
　血の煮こごりのような赤い果実。
　それはヴローヴ・アルハンゲリを消し去った際、ただ一つ残された呪いの痕跡。
　<原理血戒|イデアブラッド>と名付けられた、世界を侵す力の結晶。
「―――ヴローヴの原理は育ちきっていない。
　これを口にしても新しい大魔術は編み出せない。
　けれど―――」
　カタチにはならずとも、呪いの熱量にはなる。
　シエルの体に<基|う>められた三つの原理が起動する。
　秘蔵していたヴローヴの原理血戒を新たな炉心として、シエルは魔力を補充する。
　代償は『この後』に来るであろう身体への負荷と、人間性の喪失だ。また一つ、自分は人間より怪物に近くなる。
「セット―――コード、ガルガリン」
　遙かな天上に手を掲げ。
　それでも構わない、とシエルは夜の街に跳躍した。
　落ち行く先は<粉塵|ふんじん>漂うビルの谷間。
　白い吸血鬼が不敵に笑う、無惨な死が待つ最終地獄。
「……ヴローヴの原理が燃え尽きるまで３分弱。
　せめて、それまでは<保|も>たせてみせる―――！」
　代行者は過剰生成される魔力を血のように噴出しながら、最後の戦いに突入した。
　代行者が第七聖典による狙撃を敢行せんとする、数分前。
　事象が歪みはじめた、その中心。
　街が熔ける。街が消える。
　人が築いてきた歴史と技術を否定するように、
　地上をあるがままの姿に戻そうとするように、
　惑星の上に敷かれた粗末な<法則|ぶんめい>を収納する、事象の大渦が口を開けている。
“―――――――――”
　それを、彼女は超然と眺めている。
　愉しくもないし、罪悪感もない。
　彼女の思考を埋めているものは、一つの<生命|いのち>だけだった。
　■■が憎い。■■を殺す。
　■■が好き。■■が欲しい。
　■■が憎い。■■を殺す。
　■■が好き。■■が欲しい。
　■■が憎い。■■を殺す。
　■■が好き。■■が欲しい。
　首を切断された痛みはもう忘れている。
　それより、その直前の出来事が彼女の全身を苦しめている。
　あれは、死にまさる消失だった。
　彼女は今まで足りないものは無いと自覚していた。
　実際に使う気はないがすべてを所有していると思っていた。
　なのに、それは独りよがりの万能だった。
　■■に拒絶されて、彼女はようやく、自分は何一つ持っていないのだと気付かされた。
“―――――――――”
　瞬間、彼女は自分が真祖である事を忘れた。
　痛かったし辛かったし憎かったし悲しかったが、なにより全身を焼いたのは怒りだった。
　だから叫んだ。真祖としての<規定|コード>も星への負担も忘れて叫んだ。
“殺してやる”と。
　彼女はその激情だけで、世界を自分の世界に変えてしまった。
　その在り方は人間と何も変わらない。
　私利私欲で力を行使する彼女は、真祖の枠から外れてしまった。
　それを悲しく思い、涙する自分がいる。
“わたし一人だけなら、こんな心は持たなかったのに”
　そう嘆く自分がいる。
“―――、――――――”
　けれど。後悔する自分はもうどこにもいない。
　彼女の<苦痛|さけび>は怒りから始まったものだが、その波は歓びに変化していた。
　だって嬉しい。だって楽しい。
　自分が壊れた理由は明らかだ。
　八百年前、ロアに拐かされて血を口にした事？
　違う。あれは暴走という無意識であって、そこには何の感情も含まれなかった。
　これは違う。もっと根本から壊れた結果によるもの。
　生まれてはじめての感情。
　喜怒哀楽は色鮮やかなデザートのようだった。
　星から提供されるものではなく、はじめて自分から生まれたものが、彼女はこんなにも愛おしい。
“大好き、大好き、大好き、大好き―――！”
　そう思うだけで<宙|ソラ>は瞬いて見えた。
　自分を生み出した真祖たちに感謝の気持ちを届けられた。
　なのに、新しいものを与えてくれた<原因|にんげん>は、たった一言で彼女をもとの彼女に戻そうとした。
　万能なだけで何も持っていなかった“<道|も><具|の>”に戻れと告げたのだ。
“―――、―――、―――”
　その瞬間、何もかもが反転した。
　世界が裏返るのは当然だった。
　彼女は自分を否定された。
　だから、彼女も目の前のすべてを否定した。
　悲しみは怒りに変わり、好意は憎悪に変わった。
　この通り、生まれた感情は切り捨てた。
　後はこの街に来た目的を果たすだけ。
　そもそも、彼女の目的はロアだった。
　ロアが憎い。ロアを殺す。
　それは彼女が八百年の間に、ひとりで手に入れた感情だ。
　もうそれだけに従って活動すれば、こんなに叫び続ける事はなくなる。
“そう、わたしは―――”
　ロアが憎い。ロアを殺す。
　■■が好き。■■が欲しい。
　　　ロアが憎い。ロアを殺す。
　　　志貴が好き。志貴が欲しい。
　　　　　　志貴が憎い。志貴が欲しい。
　　　　　　志貴がきらい。だいっきらい……！
　思考が乱れる。
　整理が付かない。
　意識すればするほど順番が変わってしまう。
　なので、彼女は考える事はやめる事にした。
　自分の気持ちを考えたり、彼の気持ちを考えたりするから混乱する。
　彼女は原始的に、それ以上に純粋無垢に、<や|・><り|・><た|・><い|・><事|・><だ|・><け|・><を|・><や|・><る|・>獣になった。
“待ってて―――<跡形|アトカタ>も残さないから―――！”
　彼女は蘇生を終え、顔をあげた。
　周囲の情報はすべて読み切っている。
　街の形状、逃げた獲物の居場所、隠れて機を狙っている虫の居場所、すべて手に取るように解っている。
　絶好の行楽日和。
　数秒後の惨劇を思い描き、満を持しての一歩を踏み出す。
　その、寸前。
「ああもう―――ちょっと目が覚めちゃったじゃない」
　邪魔な岩盤を押しのけて彼女は立ち上がった。
　シエルの狙撃を受けて、当然のように反撃し、ここまで撃ち落とされた。
　やりたい事だけをやると決めていたので、狙撃された瞬間に“何故？”という疑問より“むかつく”が実行されたらしい。
　無意識の狙撃に無意識で反撃した。
　彼女が意識を取り戻したのは、狙撃から２秒後、こうして体を起こした今だった。
「それにしても―――」
　怒りに染まっていた心に違う色が混ざってくる。
　彼女は心の底から嘆息して、岩の塔に立つシエルを見上げた。
「せっかく、私と志貴だけの世界にしたのに」
　邪魔者が、混ざっている。
　最高の舞台に忌まわしい害虫が這い出てきたようなものだ。
「ホント―――
ぶっ殺すわよ、シエル」
　彼女は害虫に微笑みを向けて、悠然と歩き始めた。
　あくまで優雅に、その一歩で10メートルの距離を無にしながら。
　向かう先は都市の西南。
　言うまでもなく、その先には事象収納から逃れた、水たまりのようにちっぽけな校舎がある。
　校舎までの距離は１.５キロメートル。
　彼女の歩みなら２分ほどで到達する、どうという事のない遊楽だった。
　―――静かだ。
　ひとりになってから数分が過ぎた。
　俺はナイフを手にして、深呼吸を繰り返している。
　微弱な頭痛と、この後にやってくる結末に備えている。
　……シエル先輩の事は信頼している。
　あの人が守るといってくれたのなら、絶対に守ってくれる。
　けど、それは俺だって同じ気持ちだ。
　先輩が俺を守ると言ってくれたように、俺だって先輩を守りたい。
「……そうだよな。何を弱気になってるんだ、俺は」
　今はわずかでも前を見ないと。
　ここで待機するにしても、やれる事はある筈だ。
　思い立って階段に向かう。
　外で何が起きているのか、校舎の中では知りようがない。
　屋上に出れば街の様子ぐらいは見て取れる筈だ。
「先輩は必ず戻ってくる。
　……オマエとの決着はその後だ、ロア」
　その時、俺は成功率の低い綱渡りをする事になる。
　生き残れる保証はないし、“そんな方法”でいいのかすら自信はない。
　それでも、俺にはその可能性しか残っていない。
“―――その力が、君に有るという事”
　それには何かしらの意味があって、この力を必要とする時が来ると教えてくれた人がいた。
「……ああ、そうだった。なら今がその時だ。
　きっとこれが俺の役割だったんですよ、先生」
　……恐れを呑みこんで覚悟を決める。
　このナイフはその為に。
　俺は今までの時間と、自分を支えてくれた人々に一時の<感謝|さよなら>をして、屋上に通じる扉を開けた。
　屋上に出る。
　街からの喧噪は途絶えている。
　風も止んでおり、世界は完全に無音だ。
　<装|い><飾|み>を奪われ、そのカタチだけになったビルは墓標のように見えた。
　<学|こ><校|こ>から１キロほど離れたオフィス街……中央公園のあるあたりに変化はない。
「………………」
　戦いはまだ始まっていないのか、もう終わってしまったのか。
　夜中、吸血鬼の視力は何倍にも上がっている。
　焦点を<絞|しぼ>れば公園の様子は無理でも、あの付近の様子ぐらいは把握―――
「―――！」
　街を照らす閃光。
　仕掛けたのはシエル先輩からだ。
　長距離からの狙撃。一射目は隙を作るための<頭部撃ち|ヘッドショット>。
　次の二射目で胴体を撃ち抜こうとした瞬間、先輩が陣取っていたビルの屋上で爆発が起きた。
　あれはアルクェイドの反撃だ。
　アイツは先輩が矢をつがえる一秒の間に、一瞬でビルの屋上に移動しやがった……！
「でも相打ちだ、負けてない……！」
　そうして、二人の戦いは白兵戦に移行した。
　先輩はライフルと杭打ち機を最大限に使用し、街を闊歩するアルクェイドを押しとどめている。
　……それは現実時間では１分足らずの、
　けれど俺の体感時間では１時間にも相当する攻防だった。
　先輩は全力で戦っている。
　ヴローヴとの戦いが準備運動にさえ思える肉体酷使は、文字通り死力を尽くしてのものだろう。
　……なのに、止められない。
　シエル先輩が自身の肉体を壊しながら行う猛攻を、アルクェイドは気にも留めずに歩いている。
　血を吐くような、骨を砕くような一秒が続く。
　掃射されるアサルトライフル、同時展開される魔術式、相打ち覚悟の蛇腹剣。
　そのすべてが、
　アイツが、片腕一本を振るうだけで帳消しにされてしまう。
“その失望は間違っている。ここは感動する場面だ。
　今の姫君に腕を振るわせるとは、称賛にあまりある”
「――――――」
　突然の声に思考が止まる。
　周囲には誰もいない。
　簡略化された街では喧噪もノイズもない。
　そもそも、この声が何であるか考えるまでもない。
　俺の脳にのみ走る信号であるのなら、
　それは、ヤツの意識に他ならない。
　問題は、それが今になって“明確な<言|こ><葉|え>”になった事だ。
　……いや、それとも。
　いよいよその時が来た、と捉えるべきか。
　こんなヤツを相手にしている場合じゃない。
　先輩はもう動けない。
　あんな、街のカタチを変える一撃を何度も何度も打ち込まれて、いくら死なないからって、アレじゃ原形さえ留めない……！
“―――素晴らしい。こんな奇跡が、起こりえるのか”
「なにが素晴らしいんだ……！
　いいかげん黙ってろ、おまえに先輩の何が分かる……！」
　混濁した自分自身の妄想に怒鳴りつける。
　先輩がどれほど苦しもうとコイツには関係のない話だ。
　だがヤツは、そんな俺に向けて、真剣な感情を返してきた。
“状況を把握していないのはそちらの方だ。
　あの<宙|ソラ>を見るがいい”
「……そら？」
　俺ではない自分の声に促されて、暗黒の空を見上げる。
「―――なんだ、あれ」
　遥か上空50キロメートル、成層圏に輝く車輪。
　太陽光を受けて燃え盛る<車|ほ><輪|し>の連なりは、断頭台の刃のようだった。
　<焼死|ブレイズ>の火線が白い化身に集中する。
　かするだけで人体を根こそぎ千切り飛ばす7.62mmの弾丸が、吸血鬼の華奢な肢体を舐め尽くす。
　だが一切の効果はない。
　彼女の周囲の空間は歪んでいる。
　彼女の内面に渦巻く質量……魔術世界においてマナと呼ばれるエネルギーの膨大さに、重力さえ歪み始めている。
　弾丸は空間歪曲によって射線を乱される。
　よしんば当たったところで弾かれる。
　何の防御障壁も張っていない肉の体が、7.62mmの銃弾を弾くというこの悪夢……！
“どうなってるんですか、あの体は……！”
　あのヴローヴですら<焼死|ブレイズ>の直撃は避けていた。
　彼は大気中の水分を凍結させる事で弾丸を防ぎ、被弾すまいと避けていた。
　しかしアルクェイドは避ける事すらしない。
　考えたくもないが、あるいは―――攻撃を受けている、という意識すらないのかもしれない。
　イデアブラッドによる魔力制御で数秘紋の詠唱を極限短縮し、電荷を発現させる。
　本来なら“十に至る独唱”を必要とする魔術を、<息|ブ><継|レ><ぎ|ス>一つで成立させ、連続使用する。
　だが、絶縁体を破壊する200万ボルトの雷霆すら効果はない。
　足止めにすらならず、街は刻一刻と侵食されていく。
　アルクェイドの本来の特性なのか、
　それとも単に漏れているだけなのか。
　白い化身が歩を進める度に、緑の<蔦|つた>が街を覆っていく。
　更地となった地面を覆い、乱立する<墓標|ビルディング>の表層を呑み込み、原始の装丁で都市だったものを侵していく。
「づ、あ…………！」
　距離にして50メートル離れたシエルの体がはじけ飛ぶ。
　それは<魔|マ><力|ナ>を圧縮し、鈍器として叩きつけただけの攻撃だった。
　恐ろしいのはそれが不可視であり、見切りようのない自然現象だという事だ。
「こ、の……！」
　……あまりにも立場が、権力が違いすぎる。
　シエルは致命傷を受けるか受けないかの限界まで距離を測り、立ち止まる事なく<引き金|トリガー>を引く。
　対して、アルクェイドは何の工夫も注意もない。
　彼女はただシエルに“敵意”を向けるだけでいい。
　それだけで街中が彼女に呼応し、大気は爪となってシエルを背中から切り裂き、緑の蔦は岩の硬度となって打ちのめす。
「いいのシエル？
　もっと頑張らないと、すぐにゴールに着いちゃうわよ？」
　笑いながら白い化身は街を闊歩する。
　その足取りは軽く、嬉しくてたまらないと全身で謳っている。
　一方、シエルの肉体は限界を迎えていた。
　魔力はまだ湧き上がるものの、肉体が悲鳴を上げている。
　両脚の骨、肋骨、１トンの銃器を握る左腕は骨折と復元を秒単位で繰り返している。
　不死の<法則|のろい>が体を復元するが、その復元より早く骨が砕かれ、筋肉が千切れ、内臓が破裂する。
　見えざる衝撃と、それを躱す為の回避運動が、彼女の内部を破壊し続ける。
　……交戦開始から、やっと１分。
　学校までの距離は既に600メートルもない。
　<焼死|ブレイズ>と魔術では効果がない。
　認めがたい現実……信頼していた武器の決定力不足、安全圏からの射撃の放棄……を一息で受け入れ、シエルは武装を銃から剣に切り替えた。
　第三死因、<出血死|ブレイド>。
　この蛇腹剣はアルクェイドと同じ、幻想種の骨から作りあげたモノ。銃弾のように弾かれる可能性は低く、シエルの魔力を乗せた一太刀なら戦車すら両断する。
　問題はその射程だ。
　刃を分解し、ワイヤーを最大限に伸ばしても有効範囲は30メートル。果たして、それだけの間合いに近づけるのか。
　白い化身の口元が歪む。
　シエルの意図を察して、できるものなら、と笑っている。
　その挑発を<発火剤|スターター>にして、シエルは跳んだ。
　一足10メートルの高速歩法。
　一息のうちにアルクェイドとの距離を詰め、大剣を一閃する。
「っ……！」
　効かない。伸びきった蛇腹剣はアルクェイドの周囲の歪みを突破し、刃をあの柔肌に叩きつけノコギリを引くように引き裂いた。
　だが一切、損傷を与えていない。
　あの歪みで剣の重さと魔力が軽減されている。
　有効打を与えるには更に間合いを詰めるしかないが―――
「あ、ぐ……………っっっっ！」
　アルクェイドとの距離は10メートル。
　これ以上は近づけない。
　近づけば近づくほど不可視の爪の威力と密度は上がっていく。
　今のアルクェイドは強大なエネルギーを小さな<器|からだ>に詰めた<魔|マ><力|ナ>の塊だ。
　形而上の概念とはいえ、世界を<象|かたど>るほどの<魔|マ><力|ナ>があの体に渦巻いている。巨大質量を持ちながら極小の点となった星のようなものだ。<膨張現象|インフレーション>を起こさない事が不思議なくらいの。
　アルクェイドに近づくという事は星の深淵に近づくという事。
　その重圧は人間に耐えられるものではない。
「っ、それでも―――！」
「近づくしかない、でしょう？
　ほら。早く私を止めてみせてよ、シエル！」
　シエルは全身を巡る魔力密度を倍化させ、生きた鉄となってアルクェイドの間合いに突貫する。
　息つく間のないシエルの剣戟と、
　これを打ち返すアルクェイドの自動迎撃。
　白熱する競合は大気を燃やし、青い火花を散らしていく。
　素粒子にまで分解される<架|エ><空|ー><要|テ><素|ル>。
　もはや電離の絶界と化した領域で、シエルは残された距離を確認する。
　校舎まで、あと400メートル。
　ここまでの時間経過は２分弱。
　先ほどの１分と比べれば、アルクェイドの歩行速度が遅くなっている。
　つまり、自分が圧している……！
「―――なんて思った？
　鉄みたいに頑丈でつまらない女だと思ったけど。あんがい可愛いところがあるのね、シエル」
　アルクェイドの歩みが止まる。
　その片腕が空に向けて掲げられる。
　危険を察してシエルは後方に跳んだ。
　間合いを詰めて更なる一撃を放つ―――という状況ではない。
　今まで“危害を加える動作”すらしなかった白い化身。
　それが手を挙げた瞬間、シエルは相手の意図を看破した。
　いや。看破して、しまったのだ。
“残り400メートルなんて関係ない……！
　アルクェイドにとって、<こ|・><こ|・><で|・><も|・><う|・><十|・><分|・><す|・><ぎ|・><る|・>……！”
　腰を落とし、伸ばしていた蛇腹剣を結合させ、大剣に戻す。
　シエルの迎撃準備が終わるのを待って、アルクェイドはその腕を振り下ろした。
「く、ぅアぁぁアアアアアアア！！！！！！」
　街を削り、呑み込む衝撃波。
　地球の自転を部分的にたわませ、解き放つ星の息吹。
　これをシエルは真っ正面から切りつけ、凌ぎきった。
「は―――ア、アア、あ―――」
　シエルの全身が悲鳴をあげる。
　とっくの昔に悲鳴をあげていたが、あんなものは所詮、痛みを訴える程度のものだ。
　これは違う。骨子が警告を発している。
“今のはまずい。もう受けるな。次は壊れる。<シ|わ><エ|た><ル|し>という屋台骨が崩壊する。そうなればもう立ち上がれない”
「もう……黙っててよ、わかって、る、から……！」
　シエルは唇を噛んで弱音を呑み込み、次弾に備えた。
　躱す事はできる。あんな大振りの攻撃になんて当たる筈がない。でもここからは動けない。
　なぜなら、背後には<志|・><貴|・><の|・><待|・><つ|・><学|・><校|・><が|・><あ|・><る|・>。
　あの衝撃波は街を削り、学校を一息で呑み込むものだ。
　だから動けない。シエルはもう、ここであの星の息吹を防ぎ続ける事しか許されない……！
「すごい―――すごいすごい、シエルすごい！
　ねえどうなってるのシエル!?　これでも千切れないなんて、どこまで耐えられるのシエル！」
　絶え間なく放たれる星の息吹。
　一撃目を受けたのは力任せの<賭け事|ギャンブル>だった。
　二撃目を受けたのは思い上がった愚行だった。
　ついで三撃、四撃目を受けたのは、二撃目が思い上がりでない証明だった。
「―――ハ、
らぁ……！」
　五撃目を受けて、シエルは確実にコツを掴んだ。
　受け流せる。アルクェイドの攻撃は強大ではあるが、力の流れさえ見切れば流しやすいシンプルなものだった。
　<騙し|フェイク>や駆け引きのない、まっすぐな指向性。要は人が良いのである。
　シエルは一撃目の段階でそれを実感し、二撃目の時、自分の剣さばきを信じ、力ではなく技で抵抗した。
　強大な敵を相手にする際、知性ではなく骨でそう考えろ、と教えてくれた、尊敬に値する師がいたからだ。
　その結果、アルクェイドの“本気”をここまで防ぎきった。
　―――３分経過。
　シエルの戦いは、その時点で終了した。
「―――つまらない。飽きた」
　アルクェイドの腕が下げられる。
　この繰り返しでもアルクェイドに<分|ぶ>があるが、彼女はそこまで我慢強くはなかった。
　今だって一秒でも早くシエルの体を裂いて、志貴を殺したくて仕方がないのだ。
　遊ぶにしても、もっと刺激的な遊びに切り替えなくては。
「―――そうですか。では僭越ながら、次はこちらが趣向を凝らしましょう。……まあ、正直。貴女の幕引きなんて、したくもありませんでしたが」
　攻守が逆転する。
　アルクェイドとて歴戦の吸血鬼殺しだ。
　今のシエルの言葉が嘘偽りでなく、自分を殺す手段があっての事と読み取った。
「それは楽しみね。私の息吹を受けたご褒美に見てあげる。
　で、そんなご大層な武器はどこにあるの？　もしかしてその杭打ち機、戦車にでも変形するの？」
「まさか。武器なんて必要ありません。貴女を殺すのは貴女自身ですよ、アルクェイド」
「……なんですって？」
「常に相手を上回るのは結構ですが、後出しなのが貴女の<短所|じゃくてん>です。それと目も悪いですね。地上は把握できても<宙|ソラ>までは把握できない」
　アルクェイドが空を仰ぐ。
　シエルの手が<宙|ソラ>を掴む。
「この通り、武器はとっくに準備済みです。
　展開に３分もかかるのが欠点ですが、控え目に言って、貴女が馬鹿で助かりました」
　天に輝く光は星ではない。
　あれは魔術によって作られた反射鏡。
　成層圏に展開し、太陽の光を集束して燃え盛る天使の車輪。
　代行者シエルが己が剣の師であった祖を倒し、編み出した大魔術。即ち、
「塵に還って反省しなさい。
　<原理血戒|イデアブラッド>25番―――ベ・ゼ。
　<罪頸|ざいけい>を断て、カルヴァリア・ガルガリン……！！！！」
　現れる光の幕。
　瞬きより速く落下した断頭台は、アルクェイドに回避を許さなかった。
　瞬時に身を引いて回避行動に入ったものの、断頭台の射程はこの街全てに及び、その着弾時間は無に等しい。
　いかに真祖の姫であろうと、地上で活動する以上、この断頭台からは逃れられない。
「ァ―――ア、あああ、ア―――！」
　熱線の壁が白い化身の体を圧し潰す。
　長さ50キロメートル、幅10キロメートルに及ぶ光の刃。
　それは質量を伴って、容赦なくアルクェイドを地べたに這わせ、街を地盤ごと切り裂いた。
「よ、くも、こん、な……！」
　だが驚愕し、しかして星の威信を知るがいい。
　人智における最高峰の大魔術を受け、なお月の姫は倒れない。
　シエルが自身を上回る最高火力を放つ事は予測されていた。彼女はそれを踏まえて星から力を汲み上げたのだ。
　大魔術カルヴァリア。
　驚天動地の切り札だが、これではまだ足りない。<人|・><間|・>の力では、彼女を殺す事は不可能だ。
「でも、おあいにく、さま……！
　この程度、で、私が、殺せるわけ、ないでしょう……！」
　アルクェイドの腕が地面を支える。
　その体が、光の壁を押し上げようと<隆起|りゅうき>する。
「ええ。人間では神の如きモノは倒せない。
　ですから、トドメを刺すのは貴女の仕事です」
「―――え？」
　大地が浮上する。
　光の壁によって切断された街が、一方を上空に、一方を地底に沈下させていく。
　その断層のカタチは、開かれた獣の<顎|あご>のようだった。
「そ―――ま、さか。シエル、貴女」
「言ったでしょう。貴女は、貴女自身の重さで殺すと。
　好きに暴れたかったのでしょうが、この街を自分と同じ<階|モ><梯|ノ>に変えた時は笑ってしまいました。馬鹿すぎて」
「―――！」
「この質量ならもう逃げようがない。
　貴女を満遍なく、その器ごと破壊してあげましょう。
　再生に何年かかるか、それともこれで消滅するのか。これまでの自分の行いに<縋|すが>るのですね」
　大きく開かれる……いや、上昇する星の<上顎|うわあご>。
　<そ|・><れ|・>なら壊れる。再生や蘇生どころの話ではない。殺される前に、彼女を彼女たらしめるモノが壊される。
　それは彼女にとって未知の経験だ。
　幸か不幸か既に『死』は経験している。
　無に極小の<宇宙|ひかり>が生まれるほどの<確率|きせき>で遭遇した殺人鬼が、彼女にそれを教えてくれた。
　けれどこの形式での消滅は知らない。未知のものは恐ろしい。いや、違う。正確には知っている。そうなればどうなるか、彼女は無意識で恐れている。
「や、め―――それ、こわい。きっといたくて、
　こわい、から―――おねが、やめて、シエ―――」
　必死に光の壁を押しのけようともがくアルクェイド。
　だがもう間に合わない。
　彼女自身が変質させてしまった“原初の地層”は、彼女を以てしても耐えきれない質量になって持ち上げられ、
「―――見苦しい。虫のように潰れなさい」
　シエルの手によって、天蓋となって叩きつけられた。
「ハァ……ハァ……ハ―――ア」
　全身で呼吸をしながら、シエルは倒れようとする自身の体を押しとどめた。
　ここで座りこんでしまったら立ち上がれない。本当にすべてを使いきったからだ。
　体力、精神力、魔力は言うに及ばず、秘匿していたヴローヴの原理血戒も、３年かけて溜め込んだ<断頭台|カルヴァリア>の為の血液も、この戦いで出し尽くした。
　シエルに余力はない。
　通常であればここで倒れてしまいたいが、今はまだ、あと少しだけ走らなければならない理由があった。
「学校―――学校に、急がない、と―――」
　休む事はできない。
　けれど１分、１分だけでも立ち止まらないと走る事さえできない自分を、シエルは苦渋の<表|か><情|お>で受け入れる。
「はぁ……はぁ……は……」
　心臓は悲鳴をあげているが、肺が膨張し、収縮するごとに全身が歓喜する。ミリ単位で筋肉繊維が繋がっていき、血液に酸素が送りこまれる。
　肩を激しく上下させながら、シエルは自分が生き残っている事をようやく実感した。
「はは……やった、やってやりました、こんちくしょう……！」
　断頭台が落ち、何事もなかったかのように“元の形”に戻った街の上で、シエルは自分の無謀さを笑い飛ばす。
　この王手まで辿り着いた。
　誰も為し得なかった、『真祖の王族の撃退』に成功した。
　疲れきっていた胸に充足感が湧き上がる。
　比較的平和主義者なシエルであっても、この<戦闘記録|バトルレコード>はとんでもない偉業だった。
　もし目の前に志貴がいれば、喜びから抱きついてしまうぐらいに。
「後は、街が元通りになれば―――」
　世界は内側に<裏返|うらがえ>ろうとしたが、これで正しく外側に切り返す。
　事象収納の原因だったアルクェイドが消えたのだから、すぐに元に戻る筈だ。
　……だが、彼女はまだ気付かない。
　街中に出現していた白亜の城の断片。それが粒子化し、主に還っていくように大地に収束している事に。
「――――――」
　地響きが聞こえた気がした。
　硬い硬い、決して外してはいけない錠が壊れる音がした。
　大地が震動している。大気が鳴動している。
　今まで観測された事のない魔力濃度。
　取りこんだ事象の熱量が極点にまで凝縮していく。
　それは、言ってみれば原理の種だった。
　10のマイナス35乗メートルの極点に圧縮された、この領域の全情報。
　星の内海、概念次元にあるかぎりは何の異常も呼び起こさない天体の卵。
　だが、それが物質として出現してしまった時、膨大なエネルギーは極点では抑えきれなくなり、急速に膨張する。
　天文学において<膨張現象|インフレーション>と呼ばれる、
　宇宙の始まりを示す現象。
　極小ではあるがそれに類似したモノが、この領域で起きようとしている―――！
「“aa―――aaa―――aaaaa”」
「そん、な―――」
　太陽が落ちたようだ。
　それは硬く、柔らかく、冷たく、温かな光だった。
　物質化した神話の<容器|すがた>。
　理性を壊され、狂気さえ壊された彼女が立ち返った原初の一。
「“aa―――aaア―――アha、aaaaaaaaa―――”」
　エーテルが膨張し、収束していく。
　顕現の儀式が終わる。
　指向性のないエネルギーが、一つのイメージの下、人間にも理解できる現象に変わっていく。
「―――信じられない。
　さっきまでのは、まだ正常だった、なんて」
　太陽のままならまだ良かったのに、とシエルは思った。
　人間に理解できる最上級の存在とは、神と呼ばれるものに他ならず―――
　顕れた化身は、もう生命と呼べない“何か”だった。
「あれだけ見境をなくしていて、まだ暴走していなかったんですか、貴女は……!?」
　その威容を前にして、代行者は為す術なく立ち<竦|すく>んでいる。
　戦意など湧きようがない。
　体力も尽き、戦術も使い果たし、最後の武器である闘志すら吹き飛ばされた。
　その聡明さ故に、彼女は、この現象を正しく理解してしまったのだから。
「―――、あ」
　危険を察したが、手足は凍りついたように動かない。
　それがこの現象の持つ魔眼―――その視界に入った時点で知性あるものは喪心する―――である事を、シエルは誰に教えられる事なく理解した。
　そも、教会とは、宗教とは、<こ|・><の|・><よ|・><う|・><な|・><も|・><の|・>に隷属する為に生まれた知的活動の<行き止まり|ゴ　ー　ル>。
　その教えを力にしてきた彼女に、抗える道理はない。
「だめ―――はな、れ、ない、と―――」
　シエルは思考放棄の喪心に陥りつつも、歯を食いしばって、ヒトとしての意識を保とうと努力した。
　だが、もう何もかも手遅れだ。
“動くもの”は、ソレに見つめられるだけで精神を固定され、肉体を束縛され、生命活動を掌握される。
　そもそも、その小さな命はとっくに、
「っ、ァ―――！」
“彼女”の手に、囚われていたのだから。
　肉を焼く高温に包まれ、シエルの口から苦痛がもれる。
「ァ―――ア、あぐ、っ………！」
　苦痛は高温から重圧に。
　光は質量を持つ柱と化してシエルを拘束し、圧迫し、握りしめる。
「“つかまえた。
　　さわってみると柔らかいのね、ニンゲンって”」
「アル……クェイド……！」
　必死にもがき、抵抗しても拘束は解けない。一ミリも押し返せない。
　シエルを閉じこめたまま光の檻は上昇していく。
　街灯を越え、ビルを越え、中空に停止する。
　……その、完全に囚われた状態で、外界を見ずともシエルは状況を把握した。
　地表は収納され、空は完全に、赤い天蓋で閉ざされた。
　地中から立ち上がる光の巨人。
　ソレは真祖という<規|カ><格|ラ>を見失い、<顕現|そんざい>方法が暴走しただけの力の具現であり―――
「“ほら―――だから言ったでしょう、シエル？
　　やめないと、怖いコトになっちゃうって”」
　唯一彼女の領域ではなかった、<宙|ソラ>を覆う声がする。
　脱出しようともがいていた体が、恐怖と絶望で停止する。
　……当然だ。人は神に決して敵わない。
　それは皮肉にもシエル自身が口にした、絶対的な事実だった。
　……こんな光景を目にする時が来るとは思わなかった。
　アレも<落盤|らくばん>と言っていいのだろうか。
　街がまるごと浮き上がり、巨大な重しとなって地上に落ちようとしている。
　浮上した街の先端にはシエル先輩がいる。
　その足元。距離にして、おそらく100メートル近い高さを隔てた地上には、倒れて動けないアルクェイドの姿があった。
「落ちる……！」
「………終わった、のか？」
　街は静寂に包まれた。
　先ほどまでの閃光は見る影もなく、銃声も、ビルの崩れる音も途絶えた。
「間違いない。シエル先輩の勝ちだ……！」
　スポーツ観戦じゃあるまいし、事の勝ち負けに一喜一憂している場合じゃないのは承知している。
　それでも先輩……シエルが無事であってくれて嬉しい。
　彼女の奮戦が酬われた事が、我がことのように誇らしい。
　だが。その喜びもすぐに終わってしまった。
「ぁ……く、ぅ……！」
　足がふらついて倒れそうになる。
　理由のない胸焼けに襲われて、吐きそうになった。
　<動悸|どうき>する心臓を左手で押さえつける。
　これは―――ロアだ。
　さっきのように思考するのではなく、俺の中にいるロアが吐き気を<催|もよお>している。
　それは殺意と錯覚するほどの、凄まじい嫌悪感だった。
「っ……！」
　頭痛が再開する。
　ロアは<憤|いきどお>っている。
　なんという間違いだ、とシエル先輩をなじりながら、
　なんという無様さだ、とアルクェイドを憎んでいる。
「なんだ、おまえ―――何が、そんなに―――」
　意識が飛びそうだ。
　俺とロア。人間と吸血鬼。その二つが、同時に寒気を感じている。
　世界が揺れる。
　ロアの<苦痛|なげき>がより強くなっていく。
　―――駄目だ、とても立っていられない。
　<意識|なかみ>も<世|そ><界|と>もまともに見られず、屋上のフェンスにしがみつく。
「え―――？」
　それは。先ほど見た天変地異を上回る、現実から大きくかけ離れた、幻想の具現だった。
「アル―――クェイド」
　分かりたくはないのに、分かる。
　あれはただの光。
　生命とは呼べない、ただの自然現象だ。
　なのに脳ははっきりと認識している。
　あれは<ア|・><ル|・><ク|・><ェ|・><イ|・><ド|・>だと。
　経緯も理屈も分からないが、あの光はアルクェイドそのものだ。
　だがどうして？
　一体なにがどうなって、あんなコトになっている……!?
『<膨張現象|インフレーション>。
　理論的には“そうなる”と予見はしていた。
　我々にとって利するものは何もない、
　醜悪極まる結末だがね。
　デーモン・コアの実験は知っているか？
　ああ、知らないのなら結構。期待してもいなかったよ』
「――――――」
　耳元で囁かれる、落ち着き払った男の声。
　それは俺の内側―――肉体から生じる、俺ではない他人の声だ。
「おまえ―――！」
　頭蓋に響く他人の声。
　ロア―――さっきより饒舌さを増して、堂々と意識を流してきやがった……！
『そう昂ぶるな。
　私も上書きする前に目覚めた事に辟易している。
　力の供給源である姫君からの過剰投与だ。
　死人ですら飛び起きるとも。
　おまえを動かしている動力の横領もしていない。
　不快感は少ない筈だ』
「…………」
　確かに、<一言|ワンフレーズ>ごとに軽い痺れがあるだけで、頭蓋を割りたくなるほどの痛みはない。
　頭の中で他人の声が響くというのは不快……では、確かにない。むしろ妙な連帯感というか、安心感があった。
　どうかしている。全ての元凶であるこの男に、仲間意識を持つだなんて……！
『正常な反応だ。
　今の私はこの器を継承する準備ができておらず、
　また、遠野志貴と融合する選択肢を除外した。
　私はおまえの選択に対して、
　別視点から意見・忠告・解説・批評をもたらす補助人格。
　そうだな、カー・ナビゲーションのようなものだ。
　おまえの根底にある合理性は、有益な機能を嫌悪する事はない』
「な―――」
　なに言ってやがる、と返したい気持ちを抑える。
　アルクェイドと思われる光のドーム。
　自らを“遠野志貴にとって有益”と語るロア。
　光に飲まれて視認する事ができないシエル先輩。
　あまりにも理解不能な状況だが、だからこそ、使えるものは何であれ使ってやる―――！
「……分かるのか、おまえ。アレがなんなのか」
『あれは<光|・><体|・>だよ』
「光体……？」
『真祖の王族のみが持つ励起状態。
　真祖がなんらかの手段で肉体を完全に破壊されてしまった時、その反作用として起きるものだ』
『エレイシアが講釈していただろう。
　アルクェイド・ブリュンスタッドは“小さく重いもの”だ。
　アレは活動する際、その出力を
“常に相手より一段階上のものに制限する”が、
　それは万能の表れではない。ただの枷だ』
『彼女から肉体という制限がなくなり、
　かつ、その精神活動が衰えていない場合、
　力の制御はされなくなる。
　肉体に秘められていた魔力は拡散し、
　地表から引き出すエネルギーに制限はかけられなくなる』
『それがインフレーション―――離拡光体現象。
　本来は星の内部に留まっている、
　長く天体を運営する為の“魂”を地表に漏らす、
　あってはならないシステム障害。
　そうだな。分かりやすく言えば、自然による
　消費文明への自浄作用……いや、報復機構と思えばいい」
「――――――つまり、その」
『謝罪する。おまえの知性レベルを考慮していなかった。
　ようは暴走して魔力を垂れ流している、
　手の付けられないクソッタレな状態、という事だ』
「そうかよ、悪かったな！
　そんなの見れば分かるけどな！」
　そうだ。問題はアルクェイドだけじゃない。
　あの光の中で、シエル先輩はどうなっている―――！？
『まっとうな生き物であれば生きてはいまい。
　だがあの女は私がいるかぎり不滅だ。
　今も死にながら生きている状況だと考察できる』
「――――――」
　理解する前に両脚が動いていた。
　弾けるように屋上から走り出す。
　講釈を聞くのは後でいい。
　アレがどんなものなのか分からず、
　ただ見ているだけで全身が震えているとしても、
　ここで立ち惚けている場合じゃない……！
『あの状態の姫君に近づくのか。
　では、同じ思考回路を使うものとして
　忠告はしておこう。
　―――もしや、と思ってはいたが。
　おまえ、自殺が趣味だったのか？』
「余計なお世話だ、16回も死んでるヤツは黙ってろ！」
　姿のない隣人に言い返して、屋上から飛び降りる。
　この高さから着地しても体には何の支障もない。
　……おぞましい。
　まっとうな生命から外れてしまった気持ちの悪さに吐き気がする。
　だが、今はこの嫌悪感も受け入れる。
　頭の隅にいる<他|ロ><人|ア>も、吸血鬼に成ろうとしている<身体|じぶん>も、死を視る<己|こ>の異常も、すべて有効活用する。
　今から俺は、そうしなければどうにもならないモノから、シエル先輩を取り返すんだから―――！
　学校の敷地から出た時点で、世界はもう俺の知っているものではなかった。
　上空には強い風のうねり。
　嵐の予兆を思わせる気圧の乱れ。
　肌に触れる大気は瑞々しく、まるで熱帯夜にいるようだ。
　その異常についての考察を止めて、光の中心を目指す。
　未知のものは怖ろしい。せめてアレがなんであるかの予測ぐらいは立てたいが、ひりひりと焦げる肌が、そんな時間はない事を感じ取っている。
『このまま無策で突撃する気とは。凄いな』
「無策で悪いか！　何をするにしろ、まずは近寄らないと話にならないだろう！？」
『最短距離で直進するのなら、
　光体まで目測で800メートル。
　今のおまえなら１分とかからない距離だが、
　既に１分は走っている事について、何か質問は？』
「な―――」
　ロアに指摘されて状況を把握する。
　実際の街の広さと、今の街の広さは違っている……!?
『光体化の影響だ。事象収納によってこの街は
　不確定の世界になりつつある。
　世界の中心にして最奥である彼女に近寄る事は困難だ。
　世界そのものが彼女を尊重し、
　彼方に遠ざけようとしているのだろう』
「ああもう、言い方！」
『ベルトコンベアーだ』
　くそ、実に分かりやすい！
　つまり、何もしなくてもアルクェイドとシエル先輩は離れていく、という事だ。
　街の形、大きさは変わらないのに“伸びていく”という理屈は分からないが、ロアの説明は的を射ていた。
　あの光に近づきたければ、街が拡がるより早い速度で近寄らなければならない、という事で―――
つあ！？
「っぶな……！
　なんだ今の、アイツの爪か！？　狙われた！？」
『いや。ここはまだ光体の視界の外だ。
　表層意識ですらない。
　我々は彼女に意識されてもいない』
「意識されていない―――」
　アルクェイドには見つかっていない、という事か。
　それは助かるが、同時に怖ろしい事実でもある。
　以前の俺であれば躱す事もできず体を二つに分けられていた風圧は、この世界においては自然現象にすぎないという事だ。
「明確な攻撃の意図がなくても―――」
　ただ踏み入るだけで、生命の危機に陥る。
　激流に巻きこまれ、木っ端微塵になる憐れな人形のように。
『嵐に近づくとはそういう事だ。
　おまえの目に光体は“脅威”として映っているのだろう？
　それは正しい。
　光体に近寄れば近寄るほど危険は増していく。
　並の死徒であればここが限界だと忠告しておく』
『ここはまだ彼女の意識の外、いわば圏外だ。
　領域侵犯には至っていない。
　だが―――これ以上接近するという事は』
　本格的に対処される、という事か。
　行くか、戻るか。
　ここが最後の分岐点だ、とロアは告げている。
　俺は―――
「邪魔すんな、黙ってろ……！」
　死地である事は承知している。
　だがこの距離は先輩が命がけで守ってくれたものだ。
　そこから逃げ出す事はできない。
『そうか。では、じき彼女の圏内に入る。
　意識を強く保つ事だ。
　アレがなぜ我々には光にしか見えないのか。
　その理由があと100メートルほどで明らかになる』
「じゃあどうしろって言うんだ、いまさら戻れって！？」
　この先に進めばアルクェイドと戦う事になる。
　公園での戦いは、ただの感情のぶつかりあいだった。
　ここからは違う。
　本気の―――いや、本気以上の、アルクェイドだったものとの戦いだ。勝ち目のあるなしで言えば、始めから勝ちは存在しないだろう。
『確かに戻るのは最適解の一つだ。
　あの校舎は私の城でもあった。
　姫君の事象収納にある程度は耐えるだろう。
　しかし、それも絶対ではない。
　現状、我々に逃げ場は存在しない。
　エレイシアも含めて』
「……穴熊は決められないってコトか……？」
『勝利条件を考えておけ、と言っている。
　私の勝利はこの体が生き延びる事であり、
　おまえの勝利はエレイシアの奪還であり、
　エレイシアの条件は―――』
　ロアの声が一瞬、濁る。
　何であろうと淡々と説明していたロアは、
『エレイシアの条件は
　変わっている可能性があったな。
　行くも窮地、退くも窮地である事は変わらない。
　命を懸けるのであれば、
　漫然と懸けるな、という事だ』
「――――――」
　熱くなっていた思考が冷静になる。
　……まったくもってその通りだ。
　この先が俺の手には負えない戦場なら、何の為に戦うのか、何をすれば遠野志貴にとっての勝利なのか、つねに考えなければならない。
『現状を共有できて何よりだ。じき彼女の圏内に入る。
　意識を強く保つ事だ。
　アレがなぜ我々には光にしか見えないのか。
　その理由があと100メートルほどで明らかになる』
　ロアの忠告を胸に刻む。
　気にくわない事この上ないが、ロアの解説は頼りになる。
　咳き込むような濃密な大気。
　拡がる街。近づくものに降りそそぐ気流の爪。
　事態はもう人間の理解の外にある。
　俺ひとりではとっくにパニックに陥っていただろう。
　道路だった地面を、いっそう強く蹴る。
　時速50キロを超える疾走。
　俺たちはまとわりつく大気の壁を突破するように、
　<そ|・><の|・><間|・><合|・><い|・>に踏み込んだ。
「――――――」
　絶句する。
　動かさなければならない手足が、前進を拒否するように緩慢になる。
　それを当然のように受け入れる自分がいる。
　空は赤く、わずかな隙間もなく赤く。
　表面をはぎ取られた都市は墓標のように沈黙し。
　そのただ中に、常識を蹂躙する巨影が君臨している。
　なんだアレは。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　知性が理解を拒む。
　なんだアレは。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　恐怖が思考を拒む。
　なんだアレは。
　　　　　　　　　　　　　　　<記憶|おもいで>が認証を拒んでいる。
　なぜあんなモノが、人間の街に顕れている―――？
『宗教的な認識操作だよ。
　遠くから拝礼する者には『怖ろしい、理解できないもの』
　という印象を与え、
　近くまで拝礼する者には『美しい、理解出来るもの』
　という印象を与える。
　神は足元に跪く者にのみ、真実の一端を見せるものだ』
　ロアの言葉が思考の表面をかすめていく。
　アレが―――アルクェイド？
　異様なんてものじゃない。
　頭部と思わしき部位は、この街で一番の高層ビルであるハイアットタワーより高い。
　あのビルは100メートルという触れ込みだった。
　じゃあ、あれは100メートル以上の巨人という事か―――？
『そうだ。あの光の中心に彼女の意識はあるのだろう。
　肉体という壁がない為、その有り余る魔力量のまま
“彼女が思い描く自身のイメージ”が投影・拡散されている。
　あれは既に、おまえの知る
　アルクェイド・ブリュンスタッドとは別のものだ』
　―――それは、具現化した悪夢だった。
　形骸化した都市において、生きているのは俺たちだけ。
　人命を失った人間の都市。
　空虚さが蔓延するだけの死都には生命力というものがまるでない。
　ビルを覆う蔓すら色を失っている。
　あの状態のアルクェイドがどれほど“間違っているのか”、世界そのものが語っている。
「―――、―――」
　重圧に足が止まりそうになる。
　多くの生命を排除しておきながら、たった一つの鼓動が都市を覆っている。
　この領域すべてがアルクェイドという吸血鬼の意思で塗り固められた、生き物の体内じみた息苦しさ。
　否。じみた、ではない。実際にここは巨人の庭だ。
　幼年期に読んだ童話を思い出す。
　巨人の庭園において、迷い込んだ人間は例外なく無力であり。
　見つかったが最後、鼠のように潰されるだけなのだと。
「―――いや」
　絶望に飲まれないよう五感を研ぎ澄ます。
　絞りに絞った意識と視覚が、世界の真実を証明する。
　……ああ。ここがどれほど超常の世界だろうと、線だけは変わらない。
　たとえあの巨人に“死”が無いとしても、この世界にはまだ“死”の可能性が残されている。
　皮肉な話だ。この線に鼓舞される時が来るなんて。
　そして―――
　あの巨人に立ち向かう理由。
　この“表層意識”とやらに入るまでは見えなかった、
　最大の目的を直視する。
　捕まっている。先輩はあの巨人に捕まっている。
　あの圧倒的な力で、先輩は今まさに、死と再生を繰り返されていた。
　カチン、と脳の奥で音がした。
　きっと安全装置の外れた音だ。
　止まりかけていた手足に血液を流し込む。
　怯えきっていた心臓を力尽くでブン回す。
『左右から来るぞ』
　その奮起を削ぐロアの進言。
　同時に―――散弾のような大気のうねりが、無造作にビル街に吹きすさんだ。
「こ、の―――！」
　吸血鬼化した思考が、肉体が、触れれば切断される幾重もの<風|つ><圧|め>を間一髪で回避する。
　首はついてる。両脚も両手もなんとか切断を免れた。
　……ロアの進言のおかげで、間一髪で助かった。
『５秒に一度の割合だな。
　考えなしに地面を走るな。岩の陰に身を隠せ』
　そうしたいのは山々だが、それでは先輩に届かない。
　目測であの巨人まで300メートル。
　実際に近寄る為の距離はその十倍。
　一歩踏み出す度に吹きすさぶ大気の爪を、それだけの距離、やり過ごしながら接近する……？
『なるほど。不可能だと自覚はしているかね？』
「――――――」
　冷静な指摘に意識が削がれる。
　だが。
　見上げる遥か先には、恐れを上書きする光景がある。
　１秒すら、立ち止まるつもりはない。
「―――は」
　大きく息を吸う。
　こうしている今も先輩は殺されている。
　殺されるだけの先輩と、殺されるかもしれない自分。
　どちらが行動するべきかは明白だ。
　たとえ相手が天を衝く程の相手だろうと、俺の女に手を出した報いをくれてやる―――！
『徹底抗戦か。理解に苦しむ。
　せめて建物の上を使え。地上ルートは死に筋だ』
「ビルの上を跳んでいけって言うのか？
　それこそアイツの目に留まる」
『無論、正面は避け、迂回するべきだ。
　移動距離は増すが、それが唯一可能性のあるルートだ』
　もっともな意見に舌打ちをする。
“地上は死に筋”という表現は気になるが、あの巨人と正面からやり合うのは馬鹿げている。
「けどビルの屋上までどうやって。ビルに見えるだけで、入り口もなければ階段もないんだぞ？」
『まだ人間の常識が抜けていない。
　両脚に血を回せ。千尋の谷を跳ぶ程度のイメージができなければ、光体には近づけない』
「自力で跳べってのか？」
『おまえでは高低差20メートルの跳躍が限度だろう。
　小型のビルから大型のビルに乗り継げ』
「いちいち的確だな、おい！」
　確かに今の身体機能なら不可能じゃない。
　ビルの屋上から屋上に跳んで渡るのは怖ろしいが、危険なのは地上も上空も大差はなかった。
「――――――」
　まずはあのビルの屋上まで駆け上がろう。
　いつかのアルクェイドの見よう見まね―――
『公正を期して進言しておく』
「なんだよ！？　出鼻をくじくの好きだな、おまえ！？」
『吸血種として活動するほどに、
　遠野志貴の肉体は変化していく。
　仮に私の魂を殺せたとしても、
　変化しきった体は人間には戻れない』
「――――――」
　一瞬の、間。
「―――
だから？」
『愚問だったようだ。
　では急ぐがいい。
　姫君はまだこちらに気付いていない。
　奇襲はおまえの得意とするところだろう、殺人鬼？』
　言われるまでもない。
　俺は眼鏡を外し、右手にナイフを握り、岩肌と何も変わらないビルの壁面を駆け上がった。
　背の低いビルから、背の高いビルへ跳び移る。
　ビルの屋上を走り、ビルとビルの間、30メートル近い距離をジャンプして渡っていく。
　ビルの上も強い風が吹いているが、上空はさらに気流が乱れているようだ。
　走っている俺も一際強い風に体を持って行かれそうになる。
　油断すれば風に巻かれ、上空に舞い上げられる。
　一方、地上の様子はビルの上からは視認できない。
　白い巨人……光体の周囲の地面は、あの白い靄のようなものに覆われていた。
　ロアが言っていた“地上は死に筋”とはあれの事か。
　あの濃霧がどんなものかは判らないが、確かに危険なものを感じる。
　あの中を移動するぐらいなら、こうして<空中ブランコ|サーカスプレイ>の真似事をする方がマシだろう。
　―――光体の位置は変わらず、目測300メートル先。
　もう500メートル近くビルの上を移動しているが、アルクェイドの姿は一向に変化しない。
　だが、近づいているのは確かだった。
　次のビルに跳び移って前に進むほど、吹き荒れる風圧は強くなっている。この分なら、あと２分ほどであのデカブツに接近できる―――！
『正面から向かうなと進言した。
　光体の魔眼は死徒のものとは次元が違う。
　視線を合わさずとも、姫君に“見られた”だけで全身が硬直し、囚われてしまうだろう。
　この体はおまえだけの体ではない。
　落下死は避けてほしいものだが』
「そうかよ、俺からも一ついいか！？
　このまま回り込んで近づいたとしても、もしアイツが動いたらどうするんだ！？」
『愚かだが、もっともな質問だ。
　安心しろ。光体は動かない。
　アレはシステムのようなものだと言っただろう。
　生命として成立はしているが、動体であってはならない。
　多少の微調整、変貌はするだろうが、
　あの位置から移動する事はない』
　それは助かる。
　死ぬ思いで近づいても歩いて逃げられた、なんて事になったら俺の体力が持たない。
　なにしろ<歩幅|コンパス>が違う。今こうして接近しているのだけでも息が詰まりそうなんだ。追いかけっこなんて始まったら、それだけで手詰まりになる。
「―――ランドマークとして考えていいんだな。
　なら、目標は決まった」
　光体の真後ろにある、高さ60メートルのビルの跡。
　奇襲をかけるならあの位置が最適だ。
　まずはあそこに辿り着く―――！
　何度目かの大気の爪を突破する。
　ロア曰く、この“表層意識”特有の自動迎撃らしいが、この程度の緩慢さなら恐れるに値しない。目が慣れた。
　ラ<ンドマー|アルクェイド>クを大きく迂回する。
　目視距離、150メートル。
　いける。ここまでは大きな障害はなかった。
　校舎から見ていた時のアルクェイドの攻撃の苛烈さに比べれば拍子抜けだ。
　この調子なら無事に目的地に辿り着けると過信して、
『ああ、僥倖だ。よほどエレイシアが憎いと見える。
　姫君は指先の獲物に夢中で、
　我々に気がついていない』
「―――え？」
　その、どうという事はないロアの言葉に、凍りついた。
　吸血鬼の視力に頼るまでもない。
　いま、その横を通り過ぎようと躍起になっている俺に見せつけるように、その惨劇は行われていた。
「“どうしたのよシエル。そろそろ反撃したら？
　　ずっと手も足も出ないなんて、貴女らしくない”」
　それは声とは言えない声だった。
　少なくとも人間の言葉ではないし、聴覚を通じての伝達でもなかった。
　ソレは巨大な手で、指で、捕まえた■■をいたぶっていた。
　■■の抵抗なんて、ソレには何の意味もない。
　ソレは■■の反応を楽しむように、じっくりと、ねっとりと、生命活動の限界を嘲笑う。
　簡単に腕をもぐ。　　　　　痙攣する腕を旨そうに舐める。
　簡単に胴を捻る。　　　　　まき散った鮮血で爪を染める。
　簡単に頭を取る。　　　　　巻き戻る様子を熱心に眺める。
　簡単に腹を裂く。　　　　　中身を掻き出して小指で弄ぶ。
　それは食事だった。
　人間が動物を殺し、さばき、美味しく食べる創意工夫を、アイツなりに真似たものだった。
　……ただ栄養になるものが違うだけ。
　ソレにとってタンパク質は栄養ではない。生き物の苦痛だけが娯楽という名の栄養であり、
「“もう色々びしょびしょね。
　　悲鳴も、嗚咽も、面白みがなくなってきた”」
「―――、―――、―――」
　復元する度に、■■の手が、空しく虚空に伸ばされる。助けてと懇願する。
　その、精一杯の抵抗を、
「“安心して。私は見苦しいなんて言わないから”」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　理性が潰れる。
「“さっきのおかえし。―――虫みたいに、潰してあげる”」
　　　　　　　　　　　　　いや、もうとっくに壊れている。
「やめろぉおおおおーーーーーーーーっっ！！！」
　先輩―――先輩、先輩、先輩………！
　爆発する声を、感情を抑えられない。
　ここで声を忍ばせて隠れる、なんて真似はできない。
　背後に回りこむ安全策も知らない。
　このまま真っ直ぐ、あの腕を叩き斬ってやる……！
　だが、どんなに叫んでも、両脚を奔らせても、あの巨人には近づけない。
　まだ距離がある。まだ無理がある。
　先輩を取り戻すには、ここからではまだ不可能すぎる……！
「“あは。あはは。あはははははは！
　　楽しいわシエル、貴女、最高のお人形！”」
　世界を震わせる<呼|こ><吸|え>が響く。
　屈辱と情けなさに歯ぎしりをする。
　ここまで露骨に飛び出しても、怒りの声をあげても、アイツは俺に振り向きさえしない……！
『前』
「！」
　ロアの忠告で茹だっていた思考が冷却される。
　それは、今までの自動迎撃とは次元の違う、強大な大気の壁だった。
　まともに狙われれば避ける事のできない嵐。
　それが光体の足元から上空まで、竜巻のように吹き上がっている。
「っ―――！」
　後退を余儀なくされる。
　真横からあの巨人に近づくのは自殺行為だ。
　アイツはまだ俺に気付いていないが、もし横を向かれたら一巻の終わりだ。
　俺の意識と体は塗り固められるように静止し、
　俺を視認した巨人は、嵐の渦を容赦なく見舞ってくるだろう。
「あいつ―――あいつ……！」
　当初の予定通り背後に回り込むしかない。
　……だがどうする。
　アイツには死が視えない。それはいい。もとから視えない相手だ。いまさら驚くに値しない。
　問題はあの状態だ。ただでさえデタラメだったアイツが、更にデタラメ度を増している。
　先輩が手も足も出ない怪物。
　そんな相手から、どうすれば先輩を取り戻せるのか―――
『逆だ。アレは一段階弱くなった。
“小さく重いもの”が“大きく重いもの”になっている。
　自己の感情に溺れ、生命の質量定義を一段階下げたのだ。
　千年の恋も冷めかねない』
「弱くなっている……？　あれで？」
『出力はあがろうと、欠点が多くなればそれは弱体化だよ。
　エレイシアには失望した。
　大魔術だけで十分だったものを、必要以上に壊すとは。
　あれほどの術式を展開しておいて下手糞にも程がある。
　私なら、もっと上手く使ったものを』
「アルクェイドばかりか先輩にまでダメ出しか！
　とにかく、勝ち目はあるんだな、アレ！」
『…………』
　ロアは答えない。それは<ロア|わたし>の目的ではない、と黙秘している。
　まあいい。今は速度をあげるだけだ。
　アイツが執拗にシエル先輩を責めている時間を、有効に使ってやる。
　俺たちが目に入らないほど先輩が憎いというのなら、その報いを物理的に返してやる……！
「“ねえ。まだ希望があると思っているの？
　　まさか、アイツが助けに来るとか期待してる？”」
　視界の片隅、再び遠ざかっていく巨人の声がする。
　指先に捕らえた女に親友のように話しかけ、
「っ！」
　同時に、俺の体めがけて大気の爪が振るわれる。
　ただ吹き荒れるだけの、大雑把な異常気流。
　たとえアイツの認識外にあっても、ここでは侵入者は自動的に排除される。
「“ふーん。……ふーん。
　　わかんないなあ。あんなヤツのどこがいいの？”」
　遠ざかる。遠ざかる。
　今は神経を集中させて、目的地まで走り抜ける。
「“乱暴で、口が悪くて、病弱で。
　　約束を守れもしないクセに、善人のフリをして”」
　……苛烈さを増していく大気の爪。
　背後を衝くとはいえ光体の至近距離だ。
　そりゃあさっきより気流の乱れが激しくなるのは当然だろう、けど―――
「“アイツに比べたら蜥蜴の方がまだ誠実だわ。
　　あの声も嫌い。仕草も嫌い。顔も嫌い。ぜんぶ嫌い！”」
　いや、でも、だな。
「“言っておくけど、あんなヤツには何もできないから。
　　できても遠くから悪口を言うだけよ”」
「“それとも、そんな勇気もないかしら。
　　そうよね、いつも言い訳ばっかりだったもの。
　　僕は甘い仕草で初対面の女を解体する事しかできない、
　　最低最悪の、ズルくて童顔な殺人鬼だって！”」
「おおぉおおおお……！？」
　アイツ、とっくに気付いているクセに無視してるだけだろ、これ！？
「着いた……！」
　目測距離、10メートル。
　ビルの屋上に手足をついて体勢を整える。
　光体の足元からの上昇気流は凄まじく、姿勢を低くしていないと空に舞い上げられかねない。
「“本当に同情するわシエル。運が悪いにも程がある。
　　あんなヤツを助けたりしなければ、
　　貴女はもっと楽に死ねたのに、ね！”」
「――――――」
　いろいろ我慢の限界だ。
　今のアイツがどれほど怪物じみた存在かなんて知った事か。
　ここからの最適解なんて考えていられるか。
　もう一秒の猶予も与えてやるものか。
　そもそも―――惚れた女を目の前でバラされて、頭が沸騰しないヤツがいるものか……！
『仰角22度。目測距離７メートル、歪曲距離40メートル。
　ここであれば接触まで０．８秒』
　両手を地面から離して体を起こす。
　両脚に血液を集中させる。
　一度の呼吸で全身に酸素を循環させる。
『理想的なアプローチだ』
「いいかげんに―――」
　狙いは一つ。
「落とす―――！」
　臆面もなく見せつけやがる、白い巨腕を解体する！
「！？」
　<経路|ルート>は完璧だった。
　俺の脚は上空60メートルでの、30メートル近い跳躍を可能にした。
　高速道路のような白い腕に着地し、着地の勢いに任せて、巨人の肘から手までの距離を滑りながら、ナイフを突き立てた。
　だが、結果は、
　何の効果もない。
　腕を解体するどころか、何のダメージも与えていない。
　ナイフは確かに通ったのに―――白い表面には、ナイフの跡さえ残っていない！
「く、そ―――！」
　“線”が見えない以上、今までのように解体できると思ってはいなかった。
　けれど、今の自分には吸血鬼の筋力がある。
　力任せにナイフを突き立てれば、捕まえた先輩を放すぐらいの<衝撃|いたみ>は与えられると思ったのに―――！
「ハ―――、ぁ……！」
　思考が止まる。時間感覚が停止する。
　一秒もない試行錯誤。
　否、一秒もかけられない状況判断。
　失敗した。過信した。想定が甘かった。
　そもそも前提を間違えていた。
　俺は戦っているつもりでも、相手には戦いですらなかった。
　全ては蟻のあがきだった。俺がここまで来られたのは、この巨人にとって無害な生き物だったからだ。
　だがそれも終わった。
　もう見逃される筈がない。
　俺は―――
　そう簡単には諦められない。
　ここに到達するまでに七割の体力と血液を消費した。
　もう一度この状況を作れる保証はない。
　<チ|・><ャ|・><ン|・><ス|・><は|・><今|・><し|・><か|・><な|・><い|・>。
　<この巨人|アルクェイド>に傷一つ付けられなかったが、その事実だけは変わらない……！
「そうだ、<節|ふし>なら……！」
　前腕に刃は通らなかったが、可動部である節はどうか。
　前腕の外皮を切り裂くのではなく、肘部分に<損傷|ダメージ>を与えられればシエル先輩も解放される―――！
　ナイフを口にくわえ、四つん這いに近い体勢で、手を付きながら白い斜面を駆け上がる。
　光体の表面は熱くはあったが肌を焼く程の熱量ではなく、また、確かな質感があった。
　きちんと物質として存在している。
　遠くからランドマークとして見ていた時は生命とは思えなかったが、こうして指先で直に触れてみると印象が違ってくる。
　その手触りは『硬い石』のようでもあり、『流動する水』のようでもある。
　光体の肌は確かに硬くはあるのだが、それは岩の硬さではなく、滑らかで心地いいものだった。
　それこそ、美しい陶磁器のように。
「っと……！」
　<光体|アルクェイド>の腕がかすかに揺れた。
　俺に気づいていないにしても、生き物である以上、その足場は何かの拍子で震動する。
　ありえないとは思うが、くしゃみでもされたら空中に放り出される。
　……いや、ありえないかな。あるかもな。
　とにかくこっちの予想を平気で台無しにするヤツだ。
　何か凄まじい“なにそれ？”な理由でスッ転ぶ可能性だってある。
　急ごう。グズグズしている場合じゃない。
「よし……！」
　振り落とされる前に目的の部位に到達できた……！
「ここなら……！」
　口にくわえていたナイフを両手で握り直す。
　白く輝く、雪原のような肌。
　人体における『肘の内側』の節目に、俺は、渾身の力でナイフを突き立てた。
　―――が。
　ナイフは通らないばかりか、その刃を折られて、俺の手から遙か地上へと落ちていった。
「な―――」
『“肘なら脆いはず、なんて笑わせないで。
　　どこだろうと肌の硬さは同じものでしょう。
　　そんなコトも分からなかったの？”』
『“おつかれさま。
　　色々とバカなコトを考えていたようだけど、
　　何もかも無駄だったわね。
　　ヒトの肌の上を這い回って、たのしい？”』
　問答無用の“思考”を叩きつけられる。
　テレパシー……精神感応による意思疎通ができない人間でも、その圧倒的な思考密度の前には『話が分かる』。
「あ―――あ―――」
『“吐息で吹き飛ばしてあげましょうか？
　　それともちょっと腕をひねって、
　　わたしの足元まで落下してみる？”』
「っ、う…………！」
　なんて事だ。
　ただ話しかけられるだけで脳が負荷を負っている。
　肉体面だけでなく、精神面でもこんな責め苦をうけていたのか、シエル先輩は……！
「って、うわあ……！」
『“……ふん。シエル、シエル、シエル。
　　他に考える事はないのかしら。
　　人の心配をしていられる状況？”』
　<嘲|あざけ>りとも、苛立ちとも取れない思考が届く。
　そうだ。ここはアイツの体の上だった。
　見つかった以上、一刻も早く逃げないと―――！
『“させない”』
「……！」
　体が動かない。脳からの信号は活きている。筋肉は自由に動く。なのに位置がまったく変化しない。
　全力で走ろうとする手足のまわりが、より強い“何か”に固定されている……！？
『“ここまできて逃げられると思ったの？
　　わたしの視界に入らないうちは
　　見逃していただけよ、おちびさん”』
「は―――ぁ―――」
　……ロアは言っていた。
『光体の視界に入るな。
　あれはただ見るだけで生命を支配する』と。
　これがそうなのか。
　空間に縫い付けられたように、逃げる事も、戦う事もできない。
『“ああ、そっか。
　　目に見えるものでないと分からないんだっけ。
　　それなら―――”』
『“ちゃんと、わたしの指で触ってあげる。
　　当方、あいにくランドマークですので、
　　繊細な力加減も、
　　お客様への気遣いもいたしませんが”』
　―――何か、巨大なものがせり上がってくる。
　空から落ちてくる飛行船のような、
　倒壊する巨木のような、
　街にフタをする夜の帳のような、逃れようのないもの。
　それが巨人の右手だと理解する前に、
『“わたしが巨人なんじゃないわ。
　　アナタたちが小さいのよ。
　　いまだに重力に縛られた生命圏。
　　<惑|ほ><星|し>の上っ面にあるだけの文明圏。
　　ここで根こそぎ仕舞ってあげる”』
『“―――でもアナタは別。
　　わたしの棚には入れてあげない。
　　だって、まっすぐに、
　　本気で刃向かってきたんだもの”』
『“自分の小ささも
　　把握できないところは可愛いけど―――
　　虫のように低脳なら、
　　そういうものとして扱ってもいいわよね？”』
　―――巨人の手が無慈悲に下ろされる。
　抵抗の余地のない、圧倒的な力を前にした時、恐怖は働かない事を知る。
　跪きたくなるほどの絶望。
　硬く、それでいて柔らかな光の<触|ゆ><覚|び>は、その感触を味わうように、俺の体を蹂躙した。
　―――失敗したからには、もう一秒の猶予もない。
　文字通り、ここはアイツの掌の上。
　通用しなかった攻撃に固執するより、今は他にやるべき事がある―――！
「先輩―――！」
　腕の切断は諦める。
　だが、先輩を解放する事は諦めない……！
「先輩、情けなくてごめん……！
　でも助ける、いま助けるから……！」
「え―――遠野、くん―――？」
　地上へ落下する、という恐れはない。
　向上した平衡感覚は、たとえ足場が綱一本だろうと体を安定させる。
「だめ―――逃げて、早く逃げて！」
「わかってます、すぐに先輩を連れて逃げる！」
“線”の無い、巨大な指にナイフを突き立てる。
　かつての自分では考えられない力任せの殺傷。
　誇張なく、鋼鉄であろうと切り裂く一撃は、
　先輩を圧迫する指に、傷ひとつ付けられなかった。
「どうして―――！」
　狂ったようにナイフを突き立て続ける。
　ナイフの刃は俺の血で濡れている。
　血液のコーティングによる強度増強と物理保護。
　吸血鬼らしい“血”の使い方を自然に行った畏れはない。
　思考を占めるものは、腕を切るどころか指にすら傷一つ付けられない自分の無力さと、いま相手にしているモノのあまりの強大さと、目の前で、今も腹部から圧殺されようとしている、先輩の苦悶の<表|か><情|お>だけだった。
「くそ、くそ、くそ―――！」
　巨人の指に掴まりながら、もう無駄と理解しながら、それでも止められずに同じ愚行を繰り返す。
「今のアルクェイドに干渉は無意味です……！
　わたしに構わず、早く、この街の外に……！」
　口から血を吐きながら、■■は俺の身を案じている。
　その事実が、はやる思考を一段と加速させ―――
　ドクン、と。
　全身を掴まれるような恐怖に、凍りついた。
「“驚いた。くだらない<残|ゴ><骸|ミ>がぶつかったと思えば”」
　ありえない大きさの赤い瞳が、つまらなげに、その手元に向けられている。
「―――、ア」
　あれほど熱くなっていた思考が止まっている。
　呼吸も瞬きも出来なくなる。
　ただ見られただけ。
　それだけで、自分が生き物だという事さえ、忘れてしまった。
「――――――」
　何も出来ない。
　シエル先輩を助ける事も、
　自分の体を逃がす事も、
　この巨人を傷つける事も。
　光体に近づけば近づくほど気流は激しさを増している。
　それが判っていながら、彼女に近づこうとした当然の結果。
　大型のタンクローリーすら巻き上げ、分解する大気の渦は、いま、愚かにも主の不興をかった小鼠一匹を呑み込もうと迫って来ている。
　呼吸もできない。足も動かない。
　先輩は―――良かった。
　ちょうどアルクェイドの手の陰になって、あの竜巻からは守られるだろう。
　俺はこのまま、自らの愚かさの代償を払うだけ。
　……死を受け入れた事による脱力か。
「
“――――――”」
　全身を縛る硬直から解放されないまま、俺は一枚の木の葉のように、空中へと投げ出された。
　……白い気流の中、無様に落ちていく。
　自分が何処にいるのか、落下に備えて何をするべきかも、考えられない。
　……当然だ。自覚が無かっただけで、何もかも限界だった。
　昨日まで普通に走るだけで息を切らしていたクセに、100メートルを５秒で走るだの、ビルの上を駆け回るだの、はては巨人に跳び移るだの。
　全身の筋肉は幾度となく断裂し、その度につなぎ合わされていた。通常の何百倍もの速さの新陳代謝。本来その回復に使われるだけの“時間”を、俺の脳は消費している。
　遠野志貴に用意されたリソースはすべて消費された。
　体力も、精神も、この事態を収める為の<方法|プラン>も、すべて。
　もういいだろう、と自分に言い聞かせる声がする。
　誰がどう見ても、仮に神さまが見ていたとしても、もうこれは解決しようのない事態なのだと。
　……だが、本当に？
　心のどこかで“まだ早い”と首を振る自分がいる。
　―――おまえは既に解決手段を持っている。
　―――光体を倒す、という結論は間違いではない。
　―――間違っているのは、それを成す為の<手|・><順|・>だ。
「―――、ああ」
　全身を侵す疲れを、呼吸にして排出する。
　それで消耗しきった神経が回復する訳ではないけれど、
　せめて目を開ける程度の覚醒は、促された。
「っ…………」
　心臓は動いている。両足はついている。握りしめた手は、左右とも血が通っている。
　……つまり、生きている。
　幸運な事に、あの大気の渦に巻き込まれず、その上、あの高さから落ちても体はバラバラにならずに済んでいる。
『比較的柔らかい地面だ。いいところに落とされたな』
「おまえ―――」
　まだ残ってやがったのか、と返す余裕もない。
　心身共に打ちのめされて、こいつにも、アルクェイドにも、噛みつける牙がない。
「…………ここは、地面か？」
　ふらつく体で立ち上がる。
　立ち上がる機能が残っていたから立ち上がっただけの、亡霊のような反応だった。
　そうして、顔を上げて、目の前の光景と対峙した時。
　俺は今度こそ、心の底からの絶望を学習した。
「は―――」
　あまりの強大さに、乾いた喉が、渇いた声を漏らす。
　知っている、知っている。
　こういう景色は知っている。
　写真でしか見たことのない南米の密林地帯、日本なら屋久島の森などを連想する。
　連想して、自分のスケールの小ささに嗤ってしまう。
「はは、は―――」
　これは違う。そんなものとは訳が違う。
　人間であれば、目前に連なるモノが巨木だと<誤認|ごにん>するだろう。
　だが違う。あれはただの『根』だ。
　俺たちが気付かず踏み歩いてしまう、どこにでもある小さな花。いま世界を覆っているのは、その小さな花の根と同じものだった。
「ははは……は―――」
　俺が―――ロアが相手にしようとしていたものの正体を、ビジュアルとして理解した。
　アイツが巨人なのは当然だ。
　<人|お><間|れ>たちが虫の如き存在なのも当然だ。
　異様なまでの湿度と高温。
　むせかえる原始の色彩。
　<視界|せかい>を覆う、夥しいまでの緑のヴェール。
　酸素は薄く、気体は生命を殺すほどの濃度となって充満している。
　人間の知恵を嘲笑う、獰猛な自然のカタチ。
　そこはもうビル街ではなかった。
　自然に侵食され、廃墟になった文明の跡地でもなかった。
　もっともっと過去の世界。
　人類が発生する前―――何億年も昔の、太古の地球の姿だった。
『そうだ。これが惑星の霊長に知的生命体を
　設定しなかった場合の、地球本来の植物の尺度だ。
　真祖にとって外敵への対応はこのようなもの。
　人間を排除する必要も、衰退させる必要もない。
　彼女はただ、周りを強くする事で相対的に、
　文明を矮小化させている』
「は――――――、ハ」
　その<絶望|じじつ>に、心臓が止まろうとする。
　精神より先に肉体が<匙|さじ>を投げた。
　格が違うにも程があった。
　挑む事さえ罪深い何かだった。
　それでも近づく事まで出来たのだ。成績としてはそれで充分すぎる。だからもう休ませてくれ、と訴えてくる。
「―――はあ、あ―――」
　シエル先輩に近づく事だけで精一杯だった。
　アルクェイドの指一本傷つけられず、
　二度と近づく事はできず、
　目の前には有り得ない風景が拡がっている。
「“生きてる？　それとも、粉々に吹き飛ばしちゃった？”」
「――――――」
　脳に響く音に、視線を上げる。
　人間に身の程を知らしめる“根”の向こうに、
　この上なく偉そうに見下ろしている姿が見える。
「“なあんだ。ちゃんとそこにいるじゃない。
　　ごめんなさい。小さすぎて見失っちゃった。”」
　その手には、依然としてシエル先輩が囚われている。
　これみよがしに、俺に見せつけるように、その指で先輩の体を弄んでいる。
「“今まで気付いていなかったけど、これからは気をつけるわ。
　　もっとも―――もう、刃向かう気持ちもないでしょうけど”」
「――――――」
　凄いな。萎えかけていた心臓に火が入った。
　先輩を取り戻す為、だけじゃない。
　あまりの白々しさに目が点になったというか、呆れとか怒りで目が覚めたというか、
「おまえ、本当にあったま悪いな―――！」
　ここまでめっちゃ意識していたクセに、なんだその言いぐさ！
「“はあ？　意識なんてしていなかったんですけど。
　　ピョンピョン跳びはねるだけの小虫より、
　　こっちのオモチャをいじった方が楽しいでしょう？”」
「マジか」
　今、アイツは俺の思考に返答した。
　俺の思考さえ読み取ったのだ。常識外れなのはそのブクブクの巨体だけじゃない。精神感応も桁外れと言える。
　しかし。黙っていればいいものを、その有利性をこんな無駄話で露見させてしまうとか、もう手の付けようのない馬鹿だった。
「“―――何よりも惨く殺されたいようね、アナタ。
　本当に、気乗りはしないけど。
　口の減らない人間に、身の程を教えてあげる”」
　大地が揺れる。
　シエル先輩が戦った時のように、世界そのものが、俺に対して敵意という鎌首をもたげ始める。
『似た者同士の、見苦しい泥の投げ合いは終わったかね？』
　ああ、終わったとも。
　おかげでまだ、あと一度だけ反撃する闘志が湧いた。
　地上は進む事さえ難しい緑の地獄。
　空は地上を一望する巨人の領域。
　いまだ全容の掴めない『光体』を相手に、俺は―――
　正面から戦うのは論外だ。
　もう一度ビルの屋上に上がっても解決策はないし、相手はこっちを『見る』だけで捕まえられる。
　今はアイツの視界から隠れるしかない。
　……それに、まるっきり手がない訳でもない。
　幸い、身を隠すには持ってこいのモノが地上には溢れている。
　<根|あ>の中に潜めば、少なくとも『見られる』事はない筈だ……！
『“へえ。それはそれで面白いけど”』
　楽しげに、地上にかけられる声。
　巨人は悪あがきを続ける侵入者に視線を向ける事もなく、それでいて、その顛末を予想して<嘲笑|わらう>ように、
『“アナタは、息をしないでも
　　生きていられる生き物だった？”』
　数分後に待つ、俺の最期を告げていた。
「ふっ
―――、う、っ―――……！」
　アルクェイドの言う通り、地上は動物が暮らせる環境ではなくなっていた。
　40度を超える高温と、今も成長し続け、少しずつ隙間を埋めていく緑の舌。
　そしてなにより、満足に息ができない。
　ここでは光合成ができないのか、植物も呼吸をする為に酸素を大量消費するばかりで、大型の動物に分け与えられる酸素が無いのだ。
『上空の気流の乱れはこの酸素濃度が原因か。
　人類が知る原生植物ではあるが、
　その規格、強靭さはまるで別物だな』
「言ってる場合か……！　酸素が吸えなかったら血液も濁る！　吸血鬼にとって致命的じゃないのか、それは！」
『酸素結合による血液の正常化に頼る死徒であれば。
　まだ人間部分を残している遠野志貴には致命的だな』
「そうかよ、じゃあ何分保つ！？」
『肉体を稼働させなければ一時間。
　まだ続けるというのなら、確かな保証はもう出来ない』
　これ以上動き回れば、１分後に力尽きてもおかしくない、という事か。
　……そんな事、俺だって分かっている。
　もう本当に限界なんだ。こうして這いつくばって、巨大な根の隙間から手を伸ばすだけで目が霞む。
　裸眼になり、死の線を見続けている頭は痛みを感じていない。痛みという安全機能すら動かなくなってしまった。
　それでも―――
『“死の線”とやらを視続けている。
　私にはおまえが視ているものは理解できない。
　死の捉え方。
　生の結論において、我々には共有できる余地がない。
　―――いや。私は、相互理解を良しとしない』
　ロアのお喋りが有り難い。
　薄れそうな意識が引き戻される。
　―――今は前に進む。この両眼で世界を視る。
　―――目的のモノが、必ず、この根の下にある筈だ。
『その精神の強靭さは評価に値するが。
　遠野志貴の肉体は限界を迎えている。
　身体機能の減速に免疫機構が追いついていない。
　ここで休息と栄養の補給をしなければ、
　酸素があろうとなかろうと心臓は停止する』
「……くそ。人の体だと思って、はっきり言いやがって」
『そうだな。この肉体の存続と、私の存続に関連性はなくなった。まさに他人事、というヤツだ』
「…………は？」
　待て。それはどういう―――
　根の成長が止まらない。
　ロアはこれ以上動けば死ぬというが、留まっていても押し潰されて死ぬだけだ。
　まだ隙間があるうちに移動しなければ。
　アルクェイドと距離が離れるのは痛手だが、今はそれより優先すべき事がある。
　その為に、こうして虫のように隠れたのだから。
　誇張でも比喩でもなく、人類は根絶した。
　この<規模|うつわ>での認識範囲における事象はすべて収納された。
　彼女だったものはその顕現から一歩も動く事はなく、
　天蓋で覆われた世界を<睥睨|へいげい>する。
「“………変わらない。
　　………変わらない。私は、変わってはいない”」
　自身が拡大した訳でもない。
　世界が縮小した訳でもない。
　真祖の姫にとって、世界の認識ははじめからこのようなもの。
　何が大きく何が小さいかなど、惑星にとってはさしたる違いはないのだから。
「“………………なのに”」
　光体の中心。
　ヒトで言うところの心臓に位置する部位が、苦しかった。
　何かがおかしい。今の在り方は許されるものではない。
　早く、一刻も早く元の<出力|カタチ>に戻らなければ、と胸の光が訴えている。
「“――――――っ”」
　けれど、一度壊れた堰は止めようがなかった。
　彼女は止めたいとも思わず、また、止め方も判らない。
　楽しいのに、悲しい。
　気持ちいいのに、怖ろしい。
　相反する指向性、背中合わせのロジックエラーが、
　もっと、もっと、と暴走を促している。
　しかし、肝心の観察対象はまだ諦めていないのか、見苦しく姿を隠してしまった。
　何よりも惨く殺したいのに、勝手に死なれるのは苛立たしい。
　かといって直接手を上げる事など決してできない。
　彼女にとって、あの対象は視界に入らないもの。
　わざわざ意識する必要も、目を向ける価値もない、もうどうでもいいモノでなければならないからだ。
「“…………まあいいわ”」
　原始の草に覆われた、矮小な文明から目を逸らす。
　彼女の手には、この世界で居残りを許された、二人のうち一人が今も囚われている。
「“私には、殺しても死なない玩具があるものね”」
　嗜虐の笑みを浮かべた後、指先で命の感触を確かめる。
　足元の世界から<知|き><覚|く>に堪えない、ひどい罵詈雑言が届いたが、そんなものは歯牙にかけるまでもない。
「“ねぇ、そうでしょう？
　　潰しても潰しても元に戻るお人形さん？”」
「“でも、ちょっとだけ見直したわ。
　　しぶといのは体だけじゃないんだもの。
　　まだ理性があるなんて、どうなってるのシエル？”」
　指先で必死にもがく人間に語りかける。
　この人間とはもう幾度となく意思を交わしあった。
　八つ裂きにしても飽き足らなかった女だが、今は奇妙な連帯感すら抱きつつある事が、彼女を余計に残酷にさせていた。
「“私がロアを取り込んでしまえば、
　　貴女は私が死ぬまで生き続けるしかなくなる。
　　貴女が死ぬ為には
　　転生批判の聖典でロアを殺さないといけない”」
「っ……それが……どうしたって、いうん、ですか」
　半ば朦朧とした意識で応える声。
　巨大な白い指の隙間で、女は何度目かの蘇生を果たす。
「“けれど、いいの？
　　ロアが死ぬという事は貴女も死ぬという事なのよ。
　　ロアを消滅させてしまえば、
　　貴女のこのいたぶり甲斐のある体も、
　　普通の、つまらない体に戻ってしまう”」
「……それが……わたしの、望み……です」
「“そう。かわいそうね。貴女の望みは叶えられない。
　　私は今度こそロアを奪りこむ。
　　あの、何もできずに逃げ回るだけの肉塊を、
　　何万回と引き裂いてね……！”」
「っ、あぁあああああああ……！！！」
　死には至らない、何度目かの致命傷が人形に与えられる。
　巨人は眼下の<草群|くさむら>に見せつけるように、緩やかに、たっぷりと時間をかけて代行者を追い詰めていく。
「―――、―――、――――――」
　だが。内臓と共に零れていく苦悶の声には絶望の色はなく、代行者の目には確かな光があった。
「“なに、その目。不愉快だわ。何か言った？”」
「……ええ。本当に、どうしようもない、と」
　命そのものを指ひとつに支配された状況で、代行者は不敵に笑った。
「まったく―――一度殺されたクセに、まだ彼を解っていないのですね、貴女は」
　それは、残されたもう一人の人間の行動を信じ切った、勝者としての笑みだった。
　のたうつ大蛇のような根の<草群|くさむら>を這い、走る。
　酸素不足で指先が痺れ、体を運ぶ左手が動かなくなってきた。
　死の線が収束している。
　ならこのあたり……この付近にある筈だ。
　一刻も早く、その地点に到達できれば―――
「“私には、殺しても死なない玩具があるものね”」
　―――頭上から声が聞こえた。
　……くそ、酸素不足の前に怒りで意識が飛びそうだ。
　これみよがしな独り言。
　俺をあぶり出す為、ですらない。
　あいつは、ただ嫌がらせの為だけに、
「“しぶといなあ。やっぱりロア本人を殺さないと
　　貴女は死なないみたいね、シエル”」
　先輩を、暇つぶしに潰しやがった……！
　俺が憎いなら俺を殺せばいい。
　あの竜巻でこの根っこごとフッ飛ばせばいい。
　なのにこっちにはまるで関心がない素振りで、
　遠回しに、俺の一番大事なものを弄びやがって……！
「“そう。かわいそうね。貴女の望みは叶えられない。
　　私は今度こそロアを奪りこむ。
　　あの、何もできずに逃げ回るだけの肉塊を、
　　何万回と引き裂いてね……！”」
「――――――」
　頭蓋と脊髄が透明化する感覚。
　<内蔵|なかみ>が裏返るような吐き気。
　生きている、という感覚の喪失。
『おい。境界を越えているぞ』
　知らない。殺す。殺す。相手が何であれ、問答無用で殺してやる―――！
　見ろ。
　<ロア|おまえ>にかまっている時じゃない。
　もう、あれ以上、指一本だって先輩を傷つけさせない。
　見ろ。
　血管が焼ききれるほどの負荷を脳に与えて、凝視しろ。
　視ろ。視ろ。視ろ。視ろ。
　俺は手順を間違えていた。
『殺す』のはこっちが先だったのだ。
「――――――ふううう」
　そうだろうとも。
　生命の死。植物の死。空間の死さえ視えていても、
　光体に線は視えない。
　あのアルクェイドには、まだ死の要因がない。
「“―――なにそれ、自殺する気？」
　見下しきった声がする。
　いや違う。騙されるな。アレにそんな慢心はない。アレはいま、俺が危険だと感じたからこそ、あの赤い瞳を地上に向けた。
　取るに足らない筈の、一匹の蟻に<意識|め>を引かれた。
　だから急げ。俺はもう答えを知っている。
　たった数分前、この街に入った時に気がついている。
「“―――いいわ。こっちの虫で遊ぶのは、後回し”」
　死徒のように他の生命から血を奪う必要もない。
　アレはただそこにいるだけで完璧な生命だと、前に誰かが言っていた。
　自然の延長である真祖は、世界という地盤からいくらでも活力を引き上げられる。
　だから死なない。限界というものがない。
「――――」
　つまり。
　それは、自然界の上だけの完全なのか。
「“？”」
　あいつは俺たちの思考さえ読み取れる。
　隠し事はできない。
　だからここまで“明確に”考えないよう這ってきた。
　それも終わりだ。どのみち、もう“視て”しまったからには単語が浮かぶ。
　だが、まだあいつには伝わらない。俺の思考がその『切り札』を理解するまで、一秒のタイムラグがある。
「視えた―――！」
　草の根から這いでる。
　残った体力、血液、気力をすべて注ぎ込んで、全力であの“点”に走る。
「“――――――”」
　遥か頭上で、強大なものが息を呑む気配がした。
　遅すぎる。到達まで１秒。ざまあみろ。そんなに膨れあがったから動きが遅いんだ。<信号|いしき>が<手足|まったん>に伝わるのに時間がかかりすぎる。
　その１秒で辿り着く。
　この一端、この周囲だけでいい。
　俺は間違っていた。
　アルクェイドに死の要因はない。
　それなら―――
　その要因をなくしているものを先に“殺して”しまえば、コイツの完全性は失われる―――！
　一際大きな点にたどりつく。
　今度こそ俺の勝ちだ。
「“――――――ああ”」
　眼球が燃える。振り上げた右手が軋む。
　地脈の命とも言える“点”。
　この一帯の世界そのものの『死』に、俺はナイフを、
「“―――そういうこと？”」
　―――ナイフは、宙を、切った。
　地脈の“点”は跡形も無く消え去った。
　俺が殺したのではない。
　“点”は、そこに収束していた“線”ごと、光体の足元に吸い込まれ、見えなくなった。
『真祖の規格によるものではなく、光体による事象収納―――』
　ロアの声が、耳元を滑っていく。
　なんだそれは。
　なんだそれは。
　なんだそれは。
　星の命。世界の生命線すら取り上げるというのか、あの怪物は―――！
　異変は、収納は地脈だけに留まらない。
　光体の直下に出来た黒い大渦。
　その渦に、原始の植物も、形骸化したビルも、刻一刻と呑み込まれていく。
「“―――、っ”」
　光の巨人の姿が揺らぐ。
　それが何を意味しているのか、考察する余裕はない。
　あの渦に吸い込まれているのは“世界そのもの”だ。
　いま俺がいる地面も、仕舞われるテーブルクロスのようにアルクェイドに引き寄せられている……！
「―――、あ」
『ビル塊に跳び移れ。まだ上の方が安全だ』
　ロアの声で放心状態から回復する。
　いや、回復はしていない。
　最後の希望をあっさりと踏みにじられたばかりか、今まで以上の“世界の終わり”を目の当たりにして、思考が走る筈がない。
　ロアの声に手足が反応したのは、ただ、安全地帯に向かおうとする日常の習慣によるものだった。
　―――目の前で、人間の世界が沈んでいく。
　アルクェイドが『普段の姿』の時に行った“事象収納”は、まだ優しいものだった。
　光体となったアルクェイドが行う収納は、仕舞うというより粉砕に近い。
　建物は表面を剥がされただけでは飽き足らず、ついに実在まで流され、沈んでいく。
　ロアの警告がなければ、俺もあのビルのように光体の渦に囚われ、紙のように平面化し、“世界の裏側”とやらに落ちていただろう。
「“随分と、生意気なコトを考えるのね”」
　どこか、苦しげに乱れた声が響く。
　光体の吸血姫はこちらに視線を向ける事はなく、
「“―――本気になっちゃった。
　　頭にきたから、殺してあげる”」
　その終わりのない力を、憐れな敗者に向けて解放した。
「ハァ―――ハァ―――」
　両肩で息をしながらビルだったものの屋上を走る。
　人間の強さを再確認するべきか、しぶとさを褒めるべきか。
　もう何の希望もないというのに、体はまだ生きる努力を放棄しなかった。
「ハァ、ハッ……！」
　以前とは逆のベクトル。
　光体から離れるため、流砂に飲まれるように沈んでいくビルの上を駆けている。
　一つのビルが持ち堪えられるのはよくて１分。
　その１分の間に次の安全地帯―――比較的持ち堪えそうなビルを測り、跳び移らなければならない。
「っ―――！」
　そんな俺の抵抗を叩き潰す、強大な大気の爪。
「く―――そ！」
　間に合わない。時速50キロの速度では、いや、“走って跳ぶ”人間的な移動手段では、あの大気の渦は躱せない。
　ビルからビルに跳び移るにも限度がある。
　もっと動的な、工程の少ない手段があれば……！
『なんだ。その程度でいいなら教授しよう。
　左手を借りるぞ』
「な―――」
『左腕の神経を魔術回路として使わせてもらった。
　なに、<引力|アトラクション>だよ、引力。
　自分で運動エネルギーを発生させ、それによって跳ぶ、というのは手間が多い。
　せっかく重力があるんだ。“跳ぶ”のではなく“落下する”方が効率的だ』
「なんだそれーーー！？」
　いや理屈は分かる。
　いま俺はこのビルに跳んだのではなく、ビルそのものに引っ張られ、水平に“落ちた”のだ。
　イメージにすると、目的地……落下ポイントに見えないゴム紐をつけて引っ張られた、というのが近い。
『問題は着地の衝撃だが、
　今のおまえの体であれば耐えられるだろう。
　もっとも、引力操作も易くはない。多用すれば回路が焼け付く。その場合、次は左足を使う事になる』
「焼き付くって、具体的には！？」
『焼き付くは、焼き付く、だ。
　物理的に燃えるんだから灰になるだろ、そりゃ』
　ここにきて妙にフランクだなコイツ―――！？
「っ……！」
　大気の渦が迫る。
　光体の周辺には瓦礫すら舞い上げる気流が発生している。
　光体から距離を―――300メートル以上離れなければ、この大気の渦から逃れる事はできない。
　だが、世界は既に時速50キロの世界だった。
　事象収納とやらの重力圏が世界を仕舞っていく以上、常にそれだけのスピードを出していなければ呑み込まれる。
　光体から300メートル以上離れるには、人間の足だけで<そ|・><れ|・><以|・><上|・>のスピードを出す必要がある。
「ぐっ……！」
　ビルを削る風圧の余波で、隣りのビルの屋上まで吹き飛ばされた。
　背中からのっぺりとした床に投げ出され、20メートル近く転がされる。
「やば……！　こ、の……！」
　左手で床をかきむしり、滑落を食い止める。
　ビルの屋上とはいえ落下防止のフェンスはない。
　端まで滑っていけば、為す術なく地上に落下し、あの大渦に吸い込まれてしまう。
『“紐”は意識できたのだろう？
　落下してもリカバリーは利く筈だ。
　そもそも、今なぜ引力操作をしなかった？』
　なぜも何も、灰になる、と聞いて多用する馬鹿はいない。
　引力操作による“牽引”は打つ手がなくなった時だけにするべきだ。
　……もっとも。左腕の焼失を心配する以前に、こっちの意識そのものが、もう持ちそうになかったが。
「………」
　体に力が入らない。
　酸素の濃度とは関係なく息ができない。
　人体を動かす燃料が底をついた。
　空腹は感じないが、とにかく新鮮な■■が欲しい。
　いや、■■は要らない。そんなものを飲んだところで俺はまだ自分のモノに還元できない。
　今はただ眠りたい。休みたい。
　１分。１分でいいから、すべての機能を停止して、この思考を洗浄したい―――
「は―――…………
あ、っ……！」
　底の見えた気力をかき集めて、なんとか一口分の<活|み><力|ず>に変える。
　鈍くなる一方の体に鞭を打って立ち上がり、走り、目に付いたビルに跳躍する。
「ハァ、ハ―――」
　……幸運な事に、この一帯は上昇気流の圏内から外れているようだ。
　あの、壁のような大気の渦はやってこない。
　とはいえ、
「―――、――――――」
　今ので、もう完全に、底を突いた。
　体力も気力も、あの巨人への反発心も、消え去った。
　ここまで一時も止まらなかった―――止まれば死ぬからだ。
　逃げ続ける道を選択した―――対抗する手段がないからだ。
　とにかくアイツが許せなかった―――だって、あまりにも馬鹿だからだ。
　それらすべての理由が、手足から抜け落ちていく。
　俺を動かすものは何もかもゼロになった。
　……致命傷を負う前に、俺の肉体は、ここで限界を迎えてしまった。
「“ほら、やっぱり”」
　体の周りで動き回っていた虫が力尽きた事を知覚して、彼女は満足げに微笑んだ。
　虫は風に巻かれる度に鳴き声をあげていたが、小さすぎて彼女の耳には届かなかった。
　そこに不満を覚えないでもないが、今の彼女には声も言葉も必要ない。
　この領域にいる生き物が何を感じ、何を思っているかなど、意識せずとも伝わってくるからだ。
「“はじめからその程度。
　　分かっていないのは貴女の方だったじゃない”」
　指先の虜囚に<呼|こ><吸|え>を向ける。
　反応はない。先ほどの『指圧』がよほど堪えたらしい。
　挽き肉状態から蘇生しているものの、脳はまだ回復していないようだ。
　その不甲斐なさに嘆息して、彼女は左手を持ち上げ、手首を返した。
　それは、今まで指に乗せていたモノを、ゴミ箱に棄てるような仕草だった。
「“―――もういいわ。ここでお別れね、シエル。
　　いつか気が向いたら、そこから出してあげる”」
　それは彼女にとっては意趣返しでもあり、思い上がった代行者への懲罰でもあった。
　代行者は言った。彼の事を理解していない、と。
　まったく笑わせる。
　分かっていないのはシエルの方だ。彼女ほどあの生き物を理解しているものはいない。なにしろ今も知覚している。心音も体温も脈拍も免疫も、骨も髪も舌も喉も器官も、泣き言も悪態も怒りも悔しさも把握している。すべて自分の掌の上だ。判らない事など何もない。
「“そう。だからこれでおしまい。
　　もう一歩も動けないもの、アイツ”」
　地上80メートルの高さから棄てられる代行者。
　通常であれば、数秒後に地面に激突し、無惨な死体となるだろう。
　だが彼女の足元には事象を収納する大渦が口を開けている。
　代行者は地面に砕かれる事がない代わりに、一切の自由を奪われた“平面の事象”に変換され、永遠に苦しみ続ける事になる。その結末を救うものはどこにも存在しない。
　光体となった彼女の予測は絶対である。
　代行者シエルの運命は、
　あの人間……否、転生者ロアの行動は、
　彼女の思うままでなければならない。
　そう。
　全能者が予測を外す事はあってはならない。
　それだけの能力、それだけの知覚を持っているのだ。
　もし外す事があれば、それは世界への侮辱であり、自身の無能さを証明する事に他ならない。
　なので。
「“え―――
えぇぇええ！？”」
　いま目の前で起きている展開は、彼女にとって、光体にまで変革した自分の立場を忘れるほどの衝撃だった。
　ビルの壁に張り付いた後、脚に全血液を凝縮しての超・跳躍。
　思考するまでもなかった。
　その光景を見た瞬間、ゼロだった肉体は起動した。
「“え―――えぇぇええ！？”」
　真紅の空に、青天の<霹靂|へきれき>が響く。どうでもいい。
　アイツにとっては驚天動地の出来事らしい。どうでもいい。
　というか、こんなの奇蹟でも根性でもなんでもない。
　限界とかそういうの関係ないから。
　気力は尽きても愛情は尽きないというか、そんなのより凄い愛の力なだけだから。
「<先輩|せんぱぁ>―――ぃ！」
　後退も、生存も考慮しない跳躍だった。
　それしか考えられず、彼女しか見えなかったのだから仕方がない。
　とにかく今は空中で彼女をキャッチする。
　その後の事は、その時に考えれ―――
「な……！？」
　空中でシエル先輩の体が停止する。
　重力から解放されたように先輩の体は上昇し、あの巨人の胸元まで引き戻され、
「くそっ、そんなのアリかぁ！？」
　あまりのずるさに、鎮火していた怒りが再燃する。
　アイツ―――自分から『飽きた』とか言っておいて、なんだその“今のナシ”は！
「“――――――”」
　だが暴虐はそれだけに留まらなかった。
　アイツはシエル先輩を胸元まで浮かせると、さも不愉快そうな仕草で……頬を膨らませたように見えなくもなかった……先輩を指で弾いた。
　コオン、と硬い物を叩くような震動が響く。
　アルクェイドの指で弾かれた先輩。
　それは一条の矢のように夜空を横切り、『事象収納』の外側―――俺たちの学校の校舎に着弾した。
「“―――あ”」
　……酷すぎる。先輩をパチンコ玉のように扱った事もそうだが、その考えなしの行動が酷すぎる。
　アイツはいまシエル先輩という、俺にとって最大の理由を自分から手放した。
　しかも自分の手の届かない学校まで。
　光体は動かないものだ、とロアは言った。
　なら、俺はこの領域からなんとか抜け出して、学校まで辿り着ければ勝利条件はひとまず―――
「“ま、やっちゃったコトは仕方ないか”」
　その声は、確かに、イヤな微笑みを帯びていた。
「“落としたゴミは拾いに行かないと”」
　もう見なれた筈の光体の変化に、目が点になる。
　―――巨大な人型が、ちっぽけな人間にその威容を見せつけるように、ゆっくりと歩き出す。
「“そこで見ていなさい。
　　ロアの住み処ごと、
　　アナタたちの思い出を踏み潰してあげる”」
　悪態も忘れて、呆然と見送るしかない。
　それは“動かない”という唯一の欠点を気分で取りやめた、この地上で最も尊大で我が儘な、吸血姫の誕生だった。
『“そうよ、みじめに思い知りなさい。
　　私は止められない。もう手遅れなんだって”』
　白い巨体が、ビルの谷間を闊歩する。
　ちっぽけな人間たちの世界を<睥睨|へいげい>しながら、
　情緒なく、どこまでも機械的に、人々の営みを収納していく。
　まるで稲穂を刈り取る工作機のようだ、と彼女はひとり、口元をつり上げた。
『“ずいぶん拡げちゃったけど、まあ、
　　今の私なら問題ないか。
　　学校まで、あと―――たった<数歩|これだけ>だし”』
　はじめから戦いになどなっていなかった。
　光体は彼の知る<個体|アルクェイド>ではなく、
　光体になった彼女もまた、もう以前のように彼を感じる事はなくなったからだ。
　そうでなくては、いけない筈だからだ。
『“―――そう。
　　意識なんかしてやらない。
　　最後まで、気づいてさえあげない”』
　それが彼女の、最低限の<意|プ><思|ラ><表|イ><示|ド>だった。
　彼女が“敵”として捉えるのはシエルだけ。
　あんな、平凡で、大人しくて、魔眼の事は例外として、半分吸血鬼になってもさしたる脅威のない男なんて、どうでもいい。
　どうでもいいモノだから振り返る事さえしない。
　もう二度とあんな風に話しかける事はない。
　なのに、
『“――――――”』
　ずっと、ずっと言葉を求めていた。
　嫌い。嫌い。大嫌い。一歩だって近寄ってほしくない。
　なのに、楽しくて悲しかった。
　嬉しくて怯えていた。
　相反する指向性、背中合わせのロジックエラーが、
　もっと、もっと、彼に構って欲しいと告げていた。
　けれど、伝わってくる声はシエルへの想いと、自分への悪態ばかり。
　やれデタラメだの、デカブツだの、はてはランドマークだの。
　これでは冷静でいられる方がおかしいというものだ。
『“なによ。なによ。なによ―――！”』
　それでも、先ほどまでなら、彼女は我慢できていた。
　冷静さを欠いてはいたものの、理性的でいられたのだ。
『“だって。あんなコト、するんだもん―――”』
　ソレが自分の足元から逃れ、根の中に隠れている時はまだ余裕があった。
　無駄なあがき、意味のない時間稼ぎだと考えた。
　しかし。その目的が『地脈殺し』だと判明した瞬間、彼女の全身に走ったものは戦慄と、喜びだった。
『“さっすが、わたしの殺人鬼……！”』
　その喜びだけで、決して、してはならない事をしてしまった。
　光体での事象収納―――ではない。
　今まで無視していた筈の、これからも無視する筈のソレを、全力で追撃してしまった事だ。
『“<志|そ><貴|こ>、<志|そ><貴|こ>、<志|そ><貴|こ>―――！”』
　意識さえしない、と決めた相手に、あんなに夢中になってしまった。
　<惑|ほ><星|し>の触覚として反省する他ない。
『“でも―――”』
　その喜びも、次の瞬間には消え去った。
　上げて落とす、とはこの事だ。
　彼女はソレから全てを奪った。
　希望も、誇りも、未来も、体力も。
　文字通り、掌の上に収めたのに。
『“シエル、シエル、シエル―――！”』
　束の間の喜びは火のような感情に置き換わった。
　にくたらしい。にくたらしい。にくたらしい。
　うらやましい。うらやましい。うらやましい……！
「“そこで見ていなさい。
　　ロアの住み処ごと、
　　アナタたちの思い出を踏み潰してあげる”」
　その感情が、最後の制限を外してしまった。
　彼女は自身の感情を止められない。
　それは不可能はない、という生命故の、当然の在り方だった。
　彼女は人間とは違う。
　人間的でありながら、人間の持つ自制という機能がない。
　想像した事は躊躇なく行動に移される。
　わずかな反感や思いつき、悪戯、冗談。
　あらゆる想像を体が実行してしまう。
　彼へのじゃれ合いも。シエルへの八つ当たりも。
　そして、光体のまま<自分|アルクェイド>になる、という、許されない暴虐も。
『“ああ―――そっか。
　　結局、わたしを抑えられなかったんだ”』
　一歩踏み出すごとに、仮初めの器に神経が通っていく。
　機能として在った<光の筐体|エーテルフレーム>が、
　別のモノに変わっていく。
　それは地上では許されない現象だ。
　神経が通えば負荷が生まれる。
　肉を持てば痛みが出来る。
　血が通えば、命の定義が発生する。
『“いた……どんどん、いたく、なってきた”』
　踏み出す足に重みが加わる。
　いかに空想具現化による隔絶空間であれ、これだけの質量の二足歩行体が活動できる道理はない。
『“いけない。いけない、いけない―――！”』
　でも止まれない。
　動き出してしまった以上、彼女は自分を止められない。
　自分では止められない。止める機能がない。
　誰かに止めてほしい、と彼女は願い、そして、
『“―――志貴”』
　もう口にするまいと決めていた、その名前を口にした。
『“志貴がいい。志貴じゃないとイヤ。
　　志貴にわたしを止めてほしい。
　　だめ。
　　志貴にだけは、わたしを止めてほしくない―――”』
　ずっと意識していた。ずっと嬉しかった。
　シエルを助ける為とはいえ、自分を思ってくれる事が嬉しかった。
　そもそも、彼女には彼以上に、彼の心が伝わっていた。
　―――殺意はあっても敵意を持ってはいなかった。
　―――怒ってはいても憎しみはどこにもなかった。
　彼は最後まで彼女の知る、怖くておかしくて、特別な相手だったのだ。
『“――――――”』
　でもこれで本当に終わり。
　こんな自分を見た以上、いくら志貴でも愛想を尽かしただろう。
『“もう手遅れ。
　　―――何もかも、手遅れなんだ”』
　消える。消える。
　アルクェイド・ブリュンスタッドという意識が消える。
　どうでもいい。
　あと少し。あと数歩で学校だ。
　もう豪快に踏み潰してやるんだから、と強がりを口にする。
　でもどうせなら。
　あの時、志貴に拒絶された時に、消えてしまえればよかったのに、と彼女は思った。
　それがどのようなカタチであれ、巨大なモノが稼働する光景は知性あるものの“心”を掴む。
　偉大なもの。畏ろしいもの。そして、自分たちの世界から外れたもの。
　動物たちはそれを<頭|かしら>と捉え、
　人間たちはこれを神と讃えた。
　今、目の前で動き出したものは、その手の類の“災害”だ。
　<歩幅|コンパス>こそ遠大なものの、踏み出す一歩に重さは感じられない。
　あの大きさの物体が体重を移動させているというのに、地響きがしていない。
　腕に乗れた以上、質量はある筈だ。あの体積なら何百、いや何千トンもの重さになっている筈……。
　いや、そもそもあの光体とやらが、人間の世界では有り得ない現象だ。
　その不可思議を考察しても、今は解決には繋がらない。
「――――――」
　光体の足元に空いた大渦は健在だった。
　アイツは堂々と闊歩しながら、ビル街を平らにしていく。
　移動する以上死角は存在せず、何をしても傷付けられず、その気になれば<直|・><接|・>手を伸ばしてくる。
　……まっとうに考えれば、アレはもう手の施しようのない現象だ。だと言うのに、
　俺の眼は、以前には無かった生々しいものを感じている。
　いや、光体への印象ばかりに意識を割いてはいられない。
　先輩を助け出すチャンスは今しかない。
　……だが出来るだろうか？
　あのデカブツを追い掛け、追い越して、シエル先輩が弾き飛ばされた校舎に辿り着く事が。
『いや。エレイシアの救出が目的であれば、
　その冒険の必要はない。
　ある意味、おまえの勝ちだ。
　―――このままいけば、あの女は自滅する』
「――――――」
　ロアの発言に、凝固していた精神が解凍された。
　動き出した光体を見て喪心していた思考が、遠野志貴のカタチに戻るように。
「どういう事だ、それ」
『光体は惑星の環境を初期化するシステムにすぎない。
　強大なその権能は個人の目的で使われてはならない。
　受け皿の問題だよ。惑星規模のエネルギーを自分の為に使えば、真祖であろうと器が耐えられない。
　それは姫君であろうと例外ではない』
『これまでの彼女は惑星の報復機能だった。
　だが、自らの意志で動き出した以上、それは生命だ。
　今の彼女には生命としての死が存在する』
　……そうか。あの生々しい印象は、そういう事だったのか。
『過度な事象収納と特定人物への一方的な感情で、
　アレは暴走状態に入っている。
　おそらく、“思考”した事が止められないのだろう。
　限界を超えて稼働し続ける発電所のようなものだ。
　このまま放置すれば光体現象は停止する。
　アルクェイド・ブリュンスタッドという、真祖の消滅と共に』
「――――――」
　それは、
『1000年の追跡もここまでとは。
　私やおまえにとってはこれ以上はない結末だが』
　ぜんぜん、これっぽっちも良くはない、結末だ。
「おい」
　自壊する？　アイツが？
　こんな、アイツらしくもないみっともない暴走の果てに、報われる事なく、消え去る？
「それ、止められないのか」
『―――本気か？』
　もちろん。恐ろしい事に。
『では正気か？　エレイシアを救出し、姫君から逃げ延びるのがおまえの勝利条件だと理解しているか？』
　もちろん。理解などしていなかった。
　本当に、ここにきてようやく気付くなんて、俺は殺されて当然だ。
　俺はシエル先輩を助ける為に戦っていたのであって、
　アイツを殺す為に戦っていた訳じゃない。
　……アイツにとって、俺がそうであったように。
　俺も、アイツを『敵』として見ていなかったのだ。
「……その結果がこれだ。愚かしいにも程がある」
　だが間に合う。
　今ならまだ間に合う。
　逃げたままで―――アイツの全力に応えないままで終わるなんて、最低の結末を<覆|くつがえ>せる。
「光体である事が間違いなら。
　アルクェイドが自滅する前に、あの光体を殺してやる」
『―――それは正しい。唯一の正解だ。
　だが―――』
　どうやって光体を倒す、とロアは指摘する。
　今まで傷一つつけられなかった、いや、近づく事さえできなかった相手を倒せるのかと。
「もちろん俺だけじゃ不可能だ。
　点は見えても近づく手段がない。あのデカブツの心臓に触れるには、一度、完全に無力化する必要がある」
『――――――つまり？』
“大魔術だけで十分だったものを、必要以上に壊すとは。
　あれほどの術式を展開しておいて下手糞にも程がある。
　私なら、もっと上手く使ったものを”
　……ずっと引っかかっていた言葉を思い出す。
　コイツは意味のない発言はしなかった。
　あの悪態は俺への露悪的な忠告だ。
“ヒントを与えていたのに見逃したおまえが悪い”といったような。
　であれば、
「おまえ、<切|・><り|・><札|・><を|・><持|・><っ|・><て|・><る|・><だ|・><ろ|・>」
　反応はない。
　ロアはほくそ笑む事も、出来の悪い生徒の回答に感心する事もなく、静かに、
『まだ心は折れないのか？』
　<厳|おごそ>かな神学者のように、俺の心の在処を問うた。
「もう何度も折れてる。直りが早いだけだ」
『その場合、懲りない、というのが正しいな』
　は。まったくその通り。
「いいから、いいかげん力を貸せ。俺が死んだら困るんだろ、おまえも」
『私が協力する道理がない。
　おまえが玉砕しようと姫君が消滅しようと、私の価値に変動はない』
　感情を廃した、実に機械的な回答だった。
　ああ、ロアならそう言うだろうさ。
　他人に転生する事も、アルクェイドに執着する事も“次に”持ち越せばいいと。
　ここでリスクを払う理由が、見返りが、コイツにはまったくない。
　……そう。
　ロアは常に勝利者だった。
　だからこそきっと、この事実は、おまえには耐えられまい。
「いいのかよ。<俺|・><た|・><ち|・><は|・><そ|・><ろ|・><っ|・><て|・>、<ア|・><イ|・><ツ|・><に|・><相|・><手|・><に|・><も|・><さ|・><れ|・><て|・><い|・><な|・><い|・><ん|・><だ|・><ぞ|・>」
『――――――』
　目を剥くような沈黙。
　振り返ってみれば。
　俺がコイツに与えたダメージは、この一言だけだった。
　自己の生存のみに固執した吸血鬼。
　1000年の旅を続けてきた石のような男は、
『確かに』
『それは屈辱だ』
　神学者にあるまじき、愉快そうな笑みを浮かべて言った。
『10秒、体力の回復に専念しろ。
　それがおまえに残された、砂時計の最後の砂だ』
　ロアに言われるまでもない。
　新記録に挑むスプリンター。
　酷使に酷使を続け、幾度となく瀕死を迎え、その度、人間とかけ離れた作りになった身体を俯瞰する。
　……正真正銘、吸血鬼として／人間として、これが最後の挑戦になる。
「―――、――――――」
　運命を懸ける間際の、10秒の深呼吸。
　１秒。酸素吸引による血液の活性化。断線しまくっていた筋肉繊維を、硬化しきっていた血管を、ほぐし、繋ぎ合わせる。
　２秒。<身体|なかみ>の修理に神経を集中させる一方、光体までの距離を測る。
　３秒。最短距離は目測で400メートル。実移動距離は４キロメートル。
　４秒。光体への到達まで１分。その１分間の体力を取り戻すのに、最低限、10秒の補給が必要だった。
　５秒。逸る気持ちを抑えて呼吸に専念する。こうしている今も巨人は校舎に向かっている。
　６秒。こうしている今も、光体は破滅に向かって歩いている。
　７秒。アイツが今までのように徹底して俺を無視しようが、意識しようが、その妨害は今までの比ではないだろう。
　８秒。その事実に肉体が硬直する。
　９秒。その価値があるのか。あの女は、愛しい女を後回しにしてまで、命を差し出す意味があるのかと。
　―――10秒。
　考えるまでもない。
　あらゆる思考を切断し、最後の追撃を開始した。
　巨人はビルの森を闊歩し、
　俺はビルの谷間を跳ねていく。
　光体に近づく事は容易である。
　事象収納によって吸い込まれていくビルは、光体に接近しようとする俺の速度を速めてくれる。背中を押す追い風のようなものだ。
　光体の背中が近づいてくる。
　迂回する事も、逃げる事もしない。
　まっすぐに、その白い<躯|からだ>を視界に収める。
　俺の左手には、アイツにとってまち針以下のナイフが今も握られている。
「“――――――”」
「“――――――”」
　繰り出される大気の爪。
　今さらながら、その巨大さは爪というよりは掌だった。
　周りを飛ぶ小虫を指先で払ったのではなく、ムキになって乱暴に繰り出された平手打ちだったのかもしれない。
　右腕を60メートル先のビルに伸ばす。
　着地地点をその屋上に設定した瞬間、俺の体は空中で、水平方向に落ちていく。
「“―――、―――！”」
「“―――、―――！”」
　大渦の目前にまで到達する。
　この先は光体だけ。足場になるビルは後方にしか存在しない。
　光体に跳び移るのなら、ここからしか有り得ない。
「“……………………”」
　光体からの<呼|こ><吸|え>はない。
　アイツはこの局面でも俺に視線を向けなかった。
　ほんとう―――強情にも程がある。
　ここで少しでも振り向いていれば、その時点で俺を魔眼で捕らえられ、さぞ念入りにいたぶり殺せただろうに。
　とはいえ、結果は変わらない。
　他に逃げ場がない以上、あの大気の爪は躱しようがなく。
　粉々に粉砕されたビルの破片ごと、遠野志貴の体は光体の上空へと舞い上げられた。
　―――光体を包む上昇気流に舞い上げられる。
　翼がない以上、足場を失った時点で俺の運命は決まっている。
　このまま風に巻かれた羽虫のように絶命するか、
　あるいは、
『<引力操作|アトラクション>、
　160、250、300メートル地点の岩盤に連続設置』
　舞い上げられた幾つもの瓦礫。
　その、浮島と言うには頼りない足場を、
　重力カーブの<柱|ポスト>にし、
『―――１分経過。
　光体直上400メートル地点を確認。
　……上出来だ。
　撃つのはこちら、制御はそちらに任せる』
　俺たちは、ソラに落ちるように、その地点に到達した。
　ヤツは言った。
　<光|・><体|・><を|・><倒|・><す|・><だ|・><け|・>でいいのなら手段はある、と。
『実のところ。
　あの大魔術には、まだ使い残しの<魔|ほ><力|し>が残っている。
　膨大な魔力量を持つエレイシアらしい驕りだよ。
　あの娘は必要以上の火力を用意できるが、
　それ故、工夫する努力を放棄しがちだ』
『オーバーキルも結構だがね。
　わずかな魔力でも象を倒す努力もしろと伝えておけ。
　まあ、パン焼きすらできないあの性格では
　ミクロ単位の精密作業は一生できないだろうが』
　17回にも及ぶ転生。
　その度に“新たな魔術の最奥”を築いてきた天才は、
　先輩の奥の手を“無駄が多い”と嘲笑った。
　自分ならより精密に、無駄なく、あの大魔術を行えるという事実と共に。
『成層圏のあの星にはまだ太陽熱が残っている。
　あれを使えば光体の頸を切る程度は可能だ。
　ただし狙いをつける中継地点が必要だ。
　光体の上空400メートルに、
　射角を調整する<生|・><き|・><た|・><力|・><場|・>が』
　虚空に灯る処刑台の星。
　その輝きに魅入られるように、彼女は感情のない<無|か><貌|お>を上げ、
『“私”をくれてやる。
　―――一度きりの残り滓だ。外すなよ、遠野志貴』
　残された最後の矢。
　極限まで凝縮され加速した、カルヴァリアの星が解放された。
「ぐ、ぐぅううぅうううう…………！！！！」
　成層圏から撃ち出されたその一射は、人間に―――
　いや、こんな小さな魔術回路一つで御し得るものではなかった。
“成層圏から緩やかに滑り落ちてくるものを、
　おまえを支点にして一度曲げるだけだ。
　手を添えて、下に落とす。
　魔術師であれば誰にでも出来る、単純な作業だよ”
「づ、あぁあああ……！！！！」
　荒れ狂う電荷の鞭。
　真下に誘導するどころか手綱を握る事さえできない……！
　精密作業なんてもんじゃない、
　ダムの水量を針の穴に通すようなものだ。
　力まねば水圧に耐えられず、
　繊細でなければ照準を定められない……！
　暴れ回る猛牛を割り箸一本で制御できるか？
　できる筈がない。
　軌道修正は不可能だ。射角の調整は無理難題だ。
　これをアイツの体に当てるなんて夢物語だ……！
　合わせられない。定められない。制御できない……！
　終わる。終わる。終わる。
　最後の機会が失われる。太陽の火はこのまま、無様にも関係のない地上を焼き払って消費される。
「は、づ―――！」
　このままでは台無しになる。
　ロアは沈黙している。この状況で何の意見もない。何の意思も感じられない。もう自分の仕事は終わったと、あっけなく<存|バ><在|トン>を手放した。
　転生者ロアは、本当に、この一撃を俺に託して消滅しやがった。
　ここにいるのは自分だけ。遠野志貴だけ。
　他に頼れるものは存在しない。
　そんなもの、必要ないとあの吸血鬼は判断した。
「―――、ふ」
　―――その通りだ。
　落ち着け。ピンチの時こそよくものを考えろ。
　俺に細かな調整はできない。
　この力の流れを手懐ける事はできない。
　当然だ。前提が間違っている。
　自然の力を細かく、正確に操る事などできない。
　ヒトにできる事は時間をかけること。妥協すること。回り道をしながらも、最後には貪欲に辿り着くこと。
　そう。
　正確に、天才のように、一分の無駄もなく合わせるのではなく―――
　<最|・><短|・>より<最|・><長|・>のスパンで、工程を練り上げる―――！
　大きく、大きく操作する。
　発想は自由であるべきだ。
　<世界|コース>が大きくあるのなら、ハンドリングは大雑把でいい。
　膨大な水圧に逆らわず<是|これ>をいなし、
　迸る力の流れに抗わず<是|これ>をささえ、
　いける。
　これで、最後―――
　―――それは、１秒の間もない、出逢いだった。
　ロアは言った。
　光体はヒトの知覚を試すものだと。
　遠くにあるほど“恐ろしいもの”として見せ、
　近くにあるほど“真実”を見せると。
　―――だから。
　肌が触れるほどの、瞳が合うほどの距離になった時、やっと、その真実を垣間見られる。
　―――なんて、美しい。
　一番はじめの感情を思い出す。
　何度も刻みつけた感情を思い出す。
　人殺しである俺を許してくれた、月の花を思い出す。
　こんな時に、いや、こんな時だからこそ、自分のろくでもなさを思い知る。
　この先、何があろうと、誰を愛そうと、それとは違うところで、遠野志貴はこの生き物を美しいと感じるだろう。
　……俺は、夢を見る事はできないけれど。
　その<夢|もしも>に、一生を費やして恋い焦がれる。
　胸に咲く花のような、出会う事のなかった運命を。
　カルヴァリアの火が、文明社会に君臨する巨人を射貫く。
　脳天から大地まで。
　光弾はその足元に穿たれた大穴まで貫通し、
　白い躯は粒子となって拡散していく。
　勝利した感慨はない。
　やり遂げた高揚はない。
　―――なぜなら、ここまでは“可能性の範囲”だからだ。
　ヤツは言った。
　光体を倒すだけでいいのなら、と。
　あれは罠に満ちた、けれど誠実な申告だった。
　何事も“勝てば終わり”というものじゃない。
　難しいのはその後始末。
　光体を止めた後、その後に来る『現象』への対処を、ロアは語らなかった。
　つまり、ここから先の出来事は―――
　惑星の地表を更新する<機能|システム>。
　未知の霧が晴れるように、光体の<威容|すがた>は消え去った。
「―――来る」
　その時。
　それが当然だと知っていたかのように、知らず、オレはそう呟いていた。
　直径２メートル大の球体に光体の粒子が収束する。
　遠野志貴には理解できずとも、これがそうなのだと、先ほどまで同居していた吸血鬼の記録が語る。
　変革の時が来た。
　天体の卵。
　惑星の記憶。
　全てを知ろうとした<少年|ミハイル>。
　神の愛を、永遠を定義しようとした<男|ロア>。
　機会は既に失われたが、その望みの一端が、いま、この地表に表れる。
「お―――」
　空間が上書きされる。
　全天が燃えている。目映い光を放っている。
　それはあり得ない。
　この惑星から見上げる景色ではありえない。
　宇宙とは本来暗いものだ。
　無限の星々が光を放っていようと、
　無限の広さを持つ宇宙を照らし上げるには、密度と時間が足りないからだ。
　地球から見る宇宙とは、たった138億光年分の情報でしかない。その程度の光源で、暗く冷たい宇宙を照らし上げるコトはできない。
　だが―――もし、まだ宇宙の広がりが僅かであると仮定したら。
　■■■■■■というものがあるとすれば。
　何よりも<未|あたら>しい、何よりも<移|とお>ざかる、
　真紅の<宙|ソラ>が放出される。
「おお―――」
　これは概念の宇宙。
　地球の生命は記憶していない領域。
　人類の観測では手の届かない法則。
　無限にして最小の、最奥に至るソラの空洞。
　その奔流の中、ただ一つの例外として、俺は現実にはない速度で落下していく。
　惑星の重力に拮抗する第一宇宙速度。
　惑星の重力から<脱出|のがれ>る第二宇宙速度。
　そして、太陽の重力からすら飛び立つ、第三宇宙―――
「おおおおおおおお！」
　数多の星、数多の始まりが、通り過ぎていく。
　人間では種の寿命をかけても見る事のない事象が過ぎ去っていく。
　関係ない。興味もない。
　今の俺には、あの輝きしか目に入らない。
「アレか―――！」
　引力操作で着地点を定める。
　200メートル直下の、光体の心臓に向けて落下する。
　光体からの反撃はない。
　無防備なのも当然だ。文字通り丸裸にされたのだから。
　とはいえ、霧散したのは中心部分だけのところを見ると、この状態も長くは持たない。
　光体はすぐに元に戻るだろう。
　その前にあの“心臓”を解体する。
「ふぅ―――――――――！」
　この速度では心臓に留まる事はできない。
　接触は一瞬だけ。落ちながら、すれ違う事しかできない。
　―――接触に備える。
　―――ナイフを握る右手を胸の位置に構える。
　―――心臓、というのはあながち間違いではない。
　死の点も、死の線も見えない。
　わきたつ生命の鼓動。
　全ての源にして、最後に還りつく星の墓所。
　それは熱しながらも冷却されている、天体の卵のようだ。
　これを殺す事は、今の遠野志貴にはできない。
　そして殺す必要もない。
　完全であるが故、それは僅かな傷一つで価値を失い。
　夢から覚ますだけなら、ちっぽけな人間の手で充分だ。
　世界に<意|い><味|ろ>が戻っていく。
　どれほど広範囲に亘る“収納”だったのか俺には判らない。
　収納を行っていたアルクェイドを叩きのめした事で『意味の取り上げ』はキャンセルになり、一連の戦いでの被害も『無かった事』になっていく。
「―――、はあ」
　気が抜けた途端、地面に尻餅をついていた。
　世界は元通りになっても、世界が仕舞われている時にこちらに取り残されていた俺の体は『無かった事』にはならない。
　幾度となく傷つき、その度に再生した手足。
　酷使に酷使を重ねた結果、身体器官はまともに機能できずにいる。
　燃やせる<熱量|カロリー>も底を突き、血液は足らず、
　意識は、今にも断線しかかっている。
「―――、――――――」
　満足に呼吸をする体力も、機能もない。
　ここが学校のグラウンドである事も、こうして座り込んだ時に気付いた程だ。
　光体は学校まであと数歩のところまで移動していたらしい。
「―――なんだ。最後の最後に、悪運に恵まれたのか」
　共に偉業を成し遂げたロアに話しかける。
　返事はない。
　今まで頭の中にあった違和感もない。
　吸血鬼に変わろうとしていた自身の体への、あの泣き叫びたくなる嫌悪感も、もう、ない。
「――――――」
　……途中で判っていた事だ。
　そもそもヤツはすべての元凶だ。
　喜ぶべき事だとも理解していた。
　その上で、わずかな寂しさを覚えてしまった。
　決して相容れない吸血鬼ではあったが、ヤツにはヤツなりの道理があった筈だ。俺のように数年のものじゃない。1000年にも亘る、譲れない執念が。
　それを、ヤツは最後に“もういい”と手を放した。
　これ以上、自分が残る理由はない、と。
　光体を無力化できたのはカルヴァリアの火力に、ヤツ自身が込められていたからだ。
　光体にはナイフは通らなかった。
　光体はアルクェイドのイメージで出来ている。アルクェイド本人に“通じる”とイメージさせるものでしか、光体を傷つける事はできなかった。
　光体が“思わず”損傷してしまったのは、
　直前に手酷い目に遭わせられたカルヴァリアの痛みの記憶に、ロアが持つ『アルクェイド本人の力』が組み合わされたものだったからだ。
　ロアの吸血鬼としての能力。
　転生体として活動する為の<原理|イデア>。
　それらはすべてアルクェイドを<拐|かどわ>かして奪ったもの。
　だから―――光体になっていたアルクェイドは、自分の力を受け入れるかたちで、あの一撃を受けてしまった。
　まさにシエル先輩とロアの協力技だ。
　他のどんなものであれ、光体を解除する事はできなかっただろう。
「―――本当に、総力戦だったんだ」
　……だっていうのに、なんていうか……。
「ふん。情けない姿。所詮は人間ね。
　放っておいても心臓が止まりそうじゃない」
「なんだって空気読まずに出てくるんだよ、おまえは！」
　しかもピンピンしていやがる！
「な、何よ。勝負はまだ、」
「終わってる、完膚無きまでに終わってる！　誰がどう見ても俺たちの勝ちでおまえの負けだ！
　あんだけ好き放題やってやられたクセに恥ずかしいとか反省するとかないのかおまえは！」
　悪びれもせずモデル歩きで出てきやがって、どんな神経してんだよ！
「あ、あったり前じゃない！
　わたしはぜんぜん平気だし。疲れてないし。
　このまま第３ラウンドに移行しても構わないし！」
　あからさまな強がりだった。
　今のアルクェイドがシエル先輩と戦ったら間違いなく瞬殺される。
「体中に線走らせておいて笑わせるな！
　だいたい巨大化とかふざけてるのか！？　俺じゃなかったら二度と話しかけないレベルだかんな、あんなの！」
　めっちゃ恐かった、と追い打ちをかけないあたり、自分の優しさに感心する。
　呆れて口ぽかーん状態でもアルクェイドへの気遣いに満ちた俺である。だが。
「バッカじゃない！？
　わたし、ぜんぜん本気じゃなかったもん！
　手加減してたもん！　それに、志貴のコトなんて最後まで気がつかなかったわ！」
「うっそつけぇ！」
「そ、そりゃあちょっとだけ視界に入ったけど！
　でも基本は無視していましたよーだ！　わたしの強固なガムテの緒に感謝するコトね！」
　堪忍袋の緒、と言いたいらしい。
　その我慢強さ……いや、プライドの高さには感謝しておく。
　本来なら理性を失っていて当然だったんだ。
　不意打ちで殺され、拒絶され、最後に真祖としてのプライドさえ殺された。コイツ、これで俺を殺せなかったら地球を壊すぞ、間違いなく。
「まあ、そんな余力はないだろうけど」
「あるわよ！　がんばって頑張ります！」
「そうか、応援してやるよ。学校ひとつ潰せなかったポンコツだもんな、おまえ」
「あれは志貴が悪いんじゃない！
　待ってて、って言ったのに追い掛けてくるとか、しつこいにも程があるっ！　このストーカー！　はじめての時から何も変わってない変質者！　女の尻を追い掛けるコトしかできないのかしらね！？」
「ごほっ……！」
　くそ、あまりの的確な表現に咽せてしまった……！
「相変わらずヘンな言葉だけは詳しいな！　何も変わってないのはお互い様だ、ばーか！」
「とにかく、よくもやってくれたわね！
　もう本当に許さないから。でも謝罪の言葉があるなら少しぐらいは聞いてあげる！」
「ない。一っっ言もない。むしろ笑いを堪えているのを褒めてほしいんだけどな！」
「ぜんぜん堪えてないんですけど！　超ニヤけてるんですけど！　なにその憐れみの目！　むかつく！」
「憐れみじゃない。呆れてるんだ。こんなひっどい、」
　―――目を奪うように眩しい、
「吸血鬼がいるとか、地球って凄いなって！」
「ロアより最低な人間がいるとは思わなかったわ！
　もう知らない！　せっかく許してあげようと思ったのに、
　ばーか、ばーか！」
「バカがバカバカ言うな、バカの価値が下がるからな！
　バカはひとりいれば充分なの！」
「なにそれ、意味わかんない！
　ばーか！　ばかばかばか、志貴のばかーーっ！」
「はいそうですね、バカって言うヒトがバカなんですぅー！」
　俺たちは互いに近づく事はなく、馬鹿を言い合うだけのマシーンになった。
　罵り合いは競い合いに変わり、やがて笑い声になった。
　馬鹿馬鹿言いすぎてゲシュタルト崩壊を起こしたのだ。
　俺たちは罵り合っていた時と同じ、素直な心のまま、楽しくて笑っていた。
　……そうして、すべての気持ちを吐き出したあと。
「ごめんな、アルクェイド」
　自分でも驚くくらい、温かく、悲しい気持ちで、
「俺はたぶん、おまえといるとすごく楽しい」
「でも、自分の幸せより、先輩の幸せをとったんだ」
　最後の別れを、言葉にした。
　……世界の眠りが覚める。
　光体の残滓は消え去り、
　白い化身は変わらずにそこにいる。
　―――後は。
　この、終わりかけた体が、ここに至るまでの奇蹟の代償を、支払うだけだ。
「遠野くん―――！」
　駆けつける足音。
　……そうか。学校なんだから、先輩がいるのは当然だ。
　俺以上に傷つけられ、恐怖を刻みつけられたというのに、彼女は怯む事なくアルクェイドと向き合った。
「……光体を解除したのですね、アルクェイド。
　何のつもりか知りませんが―――」
「呆れた。粉々にしてあげたのに、もう動けるようになってるなんて。ロアがいなくても頑丈なのは変わらないのね」
「―――へ？」
　アルクェイドにはもう何の気配もない。
　先輩への殺意も、俺への怒りも、ロアへの狂気も。
　そして、彼女自身の、存在への強い意志も。
「わたし、そろそろ帰るわ。
　いいかげん眠くなってきちゃったし」
「え……え？」
　困惑するシエル先輩。
　目が覚めればロアは消え、最大の敵も去ろうとしている。
　本来なら喜ぶべき事だ。けど、それを口にするアイツがあまりにも晴れやかで、目を疑っている。
「で、でも―――！　貴女も、彼を」
「そんな意地悪なひと、どうでもいい」
　金の髪がなびく。
　白い吸血姫は、自分のいるべき場所に踵を返し、
「シエルにあげるわ。―――大切にしてね」
　……俺と同じ。
　誰かの幸福を祈る微笑みを浮かべて、この夜に消えていった。
　胸に刻まれる、別れの記憶。
　その痛みに目を細めながら、かろうじて保っていた意識が途切れていく。
「―――、―――」
　先輩、と呼びかけた声は、音にならなかった。
「ひどい―――何があったんですか！？
　しっかり、しっかりしてください、遠野くん……！」
　何って、まあ、いろいろあったんだけど―――
『大丈夫。もう何も心配はないですよ』
　そう口にしようとして、喉はおろか、呼吸さえできない事に、気がついた。
「……！　……！」
　……まいったな。
　アイツ相手に体力を使いすぎた。
　最後にこんな姿を見せるなんて、情けない。
　先輩を泣かせるなんて以ての外だ。
　何かもっと、安心させる言葉をかけたかったのに。
　―――戻れない暗闇に沈んでいく。
　―――でも、これで肩の荷はおりた。
　―――馬鹿は馬鹿なりに、やるべき事を終わらせた。
　―――だから。目が覚めたら、胸を張って、先輩に―――
　ここにいても消耗するだけだ。
　アイツの足元から見上げていても先輩は助けられない。
　もう一度、なんとしても上に出る。
　きっと、まだ見落としているものがある。
　情報さえあれば打開策は見つけられる筈だ……！
　まずは木の根のジャングルを抜けないと。
　根の上まで出たら、背の低いビルを探して跳び移ろう。
　勝負はそこからだ。
　血液中に含まれる魔力。これを消耗すると『吸血鬼としての特性』は低下するが、心臓を通して循環させる度に、少しずつだが血中の魔力は回復する。
「―――よし」
　慎重に、血液消費を最小限に抑えながら根を上る。
　上にさえ出れば都市上層に戻るルートも探せる。
　あとは一回目と同じように光体の背後に回り込んで―――
　な、なんだ、体が勝手に―――！？
『“あきれた。自分から姿を見せるなんて。
　　人間って、
　　もう少し頭のいい生き物だと思っていたけど”』
　見えない“何か”に持ち上げられていく。
　周囲で吹き荒れている乱気流とは違う。
　これは、
　アルクェイドの遠隔干渉、念動による物質操作だ。
　―――俺はバカだ。
　もう死角は存在しない。
　光体に近づけたのは、アイツが俺を意図的に無視していたからだ。
　それも先ほどの口ゲンカで無くなった。
　根の下で隠れていないかぎり、俺は何をしても魔眼に捕らえられる。
　それだけじゃない。
　ここはアイツの膝元だ。
　こんな足元から姿を出せば、それこそ殺してくださいと言っているようなものだったのに……！
「あ、うわ、高い、高い！」
　ばたばたと手足を動かして抵抗する。
　だがクレーンに引き上げられるように、体は上空に上がっていく。
　目的だったビルの屋上より高く。
　もう、俺ひとりでは逃げようのない都市上空まで、為す<術|すべ>無く運ばれていく。
「あ――――――」
　巨大な“ヒトの輪郭”を前にして、認識がエラーを起こす。
　あり得ない存在なのはこの巨人だというのに、なまじヒト型であるから、どちらがおかしいのか分からなくなる。
　コイツが大きいのか。俺が小さいのか。
　コイツが普通なのか。俺が異常なのか。
　俺はいま恐怖で体が震えているのか。
　それとも、その美しさに戦慄しているのか。
　感覚が、外界への認知力が、完全に麻痺している。
　ただひとつ確かな事は、
『“そう。もう絶対に、逃げられないという事よ”』
　反撃も抵抗も、許されていない事だ。
　空中に縫い付けられた生け贄に、大気の爪が緩慢に振るわれる。
『“そういえば、さっきのお返しがまだだった。
　　遠慮しないで。わたしと志貴の仲だもの”』
『“ぜんぜん効かなかったけど、
　　ナイフをつきたてられたのは事実だし”』
『“ランドマークだの、でかぶつだの、
　　失礼な表現をされた事だし”』
『“これくらいは、そのちっぽけな体で
　　あがなってもらわないとね？”』
　猫が鼠をなぶるように、一度、二度、三度、数度。
　人間よりいくぶん頑丈なだけの四肢は、そのたびにもがれていく。
「ぁ―――く、あ、ぐあ…………！！！」
　食いしばった歯から苦痛の声が漏れる。
　痛みがある、という事は感覚が繋がっている、という事だ。
　何も出来ない張り付けの状態であっても、身を守る動作くらいは行える。
　俺は無駄と知りながら、大気の爪に襲われる度、全身に力をこめて、ゴミクズにされないよう耐えるしかなく、
『“ふふ……ふふふ……あはははは！
　　なんだろう、なんだろうこの気持ち！
　　クセになっちゃいそう、わたし！”』
『“ほらほら、がんばるがんばる！
　　さっきからシエルが暴れてるわ！
　　すっごい、ちょっと指動かされちゃった！
　　やっぱり最高の玩具ね、アナタたち！”』
「ぁ……、っ……ぁ…………――――――」
　抵抗する努力も、根気も、程なくして、消え去った。
　……今までの相手とはスケールが違う。
　勝ち目のない相手。
　対抗策すら思いつかない“何か”に責められる事は、ここまで心を殺すのだと、思い知った。
『“さっきまではちゃんと
　　避けていたのに、どうしたの？
　　ピンで打たれた標本になっちゃった？
　　あ。そっか、わたしが捕まえてるんだっけ！”』
　体を<中|そ><空|ら>に縫い付けていた力が外れる。
　念動から解放され、一直線に、地上まで落下する。
　白い地面に不時着する。
　手足のない体では受け身もできない。
　苦痛の叫びをあげようにも中の機能が痺れている。
　だがさっきよりはマシだった。
　地上80メートルの高さから、今は50メートル。
　どのみち絶望的なのは変わりはない。
「ぁ……はあ、あ―――」
　逃げよう。逃げないと。
　逃げられないと分かっていても、逃げないと。
　腹ばいで、巨人の掌の上を移動する。
　……心なしか。
　目前に広がる白い地面は、先ほどより何倍も大きく感じられた。
『“ごめんなさい、つい落としちゃった。
　　この体、まだ慣れてなくて。
　　ま、時間はあるし。ゆっくり調整すればいいか”』
　白い地面が中心に向かってくぼんでいく。
　狭められる。
　地面があるというのに、世界は荒れ狂う海のようだった。
　ちっぽけなニンゲンは肉の隆起に翻弄され、前に進むことさえままならない。
　眩しい。目を開けているのに何も見えない。
　いや、この白い世界しか眼に入らない。
　皮膚という皮膚にくまなくアイツの体温を感じる。
　脳を直接焼くように熱いアイツの吐息を感じる。
　肉体は鈍化する一方なのに、感覚は研ぎ澄まされていく。
『“――――――”』
　……だめだ。こんなの、圧倒的すぎる。
　自分が何をしていたのか、何の為に戦っていたのか、考える事ができない。
　どうやって逃げるのか。どうすれば助かるのか。
　たった一つ、たったひとりへの感情しか働かない。
　いま、自分を苦しめているこの世界の事だけしか―――
『“……………………”』
　……熱い。
　……熱い。
　……熱い。
　自分の体温だけでなく、自分の呼吸だけでなく、
　他のものと合わさり、同期していくような高温。
「―――、―――、――――――」
　もがけばもがくほど溺れていく。
　逃げれば逃げるほど息が途絶えそうになる。
　もう俺は死に体だった。
　動いている方がおかしい状態だった。
　それでも体が、心臓が、あえぐように活動している。
　広大な肌の上でのたうっている。
　―――熱い。
　全身に走る痛みや絶望より、得体の知れない熱量が、俺の体を動かしている。
『“……………………”』
　その様子を、アイツは一心に凝視している。
『“……もう絶対に、
　　わたしから触ってなんか
　　やるもんかって、思ったけど”』
『“……我慢、できなくなっちゃった。
　　……ん。
　　もうわたしのものなんだし、
　　なにをしたって、かまわないわよね？”』
　巨人の人差し指が屹立し、内側に折れ曲がる。
　ぐりぐりと。
　掌の上でもがく芋虫を上から押し潰す。
「―――、―――………………！」
　喉から息はでるものの、声にならない。
　肉を圧し、骨を砕いて、ヒト型のペーストになる直前、白い指は離れていく。
　……最悪なのは。
ここまでされても、遠野志貴はまだ生きている、という事だった。
　……そうか。光体に触れている事で、望まずとも魔力が補充されているのか。
　体内の血液はその力を容易に取り戻し、傷ついた箇所を再生させている。
　その結果、
『“―――ふふ。
　　<志貴|アナタ>が吸血鬼になって、ひとつだけいいコト、見つけちゃった”』
『“じっくりと遊べること。”』
『“<弱いもの|かわいいもの>をいじるのは、少しだけ楽しいわ”』
　何をされようと、どんな傷を負わされようと、殺されず、逃げられない。
　掌の上の牢獄。
　俺は血の海の中で息を乱しながら、見せかけの希望にすがるだけの虫になった。
　絶好の散歩日和だった。
　空はどこまでも澄み渡り、太陽は山脈の遥か向こうにあって<燦然|さんぜん>と輝いている。
　こういう空を<碧天|へきてん>と言うらしい。
　いつもの広場で足を止めてベンチに座る。
　真後ろのベンチには先客がいて、黙々と本を読んでいる。
　その様があまりにも自然だったので風景と見間違えた。
　神父服を着た男は、まるで何百年もそうしているかのように、終わりのない頁をめくっている。
「こんにちは。いい天気ですね」
　ともあれ、こんな空の下で出会ったのだ。
　挨拶をするのが人間らしい礼儀というものだろう。
「ええ、良い天気です。晴れた日は陽差しが強すぎて眼が疲れるのが困りものですが、太陽の匂いはやはりいい。部屋にこもっていると忘れがちな、万人に平等に与えられた自然の恩恵というヤツですね」
　苦笑しながら頁をめくる神父。
　これ以上ないというほど冷酷な声だったが、その語り口は柔らかく、人間的な魅力に溢れていた。
　しかし不思議な事に、どれほど観察しても顔が見えない。
　彼がどのような人間なのか。
　はじめの彼がどんな顔立ちをしていたのかが判別できない。
　まるでピントがボケた写真のようだ。
「じゃあ、これから例の城に？」
　なんとなくそんな気がして話しかける。
　神父は照れくさそうに頷いた。
「どうして転生なんかを？　一個体として生き続けた方が簡単だし、なにより人に迷惑をかけないでしょうに」
「それでは限界に辿り着くからですよ。
　人間の知覚、全能への道には果てがない。どれほどの超越者になろうと上には上がいる」
「私は完全なものを理解しようと考えた。
　永遠なるものの背中に手をかけようと試みた。
　であれば、己に支払えるものは全て支払うべきでしょう。
　<個|い><人|ち>を捨て<歴史|じゅう>を得る。
　初期衝動を薪にし、自分自身を灰にしても、私だったものが目指した“人間の意味”を、証明すると決めたのです」
　彼の言う“人間の意味”とは何なのか、自分には分からない。
　ただ、それはそう崇高なものではなく。
“世界の果ては、
　<人間|わたしたち>の<先端|みらい>は、どのようなものなのか”
　誰もが幼い日に感じ、忘れ去る憧憬を、いつまでも持ち続けた結果だった。
　風が出てきたらしい。
　空には雲がかかり、広場には灰色の陽差し。
　神父服の男がどんな<表|か><情|お>をしているのか、やはり読み取れない。
「天気が崩れてきましたね。俺は帰りますけど、貴方は？」
「私に帰り道はありません。片道切符というヤツです。それも、ここで終点のようですが」
　声に悲嘆の色は見られなかった。
　男は満足も、失望もしていないようだ。
　日が陰り始める。
　じき夕暮れ。俺はベンチを立って帰路につく。
　振り返る気は起きなかったし、その必要もない。
「ですが一つ、言葉を残しましょう」
「夜に虹がかかる事はない。確かにその通りです。
　本来、それはありえない事ですからね。
　ですが―――
　ありえない事とは、まだ誰も成し遂げていない、という事でもある」
「もし君が未踏の航路に旅立つのなら忘れない事です。
　この世界に起こりえない事はありません。
　アナタの人生において、己の全てを支払う好機に出逢えるのなら。
　どんな闇の中であろうと虹をかけるくらいはできるでしょう」
　神父服の男はもういない。
　ベンチに置かれた一冊の古びた本。
　それはパラパラと頁を風に散らしながら、<痕跡|こんせき>を残す事なく、この世の果てに飛んでいった。
　目を覚ますと、そこは懐かしい匂いのする病室だった。
「…………生き、てる」
　呼吸に合わせて胸が上下する。
　開かれた窓から気持ちのいい風がそよいでいる。
　黄色のカーテンが風になびいている。
　外は目を奪われるほどの鮮やかな青空で、
　気温は春先のように暖かだった。
「生きてる……俺」
　呆然と呟いて、きょろきょろとあたりを見渡した。
　病室には誰もいない。
　俺はベッドに横になっていて、右腕には点滴の針が刺さっている。
　胸には包帯があって――――
　点滴の針を外して、胸の包帯を剥ぐ。
　包帯の下にはこれといって異常は見られなかった。
　あるのは自分の胸だけで、傷痕はおろか染み一つない。
　……かすかに首をかしげる。
　俺は、胸に包帯を巻くような怪我を、したんだろうか。
「―――――」
　開けっぱなしのドアの向こう。
　誰もいない廊下で、見知らぬ子供が病室を覗いていた。
「……………」
　きみ、
と呼びかける前に、子供は歩み去っていった。
　―――――なんだろう、今のは。
「―――――なにか」
　忘れている気が、する。
「遠野、入るぞー」
　子供と入れ替わりで有彦がやってきた。
「お、今日はハッキリ目が覚めてんな。結構結構！」
　陽気に笑いながら、有彦はベッドの傍までやってくる。
「……有彦。おまえ、なにしてるんだ」
「はあ？　なにって、遠野の見舞いに来てやってんですよ。
　昨日と同じ質問しやがって、まだ寝ぼけてんのかおまえは」
「見舞いって、誰の？」
「あのなあ。そりゃあ一ヶ月も面会謝絶になってりゃ色々ダルいだろうが、昨日と同じコトばっかり聞くなよな。
　自分の事なんだから、医者にさんざん説明されたんじゃなかったのか？」
　呆れた風に言って、有彦は椅子に座った。
「…………」
　そういえば、ぼんやりながら思いついてきた。
　昨日、たしかにお医者さんに、
“回復おめでとう。ただし体が<鈍|なま>りきっているから大人しくするように”
　といった注意を受けた気がする。麻酔の影響か、断片的にしか記憶していなかった。
「おーい、いいかげん起きやがれー、寝惚けるのもここまでですよー。おまえさん、ここんとこずっと入院してたんだっつーの」
「……ああ。まあ、それはなんとなく分かる、けど……」
　前後関係が思い出せない。
　俺は確か、
「まだ本人の認識が追いついていない、とか医者は言ってたからな。ま、しゃーねえ。医者にあれこれ説明されるよりオレが教えてやったほうがフレンドリーってもんだろ」
　うむ、と鹿爪らしく腕を組んで、有彦はまっすぐに視線を合わせてきた。
「もう一ヶ月近く前の話。
　おまえ、学校のグラウンドで倒れてたんだってよ」
「………グラウンド…………」
　―――なんだろう。
　言われてみると心当たりがあるような、ないような。
「三年の先輩が朝一番で見つけたらしいぜ。
　夜明け前だったそうだから、遠野は夜のうちに倒れたんじゃないかって言われてるけど、どうなんだ？」
「いや、どうなんだって言われても。
　そもそもグラウンドに寄りつく理由ないぞ、俺」
「そりゃ部活もやってねえしな。
　つーか夜にグラウンドでやるコトなんてロック活動以外ないしなあ。遠野くんったら、屋敷の生活でストレスたまっちゃってたんじゃないのぉ？」
　カラカラと有彦は笑う。
「真相は何であれ遠野が倒れていたワケだ。
　いつもの貧血ってコトで保健室に運ばれたんだが、これが一向に目を覚まさない。
　仕方ないんで遠野んちに連絡して、そのまま病院に担ぎ込まれたんだよ。それから一ヶ月近く、おまえさんは昏睡状態だったんだぜ？」
「一ヶ月も昏睡状態って―――それって、普通」
「ああ、医者のほうもサジを投げてたらしい。昏睡が一週間も続けば立派な植物人間だからな。
　オレも昨日、おまえが目を覚まして“よっ、有彦。ハラへったからメシ”なんてほざいた時は心臓止まるかと思った。心筋梗塞のバトンタッチかっつーの」
　あははは、と本気とも冗談ともとれる笑いをこぼす有彦。
「ま、遠野はいつくたばってもおかしくないヤツだったからな。オレは半ば悟りの心境でずっとオネムだろうと思ってた分、余計にびっくりしたのだ」
「……おまえな。人がそんな状態だったっていうのに、随分なコトを言ってくれるじゃないか」
「いーじゃん、ちゃんと回復したんだから。
　だいたい、おまえが光合成してた時は凄かったんだぞ。
　回復する見込みもないのに秋葉ちゃんは毎日見舞いにきて、同じく先輩も毎日来るもんだからもう居づらいのなんのって。薬局で胃腸薬買ってくるの日課になったからね、オレ」
　ご丁寧に大手ドラッグチェーン店のポイントカードを見せつけられた。
　なるほど、ポイントが30日分貯まっている。
　……って、ちょっと待った。
「待て有彦。その、秋葉ちゃんって何？」
　自発的に死にたいの、おまえ？
「秋葉ちゃんは秋葉ちゃんだ。遠野の妹さんで、ここで顔を合わすたびにオレたちは親密な関係になったりならなかったり」
「……そうか、あいつ見舞いにきてた、のか。
　そして親密な関係にはならなかったのか……」
「ねえ、なんでそういうコトだけ明確に分かるのおまえ？」
　どうかしている。有彦に言われて、やっと秋葉の事を思い出すなんて。
　この病室以外の事は、すべて無くなっていたかのようだ。
　……切っ掛けがあれば思い出せるので問題はないが、自分がふわふわしているようで不思議な感じがする。
「……しかし、それはホントご苦労さまだったな有彦。
　秋葉のヤツ、わりときついだろ？　時々厳しいコトを言ってくるだろうけど、大目に見てやってくれ」
「わりと、時々！　
すごいな遠野、オレは今ほどおまえを大物だと思ったコトはないぞ！」
　有彦は腕組みをして、嬉しいんだか引きつっているんだか分からない笑い声をあげる。
　有彦はいつも通りだ。
　正直、何がどうなったのかさっぱりだけど、こいつの底抜けの明るさで気持ちは落ち着いてくれた。
「―――――はあ」
　ベッドに体を預けて、深く深呼吸をする。
「おっと、そろそろ診察の時間か。
　それじゃまたな。先輩も連れてこようとしたんだけど、学校で会うからいいって来なかったんだよ」
「……
先、輩？」
「そっ。今まで毎日来てたんだぜ？
　なのにおまえときたら、昨日起きてすぐ先輩に抱きついちまってさあ。先輩、もう病院には行きませんってヘソまげちまったんだよ。先輩怒ってたからな、言い訳ぐらい考えとけよ」
　言って、有彦は病室から去っていった。
「…………先輩？」
　ちょっと、よく、思い出せない。
　自分にとって先輩と言ったらあの人しかいない。
　名前も、顔も、どんな人だったかも知っている。
　なのに、どうしてか。
　俺は、その先輩とやらの事を深く考えてはいけない気がした。
　ふわふわしている。
　一ヶ月の記憶の欠落と、体がまったく動いてくれない所為だろうか。
　なんだか、足りないモノがある気がする。
　あやうく、気付いてはいけないコトがある気がする。
　うっかり、思い出すべきではないコトがある気がする。
　それと―――
　ひどく、かなしいコトが、あった気がする。
　―――そういえば、もう一つおかしな所がある。
　自分はこの病室に見覚えがある。
　けど、俺の記憶が確かなら。
　七年前のあの病院は、もうとっくになくなっているハズなんだけど。
　翌日、屋敷に帰ってきた。
　長く眠っていたせいか、ようやく帰ってきたというのに、これが初めての訪問のように思えた。
「………？」
　屋敷の裏の森を歩いていると、おかしな場所に出た。
「…………」
　……知らなかった。
　森の中に、こんな和風の屋敷があったなんて。
「――――――！」
　がさり、と背後で物音がした。
　振りかえると、そこには―――
　見知らぬ、着物姿の子供がぼんやりと立っていた。
「―――――――」
　……迷い込んだのだろうか。
　子供はどこか浮世離れしていて、それこそ幽霊かなにかのようだ。
　ただ、その胸。
　はだけたその胸にある何かの痕が、ひどく――――
「志貴さん、
何をしていらっしゃるんです？」
「えっと―――琥珀、さん？」
　どう見ても琥珀さんなのに、違う名前が頭に浮かんでしまって、少しだけ戸惑ってしまった。
「はい、志貴さんをお迎えにあがりました。
　玄関で待っていたんですけど、志貴さんったら森の方に歩いていってしまうんですもの。わたし、なんか驚いちゃいました」
　琥珀さんはいつも通り、こっちが嬉しくなるような笑顔をつくっている。
「……いや、ちょっと寄り道したくなって。
　琥珀さん、さっきの子はどこの子？」
「はい？　子供って、なんの事ですか？」
　彼女は子供の姿を見なかったみたいだ。
「いや、見なかったならいいんだ。
　屋敷に行こうか。秋葉のヤツ、待ってるんだろ？」
「ええ、秋葉さまは何もおっしゃりませんけど、今朝はずっと執務室でぐるぐると歩きまわっていらっしゃるんです。きっと志貴さんのお帰りを今か今かとお待ちしているんですよ」
「―――そっか。そりゃあ早く行かないと、どんな文句を言われるか分からないな」
「はい、急ぎましょう志貴さん」
　琥珀さんは俺の手を取って屋敷へと走り始める。
　―――去り際。
。
　後ろ髪を引かれて、もう一度だけ和風の建物を振り返る。
　……幻だろうか。
　子供はじっと、何か言いたそうな目をして、走り去っていく俺の背中を見つめていた。
　旅客機が危なげなく滑走路に着陸するように、遠野志貴はもとの生活に戻っていた。
　屋敷に帰って、秋葉に小言を言われて、朝になったら翡翠に起こされて、琥珀さんの朝食をいただいて屋敷を出る。
　―――でも、何かが欠けている。
　理由もなく悲しい。
　ただこうしているだけで泣いてしまいそうなほど、悲しい。
　その理由を思い出せないまま、普段と何も変わらない、平穏な学校に到着した。
「よっ、おはようさん。
もう学校に来ていいんだ、おまえ」
　気軽に声をかけてくる有彦。
「あとしばらくはリハビリだって聞いたけどな。
　そっか、そんなに無理して学校に来るっていう事は、やっぱりそういうコトですか」
　にしし、と意味ありげな笑いをする。
「そうだよなあ、
あと二ヶ月ちょいで卒業式だもんな。一緒にいられるのもあと少しってワケだ」
　……？
「……わからないな。一緒にいられるって、誰とだよ」
「誰とって、そりゃあおまえ――――」
　あやうく、気付いてはいけないコトがある気がする。
　有彦の声が止まる。
　たっ、たっ、たっ、という軽快な足音が聞こえてくる。
　明るい春先の陽射しの下
。
　息を弾ませて、彼女は目の前に現れた。
「おはようございます。
今日もいい天気ですね、遠野くん！」
　その人はいつも通りの笑顔をしていた。
　目が覚めてから忘れていたひとの名前を思い出す。
「―――先、輩」
　息が詰まる。
　こみあげる涙を、気付かれないようにぬぐう。
　……何故だろう。
　本当に、理由が分からないのだけど。
　いまはただ、その笑顔が、悲しかった。
「遠野くん？　おはようございます、ですよ？」
「あ―――うん、おはよう、先輩」
　ぎこちない仕草で挨拶を返す。
　先輩はどこか納得いかないような顔で首をかしげた。
「もうっ、せっかく退院できたのに元気がないです。
　わたし、元通りになった遠野くんに会えると聞いて楽しみにしてたのに」
「楽しみにしてた……？」
　どうしてか、思い出せない。
　何があったのか。
　この人とは、とても大切な事柄を分け合った気がするのに、思い出せない。
　覚えている事と言えば、この人は三年の先輩で、どうしてか俺と有彦と気が合って、昼休みに三人で過ごしていた事ぐらいしか、思い出せない。
　……そうだ。
　他のことは思い出せない。
　それは悲しかったり辛かったりする事だから、いらないモノだと切り捨てたみたいに、思い出せない。
「もう、遠野くんったら約束を忘れたんですか？」
　先輩は不満そうに見つめてくる。
　―――約束。
　　　　約束。
　　　　大切な、約束―――
「ほら、今度三人で遊びに行こうって言ってくれたじゃないですか。遠野くんはその前日に倒れて病院に運ばれちゃいましたけど」
　本当に、そんな些細なコトが楽しみそうな顔だったから。
　他のことなんて、もうどうでもよくなってしまった。
「……そう、だね。そういえば、そうだった」
「はい。今度は忘れないでくださいね、遠野くん」
「いや、今度こそ忘れていいぞ遠野。
その時こそオレはキメにかかるからな」
　……いつか聞いたような事を有彦は繰り返す。
「だめですっ！　こんな機会は滅多にないんですから、今回だけは三人で行かないと！」
　むっ、と先輩は珍しく怒っている。
「そ、そんなコトないですって。オレたちまだ学生なんだから、遊びに行く機会なんていくらでもあるじゃないッスか」
「ええ、たしかに遠野くんや乾くんはお暇でしょうけど、わたしは春から忙しいんです。進学先がちょっと遠いですから、そう簡単にこっちには戻ってこれません」
「あ。そっか、先輩って、たしか―――」
　言葉を飲む有彦。
　俺には先輩の言っている意味が分からない。
「はい、卒業したら海外に留学するんです。
　一人前のケーキ職人になるのが夢でしたから」
「――――――」
　先輩は笑顔でとんでもないコトを口にする。
　自分でもどうかと思うほど、目の前が真っ白になった。
「ちょっ、ちょっと待って先輩。留学するって、この街に残ってくれるんじゃなかったんですか……!?」
「ええ、残りますよ。わたしの家はこの街にあるんですから、あちらに永住するコトなんてないです。お父さんをいつまでも一人にしておけないですし。
　ただお弟子にとってくれる職人さんは厳しい方ですから、少なくとも三年は帰ってこれないでしょうけど……」
　――――――――、は？
「けど、子供のころから憧れていたコトですから。
　わたしが住み込みで働かせていただくお店はですね、王室ご用達の職人さんのお店なんです。普通はお弟子をとってくれないんですけど、筋はいいからすぐに来なさい、なんて内定までいただいちゃいました」
　先輩は嬉しそうに、聞いたこともない、
　温かな<未来|もしも>の話をしてくれる。
「そう―――それは、良かった、けど」
　やめてほしい、と。
　それ以上はやめてほしい、と漏れそうな<懇|こ><願|え>を堪える。
「はい、ありがとうございます。
三年は長いですけど、遠野くんなら待っていてくれますよね？」
　上目遣いで、先輩は照れ隠しの微笑みをする。
「わたしがいないからって浮気しちゃイヤですよ。
　遠野くんは情にほだされやすいところがありますから、ホントは連れて行きたいぐらいなんですけどねー」
　はあ、と愛らしいため息をつく。
「けどそういうワケにもいきませんよね。
　遠野くんはまだ学生さんですし、なにより秋葉さんを言い伏せるなんて一年や二年じゃ絶対無理でしょう？
　ですから今回は遠野くんを信じて、三年間だけ離れる事にしたんです」
　……そうか。
　先輩は信じてくれたんだ。
　俺がこの後もちゃんとやっていける事を。
　その結果が、
「そういう訳ですので、三人で遊びに行けるのは今回が最後かもしれないんです。ですから今度こそ、ちゃんとした思い出を作らせてください」
　彼女は、本当に嬉しそうに言う。
　―――ズキン、と。
　胸の中心が、裂けるように<蠢動|しゅんどう>した。
「遠野くん？　どうしました、胸なんか押さえちゃって。
　もう傷なんて何処にもないのに」
「―――ですよね。
　傷跡なんて、ない方がいいに決まっている」
　ひたすらに悲しい。
　そういう幸せを、この人は願ってくれたのだ。
　予鈴がなった。
　じき朝のホームルームだ。
「それではお先に失礼します。
　またお昼休みに、お邪魔しに行きますね！」
　先輩は一足先に去ろうとする。
　その背中を、
　その背中に、
　お別れを、言わないと。
「先輩のお父さんって、どんな人だったんですか」
「え？　遠野くん、お父さんを知ってるでしょ？
　わたしの家は小さなパン屋さんをやっていて、前に買いに来てくれたじゃないですか。お父さん、遠野くんのこと愉快な青年だって気に入ってくれましたし」
「――――――――――――」
　……ああ。そういう事も、ありえたのかもしれない。
　―――
でも、違うんだ。
　先輩。あなたのお父さんが、生きている筈は、なくて。
　俺が、こんな風に、生きている筈は、なくて。
「遠野くん？」
　先輩が話しかけてくる。
　あたりは急速に熱を失っていく。
「気付いちゃったんですか、遠野くん？」
　どこか物悲しい声で、そんな事を聞いてくる。
「――――――ああ、気がついた」
　言って、瞳が涙で<滲|にじ>んだ。
　―――気がつかなければよかった。
　そうすれば―――このまま幸せな時間が、誰も傷つくことのない一日が続いていただろうから。
「すごいですね。普通、気がつかないものなんですよ、こういうのって。おかしな所とか辻褄が合わない所とか、そんな都合の悪い事はみんな無視しちゃうのに」
「―――そうだね。少しぐらいおかしくても、それが幸せであるのなら、無視すれば良かった」
「そうですよ。そんな事にさえ嘘をつけないなんて、ほんと、正直なんですから」
　……先輩は。
　先輩に似た彼女は、本当に悲しそうに、そんな言葉を口にした。
「―――――――――」
　ひどく、彼女に申し訳がなくなって、後悔で胸が締め付けられた。
　でも仕方がないじゃないか。
　以前のままの学園生活。
　この街に住んでいたかのようなシエル先輩。
　七年前の胸の傷痕のない遠野志貴。
　……悲しいことは何一つない、今までに似た時間。
　―――それが、あんまりにも幸福だから。
　　　　これが夢だと、わかってしまった。
「遠野くんはいつもそうですよね。些細な事は見逃してくれるクセに、本当に見逃してほしい事だけは気がついてしまう。それが遠野くんのいいところなのかもしれません。
　でも―――今回ぐらいは、見逃してくれても良かったのに」
　……恨み事になっていない。
　そんな笑顔で言われても、ぜんぜん、恨み事に聞こえない。
「もうちょっと見ていたかったけど、ここでおしまいですね。
　あ、消えるのはこちらだけなので心配はいりませんよ。
　事情とか、そういうのを説明できなくてごめんなさい。だって、そうすると遠野くんを
泣かしてしまいそうなので。
　それは良くない、と茶道室で怒られちゃいましたからね。どうぞ、安心して目を覚ましてください」
「……どう、して」
　うつむいて、悔しさに歯を鳴らして、馬鹿な質問をした。
　駄々をこねる子供のようだ。
　そんな俺を、先輩は仕方ないなあ、なんて穏やかな目で見つめている。
「あなたはロアと共に死にました。
　そのおかげで、彼女は人間に戻れました。
　そう。人間らしく、自分の意志で、自分の欲しいもののために、生きていく自由を得たのです」
「まったく強欲ですよね。そうなった途端、どうしても、<彼女|わたし>には欲しいものが出来てしまって。
　ロアの知識も悪いものだけではありませんね。<15|キャーンズ>の秘蹟が、こんな事に役立つとは」
「どうして」
「はい。色々と考えたんですけど………
　ひとりを生かす為には、ひとり分の命が必要でしょう？」
「だから、どうして……！」
「順番の問題ですよ。わたしは先に沢山のものを貰いましたから。
　今度は、わたしが遠野くんにお返ししないと」
「―――いらない。いらなかった。そんなものより、俺は」
　さっきのような出来事を。
　なんでもない、ただ誰かと笑い合える日々の繰り返しを、
　あんなに嬉しそうに、都合のいい作り話を語っていた。
　イヤな事も苦しかった事もなくて、
　新鮮な出来事も悲しい出来事も平凡で、それなりに輝かしい毎日。
　それが。そんな、ありふれた、ものが。
「―――先輩にとって、かけがえのない、夢だったのなら」
　俺が何にも代えて、守らなくてはいけなかったものは、
「そうですね。この夢は、彼女がずっと忘れていて、ずっと欲しかったものでした。
　でも―――」
　やめてほしい。やめてください。もう終わってしまった事だとしても、どうか、お願いだから、
「この先に待つどんな贖罪より、どんな救いより。
　わたしは、あなたの幸福が、ほしいのです」
「――――――」
　罰のように目を覚ます。
　止まっていた時間が動き出す。
　俺は仰向けに、地面に横になっている。
　頭の位置には誰かの膝が枕代わりにおかれている。
　月の位置があまり変わらない。
　どうやら、ほんの少しの間だけ、眠っていたようだ。
　ロアの死によって、俺の体は吸血鬼の<規|も><格|の>ではなく、人間の<規|も><格|の>に戻っている。
　胸にあいた穴は塞がっている。
　遠野志貴の肉体は正常な状態だ。
　……そして、言うまでもなく。
　人間に戻った以上、死から目覚める事はない。
　あるとすれば、それは、何か、大きな代償が、あったからで。
「―――先、輩」
　優しく気遣われた姿勢のまま、
　目の前にいる彼女に声をかける。
　その泣き濡れた頬の跡に指を触れる。
　呼吸も、身じろぎも、返答もない。
　それはとても静かな、穏やかな死相だった。
「――――――」
　経緯は分からない。どんな手段だったのかも分からない。
　ただ、結果だけは分かる。
　ひとりの男が死んだ。
　その命を補填する為に、ひとりの女が死んだ。
　これはただ、それだけの話だ。
「――――――、ぅ
」
　胸にたまったものは感謝でも、生の実感でもない。
　眼から、喉からあふれるものは、子供のような慟哭だった。
　やめてほしいと。
　やめてほしいと、置いていかないでほしいと、言ったのに。
　自らの未来を差し出す選択を彼女はした。
「―――、――――――」
“自信はありませんけど、遠野くんといる時は、自分から諦める事はしないと誓います。
　こ、これからは恋人同士なワケですし”
　知ってる。きっと先輩は諦めなかった。だから、
「うぅ、あ―――」
」
“でもこれだけは先輩として言わせてください。
　……あのですね。遠野くんの十倍、いえ百倍以上、わたしの方が大好きですから”
　だから、最後まで俺を救う道を、諦めなかった。
　……そう。
　俺が彼女の幸福を願ったように。
　彼女は、俺の幸福を願ったのだ。
「……う、ぐ……、ああ、ああぁああ…………！」
　胸を裂くような後悔と悔しさがあふれ出す。
　今までの事への感謝も、これからの生活への希望も、
　ありえたかもしれない思い出への憧憬も、
　涙がすべて洗い流していく。
　それがこの出来事の、最後の記憶になった。
　もう取り戻せない、愛しいひとの姿を見納めする。
　月は移り、星が消えて無くなるまで空を眺める。
　夜に、虹が見える筈もないというのに。
「よし。
それじゃあ行ってきます」
　季節は初春。
　この国で過ごす最後の夜を終えて、俺は先輩の部屋に別れを告げた。
「うへ、
もう出てきたよコイツ！？
　呼び鈴ぐらい待ってろっつーの。色々と決断早いんじゃないのぉ？　そんなに生き急いでどうすんのよ、ガキのクセに」
　アパートの外にはいつもの黒塗の高級車と、ボディガード役の二人の姿があった。
「５分前行動はいい習慣だ。安藤の発言は無視するように。
　……準備はできているようだな。
　今さらだが確認しよう。本当にいいのか。取りやめるのならまだ間に合うが」
「なんだよその気遣い。ほんっと今さらですよカリウス君。
　コイツが怖じ気づくタマかっつーの。目つき見ればわかんでしょーよ。ここまで覚悟ガンギマリとか、毎日どんな悪夢みてんだっつー話でしょ」
　銀髪の男性、カリウス氏と、
　日本人と思われる男性、安藤氏。
　この二人は聖堂教会の構成員、との事だ。
　代行者ではなく、あくまで信徒として教会に所属しているらしい。
　安藤氏は警視庁の刑事であり、
　カリウス氏は<本国|イタリア>では判事であるとか。
　この二人と知り合ったのは、一年半前のあの夜の後だ。
　グラウンドから先輩をアパートに運んだ後、この二人がアパートに押し入ってきた。
　それぞれ拳銃と警棒で武装し、先輩を『回収しにきた』と告げた侵入者。そこで一悶着あったが、彼らの『上司』の登場で事なきを得、それ以来の関係だ。
「その代行者の遺体はオレが預かる。
　こいつはトップランクの吸血鬼狩りだったが、同時にとんでもねえ金喰い虫だったからな。血の一滴、骨の一本まで教会の<財|も><産|の>にするに決まってんじゃねえか」
　その乱暴な発言に眼鏡を外しかけたが、
「だいたいな、オレが引き取らなきゃ埋葬機関に送られる。
　あそこに送られたらそれこそ陵辱恥辱のオンパレードだ。
　腐らないよう、安らかに眠れるよう、金かけて保存してやる分だけオレの方がマシって話だよ」
　『上司』の言葉には、先輩への確かな尊敬の念があった。
　信頼できる人間と思った訳じゃない。それでも他に<縋|すが>る<藁|わら>はなく、俺はこの人物に、自分の望みを叩きつけた。
「法王庁に行きたいだぁ！？
　なんだそりゃ。テメェ、まだロアのクソ意識が残ってんのか？」
　教会に興味も関心もない。
　俺の目的は一つだけで、それを叶える方法が、今のところ教会……というか、この人物の下で働く道しかないと直感しただけだ。
「はあーん。なるほどねぇ。確かにそりゃあ坊ちゃんのご機嫌取るしかねえわ。
　枢機卿は数いれど、非公認で天使の書庫を開けられるのはラウレンティス枢機卿ぐらいですし？
　死人を生き返らせたいとか、ま、バカげた話だけどいいんじゃない？　若いうちはそういう夢見ても。
　でもさあ―――オタク、間違いなく人生棒に振るぜ？」
「君は信徒ではない。我々の同志でもない。
　教会の深部に足を踏み入れる機会は
何十年かけても訪れず、
　その機会に恵まれたとしても、死者を蘇らす秘蹟はない。
　それを承知の上で我々の社会に組するのか。
　―――捨てる必要のない、追われる必要もない、豊かな故郷がありながら」
「そうですか。
高校を卒業後はイタリアに留学すると。
　……何を言っても決心は変わらないようですね。
　では、今日かぎり屋敷から出て行っていただきます。
　遠野家に貢献する意志のない者に、いつまでも居すわられても迷惑ですので」
「そうなんだぁ。
志貴チャンもいなくなっちゃうんだぁ。
　あーあ、つまんなくなってきたナー。アタシもクモ隠れしちゃおっかなー
！」
「あ、でもイタリアに行くんでしょ？　偶然よねぇ、アタシの知り合いもそっちにいるのだわ。<本|・><当|・><に|・><行|・><き|・><詰|・><ま|・><っ|・><た|・><ら|・>ここに連絡してみるといいかもぉ。
志貴チャンみたいな悩める青少年が大好物っていう、博愛主義のモンスターみたいなオバサンがいたりいなかったりするからぁ！　
キャハハハハ！」
「高校はまっとうに卒業するぅ？
　なんでそんなぬるい…………
ああいや、そうだな。
　それがアイツの望みだった。そりゃあ、ツレとしてきっちり味わっておかねえと、それこそ合わせる顔がない」
「いいぜ、二年待ってやる。その間はアンドーとカリウスに訓練つけてもらえ。日本語だけじゃ話にならねえからな。西欧圏の語学と常識、<教|う><会|ち>と<死徒|あっち>の知識も教えてやるよ。
　もちろん<只|ロハ>じゃねえ。かけた金は出世返しってな。向こうについたらせいぜいオレの為に働いてもらうぜ。
　安心しろ、テメェがどれほど落ちぶれようと、仕事と居場所だけは回してやる」
「オレの見立てじゃテメェの体と<精神|こころ>が持つのは10年だ。
　時間はねえぞ？　それまでに目的の小指一本分ぐらいは叶えとけ。
　オレとテメェがこうして会うのは<日|こ><本|こ>だけだ。本国に渡れば二度とは会わねえ。オレの弟を紹介する事ぐらいはあるかもだが」
　そうして、先輩の『上司』は日本を発った。
「ところで。昔、アンタの兄貴が先輩に助けられたって話、本当なのか？」
「ああ？　そんな一銭にもならねぇ嘘を言ってどうすんだよ、アホウ。そうでもなけりゃあの女にもテメェにも目をかける理由がねえだろ。
　ラウレンティスの一族はな、恨みも忘れねえが恩はもっと忘れねえ。
　あのクソ兄貴が“優先して協力しろ”なんて言うぐらいだ。よっぽどすげえ貸しを作ったのさ、あの女は」
「だからさ。それ、本当に兄貴の話？」
「―――は。勘が良くて、かつ口が堅いのが一流ってな。
　生き残りたかったら覚えとけ、クソガキ」
「んじゃ車回すぞー。荷物はトランクでよろしく」
　安藤氏が高級車のエンジンをスタートさせる。
　言われた通りに後部トランクに荷物を収納する。
「志貴。君との奇妙な縁もこれが最後になる。
　本来なら関与する事ではないが、良ければ聞かせてほしい」
「君の行動原理は自己達成による希望か。
　それとも、彼女を救えなかった贖罪か」
　カリウス氏は安藤氏と違って、あらゆる事に私情を挟まない人物だった。
　あの『上司』に命じられていたから俺の教育係をしていただけで、遠野志貴の人生やら価値観に微塵も関心は持っていないと思っていたが……。
「…………」
「――――――」
　それは俺の印象にすぎなかったようだ。
　彼は何事にも慎重で、真剣で、生真面目な人物だった。
　そんな人物が一年以上も他人と付き合ってきたんだ。関心を持ち、親近感を持たない筈がない。
　……まったく未熟にも程がある。俺はまだまだ、まわりに助けられてばっかりだ。
「贖罪じゃないですよ。自棄になってる訳でも、死にたい訳でもありません。
　俺は一度、すごい間違いをしてしまった。その間違いを正す事はできません。カリウスさんの言っていた通り、人間を生き返らす事はできない。それはもう絶対のことです」
「では、なぜ？　得るものはないと理解していながら、かつて彼女がいた地獄に踏み入ろうとしている。
　それは罪滅ぼしではないのか？」
「…………」
　……確かに、それを言われるとうまく言い返せない。
　一年半前、俺は自分勝手な考えで自らの命を絶った。
　自らの命と共にロアを殺す。
　ロアさえ消えれば先輩は自由になれる。人並みの夢を見ていける。
　―――そんな思い上がりを、愚かにも最善だと信じたからだ。
　それは間違いだった。
　俺は、どんなに無様で、どんなに酷い人間になるとしても、彼女の傍にいて、彼女に助けられながら、生きていくべきだった。
　……だから。
　もう取り返せない間違いを犯したのなら、ここからは間違わない。
　俺は俺の人生を生きる。
　先輩が望んだ通りの、<自|・><分|・><が|・><正|・><し|・><い|・><と|・><思|・><う|・>人生を。
「俺は本来、ロアに取り憑かれた時点で死ぬ人間でした。
　そんな俺に、先輩は多くのものをくれたんです」
　そうだ。この幸福は捨てられない。
　捨てられないまま、俺は俺にできる最高の成果を―――
　本来の遠野志貴の人生では考えられもしない奇蹟に辿り着く。
　どんなにありえない事でも、それはまだ起きていないだけにすぎないと。
　あの夜、夜空を見上げながらそう誓った。
「充分すぎるほどの幸福をもらったんです。
　だから―――どんな手を尽くしても、必ず、この命を彼女に返す。
　俺の残りの人生は、その為に使うんです」
　それがどんなものになるかは分からない。
　ただの名誉か、価値か、自己満足か。
　それでも俺は彼方を目指さないと。彼女が救った命は、それだけの事をするのだと示す為に。
「……そうか。賛同できる立場ではないが、君の旅立ちが善いものである事を祈ろう。
　志貴。君は我々が一年の時間を費やしても、悔いる事のない人間だった」
　それはカリウス氏にとって特上の応援だったのだろう。
　彼は高級車の助手席のドアを開け、その席に座った。
　空港までの道行き、もう一言も話さないに違いない。
「おーい、早く後ろに乗ってくれませんかねー？
　フライトまで二時間ないんですけどぉ！」
「――――――」
　安藤氏に急かされて後部座席のドアを開け、中に乗り込む
。
　高級車の後部座席の座り心地の良さにちょっと驚いて、ひとり苦笑する。
　どんなに大それた選択をしたところで、自分の感性が変わるものでは無い事を実感する。
　不安はあるが、晴れやかな気持ちで日本を後にする。
　ほんの数日間だけだったけれど、あの人と過ごした総耶の街並みを見納める。
　……そう。自分は捨てる訳でも、逃げる訳でもない。
　どんな道を行くかは分からないが、いつか必ず、この街に戻ってくる事を予感していた。
　絶好の散歩日和だった。
　空はどこまでも澄み渡り、太陽は山脈の遥か向こうにあって<燦然|さんぜん>と輝いている。
　こういう空を<碧天|へきてん>と言うらしい。
　俺はいつもの広場で足を止めてベンチに座った。
　真後ろのベンチには先客がいて、黙々と本を読んでいる。
　その様があまりにも自然だったので風景と見間違えた。
　神父服を着た男は、まるで何百年もそうしているかのように、終わりのない頁をめくっている。
「こんにちは。いい天気ですね」
　ともあれ、こんな空の下で出会ったのだ。
　挨拶をするのが人間らしい礼儀というものだろう。
「ええ、良い天気です。晴れた日は陽差しが強すぎて眼が疲れるのが困りものですが、太陽の匂いはやはりいい。部屋にこもっていると忘れがちな、万人に平等に与えられた自然の恩恵というヤツですね」
　苦笑しながら頁をめくる神父。
　これ以上ないというほど冷酷な声だったが、その語り口は柔らかく、人間的な魅力に溢れていた。
　しかし不思議な事に、どれほど観察しても顔が見えない。
　彼がどのような人間なのか。
　はじめの彼がどんな顔立ちをしていたのかが判別できない。
　まるでピントがボケた写真のようだ。
「じゃあ、これから例の城に？」
　なんとなくそんな気がして話しかける。
　神父は照れくさそうに頷いた。
「どうして転生なんかを？　一個体として生き続けた方が簡単だし、なにより人に迷惑をかけないでしょうに」
「それでは限界に辿り着くからですよ。
　人間の知覚、全能への道には果てがない。どれほどの超越者になろうと上には上がいる」
「たとえば埋葬機関にいつのまにか混ざっていたシスターですね。彼女はサバトによって悪魔化し、高次元の感覚を得た事でこの次元では全能になったと言います。
　ですが、そんな彼女ですらまだ物質に縛られている。この宇宙に縛られている。
　なぜかと問いただせば、」
“あわよく衆生を救い魔天の座に昇りましたが、あちらでは<私|ワタクシ>など駆け出しの<塵芥|ちりあくた>。
　生涯をかけて観の目を得てみたものの、その目が見たものは世界の真理だけでなく、より矮小な私でした。
　これでは惨めな自分を知る為に努力したようなもの、何の為の<変生|へんじょう>でしょう。
　ですので、私はこちらに留まっているのです。
　たとえどれほど狭い世界であっても、こちらの私は向こうの私より、幾分はましな価値がありましょう―――”
「愚かな話です。
　外を知覚できるようになったが故に、更に己の無力さを痛感してしまった。個人の限界を表した一例ですね。
　私は全てを知りたいと願った。
　広がり続けるこの宇宙の全てを。
　であれば、求めるべきは個人の強さや幸福ではなく、世界の終わりまで在り続ける己です」
　彼の願いは矛盾している。
　世界は広がり続ける。
　全てを知る為に永遠を求めたというが、それは初めから果てのない旅だ。
　彼の言う通り、世界は広がり続けるのなら、
　新しいものを生みだし続けるのなら、
　たとえ永遠を生きようと、全てを知る事は不可能なのだから。
「いいえ、可能です。必ず結論が出る。必ず結論を出す。
　その為に我々はいる。我々はこの宇宙という永遠を定義する為に生を享けた。そうでなければ知性など持たなかった。
　―――たとえ、この星に<育|はぐく>まれた<知性|いのち>は、永遠の理解には程遠い旧世代のものだとしても。この意思が続くかぎり、追いかけ続け、変わり続ける<航|み><路|ち>を選んだのです」
　風が出てきたらしい。
　空には雲がかかり、広場には灰色の陽差し。
　神父服の男がどんな<表|か><情|お>をしているのか、やはり読み取れない。
「天気が崩れてきましたね。俺は帰りますけど、貴方は？」
「私に帰り道はありません。片道切符というヤツです。それも、ここで終点のようですが」
　声に悲嘆の色は見られなかった。
　男は満足も、失望もしていないようだ。
「終点って、ここが？」
「ええ。私の役目は終わりました。
　唯一残念なのは、君では私の敵になりえなかった事ですね。
　この地上でただひとり私を殺せる手段を有していながら、君には致命的に殺意が欠けていた。
　だからこんな風に、私の<遺言|ことば>を長々と聞いている」
　日が陰り始める。
　じき夕暮れ。俺はベンチを立って帰路につく。
　振り返る気は起きなかったし、その必要もない。
「ですが一つ、言葉を残しましょう」
「私ではありませんでしたが、貴方にはいますよ。
　他人の人生の為ではなく、自分の人生の為に使われる敵意。
　ただ己が“そうであれ”と望む、明確な仇敵がね」
　神父服の男はもういない。
　ベンチに置かれた一冊の古びた本。
　それはパラパラと頁を風に散らしながら、<痕跡|こんせき>を残す事なく、この世の果てに飛んでいった。
「――――――」
　何か。不吉な夢から、目を覚ました。
　今朝も平和に、のんびりと目を覚ました。
　窓から差し込む陽射しは温かくもあり冷たくもあって、なんだか季節感が曖昧だ。
「時間は、ええっと―――」
　まるで鎖に繋がれているかのような、体の重さだった。
　なんとか気力を絞り出してベッドから起き上がる。
　机に置かれた眼鏡をかけて時計を見ると、時刻は午前９時をまわっていた。
「って、こんな時間！？
　まずい、遅刻遅刻―――！」
「その必要はありません、志貴さま」
「！？」
　突然の声に振り返る。
　そこには、
　どこか懐かしくも、初めて見るような、メイド服の少女が立っていた。
「今日は祭日です。睡眠時間を長く取りたいので、８時間経ったら起こしてほしい、と志貴さまから伺っております」
「―――
そうだった。
　おはよう、翡翠。そうか、目覚めがいいと思ったら翡翠が起こしてくれたのか」
　ありがとう、とお礼を言って深呼吸をする。そうしなければとても声が出なかった。
「はい。今朝もお顔の色が良く、なによりです」
　俺は今朝も体調はいいらしい。
　翡翠が言うのならそうなんだろう。
　冷め切った体温も、泥のように重い手足も、俺の気のせいに違いない。
「けど、それにしたって９時起きは遅すぎるような……。
　どんな夜更かししてたんだ、俺」
「昨夜の志貴さまは秋葉さまとの勉強会の後、お客様を迎える為の清掃と、姉さんの調理を手伝ってくださいました。そのため、就寝は１時過ぎになってしまったかと」
「あー、そうだった、そうだった」
　特に課題もなく、夜に待ち合わせする約束もなく、体の調子も良さそうだとみんなが言うから、家の事を手伝ったんだ。
　おかげで秋葉とも翡翠とも琥珀さんとも打ち解けられた。
「顔を洗ったら食堂に行くよ。
　秋葉はもう済ませてる？」
　そう返すだけで一日分の体力を使ったが、疲れたから死ぬ訳でもなし、そう気にする事でもない。
「いえ、志貴さまに合わせる、との仰せです。
“今日一日は兄さんをお立てしますのでご心配なさらずに”と伝言を承っております」
「はあ？」
　なんだそれ。
　俺を立てるって、つまり俺が何をやってもお目こぼしをしてくれるってコトか……？
　逆に恐いぞ。何があったんだ秋葉のヤツ……？
「まあ、うちのご当主さまの政策が突拍子無いのはいつものコトか。アイツ、理路整然としているクセに説明なしで結果だけ口にするから厄介だよな」
「―――失礼ながら、それは志貴さまの不注意によるものかと。秋葉さまの言動は突然に見えて、必ず予兆……いえ、原因があるものと存じます」
　暗に、もっと妹にかまってやれ、と言われている気がした。
「そうだな。これからはもっと<家|うち>のコトに目を向けるよ。翡翠のコトもちゃんと知りたいしね」
「―――はい。志貴さまのご信頼に応えられますよう、日々努力いたします」
　翡翠は一礼して退室した。
　……さて。俺も寝間着から私服に着替えて、秋葉の待つ食堂に向かわないと。
「あれ、でも―――」
　……おかしいな。
　今日が何の祝日だったのか、どうにもよく思い出せない。
　長い長い時間をかけて、やっとロビーにまで辿り着く。
　天窓から差し込む陽射しに、目を細める。
　まるで真夏のような強い光彩に、
『――――――』
『早く行こうぜ志貴！
　遊戯室に新しいボードゲームが
あるんだよ！』
『いいえ、兄さんは今日こそ音楽室です。
　ピアノを聴いてくれるって約束したんですから』
『うーん、遊ぶなら中庭にしない？
　悪いけど、ボクは二階には―――』
　忘れている筈の、古い蜃気楼を見る。
「――――――」
「……？」
　いま、誰かいたような。
「おはようございます、
志貴さん。
　やっぱり昨夜は無理させてしまいましたね。ごめんなさい」
「―――
こ、琥珀さん、ですよね。
　おはようございます」
　……体のだるさが思考にまで影響しているのだろうか。
　見なれた筈の琥珀さんの名前がすぐに出てこなかった。
「昨日は、その」
「はい、志貴さんのおかげでなんとか間に合いました！
　いえ、慣れない買い物をするものではありませんね～。
　お屋敷のお菓子ではウケが悪い、今風のお菓子を買い込みに行きましょう！　と張り切ったものの……
　まさか輸入専門店があんなに大きいとは……」
　琥珀さんは着物の袖で顔を隠して、よよよ、と泣いているジェスチャーをする。でも口元はとても楽しそうに笑っている。
　……そうだった。昨日、俺と琥珀さんは出来たばかりの会員制の超巨大倉庫型量販店に行ったのだった。
　地平線まで続いているかのような店の規模に琥珀さんのはしゃぎようは凄まじく、ワゴン三つを埋め尽くすほどの食材と外国製のお菓子を買いこんだのである。
「琥珀さん、目がキラキラしてましたからね。
　でも<海外|あっち>の菓子って独特っていうか、極端っていうか……控えめに言って大雑把ですよ？
　琥珀さんが作ってくれる和菓子の方が何倍も、」
「何を仰います！　あんな真っ青なケーキ、私にはとても想像できません！　
無邪気な、子供心のままクレヨンで描いたようなお菓子の大行進に、私、創作料理意欲を刺激されっぱなしだったのです！」
「そ、そうなんだ。それは、良かった」
　今後、それが発揮されるコトは良くはないが、琥珀さんが楽しそうなのは何よりだ。
「そうなんですよー♪
　ほら、例えばこれを見て下さい。
どう見てもクッキーの包装なのですが、
パッケージの写真はバターケーキなのです！」
「そしてなんと……表示されたカロリーは8000キロカロリー……
どういうコトなのでしょう……たった500円の、山積みになっていたお菓子一つで8000キロカロリー……
ですって……！？」
　よほどお気に入りなのか、琥珀さんは宝物のようにそのバターケーキのお菓子を撫でている。
　しかし、そうか……バターケーキが紙の包装で無造作に置かれていたのか……そりゃあもう日本人の発想じゃ色々勝てないな……。
「それより琥珀さん。
　さっきの子、どこの子ですか？　秋葉のヤツ、親戚筋はみんな追い出したって言ってたけど」
「はい？　さっきの子、と申しますと？」
　きょとん、と首をかしげるバターケーキ琥珀さん。
　……どうも、彼女は子供の姿を見なかったみたいだ。
「いや、見なかったならいいんです。
　食堂に行きましょう。俺、お腹がペコペコで死にそうです」
　とはいえ、まともに食事が喉を通る自信はないが。
　琥珀さんに声をかけて足を動かす。
　ドアノブに手をかけたところで、
「志貴さん？　食堂はこちらですよ？」
「え―――あれ？」
　俺は食堂ではなく、外に通じる玄関に向かっていた。
「もうすぐ時間なのに、お出かけになるのですか？」
「いや、別に―――」
　外に出る用事はない。
　俺の、遠野志貴の日常はここにある。
　でも戻らないと。
　早く、どこかに戻らないといけない気がして、眩暈がした。
「おはようございます
兄さん。
　昨夜はお疲れさまでした。初歩的な会計士の仕事でしたが、私もいい復習になりました」
「おはよう、秋葉。
　でも『勉強を教えてほしい』という文言で呼び寄せておいて、うちの会社の内情を叩き込んでくるのはやめてほしい」
「あら。あんなものはまだ末端も末端です。
　とりあえず、日々私がどれだけの数の書類に目を通しているのか、理解していただこうと思いまして」
　余裕ありげに微笑む秋葉。マジか。
　ええ、正直、遠野家当主の責務を侮っていましたよ。
　秋葉の下に届けられる様々な案件の最終確認書。
　この内容で進めていいのか、是か非かを返すだけの作業といえば楽に聞こえるが、その判断は軽々に下せるものではない。
　案件の内容を確認し、計画の強固さを測り、配分が正しく行われているかを読み取った後、ようやく判を押せるものだ。
　秋葉は他にもやることがあるというのに、あの確認作業だけで一日が終わりかねない。
　それを、あの山のような仕事量を前にして涼しげとか……今になってようやく秋葉のハードスケジュールぶりが飲み込めてきた兄であった。
「ですが、それもあとしばらくの辛抱です。
　兄さんが高校を卒業してくだされば、私の負担も減るんですから。
　―――ところで。兄さんは、南国のホテル経営などに興味はおありですか？」
「ないよ」
　そんな聞くだけで誘惑されそうな甘い話で釣るのはやめてほしい。こっちはフツーに大学に上がって、フツーの会社員になる人生プランだったんですよ。
　とはいえ、それも、
　もう、叶わない話だけど。
「兄さん？　何か、気になる事でも？
　そんな目を細めて、立ち眩みでもおこしたみたい」
「いや、大丈夫。いつもの<貧|ひん>―――」
　そこまで言いかけて口が止まった。
　いつもの……いつものとは、なんだろう。
「…………おかしいな」
　……目が覚めてから酷い違和感がある。
　俺は致命的な事実から目を背けている。
　それはいい。本音の話、その事実はどうでもいい。
　俺はそれより―――もっと大切な事を、必死に、思い出さないようにしている気がする。
「いいや、それより朝食にしよう。
　その後はどこかに出かけようか。せっかく祝日なんだから、たまには四人で外に出て、その後に、」
　死人は、相応しい場所に、戻らないと。
「せっかくのご提案ですが、屋敷の外に出る必要はありません。
　もうじき乾さんたちも来ますし、パーティーはここと中庭だけで十分でしょう？」
　秋葉はおかしな事を言う。
「……？　秋葉、パーティーって」
「もう、しっかりしてください。
　今日は兄さんの誕生日じゃないですか」
　食堂の<明|ラ><か|イ><り|ト>が一段階暗くなる。
　きっと日が陰ったのだろう。
　それにしても誕生日のパーティーとは。
　どうりで季節の感覚が曖昧な訳だ。
「午後になったらご学友の皆さんが遊びにいらっしゃると聞いています。私も同席させていただきます。
　弓塚さん、でしたか？　クラスメイトとの事ですが、どのような方か直接確かめておきたいので」
　だって。
　遠野家の長男の誕生日はともかく。
　おまえの本当の誕生日がいつかなんて、もう誰も知らないのに。
　居間での挨拶が終わり、琥珀さんの煎れてくれたお茶で歓談した後、場はテラスに移された。
　屋敷の豪勢さに威圧されていた有彦と弓塚だが、琥珀さんの巧みな話術で緊張もほぐれているようだ。
　俺は残り少ない体力を無駄に使わないように、テラスにある揺り椅子に体を預けて、みんなの様子を眺めていた。
「いやあすげえわ。外もヤバいけど中はもっとヤバいわ。
　一泊100万クラスのホテルですわこれ。しかもこの中庭の広さはどうだ。この屋敷だけでも敷地の一割とか、あっちの方に見える森には何があるんです？」
「森にはとくに建物はない筈だけど。あずまやがあるくらいじゃないかな」
「あれだけの土地を使わずに放置ですか。これが真の豊かさなんですなあ……。
　そして秋葉ちゃんの美貌も素晴らしい……ご尊顔を拝見しましたがね、まったく化粧してなくてあのレベルってほんとヤバい。しかもまだ成長期でございましょう？　
二十歳まで戦闘力がどこまであがるか想像もつきませんねぇ！」
　なぜか口調が商人のようになる有彦だった。
「それで、弓塚さん？　
うちの兄とはどの程度の交友関係なのでしょう？　兄は部活動もしていませんから、教室の中だけの関係である事は間違いないでしょうが」
「は、はい、遠野くんとはですね、今は念願かなって同じクラスなんですが、実は中学校時代からの知己というかですね、放課後もたまにバイト先で一緒になったりして、」
「―――はい？
　兄さんったら、学生の分際で、私に隠れてアルバイト、ですか？」
「いいいいいえ、違います違います！
　わたしがアルバイトしているファミレスに、たまに遊びにきてくれるぐらいというか……！」
「まあ。あの朴念仁の兄さんが、自分から、特に用事もなく弓塚さんの働くレストランに？」
　一方、弓塚はひたすら秋葉に質問攻めされていた。
「皆さん、お茶のおかわりはいかがですか？」
　ティーセット一式をワゴンに載せて琥珀さんがやって来た。
「「はい、いただきます！」」
　ワゴンにはお茶だけでなく、小さいながらも見目麗しいケーキが並べられている。
　そのとなりに、レンガ片を思わせる邪悪なパッケージが一つ。
　先ほどの、海外輸入バターケーキだ。
「……な、なんか不釣り合いなお菓子ですね、それ」
「……ああ。とつぜん俺たちレベルの格安品が転がり込んできやがった」
　二人はあの手の菓子は見なれているようだ。
　そんな事も知らず、“ただ珍しい”というだけで宝物のように扱う琥珀さん。
「ふふふ……これに目を付けるとは、さすがは志貴さんのご学友。お目が高い、と言わざるをえません……。
　そう！　このバターケーキ？のようなもの？は、なんと地球の裏側からやってきたお菓子なのです！
　凄いんですよー」
　琥珀さんはレンガ片を手に取り、くるりと裏返して、ロシア語で書かれた説明文に目を通し、
「ま
ず読めない！」
「だ、だよね、読めないよね、外国のお菓子の説明って！」
「ちょ、まって、今のツボ、すっげえツボ……！
　どうなってんだよ遠野、妹さんは絶滅寸前の和風美少女で、お手伝いさんは天使揃いとか、最高かよこの屋敷！」
「いやあ、ははは」
　その意見には全力で同意する。
　昔の遠野邸はどうあれ、今の遠野邸はいいところだ。
　非の打ち所のない、こんな日々があってくれたらいいと夢に見るような、理想の家だと思う。
「おや。雨雲が出てきましたね。皆さん、居間の方に戻られます？」
「そうね。まだ屋敷も案内していませんし。翡翠、皆さんを遊戯室に案内してあげて」
「かしこまりました。乾さま、弓塚さま、どうぞこちらに。
二階、西館にご案内させていただきます」
　翡翠に先導されて居間に戻っていく有彦と弓塚。
　俺はその様子を、窓際の揺り椅子に座って眺めている。
「でもまあ、元気そうで良かったよ。
　ヘンに気を遣うまでもなかったな。いい家族じゃんか、遠野」
「うん、素敵なお手伝いさんと、すっごい妹さんですっ！
　でもみんないい人で良かった。じゃあ、先に行ってるね、遠野くん！」
　二人は居間に戻っていった。
「ああ。ありがとう、二人とも」
　その背中を見送って、揺り椅子の手すりに力をこめる。
　もうこのまま動こうとしなくなった体を無視して、戻るために、全霊を込めて立ち上がる。
「？　どうしたんですか、兄さん。そんな恐い顔をして。
　こんなに楽しい事ばかりなのに」
「ああ。だって、ここには先輩がいない」
　その一言だけで世界は色を失った。
　……そうだ。
　自分の体がもう動かない事とか、
　ありもしない誕生日パーティーとか、そんな事はどうでもいい。
　俺にとって重要なのは、あの人がいるかいないか、その一点だけだった。
「………………」
　中庭に下りる階段の前から秋葉は動かない。
「そこを退いてくれ秋葉。早く、元の場所に戻らないと」
「座ってください兄さん。
　この屋敷にいるかぎり貴方は今のままでいられるんです。
　わざわざ自分から、もう■んでいるという現実に目を向けるのですか？」
「それはやだな。……というか、なんで先輩だけいないんだよ。先輩さえいれば、俺だってこんなに早く気がつかなかったのに」
　そうすれば、この都合のいい夢を、もっともっと見続けていられたのに。
「……それは無理な話です。
　だってその人と知り合ってしまえば、
　兄さんは
　志貴さんは
　志貴さまは
　もうこの屋敷に、帰ってこられないのですから」
「――――――
」
　……ああ、と現実を受け入れる。
　先輩と知り合い、先輩に惹かれて、先輩と一緒に生きたいと思った。
　その道を選んだ遠野志貴は、決して、この家に帰ってくる事はない。
　あの人と共に生きようと願った時点で、遠野志貴は必ず死を迎えるのだろう。
「そっか。やっぱり死んでいるのか、俺」
「はい。ですが、目覚める事はなくても、」
　夢を見るだけなら、と秋葉の姿をした誰かは言った。
　それは本当に遠野志貴を気遣っての優しさだった。
「……ありがとう。でも、ここにはいられない。
　先輩が待っている。約束しているんだ。
　俺は、こんな上等な、温かな自分の夢より、」
　どんなに苦しくても。
　自分の<未|ゆ><来|め>より、あの人の夢を見たいと、思ったんだから。
　世界が閉じていく。
　あらゆるものが本来の像に戻っていく。
　その中で、
「―――呆れます。
　本当に、いつも<他|ひ><人|と>のことばっかりなんですから、兄さんは」
　悲しそうに目を伏せて、最後まで残っていた幻も消えさった。
　体はもう指一本さえ動かない。
　目覚めてから体は死人のように重かったが、あれは動かなかったのではなく。
　もとから“何も無い世界”だから、動く余地すら、なかっただけで―――
　―――。
　――――――。
　―――――――――。
　――――――――――――。
　―――――――――――――――。
　――――――――――――――――――。
「それでもまだ意識を手放さないのか。
　もう自分は死んでいる、と受け入れたんじゃなかったの？」
　―――――え？
「いいじゃないか、もう休んでしまえば。
　遠野志貴は考えられる、およそ最善の行為を行ったんだ。
　それと<彼女|シエル>を天秤にかける余分なんていらないよ。
　そんなコトをすると、さっきみたいに自分のユメさえ否定するコトになる」
　―――もう、俺以外は誰もいないのに、声が聞こえてくる。
「うん、ユメから冷めてしまった志貴だから、ここは志貴以外のイメージはありえない。
　なんだ、少しは頭が働くようじゃないか、遠野志貴」
　――――それじゃ、おまえは。
「勘違いはしないでほしいな。ロアは完全に消滅した。
　この体にロアの意識はない。君の意識もまた残留しない。
　君は、完全に命を終えたんだから」
　――――その言葉に、ああ、と息を吐いた。
　恐怖も驚きもない。あるのは宝石のような悔いだけだ。
　手のひらの上で赤く輝いて、その光が棘となって肌を刺すような。
　それは、力及ばずに命を終え、後に残してしまった、あの人への懺悔だった。
　ぱちん、と音がして。
　見覚えのある病室が映し出された。
「夢にはね、完全な虚像というものはないんだ。
　どんな作り話に見えても、
結局はその人間が得た知識の延長のものでしかない。
　だから、君がさっき見た夢にも真実はある。
　例えば――――」
　俺が、意識を失ったまま眠り続けている、という？
「うん。本来ならそれが当然の帰結だからね。
　呼吸もできなくなっていた体。半分焼けていた体。
　それはもう『死んでいる』というんだよ。
　今この瞬間は、そうなる前のわずかな隙間だ。
　この夢が覚めてしまえば、君は起きる事のない昏睡に戻って、夢を見る事さえできなくなる」
　―――それじゃあ、先輩はどうなるんだ。
「さあ。けど他人の事なんかより、自分の事を考えたほうがいいんじゃない？
　悪いことは言わないから、もう一度目を閉じるんだ。
　それで今度は冷めないように努力するといい。そうすれば、また幸せなユメを見られる」
　―――わからない。おまえは、誰だ。
「いまは幸福について考えろよ。
　いいかい？　目を覚ましてしまえば、君はユメを見る事さえできない『器官の集合体』になっちゃうんだよ？
　それならここで、ユメともゆめともつかない夢に沈んでいたほうがいい」
「君は今までよくやった。シエルっていう人も可哀想だけどね、君も僕も悲惨なものだったじゃないか。
　だから、これぐらいおいしいユメを見てもいいと思うんだけど？」
　―――だから。おまえは、誰だ。
「……はあ。そんなのさっき君自身が言ったじゃないか。
　ユメから冷めたんだから、ここには志貴以外のイメージはないんだって。
　だとすると、僕はきっと――――」
「―――こんなカタチを、しているんじゃないかな」
　―――こど……も？
「あ、失礼だな。君だって子供だろうに。だいたい年齢だって一つしか違わない。
　遠野志貴は九年だっけ？　僕は八年近く在ったんだし」
　―――じゃあ、おまえは。
「そういう事。今まで廃棄物っぽく底で捨てられてたんだけどね、君が同じところに落ちてきたから声をかけたんだよ。
　あ、でも別に僕は君と別人ってわけじゃないぜ。僕らはあくまで一つの名前に棲む現象だからね」
「たとえ君が忘れていたとしても、君はもちろん僕の延長である志貴だ。ただ僕の場合は君の土台ではあるが過去ではないから、廃棄物という事になってしまう。
　ま、そのあたりは辛気くさい話だからおいておこう」
　………その廃棄物が、俺に何をさせたいんだ。
「目を覚ますのは止めておいたほうがいいっていう忠告だよ。
　遠野志貴の現実は『一生病院のベッドで意識不明のまま』というリアルだ。
　その状態に覚めてしまえば、君は夢を見る事さえできなくなる。肉体の維持は機械がやってくれるだろうけど、脳はまともに機能しないだろうからね」
「それは死だ。生命としての死ではなく、意味としての死だね。
　そんな状態になる事はない。
　どうせ目が覚めても現実に生きられないのなら、ここで現実をユメ見ていてくれたほうが僕は嬉しい」
　―――大切な事から目を背けるかわりに、曖昧な夢を見続けろって言うのか？　その方が自分の為だと？
「どうだろう。現実に覚めて意味としての死を迎えるか、ここで自分だけのユメを見続けるか。
　どっちにしたってあんまり変わりはない。
　現実に覚めて死んでしまえば、こんなふうに悩む事もなくなる。幸せというのなら、きっとそっちの方が何倍も幸せだろう」
　―――……。
「けど、僕は君にユメを見てほしい。
　僕らは同じ名前でありながら、見られるユメが違うんだ。
　僕の見るユメはね、たいていはあの日の出来事か、八歳までの出来事だけなんだ。それはそれで楽しいのかも知れないけど、そこには志貴の未来がない」
「例えば、大人になって、好きな人が出来て、毎日を忙しく生きていく、といった未来かな。
　僕の現実、僕が知り得た知識、そこから想像できるであろう未来は、とても狭くて救われないものばかりだから、そういったものを想像する事さえできない」
「けど君のユメは違った。君にとっては当たり前の風景も、僕にとってみれば輝かしい風景なんだ。それこそ夢にまで見たっていうヤツだよ。
　もっとも、さっき言った通り狭小な僕の<年月|じんせい>じゃ、こんな素敵なユメは思い浮かばないんだけどね。
　ああ、本当に素晴らしい。君になくて僕にある<宝|も><物|の>なんて、家の庭で猫と遊んだ記憶ぐらいさ」
　―――…………。
「ほら。さっきまでの絵空事がどれほどいいものか分かっただろう？　なら目を閉じればいい。
　君が自分だけのユメに我慢できないんなら、僕も少しは手を貸そう。君が忘れてしまっている昔の出来事を提供してもいい。
　僕たちがお互いを騙そうと努力すれば、それなりに幸せなユメを見られるさ」
　―――………………。
「……気が乗らないみたいだね。やっぱり冷めてしまうと目を覚まそうとしてしまうものなのかな。
　けど、君の現実は終わってるんだよ。
　たしかにユメに見る現実なんて、本当の現実に比べるべくもないものだけどさ。それでも―――頑張れば、少しぐらいは幸せになれるんだから」
　―――……違う。
　そこで幸せになれるのは俺たちだけだろう、志貴。
「……馬鹿だな。幸福なんて、自分だけのモノにしておけば簡単なのに。他人の事まで考えるとね、色々と難しくなっていくんだよ。その結果、何が良くて何が悪かったかさえ見失ってしまう。
　事実、僕も君も何ひとつ悪い事はしなかった。
　なのに結果はこうだろう？　ほら、志貴はそういう人間なんだ。奪われてばかりの人生だから、誰かの幸福なんて欲しがっちゃいけないんだよ」
　―――たとえそうであったとしても。
　もう、ひとりにしないと約束したんだ。
　さっきまでの光景も、こうしている自分も、そのすべてが夢だというのなら――――早く、居るべき場所に戻らないと。
「夢が終われば、何もないかもしれないのに？」
　―――何もなくはない。
　何もなくはないんだ、志貴。
　世界は依然として綻びだらけで、永遠はないとしても。
　俺が息をするだけの、石のような生き物になっていても。
　彼女と交わした約束は、まだ消えずに残っている。
「……そう。それじゃお別れだ。放っておけなくて手を出したけど、今さら僕は必要なかったみたいだね。
　でもまあ、楽しかったよ。僕は将来あんな生活を送れるんだって、いいユメを見せてもらえた」
　―――な、なんだよ。
　いきなり握手してくるなんて、気持ちわるいな。
「あはは、僕だって気持ち悪いよ。でもこうしないと渡せないんだから仕方がないじゃないか。いくら同じ自分だっていってもね、ここまで分かれてしまうと『触れ合う』イメージが必要になってくるワケ」
　―――ちょっと……おまえ、消えかかってる、けど。
「そう言う君はカタチが出来はじめてるね。
　さて、それじゃあこのへんでお別れだ。
　僕は君のことを忘れるから、君も僕のことは忘れてくれ。
　今さら―――遠野志貴以前の志貴になんて、戻っても意味がないんだ」
　―――。
「ああ、そうそう。彼女のことだけど、僕も気に入ったよ。
　君が自分よりあの人が大切だっていう意見には賛成する。
　けどな、君。それだったらもう二度と、つまんない事をやって泣かせたりするんじゃないぞ」
　―――そうして、消えてしまった。
　いや、亡くなってしまった感覚に近いんだろうか。
　……チクリと、不思議な痛みが走る。
　懐かしくて、もう二度と取り戻せない何か。
　結局。
　それが郷愁と呼ばれるものだと気が付く事は、ついぞ、出来なかった。
「………………」
　意識が覚めていく。
　一時のユメが冷めていく。
　このユメが消えて、こうしている俺も消えれば。
　そこにあるのは、もう夢を見る事さえない、死んでいる自分だけだった。
　―――ぼんやりと。
　朝の光が、映ってくる。
　朦朧としている自意識。
　まだ、何も考えられない。
　体は倒れている。
　頭は―――なにか、柔らかいモノの上にある。
　―――おかしいな。
　もう、ユメは冷めているはずなのに。
　目蓋をあける。
　目の前には、彼女の、泣き顔があった。
「――――――――」
　……手を伸ばして、彼女の頬に触れた。
　指先に涙が伝ってくる。
　それは、紛れもなく現実でしかない、温かい<泪|なみだ>だった。
「――――――――」
　……彼女は何も言ってこない。
　声をだす必要はこれっぽっちも感じなくて、ただ、その体温を感じていた。
　心臓は確かに鼓動している。
　焼け焦げていた左半身は所々が赤黒く変色しているものの、その大部分が復元されていた。
　……吸血鬼化した肉体の恩恵か、彼女が治癒してくれたのか、それとも、あの損壊自体が幻だったのか。
　……まあ、生きてこうしていられるコトに比べれば、本当に瑣末な問題だ。
「……遠野くん……わたしのこと、わかりますか……？」
　震えているような、声。
「……もちろん。その泣き顔は、はじめて見るけど」
「――はい。わたし、生まれて初めて、嬉しくて泣いています」
「そっか。それはまた、貴重なシーンに立ち会えました」
　ぼんやりとした頭で、そんな軽口を言う。
　ぼう、とする。
　頭痛はない。痛みもない。ロアがどうなったのか、自分がどうなったのか、まったく分からない。
　確かなものは目を細めるほどの朝日と、それと同じぐらい眩しい彼女の体温だけ。
「……良かった。約束が、守れて」
　ああ、と安堵するように息をもらして、そう言った。
　なんて倖せ。
　欲しいものは、ぜんぶ目の前に揃っている。
「なに言ってるんですか。
今日は学校が終わったら乾くんと三人で遊びに行くんでしょう？
　ですから、いつまでもこんな風に膝まくらされてる暇なんて、本当はないんですよ」
　先輩はくすりと<悪戯|いたずら>な笑みを浮かべる。
「―――そっか。
　じゃあいいかげん起きないと……って、痛っ……！」
　体を起こそうとしたとたん、全身が激しく痛んだ。
　それだけじゃなく、妙に太陽が眩しい。陽射しを意識するだけで体中がゾワゾワするというか……。
「あ、まだ動いちゃダメですっ……！
　復元できているのは最低限の個所だけですから！　あと１時間はそのままでいてもらわないと！」
「……先輩。矛盾したこと言ってるって、わかってます？」
「あ……はい、そうみたいです。その、遠野くんが目を覚ましてくれたから、わたしどうかしちゃってます」
　顔を真っ赤にして、彼女はそんな事を言った。
「……けど参ったな。
　あと１時間もこのままだなんて、退屈だ」
　動かせるとしたら腕ぐらいだ。
　それに１時間も先輩を地面に座らせるとか、看過できない。
「ごめん。このままじゃ何かと疲れるだろ先輩。
　地面にそのまま寝かせてくれると助かるんだけど―――」
「……もう、なに言ってるんですか。わたしは好きでこうしているんですから、これぐらいの我が侭はさせてください」
「……それに、ですね。
　こうしていれば、遠野くんにしてもらえるかなっ、って……」
「あ――――――」
　―――思い出した。
　たった数時間前、戦いに向かう先輩とそんな約束もしたんだった。
「……うん。俺も、今はそうしたい」
　唯一自由になる腕で彼女の頬に手をそえる。
　彼女が静かに頭をさげてくる。
　唇が深く触れ合う。
　それは二度目の、互いの命を交換するようなキスだった。
　一時間にも思える口付けから、俺と彼女は顔を離した。
「―――――――――」
　……言葉がない。
　ただ、本当に、ようやく。
　俺は、長い夢から目覚めたのだ。
「……とりあえず、おはようシエル」
「はい。おはようございます、遠野くん」
　その笑顔は涙に濡れていながら、何よりも華やかだったから。
　つい、気が抜けて目蓋を閉じてしまった。
「え……？　遠野くん、遠野くん……！？」
「ん―――ごめん、先輩。
　もうちょっと……眠らせて、くれないか」
　……今までの疲れが一気にやってきたようだ。
　出来る事なら、先輩に抱かれたまま眠りたいけどそうもいかない。
「どこか適当な物陰にでも置いておいてくれればいいから……授業が始まったら、起こして」
「――――むっ」
　いかにも不満そうな声が聞こえる。
　けど心より体が色々限界で、目を開けていられないというか。
「―――わかりました。それじゃこのままわたしの部屋に連れて行きますけど、それでいいですね？」
「え……それは、ちょっとまずいんじゃないか、な」
　学校を休む事になってしまう。
「いいんです、今日はサボタージュしちゃいましょう。
　どのみち遠野くんには聞きたい事が沢山あったんです」
　―――と。
　体がひょい、と抱きかかえられた。
「せせ、先輩、保健室でいいから、先輩の部屋に行くのはやめよう……！」
「却下します。遠野くんにはわたしが居ない間、アルクェイドと何をしていたかを教えてもらわないといけませんから」
　俺を抱きかかえたまま、ニッコリとシエルは微笑む。
　それは、こっちの眠気を無くしてしまうぐらい、静かな迫力があったと思う。
「体も死徒に成りかけのまま戻らないようですし。
　その対策もしないといけません。
まあ、………………
の秘蹟が通じやすくなったので、わたしにとってはたいへん都合がいいのですが」
「すみません。いま言葉を濁したところ、はっきり口にしてくれますか？」
　対吸血鬼用折檻とか言いましたよね、たぶん？
「さて何の事でしょう。……と、やはり陽射しは辛そうですね。
　すぐに移動します。まだ日が昇ったばかりですし、急げば人目につく事もないでしょうから」
「先輩、だから保健室でって―――うわあ！」
　たん、という軽い足音がして、彼女は大きく跳んでいた。
　それはほとんど宙に浮いているような跳躍だったと思う。
　この分ならすぐアパートに辿り着きそうなんだけど―――
「……………ふう」
　なんていうか、今更ながらすごい人に惚れたんだなって実感する。
　けどまあ、それも覚悟の上だ。
　ロアの問題が解決したところで先輩には先輩の問題があるんだから、このまま平穏な生活に戻れるとは思えない。
　それがどうした、と開きなおる自分がいる。
　俺はこの人と一緒にいると決めたんだ。
　この先なにがあろうと、ふたりでいられるのなら後悔はない。
「そう―――だよな、志貴」
　ユメの中にいた誰かにそう呟く。
　……さて。とりあえず当面の難問はすぐ後に迫っている。
　寝惚けきった自分に活を入れて、アルクェイドとの一件をどう説明するか考えないと。
　それが無事済んだら、次は―――
　やっぱり、いちばんしてほしいコトに取りかかろう。
「何か言いましたか、遠野くん？」
「はい。どうやったら先輩に名前で呼んでもらえるかなって考えてました。ここぞという時でいいので、バッチリ決めてくださいね。もっともっと好きになりますから」
「え――――――」
　先輩は顔から火が出るぐらい赤くなって、高度を落として、見知らぬ家屋の屋根で立ち止まってしまった。
　すまない家主殿。でもこれぐらいは大目に見てほしい。
　だって、ほら、
「そそ、そうですか。そうでしたか。
　そんなのカンタンです。というか、言いたいです」
　いま、どんな吸血鬼を相手にした時より一生懸命な、この街の守り神がいるんだから。
「じゃ、じゃあ言いますよ。言っちゃいますからね。
　し―――しし、し―――」
　太陽が昇っていく。
　待ちきれず彼女の唇にフタをして、三度目の約束を交わしあう。
　
　―――それが暗い夜にまつわる最後の記憶で、
　　　　新しい夜明けを迎える、大切な記憶になった。
　とはいえ問題は山積みで、記憶はこの先も増えていくに違いない。
　たとえば、ロアから解放されても戦えるかぎり代行者として戦う、勇ましい彼女の話とか。
　半分吸血鬼みたいな体になったものの、条件付きで見逃されてそんな彼女の手伝いをする事になった誰かの話、とか。
　残念ながら俺たちに休める日はこないだろう。
　でも、それがこの結末の報酬だ。
　その途中、思いがけない再会もあるかもしれない。なにしろ何でもアリのとんでもないヤツなワケだし。その時はその時で、また目を疑いたくなるような出来事を期待したい。
　―――だから、今は明日が待ち遠しい。
　死の手触りは消えないとしても、自分より大切な誰かがいてくれるなら、俺はきっと夜を越えられる。
　冒険は長く長く続く。
　　
　どうか、その終わりが善いものでありますように。
残念ながら話しかける用事はなかった。
ちょっとした疑問がわいてしまった。
せっかくなのでじっくり観賞するしかなかった。
食堂で有彦と合流しよう。
教室に残って様子を見よう。
廊下に出てから考えよう。
学校をぶらつく。
屋敷に帰る。
父親である遠野槙久の事だ。
やはり、妹の秋葉の事だ。
そういえば、他にも一緒に遊んだ子がいたっけ。
おとなしく付いていく事にした。
少女を呼び止めて名前を訊く事にした。
……少し、屋敷を探検したくなった。
ここで大人しく待っている。
ちょっと足を延ばしてみよう。
戸山先生について、質問した。
……あえて考えない事にした。
寄り道せずに帰る。
ファミレスに行ってみる。
寄り道をして帰る。
居間に行って秋葉と話をする。
琥珀さんの部屋を訪ねてみる。
このまま自室で休む。
秋葉に挨拶をする。
琥珀さんに挨拶をする。
二人に挨拶をする。
教室で食べる。
食堂で食べる。
茶道室に行ってみようか……？
きっと、何かの悪いユメだ。
……いや、俺の起こした現実だ。
秋葉について訊ねる。
琥珀さんについて一言。
屋敷について訊ねる。
……協力、する。
いや、絶対に協力しない。
……酔狂はここまでだ。逃げよう。
……迷うのはここまでだ。残ろう。
……呆れて、つい手渡した。
……いや、その手には乗らないぞ。
十人……とか？
百人……かよ？
千人……だと？
……部屋を出て、外の様子を探りに行く。
……部屋で外の様子をうかがう。
……今すぐヴローヴを捜すべきだ。
……せめて、夜までここに残る。
下りていく。
様子を見る。
戦いの様子を見るしかない。
アルクェイドを呼び止める。
……投擲だ。
……滑走だ。
……牽引だ。
素直に謝る。
なんとか誤魔化す。
本当のことを話す。
琥珀さんに看てもらう。
阿良句博士に看てもらう。
十年に一人、とか？
百年に一人、とか？
千年に一人、とか？
中庭を散歩してみよう。
館内を観覧してみよう。
ちょっと街にまで出てみよう。
いったん屋敷に戻って整理しよう。
いや、諦めずに街を回ろう。
まさか、子供じゃあるまいし。
まさか、大人じゃあるまいし。
もうすこしアルクェイドと話をする。
……確かに、そろそろ帰らないと。
……吸血鬼について詳しく知りたい。
……二十七祖ってなんだ？
……ヴローヴ戦の戦闘服について。
ひたすら陽気に挨拶をする。
そろそろと挨拶をする。
とにかく謝るほかありません。
……気は乗らないが、用件を尋ねてみる。
……下手に相手をするのはまずい。無視する。
全力で迎撃する。
全力で授業に集中する。
全力で無視する。
……廃病院とやらに行ってみようか？
このまま、夜に備えて屋敷に戻ろう。
……正直に話す。
……嘘をついて誤魔化す。
……警戒して身構える。
……敵として相対する。
アルクェイドの事だ。
黒い男の事だ。
ノエル先生……の事だ。
阿良句博士にする。
やっぱり琥珀さんでいい。
屋敷の一階を散歩しよう。
屋敷の二階を散歩しよう。
……槙久の書斎を調べてみる。
……いや、それは止めておこう。
秋葉の言う事を聞く。
アルクェイドに会いに行く。
わがままだから。
俺に復讐したいから。
吸血鬼だから。
定番だけど映画館はどうだろう。
やはり陰鬱とした路地裏だろう。
天気もいいし公園を散歩しよう。
……アルクェイドを追いかける。
……弁明なくナイフを構える。
アルクェイドのマンションだ。
……繁華街の、路地裏だ。
……学校に戻っているかも？
ただ、欲しいだけなんだ。
嫌がることは、できない。
………何もかも無かった事にしよう。
………………最後に、現実を見よう。
無駄でもアルクェイドを捜す。
屋敷に戻る。
自分だけでロアを探す。
食堂で楽に済ませよう。
パンを買って教室で済ませよう。
とりあえず、廊下に出て考えよう。
屋敷に戻ろうと思う。
ホテルに戻ろうと思う。
ノエルを助ける。
ノエルを見捨てる。
―――このまま押し切る！
―――限界だ、一度呼吸を……！
先輩に駆け寄る。
先生に駆け寄る。
シエル先輩を見る。
ヴローヴを見る。
素直に謝る。
なんとか誤魔化す。
本当のことを話す。
中庭を散歩してみよう。
館内を観覧してみよう。
先輩のアパートに行ってみようか……？
食堂でカロリーの高い定食を頼もう。
購買でカレーパンを買い占めよう。
そういえば、お弁当のアテがあったような……？
茶道室に行く。
校舎裏に行く。
先輩たちの役に立てるなら……
もう先約がありますので……
用が済んだのなら戻るべきと思った。
用が済んだのなら戻りたいと思った。
用が済んだのなら戻れるなと思った。
アルクェイドの方が、ほっとけない。
あの人は、大切な先輩だ。
そりゃあ痛くなくて効くものを。
じゃあ、痛くて効かないものを。
……因果応報だ。女を手本にして処理しよう。
……そんな無意味な事はできない。
はっきりと言い返す。
冷静に言い返す。
『それ以上進んだら嫌いになるからなっ！』
『………（いや、下手な言葉は逆効果だ）』
……ちゃんとみんなに挨拶しよう。
……いや、今朝だけは先輩を優先したい。
シエル先輩は先輩ですよ。
シエル先輩は可愛いですよ。
シエル先輩はカレーマニアですよね。
問題はない。話は放課後にすればいいし。
……よくはない。今こそきちんと話すべきだ。
……ノエル先生との関係を訊いてみる。
……大聖堂ってなに？　と訊いてみる。
黒鍵ってなに？　と訊いてみる。
ＳＴＹＬＥ。
……アルクェイドの事なんですが……
先輩だけに行かせられない。自分も付いていく。
自分は足手まといだ。ここで待っていよう。
……ノエル先生には報せないんですか？
授業をサボるぐらいはしてるでしょ？
分身くらいはできるでしょ？
生徒会を牛耳ってるぐらいはしてるでしょ？
……琥珀さんは邪魔だ。
……琥珀さんの言う通りだ。
琥珀を追い返す。
食事だけ置いていってもらう。
前方に逃げる。
後方に逃げる。
……眼鏡を外す。
……眼鏡は外さない。
最短で、あの吸血鬼を殺す。
シエル先輩を連れて逃げる。
面倒だ。殺してしまえ。
………………いや、それは。
沈黙は金なり。気になるけどスルー。
金とかどうでもいい。スルーできない。
……アルクェイドには従えない。
……アルクェイドを、嫌いにはなれない。
それがどうした、黙ってろ。
じゃあ、どうしろって言うんだ。
諦めない。
逃げるしかない。
体力は残り少ない。まずは隠れよう。
もう一度上へ。何か見落としがある筈だ。
こんにちは。
突然のデッドエンド、驚かれましたか？
迷える遠野くんを正しいエンディングまで
導く救済コーナー、
『教えて！　シエル先生』にようこそ。
教官のシエル（本編後、18歳想定）です。
マジかよ。
タイトルじゃ先生なのに教官とはこれいかに。
まあ、そういう細かいところはどうでもいい、
という精神はアタシを見てもらえば分かると思う。
こんにちは、バッドエンド界のソムリエクイーン、
セクシーすぎて本編出禁になった、ネコアルクです。
you、こういう大人のコーナーは初めてかい？
まあ第１回だから初めてだろうけど落ち着けよ。
こちらの生き物は無視してもらってかまいません。
基本、わたしの発言だけ教訓としていただければ。
では、今回の死因の検証ですが……
さっそく燃えてますな、メガネくん。
道ばたでヒューマントーチはロックすぎにゃい？
なんでこんなコトになってんだシエル？
この街、道に地雷でも埋まってんの？
それはもちろん、『目撃された』のに
ひとりで出歩いてしまったからですね。
「あんな脳天気な吸血鬼と一緒の部屋にいられるか、
　オレは実家に帰らせてもらう！」
という気持ちは痛いほど分かりますが、
ここはぐっと我慢の子。
巻きこまれてしまったとはいえ、
遠野くんはもう関係者なのです。
当面の敵……吸血鬼をなんとかするまで、
お家に帰ってはいけません！
いったん外に出ても、
まだ最後のチャンスがあったでしょう？
そのあたりでホテルに
戻ってしまうのがよろしいかと。
でも……途中で逃げたのに戻るとか、
ヒロインの好感度が下がってたら恥ずかしいしぃ……
ばんばん下げましょう。
むしろ全編、塩対応でお願いします。
だってこの吸血鬼、恐ろしいコトに遠野くんが
なに言っても好感度下がりませんからね！
えー。そんなコトないと思うけどにゃ～？
怒るときは怒るよ～？
でもほらぁ、怒鳴ってる時の
必死な感じがたまんないっていうかぁ。
ほらみなさい。
恋愛脳の自覚、ないんですか？
同じヒロインでも、最後までクールに振る舞い、
仕事に生きるヒロインを見習ってほしいものです。
え。
（どの面下げて、という抗議）
え。
（なんでしょうその反応、という驚き）
え。
（本気で言っているのか、という恐れ）
ウェルカム　トゥ　マイ　テリトリー。
ようこそ無惨なバッドボーイ。
『まあどっちも同じやろ』なんて甘い考えで
選択肢を選んでみればこのありさま。
消極的なメガネくんに喝！　を入れる救済コーナー。
『教えて！　シエル先生』、はじまるよー。
２回目の方はこんにちは。
初めての方はよろしくお願いします。
たいていのプレイヤーさんはこちらの回が
初見になると思われるので自己紹介から。
Ｑ＆Ａコーナー、教官役のシエルです。
こちらは<サ|ア><ン|シ><ド|ス><バ|タ><ッ|ン><グ|ト>のネコアルク。
毎回、端的にデッドエンドの原因を説明しますので、
少しだけお付き合いくだされば幸いです。
たいていは直前の選択肢がマズかったんで、
一個前に戻ればいいだけなんだけどぉ。
たまにずいぶん前の選択が原因で
デッドエンドになるコトもあるから油断なんねー。
そういうケースの解説はまたおいおい。
今回はよくある『即死系デッドエンド』です。
異常な事態に直面した際、慎重に様子を見る……
というのは正しい考えですが、今回はアウトでしたね。
なにしろ逃げ場がありませんから。
翼でもないかぎり、
ホテルの屋上に陣取るのはお勧めできません。
ネコであれば逃げられたのだが。
ニャんと身軽に空を飛べるからニャ、ネコは。
？　それは身が軽い、という意味ですか？
屋根から屋根に？
でも、ホテルの最上階からは
猫でもさすがに……
ロケットで突き抜けた……！
なんの参考にもなりません、あのネコ！
え……なにこのエンド……
月姫ってホラーだったの？
っていうかメガネが何をしたーー！
後ろから殴られてゾンビ軍団のただ中に
落とされるほどのコトをしたというのか！？
あ。いや。したわ。するわ。
ゾンビ相手に無双したりするしな。
ゾンビ斬わば囓られる。
大局的に見れば差し引きは合ってるニャあ。
みんなも、立ち入り禁止の札がかかっている
建物に入っちゃダメだぜ？
（ネコが常識を話している……）
こほん、街の人たちを守ろう、と躍起になった
遠野くんの行動自体は正しいものです。
ただ、今回は運がありませんでしたね。
これは遠野くんだけではどうにもできない問題です。
そうですね……もう少し違う展開になったのなら、
勇気を振り絞ってデパート地下に向かってください。
ほほう。あのスプラッターを見てまだ『行け』とか、
ドエスか貴様。
でもどうしてダメだったんだ？
やっぱ、ラップバトルを申し込むべきだった？
デパートの門番である二人が苛だっていたのは、
この前日、ちょっとしたトラブルがあったからです。
働き者のヒロインがこの前日にデパートを調査して、
彼らを警戒させていたのです。
なので……もしそのヒロインが前日、
なんらかの理由で仕事ができなかったのなら……
デパートの門番の二人は、
ここまで殺気だってはいなかったでしょう。
大きな声では言えませんが、一度大きなエンディングを
迎えた後、茶道室で放課後を過ごしましょう。
この吸血鬼デパートのイベントは
ヒロインチェンジの大きな節目。
みなさん、しっかり覚えておいてくださいね！
おおっとデッドエーンド！
そこの遠野くーん！
スピード違反で補導、補導です！
なーんで嬉しそうなんだよこのシエル。
バーベＱになってる主人公もいるんですよ？
失礼。いよいよ本格的なバトルが始まったので、
つい興奮してしまって……。
案内役のシエル教官ことわたしと、
部外者のネコでお届けするＱ＆Ａコーナー……
『教えて！　シエル先生』にようこそ！
プレイによってはここが初めての
デッドエンドかもしれません。
それくらい、なんていうか、
自然に選んでしまいますから、今回のは。
でも落ち着いて、よく状況を確かめましょう。
人間は炎の中では生きられないのです！
まあネコ的に、
このデッドエンドは評価するけどニャ。
だって目の前で絶世の美女が戦ってるんだぜ？
いったい誰が冷静になれようか。ここで一句。
“火中の栗がピクニック。
　ウェルカムウェルカムウエルダン。”
どうですかな？
無闇に食欲をそそりますかな、マドモアゼル？
いえ、ぜんぜん意味が分からないので……
まあ、お肉は堅焼き派ですけど……。
あれ、そうニャの？　ちょっと意外。
フランス人なのに、血の滴るステーキはダメ？
ビーフカレーのお肉は柔らかいものが至高ですが、
生焼けはちょっと……生理的に。
レア……というか、活け作りを好むのは、
たぶん秋葉さんではないでしょうか。
ほら。日本の方って生きた魚を調理して
刺身にするんでしょう？　信じられないコトに。
ばっか、魚は新鮮なほどうめぇつーの。
ウソだと思うニャら
今度回らない寿司おごられてやんよ。
<鰈|かれい>とか、お好きでしょう、オタク？
……それは、わたしも毎日同じメニューを
食べているワケではありませんし……
たまにはシーフードもアリですね……
うむ、完全に食い違っている。
まあいいや、続けて続けて。夕食はその後にな。
そ、そうですね。
今は授業の最中でした。
えー、とにかく、吸血鬼同士の戦いは
危険ですので、遠くから冷静に見届けましょう。
大丈夫。遠野くんの出番はきっとあります。
その時まで、体力を温存しておいてくださいね！
―――はい、お仕事おしまい！
ではメシアンに直行です！
……シーフードカレーという選択……！
ほらね☆
んー、どこにしまったかにゃー。
必要なのはなんだったかにゃー。
いつかどこかでポチッたんだけどにゃー。
間違えて三つくらい同じの買ったんだけどにゃー。
まあいいや、要らないものはぜんぶポーイ！
ニャハハ、捨てろ捨てろーーー！
ついでに主人公人形もポーイ！
エ・ン・ド・ル・フィ・ン、キマってきたーー！
待って待ってーー！
それを　捨てるなんて　とんでもない！
え？　あ、やべ。
あー…………
あー…………
ま、まあ、幸いぬいぐるみのようですので……
問題は……ないかと……
そうかにゃー。
なにやら運命を感じさせるシンクロニシティ。
これは……もしや、主人公はカッコ良く
射出されて飛び散る、という暗示なのでは？
ははは。まっさかあ。
いくら遠野くんでも、そんな無謀な作戦は―――
作戦は―――
……たててますね。
大胆というか、命知らずというか。
なっちまえばいいんだよ、ミサイルに。
んー、その意気は良かったんだけどにゃー。
縦軸と横軸の問題を
クリアできなかったのが敗因ですかな？
ここの三択はすべて無理目なプランですから、
難易度自体はどれも大差ないかもですね……
すぐに直前の選択肢に戻って、
もう一度、これは、と思う手段をお選びください。
ヴローヴ戦もいよいよクライマックス。
戦いはつねに頭上を取るもの……ですよ、遠野くん！
<ＯＳ|オーエス>。<ＯＳ|オーエス>。<ＯＳ|オーエス>。
と。
ＯとＳのボタンを打ち続けてはや20時間。
こんだけ打っておけば何らかのアプリも完成すんだろ。
ふう……仕事明けのコーヒーはたまらん。
雰囲気だけで仕事をこなした気さえする。
さて、今朝の<メガネ新聞|デッドエンド>は……
ほほう、敵との正面衝突ですか。
メガネ君はあれかな？
異世界転生でもしたいのかな？
（あの手でどうやってＰＣのキーボードを？）
そうですね……
自分からダンプカーを引き寄せたようなものなので、
不注意による事故と言えなくもありません。
ですが、それも一緒にいる吸血鬼の悪影響かと。
ほら、となりにあんなショベルカーみたいなユニットが
あるなら、使ってみたくなるのが人情と言えるので。
どんな人情なンだよ。
あとユニット言うな。ヒロインな、ヒロイン。
似たような物でしょう。
実際、できたワケですし。
まったく。結果を考えず、ノリで
言いなりになるとはアナタらしくない。
ダメージを受けて眩暈でも起こしてたんですか？
うんにゃ。単に、志貴に頼られて
嬉しかっただけじゃニャい？
―――なるほど。
馬に蹴られて死んでください。
これは遠野くんに半分、アルクェイドに半分
責任があったと見るべきですね。
遊んでいる暇はありません。
クライマックスは目前です。
次はアルクェイドと最大限離れるような
決着手段を選んでみましょう！
え～～。
同じ立場ならシエルもやってたと思うけどにゃ～。
ふふっ。イヤですね、やりませんよ。
そんな筋力、ありませんから。
――――――。
とくに心当たりのないデッドエンドを迎えた
遠野くんをお助けするＱ＆Ａコーナー、
『教えて！　シエル先生』の時間です。
こんにちは、教官のシエルです。
ゴッドキャット。
さて。今回の死亡ですが、
なぜこうなったか分かりますかゴッド？
んー、神だから分かんね。
直前に選択肢もなかったし。
はい。これはちょっと珍しい、
数個前の選択が影響しているパターンです。
ただでさえ深夜の探索は感心できないというのに、
お家の方に嘘までつくのは道徳的にアウト。
心当たりがある遠野くんは該当する選択肢に戻って、
誠実に対応してみるとよいでしょう。
嘘はよくない、正直が一番ってコトだにゃー。
うんうん。まさにその通り。
見ろよ、あのアタシにそっくりな
吸血鬼ヒロインのココロのキレイさ……
やっぱヒロインたるもの、ウソつかない、
隠し事もしない、が基本だよねー。
ね。そうは思いませんかシエル先生。
ところで、何か言わなくてはいけないコトが
あるんじゃないかにゃ～？
―――シッ！
ニャニャニャ、無駄無駄～☆
素直なココロには一発も当たらないニャ～☆
ぶはっ　ぶほっ　くわっ　ごべっ　やめ　にゃご
ヘッ……それなりに鋭いじゃないのさ……
なるほど……実力は互角……というところ、か……
それでは、今回はこのへんで！
また次のデッドエンドで会いましょう！
クワッ……隠すのは体重と武器だけにして、おけ……
なぜトリは歌うのか。
なぜエビは跳ねるのか。
なぜ主人公は鍵のかかった部屋に入るのか……。
人類史における数々のミステリーに
真っ向から挑む知能番組『教えて！　シエル先生』、
はっじまっるよー。
こんにちは。デッドエンドのなかった６～８日間、
十分にお休みできましたか？
物語はいよいよ佳境。
ここからまた死亡ケースが多発しますので、
賢明な遠野くんにおかれましては、
気を引き締めて選択肢を選んでいただければ。
では今回のデッドエンドですが……
後ろからグッサリ、ですね……
メガネともあろう男が油断しすぎだよニャー。
それともあの包帯男、見かけよりやるってコト？
あの部屋の異様さに呑まれていた……のもありますが、
遠野くんの不注意ですね。
そもそも、
この手の潜入捜査は二人一組が理想です。
ひとりが扉のそばで誰かこないかを見張り、
もうひとりが書類を吟味する……
そういった頼れる『誰か』と縁ができるまで、
この書斎の調査は控えた方がよろしいかと。
まさに<ＳＰＹ|エスピーワイ>！
んー、でもそんなスキルもった知り合い、いる？
シエルは武闘派だから、
そういうの向いてにゃさそうだし。
単独であればできないコトはありませんが、
遠野くんのフォローをしながら潜入……
というのは、確かにわたし向きではありませんね。
いつか、そういった味方ができればいいのですが。
フフフ……露骨にフラグをたてやがって……
誰かな？　メイドかな？　さっちんかな？
さあ、そこまでは何とも。
少なくとも、わたしたちの吸血鬼事件には
関わりのない話でしょう。
さて。今回の死因ははっきりしていますので、
前の選択肢に戻るだけでＯＫです。
君子危うきに近寄らず。
遠野槙久氏の書斎は避けて、安全な場所を選びましょう！
屋敷の中もデストラップだらけとか、
この屋敷どうなってんの？
ん～？　普通に10日目が始まったと思ったら
普通に学校に行って普通にエンドになったよ？
これどうなってんのシエルー？
エラー？　この先作ってないのかにゃ？
どう考えても悪い選択はしてにゃいしなぁ……
え？　妹との約束を破った？
でも金髪美少女との約束の方が大事っしょ？
これこそ正解ルートの筈にゃんだけど、なぜ……？
なにを言っているんですか。
秋葉さんがあれほど心配していたのに
出かけてしまうなんて、お兄さん失格です。
今まで何度も倒れてきた遠野くんですが、
この日の『体調不良』は特別なものです。
半日は休んでいないと回復しない不調ですから、
しっかり休んでくださいね？
もちろん、アルクェイドとの待ち合わせは
ぜんぜん無視してＯＫです。
しょせん口約束なので法的強制力もなければ、
違約金も発生しませんしね♥
そういう問題じゃニャいんだけどな～。
ココロとココロの問題ニャんだけどな～。
でも、そういったココロのすれ違いが
次のロマンスを生み出すのよね……ウフフ……
感じる……感じる……
すぐ近くに、デートイベントの気配を感じる……！
あ、シエルにはないんだっけ、デートイベント。
ソーリー。恵まれすぎてソーリー。
いえいえ。その分こちらは夜だけでなく、学校で
長時間過ごさせていただいているのでお気になさらず。
遠野くんとのトーク時間は当社比４：６で
わたしの方が上ですので。
はーん。
どうせ長ったらしい教会の設定語りでしょ？
吸血鬼社会の説明よりはよっぽど短いですよ。
基本的には頼れる先輩と迷える後輩の、
清らかな男女交際トークです。
学校ならアタシも行ったし。
不法侵入とかアナタらしいですけどね。
戦闘ドレス等々、着替えもあるし。
ああ、あのヴローヴに即オチした（笑）。
出だしだけは良かったですね（笑）。
よし、死ねぇ！
しゃっ！
そろそろ突発死にも慣れてきた頃でしょうか？
最善を尽くしたものの、あえなく死亡した
遠野くんのための救済コーナー、
『教えて！　シエル先生』、
今回もはりきって開始です！
といってもこれ、よくある死亡三択じゃん？
一個前の選択肢に戻ってやり直すだけじゃん？
救済コーナーっていうのは、
死ぬ前に助けてあげるモンじゃん？
今更気づいたちゃったんだけど、これ、
メガネがどうやって即死するのかを見て
アタシらが寸評するだけのコーナーでは？
え？　そうですけど、それが何か？
だいたい、痛くなくては覚えませんよね？
ん～～、スパルタ通り越したドエスだった。
さて、今回の原因は『夜の』学校に
遠野くんひとりで入ってしまった事ですね。
頼れる先輩がいるでもなし、
今のアルクェイドが無人の場所に行く筈もなし。
ひとつ前の選択肢に戻って、
もっと血なまぐさい場所を選ぶとよいでしょう！
今の？
今の、って言った？
シエル、あの完璧なヒロインが
脱兎（※かわいい）した理由、知ってんの？
スタミナ溢れそうだから慌てて家に帰った、
とかじゃなく？
さあ。
わたしには何とも。
ま、自分が吸血鬼である事を
自覚したんじゃないですか？　今更ですけど。
ほら、死者たちのガレージで暴れていた時から、
我慢できなくなっていたようですし？
マジかよそんな前から微熱（※かわいい）だったとか、
もうシエルに勝ち目なくない？
大丈夫？　<地元|インド>帰る？
インドは地元でもなんでもありません！
それより。自分のルートだからって、
あまり調子に乗らない事ですね。
即死するのは即死が似合うキュートな
遠野くんだけではありません。
いま似合うって言った？
物語が続く以上、誰であれ退場する可能性はあります。
アルクェイドも例外ではありませんよ。
え～～？
ここから負ける可能性とかあるワケないじゃーん。
あとはこのまま感動のエンディングでしょ？
こんなん生まれたばかりのミケでも分かるし。
ほほう。
では、もしそうならない場合があるとしたら？
にゃっにゃっにゃっ。ニボシ……いや、
次のルートのヒロインの座をかけてもいい、ぜ！
ちょっと待って。
いま、なんかイヤな音しなかった？
言質も取りましたし、今回はこのへんで！
以上、『さよなら！　ネコアルク先生』の
コーナーでした～☆
おいやめろその笑顔コワイ貴様ほんとにヒロインか？
デッドエンドを迎えるのは主人公だけではない。
ヒロインだって容赦なくエンドする。
まさに公平な物語ですね。
と、いうワケで―――
あえなく二度目の解体エンドを迎えた
ヒロインにコメントをいただきましょう！
はい、アルクェイドさん、どうぞー！
そして次ルートのヒロイン降板、おめでとうございます！
―――品のない家庭教師ですね。
それでも■■■■の保持者の自覚はあるのですか？
―――え？
あ、あの、どちら様でしょう……？
あのネコっぽい生き物はどこに？
アルクェイドの代理なんですよね、アレ？
……失望しました。
<鈍|のろ>いだけじゃなく、知性も低いのですね。
あの生物は彼女の分身でもなければ、
使い魔でもありません。
ただのゆらぎ、都市伝説として誤認され、
ひとり歩きをし出したジャーゴンにすぎない。
彼女の末路に意見を求めるのなら、
あの生物より適任がいるでしょう。
言うまでもなく、私の事ですが。
なにしろ他人ではありませんので。
―――ま、まさか。
さっきまでいたネコのような生き物は、
このコーナーにおけるアルクェイドではなく……
はい。この<世界|コーナー>における
アルクェイド・ブリュンスタッドは、私です。
アナタのような『未来のイメージ』での
出演には多大なコストがかかるので、
このように、コストを最小限におさえた
『過去のイメージ』にしています。
……そうですね。
エコなアルクェイドですから、
エコアルク、とでも呼んでいただければ。
エコアルク……！
では、あのネコ型生物は
もう現れないんですか！？　ヤッター！
そこはガッカリしてください。
基本的に、私は滅多に出てきません。
この後も、この先も、未来永劫、
シエル先生の相手はあの生物です。
はあ、そうですか……
地獄のような未来宣告、ありがとうございます……。
でも、それならどうして
今回はエコアルクさんなのでしょう？
やっぱり、遠野くんへの人でなしっぷりに
抗議の一つでも？
―――そうですね。
私でさえ目を覆うほどの結末だったので、つい。
……欲望に負けたばかりか、
壊れた後の自分の始末もできないなんて。
こうして出てきた今も軽蔑を抑えきれません。
怒り心頭……いいえ、怒りを通り越して憐れです。
なので、シエル先生。
お願いがあります。
は、はい！？
なんでしょう、改まって……
もしアレと戦う事になったのなら、
どうぞ容赦の無い鉄槌を。
一度、徹底的に痛い目に遭わなければ、
淑女にはなれないようですから。
？　言われなくてもアルクェイド相手に
手加減なんかしませんけど―――
あれ？　もしかして、エコアルクさんが
怒っている相手というのは―――
それでは私はこれで。
これからも彼をよろしくお願いします。
アナタも頼りない家庭教師ですが、
棚くらいには信用していますから。
えーと……どういうコト？
遅刻遅刻ーーーー！
ネコ、光の速度でただいま参上！
そう、光の速度なので寝坊した自分を追い越し、
遅刻という事実は打ち消されたので言い訳はしない。
オース、おはようシエル君！
今朝もサブヒロインっぽくて結構結構！
ところで今、ここにアタシが来なかった？
にゃんかそんな気がするんだよね～。
具体的にいうと、すっごい美少女なアタシ。
その条件に該当する方は来ていませんね。
そ・れ・よ・り―――
遅刻の罰は何がいいですか？
カケイ、マタサキ、ヒキクルマ、アイアンメイデン……
各種取りそろえていますので、
リクエストをどうぞ。
あ。やっぱり本編のアルクェイド同様、
切り刻まれての<出血死|ブレイド>がお好みですか？
聞いたコトのない単語を持ち出すのはヤメロ。
デッドエンドはメガネ君だけにして
えーい。
ってうわ、本気だよこのインド！
遅刻しただけで処刑とか、ついに本性を現したか！？
いえいえ、わたしも本意ではないんですけど、
ちょっと頼まれてしまったので♥
じき物語もクライマックスのようですし、
ここで主役交代しておこうかなと。
やめろぉ、改造フェチでもここまでしねぇ～～！！
クセになったらどうする気ニャんですかぁ！？
月の姫は去り、少年は夢から覚めた。
かくて、すべて世は事もなし―――
エンド後のお助けコーナー、
『教えて！　シエル先生』も今回はお休みです。
『月姫』アルクェイドルートクリア、
おつかれさまでした。
ここまでプレイしていただき、
まことにありがとうございます。
今はゆっくり目を休ませて、
体をいたわっていただければ。
そして、もし気に入ってくれたのなら、
引き続き『月姫』の世界をお楽しみください。
今の遠野くんなら、今回のルートでは
できなかった選択ができるでしょう。
ゲームはこれで折り返し。
フローチャートを頼りにするのもいいですが、
一日目からプレイし直し、
未知の選択肢を選んでいくのもお勧めです。
真祖とは何なのか。
ロアの目的とは何だったのか。
残されたいくつかのファクターを明らかにする、
これまでとはまったく違う吸血鬼退治……
『月の表』、そのすべてを見せる<物語|ルート>で、
もう一度お会いしましょう！
みなさ～～ん、こんにちは～～！
降り注ぐようなトラブルの中、
一生懸命な遠野くんを応援する人気コーナー、
『教えて！　シエル先生』、
待望の第２部、開始です！
『月姫』もいよいよ後半戦。
いえ、ここからが本番と言っていいでしょう。
その熱中度・満足度はアルクェイドルートの
およそ２倍、いえ３倍になるとお約束します！
<目を覚ませ|ウェイクアップ>！
<起きるな|レッツコーマ>シエル！
ごっちっ！？
ん～～～、クリティカルコネクト。
こんな奇襲も躱せないとはガッカリです。
我が世の春が来た、とか思いましたか？
そりゃあ浮かれすぎだぜティーチャー。
何事も『いける！』と思った時こそ脆いんだよニャあ。
足元がお留守っていうか。
みなさんもそのあたり、
ライブで痛感しているのではないでしょうか。
防寒対策なしで冬将軍ヴローヴに
近づくなんてもってのほか。
敵はつねに超必ぶっぱしているような暴れキャラ。
一撃いいのいれたらすぐに離れるンだ！
君よ、ネコのように気まぐれに戦え！
クソが、対アリっした！
くっ……やってくれましたね、このネコ型生物……
ですが、浮かれていたのは事実です。
ここから新ヒロインによる新ルートが
始まるのですから、わたしも気を引き締めないと。
アタシの必殺ブローをくらって
テンカウント内に立ち上がりやがった……
今の、100均で売ってるお菓子の箱すら
一撃でポシャる威力なんスけどね……
さて。ネコの戯言は聞き流して、
本題に入りたいと思います。
今回の原因は自分の力を過信しすぎたコトですね。
遠野くんは普通の男の子なんですから、
どんなに調子が良くても危険地帯に長居はいけません。
「いける！」と思った時こそ、
相手だけでなく自分の状態も確認して、
言ったよ。
もうアタシが言ったよそれ。
…………。
たとえるなら、ヴローヴは見えない毒を
まき散らしているようなもの。
炎はもちろん、低温もまた人体にとっては脅威です。
ですので、つねにヒット＆アウェイをこころが、
言ったよ。
それももうアタシが言ったよ。
持ち上がるよ？
アタシの体が持ち上がるよ？
そう、このように。
一撃いれたら、ぶっ飛ばして距離をとりましょう！
ごっぱぁーーー！？
それができたら苦労はしないっつーのーーー！！！！
え？
なんでこれデッドエンドなんですか？
憧れの先輩を選んだんですから、
ここでカップル成立→エンディングの流れでは？
しーきゅー、しーきゅー。
もしもしシエル君、応答せよシエル君。
冷静になるンだ。
第13回から何も成長していニャいよ？
え……だってどう見ても
ただのパーフェクトコミュニケーションで……
なぜ人類は自分の事だけ棚にあげるのか。
壊れたクレーンかよ。
仕方ないニャあ。
今回もアタシがなんとかすっか。
窮地にいる人を助けたい、という気持ちは良し。
しかし、だ。
災害現場では、まず『自分も救助対象にすぎない』
という事を肝に銘じてほしい。
自分の安全を第一にしながら、
助けられる範囲で手を伸ばす―――
辛いだろうけど、それが人間の限界なんだ。
この際シエルは無視してよい。
ここはカレーの大盛りを我慢するくらいの決断で、
すぐ近くの頼りないＯＬを助けてあげてほしい。
そのＯＬ、ネコ基準から見てにゃかにゃかの逸材。
助けておいて損は……ないぜ？
はっ……！？
そ、そうですね、それほどの苦渋の選択なら
仕方ありませんよね。
遠野くんの気持ちは大切にとっておきますので、
ノエルさんを助けてあげてください。
あ。でも、助けてあげたからといって
恩に着せてはいけませんよ。
遠野くんは学生、ノエルさんは教師です。
万が一にも間違いは起こらないよう、
適切な距離を保ってくださいね！
にゃっふっふっ。
参考までに訊くけど、もしこれでノエルと
フラグが立っちゃったらどうするの？
？　そんなの、『教えて！　シエル先生』の
放映回数が一回分増えるだけの話ですよ？
あ、そっか。その場合、
『許して！　シエル先生』になりますよね。
遠野くんは初犯なので軽度の罰を、
ノエルさんには、ちょっと口では言えないものを♥
うーん、教習所かと思ったら監獄だった。
がんばれノエル、生きろ……！
前回、ノエルに同情したアタシですが、
考えを改めました。
誰であれ代行者はみんなアレなんですなー。
なに？　ストレスたまるの、シエルん<職|と><場|こ>？
今回のエンドはシスター・ノエルの独断です。
彼女、ひとりになるとバランスとれなくなるので……
わたしもこうならないよう注意していたのですが、
諸事情あって目を離してしまったので……
ふーん。
諸事情って、どんな？
ａ．シスター・ノエルの密告を聞いた
　　司祭代行が代行者シエルを招集してしまった。
ｂ．単独で下水道に向かった代行者シエルは
　　ロアの状態を知り、遠野邸に捜索に向かった。
のどちらかですね。
ａの方は午後に招集の報せが届いたので、
それを無視できるような状態であれば良かった。
ｂの方は言わずもがなです。
遠野くんの遠慮が悪い結果を招いてしまった。
なので、この日は積極的に行動しましょう！
何があっても茶道室、です！
なるほど、シエルという重しが
ノエルにはいい安全弁だったワケかー。
それはそれとして、ｂの場合でも
シエルなら茶道室に戻ってこられるよね？
にゃーんで、あんなスーパー拷問タイムを
看過しちまったワケ？
それは……遠野邸に単独で潜入したら……
したら？
今回の遠野くんの状態より酷い目に
遭ってしまっていたから……とかどうです？
やめろよ目が笑ってニャいよ、
どんだけヤバいんだよあの屋敷！
こんにちは。
またずいぶんとレアなバッドエンドを迎えましたね。
「あれ？　特に選択肢を選んでいないのに
　バッドエンドになっちゃった？」
と首をかしげる遠野くんをお助けする
Ｑ＆Ａコーナー『教えて！　シエル先生』の時間です。
…………。
…………。
今回の原因は、ずばり９日目にあります。
物語に影響を及ぼさない選択肢のようで、
実は猛毒がしこまれていた、というケースです。
予防接種を受けるときは細心の注意を。
“なんか面白そうだから”で
危ない注射を打たれてはいけませんよ？
…………。
…………。
……あの。
さっきから静かですけど、なにやってるんですか？
ん、アンケート書いてるとこ。
不具合の報告。
ほら、本編でヒロインが
でなくなってからまるまる２日っしょ？
こんな状態が続くとメガネ君のモチベにも
影響するしさー。早くパッチあててもらわないとねー。
『９日目のシエルＶＳアルクの時、
　アルクと一緒にシエルを倒すルートをください』と……
ふふふ。その心配は無用です。
ヒロイン、でずっぱりですから。
でも、８日目の夜の選択肢は確かに重要ですね。
運命の分岐点といっても過言ではありません。
わたしはどうかと思いますけど、
アルクェイドが街を守ったのは事実ですし。
遠野くんが心の底から
（わたしはホントどうかと思いますけど）
アルクェイドを信じるのなら、
彼女よりの選択をするのも一つの正解かと。
もっとも、その結果街がどうなるか
保証はしませんのであしからず。
これに関しては以上です。
わたし、忠告はしましたから。
マジか、８日目からやり直す！
せっかくだから<ア|そ><ル|っ><ク|ち>を選ぶぜ！
――数時間後――
ほら。だから言ったでしょう？
誰が　ここまで　やれと　いった。
………………。
おっと、ヒロインとの殺し合いは初めてか？
まあ落ち着けよボーイ。
悲しいけどこれがシエルなンだ。
容赦のないスパイシーモンスターなンだ。
主人公におかれましては
あと２、３回くらい、
ちょっとコンビニに行くくらいの気持ちで
デッドエンドを迎えていただければ。
そうですね。
軽々に敵に背中を見せてはいけません。
撤退するなら、せめて相手の体勢くらいは
崩しておきましょう。
ガラ空きの背中なんてただの的ですから。
スピードで負けているなら尚更です。
戦闘経験は相手の方が圧倒的に上なので、
ここは奇抜な発想―――
あるいは決死の選択で立ち向かってください。
大丈夫。ここを切り抜ければ、
きっとチャンスはありますよ。
この圧倒的戦力差ですげえ<夢希望|コト>
言ってんなこのインド。
生きろ、メガネ……！
――――――。
こんにちは。
ヘモグロビンは足りていますか？
“そういう結末もありか”と
一息ついた後の口直しコーナー、
『教えて！　シエル先生』の時間です。
解説は私、エコアルクと、
<隅|コーナー>に咲く一輪の花、
ネコアルクでお送りします。
って、シエルはドコいったのかニャ？
あとyouはなに？
アタシと同類……つまり
いいところのお嬢さんだっつーのは分かるけど……
ほら、こういう同一存在って、
お互い認識できないものじゃニャい？
自分とは会話できない、みたいな。
オルタナティヴな関係ってあるでしょ？
そーゆー世界のルール？　みたいなの？
気軽に破るのは止めた方がいいよ？
同感です。ですから、私たちは
そういうモノではない、という事ですね。
時間もありませんので、
今回の死因について解説をお願いします。
うーん、下手に茶々いれると
この世から消滅しそうなエクサトン。
コスモ的な圧力釜かな？
でもエコだって名乗ってるしなー。
まあいいか、アタシの可能性の一つってコトで
手を打ちますね。
えー、今回のメガネくんの死因はズバリ、
眼鏡です。
眼鏡キャラが眼鏡を外していかんだろー、という、
まことに寓話的な教訓ですな。
なんで眼鏡外すと死ぬのかは
アタシにもよく分からん。
選択肢が『眼鏡を外す』しか選べない方も
いるようですが。
んー、その場合はこれまでの行動に
問題があったんじゃニャい？
ヤバイのは吸血鬼だけじゃにゃく、
メガネ君の心の在り方も瀬戸際ってコト。
一度<本|い><性|し>に躓くと、
あれよあれよと元に戻っちゃうワケで。
『中立・善』と『中立・悪』の綱渡り、
という事ですね。
この先に進めない方は９日目の行動を改めてください。
くれぐれもノエルの誘いに乗らないように。
彼の精神状態が悪くなっていると、
13日目以降の遠野邸の出来事が変わってしまいます。
制御できなくなった衝動が、
ある惨劇を起こしてしまうので。
ホントかよ。どれどれ、とおもむろに
フローチャートをカンペするアタシ。
……うわ、ホントだよ。
解説が具体的すぎて目が<二色|ツートン>になる。
んー、なんでそこまで知ってるのかコワイけど、
その高い知性、youやっぱりアタシじゃ～ん☆
『教えて！　シエル先生』でした。
塩対応にも程がにゃい！？
死んではいないものの、
死より辛い結末を迎えてしまった……
そんな瞳の中の遠野くんに一声かけるＱ＆Ａコーナー、
『教えて！　シエル先生』の時間です！
すっげぇー！
元シスターのはっちゃけぶりがすっげぇー！
やっぱ鬱積ゲージがカンストしていた
サブヒロインの爆発力は目を見張るものがある。
追い込み方が堂に入ってるんだよにゃあ。
プロの仕事っつーか。
えげつない。ひたすらにえげつない。
そこんところ、どう思うシエル？
なぜわたしに意見を求めるんです？
えー、今回の原因は……
直前の選択肢ですね。
『戦う』という発想は良かったのですが、
状況が最悪でした。
死徒になってもノエルは臆病なので、“その人間の
一番重い所を利用する”事を避けていました。
でも、スイッチの入ってしまった遠野くんの
非人間性がノエルに最後の一線を越えさせた。
“こいつここまでイカれてるなら
　わたしもやっちゃっていいじゃん！”
結果、死徒ノエルは
対遠野志貴の切り札を切ったのです。
なるほどなー。ライバルの<バーガー屋|ショップ>が９割引するなら
うちも９割引するしかないじゃん、みたいな。
まあ、その先に待つのは破滅にゃんだけど！
にゃはははははは！
―――で。メガネくんを仕留めた方法は
ノエル本人の機転として、だ。
その後の非淑女的悪魔行為に関して、
コメントはないのかにゃシエルくん。
ここにある資料によると……
“アイツは殺すのも殺されるのにも慣れている”
“わたしのやり方はだいたいアイツのマネ”
今回の加害者であるノエル嬢は
そう供述しているようですが？
……………………。
……………………。
それでは、今回はこのへんで！
いつも通り、クリーンでオープンな
『教えて！　シエル先生』でした！
こいつ笑顔で済ませやがった！！
オース、ただいまー。
いろいろ買ってきたんでランチにしようぜシエルー。
野菜を食べるとお腹の調子がよくなるって知ってる？
あ、知ってた。そっかー。
食物繊維を制するものは食物連鎖を制する。
見てくれ、このあふれんばかりのレタスうなる
賞味期限３日過ぎたサラダ……
全体的に黒い斑点がアクセントになって、
なんともオシャレじゃあにゃいですかい……
残飯ですかそうですか。
でも野生ってそういうものですよね。
……む。
いつもならこのあたりで
“レタスより玉葱の方が美味しいですよ”なんて
辛辣なアドバイスが飛んでくる筈ニャのだが……
そこにいる貴様、何者だ！
優しすぎる！　さてはシエルではニャいな！？
にゃあ。こんにちは。
シエル先生の代理です。
なんだエコかよ。
通りすがりのネコかと思ったぜ。
ん？　youが出てくるってコトは、
今回のエンドはアレかにゃ？
はい。見ている者の主観によって不幸なのか
幸福なのかに別れる、メリーバッドエンドです。
にゃる。それで責任感じて
落ち込みダウン中なのか、シエル。
でもアタシ、このエンド好きだなー。
「これで良かったんだよ」感ある。
……そうですね。大局的な視点で見ると
この後に出る被害者はゼロです。
正しい終わり……正解のひとつ、と
言えなくもありません。
マーリオゥが聞いたら、鼻で笑われそうですが。
ともあれ、一つ前の選択肢に戻って
選び直すだけで今回は解決です。
簡単にボス倒せそうだけど、
空気読んでガンマすればいいだけだからニャー。
それはそれとして、
ちょっと気になる事があるんだけどぉ。
首を斬らない方を選んだ後、
プレイによってノエルの反応、変わってニャい？
ノエルとの親密度が高いと、
彼女のリアクションは少しだけ変わります。
セリフ的には二カ所なので、
気にするほどの差分ではないでしょう。
マジかこれからノエルに優しくする。
ちなみに、こういう差分って他にもある？
…………彼女に一つだけ。
アルクェイドの好感度が最大値になっていると、
このルートの最終局面でわずかな変化があるようです。
時間的には２秒、セリフ的には二カ所なので、^特に意識する必要はありません。@k
　
……私としては、みっともないにも程があるので
聞いてほしくないものですが。
ふーん。みっともないセリフ、ですか。
カレー大好き！　とか言っちゃうのか？
それはみっともないレベルではなく、
自己存在が危ぶまれる発言ですね。
うわあ……
さすがに冗談を挟める状況ではありませんね……
ここからは遊びなし、
迅速なＱ＆Ａを行いましょう。
いいですね、そこのネコ型生物！
サー、イエッサー！
了解でありますティーチャー！
あのヒロインにあるまじき大暴走、
いくら美少女でも見過ごせねえ……
アタシへの風評被害も鑑みて、
全力でなかったコトにしてやる、ぜ！
はい、アナタへの被害は皆無とは思いますが
そのスピード感で黙っていてくださいね。
今回は二択死亡のデッドエンドです。
速やかに直前の選択肢からリトライしていただければ。
一刻も早く捕らわれの先輩を助けたい、という
気持ちはたいへん嬉しいのですが、ここは冷静に。
あーんな反則級のアルクェイドを
正面から相手にしてはいけません。
『光体』は一手間違えれば即・デッドな存在です。
ともかく自分の命優先でお願いします！
――――――。
――――――。
――――――。
――――――。
え。
ちょっ、なにやってるんですかアナタ！？
そうか……ネコとは……スピードとは……
あんまり意味のないＱ＆Ａコーナーとは……！
これがっっっ！　ネコ光体現象だ！
こんにちは。『教えて！　シエル先生』、
代理のエコアルクです。
本来なら私が出てくるエンドではないのですが、
シエル先生もネコも吹き飛んでしまったので。
今回のエンドも直前からやり直せばいい、
即死系二択です。
あの現象は一秒でも早く終わらせたいので、
このコーナーはスキップして本編に戻ってください。
…………。
…………。
……スキップ、しないのですね。
仕方ありません。
このコーナーも今回で最後ですから。
少しだけ、サービスします。
あれが『光体』……この街に現れた
アルクェイドが暴走した姿です。
『光体』は惑星初期化のシステムですが、
これはもうそう呼べません。
ふられたから暴走するとか、
ただの恋愛怪獣ですよね。まったくもう。
……言葉が乱れました。忘れてください。
全長ですが、
システム発生時は200メートル級。
顕現時はまだ安定していないので見た目の
規模が大きいかわり、当たり判定がありません。
ビルをすり抜けて膨れ上がっているのも
そのためです。
安定時になると全長は100メートル級で固定。
これは周囲の文明レベルに合わせてのものです。
体積……体重は計測できません。
こうなると質量をともなっていますが、
『光体』は地球の生命力が形になったもの。
しいていうなら地球の質量が体重、でしょうか。
なので地球上ではどんなアクションをしようと
『地球にとっては重くないので、
　地形には重さによるダメージはかからない』
となります。地面は陥没しません。
ただし人工物はその限りではありません。
ちなみに千年城が消滅したのは
彼女の空想具現化のランクが下がったためです。
『光体』状態の真祖では空想具現化は
大雑把なものしかできません。
出力が大きくなった分、きめ細やかな空想を
構築できなくなったのです。
『光体』状態の彼女にできる事は、
超広範囲の魔眼と、
自身に向けられる攻撃をキャンセルする空想無量化と、
地熱操作、大気操作、といったものになります。
ようは自然の脅威です。これを、
『意識的に、指向性のものとして』
使っていた普段の彼女と、
『無意識に、反応として』
使う事しかできない今の彼女。
どちらが生命として優れているかは、
あなたの嗜好でご判断いただければ。
……とはいえ。
このバッドエンドの彼女は、
私の知る『光体』ではありません。
システムでありながら自己を、
感情を優先する兆しを見せています。
その上で暴走による自己崩壊はせず、
新しい『器』に変化している。
システムだったものが『個』になる時、
どのような無理が生じるか、私には分かりません。
デッドエンド、バッドエンド、と
たくさんのエンドを見てきましたが……
これはひとつのワールドエンド。
ある意味、最悪のエンドでしょう。
ですので彼女に気遣いは無用です。
容赦なく、徹底的に―――
分不相応の夢ごとコナゴナに打ち壊すような、
そんな反撃を、貴方に期待します。
それでは。
またいつか、あるはずのない夢の中で。
失われた命を、失われる命で呼び戻して、
彼女の長い贖罪の夜は明けたのであった。
にゃんてね。
シエルルート・ノーマルエンディング、乙なり。
悲しいけど、『教えて！　シエル先生』は
これで最終回。
だって本人もういニャいんだもん、
しょうがないじゃん。
どんなに待っても夜に虹は出ないンだよ。
あ、いや、現実には希に見える事もあるけど。
太陽光は青色とか赤色とか、
それぞれ波長の違う光を含んでいるんだけど、
それをプリズムで通してみると屈折率の違いから
分散して見えるワケ。
虹が七色なのはそういう事ニャんだ。
空気中の水滴がプリズム代わりになってるんだニャ。
この現象は日光だけでなく、
月光でも起きる事があってさー。
これをムーンボウって言うんだ。
天文台があるような場所ならワンチャンあるけど、
シエルの故郷じゃあ、
やっぱり見えなかっただろうニャー。
…………。
………………ひとりで話してるのもニャんだかね。
やっぱここでお開きにすっか。
まあ、ピンで続けてもいいんだけど、
やっぱひとりだとつまんないし。
え？　納得いかない？
みんな幸せなハッピーエンドがいい？
にゃっ。にゃっにゃっにゃっ。
にゃっにゃっにゃっにゃっにゃっにゃっ！
グッドキャット！
そういう事ならナビしてやんよー！
これとは違う結末、もっと
“え、何これどうなってんの？”な展開を見たいアナタ。
急いで14日目の運命の選択に戻るンだ！
ほら、メガネくんが金髪美少女に
究極の選択を迫られるところ、あるっしょ？
あそこで今回とは違う選択を選ぶと良いでしょう。
また、ここの選択肢が一つしか選べないのなら、
アルクェイドポイントが足りない証拠です。
細かいところはちょこちょこあるけど、
・８日目の夜に素直な気持ちを口にする。
・９日目の夜に面白い選択をする。
この二つを押さえておけばＯＫと言っても
過言ではニャい。
そこから先は前人未踏の新ルート。
ここまで寝不足ならいったん眠っておけ。
ではさらばだ、欲張りボーイ＆ガール！
運命を変えようとする以上、
とんでもない戦いが起こるのは必然だけど、
なんとか生き延びて、もう一度、
youとアタシとシエルでこのコーナーを回そう、ぜ！
ネコとの約束なんだにゃー！
長い夜は終わり、
街は鮮やかな夜明けを迎えました。
総耶での吸血鬼事件は幕を下ろしましたが、
彼と彼女の戦いはまだまだ続いていく事でしょう。
そう、幾度となく太陽が昇るように。
物語は、いまも廻り続けるのです。
『月姫』シエルルート・エクストラエンディング、
いかがだったでしょうか。
失ったものはなく、輝かしい未来を約束された、
文句なしのハッピーエンド。
このエンディングで物語を締めくくられた事、
わたしもたいへん嬉しいです！
失ってる……
失ってるぅぅぅぅう！
両手に花エンドじゃニャかったのか！？
ニャんだよ、結局金髪美少女が負ける流れは
ノーマルエンドと一緒じゃんかーー！
そこは仕方ないというか。
でもあれだけ長く活躍したんですから、
出演時間的には文句ないのでは？
まあ、ラスボスとしての活躍でしたから、
長いほどヒロイン力は下がっていましたけど？
シット、ノーマルエンドで同情なんて
するんじゃなかった……ッ！
シエル横暴！　シエル卑劣！　シエル印度！
これが教会のやり方かーーー！
でも、おかげで一大スペクタクルな展開になりましたし、
皆さんの満足度も上がりましたよ、きっと。
それに……わたし、光体状態の
アルクェイドさんも可愛いと思いますよ？
やっている事がはた迷惑なだけで、
行動原理はいじらしくて共感できるものでしたし。
……マジで？
そっかぁ……えへへ……
実はアタシもそうニャんだよね……
やっぱ『月姫』の顔なだけあるっつーか……
<Ｐ|パーフェクト>なヒロインは何やっても強いっていうか……
ネコがバカで助かりました。
にゃにゃにゃ、よせやいそんニャに褒めるなよ。
フッ……今夜、抱いてやっても……いいんだぜ？
では改めてご挨拶を。
まだ他に見ていない展開、
見ていないエンドはあるとは思いますが、
『月姫 -A piece of blue glass moon-』は
これでグランドフィナーレとなります。
物語の最中、あえなく退場してしまった
遠野くんを助けるＱ＆Ａコーナー、
『教えて！　シエル先生』もこれにて終了。
今回が事実上の最終回です。
ゲーム中の登場人物であれ、物語であれ、
何かが貴方の思い出になってくれたのなら、
これ以上の喜びはありません。
ここまでのゲームプレイ、
まことにありがとうございました。
それでは―――
どうか、今日も良い一日を！
アタシは納得していないけどニャーーー！
最終的にもう一度アタシがヒロインになる、
真・アルクルートを出来ると信じて！
あれ？　また誰か来たよシエル？
デッドエンドもバッドエンドも起きてニャいよ？
なんと―――！
素晴らしい、ここまで辿り着いたのですね！
『教えて！　シエル先生』
フルコンプ、おつかれさまでした。
ここは本編とはまったく関わりのない欄外の余白。
すべてのエンドを見たプレイヤーだけが迷い込む、
束の間の“未来”の世界。
本編を網羅したアナタであればご存じでしょう。
『アルクェイド・ブリュンスタッドの物語』と、
『シエルの物語』は一旦の幕を下ろしました。
ですが、『遠野志貴の物語』は
まだ幾つかの未明を残しています。
今作は『外からやってきた者たち』と繰り広げられた、
『今』を語る伝奇アクションでした。
その次に来るものは『内に棲む者たち』との確執……
『過去』を語る伝奇ミステリーのようです。
―――遠野邸に隠された真実。
―――もう一つの吸血鬼事件。
―――決壊する死の思い出。
―――夏の記憶と、或る窓際の光景。
夜はまだ終わりません。
ここでは、その一端をお見せします。
では……短い映像ですが、
予告編をお楽しみください。
おお……インモラル……
あまりにも、インモラル……！
『日本の洋館』って味わい深いんだよにゃー。
欧州の洋館は“その土地に当然あるもの”だけど、
日本の洋館は“その土地に本来ないもの”でしょ？
にゃんで、『日本にある洋館』はそれだけで俗世と
隔絶した異界ではにゃいか、とアタシは思うワケ。
どう？　イケてない？
ま、<アタシの王国|キャッツビレッジ>ほどじゃあにゃいんだけど！
そうですね。街とは違う時間、街とは違うルールが
支配する世界、という意味では同意します。
舞台を遠野邸に移した『月姫』は
これまでとは違った展開を見せるでしょう。
ですが変わらないものもあります。
それはもちろん……
油断すれば即デッド。
屋敷の中だろうとまだまだ酷い目にあってもらう！
んー、そういうコトですかにゃティーチャー？
我々の教室もまだ全貌を見せてはいなかった、と。
はい。内容はいつも通りの低予算ですが、
それがみなさんの骨休めになるのなら。
なるなる、ポキポキなる。
ネコの癒しはどんな悲劇も根こそぎです。
んじゃあ次もふたりで頑張ろう、ぜっ！
それまでしばしのグッバイ！
アタシはかならず帰ってくる！
それまで元気でやってろよー！
まったく、底抜けにポジティブなんですから。
そこだけは見習うべきですね。
わたしも、改めてご挨拶を。
ここまでプレイしてくれた貴方に感謝を。
いままで待っていてくれた貴方に感謝を。
これが正真正銘、
この『月姫』のおしまいです。
